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あなたのとりこ 5 創作 ブログトップ

あなたのとりこ 121 [あなたのとりこ 5 創作]

 この女史の変化に山尾主任は立ち上がろうとする動作を中断するのでありました。山尾主任は中腰の姿勢の儘、那間裕子女史の方に視線を向けるのでありました。那間裕子女史はその山尾主任を横目で見上げながら続けるのでありました。
「この六人の面子でこうやって一緒にテーブルを囲んでお酒を飲むなんて事、多分今まで一度も無かった事じゃないかしら?」
 那間裕子女史は今度は袁満さんの方に視線を移すのでありました。
「そうね。考えたらそうかな」
 視線を向けられた袁満さんが頷いて見せるのでありました。
「だったら冬のボーナスの話しは別として、折角なんだから親睦会って事にして、もう暫く他愛も無いお話しでもしていって良いんじゃない?」
 那間裕子女史は中腰姿勢の山尾主任の方にまた目を向けるのでありました。
「それは別に構わないよ、折角酒も料理も注文したんだし」
 先ず袁満さんが賛意を示すのでありました。
「他の人は?」
 那間裕子女史は均目さんと出雲さんに視線を回らすのでありましたが、二人は見られた順に「いいですよ」「俺も構わないっス」と頷くのでありました。最後に頑治さんが女史の目に捉われたのでありますが、頑治さんも特に異を唱えるべき理由も無かったし大いに腹も空いていたものだから、右に同じの頷きを返すのでありました。こう云う三人の様子を見て、山尾主任がようやく尻を再び座布団の上に落とすのでありました。

 頑治さんは入社以来那間裕子女史とは挨拶以外はほんの数語しか、それも総て仕事絡みの数語しか言葉を交わした事は無いのでありました。その数少ない言葉の交換からの印象でしかないのではありますが、那間裕子女史はなかなかお高く止まった、多分誰彼を問わず話している対象に対する警戒心からでありましょうが、言葉の端々に何時も嫌な圭角の現れる喋り方をする、出来ればあまりお近付きになりたくないタイプの女性と云う感じでありました。喋っていてもちっとも打ち解けた気配が見られないのであります。
 何を初っ端からそんなに警戒してくれているのか、その心根が頑治さんには良く判らないのでありました。何はさて置き人の好き嫌いの感情が先行して仕舞って、嫌いとなったらとことん無愛想に相手をあしらおうとするのでありましょうか。しかしまたどうして、或いは自分のどう云うところが那間裕子女史に嫌われたのか、頑治さんにはさっぱり覚えが無いのでありましたし、これはもう生理的嫌悪と云うところなのでありましょうか。
 まあそんな訳でこの女史とは一緒に酒を飲む機会なんぞは一度も訪れないであろうと思っていたのでありましたが、計らずしもここでこうして杯を遣り取りする事になろうとは一体全体何の因果であろうかと、頑治さんが秘かに考えを回らすような回らさないような顔で横に座る均目さんからビールを注いで貰っていると、均目さんのそのまた向こうに座っていたその当の那間裕子女史が、お辞儀をするように上体をやや前に傾がせて、間の均目さんを遣り過ごして頑治さんの方に顔を向けて声を掛けてくるのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 122 [あなたのとりこ 5 創作]

「唐目君は均目君と同い歳だったわね?」
「ええそうです」
 頑治さんもやや上体を前のめりにして、挟まれた均目さんの顎の前で那間裕子女史と言葉の遣り取りをするのでありました。均目さんは二人の邪魔にならないようにと慮ってなのか、二人とは逆に上体を後ろに逸らせるようにしているのでありました。
「この前の昼休みに二人で喫茶店から出て来るところを目撃したわ。仲良さそうね」
「同い歳の気安さから、均目君には色々懇意にして貰っています」
 ここ迄会話したところで、間に均目さんを挟んで言葉を交わすのが煩わしくなったのか、那間裕子女史は舌打ちしながら立ち上がって均目さんを自分が座っていた席に押し遣り、均目さんと頑治さんの間に尻を落とすのでありました。頑治さんと均目さんで那間裕子女史を挟むような位置取りになるのでありました。
 頑治さんは那間裕子女史のグラスにビールを注ぎ入れるのでありました。
「那間さんは色々多趣味な方だと聞いていますが」
 那間裕子女史の返杯を受けながら頑治さんが話し掛けるのでありました。「ジャズダンスとか、フラメンコギターだとか、水泳とか、スワヒリ語の勉強とか」
「均目君に聞いたの?」
「ええそうです」
 頑治さんが頷くと那間裕子女史は均目さんの方に顔を向けるのでありました。
「何か余計な事とか云っていないでしょうね?」
 そう問われた均目さんは顔と、グラスを持っていない方の掌をヒラヒラと何度か横に振って見せるのでありました。
「勿論それ以外の事は云っていませんよ。第一、他の事とかはあんまり知らないし」
「そう? それなら良いけど」
 那間裕子女史は目を均目さんから離してグラスを傾けるのでありました。「酒癖が悪いだとか、結構な男好きだとか、遅刻の常習犯だとか、期限通りに仕事を終わらせた例がないとか、料理とか掃除とか大凡女らしい仕事が出来ないだとか、いつも約束した時間に三十分以上は遅れるヤツだとか、最近男に裏切られて落ち込んでいるとか」
「そんな事俺が喋る訳がないじゃないですか。第一最近男に裏切られたとか、そんな那間さんの個人的な事なんか俺は大して知らないんだし」
 均目さんはもう一度顔と掌を振って見せるのでありましたが、那間裕子女史はビールグラスを傾斜させる作業に忙しく、均目さんの抗弁なんか上の空で全く聞いてはいないようでありました。女史の空いたグラスに頑治さんがまたビールを注ぎ足すのでありました。成程その飲みっ振りからすると大酒飲みであるのは確かな事のようであります
「スワヒリ語の勉強をやっているんですか?」
 頑治さんが訊くのでありました。
「そう。三鷹に在る外国語学校に通っているの」
「仙川駅の近くに在るアジア・アフリカ語学院ですか?」
(続)
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あなたのとりこ 123 [あなたのとりこ 5 創作]

「仙川駅の近く、と云うにはかなり遠いけど、でも、そこよ。良く知っているわね」
「大学時代の友人が一時その学校に通っていた事があるので、名前は知っています」
「ふうん。唐目君は通わなかったの?」
「ええ。俺は外国語の勉強はあんまり好きな方じゃないですから」
「那間さんは来年か再来年、アフリカのケニア辺りに旅行する予定だから、それで今必死にスワヒリ語を勉強しているんだよ」
 均目さんが女史の事を良く知らない割りにはそんな事を紹介するのでありました。
「へえ、ケニア旅行ですか」
 頑治さんは一応礼儀から感心して見せるのでありました。ケニア旅行と云うだけで特に感心するべき理由は無いであろうとは思うのでありましたが。
「そう。大学時代の友人と前から約束しているの」
「なんでまた、ケニアなんですか?」
「これでもあたし大学時代は一応、探検部に入っていたのよ」
「ほう、探検部ですか」
 頑治さんはまたもや無意味な感心をして見せるのでありました。その頑治さんのサービス精神に意を得たのか那間裕子女史は大学時代の探検部での冒険譚やらを披露してくれるのでありました。それからハワイだの合衆国本土だのヨーロッパだのの旅行が如何につまらないかとか、どうせ海外に行くのならアフリカか中央アジアか南極辺りに行くべきだとか、女史独自の海外旅行論を頑治さんの前に披歴して見せるのでありました。
 何かと奇を衒う傾向大なるものがあるし、所謂先進国への旅行をなんでそんなに毛嫌いして見せるのか頑治さんには理解不能でありましたが、まあ、那間裕子女史がそう云うのなら頑治さんが、賛意を示す謂れは無いけれど、それはそれで別に反駁するような類の話しでも無いでありましょう。その決めつけとか偏見とか、ある種の見栄の強い話し振りに些か辟易とする部分はあるにしろ黙って承って置けば良いのでありますし。
 それより何よりその話しの内容は別にして、頑治さんには大いに気になるところがあるのでありました。それは竟々話に熱が入るためか那間裕子女史の体が次第に頑治さんのすぐ傍に接近して来て、女史の胡坐に組んだ足の尖った膝が、テーブルの下で頑治さんの胡坐の大腿部外側に強く押し付けられるような按配になった事でありました。
 そんな接触なんぞには意識がまるで無いためか、それとも敢えて態とそう云う風にしているのか、那間裕子女史は膝の接触を解消しようとはしないのでありました。むしろ体の角度に依って女史の膝が頑治さんの太腿の上に乗り上げている場合もあるのでありましたし、互いの太腿が広い面積で密着するような事態も現出するのでありました。
 那間裕子女史の体温がジーパン越しに頑治さんの脚に浸透して来るのでありました。頑治さんは何となく内心オドオドとするのでありましたし、ちょっと艶めいた気分にもなるのでありました。何気なく接触を解消する事も出来たでありましょうが、そんな事をすると那間裕子女史が全く気にもしていない些事に、頑治さんが過剰反応をしたように捉えられて仕舞うのも何となく癪なような気もするのであります。
(続)
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あなたのとりこ 124 [あなたのとりこ 5 創作]

 頑治さんは居心地悪そうに那間裕子女史との脚の接触を、勿論その気持ちを噯にも出さずシレっとした顔で遣り過ごしているのでありました。まあ、このような意図しない偶然の女性との接触を歓迎する心根も、頑治さんの内には無い事も無いのでありましたか。

 この脚の接触は頑治さんがトイレに行こうと中座する時にようやく解消されるのでありました。それに頑治さんが立ち上がって那間裕子女史の背後に移動すると、頑治さんは更に驚くべき光景なんぞを目にしたのでありました。
 それは那間裕子女史を挟んで頑治さんの反対側に座っていた均目さんの胡坐の膝の上に、女史の片手が極自然な様子で載せられていたのであります。テーブルが陰になっていて明快には確認出来なかったけれど、しかし確かに那間裕子女史の片手は均目さんの膝上に在ったように見えたのでありました。何やら見てはいけないものを見たような気になって、頑治さんは目を背けて早々に座敷から下りてトイレへと向かうでありました。
 あの那間裕子女史は実はなかなかの食わせ者なのかもしれない、と頑治さんは放尿しながら考えるのでありました。一方で頑治さんに挑発的なちょっかいを出しながら、一方で均目さんの方にもちゃっかり媚態を示しているのであります。いや、今の段階ではそのようにも考えられると云う事以上ではないのでありますが。
 それにひょっとしたら均目さんと那間裕子女史は良い仲なのかも知れません。それも恐らく那間裕子女史の絶対的なヘゲモニーの下で。
 那間裕子女史は二人の関係に縛られる事無く奔放に振る舞って、それを均目さんが苦々しくかそれとも大きな包容力で受け止めていると云った二人の見取り図も想像出来るのであります。まあこれも、今のところ頑治さんの勝手な憶測以上ではないのでありますが、しかしこう云う頑治さんの勘は意外に的を射ている場合が間々あるのでありました。
 頑治さんが座敷に戻ると那間裕子女史は均目さんの傍を離れて、今度は袁満さんと出雲さんの間に座っているのでありました。そこではどちらの膝にも那間裕子女史の手は載ってはおらず、体と体の間隔もある程度の遠慮を表明したような接近具合でありました。
 頑治さんが元の席に座るとすぐに那間裕子女史はまた横に遣って来るのでありました。今度も横座りにした那間裕子女史の膝頭が頑治さんの大腿に触れるのでありました。
 明らかに袁満さんと出雲さんの間に在った時とは機嫌も様子も違って、如何にも親密な感じであります。その後、先程のアフリカ旅行の話しやらフラメンコギターの話しをしている時も、那間裕子女史は屡頑治さんの膝を掌で打ったり、肩先を叩いたり、二の腕を触ったりするのでありました。要するに頑治さんが居ない間ほんのちょっと袁満さんと出雲さんの処に愛想をしに行って、頑治さんが戻って来ると待っていたようにすぐに頑治さんの傍に座ると云うのは、明らかに頑治さんの方に袁満さんや出雲さんより、それにまた均目さんよりも、那間裕子女史の興味が多くあると云う左証になるでありましょうか。
 付き合いとして頑治さんは袁満さんや出雲さんより大いに短いと云うのか、今日初めて那間裕子女史と仕事以外の話しを交わした端であると云うのに、この隠そうともしない頑治さんへの那間裕子女史の好待遇は一体どう云う了見からなのでありましょうや。
(続)
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あなたのとりこ 125 [あなたのとりこ 5 創作]

 この日の会合は二時間程でお開きとなるのでありました。当初の集まった目的からすれば何の成果も無い単なる飲み会と云う事になったのでありますが、頑治さんとしては日頃あんまり交流の無い社員の気心が知れる好い機会ではありました。特に那間裕子女史とのインフォーマルな席での接触は、意外な女史の側面を見せられた思いでありましたか。
 随分お高くとまった、会社の人間なんぞには興味の欠片も持っていない人だと云う先入観があったのでありましたが、案外そうでもないようであります。まあしかし同僚の山尾主任とは全く言葉を交わす事も無く、隣同士に座る事も無かったのは女子の彼の人に対する好悪の感情をはっきり表わしているようにも見えるのでありました。
「何だか飲み足りないから、これから新宿で飲み直しよ」
 居酒屋を出て神保町交差点の地下鉄駅入り口辺で、那間裕子女史は頑治さんと均目さんに云うのでありました。声を掛けたのは頑治さんと均目さんだけで、他の人は誘わない心算のようでありました。日頃の親密度から均目さんと、それから本日をもって親密に付き合っても良いとの判断を得た頑治さんと三人での二次会と云う按配でありますか。
 那間裕子女史は端から営業部の袁満さんと出雲さんは誘わない心算のようでありますし、同じ制作部ながらも山尾主任も除外と云う了見のようであります。二次会のお誘いを受けた栄誉は忝いのではありますが、頑治さんは今一つ、どうして自分如きが那間裕子女史の歓心を得る事が出来たのか未だ良く判らないのではありました。

 三人は新宿に出ると、昼間はジャズ喫茶で、夜になると酒場となると云う靖国通り沿いの商業ビルの地下に在る店に入るのでありました。那間裕子女史も均目さんもそこは馴染みの店のようでありました。ひょっとしたら好い仲の二人は、会社帰りに二人でよくその店に立ち寄るのかも知れないと頑治さんは憶測するのでありました。
 丸いテーブル席を三人で囲んで那間裕子女史はジントニックを、均目さんはウィスキーのオンザロックを、それに頑治さんはウィスキーソーダを注文するのでありました。つまみ物はピーナッツとバタープレッツェルと割いたスルメと云う、頑治さんにしたら何の腹の足しにもならない物でありました。ここは凝った料理は出ない店のようであります。
「唐目君はなんでウチの会社に就職したの?」
 那間裕子女史がかなりの音量で後ろに流れるジャズのレコードの、小節の間隙を突くようにして頑治さんに訊くのでありました。
「いやまあ、特にこれと云った理由は実は無いのですが、飯田橋の職安で紹介されて、適当かなと思って面接を受けたら採用となったのです」
「ふうん。意外とお手軽に選んだと云う訳ね」
「まあ、そう云うとすれば全くそうですかね」
「あたしは新聞の求人広告よ」
「俺もそうだな」
 均目さんが那間裕子女史の隣で頷くのでありました。「営業の袁満さんも出雲君も飯田橋の職安派だと云っていたかな」
(続)
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あなたのとりこ 126 [あなたのとりこ 5 創作]

「制作部は新聞の求人広告で、他は職安でと云う採用の決まり事ですか?」
「別に決まり事じゃないと思うけど、何となくそんな風だよね」
 均目さんが那間裕子女史に同意を求めるのでありました。仕事中は均目さんは先輩後輩及び歳上歳下の間柄から那間裕子女史とは敬語を使って話すのでありましたが、一端仕事を離れるとぐっとくだけた話し振りのようであります。これも二人が好い仲である事の左証と、勘繰れば勘繰る事の出来る言葉遣いと云えなくもないでありましょうか。
「ウチの会社に将来性はあると思う?」
 那間裕子女史はそんな話題に移るのでありました。
「さあどうでしょう。入社し立ての俺には判りませんが」
「はっきり言って無いわよ」
 単刀直入と云えば慎に単刀直入であります。「あたしが入社して以来、多少のムラはあるにしても業績はずっと下降しているわよ」
「でも去年は共済組合関連の特注仕事で羽振りが良かったけど。年二回のボーナスも結構出たし、久々に社員旅行もあったし。まあ、俺は最初の社員旅行参加だったけど」
 均目さんが那間裕子女史の観測に少しの異を唱えるのでありました。
「あれは全くのフロックよ。そんな話しが片久那制作部長の学生時代の知り合いから偶々舞い込んで、一時的に忙しかっただけ。ウチの営業が取ってきた仕事じゃないわ」
「まあ、それは確かにそんな経緯だったけど」
「大体ウチの営業は運頼みで、それに無駄が多いのよ」
 那間裕子女史は一杯目のジントニックを飲み干すのでありました。「適当に取引先に顔出しして、あわよくば何か仕事を貰おうとするだけ」
 これはどうやら土師尾営業部長と日比課長がやっている都内営業の事のようだと、その辺りは頑治さんにも判るのでありました。
「それもただ相手の会社に顔出しするだけで、例えば接待だとかして相手にしっかり食い付こうとはしていないしね、確かに。単なる気紛れな御機嫌伺い以上では無いよな。土師尾営業部長が無類のしみったれだから、その辺に金を全く遣わない」
「あっさりしていると云うのか、淡々として強引、強欲ではない、と云う事かな」
 頑治さんが別に義理も無いのでありますが擁護の言をものすのでありました。
「良く云えばね。しかし要するにしたたかな計画の下に積極的で戦略的な営業を展開しないと云う事さ。お殿様商売みたいなものでのんびりにも程があると云うものだ」
「景気が良かった時代はそれでも構わなかったけど、この不景気のご時世ではそんなの通用しないわよ。それでいてその反省も無くて何時もあたふたして、土師尾営業部長の方は日比さんの、日比さんは土師尾営業部長のせいにするだけ。二人共頭が悪いのよ」
 那間裕子女史は容赦が無いのでありました。
「袁満さんとか出雲さんの出張営業の方はどうなんですか?」
 頑治さんがそちらの方に話しを向けるのでありました。
「ああ、そっちもあの二人に営業力もやる気も無くてちゃらんぽらんだからじり貧よ」
(続)
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あなたのとりこ 127 [あなたのとりこ 5 創作]

 こちらの方にも那間裕子女史は辛辣でありました。「どんどん新規を開拓しようと云う気も無いし、向こうに何か云われたりしたら云われたなりにオタオタしているし」
「まあ、広いエリアを車で順に回って、と云う昔の富山の薬売りみたいな仕事だから、顔出しの頻繁さも限界があるし、持ち込む商品の数にも限りがあるからね」
 均目さんが袁満さんと出雲さんの肩を持つのでありました。
「電話と云う道具があるんだから、それを上手に使って、もっと効率的に出張営業すれば良いのよ。仕事に何の工夫もしないで相も変わらず非効率な事ばっかりしているんだもの。それじゃあ売り上げも何も延びる訳がないわ」
 那間裕子女史はもどかしそうな口調でそう云うと、近くを通ったウェイターにジントニックのお代わりを注文するのでありました。
「でも袁満さんや出雲さんのお得意先だろう地方の旅館とかお土産屋さんから、小口ながら品物を送ってくれと云う注文の電話も結構頻繁にあるじゃないですか」
 頑治さんが自分の発送仕事の実体からそんな事を云ってみるのでありました。
「そう、電話注文で在庫のフォローは出来るのよ。それなのに態々車で回って品物を置いて来るなんて仕事も同列にやっているのよ。非効率極まり無いわ。その分の余力を新規開拓に回せばもっと売り上げは伸びる筈じゃない」
「まあ、それは考え方としてはそうだけど、でも旅館やお土産屋は相当種類の商品を扱っているから、ウチの商品が在庫薄になったってそれはそれでほったらかしにされるかも知れない。ウチの商品がその店の中で断トツの売り上げがあるのならば兎も角、全体の売り上げから見たらウチのが品切れしたとしても然して影響がないとなれば、放置されてその儘縁切れになって仕舞う事だってあるさ。そうならないために顔出しも必要だろうし」
 均目さんが多少及び腰ながら食い下がるのでありました。
「それはそうだけど、つまり要は効率の問題だと云っているのよ」
 那間裕子女史は新たに頼んだジントニックが自分の前に置かれると、早速そのグラスを取り上げて一口付けて口の中を湿らせるのでありました。「注文数をちゃんと管理出来ていればその辺の動向とかは掌握出来る筈よ。ぼちぼち必要だなと判断した時に効率的に顔出しすれば良いのよ。そのくらい頭を使っても良いんじゃないのって話し」
「でも商売相手はかなりの遠隔地にあるんだから、顔出しが必要な所が丁度その出張時に同じルート上に固まっているとは限らない。一軒の遠く離れた顔出しが必要な店のためにそこまで車を走らせるのは、それこそ非効率と云うものじゃないかな」
「だから要するにちゃらんぽらんじゃなくて、頭を使って手際良く営業しろって事」
 那間裕子女史も引き下がらないのでありました。
「制作部の俺達があれこれ営業の仕方に口を出すのは僭越と云うものじゃないかな。営業は営業で俺達の計り知れないような小難しい苦労もあるんだろうから」
「進取の気概とか工夫とかが無いのよ、ウチの営業には。だから売り上げが落ちてもオロオロするだけで、今までやっていた事を修正する思考力とか勇気が無いの」
「そう云うのなら、那間さんが営業をやってみれば」
(続)
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あなたのとりこ 128 [あなたのとりこ 5 創作]

「そんな気は更々無いわ」
 那間裕子女史はあっけらかんと掌を横に振って見せるのでありました。「営業としてあたしはウチの会社に入ったんじゃないもの」
「でも営業の仕方に一家言あるようじゃないか」
「見ていたらもどかしくなるのよ。ただそれだけ。前に云ったけどあたしは元々旅行雑誌の編集がやりたかったの。ウチの会社は地図も作っているから、云ってみれば地図作成とかオフセット印刷の知識とか、グラビアの目利きのスキルを習得しようと思って入社したんだもの。まあ、そうじゃない詰まらない仕事もやらされているけどね、現実には」
 那間裕子女史は二杯目のジントニックのグラスを一気に空けるのでありました。

 那間裕子女史のジントニックの一気飲みに付き合う心算は無いのでありましたが、頑治さんもグラスに残ったウィスキーソーダを干すのでありました。
「お代わりを頼みましょうか?」
 頑治さんが気を利かせてすぐさまそう訊くと那間裕子女史は一つ頷くのでありました。頑治さんはウェイターを呼んで、ジントニックとウィスキーソーダのお代わりを注文するのでありました。未だグラスの底の方に少量残している均目さんを見ると、均目さんは微かに首を横に振ったので、均目さんの分は注文しないのでありました。また後からオンザロックではなくて他のものを注文する心算でいるのかも知れませんし。
「へえ、旅行雑誌の編集がやりたかったんですか」
 頑治さんがまたもやここでも無意味な感心顔をして見せるのでありました。こう云う余計な頑治さんのサービス精神が、那間裕子女史の舌の回転に滑らかさを与えているのでありましょうが、まあ、後輩の役目として大した事も無い先輩の一々の言動に感心したり驚いて見せるのは、高校生時代のラグビー部での上級生に対する態度として養われたものでありましょうか。上級生を気分良くさせるのは下級生たる者の役目であると云うのは、無批判にごく当たり前の弁えとしてその時に習得させられた癖のようであります。
「まあ、旅行雑誌に限らないけど、あたしは兎に角編集者になりたかったのよ」
「編集者と云ったら今のご時世、なかなかの花形職業ですよね」
「大手の出版社はね。大学の同級生で大手に入った人も何人か居るけど、聞けばなかなか派手な仕事が多そうよ。それは勿論ちまちました下働きみたいな仕事も大手とは云えあるんでしょうけど、それでも時々羨ましいと思う時があるわ。ウチみたいな零細企業は大凡編集者らしい仕事なんて無いも同然よ。名前の売れた人との付き合いも全然無いし」
「第一ウチは、今は出版社じゃないから」
 均目さんが同調するような、或いは水を差すような事を云うのでありました。
「そうね。今の社長が大日本地名総覧社を引き継いで、その後暫くして社名を変えた時点から出版社じゃなくなったわよね、残念ながら」
「那間さんは大学の同級生の手前、ウチが出版社じゃなくなった事が悔しいんだよね」
「別に悔しくはないけど」
(続)
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あなたのとりこ 129 [あなたのとりこ 5 創作]

 那間裕子女史はジントニックを一口、と云っても殆どグラス半分くらいの量を口中に銜んで、やや頬を膨らませてからそれを二口に分けて飲下するのでありました。
「でもその話をする時には何時も、悔しそうな口振りで話すじゃないか」
「まあ、人は人よ。それにあたしだって将来一廉の編集者になって見せるわ」
 なかなか勝気な、プライドの高い女性のようであります。「だから要するに唐目君、将来性の無いウチの会社は適当に見限って、もっとやり甲斐のある仕事を探したほうがいいかも知れないわよ。入社し立ての唐目君にこう云う事を云うのは何だけど」
「那間さんは近い将来にウチの会社を辞める心算なんですか?」
「ま、そうね。そんなに長く居る心算は無いわね。目的の、地図編集とかグラビアやイラストの目利きのスキルがある程度習得出来たと思ったら、他の会社を探すわ。まあ、フリーでも構わないし。ウチの会社に思い入れなんか別に無いもの」
 那間裕子女史はクールにそう云って、グラスに未だ半分程残っていたジントニックを一気に飲み干すのでありました。あんまり目立たないながら舌骨が二回上下したところを見ると、またこれも二口に分けて食道を通過させたのでありましょう。
「会社への思い入れと云う点では、俺もそんなに無いかな」
 均目さんはグラスを空けて、それから今度はウィスキーのオンザロックではなく那間裕子女史と同じジントニックを注文するのでありました。
「そうすると均目君も別の会社に編集者として再就職する心算なのかな?」
 頑治さんが訊くと均目さんは首を傾げて見せるのでありました。
「いや俺は、別に編集者に拘ってはいないよ。まあ、希望を云うなら、少ない労働で多くの実入りがあるし仕事なら何だって構わないよ」
「そんな都合の好い仕事なんて今のご時世、何処にも無いわよ」
 那間裕子女史は鼻で笑うのでありました。「それより何より、均目君はその細っこい体を鍛え直して、どんな労働にも耐えられるような頑健な体を創る方が先ね」
 那間裕子女史はそう云ってから徐に頑治さんの方を見るのでありました。「唐目君は結構良い体をしているけど、何かスポーツをやっているの?」
「いやあ、今は何も。高校生の時にラグビーをやっていましたが、大学の四年間は特に運動らしい運動はしませんでしたねえ」
「でも。腕なんか均目君の二倍の太さがありそうね」
 那間裕子女史が手を延ばして頑治さんの上腕に無遠慮に触るのでありました。それから両手を使って太さを測って見たり、上腕二頭筋や肩の三角筋を摘んだりするのでありました。頑治さんは夕美さんにすら態々そんな事をされた記憶が無いので、少しドギマギするのでありましたが敢えて腕を引っこめる迄はしないのでありました。
 均目さんの方をたじろぎながらも窺うと、均目さんは頑治さんと那間裕子女史のじゃれ合いのような光景をすっかり無視して、来たばかりのジントニックをゆるりと傾けているのでありました。そうはしているけれどひょっとしたら内心は面白くないのではないかと頑治さんは勘繰るのでありましたが、特にそう云う風情は見えないのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 130 [あなたのとりこ 5 創作]

 そんな均目さんの様子は、那間裕子女史と均目さんが別にデキていると云う訳ではないと云う証明のようにも頑治さんには思えるのでありました。しかしだからと云ってこの儘那間裕子女史の自分の腕への接触を許し続けるのは、何やら夕美さんと云う存在に対する忠義立て上、慎に律義でないような気もしてくるのでありました。
 頑治さんはそれとなく那間裕子女史の接触から自分の腕を遠ざけるように、那間裕子女史に対して背中を向けるようにほんの少し体を捻るのでありました。如何にもはっきり接触を拒否したと思われるのも申し訳無い気がするものだから、頑治さんはその動きの延長から、腰の捻転運動及び肩の内転ストレッチのような動作を始めるのでありました。
 この期で急にそんな事を始める方が余程不自然であろうかとも思うのでありましたが、まあ、その敢えての不自然さを以って那間裕子女史に自分の腕への接触を控えて貰いたいと云う頑治さんの意をやんわり伝える事が出来れば、それはそれでOKでありますか。これは一応頑治さんの、会社の先輩に対する気遣いであります。

 ある時点から兆候も無く、那間裕子女史は急に寡黙になるのでありました。それとなく窺うと瞑目して首を項垂れているのでありました。なかなかハイピッチでジントニックを呷っていたから、ここに来て一気に酔いが回ったものと推察されるのでありました。
「那間さん、大丈夫?」
 均目さんが項垂れた那間裕子女史の顔を下から覗きながら訊くのでありました。那間裕子女史は瞼を開く事無く不明瞭な声で生返事をするのでありました。均目さんはその様子を見て今度は頑治さんの方に視線を移して苦笑いながら続けるのでありました。
「何か、竟に酔いつぶれたと云った感じだなあ」
「そうだな」
 頑治さんも那間裕子女史を横目で見るのでありました。上体が不規則に揺れていて、これは目が回っているのと半睡眠状態のために体を直立固定出来ない故でありましょう。
「じゃあ、ぼちぼち家に引き上げるか」
 均目さんが二杯目のジントニックのを空けてから云うのでありました。
「那間さんは一人で帰れるかな」
 頑治さんも自分のグラスを干してから腕時計に目を遣るのでありました。未だこの時間なら終電には間に合いそうであります。
「ま、この様子じゃ無理だな。俺が送って行くよ」
 均目さんが立ち上がって那間裕子女史の片方の脇に腕を差し入れて立たせようとするのでありました。完璧に酔い潰れている訳ではないようで、那間裕子女史はすっかり体を均目さんの腕に預けていながらも、ヨロヨロと立ち上がるのでありました。
「歩けるかい?」
 均目さんが訊くと那間裕子女史は先程と同じ生返事をするのでありました。それからガクンと首を後ろに反らして、均目さんの肩にすっかり頭を預けるのでありました。
「これじゃあ、新宿駅まで屹度歩けないぜ」
(続)
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あなたのとりこ 131 [あなたのとりこ 5 創作]

 頑治さんも那間裕子女史のもう一方の脇から遠慮気味に腕を差し入れて助けるのでありました。遠慮気味なのは均目さんにとってこれは余計なお節介にならないかと云う点を危惧したためでありますが、均目さんは特に拘らないような素振りでありました。
 ジャズ酒場を出ると靖国通りまで、那間裕子女史を両脇から二人で支えながら歩くのでありました。那間裕子女史は足を縺れさせながらも、一応は両足を互い違いに出して歩行するのでありました。ただ、すぐに座り込みそうになるのでその都度しっかり立たせようと支えると、女史の腕の柔らかさが頑治さんの掌の中に膨よかに圧し掛かるのでありました。それは如何にも柔脆で、何やら媚びて来るようにも思える感触でありました。
 均目さんが靖国通りの歩道で片手を挙げると、緑色の車体をしたタクシーが道傍に寄って来て、ゆるりと停車してからすぐに後部のドアを開くのでありました。先ず那間裕子女史を車内に押し込めてそれから均目さんが乗り込むのでありました。
「後は大丈夫だから」
 均目さんがドアが閉まる前に頑治さんに云うのでありました。
「じゃあ、よろしくね」
 頑治さんもそう返してドア傍から少し離れるのでありました。
 タクシーは那間裕子女史と均目さんを乗せて頑治さんの横から車線の方に離れるのでありました。頑治さんは青梅街道方向に走り去るタクシーを見送ってから腕時計に目を遣るのでありました。少し急がないと新宿駅を発車する中央線東京行きの最終電車に間に合わないかも知れません。頑治さんは駅の方に向かって未だ多くの人が行き交う、様々なネオンサインに明るく彩られた道を急ぎ足に登っていくのでありました。

   業績不振

 昼休みにそれとなく、主立った従業員に集合が掛かるのでありました。下の倉庫内に集まったのは昨日居酒屋に参集した連中でありました。
「片久那制作部長に確認したら、ボーナスを出さないと云う話しは確かにあるようだ」
 山尾主任が作業台を囲んだ面子に向かって切り出すのでありました。「何でも社長と土師尾営業部長はすっかりその目論見で、片久那制作部長が少し抵抗しているらしい」
「抵抗していると云うのは、ボーナスを支給する方向で二人に反対しているって事?」
 那間裕子女史が小首を傾げて念のために確認をするのでありました。
「そう云う事みたいだね」
 山尾主任が伏し目をして重々し気に頷くのでありました。
「じゃあ、未だ出る可能性も充分あるって事かな」
 袁満さんが少し口元を綻ばすのでありました。
「それはそうだけど、でも若しボーナスを支給する事になったとしても、去年の暮れと同じくらいの額とはいかないだろうな」
 山尾さんは陰鬱そうな顔で袁満さんの楽観をつれなく窘めるのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 132 [あなたのとりこ 5 創作]

「去年は確か暮れのボーナスは二か月半分出たんだったよね」
 袁満さんが少し考える風に目玉を上方に動かしながら云うのでありました。
「そう。夏が二か月で暮れが二か月半」
 山尾主任が目玉を元に戻した袁満さんを見ながら頷くのでありました。
「それは諸手当も含めた賃金総額の、ですか?」
 頑治さんが山尾主任に訊くのでありました。
「いや、通例は基本給に役職手当を加えた額の、と云う事だね。住宅手当とか家族手当は算定の基準に含まれていない。尤も、ここに居る全員、家族手当は関係無いけど」
「ああそうですか。判りました」
 これまでのアルバイトとかでボーナス等は貰った経験が無いものだから、頑治さんは自分の基本給の二か月半分をざっと計算して見て、内心大いにほくそ笑むのでありました。しかしこの暮れはどうやら勝手が違うみたいでありますし、それに恐らく新入社員の自分は日割りとか小難しい計算をあれこれされて、満額は出ないでありましょう。それに抑々その二か月半が大いに怪しい雲行きなのを皆で憂慮しているのでありますから。
「社長や土師尾営業部長の魂胆や目論見は論外としても、片久那制作部長はそれならどのくらい出そうと云う腹心算なんでしょうかね?」
 均目さんが山尾主任に視線を向けるのでありました。
「さあ、それは聞かなかったし、向こうも何も云わなかったけど」
「二か月分かな。それならまあ、不満だけど一応納得は出来る」
 袁満さんがそう云って思わず口元を綻ばすのでありましたが、那間裕子女史にその顔を見咎められて険しい目をされたものだから、慌てて頬から笑いを消すのでありました。
「袁満君、二か月半でも不満だったんだから喜べないわ。それに大体、二か月と云う観測は甘いんじゃないの。精々一月か、或いは半月分と考えた方が良いんじゃないの」
 那間裕子女史にきっぱり窘められて袁満さんは意気消沈して俯くのでありました。
「いや、それもひょっとしたら甘いかも知れない。謝礼金とか慰労金とかの名目で、ほんの少額の金一封、と云う事だって考えられますよ」
 均目さんがより悪い推測を述べるのでありました。
「そうね、それなら社長や土師尾営業部長を説得し易いでしょうしね」
 那間裕子女史が頷くのでありました。
「しかしそうなると自分達の取り分の事もあるから、基本給プラス役職手当の一か月分とか、或いは半月分とか云う計算を片久那制作部長はしているんじゃないのかな」
 山尾主任が腕組みしながら云うのでありました。
「どうせ聞くならちゃんと、具体的な腹心算額まで聞けばよかったのよ」
 那間裕子女史は山尾主任に冷眼を向けるのでありました。那間裕子女史は山尾主任の後輩で一つか二つ歳下の筈でありますが、物腰に遠慮は全く無いのでありました。
「第一、あの二部長が俺達と同じ計算式の下に在るのか、そこも怪しいですけどね。あの二人は別格扱いで、そこそこの額はちゃっかりぶん取る心算なのかも知れないし」
(続)
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あなたのとりこ 133 [あなたのとりこ 5 創作]

「そりゃないよなあ。すっかり反則だ」
 袁満さんが均目さんの言に舌打ちするのでありました。「でも確かに考えられる」
「若し慰労金名目だとしても、あの二人は俺達より格段に多いだろうしね」
 山尾主任も小さな舌打ちの音を立てるのでありました。
「でも少しは義侠心のある片久那制作部長が、そんな醜い事を企むかしら」
 那間裕子女史がちょっぴり片久那制作部長の肩を持つのでありました。
「でも、自分の取り分となると片久那制作部長もなかなかシビアな人だぜ」
 山尾主任はその辺は懐疑的なようであります。
「それは云えてる」
 袁満さんが明快に同調するのでありました。「ああ見えて相当なケチだしね」
「我々従業員がボーナスの支給に口を挟む事は出来ないのでしょうかね?」
 今まで無関心そうに黙っていた出雲さんが云うのでありました。
「まあ、口を挟めるような権限はここに居る誰も持っていないかな」
 山尾主任が力なく笑うのでありました。「労働組合がある訳でもないし」
「そうか、労働組合と云う手もあるわね」
 那間裕子女史が左の掌を右の拳の小指側の縁で打つ真似をするのでありました。何とも古めかしい、考えが閃めいた事を表現する所作であります。今時そんな手真似を使う人は滅多に居ないだろうと、頑治さんは横目で見ながら秘かに思うのでありました。
「労働組合、ねえ」
 均目さんが億劫そうに呟くのでありました。「今時流行らないでしょう」
「流行るとか流行らないとかの問題じゃなくて、社長や土師尾営業部長に対する発言権も説得力も無いあたし達が、暮れのボーナスを確保するために、唯一正当な手段としてそれを訴える有力な方法の一つではあるわよ、確かに」
「でも、何となく臆病な小物連中が群れて、立場の弱さを逆手に取って得意気に柄にも無い尊大な顔をするような、全くイカさないイメージがあるんだよなあ、俺には」
「何、それ」
 那間裕子女史が均目さんを蔑むような目で見るのでありました。「そんなつまらないイメージに拘って、ボーナスと云う実質をフイにする方がもっと格好の悪い愚かさと云うものじゃないの。そう云う風には均目君は考えられないの」
「いやまあ、そう云われると、お説ご尤もと云うしかないけど。・・・」
 均目さんは那間裕子女史の全くの正論らしきにたじろいで、気圧されたように弱々し気に言葉の尻を曖昧に窄めるのでありました。

 ここに来て山尾主任もこの、自分で大した意も無く口にした労働組合と云う言葉に少なからず自分で魅せられたようでありました。
「でも確かに、賃金とか待遇とかの面で社長や土師尾営業部長の遣りたい放題になっていると云うのも、正常な労使関係と云えないような気がする」
(続)
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あなたのとりこ 134 [あなたのとりこ 5 創作]

 山尾主任はそう云って頷くのでありました。「俺達個々では社長や土師尾営業部長に待遇面の事は今迄何も云えなかったけど、団結して組織として労働者の正統な権利を行使すれば、賃金とか待遇ばかりじゃなく仕事の面でも色んな改革が出来るかも知れない」
 何となくもうすっかり労働組合員になったようなこの山尾主任の口振りに、均目さんが遠慮がちながらもげんなりした顔をして目を背けるのでありました。
「しかし今の段階では、社長と二部長の三人でこの暮れのボーナスの支給に関しては協議中なんですよね。未だ決定してもいない事柄に対して早手回しにこちらが労働組合結成だとか気炎を上げても、それは少しばかりせっかちだと云う気もしますけどねえ」
 頑治さんが山尾主任の意見に水を差すのでありました。
「確かに、未だ決まってもいのに早まった行動をするのも迂闊な話しだよなあ」
 均目さんが同調するのでありました。
「決まってからじゃ遅いんじゃないの」
 那間裕子女史が少し語気を荒くするのでありました。頑治さんや均目さんの態度が慎重と云うよりはちゃらんぽらんに見えているようであります。
「しかし向うの意志と云うのか、俺達に対する了見をちゃんと見極めた上で、止むに止まれずと云った感じで行動を起こす方が、こちらの行為の体裁上の正統性とか真剣味がより強く伝わるんじゃないかな。ここは先ず向こうの出方を見て、それが酷かった場合に一挙に怒りを表明すると云うのが、相手をたじろがすより効果的な方法だと思うよ」
 均目さんがここで急に、那間裕子女史とはフォーマルな場では丁寧語で話していた口調を、インフォーマルな場合にそうするざっくばらん調に変えるのでありました。この語調の変化は、均目さんのどういう気持ちを現しているのか頑治さんは俄には判らないのでありましたけれど、まあ、ちょっと気にはなるのでありました。
「じゃあ、均目君は取り敢えずボーナス支給日まで何もしないと云う意見なのね」
「何もしないと云うのか、前以て不満表明とかはしないと云う意見だね」
「でも、と云う事は、組合結成かどうかは別にしても、若しも支給されたボーナスがとんでもない額だった時に備えて、これでは納得出来ないと云うあたし達の団結した意志を示すための準備は、予めしておくと云う理解で良い訳ね?」
「まあ、それはしておいた方が得策に違いない」
「ボーナス支給日は何時なんですか?」
 頑治さんが二人の遣り取りに遠慮がちに言葉を差し挟むのでありました。
「今迄は大体十二月十日だな。その日が休日の場合は前日の九日になる」
 山尾主任が応えるのでありました。
「その日の結果が酷かった場合、均目さんは具体的にはどうする心算なのかな?」
 頑治さんは均目さんの方に顔を向けるのでありました。
「まあ、皆で土師尾営業部長を取り囲んで、納得出来ないから再考願いますと、貰ったばかりのボーナス袋だか金一封袋だかを一斉に叩き返すと云う事になるかな」
「全く金一封も出なかった時は?」
(続)
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あなたのとりこ 135 [あなたのとりこ 5 創作]

「出ないと判った時点で土師尾営業部長につめ寄るか。まあ、その辺は色んなケースを想定して予め申し合わせして置く必要はあるけど」
「じゃあ、その申し合わせ事項を早速決めておかなければならないと云う事になるかな。もう十二月十日までそんなに日が無いんだから」
「いやいや、十二月十日を待ってそれから行動するのは俺は遅いと思うな」
 山尾主任が割り込むのでありました。「その前にこちらの意向を何らかの形で明示しておけば、片久那制作部長の交渉の側面援護にもなるし」
「そうよ。待ってから動くんじゃなくて、こっちが先手を取って動かないと社長や土師尾営業部長にプレッシャーをかけられないわよ」
 那間裕子女史が珍しく山尾主任に同調するのでありました。この二人は全く息が合わない同士だと頑治さんは思っていたのでありましたが。
「ええと、抑々のところを確認して置きたいんだけど」
 那間裕子女史の言葉が終わるのを待って、今迄暫く黙っていた袁満さんが申し訳無さそうに割り込むのでありました。「ボーナスが出ないのなら、俺達はあっさりその儘黙っていないで、一致して必ずそれに抗議すると云うのはもう決定しているんだよね」
「当たり前じゃない。今頃何を呑気な事云っているの」
 那間裕子女史が声を荒げて、袁満さんの頭を押さえ付けるような物腰で云うのでありました。袁満さんはその迫力に思わず怖じてか、たじろいだように表情を引き攣らせるのでありました。どうした訳か横に居た出雲さんまでが同じような及び腰を見せるのは、これは同じ仕事をしている先輩と一心同体である事を表意する所作でありましょうか。
「いや、その、そこを最初に確認して置かないと、何かモヤモヤした儘その先の話しをする事になるから、とか考えたんですよ、俺は」
 袁満さんはしどろもどろに那間裕子女史に対して弁明するのでありました。
「黙っていたら暮れのボーナス無支給の前例を作る事になるわ。そうなれば業績不振を理由に今後も出ない事だって有り得るでしょう。暮れのボーナスどころか夏のボーナスもカットされる恐れもあるし。そんな事になったらまともに生活していけなくなるわ」
「いや、話しを前に進める上で手順の問題は大事だよ」
 均目さんが那間裕子女史の口を遮るのでありました。「無精して有耶無耶にしていると、後で、元々そんな事は決めていないだの何だのと、話しが紛糾して前に進まなくなるのは困ると、袁満さんはそこを指摘したかったんだよ。そうですよねえ、袁満さん」
 均目さんの助け舟に袁満さんは諸手を泳がせて縋り付くのでありました。
「そうそう、まあ、そう云う事」
 袁満さんはようやく表情を緩めるのでありました。横の一心同体の出雲さんも頬の辺りに漲っていた緊張を解くのでありました。

 山尾主任が少し棘々しくなった場を収めるように提案するのでありました。
「じゃあ、順を追って一個々々決を取ろう」
(続)
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あなたのとりこ 136 [あなたのとりこ 5 創作]

 その言葉に皆頷くのは敢えて異論が無い故であります。
「先ず、今期のボーナスに対しては一致団結して抗議すると云う点は異議無いかな?」
 ここで那間裕子女史が真っ先に「勿論」と声を発するのでありましたし、続いて均目さんも同様の言葉を発して片手を挙げるのでありました。
 山尾主任は頷いてその後に袁満さんに視線を向けると、袁満さんも多少及び腰を見せながらも無言で頷いて挙手するのでありました。それを確認してから出雲さんの方に視線を移すと、出雲さんは「じゃあ、俺も賛成」と片手を挙げるのでありました。
 最後に頑治さんの方に山尾主任の目が向くのでありました。勿論山尾主任も異議無しの口でありましょうし、ここで頑治さんが不同意を宣したところで多数決でそれは否決されるでありましょう。それに否と云うべき特段の理由も見つからないものだから、頑治さんは控え目な声で「異議は無いです」と応えて頷くのでありました。
「俺も賛成だから、詰まり全会一致で団結して抗議する事は決定でいいね」
 山尾主任が確認のため全員の顔をつるっと見回すと、夫々は不揃いながらも夫々のタイミングで頷いて見せるのでありました。
「じゃあこれから、ボーナスは出るけど極めて少額の場合、それに慰労金名目でそれよりもっと少額が出る場合、それと全く出ない場合とか、色んなケースを想定して、それに相応する抗議の文句とか行動を決定しておきたいんだけど、・・・」
 山尾主任はそこで左腕を顔の近くまで上げて腕時計を見るのでありました。「しかし、もうすぐ昼休み終わりの一時になって仕舞うなあ」
 その言葉に夫々も云われて今気付いた、と云った仕草で自分の腕時計に目を遣るのでありました。確かに残り十分足らずで昼休みが果てる時間でありました。
「じゃあ、どうするの?」
 那間裕子女史が眉間に皺を寄せて山尾主任を見るのでありました。時間が無くなった事に付いて山尾主任を詰っているような目付きだと頑治さんは思うのでありました。しかしこれは致し方無いでありましょう。それで山尾主任を責めるのは些か理不尽と云うものでありますか。昼食後の数十分間に話しをするにしては少し事が大きくなったのでありますし、抗議する事を決定しただけでも集まった甲斐はあったと思うべきでありますか。
 まあ、那間裕子女史も別に詰る心算は毛頭無いのかも知れません。その顔つきや物腰が頑治さんにはそう見えたと云うだけなのでありましょうが。
「それじゃあ、仕事が終わってから夕方、何処かで集まるか」
 山尾主任が云ってまた夫々の顔を順に見回すのでありました。
「いや、今日は俺、都合が好くないですね」
 出雲さんが顔を顰めるのでありました。
「あたしも今日は語学学校があるから、会社が終わったら急いで仙川まで行くし」
 那間裕子女史がその後に続くのでありました。
「俺も明後日から信州出張に出るから、出来れば早く家に帰りたいかなあ」
 袁満さんも首を横に振るのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 137 [あなたのとりこ 5 創作]

「袁満君が信州出張から帰って来るのは何時だっけ?」
 山尾主任が訊くのでありました。
「ええと今度の出張は南信州だけだから、三泊四日で戻りますけど」
「と云う事は来週の月曜日か」
「ボーナス支給日の三日前だ」
 均目さんが指を折って確認するのでありました。
「まあ、出張だから仕方が無いけど、それじゃあ、来週の月曜日の仕事明けに集まるとするか。それ迄に各自どんな抗議の仕方が良いか考えて置くと云う事になる」
「でも俺、月曜と火曜は代休を取りたいんですけど」
 袁満さんは慎に遠慮気味に云って頭を掻くのでありました。
「どうしても月曜に用があるのなら仕方無いけど、火曜と水曜に出来ないのかな?」
 山尾主任にそう訊かれると、袁満さんは月曜日にのっぴきならない私用があると云う事でも無いようで、少し考えてから案外あっさりと頷くのでありました。
「ああそうですか。それならまあ、そうしますけど」
「じゃあ、申し訳無いけどそうしてくれるかな」
 山尾主任は頷いてからまた腕時計を見るのでありました。
「出雲君はどうなの、出張の予定は?」
 那間裕子女史が確認のため訊ねるのでありました。
「俺も、金曜日に出て帰って来るのは多分二週間後ですかね。今年最後の東北出張になりますから、ひょっとしたら二三日長引くかもしれませんけど」
「じゃあ、正念場のボーナス支給日当日は居ない訳ね」
「そうなりますね、済みませんけど」
 出雲さんは別段必要無いと思われるのでありましたが、謝りの言葉を付け足すのでありました。一致団結に自分が欠けるのが出雲さんとしては後ろめたいのかも知れません。
「出張なんだら、それは仕方が無いね」
 均目さんが庇うのでありました。
「じゃあまあ、そんな事で今日はこれ迄とするか」
 山尾主任がそう締め括ってその日の打ち合わせは解散となるのでありました。

 六人はぞろぞろと打ち揃って三階の事務所に戻るのでありました。応接ソファーには片久那制作部長と日比課長が向いあって座っていて、二人の間には一面に白黒の石が入り乱れて並べられている碁盤が据えてあるのでありました。
 最近片久那制作部長は囲碁に凝っているようで、昼休みによく日比課長と二人して碁盤を間に向かい合っているようであります。囲碁を初めて間も無い片久那制作部長が碁歴の長い日比課長に教えを受けているのでありました。尤も、疎ましいと云う程では無いのでありましょうが、日比課長の方は殆ど毎日昼休みに相手をさせられる事に些かげんなりしているようでもあると、頑治さんは袁満さんから前に聞いた事があるのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 138 [あなたのとりこ 5 創作]

 一緒に戻って来た六人に片久那制作部長が訝し気な目を向けるのでありました。二人とか三人とかはあったとしても、六人の社員が打ち揃って昼休み明けに事務所に戻って来る事は今まで無かったのでありましょうから、奇異な光景だったのでありましょう。
 片久那制作部長は勘が良いので、その様子に何かを感じたようでもありましたか。しかしそれは一先ず脇に置いて、何も無かったかのように碁盤の上の自分の黒石をサラサラと音を立てながら片付け始めるのでありました。
「未だ々々当分は、日比さんには歯が立たないかなあ」
 片久那制作部長はそんな事を如何にも呑気そうな物腰で喋っているのでありました。
「いやいや部長は呑み込みが早いから、俺なんかすぐに追い越されますよ」
 日比課長はそう謙遜して見せて、格上の優越からか片久那制作部長よりはおっとりとした仕草で自分の白石を盤上から片付けるのでありました。
 頑治さんは机の上の発送指示書入れを覗いて何も無かったものだから、その儘倉庫に引き返そうとするのでありました。するとソファーから立ち上がった片久那制作部長に呼び止められるのでありました。何か制作部関連の仕事があるのでありましょうか。
「唐目君は午後の仕事はどんな感じかな?」
「二時半までに小石川の安藤坂物産からキーホルダーを引き取って来る予定です」
 このキーホルダーと云うのは、出張営業の袁満さんと出雲さんが観光地の旅館とかホテルの売店、それにお土産屋さん等に卸している商品で、金属製のアメリカ軍の兵士が首から下げている銀色の認識票のような代物でありました。それに各観光地の名称が刻印されていて、まあ、そんなに大量に売れる商品ではないけれど年間一定の安定した売り上げのある商品であります。安藤坂物産と云う会社が自社生産していているのでありましたが、贈答社の社員たる者がこうものすのも大いに憚りはあるけれど、頑治さんが若し旅行先でそれを目にしたとしても、恐らく購入しようと云う気は先ず起きないでありましょう。
「その後は?」
 片久那制作部長が更に訊くのでありました。
「今のところ取り急ぎの発送も配達も無いようですから、倉庫の整理整頓ですね」
 その日は珍しく発送や配達、それに引き取り関連の仕事が立て込んではいないのでありました。そんな手持無沙汰な折は、頑治さんは努めて倉庫整理とか駐車場周辺の清掃をするようにしているのでありました。頑治さんの持って生まれた綺麗好きとか几帳面がそうさせると云うよりは、色んな仕事の効率と気分の平穏を考えての事でありました。
「だったらちょっと制作部の仕事を手伝って貰えないか」
「はい。何処からか何か引き取って来るんですか?」
「いやそうじゃない。ちょっとした調べものだよ」
「調べもの、ですか?」
 どうやら専らにしている業務仕事の類ではないようであります。
「安藤坂物産にも出雲君に行って貰う事にして」
 片久那制作部長はそう云って席に座っている出雲さんを見るのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 139 [あなたのとりこ 5 創作]

「ああ、俺は大丈夫っスよ」
 出雲さんが屈託無く笑いながら頷くのでありました。
「じゃあそうしてくれるか」
 片久那制作部長は出雲さんに向かって一つ頷いて見せてから、頑治さんを誘って制作部スペースに戻るのでありました。それから自分のデスクに座ると横手のマップケースからA半裁程の大きさの紙を取り出すのでありました。
 それは首都圏の鉄道路線図の原稿のようで、多くの二条線が縦横斜めに入り乱れて描いてあるのでありました。二条線の中には等間隔に丸が打ってあって、それは駅を表わしており、手書きの右下がりの癖のある字でその駅の名称が付してあるのでありました。
 所々には二条線を大きくはみ出した丸枠が描いてあり、これは中に書いてある文字から推察すると乗換駅とか市区の代表駅、それに恐らく特急とか急行の停車する路線の中の主要駅でありましょう。乗換駅と主要駅、それに市区代表駅の別も一条線と二条線、それに外枠が太く内枠が細い二条線等の描き方で区別してあるようでありました。
 先ず方眼紙に下図を描いてそれをコピーした物らしく、コピーが荒いためか所々に元々有った方眼の目も薄く移り込んでいるのでありました。頑治さんが机上のその図面を覗き込んでいると片久那制作部長が頑治さんを見上げるのでありました。
「これは何だか判るよな?」
「電車とか駅の地下道なんかでよく見掛ける鉄道の路線図ですか?」
「そう。図案はウチのオリジナルだけどな」
 片久那制作部長はそう云って頑治さんの方から見やすいように、紙を九十度回してほんの少し頑治さんの方に押し遣るのでありました。
「で、自分がお手伝いさせていただく仕事と云うのは何でしょうかね?」
「この図の駅間にその所要時間を書いていって貰いたいんだ」
「ここに描かれた駅間総ての、ですか?」
「勿論そうだよ」
 いやはやこれは結構面倒な仕事だと頑治さんは内心げんなりするのでありました。
「今日一日では終わらないかも知れませんよ」
「それは承知だ。出来るだけ上げて貰えば良い。本当は均目君にやって貰っている仕事なんだが、均目君は急に、今日の午後はずっと別の仕事をしなければければならなくなったんでね。その今日午後分のピンチヒッターをやって貰いたいんだよ」
 代わりが必要なくらいこの路線図の作成はかなり急ぎの仕事なのでありましょう。
「判りました。やらせて貰います」
 頑治さんはあっさりそう云って路線図の原稿を両手で取り上げるのでありました。
「遣り方とかの要領は均目君に聞いてくれ」
「何処でやればいいんですかね?」
「あたしの机を使っても構わないわよ」
 那間裕子女史が振り向いて声を上げるのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 140 [あなたのとりこ 5 創作]

「でも那間さんはその間どうするのですか?」
「あたしは製版フイルムの修正作業があるからそのライトテーブルを使うわ」
 その所為製版フイルムの修正作業と云うのが頑治さんには何なのか良く判らないのでありましたが、まあ、そう云う事ならと那間裕子女史が立った机の前に行って交通路線図の図案の描いてあるコピーを置くのでありました。那間裕子女史の使っている椅子には小さな座布団が敷いてあるのでありましたが、椅子に腰を下ろすと座布団に移っている、直前まで座っていた那間裕子女史の体温が艶やかに尻から伝わって来るのでありました。

 頑治さんが右隣の席に座る均目さんを見ると、均目さんは椅子に座った儘で頑治さんの横に移動して来るのでありました。
「所要時間は手間だけど直接各鉄道会社の広報に電話して一々訊くのが原則だ。中には面倒臭がってか意地悪でか教えてくれないところもあるけど、その場合は所要時間が記載してある資料とかパンフレットを送ってくれと頼む事になる。教えてくれるところはその儘図に書き入れていけば良い。市販の時刻表をその儘引用しても良いんだけど、それでは二次資料の無断転載と云う事になるから、一応鉄道会社から直接教えて貰うんだ」
「じゃあ、先ず以て鉄道会社の広報に電話しなければならない訳だ、俺が」
「その通り。なるべく丁寧な物腰の電話をね。先ずこちらの電話した意図を縷々説明してから、気持ち良く協力して貰うと云う寸法だよ」
「ふうん。成程ねえ」
 単純に何かの資料から書き移せば良いのかと頑治さんは思っていたのでありましたが、これはなかなか面倒な仕事のようであります。頑治さんが眉間を狭めて少し及び腰の表情をして見せるものだから、均目さんは無声で少し笑うのでありました。
「向こうの電話に出た人の中には矢鱈と無愛想でつれない対応の人もいるし、あからさまに迷惑そうな声を出す人もいるけど、そこはこちらとしては苛々しないで律義に徹して何とか対応して貰う。まあ、秘密にしてある事を訊き出すのでもないし、そうやって自社の情報を流布するのも広報の一環と弁えて、丁寧な対応をしてくれる人も中にはいるよ」
 益々億劫で面倒な仕事のようであります。
「まあ良いや。取り敢えず何処かに電話をかけてみるよ」
 頑治さんはそう云って、何時もは那間裕子女史が専用に使っているのであろう机の隅に置いてある電話に手を延ばすのでありました。製作仕事の手伝いを引き受けた以上、何はともあれやってみなければ始まらないと云うものであります。
「見れば判るだろうけど、図の中で既に所要時間が書いてあるのは、もう俺が電話して完了した路線と云う事になる。だからそれ以外、ね」
 均目さんが一応念を押すのでありました。
「判った。鉄道会社の電話番号一覧みたいなものは無いのかな?」
「それは面倒だけど一々時刻表で調べてくれ。じゃあ宜しく」
 均目さんはまた椅子を転がして自席に戻るのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 141 [あなたのとりこ 5 創作]

 それから何か急に云いそびれた事を思い出したらしく、均目さんはまたすぐにそそくさと頑治さんの横に椅子ごと移動して来るのでありました。
「ああご免、云い忘れていたけど、・・・」
 頑治さんはその均目さんの言葉を受けて、電話に伸ばしていた手をその儘受話器の上に載せた形で均目さんの方に顔を向けるのでありました。
「所々に急行とか特急とか書いてあるのがあるだろう」
 そう云われて頑治さんはコピーに目を落とすのでありました。確かに路線の横の空白に小さな字で特急とか急行とかの文字があり、幾つかの丸を直線で結んであるのでありました。丸印はそこに記してある駅名から、つまり特急とか急行の停車駅でありましょう。
「ああ確かに。この所要時間も向うの広報に訊けって事だな」
「そう。その通り」
 頑治さんがすぐに察したので、均目さんは少し気抜けしたような顔をして頷くのでありました。これは益々面倒な小難しい仕事になりそうであります。
「判ったよ。それも忘れずにちゃんと訊くよ」
 頑治さんのその返答で均目さんは再び頑治さんの横から離れるのでありました。

 取り掛かりは比較的運行路線数の少ない鉄道会社で、総営業距離の短いものを選んで電話を掛けるのでありました。先方の代表番号に路線の駅間所要時間を総て教えて貰いたいのだがと云うと、速やかに広報課に回してくれるのでありました。
「こちらは贈答社と申しますが、ちょっとお時間を取らせて仕舞いますが、総ての駅間所要時間をご教示頂きたくて電話をさせて頂いたのです」
 頑治さんが受話器に向かってなるべく丁重にそう申し出るとこの最初に選んだ会社の、偶々電話に出た男の広報課社員は別に面倒そうな物腰でもなく、寧ろ謹慎な語調でどうぞと承諾するのでありました。無作為に最初に選んだ先から邪険にあしらわれたら幸先が良くないと考えていたものだから、頑治さんは内心胸を撫で下ろすのでありました。
 向こうもこの手の問い合わせは時々あるようで慣れた口調で到って手際良く、先ずは本線の始発駅からの各駅間所要時間を一々、しかもこちらの書き記す手の速さに気を遣いながら教えてくれるのでありました。のっけからなかなか親切な人に当たったようであります。聞き洩らす事無く集中しながら所要時間を聞き書きしながら、頑治さんはこの先もこういう調子でスムーズにこの仕事が進行する事を願うのでありました。
 各駅間所要時間の後は特急と急行、それに快速電車の停車駅間所要時間も変わらぬ丁重さで教えてくれた後、更に親切にも相互乗り入れしている地下鉄の終着駅迄の時間も教えてくれるのでありました。その律義さと云うのかサービス精神に頑治さんは大いに感激するのでありました。この鉄道会社の床しい社風が偲ばれると云うものであります。
 時間にしたら二十分程の電話でありましたか。頑治さんは受話器を持った儘お辞儀等しながら最大級の謝意を表して電話を切るのでありました。
「ほう、なかなか堂に入った電話っ振りだったなあ。大したものだ」
(続)
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あなたのとりこ 142 [あなたのとりこ 5 創作]

 横の均目さんが頑治さんの方に些か意外なような顔を向けて笑うのでありました。
「前に電話のアルバイトか何かしていたの?」
 ライトテーブルの那間裕子女史からもそんな言葉が掛かるのでありました。
「いや、そう云う訳ではありませんが」
 頑治さんはその、電話のアルバイト、と云うのがどのようなアルバイトなのか今一つ上手く想像出来ないのでありましたが、後ろの那間裕子女史の方を振り返って取り敢えずそう応えるのでありました。恐らくランダムに電話を掛けまくって何やらのセールスをする類の仕事をイメージしての言葉でありましょうか。まあ、良く判りませんけれど。
「この手の電話をするのは初めてなんだろうけど、相手との遣り取りに上擦ったところのない、至極慣れた感じの電話だったよなあ」
 均目さんが未だ頑治さんの方に顔を向けた儘感心するように頷くのでありました。「その調子でどんどん片付けてくれると俺も助かるね」
 そう持ち上げられたせいでは全くないのでありますが、頑治さんは早速次の電話に取り掛かるためにコピーに目を落とすのでありました。この間左隣りの山尾主任と奥の片久那制作部長の二人は何も口を出さないのでありました。
 山尾主任は頑治さんに笑顔を向けているのでありましたが、均目さんと那間裕子女史の言葉にそれ以上継ぎ足す言葉は無いと云った面持ちで、差し出るのを控えたと云うような様子でありました。一方の片久那制作部長の方はと云えば、頑治さんの電話っ振りなんぞには特段関心も無いと云った風情でありましたか。まあ、普段から口数の少ない仏頂面の御仁でありますから、無表情と云ってもそれは無愛想この上も無いような顔付きになるのでありますが、まあ、我関せずで自分の仕事に専念していると云った風でありました。
 頑治さんが次に電話を掛けたのは、東京西部から神奈川県にかけて込み入った幾つもの路線を有する鉄道会社でありました。代表番号から取り次がれて電話に出た広報課の社員はのっけから愛嬌の無い男でありましたが、頑治さんが社名を名乗ると、そんな会社なんぞは全く知らないと云った、全く以って冷え切った声で、態と戸惑いを籠めたような口調で、はあ、とだけ返すのでありました。前の電話とは大違いの様相であります。
「その贈答社さんとやらが、どんな要件で電話されたのですかね?」
 その男は端から何か相手を小馬鹿にしたような訊ね方をするのでありました。
「私共では今鉄道路線図を作成しておりまして、御社の全路線の駅間所要時間をお尋ねしようと電話させて頂いた次第です」
「全路線の駅間所要時間?」
 男は素っ頓狂な声を上げるのでありました。明らかにそう聞いた端から面倒臭がっている気持ちが込められた云い様でありましたか。
「そうです。全路線の全駅間所要時間です」
 頑治さんはめげずに如何にも丁寧でやや鈍感そうに、相手の苛々を全く感知していないような物腰で受け応えるのでありました。
「そんなの市販の時刻表で調べれば良いんじゃないの?」
(続)
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あなたのとりこ 143 [あなたのとりこ 5 創作]

 相手から竟に、丁寧口調も無くなるのでありました。
「確かにそうではありますが、私共の制作物への記載情報の収集は直接主体に当たるのが大前提でして、二次的な資料からの転用は控えなければならないのが原則です。ですからこうして直接御社に電話をかけさせて頂いた次第です」
「ふうん」
 男は別に納得した訳ではないけれど、そう云う事であるのなら、それはそれでそちらの勝手だから一応認めようと云った具合の合いの手を返すのでありました。
「と云う事で、先ずは本線から伺いたいと思いますが」
 頑治さんは仕切り直しに口調を改めるのでありました。
「いやいや、ちょっと待ってよ」
 男の、頑治さんに向かって手を横に強く振って見せる姿が見えるようでありました。
「ええと、何か?」
 頑治さんは至極穏やかに訊くのでありました。
「ウチの路線の総ての駅間所要時間となると、大変な手間だよねえ」
 ここで男の云う手間とは自分の手間で、これはそれを惜しんでの言でありましょう。
「そうですね。とは云っても一時間とかは先ずかかりませんけれど」
「そりゃあそうであるにしろ、そんな長い時間を、何の断りも無く突然かかってきたオタクの電話のためだけに使うのはねえ」
 如何にも迷惑だと、男はこの後に不愉快そうな口調で続けたかったのでありましょうが、そこは口籠もるように省略するのでありました。広報と云う体裁のためか、余りに横柄な対応と受け取られたくはないようであります。そんな男の気分が受話器から漏れ伝わってきたものだから、頑治さんは秘かに胸の内で指をパチンと鳴らすのでありました。
「では事前に、何時々々に電話しますからお願いします、とお断りすれば、その折にはご教示を頂けるのでしょうか? 若しそう云う事なら改めますので、この電話でご都合のよろしい日時をご指定頂けますでしょうか。それとお宅様のお名前もお願い致します」
 男としたらこの儘電話を適当にあしらって切った後は有耶無耶、と云うのがその了見でありましょうから、日時の指定を請われるとは思わなかったでありましょうか。
「いやまあ、私は何時も社内に居るとは限らないからね。ご存知無いかもしれないが、鉄道会社の広報課の仕事は様々あって忙しいものだから」
「はい。拝察させて頂きます。ですからそちら様より日時をご指定頂きたいので」
「しつこいねえ、アンタも」
 頑治さんのちっとも引き下がらない様子に焦れて男の声が尖るのでありました。
「畏れ入ります。しつこいの国からしつこい教を広めに来たようなヤツだと、様々な辺りからそんな呆れ言葉を頻繁に頂戴いたします」
 頑治さんは八分の生真面目と二分のお道化を交えたような云い方をするのでありました。受話器の向こうの男の口元が意ならず緩んだような気配が伝わって来るのでありました。頑治さんはもう一度胸の中で指を小さく鳴らすのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 144 [あなたのとりこ 5 創作]

「他の鉄道会社さんにもこんな、或る意味迷惑な電話をかけまくっているの?」
 男が、前を厳冬の一日とすれば小春日和程度に言葉の棘を丸めるのでありました。
「ええ。交通案内に記載させて頂いている総ての鉄道会社さんに、ご迷惑を承知でご協力頂いております。どちら様も快くご教示くださいます」
 頑治さんは少しの揶揄をうっかり見逃せば見逃せる程度に忍ばせるのでありました。
「何某電鉄さんとかも?」
 男は東京西北部から埼玉県方面に延びている、こちらもこの鉄道会社同様複雑に多くの路線が入り組んだ鉄道会社の名前を云うのでありました。
「はい勿論です。少々お時間を取らせて仕舞いましたが、態々ご親切に先方様の方から様々な行先の急行とか快速電車の駅間所要時間までご教示くださいました」
 頑治さんはその鉄道会社には未だ電話をしていないのでありましたが、ここは一番、しれっとはったりを咬ませるのでありました。序にここにもぼんやり見逃せば見逃せるような当て擦りを混入させているのは、依って件の如しであります。
「ふうん。そうなの」
 男はここで言葉を切って間を置くのでありました。「ウチで発行している裏に全路線が描いてあるパンフレットをこちらから送る、というのでは駄目なのかな?」
「全駅間の所要時間が明記してある物ならそれでも結構ですが」
「ああそうか、全駅間所要時間か。・・・」
 男がそう云ってからまたしてもここで言葉が途切れるのでありましたが、恐らくそのパンフレットには特急とか急行のめぼしい所要時間は記してあるものの、一々の駅間所要時間は記載されていないのでありましょう。「ちょっとお待ちください」
 今迄やけにぞんざいだった男の言葉付きがここで丁寧さを取り戻すのでありました。受話器の向こうからなにか資料を引っ張り出しているのかクシャクシャと紙擦れの音が小さく聞こえて来るのでありました。竟に諦めてどうやら教えてくれる気になったようでありまあす。頑治さんはまたしても胸の内で指を鳴らすのでありました。
 余計な手間惜しみ心とか意地悪心、或いは警戒心を起こさないで最初から素直に教えてくれていれば、ここまでの実に無意味な時間の空費は無かったのにと頑治さんは内心舌打ちするのでありましたが、勿論そんな気配は噯にも出さないのでありました。
「ええと、先ず本線からでしたよね」
 ようやく向こうの男が言葉を発するのでありました。

 まあ、ここから時間にして二十分程で全駅間の所要時間を訊き出すのでありました。その後頑治さんが特急とか急行の所要時間を訪ねると、男は意外に素直に、且つ事務的にそれも教えてくれるのでありました。総計四十分と云うのがこの電話に要した時間でありましたか。最初の方のゴタゴタを除けば、半分の時間で事は済んだ筈でありましょう。
「何やら、あれこれともめていたね」
 電話を切って頑治さんが溜息を吐いた後で均目さんが声を掛けるのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 145 [あなたのとりこ 5 創作]

「うん、まあ」
 頑治さんは今の電話で訊き洩らしが無かったか確かめるために、コピーに目を凝らしながら応えるのでありました。訊き洩らしがあってまた今の男に電話をするのは億劫でありましたし、そんな間抜けな電話をすぐに掛け直すのは如何にも癪でありますし。
「あの鉄道会社は、問い合わせの電話をした時は何時も扱いがぞんざいだからなあ」
「そうだね。確かに最初はけんもほろろと云った具合だったかな」
 どうやら訊き洩らしは無さそうで、頑治さんは安堵するのでありました。
「誰彼に限らず何時も無愛想で意地悪よね、あそこは」
 またライトテーブルの那間裕子女史が後ろから声を掛けてくるのでありました。「よくあんな調子で広報課の仕事が務まると思うわよ」
「系列のバス会社なんか、もっと対応が酷い」
 均目さんも那間裕子女史の方に顔を向けるのでありました。
「屹度あの電鉄グループの社風よ、あの不親切で人を見下したような対応は」
「しかし大手の名前の通った出版社や新聞社とか通信社、或いはテレビ局、それにこれも大手の旅行代理店なんかの問い合わせには、言葉遣いも態度も至極丁寧だそうだよ、結構大きな旅行代理店に入った大学時代の知り合いに聞いたところに依ると。まあ、そう云うところとは日常的に仕事の繋がりが濃いためかも知れないけど」
「でもどう云った気紛れからか、結果的にはちゃんと教えてくれたよ」
 頑治さんはコピーに目を戻して次の電話に取り掛かろうとするのでありました。
「聞いていたらそんな感じだったわね。あそこの広報課にあんな風にちゃんとした対応をさせると云うのは、電話に関しては大した腕前かもよ、唐目君は」
 那間裕子女史が頑治さんの後頭部に向かって褒めるのでありました。それには特に応えずに頑治さんは次の電話のために受話器を外すのでありました。
「あたし等よりも唐目君の方が、実は制作の仕事に向いているのかも知れないわね」
 那間裕子女史は未だそんな事を云っているのでありました。それに反応して均目さんが那間裕子女史の方に振り返ったところで片久那制作部長が口を開くのでありました。
「好い加減、唐目君の邪魔をしていないで、二人共自分の仕事に専念しろ。今やっている仕事はそんな悠長に構えていられる仕事じゃないだろう」
 そんな風に何となく冷たくて厳とした語調で窘められて、均目さんと那間裕子女史はたじろいで一旦片久那制作部長の方に顔を向けて口を噤むのでありました。それからお互いの顔を見交わしてから、均目さんの方はすごすごと首を元に戻すのでありましたし、那間裕子女史は窘められた事が気に食わないと云った風に鼻に皺を寄せて見せてから、ライトテーブル上の製版用のフィルムの方に目を戻すのでありました。

 結局夕方五時迄に頑治さんは鉄道会社六社に電話をするのでありました。それで均目さんがやり残していた粗方の私鉄各線の駅間所要時間は埋まるのでありました。後は都営地下鉄や都電荒川線、それにJR各線が残るのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 146 [あなたのとりこ 5 創作]

「JRは電話で問い合わせるとなると大変な時間がかかるんじゃないかな」
 屈めていた腰を伸ばして、机上のコピーから顔を遠ざけながら頑治さんが隣の均目さんに訊くのでありました。最初にコピー原稿を見た時、面倒だろうと及び腰して、これを後回しにして遣り残したのを頑治さんとしては少し引け目に感じているのでありました。
「ああ、JRの路線に関しては鉄道弘済会発行の時刻表から拾い上げれば大丈夫だよ。それはJRが監修した時刻表なんだから」
「ああ、成程ね。それはOKと云う事になるんだ」
「そう云う事。で、後残っている路線は?」
「都営地下鉄と都電荒川線くらいかな」
「ほう、随分と片付けてくれたんだな」
 均目さんは感心するのでありました。「俺がやるより遥かに捗ったかな」
「まあ、ポカが無いなら」
「いやいや、どうもご苦労さん。もう五時になったからその辺で上がって良いよ」
 均目さんがそう云うものだから、頑治さんはこの辺で切り上げて良いものか一応確認のため片久那制作部長の方に顔を向けるのでありました。
「ご苦労さん。助かったよ」
 片久那制作部長が頑治さんに笑顔を向けるのでありました。
「出来れば残りの都営地下鉄や荒川線も片付けたかったのですが」
「いやいや充分だ。ここまで捗るとは正直思っていなかった」
 片久那制作部長は満足そうに頷くのでありました。
 丁度そこに外回りから帰って来た土師尾営業部長が制作部のスペースに顔を出すのでありました。その日午前中からずっと社には居なかったのでありました。
 土師尾営業部長は制作部の那間裕子女史の机の前に座っている頑治さんを見て、怪訝そうな視線を投げて寄越すのでありました。
「唐目君には今日は制作の仕事を手伝って貰っていたんだよ」
 片久那制作部長が訊かれる前に説明するのでありました。
 頑治さんの直接の上司は土師尾営業部長と云う事になるのでありますが、その許可を得ずに頑治さんに制作部の仕事をさせた点に、片久那制作部長としては少し遠慮を感じたのかも知れません。いやしかし日頃から畏れを抱いている会社の実質的ボス格の片久那制作部長のやる事に、土師尾営業緒部長は心根の内で不愉快を感じる事はあっても、面と向かって苦情を垂れる事は出来ないでありましょう。依って、自分がないがしろにされたと感じても、まあ結局のところ追認するしか術は無いと云う寸法でありますか。
「配送とか倉庫の仕事は大丈夫だったの?」
 土師尾営業部長は腹いせにか、頑治さんに少し険しい顔を向けるのでありました。
「それは問題無いよ」
 片久那制作部長が代わりに応えるのでありました。その辺にこの俺が抜かりがある筈が無いだろうと云う、一種の高飛車がその言葉の表面に張りついているのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 147 [あなたのとりこ 5 創作]

「どうしても唐目君に手伝って貰わなければならない仕事だったの?」
 土師尾営業部長が片久那制作部長に訊くのでありました。片久那制作部長は特に何も説明せず、煩そうに一つ頷いて見せるのでありました。そのつれない仕草を不愉快に感じたらしく土師尾営業部長は少しの怒りを宿した目で、そっぽを向いている片久那制作部長を睨むのでありました。自分が完全にないがしろにされたと感じたのでありましょう。
 しかし若し目と目を見交わしていたらそんな眼容は屹度しなかったでありましょう。或いは片久那制作部長が顔を不意に向けたなら、この人は慌ててその目の険を払って、どぎまぎと目を逸らしてたじろいだに違いないと頑治さんは思うのでありました。
「判りました。そう云う事なら」
 土師尾営業部長は自分の沈黙を不自然に思って片久那制作部長が目を向けるほんの少し前のタイミングで、不機嫌そうに引き結んでいた唇を開いて丁寧な言葉を使って納得の意を表するのでありました。片久那制作部長の顔の向きはその儘でありました。
 この土師尾営業部長と云う人は実は全然納得していないけれど一応この場は納得した事にして置く、と云った具合の、面白くない気分を表明する場合に言葉の尻を丁寧にする癖があると頑治さんは前から見做していたのでありました。依って頑治さんが制作部の仕事を自分の許可無く、片久那制作部長の越権行為に従って手伝った事に大いに不興を感じたのでありましょうが、しかし片久那制作部長の差配には逆らえないのでありました。
 それに何より、午前中からずっと社には居なかったのでありますから、形式的にもその許可を取るにも取れない訳であります。それを不興がるのは子供の無い物強請りと同じでありますか。不興を表明したいけれど、しかしうっかりそんな恥ずかしい姿は体裁と自尊心に掛けて見せられないと云う気持ちのざわつきが、つまりこの語尾の丁寧さとして表わされたのでありましょう。まあ、片久那制作部長の方はそんな土師尾営業部長の心中の波立ち等には全く無関心と云った風情で、頑治さんの方に言葉を向けるのでありました、
「また何かあったら制作の仕事を手伝って貰うから、よろしくな」
「判りました。じゃあ、今日はこれで上がらせて頂きます」
 頑治さんは片久那制作部長に一礼して那間裕子女史の席から立つのでありました。

 頑治さんは倉庫に戻るのでありました。頑治さんが制作部の仕事を手伝っている間、出雲さんが代わりに業務仕事をしてくれていたのでありました。
「ああ、後は俺がやりますよ」
 頑治さんは未だ作業台で荷物を梱包している出雲さんに声を掛けるのでありました。
「いや、もうこの一個で終わりですから」
 出雲さんは自分で梱包作業を続けるのでありました。
「済みませんねえ、出張前の忙しい時に」
「いいえ、出張の用意は然程の事は無いし、業務の仕事も今日は安藤坂物産からキーホルダーを引き取って来るのと、この五個口の荷物の発送だけだったから」
 出雲さんはそう云っている間に梱包を終えるのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 148 [あなたのとりこ 5 創作]

 頑治さんは集荷を依頼する電話を運送会社にかけるのでありました。
「トラックが来たら後は俺が出荷しますから、もうここは上って構わないですよ」
 頑治さんは出雲さんから発送指示書を受け取りながら云うのでありました。
「それじゃあ、俺は上がります。後はよろしくお願いします」
 明日から出張に出る出雲さんが云う、後はよろしく、と云う言葉には、今梱包した荷物の出荷の件もあるけれど、冬のボーナスに関しての事もあるのかなと頑治さんはふと考えるのでありました。しかし出雲さんのあっけらかんとした表情からは、特段そんな複数の意味あいを籠めた言葉のようではないのでありました。頑治さんの気の回し過ぎでありましょう。でも、はてさて、冬のバーナスの支給は一体どうなるのでありましょうや。

   冬のボーナス

 月曜日に集まったのは東北出張に出ている出雲さんを除いた五人でありました。五人は会社が引けた順に三々五々、まあ、正確には二一二と云う風になるのでありましたが、御茶ノ水駅に程近いウィーンと云う大きな喫茶店の二階席に参集するのでありました。最後の均目さんと那間裕子女史が来た時には午後六時半を回っているのでありました。
 頑治さんは五時半過ぎに、日曜日に信州方面出張から帰って来て、本来は代休を取る心算でいたけれど、この会合のために態々出社して来た袁満さんと一緒に五人の中で最も早く到着するのでありました。すぐ後から三人がぼちぼち来るからとウエイターに告げて六人掛けの席に着くと、二人はホットコーヒー-を注文するのでありました。
「何か動きはあったのかな、金曜日以降」
 袁満さんがコーヒーが来る前に頑治さんに訊くのでありました。
「いや、特には。土曜日と日曜日は会社は休みでしたからね」
「ああ、そりゃあそうだな」
 袁満さんはそう云って頷くのでありました。まあ、そんな事は判り切った事には違いないのでありましょうし、袁満さんもそれを承知の上で、同席者の頑治さんとの間の手持無沙汰を紛らわす一種の愛想として皮切りにそう云う事を訊いたのでありましょう。
 そうこうしていると山尾主任が一人でやって来るのでありました。山尾主任もコーヒーを注文してそれが席に運ばれて来る辺りで、那間裕子女史と均目さんが十分程の時間差で到着するのでありました。二人共皆と同じくコーヒーを注文するのでありました。
「ところで、今日のこの会合に、同じ従業員で立場としては俺達と無関係ではない、日比さんと甲斐さんの二人は、特に呼ばなくて良かったんですかね?」
 袁満さんが山尾主任に向かって訊ねるのでありました。
「それは俺も考えたんだけど、今日の処は何となく遠慮があって、声は掛けなかった」
 山尾主任がコーヒーカップを口から離して云うのでありました。「同じ従業員と云っても、あの二人は俺達とは少し違うような立場だからね」
「まあ確かに。それに特に甲斐さんと俺達の間には、ちょっと距離感もある感じだし」
(続)
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あなたのとりこ 149 [あなたのとりこ 5 創作]

「二人共社員歴も長いし、大日本地名総覧社時代からの人だから」
 つまり日比課長と甲斐計子女史は会社での年季が長い分、土師尾営業部長や片久那制作部長との関係の濃密さは自分達とは違うだろうし、年齢にしても日比課長は両部長より上で甲斐計子女史は同年齢でありますから、気分的な近しさは向こうの側にあるように思えると云う事を山尾主任は云っているのでありましょう。
「誼と云う点で俺達より両部長の方により近いと云う事か」
 均目さんがまるで独り言のような云い方をするのでありました。「だからここで話した内容が、後ですっかり両部長の耳に流れる危険があるって事だ」
「ま、その危険も無いとは云えないからね」
 山尾主任は警戒心を披歴しながらコーヒーを一口飲むのでありました。
「二人を呼ばなかった理由は判ったわ。それは良いとして早く本題に入りましょうよ」
 那間裕子女史が集まった本来の目的であるボーナス支給日の対応についての話し合いをせかすのでありました。この会合の後に、何か他の用があるのかしらと頑治さんは思うのでありましたが、それは特に訊く必要も無いのでありました。
「じゃあ先ず、幾つかのケースを想定して対応の仕方を決めて置こう」
 議長格の山尾主任が四人の顔を見渡すのでありましたが、四人は特段異議が無かったから夫々に頷いて見せるのでありました。その頷きを確認して、山尾主任は空気を改める心算か一呼吸置いてから後を続けるのでありました。
「先ず例年より少ないながら一応、二か月分と云う支給額があった場合だけど」
「まあ、額には不満はあるけど、でも通例に則った支給方法なんだから、それは納得するしか無いかな。今迄も額の多い少ないはその年に依ってバラついていたから」
 袁満さんが顰め面をして口を尖らせながら繰り言みたいに云うのでありました。
「そうね。二か月だった事も過去にあったかな」
 山尾主任が頷くのでありました。「じゃあ、この場合は特に何も対応しないで、一応素直に貰って置くと云う事で良いかな?」
 山尾主任が一同を右回りに見回すと、袁満さんと均目さんは渋面で頷いて見せるのでありましたが、那間裕子女史は目立って面白くなさそうに眉間に皺を寄せてゆっくりと首を横に何度か振るのでありました。しかしこの首の横振りは不同意を表明していると云うよりは、仕方が無いと観念する気持ちを力無く表する仕草でありましたか。
「じゃあ、一か月分だったら?」
 山尾主任がそう云いながらまた一同を見回すのでありました。
「これも支給方法は問題ないから、納得するしかないか」
 袁満さんがさっきより余程口を尖らせるのでありました。
「いや、一か月となると、おいそれとは納得し難いなあ」
 均目さんがすぐに声を上げるのでありました。
「そうね、一か月は少なすぎるわね。今までもそんな少額は無かったんだし」
 那間裕子氏が空かさず同調するのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 150 [あなたのとりこ 5 創作]

「じゃあ、一か月分だったら皆で抗議する事になるかな。つまり抗議するかしないかの分かれ目は一か月以下と云う金額になる訳だな」
 別に態々そうする必要は無いと思われるのでありましたが、山尾主任は上着のポケットから手帳を取り出して念のためかその辺りをメモするのでありました。なかなか律義と云うのか、几帳面で手堅い性格なのでありましょう。
「そうじゃないわよ。二か月分を切ったら抗議すると云うことになるんじゃないの」
 那間裕子女史が慌てて訂正するのでありました。
「ああそうか」
 山尾主任は頷きながら手帳の記述を書き直すのでありましたが、ふと手を止めて那間裕子女史を見るのでありました。「一か月半とかだったら、抗議するんだよね?」
「一か月半も当然抗議よ」
 那間裕子女史は当たり前だと云った口調で応えるのでありました。
「一か月と半分を少し超えてと六分とか七分とかだったら?」
「抗議よ。当然じゃない」
 那間裕子女史は面倒臭そうに眉を顰めるのでありました。「二か月が限界よ」
「今迄の例からして一か月とか一か月半とか云う、ある程度切の好い額はあっても、六分とか七分なんて云う半端な数字は向こうも提示しないんじゃないですか」
 那間裕子女史の横に座っている均目さんが口を挟むのでありました。
「成程ね。それもそうだな。じゃあ、二か月を切ったら抗議、と」
 山尾主任はまた手帳に何やら書き入れるのでありました。その様子を見ながら那間裕子女史はげんなりの溜息を漏らすのを遠慮しないのでありました。

 手帳上で動いていた小振りの鉛筆の動きを止めると、山尾主任は目線を上げてまた皆を見渡しながら次の話しに移ろうとするのでありました。
「じゃあ、抗議の仕方の方に話しを移すけど」
「誰に抗議するんだろう?」
 袁満さんが山尾主任に、と云う風ではなく、誰にともなく問うのでありました。
「そりゃあ当然、先ず土師尾営業部長に、と云う事になるだろうな。実質は別にして一応体裁上は会社の中で社長に次ぐ地位なんだから」
 山尾主任が小振りの鉛筆を弄びながら応えるのでありました。
「片久那制作部長は無視ですか? ボーナスを出すとか出さないとか、その額については片久那制作部長の方がより強く関与している筈なのに」
「無視と云う訳じゃないけど、先ずは土師尾営業部長の方に、と云う事だよ」
「土師尾営業部長に何か云っても暖簾に腕押しか、そうじゃなかったら自分だけが責められていると早飲み込みして、いきなり錯乱して怒り出したら話しにも何もならないんじゃないですかね。細かな、個々に対する支給額とか実際の数字に関しては、あの人は殆どタッチしていなくて、すっかり片久那制作部長に任せ放しでしょうからね」
(続)
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