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再び、合気道の当身についてⅢ [合気道の事など 1 雑文]

 先にも記しました通り「本当」を打てばそこでその攻防は終了するのであります。そしてそうした終幕をかち取ったとしても、それを「合気道」と呼ぶかと云う、合気道を修錬する者にとっての根源的な疑問がここに立ち塞がるのであります。一撃必倒の技を求めるなら、矢張りそれを追求する技法を専ら研鑽する武道を選ぶ方が、合気道を修錬するよりも近道であろうと考えます。
 さて「本当」が発動されればそこで攻防が終了するのであるのならば、「仮当」は相手の体の崩れに乗じて施す合気道技への前段階措置であり、「虚当」はそのまた前の、次の崩しなり捌きへの前段階措置と云うことも出来るでありましょう。合気道が相手に決定的なダメージを与えないで制することをその武道理念として標榜するなら「本当」を使用することは下策であり、「仮当」の使用は中策、「虚当」が上策と云うことになります。云いかえれば「本当」はその一撃で勝負を決するし、「仮当」は次の捌きの後合気道技で相手を投げるか固めることとなり、「虚当」は延々と捌き続けると云うことであります。
 西尾昭二先生は『許す武道 合気道』の中で「合気道の技は一つの技で四回五回といつでも相手を倒せるようになっています。それを止めながら次の段階にはいり、最後に相手に<どうでしょう>という形を表現して相手に分からせてあげる、これが許す武道-合気道の理念です」と仰っておられます。ここで西尾先生が標榜された理念は、拙生の当身の分類に即せば「本当」を打つチャンスはあっても、それを打たずに「相手に分からせてあげる」ために「虚当」を駆使しながら捌き続けると云うことであります。これは「虚当」ではあるが、もしこれを此方が「本当」として使用するなら、途轍もなく危険な結果を招来させることになるかも知れませんよと、そう云う迫力や気配を相手に意識させるまで捌き続けると云うことであります。理念とそのための当身技の統合と云う点に於いて、西尾先生は合気道の当身について見事な到達点をお示しになられたと云えるでありましょう。
 しかしそこまで到達するためには途方もない時間と稽古量が必要でありましょうし、はたして幾人の合気道を修錬する者が到達出来るでありましょうか。西尾先生は修錬半ばの者がもし身の危険に遭遇した場合、先に記した相手の力量との相対的な緊張関係から「本当」を使用せざるを得ない状況になった場合は、その時はそれを許容されるのでありましょうか。身の程知らずで無礼千万であることは重々承知ではありますが、西尾先生の理念に強く惹かれる者として、もし機会があったら一度お伺いしたかった点でありましたが、惜しくも故人となられた今となっては云うも詮ないなことであります。
 余談として、塩田剛三先生の投げ技は鋭い切れ味とその豪快さから拙生の憧れでありました。特に入り身突きの苛烈さは見ているだけで背筋に緊張が走るのでありました。この入り身突きは相手に対抗的な打撃を打つのではなく、それに決して強打するのではなく、下から顎を突き上げて相手を浮かす、入り身の妙とタイミングと集中力が見事に結実した合気道技の典型でありました。塩田剛三先生の投げ技は実は効果として「本当」に近いものであったと思われます。こうなると投げ技自体が「本当」的な苛烈さを保有しているのであって、当技が自然に合気道化しているのであります。これもまた合気道の一方の到達点と云えるでありましょうし、戦前の合気道の峻厳な考え方の一端でありましょう。
(了)
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