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あなたのとりこ 300 [あなたのとりこ 10 創作]

 結局、自分の大したところを社長に見せようとして土師尾営業部長は仕くじったと云う図でありますか。そんな図を読んだのかそうでないのか、社長はソファーから立ち上がって土師尾営業部長には一瞥も呉れず、片久那制作部長の方に目を遣るのでありました。
「僕は一週間後で別に構わないけど、回答書は間に合うのかな?」
「何とか間に合わせます」
 片久那制作部長は頷くのでありました。
「じゃあそう云う事で、今日はこれでお開きとしましょう」
 社長は横瀬氏に向かってニコやかに云うのでありました。要するに社長としては片久那制作部長に今次の解決を丸投げしていると云う事でありましょうか。

 横瀬氏と派江貫氏の二人と別れた後、神保町交差点から春日通りをやや水道橋方面に北上した辺りにある、組合関係の会議を行った後に最近時々使う居酒屋で、今日は寒いからと寄せ鍋をつついて日本酒の熱燗を酌み交わしながら、一同は少々くだけた、記念すべき第一回目の団体交渉の反省会とやらを執り行うのでありました。何となく全員が上機嫌であるのは、団交の席で出て来た回答書に一定の満足感を覚えた故でありましたか。
 内心、皆一様に、もっともっと渋いか、ひょっとしたらこちらの要求を一切無視したゼロ回答が示される事をリアルに恐れていたのでありましたか。
「去年の暮れのボーナス、じゃなかった一時金があんな調子だったから、とんでもなくひどい回答書が出て来るんじゃないかと冷や々々していたら、案外まともな回答が出てきてちょっと拍子抜けするくらいだったよなあ」
 袁満さんが傾けていた猪口を唇から離して云うのでありました。
「まさかまさかの組合が結成されたものだから、反省したんじゃないっスか」
 出雲さんが空いた袁満さんの猪口に徳利を向けるのでありました。
「反省なんかするタマかな、あの社長が」
 袁満さんは出雲さんの酌をする手付きを見ながら冷笑を浮かべるのでありました。
「反省はしなかったかも知れないけど、仕舞った、とは思ったんじゃないっスかね」
「まあそれは多分そうに違いないだろうけど」
「だからちょっと俺達のご機嫌を取り結ぼうと云う魂胆から、高飛車な感じが無い、寧ろ誠実なところを見せようとするような、あの回答書が出てきたんじゃないっスかね」
「誠実にしては如何せん、額がね、・・・」
 那間裕子女史が酒を頬に含んでから口を尖らすのでありましたが、その割には然程に苦々しそうな気色ではないように見受けられるのでありました。
「でも想像していたよりは、随分奮発したって印象だなあ」
 袁満さんが那間裕子女史の方に徳利を差し出すのでありました。
「逆に、何だかんだと会社の存亡の危機みたいに騒いでいたくせに、出そうと思えばあの額を出せるだけの余裕が未だあると云う事だよな」
 袁満さんがどこか皮肉っぽく云うのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 299 [あなたのとりこ 10 創作]

「それから、・・・」
 袁満さんは続けるのでありました。「時間短縮にしても、全総連が掲げる全業種で週三十五時間労働と云う目標からは未だかけ離れた回答ですから、これも再考願います」
 これを聞き終わってすぐ、社長は聞えよがしの嘆息を漏らすのでありました。片久那制作部長は如何にも不愉快そうに眉根を寄せ、土師尾営業部長はと云えば、嘆く社長に対してお追従を示すのが主意か、こちらも小さく嘆息をして見せるのでありました。
「と云う事で、次の回答指定日になりますが、一週間後の同じ曜日同じ時間、と云う事にしたいと思います。それ迄に今回よりは前進した回答をお願いします」
 袁満さんは締め括ろうとするのでありましたが、これ迄ずっと隅に置かれていたような感じの土師尾営業部長がここでやおら言葉を発するのでありました。
「君たちの都合だけで勝手にそんな日取りを決めて良いのかね」
 社長の手前、片久那制作部長だけではなく自分も頼りになる部長である事を主張したいのか、横に居る社長を意識したような眼の微動が見えるのでありました。「社長だって忙しい身なんだ。君達の勝手な都合だけに付き合っている義理は無い筈だよ」
 その言が終わるか終わらない内に、片久那制作部長がその口を封じるためであろう舌打ちの音を響かせるのでありました。その音にすぐに、何か都合の悪い事を喋って仕舞ったかしらと、土師尾営業部長は動揺を見せるのでありました。しかし一端云い出した以上、すごすごと引き下がるのは体裁が悪いから、迫力無く後を続けるのでありました。
「世の中には信義と云うものがあるだろう。自分達の都合だけを勝手に押し付けてこちらの都合を全く省みないと云う態度は、ちゃんとした社会人としてどうなのかな。そんな人達には信義なんか到底感じられないし、そんな人達のために何かをして遣ろうと云う気も起きる筈がない。第一、礼儀の上でも目上の人に対して失礼極まりないじゃないか」
「これは、目上とか目下とかじゃなくて、雇用者と被雇用者、経営側と労働者の団体交渉ですから、そんな世間的な情緒の問題とは趣が違うのです」
 ここは横瀬氏が口を挟むのでありました。
「しかし、何にしても一番底に信義が無ければ何も前には進まないでしょう」
 会社の中で一番信義から遠い人が、この期に及んでそんなお題目を唱えても冷笑を返されるのが関の山と云うものではないか、と頑治さんは心の内で笑うのでありました。
「信義について云えば、これ迄の従業員に対する会社の待遇に長い間従業員が信義を感じなかったから、こうして労働組合が出来たんじゃないですかね。何よりそう云う事を高飛車に云い出す前に、労働法規とか団体交渉についてもっと勉強しておいてくださいよ」
 横瀬氏は軽くあしらうのでありました。ここで、そうだ、の和唱が起こっても良い場面でありますが、初心な組合員達にそんな呼吸は期待出来ないと云うものでありますか。
「そう云う話しはもう良いから、次の回答指定日を双方で確認して、今日のところはこれで終わって良いんじゃないかな」
 片久那制作部長が土師尾営業部長の方に目を向けて云うのでありました。その眼光とつれなさに怖じたのか、土師尾営業部長はすごすごと引き下がるのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 298 [あなたのとりこ 10 創作]

「まあ確かに、一回目の交渉であっさり妥結するのはどんなものかな」
 派江貫氏が頷くのでありました。「満額回答と云うのならそれもあるけど」
「じゃあ、差し戻して再回答を要求するかい?」
 袁満さんが云うとここは全員で、異議無し、と声を合わせる事は無いながら、その方が色んな意味で無難かなと云った曖昧な同意の気配が立ち込めるのでありました。「それから再回答を要求するとしても、その要求をするだけのこちらの明確な理由は?」
「兎も角賃上げ額にはどうしても納得いかない、と云うんで良いんじゃない」
 那間裕子女史が応えるのでありました。
「その前に、回答に一定の誠意は感じられるけど、と云う枕詞を入れた方が良いんじゃないかな。鮸膠も無く突っ返すより、その方がこちらの誠実さみたいなものも表れるし」
 均目さんが突っ返し方の細かいところを注意するのでありました。
「時短に付いても、世間の趨勢を考慮してもう少し考えてくれとか付け加えると、如何にも自分達が金の事ばかり云っているんじゃないような感じが出るんじゃないっスか」
 珍しく出雲さんが指名もされないのに意見を云うのでありました。
「ああ、成程ね」
 袁満さんが納得の頷きをするのでありました。「じゃあ、あんまり長く向こうを待たせるのも良くないから、今回はそう云う事で返答して、記念すべき第一回目の交渉を終わらせるかな。そうなると次の回答指定日はどうする?」
「前に打ち合わせた通り、一週間後で良いんじゃないですか」
 均目さんが受け応えるのでありました。
「それじゃあ、まあ、そう云う線で」
 袁満さんのその言葉で倉庫での打ち合わせは切り上げとなるのでありました。

 三階の事務所に戻ってみると社長と土師尾営業部長は何やら話しをしていて、組合員が入って来るのを認めると急に口を閉じるのでありました。片久那制作部長は二人とは無関係と云った風に、黙って回答書のコピーに目を落としているのでありました。
「下で協議した結果ですが、・・・」
 全員が元通りの席に着くと袁満さんが代表して喋り出すのでありました。「示された回答に一定の誠意は感じられますけど、矢張り同一年齢同一賃金の原則で他の組合と比較すると、賃上げの額には未だかなり不満が残ります。我々が企業内単独組合ではなく、全総連と云う労働組合の連合体に加盟して活動するのも、同業他社並みの賃金水準を獲得していくためなのですから、今回の回答では妥結と云う訳には到底いきません」
 枕詞もちゃんと入っているし、きっぱりとした云い方も及第点と云うものであります。それに文言も特に申し合わせしてはいなかったのでありますが、咄嗟の機転かどうか全総連と云うバックを押し出して、贈答社の労組が全国規模で他社労組と連携している点を念押しした辺りなんか、なかなか袁満さんもやるものであります。頑治さんは勿論、他の皆もそんな袁満さんの委員長としての手際をここで大いに見直したでありましょう。
(続)
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あなたのとりこ 297 [あなたのとりこ 10 創作]

「夏の一時金も、暮れの一時金みたいな悲惨な事にはならなかったしね」
 袁満さんも同じ思いのようでありました。社長の考えはこの際別にしても、従業員の待遇は多少とも良くなり両部長の損失も殆ど無く、両者が円満に折り合えるとなったら、これはもう実に双方にとって好都合に錬られた回答と云うべきでありましょう。
「額は別にして、悪質性は観られないし概ね明朗な回答だと思うよ」
 横瀬氏も一定程度に納得の様子でありました。
「じゃあ、これで妥結と云う事にするか」
 袁満さんが云うと横に立っていた那間裕子女史が、慌ててその言を制するような手真似をして見せるのでありました。
「あたしは賃上げ額に不満があるわね」
「唐目君、どう思う?」
 袁満さんが目を、何故か急に那間裕子女史から頑治さんに向けるのでありました。
「結構な回答なんじゃないですか」
 そう云った後、頑治さんはこれでは何やらすっかり自分と無関係な他人事のような返答だなと思い返して、仕切り直すように咳払いをして続けるのでありました。「何よりこちらの要求形式に則った回答になっているところに、向こうの真摯さを感じます」
「でも、矢張り額が不満よ」
「しかし、例年よりは額の上昇率は上がってはいる」
 均目さんが異を唱えるのでありました。
「でも向こうが、大いに今迄のあたし達に対する冷遇を悔いて、そのせめてもの贖罪を込めている、と云ったような額じゃ到底ないわ」
「そりゃそうだ、第一向こうは全然悔いてなんかいないもの」
 均目さんが茶化すと他の皆が笑いを漏らすのでありました。
「つまりあたしは、誠意、と云う点を云っているのよ」
「そりゃあ、これだけの事を遣ってやっているんだぞと云った、片久那制作部長のまるで挑みかかるような恩着せがましい説明の口調も、不貞腐れてふんぞり返ってそっぽを向いている社長の横着な態度も、誠意と云う点では大いに相応しくないし、那間さんの云わんとしている辺りは重々判るけど、でもあれはあの二人の疾うに知れたパーソナリティーだからね。そこに拘るよりも示された回答自体にもっと目を向けるべきじゃないかな」
 均目さんは、これは少し真面目腐った口調で云うのでありました。
「だから、示された額そのものの誠意よ。あの額であたし達がおいそれと納得したなら、相変わらず甘いヤツ等だと侮って、内心ほくそ笑むんじゃないの」
「メンツに拘っているんですかね?」
 袁満さんが那間裕子女史に、こんな事を云うと不謹慎だと怒られるかも知れないけど、と云った風の少しの気後れを見せつつやんわり訊くのでありました。
「産声を上げたばかりの労働組合の、その意気込みを見せ付けると云う意味では、確かにメンツの問題でもあるわね。これから先、嘗められないためには最初が肝心だから」
(続)
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あなたのとりこ 296 [あなたのとりこ 10 創作]

 均目さんが代わりに言葉を発するのでありました。
「去年の年末一時金がああいう風になった点を、逆に、もっと良く考えてくれるか」
 片久那制作部長は均目さんの方に目を移すのでありました。「二か月プラス一律二万円と云うのも、君達の心情を慮った上で、相当無理をしているんだ」
 ああ成程と云った頷きをここで袁満さんが無意識にするのでありましたが、これは交渉に於いては拙い仕草であろうと頑治さんは秘かに眉根を寄せるのでありました。均目さんは頷かないながらも、言葉を重ねないで渋面を作って俯くのでありました。
「それから就労時間短縮の件だが、・・・」
 片久那制作部長は淡々と説明を前に進めるのでありました。「今迄は月の内第一と第三土曜日を休みとしていたけど、総ての土曜日を休みにして完全週休二日とする。その代り月曜から金曜までの就労時間を三十分延長して、午前九時から午後五時三十分とする。そうするとその月で長い短いはあるけど、押し並べて月辺りの就労時間は短縮される」
「ええと、これも押し並べてだけど、今迄月に就労日数二十四日間だったのが二十二日となって、時間にすると週百六十八時間だったのが百六十五時間に減ると云う事ですね」
 均目さんが急いで手元にある紙の上で計算するのでありました。「成程ね。一日当たり八分程度の短縮にはなる訳か。まあ、あくまで押し並べてだけど」
 片久那制作部長が頷くのでありました。
「たった八分!」
 袁満さんが素っ頓狂な声を上げるのでありましたが、片久那制作部長に睨まれてたじろぎを見せながら口を窄めるのでありました。
「それがギリギリのところだ」
 片久那制作部長は不愉快そうに袁満さんに向かって云うのでありました。
 一通り回答書の説明を終えた片久那制作部長は、その後は黙るのでありました。嫌々ながらもこれで自分の役目は果たした、と云ったところでありましょうか。
「判りました。ではちょっとこの回答書を検討しますので、少し時間をください」
 袁満さんがそう云うのは予め打ち合わせしていた通りであります。横瀬氏と派江貫氏、それに組合員一同は席を立って一階の倉庫に向かうのでありました。

 倉庫の作業台代わりの机を囲んで、先ず袁満さんが声を上げるのでありました。
「なかなか渋いよなあ」
「要求の半分、と云ったところね」
 那間裕子女史が溜息を漏らすのでありました。「あれじゃあ、組合を創る前の何時もの年の賃上げに少し色を付けたくらいで、大して変わりは無いわね」
 すっかり期待外れでがっかりだし、大いに不本意だったようであります。
「でも全従業員に適用される賃金式が出て来たのは、良かったんじゃないかな。それに回答方式も曖昧さも無く、概ねこちらの要求形式を酌んだ一種の律義さは見られたし」
 均目さんがやや肯定的な評価を下すのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 295 [あなたのとりこ 10 創作]

「ええと、それなら、諸手当の方はどう云う具合に、・・・」
 袁満さんがその必要は全く無いのに、如何にも遠慮がちに訊くのでありました。
「諸手当に関しては、役職手当と家族手当、それに住宅手当と云う事になっていたが、それに加えて、今話した通り勤続手当を新しく設ける事になる」
「その具体的な金額はどうなるんですか?」
 袁満さんの及び腰の言葉付きを聞いていて、これは頼りないと思ったのか那間裕子女史がここで前に出て来るのでありました。
「回答書に書いてある通りだ」
 片久那制作部長は那間裕子女史の方に無愛想な視線を投げて、一拍の間を置いてそう高飛車に応えるのでありました。しかし那間裕子氏はそれで居竦むような事はないのでありましたし、寧ろ横瀬氏の前にあった回答書を自分の方に引っ手繰るように引き寄せ、それを再読してから、尚も挑みかかるように返しの言葉を発するのでありました。
「こっちは回答書を今渡されたばかりなんだし、皆で急いで回し読みして、なかなか一挙に書いてある詳細を頭に入れる事なんか出来ないんだから、そんな不親切で鮸膠も無いような云い方をしないで、もっと丁寧な態度で説明をしていただけませんか」
「役職手当も家族手当も、それから住宅手当も従来通りの支給額。それにさっき云ったように、新たに勤続手当が毎年三百円ずつ加算される事になる」
 敢えて云う必要も無いだろうと云った風のぞんざいな云い振りでありました。那間裕子女史はその態度にカチンときたようでありましたが、それ以上云い返さずに不愉快そうに小さな舌打ちをしてからプイと横を向くのでありました。その舌打ちに、ここ迄全く出番の無かった土師尾営業部長が、ここぞとばかりに口出しを始めるのでありました。
「那間君、幾ら何でもその態度は無礼だろう」
 そう云って目を怒らせて未だ言葉を継ごうとする土師尾営業部長に、片久那制作部長が即座にストップを掛けるのでありました。
「余計な事は云わないで良いよ。ここでは本筋以外の話しは控えてくれるか」
 当の片久那制作部長に声音に凄みを利かせてそう制されて仕舞うと、土師尾営業部長に立つ瀬は無く、すごすごと引っ込むしか方途も無いと云うものでありますか。
「諸手当に変更はないと云う事ですね」
 袁満さんが確認するのでありました。
「勤続手当以外はね」
 片久那制作部長はこれも繰り返すのを厭うようなうんざり口調でありました。「それから夏の一時金は、基準内賃金の二か月分に一律二万円をプラスする」
 片久那制作部長は話しを先に進めるのでありました。一々説明しなくとも回答書を読めばそれは書いてあるだろうと云った、如何にも面倒臭そうな素振りでありますが、それにイチャモンを付け始めるとこれも、土師尾営業部長と同じ余計な事をこちらも云い出す事になるので、袁満さんも那間裕子女史もここは何も云わないのでありました。
「去年の年末一時金があんな感じだったので、その助成は無いのですか?」
(続)
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あなたのとりこ 294 [あなたのとりこ 10 創作]

「さて、最低ラインはさっき打ち合わせした額で良いかな?」
 袁満さんがそろそろ会合の締め括りに掛かるのでありました。この頃になってぼちぼち慣れてきた呼吸に依り全員が空かさず、異議無し、と声を合わせるのでありました。なかなかそれらしくなってきたものだと頑治さんは感心するのでありました。

 回答は社長室ではなく、三階事務所の中の出入り口脇の応接スペースで行われるのでありました。二つ並んだ一人掛けのソファーに社長と土師尾営業部長が座り、片久那制作部長はその横に袁満さんの事務机の椅子を出して腰掛け、社長を真ん中に両部長が脇を固めるような陣形でありました。対面する三人掛けのソファーには袁満さんを真ん中にして左に那間裕子女史、右に横瀬氏が並んで着席し、出雲さんの机の椅子には派江貫氏、それに均目さんと出雲さんと頑治さんが派江貫氏の座っている横に立つのでありました。
 木見尾氏は自社労組の回答指定日と重なっているので来ないのでありました。派江貫氏も同様でありましょうが、どうして贈答社の方に出席しているのか頑治さんには判らないのでありました。全総連本体の執行委員でもある事だし、派江貫氏の会社は組合員が多くて、敢えて派江貫氏がそこに居なくとも大丈夫なのでありましょうか。まあ兎も角、横瀬氏と派江貫氏と云う組合活動の手練れの参加は大いに心強いところではありましたが。
 先ず社長から回答書が出されるのでありました。それを最初に袁満さんが読み、それから続いて那間裕子女史に手渡され、その次には均目さんと云う風に先ずは従業員が各個に目を通してから派江貫氏に渡り、最後に横瀬氏の前に置かれるのでありました。
「内容については片久那部長が詳しく説明しますよ」
 社長は億劫そうに云ってから背凭れに上体を引いて、片久那制作部長に目でサインを送るのでありました。もうこれで自分の役目は終わったと云った風の態度でありました。
「それじゃあ先ず賃上げだけど、・・・」
 片久那制作部長が陰鬱な声で説明を始めるのでありました。「一律ベア六千円プラス定昇分四千円プラス勤続手当加算分三百円、と云う事になる。今迄は定期昇給分と云う名目ではなく、査定が絡んでいたので多少のデコボコはあったが、大体一歳増える毎に三千円から四千円が賃上げの中の定昇分と云う事二なっていたけど、これを全員一律に四千円と云う事にする。勤続手当と云うのも無かったけど、今後は勤続年数に応じて一年毎に三百円を加算する事にする。依って賃金式は十五万円に夫々の年齢から十八を引いてそれに定昇分四千円を掛けた額をプラスする額になる。つまり実際には居ないけど、十八歳の従業員が居るとすれば、その社員の賃金は十五万円になる訳だ。先ずここ迄は良いかな?」
 片久那制作部長は一気にそう説明して袁満さんの顔を上目に見るのでありました。片久那制作部長に一直線に顔を見られて、袁満さんは迂闊にも少し怯むのでありました。
「ええと、それは基準内賃金ですよね」
「云う迄も無く、そうだ」
 この片久那制作部長の返答は嫌に横着な物腰に聞こえるのでありましたし、それで袁満さんは益々たじろぐのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 293 [あなたのとりこ 10 創作]

「まあ、初めて逢った時の印象だけど」
「でも、そういう経営者は往々にして、とんでもない仕打ちに出てくるかも知れない」
 派江貫氏が少し深刻な表情をして見せるのでありました。
「とんでもない仕打ちをするには、あの社長は好い格好したがり屋過ぎないかな」
 これは来見尾氏の見解でありました。
「でも実のところ社長はこの際どうでも良くて、問題は片久那さんがこういう事態を、どんな風に思うかって云う点に掛かっているんじゃないかしら」
 那間裕子女史がそう云うと、その言葉に誘われて皆は頭の中から社長を追っ払って、片久那制作部長の顔を思い浮かべるような表情をするのでありました。
「社長よりももう一人の部長よりも、会社の実情や社員の気分をしっかり判っている実質的なボスは、その片久那部長だと云う事だったけど、団交の席では陰気そうに黙りこくったまま必要な事以外は殆ど声を発しなかったよね、あの人は」
 横瀬氏が振り返るのでありました。
「ちょっと不気味な凄みは感じたけど」
 来見尾氏は眉根を寄せるのでありました。「なかなか手強そうな印象だよね」
「でも片久那制作部長に実権を握って貰っていた方が、社長や土師尾営業部長にあれこれ素っ頓狂な対応をされるより、信頼感は格段にあると思うけど」
 袁満さんが云うと横の出雲さんが笑みを漏らしながら頷くのでありました。
「社長や土師尾営業部長はあの要求書に書いてある内容も、上手く理解出来ないんじゃないかな。賃金式なんか初めて目にしただろうし、チンプンカンプンだろう」
 袁満さんがそう続けるのでありましたが、その袁満さんも賃金式とか賃上げ式を始めて目にした時に、定昇分とかベアとか、式中にある(N―18)とかの記述に何となく鈍い反応をしたのではなかったかしらと、頑治さんは秘かに思うのでありました。まあ、尤もな事で、普段の生活にはそんな言葉や数式は何の意味も持たないのでありますから。
「社長や土師尾営業部長に出来るのは、ゼロ回答か満額回答のどちらかしかない」
 袁満さんがそんな冗談を飛ばして笑うのでありました。
「要求では、ベア一万五千円プラス定昇八千円、それに勤続手当加算分の五百円を足した額だよね。で、それから基準内の賃金式が十八歳で十八万円、後は年齢に応じて一歳毎に八千円ずつ加算。賃上げでこの賃金式に満たない場合はその分是正加算する、と云うものだったけど、賃上げ二万三千五百円なんて、そんな回答があっさり出て来る筈が無い」
 均目さんがここで要求額をなぞるのでありました。
「そりゃそうだ、業績不振でオタオタしているんだから」
 袁満さんが他人事のように笑うのでありました。しかしその不謹慎も宜なる哉で、この要求額は全総連の小規模単組連合の統一要に則ったものであり、先ずは高いところを吹っ掛けておいて様子を見る、と云う代物だと云う認識は何も贈答社組合員に限った事では屹度ないでありましょう。高度成長真っ只中ならいざ知らず、ここ何年もの不景気の下では、特に小規模単組連合にあっては、これはもう夢物語と云うべきものであります。
(続)
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あなたのとりこ 292 [あなたのとりこ 10 創作]

「別に置いておくのはちっとも構わないけど、要するにつまり、ネコと一緒にこの本も本棚の上から内命で俺の見張りを仰せつかっていると云う訳かな」
「そうね。ま、ネコの手下」
 伊東静雄も野呂邦暢もネコのぬいぐるみの風下に置かれるのでありました。それより何より伊東静雄と野呂邦暢の目に見張られているとなると、頑治さんとしたら何となく気が滅入るのでありました。せめて最近の若い女流詩人とか小説家とかなら未だしも。
 夕美さんは本を取って立ち上がると壁一面の本棚を見回すのでありました。空きスペースが見当たらないので夕美さんは本を抱えた儘困るのでありました。
「ネコの横にでも置いておいてくれれば、後で俺が適当に仕舞っとくよ」
 分散した監視の目で部屋中を隈なく見渡されるのも叶わないから、頑治さんはネコの居る傍に纏めてその本を入れて置く心算でありました。見張り連中の視野をなるべく制限して、死角を少しは作っておく方が何かと好都合かと云う魂胆であります。とは云っても、別にネコや本に見られ困るような振る舞いはする心算も無いのでありましたけれど。
 引っ越しの整理整頓の最中で自分の部屋に帰っても落ち着かないと云う理由で、夕美さんはその夜頑治さんのアパートに泊まっていくのでありました。翌朝は、転居の作業が未だあれこれ残っているからと夕美さんは早々に帰って行くのでありました。
 夕美さんが居なくなった代わりに、ネコのぬいぐるみと数冊の本が部屋に残されるのでありました。それがごく近い将来の夕美さんの不在を確証しているようでありました。
 急に頑治さんは寂しさに襲われて、床に寝ころんで頭の後ろに組んだ手を枕に、棚の上のネコと睨めっこをしているのでありました。ネコは監視のための鋭い視線ではなく、至極穏やかに無表情に頑治さんを見下ろしているのでありました。

 回答指定日までに何度か神保町の貸会議室で会合が持たれるのでありました。その際に賃上げの最低線と、明快な賃金式の確立が妥結の条件として確認されるのでありました。要求書には就労時間短縮も盛り込まれていたのでありましたが、これは全総連全体のここ最近の要求の傾向を無視しないために盛り込んだ迄で、一同はそれも若しかしてかち取れるようだったら、まあまあ、御の字かなと云った程度の期待感でありましたか。
「妥結するには、一筋縄とはいかないでしょうね」
 那間裕子女史が懸念を表するのでありました。
「しかしあの社長は春闘を長引かせないんじゃないかな」
 横瀬氏が要求提出日での社長の態度とか対応を思い浮かべるような顔付きで、少し楽観的な観測を述べるのでありました。
「つまり持久戦を持ちこたえるだけの胆も、したたかさも無いと云う事ですかね」
 均目さんが薄ら笑いを浮かべて訊くのでありました。
「粘り強い感じじゃなさそうだし、懸念があるとそれが気持ちの一番表面から離れず、そんな憂鬱から早く解放されたいとひたすら考えるタイプじゃないかな」
「要するに小心者だと云う事ですね」
(続)
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あなたのとりこ 291 [あなたのとりこ 10 創作]

「ふうん。なかなかしおらしいところがあったんだ、高校生の夕美は」
 頑治さんは冗談半分でそうからかうのでありました。まあつまり、半分が冗談で、もう半分は満更冗談と云う訳ではない頑治さんの心根でありますか。
「今はその面影も無いって云われているみたい」
「いやいや、勿論夕美は何時も俺の目にはすごく可愛いよ」
「ああそう。どうも有難う」
「いや、本当に」
 頑治さんは少し真面目な表情をするのでありました。「俺は大学の学食で再会してからずっと、夕美の虜だもの。これは全く嘘じゃないよ」
「それを云うなら、あたしは中学生の時から頑ちゃんの虜って事になるわね」
「期間は短いかも知れないけど、俺の虜はグッと温度が高い」
「温度にしたって、なかなかあたしも負けないわよ」
 何やら埒も無い虜加減の比べっこみたいな様相であります。
「ところで引っ越しの整理はぼちぼち付いたのかな」
「まあ、ぼちぼちね。箪笥とかベッドとか大きな荷物は持って行かないし、布団もこっちの叔母さんの処に置いていくし。持って行くのは本と洋服と化粧品と歯ブラシくらい」
「俺のアパートにも夕美の物があるぜ。ヘアドライヤーとか化粧水とか、それに髪留めとかさ。着替えに持ってきたシャツも何枚かある」
 頑治さんは片隅にあるファンシーケースを指差すのでありました。
「邪魔じゃないなら、それはここに残しておくわ。東京に出て来た時に使うから」
 夕美さんはそう云うものの、立ち上ってファンシーケースの中の頑治さんの衣類に混じって、ハンガーに吊るしてある自分の衣類を一応念のために確かめるのでありました。
「俺の洋服なんかはご存知のように極めて少ないから、全然邪魔じゃないけど」
「あ、これは持って行こうかな」
 夕美さんは頑治さんの返しの言葉なんかてんで聞いていなかった風に、一着の、空色に目立たないような紺の細い縦縞が入っているボタンダウンのシャツを、ハンガーごとファンシーケースの中から引っ張り出すのでありました。
「どうぞご自由に」
 夕美さんはそのシャツを畳んでネコのぬいぐるみを入れて来たバッグに、未だ中に入っていた何冊かの本を取り出した後で仕舞うのでありました。
「この本も頑ちゃんの処で預かっておいて貰いたいの」
 ネコのぬいぐるみを取り出した時に比べれば些かぞんざいに、夕美さんは床の上に取り出された本を指差すのでありました。それは考古学の本ではなくて、英語の童話の絵本が数冊と、ストレッチ運動の教則本とか、料理の本でありました。中にi伊東静雄の詩集と野呂邦暢の小説が混じっているのは些か異色の感がありましたか。
「別にそれは構わないけど、この本は手元に置いておかなくても良いの?」
「うん、当面は。捨て難いけど普段は殆ど手に取らない本よ」
(続)
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あなたのとりこ 290 [あなたのとりこ 10 創作]

「何だいそれは?」
 上がり込んだ夕美さんはそう訊く頑治さんに、無言でバッグのジッパーを開けて中からネコのぬいぐるみを取り出すのでありました。
「頑ちゃんの見張り役よ」
 夕美さんはぬいぐるみを胸に抱いて頑治さんの方に目を向けるのでありました。
「見張り役?」
 頑治さんは夕美さんに抱かれたネコのぬいぐるみに顔を近付けるのであました。「そのネコが、俺を見張るのかい?」
「そう云う事」
 夕美さんは立ち上がってぬいぐるみを本棚の一番上の段に乗せるのでありました。這い蹲ったネコが顔を部屋の方に向けて頑治さんを見下ろしているのでありました。
「夕美が帰郷した後、こっちで一人になった俺が悪さをしないかどうか見張るのかな」
「そう。特に浮気の」
 夕美さんは頷いてから頑治さんにやや鋭角な視線を送るのでありました。そんな目をされても、頑治さんにしたらこれまで浮気のうの字もした覚えが無かったから、全く以って心外であると云う顔をして見せるのでありました。
「心配だから、まあ、万が一のためよ」
 その夕美さんの言は、万が一、と云う言葉で頑治さんへの信頼を表しているのか、それとも、男なるものは須らく隙さえあればすぐ浮気をしたがる生き物だと云う、女なるものの一般的普遍的猜疑を表したものなのか頑治さんには良く判らないのでありました。
「これ迄だって俺は浮気なんかした事は無い筈だけど」
 頑治さんがやんわりと抗議すると夕美さんは疑わし気な目をするのでありました。
「本当? そう断言出来るのね」
 改めて訊かれると全く身に覚えが無いにも関わらず、頑治さんはどうしたものか少々の狼狽を覚えるのでありました。同時にその狼狽える自分にたじろぐのでありました。
「天地神明に誓って」
 頑治さんは気持ちの波浪を隠して片手を挙げて宣誓の真似をするのでありました。
「ふうん。まあ、良いや」
 夕美さんは頑治さんの宣誓をあっさりあしらって、その後それ以上の追及はしないのでありました。覚えも何も全く無いと云うのに、ひょっとして竟々狼狽えた自分を看破されたとしたら、これはもう間尺に合わない事甚だしい失態と云うべきものであります。
「そのネコはね、六年前にこっちに出て来る時に持ってきた物なのよ」
 夕美さんは頑治さんの焦燥を意にも留めないで穏やかに回想するのでありました。「高校三年生の時に玩具屋の店先で見付けて、何となく買っちゃったの。弥生時代の土器片とか農耕用具の木片とか、貝殻とか素焼きの棺とかその中の人骨とか、そんなのばかり相手にしている自分が、全く女の子らしくないような気が、そのネコを見付けた時に急にしてきたものだから、それで何か妙に自分に苛々してきて、衝動的に買っちゃったのよ」
(続)
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あなたのとりこ 289 [あなたのとりこ 10 創作]

「さてさて、本当にどんな回答書が出て来るのかなあ」
 満額回答は絶対ないと云われて少し気落ちした風情の袁満さんを横目で見ながら、均目さんが不安なような少し楽しみのような面持ちで云うのでありました。
「あの、転んでもただじゃ起きない片久那さんの事だから、ちょっと捻った、こっちの意表を突いたものを出してくるんじゃないかしら」
 那間裕子女史は自分が今ものした、ちょっと捻った、のその、捻り具合についてあれこれ考えるような面持ちで応えるのでありました。「唐目君、どう思う?」
「捻ったとしても、あくまで回答書ですから捻り方にも限度があるでしょう。あんまり捻り過ぎても返って誠意を疑われるから、案外素直な回答になるかも知れませんよ」
「でも、あの人は意表を突いて相手の混乱に乗じる狡猾さがあるし」
「ま、どんな回答書が出てきても、混乱した顔をしななければ良いんじゃないですか」
「でも、混乱するかも」
「そう云う恐れを今から考えているんだから、混乱したとしてもしていない表情をこちらも用意出来るでしょう。内容については、若し何やら込み入ったものだったら、回答内容についての説明は受けるとしても、その場で色々議論しないで、持ち帰ってじっくり検討して受け入れるかどうかを決めると宣して、即座に退場すれば良いんじゃないですか」
「ああ成程ね。片久那さんの早い頭の回転のペースに乗らないためにも、すぐにやりとりしないで、一旦持ち帰った方が確かに無難かも知れないわね」
 那間裕子女史は頷くのでありました。
「まあ、そう云った対応の仕方や、譲れる線と譲れない線をはっきりこちらも意思統一して置く必要があるかな、これから二週間後の回答指定日に向けて」
 均目さんのその言が、何となくこの場の締めくくりの言葉になるのでありました。夫々は自分の食い残しているピラフやらサンドイッチやらカレーライスやらを銘々平らげて、コーヒーをグイと喉に流し込んでから散会するのでありました。家に帰る袁満さんと出雲さんと駅で別れて、那間裕子女史と均目さん、それから頑治さんの三人は新宿の馴染みの洋風居酒屋に行って、もう少し一緒の時間を過ごすのは件の如し、でありましたか。

   夫々の去就

 この間夕美さんは市の職員採用試験もそつなくパスして、三月下旬の大学院卒業を待って愈々四月から市立博物館に奉職する段取りを調えるのでありました。卒業までは在学中に比べれば比較的暇なようで、その分名残りを惜しむように頑治さんとの逢瀬も頻繁となるのでありました。これは頑治さんにしたら短い時間幅では嬉しくもありと云ったところではありましたが、夕美さんがもうすぐ東京を離れて仕舞うと考えれば、それ程嬉しがる状況ではないとも云えるのでありました。まあ、その後も交際は継続するとしても。
「これ、頑ちゃんの部屋に置いておいてね」
 夕美さんは頑治さんに、持ってきたバッグを差し出して見せるのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 288 [あなたのとりこ 10 創作]

「どんな回答が出て来るかしらね」
 那間裕子女史が土師尾営業部長に対する個人攻撃から話しを逸らすのでありました。
「錬りに錬った要求なんだから、満額回答しかないんじゃないかな」
 袁満さんが楽観的な観測を披露するのでありました。
「それはないわね」
 那間裕子女史が即座に否定するのでありました。
「そうですね。一種の意趣返しをする心算もあるだろうから、すっかり要求通りとはいかないだろうな。色々あれやこれやと捻ってくるに違いない」
 均目さんも同調するのでありました。
「でも大体のトーンとしては丸呑みするしかないんじゃないかなあ」
 袁満さんはあくまで楽観的なのでありました。
「片久那制作部長の事だから、確かに体系としてはちゃんとしたものを出すでしょうね。でも金額とかは屹度渋いんじゃないですかねえ。前提として業績不振があるから」
「でもまあ、すっきりした公明正大な体系が出てくれば、先ずは良しとしなければならないんじゃないかしら。金額は今後妥結迄の何回かの交渉次第だとしても」
 これは那間裕子女史が先程の分室での総括でも披露した考えでありました。
「その公明正大な体系に自分達の賃金も縛られる訳だから、金額も自分達の納得出来る線まで屹度上げて来ると思うけどなあ」
「いや、基本給はグッと押さえてくるでしょうね。その代り役職手当を大幅に増額するかも知れない。残業代とか一時金の算定は基準内賃金が元だし、要求でも基準内は基本給プラス役職手当とこっちで要求書に明記したんだから、それを最大活用するでしょう」
「でも、一見しただけで自分達だけに有利で他の従業員には不利な、或いは大して恩恵も無いような、露骨に手前勝手な体系を出してくるかなあ」
 頑治さんが会話に加わるのでありました。「そんな事をしたら、話し合いが益々紛糾するだけだと云うのは、幾ら何でも向こうも判るでしょう」
「社長と土師尾営業部長の二人で作るとしたら、そう云う、単に仕返し目的の如何にも下劣な回答書も出て来るかも知れないけど、でも結局、片久那制作部長が主に考えるんだろうし、そうならそんなに滅多なものは出してこないんじゃないかな」
 均目さんが例に依って片久那制作部長への信頼を披歴するのでありました。片久那制作部長の事を時に、冷酷であるとか他人への配慮に欠ける面があると批判する事もあるけれど、基調に於いて均目さんはなかなかに信頼を置いているようであります。
「社長も土師尾さんも根が小心者だから、バックに控えている全総連の存在に及び腰になって、態と大袈裟に事を構えて交渉を長引かせる戦術は採らないでしょうね。第一そんなに根性も座っていないし深慮遠謀の人でもないし。小心者は大体に於いてこう云う煩わしい陰鬱な事態は、少し損をしてでもなるだけ早く円満に収拾したいと先ず考えるものよ。でもそれだからと云って、満額回答とか丸呑みとか云うのは絶対ないわよ、袁満君」
 那間裕子女史は袁満さんを指差して、クールに釘を刺すのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 287 [あなたのとりこ 10 創作]

 均目さんのその言にはどこか、片久那制作部長には全幅の信頼が置けると云う均目さん個人の大前提があるように聞こえるのでありました。片久那制作部長が相手ならまともな議論や交渉が出来る筈だと云う安心感なのか、それとももっと別の片久那制作部長を信頼に足るとする何やらの根拠を持っているのかは良くは判らないながら。

 遂に組合結成迄漕ぎ付けたと云う感奮と、それから社長や土師尾営業部長に一矢報いて遣ったと云う満足感で、この後も暫く何時もの会合よりはかなり饒舌な総括は続くのでありました。最後に、回答日迄は社長や両部長が社員個々との話し合いを求めてきてもそれには応じず、話し合うなら全員でと確認してから散会となるのでありました。
 要求提出後は有給保証のストライキとなっているので、敢えて会社に戻る必要も無いものだから、横瀬氏を除いた社員全員で御茶ノ水駅近くの、前に時々会合を持った喫茶店で遅い昼食を摂るのでありました。ちゃんとした昼食を出すレストランや定食屋ではなく、長居が出来る喫茶店を選んだのは、未だ全員喋り足りていないからと云うのもありますが、心の隅の方に、大変な事を仕出かしたのだから一人になるよりもなるべく長く皆で寄り集まっていないと何だか心細い、と云う心理が働いていたためでもありますか。
「一応総括は終えたけど、これで後は有給の自由時間と云うのも何となく後ろめたい気がするから、これは総括の二次回と云う事にするか」
 袁満さんが各自注文を終えた後でそんな提案をするのでありました。「土師尾営業部長と片久那制作部長が未だ仕事をしているから、我々も気儘にコーヒー飲みながら遊んでいる訳ではないと云う体裁を取らないと、何だか申し訳無いような気がするし」
 なかなか殊勝な心掛けと云うところでありますか。
「どうせ両部長も社長も仕事どころではなくて、弁護士先生も交えてこれから先の対策に大わらわしているだろうから、そんなに後ろめたがる必要はないと思いますけど」
 均目さんが袁満さんの生真面目を軽くあしらうのでありました。
「対策と云ってもあたし達の要求に対する回答書を作る事がメインでしょう。社長や土師尾さんにはそれは荷が重いだろうから、これは片久那さんの仕事と云う事になるわね。社長と土師尾さんは今頃になって何やかやと考えて、オロオロしたり怒り狂っているだろうから、ま、結局のところ仕事に手を付けられるような状態じゃないだろうけど」
 那間裕子女史が痛快そうな笑みを浮かべるのでありました。
「土師尾営業部長は意外に大人しかったですね」
 この間すっと、捗々しい出番が無かった出雲さんが振り返るのでありました。出雲さんの出番が無かったのは、一番の若輩であるための遠慮と、自分如きが口出しするには色々混み入った話しの内容だと云う気後れからでありましょう。
「残業代の件を持ち出されて恥じ入っていたんだろう」
 袁満さんが云うのでありましたが、すぐに均目さんが首を横に振るのでありました。
「そんなしおらしいタマじゃないないでしょう。あの人は自己を省みるなんて云う心の運動性は持ち合わせていないですよ。逆に我々に対する怨念が先立ったでしょうね」
(続)
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あなたのとりこ 286 [あなたのとりこ 10 創作]

「あの人の感受性の性向からすると、恥じ入ると云うよりは袁満さんが今云ったように、片久那制作部長に対しては裏切られたと云う逆恨みが先に立っただろうな、確かに」
 均目さんが皮肉な笑いを浮かべるのでありました。「でも片久那制作部長に何か云うには、自分があらゆる面で相当に役不足である事はちゃんと知っているし、うっかり何か云おうものならどんな反撃を喰うか判らないから、ダンマリを決め込むしか手が無い」
 そんな経緯を聞きながら頑治さんは、片久那制作部長が団交の間中ずっと沈黙を守っていた訳ではない事を知るのでありました。まあ、現場を預る管理職として、一方の土師尾営業部長に発言させればどんな紛糾や不利が生じるか判ったものじゃないから、土師尾営業部長への当て擦りも多少加味して自分が前に出たと云った按配でありますか。
「あれこれ聞くと、土師尾営業部長と云う人は相当に問題有りの人物みたいだなあ」
 横瀬氏が何故かしみじみと云うのでありました。
「問題有りどころか、問題だけで出来上がったような人間ですよ」
 袁満さんが彼の人の顔を思い浮かべたのか舌打ちするのでありました。
「確かお坊さんと云う一面もあるとか、前に聞いていたけど?」
「千葉の或る寺の副住職らしいですよ。でも副住職と云っても、請われてその役を引き受けたと云うよりは、自分から売り込んでその役に就かせて貰ったんでしょうけどね。まあこれは確認した訳じゃなくて、色々聞いた上での俺の推量半分ですけど」
 均目さんが返答するのでありました。
「それは副業と云う位置付けなのかな?」
「いや、寺からは別に手当ては何も貰っていないでしょう。寺としても副住職にしてやったんだからそれだけで有難いと思え、と云った心根でしょうからね。ま、法事とかで檀家を回ったりしたら、その分のお布施なんかは自分の懐に入れるんでしょうけど」
「つまりアルバイトではある訳か」
「そうですね。お布施稼ぎが目的のアルバイト坊主ですよ、あんなのは」
 袁満さんが軽侮満載の顔で云うのでありました。
「でも、仮にもお坊さんなんだから、少しくらいは理性的であるとか分別のある人であっても良いような気がするけど、聞いていると社内で一番生臭い人のようだなあ」
「あんなのはただの、浅はかで腐臭プンプンのインチキ坊主ですから」
 この袁満さんの言に均目さんが賛同の苦笑を漏らすのでありました。
「お坊さんだって事で、それを拠所に矢鱈と人徳者ぶったりするのは好きよね。それに曲がりなりにも僧籍に在るのだから、真面目で律義だろうと云う印象を使って、ウチのお得意さんなんかにちゃっかり人徳者振りを売り込んでもいるみたいだけどね」
 那間裕子女史も鼻を鳴らして見せるのでありました。
「そんな部長やあの社長をこの先相手にするとなると、なかなか大儀そうだな」
 横瀬氏が危惧するのでありました。
「いやいや、社長や土師尾営業部長は無責任にオロオロ騒ぎ立てるだけで、現場や会社の実情をちゃんと理解している片久那制作部長が実質上の相手、と云う事になります」
(続)
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