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不射之射-中島敦『名人伝』などⅠ [本の事、批評など 雑文]

 その煌めくような才能から将来の大成を期待されながら、昭和十七年に僅か三十三歳でこの世を去った作家中島敦は、祖父が儒者であり父が中学校の漢文教師と云う家に生を受けたのでありました。祖父以来その家系は儒家を多く出し、漢学的儒教的教養の中で彼はその文学的な背骨を形成したのでありました。中国古典を教養としながら、またカフカやガーネット等の影響によって西洋的な実存主義的思考や美意識を血肉に、人間の根源的な深み向かってに突き進むように作品世界を展開した作家であったと云えるでありましょう。
 世に出た最初の作品『山月記』は昭和十七年二月に「文学界」に掲載され、その年の暮に『名人伝』を発表してすぐに喘息によって彼はこの世を去ったのでありました。文学的にひどく短い生涯でありますが、中島敦の遺した作品は“和氏の璧”のごとく、今も鋭く美しい光彩をこの世に放ち続けているのであります。
 作品『名人伝』は中島敦の遺作であります。中国戦国時代に編まれたとされる道家の思想書『列子』中の寓話から素材を得たもので、天下第一の弓の名人になろうと志を立てた紀昌と云う男の鍛錬譚であり、その射芸の極みに至った紀昌の人間的変貌、道教的な真人達成譚であります。中国の武芸を含む諸芸事の至芸観は不案内でありますが、扶桑のそれは作品中の紀昌の言「至為は為す無く、至言は言を去り、至射は射ることなし」と云う道教的境地に到達することをもって完成とされる場合が確かに多くみられます。仏教で云えば真諦と同じ位相に昇ることでもありましょうか。技術であるところの芸事も、極めれば技術を去って道教的境地若しくは仏教的悟りの境地を獲得することになるようであります。そしてその境地こそが到達するべき地平とされるのであります。道教や仏教に深く影響を受けた扶桑の歴史的文化的な背景から、武道を始めとして扶桑の諸芸が道教や仏教思想と結びついてその至芸観を確立しているのは当然でもありましょうか。それならばいっそのこと芸事を志すのはやめにして、初めから道教か仏教を学べばよかろうものをと短略するのは拙生の至らないところであしまして、こう云った至芸の境地からは程遠いところで今だ右往左往しているこの拙生でありますが、まあ、それはさておき。
 作品『名人伝』の紀昌はまず術の大家たる飛衛と云う名人の門に入ります。ここでは瞬きしない目、微を著のごとく見ることの出来る目を養えと云われて、これに五年を費やした後にようやく奥儀伝授となるのであります。その腕前師匠と同格となるや遥かに高い技を有すると云う霍山の甘蠅老師を教えられ、今度はその門に入るのであります。甘蠅老師は紀昌に「不射之射」を伝授します。射技の極みに至った者は既に矢を射る必要もないのであります。老師は断崖上に突きだした危石の上に手ぶらで立って「弓矢の要る中はまだ射之射じゃ。不射之射には烏漆の弓も粛慎の矢もいらぬ」と云って弓も矢も持たない素手で見えざる矢を無形の弓につがえて空に放てば、高所を飛ぶ鳶が中空から石のごとく落ちてくるのでありました。紀昌はこの芸道の深淵を見せられて慄然とするのであります。
 甘蠅老師の下で九年間修業をした紀昌は山を下り戦国時代の趙の都邯鄲に帰ってきたのであります。その紀昌の顔つきと云うものは過日の精悍な面魂は消え失せ、無表情の木偶のごとき容貌に変わってしまっているのでありました。嘗ての師飛衛はこの紀昌の顔つきを一見し、これこそ天下の名人であり自分は足下にも及ばぬと叫ぶのでありました。
(続)
タグ:中国 中島敦
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