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怨嗟と冷笑-永井荷風『狐』Ⅰ [本の事、批評など 雑文]

 永井荷風の短篇『狐』は嘗て彼の人が生まれ、幼少期を過ごした小石川金富町の記憶として語られます。そこは彼の人の父君永井久一郎が「旧幕の御家人や旗本の空屋敷」を「三軒ほど一まとめに買い占め」た広大な宅地でありました。先ずは『狐』の粗筋から。
 話はその屋敷内に残る樹木と二つの古井戸についての記憶で始まります。最初は一つの井戸側を取り壊す時の記憶として蟻や八十手や蚯蚓、小蛇等が這い出しのたうち廻り、枯れ枝を集めて燃やす火に掻き寄せて一緒に始末される気味の悪い光景が描写されます。次には深過ぎて埋める能わざるもう一つの井戸で、この井戸は邸宅のある地よりは一段低い崖下の「屋敷中で一番早く夜になる」忘れられた庭に在り、井戸は「風に吠え、雨に泣き、夜を包む」老樹に囲まれていて、まるで「夜は古井戸のその底から湧出るのではないか」と云う程の彼の人には堪え難い恐怖の対象でありました。しかしその古井戸を中心とする恐怖の空間で父親は古井戸の柳を背に弓の稽古を始めたのでありました。父親がどうしてこの崖下の庭を恐れないのかと云うその父親に対する畏怖は、荷風と父久一郎の感受性の埋めるべくもない距離の表白であります。
 この小石川金富町の屋敷に関しては松本哉氏の『荷風極楽』(三省堂刊)他に平面図が載っており、その図によって位置関係等大いに参考になるのであります。尚、松本哉氏には『永井荷風ひとり暮らし』(三省堂刊)や『女たちの荷風』(白水社刊)等の著書があり、此れ等は拙生にとって荷風の作品を楽しむ上で欠かせない資料であります。
 さて、この空間に狐が出現したのでありました。朝の弓の稽古の時に父親が出くわしたもので、父親は慌ただしく崖の小道を駈け上がって来て、田崎と云う書生に狐の出現を知らせるのでありました。この田崎は「如何にも強そうなその体格と肩を怒らして大声に漢語交りで話をする」男で「その後陸軍士官となり日清戦争の時血気の戦死を遂げた」「天性殺戮には興味をもっていたのであろう」人物であります。狐の穴を捜索したものの探しあぐねて父親は田崎に引き続きの捜索を命じます。田崎は心配する荷風の母親に向かって「堂々たる男児が狐一匹。知れたものです。先生のお帰りまでにきっと撲殺してお目にかけます」と力み返るのでありました。ですが労虚しく狐の塒を遂に見つけることが出来ず、父親も以後相変わらず弓の稽古は続けているものの、狐の姿を目にすることはなかったのでありました。狐の件は何時しか誰の脳裏からも消えてしまったのでありました。
 しかしところが、狐のまたもやの出現であります。今度は勝手口傍、井戸端の鶏小屋の鶏を盗み捕ったのでありました。財産に対する侵害に対しては敢然と、家を守るべき家長としての父親を頭に、加担する抱車夫の喜助、鳶の頭清五郎、植木屋の安吉、それに田崎で憎き狐を正義の名の下に駆除しなければなりません。折からの雪に足跡を辿れば、崖下の庭で以前あれほど捜しても判らなかった狐の穴が、熊笹の繁る蔭にあっさりと見つかったのでありました。いよいよ狐退治であります。父親の弓、田崎の鉄砲、喜助と安吉は天秤棒、清五郎は鳶口、果ては燻し出す硫黄と烟硝まで用意されるのであります。
 そうして狐はあっけなく撃退されたのでありました。打割られた頭と喰いしばった牙の間から血を滴らせながら、狐は田崎と喜助が担ぐ天秤棒に吊るされて荷風少年の前に現れるのでありました。
(続)
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