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あなたのとりこ 285 [あなたのとりこ 10 創作]

 那間裕子女史が薄笑いを口の端に上せるのでありました。
「根が小心者だからね。それに残業代の話しになるとあの人が一番冷や汗ものだろうし、そんな非道をしている事が社長に知れるのは大弱りだろうし」
 均目さんが同じような薄笑いを浮かべるのでありました。「大体残業代は、五時を一時間経過した時から付く事になっているし、帰りが遅くなっても会社に戻らないで直帰した場合も普通は付かない事になっているんだけど、あの人はまるで特権のように、五時三十分でもその三十分を残業として平気で計上するし、直行直帰の場合も勝手に好きなだけ残業代を上乗せしていたからね。人には六時少し前になると早く帰れと急かすくせに、恥も外聞も無くそんな真似が良く出来るものだよ。片久那制作部長はしないと云うのにさ」
 これは均目さんが何かの話しの折に甲斐計子女史から聞き出した事でありました。抑々均目さんはその折、特に土師尾営業部長が残業代をどのようにカウントしているかとか云う質問をしたのではないのでありました。しかし甲斐計子女史は常日頃の土師尾営業部長の、残業代に限らず万事に於いて意地汚い遣り口が大いに不愉快だったので、自らその事を、実はこうだ、と云う感じで均目さんに不意に喋り出したと云う事でありました。
「残業代の算定にはちゃんとした決まりがある訳じゃない、と前に云っていたよね?」
 横瀬氏が均目さんに訊くのでありました。
「そうですね。就業規則にも明文化はされていませんね。でも仕来たりと云うのか、従業員は袁満さんが今云ったようなところを、不文律と弁えてちゃんと守っていますよ」
「だから今日出した要求書に、そこを踏まえて、全従業員に一律に適応される残業代の算定方法を明快にしろと云う一文を入れたんだし」
 那間裕子女史が均目さんの言を受けて後を続けるのでありました。「ま、実際は土師尾さんを狙い撃ちにしたと云う訳だけどね。その部分の読み上げと説明の時、土師尾さんが眉尻をピクッと動かしたから、本人も自分が標的だとすぐに判ったんじゃないの」
「土師尾営業部長も従業員である限り、一人だけ特権は認められないのは当たり前だ」
 袁満さんが義憤に耐えないと云った顔をするのでありました。
「片久那さんも土師尾さんの遣り口を苦々しく思っていたんだろうけど、何故か何も云わずに無関心を装っていたもんね。あたし達に対してその後ろめたさがあるからか、そこは敢えてきっぱり云ったわね、確かにそれは誰の目にも公正でなければならない、って」
 那間裕子女史が振り返るのでありました。
「あれは俺達に対する発言じゃなくて、暗に横の土師尾営業部長に向かって宣した心算の言葉だろうな。普段からこそこそと不埒な事をやっているから、ほうら云わんこっちゃない、ここで厳しく追及される破目になるんだって。土師尾営業部長もそう暗に詰られているのが判るから、内心ひどくたじろいで横で間抜け面で小さくなっていたんだ」
 均目さんが片久那制作部長の言と土師尾営業部長の心根を分析するのでありました。
「でもあの人はこそこそやっていると云うよりは、半ば堂々とやっていたぜ。片久那制作部長が何も云わないから、これは自分の特権として認められているんだと勝手に呑気に判断してさ。だから片久那制作部長にここでいきなり裏切られたって思っただろうな」
(続)
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あなたのとりこ 284 [あなたのとりこ 10 創作]

 那間裕子女史が横瀬氏の言を受けてそう付け加えるのは、那間裕子女史は特段、自分達の横瀬氏や来見尾氏におんぶに抱っこ加減を気に病んではいないと云う事でありますか。多分均目さんがちらと感じたのとは趣を異にして、那間裕子女史は社長室での自分達の振る舞いに、然程の後ろめたさや情け無さを感じてはいないようであります。
「流石に弁護士をやっているだけに、余計な言質は取られないようにと気を付けていたんでしょうね。まあ、あの場では弁護士として普通の対応と云えますね」
 来見尾氏が弁護士先生の態度について解説するのでありました。まあそんな事は頑治さんごときでも考え得る事ではありましたけれど。
「それを察しないで、社長ときたらおっちょこちょいにも一生懸命、自分が大度である辺りを見せようとして見たり、甚だ甘くはないところもひけらかそうとしたり、事と次第に依っては経営者として血も涙も無い人間である点も仄めかそうとしたりで、あれこれ余計な事をペラペラ喋ったりするものだから、弁護士としては大いに困ったと思うわ」
 那間裕子女史は社長を茶化すような云い草をするのでありました。
「横で無愛想にダンマリを決め込んでいる片久那制作部長も困ったと思うよ」
 均目さんが云うのでありました。「経営を放り出さないように脅したりご機嫌を取り結んだり、時に社長としての体裁を付けさせてやったりで、色々扱いに手の掛かる人だからねあの社長は。典型的な一昔前の、大もの気取りの零細企業経営者と云った感じだ」
「意外にもの分かりが良いようにも見えたけどねえ」
 横瀬氏が社長の為人をそんな風に評価するのでありました。
「何かと云うとすぐ好い格好をしたがるから、そう云う風に見えただけですよ」
 袁満さんも社長には辛口でありました。

 ここ迄で派江貫氏と来見尾氏が夫々、自分の会社の要求提出後の集会に赴くためにこの会合から抜けるのでありました。
「横瀬さんから見て、今日の我々の仕様はどんな感じでしたかね?」
 均目さんがそんな事を訊ねるのでありました。
「まあ、殊更感情的でもなくてクール過ぎもせず、概ね良かったんじゃないかな」
 横瀬氏は当たり障りのない返答をするのでありました。「変な紛糾も無かったし」
「我々の気持ちは向こうに充分伝わりましたかね?」
「それはまあ、大丈夫でしょう。要求内容もちゃんと目を通せば至極まともな域にある事は判るし、大体何より、止むに止まれず従業員が一致団結して組合を創ったと云うだけでも、向こうは大いにたじろいだ筈だし、先ずは上首尾と云えるだろうね」
「残業時間の算定の話しになった時に、土師尾営業部はまた血が頭に昇って大袈裟に大騒ぎし出すかと思ったけど、案外大人しかったから良かったよ」
 袁満さんが振り返るのでありました。
「事前に社前集会も目撃したし、雰囲気もあの人の無意味な反駁なんか許さない厳正な感じだったし、土師尾営業部長があの場で一番、気配に飲まれていたんじゃないかしら」
(続)
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あなたのとりこ 283 [あなたのとりこ 10 創作]

「じゃあ結局、向こうは社長と両部長で対応したんだ」
 これは派江貫氏の横瀬氏に向かっての質問でありました。
「いや、大急ぎで顧問弁護士も呼んだよ」
 横瀬氏が応えるのでありました。「弁護士先生と片久那制作部長が来たら少し安心して強気になったのか、俺と来見尾さんを指差して、会社に関係の無い部外者は外してくれとか云い出したけど、弁護士先生が慌ててそれを止めていたよ」
 横瀬氏はそう云って失笑を見せるのでありました。
「外のシュプレヒコールは聞こえましたか?」
 頑治さんがまた訊くのでありました。
「うん。演説の方もバッチリ。ウチの社名が聞こえて来る度に、社長は苛々ソワソワと苦り切ったような顔で気を散らしていたよ」
 袁満さんがここでも痛快そうに応えるのでありました。
「片久那さんは例に依って無愛想面で腕組みしてダンマリを決め込んでいたし、土師尾さんは外の集会を目撃したせいか、怖じ気付いて借りてきたネコのようにしおらしくなっていたわ。だから対応は主に社長と弁護士先生と云う事になったけど」
 那間裕子氏が社長室内の描写を始めるのでありました。「ほら、社長は内側の人間に対しては態度も口の利き方もぞんざいだけど、外の人が居ると格好を付けて急に紳士になるじゃない。だからさも落ち着き払ったような態度なんだけど、内心は気が動転しているものだから云う事が頓珍漢で無神経で、或る意味無邪気で、竟々云わないでも良いような事をうっかり口走ったりして、その都度慌てて弁護士先生に窘められたりしていたわ」
「まあこっちも、話しの進め方と云う点では横瀬さんと来見尾さんにおんぶに抱っこで、社長とあんまり変わらなかったと云えば変わらなかったけどね」
 均目さんが自嘲も交えて云うのでありました。
「まあ、皆さんは未だ若いから、ああ云えばこう云うみたいな老獪さは、百戦錬磨の横瀬さんに任せて正解だったと云う事ですよ。そのために全総連が付いているんだから」
 来見尾氏が慰める心算か、そんな事をものすのでありました。
「じゃあ、向こうの弁護士先生と横瀬さんが、実質的にその場の遣り取りを取り仕切ったような感じですかね、全体の話しの進み方としては」
 頑治さんはそれでは何となく情け無いかなと秘かに思うのでありました。
「要求書の読み上げは勿論だけど、回答指定日の厳守の点とか、団交後は一日ストライキに入るけど、それは有給休暇とは別枠で有給保証しろとか、そう云った肝心の文言は袁満さんの方から言い渡して貰ったし、あくまで私と来見尾さんは補佐役と云う感じですよ。袁満さんも他の人も初めての経験にしては、なかなか立派な立ち居振る舞いでしたよ」
 横瀬氏が心からか心ならずか、一応持ち上げるのでありました。しかしそれは当の当事者としては如何にも当然であり、しかも予め打ち合わせしていた科白でありますし。
「弁護士先生は取り敢えずこちらの要求を聴く、と云うスタンスで、取り乱した社長のように何やかやと無用な口を挟まなかったから、それもスムーズに行った要因ね」
(続)
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あなたのとりこ 282 [あなたのとりこ 10 創作]

 この間約三十分くらいでありましたか。社長室では未だ団体交渉が続いているでありましょう。社前集会が散会になった後、頑治さんは派江貫氏に付き添われて演説してもらった全総連の中央委員の仁とか、その他主立った人達に挨拶をするのでありましたが、夫々から激励の言葉を掛けられるのでありました。これは素直に有難くはありましたか。
 団交が終了して皆が社長室から出て来る迄、頑治さんは派江貫氏と二人で前以ての打ち合わせ通り近くの錦華公園で待機しているのでありました。
「外からのシュプレヒコールが屹度社長室にも届いただろうから、経営にとってはかなりのプレッシャーになった筈だな」
 ベンチに並んで腰を下ろすと派江貫氏が頑治さんに語りかけるのでありました。頑治さんは返事の代わりに愛想笑って腕時計に目を遣るのでありました。団交は一時間程を予定してあるのでありました。要は通告と要求書提出を済ませたらあっさり引き上げると云う態度で、大まかな組合結成についての経緯と要求書の読み上げはするとしても、要求内容についてあれこれ踏み込んで経営陣と議論する事はその日は避ける手筈でありました。
 しかし一時間を経過しても未だ誰も現れないのでありました。頑治さんは少しそわそわ気を揉むのでありましたが、それから二十分を過ぎた頃になって、会社のビルから皆がゾロソロと連れ立って駐車場前に出て来るのが見えるのでありました。
「いやあ、結構面白かったよ」
 公園に一番に入って来た袁満さんが頑治さんと派江貫氏を見付けて、そう声を掛けながら近付いて来るのでありました。後に続く皆も些か興奮気味の上気した顔をしているのでありました。察するに、先ずは上首尾、と云ったところでありましょうか。
 公園で落ち合った後は、全員で全総連のお茶の水分室に向かうのでありました。そこで総括と云う予定であります。もう敢えて必要無いからか横瀬氏が腕章を外すと皆もそれに倣って、歩きながら夫々腕に付けた赤い布を外しつつ歩を進めるのでありました。
「一先ず、出だしは上首尾と云うところかな」
 分室内の会議スペースに落ち着いて横瀬氏がそう感想を述べるのでありました。
「いやあ、目玉をひん剥いて驚いていた社長の顔は見ものだったなあ」
 袁満さんが痛快そうに笑いを漏らすのでありました。
「社長が一人で対応した訳じゃないんでしょう?」
 現場に居なかった頑治さんが訊くのでありました。
「勿論。慌てふためいて内線で上に電話して片久那制作部長を呼んだよ」
「土師尾営業部長は来なかったのですか?」
「土師尾営業部長は生憎、得意先と打ち合わせ称して十時前から外に出ていたんだ。例に依って本当に仕事なのか、それとも実は私用なのかは知れないけどね」
「まあ、団交が始まって三十分くらい経ってからのこのこ現れたけど」
「と云う事は、帰って来た時に社前集会は目撃したんですかね?」
「見たみたいよ。何か怯えたような顔で社長室に現れたもの」
 これは那間裕子氏が応えるのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 281 [あなたのとりこ 10 創作]

 人間が多い方が確かに頼もしくはあるし意気込みも経営側に示せるでありましょう。しかし頑治さんは何となく、この人数の動員に尽力した派江貫氏に、申し訳無いながら、一種の押し付けがましさをも同時に感じて仕舞うのでありました。

 街宣車が駐車場前にそろりと泊まるのでありました。一般の通行を妨げないように動員された約百人の労働組合員達は街宣車の左右と道の反対側に分かれて立つのでありました。その陣形は派江貫氏が如何にも慣れた様子で手際良く指揮誘導するのでありました。
 十一時十五分丁度に街宣車上の派江貫氏の手に持つラウドスピーカーのスイッチが入れられ、先ず耳障りなハウリング音が辺り一面に響くのでありました。派江貫氏の横に立っている頑治さんは思わずその金属的な音に眉根を寄せるのでありました。
「お茶の水、神保町近隣に働く労働者同志の皆さん!」
 派江貫氏が大音声を放つのでありました。「本日、この車両の後ろのビルにある、低賃金と過酷で抑圧的な労働環境の下にあった株式会社贈答社の同志達は、自分達の生活と尊厳を守るため、そして、的外れで悪辣な恫喝を繰り返すだけで、明確な会社の将来展望を何ら示せない会社経営に対峙するため、ここに全総連の旗の下、闘争的労働組合を結成し、今正に、労働者の正統な権利をかち取るための団体交渉に断固臨んでおります」
 大まかには誤謬は無いにしても、しかし、いやはやこれはまた如何にも剣を大上段に振りかぶったような演説の始まりであります。自分達が当初組合を創ろうとした気持ちの温度とは、この表現は少し乖離があるように頑治さんには思われるのでありました。まあ、景気付けの大袈裟な第一声であるのは理解出来るとしても。
 それに確か、結成会議の初めの頃に会社の実情とか社長や両部長の立場や人柄等を、そのキャラクターも含めて縷々説明した折には、従業員の賃金面でも待遇面でも贈答社は、全総連加盟の争議を抱えている他社に比べれば、まあ確かに平均よりは低いレベルではあるものの、そんなにとんでもなく酷い状況にある訳ではないし、社長や両部長が無能かも知れないけれど、目に余る程の悪辣非道な搾取や仕打ちをしている訳でもなさそうだと、横瀬氏も派江貫氏も感想を述べていた筈であります。その派江貫氏の同じ口から平気でこのような第一声が飛び出すと云うのは、頑治さんにしたら何となく面食らうような、身体現象としては、尻の辺りがムズムズするような、そんな心持ちがするでありましたか。
 派江貫氏のこの第一声の後には、空かさず一斉に参集者の、良し、と云う発声と拍手が沸き起こるのでありました。何やら約束通りの、派手なお祭り騒ぎを演じていると云った様相であります。車上の頑治さんはその雰囲気にどことなく馴染めずに、モジモジと前に組んだ手の指をせわしなく、且つ目立たぬように微動させているのでありました。
 派江貫氏のアジ演説が終わると、これは後で挨拶を交わした時に知れたのでありましたが、全総連の中央委員と云う肩書きの人が派江貫氏からラウドスピーカーを手渡されて激励の演説を一席打つのでありました。その後に頑治さんが決意表明と参集への謝辞で居並ぶ大向うのご機嫌を伺って、参集者全員で派江貫氏の音頭の下、団結ガンバロー、のユニゾンの大合唱でこのお祭り騒ぎ、いやいや、社前集会は締め括られるのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 280 [あなたのとりこ 10 創作]

 さて、要求提出日当日の布陣は、団体交渉の席に着くのが袁満さんと那間裕子女史、それから均目さんと出雲さんの四人で、そこに全総連から横瀬氏と来見尾氏が加わるのでありました。頑治さんは派江貫氏と共に社前集会の方に回って、当該組合として街宣車の上から夫々の組合員が持参した赤い組合旗や幟のはためくのを見下ろしてして、決意表明及び参集してくれた人への謝辞を一席打つ事になるのでありました。これは、頑治さんより年季の古い四人が団交の席に臨み、一番新米の頑治さんが外の集会の方に回ると云う、何だか判るような良く判らないような袁満さんの提案になる理由に依るのでありました。
 四人は打ち合わせ通り午前十一時を以って全員が揃って自席を立ち事務所を出るのでありました。頑治さんは予め倉庫に居て派江貫氏と共に十一時十五分からの集合の差配を受け持つ予定でありましたが、件の打ち合わせ通り十一時少し前に一階の駐車場の前に横瀬氏と来見尾氏、それに派江貫氏の姿を認めると、急いで倉庫から飛び出してその前に参じるのでありました。横瀬氏が頑治さんに片手を挙げて見せるのでありました。
「社長は今現在ちゃんと社長室に居るんだよね」
 横瀬氏が確認のため頑治さんに訊くのでありました。
「ええ。社長の車がそこにありますから」
 頑治さんが駐車場内の白いクラウンを指差すと、横瀬氏は予定が按配良く進んでいる事に満足するような頷きを頑治さんに返すのでありました。
 そこにタイミング良く三階から出雲さんが階段を駆け下りて来て、外に待機している三氏と頑治さんに、二階の社長室前では準備万端整っていると告げるのでありました。出雲さんはもう来ている筈の横瀬氏と来見尾氏を呼びに駆け降りて来たのでありましょう。
 三氏は上着のポケットから、全総連、と赤地に白抜きで文字が染め抜かれた腕章を取り出して腕に嵌めるのでありました。出雲さんはもう既に腕章を付けているのでありましたから、頑治さんも慌ててズボンのポケットから腕章を取り出すのでありました。
 横瀬氏と来見尾氏が出雲さんと一緒に上に消えるのを見送って、派江貫氏は眼鏡の蔓に手を添えながら腕時計に目を遣るのでありました。それから文字盤を睨みながらきっかり五分待って顔を上げると、後方の道角に手を上げてサインを送るのでありました。そこには全総連関係の人間が待機していて派江貫氏の合図を確認すると、こちらからは見えない角のビル陰辺りに派江貫氏と同じような片手のサインを送るのでありました。
 ビル陰から街宣車が表れるのでありました。その後に続いて赤や青色の何某労働組合とか全総連とか、小規模単組連合等の文字が白で染め抜かれた旗や幟を担いだ、総勢百人程の動員された集会応援の一団が不揃いな行列で続いているのでありました。
「予めの話しでは応援動員は五十人前後、と云う事でしたが?」
 頑治さんが横の派江貫氏に気後れの物腰で話し掛けるのでありました。
「多い方がこっちの意気込みを経営に見せつけられるだろう」
 派江貫氏はほくそ笑むのでありました。「全総連の一斉要求提出日にこれだけの人数を動員するには、結構あれこれ骨が折れたけどな」
 派江貫氏はそれとなく恩を着せるような云い方をするのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 279 [あなたのとりこ 10 創作]

「ふうん、そうスか」
 出雲さんは何となく均目さんの云っていることがピンとこない様子でありました。
「経営の方もすっかり一枚岩と云う訳じゃないって事さ」
「片久那制作部長は土師尾営業部長をどう思っているんスかねえ」
「苦々しく思っているだろうよ」
 均目さんは自分も苦々しそうな表情をして見せるのでありました。
「でも無関心そうで、別に何も注意したりしないっスよねえ」
「注意をしても注意し甲斐のある人でもなし、出来るだけ口を利きたくないんだろう。それに営業部の事は自分は知った事じゃないと云う投げ遣りもあるかな」
「じゃあ、土師尾営業部長を遣り込める時には、片久那制作部長もこっちの味方になってくれる場合もあると云う事っスかねえ」
「それは判らないな。まあ、面白がって、少なくとも邪魔はしないかも知れないけど」
「ああそうっスか。そう云う場が早く来ないかと今からワクワクっスよ」
 出雲さんは未だ来てもいないその場面を想像して痛快そうに笑うのでありました。普段はあんまり誰に対しても逆らわない風にしているけれど、出雲さんも土師尾営業部長が自業自得で窮地に立たされる事を秘かに心待ちにしているようでありました。

 要求提出は三月初旬の全総連一斉要求提出日と同日となるのでありました。少し前倒しした方が社前集会に動員出来る人数が増えるかも知れない、と云う意見もあったのでありましたが、同日でもほぼ五十人規模で動員が可能であり、街宣車も繰り出せると云う横瀬氏の確約もあって、同じ日の要求提出及び組合結成公然化と決したのでありました。
 この間、要求提出日に合わせて要求書、労働組合結成通告書等の清書やら結成総会用の垂れ幕や取り敢えずのお手製の組合旗作り、それから会社関連では従業員だけの山尾主任の送別会やら、あれこれ結構目まぐるしく立ち働かなければならないのでありました。頑治さんが、拙いながらもレタリングの腕があると云うので、垂れ幕と組合旗作りを担当するのでありました。会社側に提出する要求書と労働組合結成通告書は、綺麗と云うよりは読みやすい字を書くと云うので那間裕子女史が作成するのでありました。
 袁満さんと均目さんは御茶ノ水駅から然程遠くない処に在る古びたビルの一室、そこは全総連のお茶の水分室でありますが、そこに出向いて行って当日の仕儀の全総連との打ち合わせと、当日配るビラの作成とガリ版印刷の仕事を担い、出雲さんは那間裕子女史と頑治さんの助手のような役目を担当するのでありました。そのガリ刷り印刷の方には派江貫氏と来見尾氏が手伝いに付き添い、横瀬氏は神保町の件の貸事務所の方で仕事をする那間裕子女史と頑治さん、それに出雲さんの組に付き合って適宜指導するのでありました。
 要求提出の三日前に行った組合結成総会には、全総連からも偉いさんが来賓として出席して祝辞を述べるのでありました。儀式の最後に意気込みを示す団結ガンバロウの和唱があったのでありますが、そんな経験は従業員一同生まれて初めての経験だったので、皆どこか照れ臭そうな風情で頭上に右手の拳を突き上げたりするのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 278 [あなたのとりこ 10 創作]

「そりゃそうだ」
 袁満さんが笑うのでありました。「しかしあの人はどういう了見で、そんな如何にも詰まらない、見え透いた嘘を平気で吐くのかねえ」
「元帳はとっくに見られているのを、お気楽に気付いていないんでしょうね」
「気付いていてもあたし達を自分には盾突く事が出来ないだろうと、嘗め切っているから平気の平左なのよ。確かにあの人と言葉を交わすだけでも億劫だし、諌めるとしてもすぐに頭の天辺から蒸気を吹き出して、意味不明の妙ちきりんな抗弁なんかしてくるに決まっているから、話す以前からもううんざり、と云うこちらの投げ遣りも良くないけどね」
 那間裕子女史が均目さんの意見よりは奥深そうな見解を披露するのでありました。
「そのくせあんな臆病者は居ないですよ」
 袁満さんがまた鶏の唐揚げに箸を伸ばすのでありました。「前に会社に居た刃葉さんとかには、妙にオドオドしていましたからねえ」
「二人共判らんちん同士なんだけど、腕力に関しては刃葉さんの方が格段に上だから、あの人なりに警戒していたんでしょうよ。刃葉さんを怒らせるとどんな厄介が降り掛かるか知れないからと。判らんちんがもう一人の判らんちんを、自分の事は棚に上げて、彼奴は手に負えない判らんちんだと思いなしていたと云う訳よ」
 那間裕子女史は意地の悪い分析を皮肉っぽく語るのでありました。
「もう少し片久那制作部長があの人に対して重しを利かせてくれたら良いのに」
 袁満さんが咀嚼筋をしきりに動かす隙に云うのでありました。
「片久那制作部長もなるべく、七面倒臭いヤツには関わりたくないんでしょう。それに土師尾営業部長は社長とつるんでいるし。社長も片久那制作部長を煙たく思っているみたいだから、そう云う点で土師尾営業部長と社長は仲間なんでしょうね」
「へえ、社長は片久那制作部長を煙たく思っているんスか?」
 出雲さんが珍しく口を開くのでありました。
「そうだよ。色々遣り込められているんじゃないの、待遇とかの面で」
「均目さんはなかなか社内の人間関係に詳しいっスね」
「あの二人を見ていればそれとなく判るだろう、なあ、唐目君」
「ああ、まあ、何となく判るような判らないような」
 急に均目さんに名指しで同意を求められて、頑治さんは多少戸惑いながら曖昧な返事をするのでありましたが、確かに社長は片久那制作部長の前では物腰も態度も、その存在感に圧倒されて仕舞うのか、変にオドオドとしたところがありはしますか。
「組合結成の暁には、例えば団交の席とかで土師尾営業部長の仕事振りに対しても、あれこれ注文を付けたりするんスか、組合として?」
 出雲さんがそうなれば面白かろうと云った笑いを片頬に浮かべるのでありました。
「団交の席でと云うのはどうかな。それは労働組合で取り上げるべき問題とは別の、社内会議とかに於いて問題にすべき事項だろうし。ま、組合とは別の場であっても、暗に組合の存在を後ろにちらつかせると云うのは、なかなか有効な遣り口だとしても」
(続)
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あなたのとりこ 277 [あなたのとりこ 10 創作]

「ところで袁満君、仕事の方はどうよ?」
 那間裕子女史が話題を変えるのでありました。
「全国の得意先を掌握して去年の売り上げとか、どの商品がどのくらい動いたかをちゃんと整理するだけでも大変ですよ。今の内は出雲君が未だ新しい仕事に動き出していないから、色々手伝って貰えるけど、一人で全国を熟すとなると見通しも立ちませんね」
「二人で回っていたところを一人でやる事になったんですからね」
 出雲さんが労うような云い方をするのでありました。
「出雲君の方は未だ全く動き出していない訳?」
「日比課長が未だ新しい仕事で動けないようですから」
「日比課長にしたら山尾主任が抜けて目算違いが生じたから、到底新しい仕事どころではないだろうな。もう一人の営業担当は相変わらずちっとも仕事をしないし」
 均目さんが敢えて土師尾営業部長への皮肉を込めるのでありました。
「そう云えば何か最近頓に、直行直帰が増えたよなあ、土師尾営業部長は」
 袁満さんが鶏の唐揚げに箸を伸ばすのでありました。
「一生懸命忙しくしている振りをしているんでしょう」
 均目さんが苦笑するのでありました。
「あの人の直行直帰は正真正銘のサボリだからなあ。前からそんな風だったけど」
 袁満さんも唐揚げの入った頬を膨らませて苦笑うのでありました。
「急用で連絡を取ろうと直行先に電話を入れたら、今日は来る予定は無いと云われたり、「上野の得意先に行った筈が、今上野駅だけど遅くなったので直帰すると云う電話がホームの公衆電話から入って、偶々後ろに流れている場内アナウンスを聞くと築地駅のものだったり、とか云う類の話しは袁満君からも甲斐さんや日比課長からも間々聞くわね」
 那間裕子女史が鼻を鳴らすのでありました。
「あの人はよく築地に行っているけど、築地に何の用があるんだろう?」
 袁満さんが疑問を呈するのでありました。
「本願寺があるからそこにでも行っているんでしょうね」
 均目さんが推察を述べるのでありました。
「ああ成程ね」
 袁満さんが納得するのでありました。「と云う事は、全く仕事とは関係ない訳だ」
「そうなりますねえ」
「俺も直帰の電話を貰って、浅草駅からだと云う事だったけど、矢張り丁度ホームのアナウンスが入って来て、それを聞くと市川とか云っていたっスよ」
 出雲さんも土師尾営業部長の疑念の多い行為を披歴するのでありました。
「市川と云うと、あの人の自宅のあるところだな」
「それは偶々、うっかり市川に帰って来てから電話をしたと云う事もあるだろう」
「そんなら今市川だけど、と云えば良いし、終業時間の一時間も前に、もう自宅のある市川に居るとなると、これは一時間以上サボっていると云う事でしょう」
(続)
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あなたのとりこ 276 [あなたのとりこ 10 創作]

「初めての議長役にしては、なかなか手際が良くて堂に入っていたわよ」
 生ビールで乾杯の後那間裕子女史が袁満さんを持ち上げるのでありました。
「いやあ、あたふたしていましたよ」
 袁満さんは満更でも無い顔で照れるのでありました。
「いやいや、見ていて心強かったですよ」
 均目さんが敬服の一礼を冗談交じりながらして見せるのでありました。
「何とか今日で提出する要求の具体的な内容は大概決まったから、後は清書して正式な要求書を作る作業と云う事になるかな。ようやくこぎつけたと云う感じだよね。でも未だ色んな仕事が残っているから、提出日迄それを着々と熟していかないといけない」
 袁満さんは今日の自分の振る舞いの成功に驕らないで次を見据えるのでありました。山尾主任が欠けた事によって袁満さんも急に頼もしくなったと頑治さんは感心するのでありました。新しく作ろうとしている労働組合の、未だ暫定的ではあるものの、リーダー格になった事実への自覚と云うのか覚悟と云うのか、それが生まれたのでありましょう。
「労働組合結成に一人だけ突出して前のめりだった山尾さんが抜けた後、どうなる事やらって思っていたけど、まあ、袁満君が頑張ってくれそうだから安心したわ」
 那間裕子女史は袁満さんのグラスにビールを注ぎ入れるのでありました。
「そう云いますけど、俺の力量は山尾主任に遠く及ばないんだから、那間さんを始めとして皆が一緒に助けてくれないとどうにもならないですよ」
「でも袁満君には山尾さんみたいな狭量さとか、人に対する時の身構えとか、棘みたいなものが無いから、今考えると委員長と云う役職に適任なのかも知れないわ」
「でもそれが労働組合の委員長たる者の資質として、適当かどうかは判りませんよ」
「少なくとも内部を纏めると云う意味では適当と云う事じゃないですかね。まあ、外に向かっては多少物足りないところもあるかも知れないけど」
 均目さんが持ち上げるような持ち上げないような事を云うのでありました。
「その辺、唐目君はどう思うかな?」
 袁満さんが頑治さんの顔を見るのでありました。
「袁満さんは穏やかな人柄ですし、そう云う人がリーダーなら端から相手の反発を生まないと思いますね。そう云うのは、交渉事に於いてはプラスに働くんじゃないですかね」
「出雲君はどう思う?」
 袁満さんは今度は出雲さんの方に顔を向けるのでありました。
「俺も唐目さんと同意見っスよ。始めから天敵みたいだと話しが進まないだろうし」
 出雲さんは口に付けていたグラスを少し離して云うのでありました。
 袁満さんは皆の評価を聞く事に依って要するに自己確認したいのでありましょう。これは逆に云えば自信の無さが心根の奥に蟠っているためでありまあしょうが、それは未だ仕方の無い事でありましょう。袁満さんにしたら組織のリーダーと云う仕事は、恐らくは初めての経験なのであろうし、今後にあれこれ実績を積んで貰うしか無いでありましょう。まあ、でも、取り敢えず滑り出しは大いに無難に熟したと云うところでありますか。
(続)
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あなたのとりこ 275 [あなたのとりこ 10 創作]

 均目さんが袁満さんと那間裕子女史の間に割り込むのでありました。「まあ、片久那制作部長の気分には戦々恐々、と云ったところは俺達全員に、あるにはあるけれども」
「そんなに恐れているのなら役職手当を基準内に入れて置く方が無難じゃないの」
 派江貫氏が揶揄するような云い草をするのでありました。
「まあ、従来から役職手当を加えた額でボーナス、じゃなかった一時金を計算していたんだし、役職手当を加えると云う事で纏めた方が良いんじゃないの、ここは」
 袁満さんが大した問題じゃないんだからと云った一種野放図な感じで、さっさと結論を付けて仕舞いたそうにそう提案するのでありました。
「家族手当はどうするんですか?」
 均目さんがその野放図さに少し苛々したような口調で訊ねるのでありました。
「役職手当も家族手当も、となるとなかなか社長は呑みにくいでしょうね。片久那さんと土師尾さんにしたら、内心その方が嬉しいかも知れないけど」
 那間裕子女史が難色を滲ませるのでありました。
「何れにしても現在の俺達には役職手当も家族手当も関係無いんだから、態々ここでああだこうだと議論をするよりは、簡単に役職手当にしといて良いんじゃないのかな」
 袁満さんはこれまた呑気な意見をものすのでありましたが、これは一時金なるものがどのような性格を持つのかその意味に関わる事で、面倒臭いからと議論を打ち切るのは、何やら労働組合の会議にしては軽率なような気が頑治さんはするのでありました。
「要求提出迄そんなに時間がある訳じゃないから今紛糾するよりはその問題は今後に、と云う事にして今回は基準内は基本給プラス役職手当と云う線で行く方が良いかな」
 来見尾氏が誘導的に操提案するのでありました、労働組合の元締め側の人が一時金なるものの性格をはっきりささるよりは、ここは袁満さん同様、先を急ぐ方が得策と考えるようでありますから頑治さんの一言の出番は消滅するのでありました。
「じゃあ、決を採ろう」
 袁満さんが提案するのでありました。「役職手当を加算する方に賛成の人は挙手」
 真っ先に勢い良く手を挙げたのは決を採ろうと発議した当人たる袁満さんで、その後に出雲さん、那間裕子女史、均目さんと続き、最後に頑治さんが、敢えてここで反対の声を挙げても仕方が無いだろうと、皆よりは威勢悪くじわりと挙手するのでありました。
「全会一致で基本給プラス役職手当を一時金や時給算定の元になる基準内とします」
 袁満さんが宣すると空かさず派江貫氏と来見尾氏が、良し、と小声で発声するのでありました。この手の会議での労働組合的合いの手に未だ慣れていない初心な従業員五人は、声を出す期を逸してモジモジと居心地悪そうに居住まいを正すのみでありました。

 会議の後、外部の三氏を除いた社員五人で、那間裕子女史の発案に依り神保町駅近くの居酒屋に立ち寄るのでありました。誰も明快にそう云いはしないものの、山尾主任が欠けた後の初会議が滞りなく終了した事の祝杯、と云う意味合いでありますか。それに山尾主任の居ない五人で酒席を囲むのはひょっとしたら初めての事でありましたか。
(続)
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あなたのとりこ 274 [あなたのとりこ 10 創作]

「そんなに形式張って改めて繰り返す事も無いと思うけど、・・・」
 那間裕子女史は少し面倒臭そうにそう独り言ちてから続けるのでありました。「ええと基本給は十四万円プラス、年齢マイナス十八に五千円掛けたもの。で、この式に全従業員の賃金が当て嵌まるようにすると云う事がほぼ決定事項ね。五千円と云うのが定昇分で、ウチでは誰も関係ないけど十八歳の人が十四万円と云う事になる訳ね。それで以って現状の賃金がその式に満たない場合はその分を各自に補填する、と云うのがあらましと云う事になるわね。その補填分は人に依ってばらつきがあると云う事になるわ。小規模単組連合の要求式とは違うウチ独自の要求だけど。まあ、来年からは小規模単組連合に合わせる事になるわ。これが、全員がこれまでの話し合いの中でほぼ納得しているところだわね」
 那間裕子女史はそこ迄云って一息吐いてまた続けるのでありました。「それと夏の一時金要求は、基準内賃金の三十割に一律五万円プラス。で、保留になっていたのが基準内賃金の内容で、基本給に役職手当を加えるかそれとも家族手当を加えるか、或いはその両方入れるかで意見が分かれている、と云うのがこれまでの経緯と云う事になるかしら」
「役職手当にしろ家族手当にしろ、山尾主任が居なくなったんだから、現組合員の中では該当者は誰も居ない訳だけどね」
 均目さんが茶々のようなそうでないような事をものすのでありました。
「でも全従業員に適用するんだから、片久那さんや土師尾さん、それに日比さんの事も考慮しないとね。甲斐さんは独身で無役だから関係無いけど」
「役職手当を外すと土師尾営業部長や片久那制作部長の反発が屹度あるよなあ」
 袁満さんが悩ましそうに呟くのでありました。
「土師尾さんはどうでも良いけど、片久那さんの反感を買うのは得策じゃないわね」
 那間裕子女史が頷くのでありました。
「片久那制作部長が今現在貰っている額と、俺達の新しい賃金式で計算した額とではどっちが多くなるんだろうかな」
 袁満さんが首を傾げるのでありました。
「はっきりは判らないけど、役職手当と家族手当、それに勤続手当や毎月の残業代とかあれこれ含めると、年収ベースでトントンか少しアップと云うところじゃないかな」
 均目さんがそんな推察を述べるのでありました。
「そんならあんまり問題は無いか」
 袁満さんが少し口元の緊張を緩めるのでありました。
「いやあ、なかなかの業突く張りだからそれじゃ全く不本意かも知れないわよ」
 袁満さんのこの甘い観測に対して、那間裕子女史は不同意のようでありました。
「でも、俺達従業員の賃金の底上げと云う辺りに、少しは義侠心を働かせるのじゃ?」
 袁満さんは聞きように依ってはより甘い呑気な観測を披露するのでありました。
「そりゃあ、自分の取り分に満足した上でなら、義侠心も発揮するかも知れないけど」
 那間裕子女史の方は皮肉な笑いを披露するのでありました。
「でも、抑々組合結成は片久那制作部長のためにやる訳じゃないし」
(続)
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あなたのとりこ 273 [あなたのとりこ 10 創作]

 均目さんは即座に反論するのでありました。
「弁も立つようだし、均目さんが副委員長と云う事にすれば?」
 横瀬氏がどう云う心算か半笑いの顔でそう促して見せるのでありました。
「いやいや、俺は執行委員の儘の方が良いですよ。会社での年季や年齢から見ても、俺が副委員長と云うのは僭越と云うものですし」
 均目さんとしては自分がここで副委員長に就任ずるとなると、ひょっとして若しまた袁満さんが抜けるような事があった場合、今次の人事の前例からしても自分がその次の委員長に就任する羽目になると云う事で、それはまっぴらご免蒙りたいと云う目論見から副委員長就任を回避したいのでありましょう。均目さんの副委員長就任と云う案も悪くはないと頑治さんは思うのでありましたが、当の均目さんが、その秘かな魂胆の正統性は置くとしても、固辞の意向であると云うのなら、竟々出て仕舞う苦笑は禁じ得ないとしても、敢えて頑治さんが進んで副委員長に推挙する気も謂れも無いというものでありますか。
「委員長と副委員長は製作と営業からと云う当初の意向だったけど、均目さんの固辞でそれが崩れたとなると、それでは出雲さんはどう?」
 横瀬氏が出雲さんの顔を見るのでありました。
「えっ、俺っスか?」
 急にお鉢が回って来た出雲さんはたじろぐのでありました。「俺は一番歳が若いし、組合活動に関して、この中で誰よりも疎い人間っスから、絶対ダメ、っスよ」
「まあ、当該の中で袁満さんが新委員長で他は現職に留任と一決したんですから、それを尊重して貰って、当面はそう云う事で行きましょうよ」
 これ以上副委員長ポストの件で揉めるのは自分に不都合と恐らく踏んだものだから、均目さんが横瀬氏にそれを黙って呑むように言葉を押し込むのでありました。
「愈々組合が発足となった時に正式な人事を決めれば良い事なんだから、当面は当該の決定を尊重する事にした方が何かと無難でしょうねえ」
 派江貫氏が横瀬氏に横から進言するのでありました。
「それもそうかな。組合結成公然化と春闘要求提出までもう間が無いから、ここで役職の件で時間を使うのも確かに勿体無いし、無意味な気もするかなあ」
 横瀬氏も同意のようでありました。恐らく横瀬氏も派江貫氏も山尾主任が抜けて組合結成そのものが空中分解しなかった事に、秘かに安堵しているのでありましょう。依ってここで変な横槍を入れるのは避けた方が賢明と云う判断でありましょうか。
「ではこの前までの会議で要求の大まかなところは決まったので、それを詰めていきましょうか。ええと、新たな全従業員に適応される賃金式を導入するんでしたよね」
 横瀬氏が議事進行を促すのでありました。
「そうですね。では早速」
 ここで袁満さんが口調を改めるのでありましたが、初の進行役と云う事で多少の緊張と気負いがあるせいか、何時ものくだけたもの云いではなく格式張った物腰であります。「ええと、書記の那間さん、新しい賃金式の案をここでもう一度浚ってください」
(続)
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あなたのとりこ 272 [あなたのとりこ 10 創作]

 その日は池袋で友達と会う約束になっているからと、夕美さんは夕方に頑治さんのアパートを出るのでありました。頑治さんは地下鉄丸ノ内線の本郷三丁目駅まで送っていくのでありましたが、改札を入ってホームに降りる階段に向かう夕美さんの背を見ながら、夕美さんがこっちを引き払う三月下旬まで、あと何回逢う事が出来るのだろうかと考えるのでありました。頑治さんは急に寂しさがこみ上げて来るのでありました。
 思えばそれ程迄に頑治さんが東京に残る事に拘る理由は、何処にも無いような気がするのであります。自分も夕美さんと一緒に故郷に戻る事が出来ない筈はないのであります。まあ、一つあるとすればそれはゴタゴタとしている会社の事でありましょうか。
 山尾主任が辞めてその後の展開も未だ不透明で、会社の形態がこれからまた大きな変更を迫られるのは必至であります。労働組合結成の事もこの先どうなるのか全く見当もつかない在り様でありますし。そんなタイミングの今、帰郷するからと自分もスタコラ会社を辞めるとなると、これはもう身勝手との誹りを免れ得ないでありましょう。
 駅から一人アパートに戻ってみると、炬燵の上に先程夕美さんがしきりに弄んでいたヘアピンが残されているのでありました。特段髪を留めるのに必要無かったから、その儘忘れて行ったのでありましょう。頑治さんはそれを取り上げると、暫く掌の上に載せて眺めるのでありました。それから大事そうに握り拳の中に仕舞うのでありました。

 山尾主任が辞表を出した後の最初の神保町の貸会議室での組合結成会議での議事は、新しい人事案の承認から始まるのでありました。これは当然の事でありますか。
 その前に山尾主任も同席して全総連の横瀬氏と派江貫氏、それに来見尾氏の三人に山尾主任自ら会社を辞めるに至った経緯を説明し、途中退場する無念を表し、無責任を重苦しい口調で詫びるのでありました。三人は先ず驚きを表明すると共にその後の山尾主任の口述を、山尾主任の重苦しい口調に同調したかのように苦虫を噛み潰したような表情で聞いているのでありました。山尾主任の個人的な切羽詰まった事情がその辞意の根っ子であるために、三人は口を挟まず只管黙して、視線の遣り場に困っている風でありましたか。
 挨拶を済ませた山尾主任が帰って後に袁満さんが最初に口を開くのでありました。
「と云う訳で、山尾主任が抜けた後の役員ですが、俺が新しく委員長に就任して、書記と会計、それに執行委員は元の儘と云う事に決めました」
「と云う事は、副委員長は居ないのかな?」
 袁満さんの言葉を受けて横瀬氏が袁満さんにだけにと云うよりも、社員五人総ての顔を順送りに見渡しながら訊ねるのでありました。
「そうですね。一応そう云う風に決めました」
 この袁満さんの言の後に均目さんが空かさず云い足すのでありました。
「少人数ですから、態々副委員長と云うポストは必要無いと思いますので」
「執行委員が二人いる訳だから、その内の一人を副委員長にして、役職を全員で分担する方が何となく落ち着きが良いのじゃないかな」
「いや、副委員長職を省く方が格式張らないであれこれと機能的になると思います」
(続)
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あなたのとりこ 271 [あなたのとりこ 10 創作]

「放浪して、行く先々でいろんな人に出会うと云う事か。それも悪くないかな」
 自分が云った不用意な一言で頑治さんが満更でもない気になった様子に、夕美さんは少したじろぐような表情をするのでありました。
「あ、だめよ、本当に放浪になんかに出ちゃ。ほんの冗談で云っただけなんだからね。頑ちゃんに放浪に出られたら、益々二人が一緒になるのが遅くなっちゃうんだから」
「まあ、俺もそれ程能天気なヤツと云う訳でもないよ」
 頑治さんはふと前に会社に居た刃葉さんの事を思い浮かべるのでありました。刃葉さんもある種の放浪者の一人なのかも知れません。
「それなら良いけど。頑ちゃんならやり兼ねないと思って心配になっちゃって」
 夕美さんは決まり悪そうに笑うのでありました。「でもまあ、良いわ。放浪に出て音信不通にならないで、あたしが時々東京に出てき時には必ず会えると云うのなら」
「それは保証する。俺も夕美に逢いたいし」
「でも頑ちゃん、・・・」
 夕美さんはまた頑治さんの顔を覗き込むのでありました。「色んな人達と知り合いになったり友達になったりして、頑ちゃんはその先に何をしたいのかしら?」
「別に友達になると云う訳じゃないよ。敵対する知り合いと云うのもあるし。ただ要するに色んな人間を実見してみたいんだよ」
「つまり観察者、ね」
「まあ、そっちの方が近いのかな。そう云うヤツは如何にも人が悪そうで、あんまりスカッと爽やかで格好良い存在、という感じじゃないだろうけど」
「で、結局、色んな人達を観察して、その後に頑ちゃんは何をしたいの?」
「いや別に、・・・後の事は何も考えていないよ」
「壮大な人間ドラマを書く、とか云う野望でも、ある訳?」
「いやあ、それはどんなもんかなあ。第一俺には物語なんかの構成力とか、大した文才なんと云うものはからっきし無いからねえ」
 頑治さんは情けなさそうな顔をして見せるのでありました。
「そうでもないんじゃないの。本とかあたしなんかより一杯読んでいるし」
「それとこれとは全く違うものか、或いは無関係な嗜好に属する話しじゃないかな。まあ精々ずうっと先に、歳を取ってから、世の中の色んな機微に生半可に通じている、落語の横丁のご隠居さん程度になれれば、それはそれで御の字と云う辺りだな。まあこれは一種の比喩で、別に将来、本気で落語のご隠居さんを目指している訳じゃないけど」
 ここで夕美さんは今の頑治さんの言葉に触発されて、頑治さんのご隠居さん姿を頭の中でふと想像したのか、クスッと吹くのでありました。
「頑ちゃんがこっちに居る事に拘る理由は、あたしには今一つ理解できないけど、でもその志望が一区切り付くまで、頑ちゃんの意向を尊重して黙って見守る事にするわ」
 夕美さんは意外にあっさりとそう云って笑うのでありました。勿論その笑いには諦めと寂しさの色合いも濃く含まれている事を、頑治さんは充分感知するのでありました。
(続)
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