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あなたのとりこ 41 [あなたのとりこ 2 創作]

 日比課長が話題を少々横滑りさせるのでありました。
「はあ。まあ。・・・」
 頑治さんは先輩社員に対しての弁えから、大いに遠慮がちに苦笑うのでありました。
「今迄、あんな妙な人は見た事が無かったねえ」
「妙と云うのか、好い加減と云うのか、適当と云うのか、・・・」
 この会話に山尾主任も加わるのでありました。

 山尾主任は頑治さんのコップにビールを注ぎ足そうとするのでありました。頑治さんは両手でコップを捧げ持ってそれを受けるのでありました。
「よくもまあ今まで、あんな調子で生きてこれたもんだとある意味感心するよ」
 今度は日比課長がそう云いながら山尾さんのコップにビールを注ぐのでありました。
「うっかり屋だから何をやらせても必ず一つ二つ抜けているし、丸っきり気は利かないし要領は悪いし、自分が仕出かしたポカでも他人事のように責任を全然感じていそうもないし、だから同じポカを何度も繰り返すし。典型的な、使えない人、だねあの人は」
 山尾主任が唾棄するような調子で並べ立てるのでありました。
「その辺を注意しても聞いているのかいないのか。寧ろそんな詰まらない事で一々目くじらを立てるな、なんて顔して笑っていて、まともに聞きもしない」
 日比課長が同調するのでありました。
「そうそう。逆にどう云う了見なのか注意しているこっちを見下すような顔している」
 山尾主任は一気にコップのビールを飲み干すのでありました。
「でも、刃葉さんはあれで結構傷付いているんですよ、本当は」
 今まで殆ど口を開かずに聞き役に徹していた均目さんが、脇からそっと会話に加わるのでありました。この思わぬ均目さんの闖入に日比課長と山尾主任は手にしていたコップを胸元で止めて均目さんの方を同時に見るのでありました。均目さんは山尾主任の空いたコップにビールを注ごうとして、瓶を傾けながら徐に差し出すのでありました。
「均目君も刃葉君の被害者の方だろうに、何で刃葉君を庇うんだい?」
 山尾主任が苦った顔で均目さんの酌を受けるのでありました。
「刃葉さんは要するにプライドの高い人なんですよ。ポカをやらかす自分を結構自分で責めているんです。でもまあプライドが高いから、人にそれを指摘されたり叱責されるのが苦手なんです。それで竟、不遜に見えるような態度を取ったりするんですよ」
「ほう、なかなかの分析家だな、均目君は」
 日比課長が皮肉っぽく云うのでありました。
「だからと云って万事好い加減なのは困るじゃないか。プライドが高いのなら、人に文句を云われない仕事をすれば良いんだ。別にそんなに難しいし仕事でもないんだし」
 山尾主任は与しないところを見せるのでありました。
「それはそうですが、刃葉さんの意地はそう云う方向には向かないんです」
 均目さんもなかなか後退りしないのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 40 [あなたのとりこ 2 創作]

 土師尾営業部長は片久那制作部長とほぼ同じ頃大日本地名総覧社に、これも同じく編集者として入社したと云う事でありました。しかし贈答社になった後は色々と経緯があって営業部に籍を移して、その後はずっと営業の仕事をしてきた人のようであります。
 日比課長も大日本地名総覧社時代に二人に遅れる事二年で入社した人で、その時代の生き残りは経理の甲斐計子女史を入れて四人という事でありました。この会社が贈答社となったのは今から五年前の事だそうでありますが、古い人がすっかり辞めて仕舞って、残った若手四人が贈答社をこれ迄実質的に切り盛りしてきたと云う事になりますか。
 因みに贈答社の現社長は、本来は大日本地名総覧社と取引のあった紙の販売会社を経営している人だそうで、今でもその紙販売会社の社長でもあるそうであります。
「二階の階段脇に、株式会社吉田紙販売、と云う会社がありますが、そこが社長の兼業している紙の販売会社なのでしょうか?」
 話しの途中で頑治さんが日比課長に訊くと日比課長は数度頷くのでありました。
「そうそうそう。それにウチが入っているビルのオーナーでもあるよ。それだけじゃなくて東上野にももう一棟五階建てのビルを持っているかな」
「へえ。こんな聞き方は不謹慎かも知れませんが、社長は遣り手なのでしょうかね?」
「遣り手かどうかはよく知らないけど、苦労人ではあるかな」
 日比課長は手にしていたコップのビールをグイと開けるのでありました。「自分でリヤカーを引いてあっちから紙を仕入れてこっちに売りに行く、なんてな感じで、弟さんと二人で吉田紙販売を今の規模にしたとか云う話しを聞いた事があるよ」
「ふうん。大したものですね」
 頑治さんは、この社長なる人は自らの苦労を厭わず仕事に精を出す篤実な経営者なのであろうと勝手に頭の中にその人物像を描いたのでありました。
「縁あって大日本地名総覧社の経営も引き受ける事になったけど、まあ、五階建てのビル二棟のオーナーでもあり吉田紙販売の社長でもあるから、印刷やら製版やらその他の大日本地名総覧社と取引のあった色んな会社から頼まれて、仕方なく左前になった会社を引き受けたと云うのが実情だな。赤字にならなければ良いか、と云う程度の腹心算で」
「自分が社長になった限りは会社を前より大きくしよう、と云う秘かな目論見と云うのか野望と云うのか、そんなものはお有りにならなかったのでしょうかね?」
「まあ、無かったんじゃない。出版社のオーナーだと云う、云ってみれば名刺の飾り程度の了見だったんだと思うよ。実際大日本地名総覧社から贈答社になって、会社の規模も人員も、それに売り上げの方も小さくなったしね。おまけに出版社じゃなくなったし。社長としたら名刺の飾りと云う目論見もあっさりパーになったような具合だな」
 日比課長はそう云って皮肉っぽく笑うのでありました。隅の席で黙々と日本酒の升酒を呷っていた片久那制作部長が、その日比課長の云い草を聞いて少し眉を顰めるのを頑治さんは横目にチラと認めるのでありました。日比課長の方はそれには全く気づかなかったようで、空いた自分のコップに手酌でビールをドボドボトと注ぎ入れるのでありました。
「ところで唐目君、刃葉君には魂消ただろう」
(続)
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あなたのとりこ 39 [あなたのとりこ 2 創作]

 山尾主任が、あの時の土師尾営業部長のような至極真面目な面持ちで訊くのでありました。頑治さんは思わず山尾さんの顔を凝視するのでありました。
「おいおい、山尾君までそんな間抜けな質問をして唐目君を困らせるのかい」
 片久那制作部長がげんなりしたような顔をするのでありました。この質問がどうして片久那制作部長をげんなりさせるのか、それに頑治さんを困らせるのか、山尾さんは良く判らないと云った表情をしているのでありました。ひょっとしたら山尾さんは土師尾営業部長と感受性の性向に於いて同類なのかしらと、会社内でこれから先、大いに頼りにしようと思っていた矢先であったから頑治さんはちょっと不安になるのでありました。

 一通り頑治さんに対して、まあ、初対面の人物にするありがちの質問が一段落すると、会社や仕事上の愚痴やら社員個々の人物評と云ったところに銘々の酒席での雑談は推移するのでありました。頑治さんは未だそう云った話しに入りこむだけの予備知識も情報も何も無かったから、片耳で聞きながら黙してビールを傾けているのでありました。
 片久那制作部長はそれを聞いているのかいないのか判然としないような様子で一杯目のビールを飲み干した後、日本酒の冷を升で注文して黙々と孤高に飲んでいるのでありました。日比課長は横に座る袁満さんが結婚願望が強いような辺りを頻りにからかい半分にちょっかいを出しているのでありましたし、袁満さんもそれを別に不愉快にも思わないようで、照れたり面目無さがったりしながら笑って受け応えているのでありました。
 この二人の遣り取りに時々山尾主任も日比課長側で加わるのでありました。そう云った諸々の談笑を聞きながら頑治さんは、ここに居る、それにここに居ない贈答社と云う会社に集う人物達のプロフィールのほんの一端なんぞを垣間見るのでありました。
 片久那制作部長は大学時代は全共闘の闘士だったようで、全共闘運動が挫折した後、在籍していた或る大学を三年で中退して、その時既に奥さんと結婚していたものだから何でも良いから働き口を見付けるため贈答社の前身である大日本地名総覧社と云う四十七都道府県別地図とその県の市町村名、大字名、小字名が網羅された主に公官庁に納入される分厚い大判の書籍を作る会社に編集者として入社したという事でありました。因みにこの大日本地名総覧社はその後暫くして経営が行き詰まり、主要書籍の版権を他の出版社に譲渡して、新たにギフト関連業の贈答社となったと云う経緯だそうであります。
 社の業態や外形が大きく変わった後も片久那制作部長はその儘贈答社に残り、今の制作部長と云う地位に就いたという事でありました。大いに頼り甲斐のある御仁ではあり、なかなかの切れ者であり食えない人でもあり、非妥協的で狷介で少々変人でもありで、その偉丈夫振りも手伝って社員の畏怖を一心に集めていると云った感じでありましょうか。まあ、少々煙たがられてもいるような嫌いはあるようでありますが。
 それに比べて、と云うか片久那制作部長の存在と竟々比較されて仕舞う故か、この席に居ない土師尾営業部長は社員の誉望を寂しい程集めてはいないようでありました。日比課長に依ればそれは小者が無理して大者ぶる浅はかさが鼻に付く故だそうであります。その童顔も、警戒心たっぷりに常に微動している目もそんな評判の裏付けでありましょう。
(続)
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あなたのとりこ 38 [あなたのとりこ 2 創作]

「本郷に住んでいてもあんまりそっちの方には遠征しないか」
「そうですね。以前散歩で根津神社とか六義園に行った時に通ったくらいで、知人も居なければ今までこれといった縁もありませんでしたからねえ」
「本郷二丁目に住んでいるのなら、後楽園球場に近いかな」
 頑治さんの向い側正面に座る日比課長が言葉を挟むのでありました。
「ええ。壱岐坂を下りきるとすぐですね」
「俺は時々そこに巨人の試合を観に行くよ」
「ああそうですか。ほんの偶にですが王さんとかががホームランを打った時、そこで上がる大歓声が風に乗ってウチのアパートまで聞こえて来る事がありますよ」
「へえ、それは良いねえ」
 別に良くも悪くもないやと野球に然程の興味が無い頑治さんは思うのでありましたが、そう云っては如何にも愛想が無いのでニコニコと笑って見せるのでありました。
「野球とか、好きかい?」
 日比課長が質問を重ねるのでありました。
「いや、それ程でもありません。ラグビーは秩父宮に学校時代の友人に誘われて一度行った事がありますが、野球観戦した事は今まで一度もありませんね」
「ふうん。そうかい」
 日比課長は頑治さんの応えに些か興醒めしたような口調で返すのでありました。
「唐目君の趣味は何?」
 また山尾主任が訊くのでありました。
「いやあ、実はこれと云ってないのです」
「寄席通い、とか云っていなかったっけ?」
 片久那制作部長が言葉を割り込ませるのでありました。
「ああ、寄席には偶に行きます」
 就職面接の席で土師尾営業部長とそのような遣り取りをしたので、そこに一緒に居た片久那制作部長はそれを覚えていたのでありましょう。頑治さんの就職面接なんぞは、呼ばれたから仕方なく同席しているだけで、本当は何の興味も無いと云った態度であったけれど、そこで話された会話はちゃんと聞いていた模様であります。
「落語とか漫才とか、演芸ものが好きなの?」
 山尾主任が訊くのでありありました。
「ええまあ、好きな方ですね。寄席の、雰囲気が好きなんですよ」
「笑うのが好きか、とか真顔で訊かれて面食らったような顔をしていたもんなあ」
 片久那制作部長が可笑しそうに云うのでありました。これは就職面接で土師尾営業部長からされた質問でありました。その土師尾営業部長の、ある意味間抜けな質問をさも揶揄するような口調でここでこうしてものす辺り、片久那制作部長は土師尾営業部長の事を実はあんまり買ってはいないのかも知れないと頑治さんは憶測するのでありました。
「唐目君は笑うのが好きなの?」
(続)
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あなたのとりこ 37 [あなたのとりこ 2 創作]

「そんな事は疾うに判ってはいるけどさあ」
 日比課長は忌々しそうに云うのでありました。
 制作部の方から片久那制作部長がこちらに遣って来るのでありました。その後に山尾主任と均目さんが出て来て、均目さんが制作部スペースの電気を消すのでありました。制作部もどうやら本日の仕事はここで仕舞いのようであります。
「そろそろ行こうよ」
 片久那制作部長が日比課長にそう声を掛けると、日比課長は机の上に広げていた書類を引き出しの中に片付けるのでありました。本日一緒に宴を張るのは営業部の日比課長と袁満さん、それに制作部の三人と云う顔触れのようであります。
 経理の甲斐計子女史と制作部の那間裕子女史、それに用事があると云っていた業務の刃葉さんと土師尾営業部長は欠席でありました。甲斐計子女史は元々同僚との会社の外での付き合いはあっさりした方だし、那間裕子女史はあれこれ私事多忙のようであるし、刃葉さんは空手の練習にでも行くのでありましょう。それに土師尾営業部長は仕事以外での社員との交流は全く無く、社員の方も彼の人を疎んじているような気配でありましたか。
 頑治さんも入れた六人は会社を出ると神保町駅の方に銘々歩き出すのでありました。向かうのは途中の人生通り中程に在る居酒屋でありました。
 日比課長がすっかり馴染みと云った風情で応対に出て来た店員に人数を申告してから、その店員の同意を得る暇も有らばこそ奥に設えてある畳敷きの座席の方へさっさと歩き進むのでありました。店内はそんなに立て込んではいなかったから、初動を出し抜かれた店員が趨歩で日比課長を追い越し、畳敷きの上に急ぎ上がって座卓二つをくっ付けて、六人が囲むにしては余裕綽々の宴席を調えてくれるのでありました。
 件の六人は先ずはビールで乾杯してから、ぼちぼち運ばれて来る料理に夫々おっとりと手を出し始めるのでありました。
「唐目君は何処に住んでいるの?」
 袁満さんがグリーンアスパラの豚肉巻きを齧りながら訊くのでありました。
「本郷の方です」
「へえ。それなら若しかして会社には歩いて通勤するの?」
「はい。徒歩で十五分程度でしょうか」
「良いねえ、近くて」
 これは頑治さんから一番離れた席に座っている片久那制作部長が応ずる声であります。聞けば片久那制作部長は八王子の方に住まいを構えていると云う事でありました。
「本郷なら大木目製本所と近いのかな?」
 これは山尾主任の質問でありました。
「そこは確か本郷六丁目方に在るんですよね?」
「そう。東大農学部の手前で道向かい」
「自分が住んでいるのは二丁目の方で、近いと云えば近いし、近くないと云えば、まあ、近くないと云った感じになりますかねえ」
(続)
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あなたのとりこ 36 [あなたのとりこ 2 創作]

「配送所は近いのですか?」
 頑治さんが訊くと自ら運転席に座った袁満さんは一つ頷くのでありました。
「すぐそこだよ。歩いて持って行っても大丈夫なくらいだけど」
 袁満さんはそう云い終らない内に右折にハンドルを切るのでありました。袁満さんは何時も車で彼方此方に出張しているようだから運転は極めてスムーズな感じであります。
 成程車に乗ってほんの一二分走った辺りに目指す配送所はあるのでありました。すぐ近所、と云ったところでありますか。車が止まると頑治さんは助手席から降りて後ろのハッチを開けて荷を取り出し、配送所の中に入るのでありました。袁満さんも一緒に付いて来るのでありましたが、集荷依頼は頑治さんが丁度店のカウンターに居た女子社員に荷物と一緒に予め書いておいた発送伝票を手渡してあっさり完了するのでありました。
 帰りは頑治さんが運転を代わるのでありました。
「どうもあれこれ有難うございました」
 頑治さんはハンドルを操りながら助手席に座る袁満さんに頭を下げるのでありました。
「なあに、どういたしまして」
 袁満さんは如何にも人の良さそうな表情をして笑うのでありました。「ところで、唐目君はこの後何か予定はあるの?」
「いや、特には」
「ああそう。唐目君の入社歓迎と云う名目で、未だ会社に残っている連中でそこいら辺で一杯やろうか、と云う話しが持ち上がっているんだけど」
「ああそうですか。良いですね」
「大丈夫かい?」
「はい、勿論大丈夫です」
 ここまで会話したところで車は会社に帰り着くのでありました。

 倉庫内に置いていた自分のネクタイを取って袁満さんと一緒に三階の事務所に上がると、営業部のスペースには日比課長が残っているのでありました。土師尾営業部長に発送伝票の控えを渡そうと思っていたのでありますが、その姿は無いのでありました。
「営業部長はもう帰られたのですか?」
 頑治さんは発送伝票の控えを持った儘日比課長に訊くのでありました。
「ああ、あの人はとっくに帰ったよ」
「ああそうですか」
 頑治さんは発送伝票の控えを土師尾営業部長の机の上に置くのでありました。
「人に時間外の仕事を頼んだんだから、普通は待っているものなんだけどね」
 そう云う日比課長の言葉は如何にも不愉快そうな調子でありましたか。
「そんな神経なんか更々無いよ。自分の事しか考えていないんだから」
 これはロッカーを開けて上着を取り出しながらの袁満さんの言葉でありました。袁満さんは着ていた作業服を脱いで手早く取り出した上着に着替えるのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 35 [あなたのとりこ 2 創作]

「そうか、それなら唐目君に頼もうか」
 土師尾営業部長は語気に大いに丸みを添えるのでありました。
「では、発送指示書をください」
 差し出しされた頑治さんの掌に、土師尾営業部長は発送指示書を近づけながら険のある横目で刃葉さんを睨むのでありましたが、刃葉さんの方は何処吹く風といった風に全くの無表情で帰り支度に取り掛かるのでありました。
「近くに運送会社の集荷を取り扱っている所がありますか?」
 今から運送会社に電話して集荷のトラックが来るのを待っているのも面倒なので、頑治さんは梱包を終えたら荷を自分で持ち込もうと思ってそう訊ねるのでありましたが、土師尾営業部長は戸惑ったように首を傾げるのでありました。どうやら営業部長ともなるとそう云った業務の細々した具体的な辺りはとんと疎いようであります。
「郵便局の裏に配送所があるよ。そこで集荷もやってくれる」
 背後から袁満さんの声が掛かるのでありました。
「ええと、郵便局と云うのは何処にあるのでしょうか?」
 頑治さんは袁満さんの方に顔を向けるのでありました。
「この辺の地理はあんまり知らないかな、唐目君は」
「ええ、書店と食い物屋やなんかは知っているんですが、郵便局の在り処なんかは」
「それなら荷造りが終わったら知らせてくれれば、案内がてら後で俺が一緒に行くよ。俺は未だもう少し残っているからさあ」
「ああそうですか。それは有難うございます」
 頑治さんは発送指示書を手にまた下の倉庫に逆戻りするのでありました。
 丁度頑治さんが荷造りを終えた頃合いで、袁満さんが倉庫に現れるのでありました。
「おや、手早いね」
 袁満さんは梱包された小振りの段ボール函を見ながら云うのでありました。「梱包なんかは前にやった経験があるの?」
「ええ。以前にアルバイトでやった事はあります」
「バンドもちゃんと定式通り掛けてあるし」
 袁満さんは荷物に回してあるビニールバンドの締め具合を確かめるように、人差し指を差し入れてバンドを少し持ち上げてから弾いてみるのでありました。「刃葉さんがやると横のバンドを先に締めた後から縦のバンドを締めたり、どう云う了見なのか縦横互い違いに回してあったりで全く好い加減だもの。それじゃ横バンドを締める意味が無い」
「ああ、そうですか」
 袁満さんの刃葉さんに対する愚痴っぽい云い方に、頑治さんはおいそれと同調するのも一種軽率かと考えて遠慮気味にこう無抑揚に返すしかないのでありました、
「まあ良いや。それじゃあ早速車に積もうか」
 袁満さんはそう云って荷の上面を中指で二度程軽打してから、自らその荷を持って駐車場の車に積み込むのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 34 [あなたのとりこ 2 創作]

 刃葉さんが持ち帰った荷を収め了えた後、頑治さんはその前から取り掛かっていた棚の整理整頓作業を続けるのでありました。その間刃葉さんは何の用事があるのか倉庫を出たり入ったりしているのでありましたが、これは午後五時の終業時間まで無意味に時間を潰している営為としか頑治さんには見えないのでありました。
「今日はこれで上がろう。初日からそんなに張り切っていると後が持たないぜ」
 これは傍に遣って来て、棚の上で在庫一覧表を片手に荷を移動させている頑治さんに掛けた刃葉さんの笑いながらの言葉でありました。頑治さんはその言葉に、この会社に於ける仕事要領の伊呂波も未だ知らないくせして、出社初日から嫌に甲斐々々しく働いている頑治さんへの当て擦りが下塗りしてあると感じ取るのでありました。
 瞬間、頑治さんは眉宇を寄せるのでありました。半人前が聞いた風な科白をぬかすなとすぐに言葉を返したい衝動に駆られるのでありましたが、そこはグッと堪えるのでありました。初日早々、先輩社員と喧嘩をするのもいただけない話しであります。

 上の事務所に戻ると帰社していた土師尾営業部長が刃葉さんを待ち受けているのでありました。土師尾営業部長は刃葉さんを手招きするのでありました。
「商品カタログを二百部、至急福岡の姪浜企画に送ってくれないか」
 土師尾営業部長は発送指示書を刃葉さんの方に差し出すのでありました。
「もう、仕事時間外じゃないですか」
 刃葉さんは自分の腕時計を見ながら露骨に舌打ちをするのでありました。
「それはそうだけど、頼むよ」
「俺はこれから予定があるんですよ」
 刃葉さんは鮸膠も無いのでありました。この部下の応対に上司たる土師尾営業部長が先程の頑治さんのようにムッとした顔をするのでありました。
「今日中に送らないと明後日までに九州には届かないだろう」
「もっと早く指示して貰わないとダメですよ」
「今電話があったんだよ。大至急って」
「兎に角俺は今日はダメです。もう、すぐに帰りますよ。そんなに急ぐんだったら部長が自分で送れば良いじゃないですか」
 羽葉さんの高飛車でつれない対応に土師尾営業部長が思わず目を吊り上げるのでありましたが、何やら険悪な雰囲気であります。傍の甲斐計子女史はこの云い争いに関わらないために、机の上に開いた帳簿に目を落として無関心を決め込んでいるのでありました。背を向けて座っている日比課長も、日比課長の対面に座っている出張帰りの袁満さんも、素知らぬ風に自分の机の上に目を落して無関係を装っているのでありました。
「あのう、自分が送りましょうか?」
 見兼ねた頑治さんが声を掛けるのでありました。睨み合っていた土師尾営業部長と刃葉さんが同時に頑治さんの方に顔を向けるのでありました。二人の怒気を露わにしていた表情が、仲良く一緒に緩むのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 33 [あなたのとりこ 2 創作]

 刃葉さんが池袋の宇留斉製本所から引き取って来たであろう荷物下ろしを手伝うために、頑治さんは倉庫出入り口に向かうのでありました。車は駐車スペースにバックで入って来て、やや斜めに停めてあるのでありました。矢張りがさつな駐車の仕方であります。後ろを倉庫扉にぶつけなかっただけ良かったと云えば良かったと云うものであります。
 刃葉さんは降りて来て車の後部ハッチを開くのでありました。その途端満載された段ボール函の上に載せていたのであろう紙の束が車外に零れ落ちるのでありました。刃葉さんは自分の不始末なのに、如何にも迷惑そうに舌打ちなんぞをするのでありました。
 見ると表面をビニール加圧貼り加工してある大判の地図のような物でありました。成程表面加工してあるために重ねた同士が動き易いから、乱暴な車の停車に耐え兼ねて、慣性の法則に依って後部ハッチ際まで滑って来ていたのでありましょう。
 刃葉さんは面倒臭そうに先ずその落ちた紙の束を拾うのでありました。頑治さんもそれを先ず手伝うのでありました。それから段ボール函の搬入であります。
 見ていると羽葉さんは下ろした段ボール函を手当たり次第全く無作為に、倉庫出入り口近くの空いているスペースのある棚に放り込んでいるのでありました。
「この、引き取って来た商品は何ですか?」
 何となく不安に駆られた頑治さんが作業中の刃葉さんに訊ねるのでありました。
「観光絵地図の北海道と東北だよ」
 先程整理整頓していた中に恐らくそれと思しき品があったのを頑治さんは覚えていて、それは確か倉庫最奥の棚に仕舞われていた筈でありました。取り敢えず出入り口近くの棚に下ろしてから後で本来の在庫位置へ移動する心算なのかも知れませんが、刃葉さんの事でありますからひょっとしたらこの儘ここへ置き放しにする了見なのかも知れません。
 案じた通り刃葉さんは荷を下ろし終えると作業台の方行って仕舞うのでありました。
「観光絵地図の北海道と東北なら、仕舞う所は奥の棚じゃないんですか?」
「ああそうだけど」
 刃葉さんは煩わしそうに応えるのでありました。「後でちゃんと移動させるよ」
 云い草からしてそれは信用ならないと踏んだ頑治さんは秘かに溜息をつくのでありました。ずぼらな刃葉さんは、成程こうやって倉庫の中を収拾不可能な未整理状態にして仕舞うのでありましょう。これでは頑治さんが幾ら律義に庫内の整理整頓に努めたとしても、それは全く無意味な仕業であり、徒労に帰すしかないと云うものでありますか。
 刃葉さんが当てにならない以上頑治さんが働くしかないのであります。頑治さんは段ボール函の横に記してある北海道、東北の別を確認しながらその商品を本来の位置へと移動させるのでありました。ちょっと当て付けがましい行為かと一応刃葉さんの心証を気遣うのでありましたが、まあ、丁度倉庫の整理をしている最中で、その一環であります。
 見兼ねたのか刃葉さんが近寄って来るのでありました。
「唐目君は几帳面なタイプのようだね」
 刃葉さんは苦笑してから頑治さんを手伝い始めるのでありました。自分が几帳面と云うのではなく貴方ががさつ過ぎるのです、と頑治さんは口の中で呟くのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 32 [あなたのとりこ 2 創作]

 物堅いと云うのか諄いと云うのか。しかしこれも、一種の煩さではありますか。まあそれは兎も角として、袁満さんと云う人は屹度几帳面な性格の人なのでありましょう。
 袁満さんは段ボールを下ろし終わると、売れ残って持ち帰ったのであろう中身の数を確認してから倉庫内の元々在った棚へそれを仕舞うために運ぶのでありました。
「あれ、商品の置き場所を変えたの?」
 奥から袁満さんの声が聞こえるのでありました。明らかに頑治さんに訊いているのでありましょうから、頑治さんは声の方へ向かうのでありました。
「いや、そこの棚に在った物は他に動かしてはいません。単に整頓していたのです」
「ふうん。いやね、何時もと違って妙に綺麗に荷物が積み上げられているから、置き場所を移動したのかと思ってさ」
 袁満さんはそう云いながら棚の段ボールの中身を点検するのでありました。点検の結果、ただ単に棚の見てくれが綺麗に整理整頓されただけである事を知って、安心したようにそこに自分が持ち帰った段ボールを、折角綺麗になった棚を乱さないように気を付けながら仕舞うのでありました。この人はぞんざいな性格ではなのは確かなようであります。
「棚が綺麗に片づいていると気持ちが良いね」
 袁満さんは荷を棚に納め終えてから手伝った頑治さんに笑いかけるのでありました。ちなみに云っておけば、手伝うために手を出した頑治さんに「ああどうも」と決まり文句の礼辞を弄するのは件の如し、でありました、
「片付いていた方が出し入れも効率的かと思いまして」
「確かにね。でも、ええと、・・・」
 袁満さんはそこで言葉を切って頑治さんの顔を覗き込むのでありました。「さっき聞いたんだけど、何て云う名前だったっけ?」
「唐目です」
「ああそうそう、唐目君か。その唐目君がそう云う心算でも、多分整頓する傍から刃葉さんが無神経に無茶苦茶にすると思うよ」
「そうですかね」
「そうに決まっているよ。あの人は整理整頓とか云う行為に全く無関心な人だから」
「ああそうですか」
 確かにそうかも知れないと頑治さんは思うのでありました。そしてそれは、池袋の宇留斉製本所から帰って来た刃葉さんが矢張り見事に実証してくれるのでありました。

 袁満さんが上の事務所に引き上げてから暫くすると刃葉さんが帰って来るのでありました。袁満さんは上に行く時に自分の車を駐車場の昇降機の上段に上げていたのでありましたが、その空いた下のスペースに刃葉さんの些か横着に運転する車が、如何にもせっかちそうに入り込んで来て急ブレーキ音を響かせて止まるのでありました。
 そう云うがさつな駐車の仕方は、屹度刃葉さんの仕業に違いなかろうと頑治さんは直感するのでありましたが、ま、見事に御明算なのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 31 [あなたのとりこ 2 創作]

 袁満さんは車の後部ハッチを開けて積まれている段ボールの荷を下ろし始めるのでありました。何処からか荷物を引き取って来たのでありましょうか。取り敢えず頑治さんは荷下ろしを手伝うために車の中の段ボールに手を出すのでありました。
「ああどうも」
 袁満さんは頑治さんにまた顎を引くような仕草をしながら礼を云うのでありました。この袁満さんと云う人は何に付けても「ああどうも」と先ず云うのが口癖のようであります。当人としては無難な接頭文句みたいな心算なのでありましょうが、頑治さんはその如何にも一本調子の繰り返しに何処となく煩さを感じるのでありました。
「製本所か何処かから引きとって来た荷物ですか、これは?」
 頑治さんが倉庫内に四つ程下ろされた段ボールに目を遣りながら訊くのでありました。その段ボールの角は少し拉げていたり蓋の部分がヨレヨレになっていて、とても新品とは云い難い代物であったからやや不審に思ってそう訊いたのでありました。
「いや、出張に持って行った分の余りだよ」
「出張、ですか」
「そう。最初山梨から信州、それから岐阜を回って愛知に出て、その後は静岡の浜名湖とか伊豆とか神奈川の箱根とか湯河原とかを回って来たんだよ」
「中部地方をぐるっと、と云った感じですね」
 頑治さんは日本地図を頭の中に思い浮かべるのでありました。
「そう、十日間でね」
 その旅程を仕事をしながら十日間で巡るのが強行軍なのか然程でもないのか判らなかったから、頑治さんはここで驚いて見せるべきかどうか少し迷うのでありました。
「なかなか長い出張ですね」
「そうね。長いと云えば長いね」
 袁満さんは淡泊な顔で頷くのでありました。「でも出張は何時もそんなもんだよ」
「ああそうですか」
 出張仕事の内容が知れないから頑治さんは曖昧な頷きをするのでありました。「お聞きしたところでは、出張先は観光地が多いみたいですね」
「多いと云うか、観光地ばかりだよ。観光地の土産物屋とかホテルとか国民宿舎とかを回るんだよ。そこで扱って貰っているウチの商品の補充をしたり、売れた分の集金をしたりとかね。まあ云ってみれば、富山の薬売りみたいな仕事かな」
「へえ、富山の薬売り、ですか」
「みたいな感じ、だよ。ウチの会社は薬は扱っていないから」
「ああそうですか」
 薬は商っていないと云う事は頑治さんも既に知っているのでありましたし、袁満さんが出張の様を紹介するのに富山の薬売りを例として出したと云うのは端からちゃんと判っていたのでありました。袁満さんは頑治さんが、ひょっとしたら薬も商っていると自分の言葉をうっかり勘違いするといけないと苦労性に危惧したのでありましょうか。
(続)
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あなたのとりこ 30 [あなたのとりこ 1 創作]

「ああどうも、・・・」
 不審気な顔色はその儘ながらそれをあからさまに表すのは先ずは憚るべきと判断してか、男はほんの少し口元を綻ばせるような表情をして、不得要領に頑治さんに向かって顎を引くような仕草で会釈をして見せるのでありました。
「贈答社の方ですね」
 頑治さんは明朗に云って男よりははっきりとしたお辞儀を返すのでありました。
「ええ、そうですが」
「今日から社員になった唐目と云う者です」
 頑治さんは名乗ってからもう一度深くお辞儀するのでありました。
「ああどうも、袁満丸也です」
 男は名乗り返すのでありましたが、頑治さんが社員だと云うのが今一つ腑に落ちないような困惑を眉尻に浮かべるのでありました。
「業務の刃葉さんの後釜として入った者です」
 明快に土師尾営業部長からそう聞かされたのではないけれど、まあ、そう云う事情であるのは間違いないであろうから頑治さんはそう申し述べるのでありました。
「ああそうか、そう云う事ですか」
 袁満と云う男はようやく頑治さんの存在が飲み込めたと云う風に頷いて、今度は安心感を漂わせた笑顔を向けて来るのでありました。刃葉さんが近々会社を辞めて、代わりに新しい社員を雇う事になった経緯は概知のようでありました。
「どうぞよろしくお願いします」
 頑治さんはもう一度頭を下げるのでありました。
「ああどうも、よろしくお願いします」
 袁満さんも釣られるように低頭するのでありました。「ところで刃葉さんは?」
「池袋の宇留斉製本所に行かれました」
「午前中に行ったんじゃないの?」
「急な梱包と発送の仕事が入ったので、今日は午後一番になったのです」
「ふうん成程ね」
 袁満さんは自分で刃葉さんの在不在を訪ねていながら、実はそれには大して関心が無いと云った風情で納得するのでありました。「それじゃあ、車は上に上げていなくとも、すぐには業務仕事の邪魔にはならないよね?」
「ええ。刃葉さんのお帰りの時間が何時なのかに依りますが」
「宇留斉製本所に行ったのなら、どうせ夕方まで帰ってなんか来ないだろうし」
 袁満さんは片方の口の端を吊り上げて何となく皮肉を云うようにそう呟いてから、もう一度車の昇降機を操作するために身を屈めて駐車スペースを出るのでありました。
 一端上に上がった車が昇降機の大きな作動音を響かせながらまた下に降りて来て、接地した時に少しく揺れてから止まるのでありました。袁満さんは車の横の狭いスペースを擦り抜けるようにしてまた倉庫扉の方に戻って来るのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 29 [あなたのとりこ 1 創作]

 午後の仕事は刃葉さんが池袋の宇留斉製本所から帰って来る迄倉庫の留守番、と云う事になるのでありました。その間頑治さんは午前中に始めた倉庫整理やどの商品と材料がどの棚に有るかの再確認、それに発送指示書が出ていたのでそれに従って山尾さんから助言を貰いながら商品を梱包して発送伝票を書き、運送会社に集荷依頼の電話をするとか云ったものでありました。発送仕事はアルバイトでやった経験があるから梱包作業も伝票書きも然したる問題は無いのでありました。山尾さんには、刃葉さんより遥かに要領も手際も良いじゃないかと褒められるのでありましたが、別段嬉しくはないのでありました。
 依って専ら、倉庫内の整理整頓が主な仕事になるのでありました。商品とその関連材料が随分と遠く離れた棚に脈絡無く仕舞われていたり、同じ商品が別々の二か所の棚に存在したり、刃葉さんが整理するのが億劫でそうなったのか、様々な商品の異なった材料の一部が一つの棚に一緒くたに押し込まれていたりするのでありましたが、当然効率の面から一定の規則性を持たせて整理した方が良いと頑治さんは考えるのでありました。
 しかしそうなるとこれはもう、整理と云うよりはすっかりの模様替えに近いでありましょう。とても一日や二日で完了する仕事ではなさそうであります。
 それに山尾さんや刃葉さんに何の断りもなく、頑治さんの独断でうっかり在庫物の在り処を変える訳にはいかないでありましょう。他の仕事との兼ね合いも鑑みて、これは追々と云う事になりそうでありますか。また、未だ数多ある商品や材料類の把握が出来ていない頑治さんには、おいそれと手出しするには憚りの有る仕事のようであります。
 頑治さんは明らかな誤謬、或いは刃葉さんのものぐさか無精からあちらこちらに散らばって仕舞ってある商品や材料を、一つ処に纏めると云う辺りから始めるのでありました。何をどう動かしたかは商品材料在庫一覧表に一々書き込んでおくのでありました。後で不都合があった場合すぐに元に戻す事が出来るように、と云う用心であります。
 そんな事をやっていると、午後三時を回った頃に外の駐車場から二段式の車の昇降機が動く音が聞こえてくるのでありました。恐らく刃葉さんが帰って来たのだろうと思って、宇留斉製本所から引きとって来たであろう商品を車から降ろす作業を手伝うため、頑治さんは倉庫奥の棚から降りて出入り口の方に行くのでありました。
 しかし昇降機を操作しているのは刃葉さんではないのでありました。頑治さんと同じくらいの背丈で体重は頑治さんよりはありそうで、縦縞ワイシャツに青いネクタイを締めてその上から黄土色の作業服を着ている、顔からは若いのかそうでないのか判断出来ないけれど立ち姿から見ると若いと云う方に一票入れたくなるような男でありました。
 着ている作業服が頑治さんと同じ物であるから、恐らく贈答社の社員でありましょう。男は倉庫出入り口に立っている頑治さんを見付けて先ず反射的に軽く頭を下げてから、しかし会社の中では見た事のない男だと考えてか、やや不審そうな目をして頑治さんを窺うのでありました。不審な目を向ける前に思わずと云った風情で一礼する辺り、この男は結構人の好い男であるのかも知れないと頑治さんは見て取るのでありました。
 バンの普通車を載せた昇降機が上まで到達してガタンと云う音をたてて止まるのでありました。下に出来たスペースを男が倉庫出入り口に近づいて来るのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 28 [あなたのとりこ 1 創作]

 しかしその狼狽の色もすぐに顔から消えて刃葉さんは頑治さんに笑顔を向けるのでありました。どういう心算の笑顔なのか頑治さんは判然としないのでありました。嘗めていると思えば思えなくもないし、一種の羞笑と取れば取れなくはないのであります。
「でもまあ、そんな固い事云うなよ」
 ちっとも応えないと云うのか、あっけらかんとしたものであります。頑治さんはげんなりして仕舞うのでありました。まあ、幾らこちらの言に分が有るとは云え、出社初日から先輩社員と云い争いするのもいただけないと云えばいただけない話しでありますか。
 それにしても土師尾営業部長とか山尾さん辺りは、倉庫で刃葉さんがこんな事をしているのを知らないのでありましょうか。それとも知っていながら注意しないのでありましょうか。注意しても刃葉さんがちっとも云う事を聞かないのでありましょうか。まあ確かにこの刃葉さんと云う人は話して通じるタイプの人ではないような感じではありますが。
 出入口の方から集荷に来た運送屋が声を掛けるのでありました。羽葉さんはすぐにそちらに向かうのでありました。一応手伝うために頑治さんも刃葉さんの後を追うのでありました。そうこうしている内に午前中の仕事時間が終わるのでありました。

 頑治さんは神保町交差点近くの立ち食い蕎麦で腹を満たして、その後その立ち食い蕎麦屋近くのビルの地下にあるネルドリップのコーヒーを出す薄暗い喫茶店で時間を潰しながら、午後一時までの昼休みを過ごすのでありました。刃葉さんと云う人は慎に付き合いにくい、と云うのか出来れば付き合いたくないタイプの人であると、小振りのカップに満たされたコーヒーの湯気に鼻先を包まれながら考えるのでありました。
 別に悪気に満ちた人ではないのでありましょう。しかし仕事に対する遣る気の無さとそれに起因する在庫物への無神経や無配慮、マイペースを崩そうと端から全く思ってもいない唯我独尊、そんな自分の在り様を隠そうともしない高慢、自分の仕事環境への無関心、よくもまあそれで今まであの会社で勤まってきたものであります。
 刃葉さんはあと二か月で会社を辞めるそうでありますが、この先長く付き合わなくて済むのが辛うじての幸いと云うものでありますか。しかし向う二か月間は仕事を教えて貰ったり、それに恙無い仕事の引継ぎやらで一緒にいる時間は他の社員の誰よりも長いでありましょう。頑治さんの溜息が鼻先のコーヒーの湯気を揺らすのでありました。
 事務所に戻ると丁度、刃葉さんがその日急に入った梱包仕事のため午後に回した池袋の宇留斉製本所への定期便仕事に向かうために下の駐車場へ行くところでありました。
「宇留斉製本所に行くけど、付いて来るのかい?」
 刃葉さんが頑治さんに声を掛けるのでありました。そう云われて頑治さんが戸惑っているとすぐに奥の制作部から山尾さんが顔を出すのでありました。
「いや、来週の月曜日に紹介も兼ねて俺が連れて行くか、或いは均目君に連れて行って貰う事にしているから、唐目君は今日は一緒に行かないよ」
 山尾さんの言に刃葉さんはふうんと唸って口をやや窄めて見せるのでありました。手伝いの足しとして付いて来て貰いたいような面持ちでありましたか。
(続)
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あなたのとりこ 27 [あなたのとりこ 1 創作]

 見ていると羽葉さんはその古座布団の前に立ち、膝を屈して腰を落とし、その落した腰の横に曲げた両腕を構えるのでありました。一体何が始まるやらと思っていると、羽葉さんはその姿勢から左右の拳を交互に古座布団に向かって打ち出すのでありました。始めはゆっくり次第に早く、固く握り締められた拳が古座布団に食い込むのであります。
 打ち出す時に刃葉さんは口から息を短く強く吐き出すのでありますが、これはどうやら空手の突きの練習のようであります。棚に括り付けた古座布団が巻き藁の代わりでありましょうか。出し抜けに現出したこの異様な光景に頑治さんは面食らうのでありました。
 二つ程離れた頑治さんの乗っている棚までもが刃葉さんの古座布団を打つ動きに合わせて振動するのでありました。それに棚の上に載っている段ボールやらクラフト紙包みが小さな足取りのタップダンスを踊り出すのでありあました。これは堪らんと思った頑治さんは棚の上から刃葉さんにやや荒げた声を掛けるのでありました。
「何をしているのですか!」
 その声に刃葉さんは顔だけ動かして頑治さんの方を見るのでありました。全くの無表情で目は半眼に開かれているのでありました。
 この倉庫の支配者は自分であると云う点を示威、或いは念押しするため、刃葉さんはこんな脅迫的な行為に出たのかとも頑治さんは思うのでありました。一種の故意の鞘当てであります。多少血の気の多いところもある頑治さんは、売られた喧嘩なら買っても良いと一瞬思うのでありました。こうなったら先輩もクソも無いのであります。
 しかし刃葉さんの無表情を見ていると、別に何か意趣が有ってこういう真似をしているように見えないところもあるのであります。何と云うのか、無邪気な無表情とでも云うのか。頑治さんは刃葉さんの底意が窺えず、少々及び腰になるのでありました。
「ああ、仕事の邪魔かな」
 刃葉さんが打撃練習を止めていとも穏やかに訊くのでありました。頑治さんの熱り立ちが見事な肩透かしを食ったような、そんな按配であります。
「仕事の邪魔ですし、そんな事をするために棚が組まれているのではないし、棚の中に在る物が痛むかもし知れませんし、第一、自分に対して穏やかじゃありませんし」
 頑治さんの声は激高の気分が未だ完全に消え切らないような調子でありました。
「ご免な。別に他意はないよ。これは何時もの習慣なんだ」
 刃葉さんは笑い混じりに云うのでありましたが、その笑いは別に挑戦的な或いは揶揄するような魂胆からではなくて、寧ろ取り成すような色彩のものでありました
「何時もの習慣?」
「そう。梱包の合間に時間があったらこんなことをしているんだよ」
「空手ですか?」
「うんそう、空手」
「幾ら時間が有っても仕事中に空手の練習をする事自体、不謹慎じゃありませんか」
「まあ、そう云われるとその通りだけど、・・・」
 刃葉さんの眼球が少し動揺するのでありました。
(続)
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