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お前の番だ! 20 創作 ブログトップ

お前の番だ! 571 [お前の番だ! 20 創作]

「折野さんも優しいから、屹度すごい愛妻家になると思うわ」
 香乃子ちゃんが云うのでありました。
「それは確かにそうだろうな。その点に関しては俺も受けあうな」
 その良平の言葉を受けてか、あゆみがまた万太郎の顔を見るのでありました。それは本当に愛妻家になってくれるかと訊き質されているようで、万太郎は何となくたじろぎ等を覚えるのでありましたが、まあ、自分はそうなるだろうと思うのでありましたけれど。
「ところで未だ上手く解せないでいるんだが、万さん、こんなに二人の結婚話しがトントン拍子に運んだのは、一体どう云う詳しい経緯があったからなんだい?」
 良平が真顔で万太郎に訊くのでありました。
「直接には、万ちゃんがお父さんの命で、一人で八王子の洞甲斐先生の道場に、看板から、常勝流、の文字を外すようにと、威治さんと洞甲斐先生相手にかけあいに行ったのを、あたしがすごく心配になって、誰に断りも入れずに独断でその後を追いかけたと云うのが、まあ、話しがこんな風に急展開するきっかけになったわけだけど、・・・」
 あゆみが万太郎に代わってその良平の質問に応えるのでありました。あゆみはそう云った後で、少し上目でまたもや万太郎の方を見るのでありましたが、これは万太郎にそうよねと確認と云うのか同意と云うのか、それを求めるための視線でありましょうから、万太郎の方も同じく上目で横のあゆみの目を見て小さく一度頷いて見せるのでありました。
「ああ、その辺りは大方のところは既に聞いて知っていますけど、ならばあゆみさんはどうして、急にそんな行動に打って出たのでしょうかね?」
「それはもう、万ちゃんの事が気が気でなかったからよ」
「気が気でない、と云う気持ちと、だから誰にも云わず断固後を追う、と云うあゆみさんの行動の直接的繋がりが 今一つ自分には明快にならないのですがねえ。つまり心配だけど家でやきもきしながら待つ、と云う選択だって成立するわけですよ」
「それはそうだけど、でもすごく、何て言うのかな、胸騒ぎ、がしたのよ」
 あゆみは良平を納得させられるように上手に自分の行動のモチーフを説明出来ないようで、そんな舌足らずの言をものすのでありました。それからまた万太郎に目を向けるのでありましたが、これは万太郎としては何とも応う能わざる領域の事なので今度は頷かずに困惑顔で、しかし充分の情の深さを籠めてあゆみの目を見返すのみでありましたか。
「後を追わずにはいられないような胸騒ぎ、と云う事ですかね?」
「そうね、まあ、そんなもの」
 あゆみは曖昧に頷くのでありました。
「居ても立ってもいられなくなったのは判りますけど、でも、あゆみ先生が折野さんの後を追ったとしても、あゆみ先生には何が出来たのでしょうか?」
 香乃子ちゃんが一面に於いて全く本質的なところを、意外にあっけらかんとした無邪気な表情でサラッと訊くのでありました。
「それは確かに、飛び出した当のあたしも良くは判らなかったけど」
「でも、何かあったら助太刀しようとしての事でしょう?」
(続)
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お前の番だ! 572 [お前の番だ! 20 創作]

「まあ、要するにそうなんだけど、でも万ちゃんの助太刀と云うのも、考えてみれば烏滸がましい話しよね。あたしより万ちゃんの方が武道の実力は遥かに上なんだから」
「しかしそうであっても、切羽つまった心根は理解してくれと、そう云う事ですかね」
 良平が心理分析的な評言を述べるのでありました。「で、万さんの方としてはそのあゆみさんの心根に甚く感じ入って、それで話しのトントン拍子に到ったと云うわけだ」
「ちょっとげんなりするくらい大雑把だけど、まあ、つまりそう云う事かな」
 あゆみが一応の納得を表明するのでありました。
「あゆみ先生が折野さんの切所に何も顧みないで衝動的に後を追って飛び出した、と云うだけで充分かしらね。その行動を後であれこれ解説するのは蛇足みたいな気がするわ」
 香乃子ちゃんが納得気に一人頷くのでありました。
「ま、確かに、行動に一々妥当な説明が要るなんと云う考えは無粋ではあるか」
 横の良平も同意の頷きをするのでありました。「で、万さんはそのあゆみさんの行動を見せつけられて、一瞬で参ったと云う次第だろうな?」
「洞甲斐先生の道場にあゆみさんが現れた時、僕は先ず驚いて、それから急激にひどく嬉しくなりましたね。まさかあゆみさんが現れるとは考えもしていなかったですから」
 万太郎が少し照れながらその時の心情を吐露するのでありました。
「そりゃあ、胸がキュンとなるわよ。あゆみ先生にそんな事をされると」
 香乃子ちゃんがまた何度も頷くのでありました。
「胸が、キュンとなった?」
 香乃子ちゃんの言を受けて、あゆみが横に座る万太郎に、瞳に茶目っ気七分に真剣さ三分の光沢を湛えて訊くのでありました。
「押忍、キュンとなりました」
 万太郎は特に照れて道化る事もなくあっさりと頷くのでありました。あゆみがその万太郎の応えに満足気に笑むのでありました。

 座卓の真ん中に据えてある鉄の鋤焼き鍋から葱を摘むあゆみに、良平が日本酒の徳利を差しかけながら訊くのでありました。
「あゆみさんは万さんの事を何時頃から、そんな対象として意識していたのですか?」
 葱を自分の取り碗に移してから、あゆみは箸を置いて急いで盃を両手で取り上げて、良平の酌を受けるのでありました。
「そうね、何時頃からかしら。・・・」
 あゆみは思い返すような表情をするのでありました。これは万太郎としても確と聞き質した事がなかった事なので、興味津々にあゆみの顔を覗くのでありました。
「ごく最近の事、ですか、それともかなり以前からですか?」
「三四年前、と云った辺りかしらね。毎日の稽古でも、それに指導に関してもあたしはもう万ちゃんには、到底叶わないと兜を脱いだのがそのくらいだから」
 万太郎は心の内でほうと呟くのでありました。思い当る節はないのでありましたから。
(続)
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お前の番だ! 573 [お前の番だ! 20 創作]

「へえそうですか。先ず武道の上で兜を脱いで、それからそうなると自然に、個人としての気持ちの兜の方も脱ぐ事になったと云うわけだ。成程ねえ」
 良平としては少し気の利いた云い回しの心算でありましょうが、然して唸る程の科白とも思えなかったので、万太郎は無表情の儘で自分の猪口を口に運ぶのでありました。干した猪口に香乃子ちゃんがすぐに酒を注いでくれるのでありました。
「急に万ちゃんが頼もしく思えてきたし、この人はこの先どこまで強くなるのかしらって、一種の畏れみたいなものも感じてきたし、風格で完全に追い越されたと感じたの」
「その、畏れ入られた折野さんの方は何時からあゆみ先生の事が好きだったんですか?」
 鉄鍋から肉と葱を一緒くたに箸で摘もうとする万太郎に、香乃子ちゃんが徳利を差し向けるのでありました。万太郎は先程のあゆみと同様、摘んだ肉と葱を急ぎ自分の取り碗に移して、両手で猪口を香乃子ちゃんの前に差し上げるのでありました。
「そうねえ、・・・」
 万太郎はそう云って香乃子ちゃんに注がれた酒を一口飲んで、一拍を空けてから徐に続けるのでありました。「初めて総本部道場を訪ねた時から、と云うべきかな」
「初めて逢って、一目惚れ、と云う事ですか?」
 香乃子ちゃんが驚いた表情をして見せるのでありました。
「ま、今から思うと、と云う事かな」
 万太郎は照れて頭を掻きながら猪口を干すのでありました。
「前からそんな気配、感じていたの?」
 これは香乃子ちゃんが横の良平に訊く言葉でありました。
「そうねえ、・・・感じていたような、感じていなかったような」
 良平は顎を撫でながら曖昧な応えをするのでありました。
「どっちよ?」
「万さんの云い草じゃないけど、今から思えば、そうだったのだろうなと思うわけだ。まあ、俺もそうだったけど、姉弟子で総士先生の娘であるあゆみさんに対して、万事に頭が上がらないと云った風に見えていたんだが、俺の方はその通りだったけど、万さんの方は少し違った辺りで頭が上がらなかったと云う事になるわけだな」
「いや僕も、実際は畏れから頭が上がらなかったのが八分強、ですよ」
 万太郎が良平に至極真面目に云うのでありました。
「どうでも良いけどさ、何だか、あたしがとっても怖い人みたいじゃない」
 あゆみが万太郎と良平の云い様に不満を差し挟むのでありました。
「いや、実際のところ怖かったですよ、大袈裟でなく。なあ、万さん」
「入門当初は正真正銘に、恐ろしかったです」
 万太郎が頷くと、あゆみの指が徐に万太郎の太腿を抓るのでありました。
「あ痛! ・・・押忍、済みません」
「今でも大いに怖そうだな、万さん」
 良平が万太郎に冷やかしを投げるのでありました。
(続)
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お前の番だ! 574 [お前の番だ! 20 創作]

「習い性と云うのか、竟どうしても下手に出て仕舞うのです」
「万ちゃん、何時も云うけどさあこうなったからにはその内屹度、その態度は改めてね」
 あゆみが懇願六分に命令四分の口調で云うのでありました。
「押忍。鋭意頑張ってみます」
 万太郎は生真面目な顔つきで軽くお辞儀するのでありました。
「何か、この先もずうっと、ひょっとしたら一生、あゆみさんと万さんはこんな風な調子でいきそうな予感がするなあ、俺としては。」
 良平が苦笑しながら万太郎の決意に疑問を呈するのでありました。
「ところで多代ちゃんは、今日はどうしたの?」
 あゆみが語調を改めて香乃子ちゃんに訊くのでありました。多代ちゃん、と云うのは良平と香乃子ちゃんの娘の名前であります。
「両親が看てくれています」
「一緒に連れて来ればよかったのに」
「やんちゃで、とてもじっとしていそうもないし、あの子が傍に居たらお二人と話しも碌に出来ないと思って、今日は家であたしの両親とお留守番です」
「ふうん。でも、ご両親と一緒に暮らしていると、こういう時にちょっと便利かもね」
「そうですね。多代も滅多に怒らないお爺ちゃんとお婆ちゃんと一緒にお留守番している方が、あたし達と出かけるよりも好いみたいです」
「多代ちゃんは幾つになったんでしたっけ?」
 万太郎が良平に訊くのでありました。
「四歳。来年から幼稚園に通う予定だよ」
「へえ、早いものですね。ついこの前生まれたと思っていたけど」
「花司馬先生の処の剣士郎君が、今少年部で稽古しているんだろう?」
「ええそうです。流石に花司馬先生のお子さんだけあって、なかなか筋が良いですよ」
「小学校一年生になったすぐから稽古に来ていて、今は二年生で、なかなか頼もしくて、一年生と二年生の間でちゃんと心服を得ていて、すっかり大将格と云った感じかな」
 あゆみが続けるのでありました。
「ウチの多代にも常勝流を習わせたいけど、総本部まで通うのは大変だからなあ」
 良平がそう云って万太郎の方に徳利を向けるのでありました。
「良さんが教えれば良いじゃないですか」
「いや、どうせなら本格的な道場でやらせたいし、俺が教えるとすぐにおちゃらけて仕舞うか、如何にも面白くなさそうな仏頂面をするからなあ」
「若し事情が万端整うようなら、是非一つ、総本部道場にお預けください」
「何だか営業言葉のようだな。流石に宗家見習いだけあって商売にもそつがない」
「いやいや、鳥枝建設の腕利き幹部候補生の良さんに、冗談にもそんな事を云われると、僕としては冷や汗三斗、と云った心持ちですよ」
「そう云う云い草にしても、最近万さんもなかなか人が錬れてきたよなあ」
(続)
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お前の番だ! 575 [お前の番だ! 20 創作]

 良平がまた一献万太郎の猪口に酒を注ぐのでありました。
「しかし、実際のところ、僕如きが本当に、将来総士先生の後を継いで常勝流を束ねる役目について良いのでしょうかねえ?」
 万太郎が返杯しながら、ふとそんな事を漏らすのでありました。
「他に誰が居る?」
 そう良平に問われて、万太郎は横のあゆみを窺うような気配を見せるのでありました。しかしそれにはあゆみは気づかないようでありました。
「他にも適役が居ると思うのですがねえ」
 あゆみの名前を出すのは何となく憚られて万太郎は曖昧にそう云うのでありました。
「鳥枝先生や寄敷先生は総士先生と余り歳が違わないから、次代の宗家と云うにはどうも今一つ落ち着きが良くない。花司馬先生は興堂派から総本部に途中から移ってきた人で、総士先生に伊呂波から教えを受けたと云うわけじゃない」
 良平はそう云ってから万太郎の横に座っているあゆみの方に視線を投げるのでありました。その目にはあゆみと暗黙に、何やらを示しあわせるような気色があるように万太郎は感じるのでありましたが、しかし殊更ここで二人が示しあわせをするべき事由はなくて、つまり良平も万太郎の宗家継承を是中の是と考えている故と見るべきでありましょう。
「あたしなんかより万ちゃんが宗家を継承する方が、常勝流の門下の人達も全国の支部長さん達も、それに広く云えば武道界からも屹度妥当な線だと受け取られる筈よ」
 あゆみが卓に置いてある儘の万太郎の猪口に酒を注ぎ入れるのでありました。
「僕はあゆみさんと結婚出来るだけで充分で、実は他に何も望んでいないのですが」
「あゆみさんと結婚すると云う事は、将来宗家となって常勝流の道統を守って行くと云う条件が、どうしても付随してくる事になるだろうよ」
 良平が諭すような云い草をするのでありました。
「それは重々承知なのですが、宗家継承と云うのは、何だか僕の気持ちの中で上手く落ち着かないのです。それは如何にも大役過ぎて、僕にはどうにもそぐわないようで」
「万ちゃんの気持ちの中で落ち着かなくても、他の大多数の人の気持ちの中では落ち着くんだから、高い位置から眺めると、それは最も適切な決定と云う事になるのよ」
 あゆみがそう云いつつ自分の猪口に自分で日本酒を注ぐのでありました。あゆみへの酌のタイミングを逸した事に万太郎は少し狼狽えるのでありましたが、こう云うちっとも堂々としていない辺りが、自分は如何にも宗家の器じゃないと思えるのであります。
「今は、万ちゃんは未だあたしの弟弟子と云う了見でいるから落ち着かないだけで、その内次期宗家としての扱いを受けるようになって、時間が経てば気持ちも落ち着くわよ」
 万太郎の酌の失敗の狼狽を、あゆみが暗に庇うよう云うのでありました。
「僕が宗家になったら、何時かとんでもない失態を演じて仕舞うかも知れませんよ」
 万太郎は云いながらふと威治元宗家の事を思うのでありました。そもそもそぐわない者がそぐわない地位に就任すると、碌な事が起きないと云うものではありませんか。
「興堂流の威治宗家じゃあるまいし、万さんはそんなことは仕出かさないよ」
(続)
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お前の番だ! 576 [お前の番だ! 20 創作]

 良平が万太郎の意中を察したように威治元宗家の名前を出すのでありました。「あの人には今の万さんに有る威徳も人望も、それに武道家としての資質も何もなかったからなあ。有るとすれば、人一倍の見栄と増長と怠慢くらいだったから、それでは人が心服しないのが当たり前だ。あの人と比較するのは自己卑下にも程があると云うものだ」
「あたしもそう思うわ」
 あゆみが頷くのでありました。「威治さんと万ちゃんでは全く格が違うと思うの。二人を並べて較べるような、そんな対象ではないんじゃないかしら」
「そうですかねえ。・・・」
「そうさ。万さんはもっと自信を持つべきだ。自分の評価を高くもなく低くもなくクールに受け止められるのも、武道家としての器量だと思うぜ」
「そうですか、ねえ。・・・」
 万太郎は前言を繰り返して納得したようなしないような顔をするのでありました。
「事の序に云っとくけどさ」
 あゆみが今までとは少し声の調子を変えるのでありました。「若し万が一、万ちゃんが将来宗家をしくじったとしても、そればかりじゃなくて、予期出来ないどんなに逆風に晒されるとしても、あたしは絶対万ちゃんの傍を離れないからね」
 その言葉が終わると俄に良平と香乃子ちゃんの顔が綻び、万太郎の顔が春先の雪崩を起こしかけた山の斜面のようにデレッとやにさがるのでありました。
「あゆみ先生、ご馳走様です」
 香乃子ちゃんがやんわり揶揄しつつ一つお辞儀をして見せるのでありました。
「あら、だって本当なんだもの」
 あゆみは恬として、慎にしれっとそう返すのでありました。
「まあ、こうなった以上、やるだけやってみますよ、僕としては」
 あゆみにそこまで云わせたならば、万太郎としてはあゆみの為にも、些か優柔不断の嫌いはあるにしろ、そう決意表明するしかないと云うところでありますか。
「何だその、愚図々々した云い草は」
 良平が冗談交じりで万太郎を詰るのでありました。「あゆみさんが衒いも決まり悪気も、誰憚る事もなく、極めてあっさりと万さんへの強烈な思慕を表明したんだから、今度は万さんがそれに応えるべくドンと胸を叩いて大いに頼りになるところを見せる番だぜ」
「あら、あたし別にここで、強烈な思慕を表明しようとした心算ではないのよ」
 あゆみがはにかんでやや抗弁口調で云うのでありました。良平はそんなあゆみを、これも冗談交じりで、やれやれと云った顔つきで凝視して見せるのでありました。
「衒いと決まり悪気と誰憚らないのに加えて無自覚と云うのもつけ加えなければならないけど、まあ、取り敢えず万さん、ここは一番お前さんがドンと胸を叩いて見せる番だ」
「判りました。何が何でも僕の方こそ、あゆみさんを逆風から守って見せます」
 今度は決然とした万太郎の云い草に、良平は拍手を送るのでありました。それに和するように、香乃子ちゃんも笑いを堪えながら掌を大いに打つのでありました。
(続)
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お前の番だ! 577 [お前の番だ! 20 創作]

「あ、どうも」
 万太郎はニヤけた顔でお辞儀しながら頭を掻いて見せるのでありました。
「何だか万ちゃんの宗家継承を激励する調子から、あたしと万ちゃんに対する冷やかしに話しの中身が変わって仕舞ったんじゃない事?」
 あゆみは良平に話しの内容が急に変調した事に対して不満を述べるのでありました。
「いや、良いんですよ、本来今日はあゆみさんと万さんの冷やかしの会なんですから」
 そう云われて仕舞えば、あゆみとしても返す言葉に窮すると云うものであります。
「宗家継承の方は、まあ、あんまり鯱張らないで、淡々とやっていきますよ。考えてみれば僕はそうしか出来ないし、僕があれこれ力むと碌な事がないですからね」
 万太郎が少し真面目な顔で云うのでありました。
「そうだな。そう云う心胆が如何にも万さんらしいし、言葉に一種の安定感とリアリティーが備わっている。それにそんな了見だからこそ、万さんなりに宗家継承も上手く熟していくのだろうと思えるよ。現時点では、万さんが将来の宗家を継ぐと云うのが、様々な条件を客観的に鑑みても、一番妥当な選択と云う事が出来るしなあ」
「まあ、そうではないと云う意見も、立場が変われば多々あるでしょうが」
「そりゃあそうさ。しかし万さんが宗家を継承するまでに、未だ相当の時間がある。その間に大方を心服させれば、それで良い話しだ。万さんなら屹度出来るだろう」
「この前の理事会でも、全体として好意的に受け止められたと云う感触だったわ、万ちゃんが将来宗家を継ぐって云う事に関して」
 あゆみが言葉を挟むのでありました。「出席した理事さん達は、あたしの夫になる万ちゃんが宗家を継ぐのなら、それはそれで殊更の問題もないし、寧ろあたしなんかが将来の宗家になるより、万ちゃんの方が余程好都合だと云う雰囲気だったわよ」
「理事さん達が支持してくれたならまあ、今のところ按配や良し、と云う事だろうな」
 良平が頷きながら云うのでありました。
「まあ、要するに僕の心得次第、と云う事かも知れませんが。・・・」
「さっきも云ったように、万さんが宗家を継ぐ迄に未だ相当の時間があるんだから、その間に万さんの立派な心得を創り上げれば良いんだ。武道の稽古と一緒だ」
「あゆみさんと色んな意味で無難に一緒になれるから、取り敢えず宗家継承に頷いた、と云うのが現時点での僕の偽らざる本心なのです。実はだから、宗家継承の方は、今は未だ僕の中でリアリティーが薄弱なのですが、こんな事で良いのでしょうかね?」
「それで良し、だろうよ」
 良平があっさりと頷くのでありました。「俺達が結婚するに当たっても、当時ペーペーの内弟子だった俺には、家庭を持つだけの条件が全く整ってはいなかったけど、それでもまあ何とか、結婚は出来たし今までこうしてやってこられたわけだ。これは偏に鳥枝建設会長でもある鳥枝先生の厚意があったからだが、俺ですらそう云う助成を得る事が出来たんだから、況や万さんならもっと篤い周りからのサポートが集まるだろう筈だぜ」
 良平は自分のその言葉に自分で頷いて見せるのでありました。
(続)
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お前の番だ! 578 [お前の番だ! 20 創作]

「そう云えばその折、香乃子ちゃんからあたし相談を受けたわね」
 あゆみが懐かしむような顔つきをするのでありました。「いざとなったら自分が働いて良君との生活を守る、なんて香乃子ちゃんが健気に決意表明していたのを思い出すわ」
 香乃子ちゃんはそんな話しを出し抜けにあゆみが持ち出すものだから、何となくはにかむような笑いを両頬に広げるのでありました。
「あたしから云わせれば、あゆみ先生と折野さんの結婚も大丈夫だし、常勝流宗家継承問題も、折野さんの覚悟はこれからとしても、大方無難な辺りに落ち着くわけだから、当面は万事、目出度し目出度しって事だと思われますよ」
 香乃子ちゃんはあゆみが持ち出した話題から遠ざかるためにか、そう云ってしかつめ顔で何度も頷いて見せるのでありました。
「まあ、あゆみさんと結婚出来ると云うのが僕としては第一番目の目出度し、だけど」
 万太郎のその云い草が先程のあゆみ同様、如何にもしれっとしているものだから、それを聞く香乃子ちゃんの方が何となくモジモジと照れて仕舞うようでありました。
「この二人なら結婚しても屹度上手くいくだろうな」
 良平がそうニヤニヤ顔で、万太郎とあゆみを交互に見遣りながら結論づけるのでありました。香乃子ちゃんも二人を冷やかすような目つきで頷くのでありましたが、当の万太郎とあゆみはどこまでもしれっとした様子の儘でありましたか。

 良平と香乃子ちゃんとは九段下の駅で別れて万太郎とあゆみは酔い覚まし方々、夜風を火照った顔に気持ち良く受けながら神保町駅まで歩くのでありました。神保町駅まで歩き着くとそこからすぐに混みあった電車に乗りこむのが億劫でもあるし、もう少し二人のそぞろ歩きを楽しみたくもあるし、と云う云事でその儘以前に興堂派道場への出稽古や是路総士の用事で向かった道を逆に、御茶ノ水駅まで延長して辿り歩くのでありました。
「ねえ万ちゃん」
 あゆみが横の万太郎に話しかけるのでありました。「あたし達さあ、良君と香乃子ちゃんみたいに、この二人なればこそ、なんて云う風に見える夫婦になれるかしら?」
 あゆみが云うように確かに良平と香乃子ちゃんと云うペアは、二人並んでいると如何にもこれ以上に相応しいペアはそうは居ないのではないかと思えるくらい、初々しさも未だ残していつつ、更に何とも落ち着きを感じさせる風情が備わっているのでありました。
「そうなれるように、僕は頑張りますよ」
 万太郎は然して気負った風にでもなくそう云うのでありました。「でも頑張ったらそうなれるのかどうか、それとも何かもっと違う要因があるのかは良く判りませんが」
「要するに何年経っても、子供が出来ても、お互いを求めあう度合いが前とちっとも変わらないから、あんな風に初々しい儘なのかしらね」
「そうですね。求めあう度合いが変わらないで、その上に一定の年季と自信が加わって、それであんな感じの落ち着いた風情も醸し出しているのでしょうかね」
 万太郎は自分の人生経験に照らして、この論に確たる自信はないのでありました。
(続)
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お前の番だ! 579 [お前の番だ! 20 創作]

「万ちゃんさあ」
 あゆみが言葉を切って徐に夜空を見上げるのでありました。「婿養子になったり、稽古以外の煩わしい仕事ばかりが多い宗家なんかに将来させられたりとかするんで、本当は今、あたしと結婚するのを少し後悔しているんじゃない?」
「後悔、ですか?」
 万太郎はそう云ってあゆみの方を見るのでありました。しかしあゆみは夜空を見上げた儘で万太郎の方に顔を向けないのでありました。
 万太郎はゆっくりとあゆみから目を離して、同じように夜空を仰ぐため顎を上げるのでありました。曇り空と云うのではないけれど、多分街灯りが煌々としている所為で、漆黒の天空には星の輝きが疎らにしか見えないのでありました。
「あゆみさんと一緒になれると云うのに僕が後悔しているわけがないじゃないですか」
「でも本当のところは、万ちゃんはもっと淡泊で、シンプルな生き方を本来望んでいたんじゃないかって、あたしこの頃時々考える事があるの」
「いや、そうでもないですよ。まあ、波乱万丈とか云うのは草臥れそうで困りますが、平板でありきたりと云うだけの生き方と云うのも、何だかつまらない気がしますし」
「本当は養子になるのも、あたしに代わって常勝流の宗家になるのも万ちゃんの真意に染まない事で、あたしが勝手にそれを万ちゃんに強いている事になるのかも知れないって、そう考えるとそれが実際の在り様のような気がして仕舞うの」
「いやいや、そんな事はありません」
 万太郎は首を力強く横にふって見せるのでありましたが、未だ空を見上げている儘のあゆみの目の端にも、その万太郎の仕草が屹度映った事でありましょう。「あゆみさんと一緒になれるのなら、僕は何だって引き受けます。それに常勝流を学ぶ者として、その頂点まで極める事が出来るのならこれに勝る喜びは他にないでしょうし、それが宗家を受け継ぐと云う在り方とほぼ重なると考えるなら、こんな光栄な事はないと思っていますし」
「あたしに気を遣って、無理してそんな云い方をしているんじゃない?」
「いや、生一本にそう思っています」
 そこであゆみが万太郎の方に顔を向けるのでありました。その顔は万太郎の今の言葉への歓喜が殆ど、と云った様相ではありましたが、しかし一抹の、不安のような、疑いのような、こよなく労わられている事への一種の辟易のような、ほんの少しくすんだ翳が、窺えるか窺えないか程度に付着しているように万太郎には見えるのでありました。
 そんな顔を見せられると、万太郎としては大いに狼狽える意外にないのでありました。武道家は万事に平常心で臨むものだと云う自戒が頭の隅で閃くのでありましたが、この際そう云った無粋な筋論は一旦横に置く方が賢明と云うものでありますか。
 万太郎はちょうどそこが人気のない、御茶ノ水駅途上にある錦華公園と云う小さな空間の中だと云う好都合もあって、歩を止めてあゆみの両手を徐に取ると、あゆみの体を自分の胸に引き寄せるのでありました。あゆみは反射的に一瞬の抵抗を放射したものの、しかしそれはすぐに霧消して、素直に万太郎の胸に凭れかかるのでありました。
(続)
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お前の番だ! 580 [お前の番だ! 20 創作]

「僕の言葉を疑わないでください」
 万太郎は胸元に艶やかに蟠っているあゆみの髪の奥の耳朶に囁くのでありました。あゆみは頬を万太郎の胸に埋めた儘小さく頷くのでありました。
「判ってる。万ちゃんは言葉を弄ばない人だと云う事は」
「総本部に入門して以来、僕はあゆみさんにお世話になりっ放し今日まで来ました」
 万太郎が静かに云うとあゆみは、今度はすぐに万太郎の懐に埋めた儘の顔を微かに横にふるのでありました。「・・・でも、これからは恩返しと云うのではないですが、僕の番です。僕があゆみさんを、一生をかけて幸せにして見せます。あゆみさんと歩くこれから先の道に在る、あれこれの不可避の条件にしても、僕は誠実に果たしていくのみです」
 万太郎のその言葉が終わると、あゆみの両腕が万太郎の背に回されるのでありました。あゆみはその腕で万太郎にきつく縋りつくのでありました。
 万太郎は陶然となるのでありましたが、思えば今のこの瞬間を迎えるために自分は総本部道場に入門し、このあゆみと云う人間に出会ったのであろうと考えるのでありました。万太郎は別に観念論の信奉者でもないのでありますが、しかし殆ど諦めかけた就職活動の最後に鳥枝建設の入社試験を受けた偶然、結局鳥枝建設に職は得なかったけれど鳥枝範士に偶々履歴書を見られて興味を持たれ、それまで考えだにしなかった常勝流総本部の是路総士の内弟子となった偶然に、何やら運命的なものを感じて仕舞うのでありました。
 入門後に種々生成した出来事、興堂範士との出会い、威治前宗家の存在、それからもう大分翳んで仕舞ったけれど新木奈と云う一般門下生の存在、先程まで一緒に居た良平と香乃子ちゃん、勿論万太郎が常勝流総本部道場に入門する手懸りを作ってくれた鳥枝範士、それに寄敷範士や花司馬教士、興堂派に居た堂下や宇津利、弟内弟子の来間、書道の大岸先生、様々な人達との様々な交流にしても、それはそれで各個に煌めきや趣はあるもののしかし結局、あゆみとのこの一瞬のために在った条件とも思えるのでありました。
 総てはあゆみと今、二人きつく抱きあう瞬間のために用意された条件以外ではなかったに違いないのであります。感奮の中で万太郎はそんな事を考えるのでありましたが、まあ、この偏した大袈裟な思考も、少しの間許してやっても良いでありましょうか。
 あゆみはどのような思いを抱いて、今万太郎の懐に縋りついているのでありましょうや。それはずっと先にでも、何かの折があればちょっと訊いてみたい事ではあります。
 しかしあゆみと夫婦の道を長く歩いていれば、その内そんな事は体裁悪くて、冗談にもあっさりとは云えない事柄に属して仕舞うでありましょうし、もうすっかり忘れて仕舞うのかも知れません。まあそうなったらそれはそれで一方では結構な事でもありますか。
 万太郎はあゆみの体を自分から少し離すのでありました。それからまた引き寄せてあゆみの唇に自分の唇を重ねるのでありました。それは将来、今のこの感奮を云えられなくなるかも知れないから無言に、今の内に唇の接触を以って伝えておくためでありました。

   ***

(続)
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お前の番だ! 581 [お前の番だ! 20 創作]

 玄関先で未だ明け遣らぬ空を見上げる万太郎にあゆみが声をかけるのでありました。
「今日が愈々最終日ね」
「うん。やっと今日で終わりだ」
 万太郎は玄関内で見送るあゆみの方に目を向けて笑むのでありました。
「お疲れ様でした」
 あゆみは何となく畏まった風情でお辞儀をするのでありました。この日で竟に三か月に及ぶ是路総士と万太郎だけの、宗家のみに受け継がれる常勝流秘伝技の伝授稽古が終わるのでありましたが、これは通常の稽古が始まる前の早朝に行われるのでありました。
 この稽古を完了すると、万太郎に次期宗家の資格が付与されるのでありました。一子相伝を旨とする、如何にも古武道的な風習と云うべきでありましょうか。
 さてところで、万太郎とあゆみが結婚式を挙げて二泊三日の信州木曽路への新婚旅行
から帰って来ると、早速にこの課業が万太郎を待っているのでありました。依って万太郎としては、暫しの甘やかな新婚気分に浸っている暇等ないのでありました。
 万太郎とあゆみは総本部道場近くの六畳と四畳半二間とダイニングキッチンのついたアパートに一先ず居を構えるのでありました。万太郎としては内弟子部屋を引き払って母屋のあゆみの部屋に転がりこめば済むかと簡単に思っていたのでありましたが、それでは手狭な上に何となく是路総士や来間や、万太郎の代わりに内弟子となって入居してきた巨漢の真入増太等、居を一にすべき連中との間に無用な気遣いや遠慮が生まれるだろうとの是路総士の配慮から、新婚二名は近くのアパートを借りて新居としたのでありました。
 尤も朝から二人揃って総本部道場に行って、朝食から夕食までの間の殆どを件の三人と一緒に過ごすのでありましたから、まあ、寝所のみが別棟と云ったところでありますか。あゆみが使っていた部屋は、総本部に居る間の万太郎とあゆみ夫婦の控え部屋とされたのは、是路総士の敢えて粋と云う程でもない心配りと云うものでありましたか。
 しかし夜間にあゆみが居ないのでありますから、云ってみれば総本部はすっかりの無粋なる男所帯となるのでありました。それで、細々した女手がないと是路総士が何かと可哀想だと云うので、前よりも頻繁に近くに住む書道の大岸先生がやって来て、何くれとなく是路総士の世話や、内向きの仕事の差配をしてくれるようになるのでありました。
 真入増太が一人増えてあゆみが総本部を出た分、確かにあゆみの仕事の負担は増える筈でありましたが、大岸先生の助けを得てあゆみは大助かりと云う寸法でありました。大岸先生も自分の主催する書道教室で教える時間以外は、総本部で皆と朝昼夕の食事も一緒に摂ると云った按配で、寧ろ自宅で自分だけの餐の支度をする手間が省けて、且つ一人で膳を前にする侘しさも解消だと、寧ろこの奉仕を楽しんでいる風情でありましたか。
 依って万太郎とあゆみが二人だけで時間を過ごすのは、道場の休館日である月曜のみでありました。勿論月曜日と云えども何かと道場向きの用がある場合もありはしましたが、しかし是路総士の配慮に依って、なるべく二人には月曜日の仕事は割りふらないようにされるのでありましたし、是路総士の世話に関しても、どうせ一人自宅で過ごしていても仕方ないからと、大岸先生が敢えてと云う風もなく出張って来てくれるのでありました。
(続)
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お前の番だ! 582 [お前の番だ! 20 創作]

 その大岸先生と是路総士でありますが、この二人の取りあわせなんと云うものは、こうして一緒に過ごす時間が多くなってみると、それは長年添い慣れた夫婦の趣なんぞも、あると云えばあるような具合でありましたか。まあ、惚れた腫れたの感情は別としても、何となくお似あいの二人だと云う風情は万太郎もあゆみも感じているのでありました。
「この頃お父さんの顔がやけに柔和になったのは、屹度大岸先生にあれこれ身の回りの世話を焼いて貰っているせいかも知れないわね」
 二人のアパートに帰って来て、コーヒーを飲みながら寝る前の一時を寛いで過ごしている時に、あゆみが万太郎に云うのでありました。
「大越先生の方も嫌にいそいそと、自分じゃなければ務まらないみたいな感じで、前のあゆみなんかより余程甲斐々々しく総士先生の面倒を見ているところがあるな」
 万太郎はこの頃ようやくあゆみと敬語抜きで会話出来るようになっているのでありましたし、名前を呼び捨てにも出来るようになっているのでありました。流石は熊本の男とあゆみは妙な褒め方をするのでありましたが、万太郎としては道場での体裁もあるので、ぎごちないながらも努めてそうしていてようやく慣れたと云った按配でありますか。
「「そりゃあ、娘のあたしは時々面倒臭くて邪険にも扱うわよ」」
「あの二人、ひょっとして、ひょっとするかも知れないなあ」
「それ、二人が結婚するかも、って云う事?」
「その芽もないとは云えない」
「なかなかそこまで踏ん切りがつかないかも知れないけど、全くないとも云えないかも」
「そうなったら、実の娘たるあゆみはどんな心境かな?」
「大岸先生なら勿論大賛成よ」
 あゆみは片手を上げて人差し指と親指で丸を作って、OKのサインを万太郎に見せるのでありました。親指人差し指以外の三指が如何にもピンと天に伸びて立っている辺りに、あゆみの大乗り気が示されているように万太郎には見えるのでありました。
「まあ、今後の展開を注視、と云うところかな」
 万太郎とあゆみがそんな秘かな期待を抱いていても、そうはトントン拍子に事は進展しないもので、大岸先生と是路総士にしても、分別盛りもとうに過ぎた齢となっては、それ以上の発展は望んでいないような風情もあるのでありました。まあ、こればかりは万太郎とあゆみの統御不能の事であるのは全く以って当然であります。

 さて、是路総士に依る万太郎への秘伝伝授が完了すると、総本部の体制が一新されるのでありました。是路総士、それに鳥枝範士と寄敷範士はその儘現職に留まるのでありましたが、万太郎は範士兼総本部道場総務長及び財団常務理事となり、あゆみと花司馬教士が新たに範士及び財団の平理事に、来間が教士扱いに格上げされるのでありました。
 万太郎の総務長と云うのは是路総士が宗家になる前に就いていた職名で、将来の総士を継ぐ者としての役職呼称であります。これで次期宗家は万太郎が継ぐと云う既定路線が、内外に公言されたと云う事になるのでありました。
(続)
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お前の番だ! 583 [お前の番だ! 20 創作]

 万太郎が総務長と云う地位に就いたので、あゆみの道場長と云う役職はなくなるのでありました。依って序列としては是路総士、万太郎、その下に鳥枝範士と寄敷範士、それからあゆみと花司馬範士は同格でそのまた下、最下位に来間、新内弟子の真入増太は新入りだけに前から居る準内弟子の連中よりも格下扱いでありますし、各地に散らばる支部長連はあゆみと花司馬範士と、その下の来間との間に位置する事になるのであります。
 万太郎は常勝流武道と云う流派の第二位の序列となるのでありましたが、勿論キャリアでは鳥枝範士と寄敷範士に遠く及ばないのでありましたから、万太郎はこの二人に対して何時でも謙譲な態度であるのは前の儘でありました。ところが鳥枝範士と寄敷範士は、多分に面白がってでありましょうが、万太郎に対して遜るのでありました。
 二人は万太郎に対して、態度の方は置くとしても言葉遣いとしては敬語を用いるようになるのでありました。これには当初、万太郎の方が大いに閉口するのでありました。
「鳥枝先生に、急にそんな風な物腰をされたりするとまごついて仕舞います」
 万太郎は眉根をきつく寄せて眉尻を下げられるだけ下げて、困惑窮まった顔をして見せるのでありましたが、鳥枝範士はそんな万太郎を平然と見下ろすのでありました。
「これまた総務長先生は何をおっしゃるか。そう云う辺りでワシや寄敷さんがきっちりと弁えた態度をとらなければ、他の者に対してどんな示しがつくと云うのですかな」
「それはそうかも知れませんし、その心映えは是とさせていただきますが、しかし僕の方が返ってオロオロして仕舞うではありませんか」
「ま、早く慣れていただくしかありませんな」
「当分の間はこれまで通り、と云うわけにはいきませんでしょうか?」
「全くいきませんな」
 鳥枝範士は鮸膠もないのでありました。寄敷範士の方にしても、万太郎の切なる懇願に対して首を縦にふる気配すら示さないのでありました。
「総務長先生は、この頃ようやく旦那として、あゆみに対して対等のもの云いをされるようになりましたが、その踏ん切りをこの寄敷と鳥枝に対してもお示しください」
 寄敷範士はそう云って、万太郎が余計困じるのを面白がるように笑うのでありました。この重鎮二人は共に、全く以って食えないのでありました。
 秘かに繰り言しても、あゆみも花司馬範士も万太郎の困惑を呑気に面白がるのみでありましたし、是路総士もそんな些事には一切無関心と云った風情でありました。それに来間も真入も他の準内弟子連中も、それは将来の宗家たる万太郎に謹恪な態度で接してはいるものの、内心は大いに万太郎の渋面を面白がっているに違いないのであります。
 万太郎がどんな窮地に在っても優しく寄り添ってくれる筈だった愛妻のあゆみを筆頭に、周りの連中悉くが、万太郎のこの窮状に対して慎につれない態度でありました。万太郎は孤立無援に、この尻の穴の周辺がムズムズするような落ち着きの悪い状況を、慣れるまでの暫くの間、仏頂面で耐え忍ばなければならない羽目に陥るのでありましたが、花司馬範士の一人息子たる少年部の剣士郎君だけは、前と変わらず万太郎に対して馴れ々々しく接してくれるのは、まあ、唯一の救いと云えばそう云えなくもないのでありましたか。
(続)
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お前の番だ! 584 [お前の番だ! 20 創作]

 さて、新入り内弟子の真入増太の事を少し述べておけば、万太郎が八王子の洞甲斐先生の道場に談判に行って、行きがかりから手酷くぶん投げた翌日、早速に総本部道場を訪って玄関で土下座して入門を請うた程でありますから、門人となる意気ごみの程は充分と云えたでありましょうか。特に万太郎に対しては謹直であるのは云う迄もないのでありましたが、その分来間や準内弟子連中、それに時には鳥枝範士や寄敷範士、当時は花司馬教士に対しても、どことなく侮ったような風情があるのはいただけないのでありました。
 古株だからと偉そうにしているが、こっちが本気でかかればこの巨体を持て余して、手も足も出ないのではないのかと云う横柄が、心根の底の薄暗さの中に未だ蟠っていたのでありましょう。しかし日々の稽古でコッテリと絞られ、組形の相手をしたり乱稽古の手あわせをしても、来間にも準内弟子連中にも当初は全く子供扱いされるのでありました。
 真入増太は鳥枝範士や寄敷範士すらも手古摺らせてやろうと云う慢心が満々でありましたが、しかし程なくこれは到底叶わないと観念したようでありました。それは武技を使うための体の芯が自分に出来ていないためだろうと、諸事にやや鈍感な真入増太でありますから人よりは多少の時間はかかりながらも、しかし結局そう気づくのでありました。
 あれこれ煩悶しながらそう気づくのでありますから、これだけでも常勝流の修業に打ちこむ意気ごみの証明であると云うものであります。万太郎は真入の真摯さをそこに見て、口には出さないものの心の奥で激励を送るのでありました。
 ひょっとしたら真入の入門時の意気ごみなんと云うものは、そうは長続きしないかも知れないと万太郎は一方に疑いを持ってはいたのでありました。万太郎に簡単にぶん投げられて感激し、そう云う技を自分も身につけたいと切望して即座に常勝流の門を叩いたものの、身体能力上そんなに器用な方でもなく、もの事をとことん突きつめようと云う思考様式も持ちあわせず、その巨体だけを頼りに格闘技的自信を醸造してきたのでありましょうから、日々の稽古にげんなりするのは明らかと憶測していたのでありました。
 しかし豈図らんや、地味な基本稽古にも極端に自儘を制限される準内弟子以上の組形稽古に於いても、真入は真剣さを失わないのでありました。特に万太郎の指導に対しては、まるで神聖なる啓示を身に受けるどこかの宗教の信徒の如き態度なのであります。
 万太郎にとってこれは驚嘆に値する見こみ違いなのでありました。内弟子として道場に起居するようになってからも、その真摯な態度は変化する事はないのでありました。
 内弟子ともなると稽古の量も厳しさも、求められる心胆の強固さも普通の門下生の比では遥かにないのでありますし、実技以外にも色々と細かい気働きを常時要求されるのでありますが、真入は不足ながらもそれを自ら判りつつ、健気に務めようと頑張るのでありました。ここまで覚悟して入門したとは万太郎は思ってもいなかったのでありました。
 嬉しい誤算、と云えばその通りであります。依って万太郎は真入を仕こむのに、弟子に対する愛情の発露たるより一層の厳しさを以って臨むのでありました。
 真入の万太郎への心服は相当のもので、それでも少しもへこたれないのでありました。云ってみれば万太郎は、勿論師匠と弟子と云う流派内の形式上の系列は置くとして、心の内の繋がりの謂いで、頼もしき直系一番弟子を得た事になるでありましょうか。
(続)
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お前の番だ! 585 [お前の番だ! 20 創作]

 この真入は意外に少年部には人気者なのでありました。さして子供あしらいが上手いと云うのではないのでありますが、子供がどんなに手荒な戯れを仕かけていっても、それをその巨体故に蚊に集られた程度にビクともせず受け止め、何時もニコニコして小言一つも云わない辺りが、子供にとっては大いに懐きやすいのでありましょう。
 その顔と風体から真入は子供が嫌いであろうと万太郎は踏んでいたのでありましたが、これも豈図らんや、来間なんかよりも余程人気者になって、真入自身もそれが満更でもないような様子なのであります。序に云えば少年部の統率者たるあゆみに対しても、万太郎の奥方でもある事から、真入は不謹慎な態度なんぞは絶対取らないのでありました。
 真入は内弟子になって上手く周囲と馴染めるかなと、万太郎が危惧していたのも事実ではありましたが、今までちゃらんぽらんに生きてきた自分の人生の、恐らくここが先途と云う強い覚悟が本人にあるためなのか、なかなかへこたれないところなんぞは実に見事なものと云うべきであります。真入がその覚悟を忘れずに真摯に、且つ大過なく内弟子を務め上げて、将来一廉の武道家として立つ事を万太郎は祈るのでありました。

 さて話は遡るのでありますが、万太郎とあゆみの結婚式当日、全く意外な仁から祝電が舞いこんできたのでありました。その意外な仁とは威治元興堂流宗家でありました。
 八王子での一件以来、全く音沙汰がなくなっていたのでありましたが、これまたどう云う風の吹き回しでありましょうや。それに一体何処から、万太郎とあゆみが結婚すると云う一事、それに式の日取り等を聞きつけたのでありましょうや。
 その辺りは、威治元宗家の兄上には興堂範士との因縁から招待状を送ってあったので、屹度その線からであろうと推察できるのでありました。しかしまさか祝電を寄越す等とは万太郎もあゆみも思いだにしていなかったのでありました。
 結婚式は新宿の某ホテルで執り行われたのでありましたが、披露宴の始まる前にその日司会を頼んでいた良平に控え室で、ホテルの担当から託されたと云ってその祝電を見せられたのでありましたが、万太郎とあゆみは顔を見あわせて唸るのでありました。
「何やら隠れた意趣があっての事かな?」
 良平が机上に置いた祝電を人差し指で数度軽く叩きながら云うのでありました。
「さあ、どうでしょうかね」
 万太郎は小首を傾げて見せるのでありました。
「自分の名前を見せる事で祝賀気分に少し水を差してやろうとか、嘗てあゆみさんにふられた恨みに面当てしてやろうと云う、陰湿で惰弱な魂胆と受け取れない事もないな」
「しかし文面はごく普通で、お決まりのものですね」
 万太郎は電報を手に取ってそれを読みながら云うのでありました。
「お兄さんに云われて、仕方なく義理から出したんじゃないかしら」
 あゆみが由来を忖度するのでありました。
「しかしお兄さんは嘗て威治元宗家が道分先生を伴って、無茶な縁談話しを総本部に持ってきたと云う経緯を知らないのでしょうかねえ」
(続)
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お前の番だ! 586 [お前の番だ! 20 創作]

「どうかな。ご存知じゃないのかも知れないですね。その話しは道分先生からすぐに、なかった事にしてくれと云う申し出がありましたからね」
「しかし親子兄弟なんだから、知らない事もないように思うが」
「いや、若しご存知だったら返って、若先生に祝電を打て等と指示はされないでしょう。お兄さんはその辺の機微に関しては弁えのある方のようですし」
「そうね。それもそうよね。第一お兄さんの指示と云うものも、全くの推察なんだし」
 あゆみが綿帽子を被った頭で頷くのでありました。
「まあそれは取り敢えず置くとしても、祝電披露の時、この電報も一応紹介するか?」
 良平が司会役として確認を取るように万太郎に目を向けるのでありました。
「貰っておいて、若先生の名前だけ紹介しないと云うわけにはいかないでしょう」
「それもそうだが。・・・」
 良平はあゆみの方をちらと窺うのでありました。
「万ちゃんの云う通りだとあたしも思うわ」
 あゆみは良平に一つ静かに頷いて見せるのでありました。
「ああそうですか。まあ、あゆみさんがそう云うのなら」
 良平は何となく大儀そうに万太郎から電報の紙を受け取るのでありました。「しかし一応、総士先生には、予めその旨断りを入れておくよ」
「総士先生も、別に拘りにはならないと思いますよ」
 万太郎には是路総士が、ああそうか、とだけ云って全く無表情に軽く頷く様子が見えるようでありました。ここは余り色々考え過ぎないのが自然でありましょう。
 それやこれやもありながら結婚式も無事に終わって、万太郎とあゆみは是路総士と伴にタクシーで総本部道場に引き上げて来るのでありました。二人は次の日から信州木曽路へ、二泊三日で新婚旅行に出発すると云う段取りでありました。
 帰りつくと留守を預かっていた来間が真入と一緒に玄関で出迎えるのでありました。
「押忍、ご苦労様でした」
 来間はそう云って先ず是路総士に立礼してから、万太郎とあゆみに何となく眩しそうな視線を送るのでありました「総務長先生、あゆみ先生、お目出とうございます」
「押忍、有難う」
 万太郎は少し格式張ったお辞儀を来間と真入に返すのでありました。あゆみも、有難う、とものしながら万太郎と一緒に頭を下げるのでありました。
「稽古は滞りなく終えたか?」
 是路総士が来間に聞くと、来間はすぐに是路総士の方へ体ごと向くのでありました。
「押忍。無事に終了致しました」
 その日は来間が臨時に、道場での稽古一切を取り仕切ったのでありました。教士となった来間は、もう何度か中心指導を経験した事があるのでありました。
 万太郎とあゆみ、それに是路総士は取り敢えず居間で寛ぐのでありました。風呂の前に是路総士は来間に茶を一服所望するのでありました。
(続)
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お前の番だ! 587 [お前の番だ! 20 創作]

「真入、今日の風呂は一人で勝手気儘に入らせて貰うから、お前はもう、内弟子部屋の方に下がっていても構わないぞ」
 是路総士は居間の廊下側の敷居辺に控える真入に告げるのでありました。
「押忍。ではこれで下がらせていただきます」
 真入はお辞儀すると襖を静かに閉めてその向こうに消えるのでありました。是路総士は三人分の茶を持ってきた来間にも下がって構わないと告げるのでありました。
「押忍。ではお言葉に甘えてそういたしますが、総務長先生とあゆみ先生は明日何時にご旅行に出発されるのでしょうか?」
「十時頃ここを出れば大丈夫かな」
 万太郎が徐に腕時計を見ながら応えるのでありましたが、別にその返答をするのに特段腕時計を見る必要ないかと、自分の如何にも間抜けな素ぶりを、文字盤に目を落とした儘で秘かに笑うのでありました。あゆみと結婚式を挙げてきたこの今、万太郎は昨日まで長く寝起きを共にしてきた来間に対して、何となく照れを感じて仕舞ってそれでこんな無意味な真似を竟、して仕舞うのだろうかと頭の隅で自己分析するのでありました。
「ところで、威治さんから祝電が来たけど、お父さんはそれをどう考える?」
 三人で茶を喫しながら、あゆみがふと思いついたように訊くのでありました。あゆみは式の間ずっと、気に懸かっていたのかも知れないと万太郎は思うのでありました。
「ちょっとした気紛れか、それとも、・・・」
 是路総士はそう云って湯呑を口から離すのでありました。
「それとも、何?」
「ひょっとしたら何かを期して、その皮切りにそんな義理を敢行したか」
「と云うと?」
 あゆみに訊かれて是路総士は万太郎の方に目を向けるのでありました。
「八王子の一件以来、若先生に考えるところがあって、それで自分の方から唐突の感はあるにしろ、こちらに接触を求めようとしたのか、と云う事でしょうか?」
 万太郎が是路総士に向かって云うのでありました。是路総士は無表情ながらも万太郎の目をじっと見て一つ頷くのでありました。
「期するところって?」
 あゆみは是路総士に向かって訊ねるのでありました。
「八王子で万太郎につめ寄られて、それ以来自分のこれ迄の生き様を、ひょっとしたら見つめ直したのかも知れない。こんな事では自分の人生は余りに無惨だと」
 是路総士はあゆみの婿になってから万太郎を指示する場合、当然ながら旧姓の折野ではなく、名前の呼び捨てを使用するようになっているのでありました。
「ふうん。そうなのかしら」
 あゆみはそう呟きながら隣に座る万太郎の方に顔を向けるのでありました。
「まあ、ピピピッとくるものがあったのかも知れないし」
 万太郎がそんな擬態語を使うと是路総士がまた頷くのでありました。
(続)
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お前の番だ! 588 [お前の番だ! 20 創作]

「つまり万太郎は、結局二人の人間を心服させる事に成功したのかも知れないな」
 是路総士がまた湯呑を口に持っていくのでありました。勿論もう一人とは、万太郎にぶん投げられて総本部に入門し、今では内弟子になっている真入増太であります。
「実際のところ、僕は若先生に対してそんな手応えは全く感じなかったのですがね。まあ、真入に対しても、同じだったのですが」
「それは当人としてはそんな実感は持たないのが当たり前だろう。実際、しようと画策して手練手管で相手を心服させる事は出来ないだろうし、若しそれが出来たとしても、それは心服と云うよりは、人の心を騙取したと云うだけの行為だ」
 是路総士はそう云って茶を啜ってから、万太郎の方に笑みかけるのでありました。「お前はそんな策術を弄する程に器用な人間でもなかろうし」
「押忍。その通りではあります」
 万太郎は是路総士に頷いて見せるのでありました。その是路総士の言葉は万太郎に対する一種の褒め言葉と取って構わないだろうと、下げた頭の隅で考えるのでありました。
「しかし結局、万太郎は威治君と真入の心を見事に捉えた事になるのかも知れない」
「僕は殊更グッとくるような事を、若先生に云った覚えは全くないのですが」
「でも後で考えてみて、グッときたのかもしれないわ」
 あゆみが円らな目で万太郎の顔を覗きこんで云うのでありました。
「僕は総士先生にあの時、若先生を心服させて来いと云って送り出されたのでしたが、そうならば、ひょっとしたらそのお云いつけに応える事が出来たのかも知れませんね。まあ、今の段階では、そう云う可能性があるとだけしか云えないでしょうが」
「そうね。威治さんから祝電が来たと云う事実だけではね」
「それにあの場には洞甲斐先生も居たし真入のお兄さんも居たし、それに洞甲斐先生のお弟子さんらしき人が二人いましたから、それらの人には何の反応も起こさせ得なかったと云う事になります。六人中四人は無反応ですから僕の霊力も大したことはないです」
「六人中二人も心服させ得たのなら、大したものだとも云える。ま、未だ威治君の心服を得たとは断じ難いが、しかし真入一人は、瓢箪から駒ではあるが、万太郎にぞっこん惚れたのは事実だ。たった一人でも心服させ得ればそれは見事と云って良いだろうよ」
 是路総士はそう云ってからあゆみの方に視線を移すのでありました。「ああそうそう、お前の横でももう一人、お前にそっこん心服したヤツが茶を飲んでいる」
「あら、あたしの事?」
 あゆみが慌てて湯呑を口から離すのでありました。「あたしは、・・・八王子の件よりもずっと前から万ちゃんにグッときていたから、今の勘定の他よ」
 あゆみはしれっとそんな事を口走って、また湯呑を口に当てるのでありました。
「それなら僕は、あゆみさんよりももっと前からあゆみさんにグッときていましたからと、一応念のためその事実はここで申し添えておきます」
 これは是路総士にそう訴えているのか、あゆみにそう云っているのかよく判らないような万太郎の云い様でありましたか。
(続)
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お前の番だ! 589 [お前の番だ! 20 創作]

「あら、でも、あたしの方が先だと思うわよ」
「いやあ、僕の方が先ですね、どう考えても」
「そうかしら。屹度そうじゃないと思うんだけど」
「どっちでもよろしい」
 是路総士が呆れた顔で云い棄ててから残りの茶を飲み干すのでありました。「その辺は後で、二人になってからゆっくり云い争え」
 そう云われて万太郎とあゆみは顔を見あわせて笑みあうのでありました。是路総士としては二人の睦みあいにこれ以上つきあうのは馬鹿らしいと云うものであります。
「さて、風呂に入るか」
是路総士はそう云って話しを打ち切るように立ち上がるのでありました。
 序に云っておけば、威治元宗家からはその後には今に到るまで何の音沙汰もないのでありました。と云う事は矢張りあの祝電は単なる気紛れだったのかも知れません。
 しかし実は本当に我が身の事を真剣に考えて、是路総士にもう一度縋ってみる気になったはいいけれど、今にしてのこのこ顔を出すばつの悪さから、今一つ踏ん切りがつかなくて沙汰が出来ないでいるのかも知れません。人並み以上にある種の体裁や面子を気にするタイプの人でありますから、その可能性も充分に有ろうと云うものでもありますか。
 何れにしてもこちらとしては只管待つしかないでありましょう。威治元宗家の心根が奈辺にあるのか、その心根がどのくらい切羽つまったものであるのか、それとも全くそんな大袈裟なものではないのであるかは、威治元宗家本人しか知らないのでありますから。

 洞甲斐氏はどうやら武道を止めて仕舞ったようでありました。八王子の洞甲斐氏の家の近くに住む門下生の話しに依ると、万太郎が談判に赴いた数日後には常勝流の看板は取り外ずされたようでありましたし、それ以降威治元宗家との縁も、どちらからそうしたのかは知れないながら、全く途切れて仕舞ったようでありました。
 今現在は洞甲斐氏の家には、大宇宙の意志研究所、と云うのは元の儘でありますが、その横に、洞甲斐式ヨガ研究所、なんと云う新たな看板が掲げられているようであります。洞甲斐氏がヨガの研究もしていたとは、万太郎は初耳でありました。
 依って洞甲斐氏の近辺からは、武道っ気はすっかりなくなったようでありました。しかし武道がダメなら次はヨガと、もしそれもダメになれば屹度また別の何やらを看板に掲げるのでありましょう。なかなかに逞しいと云えば慎に逞しい御仁であります。
 嘗ての威治元宗家の興堂流改め、武道興起会の主催者となった田依里成介師範は、葛西の道場を堅実に運営しているのでありました。勿論以前の門弟数には遠く及ばないながらも、田依里師範を慕う門下生達もそれなりの数が集うようになって、新たな直系の支部も幾つか出来て、なかなかに忙しい日々を送っているようであります。
 その忙しさにかまける事なく、田依里師範は週に一度は必ず、葛西から調布の総本部道場に通って専門稽古に参加するのでありました。これは前に興起会を立ち上げる時、是路総士に直接自ら願った事で、それをちゃんと律義に実行しているのでありました。
(続)
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お前の番だ! 590 [お前の番だ! 20 創作]

 田依里師範は総本部道場で稽古する場合は白帯を締めて稽古に臨むのでありました。是路総士は時々自分の門弟も同道して来る一派の主幹たる田依里師範の体裁に配慮して、黒帯を締めても構わないと云ったのでありましたが、田依里師範はそれでは余りに遠慮がなさ過ぎると自ら固辞して、特に抵抗もなく白帯姿に甘んじるのでありました。
 興起会は打撃中心で試合重視の格闘技系会派でありましたから、田依里師範の連れて来る門弟の中には、こういう会派の者によくみられる、道場作法に無頓着で容儀の芳しくない、粗暴で無神経なふる舞いが強さの証、等と俗な勘違いをしている不心得者も稀にあるのでありました。田依里師範の目論見としては、自分を含むそう云う者達に日本古来の武道稽古の厳格さを、敢えて他派の、それも伝統を重んじる古武道の稽古に参加する事に依って身につけさせたい、と云う意図があるように万太郎は推するのでありました。
 依って万太郎は敢えて厳しい指導を以ってそう云う者達に臨むのでありました。彼等の中には大いなる反発を示す者もあるのでありましたが、そう云う場合は仕方がないので、圧倒的な武威もて実力行使に及ぶ場合もあるのでありました。
 そうすると殆どの者は万太郎の力量に怖じて、以降謹慎に稽古に励むようになるのでありましたが、稀にもう二度と総本部道場に現れない者もあるのでありました。万太郎はそう云う時、田依里師範に多少申しわけないような気がするのでありましたが、寧ろ田依里師範の方が万太郎に自分の行き届かない日頃の指導を詫びるのでありました。
 万太郎はその心映えに敬服の念を禁じ得ないのでありました。一派だけを溺愛し拘泥して、その思いが余るあまりにその会派の体面を過敏に大事がるような修行をこれまでしてこなかった田依里師範故の、クールな心胆の在り方と云えるでありましょうか。
 万太郎の方は常勝流一本槍でこれまで来たのでありましたから、田依里師範のこの度量の広さに大いに感じ入るのでありました。他派や他武道と対してどこまで自派に客観性を付与出来るかと云うのも、指導者の力量の一つと云えるであありましょうか。
 度量の広さと云うのは、別の目で見れば愛情の薄さとも映るでありましょう。自派を客観化する冷静と愛執する熱情との絶妙な均衡が指導者たる者の風格を形成するのであり、延いてはその武道の品格を決定するものでもありましょうが、まあそれは兎も角。・・・
 稽古に於いても田依里師範は自分の体面をちっとも気にしないのでありました。自分の連れて来た弟子が、自分より上手に万太郎の指導を我がものとしたなら、田依里師範は臆する事も妬嫉する事もなく、ごく自然にその者に教えを請うのでありました。
 こういう態度は是路総士も大いに買うのでありましたし、辛辣な事を云って人をへこませるのが得意な鳥枝範士も、田依里師範に対してはその癖を控えて、慎に愛情に満ちた激励等を送っているのでありました。寄敷範士も、ああ云う篤実な者が主管する会派は、そう大きくはならないかも知れないが、充実した実質を持つ武道界の中できらりと光る会派になるだろうと、将来に対する太鼓判を献ずるに些かの吝嗇もないのでありました。

 常勝流武道総務長となった万太郎は、信州木曽への新婚旅行から帰って、是路総士からの将来宗家を継ぐ者としての秘伝伝授も終わると、俄かに忙しくなるのでありました。
(続)
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お前の番だ! 591 [お前の番だ! 20 創作]

「主だった対外行事や会合、演武会等の招待には、宗家代理としてお前が出るように」
 是路総士のこの指令は、万太郎を常勝流の新しい顔として売り出そうと云う腹積りからありますし、武道界全体に万太郎が常勝流の正式な継承者さである事を公然化する狙いであります。万太郎自身も武道界に限らず様々な世界の様々な人士と交流して、その交誼を得て次期宗家としての人脈形成に努めよと云う命でもありましょう。
 人づきあいが苦手と云うわけではないのでありましたが、万太郎は格式張ったつきあいは余り得意と云う程ではないのでありました。ざっくばらん、が本来の自分の持ち味であろうと、あやふやながらも今までそう考えていたのでありましたし。
 しかし是路総士の指令とあらば、ここは一つ何をさて置いても奮発しなければならないのであります。だからと云って、自分が下手に気負うと碌な事がないと思いなしている万太郎としては、常勝流の威名を失墜しない程度に自ら腰を低くして、どんな癖のある人士ともなるだけ友好的に、未だ々々若輩である事を始めから謙虚に表明して、懇ろなヤツと云う印象を相手に持って貰うべく、当人なりに大いに奮闘するのでありました。
 その甲斐あってか万太郎の名前は武道界の重鎮方にも、取り巻く異世界の諸人士にも、概ね好意的に認知されるようになるのでありました。特に古武道に限らず他武道の演武会とか試合大会の招待演武に於いて万太郎の演武は好評を博し、時には是路総士を差し置いて、お宅の若先生に是非、等と名指しで出場を請われる場合もあるのでありました。
「総務長先生の演武には、ワシ等は疎か、総士先生でもお持ちでない何とはなしの緊張感とか、それに華やかさとか明朗感とかがあるからなあ」
 これは鳥枝範士の評でありました。
「そりゃあ鬼瓦のような顔の鳥枝さんの如何にも無骨な演武なんかより、総務長先生の若々しい溌剌とした演武の方が観ていて心躍るのは当たり前だ」
 寄敷範士はそう云って鳥枝範士を茶化すのでありました。
「世間の常勝流の認知度も、これからグッと上がるかも知れない」
「総務長先生の演武を見て、門下生が今以上に増えて、そうなると我々ももっと忙しくなるし、それにこの随分と年季の入った総本部道場では手狭になるかも知れないなあ」
「結構々々。そうなれば、もっと広くて立派な道場を鳥枝建設でおっ建てるまで」
 鳥枝範士はそう云って豪快に笑うのでありました。
 是路総士の粋な計らいからか、万太郎への秘伝伝授が終わってから、万太郎とあゆみ夫婦は二人揃って、熊本支部への出張指導に赴いた事があるのでありました。勿論万太郎の里帰りがその謂いと云う趣の旅行でありました。
 その折、人吉の万太郎の実家で大歓待を受けたのは云う迄もないのでありましたが、万太郎が少年時代に通っていた捨身流の剣道道場からの招待があるのでありました。絶えて久しく往来のなかった捨身流の角鼻庫仁宗家は、往時の眉太でへの字口の強面の面影その儘ながら、相好を崩して万太郎とあゆみ夫婦を大いに歓迎してくれるのでありました。
「万太郎の勇名はこっちにもちらほら聞こえてきとるばい」
 角鼻庫仁宗家は万太郎の背を長年修行に明け暮れた分厚い掌で叩くのでありました。
(続)
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お前の番だ! 592 [お前の番だ! 20 創作]

「角鼻しぇんしぇいに武道の芽ば育てて貰うたからて思うとります」
 万太郎はなかなかそつのない事を云うのでありました。それを聞いて角鼻先生は嬉しそうに何度か頷くのでありました。
「この前の日本武道館の古武道演武大会の演武とか、剣道とか合気道の現代武道の大会でお前がゲストで出て、そこでもえらい好評やったらしかね。九州の方にもちゃんと伝わってきとるばい。テレビのニュース番組でちらって出とったとば見たばってん、確かに颯爽としとってなかなか格好の良かった。まあ、ちょっと派手過ぎとは感じたばってん」
 角鼻先生は全体としはて好意的な評言ながら、実戦本位の捨身流の古武道家でもあるから、演武の大向こう受けに対して少し体を斜にして見せるのでありました。
「畏れ入ります。ご教誨ば肝に銘じます」
 万太郎は口を引き結んで格式張ってお辞儀するのでありました。
「そいに、こぎゃん良かオナゴば嫁に貰うて、お前はなかなかの果報者ぞ」
 角鼻先生に顔を向けられてあゆみは、恥ずかしそうに数度小さく首を横にふりながら、恐縮の態で頭を下げるのでありました。
「いいや、嫁に貰うたとじゃのうて、オイが婿に行ったとです」
 万太郎が訂正するのでありました。
「ああそぎゃんか、そいで常勝流の跡目ば継ぐ事になったとか」
「そぎゃんです」
「そのお前に小まか時オイが剣道ば教えたて云うとは、今ではオイの自慢ぞ」
「今でも角鼻しぇんしぇいのお教えは、決して忘れとりません」
 この辺の受け応え等、なかなか万太郎も錬れてきたと云うものでありましょう。万太郎の物腰がこの数か月で大いに変貌した事に、あゆみは秘かに驚嘆するのでありました。
 角鼻先生はこの際だからと、万太郎とあゆみに常勝流の剣術の講習を強請るのでありました。万太郎とあゆみは勿論そう云う事になるだろうと出かける前から予想していたので、ちゃんと稽古着は持参して来ているのでありました。
 捨身流道場の数人の高弟を相手に万太郎とあゆみの俄講習でありましたが、常勝流剣術の形の他に門弟達と万太郎は乱稽古にも及ぶのでありました。この場合剣道竹刀ではなく木刀を以って立ちあうのでありましたし、面胴小手の防具もつけないのでありましたから、勿論捨身流は木刀稽古もするにしろ、普段から剣道試合に慣れた捨身流の門弟よりは、木刀稽古一本槍の万太郎の方が些か有利と云うものでありましょうか。
 幾ら友好的な稽古であるとは云いながらも、云ってみれば他流試合の真剣勝負の趣でありますから、万太郎はつけ入る隙を全く与えないのでありました。偶に木刀が搗ちあうとしても、真っ向から打ちあわせるのではなく掠るようなあわせを専らとして、万太郎の間合いの内で、主導権は相手に絶対に譲らないのでありました。
 しかしこう云う場で決定的に勝つと云うのも大人気ない仕業で、万太郎は時に相手にだけ判らせるような、ごく小さな動きの小手打ちを繰り出すのでありました。対峙する者にのみ万太郎の優位を秘かに伝えれば、要はそれで良いのであります。
(続)
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お前の番だ! 593 [お前の番だ! 20 創作]

 万太郎のこのような試合を下座に居並ぶ門弟達の一番隅で、まだ高校生程の歳と思しき一人が、食い入るように見つめているのが万太郎の目の端に映るのでありました。その少年は万太郎の最後の対戦者として、角鼻先生から名前を呼ばれるのでありました。
 少年は躍り出てきて万太郎と対峙するとお辞儀の後に木刀を正眼に構えて、剣道試合で身につけたのであろう、甲高い気合の一声を先ず万太郎にぶつけてくるのでありました。やや血走った眼と上気した頬の赤味と、きびきびした動作とせわしなく動く木刀の先端に、万太郎と試合う緊張と興奮を隠しきれないと云った風情でありましたか。
 その風情をなかなか好ましく思った万太郎は、下段に木刀の切っ先を落として少年の打ちこみを待つのでありました。精気漲る年頃故か少年は打ちこむ直前に目を剥くのでありましたから、万太郎が少年の気勢を読むのは造作のない事でありました。
 裂帛の気合もて何度打ちこんでも万太郎が大した捌きもなく軽々と躱すものだから、少年の息はすぐに上がるのでありました。頃合いで少年が突きにきたところを往なして、ふり返るところを万太郎の木刀の物打ちが易々と少年の右小手に乗るのでありました。
「それまで!」
 角鼻先生の声が響くのでありました。少年は急に気合抜けしたように棒立ちになって、木刀を持った手を下に垂らすのでありました。
 少年は試合の端から到底太刀打ち出来ないと悟っていたようで、出る時の勢いが嘘のように、ようやく緊張から解放されたと云う如何にもしおらしい様子で、万太郎と一間の間合いに分かれると、そこに正坐して万太郎に丁寧な一礼を向けるのでありました。
「始めから判っとったばってん、まあだお前では、万太郎の足元にも及ばんなあ」
 角鼻先生は少年に顰め面をして見せるのでありました。「まあ、ウチの門弟共も全員、結局万太郎に適当にあしらわれたごたる具合じゃったばってんが」
 角鼻先生がそう云って下座の門弟達を見渡すと、門弟達は一様に面目なさ気に角鼻先生から目を逸らして俯くのでありました。
「いやあ、木刀で試合ばしたけんでしょう。防具ばつけて竹刀で立ちあっとったら、オイの方が簡単につめ寄られとったて思うですよ」
 万太郎は少年との礼の交換の後に角鼻先生に云うのでありました。
「捨身流剣術は元々真剣で立ちあう剣法なんじゃから、竹刀剣道で勝っても大した自慢にはならん。ま、今の言葉は万太郎の礼儀として素直に受け取っておくばってんな」
 角鼻先生は自分の門弟達が万太郎に不甲斐なく翻弄された事に然して拘る風もないようで、朗らかな笑い声等立てるのでありました。「ところで最後に立ちあった男は高校三年生で、来年東京の大学に進学する予定ばい。なあ。重井」
「はい。その心算でおります」
 重井と呼ばれた少年は顔を起こしてそう言明するのでありました。
「重井魂太、て云う名前で、東京に出たら万太郎の弟子にして貰うて今から云うとる」
 重井魂太はそう紹介されて、万太郎の方にキラキラする目を向けてペコッと頭を下げるのでありました。意欲満々と云った風情であります。
(続)
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お前の番だ! 594 [お前の番だ! 20 創作]

「いや、オイは未だ弟子ば取る立場じゃなかですけん」
 万太郎はそう云って重井少年を見るのでありました。重井魂太は万太郎の言葉にまるでいきなり梯子を外されたように、如何にも情けなさそうな表情を返すのでありました。
「折野しぇんしぇいの弟子になられんとなら、東京に行く甲斐のなかごとなるです」
 重井魂太はそう云って俯くのでありました。特に意図したわけではなかったにしろ、聞き様に依ってはつれない一言であったかと万太郎は少し気の毒になるのでありました。
「そう云われてもなあ。・・・」
 万太郎は頭を掻くのでありました。「それにオイは、もう折野て云う姓じゃなかぞ」
 重井魂太がハット気づいたような顔をして狼狽するのでありました。
「あ! すんましぇん」
 重井魂太は慌てて低頭するのでありました。肝心な時に致命的な間抜けをやらかして仕舞ったと、その年頃の少年らしく如何にも大袈裟に恥じ入るのでありました。
「一応云うたまでで、まあ、それは別に気にせん。第一オイ自身も時々、人に自分の名前ば云う時に未あだ間違うぐらいやけん」
 万太郎はそう云いながら、何となく横のあゆみを見るのでありました。あゆみは口に手を当てて控えめな仕草で吹いて見せるのでありました。
「先ずは常勝流の総本部道場に入門すればよかじゃろう」
 角鼻先生が助け舟を出すのでありました。
「ああ、それなら何時でも歓迎するぞ」
 万太郎は重井魂太に笑顔を向けるのでありました。重井魂太は暗闇にいきなり光明が燈った、と云った具合の歓喜溢れる表情になるのでありました。
 なかなかに純な少年のようであります。これだけの遣り取りながらも万太郎は、常勝流を学ばんとするに重井魂太が熱い情熱を有しているのを見取るのでありました。

 茶を啜った後に、是路総士が万太郎に和やかな表情を向けるのでありました。
「ほう。それでその重井と云う高校生はお前の弟子になりに東京に出て来るのか」
「いや大学進学が本旨ですが、まあ、上京後は早速に入門するのではないでしょうか」
「何となく情熱的で意志の強そうな目をした子だったわよ」
 あゆみがそう云い添えて、卓上にある自分の湯呑を手に取るのでありました。
 熊本への出張指導兼里帰りから帰った万太郎はあゆみと一緒に、帰京した翌日の夜、その日の稽古が総て終わってから、師範控えの間に居る是路総士に挨拶に上がるのでありました。先ずは万太郎の両親の挨拶を伝達して、その恙ない事を報告し、託された土産等を献じてから、話しは捨身流の角鼻先生の道場での出来事に及ぶのでありました。
「お前にもう一人、直弟子が出来ると云う事になるわけだ」
 是路総士の云う別の一人とは、云う迄もなく真入増太の事であります。
「いや、僕は個人的に弟子を取る立場ではないのですし、常勝流総本部道場の新しい門下生になると云う事ですから、要するに僕ではなく総士先生の弟子になるわけです」
(続)
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お前の番だ! 595 [お前の番だ! 20 創作]

「まあ、形の上では、それはそうだがな」
 是路総士は笑いながら茶を啜るのでありました。「今からお前に親炙せんとする人間が増えると云う事だから、次期宗家としてお前も着々と頼もしくなっておるなあ」
 この言葉は是路総士の好意的な笑顔の上に乗っているのでありました。
「僕は特段そのような心算はないのですが」
 万太郎は頭を掻くのでありました。
「しれっとしたそう云うお前の様子がまた、頼もしいところとも云える」
 是路総士は笑顔を何度か上下させるのでありました。
「そんなものでしょうかねえ」
 万太郎の何となく鈍い反応に横のあゆみが口に掌を添えて笑うのでありました。
 その万太郎の親炙者第一号たる真入増太が、或る日食堂に入って来て、そこでコーヒーを飲んでいた万太郎に恐る々々と云った態で訊ねるのでありました。少年部の稽古中でその日偶々万太郎と真入の出番はなく、食堂には万太郎一人が居たのでありました。
「総務長先生、つかぬ事をお聞きしますが、・・・」
 真入は座っている万太郎とテーブルを挟む向い側に立った儘で云うのでありました。
「何だ、その、つかぬ事、とは?」
「ええ、その、総務長先生が総士先生に伝授された常勝流の秘伝の事なのですが、・・・」
 直系相伝のものでありますから、他者たる自分がそれを聞くのは不謹慎で、憚らなければならないかと云うたじろぎが籠った口調でありました。
「その秘伝がどうしたんだ?」
「いや、それがどんなものか訊くわけにはいかないでしょうが、一端くらいは教えていただけるものかと思いまして。・・・」
「非公開が原則だ」
 万太郎は厳な口調で先ず云って、それからすぐに表情を緩めて些か冗談めかして続けるのでありました。「それに、教えると値打ちが下がるから、一端も何も教えないぞ」
 万太郎の拒絶の言葉に、真入は落胆の色を顔に浮かべるのでありました。
「しかし総務長先生の技の中に、今後その一端とかは現れるのでしょうか?」
「いや、現れないな。あっさり表わしたら、そこで既に秘伝じゃなくなるだろう?」
「まあ、それはそうですが。・・・」
 真入は好奇心がなかなか仕舞い難い、と云った顔で残念がるのでありました。
 秘伝伝授の折、万太郎は是路総士に先ず、秘伝は一度でもその技術を使った途端、もう秘伝ではなくなる、と先の万太郎の言をその儘云われたのでありました。
「だから、生涯使わないのが秘伝の秘伝たる所以だ」
 是路総士は特に意趣あってと云う風ではなく、全く無表情で云うのでありました。「秘伝は真摯に修行を続けていれば手に入れられるもの、と云う技法列の最先端にあるのではなく、それとは全く違うところに存するものと云う事になるのだが、それを習ったからと云って飛躍的に強くなると云うものでもない。云うなれば外連の技だ」
(続)
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お前の番だ! 596 [お前の番だ! 20 創作]

「外連の技、ですか。・・・」
 万太郎は何となく納得し難いと云う表情をするのでありました。「常勝流に伝わる天下無敵の必殺技、ではないのですね?」
「違うな」
 是路総士はあっさりと肯うのでありました。「若しそう云う技があるのなら、その技を門下が習得出来るように稽古体系が編まれる筈だ」
「余りにも危険なので、日頃の稽古からは除外されていると云うのでもないのですか?」
 万太郎の質問に是路総士は戯れ言に対するの笑いを返すのでありました。
「まあ、秘伝技に対してそう云う印象を持たれるのは、こちらの願ってもいない有難い勘違いでもあるわけだが、そんな魔法のような技術があるわけがない事は、真摯に稽古に打ちこんでいる者なら容易に判ると云うものだ。要するに神秘であるのを利用して、ある種の脅威を相手に抱かせる事が出来れば、それが秘伝の存在理由と云う事になろうよ」
「詐術、と云う事でしょうか?」
「そう云う風にも云える」
 是路総士は無表情で頷くのでありました。「勝負と云う点で考えれば、一度はその秘伝は相手に通用するかも知れないが、二度は通用しない」
「だから決して使ってはいけない、と云う事ですか?」
「そうだ。秘伝とは途轍もなく精妙な技でも、この上もなく頼りになる技でも、無敵の神通力でもない。意表を突く技ではあるが、しかし今云ったように、それは二度は通用しない技でもある。普段稽古している常勝流の技術を磨きに磨く方が、恐らく確実に強くなれるだろうし、そのような者に対して秘伝技はおいそれとは通用しないだろう」
「ああそうですか。・・・」
 万太郎は些か拍子抜けするのでありました。しかし考えてみればそんなあっと驚くような秘術があるのなら、効率の点からも、日頃の地道で地味で武道家の心胆や体を創る稽古なんぞは必要ないでありましょうし、時間の無駄と云う事になるでありましょう。
 しかし稽古者が地道で地味で心胆や体を錬る稽古を十年一日の如く続けているのは、そちらの方が実は強さ或いは上達と云う点に於いて、実質を得た稽古であるからなのでありましょう。神ならぬ身ならば、それは当の当然なのかもしれません。
 万太郎は八王子の洞甲斐先生の事をふと思い浮かべているのでありました。そう云えば洞甲斐先生は武道から足を洗ったようでありますが、今頃どうしているのやら。・・・
「最近はその秘伝の絡繰りをちゃんと解明して、稽古の体系を科学的に捉え直して精進している打撃系の武道もあると、興起会の田依里君から聞いた事がある」
「ああ、それは僕も聞いた事があります。確か来間辺りはその会派の人が出している本を何冊か、田依里さんから借りて読んでいる筈です」
「ほう。流石に研究熱心な来間だけの事はある」
「研究熱心は認めますが、その影響からかあれこれ無用な気揺らぎがあって、来間はどうも最近、稽古に直向きさが多少不足しているような気がします」
(続)
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お前の番だ! 597 [お前の番だ! 20 創作]

「まあ、長く一派の武道のみをやっていればそう云う事もあろうよ」
 是路総士は大らかさの中に万太郎の来間への苦言を包み修めるのでありました。
「ところで秘伝の話しに戻りますが、では、代々直系相伝で宗家を継ぐ者が秘伝伝授をしていただく意味は、一体どこに在るのでしょうか」
 万太郎の是路総士を見る目に困惑が湧くのでありました。
「常勝流が古武道であると云う認識に依るからだ。現代武道なら秘伝なんと云うものはあっさり擲って、実質のみに術理体系や体制を変える事も出来るが、古武道は道統を忠実に継承すると云う観点から、代々受け継がれてきた仕来たりの実質本位の変更を拒む故だ。代々の宗家或いは門下が築いてきた風習を尊ぶと云う、形式、と云っても良い」
「形式、として僕は秘伝を伝授されるのですね?」
「そうだ、それ以上の意味も、それ以下の意味もない。しかし宗家となる者には、その形式を無批判に受け入れるだけの、一種の器量が求められる」
「判りました。昨日までの僕の意気ごみと今のお話しとが、何となく上手く溶けあわないのですが、しかしとにかく秘伝伝授の意義は了解しました」
 万太郎はそう云って頭を掻いてから律義らしいお辞儀をするのでありました。
「よし、では」
 是路総士が微笑みながら一度頷いて徐に立ち上がるのでありました。万太郎も一拍遅れですっくと立ち、こうして愈々、向後三月に及ぶ秘伝伝授が始まるのでありました。
 しかしじっくりと是路総士に差しで技術を習ってみると、成程秘伝技とは変化技の最上級のもの、と云う類かと万太郎は思うのでありました。到底投げるタイミングではないところで、今までの技法にはない体の使い方に依って投げを打ったり、自分の四肢を精緻に使用して相手の体を雁字搦めに身動き出来ない状態に極めたりと云ったものが殆どで、確かに是路総士の云う、外連の技、の例えが的を射ていると云う印象でありましたか。
 確かに一度は有効かも知れませんが、二度は使えない技でありましょう。秘伝を会得せんとして意気ごむよりも、地道なごく普通の稽古を懈怠なく積み重ねる方が、寧ろそれは確かに、常勝流の奥義に近づくための王道と云えるでありましょうか。
 まあしかし、実戦上の体の使い方と云う点に於いては、到底不自然と思えるような体勢でありながらも、安定して相手を腰に乗せて逆落としに投げるとかの、常とは違う身体操作法が一種圧巻ではありましたか。それを知っていれば確かに、まあ一回は、勝負に於いて有効に使う事が出来ると云うものでありますかな。
 秘伝伝授は万太郎には拍子抜けと云えなくもないのではありましたが、常勝流の最高位者として、絶対不敗であるためには必要な技術とも考え得るのであります。それは確かにあらゆる状況に於いて、宗家たる者が勝負にたじろぎを見せるわけにはいかないのでありますから、秘伝技も習得して決して無駄ではないとは云えるのでありましょう。

 朝は何時も一緒に道場にやって来る万太郎とあゆみでありましたが、その日に限って、万太郎が一人だけで道場の玄関を入るのでありました。
(続)
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お前の番だ! 598 [お前の番だ! 20 創作]

「あれ、あゆみ先生はどうされたのですか?」
 迎えに出た来間教士が不思議そうな顔をするのでありました。
「ちょっと、体調が優れないようだから、朝一で病院に寄ってから来るそうだ」
「珍しくお風邪ですかね?」
 これは万太郎の靴を下駄箱に仕舞いながら云う真入の言葉でありました。
「多分そんなところだろう。微熱があるようだし」
「今日は少年部の稽古もないですから、お休みになられても大丈夫ですよ」
 来間が気遣うのでありました。
「その辺はあゆみも知っているから、病院の診断次第で自分で決めるだろう。それより朝食の用意はどうなっているのか?」
「もう大岸先生にあらかた調えて貰っています」
 大岸先生はこのところ毎日万太郎とあゆみが来る前から出張って来ていて、自分も含めて六人分の朝食の用意を手伝ってくれているのでありました。そのお蔭であゆみが来た時には、ほぼ支度は整っていると云う按配でありました。
 恐縮ではあるものの、あゆみとしては慎に好都合と云う寸法であります。しかし大岸先生としても、大勢で摂る朝食を自分も楽しみにしていると云った様子でありましたか。
「真入、あゆみの代わりに大岸先生の後の手伝いはお前がやれ」
 万太郎が命じると真入は一瞬及び腰を見せるのでありましたが、これは本人に料理なんぞと云う仕事が、嫌いであると同時にその才能もないと云う自覚がある故でありました。しかし総務長の云いつけであるし、重要な内弟子仕事の一つでもある事は判っているから、すぐに顔色を改めて押忍の発声の後に素直に台所に走るのでありました。
「真入に任せて大丈夫ですかね?」
 来間が不安を表明するのでありました。
「ま、大丈夫、だろう、・・・多分」
「真っ黒焦げの鯵の開きとか、煮え滾った味噌汁とかが出て来るんじゃないですかね」
「大岸先生が大方に目を光らせているから大丈夫だろう、多分。・・・」
 台所の大岸先生に一礼して感謝の言葉を発してから、万太郎は居間に座っている是路総士の前に正坐して、朝の挨拶とあゆみの遅参を報告するのでありました。
「ほう、微熱があって体調が優れないのか。あゆみにしては珍しいな」
 是路総士は特段強く心配する風もなくそう云って頷くのでありました。
「昨日から体の調子が悪そうだったの?」
 大岸先生が炊事の手を暫し休めて居間の方に来るのでありました。その間真入に調理を任せて大丈夫だろうかと万太郎は頭の隅で少し心配するのでありました。
 チラとそちらを窺うと来間がガスコンロの前に立つ真入の横で、あれこれ指図しているのでありました。傍で見ていて来間も心配になったのでありましょう。
「いや、今朝になって急にそんな感じでした」
 万太郎は大岸先生に向かって云うのでありました。
(続)
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お前の番だ! 599 [お前の番だ! 20 創作]

「ああそう。・・・ふうん」
 大岸先生は何やら直感するところのある表情をするのでありました。大岸先生の顔を見た是路総士も、その何やらにピンときたようで、大岸先生と目交ぜするような仕草をしながらニンマリと笑うのでありましたが、迂闊ながら万太郎は、その是路総士の笑みがどう云った意味で笑まれたものなのかを察する事が出来ないのでありました。
 五人での朝食を終えて暫くすると、その日当番になっている準内弟子の山田と狭間、それに宇津利益雄がやって来るのでありました。宇津利は竟先頃、予てから念願の準内弟子となったのでありましたが、前に準内弟子をしていた片倉が大学卒業を機に、出身地の信州松本に帰ったのと入れ替わる形で採用となったのでありました。
 来間と真入、それに準内弟子達が朝の道場仕事に励み出した頃、花司馬範士と寄敷範士が前後して姿を現すのでありました。二人共あゆみの不在に少しく意外と云った表情を表するのでありましたが、万太郎から気分が悪いので病院に寄ってから来ると説明されて、そう云う事もあろうかとそれ以上に気にかける様子は見せないのでありました。
 そのあゆみが道場に現れたのは、朝稽古が終わった頃でありました。
「随分遅かったなあ」
 万太郎とあゆみの控え部屋の襖を開けて、中に入ってくるあゆみに万太郎が声をかけるのでありました。あゆみの顔が今朝と同じに心持ち蒼白に見えたものだから、万太郎は未だ気分が優れないのかと心配するのでありました。
「病院が混んでいたからね」
「それでどうだった?」
 万太郎はあゆみの顔を覗きこむのでありました。
「それがね、あのね、・・・」
 あゆみは万太郎の目を円らな瞳で一直線に見るのでありました。「実は、どうやら、赤ちゃんが出来たみたいなのよ」
 その思わぬ報告に万太郎の顔が一瞬表情を失くすのでありました。それからすぐにその顔に、みるみる赤みが増すのでありました。
「赤ちゃん、て、その、ええと、所謂、・・・赤ん坊、・・・の事か?」
 何を訊いているのか万太郎は自分でもよく判らないのでありました。あゆみは頓狂な万太郎の云い草にも関わらず真顔で二度頷くのでありました。
「そう。その赤ん坊よ」
「・・・おお!」
 万太郎は妙な声色の感動詞を口走るのでありました。そこであゆみが、一連の万太郎の間抜けな反応に対して、口元に曲げた人差し指を添えてクスッと笑うのでありました。
 万太郎の態度が急にそわそわと、妙に恭しそうになるのでありました。
「起きていて大丈夫なのか、横にならなくても?」
「大丈夫よ。つまり病気じゃないんだから」
「ああそうか。しかし念のために、横になっておいた方が良いんじゃないかな」
「今ここで急に横になっても、仕方ないじゃない」
「それもそうだな。・・・」
 万太郎はあゆみの顔を心配そうな目で見遣るのでありました。その後何を思いついたものか、急にすっくと立ち上がるのでありました。
「何処行くの、万ちゃん?」
 そう訊かれて万太郎はすぐに困惑の表情をするのでありました。
「ああいや、別に何処にも行かないんだけど。・・・」
 万太郎は呟くように云ってまたその場に座るのでありました。座り直したのは良いけれど、どうにも尻の落ち着かない心持ちであります。
「赤ちゃんが出来たって聞いて、どう、今の気分は?」
 あゆみがまるで万太郎の落ち着かなさをからかうように、そんな事を如何にものんびりした口調で訊くのでありました。
「今の気分は、ええと、嬉しいに決まっているんだけど、どうしたものか顔が、それをちゃんと上手く表せないんで困る」
 その万太郎の云い草は何となく苛々しているようにも聞こえるのでありましたか。しかし要するにこんな万太郎のオロオロぶりに、万太郎なりに確かに大いに喜んでいるのだろうとあゆみは察しをつけて、安堵したように目尻を下げるのでありました。

「ああそうか。それは良かった」
 これは早速報告に及んだ時の是路総士の言葉でありましたが、万太郎とは違って如何にも落ち着いた様子ながら、その喜色は目尻から溢れているのでありました。
「お目出とう。そうじゃないかなって思ったのよ」
 こちらは大岸先生の言葉であります。「今朝急に気分が優れなくなったの?」
「いいえ、少し前からあったんですが、ちょっとした風邪だと思っていたんです。でも今朝は思い当るところがあって、それで念のために病院に行ったんです」
「それで確定したわけね?」
「確定と云うのか、検査の結果が明日出るまではっきりしないんですけど、でもお医者様には、先ず間違いないって云われましたけど」
「検査結果を待つまでもなく、あたしも絶対間違いないと思うわ。確かに、あゆみちゃんの今の顔つきは何となく懐妊した女性のそれだもの」
 大岸先生のその言葉を聞きながら、万太郎はそう云うものかと感心するのでありました。女は女同士と云うところでありましょうが、そこいら辺りの機微には、万太郎如きが容喙する余地なんぞは髪の毛一本分もないと云うものでありますか。
「こりゃあ目出度い。跡取りの七代目も出来て常勝流の未来も安泰と云うものだ」
 鳥枝範士が知った時の反応はややお先走りのきらいがあるのでありました。
「男か女かも、それにその素質があるのかも未だ判りませんよ」
 あゆみが苦笑いながら応えるのでありました。
「何れにしても結構な事。総務長先生、お目出とうございます」
 鳥枝範士は万太郎に深々とお辞儀して見せるのでありました。「こうなれば、ワシが云う迄もない事だが、棋道のために尚一層のご奮起を願います」
(続)
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お前の番だ! 600 [お前の番だ! 20 創作]

「よろしくお引き立ての程を」
 鳥枝範士の激励に万太郎もお辞儀を返すのでありました。
「あゆみの歳を考えたら急がないと、とワシは前から心秘かに思っておったのです。まあワシが焦心したところで、余計なお世話でありましょうがなあ」
 そう云う鳥枝範士の顔は実の孫を授かった好々爺のようでありましたか。
「実は剣士郎との間に少し間が空きましたが、ウチも二人目を授かりました」
 これは万太郎に話しを聞いた花司馬範士の報告でありました。
「へえ、そうですか。それはお目出とうございます」
 万太郎が祝詞を返すのでありました。「すると学校ではウチと同級生になりますね」
「そうですね。保護者参観日には一緒に参りましょう」
 花司馬範士も鳥枝範士同様、些かお先走りなのでありました。
 次の日の少年部の稽古前に剣士郎君が大きな花束を持って現れて、花司馬範士に伴われて万太郎とあゆみの控え室にやってくるのでありました。
「あゆみ先生、お目出とうございます」
 この先当分の間稽古を休むあゆみに、剣士郎君は感謝の花束を手渡すのでありました。これは花司馬範士の、あゆみを喜ばすためのちょっとした思いつきでありましょう。
「剣士郎君も弟か妹が出来るようだから、嬉しいでしょう?」
 あゆみが剣士郎君の手を取って云うのでありました。剣士郎君も嬉しそうな顔で、あゆみに手を取られた儘コックリと頷くのでありました。

 それから遠からぬ或る日の朝の専門稽古では万太郎が中心指導をする当番でありましたが、是路総士を筆頭に鳥枝範士と寄敷範士それに花司馬範士と来間教士、新米内弟子の真入と云う総本部指導陣が一堂に揃っての稽古となるのでありました。別にそう図ったわけではないのでありましたが、夫々の都合が偶然そんな状況を作ったのでありました。
 普段なら是路総士は万太郎が中心指導する折には、一種の気遣いから顔を出さないのでありますが、どう云う気紛れか、久しぶりに万太郎の指導ぶりを見たいと自ら所望するのでありました。秘伝伝授後の万太郎の変貌ぶりを確かめるためなのかも知れません。
 それならばと、その日は偶々朝から出仕していた鳥枝範士と寄敷範士も右に倣うのでありましたし、花司馬範士は元々出席の予定でありました。あゆみも稽古には参加しないながらも、どう云う所懐からか廊下側の窓から道場の様子を目立たぬように窺いにくるのでありましたから、母屋の留守番は居残っている大岸先生一人と相成るのでありました。
 ひょんな事からそう云った仕儀になって、万太郎としては大いにたじろぐのでありました。まるで総本部道場総務長、延いては常勝流武道宗家是路総士の跡取りたる自分の、力量及び適性を総本部所属の全指導員から考査されているような具合であります。
 これはもう滅多な事は出来ないけれど、かと云って至極無難に稽古を纏めて仕舞えば、その程度のヤツかとお歴々をがっかりさせる事になるでありましょうし、あゆみの失望も招くであろうし、来間や真入の心服もそれで覆滅して仕舞うかも知れません。特段そう云った思惑は面々にはないのだろうけれど、万太郎は過剰に気負うのでありました。
 その気負いが裏目に出たのか、今までそう云う事はなかったのだけれど、万太郎は道場に入る時に出入口の敷居の段差にうっかり躓いて仕舞うのでありました。気負いから体が固くなっていたので、万太郎は前のめりになった体勢を立て直せずにやや小走りに道場中央に到ると、そこに竟に転けたと云った風情でぺたりと正坐するのでありました。
 座り了る咄嗟に、そう云えば自分が内弟子に入った頃、是路総士も時々道場出入口の敷居に躓いていた事を思い出すのでありました。あれは後年手術に到る背骨の病変から、足が上手く上がらない場合があったためと知れたのでありましたが。・・・
 選りに選って、こう云う大事な場面で何たる不様、と万太郎は心の中で大いに赤面するのでありました。ヨロヨロと小走りする時に、下座端に正坐している鳥枝範士と寄敷範士が思わず顰め面をするのを目の端でしっかり見るのでありました。
 これは何とも幸先悪い仕くじりでありましたが、しかしどう云うものか万太郎はここで妙に心が静まるのでありました。無用に気負うからつまらぬ失敗をするのでありますし、誰が見ていようと今の自分以上の姿なんぞは結局見せる事は出来ないのであります。
 そう観念して仕舞うと万太郎は至極落ち着くのでありました。落ち着きを取り戻せば、何時も通りの中心指導を熟す事が叶うと云うものであります。
「いやあ、入場で躓かれた時には冷やりとしましたわい」
 稽古を終えて師範控えの間に引き上げた後、鳥枝範士が万太郎に云うのでありました。
「頭の中で昔の総士先生のお姿が重なりまして、ちょっと懐かしいような微笑ましいような、反面、何となく気まずいような妙な心持がしましたよ」
 寄敷範士が微笑を片頬に浮かべて続くのでありました。
「どうも面目ありません」
 万太郎は頭を掻くのでありました。
「総務長先生は別に腰がお悪いわけではないでしょうな?」
「いや、そのような事は。あれは全く以って僕のうっかりからです」
「ま、総本部道場の出入口の敷居と歴代宗家は、代々相性が悪いようですな」
 是路総士がそんな事を紹介するのでありました。「私の先代もあの敷居に躓いているのを、何度か目撃した事がありますよ」
「と云う事はつまり、総務長先生もここで晴れて、次代の宗家としての条件を目出たく身に備えられたと云う事になりますかな」
 鳥枝範士がそう云って豪快に笑うと、師範控えの間に集う是路総士や寄敷範士や花司馬範士、部屋の隅に控える来間教士と真入指導部助手、それに万太郎の横に座っているあゆみが、如何にも愉快そうにその笑いに同調するのでありました。
「私はあの光景を見て、さてこれからは愈々、総本部道場を先頭で率いていくのは私ではなく、そこで頻りに頭を掻いている婿殿だと得心しないでもなかったですかなあ」
 是路総士はそう云って笑むのでありました。
「総務長先生、総士先生がこれからは、お前の番だ! とおっしゃっておられますぞ」
 鳥枝範士が万太郎の心意気を質すように、控えめながらもやや鋭い眼光を向けるのでありました。万太郎は頭を掻いていた手をゆっくり下ろして、まるで是路総士が何時も湛えているような大らかな眼差しで、真正面から鳥枝範士の目を見つめるのでありました。
「押忍。承りました」
 万太郎は気負いもなく、かと云って弱気もない至極落ち着いた声音でそう云って端正に座礼をするのでありました。鳥枝範士は実に穏やかなその万太郎の物腰に不意に打たれたように、慌ててより低く万太郎に向かって低頭して見せるのでありました。

   ***

 さて、この辺りでこの物語もそろそろ一区切りといたしましょうか。この先の万太郎とあゆみについては、折があるならばまた別に語る事といたしましょう。浮世での大団円なんぞと云うものは、その当事者がこの世を去る時以外には訪れないのでありますから、不意に、故意に、物語はどこかで終止符を打たなければならぬものであります。
(了)
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