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あなたのとりこ 116 [あなたのとりこ 4 創作]

 均目さんは少し大袈裟に深刻そうな顔をするのでありました。
「支給しないと云うのは片久那制作部長がそう云ったのかい?」
「いやそうじゃない」
「じゃあ、土師尾営業部長から直接聞いたの?」
「いや、それもそうじゃない」
「じゃあ、何処から出た情報なんだい?」
「日比課長からそうらしいよと袁満さんが聞いて、袁満さんから俺が聞いたんだ」
「日比課長にボーナスを支給するかしないかの決定権があるのかい?」
 頑治さんは眉宇を上げて訝しそうな物腰で訊くのでありました。
「いやいや、そうじゃない」
 均目さんが頑治さんの察しの悪さにげんなりしたのか、苦笑って丸めた観光絵地図を持っていない方の手を小さな振幅で横に何度か振って見せるのでありました。
 要するに均目さんの話しに依れば、日比課長が営業打ち合わせと称して土師尾営業部長に会社近くの喫茶店に連れ出されて、そこでそんな話しをされた模様であります。と云う事は土師尾営業部長発信の情報と云う事になりますか。
 今年度の営業成績が前年に比べて今のところかなり落ち込んでいて、来年上半期の売り上げ見込みも全く芳しくない観測と云った情勢で、社員に暮れのボーナスを支給する目途が立たないと、土師尾営業部長はさも日比課長の常日頃の営業活動を暗に詰るような、それに且つ脅すような口調で宣したと云う事のようであります。まあ、その時の土師尾営業部長の口調に関しては伝聞のそのまた伝聞と云う事になるので、日比課長か袁満さんの土師尾営業部長に対する日頃の心証が反映されている可能性があるから、副詞的信憑性は保証の限りではないと均目さんは如何にも慎重そうな口調で付け足すのでありました。
「日比課長の売り上げ成績が随分と落ち込んでいるのかい?」
 頑治さんが聞くと均目さんは首を傾げるのでありました。
「確かに落ちてはいるけど、そんな詰られるような極端な落ち込みではないと云った感触のようだけどな、日比課長としては」
「じゃあ、袁満さんや出雲さんの出張売り上げが落ちたのかな?」
「袁満さんの言に依れば、前に比べると確かにここのところ漸次落ちてはいるけど、こちらも下半期が極端に悪いと云う事でもないらしいよ」
「じゃあ、残るは土師尾営業部長の成績、と云う事になるのかな」
 頑治さんが云うと均目さんは陰鬱そうな顔で頷くのでありました。
「特注関連の大口の注文が一番落ち込んでいると云う袁満さんの話しだな。それと毎年、大体決まった量の注文がある旅行斡旋会社や関連出版社、それに共済組合関連の会社や進物用品関係の会社への納品量も、今年は或る一社から丸々注文が無かったところもあって、グッと落ちたと云う按配かな。その辺は制作部でも仕事量の実感としてあるな」
「そう云った定期物とか特注物のセールスは土師尾営業部長が担当しているのかな?」
「そうね。土師尾営業部長と日比課長が分担している」
(続)
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あなたのとりこ 115 [あなたのとりこ 4 創作]

 刃葉さんは人里離れて、山籠もり、のような空手修行に入るという事でありますが、さて、この身を寄せて同じ歩調で歩くこちらの羽場さんは、来年になったらどのような身の振り方を決断するのでありましょうか。大学院に進むのかそれとも就職するにしても東京に残るのか、或いは郷里に帰って博物館職員とか学校の先生と云う道を選ぶのか。
 勿論頑治さんとしては東京に残って欲しいと願うのでありましたが、しかしながら頑治さんがどうあがこうと、この決定は夕美さんの専権事項であるのは云う迄もないのでありました。頑治さんはただ、夕美さんがこの先もずっと頑治さんの傍を離れたくないと、先ず以て願ってくれているであろう事を切実に望むしかないのであります。頑治さんは自分の腕に縋り付いている夕美さんの手を取って強く握るのでありました。
 頑治さんの手は今迄上着のポケットに突っ込んでいたから少しは防寒出来たけれど、夕美さんの指は寒い中に出ていたせいで嫌に冷たいのでありました。頑治さんはその夕美さんの指を自分の手で急いで温めなければと、何故か妙に焦っているのでありました。

   那間裕子女史

 倉庫で頑治さんが梱包作業をしていると均目さんが下りて来るのでありました。何か制作部関連の材料の搬入があるのかしらと思って頑治さんは声を掛けるのでありました。
「搬入があるのなら手伝おうか?」
「ああいやいいんだ。ちょっと北海道の観光絵地図の刷り本を取りに来ただけだから」
 均目さんはA全判観光絵地図の北海道の刷り本を数枚棚から取って、それを丸めながら作業台の頑治さんの傍に遣って来るのでありました。
「冬のボーナスの事、誰かから何か聞いているかい?」
 均目さんは丸めた刷り本に輪ゴムを掛けながら頑治さんに訊くのでありました。
「いや、何だい冬のボーナスの事って?」
「それが、この暮れはどうやら支給が無いらしいぜ」
「ふうん」
 頑治さんのあんまり興味が無さそうな上の空の応答振りに均目さんはちょっと興醒めしたようで、次の句を継ぎ損ねたように少し口籠もるのでありました。
「ああそうか、唐目君はこの冬が初ボーナスになる筈だったからなあ」
 均目さんは頑治さんが贈答社に於けるボーナスの事情をよく知らないために素っ気ない返答をしたのだと解釈したようで、そう云って自得するように頷くのでありました。
「そう云えば七月と十二月の年二回、ボーナスの支給があるって入社の時に土師尾営業部長から聞いたような気がするなあ」
「そうなんだ。業績次第で変動はあるけど、夏が大体基本給の二か月分、それから冬が二か月半分何時も支給されていたんだ。それがこの冬は無いらしいんだよ」
「ほう、それだけ貰えればちょっとホクホク、と云うところだけどなあ」
「社員は皆、それを当てにしていたんだ。だから冗談じゃないってところだ」
(続)
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あなたのとりこ 114 [あなたのとりこ 4 創作]

「そうね」
 頑治さんは何食わぬ顔であっさり受け応えるのであありました、「長滞在のようだからひょっとしたら、網走の顔を立てて刑務所観光はする事もあるかも知れないけど」
「長滞在って、十日くらい?」
「いやいや、十年とか聞いたけど」
 夕美さんはそう聞いて眉をヒョイと上げて少しの驚きを表するのでありました。
「それじゃ旅行で長滞在って云うより、向うに移住するって事だわね」
「そうね。そう云う方が正しいかな」
「向こうで仕事が見つかったの?」
「そうじゃなくて空手の修業らしい」
「空手の修業?」
 夕美さんはここでも眉を少し上げるのでありました。
「何でも網走に偉い先生が居て農場を遣っているんだと。そこに寄宿して農場を手伝いながら、その先生に時々一対一でみっちり教えを受けるんだそうだよ」
「ふうん。まるで熱血少年漫画、みたいな話しね」
「そうだよな。確かにちょっと浮世離れしている感じかな」
「まあ、人夫々だけど」
 夕美さんはそう云って、もうこの話しには興味を失ったような無表情になるのでありました。夕美さんはこれ迄の人生で武道とか修行とか云う言葉にはあんまり馴染んだ事は無かったのでありましたし、殊更の関心を持った事もないようでありました。ま、夕美さんは、大方のスポーツや身体運動はあんまり得意な方ではないようでありますし、
 公園の中の木々が俄にさざめくのでありました。ベンチの傍に溜まっていた枯葉が吹き払われて宙に舞うのでありました。
「随分強い風だな」
 埃が入らないように目を細めて頑治さんが云うのでありました。夕美さんは上着の襟を立てて寒そうに肩を竦めるのでありました。
「木枯しみたいね」
「今日の夜の天気予報で木枯し一号が吹きました、とか云うんじゃないのかな」
「そうね。そんな感じね」
 二人はベンチから立ち上がって傍らの塵入れに飲み終えた空の缶を棄てるのでありました。それから来た時と同じルートで上野公園を後にして帰路に就くのでありました。
 やや早足になるのは風が冷たいせいであります。不忍池の水上音楽堂の先の左岸の緑道に囲まれた一画には、木枯しの吹く中でもボートが多く浮かんでいるのでありました。木枯しの中での水遊びと云うのは一種酔狂ではあるにしろ、頑治さんにはなかなか勇気の要る遊びに思えるのでありました。頑治さんは生来の寒がりでありましたから。頑治さんは頑治さんの腕に腕を搦めて並んで歩く夕美さんをチラと窺うのでありました。夕美さんが何時もより強い力で頑治さんの腕に縋っているのは屹度寒い故でありましょう。
(続)
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あなたのとりこ 113 [あなたのとりこ 4 創作]

 頑治さんは両手に一本ずつ持っているコーヒーと葡萄ジュースの缶を見るのでありました。予期せぬ刃葉さんとの再会と思わぬ長話しのせいで、買った時には熱くて同じところを長く持てないくらいだったコーヒーの缶は、すっかり冷めて仕舞っているのでありました。まあしかし、夕美さんに頼まれた葡萄ジュースの方は、どだいそんなに冷えていた訳ではなかったから、こちらの温度はさして変わらないようでありました。
 頑治さんはベンチで待っている夕美さんの方に急ぎ足に戻るのでありました。急ぎ足のところが夕美さんへの、遅くなった事の多少の申し訳でありますか。

 夕美さんは寒そうに肩を竦めてベンチに腰掛けているのでありました。
「待たせたなあ」
 頑治さんはそう云いながら夕美さんの横に腰を下ろすと葡萄ジュースを手渡して、自分の缶コーヒーのプルリングを引き開けるのでありました。
「随分のんびりした買い物だったわね。何処まで行っていたの?」
 夕美さんは葡萄ジュースを受け取って、すぐには飲まずに暫く缶を両手で弄びながら首を傾げて見せるのでありました。
「動物園の入り口の自動販売機で買ったんだよ」
「それにしては戻るのが遅かったのね」
「いやね、買っていたら後ろから俺の肩を叩く人がいたんだ」
 頑治さんは夕美さんの両手の間を転がりながら行き来する葡萄ジュースの缶に視線を遣りながら云うのでありました。「それがこの前会社を辞めた刃葉さんだったんだ」
「ああ、この前会社を辞めた、頑ちゃんの業務仕事の先輩に当たる人ね」
 そこで夕美さんはやっとプルリングを引き開けるのでありました。
「そうそう。こんなところで逢うなんて全く予期していなかったから驚いたよ」
「この辺にお家があるの?」
「いや、そうじゃない筈だよ」
「上野に遊びに来たのかしら」
「さあ、それは知らないけど。でも博物館や美術館見学とか、動物園見物とか、それに公園散歩もあの人の趣味には無いと思うけどね。それから西郷隆盛や野口英世の熱烈なファンだと云う訳でもないし、考える人の像を見ながら何か考えるタイプの人でもない」
 頑治さんはすっかり冷めて仕舞ったコーヒーを一口飲むのでありました。
「それで、ちょっと立ち話をしていたから遅くなったんだ」
 夕美さんは葡萄ジュースの缶をチョビチョビと傾けるのでありました。
「そう。何でも年が明けたら北海道の網走に行くんだって」
「別に刑務所に入る訳でもないけど?」
 夕美さんは云ってから小首を傾げて愛嬌たっぷりに頑治さんを見るのでありました。これは頑治さんが時々科白に付け加える仕様も無い蛇足を先回りに口にして、それで頑治さんの反応を窺うと云う夕美さんのちょっとした悪戯っ気か洒落っ気でありましょう。
(続)
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あなたのとりこ 112 [あなたのとりこ 4 創作]

「刃葉さんはご両親と一緒に暮らしているんでしたよね?」
 頑治さんが懸念を眉宇に湛えて訊くのでありました。
「そうだけど」
「ご両親は刃葉さんの網走行きを承諾されたのですか?」
「ああ、ウチの両親ね」
 刃葉さんはあっけらかんと笑うのでありました。「それは何も問題は無いな。ウチの両親は出来損ないの俺の事なんか、もう疾の昔から眼中にないからね。何処で野垂れ死にしようと知った事じゃないだろう。それに俺には兄貴が居て、こちらは結構大きな会社に就職していて真っ当なサラリーマンをやっているし、俺になんかに頼る必要は全く無い」
「ああそうですか」
 頑治さんはその、ある意味好い気で自分勝手な返答に疑わしさを表する心算で、敢えて無表情をして少しばかりの不愉快を籠めた声音で云うのでありました。「網走の先生とやらの農園は、一度くらい訪ねた事はあるんですか?」
「いや、ないよ」
「先生個人には東京の道場か何処かでお逢いされた事はあるのですか?」
「それもない」
「こんな云い方は失礼かも知れませんが、その先生は信頼が置ける方なのですか?」
「道場の師範が云うには、向こうは大いに乗り気だったと云う事だ。今時奇特な漢だと俺の事を感心して、俺にその意志と覚悟があるのなら是非鍛えてみたいと云ったらしい。まあ、道場の師範はなかなか出来た人だし、その師範が云うんだから間違いないだろう」
「ああそうですか」
 頑治さんは先程と同じ文句を、先程と同じ顔付きと声で繰り返すのでありました。矢張り体良く東京の道場を追っ払われて、網走で賃金の殆ど掛からない都合の良い労働力として期待されているだけのような気もするのでありましたが、そんな憶測を今の段階で大乗り気になっている刃葉さんに対して表明するのは何となく及び腰になるし、第一頑治さんがそんな心配をする謂われも無いと云えば全く無いのでありますし。
「来年の正月明けには俺は網走に行くから、唐目君に逢うのはこれが最後と云う事になるな。まあ、逢ったのは全くの偶然だったけど。つまりそう云う訳で、・・・」
 と、ここで刃葉さんは口調を改めて頑治さんに笑い掛けるのでありました。「唐目君も、今の会社でしっかり頑張れよ。その内良い事もあるよ」
 刃葉さんは別に名残惜しそうでもない口調で頑治さんを励ますのでありました。アンタに激励されたくもないし余計なお世話だと頑治さんは内心鼻を鳴らすのでありましたが、そう云う真似もせず如何にも邪気の無さそうな笑い顔をして見せるのでありました。
「じゃあ、まあ、刃葉さんもお元気で」
 頑治さんが云うと刃葉さんは片手を上げてそれに応えるのでありました。それから頑治さんにクルリと背中を向けてその場を去っていくのでありました。少し強い初冬の風が吹いて、刃葉さんの着ているジャケットの裾を翻すのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 111 [あなたのとりこ 4 創作]

「じゃあ旅行ですか?」
「いやそんなんじゃなくて、向こうに云ったら数年、いやひょっとしたら十年くらい留まる事になるかも知れないかな」
「十年留まる?」
 頑治さんはこの意外な報告に少し驚いて見せるのでありました。「そんなに長く北海道の網走で一体何をすると云うんですか?」
「空手だよ」
 刃葉さんはあっさりそう云ってから思わせ振りに無表情をするのでありました。
「空手、ですか?」
「そう。空手。今通っている道場の師範の、そのまた先生が網走に住んでいるんだよ」
「詰まり源流を訪ねる、と云ったところですかね」
「まあ、そう云うところもあるかな」
 刃葉さんは無表情の儘一つ頷くのでありました。「俺が仕事を辞めてフリーの身の上だと云うのを聞いて、それならば網走に行ってみないかって師範が云ってくれたんだ」
「その師範の方に刃葉さんが見込まれて、より凄い先生の道場で修業をするように推薦された、とか云った感じですかね、要するに」
「その先生は別に道場はやっていないんだ」
「道場をやっていない?」
 頑治さんは訝しそうに刃葉さんの顔を覗くのでありました。「それなら何のためにその先生の下へ身を寄せるんですかね?」
「小さな農園をやっているんだよ、網走の近くで奥さんと二人」
「ああそうですか」
 頑治さんは刃葉さんの網走行きの目的が上手く呑み込めないのでありました。羽場さんは空手をやりに網走に行くと先程明快に云った筈であります。しかしその訪ねるべき先方の先生は空手の道場をやっていないと云う事らしいのであります。
 刃葉さんの雑に語る話しのあれこれから推察してみるとつまり、羽場さんは網走に行ってその先生の所有になる農園の中の粗末な小屋に一人滞在して、農園仕事を手伝いながら殆どの人交わりを断って、刃葉さんの言に依れば、山籠もりのような生活、をしながら空手の修業に只管打ち込むと云う事のようでありますか。勿論その先生に事あるに付け様々指南を頂戴するのでありましょうが、基本は一人暮らしの一人修行のようであります。
 江戸時代かそれ以前の求道者のような、なかなか浮世離れした、大自然を相手の隠者みたいな修行と云えるでありましょう。まあ、人交わりが無いと云うところが刃葉さん向きとも云えるかも知れません。しかしあの万事にがさつで怠け者の刃葉さんみたいな人が、そう云う人目から隠れた厳しい修行なんぞ務まるのでありましょうか。
 意地悪く勘繰れば、実は調子に乗せられて体良く刃葉さんが今通っている道場から追っ払われているとも考えられるのであります。どうせ道場でも師範や同門連中と様々余計な摩擦を引き起こしたり、良くない意味で独立不羈でやっているのでありましょうから。
(続)
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あなたのとりこ 110 [あなたのとりこ 4 創作]

 動物園入り口ゲート近くの自動販売機で自分の温かい缶コーヒーと、夕美さんの冷たい葡萄ジュースを買っていると頑治さんは誰かから肩先を不意に叩かれるのでありました。振り向くとそこに立っていたのはこの前会社を辞めた刃葉さんでありました。
「久し振り。また妙な処で逢ったもんだな」
 刃葉さんはニコニコと笑い掛けるのでありました。
「ああ、羽葉さんじゃないですか。お久し振りです」
 頑治さんも笑い返すのでありましたが、まさかこんな処で逢うとは思ってもいなかったものだから、頑治さんの笑い顔は何となくぎごちないものになるのでありました。
「何だよ、動物園にでも遊びに来たのかい?」
 刃葉さんは場所柄そう問うのでありました。
「いや、そうじゃないですが、自動販売機を探していたらここに在ったんで」
 頑治さんがそう返すと刃葉さんは頑治さんが両手に一缶ずつ持っているコーヒーと葡萄ジュースの方に交互に目を遣るのでありました。
「二つ買ったところを見ると、連れが居るのかな?」
「ええまあ」
 頑治さんは特に夕美さんの存在を刃葉さんに隠す必要も無いし、それにまた態々告げる必要も無いと思うものだから曖昧にそう応えるのでありました。
「ひょっとしてデートかい?」
「知り合いと東京都美術館に来た序に、ちょっと公園内を散歩していたんです」
「ふうん。まあ良いや」
 刃葉さんはそれ以上頑治さんの連れについて興味を示さないのでありました。
「新しい仕事はもう見付けたんですか?」
 別に刃葉さんの近状や消息について頑治さんも大して興味は無いのでありましたが、まあ一種の愛想からそんな事を訊いてみるでありました。
「いや未だだよ」
 刃葉さんがあっけらかんとそう応えるところを見ると、さして熱心に新しい仕事を探している様子は窺えないのでありました。前職があんな調子だったからなかなか就職先も見つからないであろうと、頑治さんは余計な心配なんかを秘かにするのでありました。
「あんまり焦っていないようですね」
「うん、まあ」
 刃葉さんは一つ頷いてから、ちょっと間を空けて続けるのでありました。「来年になったら網走の方に行く事になるかも知れない」
「網走と云うと北海道ですか」
「当然そうだな。北海道の網走」
 刃葉さんは繰り返して、少し勿体を付けるように口を閉じるのでありました。
「網走に仕事が見つかりそうなんですか?」
「いや、仕事と云うのじゃないんだけど」
(続)
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あなたのとりこ 109 [あなたのとりこ 4 創作]

「山へ行く予定でここに集まったんだけど誰かあの中の一人の気持ちが挫けて、それでその挫けたヤツの気持ちを尊重して、それで皆で上野公園散歩に切り替えたとか」
「でも、そうだとしても公園散歩と登山の間には余りに落差があり過ぎない?」
 夕美さんが頑治さんの説に異を唱えるのでありました。
「本当は殆どのヤツが登山に乗り気でなかったんだけど、中に矢鱈と押しの強いヤツが居て、そいつの意見に引き摺られて不承々々ながらここに集まったんだよ。でもそこで好都合にも登山に行きたくないと土壇場で表明するヤツが現れて、勿怪の幸いと皆が同調したものだから公園散歩に目的を切り替えざるを得なかった、と云うのはどうだろう」
「かなり推理に無理があるような気がする」
 夕美さんはニンマリ笑いはするけれど賛同しないようでありました。「大方の人が乗り気でなかったのなら、態々登山に必要な荷物を前から色々用意して、当日重いリュックを背負って重装備をしてここに集まる前の段階で、あの一行の登山計画は頓挫しているんじゃないかしら、幾ら押しの強い人が一人強硬に登山を主張したとしても。第一若しそんな経緯があるなら、皆があんなに楽しそうに歩いたりしていないでしょう」
「その押しの強いヤツは、それなら勝手にしろとか棄て科白を吐いて一人で駅から電車に乗って居なくなったので、厄介払いが出来て和気藹々が出現したのかも知れない」
「でも、そうだとしても、後に残った人達はあんなにあっけらかんと笑ったり冗談を云ったりなんかしていられないでしょう。厄介払いが出来て、尚且つ嫌な登山に行かないで済んで内心ほっとしたとしても、何となく気まずい雰囲気にはなるでしょうよ」
「確かにそれはそうだな」
 頑治さんは夕美さんの論に納得するのでありました。「それなら、あの連中は皆が皆、まるで親切の国から親切教を広めに来たような、すこぶる付きの好人物達で、一人だけ集合時間になっても未だ現れないヤツが居て、そいつが現れるのを、出発を後らせて只管ここでやきもきしながら待っている、と云う設定はどんなものかな」
「それも無理の国から無理教を広めに来たような素っ頓狂な推論ね。やきもきして待っているのなら、矢張りあんな楽しそうな顔でうろちょろ歩いたりしていないでしょうし」
「そう云われてみれば、そうかも知れない」
 頑治さんは如何にも鈍そうな表情で納得気に一つ頷いて見せるのでありました。その仕草を上目で見ながら夕美さんはクスッと笑うのでありました。
 その夕美さんの笑いで、夕美さんの差し迫った将来の進路と云う少し重たい話題が、取り敢えずこの場からぼんやりと消えたような気が頑治さんはするのでありました。まあ、暫しこの場から消えただけで一先ず話題としては保留、と云う事ではありますが。

「熱い飲み物でも買ってくるかい?」
 頑治さんがそう訊くと、夕美さんはコックリと頷いた後、凭れていた頑治さんの肩から頭を離すのでありました。頑治さんは夕美さんの頭が離れた肩先辺りに、冷たい空気が無遠慮に空かさず浸みて来るのを感じるのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 108 [あなたのとりこ 4 創作]

「俺としては夕美が兎に角東京に居てくれるのが一番嬉しいかな」
「あたしもそうしたいと思ってはいるんだけど。・・・」
 夕美さんはそう云ってから頑治さんの方に気持ちの籠った強い視線を投げて、それからゆっくり俯くのでありました。
「思ってはいるけど、そうもいかない障害でもあるのかな?」
 頑治さんが訊くと夕美さんは顔を上げるのでありました。
「ううん、東京に残れないような特別な障害なんか何もないわ。でも、・・・」
「でも、何?」
「何だか、思い通りにはいかないような予感、みたいなものがあるの」
「予感、ねえ」
 不吉な予感だと頑治さんは心の中で云うのでありました。特に根拠は無いながらもそう云った予感は時々見事に当たったりするものだと云うのは、これまで生きてきた経験から頑治さんは承知しているような気がするのでありました。だから余計不吉なのでありますし、夕美さんがそんな予感を持っている事は慎に忌々しい事であります。
「既定路線通り博士課程に進めば良いんだ」
 頑治さんが云うと夕美さんは縋り付くように頑治さんの腕を自分の胸にかき抱くのでありました。なかなか強い力だと頑治さんは感じるのでありました。
「そうよね。あれこれ迷わないですんなり予定通りの進路を取れば良いのよね」
 何となく自分に云い聞かせるような夕美さんの云い草でありましたか。
 先程見た登山姿の、十人程の中年男女の一団が笑いさざめきながら二人が座るベンチの前を通り過ぎていくのでありました。皆一様に如何にも楽しそうな笑顔でありますが、しかしどうしてこの場所にそぐわないそのようないで立ちをしているのか、頑治さんは再び訝しく思うのでありました。頑治さんと夕美さんが東京都美術館で書道展を観ている間もずっと、あの姿で公園内をうろうろしていたのでありましょうか。
「あの連中はどうして登山の格好をしているのかな」
 頑治さんが頬に軽く触れている夕美さんの髪の横で顎を動かすのでありました。
「さあ、どうしてかしらね」
 先程から夕美さんもその場違いな服装の一団に気付いていたのでありましょう。
「あのいで立ちは何ともそぐわないよなあ、ここには」
「公園散歩が目的なら、如何にも大袈裟過ぎる服装よね。尤も、上野のお山、なんてここの事を云うけどね。でもまあ、それにしてもねえ」
 夕美さんは頑治さんを見上げながらクスと笑うのでありました。
「信州か新潟辺りに登山に行った帰りで、上野駅に着いた後ちょろっとここに立ち寄ったのかな。未だ家に帰るには早いから、とか何とか云う理由で」
「そうね、そうかも知れないわね。でも、そうでないかも知れないけど」
「そうでないとしたら?」
「さあ、それはあたしには全く判らないわ」
(続)
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あなたのとりこ 107 [あなたのとりこ 4 創作]

「博士課程に進むかどうか未だ迷っているの?」
 頑治さんはその辺りが今の夕美さんの心根の中で、ふと明滅し始めた思念であろうと当たりを付けて少し躊躇いがちに訊くのでありました。
「そうね、未だ迷っているわね」
 夕美さんはそう云ってから目の前の書を眺め遣るのでありましたが、それは眼前の書に意を集中しているとは決して云えない瞳容でありましたか。
「せっかく今迄考古学を熱心にやってきたんだし、これから先も続けていける環境にあるんだから、ここで止すのは勿体無いような気がするけど」
「それはあたしもそう思うけど、でもこの儘続けたとしてもその先に何があるんだろうって考えるのよ。色んな人に今までお世話になりながら続けてきたけど、それに見合うだけの成果をあたしが出せるのかどうか自信も無いし」
 夕美さんは書から目を離して俯くのでありました。
「博士課程を終えて助手として大学に残って、その後は後続する学生達を指導しながら自分の研究をもっと深めていく、と云う意欲みたいなものはあるんだろう?」
「あるのかなあ。・・・」
 夕美さんは無表情で自問するのでありました。迷いは深いようでありました。

 東京都美術館を出てから、頑治さんと夕美さんは上野公園の中を漫ろに散歩するのでありました。出掛ける時はかなり寒かったのでありましたが、太陽がぼちぼち傾きかける頃になると、風が無いせいでもありましょうが戸外に居ても然程の寒さは感じないのでありました。肩の辺りに服を通して日の温かさも感じられるくらいでありました。
 歩き疲れた訳でもないのでありますが、二人は陽溜まりの中のベンチに並んで腰を掛けるのでありました。未だ散るのは少し早いように思うのでありましたが、二人の間に傍らの樹から枯葉が一枚舞い落ちるのでありました。
「でももうそろそろ、この儘博士課程に進むのか、それとも何か別の道を探すのか、決めなければならないんだろう?」
 頑治さんが先程の話しの続きを始めるのでありました。
「そうね。・・・」
 夕美さんは膝の上に指を搦めて組んだ自分の手を見ながら返事するのでありました。
「これはあくまで仮定の話として、若し博士課程に進まないのなら、故郷の博物館の研究員になるか、それとも学校の先生になるか、とか前に云っていたよなあ」
「そうね。それから考古学やそう云った事から全く離れて、普通に会社勤めをするか」
「前にも云ったけど、何れにしても、夕美はその選んだ道をそつ無く歩くだろうな」
「博士課程に進んでその儘大学に残るか、それとも東京の会社に就職するとしたら、この先もずっと頑ちゃんとこうして一緒に居られるわよね」
 夕美さんは頑治さんの方を向いて笑むのでありました。夕美さんがそう云った辺りも考慮しているようなら、頑治さんとしては大いに嬉しい事でありました。
(続)
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あなたのとりこ 106 [あなたのとりこ 4 創作]

「見事な書かい?」
 頑治さんが訊くのでありました。
「判らないわ」
 夕美さんは未だ熱心に眺め遣りながら応えるのでありました。「何が書いてあるのか覚えておかなくちゃ、と思って眺めているだけ」
「そりゃそうだな。ちゃんと足を運んだと云う証拠だもの」
「風蕭蕭兮易水寒 壮士一去兮不復還」
 夕美さんは書いてあるところを音読みで諳んじるのでありました。「・・・だって。長くて覚えきれないわ。多分漢文の一節でしょうけど」
「風蕭蕭として易水寒し、壮士一たび去って復た還らず」
 頑治さんが読んで見せるのでありました。夕美さんは横に立つ頑治さんの方に顔を向けて驚きの表情をするのでありました。
「あれ、頑ちゃんこの文章知っているの?」
「荊軻と云うヤツの歌だな」
「誰、荊軻って?」
「秦の始皇帝を暗殺しようとして失敗した刺客だよ」
「ふうん、そうなんだ」
 夕美さんは感心して見せるのでありました。
「中国の戦国時代末の男で、燕と云う国から正に始皇帝、その時は未だ秦王政だけど、暗殺に出発する時、易水と云う川の畔で歌ったんだ。司馬遷の『史記』の中にあるよ」
「時々感心するんだけど、頑ちゃんはよく何でも知っているわね」
「ま、あんまり役に立ちそうにない余計な事はあれこれね」
「ちょっと後で読み方を紙に書いといてよ」
「良いよ。帰ったら書くよ」
「何かさあ、今の仕事させとくのは惜しい気がする」
「今の仕事って、会社の業務の仕事?」
 夕美さんは勿体らしく頷くのでありました。
「他にもっとその知識を生かした仕事がありそうなものだけど」
「いやいや、知っているとは云ってもそれはつまり、半可通と云うものでがさつでちゃらんぽらんで、深みには欠けるもの。何か一つを突き詰めると云う風じゃ全然ないから」
「そうでもないと思うけど」
「いやいや、落語に出てくる横丁のご隠居さんレベル以上ではないな。俺なんかより大学院で考古学をやっている夕美の方が遥かに、専門的な知識と云う点で上だな」
「考古学、かあ」
 夕美さんはそこで少し考える風の顔をするのでありました。と云っても、考古学をやっている自分と頑治さんのどちらが知識と云う点で上かどうかを考える、というような事ではなく、もっと別な想念が頭の中に去来したからのようでありました。
(続)
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あなたのとりこ 105 [あなたのとりこ 4 創作]

「無料招待券でも貰ったの?」
「入場は無料らしいの。好かったら観に行ってとか云われていたのを思い出したのよ」
「ふうん」
 頑治さんは頷きながらも、未だすっかり乗り気になったと云う風ではない返事をするのでありました。特段書道に興味がある訳でも無いのでありますし、そのために態々上野まで出掛けると云うのも億劫と云えば億劫に感じたのでありましたから。
「あたしも書道自体は別に興味は無いんだけど、未だ紅葉には早いけど偶には上野の森でブラブラ散歩するのも悪くないじゃない。それにちょこっとでも書道展に顔を出せば、その同級生に対する義理みたいなものも、あたしとしては果たせるし」
 そう云えば夕美さんと上野公園を散歩した事は今まで無かったなと頑治さんは考えるのでありました。上野ならこの本郷のアパートから歩いてもそんなに遠い距離でもないし、これは格好の暇潰しになるような気もしてくるのであります。書道展に顔を出すと云う確たる目的もあるし、それで夕美さんの義理も立つと云う事であるなら、漫然と鈴本演芸場に寄席見物に赴くと云うのよりは外出のし甲斐もあるというものでありますか。
「じゃあ、そうするかな。序にパンダも見て来るか」
 頑治さんは缶ビールを飲み干してから頷くのでありました。
「じゃあ、決定ね。パンダは別として」
 夕美さんもビールを飲み干してから立ち上がるのでありました、それからもう一度ユニットバスの中に姿を消すのは、ようやく髪を拭き終わってこれからドライヤーをかけるためでありましょう。序に外出用の少しの化粧もあるのでありましょうか。

 アパートを出ると二人は先ず本郷三丁目駅近くのレストランで朝食兼昼食を摂って、その後本郷通りを少し歩いて春日通りに曲がるのでありました。それから本富士警察署の脇を左に折れて道成りに幾つか角を曲がり、無縁坂をダラダラ下るとすぐに不忍通りに出るのであります。それから不忍通りを渡って不忍池畔を並んで漫ろ歩いて、池を半周もすればもうすぐに西郷さんの銅像が見える辺りに出るのでありました。
 夕美さんが云ったように確かに紅葉は未だでありましたが、日曜日の公園の中は多くの人出で賑わっているのでありました。家族連れや若いカップル、芸大の学生風の黒いバイオリンケースやチェロケースを抱えた男女、それに何をしに来たのか良く判らない、大きなリュックを背負った登山のいで立ちの十人程の中年の男女の集団と擦れ違いながら、公園のメイン通りを歩いて噴水の傍まで来ると東京都美術館はすぐそこであります。
 頑治さんと夕美さんは先ずは義理を果たすべく書道展に顔を出すのでありました。受付には夕美さんの同級生の顔は無いようでありましたが、一応来た証しに夕美さんは来場者名簿に記帳するのでありました。もうそれで既に義理は完了した事になるのでありましたが、まあせっかくだからと二人は場内をつるっと巡って、迷路のように建て回してある壁面に隙間無く掛けてある書を一通り観るのでありました。その中に大学院の同級生のものを見付けた夕美さんは、そこで立ち止まって暫しの間それを俯瞰するのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 104 [あなたのとりこ 4 創作]

「そうねえ」
 頑治さんはあんまり気乗りしないような云い草をするのでありました。
「じゃあ、浅草か上野をブラブラ散歩してから寄席見物とか?」
「それも何となく億劫だなあ」
「じゃあ、ずっとここに居ていちゃいちゃしてる?」
 夕美さんは悪戯っぽい流し目をして頑治さんを見るのでありました。
「それも全く悪くないんだけど、幾らする事が無いからと云っても明日の日本を背負って立つべき健全な青少年がやるべき事柄じゃないかなあ、そう云うのは」
「じゃあ、健全な青少年は日曜日に朝寝した後、何をするのが正しいのかしら?」
「先ず、ビールを飲む」
「成程」
 夕美さんは頷いてビールを一口飲むのでありました。「それから?」
「それから、今日やるべき事柄についてあれこれ議論をする」
「ふんふん」
 夕美さんはまたビールの缶を傾けるのでありました。
「で、結局結論を得ない」
 ここで頑治さんも一口煽るのでありました。「依って不本意ではあるけれど、ずっとここに居ていちゃいちゃしながら過ごす事になる」
「そうだ、東京都美術館に行ってみない?」
 頑治さんの戯言とは全く関係無く夕美さんが急にそう提案するのでありました。
「東京都美術館?」
「そう。上野公園の」
「そこで何かやっているのかい?」
「確か書道展をやっている筈よ」
 夕美さんはそう云って一つ頷くのでありました。その頷き様に何となく確然とした趣きがあって、今急に思い付いた東京都美術館行きを夕美さんはもう決しているようだと頑治さんは推察するのでありました。しかし夕美さんの趣味に書道があったとは今の今まで頑治さんは知らなかったのでありました。一体全体何故の書道展行きでありましょうや。
「何でまたそんなものに?」
「知り合いの人が出展しているのよ」
「知り合いって?」
「考古学教室の同級生。と云ってももう六十歳過ぎの人だけど」
「六十歳過ぎの同級生?」
「社会人枠で入ってきた人なのよ。ウチの大学で考古学を専攻していて、大学を出てからはずうっと高校の社会科の先生をしていたんだけど、定年になって一念発起して考古学専攻の大学院生になったらしいの。その人の長年の趣味が書道で、何とか云う書道の団体の会員さんで、そこの年に一回の書道展を東京都美術館で今やっているのよ」
(続)
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あなたのとりこ 103 [あなたのとりこ 4 創作]

 そう云われて頑治さんは一応愛想から口角を上げてみせるのでありましたが、刃葉さんとはこの先縁が無くなる事を祈るのでありました。そう云う頑治さんの気分なんぞは隠せないもので、刃葉さんは苦笑してから頑治さんに背を向けるのでありました。

   木枯し

 夕美さんがバスタオルで洗い髪を拭きながら風呂場から出て来るのでありました。
「寒い々々」
 夕美さんは炬燵に足を潜り込ませながら云うのでありました。「この頃随分寒くなってきたわね。もう本格的な冬って感じ」
 頭を拭いたタオルが未だ夕美さんの肩に掛かった儘になっているのは、充分に髪の毛の水分が拭き取られてはいないからでありましょう。頑治さんは夕美さんの首半分を隠すように厚く蟠っている肩のバスタオルを見ながら返すのでありました。
「未だ十一月の初旬だと云うのにね」
「今年は例年になく冬が来るのが早いってテレビで云っていたわ」
「今年は大雪が降るかもかも知れない」
「そうね。それもニュースで云っていたわ」
 夕美さんは肩のタオルで横の髪を挟むようにして水気獲りに忙しいのでありました。頑治さんは立ち上がって冷蔵庫から缶ビールを持って来るのでありました。寒い々々と云いながら冷えた缶ビールもないかと思うのでありましたが、しかし態々日本酒の熱燗を仕込むのも面倒であります。まあ、大して手間は掛からないでありましょうけれど。
 頑治さんが夕美さんの前に缶ビールを置くと夕美さんは髪の毛拭きの手を休めない儘、先ずその置かれた缶を見て、それからすぐに頑治さんの方に目を移してニッコリと微笑むのでありました。何時ものように可憐な笑顔でありました。頑治さんは冷えた自分の指先にほんの少しながら熱を感じたような気がするのでありました。
「有難う」
「寒いのに冷たいビールで良いかな?」
「うん。大丈夫」
 夕美さんは髪の毛拭きを中断して缶ビールを取り上げると、プルリングを引き開けるのでありました。炭酸の抜ける音が小気味良いのでありました。頑治さんもその後に同じ音を手元で響かせてから一口煽るのでありました。
「幾ら日曜日だからって、朝からビールと云うのは少し気が引けるけど」
 夕美さんはそう云いながらも、風呂上がりの渇いた喉にビールを三口程流し込んでからその後で如何にも爽快そうに溜息を吐き出すのでありました。
「さて、今日はどうしようかな」
 頑治さんがそう云ってからまた一口ビールを口に含むのでありました。
「映画にでも行く、新宿か池袋辺りに?」
(続)
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あなたのとりこ 102 [あなたのとりこ 4 創作]

 頑治さんにそう云われて刃葉さんは、ああそう云う事を云っているのか、と云うようなやや不興の色の雑じった無表情になるのでありました。頑治さんは刃葉さんを不愉快にさせたかなと思うのでありましたが、たじろがないで刃葉さんの目を真顔で一直線に見るのでありました。言葉を発した以上、もう後には引き下がれないのでありました。
「テメエの始末はちゃんとテメエでして行けよな、と云う訳ね」
 刃葉さんはこの期に及んで何故か妙に突っかかって来る頑治さんに対して余裕を見せるためか、薄ら笑いなんぞを頬に浮かべて見せるのでありました。
「その通りです。立つ鳥跡を濁さず、とか世間ではよく云うじゃないですか。本当なら最後に倉庫の中や駐車場、それに車の掃除やら、自分がこれまで使っていた会社の備品なんかも綺麗に手を入れてから会社を去るのが筋ではないですかね」
 正論でありましょうから頑治さんは気概として一歩も引く気は無いのでありました。これが恐らく刃葉さんと関わり合う最後の時なのだから、今まで溜めに溜めていた鬱憤を少しはぶちまけるぞと云う気でもありましたか。
「何だ、最後の最後にお説教か」
 刃葉さんの目尻に険しさが現れるのでありました。同時に多少の気後れの色も浮かぶのは頑治さんの小生意気な言が正論であると判るからでありましょう。
「説教ではありません。筋を云っているだけです」
 頑治さんは無愛想ながらも冷静な物腰で云うのでありました。上擦った様子は見せられないところであります。眼光を強くして、後は刃葉さんが怒って実力行使に及んだら、及ばずながらも対抗するしかないと臍を固めるのでありました。
「判ったよ」
 暫くの睨み合いの後で刃葉さんがふと視線を外すのでありました。「奥の座布団は外して持って帰るよ。それで良いんだろう」
 事ここに至っては古座布団の件だけではなく、倉庫や駐車場や車の掃除やら備品の手入れやらの、去るに当たっての礼節や態度の涼やかさの事も頑治さんは云ったのでありましたが、古座布団以外にそれを刃葉さんに望むのは無理かとも考えるのでありました。
 刃葉さんは倉庫奥に行って古座布団を外してくるのでありました。それからそれをゴミ入れ代わりのポリバケツに放り込もうとするのでありましたが、そんな無作法な行為にまたもや頑治さんが噛み付くかもしれないと思ったのか、机上に纏めてある、持って帰るべき私物の上にそれを載せるのでありました。なかなか気遣っている様子ではあります。
「じゃあ、短い間だったけど、世話になったな」
 刃葉さんは纏めてある私物を古座布団込みで抱えると頑治さんに手を挙げて見せるのでありました。何はともあれここは糞生意気な頑治さんへの不快をグッと腹の底に呑み込んで、大度な辺りを見せようとする心算でありましょうか。
「ご苦労様でした。こちらこそお世話になりました」
 頑治さんは顔色を改めて静かに云ってお辞儀するのでありました。
「ま、また縁があったら逢おうぜ」
(続)
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