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あなたのとりこ 15 [あなたのとりこ 1 創作]

 それより何より、この男の姓が夕美さんと同じだと云う事を頑治さんは甚く不愉快に思うのでありました。何処と無く夕美さんが気の毒にすら思えてくるのであります。
「刃葉君、唐目君に業務の仕事を教えて遣ってくれないか」
 土師尾営業部長が指示すると羽葉さんはその指示に返事も頷きもする訳ではないけれど、大儀そうに立ち上がって机の隅のスチールの伝票入れから数枚の紙片を取り上げて、それを頑治さんに渡すのでありました。頑治さんは反射的にそれを受け取るのでありましたが、それは頭に、発送指示書、と書いてあるのでありました。
「付いて来てくれるか」
 刃葉さんが頑治さんに初めて言葉を発するのでありました。特に何の感情も含有しない慎に事務的な云い草でありました。
 頑治さんは先輩社員、それも同じ業務職の男の指示に対してここは謹慎に返事をすべきであろうけれど、刃葉さんの無愛想に張り合う心算は毛頭ないながらも竟、頑治さんとしても愛嬌無しの顔で小さい頷きを返す無礼を働いて仕舞うのでありました。
 刃葉さんに連れられて頑治さんは三階の事務所を出るのでありました。恐らく業務の仕事場たる倉庫にでも頑治さんを連れて行くのでありましょう。
 ビルの一階はエレベーター式の二段建て駐車スペースで、横列三台、都合六台の車が駐車出来るようになっていて、その脇にこの建物の狭い出入り口があるのでありました。
 刃葉さんは一旦建物を出ると駐車スペースの真ん中に止めてあるバンの普通乗用車の横を、体を横にして擦り抜けるようにしながらその奥に進むのでありました。駐車場の奥には大きな両開き引き戸があって、どうやらその中が倉庫なのでありましょう。
 刃葉さんはガラガラと如何にも滑りの悪そうな大音を立てて重い鉄の扉を開くとその中に消えるのでありました。発送指示書を持った頑治さんも後に続くのでありました。
 二十畳程の倉庫の中はスチール棚が壁際に並んでいて、中央にも方形に組んだスチール棚が置いてあり、その狭間が通路となっているのでありました。棚にはこの会社が扱っているのであろう商品が、段ボールに入って余り綺麗に整理されているとは云い難い様で押し込めてあったり、A判全紙の印刷物が重ねてあったり、中に何が入っているのやら良く判らない不規格なクラフト紙包みが積み上げられていたりするのでありました。
 庫内右奥には作業台として使われているのであろう、上の土師尾営業部長が座っているような長い事務机が棚下に据えてあるのでありました。上階に有る机とは違って、この机は如何にも古びていて、一部の塗装が剥げて赤錆が付着していたり、完全に閉まらないのか引き出しが中途半端に引き出された儘になっているのでありました。机上は無数の傷で彩られ、緩衝材に使うのか古新聞やら結束用のビニールバンドの切れ端やら、それに四隅には埃が載っていたりして、片付かない事夥しいと云った有り様でありました。
 一応初出社でありましたから、頑治さんは礼儀上スーツにネクタイ姿で来たのでありましたが、今朝方意気込んで一張羅のその服装を選んだ事を悔やむのでありました。
「梱包とか、やった事ある?」
 少し気後れして庫内を眺め遣っている頑治さんに刃葉さんが訊くのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 14 [あなたのとりこ 1 創作]

「今日からお世話になります唐目頑治です」
 頑治さんが頭を下げると甲斐女史は如何にも億劫そうに頑治さんの方を窺い見てから、無愛想な表情で軽く顎を胸元に引いて見せるのでありました。歳の頃は土師尾営業部長と同じ三十代中頃辺り、無精に胸元に引いて見せた顎は二重で、太り肉と云うのではないけれど体幹も肩や腕の肉付きも豊かで、真っ赤な口紅が嫌に目立つ、やや化粧っ気の多いその顔は何となく肌窶れしているように頑治さんには見えるのでありました。
 頑治さんは土師尾営業部長の重役机に左横辺を接している、甲斐計子女史と向かい合ったデスクに座らされるのでありました。甲斐計子女史の机には印鑑ケースやら帳簿棚が載せてあるから、頑治さんの方から女史の様子は窺えないのでありまあした。
 取り敢えず何も為す事なく云われる儘手持無沙汰に事務椅子に座っていると、玄関の扉が潤滑油不足の小さな軋み音を立てて開かれ、作業服姿の男が現れて頑治さんの方へ歩み寄って来るのでありました。その日は姿の見えない、面接の日にドア開けてくれた社員とは違うけれど歳は同じくらいでありましょうか。ドアを開けてくれた男の柔和さとは違って、頑治さんに歩み寄るその体貌からはまるで挑みかかってでも来るような、一種高飛車な対抗心が放射されているように頑治さんには感じられるのでありました。
「ああ、丁度良かった。今呼ぼうと思っていたところだったよ」
 頑治さんのすぐ傍まで来て、頑治さんを不審そうに見下ろす男に向かって土師尾営業部長が声を掛けるのでありました。
「こちらは今日から業務担当で入社した唐目君」
 土師尾営業部長は作業服姿の男を見ながら頑治さんの方に掌を差し出して見せるのでありました。自分を紹介して貰ったわけでありますから、頑治さんはすぐに立ち上がるのでありましたが、立ち上がってみると男との距離がやけに近いものだから、頑治さんは一歩後ろに引いて男に向かってお辞儀をするのでありました。
「唐目と云います。よろしくお願いします」
 頑治さんの挨拶を無視して、男は頑治さんが今立ち上がったその椅子を自分の手元に引き寄せて座ろうとするのでありました。本来この椅子、と云うかこの席は彼の席で、そこに見知らぬ頑治さんが座っているのを見咎めて、何やら大いに気に入らなくて、それでつまり挑みかかるような目付きなんかして近寄って来たのでありましょうか。
 男は椅子に座ってから顔を横向きに上げて、頑治さんの顔を無表情に見るのでありました。その顔てえものは、頑治さんに対する不快の色に隈取られているのかと云うとそうでもなく、あくまでも無表情と云った風情の内なのでありました。この顔付きからすると、頑治さんが今斟酌したような敵意は殊更持っていないようでもありました。
「こちらは刃葉香里夫君と云って業務を担当している人だよ」
 男が頑治さんに対して何ももの云いしないものだから、土師尾営業部長が横から云うのでありました。刃葉香里夫なる男は、そう紹介されて頑治さんを見上げた儘で瞬きを一回して見せるのでありました。この瞬きが、どうやらこの男のお辞儀代わりの仕草のようであります。随分とまあ無精な挨拶と云うべきでありましょう。
(続)
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あなたのとりこ 13 [あなたのとりこ 1 創作]

 頑治さんは夕美さんの確定不能の表情に対して笑って見せるのでありました。
「それはまあ、そうよねえ」
 夕美さんはコーヒーを一口飲むのでありました。「取り敢えず頑ちゃんがそこで働こうって決めたんだから、働いてみるしかないわよね」
「今の段階では、そう云う事だな」
「じゃあ、まあ、取り敢えずお目出とう」
 夕美さんは持っているコーヒーカップをほんの少し差し上げて、乾杯のような仕草をしてから残ったコーヒーを飲み干すのでありました。
「取り敢えず、有難う」
 頑治さんも顎の上でカップを最終域まで傾けるのでありました。
「お祝いに晩ご飯、奢ってあげるわ」
 夕美さんは語調を弾ませるのでありました。
「おお、それは嬉しいな」
 頑治さんは口元を綻ばすのでありました。それから何か云い淀むように少し俯いてからすぐに夕美さんの目を見るのでありました。夕美さんはそんな頑治さんの素振りにやや怪訝そうな顔色をして見せるのでありましたが、多分頑治さんの口からものされるであろう次の語句に付いては、もう充分に察しているのでありましょう。夕美さんの頑治さんを見る瞳が艶やかな光沢を湛えているのが、その明らかな証拠と云えるでありましょうし。
「今日は泊まっていけるんだろう?」
 頑治さんはそう訊くのでありましたが、妙にぎごちない訊き方ではなく、サラリと自然な感じの口振りだったろうかと、訊いた後に少し不安になるのでありました。
「うん、その心算」
 夕美さんの応え方は全く自然な風でありました。頑治さんの口元に思わず安堵と喜色が交々浮かぶのでありました。

   長い一日

 月曜日は早起きして始業十五分前に初出社してみると、金曜日に主に頑治さんを面接した土師尾営業部長と、お茶を出してくれた女性が既に来ていて夫々のデスクに座っているのでありました。あの時ドアを開けてくれた若い社員の姿は無いのでありました。
 頑治さんは土師尾営業部長の前に行って畏まったお辞儀するのでありました。
「今日からよろしくお願いします」
 土師尾営業部長はそんな頑治さんをニコニコと笑って迎えるのでありました。
「ああ、紹介しておこう」
 土師尾営業部長は軽く頭を下げて頑治さんに答礼した後、長いスチールの重役机左に右横辺をくっ付けて据えてある事務机の女性に目を向けるのでありました。「こちらは経理と庶務を担当している甲斐計子さん」
(続)
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あなたのとりこ 12 [あなたのとりこ 1 創作]

 地下鉄の本郷三丁目駅までは歩いて五分程、JRの御茶ノ水駅へも順天堂病院の前を通って神田川沿いに外堀通りを十分程歩けば到着すると云う交通至便の地で、頑治さんはその至便さに魅かれて大学の三年の時に世田谷の方からここに移り住んだのでありました。当然、頑治さんの通っている大学へも近いと云うのも大いに魅力的でありました。
 世田谷の安アパートに比べれば風呂付でもありますから家賃はぐんと跳ね上がるのでありましたが、二年間のアルバイト三昧でたっぷり貯めた預金と、これから先もアルバイトに精を出せば故郷からの仕送りと合わせて何とか遣り繰り出来ると踏んで、頑治さんは思い切ってここへ引っ越して来たのでありました。引っ越し当時は然したる根拠もなく嫌に太っ腹であったものだから、電話も引いたのでありました。四年生になって就職活動時期にでもなれば、どうせ電話は必要となるでありましょうから。
 ・・・で、夕美さんは部屋の奥の座卓の前に座るのでありました。頑治さんはキッチンに居残って、持て成しに出す紙ドリップのコーヒーを淹れる湯を沸かすのでありました。万事にものぐさな頑治さんながらコーヒーはインスタントではないのでありました。
「職安の紹介?」
 夕美さんがコーヒーカップを座卓に置きながら訊くのでありました。
「そう。意外にすんなり就職が叶って、些か気抜けする心地だね」
「運が良かったのかしら」
「いや、職を探す当人の心映えと、如何にも涼やかな顔付きが良かったんだろうね」
「ふうん」
 夕美さんは頑治さんの戯れ言に対して全く取りあわないような、至極ぞんざいな相槌を打つのでありました。頑治さんの軽口には慣れっこになっているのであります。
「で、働き易そうな会社?」
「それは未だ判らないけど、カリカリしているような雰囲気は無かったかな。やる事もそんなに複雑で難しい仕事じゃなさそうだし、今までやったアルバイトの延長のような感じだし、まあ、だから意外に簡単に見つかったんだろうけどね」
「待遇はどうなの?」
「給料はそんなに高くはないよ。寧ろ同一年齢で比較すると低い方かな。でも能力給とかじゃないし、ノルマなんかもなさそうだし。まあ、営業職じゃないから当たり前かも知れないけど。倉庫業務とか配送や集荷と云う仕事柄、服装も堅苦しくないし、大体が定時に片付く仕事の様だし、ボーナスは年二回出るし、有給休暇も有るそうだし、そう云った説明を受けた限りでは、自分としては働き易い会社だと思えるんだけどな」
「ふうん」
 夕美さんは前と同じ無表情な顔で曖昧な頷きをするのでありました。しかしこれは先程のように頑治さんの冗談をつれなくあしらうためのものではなく、頑治さんの今述べた待遇の概略だけでは、働き易い会社なのかそうでないのかが今一つ明快に判らないと云う、判断不能の表現としての無表情のようでありました。
「ま、実際に働いてみないと、今の段階では何とも云えないけどさ」
(続)
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あなたのとりこ 11 [あなたのとりこ 1 創作]

 大望や目標があってその仕事に就いたと云うよりは、云ってみれば決まった給金と待遇目当ての就職でありますから、嬉しさも中位、と云った辺りでありましょうか。然して就職するに当たっての意気込みや意欲や、それから不安も気後れの方も大した辺りではないのであります。慎に気楽と云えば気楽な感奮するところの少ない就職決定であります。
「じゃあ、明日の昼頃行くね」
 夕美さんが気を取り直した口調で云うのでありました。
「判った。待ってるよ」
 頑治さんの声も少し弾むのでありました。夕美さんと逢うのは一週間ぶりでありますから、これは頑治さんも嬉しいわけであります。夕美さんが受話器を置くのを確かめてから頑治さんは自分の手の受話器を元に戻すのでありました。頑治さんとしては就職決定よりも、明日の夕美さんとの逢瀬の方が遥かに嬉しいのでありました。
 頑治さんは寝るのを止して、急遽部屋を箒で掃き始めるのでありました。それからテレビや電話や本棚に溜まった埃を丁寧に拭うのでありました。夕美さんとの逢瀬のために多少は部屋を綺麗にしておきたいのでありました。しかしそのために如何にも力を入れて部屋をピカピカに磨いたり、一分の隙もなく整理整頓して仕舞うのは憚るのでありました。それでは余りに、頑治さんの自尊心に照らしてみっとも無いと云うものであります。

 夕美さんは午後二時少し前に遣って来るのでありました。大いに待ちかねたと云った顔色を極力隠して、しかし一定の嬉しさはきちんと漂わせて頑治さんが玄関のドアを押し開けると、夕美さんは親し気にこんにちはと少し笑って云うのでありました。
「やあ。さあ、入って」
 頑治さんはドアを押し開けた儘、夕美さんが入り易いように体を横に避けるのでありました。夕美さんは頑治さんに顔を向けながら体を斜にして通るのでありました。仄かな化粧水の匂いが、お邪魔しますと頑治さんの鼻腔に挨拶を送って寄越すのでありました。
 頑治さんの部屋は玄関を入って直ぐに洗濯機、その横に簡易なキッチン、対面はトイレ込みのユニットバスに挟まれた、廊下と云うには余りに短い一間ほどの空間を抜けると六畳程の板の間で、左側の壁一面は本棚が居座り右の壁には整理ダンスとファンシーケース、空いたスペースに白黒テレビと電話機が床に直置きで並び、南正面は出窓があって、その下には安っぽい炬燵が置いてあるのでありました。この炬燵は冬には本来の働きをさせられるのでありましたが、他の季節は正方形の座卓として使われているのであります。
 序に云っておけば本郷給水所近くの、五軒の古民家が軒を重ねるように建っている中の、同じ造作のワンルームの部屋が一階と二階に四軒ずつ並ぶアパートが頑治さんの住処でありました。家が立て込んでいる割に部屋は、狭いながらも道路に南面していて昼間の日差しは充分取り込めるのでありました。勿論その隘路の向こう一画も幾つかの民家が混み合っていて、外の眺めなんと云うものは慎に殺風景ではありました。しかし朝日の明るさの中で目覚める事が出来ると云うのは何となく安定感はあるのでありましたし、若し朝日が入らなければ頑治さんは一日中だって布団の中から這い出さないでありましょう。
(続)
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あなたのとりこ 10 [あなたのとりこ 1 創作]

 そろそろ寝ようかと部屋の片隅の、畳の上に直に置いている、東京に出て来て以来使っている小さな白黒テレビを消した時、これも畳に直に置いている電話がけたたましく鳴るのでありました。こんな時間に電話をしてくるのは羽葉夕美以外にはなかろうと当りを付けて受話器を取れば、果たしてその大学に通っていた時以来の女友達で、頑治さんはこの御明算に、例の卜占の了見から思わず知らずほくそ笑んでいるのでありました。
「どうなった、就職の按配は?」
 受話器の向こうから夕美さんの声が頑治さんの耳の鼓膜を震わせるのでありました。
「うん、決まった」
「へえ、おめでとう」
 夕美さんの弾んだ声は耳内の産毛を一層大きく振動させるのでありました。
「有難う」
 頑治さんは声の抑揚を抑えて努めクールにそう云いながら受話器の向こうの夕美さんに向かって小さくお辞儀をするのでありました。
「何時から働き出すの?」
「来週の月曜日」
「どんな仕事?」
「倉庫で商品の管理とか配送とか集荷とか、雑用とか」
 頑治さんは昼間に聞かされた仕事内容をその儘伝えるのでありました。
「ふうん。で、何て名前の会社?」
「贈答社」
「そう云う名前からするとギフト関係の会社?」
「多分そうじゃないかな」
「あれ、自分が勤める会社の業種も知らないの?」
 電話の向こうの夕美さんが頑治さんの応えに少し呆れるのでありました。
「業種ははっきりしないけど、やる仕事の内容はちゃんと聞いてきたよ」
「ふうん。・・・まあ良いか」
 由美さんの一先ず不得要領に頷く気配が受話器の向こうから伝わるのでありました。「明日ちょっとアパートに行っても良い?」
「うん、構わない」
「詳しい事は明日聞くわ。取り敢えず就職が決まったお祝いをしなくちゃ」
「ああ成程ね」
「あのさあ、折角就職が決まったと云うのに何だかあんまり嬉しくなさそうな口振り」
 夕美さんが少し興醒めの口調になるのでありました。
「いや、そうでもないよ。これで明日をも知れないアルバイト生活から抜け出せるし」
 不安定なアルバイト生活からは抜け出せるけれども、やる仕事の内容は今まで就いてみた様々なアルバイトと然程変わらないかと、云いながら頑治さんは思うのでありました。確かに欣喜雀躍と云う事態ではないと云えばその通りでありますか。
(続)
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あなたのとりこ 9 [あなたのとりこ 1 創作]

 例えば登校中の路で不意に石に躓くとか教科書を忘れてきたとか、その日に返ってきた先のテストの結果が思いの外悪かったとか、友達と言葉の遣り取りが上手くいかなくて意ならず喧嘩になったとか、考えてみれば何かしらの禍事が起こっているのであります。こうなるともう、左手の松葉が勝てば凶事が起ると断定するべきかも知れません。
 然様であるなら、矢張りこれは、吉・凶占い、と云うべきでありましょう。確かに吉・無吉占いよりはその方が卜占としてはすっきりと落ち着いていると頑治さんも思うのであります。そうであるなら頑治さんの松葉を持つ手にも余計な力が入る事になるのであります。次の日が吉であるか凶であるのかが松葉の勝負に懸かっているのでありますから。
 またこの松葉占いが良く当たるのであります。と、頑治さんには身に染みて思われるのであります。松葉占い恐るべし、であります。依って頑治さんはこの密やかで、陰鬱な感奮に満ちた神事の虜とならざるを得ないのでありました。
 松葉の宣託は何を差し置いても第一番目に尊ぶべき明日の道標であり、明日と云う日を無難に乗り切るための予めの指示であるのなら、頑治さんはそれに頼ってのみ自分の生を生きていると云っても過言ではないと思うのでありました。頑治さんの人生は松葉が握っていると云うわけであります。何というロマン主義でありましょうや。
 まあ、兎も角もこういった観念論的性向が一旦身に沁み込むと、ありとあらゆる事象に神意、或いは天の意志を見るようになるのでありました。時間が過ぎて松葉の卜占にも厭きた後でも、頑治さんの心の壁にはこの性向が薄染みのように残るのでありました。
 例えば朝、中学校に行くために靴を履いて左足から玄関を出るか右足から外に踏み出すかで登校路程の吉凶が分かれるとか、バナナの皮を剥く時に四枚に剥くところを三枚に剥き損ねたら近々災いが起るとか、誤差前後十秒以内の三分間で歯を磨き終わらなければ好からぬ事がすぐ先に待ち受けているとか、七秒以内に信号が青に変わらなければ英語のテストの点が悪いとか、まあ、数え上げたら切りが無い位に神託頼みの人生であります。
 慎に窮屈な生き方だとうんざりもするのでありましたが、しかしこの営為の虜となった頑治さんには、これ無くして生きることは不可能に近いのでありました。故意に卜占を無視する、或いは寧ろ挑戦する等と云う勇気は全くないのでありました。そんな事をすればちょっとした凶事どころではない、途轍もない天罰が下されるに決まっているのであります。より小さな禍災さへ甘受していれば、大災へのストレスは免れるであります。
 何が起こってもそこに神の、或いは天の啓示を見る頑治さんは、しかし一面に於いてかなりのナルシストでもあるのでありました。だから普段は、そんな不合理には一顧も与えないリアリストの顔で振る舞うのでありました。あるかないか判らない神の、或いは天の意向に何時も兢々としているなんと云う態は、如何にも恰好が悪いでないではありませんか。しかしまた反面、神、或いは天への裏切りをしてまで敢えて己を修飾しようとする仕業は、これはまた頑治さんの強いストレスになっているではありましたが。
 慎に信心深い、頑治さんでありました。こういった信心深さは一体奈辺にその根があるのであるのかしらと、頑治さんは時々考えてみるのでありました。しかし特段思い当る成長過程上の目印は何処にも見付けられないのでありますが。・・・
(続)
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あなたのとりこ 8 [あなたのとりこ 1 創作]

 まあ確かに、足裏の感触なんぞは慎によろしくはなかったのでありましたが。しかし職安で摺り下がった靴下を引っ張り上げた後から、急に吉凶が逆転したようにも思えるのであります。そうなるとこの何ともイカさない秘かなる修正を境に、凶吉の反転が起ったとも云えるでありましょうか。靴下の摺り下がる無様は、これはもう如何にも目出度くはなかろうと云うものであります。依ってそれは矢張り凶兆であって、靴下を引き上げた事に依り、本日の職探しが目出度い仕儀に決したと云う風に捉える方が妥当性もあろうと云うものでありましょう。頑治さんはそう考えを纏めてから一つ頷くのでありました。
 諸事万端、頑治さんはこのような吉凶占いめいた事を、必ずあれこれ思い巡らして仕舞う傾向があるのでありました。それは遠く、小学生の頃からの抜き差しならぬ人生上の癖、あるいは慎に厳かなる儀式とも云えるものでありましたか。
 切っ掛けは友達と近所の公園で二股松葉を組みあわせて、その両端を引っ張り合って千切れた方が負けと云う遊びに由来するのでありました。単純で他愛のない子供の暇潰しじみた遊びではありましたが、頑治さんは内心大いに燃えるのでありました。何としてでも勝ちを収めなければ、何やらとんでもない災いがすぐ近くの将来、身に降りかかって来るかも知れぬと云う嫌に大袈裟に閃いた予感に打たれていたのでありました。
 家の前の、ネコの額と云うのも烏滸がましい程度の庭には一本の小振りの赤松があるのでありました。それまでは全くの無関心を決め込んでいたのでありましたが、友達との公園での遊び以来、頑治さんの目にその赤松が霊木の如く光を放つのでありました。
 学校から帰ると必ずその赤松の葉を組み合わせて相撲を取らせるのが、頑治さんの欠かせない日課となるのでありました。それに依って明日の吉凶を占うのであります。
 頑治さんは厳粛なる手つきで無作為に二股松葉を枝から取り出し、神官が真榊を扱う如くに恭しくそれを組み合わせ、深く二度程深呼吸して気を沈め、右が勝てば吉、と意中で宣し、左右の手を徐に横に引くのであります。当然左右の手の力加減に偏りがないように細心の注意を払い、神意が正しくこの松葉に降りるようにしなければなりません。
 右が勝てば吉、でありますから右手に持った松葉が二股を保持し続け、左手の松葉が二股を崩壊させれば、明くる日に屹度喜ばしい出来事が何か一つは起こるのであります。若し左手の松葉が勝ったからと云って、やり直しはきかないのが頑治さんの決めたルールであります。後の無い一回勝負であるからこそ卜占にリアリティーが宿るのであります。
 但し左手の松葉が勝ったからと云って、次の日に禍事が身に降り掛かると云うわけではなく、単に吉き事が起らないだけ、と云う風に都合好く頑治さんが自分の気持ちを納得させようとするのは、これはもう偏に頑治さんの小心に由来すると云えるでありましょう。依ってこれは吉・凶占い、と云うよりは吉・無吉占いと云うべきでありますか。
 しかし人間の性根なんぞと云うものは実に弱く出来ているもののようで、吉事がないだけとは云いつつも、しかしどうしても凶事の生成を意識せずにはいられないのであります。そう云えば確かに、左手の松葉が勝った次の日が何事もなく無事に終わるのは案外稀なような気が頑治さんはしているのでありました。強い思い込みからそう感じて仕舞うのだと云われれば、これはもう返す言葉は何もないでありましょうが。
(続)
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あなたのとりこ 7 [あなたのとりこ 1 創作]

 頑治さんが茶に手を出す前に土師尾部長が訊くのでありました。そう訊かれるのでありますから、つまり採用と相成ったと云いう事でありましょうか。
「それは可能ですが、と云う事は、ご採用していただけるわけでしょうか?」
 頑治さんが念のためそう訊き返せば土師尾部長は一つ頷くのでありました。終始無言の片久那制作部長の方を見ると、こちらは表情も変えず頷きもせず相変わらず頑治さんを値踏みするような目で見ているのみでありました。不機嫌な上司、頓馬で鈍い質問をものす上司の会社で大丈夫かしらと、頑治さんは少し考えるのでありました。
 この後に給料とか労働時間、それに有給休暇日数やら年に一度一泊二日の社員旅行があるやらの話しが土師尾部長の方から出るのでありましたが、好条件と云う程ではないにしろ特段頑治さんに不満はないのでありました。元々然程の好待遇を期待して仕事を探していたのではないのではありますし、『蟹工船』並みの過酷な労働を強いられる訳でもなさそうなので、先ずは結構な仕事にありついたと頑治さんとしては思うのでありました。
「では、明々後日の月曜日からよろしくお願いします」
 土師尾部長が頭を軽く下げて見せるのでありました。
「こちらこそよろしくお願いします」
 頑治さんは当然、土師尾部長のお辞儀よりは深く頭を下げるのでありました。
 こうして、職安に求職登録して最初の会社訪問で意外に呆気なく勤め先が決まった事に、頑治さんは少しばかり気抜けする思いでありました。
 オイルショックに続く不況下にも関わらず、頑治さんは別に大志があるわけでもなく、大学時代は就職活動を全くせずに一年間アルバイトをしながら呑気に遊び暮らしたのでありました。学友からは既卒者には就職が益々難しくなると云うのにそんなお気楽な了見でいたら、この先碌でも無い将来しか待っていないぞと散々脅かされたり憐れまれたりしたのでありましたが、そうでもなくこうして、頑治さんにしてみれば慎に順調に仕事が見つかったのであります。まあ、大企業とか好待遇とかを求めなければこのように、大学時代に一生の大事と必要以上に目を血走らせずとも何とかなると云う事でありましょうか。
 帰路の御茶ノ水駅方面への坂道を上りながら頑治さんはそんな事を考えているのでありましたが、ふと気が付いて主婦の友社本館傍の公衆電話ボックスに立ち入ったのは、この就職に於いて世話になった職安の田隙野氏に首尾を報告するためでありました。
「おお、それはお目出とうございます。流石は唐目さんです」
 一体何が流石なのかよく判らないのでありましたが、受話器の向こうで田隙野氏は大いに喜んでくれるのでありました。尤もその田隙野氏の、多分気紛れなヨイショ混じりの言葉に、頑治さんは少しく気分を良くしたのではありましたが。

 行きがけの坂道で靴下が摺り下がったと云う現象は、必ずしも悪い兆候ではなかったようであります。寧ろその日の外出の目的たる職探しの首尾を考えると、吉祥に属するとも取れるでありましょうか。本郷給水所近くの一角にあるアパートに帰り着いて、上着を脱いでネクタイを外しながら頑治さんはそんな事を考えるのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 6 [あなたのとりこ 1 創作]

 頑治さんは取り敢えずそれとなく不快を伝えるために、偉丈夫をさて置いて童顔の方と正面から向かい合う位置に腰をずらすのでありました。こなったら童顔の方とのみこの後の会話を進めるしかないでありましょう。
 この後履歴書の提出を催促されて、頑治さんは童顔の土師尾営業部長の前にそれを置くのでありました。土師尾部長は手に取って暫く眺めてから訊くのでありました。
「趣味は寄席通いとありますが、寄席にはよく行くのですか?」
「はいまあ、偶に、よりは少し繁く、と云った程度です」
 頑治さんとしては趣味の欄に読書とか映画鑑賞とか旅行とかのありきたりな事を記すよりは、寄席通い、の方が多少色気はあるかと呑気に思考してそう書いた迄であり、実はほんの偶に行く程度で、まあ、年に三回以上足を運ぶ事はないのでありましたか。
「笑う事が好きなのですか?」
 土師尾部長が質問を重ねるのでありました。笑う事が好きか、と問われても、はい好きですと素直に頷くのも何となく間抜けた応えのようだし、どだい笑うと云う営為は己の好き嫌いに依ってコントロールされるものではなく、どちらかと云うと生理に近い現象でもあろうから、頑治さんはその質問自体に面食らうのでありました。そんな訊ね方そのものが全く頓珍漢であろうと秘かに興醒めるのでありましたが、しかし曲りなりにも就職面接の場でそう返すのも憚られるので、一応無難な辺りを口にするのでありました。
「まあ、そのように云うとすれば、そんな風にも云えるかも知れませんね」
「と云う事は、貴方は朗らかな性格ですね」
 これにも頑治さんは、ある種たじろぐのでありました。寄席通いが趣味だから笑うのが好き(!)で、そうなら性格が朗らかに違いない、と云う論の路程は、何やらあまりにも大雑把で無粋で、三角形には角が三つあります、と滔々と正面から論じられているような按配で、何となく尻の辺りがムズムズとしてくるのでありました。
 その質問に乗って、はいそうですと応えるのは己が羞恥心にかけていただけないと思うから、頑治さんはこれも曖昧に笑って、頷くとも頷かないとも取れる程に首を微妙に動かして見せるのでありました。不機嫌そうに無言を決めこむ手合いも然り乍ら、こんな一種頓馬な質問を重ねる輩も、実は頑治さんとしては大いに苦手なのでありました。

 ここで頑治さんの前に茶が出されるのでありました。待ってきたのは三十半ばと見える女性で、何処から現れたかと云うと、土師尾部長の座っていた重役机長辺にくっついて二つの事務机が向いあっていた、頑治さんの方からは死角になる方からでありました。二つの向いあった事務机の間には、丁度頭が隠れるくらいの伝票やら帳簿やら印鑑やらを並べる机上棚が立っていて、それ故その女性の姿は隠れて見えなかったのでありました。
 女性は無言でそんざいと丁寧の中間程の、つまり全く事務的な手付きで茶を置くと出入口扉脇のカーテンで仕切られた中へ消えるのでありました。そこには恐らく給湯室か、ちょっとしたキッチンみたいなものがあるのでありましょう。
「さて、来週の月曜日から来て貰う事は出来ますか?」
(続)
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あなたのとりこ 5 [あなたのとりこ 1 創作]

 入ってすぐに受付台を兼ねたスチールの棚が置いてあって、その先には四つの事務机が寄せ集められていて、そこには誰も座ってはいないのでありました。その左横のスペースには如何にも安っぽい応接セットが窮屈そうに収まっていて、四たり一団の机を挟んだ右横スペースには長い重役机と二つの事務机が固められているのでありました。
 重役机に座っていた歳の頃三十半ばと云った、痩せた体を地味なスーツに包んだ坊や顔の男が立って近寄ってくるのでありました。如何にも苦労を知らないお坊ちゃんと云った顔であるものの、重役机に座っていたのでありますから、この男はこの会社の責任ある地位にあるのでありましょう。男は頑治さんに応接ソファーの方に座るように促すのでありました。頑治さんは云われる儘に長椅子の端に腰掛けるのでありました。
「ちょっと待ってね」
 男はそう云って部屋の奥の方に向かうのでありました。奥は通路を空けてパーティション代わりの大きなスチール製のケースに仕切られていて、そこにはまた違う部署があるのでありましょう。棚の上にもやや乱雑に丸めた紙の束やら幾つかの未使用の伝票類らしきクラフト紙の包みやらが積んであって、奥の様子は全く窺えないのでありました。
 因に部屋は都合二十畳程のスペースで、ケースに仕切られた奥が通路から仄見える様子からざっと八畳程、こちら側が十二畳程の広さと推察されるのでありましたか。職安の田隙野氏に聞いたところに依れば従業員十二人の会社でありますから、まあ、このくらいの広さで充分なのであろうかと頑治さんは憶測するのでありました。
 頑治さんが肘掛の付着が緩くなっているソファーに座って待っていると、先の男がすぐに奥からもう一人の男を引き連れて戻って来るのでありました。この男は薄い橙色のワイシャツに地味な褐色のネクタイを締めて、それをこれまた発色の悪い橙色のカーデガンで覆い隠していて、使い古したような焦げ茶色のズボンを穿いているのでありました。重役机の男と違ってなかなかの偉丈夫ではあるものの、艶のない髪の毛が耳を隠す程に長く額にも幾筋か垂れていて、服装のイカさないのも然る事ながら何処か陰鬱そうな面持ちで、折角の偉丈夫を偉丈夫に見せない湿気が体貌に漂っているのであるのでありました。
 男二人は夫々一人掛けのソファーに座って頑治さんと向かい合うのでありました。
「営業部長の土師尾史郎です」
 童顔が先ず自己紹介するのでありました。その後に偉丈夫の方を横目でちらと窺うのでありましたが、偉丈夫は何も云わず背凭れに深く身を引いて頑治さんの顔を凝視しているだけなのでありました。その目は頑治さんを値踏みしているようでもあり、呼ばれてここにこうして座っている事自体が億劫とのふてた意を表明しているようでもありました。
 偉丈夫が何も言葉を発しないのを見て、やや大袈裟にやれやれと云った表情を見せた童顔が代わりに続けるのでありました。
「こっちは制作部の片久那狷造部長です」
 そう紹介されても偉丈夫は愛想の頷きもしないのでありました。こうもつれなくされるとお互いの立場は別にして、初対面の相手に対して幾ら何でも横着と云うものではないかと頑治さんは秘かに憤るのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 4 [あなたのとりこ 1 創作]

「はい。大体に於いてこちらの希望に沿っていると思われますので」
「判りました。では電話して面接日を打ち合わせてください。その旨こちらの方からもこの会社に電話を入れておきますよ」
「どうぞよろしくお願いします」
 頑治さんは会社概要や連絡先を記してある紙片を貰ってから、立ち上がって田隙野氏に深々と頭を下げるのでありました。「田隙野さん、色々有難うございます」
「いやいやどういたしまして。首尾の上々なる事を祈っております」
 田隙野氏はニコやかに笑ってバイバイと手を振るのでありました。

 頑治さんは一時間ばかり職安近くの喫茶店で時間を潰してから飯田橋駅に戻って、乗車券の自動販売機近くに並んでいる公衆電話の受話器を取り上げるのでありました。
「飯田橋の職安から仕事を紹介して貰った者ですが」
 頑治さんが受話器に向かって喋ると、電話に出た向こうの女の人に少し待てと云われ、十秒ほど電子音によるパッヘルベルのカノンを聞かされてから、採用担当者と思しき男が代わるのでありました。男は妙に丁重な言葉遣いで、若し可能ならば今日の午後四時に面接に来てくれぬかと云うのでありました。頑治さんとしては否と云う事も出来ず、それを億劫と思う気も特段無かったものだから、了解の旨あっさり返答するのでありました
 向こうから指定された午後四時には未だ二時間ほどあるのでありました。訪うべき会社は千代田区の猿楽町一丁目にあるのでありましたから、頑治さんは取り敢えず地下鉄神保町駅辺りまでゆるゆると歩いて行って、すずらん通りにある東京堂書店とか冨山房書店や駿河台下の三省堂本店、それに靖国通り沿いの古本屋等をブラブラ冷やかして時間を潰すのでありました。この間、幸いにして靴下の脱出現象はもうないのでありました。
 猿楽町の錦華公園に程近い辺りの、一階が駐車場になっている五階建てビルの三階にその会社はあるのでありました。駐車場横のやや狭い階段を上るとすぐ目の前に訪問先たる「株式会社 贈答社」と云う、白地にゴシック体墨文字のプレートが張ってある、クリーム色の少し汚れた鉄の扉があるのでありました。頑治さんはその扉を遠慮気味に叩くのでありましたが、中からすぐには何の応答も返ってこないのでありました。
 頑治さんが扉を引き開くと、ちょうど同じタイミングで中からも押し開こうとしたようで、内側のドアノブに誰やらの腕が付随してくるのでありました。その腕の持ち主は頑治さんと同じか少し若い年頃の男で、黄色地に茶の縦縞模様のワイシャツと赤と薄草色の斜め右下がりストライプのネクタイを締めていて、その上に肘の辺りに毛玉をかなりの量溜め込んだ、長年日に焼けたような黒いカーデガンを羽織っているのでありました。
「入社面接に来た者ですが」
 頑字さんは男にお辞儀しながら来意を告げるのでありました。
「ああ、はい。どうぞ」
 男はそう云って頑治さんが部屋の中に入り易いように、ドアを片手で開き留めた儘身をドア前で横に開いて通り道を空けるのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 3 [あなたのとりこ 1 創作]

 頑治さんは改めてそんな確認をされて何となく恥じ入るように頷くのでありました。考えてみれば己が吐いた事とは云え、何とも虫の良い、職探しをする者としては慎に不埒な戯れ言のような条件を出したものであります。普通なら呆れられて叱りつけられる、或いはその了見違いをこんこんと説教されて当然の、不謹慎窮まる条件でありましょう。
「こちらとしてもそんな無闇な条件の就職先をあれこれ探していたところでしたが、竟昨日、そんな唐目さんの条件に適いそうな会社から求人が来たのです」
「ほう!」
 そう聞いて頑治さんの方が驚くのでありました。
「但し、上司が冗談や洒落の判る人かどうか、と云う点は確認出来ていませんが」
「ああ、成程。で、その奇特な会社とは、どう云った按配の会社なのですか?」
「ギフト業、と謳ってあります」
「ギフト業とは、一体どんなような業なのでしょう?」
「結婚式の引き出物とか、企業の周年記念品とか販売促進用の品とか、或いは旅行先の観光地のお土産品なんかを取り扱う会社のようですね」
「旅行のお土産、とか云うと例えば観光地の名前の入ったキーホルダーとか、木刀とかペナントなんかを製造している会社でしょうかね?」
「自社で製造している物もあるようですが、扱っている殆どの商品は、他の会社なり製造元から仕入れているようですけどね」
「従業員はどのくらい居るのでしょうか?」
「社長も入れて十二人、となっていますな」
 田隙野氏は手に持っている求人票を見ながら応えるのでありました。「ええと、序に云って置きますが、募集職種は配送及び倉庫業務となっていて、要するに商品を製造元から引き取って来て管理したり、それを配送したりと云った仕事が主ですね。まあ、商品管理の帳簿を付けたりする事はあるでしょうが、概ね小難しい仕事はないと思われます」
「頭脳より力仕事、と云った感じでしょうか?」
「ま、そうですかな。ところで唐目さんは体力には自信がありますか?」
 田隙野氏は頑治さんの体つきを値踏みするような目で見るのでありました。
「頭の方は至って頼りないですが、そちらの方は些か自信があります」
 頑治さんは右腕の上腕二頭筋の力瘤を作って見せるのでありました。
「おお、これはなかなか好都合な力瘤をお持ちで」
 田隙野氏は真顔で大袈裟に感心して、数度頷くのでありました。
「いやあ、それ程でも」
 頑治さんは腕を曲げて力瘤を萎ませないように保持した儘、何となくぎごちない動作で照れ笑いながら頭を掻いて見せるのでありました。
 この後、給料やら就業時間とか有給休暇日数とかの待遇面を縷々述べてから、田隙野氏は頑治さんの顔を覗きこむのでありました。
「どうです、この会社に面接に行ってみますか?」
(続)
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あなたのとりこ 2 [あなたのとりこ 1 創作]

 職安職員内におけるこの田隙野氏の在り様は、云ってみれば頑治さんの趣味にピタリと合っているのでありました。頑治さんにしても、別に胆が据わっているわけではないのでありますが、どこかのんびりしたところがその風情にあるのでありましたから。

 別にちゃんと確認し合ったわけではないのでありますが、しかし頑治さんも田隙野氏も、そこは同類を嗅ぎ分ける鼻の穴の細胞のお蔭か、この人物とは会話が出来るとすぐに直感したのでありました。初回の訪問で頑治さんは躊躇なく、カウンターの中で雁首を並べている相談職員達の中の、田隙野氏の前に歩を進めるのでありました。勿論、立て込んだ中で田隙野氏の前だけが唯一開いている窓口であったのも決定的要素ではありますが。
 確かに必死に職探しをしている者からしたら、そんな事は別に大した事ではないではないかと云った風の田隙野氏の緩い顔つきなんぞは、如何にも場違いなものと映るでありましょう。職安職員として頼りない顔つきと云えばその通りであろうし、相応しからざる顔相と云えばそれもその通りでありますが、しかしこれは別に田隙野氏が悪いわけではなく、責任はそう云う顔に産んだ田隙野氏のご両親にあると云えるのかも知れません。
 いやいやしかし、その人の顔つきを作るのは生まれではなく育ちと己の思想であると云う論に与すれば、田隙野氏自身のせいだとも云えるでありましょうか。依ってご両親の罪と断ずる事も出来ないわけでもありますが、それはまあ兎も角として、こうして頑治さんの仕事を斡旋しようとしてくれているのでありますから実際、田隙野氏はその風采とは別にちゃんと一定の仕事の出来る職安職員とも云えるのでありましょう。
「あれ、靴をどうかされましたか?」
 椅子に腰掛けるなり靴から足を脱して、前屈みをして机の下の見えない辺りで、すっかり脱落して仕舞った靴下を秘かに穿き直している頑治さんの挙動を不審に思ってか、田隙野氏がほんの少し怪訝そうな顔を向けるのでありました。
「いや、別に何でもありません」
 頑治さんは誤魔化すように、まあ、特に田隙野氏に対して体裁を気にする必要もないかとは思うのでありましたが、愛想笑いつつ両の靴下を直すのでありました。好い加減に引っ張り上げるとこの後またもや脱げる恐れがあるので、秘かな作業ながらそこは繊細に、爪先と踵のフィット感を確認しながら修正動作を完了するのでありました。
「唐目さんのご希望は確か、給料とか待遇は特に希望はないが、その日の内にその日の課業が完結するような小難しくない仕事で、格式張った服装をしなくて済む、比較的社風ののんびりした、冗談や洒落の判る上司の居る、あんまりこの先発展しそうにないながらもしかし、なかなか堅実に続いて行きそうな会社、なんと云う、そう云う会社があれば私の方が先にここを辞めて就職したいような、そんなような仕事及び会社でしたよねえ?」
 頑治さんの上体が起きるのを待ってから、気を取り直すように咳払いを一つして、未だ職安職員として敏腕なのかそうでないのかが判る程には付き合いの深くない田隙野氏が、頑治さんの目を至極真面目な顔つきで覗きこみながら訊くのでありました。
「ええまあ、そう云ったような」
(続)
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あなたのとりこ 1 [あなたのとりこ 1 創作]

   松葉

 緩やかな下り坂に差しかかると、唐目頑治さんの靴の中でこのところ時折起こる異変が始まるのでありました。それは決まって、それ迄無表情であった頑治さんの眉宇に苦悶の色を浮かしめるのでありました。頑治さんは歩を止めないながらも、舌打ちの音を隠す事もせず、互い違いに前に出る自分の足下に視線を落とすのでありました。
 靴の中で靴下が、歩の重なりに同調しながら段々と脱げていくのであります。今朝心急いていたので偶々、口の緩くなっている靴下を装着して仕舞ったようでありました。
 頑治さんの所有する十足余りの靴下の中に二足だけ、その要注意の靴下があるのでありました。穴も開いていないものだから、洗濯して捨て惜しみに引き出しの中に仕舞い続けてきたのでありますが、選りに選って気が急いでいるこの今朝に限ってあの忌々しい靴下を選んで仕舞ったとは、何たる不仕合せでありましょうか。
 足裏に這う我慢ならぬ不快に頑治さんは立ち止まって、土踏まず辺りに秘かに蟠る靴下を引き上げようかと余程思うのでありましたが、しかし往来の真ん中でそのような無様を仕出かすのも、これもまた世間への体裁に照らして、断じて我慢ならぬ仕業と云うものであります。頑治さんはここが辛抱のしどころと観念するのでありました。
 駅までこの儘平気な顔で歩き切って電車の座席に座ったら徐に何気なく、ごく自然な感じで靴下を引き上げれば、その方が往来での不格好よりは未だ許容出来る不格好と云うものでありますか。ならぬ我慢を今少し我慢するのが我慢の神髄と云うものであります。
 しかしこの頑治さんの目論見は無惨に打ち砕かれるのでありました。乗りこんだ電車が満員で、座席に座るどころか身動きも儘ならないと云う在り様なのでありました。これは何たる不運、嘆くも疎かなる間の悪さと云うものであります。家を出てすぐにこんな不愉快を蒙るとは、何とまあ幸先の悪い事でありましょうか。

 結局、飯田橋の職安に着くまでに頑治さんの両足の靴下はすっかり足部から脱落して、靴先に詰め物のように固まって頑治さんの指先を不快に圧迫するのでありました。
「どうも、唐目ですが、何か良い就職先でも見つかったのでしょうか?」
 頑治さんはここ暫くの職安通いですっかり馴染みになった、田隙野道夫、と云う名札を首から下げた職員の前の椅子に座りながら訊くのでありました。
「ああこれはこれは唐目さん、早速にお越しいただいて恐縮です。お気に召すかどうかは判りませんが、唐目さんのお出しになった条件にほぼ合致するようなしないような求人がまいりましてね、それでご足労願ったと云う次第ですわ」
 田隙野氏は慎にニコやかな顔を向けるのでありました。こういう処の職員にありがちな高飛車で、人を見るに自力で職も探せない無能者を見下すような目線なんぞが、この田隙野氏には全くないのでありました。しかも妙に殺伐とした、軽口でも云おうものなら顰蹙を買いそうな安定所の雰囲気からも何となく超然としている風なのでありました。かと云って決して仕事が投げ遣りでもなく、親身でないわけでもないのであります。
(続)
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