So-net無料ブログ作成
検索選択

お前の番だ! 592 [お前の番だ! 20 創作]

「角鼻しぇんしぇいに武道の芽ば育てて貰うたからて思うとります」
 万太郎はなかなかそつのない事を云うのでありました。それを聞いて角鼻先生は嬉しそうに何度か頷くのでありました。
「この前の日本武道館の古武道演武大会の演武とか、剣道とか合気道の現代武道の大会でお前がゲストで出て、そこでもえらい好評やったらしかね。九州の方にもちゃんと伝わってきとるばい。テレビのニュース番組でちらって出とったとば見たばってん、確かに颯爽としとってなかなか格好の良かった。まあ、ちょっと派手過ぎとは感じたばってん」
 角鼻先生は全体としはて好意的な評言ながら、実戦本位の捨身流の古武道家でもあるから、演武の大向こう受けに対して少し体を斜にして見せるのでありました。
「畏れ入ります。ご教誨ば肝に銘じます」
 万太郎は口を引き結んで格式張ってお辞儀するのでありました。
「そいに、こぎゃん良かオナゴば嫁に貰うて、お前はなかなかの果報者ぞ」
 角鼻先生に顔を向けられてあゆみは、恥ずかしそうに数度小さく首を横にふりながら、恐縮の態で頭を下げるのでありました。
「いいや、嫁に貰うたとじゃのうて、オイが婿に行ったとです」
 万太郎が訂正するのでありました。
「ああそぎゃんか、そいで常勝流の跡目ば継ぐ事になったとか」
「そぎゃんです」
「そのお前に小まか時オイが剣道ば教えたて云うとは、今ではオイの自慢ぞ」
「今でも角鼻しぇんしぇいのお教えは、決して忘れとりません」
 この辺の受け応え等、なかなか万太郎も錬れてきたと云うものでありましょう。万太郎の物腰がこの数か月で大いに変貌した事に、あゆみは秘かに驚嘆するのでありました。
 角鼻先生はこの際だからと、万太郎とあゆみに常勝流の剣術の講習を強請るのでありました。万太郎とあゆみは勿論そう云う事になるだろうと出かける前から予想していたので、ちゃんと稽古着は持参して来ているのでありました。
 捨身流道場の数人の高弟を相手に万太郎とあゆみの俄講習でありましたが、常勝流剣術の形の他に門弟達と万太郎は乱稽古にも及ぶのでありました。この場合剣道竹刀ではなく木刀を以って立ちあうのでありましたし、面胴小手の防具もつけないのでありましたから、勿論捨身流は木刀稽古もするにしろ、普段から剣道試合に慣れた捨身流の門弟よりは、木刀稽古一本槍の万太郎の方が些か有利と云うものでありましょうか。
 幾ら友好的な稽古であるとは云いながらも、云ってみれば他流試合の真剣勝負の趣でありますから、万太郎はつけ入る隙を全く与えないのでありました。偶に木刀が搗ちあうとしても、真っ向から打ちあわせるのではなく掠るようなあわせを専らとして、万太郎の間合いの内で、主導権は相手に絶対に譲らないのでありました。
 しかしこう云う場で決定的に勝つと云うのも大人気ない仕業で、万太郎は時に相手にだけ判らせるような、ごく小さな動きの小手打ちを繰り出すのでありました。対峙する者にのみ万太郎の優位を秘かに伝えれば、要はそれで良いのであります。
(続)
nice!(15)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:

お前の番だ! 591 [お前の番だ! 20 創作]

「主だった対外行事や会合、演武会等の招待には、宗家代理としてお前が出るように」
 是路総士のこの指令は、万太郎を常勝流の新しい顔として売り出そうと云う腹積りからありますし、武道界全体に万太郎が常勝流の正式な継承者さである事を公然化する狙いであります。万太郎自身も武道界に限らず様々な世界の様々な人士と交流して、その交誼を得て次期宗家としての人脈形成に努めよと云う命でもありましょう。
 人づきあいが苦手と云うわけではないのでありましたが、万太郎は格式張ったつきあいは余り得意と云う程ではないのでありました。ざっくばらん、が本来の自分の持ち味であろうと、あやふやながらも今までそう考えていたのでありましたし。
 しかし是路総士の指令とあらば、ここは一つ何をさて置いても奮発しなければならないのであります。だからと云って、自分が下手に気負うと碌な事がないと思いなしている万太郎としては、常勝流の威名を失墜しない程度に自ら腰を低くして、どんな癖のある人士ともなるだけ友好的に、未だ々々若輩である事を始めから謙虚に表明して、懇ろなヤツと云う印象を相手に持って貰うべく、当人なりに大いに奮闘するのでありました。
 その甲斐あってか万太郎の名前は武道界の重鎮方にも、取り巻く異世界の諸人士にも、概ね好意的に認知されるようになるのでありました。特に古武道に限らず他武道の演武会とか試合大会の招待演武に於いて万太郎の演武は好評を博し、時には是路総士を差し置いて、お宅の若先生に是非、等と名指しで出場を請われる場合もあるのでありました。
「総務長先生の演武には、ワシ等は疎か、総士先生でもお持ちでない何とはなしの緊張感とか、それに華やかさとか明朗感とかがあるからなあ」
 これは鳥枝範士の評でありました。
「そりゃあ鬼瓦のような顔の鳥枝さんの如何にも無骨な演武なんかより、総務長先生の若々しい溌剌とした演武の方が観ていて心躍るのは当たり前だ」
 寄敷範士はそう云って鳥枝範士を茶化すのでありました。
「世間の常勝流の認知度も、これからグッと上がるかも知れない」
「総務長先生の演武を見て、門下生が今以上に増えて、そうなると我々ももっと忙しくなるし、それにこの随分と年季の入った総本部道場では手狭になるかも知れないなあ」
「結構々々。そうなれば、もっと広くて立派な道場を鳥枝建設でおっ建てるまで」
 鳥枝範士はそう云って豪快に笑うのでありました。
 是路総士の粋な計らいからか、万太郎への秘伝伝授が終わってから、万太郎とあゆみ夫婦は二人揃って、熊本支部への出張指導に赴いた事があるのでありました。勿論万太郎の里帰りがその謂いと云う趣の旅行でありました。
 その折、人吉の万太郎の実家で大歓待を受けたのは云う迄もないのでありましたが、万太郎が少年時代に通っていた捨身流の剣道道場からの招待があるのでありました。絶えて久しく往来のなかった捨身流の角鼻庫仁宗家は、往時の眉太でへの字口の強面の面影その儘ながら、相好を崩して万太郎とあゆみ夫婦を大いに歓迎してくれるのでありました。
「万太郎の勇名はこっちにもちらほら聞こえてきとるばい」
 角鼻庫仁宗家は万太郎の背を長年修行に明け暮れた分厚い掌で叩くのでありました。
(続)
nice!(15)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:

お前の番だ! 590 [お前の番だ! 20 創作]

 田依里師範は総本部道場で稽古する場合は白帯を締めて稽古に臨むのでありました。是路総士は時々自分の門弟も同道して来る一派の主幹たる田依里師範の体裁に配慮して、黒帯を締めても構わないと云ったのでありましたが、田依里師範はそれでは余りに遠慮がなさ過ぎると自ら固辞して、特に抵抗もなく白帯姿に甘んじるのでありました。
 興起会は打撃中心で試合重視の格闘技系会派でありましたから、田依里師範の連れて来る門弟の中には、こういう会派の者によくみられる、道場作法に無頓着で容儀の芳しくない、粗暴で無神経なふる舞いが強さの証、等と俗な勘違いをしている不心得者も稀にあるのでありました。田依里師範の目論見としては、自分を含むそう云う者達に日本古来の武道稽古の厳格さを、敢えて他派の、それも伝統を重んじる古武道の稽古に参加する事に依って身につけさせたい、と云う意図があるように万太郎は推するのでありました。
 依って万太郎は敢えて厳しい指導を以ってそう云う者達に臨むのでありました。彼等の中には大いなる反発を示す者もあるのでありましたが、そう云う場合は仕方がないので、圧倒的な武威もて実力行使に及ぶ場合もあるのでありました。
 そうすると殆どの者は万太郎の力量に怖じて、以降謹慎に稽古に励むようになるのでありましたが、稀にもう二度と総本部道場に現れない者もあるのでありました。万太郎はそう云う時、田依里師範に多少申しわけないような気がするのでありましたが、寧ろ田依里師範の方が万太郎に自分の行き届かない日頃の指導を詫びるのでありました。
 万太郎はその心映えに敬服の念を禁じ得ないのでありました。一派だけを溺愛し拘泥して、その思いが余るあまりにその会派の体面を過敏に大事がるような修行をこれまでしてこなかった田依里師範故の、クールな心胆の在り方と云えるでありましょうか。
 万太郎の方は常勝流一本槍でこれまで来たのでありましたから、田依里師範のこの度量の広さに大いに感じ入るのでありました。他派や他武道と対してどこまで自派に客観性を付与出来るかと云うのも、指導者の力量の一つと云えるであありましょうか。
 度量の広さと云うのは、別の目で見れば愛情の薄さとも映るでありましょう。自派を客観化する冷静と愛執する熱情との絶妙な均衡が指導者たる者の風格を形成するのであり、延いてはその武道の品格を決定するものでもありましょうが、まあそれは兎も角。・・・
 稽古に於いても田依里師範は自分の体面をちっとも気にしないのでありました。自分の連れて来た弟子が、自分より上手に万太郎の指導を我がものとしたなら、田依里師範は臆する事も妬嫉する事もなく、ごく自然にその者に教えを請うのでありました。
 こういう態度は是路総士も大いに買うのでありましたし、辛辣な事を云って人をへこませるのが得意な鳥枝範士も、田依里師範に対してはその癖を控えて、慎に愛情に満ちた激励等を送っているのでありました。寄敷範士も、ああ云う篤実な者が主管する会派は、そう大きくはならないかも知れないが、充実した実質を持つ武道界の中できらりと光る会派になるだろうと、将来に対する太鼓判を献ずるに些かの吝嗇もないのでありました。

 常勝流武道総務長となった万太郎は、信州木曽への新婚旅行から帰って、是路総士からの将来宗家を継ぐ者としての秘伝伝授も終わると、俄かに忙しくなるのでありました。
(続)
nice!(13)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:

お前の番だ! 589 [お前の番だ! 20 創作]

「あら、でも、あたしの方が先だと思うわよ」
「いやあ、僕の方が先ですね、どう考えても」
「そうかしら。屹度そうじゃないと思うんだけど」
「どっちでもよろしい」
 是路総士が呆れた顔で云い棄ててから残りの茶を飲み干すのでありました。「その辺は後で、二人になってからゆっくり云い争え」
 そう云われて万太郎とあゆみは顔を見あわせて笑みあうのでありました。是路総士としては二人の睦みあいにこれ以上つきあうのは馬鹿らしいと云うものであります。
「さて、風呂に入るか」
是路総士はそう云って話しを打ち切るように立ち上がるのでありました。
 序に云っておけば、威治元宗家からはその後には今に到るまで何の音沙汰もないのでありました。と云う事は矢張りあの祝電は単なる気紛れだったのかも知れません。
 しかし実は本当に我が身の事を真剣に考えて、是路総士にもう一度縋ってみる気になったはいいけれど、今にしてのこのこ顔を出すばつの悪さから、今一つ踏ん切りがつかなくて沙汰が出来ないでいるのかも知れません。人並み以上にある種の体裁や面子を気にするタイプの人でありますから、その可能性も充分に有ろうと云うものでもありますか。
 何れにしてもこちらとしては只管待つしかないでありましょう。威治元宗家の心根が奈辺にあるのか、その心根がどのくらい切羽つまったものであるのか、それとも全くそんな大袈裟なものではないのであるかは、威治元宗家本人しか知らないのでありますから。

 洞甲斐氏はどうやら武道を止めて仕舞ったようでありました。八王子の洞甲斐氏の家の近くに住む門下生の話しに依ると、万太郎が談判に赴いた数日後には常勝流の看板は取り外ずされたようでありましたし、それ以降威治元宗家との縁も、どちらからそうしたのかは知れないながら、全く途切れて仕舞ったようでありました。
 今現在は洞甲斐氏の家には、大宇宙の意志研究所、と云うのは元の儘でありますが、その横に、洞甲斐式ヨガ研究所、なんと云う新たな看板が掲げられているようであります。洞甲斐氏がヨガの研究もしていたとは、万太郎は初耳でありました。
 依って洞甲斐氏の近辺からは、武道っ気はすっかりなくなったようでありました。しかし武道がダメなら次はヨガと、もしそれもダメになれば屹度また別の何やらを看板に掲げるのでありましょう。なかなかに逞しいと云えば慎に逞しい御仁であります。
 嘗ての威治元宗家の興堂流改め、武道興起会の主催者となった田依里成介師範は、葛西の道場を堅実に運営しているのでありました。勿論以前の門弟数には遠く及ばないながらも、田依里師範を慕う門下生達もそれなりの数が集うようになって、新たな直系の支部も幾つか出来て、なかなかに忙しい日々を送っているようであります。
 その忙しさにかまける事なく、田依里師範は週に一度は必ず、葛西から調布の総本部道場に通って専門稽古に参加するのでありました。これは前に興起会を立ち上げる時、是路総士に直接自ら願った事で、それをちゃんと律義に実行しているのでありました。
(続)
nice!(17)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:

お前の番だ! 588 [お前の番だ! 20 創作]

「つまり万太郎は、結局二人の人間を心服させる事に成功したのかも知れないな」
 是路総士がまた湯呑を口に持っていくのでありました。勿論もう一人とは、万太郎にぶん投げられて総本部に入門し、今では内弟子になっている真入増太であります。
「実際のところ、僕は若先生に対してそんな手応えは全く感じなかったのですがね。まあ、真入に対しても、同じだったのですが」
「それは当人としてはそんな実感は持たないのが当たり前だろう。実際、しようと画策して手練手管で相手を心服させる事は出来ないだろうし、若しそれが出来たとしても、それは心服と云うよりは、人の心を騙取したと云うだけの行為だ」
 是路総士はそう云って茶を啜ってから、万太郎の方に笑みかけるのでありました。「お前はそんな策術を弄する程に器用な人間でもなかろうし」
「押忍。その通りではあります」
 万太郎は是路総士に頷いて見せるのでありました。その是路総士の言葉は万太郎に対する一種の褒め言葉と取って構わないだろうと、下げた頭の隅で考えるのでありました。
「しかし結局、万太郎は威治君と真入の心を見事に捉えた事になるのかも知れない」
「僕は殊更グッとくるような事を、若先生に云った覚えは全くないのですが」
「でも後で考えてみて、グッときたのかもしれないわ」
 あゆみが円らな目で万太郎の顔を覗きこんで云うのでありました。
「僕は総士先生にあの時、若先生を心服させて来いと云って送り出されたのでしたが、そうならば、ひょっとしたらそのお云いつけに応える事が出来たのかも知れませんね。まあ、今の段階では、そう云う可能性があるとだけしか云えないでしょうが」
「そうね。威治さんから祝電が来たと云う事実だけではね」
「それにあの場には洞甲斐先生も居たし真入のお兄さんも居たし、それに洞甲斐先生のお弟子さんらしき人が二人いましたから、それらの人には何の反応も起こさせ得なかったと云う事になります。六人中四人は無反応ですから僕の霊力も大したことはないです」
「六人中二人も心服させ得たのなら、大したものだとも云える。ま、未だ威治君の心服を得たとは断じ難いが、しかし真入一人は、瓢箪から駒ではあるが、万太郎にぞっこん惚れたのは事実だ。たった一人でも心服させ得ればそれは見事と云って良いだろうよ」
 是路総士はそう云ってからあゆみの方に視線を移すのでありました。「ああそうそう、お前の横でももう一人、お前にそっこん心服したヤツが茶を飲んでいる」
「あら、あたしの事?」
 あゆみが慌てて湯呑を口から離すのでありました。「あたしは、・・・八王子の件よりもずっと前から万ちゃんにグッときていたから、今の勘定の他よ」
 あゆみはしれっとそんな事を口走って、また湯呑を口に当てるのでありました。
「それなら僕は、あゆみさんよりももっと前からあゆみさんにグッときていましたからと、一応念のためその事実はここで申し添えておきます」
 これは是路総士にそう訴えているのか、あゆみにそう云っているのかよく判らないような万太郎の云い様でありましたか。
(続)
nice!(14)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:

お前の番だ! 587 [お前の番だ! 20 創作]

「真入、今日の風呂は一人で勝手気儘に入らせて貰うから、お前はもう、内弟子部屋の方に下がっていても構わないぞ」
 是路総士は居間の廊下側の敷居辺に控える真入に告げるのでありました。
「押忍。ではこれで下がらせていただきます」
 真入はお辞儀すると襖を静かに閉めてその向こうに消えるのでありました。是路総士は三人分の茶を持ってきた来間にも下がって構わないと告げるのでありました。
「押忍。ではお言葉に甘えてそういたしますが、総務長先生とあゆみ先生は明日何時にご旅行に出発されるのでしょうか?」
「十時頃ここを出れば大丈夫かな」
 万太郎が徐に腕時計を見ながら応えるのでありましたが、別にその返答をするのに特段腕時計を見る必要ないかと、自分の如何にも間抜けな素ぶりを、文字盤に目を落とした儘で秘かに笑うのでありました。あゆみと結婚式を挙げてきたこの今、万太郎は昨日まで長く寝起きを共にしてきた来間に対して、何となく照れを感じて仕舞ってそれでこんな無意味な真似を竟、して仕舞うのだろうかと頭の隅で自己分析するのでありました。
「ところで、威治さんから祝電が来たけど、お父さんはそれをどう考える?」
 三人で茶を喫しながら、あゆみがふと思いついたように訊くのでありました。あゆみは式の間ずっと、気に懸かっていたのかも知れないと万太郎は思うのでありました。
「ちょっとした気紛れか、それとも、・・・」
 是路総士はそう云って湯呑を口から離すのでありました。
「それとも、何?」
「ひょっとしたら何かを期して、その皮切りにそんな義理を敢行したか」
「と云うと?」
 あゆみに訊かれて是路総士は万太郎の方に目を向けるのでありました。
「八王子の一件以来、若先生に考えるところがあって、それで自分の方から唐突の感はあるにしろ、こちらに接触を求めようとしたのか、と云う事でしょうか?」
 万太郎が是路総士に向かって云うのでありました。是路総士は無表情ながらも万太郎の目をじっと見て一つ頷くのでありました。
「期するところって?」
 あゆみは是路総士に向かって訊ねるのでありました。
「八王子で万太郎につめ寄られて、それ以来自分のこれ迄の生き様を、ひょっとしたら見つめ直したのかも知れない。こんな事では自分の人生は余りに無惨だと」
 是路総士はあゆみの婿になってから万太郎を指示する場合、当然ながら旧姓の折野ではなく、名前の呼び捨てを使用するようになっているのでありました。
「ふうん。そうなのかしら」
 あゆみはそう呟きながら隣に座る万太郎の方に顔を向けるのでありました。
「まあ、ピピピッとくるものがあったのかも知れないし」
 万太郎がそんな擬態語を使うと是路総士がまた頷くのでありました。
(続)
nice!(15)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:

お前の番だ! 586 [お前の番だ! 20 創作]

「どうかな。ご存知じゃないのかも知れないですね。その話しは道分先生からすぐに、なかった事にしてくれと云う申し出がありましたからね」
「しかし親子兄弟なんだから、知らない事もないように思うが」
「いや、若しご存知だったら返って、若先生に祝電を打て等と指示はされないでしょう。お兄さんはその辺の機微に関しては弁えのある方のようですし」
「そうね。それもそうよね。第一お兄さんの指示と云うものも、全くの推察なんだし」
 あゆみが綿帽子を被った頭で頷くのでありました。
「まあそれは取り敢えず置くとしても、祝電披露の時、この電報も一応紹介するか?」
 良平が司会役として確認を取るように万太郎に目を向けるのでありました。
「貰っておいて、若先生の名前だけ紹介しないと云うわけにはいかないでしょう」
「それもそうだが。・・・」
 良平はあゆみの方をちらと窺うのでありました。
「万ちゃんの云う通りだとあたしも思うわ」
 あゆみは良平に一つ静かに頷いて見せるのでありました。
「ああそうですか。まあ、あゆみさんがそう云うのなら」
 良平は何となく大儀そうに万太郎から電報の紙を受け取るのでありました。「しかし一応、総士先生には、予めその旨断りを入れておくよ」
「総士先生も、別に拘りにはならないと思いますよ」
 万太郎には是路総士が、ああそうか、とだけ云って全く無表情に軽く頷く様子が見えるようでありました。ここは余り色々考え過ぎないのが自然でありましょう。
 それやこれやもありながら結婚式も無事に終わって、万太郎とあゆみは是路総士と伴にタクシーで総本部道場に引き上げて来るのでありました。二人は次の日から信州木曽路へ、二泊三日で新婚旅行に出発すると云う段取りでありました。
 帰りつくと留守を預かっていた来間が真入と一緒に玄関で出迎えるのでありました。
「押忍、ご苦労様でした」
 来間はそう云って先ず是路総士に立礼してから、万太郎とあゆみに何となく眩しそうな視線を送るのでありました「総務長先生、あゆみ先生、お目出とうございます」
「押忍、有難う」
 万太郎は少し格式張ったお辞儀を来間と真入に返すのでありました。あゆみも、有難う、とものしながら万太郎と一緒に頭を下げるのでありました。
「稽古は滞りなく終えたか?」
 是路総士が来間に聞くと、来間はすぐに是路総士の方へ体ごと向くのでありました。
「押忍。無事に終了致しました」
 その日は来間が臨時に、道場での稽古一切を取り仕切ったのでありました。教士となった来間は、もう何度か中心指導を経験した事があるのでありました。
 万太郎とあゆみ、それに是路総士は取り敢えず居間で寛ぐのでありました。風呂の前に是路総士は来間に茶を一服所望するのでありました。
(続)
nice!(12)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:

お前の番だ! 585 [お前の番だ! 20 創作]

 この真入は意外に少年部には人気者なのでありました。さして子供あしらいが上手いと云うのではないのでありますが、子供がどんなに手荒な戯れを仕かけていっても、それをその巨体故に蚊に集られた程度にビクともせず受け止め、何時もニコニコして小言一つも云わない辺りが、子供にとっては大いに懐きやすいのでありましょう。
 その顔と風体から真入は子供が嫌いであろうと万太郎は踏んでいたのでありましたが、これも豈図らんや、来間なんかよりも余程人気者になって、真入自身もそれが満更でもないような様子なのであります。序に云えば少年部の統率者たるあゆみに対しても、万太郎の奥方でもある事から、真入は不謹慎な態度なんぞは絶対取らないのでありました。
 真入は内弟子になって上手く周囲と馴染めるかなと、万太郎が危惧していたのも事実ではありましたが、今までちゃらんぽらんに生きてきた自分の人生の、恐らくここが先途と云う強い覚悟が本人にあるためなのか、なかなかへこたれないところなんぞは実に見事なものと云うべきであります。真入がその覚悟を忘れずに真摯に、且つ大過なく内弟子を務め上げて、将来一廉の武道家として立つ事を万太郎は祈るのでありました。

 さて話は遡るのでありますが、万太郎とあゆみの結婚式当日、全く意外な仁から祝電が舞いこんできたのでありました。その意外な仁とは威治元興堂流宗家でありました。
 八王子での一件以来、全く音沙汰がなくなっていたのでありましたが、これまたどう云う風の吹き回しでありましょうや。それに一体何処から、万太郎とあゆみが結婚すると云う一事、それに式の日取り等を聞きつけたのでありましょうや。
 その辺りは、威治元宗家の兄上には興堂範士との因縁から招待状を送ってあったので、屹度その線からであろうと推察できるのでありました。しかしまさか祝電を寄越す等とは万太郎もあゆみも思いだにしていなかったのでありました。
 結婚式は新宿の某ホテルで執り行われたのでありましたが、披露宴の始まる前にその日司会を頼んでいた良平に控え室で、ホテルの担当から託されたと云ってその祝電を見せられたのでありましたが、万太郎とあゆみは顔を見あわせて唸るのでありました。
「何やら隠れた意趣があっての事かな?」
 良平が机上に置いた祝電を人差し指で数度軽く叩きながら云うのでありました。
「さあ、どうでしょうかね」
 万太郎は小首を傾げて見せるのでありました。
「自分の名前を見せる事で祝賀気分に少し水を差してやろうとか、嘗てあゆみさんにふられた恨みに面当てしてやろうと云う、陰湿で惰弱な魂胆と受け取れない事もないな」
「しかし文面はごく普通で、お決まりのものですね」
 万太郎は電報を手に取ってそれを読みながら云うのでありました。
「お兄さんに云われて、仕方なく義理から出したんじゃないかしら」
 あゆみが由来を忖度するのでありました。
「しかしお兄さんは嘗て威治元宗家が道分先生を伴って、無茶な縁談話しを総本部に持ってきたと云う経緯を知らないのでしょうかねえ」
(続)
nice!(17)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:

お前の番だ! 584 [お前の番だ! 20 創作]

 さて、新入り内弟子の真入増太の事を少し述べておけば、万太郎が八王子の洞甲斐先生の道場に談判に行って、行きがかりから手酷くぶん投げた翌日、早速に総本部道場を訪って玄関で土下座して入門を請うた程でありますから、門人となる意気ごみの程は充分と云えたでありましょうか。特に万太郎に対しては謹直であるのは云う迄もないのでありましたが、その分来間や準内弟子連中、それに時には鳥枝範士や寄敷範士、当時は花司馬教士に対しても、どことなく侮ったような風情があるのはいただけないのでありました。
 古株だからと偉そうにしているが、こっちが本気でかかればこの巨体を持て余して、手も足も出ないのではないのかと云う横柄が、心根の底の薄暗さの中に未だ蟠っていたのでありましょう。しかし日々の稽古でコッテリと絞られ、組形の相手をしたり乱稽古の手あわせをしても、来間にも準内弟子連中にも当初は全く子供扱いされるのでありました。
 真入増太は鳥枝範士や寄敷範士すらも手古摺らせてやろうと云う慢心が満々でありましたが、しかし程なくこれは到底叶わないと観念したようでありました。それは武技を使うための体の芯が自分に出来ていないためだろうと、諸事にやや鈍感な真入増太でありますから人よりは多少の時間はかかりながらも、しかし結局そう気づくのでありました。
 あれこれ煩悶しながらそう気づくのでありますから、これだけでも常勝流の修業に打ちこむ意気ごみの証明であると云うものであります。万太郎は真入の真摯さをそこに見て、口には出さないものの心の奥で激励を送るのでありました。
 ひょっとしたら真入の入門時の意気ごみなんと云うものは、そうは長続きしないかも知れないと万太郎は一方に疑いを持ってはいたのでありました。万太郎に簡単にぶん投げられて感激し、そう云う技を自分も身につけたいと切望して即座に常勝流の門を叩いたものの、身体能力上そんなに器用な方でもなく、もの事をとことん突きつめようと云う思考様式も持ちあわせず、その巨体だけを頼りに格闘技的自信を醸造してきたのでありましょうから、日々の稽古にげんなりするのは明らかと憶測していたのでありました。
 しかし豈図らんや、地味な基本稽古にも極端に自儘を制限される準内弟子以上の組形稽古に於いても、真入は真剣さを失わないのでありました。特に万太郎の指導に対しては、まるで神聖なる啓示を身に受けるどこかの宗教の信徒の如き態度なのであります。
 万太郎にとってこれは驚嘆に値する見こみ違いなのでありました。内弟子として道場に起居するようになってからも、その真摯な態度は変化する事はないのでありました。
 内弟子ともなると稽古の量も厳しさも、求められる心胆の強固さも普通の門下生の比では遥かにないのでありますし、実技以外にも色々と細かい気働きを常時要求されるのでありますが、真入は不足ながらもそれを自ら判りつつ、健気に務めようと頑張るのでありました。ここまで覚悟して入門したとは万太郎は思ってもいなかったのでありました。
 嬉しい誤算、と云えばその通りであります。依って万太郎は真入を仕こむのに、弟子に対する愛情の発露たるより一層の厳しさを以って臨むのでありました。
 真入の万太郎への心服は相当のもので、それでも少しもへこたれないのでありました。云ってみれば万太郎は、勿論師匠と弟子と云う流派内の形式上の系列は置くとして、心の内の繋がりの謂いで、頼もしき直系一番弟子を得た事になるでありましょうか。
(続)
nice!(16)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:

お前の番だ! 583 [お前の番だ! 20 創作]

 万太郎が総務長と云う地位に就いたので、あゆみの道場長と云う役職はなくなるのでありました。依って序列としては是路総士、万太郎、その下に鳥枝範士と寄敷範士、それからあゆみと花司馬範士は同格でそのまた下、最下位に来間、新内弟子の真入増太は新入りだけに前から居る準内弟子の連中よりも格下扱いでありますし、各地に散らばる支部長連はあゆみと花司馬範士と、その下の来間との間に位置する事になるのであります。
 万太郎は常勝流武道と云う流派の第二位の序列となるのでありましたが、勿論キャリアでは鳥枝範士と寄敷範士に遠く及ばないのでありましたから、万太郎はこの二人に対して何時でも謙譲な態度であるのは前の儘でありました。ところが鳥枝範士と寄敷範士は、多分に面白がってでありましょうが、万太郎に対して遜るのでありました。
 二人は万太郎に対して、態度の方は置くとしても言葉遣いとしては敬語を用いるようになるのでありました。これには当初、万太郎の方が大いに閉口するのでありました。
「鳥枝先生に、急にそんな風な物腰をされたりするとまごついて仕舞います」
 万太郎は眉根をきつく寄せて眉尻を下げられるだけ下げて、困惑窮まった顔をして見せるのでありましたが、鳥枝範士はそんな万太郎を平然と見下ろすのでありました。
「これまた総務長先生は何をおっしゃるか。そう云う辺りでワシや寄敷さんがきっちりと弁えた態度をとらなければ、他の者に対してどんな示しがつくと云うのですかな」
「それはそうかも知れませんし、その心映えは是とさせていただきますが、しかし僕の方が返ってオロオロして仕舞うではありませんか」
「ま、早く慣れていただくしかありませんな」
「当分の間はこれまで通り、と云うわけにはいきませんでしょうか?」
「全くいきませんな」
 鳥枝範士は鮸膠もないのでありました。寄敷範士の方にしても、万太郎の切なる懇願に対して首を縦にふる気配すら示さないのでありました。
「総務長先生は、この頃ようやく旦那として、あゆみに対して対等のもの云いをされるようになりましたが、その踏ん切りをこの寄敷と鳥枝に対してもお示しください」
 寄敷範士はそう云って、万太郎が余計困じるのを面白がるように笑うのでありました。この重鎮二人は共に、全く以って食えないのでありました。
 秘かに繰り言しても、あゆみも花司馬範士も万太郎の困惑を呑気に面白がるのみでありましたし、是路総士もそんな些事には一切無関心と云った風情でありました。それに来間も真入も他の準内弟子連中も、それは将来の宗家たる万太郎に謹恪な態度で接してはいるものの、内心は大いに万太郎の渋面を面白がっているに違いないのであります。
 万太郎がどんな窮地に在っても優しく寄り添ってくれる筈だった愛妻のあゆみを筆頭に、周りの連中悉くが、万太郎のこの窮状に対して慎につれない態度でありました。万太郎は孤立無援に、この尻の穴の周辺がムズムズするような落ち着きの悪い状況を、慣れるまでの暫くの間、仏頂面で耐え忍ばなければならない羽目に陥るのでありましたが、花司馬範士の一人息子たる少年部の剣士郎君だけは、前と変わらず万太郎に対して馴れ々々しく接してくれるのは、まあ、唯一の救いと云えばそう云えなくもないのでありましたか。
(続)
nice!(14)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:

お前の番だ! 582 [お前の番だ! 20 創作]

 その大岸先生と是路総士でありますが、この二人の取りあわせなんと云うものは、こうして一緒に過ごす時間が多くなってみると、それは長年添い慣れた夫婦の趣なんぞも、あると云えばあるような具合でありましたか。まあ、惚れた腫れたの感情は別としても、何となくお似あいの二人だと云う風情は万太郎もあゆみも感じているのでありました。
「この頃お父さんの顔がやけに柔和になったのは、屹度大岸先生にあれこれ身の回りの世話を焼いて貰っているせいかも知れないわね」
 二人のアパートに帰って来て、コーヒーを飲みながら寝る前の一時を寛いで過ごしている時に、あゆみが万太郎に云うのでありました。
「大越先生の方も嫌にいそいそと、自分じゃなければ務まらないみたいな感じで、前のあゆみなんかより余程甲斐々々しく総士先生の面倒を見ているところがあるな」
 万太郎はこの頃ようやくあゆみと敬語抜きで会話出来るようになっているのでありましたし、名前を呼び捨てにも出来るようになっているのでありました。流石は熊本の男とあゆみは妙な褒め方をするのでありましたが、万太郎としては道場での体裁もあるので、ぎごちないながらも努めてそうしていてようやく慣れたと云った按配でありますか。
「「そりゃあ、娘のあたしは時々面倒臭くて邪険にも扱うわよ」」
「あの二人、ひょっとして、ひょっとするかも知れないなあ」
「それ、二人が結婚するかも、って云う事?」
「その芽もないとは云えない」
「なかなかそこまで踏ん切りがつかないかも知れないけど、全くないとも云えないかも」
「そうなったら、実の娘たるあゆみはどんな心境かな?」
「大岸先生なら勿論大賛成よ」
 あゆみは片手を上げて人差し指と親指で丸を作って、OKのサインを万太郎に見せるのでありました。親指人差し指以外の三指が如何にもピンと天に伸びて立っている辺りに、あゆみの大乗り気が示されているように万太郎には見えるのでありました。
「まあ、今後の展開を注視、と云うところかな」
 万太郎とあゆみがそんな秘かな期待を抱いていても、そうはトントン拍子に事は進展しないもので、大岸先生と是路総士にしても、分別盛りもとうに過ぎた齢となっては、それ以上の発展は望んでいないような風情もあるのでありました。まあ、こればかりは万太郎とあゆみの統御不能の事であるのは全く以って当然であります。

 さて、是路総士に依る万太郎への秘伝伝授が完了すると、総本部の体制が一新されるのでありました。是路総士、それに鳥枝範士と寄敷範士はその儘現職に留まるのでありましたが、万太郎は範士兼総本部道場総務長及び財団常務理事となり、あゆみと花司馬教士が新たに範士及び財団の平理事に、来間が教士扱いに格上げされるのでありました。
 万太郎の総務長と云うのは是路総士が宗家になる前に就いていた職名で、将来の総士を継ぐ者としての役職呼称であります。これで次期宗家は万太郎が継ぐと云う既定路線が、内外に公言されたと云う事になるのでありました。
(続)
nice!(15)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:

お前の番だ! 581 [お前の番だ! 20 創作]

 玄関先で未だ明け遣らぬ空を見上げる万太郎にあゆみが声をかけるのでありました。
「今日が愈々最終日ね」
「うん。やっと今日で終わりだ」
 万太郎は玄関内で見送るあゆみの方に目を向けて笑むのでありました。
「お疲れ様でした」
 あゆみは何となく畏まった風情でお辞儀をするのでありました。この日で竟に三か月に及ぶ是路総士と万太郎だけの、宗家のみに受け継がれる常勝流秘伝技の伝授稽古が終わるのでありましたが、これは通常の稽古が始まる前の早朝に行われるのでありました。
 この稽古を完了すると、万太郎に次期宗家の資格が付与されるのでありました。一子相伝を旨とする、如何にも古武道的な風習と云うべきでありましょうか。
 さてところで、万太郎とあゆみが結婚式を挙げて二泊三日の信州木曽路への新婚旅行
から帰って来ると、早速にこの課業が万太郎を待っているのでありました。依って万太郎としては、暫しの甘やかな新婚気分に浸っている暇等ないのでありました。
 万太郎とあゆみは総本部道場近くの六畳と四畳半二間とダイニングキッチンのついたアパートに一先ず居を構えるのでありました。万太郎としては内弟子部屋を引き払って母屋のあゆみの部屋に転がりこめば済むかと簡単に思っていたのでありましたが、それでは手狭な上に何となく是路総士や来間や、万太郎の代わりに内弟子となって入居してきた巨漢の真入増太等、居を一にすべき連中との間に無用な気遣いや遠慮が生まれるだろうとの是路総士の配慮から、新婚二名は近くのアパートを借りて新居としたのでありました。
 尤も朝から二人揃って総本部道場に行って、朝食から夕食までの間の殆どを件の三人と一緒に過ごすのでありましたから、まあ、寝所のみが別棟と云ったところでありますか。あゆみが使っていた部屋は、総本部に居る間の万太郎とあゆみ夫婦の控え部屋とされたのは、是路総士の敢えて粋と云う程でもない心配りと云うものでありましたか。
 しかし夜間にあゆみが居ないのでありますから、云ってみれば総本部はすっかりの無粋なる男所帯となるのでありました。それで、細々した女手がないと是路総士が何かと可哀想だと云うので、前よりも頻繁に近くに住む書道の大岸先生がやって来て、何くれとなく是路総士の世話や、内向きの仕事の差配をしてくれるようになるのでありました。
 真入増太が一人増えてあゆみが総本部を出た分、確かにあゆみの仕事の負担は増える筈でありましたが、大岸先生の助けを得てあゆみは大助かりと云う寸法でありました。大岸先生も自分の主催する書道教室で教える時間以外は、総本部で皆と朝昼夕の食事も一緒に摂ると云った按配で、寧ろ自宅で自分だけの餐の支度をする手間が省けて、且つ一人で膳を前にする侘しさも解消だと、寧ろこの奉仕を楽しんでいる風情でありましたか。
 依って万太郎とあゆみが二人だけで時間を過ごすのは、道場の休館日である月曜のみでありました。勿論月曜日と云えども何かと道場向きの用がある場合もありはしましたが、しかし是路総士の配慮に依って、なるべく二人には月曜日の仕事は割りふらないようにされるのでありましたし、是路総士の世話に関しても、どうせ一人自宅で過ごしていても仕方ないからと、大岸先生が敢えてと云う風もなく出張って来てくれるのでありました。
(続)
nice!(15)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:

お前の番だ! 580 [お前の番だ! 20 創作]

「僕の言葉を疑わないでください」
 万太郎は胸元に艶やかに蟠っているあゆみの髪の奥の耳朶に囁くのでありました。あゆみは頬を万太郎の胸に埋めた儘小さく頷くのでありました。
「判ってる。万ちゃんは言葉を弄ばない人だと云う事は」
「総本部に入門して以来、僕はあゆみさんにお世話になりっ放し今日まで来ました」
 万太郎が静かに云うとあゆみは、今度はすぐに万太郎の懐に埋めた儘の顔を微かに横にふるのでありました。「・・・でも、これからは恩返しと云うのではないですが、僕の番です。僕があゆみさんを、一生をかけて幸せにして見せます。あゆみさんと歩くこれから先の道に在る、あれこれの不可避の条件にしても、僕は誠実に果たしていくのみです」
 万太郎のその言葉が終わると、あゆみの両腕が万太郎の背に回されるのでありました。あゆみはその腕で万太郎にきつく縋りつくのでありました。
 万太郎は陶然となるのでありましたが、思えば今のこの瞬間を迎えるために自分は総本部道場に入門し、このあゆみと云う人間に出会ったのであろうと考えるのでありました。万太郎は別に観念論の信奉者でもないのでありますが、しかし殆ど諦めかけた就職活動の最後に鳥枝建設の入社試験を受けた偶然、結局鳥枝建設に職は得なかったけれど鳥枝範士に偶々履歴書を見られて興味を持たれ、それまで考えだにしなかった常勝流総本部の是路総士の内弟子となった偶然に、何やら運命的なものを感じて仕舞うのでありました。
 入門後に種々生成した出来事、興堂範士との出会い、威治前宗家の存在、それからもう大分翳んで仕舞ったけれど新木奈と云う一般門下生の存在、先程まで一緒に居た良平と香乃子ちゃん、勿論万太郎が常勝流総本部道場に入門する手懸りを作ってくれた鳥枝範士、それに寄敷範士や花司馬教士、興堂派に居た堂下や宇津利、弟内弟子の来間、書道の大岸先生、様々な人達との様々な交流にしても、それはそれで各個に煌めきや趣はあるもののしかし結局、あゆみとのこの一瞬のために在った条件とも思えるのでありました。
 総てはあゆみと今、二人きつく抱きあう瞬間のために用意された条件以外ではなかったに違いないのであります。感奮の中で万太郎はそんな事を考えるのでありましたが、まあ、この偏した大袈裟な思考も、少しの間許してやっても良いでありましょうか。
 あゆみはどのような思いを抱いて、今万太郎の懐に縋りついているのでありましょうや。それはずっと先にでも、何かの折があればちょっと訊いてみたい事ではあります。
 しかしあゆみと夫婦の道を長く歩いていれば、その内そんな事は体裁悪くて、冗談にもあっさりとは云えない事柄に属して仕舞うでありましょうし、もうすっかり忘れて仕舞うのかも知れません。まあそうなったらそれはそれで一方では結構な事でもありますか。
 万太郎はあゆみの体を自分から少し離すのでありました。それからまた引き寄せてあゆみの唇に自分の唇を重ねるのでありました。それは将来、今のこの感奮を云えられなくなるかも知れないから無言に、今の内に唇の接触を以って伝えておくためでありました。

   ***

(続)
nice!(19)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:

お前の番だ! 579 [お前の番だ! 20 創作]

「万ちゃんさあ」
 あゆみが言葉を切って徐に夜空を見上げるのでありました。「婿養子になったり、稽古以外の煩わしい仕事ばかりが多い宗家なんかに将来させられたりとかするんで、本当は今、あたしと結婚するのを少し後悔しているんじゃない?」
「後悔、ですか?」
 万太郎はそう云ってあゆみの方を見るのでありました。しかしあゆみは夜空を見上げた儘で万太郎の方に顔を向けないのでありました。
 万太郎はゆっくりとあゆみから目を離して、同じように夜空を仰ぐため顎を上げるのでありました。曇り空と云うのではないけれど、多分街灯りが煌々としている所為で、漆黒の天空には星の輝きが疎らにしか見えないのでありました。
「あゆみさんと一緒になれると云うのに僕が後悔しているわけがないじゃないですか」
「でも本当のところは、万ちゃんはもっと淡泊で、シンプルな生き方を本来望んでいたんじゃないかって、あたしこの頃時々考える事があるの」
「いや、そうでもないですよ。まあ、波乱万丈とか云うのは草臥れそうで困りますが、平板でありきたりと云うだけの生き方と云うのも、何だかつまらない気がしますし」
「本当は養子になるのも、あたしに代わって常勝流の宗家になるのも万ちゃんの真意に染まない事で、あたしが勝手にそれを万ちゃんに強いている事になるのかも知れないって、そう考えるとそれが実際の在り様のような気がして仕舞うの」
「いやいや、そんな事はありません」
 万太郎は首を力強く横にふって見せるのでありましたが、未だ空を見上げている儘のあゆみの目の端にも、その万太郎の仕草が屹度映った事でありましょう。「あゆみさんと一緒になれるのなら、僕は何だって引き受けます。それに常勝流を学ぶ者として、その頂点まで極める事が出来るのならこれに勝る喜びは他にないでしょうし、それが宗家を受け継ぐと云う在り方とほぼ重なると考えるなら、こんな光栄な事はないと思っていますし」
「あたしに気を遣って、無理してそんな云い方をしているんじゃない?」
「いや、生一本にそう思っています」
 そこであゆみが万太郎の方に顔を向けるのでありました。その顔は万太郎の今の言葉への歓喜が殆ど、と云った様相ではありましたが、しかし一抹の、不安のような、疑いのような、こよなく労わられている事への一種の辟易のような、ほんの少しくすんだ翳が、窺えるか窺えないか程度に付着しているように万太郎には見えるのでありました。
 そんな顔を見せられると、万太郎としては大いに狼狽える意外にないのでありました。武道家は万事に平常心で臨むものだと云う自戒が頭の隅で閃くのでありましたが、この際そう云った無粋な筋論は一旦横に置く方が賢明と云うものでありますか。
 万太郎はちょうどそこが人気のない、御茶ノ水駅途上にある錦華公園と云う小さな空間の中だと云う好都合もあって、歩を止めてあゆみの両手を徐に取ると、あゆみの体を自分の胸に引き寄せるのでありました。あゆみは反射的に一瞬の抵抗を放射したものの、しかしそれはすぐに霧消して、素直に万太郎の胸に凭れかかるのでありました。
(続)
nice!(17)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:

お前の番だ! 578 [お前の番だ! 20 創作]

「そう云えばその折、香乃子ちゃんからあたし相談を受けたわね」
 あゆみが懐かしむような顔つきをするのでありました。「いざとなったら自分が働いて良君との生活を守る、なんて香乃子ちゃんが健気に決意表明していたのを思い出すわ」
 香乃子ちゃんはそんな話しを出し抜けにあゆみが持ち出すものだから、何となくはにかむような笑いを両頬に広げるのでありました。
「あたしから云わせれば、あゆみ先生と折野さんの結婚も大丈夫だし、常勝流宗家継承問題も、折野さんの覚悟はこれからとしても、大方無難な辺りに落ち着くわけだから、当面は万事、目出度し目出度しって事だと思われますよ」
 香乃子ちゃんはあゆみが持ち出した話題から遠ざかるためにか、そう云ってしかつめ顔で何度も頷いて見せるのでありました。
「まあ、あゆみさんと結婚出来ると云うのが僕としては第一番目の目出度し、だけど」
 万太郎のその云い草が先程のあゆみ同様、如何にもしれっとしているものだから、それを聞く香乃子ちゃんの方が何となくモジモジと照れて仕舞うようでありました。
「この二人なら結婚しても屹度上手くいくだろうな」
 良平がそうニヤニヤ顔で、万太郎とあゆみを交互に見遣りながら結論づけるのでありました。香乃子ちゃんも二人を冷やかすような目つきで頷くのでありましたが、当の万太郎とあゆみはどこまでもしれっとした様子の儘でありましたか。

 良平と香乃子ちゃんとは九段下の駅で別れて万太郎とあゆみは酔い覚まし方々、夜風を火照った顔に気持ち良く受けながら神保町駅まで歩くのでありました。神保町駅まで歩き着くとそこからすぐに混みあった電車に乗りこむのが億劫でもあるし、もう少し二人のそぞろ歩きを楽しみたくもあるし、と云う云事でその儘以前に興堂派道場への出稽古や是路総士の用事で向かった道を逆に、御茶ノ水駅まで延長して辿り歩くのでありました。
「ねえ万ちゃん」
 あゆみが横の万太郎に話しかけるのでありました。「あたし達さあ、良君と香乃子ちゃんみたいに、この二人なればこそ、なんて云う風に見える夫婦になれるかしら?」
 あゆみが云うように確かに良平と香乃子ちゃんと云うペアは、二人並んでいると如何にもこれ以上に相応しいペアはそうは居ないのではないかと思えるくらい、初々しさも未だ残していつつ、更に何とも落ち着きを感じさせる風情が備わっているのでありました。
「そうなれるように、僕は頑張りますよ」
 万太郎は然して気負った風にでもなくそう云うのでありました。「でも頑張ったらそうなれるのかどうか、それとも何かもっと違う要因があるのかは良く判りませんが」
「要するに何年経っても、子供が出来ても、お互いを求めあう度合いが前とちっとも変わらないから、あんな風に初々しい儘なのかしらね」
「そうですね。求めあう度合いが変わらないで、その上に一定の年季と自信が加わって、それであんな感じの落ち着いた風情も醸し出しているのでしょうかね」
 万太郎は自分の人生経験に照らして、この論に確たる自信はないのでありました。
(続)
nice!(15)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:
メッセージを送る