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お前の番だ! 331 [お前の番だ! 12 創作]

 来間が、眩しそうに目を細めている万太郎に話しかけるのでありました。万太郎と同じに来間も、その突然の呼び出し音に何やら胸騒ぎがし始めたようであります。
 電話は六回ほど鳴って止むのでありました。恐らく居間のすぐ隣の部屋で寝ているあゆみが、急いで起き出して受話器を取ったのでありましょう。
 息を殺して様子を窺っていると、廊下で足音がして是路総士の部屋の障子戸を引き開ける音が聞こえ、その後すぐに是路総士も居間の方に向かう気配が伝わってくるのでありました。廊下で立てる二人の足音から、ただならぬ緊迫感が伝わってくるのでありました。
「ちょっと見てくる」
 万太郎はそう云って脚にかけた儘の布団を跳ね除けるのでありました。来間が心配そうな顔で部屋を出る万太郎を見送るのでありました。
 居間では是路総士とあゆみが廊下に背を向けて、電話機の前に寄り添って佇んでいるのでありました。万太郎が見ていると、丁度是路総士が受話器を戻すのでありました。
「何事かあったのでしょうか?」
 開いた儘の障子戸の辺りから万太郎が中の二人に、急に声を上げて驚かせないように小声で言葉を投げかけるのでありました。
「道分先生が亡くなったようなの」
 あゆみが険しそうな顔で万太郎の方をふり向くのでありました。
「え、道分先生が、ですか?」
 万太郎が訊き返すと是路総士が陰鬱気な顔で頷くのでありました。
「今の電話は花司馬君からだ」
 是路総士はそう云いながら、座卓の何時も自分が座っている位置に移動するのでありました。あゆみも座卓の方に移って、廊下で立っている万太郎を手招くのでありました。
「道分先生は今、確かハワイに行かれているのですよね?」
 万太郎が訊くと是路総士は瞑目した儘頷くのでありました。
「向こうで、急に倒れた、という事らしい」
「何でも向うの道場の責任者の人が、朝になって食事に誘おうとホテルの部屋をノックしたけど、何時も早起きの筈の道分先生なのに一向に返事が返ってこないものだから、心配になってフロントに話して鍵を開けて貰ったら、ベッド脇の床に道分先生が俯せに倒れていたらしいのよ。それで急いで救急車で病院に搬送したと云う事らしいの」
 あゆみが云い添えるのでありました。
「ハワイからそう云う連絡が入って、それで花司馬先生が、事が事だから、急遽こちらに電話を入れた、と云う事ですかね?」
「そうね。始めは道分先生の家に連絡が行って、威治さんから花司馬先生のお宅に連絡が入ったらしいの。花司馬先生は今から神保町の道場で待機するっておっしゃっていたわ」
「あのう、ここに来間を呼んできてもよろしいでしょうか?」
 万太郎は是路総士にお伺いを立てるのでありました。「あいつも先程の電話の音で目が覚めて、部屋で起きて心配していますから」
(続)

お前の番だ! 332 [お前の番だ! 12 創作]

 是路総士は万太郎の方を向いて無表情に頷くのでありました。万太郎は急ぎ立って居間を後にして内弟子部屋へ来間を呼びに行くのでありました。
 来間は居間に到着すると座卓を囲んで座る是路総士とあゆみと万太郎から離れて、障子戸の傍に遠慮がちに単座するのでありました。この間の事情のあらましは、廊下を急ぎ足に進む内に万太郎から知らされているのでありました。
「いやまあ、驚いた」
 是路総士がそう言葉を発するのでありました。「と云って、日本に居る我々には、次の報を苛々しながら待っているより仕様がないのだが」
 確かに何やらの動きをするとしても、花司馬筆頭教士からの第二報を待ってからでないと動き様がないのであります。花司馬筆頭教士は自宅から神保町の道場に移動している最中でありましょうから、連絡は道場に到着後となるでありましょう。
「総士先生は神保町の方に行かれなくともよろしいのですか?」
 万太郎が腕組みする是路総士に訊くのでありました。
「私もすぐに行こうかと云ったら、未だ電車も動いていないし、それには及ばないと云う返事だった。もし必要なら知らせるとの事だ。まあ、私が行っても一緒に心配するだけしかやる事はないし、私が行けば向こうも色々要らぬ気を遣わなければならんだろうし」
「鳥枝先生と寄敷先生には、すぐに連絡を入れますか?」
 万太郎が訊くと是路総士は暫し考える風の顔をするのでありました。
「こんな夜中で恐縮だが、事が事だけに、一応知らせておいた方がよかろうかなあ」
「僕の方で電話を致しましょうか?」
「いや。私が直接、しよう」
 是路総士は座を立って電話機の前に行くのでありました。
「来間、済まんが総士先生のお茶を淹れてくれないか」
 是路総士が鳥枝、寄敷両範士に電話をしている間に、万太郎は来間にそう命じるのでありました。この後は取り敢えず花司馬筆頭教士の電話待ちとなるでありましょうから、居間で待機する時間は少し長引くと思われるからであります。
「押忍。承りました」
 来間は是路総士の電話の邪魔にならないように小声でそう返事してから、何となく気忙し気に食堂の方に立つのでありました。
「花司馬先生はどうやって神保町の道場の方に行かれるのでしょうかね?」
 万太郎はあゆみに言葉を向けるのでありました。
「花司馬先生は自分の車で向かうんじゃないの」
「ああそうか。花司馬先生は車を持っていらっしゃるんでしたね」
 威治教士の方は道場で待機しないのだろうかと、万太郎は話しの接ぎ穂でこの後に訊こうとしたのでありましたが、何となくこんなしめやかな折に、あゆみに敢えて威治教士の名前を聞かせるのもがさつであろうと思って、それは口の外には出さないのでありました。
「花司馬先生のお宅は確か、池袋の方でしたよね?」
(続)

お前の番だ! 333 [お前の番だ! 12 創作]

「そうね、そう聞いているわね」
「池袋から神保町の道場まで、車でどのくらいの時間がかかるのでしょうかね?」
「さあ、どのくらいかしらね」
 万太郎と同様、その点に関してはあゆみも不案内のようでありました。
「鳥枝さんも寄敷さんも、今からこちらに来るそうだ」
 電話を終えた是路総士が座卓の方へ戻って、座りながらそう告げるのでありました。
「それでは師範控えの間でお待ちした方が良いですかね?」
 万太郎が訊くと是路総士は今座ったばかりだと云うのに、両手を卓の縁についてすぐに再び立とうとするのでありました。
「そうだな。ここよりはそちらの方が良かろう」
 是路総士とあゆみが師範控えの間に移動して、万太郎は来間が淹れている茶が出来るのを待って、それを持って少し遅れてそちらに向かうのでありました。来間には鳥枝範士と寄敷範士の到着に備えるために、受付兼内弟子控え室の方に居ろと命じるのでありました。
 三十分程すると成城に住んでいる鳥枝範士が、タクシーで仙川の総本部道場に到着するのでありました。鳥枝範士は血相を変えて師範控えの間に入って来るのでありました。
「その後何か連絡は入りましたかな?」
 鳥枝範士は是路総士の横に腰を下ろしながら訊くのでありました。
「いや、未だ何も。何か動きがあったら花司馬君が連絡を入れてくれる筈です。花司馬君は神保町の道場の方で待機すると云っていましたよ」
「ああそうですか。しかしまあ、全く寝耳に水の話しで驚きました」
「そうですね。まさかこんな事が起こるとは、私も思ってもみませんでした」
 是路総士と鳥枝範士がそんな言葉を交わしていると、来間が鳥枝範士の茶を持ってくるのでありました。来間はすぐに寄敷範士を待つために内弟子控え室に退くのでありました。
 寄敷範士が到着したのはそれからまた三十分程してからでありました。その間、花司馬筆頭教士からの電話は来ないのでありました。
「来間、電話が鳴ったらこちらで取るから、お前は部屋で休んでいて構わんぞ」
 是路総士が寄敷範士を先導してきた来間に云うのでありました。
「押忍。では食堂の方で控えています。何かあったらお呼びください」
 来間は師範控えの間から去るのでありました。
「僕も食堂の方に行っております」
 万太郎は是路総士にお辞儀しながらそう断りを入れて来間の後を追うのでありました。
「この後、どうなるのですかねえ」
 寄敷範士の茶を出しに行った来間が食堂に戻って来て、テーブルの万太郎の向かいに座りながらしめやかな声で訊くのでありました。
「さあ、未だ何も判らんな」
 来間がここ数日の動きを訊き質したのか、それとも興堂派の将来と云う辺りを訊こうとしたのか万太郎は判断出来なかったので、そんな無愛想な返事しかしないのでありました。
(続)

お前の番だ! 334 [お前の番だ! 12 創作]

「葬儀の段取りとかは、親族とか向こうの道場の意向が第一でしょうから、こちらとしては当面それを待つしかないでしょうね」
 こう来間が云うところを見ると、ここ数日の動き、を訊いたのでありましょう。
「先ず道分先生の亡骸を、こちらに運ばないとならんだろうなあ」
「すると、先ずはその到着を待ってから、と云う事になりますね、当面」
「そうだな。そうなるだろうな。まあ、到着の日時が判れば段取りはつけられるだろうが」
 万太郎と来間がそんな事を話していると、食堂にあゆみが入って来るのでありました。
「あたしもこっちで待機する事にしたわ」
 あゆみはそう云って万太郎の隣の椅子に腰かけるのでありました。「控えの間は殆ど会話もなくてげんなりするくらいしめやかな雰囲気だから、ちょっと抜けてきたのよ」
「三先生は若い頃から道分先生とは、稽古や普段の生活なんかに於いても苦楽を共にしてこられた方々ですから、殊更沈痛でいらっしゃるでしょうね」
 万太郎が隣に座るあゆみに顔を向けて云うのでありました。
「まあ時には色々あって、全くの昵懇で今日まできたと云うわけじゃないでしょうけど、とっても色濃いつきあいだった事は確かよね」
 あゆみの云う、時には色々、と云うのは、竟この前にあったあゆみと威治教士の縁談話しに起因する、興堂範士との腹の探りあいみたいな些か陰鬱な事例なんかも含まれているのでありましょうか。勿論それをあゆみに確認する必要なんぞはないのでありますが。
「その色々あった事と云うのは、道分先生の独立とか、そう云った事情でしょうか?」
 来間があゆみに訊くのでありました。
「そうね、それもあの三人にとっては、気持ちのしこりにはなったでしょうね」
「でも概ね、道分先生と三先生は今日まで良好な関係を保たれていたと思いますよ」
 万太郎が云うのでありました。
「お父さんが道分先生の独立に対しては是認する態度だったから、そのお父さんの意向にあれこれ異を唱えるのを、鳥枝先生も寄敷先生も控えたと云うところでしょうね」
「しかし、どうして道分先生は独立しようと云う了見を起こされたのでしょうかね?」
 来間があゆみの顔を見るのでありました。「結局常勝流と云う流派名を名乗るのなら、別に独立しなくとも総本部の麾下にあっても構わなかったような気もするのですが」
「道分先生はどうしても独立したい、と云う意志はなかったようよ。どちらかと云うと道分先生のシンパとか色んな支援者なんかが、独立を強く勧めたと云う事らしいわ。道分先生には財界人とか政治家とか文化人とか、持て囃す支援者が一杯いたから」
「そう云う人たちの思惑に、道分先生が乗ったと云う事ですね?」
 来間が納得するように二三度頷くのでありました。
「そんな面も多分にあったと思うわ。武道家なんて、云ってみれば芸者稼業みたいなところがあるから、贔屓にしてくれる谷町筋の意向にはなかなか逆らえないものでしょうね」
「武術家は昔は芸者と云って、とか、そう云えば前に総士先生も云っておられましたね」
 万太郎も首肯するのでありました。
(続)

お前の番だ! 335 [お前の番だ! 12 創作]

「道分先生は、実は独立にはあんまり意欲的ではなかったのですか?」
「まあ、元々形には嵌らない、どちらかと云うと天衣無縫な方だったし、それなりの野心もおありだったようだから、総本部の軛から抜けて自分の思う儘に、技術面でも組織運営の面でもやっていきたいと云うお気持ちは、それは持っていらしただろうとは思うわ」
「流派の中に居ても、結局は武芸と云うものは一人一派のものだと、前に総士先生から伺った事があります。そう云うお考えから、総士先生は道分先生の独立の心根を充分察して、それを尊重されたのでしょうね。これも如何にも総士先生らしい態度だと僕は思います」
 万太郎は是路総士の度量に対する敬服を表明するのでありました。
「独立したい人に独立するなと云うのは、結局無意味な慰留でしかないものね。それに道分先生もお父さんの気持ちに感謝があったから、一派を興した後も、常勝流の名前を棄てずに、それにお父さんを常勝流武道の最高位と常に立てて、一歩引いた位置から礼容を示し続けられたと云う事でしょうね。道分先生の態度もあたしはご立派だったと思うわ」
「麗しい兄弟子と弟弟子の関係が、最後まで続いたと云ったところでしょうか」
 来間はそう云って感じ入ったように頷くのでありました。これはひょっとしたら万太郎に、お前さんも将来は是路総士の如くあってくれよと、暗に釘を刺している仕草のようにも思えるのでありましたが、万太郎はそこに拘るつもりは更々ないのでありました。
 その時に居間の電話が鳴るのでありました。是路総士から向こうで電話を取ると云われていたから、食堂の三人はその儘動かないで居間の電話機を見ているのでありました。
 呼び出しが二度鳴って止んだのは、当然師範控えの間の方で受話器を取り上げたためでありましょう。食堂の三人はすぐに立ち上がるのでありました。
「自分が行って廊下で控えています」
 来間がそう云って師範控えの間の方に足早に向かうのでありました。食堂に残った万太郎とあゆみは目を見交わせて、手持無沙汰そうにまた椅子に腰かけるのでありました。
 二十分程してから来間が食堂に戻って来るのでありました。
「向こうでお呼びです」
 師範控えの間では是路総士と鳥枝範士、それに寄敷範士が陰鬱な面持ちで卓を囲んでいるのでありました。万太郎とあゆみはお辞儀の後で膝行して座敷の中に入り、卓には近寄らないで障子戸を背にして並んで正坐するのでありました。
「来間はどうした?」
 鳥枝範士が一緒に姿を現さない来間の動静を訊ねるのでありました。
「すぐにお茶の換えを持ってやって来ます」
 万太郎がそう云うと鳥枝範士は無言で頷くのでありました。
「ハワイには威治君と長男殿が揃って向かう事になったようだ」
 是路総士はそう云いながら来間が新たに淹れてきた茶を啜るのでありました。「行くのは明後日の飛行機になるらしい。向こうでは病院で亡くなったのではないから、警察の検死とか色々あるようで、こちらにご遺体が戻るのはそれからまた数日後になるらしい」
 是路総士は淡々と電話で聞いた内容を三人に告げるのでありました。
(続)

お前の番だ! 336 [お前の番だ! 12 創作]

「その間、神保町の興堂派道場は稽古が休止されるのでしょうか?」
 万太郎が訊くのでありました。
「いや、勿論門下生には告知はするだろうが、ご遺体が戻るまでは通常の稽古を続けるようだ。若し自分に何かあったとしても稽古は一日たりとも休むなとは、前から道分先生が厳しく云われていた訓戒で、それに則って稽古は休まないと云う事らしいな」
 鳥枝範士が是路総士に代わって万太郎に応えるのでありました。「まあしかし、流石に葬儀の時には休まざるを得ないだろうが」
「威治君が抜けても一先ず指導の手は足りるだろうが、どうしても応援が必要な場合には折野、お前が手伝いに行け。お前は向こうの門下生達とも馴染みがあるだろうからな」
 寄敷範士がそうつけ足すのでありました。
「押忍。承りました」
 万太郎は畏まった顔で座礼するのでありました。
「道分先生の長男だけが行って、次男の威治はこちらで留守番するなんぞと、始めの内、本人は行くのを躊躇っていたそうだが、道分先生が武道関連でハワイに行ったのだからとか説得されて、渋々同行する事にしたらしい。長男は武道とは無関係な人間だからな」
 鳥枝範士がこの間の経緯を少し説明するのでありました。
「ご長男さんは何の仕事をされているのですか?」
「中学校の英語の教師だ」
「若先生は、どうして行くのを渋られたのでしょうかね?」
「面倒臭いとか、大方そんな理由からだろうよ。観光旅行とは違うからな」
「自分の親が不慮の病で、しかも外国で急に亡くなったと云うのに、ですか?」
「あいつは例え地球が潰れようが、何よりも自分の都合が優先のヤツだからな」
 鳥枝範士は鼻を鳴らして見せるのでありました。
「興堂派道場が休まないのなら、勿論総本部も何時も通りに稽古をするのですね?」
 あゆみが是路総士に向かって質問するのでありました。
「それは当然だ。明日も予定通り稽古を実施する」
「総士先生か、または鳥枝先生か寄敷先生が、朝になったら神保町の方に赴いて、向こうの道場の様子を見てくる、とかはされないのですか?」
 これは万太郎の質問でありました。
「向こうの道場が多少心配ではあるが、花司馬君の事だからちゃんと疎漏なく切り盛りするだろう。万事は、道分さんのご遺体が息子達に護られて戻って来てからだな」
 是路総士のその言葉が、何となくこの急な深夜の寄あいの締め括りの言葉となるのでありました。鳥枝範士と寄敷範士は、これから家に帰ってまた朝に出直してくると云うのも億劫だからと云うので、師範控えの間に布団を並べて泊まるのでありました。
 両範士とも恐らくそうなるだろうと踏んでいたようで、明日着る稽古着は持参して来ているのでありました。久方ぶりの二人揃っての総本部での宿泊となるのでありましたが、場合が場合だけに浮かれて酒盛りをすると云うわけには勿論いかないのでありましたが。
(続)

お前の番だ! 337 [お前の番だ! 12 創作]

 是路総士もあゆみも、それに万太郎と来間も夫々の部屋に引き取った時にはもう四更を過ぎているのでありました。来間はこれから寝ると返って朝が辛いと云うので、本でも読んで起きている心算のようのでありますが、万太郎は布団に体を横たえたら瞬く間に、いや瞬く暇もあらばこそ、すぐに睡魔に眠りの底に引き摺りこまれて仕舞うのでありました。

 日が昇ると件の六人は寝不足に目を腫らして、食堂と居間に分かれて揃って朝食を摂るのでありました。突然舞いこんだ興堂範士の訃報の冷めやらぬ衝撃と、それに寝不足とが、一同の咀嚼以外の口の動きを重くさせているのでありました。
「さて、十時からの午前稽古が始まるまでには未だかなり時間があるから、丁度良い折、一丁この六人だけで剣術の稽古でもやるか」
 食事を終えた鳥枝範士が箸を置いて両手を合わせた後、眠気の残滓を払底するためにか、そんな事を急に提案するのでありました。
「しかし食事の後片づけや庭の掃除、それから稽古準備のための仕事がこれから僕等にはありますので、とてもそんな時間はありません」
 万太郎が鳥枝範士の提案に躊躇いを見せるのでありました。
「準内弟子のヤツ等は何時に道場に現れるのだ?」
 鳥枝範士は万太郎の顔を見据えて訊くのでありました。
「押忍。八時半に三人やって来ます」
「それなら掃除だの何だのはそいつ等にやらせれば済む」
「まあ、折角の折だ、今日は母屋の掃除も庭掃除も免除と云う事にしても良いな」
 是路総士がそんな事を云い出すのでありました。依って洗い物が片づくと早速稽古着に着替えて六人は道場の方に集まるのでありましたが、考えてみたら三範士と内弟子だけで稽古をするのは今まで殆どなかったように万太郎は思い返すのでありました。
 夜の内弟子稽古でも三範士が揃う事はないのでありました。ひょんな事から、これは非常に貴重な稽古が出来ると万太郎は思わず心躍るのでありました。
 興堂範士の急逝と云う重苦しい事実はあるにしろ、ここは一旦気分を変えて、降って湧いたようなこの貴重な稽古に大いに意欲を沸かせても、興堂範士の上天に対して強ち敬意を失すると云う事ではないでありましょう。寧ろ興堂範士は稽古に対して何があっても積極的である万太郎を、褒めてくれるのではないかと思われるのであります。
 この稽古が始まって暫くすると、準内弟子のジョージと片倉と狭間が道場にやって来るのでありました。三人は、何時も誰か居る筈の受付兼内弟子控え室に人の気配がなく、忙し気に朝仕事に精を出している万太郎とあゆみと来間の姿も見当たらないけれど、道場の方から気合の声と木刀のかちあう音が響いているのを訝しく思って、恐る々々廊下に面した窓の隅から、三人の顔を微妙にずらし重ねて中の様子を窺い見るのでありました。
 その様子に気づいた万太郎が近寄って来ると、三人は戸惑ったような顔で屈めていた身を伸ばして、窓越しに万太郎に向かって気後れ気味のお辞儀をするのでありました。
「今日はもう稽古が始まっているのでしょうか?」
(続)

お前の番だ! 338 [お前の番だ! 12 創作]

 狭間がやや及び腰で万太郎の血走った眼に向かって質問を投げるのでありました。
「今日は偶々朝に三先生と内弟子が揃ったので、急遽剣術稽古をする事になったんだ」
「あのう、僕等は参加しなくても良いのでしょうか?」
 片倉が、これも恐る々々と云った風情で訊ねるのでありました。
「ああ、三先生と内弟子だけの稽古だ。お前達は道場回りの掃除とか、日課通りの事をしていれば良い。仕事が済んだら内弟子控え室の方で屯していろ」
「私達は、参加は出来ないのですね?」
 ジョージがやや残念そうな顔で訊くのでありました。
「そうだな。我々だけの稽古と云う事で始めたから、参加には及ばない」
「押忍。では、見学はしても良いのですか?」
「見学か。・・・そうだな、まあ、見学なら構わんだろう。しかしお前達が道場仕事を終えた頃にはもうこの稽古は終わっているかも知れんぞ」
 この三人が稽古を見学したいと云っているが如何取り計らいましょうか等と、態々三先生にお伺いを立てるまでもなかろうと、万太郎はそう応答するのでありました。
「おい折野、今度はお前が来間の相手をしろ」
 三人がドタバタとその場から去ると鳥枝範士の声が万太郎の耳に届くのでありました。万太郎はふり返ってすぐさま窓際から道場中央に走るのでありました。
 この面子での剣術稽古なら、敢えて組形稽古をするのもつまらないから乱稽古をやろうと云う事になったのでありました。乱稽古と云うのは自由に剣技をお互いに駆使しあう、所謂試合形式の稽古でありますし、通常の稽古では殆ど行わない稽古でありました。
 来間は道場中央で木刀を片手に持って肩で息をしているのでありました。恐らくあゆみとの乱稽古の直後で、あゆみに好きな様にあしらわれて息が上がったのでありましょう。
 万太郎は木刀を下段に構えてその来間と対峙するのでありました。その万太郎の構えを見て、来間も慌てて正眼に構えるのでありました。
 しかし万太郎には来間の及び腰が剣先の微妙なブレとして見えるのでありました。万太郎は下段の儘来間との間合いをゆっくりと歩み足につめるのでありました。
 来間は即座に後ろに下がるのでありました。万太郎は無表情の儘、如何にも無造作に進み続けて来間を羽目板際まで圧倒するのでありました。
 それ以上下がる余地を失って居竦んだ来間は、急場の一策で一挙に前に跳んで万太郎の腹を目がけて突きを入れようとするのでありました。その攻撃を万太郎は充分前から読んでいたのであり、寧ろそうせざるを得ないように万太郎が仕向けたと云う風でありました。
 依って万太郎は来間の突きをごく小さく体を開いて際どい辺りで往なすと、一瞬目標を失って静止した来間の木刀を下から斜め上方に跳ね上げるのでありました。来間の木刀は弧を描いて来間本人の肩口に巻きつくように畳まれるのでありました。
 万太郎はそこに、上方に斬り上げた木刀の刃を素早く返して、来間の首筋目がけて裂帛の気合の発声と伴に袈裟に切り下げるのでありました。万太郎のふり下ろした木刀は来間の首から一センチの辺りでピタリと停止するのでありました。
(続)

お前の番だ! 339 [お前の番だ! 12 創作]

「それまで。次あゆみ、行け」
 鳥枝範士が次の万太郎の相手を指名するのでありました。あゆみは木刀を持って道場中央で万太郎と対峙するのでありましたが、何故かその姿からはどこかしら、この試合に及び腰であるような気配が万太郎には窺えるのでありました。
 お互いに正眼の構えから、動きの機を創ろうと万太郎が先に一足間合いをつめるのでありました。あゆみは切っ先を万太郎の首に向けた儘で全く動かないのでありました。
 あゆみ程になると相手の仕かけなんぞには妄りに反応しないと云う事でありましょうが、しかし何となく自分の首に向いているあゆみの木刀の先端からは、何時もの迸るような気迫が感じられないのでありました。万太郎が訝しく思ってやや大きく一歩を踏み出すと、あゆみの木刀と万太郎の木刀の横手の辺りが軽く触れあうのでありました。
 それでもあゆみは動かないのでありました。触れた部分からもあゆみの気概も、狙っているのかも知れない秘策の予兆も万太郎には伝わらないのであります。
 万太郎は左手の握りを固くしてあゆみの首への狙いがぶれないように気勢を高めながら、なおもつめ寄るのでありました。鎬を接した儘、木刀は万太郎のごくゆっくりとした前進で物打ちの辺りまで交わるのでありましたが、それでもあゆみが迫ってくる切っ先にやや嫌悪を示すのみで、全く動こうとしないのは一体どうした了見なのでありましょうか。
 刀身の接触が半ばまで深まると、あゆみはやや顎を出して顔を後ろに逃がすような素ぶりをするのでありました。その分、構えに微妙な崩れが起こるのでありました。
 漸進して行った万太郎の木刀の切っ先はあゆみの首筋から離れないのでありましたが、構えが崩れた分、あゆみの切っ先は万太郎の正中線上から微妙に逃げるのでありました。もうこの時点でこの勝負はついたようなものと云えるでありましょう。
 しかし万太郎はあゆみの力量からしても、ここで油断をすると屹度斬り返されるであろうと思うのでありました。それでも相変わらずあゆみの持つ木刀からは、不思議にもそう云ったような気魂がまるっきり伝わってはこないのではありましたが。
 万太郎はあゆみの木刀を左へ強く払うのでありました。あゆみはその勢いに負けて木刀を脇に泳がせて数歩下がるのでありました。
 空かさず万太郎は上段にふり被ってあゆみの頭頂目がけて木刀をふり下ろすのでありました。万太郎の木刀の物打ちがあゆみの頭の一寸上でピタリと止まるのでありました。
「それまで!」
 鳥枝範士の声が響くのでありました。木刀を左手に納めたあゆみが中央から退いて来ると、寄敷範士が声をかけるのでありました。
「何だあゆみ、折野の剣勢にまるで居竦んだようだったな」
「向いあった途端に、すっかり蛇に睨まれた蛙になって仕舞いました」
「よし、それなら今度は私が相手をして貰おう」
 寄敷範士は木刀を左手から抜き放ちながら、万太郎の立っている道場中央に進むのでありました。何やら勝ち抜き戦みたいな様相になってきたなと万太郎は些かげんなりするのでありましたが、しかしここで怯むわけにはいかないのでありました。
(続)

お前の番だ! 340 [お前の番だ! 12 創作]

 寄敷範士の構えは堂々たる正眼でありました。万太郎は下段に切っ先を落とすのでありましたが、これは防御の構えで、相手の先の攻撃に対処するためのものであります。
 この時点で、万太郎は寄敷範士に圧倒されたと云えるでありましょう。その万太郎の気を読んだのか、寄敷範士が万太郎に声をかけるのでありました。
「折野、乱稽古だ、遠慮は何も要らんぞ」
 ここで正眼なり上段なりに構えを変えると寄敷範士の思う壺でありましょうから、万太郎は無表情の儘下段の構えを崩さないのでありました。それこそ組形稽古ではなく乱稽古なのでありますから、寄敷範士の誘導に素直に従う必要はないというものであります。
 万太郎が誘いに乗らないと判断した寄敷範士は、正眼の構えの儘、自分から間合いをつめに出て来るのでありました。万太郎は気圧されないように木刀の切っ先に気魂を集めて、微動もしないで寄敷範士の目を半眼に捉えながら待つのでありました。
 こうなれば気魂と気魂の勝負であります。先に焦れて見切り発車のように万太郎の方から攻撃を仕かけて仕舞えば、それが即負けの動きとなるでありましょう。
 万太郎がまたも誘いに乗らないと判断した寄敷範士は歩を止めて、剣先を落として万太郎と同じ下段の構えを取るや、半足にじり寄って木刀の横目をあわせるのでありました。どうやら万太郎の木刀の自由を奪おうと、上から押さえにくる心算のようであります。
 それでも万太郎は木刀を全く動かさないのでありました。予想した通り寄敷範士はやや木刀を寝かせるように被せて、万太郎の木刀の峰に自分の木刀の刃紋の辺りをやんわりと載せて、半身を取ってその儘なおも万太郎ににじり寄ろうとするのでありました。
 万太郎の動かない木刀の峰の上を、寄敷範士の木刀がじわじわと滑りつつ迫上がるのでありました。寄敷範士の木刀の先端が万太郎の木刀の鍔止めに触ろうとする一瞬、万太郎は手を返しながら寄敷範士の木刀を右上方に巻き上げるのでありました。
 寄敷範士は素早くその巻き上げの線上から木刀を外すと、万太郎の首に向かって突きを繰り出すのでありました。万太郎は瞬時に一歩退いてその突きを避けると巻き上げた木刀で袈裟に寄敷範士を切り下げようとするのでありました。
 寄敷範士は右円転返しの手つきで木刀を自分の左横側に素早く逆立させて、万太郎の斬撃を受け止めるのでありました。木刀の搗ちあう乾いた音が道場に響くのでありました。
 今度は寄敷範士が右に回りこんで、円転返しに万太郎に斬りつけるのでありました。万太郎はその斬線に同調するように際どく体を沈めながら、ごく小さな動きで手を返して切っ先を寄敷範士の木刀の鍔下に送るのでありました。
 万太郎の頭上一寸で寄敷範士の木刀の物打ちがピタリと止まるのでありました。剣風が草原を襲う野分のように万太郎の髪の毛を騒がすのでありました。
「それまで!」
 鳥枝範士が片方の掌を突き出しながら叫ぶのでありました。「寄敷さんの一本!」
「いや、これは私の負けだな」
 寄敷範士は万太郎の頭上に木刀を据えた儘でそう云うのでありました。「鳥枝さんの方からは見えなかったかもしれないが、折野の小手打ちが紙一重の差で先に入っている」
(続)

お前の番だ! 341 [お前の番だ! 12 創作]

 確かに万太郎の木刀の物打ちは寄敷範士の右手首を捉えているのでありました。
「いや、それはワシにも見えていたが、相打ちか、際どいタイミングで寄敷さんの切り下げの方が一瞬早く、折野の頭上に届いたと見たのだが」
 鳥枝範士が自分の判定に拘るのでありました。
「いやいや、私の木刀は未だ折野の頭に当たっていないけれど、折野の方は私の小手に触っているよ。だから折野の小手打ちの方が早く私を捉えたと云う事だな」
 寄敷範士はそう云ってから万太郎の頭上にある木刀を徐に引くのでありました。片膝を着いて首を竦めていた万太郎も、ゆっくりと立ち上がるのでありました。
「折野、随分腕を上げたな」
 寄敷範士が万太郎に声をかけるのでありました。「この勝負は私の負けだ」
「良い勉強をさせていただきました」
 万太郎はそう云って、誉められた事が嬉しそうに笑むのでありました。万太郎のそんな無心の笑みに寄敷範士も思わず釣られて笑み返すのでありました。
「ようし、では次はワシが仇討ちといくか」
 鳥枝範士が木刀を左手から扱き抜いて、それを軽々と一ふり二ふりしながら道場中央に、満身から意気ごみを放射しながら出てくるのでありました。
「じゃあ私の敵討ちをよろしく頼むよ」
 寄敷範士はそんな冗談を云って鳥枝範士と交代するのでありました。
「いや、ここは一つ鳥枝さんの代わりに、私が出ましょうかな」
 見所の是路総士が声を上げるのでありました。
「総士先生は、若しも門弟頭のワシが折野に返り討ちにされた場合、その後にお出まし願います。ここは総士先生の前に私が行くのが、順序と云うものでしょう」
 万太郎はそんな鳥枝範士の時代がかったもの云いを聞きながら、何やら自分が道場荒らしに来た諸国を行脚する武芸者にでもなったような心持ちがして、妙に愉快になるのでありました。しかしだからと云ってここで無意識にも口元を綻ばせたりして、若しそれを見咎めたなら鳥枝範士は屹度万太郎の慢心と誤解するでありましょうから、万太郎は閉じた唇の中で歯を食いしばって頬が笑みを作るのを必死に食い止めようとするのでありました。
「いやいや、これはあくまでも同門の修行者同士の稽古なのですから、そう云わずに」
 是路総士はそう云って壁の木刀かけから自分の木刀を右手で取って、見所を下りてくるのでありました。こうなったら、いいやそれでも自分が先に、とは幾ら朋輩の仇討ちに燃える鳥枝範士とて云い張り難いと云うものでありましょう。
 万太郎と対峙すると是路総士は全く構えないのでありました。自然に垂らした右手に木刀を無造作に持って、自然体で万太郎の方に体を向けているのでありました。
 万太郎はこれまでの試合で少し上がった息を殺して正眼に構えるのでありましたが、打ちこむ隙を全く見出せないのでありました。万太郎の剣気に是路総士が気後れする筈もなく、万太郎が足を前に送ればその分ゆったりと下がり、右に回ろうとすれば同じく右回りに体の正面を万太郎にあわせて、間合いの主導権を万太郎に渡さないのでありました。
(続)

お前の番だ! 342 [お前の番だ! 12 創作]

 万太郎は迂闊に動けないのでありました。攪乱する心算で不用意に微動すれば、是路総士はそこに容赦なくつけこむでありましょう。
 先を取ろうとも、或いは誘いを仕かけて後の先を取ろうともしない是路総士の静的な姿は、返って万太郎を進退能わざる窮地に陥らせるのでありました。と云ってこの儘息の気配も押し殺して対峙し続けていても、結局こちらが消耗するだけのようであります。
 万太郎は自分でも無意識の内に木刀の切っ先をほんの少し下げるのでありました。膠着を破ろうとしてと云うよりは、左手の籠り過ぎた力を緩めようとしての事でありました。
 その動きに、是路総士の木刀が意外にも微動するのでありました。万太郎はその意外さに賭けるしかないと一瞬で意を決するのでありました。
 万太郎は素早く足を前に送り、是路総士の水月に突きを繰り出すのでありました。是路総士は体を開いて一歩退いてそれを容易に躱すと、右手に持った木刀で万太郎の小手を小さな動きで打とうとするのでありましたが、これは予め読んでいた筋でありました。
 万太郎は素早く手を引いて是路総士の小手打ちから辛うじて逃れると、逆八相に木刀を畳んで、今度は自分が是路総士の右小手を目がけて袈裟に木刀をふり下ろすのでありました。是路総士も万太郎の先の回避動作と同じに、自分の左肩口に刀身を寝せた儘の逆八相に木刀を引きつけ、間髪を入れず万太郎の首を刎ねるように真横一文字に、コンパクトな動作ながら裂帛の気合の声と伴に右手一本で斬りつけるのでありました。
 万太郎は木刀を立ててようやくそれを防ぐのでありましたが、万太郎の耳元で木刀同士の搗ちあう音が高鳴るのでありました。容赦のない是路総士の斬撃を万太郎はその音と木刀を持つ手の衝撃で感じ取って、一瞬総毛立つのでありました。
 万太郎は大きく跳び退いて、二歩でも刀身の届かない程の間合いを空けると、正眼に構え直して是路総士の次の攻撃に備えるのでありました。恐怖から、及び腰の正眼の構えになっているのが判るので、何とも自分でも情けないと思うのでありました。
 是路総士の方も正眼に構え直すのでありました。こちらはゆったりとしていてしかも如何にも堂々たる構えで、この辺が格の違いと云うものでありましょう。
 さて、当座の危機は脱したものの、またもや万太郎は進退がどうにも叶わない羽目に陥るのでありました。打つ手が全く思い浮かばないのであります。
 ここであれこれ策を錬ろうとするのが、実は拙いのでありましょう。万太郎はふと少年時代に習っていた捨身流の剣道稽古を思い出すのでありました。
 あの頃は先後とか有利不利を一切考えずに、何はともあれ突貫するのを身上としていたのでありましたし、そうせよと教えられてきたのでありました。身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ、とはその頃の熊本の道場に掲げてあった扁額の言葉であります。
 ああ成程、つまり、捨身流、か。万太郎はここにきてようやくに、その流名の由来を改めて納得するのでありました。
 その流派の剣術を止めて久しい今頃になってようやくにその流名の訓義に思い到るとは、慎に以って迂闊と云うも甚だ疎か、と云うものでありますか。しかも今現実の窮地に在ってそんな回顧に耽ると云うのも、間抜けな話し以外ではないでありましょう。
(続)

お前の番だ! 343 [お前の番だ! 12 創作]

 この時、万太郎の頬が微かながら笑いを作るのでありました。自分の間抜けと迂闊を心の内で自嘲したために、不覚にも竟そう云う顔をして仕舞ったのでありましょうか。
 不用意と云えば慎に不用意、不敵と云えば慎に以って不敵な所業と云えるでありましょう。しかしこれは、万太郎と対峙する是路総士にとって、それにこの乱稽古を見守る者達にとっても、不気味と云えば慎に不気味な万太郎の表情の変化とも云えるのでありました。
 用心のためか是路総士の木刀の切っ先がゆっくりと下がり、下段の構えに変化するのでありました。万太郎も下段につけて是路総士に向かって一歩踏み出すのでありました。
 是路総士は一旦下がって間合いを調整してから、仕切り直すようにもう一度正眼に構えを戻すのでありました。釣られるように万太郎も歩を止めて正眼に戻るのでありました。
 互いの木刀の切っ先がギリギリ触れない距離で、この儘状況は全く膠着するのでありました。万太郎の目論見が読めないためか、是路総士は自分から仕かけないのでありました。
 是路総士の必要以上の用心深さが万太郎の意味不明の笑みに依るものである事は、万太郎にも判るのでありました。ここで万太郎はそれにつけこむべきでありましょう。
 しかし万太郎の心持ちは、是路総士と云う高名なる武道家にそんな無用な煩いをさせて仕舞ったと云うところに、寧ろ申しわけなさを感じているのでありました。何の意図も秘策も用意していないくせに、自分如きがそう云う素ぶりを見せると云うのは、例え思わず知らずであったとしてもこれはもう生意気且つ不謹慎の極みと云うものであります。
 当然是路総士は、それがどのような心根に依っているのかは別にして、万太郎の逡巡をすぐに見て取るのでありましたし、それにつけこまない程甘くもないのでありました。是路総士は万太郎の木刀の鎬に自分の木刀の鎬をあわせて前進して来るのでありました。
 これは先に万太郎とあゆみの試合で、万太郎があゆみにジリジリとつめ寄った動きと同じなのでありました。万太郎は敗北の窮地に陥ったと云うわけであります。
 後は木刀を横に掃われて是路総士の一刀を頭上に受けるだけでありますが、是路総士が万太郎の木刀を掃おうとするそのほんの一瞬前に、何故か万太郎は是路総士の力の、真に入ろうとするその機が読めたのでありました。これは全く予期していなかった自分の反応でありましたが、一体全体自分はどうして仕舞ったのでありましょうや。
 万太郎は是路総士の力が自分の木刀に及ばんとするその刹那、切っ先を落としてその力を躱す事が出来たのでありました。いや全く、自分でも信じられない応動であります。
 万太郎は是路総士の正面が無防備になった一瞬を見逃さず、切っ先を突き出すのでありました。この突きは必ず当たるぞ、と万太郎は瞬間、興奮するのでありました。
 しかし一歩引きながら、往なされた木刀を小さく素早く回して万太郎の木刀にあわせて、是路総士は万太郎の突きを間一髪で防ぐのでありました。その後の是路総士の反撃も、万太郎の予測を遥かに超える、信じられないような素早さなのでありました。
 是路総士は刀身を寝せて万太郎の木刀の峰を滑走させ、万太郎の首にその切っ先をあっさり届けるのでありました。その剣勢に万太郎の喉仏が凍りつくのでありました。
「それまで!」
 鳥枝範士の大音声が道場中に響き渡るのでありました。
(続)

お前の番だ! 344 [お前の番だ! 12 創作]

「参りました。僕如きでは到底及ばないと云う事を痛感いたしました」
 万太郎は木刀を左手に納め、それを右手に持ち代えながら是路総士に一礼するのでありました。肩が僅かに上下するのは、無意識にずっと息をつめていたからでありましょう。
「いや、お前の剣は何とも読み難いところがあるなあ」
 是路総士は少なからず持て余したように嘆息するのでありました。
「押忍。申しわけありません」
「いや別に、謝るような類のものではないが」
 是路総士はそう云って見所の方に下がるのでありました。その背中にもう一度お辞儀してから、万太郎は何気なく下座の方を見るのでありました。
 そこには鳥枝範士と寄敷範士、それにあゆみと来間の他に、稽古前の道場仕事を終えた準内弟子の片倉と狭間とジョージのお顔も在るのでありました。準内弟子の三人は万太郎と是路総士の乱稽古に少なからず感奮を覚えたようで、万太郎に向けているその目の表情に、畏怖と驚嘆の色が浮いているのが認められるのでありました。
 余談ながらこの三人はそれ以降、頻りに万太郎に剣術の稽古をつけて貰うのを強請るようになるのでありました。勿論、来間もそのお強請り連中に加わるのでありました。
「さあ、未だ折野と試合っていないのは鳥枝さんだけだが?」
 是路総士は見所に座ってから鳥枝範士に向かって声をかけるのでありました。
「いや、ワシは折野との乱稽古は、ワシの権威を失墜させないためにも今日は止めておきましょう。ワシは今の折野程、総士先生を手古摺らせた経験は一遍もありませんからなあ」
 これはつまり、自分の不戦勝と云う事かなと万太郎は頭の隅で考えるのでありました。この鳥枝範士の言葉に万太郎は些かならず気分が良くなるのでありましたが、不謹慎の誹りを恐れて、それは極力顔の表面には表わさないように努めるのでありました。
 それにしても、些か程度は手古摺らせたとしても自分が未だ是路総士の剣の境地の、足元にも到達していない事を万太郎は遺漏なく思い知るのでありました。是路総士の剣の腕前は精進の賜物なのか、それとも天賦の才と呼ばれるものなのかは万太郎にはよく判らないのでありましたが、出来れば精進の賜物であって欲しいと願うのでありました。
「さて、そろそろ午前稽古の時間になりますから、この辺で打ち上げますか」
 是路総士が見所から立ち上がりながら云うのでありました。この偶さかの範士と内弟子の剣術稽古は、実のところ自分の剣の腕前を試されるための稽古のようであったと、一同打ち揃うて神前に座礼しながら万太郎は一人思うのでありました。

 興堂範士の葬儀は、真夜中にその外つ国での急逝の報に接した日より丁度十日経った日に、神保町の興堂派の本部道場で神式で執り行われるのでありました。その日に興堂派が稽古を中止したのは勿論でありましたが、調布の常勝流総本部道場も同流の巨星の堕つるを悼むために、臨時にその日の一切の稽古を取り止めるのでありました。
 あの世の興堂範士も、この娑婆における彼の人のための臨時の稽古休止を詰りはしないでありましょう。いや、或いは詰るかも知れないかと、万太郎はふと思うのでありました。
(続)

お前の番だ! 345 [お前の番だ! 12 創作]

 流輩の思いがけない淪滅と云う椿事よりも、稽古の絶対不断を興堂範士なら屹度尊ぶように思われるのでありました。興堂範士の生まれながらの茶目っ気やら、社交性やら世間の耳目を集める派手な行動やら、その多岐に渉る人脈やらから誤解される事も多かったでありましょうが、興堂範士とは実はそう云う人なのでありました。
 万太郎は興堂範士の亡骸が遠路神保町の道場に帰着した、葬儀より二日前の夜に、是路総士のお伴でその空しくなった姿に接するのでありました。道場に大がかりな神壇が設えられていて、その前に白絹の張られた棺が横たえられているのでありました。
「この度は思いもかけない事でした」
 是路総士は棺の小窓から興堂範士に対面した後、棺脇に座る興堂範士の長男殿と、その横で手持無沙汰そうに畏まっている威治教士の前に座して、お悔やみの言を述べるのでありました。万太郎は後ろに控えて、無言でお辞儀をするのでありました。
「態々お出でいただき有難うございます」
 長男殿は深刻そうな表情をして是路総士に深く頭を下げるのでありました。それに倣うように、少し遅れて威治教士も、長男殿よりは浅めに頭を下げるのでありました。
 是路総士は長男殿とは、此の人が子供であった頃からの見知った間柄なのでありました。長男殿も威治教士も昔は時折興堂範士に総本部道場に連れて来られたりして、稽古の後に是路総士や寄敷範士に遊んで貰った事もあったようでありました。
「今日は未だ葬儀の準備などもありましょうから、私の方はこれにてお暇します。ここまで色々と気苦労が重なっておられましょうが、どうぞくれぐれもお体をお厭いください」
 是路総士は長男殿に畳に両手をついて、もう一度丁寧な礼をするのでありました。
「有難うございます。総士先生、葬儀の時にはどうか宜しくお願い致します」
 そう云って答礼する長男殿の横で、威治教士は終始無言で一応は畏まった体裁を作っているのでありましたが、悲嘆に眩れていると云う風でもなく、余りの事に虚ろな心理状態になっていると云う感じでもなく、何やら、ただ単にこうして棺の傍に座っている事に、大いにげんなりしていると云った態であるように万太郎には見えるのでありました。
 威治教士は父親の死と云う現実を息子として、それに興堂派道場総帥の死と云う現実を道場長として、今一体どのように受け止めているのでありましょう。威治教士の顔からはその辺りの深刻さが、どうも決定的に欠落しているように見受けられるのでありました。
「稽古は今日から葬儀までの三日間、お休みするのかな?」
 是路総士は威治教士の方に顔を向けて訊くのでありました。
「ええ。それに葬儀の後、後片づけもあるのでもう一日休みます」
 威治教士は何故かおどおどとしながら返答するのでありました。
「ああそうですか。向後、道場が落ち着きを取り戻すまであれこれあるかも知れませんが、私で出来る事は何でも手伝います故、何なりと云ってくださいよ」
 是路総士のその言葉に、威治教士は竟出て仕舞ったと云うような追従笑いなぞを浮かべて、無言で愛想をしているのでありました。
「ではこれで失礼します。葬儀の日は一時間前に来ればよろしいですかな」
(続)

お前の番だ! 346 [お前の番だ! 12 創作]

「ご苦労をおかけしますが、よろしくお願い致します」
 長男殿が如何にも申しわけなさそうな顔で云うのでありました。
「いや何、・・・」
 是路総士が立ち上がったので万太郎も倣うのでありました。威治教士は是路総士の態々の足労を労うために玄関まで見送りに立つかと思いきや、そういう気配は一切なく、立ち上がった是路総士と目もあわさないのでありました。
 あゆみとの一件があるために何ともばつが悪いと云う事なのかも知れません。しかしそれにしても無神経だと万太郎は内心憤るのでありましたが、こう云う非常時にこそ、その者の人となりがはっきり表れると云うものでありましょうか。
 是路総士が立つのが目に入ったのか、葬儀社の社員と思しき者と打ちあわせをしていた花司馬筆頭教士が飛んで来るのでありました。
「総士先生、本日はご足労を頂きまして有難うございました」
 花司馬筆頭教士は憔悴したような顔を伏せるのでありました。興堂範士の亡骸の到着後、葬儀やその段取りの差配、それに各方面への連絡等で休む間もないのでありましょう。
「花司馬君も暫くあれこれと大変でしょうが、もう一働きをお願いします。私も何でも致しますし、ウチの者達もおおせがあればすぐにも手伝いに駆けつける用意があります」
 この是路総士の言葉は、取りようによっては葬儀を主導すべき威治教士がちっとも働かない事を、やんわり揶揄しているようにも聞こえるのでありましたが、まあそれは万太郎の読み過ぎでありましょう。是路総士はそんな婉曲な言辞は弄さない人でありますから。
「有難うございます。人手の方は足りると思います」
 勿論、花司馬筆頭教士もこんなところで是路総士に威治教士の怠惰ぶりを云い募るような、そんな弁えのない不謹慎な人ではないのでありました。
「ああそうですか。しかしどうぞ、何の遠慮も要りませんからな」
 二人は再度お辞儀を交わすのでありました。万太郎も是路総士の後ろから花司馬筆頭教士に礼をするのでありましたが、頭を起こした万太郎の顔をチラと見る花司馬筆頭教士の表情は、気の毒になるほど如何にも情けなさそうなのでありました。
 玄関では花司馬筆頭教士を始め、板場教士と内弟子の堂下善郎と、その他数名のこの場に居あわせている弟子や門下生連中が総出で是路総士を見送るのでありました。当然の事ながら、その見送りの輪の中に威治教士の顔はないのでありました。
 葬儀当日は総本部道場から是路総士以下主だった面々が、それから興堂範士と生前親交のあった書道の大岸先生も、それに万太郎と同期内弟子だった良平も一緒に参列するのでありました。是路総士は神檀真正面の親族や主たる会葬者の席に、鳥枝範士と寄敷範士、それに大岸先生はその後ろの故人と近しかった人達の席に、それからあゆみと万太郎、良平と来間はずっと後方の一般参列者の席で祭事の進行を見守るのでありました。
 是路総士の座っている席の周辺には、テレビ等で見知っている大物政治家の顔があるのでありました。それにこれもテレビや映画で見る著名な芸能人やスポーツ選手、その他にも万太郎でも知っている実業家や文化人の顔もちらほらと散見出来るのでありました。
(続)

お前の番だ! 347 [お前の番だ! 12 創作]

 興堂範士の人望と幅広い交友を物語る光景と云えるでありましょう。勿論、各流各派の武道関係者の顔も多く見られるのでありました。
 第一番目の真榊の奉納者は是路総士でありました。それから主だった会葬者が続き、真榊奉納の行列は引きも切らず続くのでありました。
 万太郎やあゆみ達は一般会葬者と同じに、後方の机の前で単に開手して興堂範士に別れを告げるのでありました。神壇に参った後は内弟子の堂下善郎に案内されて、普段は内弟子や門下生が合宿などする時に使われている隣りあった八畳間二つの、仕切りの襖を取り払った広間へと通されるのでありましたが、是路総士以下主たる会葬者は花司馬筆頭教士に案内されて、師範控えの間の方で料理などがふるまわれているのでありましょう。
「あゆみ先生、折野先生、それから皆さん、部屋の中に寿司と飲み物を用意しておりますので、こちらで少しおくつろぎください」
 案内役の堂下はそう云って掌を前に出して皆を部屋の中に誘うのでありました。「師範控えの間の総士先生が動かれたら、すぐにこちらにお知らせに参ります」
「堂下、お前も色々大変だったようだな」
「押忍。有難うございます」
 万太郎が労わりを述べると、堂下は目立たない笑みを頬に浮かべるのでありました。
 広間の中には専門稽古生の宇津利益雄が居るのでありました。この広間の取り仕切りを任されているようで、宇津利は万太郎達を認めるとすぐに近寄って来るのでありました。
「あゆみ先生、折野先生、こちらへどうぞ」
 宇津利は律義らしい物腰でお辞儀をした後、万太郎達を空いているテーブルに案内するのでありました。万太郎達はその案内の儘に四人でテーブルを囲むのでありました。
 部屋の中には興堂派の古い門弟達や地方の支部長クラスが屯しているのでありましたが、居心地悪そうに単座している男も何人か居るのでありました。これは恐らく各武道各流派の代表者のお伴で会葬について来て、その帰るのをここで待っているのでありましょう。
「おや折野先生、それにあゆみ先生、お久しぶりです」
 そう云ってテーブルに近づいてきたのは、興堂派の専門稽古生で既に顔見知りである目方吾利紀でありました。「おや、それに随分懐かしい顔もあるな」
 目方は良平の方を見ながら笑いかけるのでありました。
「ああこれは。確か、目方さん、でしたよね?」
 良平が座った儘でお辞儀するのでありました。
「おう、俺の名前を覚えていてくれたようだな」
 目方はそう云いながら良平の横にその巨体を並べて座すのでありました。「お前さんはもう、常勝流の内弟子は止めたのかな?」
「ええ。もう大分前に」
「今は、全く常勝流とは無関係なのかい?」
「いや、鳥枝建設の常勝流愛好会で細々と稽古していますよ」
「前は内弟子としてあれだけ武道をガンガンやっていたのに、勿体ないな」
(続)

お前の番だ! 348 [お前の番だ! 12 創作]

「良さんは今では、鳥枝建設の有能社員になって仕事の方をガンガンやっていますよ」
 万太郎が横から口を出すのでありました。丁度そこに、一旦傍を離れた宇津利が大きな寿司桶を持って、それに他の稽古生にビールを持たせてやって来るのでありました。
「どうぞごゆっくりと召し上がっていてください」
 宇津利は寿司桶をテーブルの真ん中に置くと、手際良く各人の前にグラスを配置してからビール瓶の栓を何本か景気良く抜くのでありました。
「ウチの道場も、これからどうなっていくのかねえ」
 寿司桶を囲む輪の中に目方もその儘居残って、手酌で注いだビールを一口飲んだ後に誰にともなく嘆息して見せるのでありました。
「当然、若先生や花司馬先生が後を引き継いでやっていかれるのでしょう?」
 横に座っている良平が顔を向けながら云うのでありました。
「まあそうだろうが、その花司馬先生と若先生の仲が、あんまり上手くいっていないからなあ。若先生はと云えばあんな風だし、・・・」
 そう云った後に目方は少し顔を顰めて、声を潜めるのでありました。「それを花司馬先生は苦々しく思っているようだが、遠慮があるのかそんなにはっきり諌める事もない」
「花司馬先生と若先生は、昔から仲睦まじいと云った感じではなかったですよねえ」
「花司馬先生の方が歳上だし筆頭教士なんだから、もう少しきっぱりと若先生の色んな良からぬ行状に苦言を呈しても構わないと思うんだが、興堂先生の息子さんに対して、なかなかそう云う事も出来かねると云うのは、まあ、判らないでもないんだけど」
 目方はビールを一気に空けるのでありました。
「若先生は、相変わらず、と云ったところですか?」
 空いた目方のグラスに良平がビールを注ぎ足すのでありました。
「そうだな。段々酷くなってきたとも云える。やる事なす事、決まって周りの人間にあれだけ不興を買う男も、珍しいと云えば全く珍しいね」
「そんなに、ですか?」
「本部の門下生や支部の連中でも、好評価をする者は一人もいないんじゃないか。いや尤も、そんな若先生を取り巻いてお追従を並べたりちやほやしたり、一緒になって感心出来ない真似を大威張りで仕出かすような奴原も、何人か居るには居るがね」
 話されている内容が内容だけに、万太郎は全く無関心ではないけれど話しには努めて加わらないのでありました。それはあゆみも同じでありましょうし、先のゴタゴタがあったから尚更、あゆみとしては云いたい事はあれこれ沢山あるとしても、威治教士の人物評めいた話しには、弁えからも、なるべく加わりたくはないと云うところでありましょうか。
「花司馬先生だけではなく、板場さんも、堂下君とかのごく内輪の人間も、あそこでお客さんに愛想をふり撒いて接待している、準内輪、とも云うべき宇津利なんかも、それに心ある財団の理事さん達も、若先生の事を決して良くは思っていないだろうな」
 目方はビールで口が多少軽くなったのか、未だ威治教士の不評ぶりを云い募るのでありました。目片なりに相当腹に据えかねているところがあるのでありましょう。
(続)

お前の番だ! 349 [お前の番だ! 12 創作]

「こう云っては何ですが、確かに若先生には道分先生程の人望はなさそうですね」
 良平が何となく、もっと目方の憤懣の言葉を誘引しようとしてか、焚きつけるような相槌を打つのでありました。良平の魂胆としては目方に更に物語らせて、興堂派のこれからの推移の一端を探ろうとしているような、そんな節が見受けられるのでありました。
「今次の事だって、若先生は最初ハワイに行くのを尻ごみしていたんだよ。それを財団の理事や長男さんや花司馬先生に諌められて、ようやく重い腰を上げたんだから」
「自分の父親が亡くなったと云うのに、ですか?」
「ハワイには長男さんだけが行けば、それで足るだろうと云う了見だったらしい」
「そりゃあ、事務的にはそれでも大丈夫でしょうが、しかしそれじゃあ、・・・」
「そうだろう、普通はそう考えるだろう?」
 目方は良平の顔を指差すのでありましたが、これは良平の今の言葉に我が意を得たり、と云う気持ちを強調するための修飾的は仕草でありました。「しかし若先生の心根は違うんだなこれが。兎に角自分の都合が最優先事項だから、そう云った不慮の七面倒臭い仕事や、意ならぬ拘束を、ほんの少しでも押しつけられるのが何よりも嫌なんだろうな」
「しかし、事が事ですしねえ。・・・」
「自分の親が亡くなったんだぜ。取るものも取り敢えずその父親の亡骸の下に駆けつけようとするのが、普通の心理だよな。でも、若先生はそうではないんだな」
「まるで子供のようですね、そう云う心性は」
「子供だって、先ずはどうする事が一番大切かは、簡単に判るってものだ」
「ま、そうですかね」
 良平は呆れたような表情をして見せるのでありました。
「そりゃあ観光旅行とか向こうの支部に呼ばれて門弟達に持て囃されるとか、下へも置かない好待遇が待っているなら、何を差し置いてもおいそれと行くだろうよ。しかし自分の意に染まない小難しい用件となると、どんな重大な事でもぐずぐずと行き渋るわけだ」
「でも結局、行かないわけにはいかないでしょう。武道関連の事態でもありますから」
「こっちで葬儀の手配とか関係筋への連絡とかを自分がやるから、兄貴だけで行ってくれ、なんて一見尤もらしい云いわけを並べたようだけど、そう云う事は俺がやるから何よりも一番近しい身内として取るべき態度を取れ、なんて花司馬先生に怒られたようだ」
 目方はそこで苦ったような笑いを作るのでありました。「理事連中にも、息子としての務めを果たせ、なんて諄々と説得されて、それじゃあ仕方がないと云った感じで長男さんについて行ったんだ。どうせこっちに残っても面倒な仕事は全部花司馬先生に押しつけるだけだったろうし、向こうでも長男さんに総て任せきりで役には立たなかっただろうけどな」
 指導者であると云うのに、ここまで門下生に忌まれる先生も珍しかろうと万太郎は思うのでありました。また、不謹慎と謗られるのも厭わずに、そう云う事情を道場の外の者に対して披歴し愚痴を零す目方も、我慢出来ないくらい情けなく思ったのでありましょう。
「この先、興堂派は大丈夫なんでしょうかね?」
 良平が憂え顔を目方に向けるのでありました。
(続)

お前の番だ! 350 [お前の番だ! 12 創作]

「財団の理事会次第だな。理事会で若先生ではなく花司馬先生を前面に押し立てて、これから先の興堂派の体制を整えようと決すれば、まあ多少の混乱とかゴタゴタはあるだろうけど、一先ずは早い段階で落ち着くところに落ち着くだろう。しかし若先生を派の中心に据えようとするなら、支部の離反やら門弟の急激な減少とか云った事が起こるだろうな」
「もう、ひょっとしてそんな兆候があるのですか?」
「あるね。門下生の中にも若先生が興堂派の長になるんなら辞める、とか云う者も前から多かったし。俺だってそうなれば、先ず間違いなく愛想尽かしするよ」
 良平は目方の言を聞いて深刻そうな顔で腕組みするのでありました。
「まあ、それだけ道分先生が偉大だったと云う事でしょうね」
「それは間違いない。俺だって道分先生に憧れて、ここに入門したんだからなあ」
 目方はそう云って何度か頷いてからビールを空けるのでありました。
「総士先生がお帰りになります」
 堂下が広間に入って来て、万太郎達に告げるのでありました。
「判った。すぐに行く」
 万太郎はそう返事して直ちに立つのでありました。あゆみも来間も良平も、それに続いて腰を上げるのでありました。
「じゃあ目片さん、また何れ」
 万太郎はやや遅れて立った目方に立礼するのでありました。
「今日はご苦労様でした」
 目方は目礼を返すのでありました。その目がどことなく頼りなさそうであるのは、酔いのためか、或いは興堂派の将来に対する不安故かは俄かには判別出来ないのでありました。
 是路総士と寄敷範士はタクシーで帰路につくのでありました。鳥枝範士は葬儀で偶々一緒になった興堂派の財団の理事と少し寄り道をするのだそうでありますが、この理事は鳥枝範士の本業での知りあいで、或る金属加工会社の社長をしている人でありました。
 あゆみが是路総士達のタクシーに同乗して帰ったので、残った万太郎と来間は御茶ノ水駅から電車で調布の仙川まで帰るのでありました。良平は、この後特段の用もないし久しぶりに総本部にお邪魔しよう、等と云って一緒の電車に乗るのでありました。
「興堂派の若先生は、一体どういう神経をしているんだろうかね」
 吊革につかまって良平が横に立つ万太郎に話しかけるのでありました。「帰り際に挨拶に行った時、長男さんの後ろで俺達にお辞儀もしないで、何か妙に引き攣った顔であゆみさんの横顔ばっかり見ていたけど、あれは一体どういう事なんだろうな」
「確かに僕等にお辞儀しないのは僕も判っていましたけど、あゆみさんばかりを見ていたと云うのは、僕はちっとも気づきませんでしたね」
「あゆみ先生の方をじっと見ていたのは、僕も判っていましたよ」
 来間が頷くのでありました。「そいで以って、あゆみ先生と目があいそうになると、おどおどと慌てて視線を逸らしたりされていました」
 あゆみと威治教士の事を来間は概知でありましたが、良平は知らないのでありました。
(続)

お前の番だ! 351 [お前の番だ! 12 創作]

「実は竟この間の事なんですけど、・・・」
 万太郎は他ならぬ良平になら話しても大丈夫であろうと独断して、先にあったあゆみと威治教士の縁談話しの件をあらまし語って聞かせるのでありました。良平は万太郎の話しをさもありなん、と云った表情で黙って聞いているのでありました。
「よくもまあ、そんな話しを抜けぬけと持って来れたものだよなあ」
 良平は聞き終わってから如何にも呆れ果てたような声を出すのでありました。これは勿論、直接その縁談話しを切り出した興堂範士を詰っているのではなく、それを自分の父親に依頼した威治教士の抜けぬけしさとあざとさを論っているのでありました。
「あゆみさんに好かれていないのは、本人も気づいていても良い筈ですしね」
 万太郎も応じるのでありました。
「その辺の鈍感さと云うのかしれっとしたところと云うのか、それも勿論だが、とかく若先生には良からぬ男女関係の噂がつき纏っているんだから、それを当然あゆみさんも知っているだろう事を承知で、平然と結婚を申しこむ辺り、図々しいにも程がある」
 良平は吐き捨てるような云い草をするのでありました。「道分先生の威さえ借りれば、何でも思う事が成就するとでも考えているのかねえ」
「まあ持って行く先が、常勝流の総帥であり道分先生の兄弟子たる総士先生なのですから、威を借りる、というわけにはいかないくらいは判るでしょうが」
「それはそうだ。しかし道分先生の高徳の裏に己の薄徳を隠そうとするちびた魂胆には違いないだろう。その辺が如何にもあざといと云うんだよ、俺は」
「総士先生が病院から退院してこられて、未だ稽古にお出になられなかった時、若先生は頻繁に総本部にいらっしゃって、一般門下生稽古に参加されていましたが、あれはあゆみ先生の気を引こうと懸命だったんですねえ、今にして思えば」
 来間が話しに入って来るのでありました。今頃そんな事に気づいたのかと、万太郎は来間の迂闊さ加減に少し驚くのでありました。
「それもそうだし、あゆみさんとの結婚話しが纏まりでもすれば、ひょっとしたら将来、自分が常勝流の総帥になるかも知れないと勝手に臆断して、その時のために総本部の門下生達に、自分の偉大さを誇示しておこうと云う風な意図もあっただろうし」
 万太郎は車窓の外に目を向けた儘で云うのでありました。
「ああ成程、そうですね。しかしそれは成就しませんでしたよね。結局門下生達に総好かんを食って、有耶無耶のうちに竟にお出でにならなくなって仕舞いましたから」
「そうだな」
 万太郎は来間の方に目を遣って目尻に笑いを湛えるのでありました。
「ま、やる事為す事、全部が幼稚と云うのか浅はかと云うのか、最後には皆に呆れられて、始末もつかなくなって遁ずらするのは、あの人の何時もの結末だな」
 良平が嘲弄するような云い草をするのでありました。
「それも、どういう了見か大威張りで遁ずらしますから、こっちはまごつくばかりです」
 万太郎がそう云うと、良平は万太郎の顔を覗きこむのでありました。
(続)

お前の番だ! 352 [お前の番だ! 12 創作]

「ほう、普段はあんまり人の事をとやこう云わない万さんが、結構辛辣な皮肉を云うな」
「僕だって、実際、ほとほと呆れていますからね。今日だって、あゆみさんとの先達ての経緯は、それはまあそれとして、自分の父親であり興堂派の総帥の大事な葬儀の日だと云うのに、会葬に来た総士先生や鳥枝先生、それに寄敷先生にお礼の言葉も、今後の誼や引き立てを願う気持ちも表わさないで、あゆみさんの姿ばかりに気を回していると云う事ですから、これはもう若先生と云う人の脳みその出来具合までも、竟疑ってしましますよね」
 万太郎がそう云い終ると、意外にも何やら妙な間が空くのでありました。これは万太郎の予想の外でありましたが、自分でも気づかずに今何かとんでもない事でも口走ったかしらと万太郎は少し不安になって、横に立つ良平の方に顔を向けるのでありました。
「こうして見てみると、万さんはあゆみさん絡みになると、嫌にエキサイトするねえ」
 良平が少し引いた口調で云うのでありました。自分がエキサイトした様子で、今の言を吐いたと云う風に良平には見えたようであります。
 そんな心算は更々ないのでありましたから、万太郎はまごつくのでありました。来間にもそう聞こえたろうかと思ってそっちの方を見ると、来間は何となく遠慮がちにそっぽを向いて、万太郎と故意に目をあわさないのでありました。

 興堂範士の葬儀の日から一か月程が過ぎた頃、興堂派の花司馬筆頭教士が一人で調布の総本部道場を訪ねて来るのでありました。特段の用はないけれど、久しぶりに総士先生に稽古をつけて貰いたいと云うのが表向きの理由でありました。
 花司馬筆頭教士は是路総士の専門稽古と、万太郎が中心指導をする一般門下生稽古に参加するのでありました。万太郎としては自分が中心指導をする稽古に、常勝流の先輩で興堂派の筆頭教士が混じると云うのは、何やら畏れ多いような勿体ないような気分がするのでありましたが、花司馬筆頭教士の方は特段の拘りは何もないようでありました。
 前に威治教士が一般門下生稽古に参加した時にも、当初は同じような気分がしたのでありましたが、あの時には威治教士が一般門下生を相手に何をやらかすか知れないとか、万太郎を端から無礼て、無神経に稽古の厳粛さを台なしにしはしないかと云う警戒の方が先に立って緊張したのでありました。しかし花司馬筆頭教士の場合は、自分如きの稽古に参加して満足してくれるだろうかと云う、別の意味での緊張感が先ずあるのでありました。
 花司馬筆頭教士は流石に弁えた人で、稽古中は真剣な面持ちを崩さず、あくまでも万太郎を立てて、その指示や指導に一切邪魔を入れないのでありました。寧ろ謙虚に、興堂派の稽古のやり方や微妙な技の違いなんかを持ち出さないように気を遣って、総本部道場での一般門下生との稽古に意欲的に溶けこもうとしている風情さえ見られるのでありました。
 相手に組形の上で何か質問されても、自分のやり方は別かも知れないからと態々万太郎を呼び止めて、万太郎に指導を仰ぐのでありました。ここら辺りが威治教士と人間の出来が違うところで、花司馬筆頭教士の律義さとか篤実さの表れと云うものでありましょう。
 ただ、万太郎は花司馬筆頭教士の稽古姿を見ていて、一点気になるところがあるのでありました。それは何やら動きに、焦れ、若しくは、逸り、があるところでありました。
(続)

お前の番だ! 353 [お前の番だ! 12 創作]

 何時もの花司馬筆頭教士なら、相手と自分の動きを充分冷静に見て、ここぞと云う絶妙のタイミングで技を仕かけるのでありましたが、その日はそのタイミングをどうにも待ちきれないで、気忙しく技を繰り出そうとしているように見受けられるのでありました。この、焦れ、若しくは、逸り、は相手の先を取るためのある種の駆け引きとか云うものではなくて、何やら気持ちの荒れとか、そう云った内的、自発的なものが原因でそんな印象を醸し出しているのではないかと、万太郎は気配として感じて仕舞ったのでありました。
 興堂範士の死去から間もないので、その筆頭弟子であった花司馬筆頭教士としては気持ちの整理とか切り替えとかが、未だ上手くつかないためであろうかと万太郎は伺察するのでありました。或いは興堂範士亡き後の興堂派道場の運営に関する何やらのストレスがあるのかも知れませんし、それも無理からぬ事かとも万太郎には思われるのであります。
「いやあ、久しぶりに良い稽古が出来ました」
 稽古後に師範控えの間に招き入れられた花司馬筆頭教士は、是路総士に両手をついて如何にも律義そうに座礼するのでありました。
「相変わらずの溌剌とした動きを今日見て、まあ、安心しましたよ」
 是路総士は優しげに笑いかけるのでありました。
「色々ご心配をおかけして申しわけありません」
 この花司馬筆頭教士の言は、何か具体的な案件に関してそんな恐縮をして見せたと云う事ではなくて、興堂範士の死去以来、あれこれ興堂派を気にかけてくれている是路総士への総括り的な謝意として発言されたものでありましょう。
「いや何、私は特段」
 是路総士はそう云ってまた笑むのでありました。
「折野君、今日の稽古に参加させて貰って、改めて自分も勉強になったよ」
 花司馬筆頭教士は、今度はここまで自分を案内して来て座敷の障子戸を背に控えている万太郎に向かってお辞儀するのでありました。
「花司馬先生がいらっしゃると下手な事は出来ないと、こちらが緊張して仕舞いました」
 万太郎はしかつめ顔でそう云って頭を下げ返すのでありました。
「いやいや、技の勘所の、懇切でいて過度にもならない実に要領を得た説明とか、聞いていて大いに感じ入ったよ。大したものだ。」
「押忍。恐縮です。花司馬先生のそのお言葉を糧とさせていただきます」
 万太郎はもう一度深く、謝意を示すお辞儀をするのでありました。
「この折野は、指導中の話術がなかなか巧みでね、稽古生の気を逸らさないような、それでいて別に阿ているわけでもなく、無用に緊張させるでもなく、しかも稽古生のちょっとした勘所の発見なんかも誘発するような、何と云うのか、稽古が実に楽しくなるような上手い指導をするのですよ。今までに当流にはいなかった指導者のタイプですかな」
 是路総士のこの言葉に万太郎は畏まって身を縮めるしかないのでありました。
「今日の一般門下生稽古に参加させていただいて、良く判りました。自分なんかの今までやっていた指導が如何に無愛想で粗雑だったかと、改めて思い知らされましたよ」
(続)

お前の番だ! 354 [お前の番だ! 12 創作]

 花司馬筆頭教士の言葉に万太郎の身が益々縮むのでありました。
「さて、どうですかな、最近の道場の様子は?」
 是路総士が話頭を変えるのでありました。万太郎はやや背筋を伸ばすのでありました。
「ええ。ようやく多少は落ち着きましたでしょうか。しかし一応今のところ、前の稽古時間の儘でやっているのですが、道分先生がいらっしゃらないと、矢張り何となく稽古が空疎な感じが致します。門下生達も、もう一つ前みたいな気持ちの張りがないような」
「まあそれは、今は仕方がないでしょうな。しかし時間が解決してくれるでしょうよ」
「そうであれば良いのですが」
 花司馬筆頭教士は自信がなさそうに云うのでありました。
「長く道場をやっていると、竹に節があるように代わり目が時々やって来ます。その時は色々まごつくのですが、暫く時間が経てば何となく落ち着くところに落ち着きます」
「大局的には総士先生のおっしゃる通りなのでしょうが、自分としては落ち着き処に落ち着く日が、未だこれから先当分はやって来ないような、そんな気がしております」
「屹度、過ぎて仕舞えば、・・・みたいな風にその内なりますよ、その内に」
「激励のお言葉、痛み入ります。しかし自分としては実は、その落ち着き処、と云うのが今一つ明確に像として掴みきれなくもあります」
 花司馬筆頭教士は深刻そうな表情で目を伏せるのでありました。
「つまり、これから先の道場の体制をどう持っていくのかが、未だ曖昧な儘だと?」
「道分先生は前から、技術は花司馬で運営は威治、なんとおっしゃっておられましたが、なかなかそう云う分担が上手くいかないところもありますし、私にしても興堂派の技術を任されるだけの技量が、今だに充分足りているとは自分でも思えませんし」
「技術は花司馬で運営は威治、というのは私も前に道分さんから伺った事があります」
 是路総士はそう云って頷くのでありました。「道分さんがそうおっしゃるからには、しっかりとした根拠がそこにあったからですよ。私が見ても今の興堂派を技術面で引っ張って行けるのは、花司馬さん、貴方以外には見当たらないと思いますよ」
「大変有難いお言葉に感謝申し上げます。しかし自分には道分先生程に門下生や財団関係者の心服を得るだけの、体術と剣術の技量は勿論、人望も名徳も全くありませんし」
「それはこれからの貴方の精進次第でしょうよ。なあに、大丈夫ですよ」
 是路総士はそう力強く云い募るのでありました。
「総士先生のご期待に添いたいのは山々ですが、心許ないと云うのが正直なところです」
 花司馬筆頭教士はその後口を噤んで項垂れるのでありました。
「私も、興堂派のこれからに対して出来るだけの後見はいたす所存です」
「技術と云う面においても、興堂派のこれからと云うところでも、自分としては出来る限りの努力はいたす心算です。ここが踏ん張りどころだとは、自分もちゃんと判っています。総士先生、どうかご助力を、よろしくお願い致します」
 花司馬筆頭教士は項垂れた頭を更に下げてお辞儀をするのでありました。それは今までに万太郎が見た事のないような、如何にも儚げな彼の人の物腰でありました。
(続)

お前の番だ! 355 [お前の番だ! 12 創作]

 この是路総士と花司馬筆頭教士の会話の中には、故意に威治教士の存在には触れないようにしている面があると万太郎は気づくのでありました。花司馬筆頭教士が懸命に興堂派の存続に尽力しようとしても、威治教士の存在が何かにつけて障害となっているのではないかとは、万太郎にも容易に推察出来るのでありましたし、是路総士にしても気色には表わさないとしても、その点に関して大いに懸念を抱いているでありましょうし。
 しかしまあ二人共、この場に居ない者をここで論うのは潔くないと憚って、態と口の端にその人の名前を上せないと云う事なのでありましょうか。その威治教士その人はこの後の成り行きを、一体どのように導こうと目論んでいるのでありましょうや。
「何やら繰り言ばかりを述べて、申しわけありません」
 花司馬筆頭教士が是路総士に頭を下げるのでありました。
「いやいや、何かと思い余る事もありましょうからな」
「また近い内に、あれこれご相談方々、稽古をつけていただきに上がります」
「何時でもいらっしゃい。歓迎いたしますよ」
「有難うございます。総士先生のお言葉に遠慮もなく甘えさせていただきます」
 花司馬筆頭教士はそう云ってまたも深いお辞儀をして帰って行くのでありました。万太郎は来間と一緒に、家の門まで見送りに出るのでありました。
 考えてみれば興堂派の稽古がある日だと云うのに、その筆頭教士がこんなに長い時間道場を留守にするのは如何にも訝しい事だと、万太郎は花司馬筆頭教士が仙川駅の方に去っていく後ろ姿を眺めながら考えるのでありました。興堂範士亡き後でありますから、花司馬筆頭教士は興堂派本部や支部の稽古に忙殺されていて然るべきではありませんか。
 これは何やら花司馬筆頭教士の身の上に、余程不利益な事が起こっているのではないでありましょうや。万太郎がそんな事を心配しながら暫く門前にぼんやり佇んでいると、出張指導から帰って来るあゆみの姿が道路の前方に認められるのでありました。
「万ちゃんどうしたの、こんなところに立って?」
 あゆみは片手を上げて万太郎に笑みを送りながら近づくのでありました。
「興堂派の花司馬先生がお見えになって、今帰られたのでそのお見送りです」
「花司馬先生がいらしていたの?」
 あゆみは後ろをふり返るのでありましたが、もうその時には花司馬筆頭教士の姿は視界の中から消えて仕舞っているのでありました。
「専門稽古と一般門下生稽古に参加されました」
「へえ、そう。稽古にいらしたの?」
 あゆみは顔を万太郎の方に戻して云うのでありました。
「ま、そうですね。道の何処かですれ違いませんでしたか?」
「ううん。あたしちょっと商店街の方で買い物をしていたから」
 あゆみは片手に持ったスーパーの紙袋を万太郎に掲げて見せるのでありました。
「ああ、僕が持ちます」
 万太郎は姉弟子の方に向かって両手を差し出すのでありました。
(続)

お前の番だ! 356 [お前の番だ! 12 創作]

 夕食後に万太郎は師範控えの間に戻った是路総士に呼ばれるのでありました。万太郎はコーヒーを来間に淹れて貰って、それを持って控えの間の方に向かうのでありました。
「押忍。失礼いたします」
 万太郎は座礼して膝行で座敷の中に入るのでありました。
「折野、今日の花司馬君の様子をどう思ったか?」
 是路総士はコーヒーを一口飲んで訊くのでありました。
「押忍。何となく、お元気がないような感じでした」
「ひょっとしたら目的は稽古じゃなくて、何か大事な相談があったのかも知れんな」
「そうですね。そのような気配を僕も感じました」
 万太郎は一つ頷くのでありました。
「しかし特段の具体的な話しは、何もしてはいかなかったなあ」
「結構重い相談事なので、気後れして結局云いそびれて仕舞われたのかも知れません」
「興堂派に関して、お前の方で何か噂のような事でも聞いてはないか?」
 是路総士はまたコーヒーを一口飲むのでありました。
「いや、特には」
「向こうの門弟の堂下君とかから、お前の方に何か云ってきたりもしないか?」
「いやあ、何も。道分先生の葬儀以来、逢っていませんから」
「ああそうか」
 是路総士は、今度は立て続けに二口コーヒーを飲むのでありました。
「何か小難しい問題でも起こっているのでしょうか?」
「さあ、どうだろうな」
「鳥枝先生なら向こうの財団理事の方にお知りあいがいらっしゃるようですから、何かご存知なのではないでしょうか?」
「そうだな。今度訊いてみる事にしよう。今日の花司馬君の様子を見ていたら、何事かが起こっているような気がして、急に心配になってきた」
「考えられる可能性として、内紛、のような事態が起こっているのでしょうか?」
 そう云った後に、そんな立ち入った詮索は不躾かと万太郎は思うのでありました。しかし是路総士はこの万太郎の不謹慎な言辞を叱る事もなく、寧ろ何か考えるところがあるかのように、しかつめ顔で一度頷づいて見せるのでありました。
「まあ、そんなような事が何もないのなら、別に良いのだが」
「総士先生は若先生の後見役と云う事ですから、何か問題が持ち上がったら、真っ先に相談があって然るべきでしょうけどね。一応建前の上では」
「まあ、儀礼的にしろそう云うお役目を向うの財団の会長からおおせつかってはいるが、実際は財団の理事会の意見がそれよりは優先、と云う事になろうよ」
 威治教士としても是路総士が後見役である事を、そんなに喜んではいないでありましょう。自分よりも遥かに格上で、しかも人間のタイプとして苦手にしている是路総士にあれこれ相談を持ちかけるのは、出来れば平に遠慮しておきたいところでありましょうから。
(続)

お前の番だ! 357 [お前の番だ! 12 創作]

 直近の鳥枝範士が総本部の中心指導を担当する日に、是路総士は早速稽古後にその気がかりを彼の人に質してみるのでありました。その場には万太郎とあゆみも呼ばれて、四人で夕食を師範控えの間で摂りながらの相談となるのでありました。
「ワシの知りあいの向こうの理事の話しですがね」
 鳥枝範士はそう前置きして話し始めるのでありました。「威治のヤツが会長を後ろ盾にして、興堂派筆頭範士の座に就こうとしているようですな」
「筆頭範士、ですか?」
 その聞き慣れない呼称に是路総士は箸の動きを止めるのでありました。
「そうです。教士、筆頭教士、範士、筆頭範士、という序列を考えているようですな」
「すると道分さんが範士だったから、威治君はそれより上になると云う事になりますか」
 是路総士は少し皮肉めいた口調で云って笑うのでありました。
「道分先生が亡くなったら早速、無神経にもそう云う不謹慎を働こうとしているわけです。要するに花司馬を範士に格上げして、しかし自分はその上の地位になる魂胆です」
「威治君は今、役職として道場長と云う肩書ですかなあ」
「まあ、代が替わって、人心一新、新規蒔き直し、とか云った心算なのでしょうな」
「花司馬先生は筆頭教士から範士になられるのですか?」
 万太郎が訊くのでありました。
「そうだな。格式は一つ上がるが、しかし威治の方は三段跳びで、結局のところは一挙に花司馬の上に立つことになる算段だ。威治は花司馬に、さも恩を施したような気分でいるようだが、何とも虫の良い、手前味噌なご都合主義と云う他ないなこれは」
「それでは若先生よりも長く道分先生に仕えて、興堂派のために尽力してきた花司馬先生の、立つ瀬がないと云うものではありませんか。要するに若先生には矢張り、自分が興堂派のオーナーだと云う意識がおありなのでしょうかね?」
「そうだろうな。常勝流武道興堂派と云う流派は道分家のもの、と云う勘違いだろうな。実はちゃんとした、御上の許可した財団法人と云う公益事業組織なんだけどな」
 それはこの総本部道場に於いても当て嵌まる規定であろうと、万太郎はふと余計な事を考えるのでありました。しかしそんな事を徒に今ここで云い出して、話しをややこしくする気は毛頭ないものだから、それはあっさりと頭の隅に退けるのでありました。
 ただ、興堂派が一子相伝を旨とする、宗家、と云う地位を、是路総士を憚って設けなかったと云う違いがあるだけで、威治教士が自分を実質の宗家と思いなすのも宜なるかなと云うところでもありますか。いやまあ、それはさて置き。・・・
「向こうの会長さんは、どう云うお考えを持っていらっしゃるのでしょうかな?」
 是路総士が話しを進めるのでありました。
「まあ、威治を盛り立ててやって行こうと云う考えのようですな」
 鳥枝範士はそう云って苦った顔をして俯くのでありました。
「理事会の方でもそう云う意見に纏まっているのでしょうかな?」
「それが、そこのところですがねえ、・・・」
(続)

お前の番だ! 358 [お前の番だ! 12 創作]

 鳥枝範士はそこで顔を起こすのでありました。「古い理事はこの際威治ではなく、花司馬を中心にしてやっていきたいと云う意向のようですが、会長が、どうしても血筋を大事にすべきだと云う考えで、威治が後を継ぐのが正統だと強力に推しているようです」
「理事会の意志は、原則多数決で決まるのでしょう?」
「そうなのですが、この会長がなかなか強硬に威治後継論を取り下げないようで」
「会長さんは、確か保守の元国会議員でしたね?」
「そうです。今は慈善団体やら、色んな非営利法人なんかの会長や顧問やらの肩書ですかな。一説によると自分の地元の県政に深く絡んでいて、保守系県議の陰のボスのような存在らしくて、例えば公共工事等の利権を取り仕切るとか、人事にも口出しして県政を裏で牛耳ろうと云う野心があるとか。国会議員の頃は、寝業師、なんと云う渾名がありましたか。金絡みで色んな疑惑が取り沙汰されましたが、尻尾は竟に掴ませなかったようです」
 その会長が、何とも胡散臭い曲者である事を鳥枝範士は強調したいようでありました。
「接した感じは特にそんな風でもないですがね。まあ、どうしたものか目が何時も笑っていないから、心根の知れない人だと云う印象はありましたが」
「道分先生の中学校の上級生に当たる人で、国会議員時代に向こうから接近して来て、まあ、色々興堂派に奉仕してくれたので会長職に二年前から就いたと云う人です」
「道分さんは悪人善人とか癖の有るなしを問題にしないで、近づいてくる者は拒まずと云った姿勢でしたからねえ。それが道分さんの人間の大きさでもありましたし。いやまあ、その会長が、別に悪人とか癖の有る人とか云うつもりは毛頭ないのですが」
 是路総士は顔の前でゆっくり掌を横にふって見せるのでありました。
「総士先生は以前に興堂派の顧問をされていましたから、あの会長の人となりなんぞを良くご存じなのではないですか?」
「私が顧問をしていたのはもう随分昔の事です。私が顧問として何時までも関わっていると、折角の独立流派である興堂派の発展の障害になるだろうと云うので、退かさせていただいたのですが、その頃はあの会長さんは理事でも顧問でもありませんでしたよ。未だ道分さんとあの会長さんの交流が始まる前、と云う時期になるのでしょうね」
 ここで是路総士は言葉を切って、それからまた話しを始めるでありました。「あの会長さんとはこの前の葬儀の時もですが、向こうの演武会だとか、正月や折々のパーティーとかで偶にお会いする程度でしたか。その折は、愛想程度の言葉は交わしてはおりました」
「あんまり親しく交わったと云うのではないと云う事ですか?」
「道分さんが私を、あにさん、と云って終始立てるのを、あの人はあんまり好ましく思っていなかったような風でしたな。そう云う態度だから興堂派が何時まで経っても総本部の風下に立ち続ける事になる、という具合に思われていたのかも知れません。まあ、それでも道分さんの私に対する律義な態度は、終生何も変わらなかったのですがね」
「総士先生と道分先生の間柄は、あの会長と道分先生のそれよりも遥かに濃くて長いでしょうからね。それに何かの利で以って結びついているのではなくて、総士先生と道分先生は実の兄弟のようでもあり、互いを高めあう宿縁のライバルのようでもありましたから」
(続)

お前の番だ! 359 [お前の番だ! 12 創作]

「他の理事さん達の意向は、如何なところにあるのでしょうかね?」
 是路総士は話頭を少し曲げるのでありました。
「会長の意見に雷同、若しくは不承々々ながらも従おうとする連中が半ば強、威治じゃ絶対いかんという連中が半ば弱、と云ったところでしょうかね。私の知りあいなんぞは、威治が後継者になるのなら理事を辞める、と云って憤慨していました。威治じゃとても興堂派の所帯を保ってはいけないし、道分先生の武道が廃れてしまうと云う考えのようですな」
「あの道分さんの後を継ぐ人は、誰であろうとそれは大変でしょうね」
「確かにその通りではありますなあ」
 鳥枝範士はそう云って頷くのでありました。それだけ武道家としても、魅力的な人柄と云う点に於いても、興堂範士は傑出していたと云う事でありましょう。
「そう云うわけなら、花司馬君も立場上色々思い煩う事が多いでしょうな」
「威治を後継とする意見の方が、徐々に勢いは増しているようですからね。それに威治にすれば花司馬は目の上の瘤、と云った存在でしょうから」
「この前ウチにやって来たのは、稽古よりも、屹度その辺を相談したかったのでしょうね。まあ、云いそびれて帰って仕舞いましたが、考えたら気の毒をしましたかな」
 是路総士は縦皺を作った眉根を上げて申しわけなさそうな表情をするのでありました。
「ワシ等は結局見守るしかありません。会長と威治と半数以上の理事が、花司馬本人と花司馬を支持ずる理事連中にあれこれ圧力をかけて、自分等の了見を押し通そうとしている、と云った図式のようですから、花司馬としてはげんなりと云うところでしょうか」
「花司馬君本人は、自分が中心になって組織を纏めると云う気はないのでしょうかね?」
「推されればそうするでしょうが、自ら進んでそう云う意志は表さないでしょう。彼奴はどちらかと云うとトップに立って組織を引っ張ると云うタイプではなく、番頭格の役回りの方が性にあっているようですからなあ。剛腕、と云うイメージもないですから」
「威治君がトップに立ったとしても、花司馬君なら屹度自分の分限や役回りをちゃんと弁えて、それなりに興堂派のために尽力するでしょうがねえ。あの人は篤実な人だから」
「しかし先に云いましたように、威治にとって花司馬は目の上の瘤ですから、威治の方が花司馬の心胆や態度以前の、その存在自体を、只管疎んで止まないでしょうから」
 是路総士と鳥枝範士の話しを聞きながら、花司馬筆頭教士は全く以って立つ瀬のない位置に立たされているのだと万太郎は同情するのでありました。しかも興堂範士の不慮の死と云う、花司馬筆頭教士が自ら招いたわけではない事件に依って。
 万太郎の横に座っているあゆみも、遣る瀬ない顔で話しを聞いているのでありました。あゆみの場合、威治教士とは後味の良くない因縁もありましたから、花司馬筆頭教士の今度の回りあわせへの同情は、万太郎よりも深いかも知れないと云うものでありましょう。
「私は一応、威治君の後見を、まあ愛想程度の気持ちからかも知れませんが、あの会長さんに頼まれたと云う経緯がありますから、一度神保町に出向いてみましょうかな」
「いや、寧ろ有らぬ疑念を持たれても叶いませんから、止しておいた方が無難でしょう」
 鳥枝範士は是路総士の顔の前に掌を掲げて見せるのでありました。
(続)

お前の番だ! 360 [お前の番だ! 12 創作]

「ああそうですか。私は出ない方が無難ですか」
「威治だけならヤツの魂胆を封殺するのは造作もないでしょうが、裏に、と云うか、寧ろ表に、政界の寝業師と云われたヤツが会長としてついていますからなあ。相手の好意や善意を、自分の都合の良いように巧みに利用するのは彼奴の得意技でしょうからね」
「私ではとても太刀打ち出来ないと云うところですかな」
 是路総士は微かに頬を笑いに動かすのでありました。
「そもそも常勝流には、寝技はあんまりありませんからなあ」
 鳥枝範士は冗談口調で返すのでありました。
「成程。日頃から稽古していない技は、実地には使えないと云うのは武道の常識ですな」
「武道勝負なら総士先生に敵う相手はそうはいませんが、政治絡みとなると。・・・」
「それは一応、私を誉めている言葉として受け取っておきましょう」
「畏れ入ります。まあ、ワシの方で件の知りあいの理事とかその他の手立てとかで、向こうに不穏と取られない範囲で、もう少し探りを入れておきますよ」
「私も、今度花司馬君が来た時にでも、何となくその辺を質してみましょう」
 確かに同じ常勝流とは云え総本部の人間が、独立した他派のゴタゴタに進んで立ち入るわけにはいかないでありましょう。余計なお節介と云われればそれ迄でありましょうし。

 花司馬筆頭教士はしかしあれ以来、なかなか総本部道場に姿を現さないのでありました。渦中の一人でもあるから、そんな時間も取れないのでありましょうや。
 この間、鳥枝範士の報に依ると、威治教士と財団会長の理事会に於ける多数派工作は愈々盛んとなり、大勢としてはその意を得る事が確実な状態になっているようでありました。嘗て政界で寝業師と異名を取った財団法人興堂会会長と、興堂範士の実子で興堂派本部道場長と云うコンビとなれば、確かに強力な威権がありそうであります。
 理事には興堂範士と旧知の政財界人や文化人も居るのでありましたし、全国に散らばる興堂派各支部長とかの興堂範士子飼いの古い門弟達も居るのでありました。会長を除いた政治家達や財界人、文化人と云った連中はどちらかと云うと興堂派の飾り石的な存在で、実際の興堂派の運営には殆ど関わってはいないのでありましたが、門弟筋に当たる者達は次の興堂派の顔が誰になるかという問題は、大いに深刻な懸案に違いない筈であります。
 しかし会長と威治教士の多数派工作が功を奏しているというのでありますから、門闥の内に居る興堂範士子飼いの連中もその威権に接して、心底は別にして、威治教士後継に大方納得し始めたと云う事になるでありましょう。威治教士は古い興堂派の門弟達にも、大体に於いて余り評判がよろしくないと万太郎は漏れ聞いていたのでありますが、この辺の理事達の所存の納まり具合なんと云うのは、如何なところなのでありましょうや。
 それに財団会長が何故頑強に威治教士後継に拘っているのか、その辺りの企みなんと云うものが万太郎にはもう一つ理解の及ばない部分でありました。それ程血統の連続やら家門の格式やらを心から尊ばんとする仁が、寝業師、とか云う、諸事に功利的でクールで、手練手管に長けた、如何にも隙がない風の渾名を人から頂戴するでありましょうか。
(続)
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