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あなたのとりこ 312 [あなたのとりこ 11 創作]

「いやまあ、あくまで匂いであって、まあ、はっきり全総連がその政党と繋がっていると云う確証を俺は持っていないし、巷間そのように云われると云った辺りですけどね」
 均目さんは曖昧に逃げるのでありました。
「前にも云った事があるかと思うけど、全総連は特定の政党と密接に繋がっていると云う事はないよ。全総連の組合員は個人的にどの政党を支持しようと自由だし、全総連がそれにあれこれ干渉する事は無い。全総連はあくまで労働組合なんだから」
 とは云うものの、与党である保守政党支持とか、宗教絡みの政党とか云う線は先ず無いでありましょう。それに第一、特定の政党と繋がっていると云う体裁は採らない方が、オルグや宣伝活動とか色んな意味で得策だから、表の顔は善良な無党派みたいに装っているけれど、しかしそれは矢張り、あくまで表向きの顔でしかないでありましょう。
 頑治さんは横瀬氏の公式論的な言辞を聞きながらそんな事を考えるのでありましたが、均目さんも横瀬氏の言に対して多分鼻を鳴らしているだろうと想像して均目さん方を見るのでありました。しかし均目さんは特段の顔色の変化を見せはしないで、無表情を貫いているのでありました。穏健派は、要らぬ紛糾は避ける心算のようでありました。
「片久那制作部長が組合に入るとなると、俺達も過激派の方に引っ張られていくかも知れないけど、俺としてはそれは勘弁してもらいたいなあ、出来れば。俺は何方かと云うと戦闘的な性格ではないし、万事出来るだけ穏便に済ませたい方だからねえ」
 袁満さんが先程の出雲さんと同じような感想を漏らすのでありました。こちらも本気で片久那制作部長の組合加入を懸念しているようであります。
「片久那制作部長は絶対、この組合には入らないから心配しなくても大丈夫ですよ」
 均目さんがここでも何だか妙な請け合いをするのでありました。しかし幾ら苦手にしている人だからと云って、加入を希望する従業員を敬遠する組合と云うのも、ケツの穴の小さいちんけな了見の労働組合と云うべきであろうと頑治さんは思うのでありました。
 そう云う均目さんを横目で見ながら、横瀬氏が不愉快そうに表情を曇らせるのでありましたが、別に口は開かず、この場では均目さんのある意味で無神経な言辞を聞き流そうと云う心算のようでありました。まあ、それが若し無神経な言辞と聞こえたとすれば、つまり全総連がその左翼政党と裏で繋がっている左証と云う風にも考えられると云うものであるかと、頑治さんはどちらかと云うと均目さん寄りの感想を持つのでありました。

 三次回答は書面も出てこないのでありました。二次回答から一歩も動かす意志が無いと云う経営側の明快且つ慎につれない態度表明でありますし、回答を重ねさせれば幾らでも譲歩するだろうと云う甘い観測も通用しないぞと云う、憤慨の表明でもありますか。
 確かに組合側としては虫の好い観測を以って二次回答を拒否した経緯もありますから、書面も出さない向こう側の態度に、がっかりはするもののそれ程の怒りは感じないのでありました。そんなに甘くはない事は既に承知していたのであります。依って先の二飛回答を以って妥結と云う事に、今次も下の倉庫での打ち合わせの時間を挟んだ後に、結局決するのでありました。結果として三日間と云う無駄な日数が挟まっただけでありました。
(続)
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あなたのとりこ 311 [あなたのとりこ 11 創作]

「部長でも組合に入る事が出来るんですか?」
 袁満さんが横瀬氏に怪訝な顔で訊ねるのでありました。
「まあ、組合に依るけど。排除しないところもあれば、課長迄とか制限しているところもあるかな。でも均目さんが云うように従業員であると云う点は間違いない」
「社長は片久那制作部長を畏れているし苦手にもしている。それに自分の側の人間として全幅の信頼を置いている訳でもない。寧ろ経歴を考えれば、労働組合側にシンパシーを感じているようにも思える。だから、片久那制作部長が組合側に付くかも知れないと云うのは、社長にとっては結構リアリティーのある危惧と云う事になるかな」
「ああ成程ね。そう云われればそうかも知れない」
 袁満さんがこの均目さんの社長の了見分析に大いに頷くのでありました。「だったら機嫌を損ねないためにも、社長は片久那制作部長の意向に逆らえない訳だ」
「だからこちらも同様に留意しておくべきは、社長や土師尾営業部長なんかより、片久那制作部長の機嫌という事になる。そう云う意味で云うと、あんまりガツガツして片久那制作部長の労を簡単に無意味にして仕舞うのは、あんまり上手いやり方ではないかな」
 均目さんはそう云いながら那間裕子女史の方をチラと窺い見るのでありました。これはつまり均目さんとしては先の那間裕子女史の、取れる時にギリギリ取れるだけ云々、と云う意見には賛同しないとの表明でありましょう。均目さんと那間裕子女史を比較すると、均目さんの方がやや穏健派的な考えを持っていると云う事になりましょうかな。
「ひょっとして片久那制作部長が組合に入る事になれば、何だかこっちも、ちょっと嫌な緊張感があったりして身構えて仕舞いますよね」
 出雲さんが少し話題をズラして苦笑うのであありました。
「確かにあの行動力と迫力で、俺達より随分前に突出される恐れがあるかな。俺達の意見なんか甘っちょろくて聞いていられないと云った感じで、組合を大いに戦闘的左派みたいにして仕舞うに違いない。嘗ての新左翼運動家の情熱を以ってさ」
 均目さんが冗談口調で云うのでありました。「でもまあ、片久那制作部長が俺達の組合に入ると云う目は、全くと云って良い程無いと断言出来るよ」
「ああそうですかねえ」
 出雲さんは均目さんの断言にやや安堵の表情をして見せるのでありました。
「片久那制作部長は全共闘の闘士だった学生時代、同じ左翼であるはずの或る政治政党にひどい裏切りをされて以来、その政党の匂いのある団体には敵意丸出しだからね」
 均目さんは遠慮がちに横瀬氏と来見尾氏の方に横目をして見せるのでありました。要するに、その政党の匂いのある団体、と云うのが、全総連である事をそれなく出雲さんに仄めかそうと云う魂胆でありますが、出雲さんはそんな込み入った示唆には無頓着と云った鈍い表情で、均目さんのものす事情が良く呑み込めないようでありました。
「要するに全総連にその政党の匂いがあるから、その傘下での組合活動は、片久那制作部長は絶対しないだろうと云う事かな、均目さんが云わんとしている事は」
 出雲さんより、寧ろ当然、横瀬氏の方が均目さんの言を聞き咎めるのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 310 [あなたのとりこ 11 創作]

「社長と片久那制作部長は、調子に乗るなよ、と思っているだろうな」
 袁満さんが乾杯の後、溜息を一つ吐いてから云うのでありました。
「別に調子に乗っている訳じゃないわ。あくまで最初の要求を貫きたいだけよ」
 那間裕子女史がビールの泡を少量乗せた儘の上唇を動かすのでありました。しかし要は回答書に記載される金額のあわよくばの微増を狙っての事であり、最初の要求を貫きたいとか云う意志的な決裂と云うよりは、上乗せ交渉の手練手管の一種と云うべき様相であろうと頑治さんは思うのでありました。まあ、ここで態々そんな那間裕子女史に対する皮肉っぽい挑発なんかをして、女史の剣突を頂戴する了見は全く無いのでありましたが。
「少しくらいは金額が動くでしょうかね?」
 その日は珍しく居酒屋に迄同行してきた横瀬氏に袁満さんが訊くのでありました。因みに第二次団交には一次団交の時と同じく来見尾氏も顔を出したのでありましたが、その日はこの後にプライベートな用があると云うので、団交が終了した後は一人、一団から離れて錦華公園を抜けて御茶ノ水駅の方に帰って行ったのでありました。
「どうかな」
 横瀬氏は懐疑的な表情に少し不愉快が混入したような顔付きでありましたか。氏の感触としては徒に組合の方が妥結迄の途を長引かせていると云う印象なのかも知れません。
「まあ、二次回答の内容でも、我々にとっては充分勝利と云えるんじゃないのかな」
 そんな横瀬氏の気配を察してか、均目さんが云うのでありました。「横瀬さんも二次回答を以って妥結しても良かったとお考えなんでしょう?」
「明快な年齢別賃金の体系が出て来たし、その賃金体系に則るための是正も出すと云っているし、回答額そのものにも一定の誠意は感じられるし、欲をかいてこれ以上態と拗らせる必要は無い気もするなあ。ま、妥結するかどうかは勿論当該が判断する事だけど」
「でも取れる時にギリギリ取れるだけ取っておかないと、後が期待出来ないと云う見方もあるんじゃない。特にあちらには判らんちんの社長と土師尾さんが居る事だし」
 那間裕子女史は組合員の中で一番粘り強い闘争的な姿勢の保持者でありますか。
「でもあの三人の中では片久那制作部長が圧倒的に主導権を持っているから、社長や土師尾営業部長の出る幕は先ず無いんだろうけど」
 均目さんは片久那制作部長だけを交渉相手として見ているようで、社長や土師尾営業部長の存在は殆ど眼中に無いと云った様子であります。
「でも、社長に決定権があるわよ、最終的には」
「そうであるけど、社長は片久那制作部長に逆らえない」
「社長は片久那制作部長には、弁に於いては全く歯が立たないからね」
 袁満さんが均目さんに同意するのでありました。
「それだけじゃなくて、社長としては若し片久那制作部長に臍を曲げられて、組合の側に走られては一大事と危惧しているんじゃないのかな」
「片久那瀬利作部長が組合の側に走る?」
「部長職ではあるけど、従業員である点は俺達と変わりは無いし」
(続)
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あなたのとりこ 309 [あなたのとりこ 11 創作]

「第一、団交の回を重ねれば重ねるだけ、少しずつでも獲得分が増えると云う確実な目算があるなら粘る甲斐もあるけど、それ程向こうも甘くはないでしょうし」
「それもそうだなあ。・・・」
 袁満さんの心中にある針が少し、これで妥結の方向に振れたようでありました。
「でもう一回だけ粘ってみる方が、今後の展開に於いて色々好都合だと思うけど」
 均目さんが袁満さんのぐらつきにそれとない叱咤を呉れるのでありました。
「そうね。向こうが甘くないと観測する前に、こっちが甘くないところを先ず見せておかないとね。あたしもここはもう一粘りする方が良いと思うわ」
 那間裕子女史も考えとしては均目さんに同調するようでありました。
「どうしますかねえ?」
 袁満さんが横瀬氏に意見を求めるのでありました。
「まあ、向こうの回答がこれ以上動く可能性は低いと思うけど、しかし、この回答を突っ返して三次回答を要求するかどうかは、当該が判断する事だからねえ」
 どうやらこの件に自分の意見はものさないと云う了見のようであります。
「じゃあ、決を採ろう」
 袁満さんはもう一度全員を見回すのでありました。「妥結する方に賛成の人は?」
 先ず頑治さんがおずおずと手を挙げるのでありましたが、それに続いて躊躇いがちな素振りで出雲さんも挙手するのでありました。
「三次回答を要求するのに賛成の人は?」
 これには均目さんと那間裕子女史が即座に賛意を表明して、それを見定めてから袁満さんも徐に右掌を肩の辺り迄挙げるのでありました。と云う訳で、二対三でこの二次回答は拒否して三次会等を求めると云う意志に決するのでありました。
 三階の事務所に戻ると袁何さんが代表してその旨を社長に通告するのでありました。社長は腕組みして、下唇を突き出して渋い表情をして見せるのでありました。土師尾営業部長はそんな社長の様子を見てから同じような渋面を作り、片久那制作部長は如何にも不愉快そうに眉根を寄せてから、眼鏡の奥の瞼を閉じるのでありました。
「団交の回数を重ねれば重ねるだけ、段々と額が増えていく訳じゃないよ」
 社長は忌々しそうな語調で精々の嫌味を云うのでありました。
「そんなつまらない駆け引きをしようとしているんじゃなくて、この二次回答でも未だ々々、我々の希望する妥結額には遠く及ばないと云う事ですよ」
 袁満さんはそっぽを向きながら、如何にもクールな物腰を装ってそう云い放つのでありましたが、社長の嫌味は、狙ってかそうでないかは置くとしても、ちゃんとこちらの魂胆をたじろがせる程度に的を射ていて、袁満さんは思わずどぎまぎして仕舞って、そのための目の動揺を見せまいとしてそっぽを向いたのでありましょう。

 二回目の団交も結局決裂で終わるのでありました。反省会及び次の三次団交に向けての打ち合わせのために、組合員はこの後件の居酒屋に流れるのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 308 [あなたのとりこ 11 創作]

「まあ、善処しているところを見せようとする意図は伝わって来るかな」
「でも実質は殆ど動かす気は無いと云う意図も読み取れますけど」
 均目さんは眉間に皺を寄せるのでありました。
「多分向うとしても、本当にこれがギリギリかもよ」
 那間裕子女史が口を挟むのでありました。「原則である同一年齢同一賃金の補正もかち取ったし、それを加えれば組合員平均では例年以上の賃上げになるだろうし、夏の一時金もまあ、例年並みと云う事になるようだし、結構上出来と云えるんじゃないかしら」
「暮れのボーナス、じゃなかった、一時金の事を思えば、確かに御の字かな」
 袁満さんも那間裕子女史に同調するのでありました。
「もう一回粘れば、もう少し金額が上るんじゃないっスかねえ」
 出雲さんが笑いながら冗談めかして言うのでありました。
「その可能性もあるかな」
 袁満さんがこちらも笑いながら受け応えるのでありました。「でも、小出しにしてこちらの出方を見ているような気配でも無いしなあ」
「片久那さんも、つまらない駆け引きをする気は無い、とか云っていたしね」
 那間裕子女史が頷くのでありました。「土師尾さんがそう云ったとしたら胡散臭さプンプンだけど、片久那さんは本当に駆け引きする気はないと思うわ」
「じゃあ、これで妥結する?」
 袁満さんがまたそう聞きながら一同を見渡すのでありました。
「でも二次回答くらいで妥結して仕舞うと、嘗められないかな」
 均目さんは未だ何となく不承のようであります。
「まあ、組合を結成して最初の団交だから、今後の事を考えれば、その辺の粘りとか遣り取りも戦術として確かに重要になってくるかも知れないわね」
 那間裕子女史が均目さんの不承に理解を示すのでありました。つまり片久那制作部長は駆け引きする気は無いと云っているのに、こちらは駆け引きする気満々、と云う事でありますか。頑治さんはそう思うのでありましたが、そんな皮肉っぽい事を敢えてここで口にして那間裕子女史の勘気を態々買う心算なんか更々無いのでありました。
「唐目君はどう思う?」
 袁満さんが頑治さんに発言を求めるのでありました。
「実質が動く気配が見えないなら、これ以上粘っても無意味じゃないですかね」
「でもひょっとしたら、また一時金の一律部分が微増するかも知れないし」
「どうですかね、それは」
 頑治さんは首を傾げて見せるのでありました。「獲得した実質はそこそこ満足出来る水準なんですから、変に頑固な態度に出るより、誠意を感じればこちらも誠意で応えると云う辺りを見せておくのも、寧ろ今後のためには無難なのじゃないですかね」
「まあ、獲得分を増やすより、そう云う風な考え方もあるかな」
 袁満さんは無表情で浅く頷くのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 307 [あなたのとりこ 11 創作]

「ベアの部分はもう動かせないのですか?」
 袁満さんが意を励まして少し粘るのでありました。
「週に三十分時間短縮した分、時給は上がる計算になる」
「何だか申し訳のような、当て擦りのような回答ですね」
「申し訳でも当て擦りでもない。ギリギリの線だ」
「一時金にしても二十割と云うところは動かないのですね」
「繰り返すがギリギリの線だ。つまらない駆け引きをしようと云う気は無い。大体ウチの一時金の算定に、今迄は一律金と云う考えは無かったが、歳の若い者、基準内の低い層を手厚くすると云うそちらの発想だろうから、それにはちゃんと則っている心算だ」
 この片久那制作部長の、つまらない駆け引きをしようと云う気は無い、と云う言葉の前には、社長や土師尾営業部長のように、と云う言葉が屹度省略されているのでありましょう。勿論社長も土師尾営業部長もそれにはとんと気付かない様子で、片久那制作部長と同じような深刻顔を必死に装っているのみでありましたが。
 それに矢張りこの二次回答には、片久那制作部長の社員への当て擦りが濃厚に込められているように頑治さんには思われるのでありました。春闘要求の回答として最低限の誠意は見せるけれど、しかしそれ以上の誠意は示す心算なんか毛頭無いと云うそれとない態度も然り、それにこの自分に誠意を要求する社員達の方に、それなら今迄、自分の仕事に全力で誠実に対してきたのかと云う逆質問が物腰の裏に用意されているような気配も然りであります。それ故の片久那制作部長の無愛想であり、語調の冷ややかさであり、どこかしら取り付く島も無いようなつれなさであり、不愉快そうな佇まいなのでありましょう。
 そんな片久那制作部長の気分も、頑治さんは判るような気がするのでありました。ただ春闘の団体交渉の席でそれを持ち出して話しを態々無責任に紛糾させるような、まあ、土師尾営業部長的な愚行を犯さないクールさと云うのか抑制力と云うのか、それにしたたかさと周到さなんかを片久那制作部長は持ち合わせていると云う事でありますか。
 一次回答の時と同じに、組合員はまた一旦席を外して別室での内部協議に入るのでありました。組合員は三階の事務所を出て一階の倉庫に向かうのでありましたが、夫々の胸中に一次回答の時のような感奮は無いのでありました。一次回答ではある種の勝利感があったから、倉庫に向かう足取りも大いに弾んだ調子があったのでありましたけれど、二次回答は思っていた程の強い手応えが無くて肩透かしされた感じでありますか。
「どうする、これで妥結する?」
 倉庫の作業台代わりの机を囲んだ一同を袁満さんがグルリと見回しながら、あんまり弾まない声で訊くのでありました。
「なんかちょっとがっかりだわね」
 那間裕子女史が気落ちした素振りで云うのでありました。
「これ以上粘っても、もう上乗せは期待出来ないかな」
 均目さんも項垂れるのでありました。「この二次回答をどう思います?」
 均目さんは目を上げて横瀬氏に問うのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 306 [あなたのとりこ 11 創作]

 ホームに一人取り残された頑治さんは、夕美さんを乗せた列車の後尾がみるみる遠ざかるのを虚しく見送っていたのでありましたが、遂に車両の一点の欠片も視界から消え失せて仕舞うと、もう春だと云うのに、急に辺りの空気の冷たさが全身に染みてくるのでありました。その寒さに同調して、頑治さんが立っているホームの気配が、嫌に他所々々しい顔をするのでありました。早々にここから立ち去れと促されているようでありますか。
 夕美さんがもう東京から居なくなったのだと云う喪失感は、東京駅から自分のアパートに戻って来て、一人で座布団の上に座っていると余計に重く肩上にのしかかって来るのでありました。一か月後にはまたすぐ逢えるんだと何とか意を励ましても、寂しさは一向に収まらないし、寧ろ益々増幅してくるようでありました。
 本棚から夕美さんが残していったネコのぬいぐるみが、頑治さんを無表情に見下ろしているのでありました。それは夕美さんから頑治さんを監視する役目を仰せつかっているのでありましたから、頑治さんにとっては何となく鬱陶しい存在の筈でありました。
 しかし居なくなった夕美さんの名残りのネコだと思えば、寧ろ愛おしくもなると云うものであります。頑治さんはこの部屋に残った夕美さんの痕跡をあれこれ考えてみるのでありました。このネコもそうだし、野呂邦暢の小説と伊東静雄の詩集、それから何冊かの料理本や英語の童話とかもそうであります。それにヘアドライヤーもあるし、数枚の衣類も残っているのでありあます。考えてみればなかなかに豊富と云うものであります。
 そう考えると頑治さんは幾分気持ちが和らぐのでありました。夕美さんの遺していった痕跡に囲まれてこの一か月を遣り過ごすのは、芯に虚しさはあるものの、何とか出来なくもない気がするのでありました。当面、そうっするしか術は無いのでありますし。

 春闘要求に対する二次回答は少しの進展があるのでありました。夏季一時金が基準内の二か月分に一律二万円プラスと云うその一律のところが、三万円のプラスと増額されているのでありあました。それから就労時間に関して、完全週休二日制にする代わりに、月曜から金曜までの終業時間を三十分延長すると云う件が、それより六分短くして、二十四分の延長とし、終業時間を十七時二十四分とするとされているのでありました。
「十七時三十分が十七時二十四分と云う半端な時間になったのはどう云う事ですか?」
 袁満さんが片久那制作部長の意図が読めないと云う顔をして訊ねるのでありました。
「週に三十分、更に労働時間を短縮するためだ」
 片久那制作部長が無愛想に応えるのでありました。
「週にたった三十分ですか!」
 袁満さんはその渋ちん加減に呆れたように云うのでありましたが、片久那制作部長が眉根をピクリと動かして、なかなかに迫力満点の不愉快を表明するのでありました。袁満さんは怯んで片久那制作部長から外した目をオドオドと宙に泳がせるのでありました。
「そう云うが、週に三十分が限界だ」
 片久那制作部長は鮸膠も無い云い方をするのでありました。「大体週休二日にした時点でもう既に時短になっているんだからな」
(続)
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あなたのとりこ 305 [あなたのとりこ 11 創作]

「ああ成程。それは道理だ」
「でもまあ、五月六日から先も、多分毎日、夜は頑ちゃんと逢うでしょうけどね」
 夕美さんはそう云ってニンマリと笑むのでありました。
「お茶の水のビジネスホテルに泊まるのなら、逢うには好都合かな」
 頑治さんも笑み返すのでありました。
「あたしが東京を引き払った後も、一か月後にはまたすぐに逢えると云う事ね」
「今迄だって一か月くらい逢えない時もあったし、そういう意味では今後も二人の逢瀬に関しては、少し不自由にはなるけれど今までとあんまり変わらないって事になるかな」
 頑治さんが云うと夕美さんは頷くのでありました。しかしそれは、矢張りこれ迄とは決定的に違う状況が二人の間を隔てる事になる、と云う儘ならなさを何とか二人して認めたくないものだから、多少無理な理屈で以って現実の無聊を糊塗しようとしているようなものかなと、頑治さんは気持ちの底の方でそこはかとなく考えるのでありました。何とも潔くない二人でありますが、ここでは潔さなんか糞喰らえ、と云う心境でもありましたか。まあ要するに、二人共後少しに迫った別れの瞬間が怖くて堪らないのであります。

 列車がホームにゆるりと滑り込んで来ると、夕美さんは一旦車内に入って自分の指定席に旅行カバンを置いてから、頑治さんが扉の外で待っている車両の出入り口に戻って来るのでありました。未だ発車迄少しの余裕があるのでありました。
「一か月後にまたすぐ逢うんだけど、でもまあ、これで取り敢えずお別れね」
 夕美さんは車内から車外に居る頑治さんの手を取って固く握るのでありました。
「一か月後にまたすぐ逢うんだけど、でもまあ、取り敢えずそれ迄元気で」
 この今の別れに然したる意味は無いと云う事を、こう云う軽口めいた云い方でお互いに強調しながら念を押すのでありました。と云う事は、認めはしないものの実は矢張り思いの外、しめやかな心のダメージがあると云う事の左証でもありますか。それはそうでありまっしょう。これからは逢いたい時すぐに逢う事は叶わないのでありますから。
 発車のベルが鳴り響いて、扉から離れろと云うアナウンスが流れると頑治さんは握っていた夕美さんの手を離すのでありました。その離れる頑治さんの手に縋るように、少し夕美さんの手は前に伸びるのでありましたが、発車のベルが止むとその手はそれ以上の伸長を思い止まって、未練がましい素振りで夕美さんの胸元に戻るのでありました。
 無情に閉じた扉の小窓の向こう映る夕美さんの顔が歪んで、頑治さんに何やら切羽詰まった視線を送る両目から涙が一筋零れるのでありました。それを見て、矢張り、別れは別れなんだと頑治さんは思い知るのでありました。
 どうせ一か月後には逢う事が出来るのだし、その後もなるべく頻繁に会う了見ではあるけれど、しかし矢張り間違い無く夕美さんは東京から居なくなるのでありました。二人の間を隔てる気の遠くなるような現実の粁程の、何と忌々しい長さである事か。
 実に呆気無く、頑治さんの前から夕美さんを乗せた列車は消えるのでありました。そのあまりの呆気無さが、頑治さんの喪失感を妙に混乱させるのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 304 [あなたのとりこ 11 創作]

「俺としては複雑で面倒臭い仕事なんかよりは、物相手の単純労働の方が性に合っているけどね。従業員が少ないからそうも云っていられないと云うのが実情だよ」
「でも頑ちゃんには、これから先、色んな人と出会ってみたいと云う志望があるし、その志望のために、故郷に引っこむ事を潔しとしない訳だし」
 夕美さんはそんな事を別に恨みがましくも皮肉っぽくも無く、無表情に云うのでありました。ま、ほんの少しはそのような色が語調に含まれていたかも知れませんが。
「正確に云うと、出会ってみたいと云うよりは、単純に観てみたいと云う事かな」
「物を相手の仕事では、その志望も叶わないじゃない」
「それはそうだけど。・・・」
 確かに頑治さんは、どうせこの世に人間として生まれて来たからには、同時にこの世を生きる、出来るだけ多くの自己ならざる人供を実見したいと云うゆるぎない筈の願望があると当時に、煩瑣な人間関係とか、何かと生臭い人供の息の縺れ合いから遠く離れたところで、静謐一途に生きていたいと云う相反の願望も一方に持ち合わせているのでありました。そんな仙境のような処での生活なんと云うものは、夢のまた夢と何故か端から諦めているものだから返って雑多なる人混みの中に紛れ込もうとしているのかも知れません。
 ま、取り敢えず人間と云う動物が第一義的には情の世界で生きていると云う前提に立つといたしましょう。そうすると、こよなく人恋しい心情と人気の消えた無色無臭の世界に同時に魅かれる心情は、そんなに奇異なものでも不埒でも、不安定で落ち着きの悪いものでもないように思われるのでありますが、はてさて。・・・
「今ここでそんな事をあれこれ話していても始まらないけど」
 夕美さんはこの話しを切り上げようとするのでありました。それはその通りで、夕美さんが今正に東京での生活に区切りを付けて故郷に帰ろうとしていて、惜別の念を一方にそれを見送りに来ている頑治さんとのこの一場に於いては、これはどうしても話さなくてはならない話しと云うものでは確かにないでありましょうか。
「ゴールデンウィークには東京に来るんだろう?」
 頑治さんは冷めて仕舞ったコーヒーを飲み干すのでありました。
「そうね。四月の二十九日に来るわ。連休明けに大学の考古学の先生と打ち合わせがあっ
て、何だかんだで五月の十日くらいまでこっちに居る事になるかも」
「連休中は私用の旅行で、連休後は公用の出張と云う訳か」
「ま、そんな感じ」
「何だか帰ってから経費の清算が面倒臭そうだな」
 頑治さんは全く余計な心配をするのでありました。
「往復の旅費と五月六日からの宿泊費は経費で落とせると思うわ。五日までは叔母さんの家に泊まって、その後は御茶ノ水のビジネスホテルに泊まる心算よ」
「すると叔母さんの家に居る間は、俺のアパートには泊まらないと云う事かな?」
「ううん、何とでも理由を付けて泊まりに行くわよ。だって五月五日までがプライベートの遊びの時間なんだから、頑ちゃんとの逢瀬はその間がメインよ」
(続)
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あなたのとりこ 303 [あなたのとりこ 11 創作]

「博物館の仕事はいつから始まるの?」
「勿論、年度初めの四月一日」
「じゃあ、向こうに帰ってからも、時間が無いからその日迄はバタバタしそうだな」
「まあそうかも知れないけど、でも何が何でも四月一日までに片付けて仕舞わないといけない事は特に無いから、案外と気楽な心持ちよ」
「就職するに当たっての意気込みとかはどんなものかな?」
「気負いは無いけど、新しい環境には多少興味と不安はあるかもね。それに大学と共同の大掛かりな発掘調査の仕事が目前に控えているから、すぐにそちらの具体的な仕事に取り掛からなければならないようだし、あれこれ戸惑っている時間なんか無さそうよ」
「ふうん。まあつまり博物館側としても、大いに期待の持てる新人が好都合に折も良く入って来たぞ、とか云ったところかな」
 頑治さんとしては夕美さんの幸先が好からんことを願うばかりでありましたか。
「頑ちゃんの会社の方はどうなの?」
 夕美さんはコーヒーカップを持ち上げながら訊くのでありました。
「明後日が春闘の二次回答日指定日かな。ま、幸いにも、紛糾したり拗れたり、難しい局面が出来したりと云った可能性は低いと思うけど」
「それは、順調、と云う事?」
「まあ、変な風にはなっていないと云うところかな」
「頑ちゃんのお給料はグンと上るの?」
「グンとじゃなくて、まったりと上る、みたいな感じかな」
「まったりと?」
「賃金上昇率でみると例年並みかやや高、と云ったところみだいだし、暮れのボーナスがあんな風だったから、それだけ確保出来れば御の字と云う雰囲気かな。完全な年齢別賃金になるんで俺は是正分が付くから、やや高、の口になるかな」
「業務は他の職種に比べて割りが良くなかったのね」
「そうね、会社の売り上げに重大に関連している職種では無いからね。まあ云ってみれば縁の下で様々な雑用をする、みたいな仕事だし」
「でも、会社には無くてはならない仕事でしょう」
「それはまあそうだけど、でも正直、俺はそんなに自分の業務仕事にプライドを持っているかと云うと、なかなかそんな訳でもないしね。一定の配慮と忍耐さえ持っていれば、熟そうと思えば誰にでも熟せる仕事だよ。だから営業とか製作なんかに比べると給料が安いのは仕方が無いと思っていたし、年齢別賃金の恩恵を一番受けるのは俺かも知れない」
「でも地図とかの制作の仕事もさせられているんでしょう?」
「それはまあ、そうだけど」
「若しあたしが頑ちゃんの上司だったとしても、確かに頑ちゃんに業務の仕事だけをやらせておくのは勿体無いと感じると思うわよ」
 夕美さんは口元のカップを少し下げて真顔で頷くのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 302 [あなたのとりこ 11 創作]

「まあ、会社を辞めた山尾主任の事はこの際置くとして、今回の回答を見る限り、気の滅入るような係争が延々と続くような気配は無くて、何となく妥結出来る線が見えるな」
 均目さんが故意になのか自然になのかは判らないながら、山尾主任の話題を脇に退けて先程の回答書の方に話しの重心を戻すのでありました。
「そうだね。概ねこちらの意を酌んでいるからね」
 袁満さんが同意するのでありました。
「後は額次第よ」
 那間裕子女史はあくまで回答書に示された額には不満のようでありました。
「その増額の点も含めて、もう一二回団交を重ねれば、妥結に至りそうだよなあ」
 袁満さんは楽観的な観測を述べるのでありました。「思いもしなかった労働組合結成とかで、妙に感情的になられたら面倒だなと思っていたけど、意外に対抗的な反応じゃなくて良かったよ。まあ、土師尾営業部長が前面に出てこないで、万事に事なかれ主義の社長と、片久那制作部長が主導しているのかこちらには好都合と云うものだよなあ」
「元々土師尾さんにはこんな事態への対処能力なんか何も無いわ」
 那間裕子女史は歯牙にもかけていないような云い草をするのでありました。
「片久那制作部長にしても土師尾営業部長の口出しを許す気は全くないようだから、交渉はこの後も屹度上手く運ぶんじゃないの」
 袁満さんが話しを締め括るようにそう云うと皆で同意の頷きをするのでありました。那間裕子女史は回答額に再三不満を表明するのでありましたが、袁満さんも均目さんも、それから出雲さんも、額について実は然程の不満は感じていないようでありました。賃上げ額も何時もの年よりも是正額が加味される分多いと云う事でありますし、夏の一時金も例年程度は保証を得たようでありますから。ま、頑治さんとしても同様でありました。
 それに片久那制作部長が交渉の実権を握って前面に在る限り、この後の紛糾は考えられないと云うものであります。社長が思いもかけない理由で急に臍を曲げない限りは。

 二次回答日を控えた数日前の日曜日に、夕美さんが愈々東京での生活を切上げて故郷に帰るので、頑治さんは東京駅迄見送りに行くのでありました。引っ越し作業やら卒業式やらでこのところずっと夕美さんはバタバタとしていて、頑治さんはなかなかゆっくりとは会えないのでありました。それでも引っ越し荷物の荷作りとか多少は手伝ったのでありましたが、充分に貢献したと云う気持ちは湧いてこないのでありました。
 列車の発車時刻までは未だ大分あるからと、夕美さんの誘いで二人は地下街の喫茶店に入って、この先暫くは儘ならない逢瀬の名残りを惜しむのでありました。
「叔母さんとかは、今日は見送りに来ないの?」
 頑治さんが訊くと、掌に暖を移そうとしてかコーヒーカップを両手で抱え上げた夕美さんが、唇にそれを当てる前に頷いて見せるのでありました。
「田舎の連中は何かあると必ず駅に見送りに来て、その場で急に大きな荷物を託したりしてげんなりさせてくれるけど、こっちの親類はクールであっさりしているから」
(続)
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あなたのとりこ 301 [あなたのとりこ 11 創作]

「賃上げや一時金の額とか賃金式とか、あの回答書自体を考えたのは片久那制作部長だろうけど、片久那制作部長は渋ろうとする社長に、最低限あれくらいの回答をしないと、この先泥沼のような労働争議を抱える会社になるとか云って脅したんだろうな」
 均目さんが社長と片久那制作部長との間で行われたであろう遣り取りを想像するのでありました。まあ多分、そう云う話しも出た事でありましょう。
「でも、会社にあれだけの賃上げと一時金を出す余裕があるのは、事実よね」
 那間裕子女史が猪口を呷るのでありました。
「売り上げが落ちても、それをカバー出来るだけの社内留保が、未だたんまりあるんだろうな。俺達にはそんな事噯にも出さないで、会社が危ないと騒いで見せていたくせに」
 均目さんが舌打ちするのでありました。「一生懸命危機の演技をしていたけど、ここに来てあの回答でそれが嘘だった事がばれた訳だ」
「じゃあ、営業部の再編にしても、本当に必要だったんスかねえ」
 出雲さんが袁満さんの酌を両手で受けながら首を傾げるのでありました。
「そうだよな、今から考えれば単に俺達の危機感を煽って、一時金を出し渋った事の云い訳に、悪乗りの大騒ぎを演じて見せたと云うだけだったかもね」
 袁満さんが自分の猪口に手酌で酒を注ぎながら云うのでありました。
「でも営業部の再編と云うか、立て直しは、それとは無関係に必要な事よ」
 那間裕子女史は嫌にクールな目で袁満さんを見据えるのでありました。「効率とか生産性とか云う意味で、あたしが見ても生ぬるい感じだったもの」
 そんな那間裕子女史の指摘に袁満さんは苦った表情をして目を逸らすのでありました。即座に何か云い返したいところではあるものの、女史と自分の弁の巧拙とか頭の回転数とか、主に年齢差に由来するのであろう日頃の立ち位置の上下、それに自身の大らかさやら奥床しさ等に鑑みて、袁満さんとしてはここはグッと堪えるのでありました。
「でも営業部再編が一時金不払いを正当化するための後付けの単なる方便以上では無かったとしたら、それで会社を辞める羽目になった山尾主任は、その手ひどい犠牲者と云う風にも云えますよね。今となってはすごく気の毒なような気がしますけど」
 頑治さんが抑制気味ながら義憤に駆られたような口調で云うのでありました。
「そうだよな。別に会社を辞めるところまで追い込まれる筋合いは何も無かったんだ」
 袁満さんも大いに憤って見せるのでありました。
「でも山尾主任の場合、辞表を出すに当たっては個人的な理由もあったようだし」
 均目さんが袁満さんの憤りに水を差すのでありました。
「そうね。どちらかと云うとそっちが主だったような節があるわね」
 那間裕子女史も至極冷淡なのでありました。どうやら制作部のこの二人に関しては、同じ部署で仕事をしていてあれこれ思うところがあった故か、山尾主任に対しては然程の同情を寄せていないあっさりした態度のようでありますか。しかしまあそう云われると確かに、制作部に残っていたとしても山尾主任は早晩、均目さんの云うところの、個人的な理由、から会社を辞めていただろうなあと頑治さんは考えるのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 300 [あなたのとりこ 10 創作]

 結局、自分の大したところを社長に見せようとして土師尾営業部長は仕くじったと云う図でありますか。そんな図を読んだのかそうでないのか、社長はソファーから立ち上がって土師尾営業部長には一瞥も呉れず、片久那制作部長の方に目を遣るのでありました。
「僕は一週間後で別に構わないけど、回答書は間に合うのかな?」
「何とか間に合わせます」
 片久那制作部長は頷くのでありました。
「じゃあそう云う事で、今日はこれでお開きとしましょう」
 社長は横瀬氏に向かってニコやかに云うのでありました。要するに社長としては片久那制作部長に今次の解決を丸投げしていると云う事でありましょうか。

 横瀬氏と派江貫氏の二人と別れた後、神保町交差点から春日通りをやや水道橋方面に北上した辺りにある、組合関係の会議を行った後に最近時々使う居酒屋で、今日は寒いからと寄せ鍋をつついて日本酒の熱燗を酌み交わしながら、一同は少々くだけた、記念すべき第一回目の団体交渉の反省会とやらを執り行うのでありました。何となく全員が上機嫌であるのは、団交の席で出て来た回答書に一定の満足感を覚えた故でありましたか。
 内心、皆一様に、もっともっと渋いか、ひょっとしたらこちらの要求を一切無視したゼロ回答が示される事をリアルに恐れていたのでありましたか。
「去年の暮れのボーナス、じゃなかった一時金があんな調子だったから、とんでもなくひどい回答書が出て来るんじゃないかと冷や々々していたら、案外まともな回答が出てきてちょっと拍子抜けするくらいだったよなあ」
 袁満さんが傾けていた猪口を唇から離して云うのでありました。
「まさかまさかの組合が結成されたものだから、反省したんじゃないっスか」
 出雲さんが空いた袁満さんの猪口に徳利を向けるのでありました。
「反省なんかするタマかな、あの社長が」
 袁満さんは出雲さんの酌をする手付きを見ながら冷笑を浮かべるのでありました。
「反省はしなかったかも知れないけど、仕舞った、とは思ったんじゃないっスかね」
「まあそれは多分そうに違いないだろうけど」
「だからちょっと俺達のご機嫌を取り結ぼうと云う魂胆から、高飛車な感じが無い、寧ろ誠実なところを見せようとするような、あの回答書が出てきたんじゃないっスかね」
「誠実にしては如何せん、額がね、・・・」
 那間裕子女史が酒を頬に含んでから口を尖らすのでありましたが、その割には然程に苦々しそうな気色ではないように見受けられるのでありました。
「でも想像していたよりは、随分奮発したって印象だなあ」
 袁満さんが那間裕子女史の方に徳利を差し出すのでありました。
「逆に、何だかんだと会社の存亡の危機みたいに騒いでいたくせに、出そうと思えばあの額を出せるだけの余裕が未だあると云う事だよな」
 袁満さんがどこか皮肉っぽく云うのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 299 [あなたのとりこ 10 創作]

「それから、・・・」
 袁満さんは続けるのでありました。「時間短縮にしても、全総連が掲げる全業種で週三十五時間労働と云う目標からは未だかけ離れた回答ですから、これも再考願います」
 これを聞き終わってすぐ、社長は聞えよがしの嘆息を漏らすのでありました。片久那制作部長は如何にも不愉快そうに眉根を寄せ、土師尾営業部長はと云えば、嘆く社長に対してお追従を示すのが主意か、こちらも小さく嘆息をして見せるのでありました。
「と云う事で、次の回答指定日になりますが、一週間後の同じ曜日同じ時間、と云う事にしたいと思います。それ迄に今回よりは前進した回答をお願いします」
 袁満さんは締め括ろうとするのでありましたが、これ迄ずっと隅に置かれていたような感じの土師尾営業部長がここでやおら言葉を発するのでありました。
「君たちの都合だけで勝手にそんな日取りを決めて良いのかね」
 社長の手前、片久那制作部長だけではなく自分も頼りになる部長である事を主張したいのか、横に居る社長を意識したような眼の微動が見えるのでありました。「社長だって忙しい身なんだ。君達の勝手な都合だけに付き合っている義理は無い筈だよ」
 その言が終わるか終わらない内に、片久那制作部長がその口を封じるためであろう舌打ちの音を響かせるのでありました。その音にすぐに、何か都合の悪い事を喋って仕舞ったかしらと、土師尾営業部長は動揺を見せるのでありました。しかし一端云い出した以上、すごすごと引き下がるのは体裁が悪いから、迫力無く後を続けるのでありました。
「世の中には信義と云うものがあるだろう。自分達の都合だけを勝手に押し付けてこちらの都合を全く省みないと云う態度は、ちゃんとした社会人としてどうなのかな。そんな人達には信義なんか到底感じられないし、そんな人達のために何かをして遣ろうと云う気も起きる筈がない。第一、礼儀の上でも目上の人に対して失礼極まりないじゃないか」
「これは、目上とか目下とかじゃなくて、雇用者と被雇用者、経営側と労働者の団体交渉ですから、そんな世間的な情緒の問題とは趣が違うのです」
 ここは横瀬氏が口を挟むのでありました。
「しかし、何にしても一番底に信義が無ければ何も前には進まないでしょう」
 会社の中で一番信義から遠い人が、この期に及んでそんなお題目を唱えても冷笑を返されるのが関の山と云うものではないか、と頑治さんは心の内で笑うのでありました。
「信義について云えば、これ迄の従業員に対する会社の待遇に長い間従業員が信義を感じなかったから、こうして労働組合が出来たんじゃないですかね。何よりそう云う事を高飛車に云い出す前に、労働法規とか団体交渉についてもっと勉強しておいてくださいよ」
 横瀬氏は軽くあしらうのでありました。ここで、そうだ、の和唱が起こっても良い場面でありますが、初心な組合員達にそんな呼吸は期待出来ないと云うものでありますか。
「そう云う話しはもう良いから、次の回答指定日を双方で確認して、今日のところはこれで終わって良いんじゃないかな」
 片久那制作部長が土師尾営業部長の方に目を向けて云うのでありました。その眼光とつれなさに怖じたのか、土師尾営業部長はすごすごと引き下がるのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 298 [あなたのとりこ 10 創作]

「まあ確かに、一回目の交渉であっさり妥結するのはどんなものかな」
 派江貫氏が頷くのでありました。「満額回答と云うのならそれもあるけど」
「じゃあ、差し戻して再回答を要求するかい?」
 袁満さんが云うとここは全員で、異議無し、と声を合わせる事は無いながら、その方が色んな意味で無難かなと云った曖昧な同意の気配が立ち込めるのでありました。「それから再回答を要求するとしても、その要求をするだけのこちらの明確な理由は?」
「兎も角賃上げ額にはどうしても納得いかない、と云うんで良いんじゃない」
 那間裕子女史が応えるのでありました。
「その前に、回答に一定の誠意は感じられるけど、と云う枕詞を入れた方が良いんじゃないかな。鮸膠も無く突っ返すより、その方がこちらの誠実さみたいなものも表れるし」
 均目さんが突っ返し方の細かいところを注意するのでありました。
「時短に付いても、世間の趨勢を考慮してもう少し考えてくれとか付け加えると、如何にも自分達が金の事ばかり云っているんじゃないような感じが出るんじゃないっスか」
 珍しく出雲さんが指名もされないのに意見を云うのでありました。
「ああ、成程ね」
 袁満さんが納得の頷きをするのでありました。「じゃあ、あんまり長く向こうを待たせるのも良くないから、今回はそう云う事で返答して、記念すべき第一回目の交渉を終わらせるかな。そうなると次の回答指定日はどうする?」
「前に打ち合わせた通り、一週間後で良いんじゃないですか」
 均目さんが受け応えるのでありました。
「それじゃあ、まあ、そう云う線で」
 袁満さんのその言葉で倉庫での打ち合わせは切り上げとなるのでありました。

 三階の事務所に戻ってみると社長と土師尾営業部長は何やら話しをしていて、組合員が入って来るのを認めると急に口を閉じるのでありました。片久那制作部長は二人とは無関係と云った風に、黙って回答書のコピーに目を落としているのでありました。
「下で協議した結果ですが、・・・」
 全員が元通りの席に着くと袁満さんが代表して喋り出すのでありました。「示された回答に一定の誠意は感じられますけど、矢張り同一年齢同一賃金の原則で他の組合と比較すると、賃上げの額には未だかなり不満が残ります。我々が企業内単独組合ではなく、全総連と云う労働組合の連合体に加盟して活動するのも、同業他社並みの賃金水準を獲得していくためなのですから、今回の回答では妥結と云う訳には到底いきません」
 枕詞もちゃんと入っているし、きっぱりとした云い方も及第点と云うものであります。それに文言も特に申し合わせしてはいなかったのでありますが、咄嗟の機転かどうか全総連と云うバックを押し出して、贈答社の労組が全国規模で他社労組と連携している点を念押しした辺りなんか、なかなか袁満さんもやるものであります。頑治さんは勿論、他の皆もそんな袁満さんの委員長としての手際をここで大いに見直したでありましょう。
(続)
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