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あなたのとりこ 2 創作 ブログトップ

あなたのとりこ 31 [あなたのとりこ 2 創作]

 袁満さんは車の後部ハッチを開けて積まれている段ボールの荷を下ろし始めるのでありました。何処からか荷物を引き取って来たのでありましょうか。取り敢えず頑治さんは荷下ろしを手伝うために車の中の段ボールに手を出すのでありました。
「ああどうも」
 袁満さんは頑治さんにまた顎を引くような仕草をしながら礼を云うのでありました。この袁満さんと云う人は何に付けても「ああどうも」と先ず云うのが口癖のようであります。当人としては無難な接頭文句みたいな心算なのでありましょうが、頑治さんはその如何にも一本調子の繰り返しに何処となく煩さを感じるのでありました。
「製本所か何処かから引きとって来た荷物ですか、これは?」
 頑治さんが倉庫内に四つ程下ろされた段ボールに目を遣りながら訊くのでありました。その段ボールの角は少し拉げていたり蓋の部分がヨレヨレになっていて、とても新品とは云い難い代物であったからやや不審に思ってそう訊いたのでありました。
「いや、出張に持って行った分の余りだよ」
「出張、ですか」
「そう。最初山梨から信州、それから岐阜を回って愛知に出て、その後は静岡の浜名湖とか伊豆とか神奈川の箱根とか湯河原とかを回って来たんだよ」
「中部地方をぐるっと、と云った感じですね」
 頑治さんは日本地図を頭の中に思い浮かべるのでありました。
「そう、十日間でね」
 その旅程を仕事をしながら十日間で巡るのが強行軍なのか然程でもないのか判らなかったから、頑治さんはここで驚いて見せるべきかどうか少し迷うのでありました。
「なかなか長い出張ですね」
「そうね。長いと云えば長いね」
 袁満さんは淡泊な顔で頷くのでありました。「でも出張は何時もそんなもんだよ」
「ああそうですか」
 出張仕事の内容が知れないから頑治さんは曖昧な頷きをするのでありました。「お聞きしたところでは、出張先は観光地が多いみたいですね」
「多いと云うか、観光地ばかりだよ。観光地の土産物屋とかホテルとか国民宿舎とかを回るんだよ。そこで扱って貰っているウチの商品の補充をしたり、売れた分の集金をしたりとかね。まあ云ってみれば、富山の薬売りみたいな仕事かな」
「へえ、富山の薬売り、ですか」
「みたいな感じ、だよ。ウチの会社は薬は扱っていないから」
「ああそうですか」
 薬は商っていないと云う事は頑治さんも既に知っているのでありましたし、袁満さんが出張の様を紹介するのに富山の薬売りを例として出したと云うのは端からちゃんと判っていたのでありました。袁満さんは頑治さんが、ひょっとしたら薬も商っていると自分の言葉をうっかり勘違いするといけないと苦労性に危惧したのでありましょうか。
(続)
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あなたのとりこ 32 [あなたのとりこ 2 創作]

 物堅いと云うのか諄いと云うのか。しかしこれも、一種の煩さではありますか。まあそれは兎も角として、袁満さんと云う人は屹度几帳面な性格の人なのでありましょう。
 袁満さんは段ボールを下ろし終わると、売れ残って持ち帰ったのであろう中身の数を確認してから倉庫内の元々在った棚へそれを仕舞うために運ぶのでありました。
「あれ、商品の置き場所を変えたの?」
 奥から袁満さんの声が聞こえるのでありました。明らかに頑治さんに訊いているのでありましょうから、頑治さんは声の方へ向かうのでありました。
「いや、そこの棚に在った物は他に動かしてはいません。単に整頓していたのです」
「ふうん。いやね、何時もと違って妙に綺麗に荷物が積み上げられているから、置き場所を移動したのかと思ってさ」
 袁満さんはそう云いながら棚の段ボールの中身を点検するのでありました。点検の結果、ただ単に棚の見てくれが綺麗に整理整頓されただけである事を知って、安心したようにそこに自分が持ち帰った段ボールを、折角綺麗になった棚を乱さないように気を付けながら仕舞うのでありました。この人はぞんざいな性格ではなのは確かなようであります。
「棚が綺麗に片づいていると気持ちが良いね」
 袁満さんは荷を棚に納め終えてから手伝った頑治さんに笑いかけるのでありました。ちなみに云っておけば、手伝うために手を出した頑治さんに「ああどうも」と決まり文句の礼辞を弄するのは件の如し、でありました、
「片付いていた方が出し入れも効率的かと思いまして」
「確かにね。でも、ええと、・・・」
 袁満さんはそこで言葉を切って頑治さんの顔を覗き込むのでありました。「さっき聞いたんだけど、何て云う名前だったっけ?」
「唐目です」
「ああそうそう、唐目君か。その唐目君がそう云う心算でも、多分整頓する傍から刃葉さんが無神経に無茶苦茶にすると思うよ」
「そうですかね」
「そうに決まっているよ。あの人は整理整頓とか云う行為に全く無関心な人だから」
「ああそうですか」
 確かにそうかも知れないと頑治さんは思うのでありました。そしてそれは、池袋の宇留斉製本所から帰って来た刃葉さんが矢張り見事に実証してくれるのでありました。

 袁満さんが上の事務所に引き上げてから暫くすると刃葉さんが帰って来るのでありました。袁満さんは上に行く時に自分の車を駐車場の昇降機の上段に上げていたのでありましたが、その空いた下のスペースに刃葉さんの些か横着に運転する車が、如何にもせっかちそうに入り込んで来て急ブレーキ音を響かせて止まるのでありました。
 そう云うがさつな駐車の仕方は、屹度刃葉さんの仕業に違いなかろうと頑治さんは直感するのでありましたが、ま、見事に御明算なのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 33 [あなたのとりこ 2 創作]

 刃葉さんが池袋の宇留斉製本所から引き取って来たであろう荷物下ろしを手伝うために、頑治さんは倉庫出入り口に向かうのでありました。車は駐車スペースにバックで入って来て、やや斜めに停めてあるのでありました。矢張りがさつな駐車の仕方であります。後ろを倉庫扉にぶつけなかっただけ良かったと云えば良かったと云うものであります。
 刃葉さんは降りて来て車の後部ハッチを開くのでありました。その途端満載された段ボール函の上に載せていたのであろう紙の束が車外に零れ落ちるのでありました。刃葉さんは自分の不始末なのに、如何にも迷惑そうに舌打ちなんぞをするのでありました。
 見ると表面をビニール加圧貼り加工してある大判の地図のような物でありました。成程表面加工してあるために重ねた同士が動き易いから、乱暴な車の停車に耐え兼ねて、慣性の法則に依って後部ハッチ際まで滑って来ていたのでありましょう。
 刃葉さんは面倒臭そうに先ずその落ちた紙の束を拾うのでありました。頑治さんもそれを先ず手伝うのでありました。それから段ボール函の搬入であります。
 見ていると羽葉さんは下ろした段ボール函を手当たり次第全く無作為に、倉庫出入り口近くの空いているスペースのある棚に放り込んでいるのでありました。
「この、引き取って来た商品は何ですか?」
 何となく不安に駆られた頑治さんが作業中の刃葉さんに訊ねるのでありました。
「観光絵地図の北海道と東北だよ」
 先程整理整頓していた中に恐らくそれと思しき品があったのを頑治さんは覚えていて、それは確か倉庫最奥の棚に仕舞われていた筈でありました。取り敢えず出入り口近くの棚に下ろしてから後で本来の在庫位置へ移動する心算なのかも知れませんが、刃葉さんの事でありますからひょっとしたらこの儘ここへ置き放しにする了見なのかも知れません。
 案じた通り刃葉さんは荷を下ろし終えると作業台の方行って仕舞うのでありました。
「観光絵地図の北海道と東北なら、仕舞う所は奥の棚じゃないんですか?」
「ああそうだけど」
 刃葉さんは煩わしそうに応えるのでありました。「後でちゃんと移動させるよ」
 云い草からしてそれは信用ならないと踏んだ頑治さんは秘かに溜息をつくのでありました。ずぼらな刃葉さんは、成程こうやって倉庫の中を収拾不可能な未整理状態にして仕舞うのでありましょう。これでは頑治さんが幾ら律義に庫内の整理整頓に努めたとしても、それは全く無意味な仕業であり、徒労に帰すしかないと云うものでありますか。
 刃葉さんが当てにならない以上頑治さんが働くしかないのであります。頑治さんは段ボール函の横に記してある北海道、東北の別を確認しながらその商品を本来の位置へと移動させるのでありました。ちょっと当て付けがましい行為かと一応刃葉さんの心証を気遣うのでありましたが、まあ、丁度倉庫の整理をしている最中で、その一環であります。
 見兼ねたのか刃葉さんが近寄って来るのでありました。
「唐目君は几帳面なタイプのようだね」
 刃葉さんは苦笑してから頑治さんを手伝い始めるのでありました。自分が几帳面と云うのではなく貴方ががさつ過ぎるのです、と頑治さんは口の中で呟くのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 34 [あなたのとりこ 2 創作]

 刃葉さんが持ち帰った荷を収め了えた後、頑治さんはその前から取り掛かっていた棚の整理整頓作業を続けるのでありました。その間刃葉さんは何の用事があるのか倉庫を出たり入ったりしているのでありましたが、これは午後五時の終業時間まで無意味に時間を潰している営為としか頑治さんには見えないのでありました。
「今日はこれで上がろう。初日からそんなに張り切っていると後が持たないぜ」
 これは傍に遣って来て、棚の上で在庫一覧表を片手に荷を移動させている頑治さんに掛けた刃葉さんの笑いながらの言葉でありました。頑治さんはその言葉に、この会社に於ける仕事要領の伊呂波も未だ知らないくせして、出社初日から嫌に甲斐々々しく働いている頑治さんへの当て擦りが下塗りしてあると感じ取るのでありました。
 瞬間、頑治さんは眉宇を寄せるのでありました。半人前が聞いた風な科白をぬかすなとすぐに言葉を返したい衝動に駆られるのでありましたが、そこはグッと堪えるのでありました。初日早々、先輩社員と喧嘩をするのもいただけない話しであります。

 上の事務所に戻ると帰社していた土師尾営業部長が刃葉さんを待ち受けているのでありました。土師尾営業部長は刃葉さんを手招きするのでありました。
「商品カタログを二百部、至急福岡の姪浜企画に送ってくれないか」
 土師尾営業部長は発送指示書を刃葉さんの方に差し出すのでありました。
「もう、仕事時間外じゃないですか」
 刃葉さんは自分の腕時計を見ながら露骨に舌打ちをするのでありました。
「それはそうだけど、頼むよ」
「俺はこれから予定があるんですよ」
 刃葉さんは鮸膠も無いのでありました。この部下の応対に上司たる土師尾営業部長が先程の頑治さんのようにムッとした顔をするのでありました。
「今日中に送らないと明後日までに九州には届かないだろう」
「もっと早く指示して貰わないとダメですよ」
「今電話があったんだよ。大至急って」
「兎に角俺は今日はダメです。もう、すぐに帰りますよ。そんなに急ぐんだったら部長が自分で送れば良いじゃないですか」
 羽葉さんの高飛車でつれない対応に土師尾営業部長が思わず目を吊り上げるのでありましたが、何やら険悪な雰囲気であります。傍の甲斐計子女史はこの云い争いに関わらないために、机の上に開いた帳簿に目を落として無関心を決め込んでいるのでありました。背を向けて座っている日比課長も、日比課長の対面に座っている出張帰りの袁満さんも、素知らぬ風に自分の机の上に目を落して無関係を装っているのでありました。
「あのう、自分が送りましょうか?」
 見兼ねた頑治さんが声を掛けるのでありました。睨み合っていた土師尾営業部長と刃葉さんが同時に頑治さんの方に顔を向けるのでありました。二人の怒気を露わにしていた表情が、仲良く一緒に緩むのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 35 [あなたのとりこ 2 創作]

「そうか、それなら唐目君に頼もうか」
 土師尾営業部長は語気に大いに丸みを添えるのでありました。
「では、発送指示書をください」
 差し出しされた頑治さんの掌に、土師尾営業部長は発送指示書を近づけながら険のある横目で刃葉さんを睨むのでありましたが、刃葉さんの方は何処吹く風といった風に全くの無表情で帰り支度に取り掛かるのでありました。
「近くに運送会社の集荷を取り扱っている所がありますか?」
 今から運送会社に電話して集荷のトラックが来るのを待っているのも面倒なので、頑治さんは梱包を終えたら荷を自分で持ち込もうと思ってそう訊ねるのでありましたが、土師尾営業部長は戸惑ったように首を傾げるのでありました。どうやら営業部長ともなるとそう云った業務の細々した具体的な辺りはとんと疎いようであります。
「郵便局の裏に配送所があるよ。そこで集荷もやってくれる」
 背後から袁満さんの声が掛かるのでありました。
「ええと、郵便局と云うのは何処にあるのでしょうか?」
 頑治さんは袁満さんの方に顔を向けるのでありました。
「この辺の地理はあんまり知らないかな、唐目君は」
「ええ、書店と食い物屋やなんかは知っているんですが、郵便局の在り処なんかは」
「それなら荷造りが終わったら知らせてくれれば、案内がてら後で俺が一緒に行くよ。俺は未だもう少し残っているからさあ」
「ああそうですか。それは有難うございます」
 頑治さんは発送指示書を手にまた下の倉庫に逆戻りするのでありました。
 丁度頑治さんが荷造りを終えた頃合いで、袁満さんが倉庫に現れるのでありました。
「おや、手早いね」
 袁満さんは梱包された小振りの段ボール函を見ながら云うのでありました。「梱包なんかは前にやった経験があるの?」
「ええ。以前にアルバイトでやった事はあります」
「バンドもちゃんと定式通り掛けてあるし」
 袁満さんは荷物に回してあるビニールバンドの締め具合を確かめるように、人差し指を差し入れてバンドを少し持ち上げてから弾いてみるのでありました。「刃葉さんがやると横のバンドを先に締めた後から縦のバンドを締めたり、どう云う了見なのか縦横互い違いに回してあったりで全く好い加減だもの。それじゃ横バンドを締める意味が無い」
「ああ、そうですか」
 袁満さんの刃葉さんに対する愚痴っぽい云い方に、頑治さんはおいそれと同調するのも一種軽率かと考えて遠慮気味にこう無抑揚に返すしかないのでありました、
「まあ良いや。それじゃあ早速車に積もうか」
 袁満さんはそう云って荷の上面を中指で二度程軽打してから、自らその荷を持って駐車場の車に積み込むのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 36 [あなたのとりこ 2 創作]

「配送所は近いのですか?」
 頑治さんが訊くと自ら運転席に座った袁満さんは一つ頷くのでありました。
「すぐそこだよ。歩いて持って行っても大丈夫なくらいだけど」
 袁満さんはそう云い終らない内に右折にハンドルを切るのでありました。袁満さんは何時も車で彼方此方に出張しているようだから運転は極めてスムーズな感じであります。
 成程車に乗ってほんの一二分走った辺りに目指す配送所はあるのでありました。すぐ近所、と云ったところでありますか。車が止まると頑治さんは助手席から降りて後ろのハッチを開けて荷を取り出し、配送所の中に入るのでありました。袁満さんも一緒に付いて来るのでありましたが、集荷依頼は頑治さんが丁度店のカウンターに居た女子社員に荷物と一緒に予め書いておいた発送伝票を手渡してあっさり完了するのでありました。
 帰りは頑治さんが運転を代わるのでありました。
「どうもあれこれ有難うございました」
 頑治さんはハンドルを操りながら助手席に座る袁満さんに頭を下げるのでありました。
「なあに、どういたしまして」
 袁満さんは如何にも人の良さそうな表情をして笑うのでありました。「ところで、唐目君はこの後何か予定はあるの?」
「いや、特には」
「ああそう。唐目君の入社歓迎と云う名目で、未だ会社に残っている連中でそこいら辺で一杯やろうか、と云う話しが持ち上がっているんだけど」
「ああそうですか。良いですね」
「大丈夫かい?」
「はい、勿論大丈夫です」
 ここまで会話したところで車は会社に帰り着くのでありました。

 倉庫内に置いていた自分のネクタイを取って袁満さんと一緒に三階の事務所に上がると、営業部のスペースには日比課長が残っているのでありました。土師尾営業部長に発送伝票の控えを渡そうと思っていたのでありますが、その姿は無いのでありました。
「営業部長はもう帰られたのですか?」
 頑治さんは発送伝票の控えを持った儘日比課長に訊くのでありました。
「ああ、あの人はとっくに帰ったよ」
「ああそうですか」
 頑治さんは発送伝票の控えを土師尾営業部長の机の上に置くのでありました。
「人に時間外の仕事を頼んだんだから、普通は待っているものなんだけどね」
 そう云う日比課長の言葉は如何にも不愉快そうな調子でありましたか。
「そんな神経なんか更々無いよ。自分の事しか考えていないんだから」
 これはロッカーを開けて上着を取り出しながらの袁満さんの言葉でありました。袁満さんは着ていた作業服を脱いで手早く取り出した上着に着替えるのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 37 [あなたのとりこ 2 創作]

「そんな事は疾うに判ってはいるけどさあ」
 日比課長は忌々しそうに云うのでありました。
 制作部の方から片久那制作部長がこちらに遣って来るのでありました。その後に山尾主任と均目さんが出て来て、均目さんが制作部スペースの電気を消すのでありました。制作部もどうやら本日の仕事はここで仕舞いのようであります。
「そろそろ行こうよ」
 片久那制作部長が日比課長にそう声を掛けると、日比課長は机の上に広げていた書類を引き出しの中に片付けるのでありました。本日一緒に宴を張るのは営業部の日比課長と袁満さん、それに制作部の三人と云う顔触れのようであります。
 経理の甲斐計子女史と制作部の那間裕子女史、それに用事があると云っていた業務の刃葉さんと土師尾営業部長は欠席でありました。甲斐計子女史は元々同僚との会社の外での付き合いはあっさりした方だし、那間裕子女史はあれこれ私事多忙のようであるし、刃葉さんは空手の練習にでも行くのでありましょう。それに土師尾営業部長は仕事以外での社員との交流は全く無く、社員の方も彼の人を疎んじているような気配でありましたか。
 頑治さんも入れた六人は会社を出ると神保町駅の方に銘々歩き出すのでありました。向かうのは途中の人生通り中程に在る居酒屋でありました。
 日比課長がすっかり馴染みと云った風情で応対に出て来た店員に人数を申告してから、その店員の同意を得る暇も有らばこそ奥に設えてある畳敷きの座席の方へさっさと歩き進むのでありました。店内はそんなに立て込んではいなかったから、初動を出し抜かれた店員が趨歩で日比課長を追い越し、畳敷きの上に急ぎ上がって座卓二つをくっ付けて、六人が囲むにしては余裕綽々の宴席を調えてくれるのでありました。
 件の六人は先ずはビールで乾杯してから、ぼちぼち運ばれて来る料理に夫々おっとりと手を出し始めるのでありました。
「唐目君は何処に住んでいるの?」
 袁満さんがグリーンアスパラの豚肉巻きを齧りながら訊くのでありました。
「本郷の方です」
「へえ。それなら若しかして会社には歩いて通勤するの?」
「はい。徒歩で十五分程度でしょうか」
「良いねえ、近くて」
 これは頑治さんから一番離れた席に座っている片久那制作部長が応ずる声であります。聞けば片久那制作部長は八王子の方に住まいを構えていると云う事でありました。
「本郷なら大木目製本所と近いのかな?」
 これは山尾主任の質問でありました。
「そこは確か本郷六丁目方に在るんですよね?」
「そう。東大農学部の手前で道向かい」
「自分が住んでいるのは二丁目の方で、近いと云えば近いし、近くないと云えば、まあ、近くないと云った感じになりますかねえ」
(続)
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あなたのとりこ 38 [あなたのとりこ 2 創作]

「本郷に住んでいてもあんまりそっちの方には遠征しないか」
「そうですね。以前散歩で根津神社とか六義園に行った時に通ったくらいで、知人も居なければ今までこれといった縁もありませんでしたからねえ」
「本郷二丁目に住んでいるのなら、後楽園球場に近いかな」
 頑治さんの向い側正面に座る日比課長が言葉を挟むのでありました。
「ええ。壱岐坂を下りきるとすぐですね」
「俺は時々そこに巨人の試合を観に行くよ」
「ああそうですか。ほんの偶にですが王さんとかががホームランを打った時、そこで上がる大歓声が風に乗ってウチのアパートまで聞こえて来る事がありますよ」
「へえ、それは良いねえ」
 別に良くも悪くもないやと野球に然程の興味が無い頑治さんは思うのでありましたが、そう云っては如何にも愛想が無いのでニコニコと笑って見せるのでありました。
「野球とか、好きかい?」
 日比課長が質問を重ねるのでありました。
「いや、それ程でもありません。ラグビーは秩父宮に学校時代の友人に誘われて一度行った事がありますが、野球観戦した事は今まで一度もありませんね」
「ふうん。そうかい」
 日比課長は頑治さんの応えに些か興醒めしたような口調で返すのでありました。
「唐目君の趣味は何?」
 また山尾主任が訊くのでありました。
「いやあ、実はこれと云ってないのです」
「寄席通い、とか云っていなかったっけ?」
 片久那制作部長が言葉を割り込ませるのでありました。
「ああ、寄席には偶に行きます」
 就職面接の席で土師尾営業部長とそのような遣り取りをしたので、そこに一緒に居た片久那制作部長はそれを覚えていたのでありましょう。頑治さんの就職面接なんぞは、呼ばれたから仕方なく同席しているだけで、本当は何の興味も無いと云った態度であったけれど、そこで話された会話はちゃんと聞いていた模様であります。
「落語とか漫才とか、演芸ものが好きなの?」
 山尾主任が訊くのでありありました。
「ええまあ、好きな方ですね。寄席の、雰囲気が好きなんですよ」
「笑うのが好きか、とか真顔で訊かれて面食らったような顔をしていたもんなあ」
 片久那制作部長が可笑しそうに云うのでありました。これは就職面接で土師尾営業部長からされた質問でありました。その土師尾営業部長の、ある意味間抜けな質問をさも揶揄するような口調でここでこうしてものす辺り、片久那制作部長は土師尾営業部長の事を実はあんまり買ってはいないのかも知れないと頑治さんは憶測するのでありました。
「唐目君は笑うのが好きなの?」
(続)
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あなたのとりこ 39 [あなたのとりこ 2 創作]

 山尾主任が、あの時の土師尾営業部長のような至極真面目な面持ちで訊くのでありました。頑治さんは思わず山尾さんの顔を凝視するのでありました。
「おいおい、山尾君までそんな間抜けな質問をして唐目君を困らせるのかい」
 片久那制作部長がげんなりしたような顔をするのでありました。この質問がどうして片久那制作部長をげんなりさせるのか、それに頑治さんを困らせるのか、山尾さんは良く判らないと云った表情をしているのでありました。ひょっとしたら山尾さんは土師尾営業部長と感受性の性向に於いて同類なのかしらと、会社内でこれから先、大いに頼りにしようと思っていた矢先であったから頑治さんはちょっと不安になるのでありました。

 一通り頑治さんに対して、まあ、初対面の人物にするありがちの質問が一段落すると、会社や仕事上の愚痴やら社員個々の人物評と云ったところに銘々の酒席での雑談は推移するのでありました。頑治さんは未だそう云った話しに入りこむだけの予備知識も情報も何も無かったから、片耳で聞きながら黙してビールを傾けているのでありました。
 片久那制作部長はそれを聞いているのかいないのか判然としないような様子で一杯目のビールを飲み干した後、日本酒の冷を升で注文して黙々と孤高に飲んでいるのでありました。日比課長は横に座る袁満さんが結婚願望が強いような辺りを頻りにからかい半分にちょっかいを出しているのでありましたし、袁満さんもそれを別に不愉快にも思わないようで、照れたり面目無さがったりしながら笑って受け応えているのでありました。
 この二人の遣り取りに時々山尾主任も日比課長側で加わるのでありました。そう云った諸々の談笑を聞きながら頑治さんは、ここに居る、それにここに居ない贈答社と云う会社に集う人物達のプロフィールのほんの一端なんぞを垣間見るのでありました。
 片久那制作部長は大学時代は全共闘の闘士だったようで、全共闘運動が挫折した後、在籍していた或る大学を三年で中退して、その時既に奥さんと結婚していたものだから何でも良いから働き口を見付けるため贈答社の前身である大日本地名総覧社と云う四十七都道府県別地図とその県の市町村名、大字名、小字名が網羅された主に公官庁に納入される分厚い大判の書籍を作る会社に編集者として入社したという事でありました。因みにこの大日本地名総覧社はその後暫くして経営が行き詰まり、主要書籍の版権を他の出版社に譲渡して、新たにギフト関連業の贈答社となったと云う経緯だそうであります。
 社の業態や外形が大きく変わった後も片久那制作部長はその儘贈答社に残り、今の制作部長と云う地位に就いたという事でありました。大いに頼り甲斐のある御仁ではあり、なかなかの切れ者であり食えない人でもあり、非妥協的で狷介で少々変人でもありで、その偉丈夫振りも手伝って社員の畏怖を一心に集めていると云った感じでありましょうか。まあ、少々煙たがられてもいるような嫌いはあるようでありますが。
 それに比べて、と云うか片久那制作部長の存在と竟々比較されて仕舞う故か、この席に居ない土師尾営業部長は社員の誉望を寂しい程集めてはいないようでありました。日比課長に依ればそれは小者が無理して大者ぶる浅はかさが鼻に付く故だそうであります。その童顔も、警戒心たっぷりに常に微動している目もそんな評判の裏付けでありましょう。
(続)
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あなたのとりこ 40 [あなたのとりこ 2 創作]

 土師尾営業部長は片久那制作部長とほぼ同じ頃大日本地名総覧社に、これも同じく編集者として入社したと云う事でありました。しかし贈答社になった後は色々と経緯があって営業部に籍を移して、その後はずっと営業の仕事をしてきた人のようであります。
 日比課長も大日本地名総覧社時代に二人に遅れる事二年で入社した人で、その時代の生き残りは経理の甲斐計子女史を入れて四人という事でありました。この会社が贈答社となったのは今から五年前の事だそうでありますが、古い人がすっかり辞めて仕舞って、残った若手四人が贈答社をこれ迄実質的に切り盛りしてきたと云う事になりますか。
 因みに贈答社の現社長は、本来は大日本地名総覧社と取引のあった紙の販売会社を経営している人だそうで、今でもその紙販売会社の社長でもあるそうであります。
「二階の階段脇に、株式会社吉田紙販売、と云う会社がありますが、そこが社長の兼業している紙の販売会社なのでしょうか?」
 話しの途中で頑治さんが日比課長に訊くと日比課長は数度頷くのでありました。
「そうそうそう。それにウチが入っているビルのオーナーでもあるよ。それだけじゃなくて東上野にももう一棟五階建てのビルを持っているかな」
「へえ。こんな聞き方は不謹慎かも知れませんが、社長は遣り手なのでしょうかね?」
「遣り手かどうかはよく知らないけど、苦労人ではあるかな」
 日比課長は手にしていたコップのビールをグイと開けるのでありました。「自分でリヤカーを引いてあっちから紙を仕入れてこっちに売りに行く、なんてな感じで、弟さんと二人で吉田紙販売を今の規模にしたとか云う話しを聞いた事があるよ」
「ふうん。大したものですね」
 頑治さんは、この社長なる人は自らの苦労を厭わず仕事に精を出す篤実な経営者なのであろうと勝手に頭の中にその人物像を描いたのでありました。
「縁あって大日本地名総覧社の経営も引き受ける事になったけど、まあ、五階建てのビル二棟のオーナーでもあり吉田紙販売の社長でもあるから、印刷やら製版やらその他の大日本地名総覧社と取引のあった色んな会社から頼まれて、仕方なく左前になった会社を引き受けたと云うのが実情だな。赤字にならなければ良いか、と云う程度の腹心算で」
「自分が社長になった限りは会社を前より大きくしよう、と云う秘かな目論見と云うのか野望と云うのか、そんなものはお有りにならなかったのでしょうかね?」
「まあ、無かったんじゃない。出版社のオーナーだと云う、云ってみれば名刺の飾り程度の了見だったんだと思うよ。実際大日本地名総覧社から贈答社になって、会社の規模も人員も、それに売り上げの方も小さくなったしね。おまけに出版社じゃなくなったし。社長としたら名刺の飾りと云う目論見もあっさりパーになったような具合だな」
 日比課長はそう云って皮肉っぽく笑うのでありました。隅の席で黙々と日本酒の升酒を呷っていた片久那制作部長が、その日比課長の云い草を聞いて少し眉を顰めるのを頑治さんは横目にチラと認めるのでありました。日比課長の方はそれには全く気づかなかったようで、空いた自分のコップに手酌でビールをドボドボトと注ぎ入れるのでありました。
「ところで唐目君、刃葉君には魂消ただろう」
(続)
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あなたのとりこ 41 [あなたのとりこ 2 創作]

 日比課長が話題を少々横滑りさせるのでありました。
「はあ。まあ。・・・」
 頑治さんは先輩社員に対しての弁えから、大いに遠慮がちに苦笑うのでありました。
「今迄、あんな妙な人は見た事が無かったねえ」
「妙と云うのか、好い加減と云うのか、適当と云うのか、・・・」
 この会話に山尾主任も加わるのでありました。

 山尾主任は頑治さんのコップにビールを注ぎ足そうとするのでありました。頑治さんは両手でコップを捧げ持ってそれを受けるのでありました。
「よくもまあ今まで、あんな調子で生きてこれたもんだとある意味感心するよ」
 今度は日比課長がそう云いながら山尾さんのコップにビールを注ぐのでありました。
「うっかり屋だから何をやらせても必ず一つ二つ抜けているし、丸っきり気は利かないし要領は悪いし、自分が仕出かしたポカでも他人事のように責任を全然感じていそうもないし、だから同じポカを何度も繰り返すし。典型的な、使えない人、だねあの人は」
 山尾主任が唾棄するような調子で並べ立てるのでありました。
「その辺を注意しても聞いているのかいないのか。寧ろそんな詰まらない事で一々目くじらを立てるな、なんて顔して笑っていて、まともに聞きもしない」
 日比課長が同調するのでありました。
「そうそう。逆にどう云う了見なのか注意しているこっちを見下すような顔している」
 山尾主任は一気にコップのビールを飲み干すのでありました。
「でも、刃葉さんはあれで結構傷付いているんですよ、本当は」
 今まで殆ど口を開かずに聞き役に徹していた均目さんが、脇からそっと会話に加わるのでありました。この思わぬ均目さんの闖入に日比課長と山尾主任は手にしていたコップを胸元で止めて均目さんの方を同時に見るのでありました。均目さんは山尾主任の空いたコップにビールを注ごうとして、瓶を傾けながら徐に差し出すのでありました。
「均目君も刃葉君の被害者の方だろうに、何で刃葉君を庇うんだい?」
 山尾主任が苦った顔で均目さんの酌を受けるのでありました。
「刃葉さんは要するにプライドの高い人なんですよ。ポカをやらかす自分を結構自分で責めているんです。でもまあプライドが高いから、人にそれを指摘されたり叱責されるのが苦手なんです。それで竟、不遜に見えるような態度を取ったりするんですよ」
「ほう、なかなかの分析家だな、均目君は」
 日比課長が皮肉っぽく云うのでありました。
「だからと云って万事好い加減なのは困るじゃないか。プライドが高いのなら、人に文句を云われない仕事をすれば良いんだ。別にそんなに難しいし仕事でもないんだし」
 山尾主任は与しないところを見せるのでありました。
「それはそうですが、刃葉さんの意地はそう云う方向には向かないんです」
 均目さんもなかなか後退りしないのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 42 [あなたのとりこ 2 創作]

「要するに、未だ子供って事だな」
 日比課長が至極簡単にそう結論するのでありました。
「或いはひょっとしたら、人が窺えないような高い志望を秘め持っているとか」
 均目さんは日比課長のコップにビールを注ぎ足すのでありました。「燕雀安んぞ鴻鵠の志を知らんや、なんて中国の箴言がありましたね」
「何だいそれは?」
 日比課長は均目さんの顔を覗き込むのでありました。
「陳渉の言葉かい」
 寡黙に升酒を飲んでいた片久那制作部長がここで急に言葉を発するのでありました。
「陳渉、と云うのは何処の誰ですか?」
 日比課長は片久那制作部長に遜った物腰で訊くのでありました。課長と部長と云うのもありはするのだろうけど、日比課長の言葉遣いには片久那制作部長に対する畏怖が籠っているように頑治さんには聞こえるのでありました。歳は日比課長の方が明らかに上でありましょうが、片久那制作部長には一目も二目も置いていると云った風であります。
「大昔の中国の、秦に対して最初に反乱を起こしたヤツだよ」
 片久那制作部長の物云いは恰も鴻鵠が、侮っている雀に向かって云うような調子でありましたか。それは聞きように依っては長幼の順を弁えない無礼な言葉遣いにも聞こえるのでありましたが、まあ、ざっくばらんの仲と云うのかも知れませんが。
「どう見ても大志があるようには見えないけどね」
 山尾さんが割り込むのでありました。「単に考えが幼稚なだけだね。それに万が一刃葉君に大志があったとしても、だからと云って仕事を疎かにしたり、不注意から大ポカをやらかして良い筈はない。そうでしょう、部長?」
 山尾さんは片久那制作部長の方を向いて至極真面目に問い掛けるのでありました。
「さあね」
 片久那制作部長は山尾主任の問いかけに対して有耶無耶に、応えるでも応えないでもないような無愛想な云い草をして、また升酒の嚥飲に没頭するのでありました。この鮸膠も無いような片久那制作部長の態度に山尾さんは少し気色ばむのでありました。
「部長は倉庫の様子を知らないから、刃葉君の好い加減さの被害が判らないんですよ」
「そうでもないよ」
 片久那制作部長はクールにあっさり、山尾主任の方に顔を向けるでもなく手にした升から視線を逸らす事無くそう返すのでありました。山尾主任の食い下がりが億劫そうであります。この冷淡で真面目に取り合わないような対応に山尾主任は益々熱り立つような素振りを見せるのでありましたが、日比課長がそれを宥めに掛かるのでありました。
「まあまあ山尾君、そんなに興奮するなよ。もう酔ったのかい」
「酔ってなんかいませんよ!」
 山尾主任は如何にも興奮気味に日比課長に食って掛かるのでありました。酔っていないと云うヤツは大体に於いて酔っているものだと頑治さんは秘かに思うのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 43 [あなたのとりこ 2 創作]

「ああそう? 何かちょっとくどくなってきたようだからさ」
「くどくなんかなっていませんよ!」
 山尾主任はあくまで抗議するのでありました。日比課長はちょっと持て余すような苦笑いを浮かべて山尾主任から視線を外すのでありました。
 袁満さんと均目さんはこの遣り取りを傍観しているのでありました。しかし冷ややかに無視していると云うのではなく、自分如きが嘴を挟むのは遠慮しておこうと云う、謹慎を装って非当事者である立場をあくまで確保しておこうとする一種の保身と、面倒臭がりがその態度に徹する心持ちの大半でありましょう。頑治さんもそっちの口であります。
「山尾君、そのくらいにしておけよ。日比さんは軽い冗談で酔ったのかと云っただけなんだから。それにここに居ないヤツの事を何やかやと論うのはフェアじゃないだろう」
 片久那制作部長が酒の入った升を鼻の位置に上げ持って、その上から覗く眼鏡越しの目をやや厳めしくして窘めるのでありました。これはなかなかに迫力のある目と声音とタイミングでありました。山尾主任は明らかにたじろぐのでありました。
「・・・判りました。確かにフェアじゃないからもう止めます」
 山尾主任は意地から、オドオドと云った態に見えないように片久那制作部長の顔に向けていた視線を外して、手にしていたビールのコップをグイと空けるのでありました。
 何となく場の空気が重くなったものだから、少しの間会話が途切れるのでありました。しかしいつまでも重苦しい儘では折角の酒や料理が不味くなるからか、日比課長は袁満さんのコップにビールを注ぎ入れながら再び、結婚願望が強い割りに捗々しく女性にちょっかいを出さないその弱気をからかい始めるのでありました。袁満さんもそうやってからかわれるのが然程不快でもないような素振りで相手をしているのでありました。
 片久那制作部長は相変わらず無言で、口元での升の水平と傾斜の繰り返し作業に始終しているのでありましたし、山尾主任は話す相手を失ったように、こちらもビールを手酌で自分のコップに注いでは口に運んでいるのでありました。頑治さんとしては時折コップを口に当てつつそんなテーブル上の様子を眺めているしか無いのでありましたが、もう一人取り残されたような風情の均目さんと目が合って、どちらともなく二人で、まあ互いの自己紹介を兼ねたような他愛の無い会話を交わしているのでありました。

 それから小一時間ばかりでこの酒宴はお開きになるのでありました。後半は参加者全員で唄あり隠し芸ありで大いに盛り上がると云った風ではなくて、何となく夫々勝手に飲み食いしながら尻窄みに果てたと云った印象でありましたか。
 この後一人で、神田に在る馴染みの居酒屋に行くと云う片久那制作部長、それにもう帰ると云う山尾主任と別れて、残った日比課長と袁満さん、それに均目さんの三人は新宿に出て飲み直すと云う話しが纏まるのでありました、頑治さんも誘われたので、別に断る理由も無かったものだから三人と一緒に神保町駅まで歩くのでありました。この三人が何時もの気さくな面子と云う辺りでありましょうか。歩きながら聞けば、今出張に出ているもう一人の営業部の若手社員も加わって時々会社帰りに飲むのだそうであります。
(続)
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あなたのとりこ 44 [あなたのとりこ 2 創作]

 新宿に出ると寄席の末廣亭近くの雑居ビルの、日比課長と袁満さんが時々通っていると云う洋風居酒屋に四人は入り込むのでありました。先ずは若いウエイターの男に人数を聞かれて、四人掛けのボックス席に案内されるのでありました。その店には袁満さん名義でウイスキーボトルがキープされていて、後はレーズンバターやら野菜スティックやらミックスピザやらのつまみ物を適当に頼んで、四人での二次会が始まるのでありました。
「山尾君は、冗談も洒落も通じない相変わらずの堅物で参るね」
 日比課長が水割りのグラスを傾けながら云うのでありました。
「酒量は結構すごいけど、あれですぐに酔っちゃうからね」
 袁満さんがそう受けるのでありました。日比課長に対してもうすっかりざっくばらんな言葉遣いで、日比課長の方もそれを不愉快そうにもしないところを見ると、これが二人のインフォーマルでの常態なのでありましょう。
「酔うとくどくなるからすぐ判る。本当はあんまり酒に強い方じゃないんだろうな」
 日比課長は一杯目の水割りグラスを口を突き出しながら最終角度まで傾けるのでありました。「まあ、そう云う袁満君も酒には強い方じゃけどな」
 均目さんが空いた日比課長のグラスを受け取って二杯目を作るのでありました。
「俺は大体が酒は好きな方じゃないもの。付き合い程度には飲むけどさ」
「饅頭とかチョコレートの口だな。ああ、それと女」
 日比課長がからかうのでありました。
「女ったって、そんなにモテないもの俺は」
「知ってるよ。でもこよなく好きではあると」
 袁満さんはそう云われても苦笑っても否定はしないのでありました。
「女好きなら日比さんの方が俺よりすごいじゃない。モテないのは同じだけどさ」
「いや、俺はそこそこモテるよ」
「金を遣ってモテるのは本当にモテると云うのとは違うし」
「袁満君はケチで金も遣わないから尚更モテないんだぞ」
「大きなお世話だよ。金使ってまでスケベ親父の評判は取りたくないもの」
 袁満さんはここは少し熱り立つのでありました。そう云うところを見ると、袁満さんは本当にケチなのかも知れないと頑治さんは冗談半分ながらに思うのでありました。
「ところで山尾さんが近々結婚する、と云うのは知ってますか?」
 均目さんが話頭を曲げるのでありました。
「いや、それは初耳だな」
 袁満さんが大袈裟に身を乗り出すのでありました。
「良くは知らないけど、何かそんな話しを甲斐さんから聞いた事があるかな」
 日比課長はそう云いながら、まるでつり合いを取るために袁満さんが身を乗り出した分を差し引くように椅子の背凭れに身を引くのでありました。「その相手の女と云うのは、名前とかどんな人なのかとか、均目君は知っているのかい?」
「いや、良くは知りませんが、何でも山登りのクラブで知り合った人だとか」
(続)
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あなたのとりこ 45 [あなたのとりこ 2 創作]

「ほう、山登りのクラブねえ」
「山尾さんは山登りが趣味なんですか?」
 頑治さんが遠慮がちに話しに割り込むのでありました。
「そうね。会社に入った頃は週末には必ず大きなリュックを背負って山登りしていたようだったな。ここのところは少し減っているみたいだけどね」
 日比課長が水割りグラスを傾けながら頑治さんを見て応えるのでありました。
「そりゃあ彼女が出来たのなら、山の方は減るだろうし」
 袁満さんが空いた自分のグラスに二杯目の水割りを自ら作りながら云うのでありました。見ていると大分に薄い水割りを作っているようでありますが、さっき酒には弱いと自ら云っていたのでありますから、これは均目さんに任せて濃くされるのを嫌っての事なのかも知れないと、どうでも良い事ではあるけれど頑治さんは推量するのでありました。
「でもその彼女さんは山登りのクラブで知り合った女の人なんだから、毎週末一緒に山登りに行っても良い訳じゃないですか」
 均目さんが、こちらも自分の二杯目を作りながら袁満さんの説に異を唱えるのでありました。その水割りは袁満さんのよりは随分濃い琥珀色をしているのでありました。
「ああそうか。それもそうだなあ」
 袁満さんが均目さんの異論に自説をあっさり引っ込めるのでありました。
「山で乳繰り合うよりも、互いの家とか新宿のこの辺やら池袋の安ラブホテル辺りにしけ込む方が金もそんなにかからないし簡単で良いんじゃないの」
 日比課長が卑俗な笑い声を立てるのでありました。
「何時もスケベ一直線の日比さんじゃあるまいし、そんな理由で山登りを減らしているとは思えないけどなあ。将来の結婚のために出費を控えているのかも知れない」
「山尾君は結構体裁を気にする方だからそんな理由は噯にも出さないけど、でも案外本音はそう云ったところかも知れないぜ」
 日比課長はあくまで卑俗に笑いながら自説に拘るのでありました。
「山尾さんが結婚されるのは何時頃なのですか?」
 頑治さんが均目さんに訊くのでありました。
「確か今年の末頃とか云う話しだけど」
「へえ。まあ目出度い話しですね」
 頑治さんも均目さん程度に濃い水割りを自ら作りながら云うのでありました。
「両部長と俺以外、ウチの会社の若い者で所帯持ちになるのは山尾君が最初だな」
 日比課長が袁満さんの方に意趣有り気な視線を送るのでありました。「人一倍結婚願望が強いヤツの方は、一体どうなっているんだい?」
 そう云われて袁満さんはグラスを口に当てた儘苦笑するのでありました。
「こればかりは縁のものだからね」
「縁も黙って待っているだけじゃ何処にも生まれないぞ。呑気にしていないで自分からガンガン意欲的に行かないと、何時まで経っても寂しい一人暮らしの儘だぜ」
(続)
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あなたのとりこ 46 [あなたのとりこ 2 創作]

「袁満さんも山登りのクラブにでも入って血眼で嫁探しをしますか」
 均目さんがからかい口調で云うのでありました。袁満さんの人の好さに安心して、一つ年下の筈の均目さんも遠慮が無いようであります。
「俺は山登りとかはそんなに好きじゃないもの」
「只管、女が好きなんだもんなあ」
 日比課長が横から戯れ言で混ぜ返すのでありました。
「山登りとか、健康的で良いじゃないですか」
 均目さんがやや太り気味の袁満さんの体を背凭れに少し身を引いて、俯瞰するような目付きをしながら云うのでありました。
「まあ、ハイキング程度ならね。山登りのために体を鍛えたりするのはどうもなあ」
「山尾さんは体を鍛えているのですか?」
 頑治さんが訊くのでありました。
「そうだろうな。時々トレーニングジムに通っているみたいだし」
「山登り一直線といった感じですね」
「山尾君はあれで他に趣味も無さそうだしなあ」
 日比さんが三杯目の水割りを、今度は均目さんに任せずに自ら作りながらいうのでありました。均目さんが先程作ったのよりはより濃い色をしているのでありました。
「時々、山登りに行きたいと云う事を云うのに、山が俺を呼んでいる、とか聞いているこっちがちょっと鼻白むような気取った、しかもありふれた科白を吐いたりする時があってげんなりするけど、まあ、山登りのためなら結構ストイックな方かな」
 この均目さんの科白には一種の皮肉が込められていると窺えるのでありました。
 山尾さんと云う人は、山男に屡ありがちな印象ではありますが朴訥で頑固で人交わりは得意ではないけれど、しかし心根の多くの部分で浪漫的な色を持った人と云うイメージでありますか。そう云う人が日比課長が云うように、吝嗇から山登りの代わりに新宿や池袋のラブホテルに彼女と通っているとは頑治さんには思えないのでありました。
「片久那制作部長も山登りをする人だよ」
 袁満さんが頑治さんにそんな情報を伝えるのでありました。
「へえ、そうなんですか」
「こっちもかなり本格派だぜ。もう今は殆ど登らないようだけど」
 日比課長が補足するのでありました。
「片久那制作部長は体格が良いから、そう聞くと如何にも、と云ったところですね」
「片久那制作部長も時々、こっちがたじろぐような気障な事を云ったりするよ」
「へえ、そうですか」
 均目さんはその云い回しから推察すると、山男なるモノは苦手のようであります。

 頑治さんは三倍目の水割りを自ら作るのでありました。
「そうすると片久那制作部長と山尾主任は気が合う関係と云う事ですかね」
(続
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あなたのとりこ 47 [あなたのとりこ 2 創作]

「いや、そうでもないな」
 均目さんが首を振るのでありました。「言葉の端々から窺っていると片久那制作部長はあんまり、山尾さんの事を買ってはいないような気配だよ」
「そうなんですか?」
「何か物足りないヤツ、と云ったように感じているんじゃないかな」
「それは仕事の上で、と云う事でしょうか?」
「まあ、仕事でも、その人間的在りようでも」
「人間的在りよう?」
 それは全否定とも取れる云い方だと頑治さんは思うのでありました。
「万事に今一つ甘っちょろいと思っているんじゃないかな」
「甘っちょろい、ですか?」
「何となくやる事為す事総てが不徹底な印象があるような感じかな」
「それにどちらかと云うと陰気な感じがする」
 日比課長が口を挟むのでありました。「細かい事にうじうじと拘ったり、別に何て事無く聞き流せば済むような話しを聞き流せなくて執拗に食い下がったりする傾向がある」
「そう云う日比さんは、ちゃんと拘らなければいけないものも、チャラチャラと冗談めかして誤魔化して仕舞う傾向があるけどね」
 袁満さんが日比課長に遠慮がちな口調で繰り言するのでありました。
「ああそうかい。でもこの世の中、大概はそうやって遣り過ごせばそれで済む事が殆どじゃないかい。妙に深刻振ると大体に於いて話がややこしくなる」
「でも日比さんの場合もうちょっとくらいは色々締まりがある方が良いとおもうけど」
「俺だって締めるところはちゃんと締めているさ。その締め方が手際が良くてスマートでさり気無いから傍目にはそう見えないかも知れないけどね」
「よく云うよ」
 袁満さんがげんなり顔をするのでありました。その袁満さんを煙に巻くように哄笑しながら日比課長は、もうすっかり冷めて仕舞ったビザを一切れ口の中に放り込んでくちゃくちゃと音を立てながら咀嚼するのでありました。
「物事に拘らないと云えば、ウチの会社では刃葉君が一番格だろう」
 日比課長が咀嚼音の隙間からそんな事をものすのでありました。
「あの人は、もう、別格だよ」
 ここからまた刃葉さんの事に話題が移るのでありました。「拘らないと云うよりは、万事に上の空でがさつで好い加減、と云った方が良いかな」
 袁満さんもピザを一切れ頬張って、日比課長よりは控え目ながらも咀嚼音を立てて顎をせわしなく上下に動かすのでありました。
「刃葉さんは空手をやっているそうですね」
 丁度袁満さんが今口に入れたピザが最後の一切れだったので、頑治さんはその横の胡瓜の細切りスティックを摘みながら袁満さんに訊くのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 48 [あなたのとりこ 2 創作]

「ああ、今年になって空手道場に通い出したらしいな」
 袁満さんも胡瓜の細切りスティックを摘むのでありました。「刃葉さんはウチの会社に入る以前から柔道と合気道の道場に通っていたんだよ。その二つは黒帯らしいし、去年はそれに加えて居合の道場にも通い始めたらしい」
「へえ。武道が好きな方なんですね」
「それにもう一つ、武道じゃないけどバレエの教室にも行っているらしい」
 均目さんがこちらも胡瓜のスティックを取りながら補足するのでありました。
「バレエと云うと踊りのバレエですか?」
「そう。VじゃなくてBの方」
「多才なんですね」
 刃葉さんにはバレエは如何にも似付かわしくなかろうと、その体育会系の容姿を思い浮かべながら頑治さんが複雑な笑いを作って感嘆して見せるのでありました。
「多才、と云うのじゃないだろうな。単に多趣味と云うのか気が多いと云うのか」
「しかしそんなに習い事をやっていると、毎日忙しいですねえ」
 頑治さんがもう一本胡瓜のスティックを取るのでありましたが、それが最後の一本でありました。これで粗方の酒の摘みは無くなるのでありました。
「そうね。朝からそっちに気持ちが向いているから、仕事に余計身が入らないんだ」
 袁満さんがそう云いながらメニュー表を取り上げるのでありました。
「しかし刃葉君がバレエの白タイツを穿いている姿は、あんまり見たくないねえ」
 日比課長が顰め面をして見せるのでありました。それは実見してみなければ判らないのではありますが、確かに刃葉さんはバレエの衣装よりは空手や柔道の稽古着の方が遥かにお似合いであろうと頑治さんも考えるのでありました。
「どう贔屓目に見ても、あの人はバレエと云う体型じゃないよ」
 袁満さんがその白タイツ姿を想像したのか、吹き出しながら云うのでありました。
「若い女の子のレオタード姿を見るのが目当てなんじゃないのかね、本当は」
 日比課長が卑俗な笑い声を立てるのでありました。
「いやでも、刃葉さんは女には興味が無いように見えるけど」
 袁満さんが異を唱えるのでありました。
「あれは興味が無いんじゃなくて、恐ろしくシャイなものだから無関心な風に必死に繕っているだけだろう。体裁上しれっとして実は一生懸命隠しているけど、本心では女の事が気になって気になって仕方がないんだよ。刃葉君は典型的なむっつりスケベタイプだね。その点、袁満君はあっけらかんとしたお人好し的スケベだから未だ許せるけどね」
 日比課長はそう断じるのでありました。
「そう云う風に褒められてもちっとも嬉しくないね」
 思わぬとばっちりを蒙った格好の袁満さんが口を尖らすのでありました。
「別に褒めた心算はないよ」
 日比課長はあくまで袁満さんをからかい半分にあしらうのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 49 [あなたのとりこ 2 創作]

「刃葉さんは身体の軸を創るためにバレエをやっている、なんて云っていましたよ」
 均目さんが少し真面目な顔で話題を刃葉さんの事に戻すのでありました。
「つまり、矢張り、武道的な動機からバレエをやっているんですかね」
 頑治さんがそちらの話題に乗るのでありました。
「本人としてはそう云う心算らしい」
「どうだかね」
 日比課長はあくまで懐疑的なのでありました。「若い女のレオタード姿を見たくってバレエ教室に通っている、と云うのはあまりに体裁が悪いからそんな尤もらしい理由を付けているだけで、俺はスケベな了見の方が刃葉君の本当の理由だと思うね」
「まあ、本人じゃないから俺も実際のところははっきりとは判りませんが」
 均目さんはそう云ってから、先程袁満さんが追加注文したたこ焼きが丁度テーブルに来たのを一つ、爪楊枝で刺して口の中に放り込むのでありました。

 頑治さんの歓迎宴会だから、と云う理由で先の居酒屋での一次会同様ここでの割り勘払いも頑治さんは免除されるのでありました。頑治さんは恐縮と感謝を表しながらそれに甘えるのでありました。実際この月は懐具合が心許なかったので大助かりでありました。
 新宿駅で三人と別れた頑治さんは中央線で御茶ノ水駅まで帰るのでありました。話しに依れば日比課長と袁満さんは池袋に出てそこから東武東上線で、均目さんは京王線でそれぞれの住まいに帰るのだそうであります。日比課長は板橋区の成増に家族四人と住んでいるそうで、袁満さんはその先の埼玉の朝霞でアパートの一人暮らしだそうでありますし、均目さんも京王線の千歳烏山駅近くのアパート住まいだそうであります。
 件の四人の中では頑治さんが一番会社に近い処に住んでいると云う事になるのであります。何と云っても歩いて通えるのでありますから。と云う事は当たり前の事として頑治さんは通勤交通費を会社から貰えないのでありましょうが、それはちと残念な気がするのでありました。通勤定期券があれば、例えば休日に何処かへ出掛けるにしても幾らか電車賃を得する場合もあるでありましょうから。いやまあ、それは如何にもさもしい根性と云うべきかと頑治さんはそう云った事を考えるでもなく考えながら、左右の足を互い違いに暫く前に出していると直に本郷給水所傍の自分のアパートに帰り着くのでありました。
 玄関ドアの鍵を回していると中から電話のベルの音が聞こえて来るのでありました。この電話は屹度羽場夕美さん以外ではなかろうと直感して、頑治さんは急いで部屋の中に飛び込むのでありました。趨歩で電話機の前に進んで受話器を取り上げると、果たして夕美さんのもしもしと云う少し尖った声が聞こえて来るのでありました。
「随分遅かったのね」
 由美さんの声はほんの少し怒っているようにも聞こえるのでありました。「八時頃から時々電話を入れていたけど、ちっとも出ないんだもの」
 頑治さんは腕時計を見るのでありました。もう十一時を回っているのでありました。
「ああご免。歓迎会と云う事で会社の人達と飲んでいたんだよ」
(続)
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あなたのとりこ 50 [あなたのとりこ 2 創作]

「ふうん。ま、そう云う事もあるわね」
 夕美さんはあっさり納得したようでありました。「で、どう、初出社の感想は?」
「そうねえ、今までやって来たアルバイトの感じとそう変わらないってところかな」
「ああそう」
 頑治さんの冷めた云い草を聞いて、夕美さんの声には何処かがっかりしたような色合いが窺えるのでありました。
「この先暫く働いてみないと、良い就職だったか悪い就職だったかは判らないけど」
「それはそうよね。でもそう云う風に云うところを見ると、これから先ずっと勤められそうな感触は持てたって事かしらね?」
「そうだね。今日の初出社でいきなりこりゃダメだと云う気にはならなかったかな」
「業績とかは堅実なの?」
「それは今の段階で未だ良くは判らない。でも今日接した社員の間には切迫した業績への不安は特に無かったように思ったけどね」
 頑治さんは袁満さんの穏やかそうな顔を思い浮かべるのでありました。
「社員の人達とは上手くやって行けそう?」
「多分大丈夫じゃないかな。取り立てて灰汁の強い人は居ないみたいだし」
 とは云うものの、業務仕事の先輩である刃葉さんはちと癖の強い方かなと頑治さんは考えるのでありました。それに片久那制作部長も食えない人のようでありますし。
「じゃあ、まあ、今日の段階では上々と云う感触?」
「まあ、中の上、いや中の中と云った辺りかな」
「可も無く不可も無いってところ?」
「今までの学校やアルバイト先でも色んな人が居たし、そのキャラクター幅の中から極端にははみ出る人は居なかったってところかな」
「ああ成程ね」
 こんな曖昧な云い回しの説明で夕美さんは本当に成程と思ったのかのかしらと頑治さんは少し疑うのでありましたが、まあそれはそれとして。
「ところで明日逢えるかな?」
 頑治さんは話頭を曲げるのでありました。
「そうね、昼の三時以降は講義も無いから多分大丈夫だと思うけど」
「今日の首尾は電話では良く話せないから逢って話すよ」
「そうね。その方が良いわね。頑ちゃんは明日大丈夫なの?」
「多分六時、いや六時半には退社出来ると思うよ」
 今日の就業時間後に急な梱包と発送の仕事があったことを踏まえて、頑治さんは無難な辺りを提示するのでありました。
「判った。じゃあ六時半に御茶ノ水駅の改札辺りで待ちあわせる?」
「いや、レモンにしよう」
 レモンと云うのは喫茶店の名前でありました。
(続)
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あなたのとりこ 51 [あなたのとりこ 2 創作]

「判ったわ、レモンね」
「あそこなら若しどちらかが時間に遅れてもコーヒーを飲みながら待っていられる」
「それもそうね。でもあたしは屹度遅れないわ」
「俺も遅れないようにするよ」
「じゃあ、明日」
「うん。じゃあ、明日」
 頑治さんは夕美さんが受話器を置く音を聞いてから電話を切るのでありました。

   夕美さん

 その日は定時で帰る事が出来たものだから頑治さんは三省堂書店や冨山房書店、それに東京堂書店を回って一時間程時間を潰してから喫茶店のレモンへ向かうのでありました。店内には夕美さんの姿は未だ無いのでありました。
 頑治さんは奥まった席に座るとコーヒーを注文して、先程買った、十九世紀終わりの年にウクライナで生まれたポーランド人の小説家の短編集を開くのでありました。取り立てて読みたいと云う作家ではなかったものの、偶々手に取った序と云った具合に買って仕舞った本でありました。この人は青春のただ中でロシア革命に遭遇し、その後の新生ソヴィエト連邦の文化状況を生きた、まあ結局は不遇の小説家なのでありました。
 最初にある『愛』と云う短編の中の二頁目“リョーリャはやってこない。庭園での彼の滞在は長引いた。”と云う段まで読み進んだ時に先程注文したコーヒーが頑治さんのテーブルに遣って来るのでありました。頑治さんは本から目を離してコーヒーカップを取り上げるのでありました。夕美さんの方は未だ遣って来ないのでありました。
 その夕美さんはほぼ正確に六時半に喫茶店の扉を押し開いて姿を見せて、中の様子を窺ってから奥まった席に座っている頑治さんを見付けて、小さく手を上げて合図を送って来るのでありました。釣られるように頑治さんも手を上げて見せるのでありました。
「早かったじゃない」
 夕美さんは頑治さんの対面の椅子に腰掛けながら云うのでありました。
「今日は終業間際に梱包仕事とか入ったりしなかったから、定時に帰れたんだよ」
「そうすると、ここで随分待ったの?」
「いや、本屋で時間を潰していたからそうでもないよ」
 そう聞いて夕美さんは頑治さんが左手に持っている三省堂書店の紙カバーに包まれた本に視線を移すのでありました。しかしすぐに目を頑治さんの顔に戻すのでありました。夕美さんはそれが何の本なのかは特に頑治さんに問い掛けないのでありました。
 近寄って来た店のアルバイトと思しきエプロンをした若い女に、夕美さんは頑治さんが飲んでいるのと同じブレンドコーヒーを注文するのでありました。若い女が無言で頷いて立ち去ってから頑治さんは持っていた本を椅子の上に置くのでありました。最初の『愛』と云う物語はごく短いものだったから頑治さんはもう読み終えているのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 52 [あなたのとりこ 2 創作]

「昨日の続きだけど、会社の方は長く勤められそうな感触なのね」
 注文したコーヒーが来て、夕美さんは一口それを口に含んで暫く口の中でその香りと苦味を味わってから、ゆっくりと飲み下した後に頑治さんに訊くのでありました。
「仕事は単純と云えば単純だからそう難しい事は無いね。でも扱っている商品が色々あるからそれを覚えたり、その商品を作るための材料類を掌握するのに少し時間が掛かりそうだけどね。でも、それも慣れれば多分そう煩雑な事はないと思うよ」
「お給料は良いの?」
 夕美さんは昨夜電話で話さなかった点をここで訊ねるのでありました。
「今までのアルバイトに比べれば格段に良いかな。住宅手当も付くし雇用保険とか健康保険とか、そう云うのもあるようだし、待遇はかなりマシと云えるんじゃないかな」
「それはそうよね、正社員なんだから」
「まあ、保険料は給料から引かれるけどね」
「でも会社負担があるから全額じゃないし。それに厚生年金も付くんでしょう?」
「そうだね。でもその分、また手取り額が減るけど」
 頑治さんは就職面接時に土師尾営業部長から聞いた事を其の儘話すのでありました。そう云えば昨日の初出社日には、そう云った雇用条件の話しは土師尾営業部長の方からは特段出ないのでありました。もう面接の時にちゃんと話しているから殊更無用と云う心算なのでありましょうか。そう云えば初出社日である昨日ではなく、今日の帰り際に就業規則なる三枚綴りの紙切れを土師尾営業部長から事の序と云った感じで渡されたのでありました。でありますから、それは未だ頑治さんはちゃんと読んではいないのでありました。
「そう云えばこんなものを渡されたよ」
 頑治さんはズボンの尻ポケットから四つ折りにしてある、先程貰った就業規則なる紙切れを取り出して優美さんに渡すのでありました。夕美さんはそれを受け取ると暫く目を落として、熟読と云う程ではないながら黙読しているのでありました。
「まあ、ごく一般的な事がサラっと書いてあるわね」
 夕美さんはそう云ってその紙を頑治さんに返すのでありました。「一応帰ってから頑ちゃんも良く読んでおいた方が良いとは思うけど」
「うん、後でつるっと読んでおくよ」
 頑治さんは返された紙をまた四つ折りにして尻ポケットに捩じ込むのでありました。

 混み合った学食の片隅の席でカレーライスを食い終った頑治さんは、先程入り口付近で青ヘルメットを被った学生に渡された藁半紙の政治ビラを尻ポケットから取り出すのでありました。学費値上げがどうの全学ストがどうのと嫌に角ばった文字が並んでいるのでありましたが、頑治さんはそのビラを丸めて食い終ったカレー皿の横に放るのでありました。渡されたビラをその場で即座に捨てるのも何やら無礼過ぎる気がしたものだから億劫ながら一応折り畳んで尻ポケットに突っ込んでいたのでありました。頑治さんが丸めた紙とカレー皿を持って立とうとした時、後ろに誰かの立つ気配がするのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 53 [あなたのとりこ 2 創作]

「ひょっとして唐目君じゃない?」
 頑治さんは後ろを振り返るのでありました。見覚えのあるような、無いような女の顔が頑治さんを見下ろしているのでありました。頑治さんの顔が無表情の儘である事に少し気後れしたように、女は不安そうに眉宇を寄せて及び腰を見せるのでありました。それが大学四年生の時の頑治さんと夕美さんの再会の風景でありました。
「判らない、あたしの事?」
「ええと、何処かで逢った事があるような気もするけど。・・・」
「夕美よ。羽場夕美。ほら、中学校で同級生だった」
 頑治さんはその名前は憶えているのでありました。しかし中学生の頃の夕美さんの面影が今目の前に居る女の顔となかなか重ならないのでありました。
「ああ、羽場さんか。名前は憶えているよ」
「顔は忘れた?」
「いや、忘れてはいないけど、でもなんと云うのか、・・・」
「中学生の頃の面影は全然無い?」
「うん。ええと、詰まり、羽場さんはこんなに綺麗だったっけ?」
 これは別に頑治さんのお追従でも女の気を引こうとする作為的な言辞でもなく、偽らざる感想なのでありました。夕美さんの頬が思わずと云った具合に弛むのでありました。
「随分お久しぶりね」
 夕美さんはそう云いながら頑治さんの横の椅子に座って、両手で持っていた四角い銀盆をテーブルの上に置くのでありました。銀盆には大盛りにした野菜サラダとロールパンが一つ、それに小振りな缶の林檎ジュースが載っているのでありました。
「どういう訳で羽場さんがここに居るんだい?」
 銀盆を置く時に少し俯いたものだから夕美さんのセミロングの髪の毛がやや前に揺れて、その時ほんの少し覗いた白い耳朶に向かって頑治さんが訊くのでありました。
「だってここの学生なんだもの」
 夕美さんは頑治さんに顔を向けて云うのでありました。髪の毛の先が躍って夕美さんの口元に掛かるのでありました。白い耳朶が頑治さんの視界から消えるのでありました。
「あれ、そうだったの。今までちっとも知らなかったよ」
「あたしは知っていたわよ、唐目君が同じ大学の学生だって事は」
 夕美さんはフォークを取り上げて野菜サラダの山の斜面に突き刺すのでありました。引き抜いたフォークの先で赤いプチトマトが連れ出されて来るのでありました。
「ふうん、でも何時知ったんだい?」
「消息は東高の増田押絵から聞いたわ、高校を卒業してすぐに」
 この増田押絵も中学の同窓生でありました。増田押絵は頑治さんと同じ、郷里の東高校に進学したのでありました。一年生の時に同じクラスになったのでありましたが、その後はクラスも別で、高校生時代に頑治さんは殆ど交流を持つ事は無かったのでありました。因みに、夕美さんはミッション系の女子高校に進学したのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 54 [あなたのとりこ 2 創作]

「へえ。俺の方は高校時代に増田とは全然交流が無かったから、羽場が同じ大学に進学していたなんて今の今まで露とも知らなかったよ」
 頑治さんはここで夕美さんに対してさん付けを止めるのでありました。中学生の頃は呼び捨てであったからこの方がより親しみを籠められるだろうと云う判断でありました。
「同じ大学だし同じ文学部なんだから、何時かキャンパスで逢う事もあるかもって思っていたけど、結局四年生になった今の今まで唐目君に逢う事は無かったわね」
「羽場も文学部なのかい?」
「そうよ、史学科の考古学専攻」
「ふうん。考古学、ねえ」
 頑治さんは地理学科なのでありました。同じ文学部とは云え、専攻が違うと全く顔を合わせる機会も無い場合だってあるでありましょう。
「女子には似合わない専攻、だと思うんでしょう?」
「そうね、あんまり聞かないね」
「考古学教室の中でも女子はあたし一人だもの」
 元来、頑治さんと夕美さんの通っている大学は男子学生の方が女子より圧倒的に多い大学として有名でありました。文学部に関しては他の学部よりは在籍女子の比率が高いのではありますが、それでも割合としては二割程度と云う通説であります。
「仏文科とか英米文学科だったら多少は女子学生も居るだろうに、何でまた史学科の、それも一般的に女子にはからっきし人気の無さそうな考古学専攻なんだい?」
「女子には人気が無くても、あたしには人気があるのよ」
「ああ成程ね」
 そう云われれば頑治さんとしては頷くしか無いのでありました。物事の好き嫌いは人夫々でありますから頑治さんがそれに容喙する謂れは無いと云うものでありますか。
 夕美さんは頑治さんの頷きを無表情に見ながら林檎ジュースの缶のプルリングを引き開けて、それを口の上で傾けるのでありました。夕美さんのセミロングの髪の毛先の揺れと、白く長いうなじの曲線が頑治さんの目を惹き付けるのでありました。

 夕美さんが白いうなじを見せてコーヒーを一口含んで、カップを受け皿に戻すのを待ってから頑治さんが話題を変えるのでありました。
「そう云えば今度の会社の中に、夕美と同じ苗字の人が居るんだぜ。字の方は、刃物の刃に葉っぱの葉と書くんで違うけど」
 今度は頑治さんがさして白くも長くもないうなじを曝してコーヒーを一口飲んで、その後カップを下に置くのを待ってから夕美さんが応えるのでありました。
「ふうん。比較的珍しい名前なんだけどね」
「うん。奇遇にもね」
「どんな人?」
「俺と同じ業務仕事の先輩なんだよ」
(続)
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あなたのとりこ 55 [あなたのとりこ 2 創作]

「へえ。じゃあこれから一緒に仕事をしていく間柄になるの?」
「いや、後二か月程で会社を辞めるんだよ。その後釜として俺が雇われた事になる」
「ああそう云う経緯なの」
 夕美さんは刃葉さんがもうすぐ会社を辞めるのだと云う話しを聞いて、何故か少しがっかりしたような云い草をするのでありました。自分と同姓の人が頑治さんとこれから先も一緒に働く訳ではないと云う事に、全く大した意味も無くではありましょうが、何となくちょっと残念な心持ちなんぞがしたからでありましょうか。
「この先二か月、引き継ぎでその人からあれこれ業務仕事を教わらなくちゃならない」
「短時間だけど先輩になるんだものね。色々頼りになりそうな人?」
「うん、まあ、・・・」
 頑治さんは口籠もるのでありました。別に羽場さんの人となりを、頑治さんが持った印象等を正直に且つ面白可笑しく夕美さんに話しても構わないのでありましょうが、夕美さんと同姓の人と云う事もあって、まあ、まさか夕美さんに限ってそんな不条理は無いでありましょうが、頑治さんの語りを不愉快に思うような事があっては拙いと頭の隅で危惧したからでありました。全く以ってこれは無用な気遣いでありましょうが。
「他にはどんな人が居るの?」
 夕美さんは別に刃葉さんの話しには拘る風も無いのでありました。
「営業部長と営業課長、それに営業部員が後二人、と云っても一人は出張で居なかったから今日はもう一人の方としか顔合わせしなかったけどね。それに経理の女の人が一人。制作部には制作部長と制作主任、それから男女一人ずつの部員、と云ったところかな」
「営業部は営業課以外に他の課がある訳?」
「いや、そう云う事ではなくて、単に役職手当支給の関係で課長と云う役職も設けてあると云う事らしいよ。課長当人が居酒屋の宴会の席でそんな事を云っていたから」
「営業部と経理部と制作部の三部構成になる訳?」
「経理部、と云うのは特別設けられてはいないようだな。だから経理担当の女の人は平の社員で課長と云う肩書きはないし、他に部下も居ないもの。まあ、強いて云えば営業部に経理課も属すると云えなくも無いかも知れないけど、でもそうでもないようだし」
「その辺は曖昧な訳ね」
「そう。はっきりした区分として経理部とか経理課があるんじゃないようだよ」
「業務部も無いのね?」
「無いよ。業務の仕事は営業部関連の仕事も制作部関連の仕事もあるけど、でも、部とかどちらかの部の下の課として厳密に区分けされているんじゃないからね」
 若し業務部と云う部署が存在するとすれば、あの羽場さんが業務部長と云う事になるのかも知れませんが、どう考えてもそれは無い話しでありましょう。
「経理と同じような括りね」
「そう云う事になるかな。まあ総勢十一人、社長も勘定に入れたら十二人の零細企業だし、そうやたらと部だの課だのと区分していても無意味だろうからね」
(続)
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あなたのとりこ 56 [あなたのとりこ 2 創作]

「でも、株式会社なんでしょう?」
「資本の形式としてはね。まあ、株式会社たって色々あるよ」
「それはそうだろうけど」
 夕美さんはカップに残ったコーヒーを飲み干すのでありました。「それはそうと、ぼちぼち何処かに食事に行かない? 就職お祝い第一弾として奢ってあげるわ」
 第一弾と断るところを見ると第二弾もあるのでありましょうか。
「それは有難いけど、でも考えてみたら夕美は未だ学生の身分で、俺の方が働いていると云う事になるんだから、無産者に奢って貰うのはちょいと気が引ける」
 夕美さんは考古学専攻の大学院生なのでありました。
「そんな事云うけど、今の時点ではあたしの方がお金持ちだと思うけど」
 夕美さんのお父さんは郷里で建築設計事務所を経営する資産家なのでありました。依って夕美さんには実家から潤沢に仕送りがあるようであります。まあ、そうでなければ夕美さんが卒業後に就職しないで大学院生になると云う選択は無かったかも知れません。
 夕美さんにはお兄さんが居て、お父さんと同じ建築士でお父さんの跡継ぎと云う事になるのでありましょう。妹の夕美さんは頑治さんとは違って幼い頃から乳母日傘で育てられたようで、その所為かどうかどちらかと云うとおっとりした性格なのでありました。それでも中学時代の印象としては頑固な面もあって、一度云い出したらなかなか節を曲げない憎たらしいところもあるのでありました。今もそこは変わらないようであります。
「お金持ちかどうかと云う点では、確かにその通りではある」
 考えたら頑治さんは大学で再会して付き合いだして以来、大いに夕美さんの持っている金品に甘えてきたような気がするのであります。
「その内、頑ちゃんがお金持ちになったら十倍くらいにして返して貰うから、今日の夕食代に関してはあたしの奢りと云う事で良いんじゃない」
「そうかい。毎度々々、お世話になります」
 頑治さんは丁重そうでありながら、しかし何処か狎れたような風情のある、横着と云えばそうも云えるお辞儀なんぞをして見せるのでありました。

 学食を出た二人はすぐ道向かいにある小さな公園の中に入っていくのでありました。夕美さんの手には飲み残しの林檎ジュースの缶が、頑治さんの手には学食の出入り口のところにある自動販売機で、再会の挨拶代わりと云う名目で夕美さんが買ってくれた缶コーヒーが握られているのでありました。そんな挨拶をされる謂れはないと頑治さんは断ったのでありましたが、堅い事云わないでまあ良いじゃない、と云う夕美さんの厚意にほんの少しのすったもんだの末、結果として甘える事になったのでありました。
「唐目君は、就職の方は決まったの?」
 公園の古い木製のベンチに並んで腰を下ろして、缶コーヒーのプルリングを起こしている頑治さんに夕美さんが訊くのでありました。
「いや、未だ全然決まっていないよ」
(続)
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あなたのとりこ 57 [あなたのとりこ 2 創作]

「もう十月の終わりだと云うのに?」
「九月の解禁以来、会社訪問も一社も行っていないもの」
「へえ。随分悠長に構えているのね」
 夕美さんは少し呆れるのでありました。「就職希望なんでしょう?」
「ま、一応は」
「今年は只でさえ厳しいって云われているのに、そんなに呑気にしていて良いの?」
「本当はいけないんだろうけどね」
 頑治さんの云い草はどこか他人事のようでありました。
「ちっとも焦ってないみたいね」
「まあ、成るようにしか成ならないよ」
 頑治さんとしては何となく気が乗らないと云うのが、意欲的に就職活動に動かないその理由と云えば理由なのでありました。当面、目指す会社も入りたい業種も、困った事に全く見当たらないのであります。だから九月一日の会社訪問解禁日から愚図々々していて既に出遅れたのでありましたし、一旦出遅れるとすっかり興が醒めるのでありました。
 学生である気楽さに浸りきっていて働く意欲が湧かないのかと云うとそうでもないのでありました。現に居酒屋でのアルバイトは続けているのでありますから。只、或る日を境に一斉にお祭り騒ぎ宜しく就職活動に血眼になる世間の風潮みたいなものに辟易としているのでありました。それはある意味無粋な過剰反応と云うようなものであり、何処か仮想的に窮地に追い込まれた者達の狂騒と云うものでもあるようで、一歩引いて考えてみれば何ともイカさない集団強迫神経症的様態と云えなくもない現象ではありませんか。
「羽場の方はどうなんだい、就職は?」
 頑治さんは夕美さんの方事に話しを曲げるのでありました。
「あたしは進学希望だから就職活動はしていないわ」
「進学と云うと、大学院かい?」
「そう。もう少し今の勉強を続けたいから」
「そうなんだ、ふうん」
「だから就職活動はしないけど、でも受験の勉強も大変よ」
「それは万事に不真面目な俺に対する当て擦りの言かな?」
 頑治さんは冗談口調で訊くのでありました。
「別にそうじゃないわ。本当の事だもの」
 夕美さんは真面目な顔で返すのでありました。
「へえ、大学院に進学かあ」
 頑治さんは口調を改めて不埒な笑みも消してもう一度頷くのでありました。「確かにそれも大変そうだよな。でも怠け者の俺と違って、羽場は中学校時代から努力家でコツコツタイプだったから、その辺はそつなく準備しているんだろう?」
「進学しても構わないって云う実家の許可と、担当教授の大丈夫だろうって云う感触は貰ったけど、実際のところはそんなに自信がある訳じゃあないの」
(続)
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あなたのとりこ 58 [あなたのとりこ 2 創作]

「羽場の事だから間違い無く大丈夫だと思うよ」
 別に自分の軽はずみなお墨付きなんぞは何の保証にもならないし何の安心にもならないとは思うのでありましたが、頑治さんはそう力強く請け合うのでありました。
「有難う。唐目君にそう云われると何だか大丈夫なような気がしてくるわ」
 夕美さんは如何にも嬉しそうに頑治さんに笑いかけるのでありましたが、これは夕美さんの頑治さんの気遣いに対する儀礼的愛想でありましょう。丁度木の間から風が吹いて来て、夕美さんの髪をサラサラと靡かせるのでありました。

 靖国通りから本屋の三省堂横の路地を抜けて、すずらん通り商店街を神保町駅に向かって暫く歩いた辺りの中華料理屋に頑治さんと夕美さんは入るのでありました。そこは何となく高そうな玄関構えで頑治さんは今まで遠巻きにしていた店でありました。ここら辺で食事をするなら頑治さんは大衆的なキッチン南海辺りに入るのが常でありましたか。
「折角の就職祝いなんだから、少しくらい高そうな所でも良いんじゃない」
 夕美さんはそう頑治さんに宣して先んじて料理屋の中に入るのでありました。
「どうだい大学院の方は?」
 頑治さんが好物の鶏の唐揚げに箸を伸ばしながら訊くのでありました。
「うん、二年生になると修士論文のための資料集めとか色々大変だわ」
「次は博士課程に進むんだろう?」
「一応その心算でいるんだけど、でも今迷っているのよ」
 夕美さんは頑治さんの顔から頼り無さそうな色を湛えた目を外して、レタス炒飯を取り分けた自分の取り皿を片手に取って、蓮華で一盛り掬うのでありました。
「博士課程に行って、その後は助手として大学に残ると云う目標じゃなかったっけ?」
「まあ、目標はね」
 夕美さんが蓮華を取り皿に戻す時に小さな陶器のぶつかる音がするのでありました。
「あれ、気持ちが変わった?」
「何か最近さ、発掘の仕事とか研究室なんかで、大勢の男達に混じって女一人が同じように動き回ったり発言したりする事に、自分が妙に場違いな場所に居るなとか思ったりする訳。前からそう思ってはいたんだけど、そんな事別に大して気にもならなかったの。成果さへ出せばそんな事は些事に過ぎないとかね、そう云う心算でいたんだけどね」
「でも最近、嫌に気になり出した、と云う事?」
「そうね。そんな感じ」
 夕美さんはまた炒飯の取り皿を手にするのでありました。
「それは女一人が男達に混じっている違和感では、実はないんじゃないの?」
 頑治さんが訊くと夕美さんは口元に運んだ蓮華の動きを止めて頑治さんの顔を上目遣いに見るのでありました。瞳の中に少しのたじろぎが見て取れるのでありました。
「どう云う事?」
「つまり、考古学と云う学問自体に少し倦んだんじゃないのかな?」
(続)
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あなたのとりこ 59 [あなたのとりこ 2 創作]

 夕美さんは目を頑治さんから逸らして少し考えるような表情をするのでありました。それから少し長く沈黙するのでありました。と云ってもほんの四五秒ではありますが。
「そうね、そう云う事なのかも知れないわね」
「倦む前は頭の中が考古学一辺倒だったからそんなに気にしなかったけど、ほんの少しだけでも気持ちが冷えてみると自分の立っている周りの様子に目線が移り出して、自分の不調和性と云うのか、ここは自分の居るべき場所ではないんじゃないか、とかね、そんな疎外感が急に意識されてきたんじゃないのかな。でもそれは、考古学そのものに冷えたと云う事が先ずあるからのように俺には思われる。ま、直感みたいなものだけどさ」
「そうね。実はそう云う事かも知れないわね」
 夕美さんは頑治さんが今云った言葉について少し長く考えた後に小さな抑揚のない声で返事して、これも小さな仕草で何度か頷くのでありました。まあ、少し長く、とは云うものの、しかしそれもほんの四五秒の事ではありましたが。
「夕美の云い様を聞いて感じただけの、軽はずみで、大して当てにはならない俺の直感なんだから、あんまり気にしないで貰いたいけどね、今の言葉は」
 頑治さんは夕美さんの心細気な顔にたじろいでそんなフォローなんぞを入れるのでありましたが、後の祭りかなとも一方で考えるのでありました。
「まあ今のところ、そんなに深刻に思い詰めている訳じゃないから」
 夕美さんが憂色を掃って笑むのでありました。「そんなあたしの事より、頑ちゃんの今度の会社の、あたしと同じ苗字の人の事、もっと聞かせてよ」
「ああ、倉庫の刃葉さんの事か」
 頑治さんは夕美さんが見せた愁眉がとても気になったのではありましたが、ここは夕美さんの気色を尊重して話題を別のものに移すのでありました。

 学食と公園で聞いた話しに依ると、夕美さんは高校を卒業して大学生になるため上京した後、二年間は世田谷の叔母さんの家に寄寓していたのでありました。これは一人で東京に出る娘を心配した父親の差配に依るようでありました。その後三年生になった折、その叔母さんの家からそう遠くないアパートで一人暮らしを始めたのでありました。
 頑治さんは全く知らなかったのでありましたが夕美さんは高校生の頃から歴史、それも古代史に興味があったらしく、行く々々はそちららの研究に打ち込みたいと云う志望を持っていたのでありました。一体全体どういう経緯で古代史なんかに興味を持ったのかと訊いたら、夕美さんは一度高校の日本史の授業で学校近くにある弥生遺跡の発掘に行った時の経験が忘れられなかったからと、目を輝かせながら頑治さんに云うのでありました。
「五月の晴れた日でね、遺跡を囲む森の新緑の匂いがとても清々しかったの。授業とは云え、何だかちょっとピクニック気分よ」
 それは古代史に直接関係が無かろうと聞きながら思うのでありましたが、しかし五年振りの思いも掛けなかった邂逅であるし、中学校時代にはそんな茶々を入れる程付き合いが濃い訳でもなかったのだからと、頑治さんは言を手控えるのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 60 [あなたのとりこ 2 創作]

 夕美さんはその時引率した、担任でもある社会科の先生に、お前は発掘の名人かも知れない、と褒められたのでありました。クラスの他の生徒は土器の一片も石器の欠片も見つけられない者も居ると云うのに、由美さんときたら誰よりも多くの石鏃や骨鏃、それに弥生土器片を発見し、その時代の人の骨まで見付け出したのでありました。
「左手示指の中節骨だったの」
「何だいそれは?」
「人差し指の真ん中の骨よ」
 夕美さんは自分の左手の人差し指をピンと立てて、右手の人差し指でそれがどの骨に当たるのかを指示して見せるのでありました。
「よく判ったな、それが左手の何たら骨だと」
「中節骨」
「ああ、その中節骨だと」
「見つけた時はあたしもはっきり判らなかったけど、なんだか人の骨じゃないかって直感して先生に訊いたの。先生がひょっとしたら指の骨の一部かも知れないって云って、その骨を知り合いの県立博物館の学芸員の先生に鑑定してもらったのよ。そうしたら弥生人の左手示指中節骨だって判ったの。貴重な発見だって担任の先生は後で驚いていたわ」
「人の骨だったら気持ち悪いとか、そんな風には思わなかったのかい?」
「全然。だって二千年くらい前の小さな骨片よ。まるで枯れ枝か小石のような感じで、全然骨としての生々しさなんかもう無いもの」
「ふうん」
 頑治さんは小学生の頃、火葬場で祖母の骨を拾った折に見た焼かれた人骨しか今迄見た事は無いのでありましたから、二千年くらい前の人間の人差し指の骨の風合いに付いてはなかなか想像力が働かないのでありました。
「で、ね、あたし自身も発掘の名人かもしれないって、殆ど本気で考えたのよ」
 夕美さんは目を大袈裟に見開いて結んだ唇をやや笑いに作って頑治さんを見るのでありました。なかなかに可憐な表情だと頑治さんは秘かにどぎまぎするのでありました。
「ま、そう云う思考の流れは理解出来るけど」
「担任の先生も折に付けあたしを発掘とかに誘ってくれるようになったの。博物館の学芸員の先生とも面識が出来て、あたし自身も発掘の手伝いとかが結構楽しくて、こう云う事をしながら高校卒業後もずっと生活できたら良いなって考えるようになったの」
「で、考古学専攻の大学生になったと云う訳か」
「学芸員の先生がウチの大学の先輩に当たるのよ。ウチの大学は考古学関係では結構権威があるの。この道では有名な先生が何人も居るし」
「ウチの大学が考古学に強いとは知らなかったな」
「考古学に関係も関心も無い学生はそうかも知れないわね、残念ながら」
 夕美さんは少しがっかりしたような声の調子で呟くのでありました。
「で、今は念願の勉強が出来るようになって充実した学生生活を送っていると」
(続)
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