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あなたのとりこ 1 [あなたのとりこ 1 創作]

   松葉

 緩やかな下り坂に差しかかると、唐目頑治さんの靴の中でこのところ時折起こる異変が始まるのでありました。それは決まって、それ迄無表情であった頑治さんの眉宇に苦悶の色を浮かしめるのでありました。頑治さんは歩を止めないながらも、舌打ちの音を隠す事もせず、互い違いに前に出る自分の足下に視線を落とすのでありました。
 靴の中で靴下が、歩の重なりに同調しながら段々と脱げていくのであります。今朝心急いていたので偶々、口の緩くなっている靴下を装着して仕舞ったようでありました。
 頑治さんの所有する十足余りの靴下の中に二足だけ、その要注意の靴下があるのでありました。穴も開いていないものだから、洗濯して捨て惜しみに引き出しの中に仕舞い続けてきたのでありますが、選りに選って気が急いでいるこの今朝に限ってあの忌々しい靴下を選んで仕舞ったとは、何たる不仕合せでありましょうか。
 足裏に這う我慢ならぬ不快に頑治さんは立ち止まって、土踏まず辺りに秘かに蟠る靴下を引き上げようかと余程思うのでありましたが、しかし往来の真ん中でそのような無様を仕出かすのも、これもまた世間への体裁に照らして、断じて我慢ならぬ仕業と云うものであります。頑治さんはここが辛抱のしどころと観念するのでありました。
 駅までこの儘平気な顔で歩き切って電車の座席に座ったら徐に何気なく、ごく自然な感じで靴下を引き上げれば、その方が往来での不格好よりは未だ許容出来る不格好と云うものでありますか。ならぬ我慢を今少し我慢するのが我慢の神髄と云うものであります。
 しかしこの頑治さんの目論見は無惨に打ち砕かれるのでありました。乗りこんだ電車が満員で、座席に座るどころか身動きも儘ならないと云う在り様なのでありました。これは何たる不運、嘆くも疎かなる間の悪さと云うものであります。家を出てすぐにこんな不愉快を蒙るとは、何とまあ幸先の悪い事でありましょうか。

 結局、飯田橋の職安に着くまでに頑治さんの両足の靴下はすっかり足部から脱落して、靴先に詰め物のように固まって頑治さんの指先を不快に圧迫するのでありました。
「どうも、唐目ですが、何か良い就職先でも見つかったのでしょうか?」
 頑治さんはここ暫くの職安通いですっかり馴染みになった、田隙野道夫、と云う名札を首から下げた職員の前の椅子に座りながら訊くのでありました。
「ああこれはこれは唐目さん、早速にお越しいただいて恐縮です。お気に召すかどうかは判りませんが、唐目さんのお出しになった条件にほぼ合致するようなしないような求人がまいりましてね、それでご足労願ったと云う次第ですわ」
 田隙野氏は慎にニコやかな顔を向けるのでありました。こういう処の職員にありがちな高飛車で、人を見るに自力で職も探せない無能者を見下すような目線なんぞが、この田隙野氏には全くないのでありました。しかも妙に殺伐とした、軽口でも云おうものなら顰蹙を買いそうな安定所の雰囲気からも何となく超然としている風なのでありました。かと云って決して仕事が投げ遣りでもなく、親身でないわけでもないのであります。
(続)
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あなたのとりこ 2 [あなたのとりこ 1 創作]

 職安職員内におけるこの田隙野氏の在り様は、云ってみれば頑治さんの趣味にピタリと合っているのでありました。頑治さんにしても、別に胆が据わっているわけではないのでありますが、どこかのんびりしたところがその風情にあるのでありましたから。

 別にちゃんと確認し合ったわけではないのでありますが、しかし頑治さんも田隙野氏も、そこは同類を嗅ぎ分ける鼻の穴の細胞のお蔭か、この人物とは会話が出来るとすぐに直感したのでありました。初回の訪問で頑治さんは躊躇なく、カウンターの中で雁首を並べている相談職員達の中の、田隙野氏の前に歩を進めるのでありました。勿論、立て込んだ中で田隙野氏の前だけが唯一開いている窓口であったのも決定的要素ではありますが。
 確かに必死に職探しをしている者からしたら、そんな事は別に大した事ではないではないかと云った風の田隙野氏の緩い顔つきなんぞは、如何にも場違いなものと映るでありましょう。職安職員として頼りない顔つきと云えばその通りであろうし、相応しからざる顔相と云えばそれもその通りでありますが、しかしこれは別に田隙野氏が悪いわけではなく、責任はそう云う顔に産んだ田隙野氏のご両親にあると云えるのかも知れません。
 いやいやしかし、その人の顔つきを作るのは生まれではなく育ちと己の思想であると云う論に与すれば、田隙野氏自身のせいだとも云えるでありましょうか。依ってご両親の罪と断ずる事も出来ないわけでもありますが、それはまあ兎も角として、こうして頑治さんの仕事を斡旋しようとしてくれているのでありますから実際、田隙野氏はその風采とは別にちゃんと一定の仕事の出来る職安職員とも云えるのでありましょう。
「あれ、靴をどうかされましたか?」
 椅子に腰掛けるなり靴から足を脱して、前屈みをして机の下の見えない辺りで、すっかり脱落して仕舞った靴下を秘かに穿き直している頑治さんの挙動を不審に思ってか、田隙野氏がほんの少し怪訝そうな顔を向けるのでありました。
「いや、別に何でもありません」
 頑治さんは誤魔化すように、まあ、特に田隙野氏に対して体裁を気にする必要もないかとは思うのでありましたが、愛想笑いつつ両の靴下を直すのでありました。好い加減に引っ張り上げるとこの後またもや脱げる恐れがあるので、秘かな作業ながらそこは繊細に、爪先と踵のフィット感を確認しながら修正動作を完了するのでありました。
「唐目さんのご希望は確か、給料とか待遇は特に希望はないが、その日の内にその日の課業が完結するような小難しくない仕事で、格式張った服装をしなくて済む、比較的社風ののんびりした、冗談や洒落の判る上司の居る、あんまりこの先発展しそうにないながらもしかし、なかなか堅実に続いて行きそうな会社、なんと云う、そう云う会社があれば私の方が先にここを辞めて就職したいような、そんなような仕事及び会社でしたよねえ?」
 頑治さんの上体が起きるのを待ってから、気を取り直すように咳払いを一つして、未だ職安職員として敏腕なのかそうでないのかが判る程には付き合いの深くない田隙野氏が、頑治さんの目を至極真面目な顔つきで覗きこみながら訊くのでありました。
「ええまあ、そう云ったような」
(続)
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あなたのとりこ 3 [あなたのとりこ 1 創作]

 頑治さんは改めてそんな確認をされて何となく恥じ入るように頷くのでありました。考えてみれば己が吐いた事とは云え、何とも虫の良い、職探しをする者としては慎に不埒な戯れ言のような条件を出したものであります。普通なら呆れられて叱りつけられる、或いはその了見違いをこんこんと説教されて当然の、不謹慎窮まる条件でありましょう。
「こちらとしてもそんな無闇な条件の就職先をあれこれ探していたところでしたが、竟昨日、そんな唐目さんの条件に適いそうな会社から求人が来たのです」
「ほう!」
 そう聞いて頑治さんの方が驚くのでありました。
「但し、上司が冗談や洒落の判る人かどうか、と云う点は確認出来ていませんが」
「ああ、成程。で、その奇特な会社とは、どう云った按配の会社なのですか?」
「ギフト業、と謳ってあります」
「ギフト業とは、一体どんなような業なのでしょう?」
「結婚式の引き出物とか、企業の周年記念品とか販売促進用の品とか、或いは旅行先の観光地のお土産品なんかを取り扱う会社のようですね」
「旅行のお土産、とか云うと例えば観光地の名前の入ったキーホルダーとか、木刀とかペナントなんかを製造している会社でしょうかね?」
「自社で製造している物もあるようですが、扱っている殆どの商品は、他の会社なり製造元から仕入れているようですけどね」
「従業員はどのくらい居るのでしょうか?」
「社長も入れて十二人、となっていますな」
 田隙野氏は手に持っている求人票を見ながら応えるのでありました。「ええと、序に云って置きますが、募集職種は配送及び倉庫業務となっていて、要するに商品を製造元から引き取って来て管理したり、それを配送したりと云った仕事が主ですね。まあ、商品管理の帳簿を付けたりする事はあるでしょうが、概ね小難しい仕事はないと思われます」
「頭脳より力仕事、と云った感じでしょうか?」
「ま、そうですかな。ところで唐目さんは体力には自信がありますか?」
 田隙野氏は頑治さんの体つきを値踏みするような目で見るのでありました。
「頭の方は至って頼りないですが、そちらの方は些か自信があります」
 頑治さんは右腕の上腕二頭筋の力瘤を作って見せるのでありました。
「おお、これはなかなか好都合な力瘤をお持ちで」
 田隙野氏は真顔で大袈裟に感心して、数度頷くのでありました。
「いやあ、それ程でも」
 頑治さんは腕を曲げて力瘤を萎ませないように保持した儘、何となくぎごちない動作で照れ笑いながら頭を掻いて見せるのでありました。
 この後、給料やら就業時間とか有給休暇日数とかの待遇面を縷々述べてから、田隙野氏は頑治さんの顔を覗きこむのでありました。
「どうです、この会社に面接に行ってみますか?」
(続)
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あなたのとりこ 4 [あなたのとりこ 1 創作]

「はい。大体に於いてこちらの希望に沿っていると思われますので」
「判りました。では電話して面接日を打ち合わせてください。その旨こちらの方からもこの会社に電話を入れておきますよ」
「どうぞよろしくお願いします」
 頑治さんは会社概要や連絡先を記してある紙片を貰ってから、立ち上がって田隙野氏に深々と頭を下げるのでありました。「田隙野さん、色々有難うございます」
「いやいやどういたしまして。首尾の上々なる事を祈っております」
 田隙野氏はニコやかに笑ってバイバイと手を振るのでありました。

 頑治さんは一時間ばかり職安近くの喫茶店で時間を潰してから飯田橋駅に戻って、乗車券の自動販売機近くに並んでいる公衆電話の受話器を取り上げるのでありました。
「飯田橋の職安から仕事を紹介して貰った者ですが」
 頑治さんが受話器に向かって喋ると、電話に出た向こうの女の人に少し待てと云われ、十秒ほど電子音によるパッヘルベルのカノンを聞かされてから、採用担当者と思しき男が代わるのでありました。男は妙に丁重な言葉遣いで、若し可能ならば今日の午後四時に面接に来てくれぬかと云うのでありました。頑治さんとしては否と云う事も出来ず、それを億劫と思う気も特段無かったものだから、了解の旨あっさり返答するのでありました
 向こうから指定された午後四時には未だ二時間ほどあるのでありました。訪うべき会社は千代田区の猿楽町一丁目にあるのでありましたから、頑治さんは取り敢えず地下鉄神保町駅辺りまでゆるゆると歩いて行って、すずらん通りにある東京堂書店とか冨山房書店や駿河台下の三省堂本店、それに靖国通り沿いの古本屋等をブラブラ冷やかして時間を潰すのでありました。この間、幸いにして靴下の脱出現象はもうないのでありました。
 猿楽町の錦華公園に程近い辺りの、一階が駐車場になっている五階建てビルの三階にその会社はあるのでありました。駐車場横のやや狭い階段を上るとすぐ目の前に訪問先たる「株式会社 贈答社」と云う、白地にゴシック体墨文字のプレートが張ってある、クリーム色の少し汚れた鉄の扉があるのでありました。頑治さんはその扉を遠慮気味に叩くのでありましたが、中からすぐには何の応答も返ってこないのでありました。
 頑治さんが扉を引き開くと、ちょうど同じタイミングで中からも押し開こうとしたようで、内側のドアノブに誰やらの腕が付随してくるのでありました。その腕の持ち主は頑治さんと同じか少し若い年頃の男で、黄色地に茶の縦縞模様のワイシャツと赤と薄草色の斜め右下がりストライプのネクタイを締めていて、その上に肘の辺りに毛玉をかなりの量溜め込んだ、長年日に焼けたような黒いカーデガンを羽織っているのでありました。
「入社面接に来た者ですが」
 頑字さんは男にお辞儀しながら来意を告げるのでありました。
「ああ、はい。どうぞ」
 男はそう云って頑治さんが部屋の中に入り易いように、ドアを片手で開き留めた儘身をドア前で横に開いて通り道を空けるのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 5 [あなたのとりこ 1 創作]

 入ってすぐに受付台を兼ねたスチールの棚が置いてあって、その先には四つの事務机が寄せ集められていて、そこには誰も座ってはいないのでありました。その左横のスペースには如何にも安っぽい応接セットが窮屈そうに収まっていて、四たり一団の机を挟んだ右横スペースには長い重役机と二つの事務机が固められているのでありました。
 重役机に座っていた歳の頃三十半ばと云った、痩せた体を地味なスーツに包んだ坊や顔の男が立って近寄ってくるのでありました。如何にも苦労を知らないお坊ちゃんと云った顔であるものの、重役机に座っていたのでありますから、この男はこの会社の責任ある地位にあるのでありましょう。男は頑治さんに応接ソファーの方に座るように促すのでありました。頑治さんは云われる儘に長椅子の端に腰掛けるのでありました。
「ちょっと待ってね」
 男はそう云って部屋の奥の方に向かうのでありました。奥は通路を空けてパーティション代わりの大きなスチール製のケースに仕切られていて、そこにはまた違う部署があるのでありましょう。棚の上にもやや乱雑に丸めた紙の束やら幾つかの未使用の伝票類らしきクラフト紙の包みやらが積んであって、奥の様子は全く窺えないのでありました。
 因に部屋は都合二十畳程のスペースで、ケースに仕切られた奥が通路から仄見える様子からざっと八畳程、こちら側が十二畳程の広さと推察されるのでありましたか。職安の田隙野氏に聞いたところに依れば従業員十二人の会社でありますから、まあ、このくらいの広さで充分なのであろうかと頑治さんは憶測するのでありました。
 頑治さんが肘掛の付着が緩くなっているソファーに座って待っていると、先の男がすぐに奥からもう一人の男を引き連れて戻って来るのでありました。この男は薄い橙色のワイシャツに地味な褐色のネクタイを締めて、それをこれまた発色の悪い橙色のカーデガンで覆い隠していて、使い古したような焦げ茶色のズボンを穿いているのでありました。重役机の男と違ってなかなかの偉丈夫ではあるものの、艶のない髪の毛が耳を隠す程に長く額にも幾筋か垂れていて、服装のイカさないのも然る事ながら何処か陰鬱そうな面持ちで、折角の偉丈夫を偉丈夫に見せない湿気が体貌に漂っているのであるのでありました。
 男二人は夫々一人掛けのソファーに座って頑治さんと向かい合うのでありました。
「営業部長の土師尾史郎です」
 童顔が先ず自己紹介するのでありました。その後に偉丈夫の方を横目でちらと窺うのでありましたが、偉丈夫は何も云わず背凭れに深く身を引いて頑治さんの顔を凝視しているだけなのでありました。その目は頑治さんを値踏みしているようでもあり、呼ばれてここにこうして座っている事自体が億劫とのふてた意を表明しているようでもありました。
 偉丈夫が何も言葉を発しないのを見て、やや大袈裟にやれやれと云った表情を見せた童顔が代わりに続けるのでありました。
「こっちは制作部の片久那狷造部長です」
 そう紹介されても偉丈夫は愛想の頷きもしないのでありました。こうもつれなくされるとお互いの立場は別にして、初対面の相手に対して幾ら何でも横着と云うものではないかと頑治さんは秘かに憤るのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 6 [あなたのとりこ 1 創作]

 頑治さんは取り敢えずそれとなく不快を伝えるために、偉丈夫をさて置いて童顔の方と正面から向かい合う位置に腰をずらすのでありました。こなったら童顔の方とのみこの後の会話を進めるしかないでありましょう。
 この後履歴書の提出を催促されて、頑治さんは童顔の土師尾営業部長の前にそれを置くのでありました。土師尾部長は手に取って暫く眺めてから訊くのでありました。
「趣味は寄席通いとありますが、寄席にはよく行くのですか?」
「はいまあ、偶に、よりは少し繁く、と云った程度です」
 頑治さんとしては趣味の欄に読書とか映画鑑賞とか旅行とかのありきたりな事を記すよりは、寄席通い、の方が多少色気はあるかと呑気に思考してそう書いた迄であり、実はほんの偶に行く程度で、まあ、年に三回以上足を運ぶ事はないのでありましたか。
「笑う事が好きなのですか?」
 土師尾部長が質問を重ねるのでありました。笑う事が好きか、と問われても、はい好きですと素直に頷くのも何となく間抜けた応えのようだし、どだい笑うと云う営為は己の好き嫌いに依ってコントロールされるものではなく、どちらかと云うと生理に近い現象でもあろうから、頑治さんはその質問自体に面食らうのでありました。そんな訊ね方そのものが全く頓珍漢であろうと秘かに興醒めるのでありましたが、しかし曲りなりにも就職面接の場でそう返すのも憚られるので、一応無難な辺りを口にするのでありました。
「まあ、そのように云うとすれば、そんな風にも云えるかも知れませんね」
「と云う事は、貴方は朗らかな性格ですね」
 これにも頑治さんは、ある種たじろぐのでありました。寄席通いが趣味だから笑うのが好き(!)で、そうなら性格が朗らかに違いない、と云う論の路程は、何やらあまりにも大雑把で無粋で、三角形には角が三つあります、と滔々と正面から論じられているような按配で、何となく尻の辺りがムズムズとしてくるのでありました。
 その質問に乗って、はいそうですと応えるのは己が羞恥心にかけていただけないと思うから、頑治さんはこれも曖昧に笑って、頷くとも頷かないとも取れる程に首を微妙に動かして見せるのでありました。不機嫌そうに無言を決めこむ手合いも然り乍ら、こんな一種頓馬な質問を重ねる輩も、実は頑治さんとしては大いに苦手なのでありました。

 ここで頑治さんの前に茶が出されるのでありました。待ってきたのは三十半ばと見える女性で、何処から現れたかと云うと、土師尾部長の座っていた重役机長辺にくっついて二つの事務机が向いあっていた、頑治さんの方からは死角になる方からでありました。二つの向いあった事務机の間には、丁度頭が隠れるくらいの伝票やら帳簿やら印鑑やらを並べる机上棚が立っていて、それ故その女性の姿は隠れて見えなかったのでありました。
 女性は無言でそんざいと丁寧の中間程の、つまり全く事務的な手付きで茶を置くと出入口扉脇のカーテンで仕切られた中へ消えるのでありました。そこには恐らく給湯室か、ちょっとしたキッチンみたいなものがあるのでありましょう。
「さて、来週の月曜日から来て貰う事は出来ますか?」
(続)
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あなたのとりこ 7 [あなたのとりこ 1 創作]

 頑治さんが茶に手を出す前に土師尾部長が訊くのでありました。そう訊かれるのでありますから、つまり採用と相成ったと云いう事でありましょうか。
「それは可能ですが、と云う事は、ご採用していただけるわけでしょうか?」
 頑治さんが念のためそう訊き返せば土師尾部長は一つ頷くのでありました。終始無言の片久那制作部長の方を見ると、こちらは表情も変えず頷きもせず相変わらず頑治さんを値踏みするような目で見ているのみでありました。不機嫌な上司、頓馬で鈍い質問をものす上司の会社で大丈夫かしらと、頑治さんは少し考えるのでありました。
 この後に給料とか労働時間、それに有給休暇日数やら年に一度一泊二日の社員旅行があるやらの話しが土師尾部長の方から出るのでありましたが、好条件と云う程ではないにしろ特段頑治さんに不満はないのでありました。元々然程の好待遇を期待して仕事を探していたのではないのではありますし、『蟹工船』並みの過酷な労働を強いられる訳でもなさそうなので、先ずは結構な仕事にありついたと頑治さんとしては思うのでありました。
「では、明々後日の月曜日からよろしくお願いします」
 土師尾部長が頭を軽く下げて見せるのでありました。
「こちらこそよろしくお願いします」
 頑治さんは当然、土師尾部長のお辞儀よりは深く頭を下げるのでありました。
 こうして、職安に求職登録して最初の会社訪問で意外に呆気なく勤め先が決まった事に、頑治さんは少しばかり気抜けする思いでありました。
 オイルショックに続く不況下にも関わらず、頑治さんは別に大志があるわけでもなく、大学時代は就職活動を全くせずに一年間アルバイトをしながら呑気に遊び暮らしたのでありました。学友からは既卒者には就職が益々難しくなると云うのにそんなお気楽な了見でいたら、この先碌でも無い将来しか待っていないぞと散々脅かされたり憐れまれたりしたのでありましたが、そうでもなくこうして、頑治さんにしてみれば慎に順調に仕事が見つかったのであります。まあ、大企業とか好待遇とかを求めなければこのように、大学時代に一生の大事と必要以上に目を血走らせずとも何とかなると云う事でありましょうか。
 帰路の御茶ノ水駅方面への坂道を上りながら頑治さんはそんな事を考えているのでありましたが、ふと気が付いて主婦の友社本館傍の公衆電話ボックスに立ち入ったのは、この就職に於いて世話になった職安の田隙野氏に首尾を報告するためでありました。
「おお、それはお目出とうございます。流石は唐目さんです」
 一体何が流石なのかよく判らないのでありましたが、受話器の向こうで田隙野氏は大いに喜んでくれるのでありました。尤もその田隙野氏の、多分気紛れなヨイショ混じりの言葉に、頑治さんは少しく気分を良くしたのではありましたが。

 行きがけの坂道で靴下が摺り下がったと云う現象は、必ずしも悪い兆候ではなかったようであります。寧ろその日の外出の目的たる職探しの首尾を考えると、吉祥に属するとも取れるでありましょうか。本郷給水所近くの一角にあるアパートに帰り着いて、上着を脱いでネクタイを外しながら頑治さんはそんな事を考えるのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 8 [あなたのとりこ 1 創作]

 まあ確かに、足裏の感触なんぞは慎によろしくはなかったのでありましたが。しかし職安で摺り下がった靴下を引っ張り上げた後から、急に吉凶が逆転したようにも思えるのであります。そうなるとこの何ともイカさない秘かなる修正を境に、凶吉の反転が起ったとも云えるでありましょうか。靴下の摺り下がる無様は、これはもう如何にも目出度くはなかろうと云うものであります。依ってそれは矢張り凶兆であって、靴下を引き上げた事に依り、本日の職探しが目出度い仕儀に決したと云う風に捉える方が妥当性もあろうと云うものでありましょう。頑治さんはそう考えを纏めてから一つ頷くのでありました。
 諸事万端、頑治さんはこのような吉凶占いめいた事を、必ずあれこれ思い巡らして仕舞う傾向があるのでありました。それは遠く、小学生の頃からの抜き差しならぬ人生上の癖、あるいは慎に厳かなる儀式とも云えるものでありましたか。
 切っ掛けは友達と近所の公園で二股松葉を組みあわせて、その両端を引っ張り合って千切れた方が負けと云う遊びに由来するのでありました。単純で他愛のない子供の暇潰しじみた遊びではありましたが、頑治さんは内心大いに燃えるのでありました。何としてでも勝ちを収めなければ、何やらとんでもない災いがすぐ近くの将来、身に降りかかって来るかも知れぬと云う嫌に大袈裟に閃いた予感に打たれていたのでありました。
 家の前の、ネコの額と云うのも烏滸がましい程度の庭には一本の小振りの赤松があるのでありました。それまでは全くの無関心を決め込んでいたのでありましたが、友達との公園での遊び以来、頑治さんの目にその赤松が霊木の如く光を放つのでありました。
 学校から帰ると必ずその赤松の葉を組み合わせて相撲を取らせるのが、頑治さんの欠かせない日課となるのでありました。それに依って明日の吉凶を占うのであります。
 頑治さんは厳粛なる手つきで無作為に二股松葉を枝から取り出し、神官が真榊を扱う如くに恭しくそれを組み合わせ、深く二度程深呼吸して気を沈め、右が勝てば吉、と意中で宣し、左右の手を徐に横に引くのであります。当然左右の手の力加減に偏りがないように細心の注意を払い、神意が正しくこの松葉に降りるようにしなければなりません。
 右が勝てば吉、でありますから右手に持った松葉が二股を保持し続け、左手の松葉が二股を崩壊させれば、明くる日に屹度喜ばしい出来事が何か一つは起こるのであります。若し左手の松葉が勝ったからと云って、やり直しはきかないのが頑治さんの決めたルールであります。後の無い一回勝負であるからこそ卜占にリアリティーが宿るのであります。
 但し左手の松葉が勝ったからと云って、次の日に禍事が身に降り掛かると云うわけではなく、単に吉き事が起らないだけ、と云う風に都合好く頑治さんが自分の気持ちを納得させようとするのは、これはもう偏に頑治さんの小心に由来すると云えるでありましょう。依ってこれは吉・凶占い、と云うよりは吉・無吉占いと云うべきでありますか。
 しかし人間の性根なんぞと云うものは実に弱く出来ているもののようで、吉事がないだけとは云いつつも、しかしどうしても凶事の生成を意識せずにはいられないのであります。そう云えば確かに、左手の松葉が勝った次の日が何事もなく無事に終わるのは案外稀なような気が頑治さんはしているのでありました。強い思い込みからそう感じて仕舞うのだと云われれば、これはもう返す言葉は何もないでありましょうが。
(続)
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あなたのとりこ 9 [あなたのとりこ 1 創作]

 例えば登校中の路で不意に石に躓くとか教科書を忘れてきたとか、その日に返ってきた先のテストの結果が思いの外悪かったとか、友達と言葉の遣り取りが上手くいかなくて意ならず喧嘩になったとか、考えてみれば何かしらの禍事が起こっているのであります。こうなるともう、左手の松葉が勝てば凶事が起ると断定するべきかも知れません。
 然様であるなら、矢張りこれは、吉・凶占い、と云うべきでありましょう。確かに吉・無吉占いよりはその方が卜占としてはすっきりと落ち着いていると頑治さんも思うのであります。そうであるなら頑治さんの松葉を持つ手にも余計な力が入る事になるのであります。次の日が吉であるか凶であるのかが松葉の勝負に懸かっているのでありますから。
 またこの松葉占いが良く当たるのであります。と、頑治さんには身に染みて思われるのであります。松葉占い恐るべし、であります。依って頑治さんはこの密やかで、陰鬱な感奮に満ちた神事の虜とならざるを得ないのでありました。
 松葉の宣託は何を差し置いても第一番目に尊ぶべき明日の道標であり、明日と云う日を無難に乗り切るための予めの指示であるのなら、頑治さんはそれに頼ってのみ自分の生を生きていると云っても過言ではないと思うのでありました。頑治さんの人生は松葉が握っていると云うわけであります。何というロマン主義でありましょうや。
 まあ、兎も角もこういった観念論的性向が一旦身に沁み込むと、ありとあらゆる事象に神意、或いは天の意志を見るようになるのでありました。時間が過ぎて松葉の卜占にも厭きた後でも、頑治さんの心の壁にはこの性向が薄染みのように残るのでありました。
 例えば朝、中学校に行くために靴を履いて左足から玄関を出るか右足から外に踏み出すかで登校路程の吉凶が分かれるとか、バナナの皮を剥く時に四枚に剥くところを三枚に剥き損ねたら近々災いが起るとか、誤差前後十秒以内の三分間で歯を磨き終わらなければ好からぬ事がすぐ先に待ち受けているとか、七秒以内に信号が青に変わらなければ英語のテストの点が悪いとか、まあ、数え上げたら切りが無い位に神託頼みの人生であります。
 慎に窮屈な生き方だとうんざりもするのでありましたが、しかしこの営為の虜となった頑治さんには、これ無くして生きることは不可能に近いのでありました。故意に卜占を無視する、或いは寧ろ挑戦する等と云う勇気は全くないのでありました。そんな事をすればちょっとした凶事どころではない、途轍もない天罰が下されるに決まっているのであります。より小さな禍災さへ甘受していれば、大災へのストレスは免れるであります。
 何が起こってもそこに神の、或いは天の啓示を見る頑治さんは、しかし一面に於いてかなりのナルシストでもあるのでありました。だから普段は、そんな不合理には一顧も与えないリアリストの顔で振る舞うのでありました。あるかないか判らない神の、或いは天の意向に何時も兢々としているなんと云う態は、如何にも恰好が悪いでないではありませんか。しかしまた反面、神、或いは天への裏切りをしてまで敢えて己を修飾しようとする仕業は、これはまた頑治さんの強いストレスになっているではありましたが。
 慎に信心深い、頑治さんでありました。こういった信心深さは一体奈辺にその根があるのであるのかしらと、頑治さんは時々考えてみるのでありました。しかし特段思い当る成長過程上の目印は何処にも見付けられないのでありますが。・・・
(続)
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あなたのとりこ 10 [あなたのとりこ 1 創作]

 そろそろ寝ようかと部屋の片隅の、畳の上に直に置いている、東京に出て来て以来使っている小さな白黒テレビを消した時、これも畳に直に置いている電話がけたたましく鳴るのでありました。こんな時間に電話をしてくるのは羽葉夕美以外にはなかろうと当りを付けて受話器を取れば、果たしてその大学に通っていた時以来の女友達で、頑治さんはこの御明算に、例の卜占の了見から思わず知らずほくそ笑んでいるのでありました。
「どうなった、就職の按配は?」
 受話器の向こうから夕美さんの声が頑治さんの耳の鼓膜を震わせるのでありました。
「うん、決まった」
「へえ、おめでとう」
 夕美さんの弾んだ声は耳内の産毛を一層大きく振動させるのでありました。
「有難う」
 頑治さんは声の抑揚を抑えて努めクールにそう云いながら受話器の向こうの夕美さんに向かって小さくお辞儀をするのでありました。
「何時から働き出すの?」
「来週の月曜日」
「どんな仕事?」
「倉庫で商品の管理とか配送とか集荷とか、雑用とか」
 頑治さんは昼間に聞かされた仕事内容をその儘伝えるのでありました。
「ふうん。で、何て名前の会社?」
「贈答社」
「そう云う名前からするとギフト関係の会社?」
「多分そうじゃないかな」
「あれ、自分が勤める会社の業種も知らないの?」
 電話の向こうの夕美さんが頑治さんの応えに少し呆れるのでありました。
「業種ははっきりしないけど、やる仕事の内容はちゃんと聞いてきたよ」
「ふうん。・・・まあ良いか」
 由美さんの一先ず不得要領に頷く気配が受話器の向こうから伝わるのでありました。「明日ちょっとアパートに行っても良い?」
「うん、構わない」
「詳しい事は明日聞くわ。取り敢えず就職が決まったお祝いをしなくちゃ」
「ああ成程ね」
「あのさあ、折角就職が決まったと云うのに何だかあんまり嬉しくなさそうな口振り」
 夕美さんが少し興醒めの口調になるのでありました。
「いや、そうでもないよ。これで明日をも知れないアルバイト生活から抜け出せるし」
 不安定なアルバイト生活からは抜け出せるけれども、やる仕事の内容は今まで就いてみた様々なアルバイトと然程変わらないかと、云いながら頑治さんは思うのでありました。確かに欣喜雀躍と云う事態ではないと云えばその通りでありますか。
(続)
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あなたのとりこ 11 [あなたのとりこ 1 創作]

 大望や目標があってその仕事に就いたと云うよりは、云ってみれば決まった給金と待遇目当ての就職でありますから、嬉しさも中位、と云った辺りでありましょうか。然して就職するに当たっての意気込みや意欲や、それから不安も気後れの方も大した辺りではないのであります。慎に気楽と云えば気楽な感奮するところの少ない就職決定であります。
「じゃあ、明日の昼頃行くね」
 夕美さんが気を取り直した口調で云うのでありました。
「判った。待ってるよ」
 頑治さんの声も少し弾むのでありました。夕美さんと逢うのは一週間ぶりでありますから、これは頑治さんも嬉しいわけであります。夕美さんが受話器を置くのを確かめてから頑治さんは自分の手の受話器を元に戻すのでありました。頑治さんとしては就職決定よりも、明日の夕美さんとの逢瀬の方が遥かに嬉しいのでありました。
 頑治さんは寝るのを止して、急遽部屋を箒で掃き始めるのでありました。それからテレビや電話や本棚に溜まった埃を丁寧に拭うのでありました。夕美さんとの逢瀬のために多少は部屋を綺麗にしておきたいのでありました。しかしそのために如何にも力を入れて部屋をピカピカに磨いたり、一分の隙もなく整理整頓して仕舞うのは憚るのでありました。それでは余りに、頑治さんの自尊心に照らしてみっとも無いと云うものであります。

 夕美さんは午後二時少し前に遣って来るのでありました。大いに待ちかねたと云った顔色を極力隠して、しかし一定の嬉しさはきちんと漂わせて頑治さんが玄関のドアを押し開けると、夕美さんは親し気にこんにちはと少し笑って云うのでありました。
「やあ。さあ、入って」
 頑治さんはドアを押し開けた儘、夕美さんが入り易いように体を横に避けるのでありました。夕美さんは頑治さんに顔を向けながら体を斜にして通るのでありました。仄かな化粧水の匂いが、お邪魔しますと頑治さんの鼻腔に挨拶を送って寄越すのでありました。
 頑治さんの部屋は玄関を入って直ぐに洗濯機、その横に簡易なキッチン、対面はトイレ込みのユニットバスに挟まれた、廊下と云うには余りに短い一間ほどの空間を抜けると六畳程の板の間で、左側の壁一面は本棚が居座り右の壁には整理ダンスとファンシーケース、空いたスペースに白黒テレビと電話機が床に直置きで並び、南正面は出窓があって、その下には安っぽい炬燵が置いてあるのでありました。この炬燵は冬には本来の働きをさせられるのでありましたが、他の季節は正方形の座卓として使われているのであります。
 序に云っておけば本郷給水所近くの、五軒の古民家が軒を重ねるように建っている中の、同じ造作のワンルームの部屋が一階と二階に四軒ずつ並ぶアパートが頑治さんの住処でありました。家が立て込んでいる割に部屋は、狭いながらも道路に南面していて昼間の日差しは充分取り込めるのでありました。勿論その隘路の向こう一画も幾つかの民家が混み合っていて、外の眺めなんと云うものは慎に殺風景ではありました。しかし朝日の明るさの中で目覚める事が出来ると云うのは何となく安定感はあるのでありましたし、若し朝日が入らなければ頑治さんは一日中だって布団の中から這い出さないでありましょう。
(続)
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あなたのとりこ 12 [あなたのとりこ 1 創作]

 地下鉄の本郷三丁目駅までは歩いて五分程、JRの御茶ノ水駅へも順天堂病院の前を通って神田川沿いに外堀通りを十分程歩けば到着すると云う交通至便の地で、頑治さんはその至便さに魅かれて大学の三年の時に世田谷の方からここに移り住んだのでありました。当然、頑治さんの通っている大学へも近いと云うのも大いに魅力的でありました。
 世田谷の安アパートに比べれば風呂付でもありますから家賃はぐんと跳ね上がるのでありましたが、二年間のアルバイト三昧でたっぷり貯めた預金と、これから先もアルバイトに精を出せば故郷からの仕送りと合わせて何とか遣り繰り出来ると踏んで、頑治さんは思い切ってここへ引っ越して来たのでありました。引っ越し当時は然したる根拠もなく嫌に太っ腹であったものだから、電話も引いたのでありました。四年生になって就職活動時期にでもなれば、どうせ電話は必要となるでありましょうから。
 ・・・で、夕美さんは部屋の奥の座卓の前に座るのでありました。頑治さんはキッチンに居残って、持て成しに出す紙ドリップのコーヒーを淹れる湯を沸かすのでありました。万事にものぐさな頑治さんながらコーヒーはインスタントではないのでありました。
「職安の紹介?」
 夕美さんがコーヒーカップを座卓に置きながら訊くのでありました。
「そう。意外にすんなり就職が叶って、些か気抜けする心地だね」
「運が良かったのかしら」
「いや、職を探す当人の心映えと、如何にも涼やかな顔付きが良かったんだろうね」
「ふうん」
 夕美さんは頑治さんの戯れ言に対して全く取りあわないような、至極ぞんざいな相槌を打つのでありました。頑治さんの軽口には慣れっこになっているのであります。
「で、働き易そうな会社?」
「それは未だ判らないけど、カリカリしているような雰囲気は無かったかな。やる事もそんなに複雑で難しい仕事じゃなさそうだし、今までやったアルバイトの延長のような感じだし、まあ、だから意外に簡単に見つかったんだろうけどね」
「待遇はどうなの?」
「給料はそんなに高くはないよ。寧ろ同一年齢で比較すると低い方かな。でも能力給とかじゃないし、ノルマなんかもなさそうだし。まあ、営業職じゃないから当たり前かも知れないけど。倉庫業務とか配送や集荷と云う仕事柄、服装も堅苦しくないし、大体が定時に片付く仕事の様だし、ボーナスは年二回出るし、有給休暇も有るそうだし、そう云った説明を受けた限りでは、自分としては働き易い会社だと思えるんだけどな」
「ふうん」
 夕美さんは前と同じ無表情な顔で曖昧な頷きをするのでありました。しかしこれは先程のように頑治さんの冗談をつれなくあしらうためのものではなく、頑治さんの今述べた待遇の概略だけでは、働き易い会社なのかそうでないのかが今一つ明快に判らないと云う、判断不能の表現としての無表情のようでありました。
「ま、実際に働いてみないと、今の段階では何とも云えないけどさ」
(続)
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あなたのとりこ 13 [あなたのとりこ 1 創作]

 頑治さんは夕美さんの確定不能の表情に対して笑って見せるのでありました。
「それはまあ、そうよねえ」
 夕美さんはコーヒーを一口飲むのでありました。「取り敢えず頑ちゃんがそこで働こうって決めたんだから、働いてみるしかないわよね」
「今の段階では、そう云う事だな」
「じゃあ、まあ、取り敢えずお目出とう」
 夕美さんは持っているコーヒーカップをほんの少し差し上げて、乾杯のような仕草をしてから残ったコーヒーを飲み干すのでありました。
「取り敢えず、有難う」
 頑治さんも顎の上でカップを最終域まで傾けるのでありました。
「お祝いに晩ご飯、奢ってあげるわ」
 夕美さんは語調を弾ませるのでありました。
「おお、それは嬉しいな」
 頑治さんは口元を綻ばすのでありました。それから何か云い淀むように少し俯いてからすぐに夕美さんの目を見るのでありました。夕美さんはそんな頑治さんの素振りにやや怪訝そうな顔色をして見せるのでありましたが、多分頑治さんの口からものされるであろう次の語句に付いては、もう充分に察しているのでありましょう。夕美さんの頑治さんを見る瞳が艶やかな光沢を湛えているのが、その明らかな証拠と云えるでありましょうし。
「今日は泊まっていけるんだろう?」
 頑治さんはそう訊くのでありましたが、妙にぎごちない訊き方ではなく、サラリと自然な感じの口振りだったろうかと、訊いた後に少し不安になるのでありました。
「うん、その心算」
 夕美さんの応え方は全く自然な風でありました。頑治さんの口元に思わず安堵と喜色が交々浮かぶのでありました。

   長い一日

 月曜日は早起きして始業十五分前に初出社してみると、金曜日に主に頑治さんを面接した土師尾営業部長と、お茶を出してくれた女性が既に来ていて夫々のデスクに座っているのでありました。あの時ドアを開けてくれた若い社員の姿は無いのでありました。
 頑治さんは土師尾営業部長の前に行って畏まったお辞儀するのでありました。
「今日からよろしくお願いします」
 土師尾営業部長はそんな頑治さんをニコニコと笑って迎えるのでありました。
「ああ、紹介しておこう」
 土師尾営業部長は軽く頭を下げて頑治さんに答礼した後、長いスチールの重役机左に右横辺をくっ付けて据えてある事務机の女性に目を向けるのでありました。「こちらは経理と庶務を担当している甲斐計子さん」
(続)
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あなたのとりこ 14 [あなたのとりこ 1 創作]

「今日からお世話になります唐目頑治です」
 頑治さんが頭を下げると甲斐女史は如何にも億劫そうに頑治さんの方を窺い見てから、無愛想な表情で軽く顎を胸元に引いて見せるのでありました。歳の頃は土師尾営業部長と同じ三十代中頃辺り、無精に胸元に引いて見せた顎は二重で、太り肉と云うのではないけれど体幹も肩や腕の肉付きも豊かで、真っ赤な口紅が嫌に目立つ、やや化粧っ気の多いその顔は何となく肌窶れしているように頑治さんには見えるのでありました。
 頑治さんは土師尾営業部長の重役机に左横辺を接している、甲斐計子女史と向かい合ったデスクに座らされるのでありました。甲斐計子女史の机には印鑑ケースやら帳簿棚が載せてあるから、頑治さんの方から女史の様子は窺えないのでありまあした。
 取り敢えず何も為す事なく云われる儘手持無沙汰に事務椅子に座っていると、玄関の扉が潤滑油不足の小さな軋み音を立てて開かれ、作業服姿の男が現れて頑治さんの方へ歩み寄って来るのでありました。その日は姿の見えない、面接の日にドア開けてくれた社員とは違うけれど歳は同じくらいでありましょうか。ドアを開けてくれた男の柔和さとは違って、頑治さんに歩み寄るその体貌からはまるで挑みかかってでも来るような、一種高飛車な対抗心が放射されているように頑治さんには感じられるのでありました。
「ああ、丁度良かった。今呼ぼうと思っていたところだったよ」
 頑治さんのすぐ傍まで来て、頑治さんを不審そうに見下ろす男に向かって土師尾営業部長が声を掛けるのでありました。
「こちらは今日から業務担当で入社した唐目君」
 土師尾営業部長は作業服姿の男を見ながら頑治さんの方に掌を差し出して見せるのでありました。自分を紹介して貰ったわけでありますから、頑治さんはすぐに立ち上がるのでありましたが、立ち上がってみると男との距離がやけに近いものだから、頑治さんは一歩後ろに引いて男に向かってお辞儀をするのでありました。
「唐目と云います。よろしくお願いします」
 頑治さんの挨拶を無視して、男は頑治さんが今立ち上がったその椅子を自分の手元に引き寄せて座ろうとするのでありました。本来この椅子、と云うかこの席は彼の席で、そこに見知らぬ頑治さんが座っているのを見咎めて、何やら大いに気に入らなくて、それでつまり挑みかかるような目付きなんかして近寄って来たのでありましょうか。
 男は椅子に座ってから顔を横向きに上げて、頑治さんの顔を無表情に見るのでありました。その顔てえものは、頑治さんに対する不快の色に隈取られているのかと云うとそうでもなく、あくまでも無表情と云った風情の内なのでありました。この顔付きからすると、頑治さんが今斟酌したような敵意は殊更持っていないようでもありました。
「こちらは刃葉香里夫君と云って業務を担当している人だよ」
 男が頑治さんに対して何ももの云いしないものだから、土師尾営業部長が横から云うのでありました。刃葉香里夫なる男は、そう紹介されて頑治さんを見上げた儘で瞬きを一回して見せるのでありました。この瞬きが、どうやらこの男のお辞儀代わりの仕草のようであります。随分とまあ無精な挨拶と云うべきでありましょう。
(続)
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あなたのとりこ 15 [あなたのとりこ 1 創作]

 それより何より、この男の姓が夕美さんと同じだと云う事を頑治さんは甚く不愉快に思うのでありました。何処と無く夕美さんが気の毒にすら思えてくるのであります。
「刃葉君、唐目君に業務の仕事を教えて遣ってくれないか」
 土師尾営業部長が指示すると羽葉さんはその指示に返事も頷きもする訳ではないけれど、大儀そうに立ち上がって机の隅のスチールの伝票入れから数枚の紙片を取り上げて、それを頑治さんに渡すのでありました。頑治さんは反射的にそれを受け取るのでありましたが、それは頭に、発送指示書、と書いてあるのでありました。
「付いて来てくれるか」
 刃葉さんが頑治さんに初めて言葉を発するのでありました。特に何の感情も含有しない慎に事務的な云い草でありました。
 頑治さんは先輩社員、それも同じ業務職の男の指示に対してここは謹慎に返事をすべきであろうけれど、刃葉さんの無愛想に張り合う心算は毛頭ないながらも竟、頑治さんとしても愛嬌無しの顔で小さい頷きを返す無礼を働いて仕舞うのでありました。
 刃葉さんに連れられて頑治さんは三階の事務所を出るのでありました。恐らく業務の仕事場たる倉庫にでも頑治さんを連れて行くのでありましょう。
 ビルの一階はエレベーター式の二段建て駐車スペースで、横列三台、都合六台の車が駐車出来るようになっていて、その脇にこの建物の狭い出入り口があるのでありました。
 刃葉さんは一旦建物を出ると駐車スペースの真ん中に止めてあるバンの普通乗用車の横を、体を横にして擦り抜けるようにしながらその奥に進むのでありました。駐車場の奥には大きな両開き引き戸があって、どうやらその中が倉庫なのでありましょう。
 刃葉さんはガラガラと如何にも滑りの悪そうな大音を立てて重い鉄の扉を開くとその中に消えるのでありました。発送指示書を持った頑治さんも後に続くのでありました。
 二十畳程の倉庫の中はスチール棚が壁際に並んでいて、中央にも方形に組んだスチール棚が置いてあり、その狭間が通路となっているのでありました。棚にはこの会社が扱っているのであろう商品が、段ボールに入って余り綺麗に整理されているとは云い難い様で押し込めてあったり、A判全紙の印刷物が重ねてあったり、中に何が入っているのやら良く判らない不規格なクラフト紙包みが積み上げられていたりするのでありました。
 庫内右奥には作業台として使われているのであろう、上の土師尾営業部長が座っているような長い事務机が棚下に据えてあるのでありました。上階に有る机とは違って、この机は如何にも古びていて、一部の塗装が剥げて赤錆が付着していたり、完全に閉まらないのか引き出しが中途半端に引き出された儘になっているのでありました。机上は無数の傷で彩られ、緩衝材に使うのか古新聞やら結束用のビニールバンドの切れ端やら、それに四隅には埃が載っていたりして、片付かない事夥しいと云った有り様でありました。
 一応初出社でありましたから、頑治さんは礼儀上スーツにネクタイ姿で来たのでありましたが、今朝方意気込んで一張羅のその服装を選んだ事を悔やむのでありました。
「梱包とか、やった事ある?」
 少し気後れして庫内を眺め遣っている頑治さんに刃葉さんが訊くのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 16 [あなたのとりこ 1 創作]

「ええ。前にアルバイトで」
「あ、そう。それじゃ俺が商品を出すから、その発送指示書に書いてある品を個数分段ボールに詰めて梱包してくれるか」
「ああそうですか。・・・判りました」
 刃葉さんが頑治さんをここに連れて来たのは業務仕事の大概を教えてくれるためだと思っていたのでありますが、どうやら仕事の概要も、扱っている商品も良く判らない儘いきなり発送業務を手伝わされるようであります。まあ、先輩社員の云う事でありますから敢えて逆らう訳にもいかないだろうと、大いに戸惑いながらも頑治さんはスーツの上着を脱いでネクタイを外し、ワイシャツの袖を捲るのでありました。

 刃葉さんが出してきた商品を段ボールに詰めて、その二つ目の荷物に結束バンドを架けているところで、机の傍らの棚に固定してあるインターフォンのブザーが鳴るのでありました。作業台の端で運送会社の発送伝票を記入していた刃葉さんが億劫そうに受話器を取るのでありました。インターフォンは上の事務所と繋がっているのでありましょう。刃葉さんは暫しの間受話器を耳に当て、上からの声を無表情に聞いているのでありました。
「はあ、今発送を手伝ってもらっています」
 刃葉さんが受話器に向かって云うのでありました。恐らく頑治さんの事を訊かれているのでありましょう。頑治さんは横目で刃葉さんの方を窺うのでありました。
「はあ。そうですか。はあ。・・・」
 刃葉さんはその後、受話器に短い返答を間歇的に吹きかけるのでありました。それからニンマリ笑ってみたり、小さな舌打ちをしたりするのでありました。じゃあ判りました、と云ったのが最後の言葉で、刃葉さんは受話器をインターフォンの本体にものぐさそうに戻すのでありました。それからまた舌打ちであります。
 この舌打ちは恐らく、今のインターフォン越しの会話の相手に対して発せられているのでありましょう。自分に向けられているのではなさそうながら、頑治さんは刃葉さんのこう云う仕草を大いに不愉快に思うのでありました。この人は自分の周囲に対する気遣いが出来ない、或いはしようとしない人なのでありましょう。
「上で呼んでいるから、ここは切り上げて上に戻ってくれるか」
 刃葉さんは頑治さんの方に掌を差し出して、結束バンドを金具で締めるための工具を自分に渡すように促すのでありました。
「判りました。それじゃあ」
 頑治さんは工具を刃葉さんに渡すと傍らに置いていたネクタイと上着を取ってこの埃っぽい駐車場奥の倉庫を出るのでありました。紙や印刷物のインクやその他の何やら良く判らない匂いが充満した、しかも外光が差さないために妙に湿っぽい倉庫の中から解放されて、頑治さんは鉄の扉を出た途端大きく深呼吸するのでありました。これから先あの倉庫の中が自分の主要な仕事場になるのかと思うと、頑治さんは少なからず気が滅入るのでありました。しかしまあ、それはそれで仕方ないかとも思い直すのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 17 [あなたのとりこ 1 創作]

 上の事務所に戻ると、席に座っている土師尾営業部長の横に立っている、土師尾営業部長よりは若く、頑治さんよりは年嵩に見える男が頑治さんの方に顔を向けて手招きするのでありました。男は紺のズボンに紺のネクタイを締めて、黒いカーデガンを羽織っているのでありました。頑治さんは男に近寄って行くのでありました。
「下でいきなり梱包を手伝えって、刃葉君に云われたのかい?」
 座っている土師尾営業部長の方が男より先に頑治さんに訊くのでありました。
「はいそうです」
「刃葉君には業務の仕事を教えてやれって指示したんだけど、そう云った事は何か刃葉君の方から説明があったのかい?」
「いえ特には。梱包とかやったことがあるかって、先ずそう訊かれまして」
 頑治さんがそう応えると、土師尾営業部長は下で刃葉さんがしたような舌打ちをして見せるのでありました。この舌打ちも頑治さんに対してではなく、刃葉さんに対しての苛々からでありましょう。何やら社員間で舌打ちばかりしている会社のようであります。
「僕が指示したのはそんなんじゃなくて、業務仕事のあれこれとか倉庫にある商品を見せて遣れと指示した心算だったんだけどねえ」
 土師尾営業部長はもう一度舌打ちするのでありました。「唐目君も未だ仕事の右も左も判らない訳だから、そう云って業務仕事について先ず説明を求めれば良かったのに」
 土師尾営業部長は頑治さんに冷ややかな目を向けるのでありました。
「はあ。しかしそう云われましても、・・・」
「そりゃ無理ですよ!」
 ここで横の男が声を発するのでありました。「今日来たばかりの人が倉庫に連れて行かれて、いきなり梱包を手伝えって云われれば、先ずそれに従うしかないでしょう。唐目君に今そんな意志表示を求めると云うのは、無理と云うより無茶ですよ」
 男がやや強い語調で捲し立て終ると、自分の席に座って今まで黙って帳簿を付けていた甲斐計子さんがクスっと笑うのでありました。
「まあ、それはそうだけど。・・・」
 土師尾営業部長は男からおどおどと目を逸らすのでありました。これはつまり土師尾営業部長が、頑治さんの事を選りに選って刃葉さんに託した自分の迂闊さを認めるのが嫌さに頑治さんに発した的外れな言葉を、黒カーデガンの男に正面から諌められたと云った構図でありますか。頑治さんとしては多少胸がすく思いでありました。
「じゃあ唐目君、こっちに来てくれるか。制作部関係の仕事を説明しておくから」
 黒カーデガンの男が一度手招きするような仕草をして、スチールの棚で仕切られた部屋の奥の方へ頑治さんを連れて行こうとするのでありました。頑治さんはチラと土師尾営業部長の顔を窺うのでありましたが、不愉快そうにソッポを向いているだけで、黒カーデガンの男の行為に対して特段の横槍は入れないのでありました。
 棚は横長の引き出しが重なった大型のマップケースでありました。その前には大きなライトテーブルが置いてあるのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 18 [あなたのとりこ 1 創作]

 そのライトテーブルの奥には製図板をやや斜めにして置いた重役机があって、そこには面接の時に終始不機嫌な顔をして、一言も発する事無く頑治さんを窺っていた片久那狷造制作部長が座っているのでありました。頑治さんは一瞬身構えるのでありました。
 ライトテーブルを挟んだ向こう側はブラインドの降りた窓が一面を占め、その下にはこれも小振りの製図板を置いた事務机が三つ並んでいて、手前の机に若い男、真ん中に若い女が座っているのでありました。一番奥の片久那制作部長の横手に当たる机には誰も居ないのでありました。おそらくそこが頑治さんをここへ誘った黒カーデガンの男の席でありましょうか。ここは制作部のスペースと云う事のようであります。
 頑治さんの姿が見えると奥の片久那制作部長が顔を起こすのでありました。片久那制作部長は意外にも過日の面接時とは違って頑治さんに笑顔を向けるのでありました。
 頑治さんは先ずは、このスペースのボスたる片久那制作部長の机に近付いて行ってやや格式張ったお辞儀をするのでありました。
「今日からお世話になります唐目頑治です」
 頑治さんが挨拶すると片久那制作部長は、ああよろしく、と返して小さく頭を縦に動かすのでありました。面接の時の無愛想とは打って変わって、この親愛感のある物腰に頑治さんは面食らうのでありました。外の人間に対しては至極冷淡なくせに一旦内側に入ると心を許すと云う、態度の懸隔が激しい人なのであろうと頑治さんはこの仁を値踏みするのでありました。まあ、無愛想にされるよりも愛想良くされる方が有難くはありますが。
「一応紹介しておくと、・・・」
 片久那制作部長は窓側に並ぶ三人の机の方に目を遣るのでありました。「一番奥に座っているのが制作部主任の山尾登君」
 この間に自分の席に戻っていた黒カーデガンの男が、ニコやかな顔で頑治さんに、先程の片久那制作部長同様に軽く頭を下げて見せるのでありました。
 男が顎を引くようにして頭を下げたので頑治さんもお辞儀を返すのでありました。
「真ん中に座っているのが那間裕子君」
 真ん中の女性も頑治さんに向かって少し頭を縦に動かすのでありました。こちらは無愛想顔、と云うのか或いは、無関心顔でありましたか。ショートヘアで目鼻立ちが大きくて顔の上下左右比も整ってはいるけれど、だからと云って決して美人と云う訳ではなくて、それはそのプライドの高そうな険相の故であろうと思われるのでありました。
「向こうの端に座っているのが均目志信君」
「均目です。よろしくお願いします」
 三人目はネクタイの上から生えている細くて長い首が最初に目に付く、如何にも華奢な身体付きの男で、顔立ちにも何処となく気の弱そうな風情が漂っているのでありました。しかし頑治さんに発した挨拶の声はなかなかに大きく歯切れが良いのでありました。
「唐目です。こちらこそよろしくお願いします」
 この均目さんが今まで逢った社員の中で最も若そうであるし、性格に圭角がなさそうな感じもして、頑治さんとしては安心感を声に含ませて答礼するのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 19 [あなたのとりこ 1 創作]

 片久那制作部長から制作部関連の業務仕事に付いて説明があるのでありました。それに依ると先ず月曜日朝一番に、池袋にある製本所に依頼している製本商品を引き取りに行き旁、一週間分の材料等を搬入すると云う定期の仕事があるのでありました。
 この製本所と云うのは三人の姉妹でやっている小さな家内工業的な会社のようであります。大きな製本所では受け負えない細々とした込み入った内容の仕事も引き受けてくれる便利屋みたいな所で、もう随分と長い付き合いがあるのだそうであります。月曜日は大体この仕事で午前中は潰れてしまうようでありました。
 それから金曜日の午後にも、これは本郷にある製本所に池袋と同じく商品引きとり旁、材料を搬入すると云う定期仕事があるのでありました。こちらの製本所の方はやや大きな会社の様で、量を熟せる所と云う話しでありました。池袋よりは場所が近いだけに金曜日の午後半日潰れるような事はないとの事であります。池袋も本郷も今週の金曜日と来週の月曜日に山尾主任が頑治さんの紹介を兼ねて連れて行ってくれるそうであります。
 他にはこの製本所関連の物も含めて不定期に色々な材料が下の駐車場奥の倉庫に搬入されるので、それを保管管理すると云う仕事があるのでありました。下で見た歪な形のクラフト紙梱包してある物等は屹度そう云った材料の一つなのでありましょう。
「他にも何やかやとあるが、メインはそう云った辺りが制作部関連の主な仕事だな」
 片久那制作部長は身体を椅子の背凭れに引いて、机の引き出しを開けて五枚の右片をホッチキスで綴じ合わせた紙を取り出すのでありました。「これはウチの商品一覧と、その関連材料を記したものだが、取り敢えず渡しておくよ。まあ、見ても今の内は何が何だか良く判らないだろうけど、まあ、追々と覚えていってくれ」
 受け取って覗き込むと、商品の名称とその下にその商品を仕上げるのに必要な材料名が仕入先と一緒に表にして書き記してあるのでありました。矢鱈と材料の多い物もあれば材料が何も記してない物もあるのでありました。何も記されていない物は屹度、仕入れた儘で加工を必要としない完成品として入庫して来るのでありましょう。
 頑治さんが一覧表に見入っていると山尾さんが話しかけるのでありました。
「じゃあこれから、倉庫に行って主立った材料の置き場所や完成品の置き場所なんかを説明するから一緒に付いて来てくれるか」
「はい判りました」
 頑治さんは今貰った一覧表と、今迄の話しやら紹介された人物の名前等を書き入れていた自分のメモ帳を重ねて、左手に持ち直して片久那制作部長に一礼するのでありました。片久那制作部長は頑治さんの左手に目を遣りながら微笑むのでありました。これは屹度、頑治さんがただ話しを聞いているだけではなく、何も指示せずとも自主的にメモを取っている律義さを少しく好ましいと思ったが故の微笑でありましょうか。

 山尾さんに連れられて再び駐車場奥の倉庫に戻ると、梱包作業をしていた筈の刃葉さんの姿は無いのでありました。
「また鍵も掛けないで、一体何処に行ったんだか」
(続)
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あなたのとりこ 20 [あなたのとりこ 1 創作]

 とこれは、姿の見えない刃葉さんに対して舌打ちしながらの山尾さんの言葉でありますが、独り言なのか頑治さんに聞かせる繰り言なのか良く判らないのでありました。
 作業台の上には梱包途中の段ボールがあって傍にビニールバンドの切れ端やら結束用の金具、それに緩衝材代わりの新聞紙を丸めた塊が乱雑に転がっているのでありました。刃葉さんは作業途中でのっぴきならない用が出来て姿を消したと云った風情であります。
 頑治さんは棚のあちらこちらを山尾さんに引き回されて説明を受けるのでありました。メモ帳に棚の簡略な見取り図を描いて、商品一覧と突き合わせしながら説明を受けるのでありましたが、材料類が多過ぎて一遍には上手く覚えられないし整理も付かないのでありました。これはここでたじろぐよりも徐々に覚えていくしかないでありましょう。
 それにまた山尾さんの説明も一覧表に記してある順を追って、と云う訳ではないし棚の並び順と云うのでもなく、あっちへ連れて行ったりこっちへ手招きしたりの思い付き任せと云う具合だったので頑治さんは多少混乱するのでありました。もう少し整然とした説明だったら良いのにと頑治さんは口の中で愚痴を零すのでありましたが、しかしそう要望するのも憚られて、こうなったら棚に順に番号を振って商品一覧表にある商品も材料もその番号を割り当てて、後で落ち着いて頭の中を整理整頓した方が良いでありましょう。
 二十分程で一通り山尾さんの説明が終わるのでありました。ちょうどそこに姿を消していた刃葉さんが戻って来るのでありました。
 刃葉さんは倉庫内に頑治さんを見付けて不審そうな目を向けるのでありました。
「刃葉君、何処に行っていたんだ?」
 山尾さんが、刃葉さんが頑治さんを見るのと同じ目容で訊ねるのでありました。
「ああいや、ちょっと」
 刃葉さんはやや気まずそうな物腰で応えるのでありました。
「何か煙草とコーヒーの匂いがするなあ。喫茶店にでも云っていたのか?」
 山尾さんにそう云われて刃葉さんは少したじろぐ仕草を見せるのでありました。すぐにきっぱり否定しないところを見ると図星なのでありましょう。刃葉さんは、恐らく自嘲なのか、或いはひょっとしたら太々しさの表明なのか、曖昧な微笑を口の端に浮かべて作業台の前に進んで行って途中で止めていた梱包作業を再開するのでありました。
「仕事中に無断でまたコーヒータイムか。そんな事をしたら駄目じゃないか」
 山尾さんが作業台の横から苦言を呈すのでありました。山尾さんが「また」と云うところを見ると、そう云う横着はこれが最初と云うのではないのでありましょう。
「はあ。作業の効率が落ちたんで、ちょっと息抜きをしていたんですよ」
「今まで何個、梱包を終えたんだい?」
 山尾さんにそう訊かれて刃葉さんは後ろをふり返って壁際に置いている梱包を終えた段ボールの数を数える目つきをするのでありました。
「五箱、ですかね」
「あと何個荷物を作るんだい?」
「残り七箱ですね」
(続)
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あなたのとりこ 21 [あなたのとりこ 1 創作]

「午前中に完了するんだろうね?」
「まあ大丈夫でしょう」
 刃葉さんのその受け応えに山尾さんは疑わしそうな目付きをするのでありました。
「この梱包仕事のために、何時も定期で行って貰っている宇留斉製本所の仕事を午後一番に回したんだから、午前中に終わって貰わないと困るよ」
 宇留斉製本所と云うのは月曜日午前中に制作部の定期便として行くべき、池袋にある製本所の名前でありましょう。そこへの出来上がった製品引きとり兼、新たな材料搬入の仕事は、先に片久那制作部長から制作部関連で説明された業務の仕事でありますから、何時もは刃葉さんが担当しているという事になりますか。
「大丈夫ですよ」
 刃葉さんは如何にも軽そうな口調であっさり請け合うのでありました。
「宇留斉製本所のおばちゃん達は何やかやと逐一、こっちの手落ちと見たら口煩い苦情を云ってくるだから、ちゃんと昼一番に行かないとまた文句の電話が掛かってくる」
「ああ確かにあそこの人は面倒臭いですからねえ。しかしそれを心配しているのなら俺にではなくて、今朝急にこの梱包の仕事を入れた営業部長に文句を云ってくださいよ」
 刃葉さんが口の端に笑いを留めて抗弁するのでありました。何やら、嫌に他人事のような、それは無責任と文句を付けたくなるような云い草でありました。
「まあ兎に角、宇留斉製本所には時間通りに行ってくれよ」
 山尾さんは刃葉さんの抗弁に忌々しそうに顔を歪めるのでありました。刃葉さんは特段それに返事する訳でもなく無表情の儘手を動かし続けるのでありました。

 倉庫から再び上の事務所に戻る階段の、二段先を歩く山尾さんの背中辺りに向かって頑治さんが訊ねるのでありました。
「あの刃葉さんがひょっとしたら自分の直接の上司、と云う事になるのでしょうか?」
「いやまさか、そうじゃないよ」
 山尾さんは歩を止めずに後ろを振り返るのでありました。「刃葉君はあと二か月足らずで会社を辞めるんだからね」
「ああそうなんですか」
 頑治さんはそれは知らなかった、と云う少しの驚きを語調に込めるのでありました。
「営業部長から聞かなかった?」
「いえ、そう云う事に付いては何も」
「だから刃葉君の後釜として唐目君を雇ったんだから」
「ああそう云う事ですか」
 初耳でありました。まあ、この後土師尾営業部長からその辺の経緯について頑治さんに説明があるのかも知れません。と、その時頑治さんは考えたのでありましたがしかし後日談として云えば、結局土師尾営業部長からは頑治さんを雇った事情についての説明は一切ないのでありました。多分うっかり云いそびれたのでありましょうが。・・・
(続)
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あなたのとりこ 22 [あなたのとりこ 1 創作]

「今日の昼一番に刃葉さんが向かう事になっている、宇留斉製本所、でしたか、そこへは自分は付いて行かなくても良いのでしょうか?」
 頑治さんはまた山尾さんの黒カーデガンの背中に言葉を投げるのでありました。
「ああ、今日はいいよ。来週の月曜日に一緒に行ってくれれば。今週金曜日の本郷の大木目製本社の方には行って貰う事になるから、今からその心算でね」
「判りました」
 上の事務所に戻るとドアを入ってすぐの四つの机が固まっている、その土師尾営業部長脇の一番奥の席に今日初めて見る顔が座っているのでありました。土師尾営業部長よりも明らかに年嵩で、紺色に金ボタンのダブルのジャケットを着て派手な赤いネクタイを締めているのでありました。太っている訳ではないながら体格は良く、少し薄くなってきたような頭髪を綺麗に後ろに撫で付けて、露出している額がテカテカと光沢を湛えているのでありました。顔の色は浅黒く鼻梁が大きくて、弛んでいるのではないながら頬の肉も厚そうで、紫色に近い分厚い唇をしていて、一見結構な精力家と云った風貌であります。
 この精力家らしきが山尾さんの後に続いて入って来た頑治さんをジロリと見て、何だこいつは、と云った胡散臭そうな目付きをするのでありました。
「ああ日比さん、帰っていたの」
 山尾さんが勢力家らしきに声を掛けるのでありました。「丁度良かった紹介しておくよ。こっちは今度、業務担当で入った唐目君」
 山尾さんは頑治さんの方に掌を上に向けた手を差し出し示すのでありました。
「ああ、刃葉君の代わりの」
 名前を日比何某と云う精力家らしきが頑治さんを見る目から胡散臭さを消すのでありました。しかし一挙に打ち解けた表情をすると云う訳ではないのでありました。
「こっちは営業課長の日比祖治郎さん」
 山尾さんは、今度は日比さんの方に掌を向けて頑治さんを見るのでありました。
「今度入社しました唐目頑治です」
 課長と云う肩書きでありますから部長へ対するよりは浅く、山尾主任に対するよりはやや深く頑治さんはお辞儀をするのでありました。それに対して日比さんは特段名乗るわけでもなくコックリをするように頭をヒョイと動かすのでありました。
 山尾さんと一緒に制作部スペースへ戻ると、片久那制作部長がそれ迄見入っていた何やらの印刷物の校正刷りらしきから目を離して頑治さんを迎えるのであありました。
「どうだい、倉庫の様子は大まかには判ったかい?」
「はあ。山尾主任に丁寧に案内していただいたのですが、しかし商品をすっかり把握した訳ではないので未だ心許ない感じです」
「そりゃそうだ。入社した今日からいきなり何でも熟せる訳がないし、あれこれ戸惑いながら、追々手際良く動けるようになれば良いよ」
「判りました、有難うございます。ええとそれから、白い紙を一枚頂けませんか?」
 頑治さんはそう云って片久那制作部長に懇願の目を向けるのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 23 [あなたのとりこ 1 創作]

「紙をどうするんだい?」
「棚の見取り図を描いて、倉庫の邪魔にならない所に貼っておきたいと思いまして」
「ああ成程ね」
 片久那制作部長は頑治さんの意図を了解して横のマップケースの一番下から、大判の雑誌を見開きにしたくらいの大きさの厚紙を一枚取り出すのでありました。手渡された厚紙は何かの書籍の、表紙の校正刷りと思われるものでありました。その厚紙の、印刷されていない裏面を見取り図描きに使えと云う事でありましょう。
「それで良いかい?」
「はい。有難うございます」
 ペラペラの薄い紙よりは厚紙の方が用途からして好都合と云うものであります。
「ところで作業服は未だ貰ってないの?」
 席へ戻っていた山尾さんが訊くのでありました。
「はい未だ貰っていません」
 頑治さんがそう応えると、ほんの暫くして土師尾営業部長が制作部スペースの方に顔を出すのでありました。営業部と制作部はマップケースの仕切り壁を隔てただけなのでありますから、こちらの会話は向こうにも筒抜けでありましょう。
「はいこれ、使ってくれ」
 土師尾営業部長は頑治さんに、綺麗に折り畳まれてビニール袋に入った薄い黄土色した新品の作業服を手渡すのでありました。「すぐに渡す心算で用意していたんだよ」
 山尾主任の、作業服は貰ったかと云う頑治さんへの問い言葉を聞きつけて、急いで持ってきたのだと思われるのでありました。と云う事は、すぐに渡す心算、とは云っているものの今の今まで渡すのをすっかり忘れていたのでありましょう。
「ああ、有難うございます」
 頑治さんは受け取りながら土師尾営業部長にお辞儀するのでありました。これで下の倉庫に行っても一張羅のスーツを汚さなくて済むと云うものであります。
 さてところで、制作部の空気が土師尾営業部長が出現した途端にやや白んだような気がするのでありました。何やら部外者が突然闖入してきた時のような、微妙な余所々々しさが生まれたような具合であります。片久那制作部長以下制作部の連中はこの制作部スペースに制作部以外の者が侵入して来るのを内心迷惑に思っているのでありましょうか。
 そうなら頑治さんの侵入時にも、気付かなかったのでありましたが同じような気配が漂ったのでありましょうか。しかし頑治さんは山尾さんに連れて来られたので闖入したのではない訳であります。依って空気は揺らがなかったとも思えるのであります。
 しかし土師尾営業部長の出現には、明らかにげんなり感が生成したのであります。こう云った辺りの感受性に於いて頑治さんは昔から全く呑気ではないのでありました。
 ひょっとしたら制作部と営業部は不仲であるのかも知れません。或いは片久那制作部長と土師尾営業部の間が上手くいっていなくて、その気色が揺々しているとも考えられるのであります。まあ今のところあくまで頑治さんの直感以上ではないのでありますが。
(続)
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あなたのとりこ 24 [あなたのとりこ 1 創作]

 とまれ頑治さんは貰った作業服と厚紙を手に今度は一人で下の倉庫に戻るのでありました。見取り図を描き終えた後は商品や材料をもう一度念入りに確認したり、刃葉さんの梱包仕事を手伝ったりするようにと土師尾営業部長から指示もされるのでありました。

 土師尾営業部長から頑治さん専用の倉庫の鍵を受け取って下に行くと、またもや刃葉さんの姿が見当たらないのでありました。扉は半開きで鍵も締めていないのは先程と同じであります。今度もまた喫茶店に行ったのでありましょうか。
 頑治さんは土師尾営業部長から使って構わないと許しを得た、作業台後ろの片隅にあるスチール製の三連ロッカーの一番右側の扉を開くのでありました。そこには大き目のデイパックが無理矢理と云った感じで押し込められていて、恐らく刃葉さんの物と思われる焦げ茶色のジャンパーが針金のハンガーに吊り下げられているのでありました。ここは刃葉さんが自分のロッカーとして使用しているのでありましょう。
 真ん中には新品の結束バンドやらバンド締めの工具やら凧糸の束やら金槌やらスパナやら、何に使うのか白樫の木刀やらボクシングのグローブやらが乱雑に入れてあって、これも頑治さんの使用を拒んでいるのでありました。左のロッカーには下に古新聞の束が積んであるものの、大方の空間は空いているのでありました。
 ロッカー内は何となく薄汚れた感じで、一張羅の背広の上着をそこに入れて置くのは思わず及び腰になるのでありましたが、しかしここしか使えるスペースはなさそうなので、頑治さんは上着を脱いで中に一本吊ってあった針金ハンガーに掛けるのでありました。それから作業服をビニール袋から取り出して袖を通すのでありました。
 ビニール袋を棄てようとゴミ入れを探すのでありましたが見当たらないのでありました。作業台の上と云わずその近辺の床と云わず、結束バンドの切れ端やら丸めた古新聞やら使い損ねたバンド締めの金具やら、ボロ布やら菓子パンの包装紙やらストローを差した儘のコーヒーの紙カップやらが散乱していて、云ってみればこの倉庫全体がゴミ入れのようでありますから、敢えてゴミ箱なんぞは必要ないとも云えるでありましょうか。
 棚の見取り図描きに取り掛かる前に、幾ら無精な頑治さんでもここは先ず掃除から始めなければと云う気が起るのでありました。こんな不潔で雑然とした中では仕事する意欲も湧かないし捗りもしないと云うものであります。
 ロッカー横に無造作に投げ出されたようにあった箒と塵取りで床を掃いていると、刃葉さんが紙袋を抱えて戻って来るのでありました。刃葉さんは掃除をしている頑治さんを見てやや不愉快そうな顔をするのでありました。ひょっとしたら頑治さんの掃除する姿が、自分の怠惰、或いは整理整頓能力の欠如に対する当て付けと映ったのかも知れません。
「どうせまた散らかるんだから掃除なんて無駄だぜ」
 刃葉さんは作業台の隅に、抱えていた紙袋を置きながら云うのでありました。
「はあ、まあ、しかし」
 頑治さんは掃除を続けるのでありました。まるで仕事上の必然として散らかるような云い草でありますが、十の内の八は刃葉さんの不心得が散らかしているのであります。
(続)
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あなたのとりこ 25 [あなたのとりこ 1 創作]

 頑治さんが掃除している間、刃葉さんは外出のため途中で止めていた梱包仕事を、精を出す、と云うよりは如何にも精を出し惜しみするような風情で続けるのでありました。持って帰って来た紙包みから紙のガムテープを取り出すところを見ると、仕事を途中で放り出して喫茶店でコーヒーを飲むために外出していたのではなく、梱包途中で切れて仕舞ったガムテープを買いに外出していたのでありましょう。
 粗方の掃除を終えた頑治さんは箒と塵取りをロッカー横に戻して、懸案の見取り図を描こうとするのでありました。作業台は刃葉さんの梱包仕事に占領されているから使えそうにないので、台の引き出しから刃葉さんに断った上で太字用の黒と赤のマジックペン、それに黒と赤のボールペンを取って倉庫奥に行くのでありました。奥の棚の空いているスペースで刃葉さんとは離れて自分の仕事に取り掛かろうと云う寸法であります。
 頑治さんは先ずうろちょろと歩いて棚の位置や段数を確認して、それを平面図として厚紙に丁寧に描き入れて順番に番号を振るのでありました。それから棚の列ごとに「上・下」と赤色で描き加えるのでありました。三段になっている棚は「上・中・下」であります。これで棚の識別は完了であります。材料関係と製品関係の別は整理されずに棚の中に混然となっているようなので、敢えて描き加えないのでありました。
 今度はその棚の識別を、山尾主任に貰っていた製品と材料の一覧表にボールペンで書き記すのでありました。これもうろちょろして在り処を確認しながらでありました。今まで見た事もない部材もあって、山尾主任に案内された時にうろ覚えで、記してある材料かどうか判然としない品もあるのでありましたが、これは後で山尾主任に確認であります。
 大方の作業を終えて作業台の方に戻ると、刃葉さんが荷造りを終えて運送会社に渡す発送伝票を書いているのでありました。ちらと手元を覗き込むと刃葉さんは意外に綺麗な字を書いているのでありましたし、字の並びもギクシャクしてはいないのでありました。こんな律義らしい字をものす同じ人が、倉庫の整理整頓に関しては全く無精で何の意も用いないと云うのは、一体全体どういう了見に依るのでありましょうや。まあ、それとこれとは無関係だと云われれば、そう云うものかと納得するしかないのでありますが。
「これを作業台の前に暫く貼って置いて良いですか?」
 頑治さんは台に接した前の棚の梁を指差すのでありました。刃葉さんは顔を上げて頑治さんが左手に持つ厚紙を見るのでありました。
「何だいそりゃあ?」
「倉庫の棚の見取り図です」
 刃葉さんはそう聞いても関心無さそうに、ふうん、と口を尖らせるのでありました。
「別に俺は構わないからご自由に」
 何となく冷ややかな云い草でありました。倉庫を一から十まで取り仕切っている自分にはそんなものは無用だと云う事でありましょうか。
「ちゃんと頭に入ったら外します」
「ああそう」
 あくまでもそんな事には全く興味が無いと云った様子であります。
(続)
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あなたのとりこ 26 [あなたのとりこ 1 創作]

「何か手伝いましょうか?」
 見取り図を作業台の正面に貼り終えた頑治さんが刃葉さんに訊くのでありました。
「そうねえ、じゃあ、上に行って新しい発送指示書があったら持ってきてくれるか」
「はい判りました」
 頑治さんは倉庫を離れるのでありました。外に出て、棚を上ったり奥をほじくったりしたために新品の作業服に付着した埃を忌々しそうに掌で掃うのでありました。

 上の事務所に行くと経理の甲斐計子女史が一人机で帳簿付けをしているだけで、営業部のスペースに土師尾営業部長の姿も日比課長の姿も無いのでありました。
「新しい発送指示書がありますか?」
 頑治さんが机の帳簿立て越しに頭半分見える甲斐計子女史に訊ねるのでありました。特に新しく書き起こされた指示書は無いとの女史の無関心そうな応えでありました。
「ああそうですか」
 頑治さんは手ぶらで事務所を出るのでありました。またすぐに下の倉庫に逆戻りであります。これから先自分の主たる仕事場はあの倉庫に違い無いのでありましょうが、外光から殆ど遮断され、掃除も整頓も行き届いていない埃の舞うあの場所でこの先長く働くのかと思うと、何とは無しに気が滅入ってくるのでありました。
 倉庫の前には梱包された段ボールが八箱ばかり、扉の前に積んであるのでありました。刃葉さんは一仕事終えて、如何にも年季の入ったスチール椅子に腰掛けて、作業台の上に両足を載せて煙草を吹かしているのでありました。
 当面刃葉さんを手伝う仕事も無さそうなので、頑治さんは先程色々書き足した製品と材料の一覧表を持って倉庫の奥に行こうとするのでありました。もう一度所在確認旁、棚の中を少しばかり整理しようと云う目論見でありました。
「初日からあんまり意気込むと疲れるよ」
 頑治さんの作業服の背中を刃葉さんの声が掴むのでありました。「ここに居る時は気楽にしていて構わないよ。誰かの目がある訳じゃなし」
「はあ。しかし、まあ、・・・」
 頑治さんは曖昧に応えて倉庫の奥に行くのでありました。今朝からのごく短い接触ではあるにしろ、刃葉さんと云う人はあんまり心服出来る先輩とは云い難いような気がするものだから、頑治さんはその指示に一々謹慎に従う気が起らないのでありました。
 頑治さんが暫く奥でゴソゴソやっていると羽葉さんが傍に遣って来るのでありました。刃葉さんは頑治さんの存在には全く気を留めていないような風情で、頑治さんが中を整頓している二つ横辺りの棚に進むのでありました。
 その棚の柱には古座布団が一枚ビニール紐を幾重にも巻いて頑丈に固定してあるのでありました。それを見付けた時、何のために座布団がここに括りつけられているのか頑治さんは判らなかったのでありました。棚の柱を守るためのクッション代わりかとも思うのでありましたが、それにしては他の棚には何も施されてはいないのであります。
(続)
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あなたのとりこ 27 [あなたのとりこ 1 創作]

 見ていると羽葉さんはその古座布団の前に立ち、膝を屈して腰を落とし、その落した腰の横に曲げた両腕を構えるのでありました。一体何が始まるやらと思っていると、羽葉さんはその姿勢から左右の拳を交互に古座布団に向かって打ち出すのでありました。始めはゆっくり次第に早く、固く握り締められた拳が古座布団に食い込むのであります。
 打ち出す時に刃葉さんは口から息を短く強く吐き出すのでありますが、これはどうやら空手の突きの練習のようであります。棚に括り付けた古座布団が巻き藁の代わりでありましょうか。出し抜けに現出したこの異様な光景に頑治さんは面食らうのでありました。
 二つ程離れた頑治さんの乗っている棚までもが刃葉さんの古座布団を打つ動きに合わせて振動するのでありました。それに棚の上に載っている段ボールやらクラフト紙包みが小さな足取りのタップダンスを踊り出すのでありあました。これは堪らんと思った頑治さんは棚の上から刃葉さんにやや荒げた声を掛けるのでありました。
「何をしているのですか!」
 その声に刃葉さんは顔だけ動かして頑治さんの方を見るのでありました。全くの無表情で目は半眼に開かれているのでありました。
 この倉庫の支配者は自分であると云う点を示威、或いは念押しするため、刃葉さんはこんな脅迫的な行為に出たのかとも頑治さんは思うのでありました。一種の故意の鞘当てであります。多少血の気の多いところもある頑治さんは、売られた喧嘩なら買っても良いと一瞬思うのでありました。こうなったら先輩もクソも無いのであります。
 しかし刃葉さんの無表情を見ていると、別に何か意趣が有ってこういう真似をしているように見えないところもあるのであります。何と云うのか、無邪気な無表情とでも云うのか。頑治さんは刃葉さんの底意が窺えず、少々及び腰になるのでありました。
「ああ、仕事の邪魔かな」
 刃葉さんが打撃練習を止めていとも穏やかに訊くのでありました。頑治さんの熱り立ちが見事な肩透かしを食ったような、そんな按配であります。
「仕事の邪魔ですし、そんな事をするために棚が組まれているのではないし、棚の中に在る物が痛むかもし知れませんし、第一、自分に対して穏やかじゃありませんし」
 頑治さんの声は激高の気分が未だ完全に消え切らないような調子でありました。
「ご免な。別に他意はないよ。これは何時もの習慣なんだ」
 刃葉さんは笑い混じりに云うのでありましたが、その笑いは別に挑戦的な或いは揶揄するような魂胆からではなくて、寧ろ取り成すような色彩のものでありました
「何時もの習慣?」
「そう。梱包の合間に時間があったらこんなことをしているんだよ」
「空手ですか?」
「うんそう、空手」
「幾ら時間が有っても仕事中に空手の練習をする事自体、不謹慎じゃありませんか」
「まあ、そう云われるとその通りだけど、・・・」
 刃葉さんの眼球が少し動揺するのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 28 [あなたのとりこ 1 創作]

 しかしその狼狽の色もすぐに顔から消えて刃葉さんは頑治さんに笑顔を向けるのでありました。どういう心算の笑顔なのか頑治さんは判然としないのでありました。嘗めていると思えば思えなくもないし、一種の羞笑と取れば取れなくはないのであります。
「でもまあ、そんな固い事云うなよ」
 ちっとも応えないと云うのか、あっけらかんとしたものであります。頑治さんはげんなりして仕舞うのでありました。まあ、幾らこちらの言に分が有るとは云え、出社初日から先輩社員と云い争いするのもいただけないと云えばいただけない話しでありますか。
 それにしても土師尾営業部長とか山尾さん辺りは、倉庫で刃葉さんがこんな事をしているのを知らないのでありましょうか。それとも知っていながら注意しないのでありましょうか。注意しても刃葉さんがちっとも云う事を聞かないのでありましょうか。まあ確かにこの刃葉さんと云う人は話して通じるタイプの人ではないような感じではありますが。
 出入口の方から集荷に来た運送屋が声を掛けるのでありました。羽葉さんはすぐにそちらに向かうのでありました。一応手伝うために頑治さんも刃葉さんの後を追うのでありました。そうこうしている内に午前中の仕事時間が終わるのでありました。

 頑治さんは神保町交差点近くの立ち食い蕎麦で腹を満たして、その後その立ち食い蕎麦屋近くのビルの地下にあるネルドリップのコーヒーを出す薄暗い喫茶店で時間を潰しながら、午後一時までの昼休みを過ごすのでありました。刃葉さんと云う人は慎に付き合いにくい、と云うのか出来れば付き合いたくないタイプの人であると、小振りのカップに満たされたコーヒーの湯気に鼻先を包まれながら考えるのでありました。
 別に悪気に満ちた人ではないのでありましょう。しかし仕事に対する遣る気の無さとそれに起因する在庫物への無神経や無配慮、マイペースを崩そうと端から全く思ってもいない唯我独尊、そんな自分の在り様を隠そうともしない高慢、自分の仕事環境への無関心、よくもまあそれで今まであの会社で勤まってきたものであります。
 刃葉さんはあと二か月で会社を辞めるそうでありますが、この先長く付き合わなくて済むのが辛うじての幸いと云うものでありますか。しかし向う二か月間は仕事を教えて貰ったり、それに恙無い仕事の引継ぎやらで一緒にいる時間は他の社員の誰よりも長いでありましょう。頑治さんの溜息が鼻先のコーヒーの湯気を揺らすのでありました。
 事務所に戻ると丁度、刃葉さんがその日急に入った梱包仕事のため午後に回した池袋の宇留斉製本所への定期便仕事に向かうために下の駐車場へ行くところでありました。
「宇留斉製本所に行くけど、付いて来るのかい?」
 刃葉さんが頑治さんに声を掛けるのでありました。そう云われて頑治さんが戸惑っているとすぐに奥の制作部から山尾さんが顔を出すのでありました。
「いや、来週の月曜日に紹介も兼ねて俺が連れて行くか、或いは均目君に連れて行って貰う事にしているから、唐目君は今日は一緒に行かないよ」
 山尾さんの言に刃葉さんはふうんと唸って口をやや窄めて見せるのでありました。手伝いの足しとして付いて来て貰いたいような面持ちでありましたか。
(続)
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あなたのとりこ 29 [あなたのとりこ 1 創作]

 午後の仕事は刃葉さんが池袋の宇留斉製本所から帰って来る迄倉庫の留守番、と云う事になるのでありました。その間頑治さんは午前中に始めた倉庫整理やどの商品と材料がどの棚に有るかの再確認、それに発送指示書が出ていたのでそれに従って山尾さんから助言を貰いながら商品を梱包して発送伝票を書き、運送会社に集荷依頼の電話をするとか云ったものでありました。発送仕事はアルバイトでやった経験があるから梱包作業も伝票書きも然したる問題は無いのでありました。山尾さんには、刃葉さんより遥かに要領も手際も良いじゃないかと褒められるのでありましたが、別段嬉しくはないのでありました。
 依って専ら、倉庫内の整理整頓が主な仕事になるのでありました。商品とその関連材料が随分と遠く離れた棚に脈絡無く仕舞われていたり、同じ商品が別々の二か所の棚に存在したり、刃葉さんが整理するのが億劫でそうなったのか、様々な商品の異なった材料の一部が一つの棚に一緒くたに押し込まれていたりするのでありましたが、当然効率の面から一定の規則性を持たせて整理した方が良いと頑治さんは考えるのでありました。
 しかしそうなるとこれはもう、整理と云うよりはすっかりの模様替えに近いでありましょう。とても一日や二日で完了する仕事ではなさそうであります。
 それに山尾さんや刃葉さんに何の断りもなく、頑治さんの独断でうっかり在庫物の在り処を変える訳にはいかないでありましょう。他の仕事との兼ね合いも鑑みて、これは追々と云う事になりそうでありますか。また、未だ数多ある商品や材料類の把握が出来ていない頑治さんには、おいそれと手出しするには憚りの有る仕事のようであります。
 頑治さんは明らかな誤謬、或いは刃葉さんのものぐさか無精からあちらこちらに散らばって仕舞ってある商品や材料を、一つ処に纏めると云う辺りから始めるのでありました。何をどう動かしたかは商品材料在庫一覧表に一々書き込んでおくのでありました。後で不都合があった場合すぐに元に戻す事が出来るように、と云う用心であります。
 そんな事をやっていると、午後三時を回った頃に外の駐車場から二段式の車の昇降機が動く音が聞こえてくるのでありました。恐らく刃葉さんが帰って来たのだろうと思って、宇留斉製本所から引きとって来たであろう商品を車から降ろす作業を手伝うため、頑治さんは倉庫奥の棚から降りて出入り口の方に行くのでありました。
 しかし昇降機を操作しているのは刃葉さんではないのでありました。頑治さんと同じくらいの背丈で体重は頑治さんよりはありそうで、縦縞ワイシャツに青いネクタイを締めてその上から黄土色の作業服を着ている、顔からは若いのかそうでないのか判断出来ないけれど立ち姿から見ると若いと云う方に一票入れたくなるような男でありました。
 着ている作業服が頑治さんと同じ物であるから、恐らく贈答社の社員でありましょう。男は倉庫出入り口に立っている頑治さんを見付けて先ず反射的に軽く頭を下げてから、しかし会社の中では見た事のない男だと考えてか、やや不審そうな目をして頑治さんを窺うのでありました。不審な目を向ける前に思わずと云った風情で一礼する辺り、この男は結構人の好い男であるのかも知れないと頑治さんは見て取るのでありました。
 バンの普通車を載せた昇降機が上まで到達してガタンと云う音をたてて止まるのでありました。下に出来たスペースを男が倉庫出入り口に近づいて来るのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 30 [あなたのとりこ 1 創作]

「ああどうも、・・・」
 不審気な顔色はその儘ながらそれをあからさまに表すのは先ずは憚るべきと判断してか、男はほんの少し口元を綻ばせるような表情をして、不得要領に頑治さんに向かって顎を引くような仕草で会釈をして見せるのでありました。
「贈答社の方ですね」
 頑治さんは明朗に云って男よりははっきりとしたお辞儀を返すのでありました。
「ええ、そうですが」
「今日から社員になった唐目と云う者です」
 頑治さんは名乗ってからもう一度深くお辞儀するのでありました。
「ああどうも、袁満丸也です」
 男は名乗り返すのでありましたが、頑治さんが社員だと云うのが今一つ腑に落ちないような困惑を眉尻に浮かべるのでありました。
「業務の刃葉さんの後釜として入った者です」
 明快に土師尾営業部長からそう聞かされたのではないけれど、まあ、そう云う事情であるのは間違いないであろうから頑治さんはそう申し述べるのでありました。
「ああそうか、そう云う事ですか」
 袁満と云う男はようやく頑治さんの存在が飲み込めたと云う風に頷いて、今度は安心感を漂わせた笑顔を向けて来るのでありました。刃葉さんが近々会社を辞めて、代わりに新しい社員を雇う事になった経緯は概知のようでありました。
「どうぞよろしくお願いします」
 頑治さんはもう一度頭を下げるのでありました。
「ああどうも、よろしくお願いします」
 袁満さんも釣られるように低頭するのでありました。「ところで刃葉さんは?」
「池袋の宇留斉製本所に行かれました」
「午前中に行ったんじゃないの?」
「急な梱包と発送の仕事が入ったので、今日は午後一番になったのです」
「ふうん成程ね」
 袁満さんは自分で刃葉さんの在不在を訪ねていながら、実はそれには大して関心が無いと云った風情で納得するのでありました。「それじゃあ、車は上に上げていなくとも、すぐには業務仕事の邪魔にはならないよね?」
「ええ。刃葉さんのお帰りの時間が何時なのかに依りますが」
「宇留斉製本所に行ったのなら、どうせ夕方まで帰ってなんか来ないだろうし」
 袁満さんは片方の口の端を吊り上げて何となく皮肉を云うようにそう呟いてから、もう一度車の昇降機を操作するために身を屈めて駐車スペースを出るのでありました。
 一端上に上がった車が昇降機の大きな作動音を響かせながらまた下に降りて来て、接地した時に少しく揺れてから止まるのでありました。袁満さんは車の横の狭いスペースを擦り抜けるようにしてまた倉庫扉の方に戻って来るのでありました。
(続)
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