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あなたのとりこ 180 [あなたのとりこ 6 創作]

「闘争、と云う言葉は別に左翼の専売特許と云う訳でも無いよ」
 頑治さんが唐突に云い出すのでありました。「ヒトラーの『我が闘争』と云う著作もあるんだし。ヒトラーは確か左翼じゃなかったと思うけど。いやまあ、俺は高校生の時にはあんまり世界史の勉強が好きじゃなかったから記憶違いかも知れないけどさ」
 その頑治さんのほんの少し冗談を交えたような云い草を聞いて、横瀬氏と隣の派江貫氏が頬の緊張を緩めるのでありました。頑治さんは均目さんにもムキになって反論されないように、言葉にとろみを付けようとしてそう云う口調で云ったのでありました。
「ここは一つ、言葉に拘るよりも会議を前に進めようよ」
 議長役の山尾主任が提案するのでありました。
「俺も別に会議の進行を邪魔しようと思っている訳ではないですよ。使われる言葉はその組織の性格に関わるから大事な問題だと思うけど、しかしまあ、ここは時間が勿体無いから話しを前に進めましょう。ええと、活動方針の採択ですよね?」
 均目さんは、使われる言葉はその組織の云々、とか云う何とも潔くない、自説のような申し訳のような事を口にしながら取り敢えず話しの本筋に復すのでありました。
「じゃあ、闘争方針だけど、・・・」
 山尾主任は結局均目さんの意は酌まずに、闘争方針と、あっさり云って会議を先に進めようとするのでありました。「この暮れの一時金の件に象徴されるように、贈答社の労使関係は経営側に労働者が全く一方的に従属すると云う形態で、我々は仕事に於いても待遇に於いても、発言権も異議を申し立てる権利も剥奪された状態で放置されてきました」
 山尾主任は俯いて机上の紙を見ながら云う、と云うのか、読むのでありました。これも予め横瀬氏と摺り合わせた文言なのでありましょう。
 頑治さんはボーナス支給の経緯を考えると、現に社員は異議を申し立てようとしていたし、その結果として労働組合と云う選択をしたのでありますから、異議を申し立てる権利そのものはあるのか無いのか、その前提自体はあやふやではなののではないのかと思うのでありました。例え申し立てた異議が撥ねつけられる結果だったとしても。寧ろ後日の労働組合結成と云う目的のために異議申し立てを控えたのは従業員の側でありますし。
 均目さんもその辺の山尾主任の述べる前提が少し気になったようでありましたが、先程派江貫氏に怒られた事が意外に身に染みている所為か、特に異論を差し挟む真似は控えているのでありました。これは均目さんの気後れ故か億劫故かは確とは判りませんが。
「労使の在り方としてそれは不健全であり、延いては会社の将来的発展をも阻害する要因でもある事から、働く者の正統な権利獲得と経営側に対する発言権確立は急務であると判断されます。一方に、単なる企業内組合としてでは健全な労使関係構築のために行使出来る闘争力も限界があるので、全総連の適切な指導の下に、一企業だけに止まらない全国規模全産業の労働者の連帯に加わって、その後ろ盾を武器に働く者の権利拡大のために闘争を展開していくものである、と云うところが贈答社労働組合の闘争方針ですが、・・・」
 山尾主任は一気にそこ迄云って、と云うか、詠み上げて、社員全員の顔をゆっくりと見渡すのでありました。「この闘争方針に異議がありますか?」
(続)
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あなたのとりこ 179 [あなたのとりこ 6 創作]

「しかしそう云ってもここは話しを進めるために、・・・」
 山尾主任は口籠もって困じたように横瀬氏の方を見るのでありました。
「まあ、形式、と云うだけです」
 横瀬氏が助け舟を出すのでありました。「初回の会議の手続きみたいなものです」
「形式的手続きなら、省いても構わないのじゃありませんか?」
「いやいや、幾ら形式的手続きだと云っても、手続きは手続きですから、人が集まって創る組織である以上省けません。そう云ったものをきちんと踏む事は必要です」
「阿吽の呼吸、と云うものがあるじゃないですか。だから省略出来るものは省略して本題を早く話し合う方が、会議を進行する上で効率も良いでしょうに。何十人とか何百人の会議と云うならまだしも、高々当事者五人の会議ですしねえ」
「抑々、会議は阿吽の呼吸で進めるものではありません。それに曖昧なところも有ってはいけません。全員が全員、貴方のように血の巡りの早い気の働く人じゃありませんから、堅実に、低い段差の階梯を一歩一歩、誰が遅れる事も無く進める方が良いのです」
 横瀬氏は少しの揶揄を添えて均目さんを窘めるのでありました。
「ああそうですか。まどろっこしいですね」
 均目さんは鼻を鳴らすのでありました。
「本筋じゃないところに拘って、進行を遮る方が余計話しをまどろっこしくさせているんじゃないのかい。自分の才気走った辺りを見せたいのかも知れないけど」
 これは横瀬氏ではなく、派江貫氏が割り込むように発した言葉でありましたが、派江貫氏の眼鏡の奥の目が均目さんを敵意に満ちた光で捉えているのでありました。「何となく見ていると、さっきから身を斜に構えたようにしてこの会議に臨んでいるけど、この会議そのものに云いたい事があるのなら、議事が始まる前に云って置くべきだろう」
 激した風ではないけれど、逆にそれ故になかなか迫力のある云い草と云えるでありましょうか。如何にもこのような会議で論争慣れしていると云った風情でありますか。
「まあまあ、派江貫さん」
 横瀬氏が派江貫氏の口調をやんわり抑えるのでありなした。

 横瀬氏は均目さんの方に目を戻すのでありました。
「闘争、と云う言葉が気に入らないのですかな?」
「枝葉ですが、それも、まあ、あります。如何にも大袈裟で、左翼っぽくて」
 均目さんは先程派江貫氏に咎められたのが少し利いているらしく、派江貫氏を見ないで横瀬氏の顔のみに目を釘付けるようにして頷くのでありました。
「では、活動、と云えばそんなに引っかからないで済みますか?」
「その方が左翼っぽくはないかな、ほんの少しは」
「どっちだって同じだよ」
 派江貫氏が舌打ちの後にドスの利いた声で割り込むのでありました。
「まあまあ派江貫さん、そんなにカリカリしないで」
(続)
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あなたのとりこ 178 [あなたのとりこ 6 創作]

 会議と云うものはとかくこのような形式張った体裁を取るのでありましょうが、考えて見れば奇妙で一種ちゃんちゃら可笑しい律義さに溢れているものなのでありましょう。しかし形式と云うものを無性に有難がる人種も居るようで、山尾主任はどうやらそう云ったタイプの人なのかも知れないと、目の前で現在進行している営為とはさして関係の無い事を頑治さんは考えているのでありました。まあそれは人夫々の勝手でありますが。
 山尾主任は自分の後に那間裕子女史も同じように自己紹介するものと思ったようであありますが、女史は阿保臭いと思ったのかそれとも単に億劫だったのか、机の上に広げたメモ帳に目を落とした儘何も云おうとしないのでありました。然程に長時間ではなくほんの数秒程度ではありますが、待っていても一向に女史が顔を上げそうにないものだから、山尾主任は少し調子が狂ったのを咳払いで修正して話しを続けるのでありました。
「この会議では先ず、全総連小規模単組連合加盟の贈答社分会として労働組合分を結成する事に賛成か反対かの採択から始めようと思いますが、異議は有りませんか?」
 この舌を噛みそうな、全総連小規模単組連合加盟云々、と云う呼称を山尾主任はきっちり覚えてはいないようで、机に置いているカンニングペーパーを見ながら云って、異議は有りませんか、のところで徐に顔を起こすのでありました。
「そのために集まったんだから、今更そんな事、必要?」
 那間裕子女史が多少うんざりしたような表情で山尾主任を見るのでありました。
「会議なんだから面倒でも一つ々々の議案を、順を追って採択していく必要があるだろう。後でそんな事決めていないなんて紛糾するのを避けるためにも」
「ああそう」
 那間裕子女史は無感動に云ってメモ帳の方に目線を落とすのでありました。女史も頑治さん同様、この手の形式にげんなりしているようであります。
「異議はありませんか?」
 山尾主任はもう一度繰り返すのでありました。
「異議は無いわよ」
 那間裕子女史が先ず云うのでありました。それに続いて夫々が、異議無しの声を戸惑い気味に上げるのでありました。最後に頑治さんが小声で締め括るのでありました。
「異議無し、と認めます。では次に組合の目的と今後の闘争方針の裁決に移ります」
 山尾主任はまた机上のカンニングペーパーに目を落とすのでありました。どうやらこの議事進行は予め横瀬氏と打ち合わせしていたようで、日頃の山尾主任の口からは到底聞けないような俄仕込みの会議用語や組合用語が跳び出すのでありました。
「闘争方針、ねえ」
 均目さんが興醒め顔で山尾主任の言葉を繰り返すのでありました。「そんなの我々の中で今迄話し合った事も無いのに、ここで急に採択とか出来るのですかねえ」
 均目さんは山尾主任を見据えるのでありました。多分、打ち合わせしたようにポンポンと用語を繰り出して会議をリードしようとする山尾主任の、と云うよりは横瀬氏の魂胆を警戒して、それにおいそれとは乗らないために茶々を入れたようでありました。
(続)
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あなたのとりこ 177 [あなたのとりこ 6 創作]

「さて、今云いましたようにこちらの組合は小規模単組連合の贈答社分会として活動していただく事になりますが、分会の第一回会議を始めるに当たり先ず議長と書記を選出して貰いたい訳ですが、何方か自分がやると云う立候補はありますか?」
 横瀬氏が左右に居並ぶ社員連中を見渡すのでありました。「特に立候補が無いようですから、ここは僭越かもしれませんが私の方から提案させていただきますが、山尾さんに議長を、那間さんに書記をお願いしたいと考えますが、如何でしょうか?」
 社員連中は無言で顔を見合わせるのでありました。雑談が俄かに会議の様相を帯び始めるのでありました。いきなりのそんな空気の変化にたじろいで、今の提案に賛成も反対もすぐには表明出来ないと云う戸惑いが皆の顔に浮き出るのでありましたか。
「まあ、年季とか歳の上下から、妥当かな」
 袁満さんが遠慮がちにそう呟くのでありました。
「そんな、急に書記をやれって云われても、・・・」
 那間裕子女史が及び腰を見せるのでありましたが、山尾主任は落ち着いているのでありました。屹度この会議が始まる前に横瀬氏から段取りを聞かされていて、既に自分が議長に就く事を承知していたのであろうと頑治さんは推察するのでありました。
「まあ、この会議の議事録の作成のためですから、仕事としては適時メモを取っていただければそれで良いのですよ。後で清書して貰う事にはなりますが」
「別に大それた事をお願いされている訳でもないから、気楽に引き受けてよ」
 山尾主任が無表情の嫌に平静な物腰で促すのでありました。そんな初段の手続き事を決める辺りで時間を浪費するのは無意味だから、さっさと首を縦に振れと云う一種の圧力と云うのか、逸り、みたいなものがその平静さの中に仄見えるのでありました。
「判ったわ。じゃああたしがこの会議の書記をやるわ」
 那間裕子女史は不承々々ながらも頷いて、膝上に置いていた白い麻布製のバッグから文庫本サイズのノートと銀色のシャープペンシルを取り出すのでありました。
「じゃあ、山尾さんが議長、那間さんが書記と云う事で決まりですね?」
 横瀬氏が確認のためにまた皆を見渡すのでありました。
「異議無し」
 と、これは派江貫氏が発した言葉でありました。組合の会議に於いては、こう云う場合は空かさずそう発語する事が仕来たりなのでありましょうし、それを会議初体験の贈答社の社員連中に暗黙に教えるためにも派江貫氏は声を出したのでありましょう。しかし初心な社員連中にしたら、それに続いて発声する事を尻込みして、戸惑い顔と落ち着かない素振りを見せるだけで口を開く事はとうとう出来ないでいるのでありました。
「特に反対意見は無いようですから、これは承認されたものと見做します」
 横瀬氏が断じるのでありました。「では山尾さん、後はよろしくお願いします」
「判りました。ええと、一応全会一致で今議長に選ばれた山尾登です」
 山尾主任は口調を改めて横瀬氏のように社員連中を見渡すのでありました。貴方が山尾登と云う名前の人である事は疾うに知っている、と頑治さんは思うのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 176 [あなたのとりこ 6 創作]

 山尾主任と袁満さんは既に来ているのでありました。それに先日喫茶店で逢った横瀬氏と、その折横瀬氏が一緒に連れて来ると云っていた組合関係の男が二人、横瀬氏を挟むようにして大きな会議用テーブルの奥の一辺に並んで座っているのでありました。山尾主任と袁満さんが窓を左手に見る辺に座っていたので、遅く到着した三人はその向かいの窓を右に見る席に、那間裕子女史を真ん中に挟んで着席するのでありました
「惨憺たる支給額だったね」
 山尾主任が向かいの三人にがっかりしたような笑いを浮かべて云うのでありました。
「そうね。せめて賃金の一か月分くらいは出ると楽観していたけどね」
 那間裕子氏が受けて、頷きながらこちらも落胆の語調で応えるのでありました。
「まあゼロじゃなかったけどね」
 袁満さんもそう云いながら表情は冴えないのでありました。
「こうなったら春闘で暮れのボーナス分も取り返すしかない」
 山尾主任が決意表明するのでありましたが、そうは上手く事が運ぶかしらと頑治さんは不安を感じるのでありました。この暮れに金が無いのなら余程の事が無い限り年が明けて三か月で急に金回りが良くなるとは考えられないのでありました。
「さて、初お目見えの二人を紹介しておきます」
 横瀬氏がこの日の本題に入ろうとするのでありました。「こちらは出版部会の教育地図出版労組の派江貫統仁さんです」
 横瀬氏は自分の右手に座る仁を、掌を上にした手で指し示すのでありました。
「どうも。全総連傘下出版部会に属する教育地図出版の派江貫です」
 小柄で丸顔の茶色の大柄な千鳥格子模様のジャケットに身を包んだ、やけにレンズの分厚い黒縁眼鏡を掛けた、ぼちぼち頭髪の後退が目立ち始めた、横瀬氏より年嵩と思われる風貌の男が頭を下げた後、頑治さん達全員に律義に名刺を配るのでありました。
「それからこちらは小規模単組連合の木見尾太助さんです」
 横瀬氏は左隣りの仁を手で指し示すのでありました。
「小規模単組連合の木見尾です」
 こちらは痩せた中背の、無地の紺色ジャケット姿で、目鼻立ちがやけに地味で気の弱そうな、縮れた強い頭髪を頭の上にこんもり載せた、矢張り黒縁眼鏡を掛けている男でありましたが、こちらは特に名刺を配る事はしないのでありました。
「贈答社はギフト業と云う事ですけど出版みたいな事もやっているし、前身が地名総覧を出版していたと云う事なので出版部会から派江貫さんと、それから従業員二十人未満の小規模の会社の組合員が集まって、一つの単組として連合して活動をする組織が小規模単組連合で、一応そこに属して貰う事になるから木見尾さんにも来て貰ったのです」
 横瀬氏が二人を連れて来た理由を説明するのでありました。「序に付け加えておくと、派江貫さんは全総連の書記局員でもあります」
 そう云われて名刺に目を落とすと、確かに全総連書記局員と云う肩書きも記してあるのでありました。それ故に派江貫氏は組合支給の名刺を持っているのでありましょう。
(続)
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あなたのとりこ 175 [あなたのとりこ 6 創作]

 那間裕子女史が片久那制作部長の居る前で冗談めかして、山尾主任に向かって結婚を間近に控えてこれでは式の資金の足しにもならないだろう、等と勿論ボーナスを支給する側の片久那制作部長に当て付けるためにものしたところ、片久那制作部長はその言葉を聞きとがめて、出せるものなら俺だってもっと出したいよと、如何にも不愉快そうに横から口を挟んだと云う事でありました。これは後に均目さんから聞いた話しであります。
 片久那制作部長も、暮れのボーナスが満足に出せなかった事に後ろめたさがあったのでありましょう。社員に対して顔向け出来ないような気持ちから、那間裕子女史の揶揄に敏感に反応したと云うところでありますか。依ってその義侠的な引け目が、苛々した言葉付きとなって表れたのだろうと頑治さんは憶測するのでありましたが、均目さんは首を横に振りながら皮肉な笑いを浮かべて頑治さんの解釈を否定するのでありました。
「それは、多少はそんな気持ちもあったかもしれないけど、要するに自分の貰い分も少ないと云う事が、あの不機嫌の第一番目の理由だろうな」
「ふうん、そうかね」
「この会社の何から何まで実質的に動かしているのは自分だと云う自負もあるから、事もあろうにその俺様に対して社長は一体何を考えているんだ、と云った、公憤と云うよりは非常に個人的な憤怒が腹の底に蟠っていたものだから、折良く、と云うか悪く、那間さんが気に障る事を口走ったので、それに乗っかって不快をぶちまけたんだろうよ」
「ふうん。そうなのかねえ」
 頑治さんはそう無表情で受けて、それ以上は話しを深くしないのでありました。序に云えばこの時に先の、入社一年未満の社員にはボーナスは出さない決まりだと土師尾営業部長から聞いた事が嘘だと、はっきり均目さんから聞き出したのでありました。それに頑治さんに二万円の慰労金が出たのは片久那制作部長の意からである事も。
「その土師尾営業部長の恩着せがましさも、自分の不満を解消するためのものだろう」
「不満を解消するために恩着せがましい物腰になるものかね」
「まあ、直ではないけど、紆余曲折の思いの結果的な発露として、恩着せがましい事の一つも云って置きたくなったんだろう。そう云うところはあの人の天性でもあるけど」
「ふうん、そうなのかねえ」
 頑治さんは先程と同じ口調で同じ事を繰り返して、これもそれ以上話しを進めないのでありました。まあ、頑治さんとしては二万円とは云え給料以外の支給があった事に、不満ではなく喜びを多く実は秘かに感じていたのでありましたから、均目さんとの会話を態々刺々しく愉快ならざる方向に進める謂れは全く無かったのでありますから。

   労働組合

 神保町二丁目の白山通りから一筋外れた細い道の、二階建てや三階建ての小さな建物が立て込んだ街区にある雑居ビルの三階にその貸し会議室はあるのでありました。頑治さんは均目さんと那間裕子女史の二人と連れ立ってそこへ向かうのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 174 [あなたのとりこ 6 創作]

「判りました。それでは今後共よろしくお願いします」
 山尾主任が横に座る横瀬氏の顔を見ながらお辞儀するのでありました。それを見て他の四人も銘々に頭を下げるのでありました。
「こちらこそよろしくお願いします。伴に頑張りましょう」
 横瀬氏も丁寧に五人の顔を夫々見ながら五回浅いお辞儀を繰り返すのでありました。

 一日置いた木曜日、結局ボーナスは形式通りには出ず、慰労金と云う名目で、日比課長に十万円、山尾主任に七万円、頑治さんを除いたその他の社員には五万円の支給があるのでありました。新参の頑治さんには二万円と云う額が渡されるのでありました。
 退社時間間際に下の倉庫から上の事務所に戻った頑治さんは、土師尾営業部長から角形八号の白封筒を差し出されるのでありました。
「本来は入社一年未満の新入社員にはボーナスは出ない決まりなんだけど、今期は格別の計らいと云う事で少ないけど唐目君にも慰労金を出す事にしたよ」
 土師尾営業部長はそう前置きして白封筒を頑治さんに手渡すのでありました。「新人にしては前の刃葉君なんかよりも良く働いてくれているし、それに報いるためにも特別に配慮したんだ。そこのところを心に留めて、これからもよろしく頼みます」
「有難うございます」
 頑治さんは頭を下げて白封筒を押し戴くのでありましたが、土師尾営業部長のその恩着せがましい前置きに少々げんなりするのでありました。それに均目さんから聞いたところに依ると入社一年未満の新入社員にボーナスが出ない事はなく、均目さんも那間裕子女史も袁満さんも、それに出雲さんも込み入った日割り計算で少額ながら入社一年未満でもボーナスは貰ったと云う事でありました。頑治さんがその辺の事情に無知だと思ってそんな事を云っているのでありましょうが、明らかに虚言と云う事になる訳であります。
 これは、そのような無用な嘘まで弄して、恩着せの嵩増しをしようとする浅ましい魂胆からでありますか。こんなところが、この人が社員から心服されない要因の一つでありましょう。自分の言葉や行為のより大きな効果を狙ってしているのでありましょうが、意に反して逆に軽侮を頂戴する羽目になると云う、実に間抜けな遣り口であります。
 それに後で知ったところに依るとこの、格別の計らい、なるものも土師尾営業部長の計らいと云うのではなくて、片久那制作部長の配慮と云う事のようでありました。元々社長や土師尾営業部長は頑治さんの慰労金に関しては一顧も無かったようでありますが、それでは頑治さんの勤労意欲が下がると片久那制作部長が反論して、それで結局支給する事になった模様でありました。これは均目さんが教えてくれたのでありました。
 云ってみれば出す心算も無かった慰労金を特別に出してやるのだから有難く頂戴しろ、と云う一方的な思いが、あの嘘も動員して恩着せがましさを増幅させようとした云い草になったのでありましょう。何ともちんけな話しでありますが、まあ、それはそれとして、予て申し合わせていた通り社員の誰もが特別のリアクションを示さないのでありました。至って静穏にこのボーナス代わりの慰労金支給は執り行われたのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 173 [あなたのとりこ 6 創作]

「じゃあ、木曜日の午後六時から、と云う事で決めて大丈夫かな?」
 山尾主任がまたもや夫々の顔を見渡すのでありました。皆も再度頷いて見せるのでありました。特段の異議無しというところでありますか。
「那間さんは残業しないで良いの?」
 均目さんが念のために訊くのでありました。
「大丈夫よ。仕事は遅れているけど未だ尻は先だから、どうしてもその日に残業しなければならないと云う謂れはないわ。ご心配の段は深く感謝しますけどね」
 那間裕子女史のその返事は、均目さんの心配を揶揄と取ったためでありましょう。
「出雲君は欠席になるなあ」
 袁満さんが出雲さんの事を気に懸けるのでありました。
「出雲君には、出張から帰って来てから俺の方でしっかり話すよ」
 山尾主任が請け合うのでありました。
「それに日比さんと甲斐さんには組合結成の件は内緒にして置くんですかね?」
「まあ、今の段階ではちょっと外れて貰うかな。土師尾営業部長にこの俺達の計画が漏れるのは拙いからなあ。日比さんは迂闊なところがあるからから、何かの拍子に両部長に、本人はその心算が無くてもうっかり漏らして仕舞う心配があるし、甲斐さんは向こう側の人とは思えないけど、かと云ってこちら側の人と云う感じでもないからね」
 山尾主任がまたもや皆を見渡すと、袁満さんも均目さんも那間裕子女史も、それは尤もだと云う顔付きをするのでありました。頑治さんはその辺りの人間関係の機微やら二人のパーソナリティーやらが未だ良く呑み込めていないので、無表情なのでありました。
「ええとそれから、最初の会議を開くに当たっては、喫茶店とか居酒屋とかではなく、ちゃんとした会議の体裁が取れる場所の方が良いですよ」
 横瀬氏がアドバイスするのでありました。
「じゃあ、何処か会社近くの貸会議室を借りる事にします」
「そうですね。多少お金が掛かってもその方が無難でしょうね」
 横瀬氏はその山尾主任の応えに満足そうに頷くのでありました。
「横瀬さんも出席していただけるんですか?」
 那間裕子女史が訊ねるのでありました。
「勿論です。それに組合結成までを支援するスタッフとか、皆さんの会社と似たような業態や規模の既成の組合の人を一緒に連れて来るかも知れません」
「それは何人くらいになりますか?」
 山尾主任は貸事務所の手配の関係からかそんな事を訊くのでありました。
「まあ、私も入れて三人、と云うところですかね」
「判りました。じゃあ俺達が五人で、加えて全部で八人と云う人数ですね」
「そうですね。ひょっとしたらもう一人くらい増えるかも知れませんが」
「それから、その日迄にこちらで用意する事はありますか?」
「まあ、特にはありません。具体的な作業はその会議の後と云う事になりますから」
(続)
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あなたのとりこ 172 [あなたのとりこ 6 創作]

「さて、どうだろう、全総連加盟の労働組合結成、と云う事に決定して良いかな」
 山尾主任が話しを進めようとするのでありました。
「それしか手は無いかな、社長や土師尾営業部長を慌てさせるには」
 袁満さんが頷くのでありました。
「そうね。個々や、何もバックが無い状態で騒いでいても無力だもんね」
 那間裕子女史も二回頷くのでありました。
「均目君は?」
 山尾主任は均目さんを見るのでありました。
「流れとしてはそのような形勢ですから、俺も敢えて反対はしませんよ」
「唐目君はどう?」
「さっきも云ったように皆さんの決定に従います」
 頑治さんはここでも卑怯な云い草をしている自を潔くないと思うのでありまいた。何ともイカさない見てくれではありますが、まあ、仕様が無いでありましょうか。
「じゃあ、そのように決めるとして、そうなれば今後の手順としては、・・・」
 山尾主任は横の横瀬氏を見るのでありました。
「そうですね、春闘迄、結成準備会会議を重ねると云う事になりますが、取り敢えず近々全員揃ったところで会議を開いて正式結成までの暫定的な役員を決めて、それから闘争方針を採択して、春闘迄の日程を確認して、統一要求に加えて当該の独自要求を準備すると云うところになりますね。全総連としても正式にバックアップ体制を組みます」
「よろしくお願いします」
 山尾主任が横瀬氏に頭を下げるのでありました。それに倣って皆も軽くお辞儀するのでありましたが、均目さんは伏し目をするものの殆ど頭を動かさないのでありました。
「なあに、それが仕事ですから」
 横瀬氏はそう云って如何にも頼もしそうに笑うのでありました。それが仕事、と云うのでありますから改めて云う迄もなく、この人は何処かの全総連加盟の単組の組合員と云うのではなく、全総連本体の組織部に属する専従職員と云う事になるのでありましょう。
「じゃあ最初の会議は何時に設定するかな」
 山尾氏が全員を見回すのでありました。「木曜日のボーナス支給日は結局何も抗議とかしないと云う事なら、その日の退社後と云う事でどうかな」
「皆で土師尾さんに文句を付けるなら、どうぜその後で会合するだろうと思っていたから、その日は何も予定を入れないで空けてあるわよあたしは。学校の方も無いし」
 那間裕子女史が賛意を表わすのでありました。
「俺も、そうすると明日は丸々一日休めるなあ」
 袁満さんも都合が好いようであります。
「そう云う事ならボーナス支給日に、と云う事で俺も都合を付けるよ」
 均目さんもものぐさそうな言葉つきながらも同意のようであります。勿論頑治さんも、どうせ夕美さんとの逢瀬は土曜日だから大丈夫と云った按配でありますか。
(続)
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あなたのとりこ 171 [あなたのとりこ 6 創作]

「それはそうですけど、でも上部組織になる全総連の事も詳しく知らないし」
「全総連は日本に在る労働組合連合組織の中では二番目に大きい組織です」
 横瀬氏がここで全総連について解説を始めるのでありました。「一番大きな組織は全日本労働組合総協議会、所謂労総協で、これは皆さんご存知でしょう?」
「良く春闘の時期やメーデーでテレビに取り上げられる組織ですよね」
 袁満さんがあっけらかんとした笑みを浮かべて応えるのでありました。
「そうですね。これが組織的には一番大きい。その次に大きいのが全総連です。尤も三番目以下はそんなに大きな組織ではないので、今の労働界は労総協と全総連が二大組織と云う事になりますか。我々もテレビに屡登場しますよ」
 横瀬氏はここで自信有り気に頷くのでありました。
「勿論その名前を聞いた事はあるわね」
 那間裕子女史が頷き返すのでありました。
「どちらかと云うと全総連は政治絡みの活動が多いような印象だなあ」
 均目さんは頷かないで云うのでありました。
「いや、特にそんな事はありませんよ。寧ろ既成の左翼政党に深くコミットしているのは労総協の方ではないでしょうかね。実際我々は加盟の組合員がどの政党を支持しようとも何も干渉しませんし、それは至って自由ですから」
「ああそうですかね」
 均目さんはこの横瀬氏の言に対して懐疑的な心根を表明する笑みを浮かべるのでありました。少しは全総連に対して知識が有るようであります。
「まあ、強い労働運動を展開するためには、場合に依ってはどうしても既存の野党勢力と共闘する事も必要ですからね、しかし政党支持とか政治思想に関しては原則自由です」
「でも全総連の活動方針に異を差し挟まない限り、と云う事ですよね」
「それは勿論、組織防衛と団結を維持するためにはそうなります。しかしそれは組織である以上当たり前の事で、全総連に限らず色んな組織は一般的にそうですよ」
「一方では全総連は組合員への政治的縛りが一番きついと聞きますが?」
「いやそんな事はありませんよ。団結力の強さから、外からはそう見えるとしても、全総連はどの労働組合連合組織よりも民主的に運営されていると明言しておきます」
 横瀬氏は別に慌てた風でも急に興奮した風でもない物腰ながら均目さんを見据えて、ここは有無を云わさないような迫力を言葉に籠めて断言するのでありました。
「ああそうですか」
 その迫力にたじろいで及び腰になった訳ではないでありましょうが、均目さんは一先ずそれ以上の言を重ねないのでありました。

 この二人の遣り取りの間、頑治さんを含めて他の連中は口を挟む期を逸して、戸惑ったような表情でダンマリを決め込んでいるのでありました。何やら自分達には埒外の、小難しい話しが展開されているようだと云った心持ちでありましたか。
(続)
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あなたのとりこ 170 [あなたのとりこ 6 創作]

 山尾主任がその均目さんの言に少し不愉快そうな顔をするのでありました。
「それはそうです」
 横瀬氏の方は均目さんのような意見に大いに配慮しているところを見せるためか、静穏な顔で頷くのでありました。「それは貴方達がこれから決める事ですから、私は口を差し挟みません。今日は請われて単にアドバイスにしゃしゃり出て来ただけですからね」
 横瀬氏のこの辺の腰の引き方なんと云うものは、身熟しが臨機応変で老獪なのか、それとも徒に敬遠されないようにするためのこの場に於ける単なる見え透いた控え目なのか、頑治さんは俄に判断に迷うのでありました。この横瀬氏と云う仁が食えるか食えないかの判断は、未だもう少し先と云う事になるでありましょうか。
「しかし、ボーナス支給日までもう日も無いんだから、ここは春闘睨みの組合結成、と云う事に速やかに決めた方が良いんじゃないかな」
 山尾主任がやや焦ったように云い添えるのでありました。
「でもそれは少し強引でしょう。組合結成と云う件はここで唐突にではなく、もう少し時間をかけて話し合って決めた方が良いんじゃないですかね」
 均目さんが異を唱えるのでありました。
「でも均目君、さっきから何度も云っているけど、春闘迄時間が無いんだぜ」
 山尾主任が少し焦りを強めて云い募るのでありました。
「確かに、組合を結成するのが今の段階では一番妥当な選択かも知れないわね」
 那間裕子女史がふと言葉を漏らすのでありました。
「俺もどんな手を遣ってでも土師尾営業部長に吠え面かかしてやりたいなあ、何とか」
 袁満さんも遠慮がちに私憤混じりのような賛同を表明するのでありました。
「唐目君はどうかな?」
 山尾主任が頑治さんの顔を見るのでありました。
「まあ、俺は新参者で今度のボーナスに関しては蚊帳の外に居ますから、無責任のようですが殊更の意見は無いです。でも皆さんが組合結成と決めるのなら俺も従いますよ」
 明言を濁した立場表明回避の、ある意味で卑怯な云い草でありあますが、明言しないところに頑治さんの消極的な気配を汲んで欲しいものでありましたけれど。
「そうすると組合結成賛成が三に棄権が一、反対が一と云う事になるかな」
 山尾主任がそんな集計をして見せるのでありました。
「ここに居ない出雲君の意見は判らないわね」
 那間裕子女史が不在の出雲さんの存在を気遣うのでありました。
「そうだけど、出雲君が反対か棄権だとしても、賛成多数と云う事にはなる」
 山尾主任がここでもやや強引な断定をするのでありました。
「まあ、俺もはっきり反対と云う訳じゃないけど。・・・」
 均目さんが立場をぐらつかせるのでありました。
「と云う事は絶対反対じゃないんだね」
 山尾主任は何とか組合結成をここで決めてしまいたいような意気込みであります。
(続)
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あなたのとりこ 169 [あなたのとりこ 6 創作]

 横瀬氏は土師尾営業部長の事をこの段階では殆ど何も知らない筈であります。その為人も風貌も、社員からどのように思われているかも。依ってその人の事を語るのに、この段階ではある種の敬意を払った云い方をするのが普通の感覚でありましょうか。
 しかしその物腰からはそんな気配は微塵も感じられないのでありました。寧ろ社員から全く疎んじられていると云う予備知識のためにか、一定程度軽侮したような云い方をしても構わないし、或いはその方が返って受けが良いかも知れない、と云う心根の中の臆断が仄見えるのでありました。勿論その予備知識は山尾主任から得たものでありましょう。
 更に山尾主任と横瀬氏の間では、既に全総連に加盟する労働組合の結成、と云う見取り図が描かれ共有されているのかも知れません。眼前で展開されている二人の掛け合いを見ていると、そこにはこの目的達成のための大まかな台本が用意されていて、二人で今、それを忠実になぞり演じているような気も頑治さんはしてくるのであります。いやまあ、これとても、頑治さんのふと感じた印象からの勝手な臆断かも知れませんけれど。

 店内の談笑する声や流れる音楽、それにカップやグラスが立てる音のざわつき中で、ほんの暫くの間、座の空気は沈黙の谷間に揺蕩うのでありました。
「ではこの暮れのボーナスに対して我々が何もアクションをしないとなると、その先に描くべきシナリオと云うのはどうなるのですかね?」
  均目さんが身を乗り出してやや下方から横瀬氏に視線を向けるのでありました。
「それは、春闘、と云う焦点に事になりますね」
 横瀬氏は均目さんの目は特に意識しないで、席に座っている夫々の顔をどこか値踏みするような目で眺め回すのでありました。
「春闘、ですか?」
 那間裕子女史が横瀬氏の言葉を繰り返すのでありました。
「そうです。これからは組合結成準備と内部の団結強化、それに他の全総連加盟単組との連携と云うところに力を傾注して、統一要求とは別に貴方達の独自闘要求も練り上げて、春闘時に組合結成を公然化して、要求を経営側に突き付けると云う事になりますかな」
「春闘で突然組合結成通告して、暮れのボーナスの仕返しをしようと云う訳だ」
 袁満さんが如何にも痛快そうに云うのでありました。
「いやまあ、意趣返しとは少し意味合いが違いますが、春闘と連動した方が闘争効果やらあれこれの面で好都合なところ多々でしょうからねえ」
「我々が創る労働組合が春闘の統一要求にコミットしていれば、全総連が我々のバックに付いている事も明確に示す事にもなるから、確かに会社側には脅威だろうな。下手な対応や回答だと全総連が許さないぞと云うメッセージになるだろうし」
 山尾主任の言は、もう組合結成が既定路線であるかのような、お先走りの科白に頑治さんには聞こえるのでありました。これは頑治さんだけではなく均目さんもそうであるようで、均目さんは山尾主任の前のめりの姿勢に水を差そうとするのでありました。
「未だ労働組合結成を、我々が正式に決定した訳でもないですけれどね」
(続)
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あなたのとりこ 168 [あなたのとりこ 6 創作]

 袁満さんが何となくイメージしたのかそんな事を云うのでありました。
「まあ、それも闘争手段の一つではありますね。一企業を越えて団結していると色んな交渉戦術があると云う事ですね、つまり」
 そう云って横瀬氏はここでコーヒーを飲み干すのでありました。
「矢張り全国組織下の労働組合を創るしかないかなあ」
 山尾主任もまるで横瀬氏を真似るように自分のコーヒーカップを空けて、独り言のように呟きながら首を何度か縦に振るのでありました。この山尾主任の言に誰も即座に何の反論も口にしないのを見定めて、横瀬氏は空かさず言葉を重ねるのでありました。
「若し労働組合を結成すると云う事であれば、この暮れの一時金に対する対応も、その何とか云う営業部長を取り囲んでただ繰り言をぶちまけると云うやり方ではなく、もう少し労組結成と云う路程の上に戦略的位置付けられた闘争であるべきでしょうね」
「土師尾営業部長です」
 山尾主任が、何とか云う営業部長、のその、何とか、の部分を補うのでありました。
「そうそう、その土師尾と云う名前の営業部長、に対する対応ですね」
 この辺の山尾主任と横瀬氏の何となく呼吸の合った言葉の遣り取りを聞いていて、労働組合結成と云う既定路線が二人の間でもう出来上がっていて、そう云う方向にこの場の話しを持って行こうとしているような作為を頑治さんは感じるのでありました。
「じゃあ、どう云う方法が良いのでしょうかね?」
 山尾主任が予め決められていた、ような、科白をここで発するのでありました。
「何もしないのです」
 横瀬氏があっさりと云うのでありました。
「何もしない、のですか?」
 山尾主任が少し驚いて見せるのでありました。その山尾主任の反応に同調するように、皆の視線が横瀬氏の顔に向かうのでありました。
「そうです、何もしないのです」
 横瀬氏はここに居る全員の興味が集まったのを見定めるように夫々を見回してから、その先を続けるのでありました。「組合結成を画策している、或いは未だ画策はしていないけれど、そう云う方向に皆の気持ちが向かうかも知れないと云う懸念を全く抱かせないために、気落ちはするけど恭順する、と云う態度を一先ず装っておくのです」
「何もしない、と云う芝居をするのですね」
 山尾主任が感心したような顔で頷くのでありました。
「後日の組合結成の成功を考えるなら、ここはその何とか云う営業部長の前ではそれを噯にも出さない方が賢明な対応と云う訳です」
「土師尾営業部長、です」
「ああそうそう。その土師尾と云う名前の営業部長の前では」
 山尾主任と横瀬氏はまた先程の遣り取りを繰り返すのでありました。頑治さんはこの二人の様子に些かげんなりするのでありましたがそれは噯にも出さないのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 167 [あなたのとりこ 6 創作]

「甲斐さんとやらの事はそのくらいにして、・・・」
 横瀬氏は先程の話しに戻ろうとするのでありました。

 横瀬氏はコーヒーをまた一口飲んで続けるのでありました。
「会社に少し無理をさせるためには、実は企業内だけで交渉しても弱いのです。留保金の事にしても、云ってみれば社内の事情ですから、切り崩すとこの先経営が困難になると云われれば、こちらの根拠よりも向こうの経営的根拠の方が切迫感に於いて些か優る。一時金が出なければ、それで明日即刻こちらが飢え死にする訳でもないでしょうからね。精々家のローンの支払いのために預金が減るとか、買おうと思っていた洋服が買えないとか、予定していた旅行の資金が足りないとかですからね、こちらの要求の主たる拠点は」
「ああ、昨日話しに出た、ええと何だっけ、可処分所得、だっけ。それの事ね」
 袁満さんが頑治さんの方を見て笑うので、頑治さんも笑い返すのでありました。
「そうなると企業を越えた横の繋がりが、大いに意味を持ってくるのです」
 横瀬氏は袁満さんと頑治さんの笑い顔に一顧も無く話しを続けるのでありました。「同業他社に比べてウチの待遇は、と云った話しが出来るようになります」
「それはそうでしょうけど、会社の大きさも違うだろうし、業態も売り上げもバラバラでしょうからね、一概に同列で比較する事は出来ないですよね」
 均目さんが疑問を投げるのでありました。
「確かにその通りです。しかし全総連、つまり全国労働組合総連盟には同業他社の賃金や一時金の実績が情報として共有されていますから、同じ程度の業績で他社がどのくらい出しているか、と云ったところを交渉に於いて経営側に示す事は出来ます。他がこのくらい頑張って一時金を出しているんだから、ウチももう少し頑張って貰わないと、とかね」
「それでも、他とウチとでは事情が全く違う、と一蹴される場合もある」
 均目さんはなかなか折れないのでありました。
「それは経営側が良く使う科白です。特に従業員二十人以下の小規模企業では、経営側の典型的常套句となっています。しかし個別の事情を多少は考慮するにしても、業績や営業規模が他の会社と同程度なら、その個別性が従業員の賃金や一時金を決める決定的条件にはならない。ウチとほぼ同規模、同業績の会社がこれだけ頑張って従業員を待遇しているのだから、ウチも決して出来ない筈はないし、どうしても出来ないと云うのなら、それは経営側に何か問題があるのではないか、と畳みかけられると云う事ですよ」
「まあ、交渉術としてはそうですかね」
 均目さんは納得しないような顔で一応納得するのでありました。
「それに全総連では産業別の賃金や一時金の達成目標、獲得目標を前面に打ち出しますから、全総連加盟労働組合ならその絡みも交渉に於いて使えます。産業の枠を超えた働く者総ての権利とか団結とか、そう云ったものは結構初心な経営側には利きますよ。企業を越えて団結していると云うのは、一企業の経営にとっては大いに脅威ですからね」
「つまり、鉄道の統一ストライキ、とかですかね?」
(続)
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あなたのとりこ 166 [あなたのとりこ 6 創作]

 横瀬氏は少し間を取るためかコーヒーを一口悠長に啜るのでありました。那間裕子女史の方は何を勿体付けているのかと云ったような、苛々を隠さない目でその様子を睨み付けながら氏の次の言葉を待つのでありました。
「無い袖は振れない、と云う事は至極尤もな理屈ですよ」
 横瀬氏はコーヒーカップを小さな音を立てて受け皿に戻すのでありました。「しかしその理屈を覆させるためにはあれこれ手が必要なのですよ。一つは、一般的に会社にはいざと云う時のために一定の資金が必ず蓄えられている筈です。ですからそれを一時金に当てて貰う事は交渉次第で可能です。まあ、何だかんだと尤もらしい理由を云い連ねて抵抗するでしょうがね。しかしながら先ずはそれを踏まえた上で交渉すると云う事です。必ず原資は有るのだと云う、こちらが揺るがないだけの確信と情報と気概が必要ですな」
「気概、ですか?」
 那間裕子女史は落胆と懐疑の色を言葉に載せるのでありました。「心構えと云うのか、絶対ぶん取るぞと云う気持ちがこちらにあればボーナスが必ず出ると云う事ですかね」
「そうです。先ずはそれが一番大事です」
 横瀬氏は那間裕子女史の揶揄的な云い草をあっさり往なすのでありました。「もう一つ私は、情報、と云いましたが、どのくらいの留保金があるのかを知っておいた方が良い。交渉で向こうが出せるギリギリの線を予め決めておくためにね」
 それは尤もな事であろうと、頑治さんは横是氏にも那間裕子女史にも、それに袁満さんにも山尾主任にも均目さんにも気取られない程度に小さく頷くのでありました。
「甲斐さんに訊けば知っているだろうな」
 山尾主任が頑治さんとは違って皆にはっきり知れるように頷くのでありました。
「でも、おいそれと教えてくれますかね」
 均目さんが首を傾げるのでありました。
「自分の貰うボーナスにも絡む訳だから、訊けば俺達にも教えてくれるんじゃないの。甲斐さんも土師尾営業部長の事は嫌っているし、社長とべったりと云う事でもないから」
 袁満さんが楽観的な推測をものすのでありました。
「そんなに都合好く教えてくれるかなあ」
 均目さんは首を傾げた儘薄笑いを浮かべるのでありました。
「その、甲斐さんと云うのは?」
 横瀬氏が均目さんの方を向いて訊くのでありました。
「会社の会計を担当している女性ですよ」
 山尾主任が代わって応えるのでありました。
「そう云う人は必ず味方に付けておいた方が良いですね」
 横瀬氏が云うと山尾主任は律義そうな顔でこっくりをするのでありました。
「明日、俺の方からそれとなく聞いてみますよ」
 山尾主任の言に横瀬氏は満足気に頷くのでありました。
(続)
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