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あなたのとりこ 90 [あなたのとりこ 3 創作]

 暫くして土師尾営業部長が事務所を後にするのでありました。暫しの時を置いたのは、先に帰った刃葉さんと外で鉢合わせする危険を考慮した故でありましょう。ひょっとして待ち伏せでもされていたら拙いと取り越し苦労したのでありましょうが、この人にそんな小心さがあるのは今までの付き合いから頑治さんは察する事が出来るのでありました。
 日比課長も袁満さんも出雲さんも帰り支度を始めるのでありました。
「ちょっとこんな事やっていく?」
 日比課長が向かい側の席に座っている袁満さんに、猪口を持つ手付きをしてそれを口の前で傾ける真似をして見せるのでありました。
「ああ、いいよ」
 袁満さんが同意するのでありました。
「出雲君も大丈夫だろう?」
 袁満さんの隣の出雲さんにも日比課長は同じ仕草をして見せるのでありました。
「ええ、お付き合いしますよ」
「唐目君はどうだい?」
 日比課長は頑治さんの方に顔を向けるのでありました。
「はい。俺も付き合います」
 その日は夕美さんとの逢瀬の約束も無かったから頑治さんも同意するのでありました。勿論夕美さんとの逢瀬が頑治さんにとっては何より優先であります。
 三人は、大概の日は残業している制作部の四人にお先にの挨拶をしてから会社を出るのでありました。行った先は前に頑治さんの歓迎会が催された居酒屋でありました。
 今回も座敷に上がって座卓に着くと、夫々先ず生ビールの大ジョッキを注文してから、後は適当に袁満さんが持って来る料理を店員にあれこれ指示するのでありました。
「いやいや、営業部長にも参るよなあ、毎度の事だけど」
 日比課長が運ばれて来たビールを取り上げてげんなり口調で云うのでありました。
「あの人は何をやらかすにも、絶妙に、タイミングが悪いからねえ」
 袁満さんはそう皮肉っぽい口調で受け応えてから大ジョッキを手にして一口煽るのでありました。「しかも前々から云おうと思っていたんじゃなくて、さっき急に思い付いて、刃葉さんの反応とかは端から考えもしないで、あのタイミングで云ったんだろうしね」
「営業部長は刃葉さんに何を云ったんですか?」
 出雲さんが横の袁満さんに訊くのでありました。出雲さんは土師尾営業部長と刃葉さんの揉め事の経緯に無関心なのか、あんまり想像力が働かないようでありました。
「刃葉さんは来月の二十日まで働くことになっているんだけど、その必要も無さそうだから今月の二十日で辞めてくれないかって営業部長が唐突に云い出したんだよ」
「それで刃葉さんが、それは困るとゴネていた訳ですか」
「そうそう、そう云う経緯」
 袁満さんは頷きながらもう一口ビールを飲むのでありました。贈答社は賃金に関しては毎月二十日が締め日で、二十五日が給料支払い日になっているのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 89 [あなたのとりこ 3 創作]

「会社の中で憚りも無く大声を出すのは迷惑だ。やるんなら外でやれ」
 片久那制作部長が厳めしく続けるのでありました。これは聞き様に依っては外でなら云い争いをしても構わないと云っているようにも取れる訳で、その辺りに片久那制作部長の突き放したような自分に対する冷たさを感じたのか、土師尾営業部長の顔から表情が抜けて、その瞼が何度か戸惑いの瞬きをしているのでありました。
 刃葉さんの熱り立ちは沸点に達したのか、顔色が赤から赤紫色に変わったように頑治さんには見えるのでありました。血圧急上昇の気配であります。
 じっと自分を見据える片久那制作部長の目に負けまいと、刃葉さんは勇気を奮って懸命に目に力を籠めて見返えそうと努めるのでありましたが、肝心の目の方が遠泳の選手のように泳ぎを止めてくれないのでありました。この儘だとすっかり動揺したその態が刃葉さんの体面を台無しにして仕舞うでありましょう。そう判断して刃葉さんは如何にも意志的に、と云った体裁でプイと横を向くのでありました。まあ、片久那制作部長の厳めしい表情と視線に竟に耐え切れなくなったと云うのが本当のところでありましょうか。
 刃葉さんは土師尾営業部長の机の傍らを離れるのでありました。それから自分の、と云うのか、頑治さんと共有しているデスクの上に置いていたリュックサックを荒々しい手つきで取ると、退去の挨拶も無く事務所を出て行くのでありました。恐らく憤懣を発散するためであろう、廊下に出た刃葉さんの何やら叫ぶ奇声が、ストッパーが付いているためにゆっくり閉まりかけたドアの隙間から漏れ聞こえて来るのでありました。

 ようやく事態が片付いたのにほっとして土師尾営業部長は溜息を吐くのでありました。それから片久那制作部長の方に愛想笑いを浮かべた顔を向けるのでありました。
「どうも有難う」
 これは片久那制作部長へのお礼の言葉でありました。片久那制作部長はそれを不機嫌に全く無視するかのように、土師尾営業部長に目を向ける事も無く制作部スペースの方に姿を消すのでありました。別に礼を云われる筋合いは無い、と云う態度でありますか。
 頑治さんはようやく刃葉さんのリュックサックが無くなった席に座る事が出来るのでありました。日比課長も自席に戻ってブリーフケースを傍らに置くのでありました。それから出雲さんが机の上の旅行カバンのそのまた上から顔を覗かせるのでありました。
 息を殺してそれまで全く気配すら見せなかった甲斐計子女史が、立ち上がって書類棚から不愉快そうな顔を頑治さんのすぐ前に現すのでありました。ようやく家に帰る事が出来ると云った様子で机の上を片付けると、手提げバッグを手に持って自分のロッカーまで早足に進んで、中から上着をひったくるように取って、後ろ向きにお先にと小声で云って事務所を出て行くのでありました。まるで怒っているような風情でありました。
 まあ、甲斐女史が怒っているとすれば殺伐とした緊張感を作った刃葉さんにと云うのも然る事ながら、主には無用で無意味なゴタゴタの種を態々蒔いた主犯たる土師尾営業部長にでありましょう。選りに選って自分が帰ろうとしている間際に、刃葉さんを怒らせるような事を云い出す必要なんか無いではないか、と云ったところでありますか。
(続)
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あなたのとりこ 88 [あなたのとりこ 3 創作]

 事態が全く以って険悪になったところで、事務所入り口のドアが少しの軋みの音を立てながらまたも開くのでありました。入って来たのはブリーフケースを下げた日比課長でありました。外回りの営業を終えて帰社したのでありましょう。日比課長はすぐに事務所内の不穏な空気を察して表情を強張らせるのでありました。
 日比課長の席は、土師尾営業部長のデスクの横に立っている刃葉さんのすぐ後ろでありましたが、そこに戻るのを何となく躊躇するような物腰で、こちらも袁満さんに視線を送るのでありました。袁満さんは先程の出雲さんの時と同じように顰め面をして、げんなりと云った感じで首を数度ゆっくり横に振って見せるのでありました。
 土師尾営業部長は頑治さんの時に見せた助けを求めるような表情を日比課長にも送るのでありましたが、日比課長は刃葉さんに臆してかそれに応える気は更々無いようで、入り口に一番近い出雲さんの机の、出雲さんが置いた旅行カバンの横に自分のブリーフケースを置いて、それに手を掛けてその場から動かずに経過を見る構えのようでありました。
「早く辞めろと云うのは部長命令ですか?」
 刃葉さんは先程の悶着の続きを再開するのでありました。
「命令と云うのじゃないんだ。提案のようなものだけど」
「じゃあ、拒否出来るんですね?」
「それはまあそうだけど、・・・」
 土師尾営業部長はやや口籠もるのでありましたが、ここで引き下がれば自分が刃葉さんに蔑ろにされたのを皆に態々披露したような按配になると判断したのか、少しの間を置いてから体裁上決然と、と云った具合に顔を起こして睨み付ける、と云うには少し弱い目付きで刃葉さんを見上げるのでありました。「でもまあ、もう一考えて見てくれよ」
 決然と云い放つと云うよりは懇願するような具合のその科白に、聞きながら頑治さんは心の内で小さくずっこけて見せるのでありました。
「さっきからそれは困るって云っているでしょう!」
 刃葉さんはまたもや熱り立つのでありました。あまりに諄いと堪忍袋の緒も竟には切れるぞと表明するようなやや恫喝的な荒けない言葉でありました。若し刃葉さんが暴力に訴えるような事態になれば、他の人は手出しをする気が全く無いようでありますから、仕方なくここは自分が止めに入るしかあるまいと頑治さんは臍を固めるのでありました。
 しかし頑治さんの出番は、営業部と制作部の仕切りになっているマップケース横に立った片久那制作部長の一言に依って、幸いにも潰えるのでありました。
「刃葉君、好い加減、そのくらいにして置けよ」
 思わぬ仲裁者の出現に刃葉さんと土師尾営業部長は同時に顔をそちらに向けるのでありました。その顔てえものは、刃葉さんは熱り立った表情の儘であり、土師尾営業部長はやっと現れた助け舟に縋るような、見ように依っては情けない表情でありましたか。
 刃葉さんは何か言い返そうとするのでありましたが、片久那制作部長のクールでありながらも問答無用な言葉付きに気勢を削がれたのか、口元をモグモグと動かすのみでありました。畏怖から、刃葉さんは片久那制作部長を苦手にしているようであります。
(続)
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あなたのとりこ 87 [あなたのとりこ 3 創作]

 出雲さんは肩に担いでいた旅行カバンを、袁満さんの隣にある自分の机の上にドサリと置くのでありました。それから重い荷から解放された肩を上げ下げしたり、二三度腕や首をグルグル回したりして血行促進を図るのでありました。
 そうしている内に室内に漂う何やら不穏な空気を察知したようで、何となく場違いで呑気な血行促進のためのその仕草を尻窄みに収めて、興醒めの態ですごすごと椅子に尻を落とすのでありました。座って仕舞うと、机の上に置いた大きな旅行カバンが土師尾営業部長や刃葉さんの方から出雲さんの姿を綺麗に隠蔽するのでありました。
 出雲さんは横の袁満さんを土塁に隠れた兵士が隣の味方の兵士を窺うような様子で見るのでありました。袁満さんは顰め面を以ってそれに応えるのでありました。
「それじゃあ話しが違うじゃないですか」
 これは刃葉さんが土師尾営業部長へのいちゃもんを続ける言葉でありました。
「いや、その方が刃葉君の次の仕事探しにも好都合だろうと思って」
「好い加減なお為ごかしを云わないでくださいよ」
 刃葉さんは声を荒げるのでありました。土師尾営業部長はその声音にたじろいで思わず目を伏せるのでありましたが、それでは部長としての沽券に関わると考えてか、すぐに頭を起こすと刃葉さんを睨み上げるのでありました。大いに不穏な雰囲気であります。
「こっちだって色々都合があるんですよ」
 刃葉さんは荒げた言葉つきを其の儘に云い募るのでありました。「唐目君が入ってもう用済みになったからとっとと出て行けって云われても、それは勝手過ぎますよ!」
 土師尾営業部長は刃葉さんの剣幕から少しでも距離を置こうと云う心算か、身を思わず背凭れに退避させるのでありました。なかなか沽券が保てない模様であります。
 この遣り取りから、刃葉さんが会社に留まる向後の時間の短縮を土師尾営業部長から提案されたのだと頑治さんは推測するのでありました。頑治さんが入社したのでもう用済みになったから、等と刃葉さんが云っているところを見ると、この云い争いには自分の存在が介在しているようでもあります。全く頑治さんには無関係な事由での云い争いでもなさそうな辺りに、頑治さんとしては多少胸奥のざわつきを感じて仕舞うのでありました。
「そうかも知れないけど、一応提案してみた迄だよ」
 土師尾営業部長がそれでは沽券が保てないであろうと思われる弱気な物腰で云うのでありました。「刃葉君が嫌だと云うのなら、まあ仕方が無いけど」
 この、仕方が無い、と云う云い草が火に油のようでありました。
「俺が給料をもう一か月分余計に貰う事が部長にはそんなに仕方が無い事なんですね」
「給料の事を云っているんじゃないよ」
「いや、一か月余計に俺の給料を払うのが惜しくて云っているんでしょうが、実際は」
「そうじゃないよ!」
「いいや、大方そんな程度の了見に決まっている」
「そうじゃないって云っているじゃないか!」
 こうなったらまるでもう子供同士の喧嘩であります。
(続)
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あなたのとりこ 86 [あなたのとりこ 3 創作]

 そう云えば頑治さんの時も何故か刃葉さんは勝手に怯んで、頑治さんに対してすぐに自分の非を認めたのでありましたか。
「俺の時も、まあ当然ながら非は自分にあると認めてすぐに謝ったけど、なかなか大人だと、その一瞬は思ったよ。ま、多分そうでもないみたいだけどね」
「刃葉さんは、本人は必死に隠しているけど実は気の弱い人なんだ。だから相手の怒りが混じりっ気無しに本気だと判ると、急にたじろいで腰砕けになって仕舞うんだよ」
「自分の無調法から招いた緊張だとは判るんだろう。だからその負い目のために自分の方は混じりっ気無しの憤慨とはいかない。だから気概に於いて何時も負けている」
「ま、そう云う事かな。なかなかの分析だ」
 均目さんはふざけて拍手する真似をするのでありました。
「そう云う人とこれから先、短い間だけど、何も無くやっていけるかどうか俺は自信が無いなあ。何時か我慢出来なくてぶつかって仕舞うような気がする」
「確実に俺なんかよりは刃葉さんとの接触は長いだろうからなあ。でもまあ穏便にな。もうすぐ会社を辞める人と喧嘩をしても何の得にもならないし」
 頑治さんはカップに残っているコーヒーを一口で飲み干すのでありました。すっかり冷めて仕舞った故か苦味が強調されて頑治さんの喉を通過していくのでありました。

 その日もどうやら以降の仕事は無いようだからと、終業時十五分前に簡単に倉庫内の掃除をして頑治さんは三階にある事務所へと戻るのでありました。事務所のドアを何気無くに開けると、先に上がっていた刃葉さんと土師尾営業部長が何やら云い争いをしている場面でありました。頑治さんは戸惑って、入り口近くの自分の席に座った袁満さんに視線を送ると、袁満さんはその云い争いに関わらないようにするためか、机の上に広げた書類に顔を近付けて我関せずの態でありましたが、頑治さんの視線に気付いて、盗み見るように少しばかり顔を起こし向けて、やれやれと云った笑いを送って寄越すのでありました。
 席に座った儘の土師尾営業部長はやや背凭れに体を引いて、傍らに立つ刃葉さんの体越しに頑治さんの方を見るのでありました。その困惑したような目が、不意に現れた頑治さんに助けを求めているようにも見えるのでありました。
 その時ドアが開いて、大きな旅行カバンを肩に掛けた男が「ただいま」等と呑気そうな声で云いながら中に入って来るのでありました。これは出雲依奈造と云う名前の、袁満さんと同じ出張仕事を専らにしている営業社員でありました。頑治さんが就職面接に訪れた時に、ノックに反応してドアを開けてくれた男でありました。
 関東や中部、それに関西地方辺りを主に回っている袁満さんは一年の半分くらい出張に出ているのでありましたが、この人は担当する地域が東北や北海道方面と遠いためか、袁満さんよりももっと多い日数出張しているようでありました。入社以来頑治さんとは一週間だけ社内で一緒に仕事をしただけで、後はもうこの日迄顔を合わせた事は無かったのでありました。歳はこの会社で一番若くて、頑治さんや制作部の均目さんより一つ下になるのでありましたが、それでも会社では頑治さんより半歳くらい先輩なのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 85 [あなたのとりこ 3 創作]

 この後車の中は気まずい空気に満たされるのでありました。お互いそれ以降一言も言葉を交わさないのは当然の成り行きと云うものであります。

 会社近所の中華料理屋で昼食を摂った後、頑治さんと均目さんは三年坂途中に在る一階がスポーツ用品店になっている雑居ビル地下の狭い喫茶店に入るのでありました。このところ時間が合えば頑治さんは均目さんと一緒に昼食を摂り、その後この喫茶店で午後の始業時間まで過ごすのが恒例となっているのでありました。
「ああ、羽葉さんの独り言ね」
 均目さんは手にしていたコーヒーカップをテーブルの受け皿に戻して、苦笑を片頬に浮かべながら何度か頷くのでありました。
「この前の事だけど、運転中に突然、下らん! とか吐き捨てるように云うもんだから、咄嗟に喧嘩を売られているのかと思ってびっくりしたよ」
「あれはあの人の子供の頃からの癖みたいだね」
「当人も後でそう云い繕っていたけど」
「俺も会社に入ったばかりの頃、その洗礼を受けた事があるよ。何だか知らないけど不本意な事があって、運転中にその事を考えていて、で、思わずそう口走ったんだね」
「それにしても傍迷惑な癖だな」
 頑治さんはあの時を思い出しながら不機嫌な声で云うのでありました。
「あの人は周りに人が居ようが居まいが関係ないんだ。その場の状況とかに全く意識が向かわない人だから、何時でも何処でも衝動的に何でも口走る。本人には悪気は無いようだけど、よく誤解されてプライベートでも色んな人の不興を買っているらしいよ」
 均目さんはまたカップに手を掛けるのでありました。「で、喧嘩にでもなったの?」
「いや、刃葉さんがすぐに気が付いてあっさり謝ったからそうはならなかったけど」
「それは良かったな。でも前に山尾主任にもそれをやらかして仕舞って、その時は喧嘩になったらしいよ。丁度山尾主任が運転していて、助手席の刃葉さんが、冗談じゃない、とか云う言葉を口から零したらしい。山尾主任は短気で直情的なところがあるから聞き流したり出来なくて、すぐに路肩に車を止めて、何か云いたい事があるのならはっきり云ってみろ、とか助手席の刃葉さんの胸倉を掴んで詰め寄ったみたいだ」
「へえ、山尾主任も柔道と合気道の有段者に対してたじろがない人だなあ」
 あの時の自分も、若し殴り合いの喧嘩になっても引くに引けないと即座に覚悟したのはさて置いて、頑治さんは山尾主任の無謀に批判的な言辞を被せるのでありました。
「自分の方が先輩でもあるし、山尾主任も興奮したら後先考えない人みたいだからね」
「それで修羅場が現出したのかい?」
「刃葉さんはムッとして、胸倉を掴んでいる山尾主任の手を逆に取って引き離したようで、そこまでは修羅場へ一直線に向かう途上の経緯だと云える」
 均目さんは勿体を付けて一呼吸置くのでありました。「でも結局その後すぐに刃葉さんが謝って、事無きを得たと云う顛末だったようだね」
(続)
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あなたのとりこ 84 [あなたのとりこ 3 創作]

「ああ済まんね。今のは独り言で、別に唐目君に対して云った訳じゃないよ」
 刃葉さんは助手席の頑治さんが自分を険しい目で睨んでいるのに気付いて、そう笑いながら云い繕うのでありました。突然頑治さんを驚かせた自分の不調法を恐縮している風の云い方でも無いのでありましたし、思わず独語した自分を恥じているようでも照れているようでも無いのでありました。この人のごく普通にやらかす癖なのでありましょう。
「何か思い出しての独り言ですか?」
「うん、まあ」
「それにしてはきっぱりとした云い草でしたね」
「気にしないでくれ」
「唐突に何の脈絡も無く、下らん、等とはっきり口に出して、横に座っている者がそれを聞いたらムッとするとは考えないんですか?」
 頑治さんは今までの刃葉さんに対する積もり積もった鬱憤があるものだから、思わず知らず執拗になって仕舞うのでありました。
「悪かったよ。独り言は俺の癖なんだ。そんなに怒るなよ」
「人に無用な誤解を与えるようなそんな迷惑な癖は、癖だからってあっけらかんと開き直っていないでさっさと改めたら良いじゃないですか」
 こんな云い方をしたら刃葉さんは屹度怒り出すだろうと思いながらも、頑治さんは買い言葉、いや、この場合売り言葉の方になるのかも知れませんがそれは兎も角、自分の言辞の棘を丸める事が出来ないのでありました。
 刃葉さんは柔道と合気道の黒帯所持者でしかも最近空手とかバレエも、まあ、バレエに関してはこの際あんまり関係無いでありましょうけれど、習い始めたと云う事でありますから、若し殴る蹴るの愁嘆場に移行するとすれば自分なんか敵ではなかろうと頑治さんは考えるのでありました。しかしこうなったらもう引くに引けないではありませんか。
 刃葉さんは思わずと云った風に、運転中にも関わらず頑治さんの方に顔を向けて険しい目付きをして見せるのでありました。しかし頑治さんの目付きが思いの外腰が据わっているようだと感じたのかどうか、刃葉さんの眼光の中にふと怯みが射したのを頑治さんは確かに認めるのでありました。さぞや腕っ節には自信がある人だろうと思っていたのでありますが、これは頑治さんにしたら慎に意外な眼色の変貌と云うものでありました。
「悪かった」
 刃葉さんは先の言葉を繰り返すのでありました。「以後気を付けるよ」
 ここで遜って見せるのは刃葉さんにしてはなかなかに大人の対応と云うべきでありましょう。この人は案外隅に置けない人かもしれないと頑治さんは思うのでありました。
「唐目君はいざとなったら無茶苦茶をやるヤツのようだから、怖いな」
 しかしその後こう云う言葉を余裕綽々に冗談交じりの口調で、自分の怯みを糊塗せんとして吐く辺り、そうでもないなとも頑治さんは思い直すのでありました。頑治さんの事を自分の勝手都合に誤解して見せて、それで自分の及び腰を或る意味正当化する目論見の一種でありましょうが、要するにこの人は実は思いの外小心者なのかも知れません。
(続)
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あなたのとりこ 83 [あなたのとりこ 3 創作]

「いや、社員です。尤も未だ入り立てのホヤホヤですが」
「ああそう。新人さんか」
 運転手はそう納得気に頷いて人懐っこい笑みを浮かべるのでありました。「俺は大元紙加工の箱部と云う者だけど、時々段ボールの納品に来るから、以後よろしくね」
 大元紙加工と云うのは段ボールを納品して貰っている会社の名前でありました。
「こちらこそよろしくお願いします」
 頑治さんは少し丁寧にお辞儀するのでありました。
「いやね、今迄ずっと納品に来ていて、親切にも荷下ろしを手伝ってくれたのはあんたが初めてだったから、ちょっと驚いたんだよ」
 箱部さんは頑治さんに誠に親愛感の籠った視線を送るのでありました。頑治さんも笑いを返すのでありましたが、そう云うところを見ると今迄、刃葉さんは箱部さんが荷下ろしをしていても無愛想にも決して手を貸さなかったと云う事でありますか。
「ああそうですか。新人の俺が云うのも何ですが、どうも不調法で済みません」
「いやいや、別に文句を云っている訳じゃないんだけど」
 函部さんは恐縮して見せるのでありました。「そう云う社風かなと思っていたけど」
 函部さんの口調は決して当て付けを云っている風ではないのでありました。

 頑治さんと刃葉さんの間には日毎に険悪な雰囲気が泥んでいくのでありました。
 刃葉さんよりは頑治さんの方が万事に察しが良いし気が利くし仕事の手際も良いものだから、土師尾営業部長も山尾さんも刃葉さんをさて置いて頑治さんに先ず指示を出すようになるのでありました。先輩たる自分よりも昨日今日入った新米が重きを置かれていると云うのは、まあ自業自得ながら、刃葉さんとしては面白くないでありましょう。
 しかしまたそれを良い事に、刃葉さんは益々怠惰な仕事振りに磨きをかけるのでありました。自分はどうせもうすぐこの会社を辞めて仕舞うのだしと云う思いも、刃葉さんの投げ遣りに拍車をかける一因でもありましたか。
 去り際にその人の日頃の心胆が現れる、なんと云う言葉に弱い頑治さんとしては、こういう刃葉さんの在り様に義憤のようなものを少なからず覚えるのでありました。様々な武道の修業も情熱も、刃葉さんの人格止揚には全く無関係な戯事の領域にしか無いものなのでありましょう。まあそれは頑治さんが容喙するところでは無いのでありましょうが。
 屡ある都内の配達仕事も刃葉さんの主要な仕事の一つでありましたから、場所の確認や先方との顔繋ぎのために頑治さんが同行する場合もあるのでありました。羽場さんは例に依って運転中の頻繁なラジオチャンネルの切り替えで助手席の頑治さんを苛々させて、懲りない脇道指向運転で時間を無意味に費やすのでありました。
 そればかりか刃葉さんは或る時、運転中にそれまでの沈黙を破って全くの出し抜けに「下らん!」等と言葉を発する事があるのでありました。何かしらの思念の内に思わず発した独り言ではあろうけれど、不意に不愉快そうな顔でそんな言葉を現されると、頑治さんとしては反射的に険しい顔を運転中の刃葉さんに向けざるを得ないではありませんか。
(続)
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あなたのとりこ 82 [あなたのとりこ 3 創作]

「その体系は皆が納得出来るものかな?」
「ま、一応はね。文句を付けるような隙はないかな。でも喜んで復すと云う感じではないなあ。何せ両部長を除いて安月給には違いないから」
 確かに頑治さんの給料にしても、これまでのアルバイトの賃金に比べれば多少は厚遇ではあるけれど、決して高いとは云えないものでありましたか。
 ただ文句を付けるような隙が無いと云う事は、給料が片久那制作部長の恣意に依っていると云う訳でもないのでありましょう。一種の平衡感覚は持ちあわせた人のようであります。土師尾営業部長に比べれば格段に信頼は置けると云う事でありましょうか。

 金曜日午前の定期便である本郷の大木目製本所へは山尾さんが連れて行ってくれるのでありました。山尾さんの運転は刃葉さんとは違って脇道への侵入も無く決まり切ったルートを無難に走行すると云った具合で、二十分程で目的地へ到着するのでありました。
 倉庫での材料積み込みも、大木目製本所での出来上がり製品引き取りも、それから工場長に頑治さんを紹介するのも、些か愛想が無さ過ぎるくらい至って事務的に山尾さんは処理するのでありました。山尾さんと工場長の間には軽口や冗談の遣り取りも顔馴染み同士の気安い雰囲気も無く、余りに事務的過ぎて、頑治さんは四十年配の作業服を着た工場長に自分を頭の片隅にでも覚えて貰えたかどうか心配になるくらいでありました。
 さっさと辞す、と云った感じで大木目背本所を出た車は、行きがけ同様のルートであっさり猿楽町の会社に戻って来るのでありました。山尾さんは引き取って来た製品の荷下ろしを頑治さんに任せて、自分はそそくさと三階の事務所に戻るのでありました。
「やけに速かったなあ」
 倉庫内で梱包仕事をしていた刃葉さんが頑治さんに声を掛けるのでありました。
「道に迷うようなルートじゃありませんから」
 頑治さんは多少の揶揄を込めてそう返すのでありましたが、刃葉さんはそれには無反応と云った顔で、眉根を寄せる事も頑治さんを睨む事もしないのでありました。
 例によって刃葉さんの梱包仕事のために倉庫内は散らかり放題になっているのでありました。頑治さんはやれやれと云った顔をして作業台の辺りを一瞥し、今引き取って来た荷を車から下ろし、自分が整理した棚への積み上げ作業を開始するのでありました。
 午前中の仕事が終わる十二時近くになって新の段ボールを納品に来たトラックが駐車場前に停車するのでありました。その日段ボールの納品があると云う事は、大木目製本所に向かう車の中で山尾さんから頑治さんは聞かされて承知しているのでありました。
 頑治さんは駐車場に停めてある車を一旦出して通路を開けてから、トラック運転手が荷下ろしして倉庫扉前まで折り畳まれた段ボールの束を運ぶ作業を手伝うのでありました。その後に納品書にサインをしていると運転手が頑治さんに訊くのでありました。
「何時もの倉庫の人は居ないの?」
「いや居ますが他の仕事中です」
「あんたはアルバイトの人?」
(続)
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あなたのとりこ 81 [あなたのとりこ 3 創作]

「給料に高額な役職手当を付けるためさ」
 均目さんは鼻を鳴らすのでありました。
「そんな理由かい」
 頑治さんは少し呆れ顔をして見せるのでありました。
「そう云うけど、これは正真正銘の理由だぜ」
「聞いてもまあ仕様が無いけど、役職手当は幾らなんだい?」
「前に何かの折に経理の甲斐さんから聞いたところに依れば、営業部長が十万円で制作部長が九万円、課長手当が二万円で、それに主任手当が五千円と云う事だ」
「何か妙に等比性が無いね、その金額の数列は」
「それはそうさ。役職手当は土師尾営業部長と片久那制作部長のためのもので、他の人はまあ、云い訳のためにつけ足ししたような按配だもの」
 均目さんはコーヒーを一口啜るのでありました。
「片久那制作部長の方が会社の実質上のトップだと云うのなら、どうして土師尾営業部長より一万円少ない額なんだい?」
「そこが片久那制作部長の、云ってみれば小狡い目論見と云うところかな」
「小狡い目論見?」
「一万円の格差で土師尾営業部長を奉って置けば、自分は社長との折衝とか同業他社なんかとの付き合いとか色んな制作仕事以外の煩わしい仕事を免れるし、何かあった時に矢面に立つのを避けられると云う魂胆なんだろうな」
「ふうん。で、その役職手当の額は詰まり片久那制作部長が決めたのかい?」
「そうらしいな。実質上のトップだからね。土師尾営業部長は片久那制作部長を畏れて止まないからそう云われれば何も逆らえないし、自分の方が一万円多い訳だから不満を云う筋合いも無い。寧ろ片久那制作部長から社員の中の主席だとお墨付きを貰ったんだと、都合の良い勘違いが出来るんだから、全く以って満更でもない心地がしたろうよ」
 何やらちょっとした通俗喜劇によくある配役設定のようで、頑治さんとしては俄かには信用も出来ないような気がするのでありましたが、まあ、あんまり興味を惹く内容でも無いものだから敢えて異を差し挟むような真似は慎むのでありました。
「会社の賃金体系は大方片久那制作部長が決めているのかな?」
「そうだね。土師尾営業部長にはその辺の定見や能力は無いからね」
 頑治さんは誰がどのくらいの賃金を貰っているのかが気になると云うより、賃金体系に一定の整合的基準があるのか、それとも片久那制作部長の恣意に依って決められているのか、その辺に多少の興味はあるのでありました。まあ、新米の自分が一番低い給料であるのは当たり前でありましょうし、制作とか営業とか経理とか業務の職種によって賃金が異なると云う事も多分あるとしても、まさか露骨に久那制作部長の人の好き嫌いが基準になっていると云うのは幾ら何でも考え辛い事ではあります。ならば曖昧であれ社員間の納得が前提にあるとすれば、その辺の機微をちゃんと片久那制作部長が考慮の上で各々の賃金を決めているのかどうかは、片久那制作部長の人となりを見る材料にはなりますか。
(続)
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あなたのとりこ 80 [あなたのとりこ 3 創作]

 要点ズバリの口は片久那制作部長の方でありましょう。依ってこちらは如何にも愛想の無い、時に辛辣に聞こえて仕舞うような物云いでありますか。
「何か、無駄にくどいと思うだろう、土師尾営業部長の話し振りは」
 均目さんがコーヒーの紙コップを口から離しながら云うのでありました。
「そうね、確かにくどい。仕事の指示にしても同じ事を何度も云うね」
 頑治さんは苦笑しながら応えるのでありました。
「自分が頭が悪くて物事を一回で理解出来ないものだから、他人もそうだと思っているんだろう。だからうんざりするくらいくどくどと何度も念を押そうとするんだ」
「今まで別に込み入った仕事を頼まれた事が無いし、実際そんな込み入った梱包仕事も無いんだろうけど、確かに細々と、云わずもがなの指示が多いね」
「要するに他人をまるっきり信用していないんだろうな。それと、自分が頭が悪いと云う事が自分で判っていないから、余計人を苛々させるようなもの云いをする」
 均目さんは端から土師尾営業部長を侮っているようでありました。
「人を信用しないのは、こう云うのも何だけど、主に指示する相手が刃葉さんだからと云うのも、ひょっとしたらあるんじゃないかな」
「いやいや、刃葉さんが入社する以前からあんな調子だったようだぜ」
「ふうん。じゃあ、元々の性質と云う事か」
「いくら人材が居ないとは云え、あの人が云ってみれば形式的にはトップなんだから、ウチの会社も先が見えているかも知れない」
「形式的なトップ?」
 頑治さんはその言葉が上手く呑み込めないので、繰り返してから困惑気な目をして均目さんの顔を見るのでありました。「それなら実際のトップは?」
「実質上のトップは片久那制作部長に決まっているよ」
「形式的とか実質上とか、その別はどういう事なんだろう?」
「会社の収支の状態やら従業員各個の仕事振りやら、そう云った管理については片久那制作部長が全部掌握しているから、実質的に会社のトップと云う訳だね」
「土師尾営業部長は部長として、どの方面の管理の仕事をしているのかな?」
「何もしていないよ」
 均目さんは毛程も遠慮の無いきっぱりとした云い方をするのでありました。
「でも眺めていると会社の代表格は土師尾営業部長と云った感じだけど」
「ま、代表は社長と云う事になるけど、社長は会社の運営に特に口出しも方針を示す事もないからね。黒字か赤字か気にしているだけのお飾り社長と云ったところかな」
「お飾り社長、ねえ」
 またもや頭に妙な修飾語の付いた役職が聞こえて来るのでありました。
「社長の事は今は置くとして、実際のところ土師尾営業部長は何の管理の仕事もしていないよ。単なる営業社員以上じゃないね、あの仕事振りは」
「じゃあ、何を以って部長と云う役職を拝命しているんだろう?」
(続)
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あなたのとりこ 79 [あなたのとりこ 3 創作]

「殴られる?」
 頑治さんはその言葉の不穏さに目を剥くのでありました。「刃葉さんが土師尾営業部長を気に障ったから殴る、或いは殴る素振りをすると云った事が前にあったのかな?」
「いや、それは全然無いけど」
「じゃあ、どうして土師尾営業部長は刃葉さんを恐れているのかな?」
「土師尾営業部長は部長としてのプライドとかの点には執拗に拘る割に、実は全く肝っ玉の小さい臆病な人だからね。だから結局、一種の的外れの怖気と云うべきかな」
 均目さんはそう云って皮肉っぽく笑うのでありました。

 定食屋を出た後未だ少し午後の仕事開始まで時間が有ったから、かと云って喫茶店に腰を据える程には無かったから、頑治さんと均目さんは会社近くの立ち飲みコーヒー店で紙コップに入ったコーヒーを飲みながらもう少し話しをするのでありました。ここの紙コップは時々会社の倉庫にも転がっていて、刃葉さんも愛用している店のようであります。
「土師尾営業部長の事、今迄観てきてどう思う?」
 均目さんは椅子が無いものだから立った儘でやや前屈みにカウンターに片肘を突いて、紙コップのコーヒーを一口啜った後に訊くのでありました。
「そうねえ、この前の飲み会とかその後の話しとかであんまり良い評判は誰からも聞かないけど、でも喋り方は穏やかそうな印象だけどね」
 頑治さんも隣で同じ姿勢をして顔を均目さんに向けるのでありました。
「あれが穏やかかい?」
「まあ、言葉遣いに限ってはね。言葉の端々とかに、何故かちょっと苛っとさせるような棘々しさみたいなものは感じる時はあるけどね」
 頑治さんとしてはそんな事を訊いてくる均目さんの底意への少しの警戒から、大方の評判に阿ていきなり批判的な言葉を口に上せて見せるのも憚られると思ったものだから、先の、喋り方は穏やか、と云う無難な辺りを先ず口にしたのでありました。しかし実のところは土師尾営業部長と言葉を交わすのは妙に苦手に感じていたのでありました。
 確かに彼の人は大体に於いてぞんざいな言葉遣いをするところは全く見受けられず、一方的に言葉を投げ付けてくるような押し付けがましさみたいなも無く、穏やかと云えば実に穏やかな喋り方をするのでありました。しかしその穏やかそうな言葉には温感が全く無いのでありました。隠しても現れて仕舞う圭角が忍んでいるような感じと云うのか。
 それに云い回しが妙に間怠っこいとも感じるのでありました。ズバリと要点を極力少ない言葉で示すと云う風な喋り方ではなく、例えて云えばまるで、さして必要とも思われない余計な機能を多く付加して単価を吊り上げてやろうと云う魂胆が見え々々の、最新モデルのテレビのような喋り方と云うのか、何と云うのか。・・・
 あれま、何と云う間怠っこい例えである事か。頑治さんは今思った自分の例えに自分でうんざりするのでありました。均目さんの前にそれを言葉にして開示しなかったのは幸いと云うものであります。まるで間抜けの見本みたいな具合でありますから。
(続)
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あなたのとりこ 78 [あなたのとりこ 3 創作]

 そう聞いて頑治さんは呆れ顔を均目さんに向けるのでありました。
「実は今日の宇留斉製本所行きだけど、多分近道をしようと考えたのか羽葉さんが、池袋方面に向かう表街道じゃなくて裏道に途中でハンドルを切ったんだよ。すると進路に迷って街道を行くよりかなり無駄に時間が掛かって仕舞ったんだ」
 均目さんは喋り始めた頑治さんの顔を上目に見ながら一つ頷くのでありました。
「ああ、よくあるあの人の無意味な行動の一つだね。屡そうやって無駄な時間を使っているよ。何時も道に迷っているんだから好い加減道路事情に詳しくなっても良さそうなものだけど、上の空で運転しているからちっとも道を覚えない。相変わらず同じ道で迷っている。近道をしようと云うせっかちだろうけど、近道になった例がない」
「あれがなければ三十分は早く宇留斉製本所に着いた筈だな」
 頑治さんは顰め面をして見せるのでありました。「帰りも同じ轍を踏んで時間をロスするし、それは未だ百歩譲って許そうと思えば許せるけど、十一時半には、就業時間内だと云うのに何処かで昼休みをして行こうと提案されたんだ」
「誰かの監視の目が無いと、あの人はそう云う緩々なところがある」
「律義とかそう云う気持ちは俺も特には無いんだけど、流石に三十分も早く昼休みに入るのは気が引けたから、そこは少し抗弁したんだ」
「五分前ならまだしも、三十分前となると正真正銘のサボりだもんなあ」
 均目さんは口に入れた鯖の切り身に小骨が付着していたらしく、暫し口をモグモグとさせてからその骨を指で唇から摘み出すのでありました。
「まあ、そうしたら俺が生真面目なヤツだとか皮肉を云ってそれは諦めたようだけど、今度は明らかに私用で後楽園近くの武道具店に立ち寄って買い物だ」
「まあ、公私の区別に全く無頓着なあの人らしい行動だな」
「それで許されるのかな」
「許される訳じゃないけど」
 均目さんは味噌汁を一口飲むのでありました。
「いや俺も、ここで刃葉さんを糾弾しようという魂胆は無いんだけど、あんな仕事振りを会社はずっと許しているのかと思ってさ」
「別に許してもいないけど、刃葉さんは注意されても上の空だから云っても無駄と云うところかな。山尾さんなんかは時々注意しているようだけど、改める気も更々無さそううだしね。羽葉さんは心根の内では山尾さんの事を侮っているようだしね」
「片久那制作部長はそんな刃葉さんの不届きを知らないのかな」
「まあ、気付いてはいるだろうけど、億劫なのか知らん振りだな」
「土師尾営業部長は?」
「あの人は自分の体面とか損得以外は何に付けても無関心だから」
「でも、刃葉さんの直接の上司だろう?」
「要するに怖いんだろうな、刃葉さんの事が。何を考えているのか知れないところがあるから、ひょっとして刃葉さんのご機嫌に障ったりしたら殴られるかも知れない」
(続)
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あなたのとりこ 77 [あなたのとりこ 3 創作]

 片久那制作部長が頑治さんに訊くのでありました。
「昼食に行かれました」
「唐目君に納品書を渡して、自分は仕事完了の報告もしないでかい?」
 はいそうですと応えるのも何となく憚られるので、頑治さんは頷かずに口元に笑いを作って返答の代わりとするのでありました。
「相変わらず無責任だなあ」
 片久那制作部長は舌打ちしてからまた弁当の方に取り掛かるのでありました。
「昼飯は当然未だだろう?」
 均目さんが立ち上がりながら頑治さんに話し掛けるのでありました。
「ええ、未だです」
 頑治さんは竟々丁寧語で応えるのでありましたが、均目さんには同い歳なのだからお互いざっくばらんなため口でいこうと云われているのでありました。しかし態々もう一度ため口で言い直すのも間抜けな振る舞いと云うものでありますか。
「じゃあ、一緒に何処か食いに行こうか?」
 頑治さんは頷いて二人で事務所を出るのでありました。
 お茶の水、神保町、それに猿楽町近辺は昼食時はどの飲食店も混んでいて、十二時を少し出遅れただけでも行列に並ばないとなかなか食事にありつけないのでありました。入社して一年の均目さんよりは頑治さんの方がこの界隈に詳しかったものだから、ちょっと汚い店だけどと断って、頑治さんは均目さんを以前から偶に利用していた常時人影もあまり無いような路地裏に在る、暖簾も目立たない小さな定食屋に案内するのでありました。
「へえ、こんな店があったんだ」
 均目さんは初めて入ったその定食屋のカウンター席だけの狭い店内を珍しそうに眺め渡しながら、頑治さんと出入り口近くの椅子に並んで座るのでありました。
「それに他の店に比べると値段も安いよ」
 頑治さんはここは少しぞんざいなため口を使うのでありました。
「流石に大学時代からこの辺をうろついているだけの事はあるなあ」
「神保町郵便局とか運送屋の集配所は迂闊にも全く知らなかったけどね」
「そう云う所は学生には縁が薄いだろうしね」
 二人揃って塩鯖切り身の焼き魚定食を食いながら、均目さんは味もなかなかいけるし、良い店を教えてくれたと頑治さんに畏まらない謝意を表するのでありました。
「宇留斉製本所に行った時、刃葉さんは何時もは何時頃帰って来ていたのかな?」
 頑治さんは口から離した味噌汁碗を置きながら訊くのでありました。
「そうねえ、昼休み明けの午後一時頃かな」
「ああ、今日みたいに帰ってすぐに、何はさて置いても昼休みを取って、それで仕事復帰するのが午後一時と云う事になる訳だ」
「いや、午後一時頃に駐車場に車が帰って来るんだよ。それから遅い昼休みと云う事になるから、仕事復帰は午後二時からと云うのが今までの大体のパターンかな」
(続)
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あなたのとりこ 76 [あなたのとりこ 3 創作]

 明らかに頑治さん意見の方に正統性があるのは刃葉さんも判るようで、早目の昼休みは諦めたようでありました。しかし車が白山通りに曲がって後楽園遊園地の道向かいで、壱岐坂を越えた直ぐの辺りで刃葉さんは車を路肩に寄せて停車させるのでありました。
「ちょっと待っていてくれるかな」
 刃葉さんはそう云い置いて車を降りるのでありました。見ていると道沿いの武道具店の看板の下の引き戸を開けてその中に姿を消すのでありました。
 ははあ、ここに立ち寄りたいために帰り道の頑治さんの運転交代の申し出を断ったのであろうと合点がいくのでありました。頑治さんが運転していたらここでちょっと車を止めろと云うのも刃葉さんとしては気後れするでありましょうし、それなら自らハンドルを操作している方が自儘に、遠慮を感じる事少なく車を武道具店の横に停止させられると云うものであります。仕事では武道具店とは縁も所縁も無いのだから、これは刃葉さんの全くの私用と云う事になるでありましょうか。頑治さんはフロントガラス越しに武道具店のアルミサッシの引き戸を見ながらやれやれと声に出して独り言ちるのでありました。
 刃葉さんは二十分程して店を出て来るのでありました。手には細長い紙包みを持っているのでありました。何かは判らないけれどそれを買ったのでありましょう。
 車のドアを開けて運転席に座ると、刃葉さんは助手席に座っている頑治さんの方を向くのでありました。何か話し掛けるのかと思いきやそう云う訳ではなく、少し口を尖らせて見せてから紙包みを変速ギアと自分の左大腿の間の隙間に置くのでありました。助手席に頑治さんが座っているものだから、多分こんな場合何時もしているように、何の気無しに紙包みを助手席に放り投げる事が出来ないのを忌々しく思ったのでありましょうか。

 結局猿楽町に在る会社の倉庫前駐車場に車が滑り込んだのは、十二時を十五分程回った頃になるのでありました。羽葉さんは引き取って来た荷を車から下ろしもせずに運転席のドアを外からバタンとぞんざいに閉めた後、そそくさと昼食を摂るために何処かに行って仕舞うのでありました。頑治さんは刃葉さんから託された、宇留斉製本所から受け取った納品書を山尾主任に渡すために三階の事務所への階段を上るのでありました。
「おや、今日は割と早かったなあ」
 制作部の自分の机で弁当を食していた片久那制作部長が頑治さんの姿を見て声を掛けるのでありました。遅かったなあと苦言を呈される方が妥当と思われるのに、そんな逆の言葉を掛けられると頑治さんとしては少し調子が狂うと云うものであります。
「山尾さんは昼食ですか?」
 頑治さんが訊くと片久那制作部長の代わりに、これも自分の机でこちらはようやく午前中の仕事が片付いたと云った風情の均目さんが応えるのでありました。
「印刷所に出掛けていて、未だ戻ってないよ」
 頑治さんはふうんと云った具合に頷いて、持って帰って来た宇留斉製本所の納品書を山尾主任の机の上に置くのでありました。
「刃葉君はどうした?」
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