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あなたのとりこ 337 [あなたのとりこ 12 創作]

 せっかく為を思って態々代わって小言を云ってやっているのに、その当人から軽く肩透かしを食らった、と云う図でありますか。土師尾営業部長としたらこれはどうにも立つ瀬が無いと云ったところでありましょう。まあ、片久那制作部長の方にすれば、つまらない自己の体面を必死に保とうとして、些末で余計な事を持ち出して敢えて口出しを試みるその土師尾営業部長の手口なんと云うものが、実に煩わしいだけでありましょうけれど。
 この遣り取りを見て社長も苦笑いを浮かべているのでありました。大体に於いて端から想像は付いていたのでありましたが、この経営三人のチームワークなんと云うものは、これはもう全く以ってしっくりいってはいないような気配であります。
 概観すると、社長は片久那制作部長を只管畏れつつ、土師尾営業部長の方は然程にその力量を買ってはいないようでありますか。片久那制作部長は社長にも土師尾営業部長にもその役職に値する程の信頼を端から置いてはいないようで、役職を離れた面に於いても、考え方や感受性や趣味も嗜好も、大きく括れば政治信条も思想性も何から何まで、異人種の如く共感するところなんぞは只管皆無であると見做しているでありましょう。
 土師尾営業部長の場合、片久那制作部長を畏れるのは社長同様でありますし、社長にはなかなかしっかり取り入る態度ではありながらも、こちらも片久那制作部長と同様に社長としての評価は大して高くはないでありましょう。それに第三者から見た妥当性は全く別にして、当人は社長を大いなる俗物と見做しているようであります。これは土師尾営業部長の僧籍に在る者としての評価に起因するようでありますが、当の土師尾営業部長本人の俗物根性にしても、これは到底出家者のものとは程遠い品の無さでありましょうかな。
 土師尾営業部長の片久那制作部長に対する評価は、これは社長の思いをその儘自分の思いとして踏襲しているだけでありましょうし、社長への評価に関しても、こちらは片久那制作部長の社長への評価を考えも無く真似しているだけなのでありましょう。何れにしても自ら考えた評価と云うよりは、夫々の影響、或いは真似の域でありましょうか。
 社長が話しを締め括るためにソファーから身を乗り出すのでありました。
「と云う訳で、片久那君と土師尾君の役員昇格を私の方から諸君に報告しておきます。まあ、この人事は殊更こういう形で諸君に告げる必要も無いとは思ったけれど、諸君とのこの先の良好な関係のために、態々直接に報告したと云う風に理解して貰いたいですな」
 と云われても、組合からは特に異を唱える筋合いも無いものだから、袁満さんを始めとする組合員は総じて不愉快そうな面持ちをしていながらも、無言の儘何の返答もしないのでありましたし、頷くと云った所作もないのでありました。

 この後、珍しく甲斐計子女史も一緒に、それに日比課長も含めて、従業員皆で夕食がてら一杯やりながらちょっと話しでもしようかと云う算段が纏まり、経営三人を除く全員で打ち揃って神保町駅近くの居酒屋に繰り出すのでありました。甲斐計子女史は、組合員になったのだから、この際こう云う付き合いも偶には熟さなければと云う律義さから付き合ってくれたのでありましょう。日比課長の方は組合への参加は社長への遠慮から躊躇いながらも、しかし立場としては組合に近い側に居ると云う了見からなのでありましょう。
(続)
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あなたのとりこ 336 [あなたのとりこ 12 創作]

 他の組合員にしても片久那制作部長にこう宣されると、夫々弱味の一つや二つは感じ持っていたものだから、たじろいで視線を外す他ないようであいました。
「ちょっと那間君」
 今迄すっかり出番の無かった土師尾営業部長が徐に口を開くのでありました。「前から感じていたけど、自分の上司に向かって、さん付けで呼ばわるのは不謹慎じゃないか」
 ここで嘴を差し挟んでくるこの人の了見なんと云うものは、今次の役員人事に於いては自分ももう一人の当事者であると云うのに、皆の質問やら視線やらが片久那制作部長だけに向いていて、こちらには全く及んで来ないのを甚く心外に思ったと云うところでありましょうか。本題から脇に逸れた遊閑地の辺りで自己主張を展開しようとするのはこの人の得意芸で、あんまり尊崇を得られないところのなまくら然とした常套手段でありました。こうして何時も鬱陶しがられていると云うのにちっとも懲りないようであります。
「ああそうですか、済みませんねえ」
 那間裕子女史はぞんざいな云い草で往なそうとするのでありました。
「他の人はちゃんと、片久那制作部長、と云う風に上司に対する礼儀を弁えた云い方をするのに、那間君だけはそう云う呼び方をしないのは、何か理由でもあるのか?」
「名前の後に役職名を付けるのが、上司への礼儀を弁えた呼び方になるのかしら?」
「そう云う事になるんじゃないのかな、普通は」
 改まって目を見据えられてそう訊かれるとはっきり自信がない、と云った面持ちで土師尾営業部長は眼鏡の奥の黒目を揺動させるのでありました。
「それは特に世間一般に広く認知された決まり事、とか云うのでもないし、当然我が社にそうしろと云う規定も無いし、役職名を付けない呼び方が失礼と思うのは、全くの土師尾さんの個人的感覚と云う事でしかないでしょう。第一その呼び方をあたしはこれ迄片久那さんに注意された事はないし、無礼に呼んでやろうと云う気持ちも元々ないし」
「別に呼び捨てしているわけじゃないんだから、無礼とは云えないよなあ」
 袁満さんが独り言の体裁で、那間裕子女史への援護の言葉をものすのでありました。
「そんな事じゃなくて、心掛けを問題にしているんじゃないか」
 土師尾営業部長は声を荒げるのでありました。女性に対して縷々小言を云うのは何となく荷が重かったようで、ここで好都合にも野郎がしゃしゃり出て来たものだから、土師尾営業部長は早速そちらに居丈高な視線を投げつけるのでありました。
「役職名で呼ぶ方が、心掛けが良いと云う風にも云えないでしょう。役職名より、ちゃんと名前を呼ぶ方が真心が籠っている、と云う解釈もあるでしょうから」
 何時もなら土師尾営業部長との口論を面倒臭がって逆らわない流儀の袁満さんが、どう云う心算からか珍しくここは引き下がらないのでありました。
「片久那制作部長もそんな那間君の態度を、内心非常に不快に思っているだろうし」
「別に不快になんか思っていないよ」
 ここで片久那制作部長自身が土師尾営業部長の言を、まるで机の上の消しゴムの滓を吹いて落すように、全くの無表情で鮸膠も無く退けるのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 335 [あなたのとりこ 12 創作]

 成程そう云う手があったのかと、組合員は一種の口惜しさに襲われるのでありました。そう云う魂胆であるならば、要求書の作成段階で両部長の賃金に思いを致して役職手当を基準内に入れる、なんと云う配慮なんかは必要も無かったと云う事であります。それより寧ろ住宅手当辺りを入れておけば皆に恩恵が行き渡ったと云うものであります。まあ、あくまで要求でありますから、それが実現したかどうかは不明でありますけれど。
 この両部長の役員昇格と云う人事に対して組合には発言権が無いのは当然であります。それは経営の判断に属する事柄でありますし、自分達の待遇に関わりもないのでありますから。ただ矢張り、両部長は巧妙な抜け道に巧妙に足を運んで、組合結成と云う騒動を利用して社員を出し抜いたんだなと云う思いは強く感じるのでありました。
 片久那制作部長迄も従業員には組合に理解のある辺りを見せておきながら、事が自分の待遇に及べば躊躇いなくそちらの抜け道に進んだのであります。或いはひょっとするとこの人事は社長の思い付きではなく、片久那制作部長の社長への要求だったのかも知れませんし、この人の目論見だったと云う可能性は、これは大いにあり得るでありましょう。
 若し組合にこの人事に不満を表する権利があったとしても、相手が社長と土師尾営業部長ではとんでもない紛糾春闘になっていたところを、回答を要求に沿った形で纏めてくれた恩義は片久那制作部長に多大に感じていた筈だから、組合として面と向かっていちゃもんは付け辛いと云う辺りもちゃんと計量済みなのでありましょう。まあこれはあくまでも組合側の云い分で、片久那制作部長の方には別の云い分もありはしましょうが。
 片久那制作部長の顔を見ると相変わらず口をへの字に曲げて腕組みをして、無愛想且つ不愉快そうにそっぽを向いているのでありました。この佇まいは、事が自分の思惑通りに運んでいる事への満足を隠そうとするための仮面と取れなくもないのでありました。
「片久那さんは当然、役員待遇になる事を納得しているんですよね」
 那間裕子女史がやや敵意の籠った目を向けるのでありました。
「そう云う話しが社長からあった時に、その方が社員の制作部長でいるよりも会社全体を統括し易いと考えて、まあ、暫く迷ったけど、その人事を受ける事にした」
 この云い草をその儘受け取れば、これはあくまで社長の方から切り出された人事案と云う事で、片久那制作部長の謀慮では無いと云う事になりますか。しかしこの手の腹芸は片久那制作部長であれば難なく熟すであろうとも頑治さんは思うのでありました。
「じゃあ、片久那さんは取締役になる事は不本意ではないんですね」
 これは質問と云うより念を押す調子の那間裕子女史の言葉でありました。
「売り上げが落ちているのは紛れもない事実だ。会社の在り方や各自の仕事の遣り方を思い切って徹底的に見直すのは喫緊の課題となる。取締役としてこれまで以上にその辺を強力にリードして行く心算だ。だから全社員の仕事振りにはこれまで以上に目を光らせる事になるだろう。そう云う意味でみんなにも覚悟をして置いて貰いたい」
 那間裕子女史はそう片久那制作部長から一直線に睨まれながら云われて、おどおどと視線を外すのでありました。遅刻常習犯と云う弱みと、何に付けても仕事が大体に於いて遅いと云う自覚があるためか、これは自分への恫喝だと居竦んだようでありました。
(続)
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あなたのとりこ 334 [あなたのとりこ 12 創作]

 他の組合員にしても、社長の奢りで一献受けたあの宴会の時に持った、案外穏和で社員の事を慮ってくれている人だと云う印象もきっぱりと裏切られたような具合で、愛想の一つもおべんちゃらの一言も表す配慮は喪失しているのでありました。社長の方は自業自得の結果だとは露とも思わず、折角奮発して大いに飲ませてやったと云うのに、恩義も礼儀も弁えない、しおらしさの欠片すら無い社員共だと云う風に思ったかも知れません。
 まあそれでも組合を憚っているような素振りは、社長の挙措から幾らかは見て取れるのでありました。しかしこれは組合を疎かにすれば片久那制作部長からお小言を頂戴する事になるのを憚っている、と云う畏れに違いないのでありました。別に組合等はどうでも良いけれど、片久那制作部長の機嫌を損ねるのが何にも況して恐ろしいと云う社長の忌憚でありますか。それでもこれに依って社長の横暴を結果として牽制出来ているのは、組合にとっては有難い事でありました。虎の威を借りている辺りは少し不甲斐無いとしても。

 新しい賃金体系になって初めての支給を控えた数日前、思わぬ人事が発表されるのでありました。前口上として、社長も出席しての社員会議を開くので終業三十分前に応接スペースに集合せよと、土師尾営業部長から昼一番に全社員に申し渡されるでありました。
 ここでまたうんざりするような社長の悪あがきがその口から飛び出すのではないかと、組合員一同は一応身構えるのでありました。社長は組合への意趣返しを何時か必ず実行してやろうと目論んでいるのだろうと、均目さんは舌打ちして見せるのでありました。
 この社員会議で社長から報告されたのは、土師尾営業部長と片久那制作部長はこの四月から従業員を一応退職して、役員になると云う事でありました。土師尾家業部長が常務取締役、片久那制作部長が取締役制作部長と云う肩書きのようであります。ここでも土師尾営業部長が片久那制作部長よりも名目では上の扱いとなるようでありました。
 これは片久那制作部長が土師尾営業部長に対して遠慮があるとか遜っているとか、或いは会社運営や管理能力が自分よりも優っていると思っている訳では断じてなく、実質の権限を握るために土師尾営業部長を名目的に上の地位に持ってきて、ある意味でその自由を制限して、その陰で自分が実権を振るうと云う目論見でありましょう。こう云う思惑は、これ迄と何も変わってはいない片久那制作部長の算段と云うところでありますか。
 多くの組織では大体に於いて、ナンバーワンよりナンバーツーの方が何かと遣り手で凄みがあって、大向うには畏れられる存在でありますか。一般的な組合における委員長と書記長の関係とかもそんな感じでありますかな。ま、贈答社の場合は袁満さんと那間裕子女史の関係も、少しはそんな風情もありそうに見えない事も無くはないのでありますが、しかし那間裕子女史には然程の権力志向も支配欲も無さそうではありますし、第一遅刻の常習犯と云う評判は、皆の畏怖を集めるにはなかなか迫力不足でありましょうかな。
 とまれ、土師尾営業部長と片久那制作部長の二人が役員になると云う事は、贈答社に於ける従業員の賃金体系の外に出る、と云う事になる訳であります。要するに、賃金体系に捉われないで、そう云うものとは全く別の役員報酬と云う枠にそそくさと移動して、自分達の取り分を自分達の納得出来る額で確保しようとする工面でありましょうか。
(続)
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あなたのとりこ 333 [あなたのとりこ 12 創作]

 甲斐計子女史の決断は片久那逢制作部長の勧めが大いに作用したのは云うまでもありませんし、甲斐計子女史としても片久那制作部長の言には一定の信頼を寄せているようであります。日比課長の方も直接の上司である土師尾営業部長よりは、片久那制作部長の方に信を置いているのは云うまでもない事でありましょうが、社長への遠慮の方がそれを上回って重大だと云う事でありますか。そうまで社長の存在を憚る日比課長の心根の程は、これは全く頑治さんには判らない辺りでありました。ひょっとしたら袁満さんがものすように社長に何か弱みを握られていると云う推察もあるかも、と云うところでありますか。
 それにしても社長や土師尾営業部長の姑息な悪巧みを、ほんの一発で易く粉砕出来る片久那制作部長の腕力と云うものは、これは今更ながら慎に以って侮り難いのであります。この人の会社に於ける存在感の大きさは、これはもう社長以下の誰よりも遥かに圧倒的なのでありました。そればかりではなく、この人を敵に回すととんでもない事になると云う恐怖を、作為も無く肌合いとして他者に感じさせてしまうのでありますし、その大いなる威厳なんと云うものは、一体全体この人の奈辺に根差しているのでありましょうか。
 大学時代は全共闘闘士だった、と云う経歴でありましょうか。それとも、何時も不愉快そうな面構えからでありましょうか。或いは体躯の大きさからでありましょうか。
 眼鏡の奥から放たれる眼光の強さでありましょうか。人に一を喋らせればその数歩先まで展開を見取って、先回り出来る頭の高速な回転速度でありましょうか。陰鬱気なその声でありましょうか。その声でものされる、人の云う事を絶対に聞きそうにない頑固一徹そうな喋り口でありましょうか。如何にも隙の無い、食えなさそうな骨柄からでありましょうか。或いはひょっとしたら、憎たらしい程の皮肉の鋭さからありましょうか。
 まあ兎も角、この片久那制作部長がすっかり社長の側に回らないでいてくれる辺りが、組合としては勿怪の幸いと云うところでありますか。かと云って万全の味方と云う訳にはいかないような辺りが穏やかならざる部分でもありますし、万全の味方になって組合に加入する等と云われるのも、これもなかなか御免蒙りたいところでもありますか。
 甲斐計子女史が組合に入ったので、組合の会計係は頑治さんから甲斐計子女史に移るのでありました。この移動は全く以って餅屋は餅屋の処置であります。依って頑治さんは出雲さんと同じ執行委員となるのでありましたが、これは格下げなのか格上げなのか良く判らないのでありました。ま、頑治さんは別にどちらでも良いのではありましたが。
 社長は偶に上の事務所に上がって来ると、何の蟠りも無い前同様の調子で甲斐計子女史にあれこれ仕事の話しや、あんまり感心出来ない下卑た冗談なんかを飛ばしたりして屈託なく笑っているのでありました。なかなかの狸でそうしているのか、それとも甲斐計子女史の平穏を惑乱させた事に対して本当に何の後ろめたさも無いのか、頑治さんにはその辺りは良く判らないのでありました。先天的に人の心を洞察する能力に欠けている、或いはその能力に重きを置かない傲慢さが濃い、と云う風にも考えられるのでありますが。
 甲斐計子女史の方はあれ以来、社長への不信感がいや増したのは尤もな事であります。それは言葉付きの無愛想や態度のすげなさで充分察せられるのでありました。如何にもあからさまな風ではないけれど、社長を疎む意は充分発散しているのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 332 [あなたのとりこ 12 創作]

「そうよ。社長や土師尾営業部長は何を仕出かすか判らない連中よ」
 那間裕子女史も日比課長に険しい視線を送るのでありました。
「いやまあ、そうかも知れないけど、でも組合に入るのはなあ、・・・」
 日比課長の逡巡はなかなかに頑固な模様であります。
「どうしてまた、そんなにも組合に入るのを躊躇うんですか?」
 頑治さんがその頑迷さに何やらの意味でもあるのかと思って訊くのでありました。
「社長や土師尾営業部長に幾ら忠義立てして見せても、何の得も無いよ。向こうは日比さんの忠義なんて屁とも思っていないんだから。その忠義立てなんかは如何にも無意味だと思うけどね、俺は。それともあの二人に何か弱みでも握られているの?」
 袁満さんが些か遠慮の無い云い草をするのでありました。
「別に弱みなんか握られていないよ」
 日比課長は眉を寄せて不愉快そうに呟くのでありました。「そんなんじゃなくて、俺が組合に入っても、何となく一人だけ浮きそうな気がするんだよ」
「一人だけ浮く、と云うのはどういう事ですかね?」
 頑治さんが首を傾げるのでありました。
「俺だけ皆と歳も離れているし、その分色んな事に対する考え方もズレがあるだろうし、上手くやっていける自信も無いしね。何よりも組合の活動なんて億劫だしねえ」
「組合活動に歳は特段関係無いんじゃないですかね。それよりも、身に迫っているかも知れない危機に対して、何も方策しないのは如何にも危ないんじゃないでしょうか」
「そうだよ、唐目君の云う通りだよ」
 袁満さんが頑治さんの言に乗せて云い募るのでありました。「甲斐さんに妙な手を回そうとした社長と土師尾営業部長が、トータルの人件費を抑えようとして、今度は同じような立場の日比さんにちょっかいを出してくるのは、判り切った事じゃないかね」
「いや、それは無いよ。それも俺が絶対させない」
 片久那制作部長が語調を強めて云うのでありました。「でも、従業員が一枚岩だと思われていた方が、存在感として強いし、交渉事に於いても一本になっている方が何かと好都合に作用するだろうから、甲斐君も日比さんも組合に入っておいた方が得策だな」
「そうだよ日比さん。片久那制作部長の云う通りだよ」
 袁満さんが嵩に懸かるのでありました。「組合に入ると、ここで決断してよ」
「いやまあ、それはそうだけど、でも矢張り、俺は当面、遠慮しておくよ」
 日比課長の煮え切らない及び腰は意味不明且つ、矢鱈に強硬なのでありました。
「あたしは入るわ、組合に」
 甲斐計子女史がここで発言するのでありました。「その方が安心みたいだし」
 現実に社長の横暴を蒙ろうとした瀬戸際でそれを回避出来た甲斐計子女史は、向後そんな事態はまっぴら御免と観念してか組合加入をここで容認するのでありました。
「こちらとしては、それは大歓迎だよ」
 袁満さんが諸手を上げて歓迎の意を表すのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 331 [あなたのとりこ 12 創作]

「日比さんはどうするの?」
 考えあぐねて甲斐計子女史は、自分と同じく非組合員である日比課長に向かって縋るような視線を向けるのでありました。
「俺かい?」
 日比課長は自分を指差して見せるのでありました。「俺は未だ今のところは、何となくだけど、組合に入るのは止しておこうかなって思っているよ」
「日比さん、未だそんな事云って尻込みしているの?」
 袁満さんが眉根を寄せるのでありました。「律義に社長に忠義立てしている訳?」
「別にそんなんじゃないよ」
 日比課長は袁満さんの云い草に不愉快そうな声音で返すのでありました。
 そこへ片久那制作部長が下の社長室から戻って来るのでありました。甲斐計子女史を取り囲んでいた一同は一斉にそちらの方に視線を向けるのでありました。

 片久那制作部長は一直線に甲斐計子女史の方に来るのでありました。場所を空けるために袁満さんと均目さんが脇に退くのでありました。
「甲斐君の賃金も問題無く新体系の下で支払われる。何も心配無いからな」
 片久那制作部長は先ずそう云って甲斐計子女史を安心させるのでありました。
「当然、馘首も無いんですよね?」
 袁満さんが訊くのでありました。
「当然だ。そんなルール違反は俺がさせない」
 片久那制作部長は社長室に乗り込んで、社長の理不尽を強力に正してきたのでありましょう。しかし向後も何事に依らず全幅の信頼を置けない社長と土師尾営業部長でありますから、道理の前に無理が幅を利かす事態もあるかも知れません。この言葉は、そう云う事は自分が絶対許さないと云う片久那制作部長の従業員に対する確約でありましょう。
 この片久那制作部長の頼もしい言葉を聞いて、甲斐計子女史はようやく愁眉を開くのでありました。日比課長は「やれやれ」と呟いて溜息を吐くのでありました。
 他の一同も安堵の顔になるのでありあました。こちらの方は、なかなか会話の噛み合いそうにない判らんちんの社長や土師尾営業部長を相手に、甲斐計子女史への無体を組合として糾弾するストレスが無くなってホッとしたと云う思いからでありましょうか。
「しかし一応念のため、甲斐君も組合に入っておいた方が何かと都合が良いな」
 片久那制作部長は甲斐計子女史の組合加入を勧めるのでありました。「その方が今後社長に変な云いがかりを付けられないで済む。それから、日比さんも同じくね」
「俺も組合に入るんですか?」
 日比課長はまた自分の鼻先を自分で指差して及び腰を見せるのでありました。「俺は、多分大丈夫なんじゃないですかねえ」
「大丈夫だと、そんな無邪気にどうして云い切れるの?」
 袁満さんが日比課長を睨むのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 330 [あなたのとりこ 11 創作]

「俺もその方が良いと思うっスね」
 この間漸く自席を立ってこちらに来ていた出雲さんも、別にこちらは那間裕子女史から何かサインを送られたのでもないのに、自ら賛意を表明するのでありました。
「別に社長なんかに遠慮する義理は何も無いけど、・・・」
 甲斐計子女史はそう云ってから少し思い煩うような表情をするのでありました。
「何となく組合と云うものに胡散臭さとか警戒心を抱いているのかな?」
 袁満さんが甲斐計子女史の心の内を察するのでありました。
「そう云う訳じゃないけど、今迄そんなものに縁遠かったから少し抵抗があるのよ」
「社長や両部長の横暴に対して、一人一人で個人的に文句を付けるのはしんどいから、従業員全員で当たろうと云う趣旨で組合を創ったんだよ。だからさっき唐目君が云った通り何かと心強いよ、今回みたいな問題が起こったりした時には」
「デモとかやるんでしょう?」
「まあ、場合に依っては、ね」
「あたし嫌いなのよね、そう云うのって」
「デモとか決起集会とか、そんなに頻繁にやる訳じゃないし」
「でも、最終的には共産主義運動なんでしょう?」
「そんな事はないですよ、全く」
 これは均目さんの言葉でありました。「どこの政党を支持しようと、どんな政治信条を持っていようとそんなのは個々人の自由ですよ。そこ迄組合は干渉しないし。ただ会社の中で弱い立場の者が団結して強い者の横暴に立ち向かおうと云うのが主旨ですよ」
 この均目さんの云い草を聞きながら頑治さんは、これは日頃の均目さんの組合に対する了見とちと違うんじゃないかなあと首を傾げるのでありました。
 均目さんは全総連の濃厚な政治性とか、後ろに付いているであろう政治政党に対して大いに批判的な事を常々云っていた筈であります。それをここではさて置いて、幾ら甲斐計子女史をオルグするためとは云え、こう迄も横瀬氏や派江貫氏のコピーみたいな言辞を弄して憚らないのは、些か不謹慎、或いは軽佻浮薄と云うものでありましょう。
「そうだよねえ、唐目君」
 頑治さんが自分に対して呆れたような笑いを送っているのを見咎めて、均目さんは頑治さんに向かってそんな同調を求めるようなもの云いをするのでありました。
「ま、建前としてはそうには違いないけどね、一応は」
 頑治さんは苦笑いながら皮肉っぽく返すのでありました。
「変な心配しなくても大丈夫よ。組合は会社の事だけをあれこれ対策するだけで、会社を離れた私生活には全くタッチしないものだから」
 那間裕子女史も甲斐計子女史の説得に掛かるのでありました。
「組合に入らないと、孤立して社長の云いなりになるしかないよ」
 袁満さんが半分脅しに走るのでありました。自分に向けられる諸々の説得や脅しや宥め賺しに、甲斐計子女史は悩まし気な表情で身を縮めているのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 329 [あなたのとりこ 11 創作]

 急場に於いては那間裕子女史の方が袁満さんより頼もしく見えるのでありました。より行動的だし、滅多に怖気付かず豪胆だし勇気もあるし、ひょっとしたら野間裕子女史の方が委員長として相応しいのかも知れません。いや、リーダーは一人先走るタイプよりは、多少呑気に構えている方が良いと云う意見もありましょう。どちらが良いのかは組織の性格にも依るでありましょうし、他の組合員との兼ね合いもあるでありましょうが。

 片久那制作部長を追うように出て行った袁満さんと那間裕子女史は、何故か程なく二人だけで事務所に戻って来るのでありました。
「二人で社長室に駆け付けたら、片久那制作部長から、取り敢えず社長と両部長の三人だけで話しをさせてくれって云われてね」
 袁満さんがあっさり戻って来た理由を説明するのでありました。
「なんだかお呼びでないって雰囲気だったわ」
 那間裕子女史も先程の勢いは何処にいったのか、何となく冷めた云い草でそんな事をものすのでありました。調子が狂ったと云う按配でありましょうか。
「それで云われる儘に帰って来たんだ」
 均目さんが少し呆れたように呟くのでありました。「しかし、従業員の賃金とか解雇に関する問題を提起された訳で、そうなら組合も当事者なんだから、袁満さんも那間さんも、あるいはどちらか一人でも、そこに立ち会うべきだったんじゃないのかな」
「後で片久那さんから組合の方に説明すると云う話しよ。それで納得出来ないようなら、改めて組合との団交の場を設けると云う片久那さんの意向みたいね」
 那間裕子女史が説明するのでありました。
「ここは先ず経営陣の会議、と云うのか、話し合い、だと云う位置付けみたいかな」
 袁満さんの弛緩した表情には立ち合いを免れた安堵が見て取れるのでありました。
「ふうん、そう云う事かねえ」
 均目さんは納得はしていない様子ながら、腕組みして一先ず首を縦に小さく一度動かすのでありました。「まあ、今更また向こうに戻っても如何にも間抜けな感じだけど」
 それから均目さんは甲斐計子女史の方を向いて語調を変えるのでありました。「こうなったら甲斐さん、今すぐ組合に入った方が良いよ」
「そうね。その方が良いわね。組合に入れば一人で対処するより遥かに心強いし」
 那間裕子女史も賛意を示すのでありました。「組合員じゃない事が、こんな理不尽な目論見の根拠らしいから、組合に入ればたちまちその根拠は消滅するわ」
 那間裕子女史はその後頑治さんの顔を窺うのでありました。頑治さんも賛同の言を発しろしろと云うサインがその目から頑治さんに向かって射られているのでありました。
「そうですね。こうなったら社長や両部長とのこれ迄の経緯もあるでしょうけど、組合に入った方が会社の中では何かと心強いですよね」
 頑治さんは那間裕子女史に促されたからと云うだけではなく、会社に長く居る先輩に対して不謹慎な云い草かも知れませんが、そう自分の意見を述べるのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 328 [あなたのとりこ 11 創作]

 出雲さんは自席から動かずにこちらに視線を投げているのでありました。何となく出遅れたようでありますし、自分迄もが事態の深刻さを内心面白がりながら、甲斐計子女史を取り囲んで必要以上に騒ぐのはどう云うものかと尻込みしたのでもありましょう。
「さっき云った事をもう少し正確に云ってくれるか」
 片久那制作部長は立った儘で甲斐計子女史を見下ろして、なるべく穏やかな口調で女史を徒に威迫しないように、しかしながら厳とした物腰で云うのでありました。厳とした云い草は勿論、甲斐計子女史ではなく社長に向けている事を滲ませながら、であります。
「あたしがやっている仕事に、この四月分から適用する事になったお給料は見合わないと云うのよ、あの社長は。でも組合員には約束だから払わなければならないけど、組合に入っていないあたしは、その適用外で構わないと云うの。だからあたしは賃上げは無しで、今貰っているお給料の儘で我慢しろって。それが嫌なら会社を辞めろってさ」
 甲斐計子女史は激した気持ちを何とか抑えてここ迄云うと、後は声を詰まらせて、悔しさに堪え切れなくなったようにハンカチで目頭を押さえるのでありました。
「ひでえな、それは」
 袁満さんが唇の端からそう漏らすのでありました。
「俺もこの後呼び出されて、同じ事を云われるのかな」
 日比課長が心配そうに片久那制作部長を見るのでありました。片久那制作部長はそんな日比課長に視線を向ける事無く唇を引き結んだ儘、迫力満点に目元を怒らせて事務所から急ぎ足に出て行くのでありました。社長室に談判に向かったのは明白であります。
「袁満さんも一緒に行った方がいいんじゃないですか?」
 均目さんが茫然として動かない袁満さんを促すのでありました。
「そうね。社長のルール違反の目論見は組合としても看過出来ないわね」
 那間裕子女史も均目さんに同調するのでありました。
「それはそうだけど、・・・」
 袁満さんが躊躇いを見せるのでありました。
「ほら、袁満君、あたしも一緒に行くから」
 気後れて袁満さんが動きを失くしているのに焦れて、那間裕子女史が袁満さんの腕を取って決然たる行動を促すのでありました。「全従業員の待遇に関して、組合が一元的に会社と交渉すると云う事は向こうも認めたんだから、組合も今すぐ社長室に行くべきよ」
「でも確かに甲斐さんは組合員じゃないし」
 袁満さんはなかなか決然たる意気込みを見せないのでありました。
「全従業員、というのは、組合員と非組合員に限らず、と云う事よ」
 那間裕子女史は焦れったそうに続けるのでありました。
「ああ、確かにそれはそうだよな。じゃあ、判りましたよ」
 袁満さんがやっと頷くのを見て、那間裕子女史はその腕を取って先導するようにそそくさと事務所を出るのでありました。余計事ながら、袁満さんの日頃の弱気と那間裕子女史の強気が見事に対照された一場面だなと頑治さんは秘かに思うのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 327 [あなたのとりこ 11 創作]

 土師尾営業部長は甲斐計子女史と一緒には帰って来ないのでありました。恐らく社長室に居残って社長と今後の事をあれこれ打ち合わせしているのでありましょう。
「どうしたんだい、甲斐さん?」
 日比課長が自席に座った甲斐計子女史の方を振り向いて気後れ気味に声を掛けるのでありましたが、甲斐計子女史からは何の返答も返ってこないのでありました。
「甲斐さん、社長室で何かあったの?」
 妙に重苦しい空気である事を心配して、袁満さんが席から立ち上がって甲斐計子女史の方に近寄りながら、やや深刻そうな声音で訊くのでありました。
「あたしは馘首なんだってさ!」
 甲斐計子女史が普通に返答をする間としてはやや不自然に長い間を空けて、嵩じた声で如何にも捨て鉢でありながら無理にあっさりを装って吐き捨てるのでありました。
「馘首、って、そのう、・・・」
 袁満さんは一瞬、甲斐計子女史が今発したその言葉が上手く呑み込めないと云う困惑顔をして、つんのめるようにその場に居竦むのでありました。それから暫しの後、深呼吸してから甲斐計子女史の傍まで進み寄るのでありました。日比課長もいきなり生じた異様な緊張感に気圧されながらも、甲斐計子女史の横に進むのでありました。
 制作部スペースにもマップケース越しこの甲斐計子女史の言葉が聞こえて、片久那制作部長を始め、そこにいた均目さんと那間裕子女史、それに頑治さんもほぼ同時に俯いていた顔を起こすのでありました。頑治さんが片久那制作部長の方を見ると、その視線に気付いて片久那制作部長も頑治さんの方にチラと顔を向けるのでありました。
「社長にそんな事を云われたの?」
 袁満さんがそう訊いているのでありましたが、制作部の四人もその袁満さんの質問と、その後に発せられる筈の甲斐計子女史の返答に耳を敧てるのでありました。
「今度から新しい賃金体系になるんだけど、その適用外を納得すれば今まで通り働いて貰うけど、そうじゃないなら辞めて貰いたいんだってさ」
 甲斐計子女史の声は大袈裟に云えば泣き声に近くなっているのでありました。
 そこ迄聞いてから片久那制作部長が椅子から立ち上がるのでありました。それから急ぎ甲斐計子女史の机の方に姿を消すのでありました。
 これは仕事どころではないと、均目さんが片久那制作部長の後を追うのでありました。那間裕子女史もすぐに均目さんの行動に倣うのでありました。頑治さんは、一緒になってそちらにガヤガヤと全員押しかけるのは、何だか必要以上に事を騒然とさせて仕舞うような気がしたのでありましたが、しかしここでのんびり座しているのは同僚に対する情義に欠けると思って、少し遅れて甲斐計子女史の机の方に向かうのでありました。
「ひどいなあ、それは」
 日比課長がそう云ったところに片久那制作部長が現れたので、日比課長と袁満さんは片久那制作部長に甲斐計子女史に一番近い位置を譲るために脇に退くのでありました。ここは一番、自分達よりも片久那制作部長の出番と見取った故でありましょう。
(続)
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あなたのとりこ 326 [あなたのとりこ 11 創作]

 まあ、こんな事を云うと派江貫氏辺りに不謹慎千万だと怒られそうでありますが、それでも頑治さんは何となく、労働組合側の演説の中に嫌に古典劇的に悠長でありながら、それでいてかなり好い気で、如何にも狡賢そうな底意をどうしても聞き取って仕舞うのでありました。それに定式化されて今となっては少々綻びも目立ち始めた、典型的な労働者と経営者との対立構図を未だに使用している辺りが手腕として白々しく、寧ろそう云うステレオタイプは窮状を訴える迫力に欠けるようにも思えて仕舞うのでありました。
 まあ要するに、春闘、と云う賃金を改定するに当たっての祭儀と云うのか、定例儀式なのでありましょうから、このお祭りを盛り上げるためにはこう云う決まり事は労使共に尊重すべきものなのかも知れません。勿論、深刻な雇用の危機にある人達とか、決まった賃金さえ長く受け取る事が出来ない人達とか、会社が倒産の危機にあって先の目途も立たない人達とか、本当に酷薄な境遇も一方にある事は理解した上での感想でありますが。

 社長は労働組合が出来たとしても、それでも社内の人間関係を妙な波風が立たないように、なるべく良好に保とうとする気があるのであろうとばかり組合員は推察していたのでありますが、その当の社長発信になる不穏な策謀が急に明らかになるのでありました。それは非組合員である甲斐計子女史に向けられたものでありました。
 贈答社の春闘が一応の妥結を見て、件の社長の奢りになる酒席が設けられた日か然程経っていない或る日の昼前でありましたか。何の用事に行ったのか判らないけれど外から戻って来た土師尾営業部長より、今社長が呼んでいるから、との伝達があって土師尾営業部長共々甲斐計子女史は特に疑念も無く二階の社長室に向かったのでありました。
 普段甲斐計子女史は会計仕事上の必要から社長に印鑑を貰いに行ったり、事務処理のための社長の指示や裁可を受けに社長室に赴く事は偶にあるのでありました。この時も後の甲斐計子女史の言に依れば、土師尾営業部長の同伴と云うのは何時もと違って少し胡散臭いところもあったけれど、億劫ながらも特に強い引っ掛かりも無く、社長から仕事上の何かの指示があるのだろうと考えて社長室に向かったと云う事のようでありました。
 勿論袁満さんも、この日は未だ外回りに出ないで偶々事務所に居た出雲さんも日比課長も、別に何ら異変らしき気配なんぞは感じなかったし、単なる何時も通りの甲斐計子女史の社長室詣でであろうと思ったようでありました。頑治さんにしても、この時は倉庫ではなく制作部スペースにある自分の机で在庫帳を記入していたのでありましたけれど、何やらの異変の匂いは営業部スペースからは何も漂ってはこないのでありました。
 これは後に判明した事でありますが片久那制作部長にしても、甲斐計子女史がこの時どうして社長室に呼ばれたのかは関知の外であったようでありました。つまり片久那制作部長は、この策謀に関しては何も加担してはいないと云う事のようでありました。
 ぼちぼち昼休み時間になるほんの少し前に、甲斐計子女史は社長室から戻って来るのでありました。先ず甲斐計子女史に依って、事務所のドアがやけに荒々しく引き開けられたのに袁満さんが驚くのでありました。そう云うのは何時もの甲斐計子女史には無い所行でありましたし、甲斐計子女史の顔は憤怒に依って赤味を帯びているのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 325 [あなたのとりこ 11 創作]

「確かに甲斐さんのキャラクターと労働組合には、全く接点が見付けられないように思うけど、それでも一応、全くけんもほろろの返事が返ってくるとしても、組合加入を誘ってみる必要はあるかな。今この席で日比課長に、まあ断られたけどオルグを掛けたんだから、甲斐さんにも声を掛けないと何だか釣り合いが取れないように思えるからなあ」
 均目さんが何だか変な均衡意識を持ち出して甲斐計子女史をオルグする理由とするのでありました。「甲斐さんのオルグは、委員長である袁満さんにお願いしますよ」
「え、俺が声を掛けるの?」
 袁満さんが持っていた徳利を机上に置いて自分を指差すのでありました。
「まあ、甲斐さんと一番親しく口を利けるのは袁満君だものね、この中では」
 那間裕子女史が均目さんの提案に賛同するのでありました。
「じゃあ、判りましたよ。俺の方から一応声は掛けてみますけどね」
 袁満さんはあんまり期待しないでくれと云うような気後れの返事を以って請け負うのでありました。存外あっさり請け負ったのは、日頃から偶に冗談なんかも交わしている甲斐計子女史にオルグを仕掛ける事を、そんなに苦にしていないためでありましょうかな。

   止まぬ激震

 三月末の春闘の妥結から新年度初めの四月一日迄の一週間程が、前年暮れの一時金の件から続いた社内のゴタゴタの中で、ほんの暫し訪れた麗らかな日和のような時間でありましたか。しかし全総連小規模単組連合加盟の他の分会に於いては、未だ期日ギリギリ迄の賃金闘争が続いている組合もあって、贈答社の五人は闘争中の単組の社前集会やら街区デモなんかに、内心の終息感を脇に置いて駆り出されたりするのでありました。
 それでも自分のところは既に、概ね満足出来る妥結に至っていると云う気楽さが気持ちの底にあるものだから、五人の風情にはどこか緊張感が欠けているのは仕方の無い事でありました。まあ、他社の事はあくまで他社の事でしかないのでありましたし。
 大体がそれ程に労働運動に熱心、と云う連中ではないのでありまして、この間何やかやと大いに世話になったと云う浮世の義理から、仕方なく全総連の動員に嫌な顔を隠して付き合っている、と云った無精な気分が五人の共通の本心でありましたか。ま、頑治さんにはこういうデモや集会が物珍しくて些か興味津々なところもありはしましたか。
 集会ではハンドマイクを使って自分達の切羽詰まった窮状や自社経営陣の悪辣非道振りが縷々、声高に叫ばれるのでありました。しかし結局その窮状も生きるに困る程の悲惨さは無いから、些か迫真力に欠けるような気が頑治さんはするのでありました。経営陣の悪辣非道振りも、もっと落ち着いてクールに観察すれば、そんなに口汚く罵る程の非道と云うものでは無いようにも思われるのでありました。詰まり悪辣なるべき経営者の紋切り型のイメージを想起させるための、大袈裟な誇張と演出と云う事なのでありますか。
 ハンドマイクを持つ人の演出力と演技力の勝負と云う事であります。要はプレゼンテーション能力とかの、云わばセールスのような腕前が必要のようでありますか。
(続)
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あなたのとりこ 324 [あなたのとりこ 11 創作]

 こういう場合では大概頑治さんが酌の手を伸ばすのでありましたが、うっかりして仕舞ったと頑治さんは反省するのでありました。だから那間裕子女史の猪口が空くと今度は空かさず両手で持った徳利を女史の方に差し向けるのでありました、
「甲斐さんは俺以上に、組合に入るのは抵抗があるんじゃないかな」
 日比課長がそう云って猪口を空けたので、頑治さんは那間裕子女史の猪口に差したその流れで、すぐに今度は日比課長の方に徳利を翳して見せるのでありました。
「どうして?」
 袁満さんが訊くのでありました。
「甲斐さんはそう云うのには今迄全く縁遠かったし、ストとかデモとかに対して生理的な嫌悪感と云うのか、アレルギーがあるみたいだしなあ」
「そう云えば鉄道とかバスのストライキがあった時なんか、如何にも迷惑そうに労働組合の事をすっかり悪者扱いして口汚く罵っていたっスからねえ」
 出雲さんがそんな事を云って笑いながら頷くのでありました。「俺なんかはストがあるとか聞くと、何とはなしにウキウキしたりする方ですから。公然と会社に遅れて行っても構わないし、ひょっとしたら欠勤してもお咎め無しっスからねえ」
「そのへんによく居る不良社員の考えだな、それは」
 袁満さんが咎めるような口振りで云うのでありました。「ま、気持ちは判るけどね」
「甲斐さんは、まあ確かに、組合に誘うのは妙な憚りを感じて仕舞うなあ。何となくあの人のキャラクターと組合と云うものが上手く結びつかない感じだし」
 均目さんが話しを甲斐計子女史の事に戻すのでありました。
「若い演歌歌手の追っかけをしているんだろう、甲斐さんは」
 日比課長が時々テレビの音楽番組やバラエティー番組に出て来る或る歌手の名前を出すのでありましたが、袁満さん以外は、その話しは初めて聞いた、と云うような顔をするのでありました。袁満さんは前に日比課長から聞いていたか、それとも甲斐計子女史本人から直接聞いたか、その件は疾うに知っていると云うような素振りでありました。
「ああ、どちらかと云うと若い女性よりは、主婦とか一定以上の年齢の女性に熱烈な人気のあるあの歌手ね。あたしなんか、何だかそう云う層に巧妙に阿ているのが、嫌に気持ち悪いと思って仕舞うけどね。ま、第一あたしは演歌なんか全く聴かないし」
 那間裕子女史がその歌手当人に対してか、それとも甲斐計子女史を含むその歌手を取り巻いて大騒ぎするファン連中に対してか、多少の軽侮を込めて云うのでありました。
「甲斐さんはジャスボーカルやっているから、アイツの歌は下らないと思うかな?」
 日比課長がそう云う事を云う那間裕子女史の、一種の高尚気取りを皮肉るような感じを、ほんの少し言葉の尻に交えて訊くのでありました。
「別にジャスボーカルは関係ないわ」
 那間裕子女史はそんな日比課長の云い草に不愉快を覚えたようで、そっぽを向きながらぞんざいに冷えた口調で返すのでありました。日比課長は那間裕子女史の不興を買った事に、そうと判っていながら云ったくせに、少しの狼狽を見せるのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 323 [あなたのとりこ 11 創作]

「でもこの先全国組織に加盟している労働組合員にはなかなか、妙な手出しをするのは控えるだろうけど、組合の後ろ盾が無い日比課長には、社長や両部長が過酷な労働条件を課してきたり、待遇面でも色々無体な事を云ってくるかも知れないですよ。それを防ぐ手だてが、腐れ縁、だけと云うのならそれは如何にも頼りない気がするけど」
 均目さんがそれとなく脅すのでありました。
「新年早々の社員全員での話し合いでも、日比さんはこれ迄やって来た特注営業の実績を簡単に無視されて、将来の、海の物とも山の物とも未だ全く判らない地方特注営業とやらに回されそうになったんだから、社長や両部長は日比さん程にその腐れ縁とやらを大事には思っていないよ、屹度。そんなものをのんびり頼りにしているよりも、ここはちゃんと組合に入った方が、会社に於ける日比さんの身のためだと俺も思うけどね。」
 袁満さんも調子を合わせるのでありました。
「まあ、そうかも知れないけどね」
 日比課長は猪口をグイと傾けるのでありました。「でも何となく俺は、考え方が根っからの保守で、労働組合に入ると云うのは何となく抵抗があるし、・・・」
「労働組合は左翼的で、どうにも好きになれない、と云う事?」
 均目さんが首を傾げて日比課長の顔を覗き込むのでありました。
「ストライキとか座り込みとか街頭デモとか、そんなイメージか強いのかな?」
 袁満さんも日比課長の顔に視線を向けるのでありました。
「まあ、そうかな。俺はそんなの好きじゃないしね」
「俺だって好きじゃないですよ」
 均目さんが徳利の酒をテーブルの上の日比課長の猪口に注ぐのでありました。「でも、全総連は組合員個人の政治的な考え方や心情にはタッチしないのが原則ですよ。支持政党も自由だし。会社での労働環境と待遇の改善が組合活動の第一番目の目的だし」
 そんな事を云う均目さんその人が、実はこの組合員五人の中で一番、全総連の強い政治性に対して身を斜にしているのではなかったかしらと、頑治さんは日比さんへの均目さんの説得の言葉聞きながら思うのでありました。これはちょっと調子が良すぎると云うものだし、大いに無責任な云い草と云うべきでありましょう。
「まあそうかも知れないけど、・・・」」
 日比課長はそれでもなかなか頑ななのでありました。「俺は今の段階では組合に入るのは遠慮しておくよ。この先何か妙な事があったら考えても良いけどね」
 日比課長は先程均目さんが日本酒をなみなみと注いだ猪口を取り上げて、一定程度の高さで止めて、零さないように口で迎えに行くのでありました。

「今の話しの流れから云うけど、甲斐さんはどうするのかしらね?」
 那間裕子女史が袁満さんも均目さんも出雲さんも、それに頑治さんも気が利かないものだから手酌で酒を自分の猪口に注ぎ入れながら、社内に居るもう一人の非組合員である甲斐計子女史の名前をここで出すのでありました。
(続)
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