So-net無料ブログ作成

あなたのとりこ 63 [あなたのとりこ 3 創作]

 頑治さんは高校生の頃から小説本を読むのが好きなのでありました。人間心理の探究とか異世界の風物に憧れるとか、或いはグッと実用本位のところで語彙の収集とか作文能力や文意理解能力の鍛錬とかそう云った向上心タップリの意識は更々無く、敢えて云えば、頁上に物語られる日本語の流れに自分の心の流れを同調させている時間がこよなく好きなのでありました。自分である事からの解放、等と云えば何とも大袈裟でありますが。
 しかしだからと云って頑治さんは別に文学少年、或いは文学青年と云った類の人種でも全くないのでありました。同じくらいの斤量で体を使って激しい運動をする事も好きなのでありました。小学生の頃から体育は得意科目なのでありましたし。
 しかし因みに、幾ら好きな体育とは云え、団体競技よりは個人競技のスポーツの方が好きではありましたか。他者との連携とか協調とかは苦手と云う程ではないにしろ、どちらかと云うと何となくまどろっこしくて大儀に思われるのでありました。
 小説好きは大学生になっても変わらないのでありましたし、専攻の地理学関連の本よりは小説本の方が蔵書としては遥かに多いのでありました。ならば地理学ではなくそちら方面の専攻を選べば良かったものでありますが、しかし専攻学問として小説本に向き合うと云う営為は、何処か自分の嗜好には合致しないような気がするのでありました。で、大学を卒業してからも国内外や時代を問わず小説好きは相変わらずなのでありました。
「さて、お腹一杯になって、これからどうしようか」
 夕美さんが本に目を落とした儘の頑治さんに訊くのでありました。
「そうねえ、居酒屋にでも行くかい?」
 頑治さんはそう云いながらちらと腕時計の方に目を移すのでありました。
「そこで祝杯、と云うのも悪くないけど」
 あんまり気が乗らないような夕美さんの口振りでありました。
「他に何か、これからやる事の候補はある?」
 頑治さんの目はそれとなく未だ腕時計に向いているのでありました。
「ワインでも買って頑ちゃんの家に行く、と云うのはどう?」
 頑治さんはそこで目線を上げるのでありました。
「それは構わないけど」
「その方が気兼ね無くゆっくりとお話しが出来るじゃない」
「ウチにはワインの当てになるような食い物が何も無いよ」
「それも一緒に買って行けば良いわ」
「そうだな、じゃあ、まあ、そうしようか」
 これは元々頑治さんの目論見でもあったから全く異存は無いのでありました。
 二人は中華料理屋を出ると地下鉄神保町駅近くのスーパーマーケットでワインと、幾種類かの調理の要らないツマミ物を買い込んで御茶ノ水駅の方に向かうのでありました。
「ここが頑ちゃんの今度の職場でしょう?」
 日貿ビル道向かいに在る贈答社の入る五階建てのビルの前を通る時に、夕美さんが足を止めて建物を眺め上げながら訊くのでありました。
(続)
nice!(11)  コメント(0) 
共通テーマ:

あなたのとりこ 62 [あなたのとりこ 3 創作]

「本当?」、
 夕美さんは如何にも大袈裟に嬉しそうな顔をして見せるのでありましたが、これは嬉しさの度合に於いてこの表情程の歓喜は無いのでありましょう。一般的に女性が無意識裡に放つ特有の、時として男を惑わし得るところの、科、と云うものでありましょうか。
「俺もこの儘さようならするのは何となく心残りだし」
 とは判っているものの頑治さんは思わず頬の筋肉が緩むのでありました。「一時間半くらいなら三省堂にでも行って一階から七階までうろうろしていればすぐに経つし」
「じゃあ、待っていてくれる?」
「講義が終わった頃に、またここのベンチに座っているよ」
「判った。終わったらすっ飛んで来るわ」
 夕美さんはそう云って頑治さんにバイバイと手を振ってからクルリと後ろを向いて、立ち上がった頑治さんの前を小走りに去るのでありました。頑治さんは公園から夕美さんの姿が消えるまでその後ろ姿を見送るのでありました。その後俯いて腕時計を見てから、今夕美さんが去った同じ出口から公園を後にするのでありました。

 頑治さんはゆっくりと箸を置いて夕美さんに向かって「ごちそうさま」とお辞儀をしながら云うのでありました。頭を下げた時にちらと腕時計に目を遣るのでありました。
「満腹した?」
 夕美さんが顔を起こした頑治さんを覗き込むのでありました。
「うん。それに美味かったし久し振りの豪勢な夕飯だった」
 頑治さんのその返事に夕美さんは満足そうに笑むのでありました。
「それから、・・・」
 夕美さんはそこで言葉を切って、傍らに置いていた赤いデーパックを膝の上に取り上げてからジッパーを開けるのでありました。頑治さんがその様子を覗き込んでいると、夕美さんは明渓堂の真新しいブックカバーに包まれた本を取り出すのでありました。
「これ、就職祝い」
 夕美さんは両手でその本を持って頑治さんの方に差し出すのでありました。
「へえ。有難う」
 頑治さんは受け取ってから表紙を開くのでありました。ウディ・ガスリーの晶文社版『ギターをとって弦をはれ』と云う自伝の翻訳本でありました。
「もっと高額で気の利いた物、とか考えたんだけど、それが一番喜ぶかと思って」
「よく見付けたなあ。ずっと探していたんだけど三省堂にも冨山房にも、神保町界隈の古本屋を回ってもなかなか見付けられなかったんだけどなあ」
「でも版元に問い合わせたら絶版になっている訳じゃなかったわ。で、明渓堂で取り寄せて貰って、今日入荷したって電話があったの」
「いやあ、本当にありがとう」
 頑治さんは嬉しそうに本を矯めつ眇めつするのでありました。
(続)
nice!(14)  コメント(0) 
共通テーマ:

あなたのとりこ 61 [あなたのとりこ 3 創作]

「まあ、一面でそう云えなくはないわね」
「一面で、かい?」
「だって考古学専攻の学生では女子はあたし一人なのよ」
「良いじゃないか、男に囲まれてちやほやされて」
「誰もちやほやなんかしてくれないわ」
 いやそうでも無かろうと頑治さんは思うのでありました。夕美さんなら小煩く感じるくらい男達にモテるに違いないでありましょう。しかも紅一点となれば、余計周りの男共が夕美さんを放って置く筈がないと思われるのであります。
「発掘の仕事環境なんて、結構過酷なのよ」
 夕美さんは頑治さんの認識違いを正そうとやや真剣な目をするのでありました。
「要するに刷毛みたいな物で土の表面をチョロチョロ丁寧に掃いたり、十能みたいなヤツで海辺の潮干狩りか花壇の園芸仕事みたいな事をするんだろう?」
 頑治さんは全く揶揄が含まれてはいない、でもない云い方をするのでありました。
「潮干狩りとか園芸とか、唐目君はやった事ある?」
「いや、ない」
「やってもいないのにきつい作業かそうじゃないのか、どうしてって判るのよ」
「成程ね。それは道理だな」
「それに発掘はそんな事ばかりやる訳じゃないもの。もっと重労働が幾らもあるのよ。力仕事も、男に混じってあたしも同じ作業をしなければならないんだから、大変よ」
「そう云うものかね」
 頑治さんは鈍そうな語調で前言を繰り返すのでありました。頑治さんに発掘仕事の大変さがあんまり理解して貰えない様子に夕美さんは小さな溜息をつくのでありました。
「ああ、もうすぐ午後の講義が始まるわ」
 夕美さんは自分の左手の腕時計に目を落としながら云うのでありました。頑治さんの考古学の過酷さに対する鈍い反応にげんなりしたのか、これで、中学校以来の邂逅を夕美さんは切り上げる心算で講義の事を口にするのでありましょうか。若しも自分のつれない反応のために夕美さんの機嫌を損じたのなら、それは如何にも申し訳無い事であると頑治さんは慙愧の念を覚えるのでありました。慙愧の念と云うのか、勿体無さ、と云うのか。
「唐目君は、この後は?」
「講義は無いよ。もうアパートに帰るだけだよ」
「帰った後の予定は?」
「何も無い。今日はアルバイトも無い」
 頑治さんは首を何度か横に振って見せるのでありました。
「折角こうして逢えたのに、これでさようならするのは残念よね」
 夕美さんは眉尻を下げて眉根を寄せて少し悲しそうな表情をするのでありました。そんな事を云うところを見ると、機嫌が悪くなったと云う訳でもなさそうであります。
「講義が終わるまで待っていようか?」
(続)
nice!(9)  コメント(0) 
共通テーマ:

あなたのとりこ 60 [あなたのとりこ 2 創作]

 夕美さんはその時引率した、担任でもある社会科の先生に、お前は発掘の名人かも知れない、と褒められたのでありました。クラスの他の生徒は土器の一片も石器の欠片も見つけられない者も居ると云うのに、由美さんときたら誰よりも多くの石鏃や骨鏃、それに弥生土器片を発見し、その時代の人の骨まで見付け出したのでありました。
「左手示指の中節骨だったの」
「何だいそれは?」
「人差し指の真ん中の骨よ」
 夕美さんは自分の左手の人差し指をピンと立てて、右手の人差し指でそれがどの骨に当たるのかを指示して見せるのでありました。
「よく判ったな、それが左手の何たら骨だと」
「中節骨」
「ああ、その中節骨だと」
「見つけた時はあたしもはっきり判らなかったけど、なんだか人の骨じゃないかって直感して先生に訊いたの。先生がひょっとしたら指の骨の一部かも知れないって云って、その骨を知り合いの県立博物館の学芸員の先生に鑑定してもらったのよ。そうしたら弥生人の左手示指中節骨だって判ったの。貴重な発見だって担任の先生は後で驚いていたわ」
「人の骨だったら気持ち悪いとか、そんな風には思わなかったのかい?」
「全然。だって二千年くらい前の小さな骨片よ。まるで枯れ枝か小石のような感じで、全然骨としての生々しさなんかもう無いもの」
「ふうん」
 頑治さんは小学生の頃、火葬場で祖母の骨を拾った折に見た焼かれた人骨しか今迄見た事は無いのでありましたから、二千年くらい前の人間の人差し指の骨の風合いに付いてはなかなか想像力が働かないのでありました。
「で、ね、あたし自身も発掘の名人かもしれないって、殆ど本気で考えたのよ」
 夕美さんは目を大袈裟に見開いて結んだ唇をやや笑いに作って頑治さんを見るのでありました。なかなかに可憐な表情だと頑治さんは秘かにどぎまぎするのでありました。
「ま、そう云う思考の流れは理解出来るけど」
「担任の先生も折に付けあたしを発掘とかに誘ってくれるようになったの。博物館の学芸員の先生とも面識が出来て、あたし自身も発掘の手伝いとかが結構楽しくて、こう云う事をしながら高校卒業後もずっと生活できたら良いなって考えるようになったの」
「で、考古学専攻の大学生になったと云う訳か」
「学芸員の先生がウチの大学の先輩に当たるのよ。ウチの大学は考古学関係では結構権威があるの。この道では有名な先生が何人も居るし」
「ウチの大学が考古学に強いとは知らなかったな」
「考古学に関係も関心も無い学生はそうかも知れないわね、残念ながら」
 夕美さんは少しがっかりしたような声の調子で呟くのでありました。
「で、今は念願の勉強が出来るようになって充実した学生生活を送っていると」
(続)
nice!(11)  コメント(0) 
共通テーマ:

あなたのとりこ 59 [あなたのとりこ 2 創作]

 夕美さんは目を頑治さんから逸らして少し考えるような表情をするのでありました。それから少し長く沈黙するのでありました。と云ってもほんの四五秒ではありますが。
「そうね、そう云う事なのかも知れないわね」
「倦む前は頭の中が考古学一辺倒だったからそんなに気にしなかったけど、ほんの少しだけでも気持ちが冷えてみると自分の立っている周りの様子に目線が移り出して、自分の不調和性と云うのか、ここは自分の居るべき場所ではないんじゃないか、とかね、そんな疎外感が急に意識されてきたんじゃないのかな。でもそれは、考古学そのものに冷えたと云う事が先ずあるからのように俺には思われる。ま、直感みたいなものだけどさ」
「そうね。実はそう云う事かも知れないわね」
 夕美さんは頑治さんが今云った言葉について少し長く考えた後に小さな抑揚のない声で返事して、これも小さな仕草で何度か頷くのでありました。まあ、少し長く、とは云うものの、しかしそれもほんの四五秒の事ではありましたが。
「夕美の云い様を聞いて感じただけの、軽はずみで、大して当てにはならない俺の直感なんだから、あんまり気にしないで貰いたいけどね、今の言葉は」
 頑治さんは夕美さんの心細気な顔にたじろいでそんなフォローなんぞを入れるのでありましたが、後の祭りかなとも一方で考えるのでありました。
「まあ今のところ、そんなに深刻に思い詰めている訳じゃないから」
 夕美さんが憂色を掃って笑むのでありました。「そんなあたしの事より、頑ちゃんの今度の会社の、あたしと同じ苗字の人の事、もっと聞かせてよ」
「ああ、倉庫の刃葉さんの事か」
 頑治さんは夕美さんが見せた愁眉がとても気になったのではありましたが、ここは夕美さんの気色を尊重して話題を別のものに移すのでありました。

 学食と公園で聞いた話しに依ると、夕美さんは高校を卒業して大学生になるため上京した後、二年間は世田谷の叔母さんの家に寄寓していたのでありました。これは一人で東京に出る娘を心配した父親の差配に依るようでありました。その後三年生になった折、その叔母さんの家からそう遠くないアパートで一人暮らしを始めたのでありました。
 頑治さんは全く知らなかったのでありましたが夕美さんは高校生の頃から歴史、それも古代史に興味があったらしく、行く々々はそちららの研究に打ち込みたいと云う志望を持っていたのでありました。一体全体どういう経緯で古代史なんかに興味を持ったのかと訊いたら、夕美さんは一度高校の日本史の授業で学校近くにある弥生遺跡の発掘に行った時の経験が忘れられなかったからと、目を輝かせながら頑治さんに云うのでありました。
「五月の晴れた日でね、遺跡を囲む森の新緑の匂いがとても清々しかったの。授業とは云え、何だかちょっとピクニック気分よ」
 それは古代史に直接関係が無かろうと聞きながら思うのでありましたが、しかし五年振りの思いも掛けなかった邂逅であるし、中学校時代にはそんな茶々を入れる程付き合いが濃い訳でもなかったのだからと、頑治さんは言を手控えるのでありました。
(続)
nice!(12)  コメント(0) 
共通テーマ:

あなたのとりこ 58 [あなたのとりこ 2 創作]

「羽場の事だから間違い無く大丈夫だと思うよ」
 別に自分の軽はずみなお墨付きなんぞは何の保証にもならないし何の安心にもならないとは思うのでありましたが、頑治さんはそう力強く請け合うのでありました。
「有難う。唐目君にそう云われると何だか大丈夫なような気がしてくるわ」
 夕美さんは如何にも嬉しそうに頑治さんに笑いかけるのでありましたが、これは夕美さんの頑治さんの気遣いに対する儀礼的愛想でありましょう。丁度木の間から風が吹いて来て、夕美さんの髪をサラサラと靡かせるのでありました。

 靖国通りから本屋の三省堂横の路地を抜けて、すずらん通り商店街を神保町駅に向かって暫く歩いた辺りの中華料理屋に頑治さんと夕美さんは入るのでありました。そこは何となく高そうな玄関構えで頑治さんは今まで遠巻きにしていた店でありました。ここら辺で食事をするなら頑治さんは大衆的なキッチン南海辺りに入るのが常でありましたか。
「折角の就職祝いなんだから、少しくらい高そうな所でも良いんじゃない」
 夕美さんはそう頑治さんに宣して先んじて料理屋の中に入るのでありました。
「どうだい大学院の方は?」
 頑治さんが好物の鶏の唐揚げに箸を伸ばしながら訊くのでありました。
「うん、二年生になると修士論文のための資料集めとか色々大変だわ」
「次は博士課程に進むんだろう?」
「一応その心算でいるんだけど、でも今迷っているのよ」
 夕美さんは頑治さんの顔から頼り無さそうな色を湛えた目を外して、レタス炒飯を取り分けた自分の取り皿を片手に取って、蓮華で一盛り掬うのでありました。
「博士課程に行って、その後は助手として大学に残ると云う目標じゃなかったっけ?」
「まあ、目標はね」
 夕美さんが蓮華を取り皿に戻す時に小さな陶器のぶつかる音がするのでありました。
「あれ、気持ちが変わった?」
「何か最近さ、発掘の仕事とか研究室なんかで、大勢の男達に混じって女一人が同じように動き回ったり発言したりする事に、自分が妙に場違いな場所に居るなとか思ったりする訳。前からそう思ってはいたんだけど、そんな事別に大して気にもならなかったの。成果さへ出せばそんな事は些事に過ぎないとかね、そう云う心算でいたんだけどね」
「でも最近、嫌に気になり出した、と云う事?」
「そうね。そんな感じ」
 夕美さんはまた炒飯の取り皿を手にするのでありました。
「それは女一人が男達に混じっている違和感では、実はないんじゃないの?」
 頑治さんが訊くと夕美さんは口元に運んだ蓮華の動きを止めて頑治さんの顔を上目遣いに見るのでありました。瞳の中に少しのたじろぎが見て取れるのでありました。
「どう云う事?」
「つまり、考古学と云う学問自体に少し倦んだんじゃないのかな?」
(続)
nice!(13)  コメント(0) 
共通テーマ:

あなたのとりこ 57 [あなたのとりこ 2 創作]

「もう十月の終わりだと云うのに?」
「九月の解禁以来、会社訪問も一社も行っていないもの」
「へえ。随分悠長に構えているのね」
 夕美さんは少し呆れるのでありました。「就職希望なんでしょう?」
「ま、一応は」
「今年は只でさえ厳しいって云われているのに、そんなに呑気にしていて良いの?」
「本当はいけないんだろうけどね」
 頑治さんの云い草はどこか他人事のようでありました。
「ちっとも焦ってないみたいね」
「まあ、成るようにしか成ならないよ」
 頑治さんとしては何となく気が乗らないと云うのが、意欲的に就職活動に動かないその理由と云えば理由なのでありました。当面、目指す会社も入りたい業種も、困った事に全く見当たらないのであります。だから九月一日の会社訪問解禁日から愚図々々していて既に出遅れたのでありましたし、一旦出遅れるとすっかり興が醒めるのでありました。
 学生である気楽さに浸りきっていて働く意欲が湧かないのかと云うとそうでもないのでありました。現に居酒屋でのアルバイトは続けているのでありますから。只、或る日を境に一斉にお祭り騒ぎ宜しく就職活動に血眼になる世間の風潮みたいなものに辟易としているのでありました。それはある意味無粋な過剰反応と云うようなものであり、何処か仮想的に窮地に追い込まれた者達の狂騒と云うものでもあるようで、一歩引いて考えてみれば何ともイカさない集団強迫神経症的様態と云えなくもない現象ではありませんか。
「羽場の方はどうなんだい、就職は?」
 頑治さんは夕美さんの方事に話しを曲げるのでありました。
「あたしは進学希望だから就職活動はしていないわ」
「進学と云うと、大学院かい?」
「そう。もう少し今の勉強を続けたいから」
「そうなんだ、ふうん」
「だから就職活動はしないけど、でも受験の勉強も大変よ」
「それは万事に不真面目な俺に対する当て擦りの言かな?」
 頑治さんは冗談口調で訊くのでありました。
「別にそうじゃないわ。本当の事だもの」
 夕美さんは真面目な顔で返すのでありました。
「へえ、大学院に進学かあ」
 頑治さんは口調を改めて不埒な笑みも消してもう一度頷くのでありました。「確かにそれも大変そうだよな。でも怠け者の俺と違って、羽場は中学校時代から努力家でコツコツタイプだったから、その辺はそつなく準備しているんだろう?」
「進学しても構わないって云う実家の許可と、担当教授の大丈夫だろうって云う感触は貰ったけど、実際のところはそんなに自信がある訳じゃあないの」
(続)
nice!(10)  コメント(0) 
共通テーマ:

あなたのとりこ 56 [あなたのとりこ 2 創作]

「でも、株式会社なんでしょう?」
「資本の形式としてはね。まあ、株式会社たって色々あるよ」
「それはそうだろうけど」
 夕美さんはカップに残ったコーヒーを飲み干すのでありました。「それはそうと、ぼちぼち何処かに食事に行かない? 就職お祝い第一弾として奢ってあげるわ」
 第一弾と断るところを見ると第二弾もあるのでありましょうか。
「それは有難いけど、でも考えてみたら夕美は未だ学生の身分で、俺の方が働いていると云う事になるんだから、無産者に奢って貰うのはちょいと気が引ける」
 夕美さんは考古学専攻の大学院生なのでありました。
「そんな事云うけど、今の時点ではあたしの方がお金持ちだと思うけど」
 夕美さんのお父さんは郷里で建築設計事務所を経営する資産家なのでありました。依って夕美さんには実家から潤沢に仕送りがあるようであります。まあ、そうでなければ夕美さんが卒業後に就職しないで大学院生になると云う選択は無かったかも知れません。
 夕美さんにはお兄さんが居て、お父さんと同じ建築士でお父さんの跡継ぎと云う事になるのでありましょう。妹の夕美さんは頑治さんとは違って幼い頃から乳母日傘で育てられたようで、その所為かどうかどちらかと云うとおっとりした性格なのでありました。それでも中学時代の印象としては頑固な面もあって、一度云い出したらなかなか節を曲げない憎たらしいところもあるのでありました。今もそこは変わらないようであります。
「お金持ちかどうかと云う点では、確かにその通りではある」
 考えたら頑治さんは大学で再会して付き合いだして以来、大いに夕美さんの持っている金品に甘えてきたような気がするのであります。
「その内、頑ちゃんがお金持ちになったら十倍くらいにして返して貰うから、今日の夕食代に関してはあたしの奢りと云う事で良いんじゃない」
「そうかい。毎度々々、お世話になります」
 頑治さんは丁重そうでありながら、しかし何処か狎れたような風情のある、横着と云えばそうも云えるお辞儀なんぞをして見せるのでありました。

 学食を出た二人はすぐ道向かいにある小さな公園の中に入っていくのでありました。夕美さんの手には飲み残しの林檎ジュースの缶が、頑治さんの手には学食の出入り口のところにある自動販売機で、再会の挨拶代わりと云う名目で夕美さんが買ってくれた缶コーヒーが握られているのでありました。そんな挨拶をされる謂れはないと頑治さんは断ったのでありましたが、堅い事云わないでまあ良いじゃない、と云う夕美さんの厚意にほんの少しのすったもんだの末、結果として甘える事になったのでありました。
「唐目君は、就職の方は決まったの?」
 公園の古い木製のベンチに並んで腰を下ろして、缶コーヒーのプルリングを起こしている頑治さんに夕美さんが訊くのでありました。
「いや、未だ全然決まっていないよ」
(続)
nice!(8)  コメント(0) 
共通テーマ:

あなたのとりこ 55 [あなたのとりこ 2 創作]

「へえ。じゃあこれから一緒に仕事をしていく間柄になるの?」
「いや、後二か月程で会社を辞めるんだよ。その後釜として俺が雇われた事になる」
「ああそう云う経緯なの」
 夕美さんは刃葉さんがもうすぐ会社を辞めるのだと云う話しを聞いて、何故か少しがっかりしたような云い草をするのでありました。自分と同姓の人が頑治さんとこれから先も一緒に働く訳ではないと云う事に、全く大した意味も無くではありましょうが、何となくちょっと残念な心持ちなんぞがしたからでありましょうか。
「この先二か月、引き継ぎでその人からあれこれ業務仕事を教わらなくちゃならない」
「短時間だけど先輩になるんだものね。色々頼りになりそうな人?」
「うん、まあ、・・・」
 頑治さんは口籠もるのでありました。別に羽場さんの人となりを、頑治さんが持った印象等を正直に且つ面白可笑しく夕美さんに話しても構わないのでありましょうが、夕美さんと同姓の人と云う事もあって、まあ、まさか夕美さんに限ってそんな不条理は無いでありましょうが、頑治さんの語りを不愉快に思うような事があっては拙いと頭の隅で危惧したからでありました。全く以ってこれは無用な気遣いでありましょうが。
「他にはどんな人が居るの?」
 夕美さんは別に刃葉さんの話しには拘る風も無いのでありました。
「営業部長と営業課長、それに営業部員が後二人、と云っても一人は出張で居なかったから今日はもう一人の方としか顔合わせしなかったけどね。それに経理の女の人が一人。制作部には制作部長と制作主任、それから男女一人ずつの部員、と云ったところかな」
「営業部は営業課以外に他の課がある訳?」
「いや、そう云う事ではなくて、単に役職手当支給の関係で課長と云う役職も設けてあると云う事らしいよ。課長当人が居酒屋の宴会の席でそんな事を云っていたから」
「営業部と経理部と制作部の三部構成になる訳?」
「経理部、と云うのは特別設けられてはいないようだな。だから経理担当の女の人は平の社員で課長と云う肩書きはないし、他に部下も居ないもの。まあ、強いて云えば営業部に経理課も属すると云えなくも無いかも知れないけど、でもそうでもないようだし」
「その辺は曖昧な訳ね」
「そう。はっきりした区分として経理部とか経理課があるんじゃないようだよ」
「業務部も無いのね?」
「無いよ。業務の仕事は営業部関連の仕事も制作部関連の仕事もあるけど、でも、部とかどちらかの部の下の課として厳密に区分けされているんじゃないからね」
 若し業務部と云う部署が存在するとすれば、あの羽場さんが業務部長と云う事になるのかも知れませんが、どう考えてもそれは無い話しでありましょう。
「経理と同じような括りね」
「そう云う事になるかな。まあ総勢十一人、社長も勘定に入れたら十二人の零細企業だし、そうやたらと部だの課だのと区分していても無意味だろうからね」
(続)
nice!(12)  コメント(0) 
共通テーマ:

あなたのとりこ 54 [あなたのとりこ 2 創作]

「へえ。俺の方は高校時代に増田とは全然交流が無かったから、羽場が同じ大学に進学していたなんて今の今まで露とも知らなかったよ」
 頑治さんはここで夕美さんに対してさん付けを止めるのでありました。中学生の頃は呼び捨てであったからこの方がより親しみを籠められるだろうと云う判断でありました。
「同じ大学だし同じ文学部なんだから、何時かキャンパスで逢う事もあるかもって思っていたけど、結局四年生になった今の今まで唐目君に逢う事は無かったわね」
「羽場も文学部なのかい?」
「そうよ、史学科の考古学専攻」
「ふうん。考古学、ねえ」
 頑治さんは地理学科なのでありました。同じ文学部とは云え、専攻が違うと全く顔を合わせる機会も無い場合だってあるでありましょう。
「女子には似合わない専攻、だと思うんでしょう?」
「そうね、あんまり聞かないね」
「考古学教室の中でも女子はあたし一人だもの」
 元来、頑治さんと夕美さんの通っている大学は男子学生の方が女子より圧倒的に多い大学として有名でありました。文学部に関しては他の学部よりは在籍女子の比率が高いのではありますが、それでも割合としては二割程度と云う通説であります。
「仏文科とか英米文学科だったら多少は女子学生も居るだろうに、何でまた史学科の、それも一般的に女子にはからっきし人気の無さそうな考古学専攻なんだい?」
「女子には人気が無くても、あたしには人気があるのよ」
「ああ成程ね」
 そう云われれば頑治さんとしては頷くしか無いのでありました。物事の好き嫌いは人夫々でありますから頑治さんがそれに容喙する謂れは無いと云うものでありますか。
 夕美さんは頑治さんの頷きを無表情に見ながら林檎ジュースの缶のプルリングを引き開けて、それを口の上で傾けるのでありました。夕美さんのセミロングの髪の毛先の揺れと、白く長いうなじの曲線が頑治さんの目を惹き付けるのでありました。

 夕美さんが白いうなじを見せてコーヒーを一口含んで、カップを受け皿に戻すのを待ってから頑治さんが話題を変えるのでありました。
「そう云えば今度の会社の中に、夕美と同じ苗字の人が居るんだぜ。字の方は、刃物の刃に葉っぱの葉と書くんで違うけど」
 今度は頑治さんがさして白くも長くもないうなじを曝してコーヒーを一口飲んで、その後カップを下に置くのを待ってから夕美さんが応えるのでありました。
「ふうん。比較的珍しい名前なんだけどね」
「うん。奇遇にもね」
「どんな人?」
「俺と同じ業務仕事の先輩なんだよ」
(続)
nice!(10)  コメント(0) 
共通テーマ:

あなたのとりこ 53 [あなたのとりこ 2 創作]

「ひょっとして唐目君じゃない?」
 頑治さんは後ろを振り返るのでありました。見覚えのあるような、無いような女の顔が頑治さんを見下ろしているのでありました。頑治さんの顔が無表情の儘である事に少し気後れしたように、女は不安そうに眉宇を寄せて及び腰を見せるのでありました。それが大学四年生の時の頑治さんと夕美さんの再会の風景でありました。
「判らない、あたしの事?」
「ええと、何処かで逢った事があるような気もするけど。・・・」
「夕美よ。羽場夕美。ほら、中学校で同級生だった」
 頑治さんはその名前は憶えているのでありました。しかし中学生の頃の夕美さんの面影が今目の前に居る女の顔となかなか重ならないのでありました。
「ああ、羽場さんか。名前は憶えているよ」
「顔は忘れた?」
「いや、忘れてはいないけど、でもなんと云うのか、・・・」
「中学生の頃の面影は全然無い?」
「うん。ええと、詰まり、羽場さんはこんなに綺麗だったっけ?」
 これは別に頑治さんのお追従でも女の気を引こうとする作為的な言辞でもなく、偽らざる感想なのでありました。夕美さんの頬が思わずと云った具合に弛むのでありました。
「随分お久しぶりね」
 夕美さんはそう云いながら頑治さんの横の椅子に座って、両手で持っていた四角い銀盆をテーブルの上に置くのでありました。銀盆には大盛りにした野菜サラダとロールパンが一つ、それに小振りな缶の林檎ジュースが載っているのでありました。
「どういう訳で羽場さんがここに居るんだい?」
 銀盆を置く時に少し俯いたものだから夕美さんのセミロングの髪の毛がやや前に揺れて、その時ほんの少し覗いた白い耳朶に向かって頑治さんが訊くのでありました。
「だってここの学生なんだもの」
 夕美さんは頑治さんに顔を向けて云うのでありました。髪の毛の先が躍って夕美さんの口元に掛かるのでありました。白い耳朶が頑治さんの視界から消えるのでありました。
「あれ、そうだったの。今までちっとも知らなかったよ」
「あたしは知っていたわよ、唐目君が同じ大学の学生だって事は」
 夕美さんはフォークを取り上げて野菜サラダの山の斜面に突き刺すのでありました。引き抜いたフォークの先で赤いプチトマトが連れ出されて来るのでありました。
「ふうん、でも何時知ったんだい?」
「消息は東高の増田押絵から聞いたわ、高校を卒業してすぐに」
 この増田押絵も中学の同窓生でありました。増田押絵は頑治さんと同じ、郷里の東高校に進学したのでありました。一年生の時に同じクラスになったのでありましたが、その後はクラスも別で、高校生時代に頑治さんは殆ど交流を持つ事は無かったのでありました。因みに、夕美さんはミッション系の女子高校に進学したのでありました。
(続)
nice!(9)  コメント(0) 
共通テーマ:

あなたのとりこ 52 [あなたのとりこ 2 創作]

「昨日の続きだけど、会社の方は長く勤められそうな感触なのね」
 注文したコーヒーが来て、夕美さんは一口それを口に含んで暫く口の中でその香りと苦味を味わってから、ゆっくりと飲み下した後に頑治さんに訊くのでありました。
「仕事は単純と云えば単純だからそう難しい事は無いね。でも扱っている商品が色々あるからそれを覚えたり、その商品を作るための材料類を掌握するのに少し時間が掛かりそうだけどね。でも、それも慣れれば多分そう煩雑な事はないと思うよ」
「お給料は良いの?」
 夕美さんは昨夜電話で話さなかった点をここで訊ねるのでありました。
「今までのアルバイトに比べれば格段に良いかな。住宅手当も付くし雇用保険とか健康保険とか、そう云うのもあるようだし、待遇はかなりマシと云えるんじゃないかな」
「それはそうよね、正社員なんだから」
「まあ、保険料は給料から引かれるけどね」
「でも会社負担があるから全額じゃないし。それに厚生年金も付くんでしょう?」
「そうだね。でもその分、また手取り額が減るけど」
 頑治さんは就職面接時に土師尾営業部長から聞いた事を其の儘話すのでありました。そう云えば昨日の初出社日には、そう云った雇用条件の話しは土師尾営業部長の方からは特段出ないのでありました。もう面接の時にちゃんと話しているから殊更無用と云う心算なのでありましょうか。そう云えば初出社日である昨日ではなく、今日の帰り際に就業規則なる三枚綴りの紙切れを土師尾営業部長から事の序と云った感じで渡されたのでありました。でありますから、それは未だ頑治さんはちゃんと読んではいないのでありました。
「そう云えばこんなものを渡されたよ」
 頑治さんはズボンの尻ポケットから四つ折りにしてある、先程貰った就業規則なる紙切れを取り出して優美さんに渡すのでありました。夕美さんはそれを受け取ると暫く目を落として、熟読と云う程ではないながら黙読しているのでありました。
「まあ、ごく一般的な事がサラっと書いてあるわね」
 夕美さんはそう云ってその紙を頑治さんに返すのでありました。「一応帰ってから頑ちゃんも良く読んでおいた方が良いとは思うけど」
「うん、後でつるっと読んでおくよ」
 頑治さんは返された紙をまた四つ折りにして尻ポケットに捩じ込むのでありました。

 混み合った学食の片隅の席でカレーライスを食い終った頑治さんは、先程入り口付近で青ヘルメットを被った学生に渡された藁半紙の政治ビラを尻ポケットから取り出すのでありました。学費値上げがどうの全学ストがどうのと嫌に角ばった文字が並んでいるのでありましたが、頑治さんはそのビラを丸めて食い終ったカレー皿の横に放るのでありました。渡されたビラをその場で即座に捨てるのも何やら無礼過ぎる気がしたものだから億劫ながら一応折り畳んで尻ポケットに突っ込んでいたのでありました。頑治さんが丸めた紙とカレー皿を持って立とうとした時、後ろに誰かの立つ気配がするのでありました。
(続)
nice!(9)  コメント(0) 
共通テーマ:

あなたのとりこ 51 [あなたのとりこ 2 創作]

「判ったわ、レモンね」
「あそこなら若しどちらかが時間に遅れてもコーヒーを飲みながら待っていられる」
「それもそうね。でもあたしは屹度遅れないわ」
「俺も遅れないようにするよ」
「じゃあ、明日」
「うん。じゃあ、明日」
 頑治さんは夕美さんが受話器を置く音を聞いてから電話を切るのでありました。

   夕美さん

 その日は定時で帰る事が出来たものだから頑治さんは三省堂書店や冨山房書店、それに東京堂書店を回って一時間程時間を潰してから喫茶店のレモンへ向かうのでありました。店内には夕美さんの姿は未だ無いのでありました。
 頑治さんは奥まった席に座るとコーヒーを注文して、先程買った、十九世紀終わりの年にウクライナで生まれたポーランド人の小説家の短編集を開くのでありました。取り立てて読みたいと云う作家ではなかったものの、偶々手に取った序と云った具合に買って仕舞った本でありました。この人は青春のただ中でロシア革命に遭遇し、その後の新生ソヴィエト連邦の文化状況を生きた、まあ結局は不遇の小説家なのでありました。
 最初にある『愛』と云う短編の中の二頁目“リョーリャはやってこない。庭園での彼の滞在は長引いた。”と云う段まで読み進んだ時に先程注文したコーヒーが頑治さんのテーブルに遣って来るのでありました。頑治さんは本から目を離してコーヒーカップを取り上げるのでありました。夕美さんの方は未だ遣って来ないのでありました。
 その夕美さんはほぼ正確に六時半に喫茶店の扉を押し開いて姿を見せて、中の様子を窺ってから奥まった席に座っている頑治さんを見付けて、小さく手を上げて合図を送って来るのでありました。釣られるように頑治さんも手を上げて見せるのでありました。
「早かったじゃない」
 夕美さんは頑治さんの対面の椅子に腰掛けながら云うのでありました。
「今日は終業間際に梱包仕事とか入ったりしなかったから、定時に帰れたんだよ」
「そうすると、ここで随分待ったの?」
「いや、本屋で時間を潰していたからそうでもないよ」
 そう聞いて夕美さんは頑治さんが左手に持っている三省堂書店の紙カバーに包まれた本に視線を移すのでありました。しかしすぐに目を頑治さんの顔に戻すのでありました。夕美さんはそれが何の本なのかは特に頑治さんに問い掛けないのでありました。
 近寄って来た店のアルバイトと思しきエプロンをした若い女に、夕美さんは頑治さんが飲んでいるのと同じブレンドコーヒーを注文するのでありました。若い女が無言で頷いて立ち去ってから頑治さんは持っていた本を椅子の上に置くのでありました。最初の『愛』と云う物語はごく短いものだったから頑治さんはもう読み終えているのでありました。
(続)
nice!(10)  コメント(0) 
共通テーマ:

あなたのとりこ 50 [あなたのとりこ 2 創作]

「ふうん。ま、そう云う事もあるわね」
 夕美さんはあっさり納得したようでありました。「で、どう、初出社の感想は?」
「そうねえ、今までやって来たアルバイトの感じとそう変わらないってところかな」
「ああそう」
 頑治さんの冷めた云い草を聞いて、夕美さんの声には何処かがっかりしたような色合いが窺えるのでありました。
「この先暫く働いてみないと、良い就職だったか悪い就職だったかは判らないけど」
「それはそうよね。でもそう云う風に云うところを見ると、これから先ずっと勤められそうな感触は持てたって事かしらね?」
「そうだね。今日の初出社でいきなりこりゃダメだと云う気にはならなかったかな」
「業績とかは堅実なの?」
「それは今の段階で未だ良くは判らない。でも今日接した社員の間には切迫した業績への不安は特に無かったように思ったけどね」
 頑治さんは袁満さんの穏やかそうな顔を思い浮かべるのでありました。
「社員の人達とは上手くやって行けそう?」
「多分大丈夫じゃないかな。取り立てて灰汁の強い人は居ないみたいだし」
 とは云うものの、業務仕事の先輩である刃葉さんはちと癖の強い方かなと頑治さんは考えるのでありました。それに片久那制作部長も食えない人のようでありますし。
「じゃあ、まあ、今日の段階では上々と云う感触?」
「まあ、中の上、いや中の中と云った辺りかな」
「可も無く不可も無いってところ?」
「今までの学校やアルバイト先でも色んな人が居たし、そのキャラクター幅の中から極端にははみ出る人は居なかったってところかな」
「ああ成程ね」
 こんな曖昧な云い回しの説明で夕美さんは本当に成程と思ったのかのかしらと頑治さんは少し疑うのでありましたが、まあそれはそれとして。
「ところで明日逢えるかな?」
 頑治さんは話頭を曲げるのでありました。
「そうね、昼の三時以降は講義も無いから多分大丈夫だと思うけど」
「今日の首尾は電話では良く話せないから逢って話すよ」
「そうね。その方が良いわね。頑ちゃんは明日大丈夫なの?」
「多分六時、いや六時半には退社出来ると思うよ」
 今日の就業時間後に急な梱包と発送の仕事があったことを踏まえて、頑治さんは無難な辺りを提示するのでありました。
「判った。じゃあ六時半に御茶ノ水駅の改札辺りで待ちあわせる?」
「いや、レモンにしよう」
 レモンと云うのは喫茶店の名前でありました。
(続)
nice!(8)  コメント(0) 
共通テーマ:

あなたのとりこ 49 [あなたのとりこ 2 創作]

「刃葉さんは身体の軸を創るためにバレエをやっている、なんて云っていましたよ」
 均目さんが少し真面目な顔で話題を刃葉さんの事に戻すのでありました。
「つまり、矢張り、武道的な動機からバレエをやっているんですかね」
 頑治さんがそちらの話題に乗るのでありました。
「本人としてはそう云う心算らしい」
「どうだかね」
 日比課長はあくまで懐疑的なのでありました。「若い女のレオタード姿を見たくってバレエ教室に通っている、と云うのはあまりに体裁が悪いからそんな尤もらしい理由を付けているだけで、俺はスケベな了見の方が刃葉君の本当の理由だと思うね」
「まあ、本人じゃないから俺も実際のところははっきりとは判りませんが」
 均目さんはそう云ってから、先程袁満さんが追加注文したたこ焼きが丁度テーブルに来たのを一つ、爪楊枝で刺して口の中に放り込むのでありました。

 頑治さんの歓迎宴会だから、と云う理由で先の居酒屋での一次会同様ここでの割り勘払いも頑治さんは免除されるのでありました。頑治さんは恐縮と感謝を表しながらそれに甘えるのでありました。実際この月は懐具合が心許なかったので大助かりでありました。
 新宿駅で三人と別れた頑治さんは中央線で御茶ノ水駅まで帰るのでありました。話しに依れば日比課長と袁満さんは池袋に出てそこから東武東上線で、均目さんは京王線でそれぞれの住まいに帰るのだそうであります。日比課長は板橋区の成増に家族四人と住んでいるそうで、袁満さんはその先の埼玉の朝霞でアパートの一人暮らしだそうでありますし、均目さんも京王線の千歳烏山駅近くのアパート住まいだそうであります。
 件の四人の中では頑治さんが一番会社に近い処に住んでいると云う事になるのであります。何と云っても歩いて通えるのでありますから。と云う事は当たり前の事として頑治さんは通勤交通費を会社から貰えないのでありましょうが、それはちと残念な気がするのでありました。通勤定期券があれば、例えば休日に何処かへ出掛けるにしても幾らか電車賃を得する場合もあるでありましょうから。いやまあ、それは如何にもさもしい根性と云うべきかと頑治さんはそう云った事を考えるでもなく考えながら、左右の足を互い違いに暫く前に出していると直に本郷給水所傍の自分のアパートに帰り着くのでありました。
 玄関ドアの鍵を回していると中から電話のベルの音が聞こえて来るのでありました。この電話は屹度羽場夕美さん以外ではなかろうと直感して、頑治さんは急いで部屋の中に飛び込むのでありました。趨歩で電話機の前に進んで受話器を取り上げると、果たして夕美さんのもしもしと云う少し尖った声が聞こえて来るのでありました。
「随分遅かったのね」
 由美さんの声はほんの少し怒っているようにも聞こえるのでありました。「八時頃から時々電話を入れていたけど、ちっとも出ないんだもの」
 頑治さんは腕時計を見るのでありました。もう十一時を回っているのでありました。
「ああご免。歓迎会と云う事で会社の人達と飲んでいたんだよ」
(続)
nice!(8)  コメント(0) 
共通テーマ:
メッセージを送る