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不射之射-中島敦『名人伝』などⅡ [本の事、批評など 雑文]

 邯鄲の都人士は天下一の弓矢の名人紀昌が妙技を披露するのを待ちに待ったのでありました。しかし紀昌は一向に弓矢を手に取ろうともしないのであります。そのわけを質した者に紀昌は先に紹介した「至為は為す無く、至言は言を去り、至射は射ることなし」ともの憂げに云うのでありました。成程名人とは斯くやと人々は納得し紀昌の評判は愈々上がるのであります。そんな中で紀昌は老い、益々枯淡虚静の風情濃くして、遂に帰国後一度たりとも弓矢に触れることなくこの世を去るのでありました。
 技芸を極めれば、即ちその技より乖離して技に囚われることなく、至高の境地は遂にその境地すら遺棄して憚らず「既に、我と彼との別、是と非との分を知らぬ。眼は耳の如く、耳は鼻の如く、鼻は口の如く思われる」ような模糊たる生の在り様を示すようになると云う話であります。ここまで至らずとも成程古今の武芸者、芸術の徒にこうした大家は確かに居たような気がいたします。至芸極北に至って獲得した生の在り様、扶桑の風土の中に存在するそう云った道教的真人のような姿を至高の達者として崇める気分を、中島敦は『名人伝』の中で描いたのであります。
 この至高たらんとする意思の成り果てる末は『山月記』の中でも形を変えて、幾らか自虐的に、また心情吐露的な文学的色艶を付加して語られるのであります。『山月記』は頑なで自らの才を恃み賤吏に甘んずることを潔しとせずに、人交わりを絶ってひたすら詩作に耽る李徴と云う男が、結局貧窮に絶えず節を屈して木端役人の職を奉じて、嘗て彼が鈍物俗物として軽視していた連中の下で自尊心を傷つけながら働く内に、遂に発狂して闇の中へ分け入り再び戻ることはなかったと云う物語であります。李徴はその後虎に姿を変え、次第に一頭の完全なる虎と成り果てていくまでの間の、時に還って来る人間としての意識の中で己が人間であった頃の悔悟や、虎と化しても尚自分の詩業を一部でも世に残さんとする芸術的未練を、その友人だった袁傪に表明します。唐代の『人虎伝』と云う説話を借りて、中島敦は自分の詩的才能への矜持と、同時にある意味で醜くもあるその自尊心と羞恥心を相対化して見せたのでありましょう。
 作品『李陵』の中でも、人の意思、煩悶、在り様の極北を中島敦は描いて見せます。漢の武帝時代に匈奴との戦いに敗れその俘虜となり、遂には匈奴に溶けて再び漢へ戻ることのなかった勇将李陵。その李陵を正義感から一人弁護したが故に宮刑を蒙りながら、しかし己が使命とするところを全うし『史記』を書き上げた司馬遷。李陵が俘虜となる一年前に漢の和平使節団長として匈奴に赴き、匈奴の内紛に巻きこまれて囚われの身となり、節を曲げないが故に大凡考えもつかない様な辛苦を舐めることになった蘇武。この三者の云ってみれば境遇としての極北とその極地の中での夫々の生き様、煩悶、葛藤それに意志を描いたこの作品は、中島敦の文学的指向を見事に表明した作品と云えるでありましょう。
 もし中島敦がもっと長い生を得ていたとしたら、彼は中国の古譚や歴史を借りて、人間の最も深い一面と隠れて容易には見えない普遍性や特殊性、それに実在の姿をその美しい言葉で我々に垣間見せてくれたのではないかと思うのであります。返すがえすも、中島敦はあまりに早くこの世を去りあまりに少ない作品をしかこの世に残さなかったのが、拙生には残念で仕方がないのでありますが、これは云っても詮ないことであります。
(了)
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