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お前の番だ! 11 創作 ブログトップ

お前の番だ! 301 [お前の番だ! 11 創作]

 少々長い暇が空いた後に、是路総士の声が漏れ聞こえてくるのでありました。
「すぐにお返事をいただこうとはワシも思っちゃいません。お返事は暫くあれこれお考えになって、一番良い結論をお導き出しになってからで結構ですわい」
「ああそうですか。しかしまあ道分さん、こう云った事は何よりも先ず、当のあゆみの気持ちが第一と思われますからなあ」
 そう云う是路総士の声は師範控えの間から伝わってくる緊張感からすれば、存外落ち着いた調子のものでありましたか。
「そりゃそうです。当人にその気がないのに無理強いするわけにはいきませんわい」
 興堂範士がそこで言葉を切るのは、その後屹度、あゆみの方に顔を向けるためであろうと万太郎は推察するのでありました。「で、どうじゃろう、あゆみちゃんとしては?」
 ここでまた控えの間は無声となって静まるのでありました。これは恐らく、皆の視線があゆみに集まって、その言葉を待っている故でありましょう。
 あゆみの声はなかなか聞こえてこないのでありました。
「あゆみ、どうかな?」
 これは是路総士の声でありました。そう是路総士に促されても、あゆみの声は何時まで経ってもなかなか発せられないのでありました。
 あゆみに軽々に返事を出来なくさせるような類の話しとは、一体どんな話しなのでありましょうか。廊下の万太郎は自分の気持ちまでもが、障子戸の隙間から浸み出してくる控えの間の緊張にすっかり染まるような心地になるのでありました。
 そうしてすぐに閃いたのは、これは屹度、あゆみと威治教士の縁談の話しが持ちこまれたのではないかと云う事でありました。そう思いついた途端、万太郎の腹の底がいきなりカッと熱を帯びて、頭は茫と翳み、呼吸するのも忘れて仕舞うくらいでありました。
 折角総本部道場の体制が収まるところに収まったと安堵した矢先、またぞろそれを乱す小難しい事案が持ち上がったと云う按配でありますか。そう考えて万太郎は全身の力が、接触している脛から床に吸い取られていくような気がするのでありました。
 しかしあゆみと威治教士の縁談の話しだと決まったわけではないではないかと、万太郎は思い直してみるのでありました。大風に揺らめく梢の葉群れのように、ざわざと立ち騒いでいた心の内は、そう思い直してみてもなかなか静まる気配はないのでありましたが。
 あらま欲しき事は大体に於いて願うようには成就しないと云うのに、好都合でない事に限っては、それが全く考えた通りに的中するのであります。世の中なんと云うものは、全く以って不如意なように出来ているもののようであります。
 万太郎が無愛想面で奥歯を噛みしめながら、廊下でこの世の無常なる相を嘆いていると、ようやくあゆみの気後れた声が障子戸の隙間から漏れてくるのでありました。
「そう云われても、あたし、何て応えて良いのか、・・・」
 あゆみの声は羽化したばかりの蚊が立てる羽音のようでありました。それでも万太郎にはちゃんとその儘聞こえるのでありました。
「いきなりの事じゃったろうから、それはそうじゃろうがな」
(続)
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お前の番だ! 302 [お前の番だ! 11 創作]

 興堂範士が労わるような声で云うのでありました。「さっきも云ったように、ワシも威治もすぐに返事を貰おうとは思ってはおらんよ。しかしまあ、考えてはみてくれんかな?」
 その興堂範士の問いかけに応えるあゆみの言葉は聞こえないのでありました。その儘また暫くの間、師範控えの間の空気は重く沈んでいるのでありました。
「あのう、あたし、ちょっと失礼しても構いませんでしょうか?」
 ようやくまた、羽化したばかりの蚊の羽音が聞こえるのでありました。控えの間に居る誰が、そう云って出て行こうとするあゆみを阻止出来るでありましょうや。
 障子戸が開けられると、何故か万太郎は反射的に身を竦めるのでありました。万太郎はすぐさま両手を床について座礼の容を取るのでありました。
 あゆみは自ら開けた障子戸を出て座敷の方に向き直って廊下に正坐して、一礼してから静かに障子戸を閉めるのでありました。その後、廊下の傍らに控えて自分の方にお辞儀している万太郎に目を向けるのでありました。
 何となくあゆみの顔が見辛くて万太郎は頭を上げられないのでありました。あゆみは万太郎に何も言葉をかけずに、如何にも静黙に母屋の食堂の方に立ち去るのでありました。
 あゆみの無言の退去が、どうしたものか廊下でお辞儀するしか能のない自分を咎めているように感じて、万太郎はたじろぐのでありました。あゆみに咎められる筋合いは何もない筈なのでありますが、しかし万太郎は立ち去るあゆみに頭を下げる以外に何も反応しようとしない自分が、慎に申しわけないような思いに駆られて仕舞うのでありました。
 玄関の方から、誰かを応接するジョージの気配が伝わってくるのでありました。恐らく仕出し弁当が届けられたのでありましょう。
 万太郎はその場を立って受付兼内弟子控え室に静かに向かうのでありました。丁度玄関の引き戸が閉まったところで、廊下には重ねられた四つの弁当を前にしてジョージが両膝をついて姿を見せた万太郎を見上げるのでありました。
「弁当を先生達の部屋に持っていきますか?」
 ジョージが流暢な日本語で万太郎に訊くのでありました。
「いや、取り敢えず食堂の方に運んでくれ」
「押忍。承りました」
 ジョージはそう云うと弁当を四つ重ねた儘胸に抱くのでありました。万太郎の方はすぐに師範控えの間に取って返すのでありました。
「押忍。食事の用意が調いましたが、今から運んでよろしいでしょうか?」
 あゆみが退室したからか、しめやかながらもやや緊張が緩んだような様子の座敷の中に向かって、万太郎は廊下から障子戸越しに声を上げるのでありました。
「ああ、そうしてくれ」
 寄敷範士の返答がすぐに返ってくるのでありました。緊張が解れたとは云え、その後に中であれこれ話しに花が咲くと云った状況ではないらしく、万太郎の言葉に返事する寄敷範士の声は、待ってましたと云わんばかりの調子に聞こえるのでありました。
「押忍。承りました」
(続)
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お前の番だ! 303 [お前の番だ! 11 創作]

 万太郎が母屋の台所に行くと、そこにあゆみの姿はないのでありました。
「あゆみさんはどうした?」
 万太郎は椅子から立ち上がった来間に聞くのでありました。
「気分がすぐれないので自分の部屋に居る、との事でした」
 万太郎は無表情で一つ頷いてから、師範控えの間に弁当と酒を運ぶように来間に指示するのでありました。万太郎の指示で来間と片倉で食事を持っていくのでありましたが、万太郎はあゆみの方が心配になって、母屋の廊下をあゆみの部屋まで進むのでありました。
「あゆみさん、よろしいでしょうか?」
 万太郎はあゆみの部屋の閉まった障子戸越しに中に声をかけるのでありました。
「ああ、万ちゃん?」
「そうです。何でも気分がすぐれないとか?」
 その万太郎の言葉の後に少しの間を挟んであゆみが応答するのでありました。
「どうぞ、入って」
 そう云われて万太郎は廊下に正坐した儘障子戸を開くのでありましたが、何となく中に気安く入るのが躊躇われたので、廊下に座った儘であゆみに問うのでありました。
「控えの間に弁当を運びましたが、その間こちらも食事を済ませようと思うのですが?」
「ああそう」
「あゆみさんも食堂で一緒に食されますか?」
 あゆみは眉宇に陰鬱な翳を残した儘で気怠そうに首を横にふるのでありました。
「あたしは何だか食欲がないから、要らないわ」
「若し何でしたら、あゆみさんの分をここへ運んできましょうか?」
「有難う。でも遠慮しとくわ。お腹が減ったら後で勝手に食べるから」
 あゆみの語調が思った程弱々しくもなく、突っ慳貪でもないものだから、万太郎は一先ず胸を撫で下ろすのでありました。
「あのう、何かあったんですか、控えの間で?」
「・・・うん、まあ、ちょっと。・・・」
 あゆみが言葉を濁すのでありました。それ以上言葉を継ぐのが億劫そうだったものだから、万太郎はあゆみに質問を重ねるのを控えるのでありました。
「・・・じゃあ、僕等は食事をしています。若し食欲が戻るようなら、お出でください」
「うん。有難う」
 あゆみは万太郎に愛想に笑って見せるのでありました。
「あゆみ先生は、食事は要らないのですか?」
 食堂に戻った万太郎に来間が訊くのでありました。
「ああ。食欲がないそうだ」
「お体とか、大丈夫なんですか?」
「まあ、そんなに大袈裟に心配する事もないだろうが」
 万太郎はそう云いながら、気鬱に彩られたあゆみの顔を思い浮かべるのでありました。
(続)
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お前の番だ! 304 [お前の番だ! 11 創作]

 食事が済むと、中から用事を云いつけられた場合に備えて師範控えの間傍の廊下に控えている片倉と交代するために、ジョージが食堂を出て行くのでありました。片倉がすぐに食堂に帰って来て、皆に遅れて食事に取りかかるのでありました。
「片倉、酒の追加を云いつけられなかったのか?」
 万太郎は忙し気にカレーライスを頬張る片倉に訊くのでありました。
「いえ、何もおっしゃっておられませんでした」
 普段ならあの面子が揃っていて、最初に持っていった徳利三本程度で事足りる筈がないのでありましたが、どうやら向こうもあんまり酒が進まないようであります。と云う事は、あゆみの様子も含めて考えてみれば、先程あゆみと威治教士の縁談話しが出たのであったとしても、あんまり好首尾とはそこに居る誰も思っていないと云う事でありましょうか。
 あゆみが不躾も顧みず中座して仕舞ったと云うのが、そう結論する決定打でありましょうかな。いきなりの事に恥ずかしさが先走って狼狽えて、あゆみは居たたまれずに控えの間を逃げ出したと云う風ではなくて、寧ろあゆみの退出の仕方は如何にも無愛想で、気分を害した事の明快なる表明であったように万太郎には思い做されるのであります。
 不首尾であったらしいと云うのは、万太郎には好都合な事に思われるのでありました。あゆみの縁談相手が選りに選って威治教士では、これは如何にもあゆみが可哀想と云うもので、あのあゆみの相手にはもっと相応しい男が他に一杯いるでありましょうから。
 第一あゆみの日頃の素ぶりでは、威治教士の事をあまり好ましく思ってはいないようであります。序の事ながら自分も好ましく思っていない、と万太郎は思うのでありました。
 しかしそれでも、他ならぬ興堂範士の申し出でもあって、それはつまり常勝流宗家と興堂派総帥の跡継ぎ問題と云う要素も絡む事柄でもありますから、あゆみ個人の好き嫌いだけがこの件を決定するたった一つの条件、とはならないかも知れないと万太郎は考え直すのでありました。常勝流宗家たる是路総士の考えと、興堂派総帥の興堂範士の思惑と云う辺りも、この問題には何かとあれこれ影響してくるのは必然の事でありましょうか。

 師範控えの間に伺候していたジョージが食堂に帰ってくるのでありました。
「寄敷範士がお茶を持ってこいと云われています」
「酒の追加ではないのか?」
 万太郎は念のためにそう訊くのでありました。
「いいえ。お茶です」
「ああそうか。判った」
 万太郎はそう云って来間の方に目を遣るのでありました。万太郎の視線を受けて来間が茶の用意をし始めるのでありました。
 どうやらこの日は四方山話しも盛り上がりそうにないから、早々にお開きと云う事になったのでありましょうか。ま、万太郎にとっては結構な按配であります。
 茶は万太郎が運んで行くのでありました。さぞや中の雰囲気はしめやかであろうと思ったのでありましたが、意外にも興堂範士の哄笑が漏れ聞こえてくるのでありました。
(続)
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お前の番だ! 305 [お前の番だ! 11 創作]

「失礼します。茶を持って参りました」
 万太郎はそう云って障子戸を開けるのでありました。
「いやあ、それならウチの剣術の指導も来月から復活と云う事でよろしいですかな。門下生達もあにさんの剣術稽古再開を待望しておりましたので、朗報を持って帰れますわい」
 この興堂範士の言葉は、それまで中で話されていたのであろう、是路総士の興堂派道場への出張指導再開の話題の続きでありましょう。
「はい、結構です。私もまた神保町に伺えるのを楽しみにしておりますよ」
 是路総士はそう云って万太郎が前に置いた茶を早速手に取るのでありました。
「あにさんの出張指導が再び始まったら、折野君も助手として来る機会もあろうのう」
 興堂範士も万太郎が前に置いた茶をすぐに取るのでありました。「あにさんが病院に入院して以来、それまでずっと続いていたウチへの折野君の出稽古も、沙汰止みとなってしまっておったからのう。ワシばかりではなくウチの門弟共も、折野君か来ないのを寂しがっておったわい。折野君はウチの門弟の間でも評判が慎に良いからのう」
「押忍。有難うございます」
 万太郎は威治教士と寄敷範士の前に茶を置き終わってから返事するのでありました。
「いやな、来月から私の興堂派道場への出張指導を、また始めようと云う話しだよ」
 是路総士がそれまで話されていた話題を改めて万太郎に説明するのでありました。
「ああそうですか。そう云う事なら、喜んで助手として伺わせていただきます」
 大凡の話しの見当は既についていたのでありましたが、万太郎は是路総士の態々の説明を尊んで、ようやく事情を呑みこんだと云った顔で応えるのでありました。
「まあしかし、折野君はこちらの運営面も指導の面も、今では中心的に担っておるようじゃから、前みたいな頻繁なウチへの出稽古は忙しくてなかなか出来んじゃろうなあ」
「押忍。そうですねえ。ちょっと今は無理かと思います。残念でありますけれど」
「折野がこの間よくやってくれたからか、入門者も前に比べれば増えていますよ」
 是路総士が万太郎を持ち上げるのでありました。
「それは結構ですなあ。折野君は人に悪感情を抱かせない武徳が備わっておるようじゃ」
 興堂範士も是路総士に倣うのでありました。
「押忍。とんでもありません」
 万太郎は消えも入りそうな声で云って興堂範士に向かってお辞儀するのでありました。頭を起こす時に興堂範士の横に座っている威治教士の、万太郎如きの事なんぞは如何にも興味がないと云いたいような興醒め顔が、ちらと万太郎の目の端に映るのでありました。
「それじゃあ、あにさん、ワシ等は今日のところはこれにて失礼仕りますわい」
 興堂範士はそう云って碗を卓上の漆器の茶碗受けに置いて立つのでありました。横の威治教士も興堂範士にやや遅れて腰を上げるのでありました。
 玄関では是路総士の配慮から部屋に引っこんでいたあゆみも呼ばれて、総本部道場に居る者総出で興堂範士と威治教士を見送るのでありました。あゆみは万太郎のすぐ後ろに身を隠すような風情で立って、無表情に帰る二人にお頭を下げるのでありました。
(続)
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お前の番だ! 306 [お前の番だ! 11 創作]

 そんなあゆみを見る威治教士の目には、このあゆみの様子が単に羞恥からだけなのか、それともそうではなくて迷惑さの勝った困惑からなのか見極めようと、必死に食いつくような色が浮かんでいるのでありました。勿論あゆみは威治教士とは極力目をあわせないようにして、失礼に映らないくらいの角度でそっぽを向いているのみでありました。
「そいじゃああゆみちゃん、今日の話し、真剣に考えておいておくれ」
 そんなあゆみに興堂範士が話しかけると、あゆみは後ろから不意に軽く叩かれた時のように肩をピクンと小さく揺するのでありました。
「はい。・・・」
 あゆみは必要以上に返事の言葉を発しないのでありましたし、それは弾んだ語調では全くないのでありました。万太郎はその声であゆみの窮状に同情するのでありましたが、尤もそれはあくまでも、万太郎の推論の上に存在する窮状でしかないのでありましたけれど。
 興堂範士と威治教士が去って後、間を置かず寄敷範士が帰宅の途につき、準内弟子の片倉とジョージも食事の後片づけを終えると、家に帰るために道場を退去するのでありました。是路総士はと云えば、未だ用があるのか一人で控えの間に居残るのでありました。
 是路総士は風呂を勧めにきた万太郎に、あゆみを呼ぶように云いつけるのでありました。万太郎は先程のあゆみの中座した無礼を叱るために呼びつけるのだろうかと思うのでありましたが、しかし是路総士の顔には特段怒気の翳が浸み出してはいないのでありました。
 あゆみは母屋の食堂には居ないのでありました。どうやらあゆみは、その日は竟に夕食を摂らないつもりのようでありました。
「あのう、総士先生が師範控えの間にお呼びですが」
 万太郎はあゆみの部屋まで行って、またも障子戸越しに呼びかけるのでありました。
「判ったわ。今行きます」
 あゆみのそんな陰鬱そうな返事が返るまでに少しの間が空くのは、先ず聞こえないように溜息をついてから応えたためであろうかと万太郎は推量するのでありました。
「折野先生、コーヒーでも淹れましょうか?」
 食堂に戻った万太郎に来間が話しかけるのでありました。
「そうだな、じゃあ、淹れて貰おうか」
「あゆみ先生の様子がいつもと違って変でしたが、何かあったのですか?」
 来間はコーヒー豆をミルで細挽きに粉砕しながら訊くのでありました。
「何があったのかは判らないが、確かに控えの間に行ってから急に元気がなくなったな」
 万太郎は面倒臭さもあって、自分の推論を来間に話すのを控えるのでありました。
「あんな無愛想な顔のあゆみ先生を見たのは、内弟子になって以来初めてですよ」
 豆を挽き終わった来間が、それをコーヒーメーカーにセットして水を注いでスイッチを入れると、間もなく香ばしい湯気が俄に食堂に広がるのでありました。
「気になるなら、何があったのか、お前後で直接あゆみさんに訊いてみろ」
「いやあ、自分にはあゆみ先生にそんな不謹慎な事を訊く勇気はありませんよ」
 来間はたじろいで顔の前でせわしなく片手を横にふるのでありました。
(続)
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お前の番だ! 307 [お前の番だ! 11 創作]

 師範控えの間から帰ってきたあゆみは、自分の部屋に退去する前に母屋の食堂でコーヒーを飲んでいる万太郎を見つけて、中に入って来て万太郎と向いあう席に腰を下ろすのでありました。あゆみは先程よりは少し緩んだ顔になっているのでありました。
「あたしもコーヒーをいただこうかなあ」
 あゆみがそう云うと来間がすぐに椅子から立ち上がって、流し台の上に置いたコーヒーメーカーから古いフィルターを外しにかかるのでありました。あゆみの言を受けて、これからもう一杯新たに淹れようと云うのでありましょう。
「もう総士先生とのお話しは済んだのですか?」
 万太郎が訊くと、あゆみはそれには応えずに来間の方をふり返るのでありました。
「注連ちゃん、あたしが自分で淹れるからいいわ」
 あゆみはそう云ってから立つのでありました。「それよりもうすぐお父さんが来ると思うから、そうしたらお風呂の介添えをお願いね」
「押忍。承りました」
 来間はそう云ってあゆみに立っていた場所を譲るのでありました。「それじゃあ、自分はちょっと、風呂の湯加減を見てきます」
 来間は急いで風呂場の方に姿を消すのでありました。
「何か少し、お腹が減ってきたわ」
 あゆみは独り言とも万太郎に云うともつかぬ云い方をするのでありました。それから茶棚を開けて、そこにあるクラッカーの袋を取り出すのでありました。
「総士先生とのお話しは終わったのですか?」
 万太郎は腰を下ろしてクラッカーを摘むあゆみに再び遠慮がちに訊くのでありました。
「うん。まあね。終わったような、終わらないような」
 あゆみはそう曖昧に返事してクラッカーを口に放りこむのでありました。無表情に口を動かすあゆみにそれ以上の事を訊ねて良いものか迷って、万太郎は机上に置いたコーヒーカップの摘みの部分を手持無沙汰に指で弄んでいるのでありました。
「あたしに、威治さんと一緒にならないか、だってさ」
 あゆみが不意にそんな事を云い出すのでありました。
「えっ、神保町の若先生と、ですか?」
 万太郎は一応大袈裟に驚嘆の顔をするのでありました。しかし予め推察した通りだったので、実は全く驚天動地と云うわけではないのでありました。
「そう。道分先生から今日、控えの間で申し出があったのよ」
「何か、随分唐突な話しですね」
 威治教士の日頃のあゆみに接する素ぶりから、あゆみに大いに気がある事は疾っくの昔から知れた事でありましたから特段、唐突、と云う程でもないかと万太郎は云った傍から思い直すのでありました。何時かタイミングを見計らって威治教士はあゆみに自分の思いの丈を、勇気をふり絞って自ら告白するか、それとも、興堂範士や是路総士を巻きこんで、搦め手で攻めこんでくるであろうとは、万太郎は充分予想していたのでありました。
(続)
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お前の番だ! 308 [お前の番だ! 11 創作]

 矢張り搦め手できたか、と万太郎は思うのでありました。あゆみの威治教士対するつれなさは威治教士自身も、幾ら自信過剰なる彼の人であろうともしっかり感じていたでありましょうから、自ら単独で事を運ぶよりはその方が勝算ありと踏んだのでありましょう。
「唐突って云うか、何て云うか、・・・」
 多少呆れたようなその云い草からすれば、あゆみにとったらどだい自分には全くそんな話しになんか乗り気にはなれない、と云ったところでありましょうか。
「あんまり気が進まないような云い方ですね?」
「あんまりどころか、嫌よ、あたしは、威治さんと結婚なんか」
 あゆみは、考える余地もないと云う風にきっぱりとそう宣するのでありました。
「で、あゆみさんはその場でそのような返事をされたのですか?」
「本人から直接云われたのなら即座に断ったけど、道分先生からの申し出だから。・・・」
「つまり返事を曖昧に濁した、と云うのですね?」
「はっきりと嫌だって言葉は出さなかったわ」
「慎重ですね」
 結構気の強いあゆみさんにしては、と云う言葉を万太郎は省くのでありました。
「それで今お父さんに呼ばれて、その辺を問い質されたのよ」
 あゆみがそう云った時に、丁度コーヒーメーカーの出来上がりの報知音が鳴るのでありました。あゆみはクラッカーを一枚口に放りこんでから立ち上がるのでありました。
 あゆみがまた席に座って香気に満ちた湯気が旺盛に立ち昇るマグカップを持ち上げた時、風呂の湯加減を見に行っていた来間が食堂に戻って来るのでありました。殆ど同じタイミングで、是路総士が師範控えの間を引き上げてきて食堂に姿を見せるのでありました。
「総士先生、風呂にどうぞ」
 万太郎は立ちあがってそう云いながら軽くお辞儀するのでありました。
「ああそうか」
 是路総士はその儘居間の方に運ぼうとしていた足を止めるのでありました。万太郎の言を受けて、居間には入らずにすぐに風呂場へ向かうつもりなのでありましょう。
 三助役の来間が、風呂場まで先導するために是路総士の傍に寄ってくるのでありました。風呂場に向かう二人と一緒にあゆみも食堂を出て行くのは、是路総士の寝所から着替えを出してそれを来間に渡すためでありましょう。
 食堂に戻って来たあゆみがまた元の席に座ってマグカップを取り上げるのでありました。カップから立ち昇る湯気は殆ど目立たなくなっているのでありました。
「ええと、どこまで話したっけ?」
 あゆみは万太郎の方に視線を向けて、またクラッカーを一枚頬張るのでありました。
「あゆみさんの意を質そうと総士先生に控えの間に呼ばれた、と云うところまでです」
「そうそう。それでお父さんにあたしの気持ちを訊かれたのよ」
「総士先生はあゆみさんが急に無愛想になった事をお咎めになりませんでしたか? 傍で見ていても、あゆみさんの様子は如何にも興醒めたように変貌していましたから」
(続)
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お前の番だ! 309 [お前の番だ! 11 創作]

「確かに、あの話しが出てから急に無愛想になったかしらね、あたし」
 あゆみはそう云ってクラッカーを摘み上げるのでありました。
「玄関でのお見送りの時なんか、ものの見事に愛嬌の欠片もないと云う風でしたよ」
「そりゃあ、愛嬌も何もなくなるわよ、あんな申し出の後では」
 その云い草からしてもあゆみは心底げんなりしたのでありましょう。あゆみがほんの少しも威治教士に靡いている様子がない事に、万太郎は何故か安堵するのでありました。
「確かにね、道分先生の手前もあるからもう少しくらいは愛想良くしろ、なんてお父さんに云われはしたわ。でもそう云うお父さんの顔には、苦笑いが浮かんでいたけどね」
「結局総士先生も、この話しに乗り気にはなっていらっしゃらないのでしょうかね?」
「で、ね、あたしお父さんに呼ばれて控えの間に行ったら、お父さんは全くの無表情で、つまり何の感情も目に浮かべないで至極事務的に、あたしに、この話しをお前は正直どう受け止めたのか、って訊くのよ。正真正銘、ただ質問しているって感じよ」
 あゆみは順序立てて話そうとしてか、落ち着いた風に物腰を改めるのでありました。「あたしは、あんまり嬉しくない、なんて云ったの。そうしたらお父さんは、ああそうか、って云って頷くわけよ。その後にちょっと間があって、さっきの、もう少しくらい愛想良くしろ、って言葉が続いたのよ。でも特段咎めているような風でもなかったけどね」
「要するに総士先生も、お困りになられたのでしょうね?」
「そうね。あたしはそう思ったわ」
 あゆみはそこで冷めて仕舞ったコーヒーを一口飲んでから、クラッカーをまた一枚摘むのでありました。それから急に気づいたようにその一枚を万太郎の方に少し翳して見せるのは、お前も食うかと仕草で問うているのでありましょう。
 万太郎はゆっくり首を横に二度程ふるのでありました。あゆみはその万太郎の無声の返事を見て、一つ頷いた後にそのクラッカーを自分の口に放りこむのでありました。
「あゆみさん、そんな物じゃなくて、カレーが未だ余っていますから、それでちゃんとご飯を食べた方が良いのじゃないですか?」
 あゆみが余程腹が減っているように思えたので万太郎はそう訊くのでありました。
「うん。でもカレーとなるとちょっと重たいかな」
 あゆみはそう応えてもう一枚クラッカーを口に入れて、微弱ながら閉じた唇の内でくぐもってはいるものの、小気味の良い音を一回響かせてそれを噛み割るのでありました。
「それで、あゆみさんが、あんまり嬉しくない、と返事した後、その言葉を受けて総士先生はどう云われたのですかね?」
 万太郎は道草を切り上げて、話しを元に戻すのでありました。
「お父さんも、あの唐突な申し出には、実はちょっと困ったと思ったんだって」
「矢張りそうですか。ま、そうでしょうね」
「一つは、娘をあの威治さんの嫁にするのは大いに躊躇いがあると云う点と、それから別派の跡継ぎが総本部の一人娘を嫁に貰うと云う事が、つまり常勝流にとってどう云う意味を持つのかと云う、微妙で煩わしそうな問題がありそうな点で困ったらしいのよ」
(続)
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お前の番だ! 310 [お前の番だ! 11 創作]

「ああ、そう云われれば確かにそうですね」
 実は是路総士の第二点目の疑問は、万太郎もちらと考えてはいたのでありました。
「お父さんは威治さんを一人の人間として心許なく思っているようだし、威治さんの良からぬ評判も、あれこれ直接間接に聞き及んではいるって云っていたわ」
「そんな男に、大事な一人娘を嫁に遣るのはご免だと云う事ですね」
「ま、そうね。で、お父さんはそう云った話しの場合は、あたしの意向が何より第一だと考えているんだって。常勝流の跡目の事とか、家の内の事とかは二の次だって云ってくれたわ。だから若しあたしがその話しを受ける気があるようなら、威治さんには色々不満もあるけれど、でもあくまであたしの意向を先ずは尊重するつもりではいたんだって」
「総士先生は、なかなか物分かりの良いお父さんですね」
「ま、本心はどうだか判らないけどね」
 あゆみはここでちょっと懐疑的な物云いをするのでありました。しかしあの是路総士ならば、云っている事が即ち本心そのものであろうと万太郎には思われるのでありました。
 あゆみが、本心は判らない、と云うのは、照れからくる実の娘ならではの辛口加減を万太郎に表明したものと取るべきでありましょう。長く仕えた内弟子として見れば是路総士は到って、言葉に虚飾や必要以上の含みを持たせない、簡潔である事を尊ぶ人であります。
「総士先生のおっしゃる事は、その儘おっしゃる通りの事ですよ」
 万太郎のこの言葉は、抗弁と云うのではなくて一種の相槌と云うものでありましょう。
「まあ、それはそれとして、あたしの意向を先ず尊重するって事は、つまりあたしが威治さんと一緒になる気が更々ないと云うなら、それを尊重するって事になるのねって、あたしお父さんに確認したの。そうしたらお父さんは、そうだって頷いたの。それであたしはちょっと気分が楽になったのよ。お父さんは、あたしが威治さんと一緒になっても良いと云ったとしたら、その場合の方が寧ろ悩ましかったかな、なんて事もつけ足したわ」
「じゃあ、まあ、それで懸案解決じゃないですか」
 万太郎はあゆみに笑い顔を向けるのでありました。
「一先ずはね。だからかしら、あたし何だか急にお腹が減ってきたのよ」
「ああ成程。しかしコーヒーやクラッカーを口に入れる程度の食欲は出ても、本格的な食事としてカレーを食べるのは未だ無理だと云う辺りの、気分の楽さ加減と云うのか、食欲の湧き方加減と云うのか、それは一体どういう按配でそうなっているのでしょうかね?」
 そう訊きながらこの嫌にまわりくどい云い方なんと云うもので、あゆみに上手くこちらの質問の謂いが通じたろうかと、万太郎は云った傍から心配するのでありました。
「あたしのお腹が充分減らないのは、未だ懸案がすっかり解決したと云う気分じゃないからかって、そう万ちゃんは聞きたいわけね?」
「まあ、あっさり云えばそうです。総士先生のお言葉だけでは、あゆみさんは充分に安堵がお出来にならいのかなと思いまして」
「それはね、道分先生を失望させる事になるのが、億劫な事の一つよ」
 あゆみはそう云ってまたクラッカーを頬張るのでありました。
(続)
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お前の番だ! 311 [お前の番だ! 11 創作]

「その点なんですが、・・・」
 万太郎はクラッカーを口に運ぶあゆみの手つきを見ながら訊くのでありました。「道分先生は、若先生があゆみさんにすんなり受け入れられると、本当に何の疑いも持たないでこの縁談話しを、今日持っていらしたのでしょうかね?」
「そうじゃないの。その話しをする道分先生の様子は、何時もと同じであっけらかんとした風だったし。まあ、話しの性質から、ほんの少し改まった感じもあったけどさ」
「だとしたら、あの、武道事に限らずあらゆる事況を的確に読んで、諸方に目端の利き過ぎるくらい利く道分先生にしては、いやに迂闊であるような気がするのですが」
「どう云う事?」
 あゆみは小首を傾げて万太郎を見つめるのでありました。
「つまり若先生に対するあゆみさんの気持ちくらい、常日頃のあゆみさんの素っ気なさを見ていれば、疾うに気づかれていても良さそうなものじゃないですか」
「あたしそんなに威治さんに対して、普段から素っ気なかったりしたかしら?」
「それはもう!」
 万太郎はそう云って力強く二度頷くのでありました。「まあ、素っ気ないと云うよりは、敬して遠ざけると云った風ですかね。僕如きが傍で見ていてそう感じていたのですから、道分先生ともあろう方が気づかれていない筈がないと思うのです。だったら、若し若先生に仲立ちを懇願されても、状況から鑑みてその願望を叶えるのは無理だろうから諦めろと、諄々と諭すところじゃないでしょうかね。その方が若先生の傷も浅く済むと踏んで」
「それはまあ、当のあたしがこんな分析的なもの云いをするのも何だけど、親心、と云うのか、身贔屓の混じった臆断、と云うのか、何と云うのか。・・・」
 あゆみが興堂範士の肩を持つような、持たないような云い様をするのでありました。
「いや、道分先生と云う方が親であるからこそ、僕は態々破れる事を承知していながら、こんな無謀な縁談話しなんかを持ちこまれたりはしないと思うのです」
「まあ、道分先生のお気持ちの在り処とかは、わたしは判らないけれどさ」
 あゆみはそう云ってコーヒーを一口飲むのでありました。釣られて万太郎も、あゆみのコーヒーよりは余程冷め切ったコーヒーを口に入れるのでありました。
「だから、ひょっとしたら道分先生は何か全く別のご了見がおありで、それで敢えてこの縁談話しを持ってこられたのではないでしょうか?」
「何か別のご了見、と云うと?」
「いや、それは未だ僕には何とも判りませんが、しかしそう云う風に考えても、あながち不自然ではないように思われるのですが」
「あたしと威治さんが一緒になる事で起こる、常勝流の将来、とかの事?」
「まあ、例えばですが、常勝流宗家の跡目の事とかです。いや勿論。道分先生の事ですから、総本部と興堂派との発展的な統合とかをお考えになっているのかも知れないと。・・・」
 万太郎は遠慮からあくまでも好意的な観測を述べるに止めるのでありました。しかしそう云うと、何やらキナ臭い話しの気配がどうしても滲み出て仕舞うのでありました。
(続)
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お前の番だ! 312 [お前の番だ! 11 創作]

「つまり万ちゃんは、道分先生が常勝流の簒奪を狙っているって事を云いたいわけ?」
 あゆみがいやにはっきりとした事を云うのでありました。
「いや、簒奪と云うのは余りに不穏当で適切な言葉ではないと思いますが、でも、あゆみさんと若先生が一緒になれば、その辺の問題も当然出てくるんじゃないでしょうか?」
「それは場合に依ってはそうかも知れないけど」
「ひょっとしたら道分先生はそう云う読みから、あゆみさんと若先生の縁談を何とか成就させたいとお考えなのかもしれないと、勘繰ろうと思えば勘繰れるじゃありませんか。常勝流の将来の跡継ぎ問題にも関わるとなると、色々考えてみて、総士先生の一人娘であるあゆみさんも、あんまり無下には断れない部分があるんじゃないでしょうかね?」
「無下に断るわよ、あたしは!」
 あゆみが断固として云い放つのでありました。「だってお父さんも、あたしの気持ちが第一だって云ってくれたんだから、きっぱり断るわよそんなもの」
 あゆみはやや興奮気味に捲し立てるのでありました。
「昔から家元の家系に生まれた長女は、結婚に関して何かと小難しい問題が起こると云うのは、世間の通り相場と云うように一般論として聞いていますし」
「でも第一、道分先生が常勝流を簒奪する魂胆があると判れば、それこそあたしが威治さんと結婚するのは、常勝流宗家のお父さんにとって好ましからぬ事なわけじゃない」
「しかし古武道の世界は如何にも古めかしい考えに支配されている世界ですし、その辺りを総士先生がどのようにお考えになっているのか。・・・」
「そう云えばお父さんは前から、武道流派の存続は血筋の存続とは無関係の事だって云っていたわ。流派と云うのは技術を継承していく事を目的とする集団の事で、宗家の血を継承するために出来上がったわけじゃないってね。だから宗家と云っても、それは技術の継承のために誰よりも尽くす家の事で、それ以上の意味なんか本当はないんだって」
 あゆみがふと思い出したように云うのでありました。
「ああ成程。それは慎に正論でしょうね」
「お父さんがそう云う事を云っていたのは、ひょっとしたらあたしが一人娘だから、そこで血脈が途切れるかも知れないって、そう考えたからかも知れないわね。今回の事であたしの意向を何よりも優先したいと云うお父さんの気持ちは、常勝流宗家が我が家の血脈から離れる事があっても、それはそれで構わないと云う思いからかも知れないわ」
「と云う事は、総士先生は道分家に宗家が移っても構わないとお考えだと云うので?」
「はっきり確かめたわけじゃないけど、屹度血の継承には拘っていないと思うわ」
「話しがあれこれこみ入ってきたので、ちょっと整理しましょう」
 万太郎はそう云ってから冷めたコーヒーをまた口に少量含むのでありました。「総士先生が是路家の血筋の継承に拘っていらっしゃらないとして、それは一人娘であるあゆみさんが道統を継がない可能性があっても、それを許容すると云うお覚悟だとしましょう。あゆみさん自身も前に云っていらした事ですが、古武道の世界は女性が宗家を継ぐのに何かと意見の多い世界でもあり、あゆみさんが他家に嫁ぐと云う事もあり得るのですから」
(続)
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お前の番だ! 313 [お前の番だ! 11 創作]

「あたしが一生結婚しない場合だって考えられるわ」
 あゆみがそんな事も云い添えるのでありました。
「何れにしても、是路家と常勝流の関係を総士先生がさばさばとお考えになっていらっしゃるなら、寧ろあゆみさんが神保町の若先生と一緒になって、宗家が道分家に移るとしても、それも総士先生は許容されると云う事にもなりはしませんか?」
「まあそれも、考えられる様々の推移の一つではあるけどね」
「道分先生のその点へのご執心が濃ければ、総士先生のさばさばしたお気持ちは、力学上、道分先生のお考えに添う方向に流れるのではないでしょうか?」
「でもあたしは、威治さんと結婚なんかしないんだから」
 あゆみは再度断言するのでありました。
「またもう一方で、あゆみさんが若先生と結婚されないし、その意思を総士先生が尊重されるとして、常勝流宗家と云うものはその場合どのように落ち着くのでしょうか?」
「それは全く、今の段階では判らないわ」
「この件に関して決定に影響力のある方と云えば、総士先生が先ず筆頭で、その次に道分先生、それから鳥枝先生や寄敷先生と続くでしょうし、常勝流を後援してくださっている門外の多くの方々の考えも、全く無関係な事だと云うわけにはいきません」
 常勝流を後援してくださっている門外の多くの方々、と云うのは、鳥枝建設を筆頭に十社余りある法人賛助会員、それに是路総士と交流のある各古武道流派宗家の人達、それに個人的な好意で常勝流を応援してくれている個人賛助会員の事であります。云ってみれば常勝流後援名士会、或いはもっとくだけて云うとファンクラブのようなものでありますか。
「幸いなことに常勝流は古武道界の中に在っては、群を抜く大所帯の体術の流派で、こんな大きな流派は、合気道の元になった大東流と云う流派の他には見当たらないでしょう。そんな大流派の宗家に生まれた者の常として、総ての門下生は元よりそう云った後援者の方々に最良の一挙一動を期待されているのは、これはもう宿命のようなものだと思います」
 そんな事を云い出す万太郎に、あゆみはやや警戒の眼光を向けるのでありました。
「つまり、万ちゃんは何を云いたいわけ?」
「で、そんな方々の中でも、道分先生の影響力と云うのは随一でしょう。この辺りを充分計算した上での、道分先生の今回のあゆみさんと若先生の縁談話しだとすると、これはなかなかあっさりと、一筋縄ではあゆみさんの了見を貫く事は出来ないかも知れませんよ」
 その万太郎の言葉にあゆみは顔を顰めて見せるのでありました。
「でも、あたしにはその気がないし、お父さんもあたしの意向を尊重してくれるわけだから、それを先ず前提にした上で、宗家の問題を論じるのが筋道じゃない?」
「それはまあ、云うまでもなく、その通りですが。・・・」
 万太郎はそこでふと、自分が何のために話しを整理しようとしているのかに気づくのでありました。それは要するにあゆみには絶対、威治教士と結婚する意志がないのだと云う事の確認と、それからその確認を脅かすような周りの状況が、万が一にも生じる可能性がないかと云う点を、自分の中でしっかり点検して安心を得るための作業のようであります。
(続)
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お前の番だ! 314 [お前の番だ! 11 創作]

「だったら、それで良いじゃない」
 あゆみが無愛想にそう云うのでありました。
「まあ、あれこれ云いましたが、あゆみさんの気持ちが絶対尊重される事を、僕も祈っているのは確かですから、僕はあゆみさんの、あんまり頼りにならない味方ではあります」
「あ、そう。それは一先ず、有難う」
 廊下の方から、是路総士が風呂場から居間に戻って来る気配が伝わってくるのでありました。万太郎とあゆみは目を見あわせて、それを潮に取り敢えずこれまでの話しを一旦打ち切るのでありましたが、万太郎もあゆみも未だ充分に話し足りていないと云う色あいが、互いの眉宇に浮いているのを互いに見て取るのでありました。

 苦虫を噛み潰したような顔で是路総士の報告を聞いていた鳥枝範士が、ゆっくりとあゆみの方に顔を向けるのでありました。
「それで、あゆみはこの話しに乗り気ではないのだな?」
「ええ、道分先生には申しわけないですけど、お断りする心算でいます」
 興堂範士からの申し出があった直近の月曜日に緊急会議と云う形で、鳥枝範士と寄敷範士が招集されるのでありました。勿論議題はあゆみと威治教士の件であります。
 この場には道場運営者の一人として万太郎も同席するのでありました。しかし万太郎は殆ど意見を求められる事もなく、ただ話しの推移を見守ると云う具合でありましたが。
「その方が良かろうとワシも思います」
 鳥枝範士は是路総士の方に顔を戻すと一つ頷きながら云うのでありました。「二人の結婚となると、当然ながら常勝流宗家の継承問題も発生しますからなあ」
 鳥枝範士のその発言を聞いて、あゆみがちらと万太郎に視線を送るのでありました。先に万太郎と二人で話した折に、万太郎が懸念として表明したところでもありましたから。
「私も実は道分先生の話しを聞きながら、その問題が第一に頭に浮かびました」
 当日同席していた寄敷範士が矢張り頷きながら云い添えるのでありました。
「威治が是路家の婿に入ると云う話しではないのでしょう?」
「そう云う話しではありませんでしたなあ。ただ二人の結婚と云うだけで」
 是路総士が鳥枝範士に到って穏やかな口調で応えるのでありました。
「つまりあゆみが威治の嫁になると云う事ですな?」
「私はそう、解釈しましたが」
 是路総士の言葉つきは、話題の重大性に比べるとどこか呑気過ぎるように万太郎は感じるのでありました。まあ、是路総士は何時も穏やかさを崩さない人ではありますが。
「そうなるとあゆみは道分姓になるのですから、常勝流から是路と云う名前が消えて仕舞いますな。何れ将来、あゆみが常勝流宗家を継ぐとしても、道分姓で継ぐと云う事になりますから、これは如何にも穏やかならぬ事態となります。ひょっとしたら威治が宗家を継ぐ、なんと云う事になったらそれはもう余計、ただならぬ按配になりますな」
 鳥枝範士はそう云って腕組みをして、陰鬱気な顔を天井に向けるのでありました。
(続)
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お前の番だ! 315 [お前の番だ! 11 創作]

「私は特に、是路の名前の存続には拘らないのですが」
 是路総士が矢張り呑気そうにそう云うのでありました。
「いやそうはいきません」
 空かさず鳥枝範士が目を是路総士に戻して返すのでありました。「常勝流宗家は代々、是路家の血を受け継ぐ者、最大限譲っても、是路姓を名乗る者が継ぐと云うのが大前提です。ここでその血統が途絶えたとしたら、ワシは先代に対して申しわけが立ちません。先代どころか、是路殷盛道祖にも代々の宗家先生に対しても腹を掻っ捌いても詫び足りません」
 鳥枝範士は割腹の仕草をして見せるのでありました。
「それに、常勝流には宗家にしか伝えられない秘伝の技がありますから、この秘伝を保存すると云う点に関しても、威治君はあんまり適当な後継ではないと私も思います」
 寄敷範士が云い添えたこの秘伝の技と云うのは、代々の当主にしか伝えられない五本の体術技で、この秘伝五ヶ条を習得して初めて、常勝流武道総士、の称号を得る事が出来るのでありました。この辺が如何にも古武道の流派らしいところでありましょうか。
「まあしかし常勝流は古武道と云っても、そんなに古い歴史があると云うわけじゃないですからな。道祖の修業歴を遡っても精々江戸後期と云う武道です。つまり近代に入ってから創られたようなものです。まあ、古武道の常として我が流派も、戦国時代の肥前竜造寺家で秘かに伝えられてきた、なんと称しておりますが、これはその儘信用してはいけない」
 是路総士が呑気そうな顔で、そんな機微に触れるような事を云い出すのでありました。常勝流を今の体系に整理して世に出したのは是路殷盛道祖に他ならないのでありますが、流派の箔をつけるためか殷盛道祖は自らを中興の祖と称して、現在の佐賀や長崎に勢力を張った戦国時代の竜造寺家に流派の源流を求めたのでありましたが、それは道祖が籍を置いていた藩がそちらにあった、神島藩、と云う小藩だったところからでありましょう。
 殷盛道祖自身は、江戸に生まれた人なのでありました。それが猟官運動の末にようやく神島藩に召し抱えられて、そこの江戸屋敷で剣術指南役をやっていたのでありました。
 道祖が常勝流を興した時はもう明治の代となっていて、新興武術流派が世の認知を得るためにも、神島藩時代の上役が新政府の海軍に在籍していた伝に依って、その上役の名声を頼りに、相談結託の上で竜造寺家に秘かに伝わる剣術技法が元であると、要するに大風呂敷を広げたのでありましょう。ですから殷盛道祖は常勝流初代であると同時に、竜造寺家に伝わったとされる陰伝流剣術と云う流派の十七代当主とも称していたのであります。
 勿論件の上役が十六代と云うわけでありますが、これは全くの眉唾と云うもので、その上役は神島藩では一貫して行政官僚であったようであります。ただ家柄は古く、竜造寺に仕えた先祖も確かに居たと云うのは紛れもない史実のようでありました。
 勿論、来歴が確かな古武道流派も多く在りはする一方で、遡源にこう云った神話や、糊塗や曖昧な部分を多く持つ流派も少なくないのであります。それでも常勝流に関して云えば、殷盛道祖以降は確たる歴代を数え、その卓越した技術と術理に依って武道界で燦然たる一派を為す存在となったのでありますが、これは偏に歴代の勲と云うものでありましょうし、曖昧を極力排して流派の篤実を示した当代是路総士の業績でありましょう。
(続)
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お前の番だ! 316 [お前の番だ! 11 創作]

「で、ありますからな、・・・」
 是路総士は続けるのでありました。「是路の名前が常勝流の歴史から消えようがどうしようが、私はあんまり未練を有しておりませんよ、実のところは」
「いいや、いけません!」
 鳥枝範士が断固として云い放つのでありました。「若し是路家から他家に道統が移るとすれば、それは常勝流の輝かしい伝統の断絶、延いては技法の大いなる乱れとなります」
 鳥枝範士のただならぬ剣幕に是路総士は苦笑を返すのみでありました。
「しかし道分先生はどう云う了見で、今この話しを持ってきたのでしょうかなあ?」
 寄敷範士が舳先の向きをやや修正するのでありました。
「そこなんだが、あの道分先生の事だから単に息子に懇願されて親心で、なんと云うわけではなかろう。屹度他に何やらの魂胆があっての事と思う方が自然だろう」
 鳥枝範士は寄敷範士に応えるのでありました。あゆみがもう一度万太郎の方に目を遣るのは、これも万太郎と会話した点と符合するものがあるからでありましょう。
「つまり威治君とあゆみを結婚させて、常勝流の正統を自分の派に吸収しようとしていると云う風に、鳥枝さんは考えるのかな?」
「まあそうだが、しかし道分先生ともあろう人がそんな、すぐにこちらの警戒を呼び起こすような、如何にもあっけらかんとした手管を実行するとは思えないところもある」
「しかし道統を継承すべき総士先生の一子が一人娘のあゆみで、今おっしゃられたような総士先生の腹心算も何となく雰囲気から判っていて、しかも威治と云う男の跡継ぎが自分の方にあるとすれば、常勝流の将来と云う辺りを真剣に訴えかければ条件的には好都合と踏んだから、道分先生は案外直截な申し出をしてきたのかも知れない」
「確かに武道流派の跡継ぎとしては、一般的に情勢としては男の方が有利ではある」
 鳥枝範士が腕組みをして難しそうな顔で頷くのでありました。
「しかし、本当に単なる親心、と云う事だってありますよ」
 是路総士が柔和な表情を浮かべて云うのでありました。「道分さんはなかなか遣り手だと思われているから、何かと腹中を勘繰られる事も多いが、存外考え方は簡素な人ですよ」
「いやしかし、威治とあゆみの結婚話しとなると、それを道分先生の方から申し出るとなれば色々憶測を呼ぶだろう事は当然考えられますから、本当に単なる親心と云うだけで邪念が何もないとしてもですよ、そこは尚更何がしかの配慮があって然るべきでしょうよ。態々こちらの反発を呼び起こすような、粗雑で無神経な話しの持って行き方ではなくて」
 話しの推移が常勝流の継承問題ばかりでなかなか当の自分への諮問がないためか、あゆみは仏頂面でやや俯いて、座卓の角の一点に視線を落としているのでありました。そんなあゆみの苛々顔に絆されて、今までずっと黙っていた万太郎が声を上げるのでありました。
「あのう、僕如きが口を差し挟むのも何ですが、あゆみさんが神保町の若先生と結婚する意志がないとおっしゃっているのですから、それで殆ど解決ではないでしょうか?」
 満座の視線が万太郎に集まるのでありました。あゆみの表情が我が意を得たり、と云った風に綻ぶのを万太郎は目の端で捉えているのでありました。
(続)
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お前の番だ! 317 [お前の番だ! 11 創作]

「まあ、それはそうだが。・・・」
 鳥枝範士がまた腕組みをするのでありました。
 その時、師範控えの間の床の間脇の台に置いてある電話が突銭鳴り出すのでありました。しかしすぐにその呼び出し音が途切れたのは、どうやら食堂の方で一人控えている来間が、そちらの受話器を急ぎ取り上げためでありましょう。
「総士先生もあゆみさんの結婚はあゆみさんの意志を先ず尊重されると云う事ですし」
 万太郎は電話機から鳥枝範士に目を戻して、その顔を一直線に見るのでありました。
「あゆみの結婚に関しては、そうなればワシ等があれこれ云うべき言葉はもうない」
 鳥枝範士は別に万太郎の視線にたじろいだと云うわけではないでありましょうが、万太郎から徐に目を外して、口を尖らせて頷くのでありました。「しかし、この件で道分先生への不信感と警戒心と云うのが生まれて仕舞ったのは、拭えない事実だな」
 鳥枝範士は無愛想にそう云って腕組みを解くのでありました。
「宗家の継承問題は一先ず置くとして、まあ、今回の道分さんの申し出は、あゆみの気持ちを第一に尊重してお断りする、と云う事でよろしいですかな?」
 是路総士が一同を見回した後で、最後にあゆみの顔に視線を止めるのでありました。
「そう願います」
 あゆみが意志の強そうな表情で頷くのでありました。
「威治君からあゆみに直接話しがあったわけではなく、道分さんからの申し出と云う態でしたから、断りは私の方から道分さんの方に伝えましょう」
「ま、今次の問題は一先ずそれで済ませましょう。その後に道分先生がどういう風に出てくるかは、これはこの結婚話しとは違うところで、要観察と云ったところでしょうなあ」
 鳥枝範士がそう云いながら横に座っている寄敷範士を見るのでありました。寄敷範士は鳥枝範士に頷いて見せて、それから是路総士を見るのでありました。
 不意に障子戸の外で来間の声がするのでありました。
「あのう、道分先生から、これからお邪魔すると電話がありました」
 どうやら先程鳴った電話の呼び出し音は興堂範士からのものだったようであります。控えの間の全員が多少の驚きを籠めて、互いに目を見交わすのでありました。
「一方的に来ると云われただけで、こちらの都合はお訊きにならなかったのか?」
 鳥枝範士がやや憮然とした声音で訊くのでありました。
「ええ、今先生方がお揃いで会議中だと申しましたが、成程それなら余計好都合だ、とおっしゃって、申しわけないが来るまで待っていて欲しい、とのご伝言でした」
「相判った。それから済まんが人数分のコーヒーを持って来てくれぬか?」
 是路総士が障子戸に向かって云うのでありました。来間は「押忍。承りました」と返事して去るのでありましたが、是路総士は興堂範士を待つ間の手持無沙汰を慰めるつもりで、来間にコーヒーを持ってくるよう命じたのでありましょう。
 何時ものように茶ではなく、コーヒーであるところを万太郎は少し奇異に思うのでありました。しかしまあそれは、単なる是路総士の気紛れ以上ではないでありましょうが。
(続)
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お前の番だ! 318 [お前の番だ! 11 創作]

「来間が内弟子に入って以来、この頃は私もコーヒーを飲むようになりましたよ。昔は何時も胸焼けして、とても飲もうと云う気にはならなかったのですが」
 是路総士が呑気そうな表情で云うのでありました。
「ワシなんか会社では何時もドリップのコーヒーですよ。こう見えても」
 鳥枝範士が表情を和らげてその話題に乗るのでありました。「これでなかなかワシはコーヒーには煩い方でしてね、インスタントなんか体が受けつけませんな」
「私は家でも事務所でもお茶一辺倒ですかな。顧客とのつきあいで外に出で喫茶店に入ったとしても、矢張りコーヒーじゃなく紅茶を注文します」
 寄敷範士が笑いながら後に続くのでありました。
「来間の淹れるコーヒーはちっとも胸焼けしませんな。何か屹度淹れ方にコツがあるのでしょうな。ドリップで淹れても機械で淹れても不思議と大丈夫です」
「来間は何時も比較的薄いコーヒーを淹れるので、それで総士先生の胸も穏やかな儘でいらっしゃるのでしょう。ま、あいつは色々淹れ方の能書きを垂れますが」
 万太郎がクールに種明かしするのでありました。
「いや薄いだけじゃなくて、確かに来間の淹れるコーヒーは香りが立っている」
 鳥枝範士が万太郎の見解に抗うのでありました。「色んなコーヒーを飲みつけているワシも、あいつの淹れるコーヒーは美味いと思うぞ」
「まあ、確かに来間のコーヒーは美味いとして、それくらい稽古の方にも気持ちを入れてくれると、もっと技も上手くなるのでしょうが」
 万太郎はあくまで遠慮がないのでありました。
「おお、折野はなかなか手厳しいな」
 鳥枝範士がそう云って笑うのでありました。あゆみはと云うとただ力なく笑って興堂範士を待つ間のこんな閑話にも、積極的には加わろうとしないのでありました。
 万太郎は秘かにそんなあゆみが大いに気がかりなのでありました。急な興堂範士の来訪が、一体どういう了見からなのかが不安なのでありましょう。
 コーヒーを飲みながら一時間程待っていると、興堂範士が訪れた気配が玄関から伝わってくるのでありました。控えの間に揃っている各々の顔が緊張感を帯びるのでありましたが、是路総士だけは相変わらずゆったりとした表情を変えないのでありました。
 廊下を控えの間に近づく二人分の足音が次第に高くなるのでありました。控えの間の全員が障子戸の方に顔を向けているのでありました。
「道分先生がお見えになりました」
 来間が障子戸の外から告げるのでありました。万太郎は急いで立って、来間よりも早く片膝ついて障子戸を内側から静かに開けるのでありました。
 廊下に正坐した来間とその横に立つ興堂範士の姿が、座敷からの燈火に浮かび上がるのでありました。興堂範士がすぐに是路総士に向かって頭を下げるのでありました。
「あにさん、不躾を承知で、こちらのご都合も考慮せず罷り越しまして相済みません」
 そう云い終ってから興堂範士はゆっくり頭を起こすのでありました。
(続)
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お前の番だ! 319 [お前の番だ! 11 創作]

「なあに、よくいらっしゃいました」
 是路総士が愛想良くそう返すのでありました。「ささ、どうぞ中へ」
 興堂範士は手刀を切りながら腰をやや屈めて座敷に足を踏み入れるのでありました。鳥枝範士が立って座布団を返して、自分が今まで座っていた席を譲るのでありました。
 あゆみは万太郎が居た座へ、寄敷範士があゆみの位置へ、鳥枝範士は寄敷範士が今まで座していたところに夫々ずれて座り直すのでありました。一番下端の万太郎はと云えば、卓を囲む座を遠慮して、一団から少し離れて障子戸を背に正坐するのでありました。
「ほう、コーヒーをお召し上がりでしたか」
 興堂範士が是路総士の前のコーヒーカップに目を遣りながら云うのでありました。
「はい。来間が淹れてくれたのです」
「出来得ればワシも、茶ではなくコーヒーを久しぶりにいただきたいですなあ」
 興堂範士が遠慮なくそう強請ると、是路総士は万太郎の方に視線を送るのでありました。万太郎はそれを受けてすぐに立って台所の方に小走りに向かうのでありました。
「来間、道分先生もコーヒーをご所望だ。お前のコーヒーはなかなか評判が良いぞ」
「押忍。有難うございます」
 丁度日本茶を淹れようとしていた来間は万太郎に云われて、すぐにコーヒーの方に取りかかるのでありました。万太郎は自分でそれを控えの間の方に運ぼうと、コーヒーが淹れ上がるのを椅子に腰を下ろして待っているのでありました。
「何やらこみ入ったご相談のようですね?」
 事情を確とは知らない来間が万太郎に話しかけるのでありました。
「ふむ。まあな」
 万太郎は如何にも口が重そうな風情で曖昧に返事するのでありました。万太郎の無愛想な云い方を聞いて、来間はそれ以上言葉を重ねないのでありました。
「まあそれで、今日罷り越しましたのは、な、・・・」
 控えの間からは障子戸越しに興堂範士の声が聞こえてくるのでありました。顔あわせの雑談が丁度終わって、そろそろ本題に入ろうとしているようであります。
 万太郎がコーヒーを興堂範士の前に置く間、少しの時間話しが途切れるのでありました。万太郎はその後障子戸の方にやや離れて座って、卓の方を見ているのでありました。
 特に誰からも下がっていろと云う命がないから、その儘同座して話しを聞いていて構わないのでありましょう。万太郎はなるべく気配を消して正坐しているのでありました。
「先日のワシが持ってきた話しの件なんですがな、ワシもあの後色々考えましてなあ、その、要するに、全く勝手ながら、あれはなかった事と思し召していただきたいと、こう云う、慎に以って体裁の悪いお願いをしに急遽やって来たのですわい」
 その興堂範士の言葉に、満座の表情が石のように固まるのでありました。勿論万太郎の顔も困惑のために、目が見開かれて口が少しばかり開いた形で凝結するのでありました。
「先日の話しと云うのは勿論、あゆみと威治君の縁談の話しですな?」
 是路総士が意外に落ち着いた乱れの全くない語調で訊くのでありました。
(続)
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お前の番だ! 320 [お前の番だ! 11 創作]

「はい、そうですわい」
 興堂範士は頷くのでありましたが、悪びれたような風情は特にないのでありました。
「それはまた、昨日の今日と云うのに、と云った風ですな」
「いや実は、話しをしておる最中から、あゆみちゃんの顔を見ていたら、これは全く以って頓珍漢な申し出をしておるなと気づいてはおったのですわい。まあ、威治に頼まれてほんの親心でワシの口から二人の縁談を持ちこんだのですがな、あゆみちゃんは威治の事をそう云う対象として見る目は、端から持ちあわせないとすぐに知れたのですわい」
 興堂範士はあゆみの方に温顔を向けるのでありました。「のう、あゆみちゃん」
 そう云われてあゆみは顔を伏せるのでありました。これはあの時、思わず知らず己の気持ちを興堂範士に簡単に読まれて仕舞った武道家としての不覚を恥じる思いと、そう云われて何やら急に、興堂範士に申しわけないような心持ちに駆られためでありましょう。
「それに、なかった事にしてほしいと云うのは、あゆみちゃんの方に不足があるとか、そんな理由では決してなくて、ですな、偏にワシの不覚から的外れなお願いだったと気づいたからなのですわい。実はワシはあゆみちゃんが威治の嫁になってくれるのなら、こんな結構な事はないと云う思いは今でもあるのですがな、まあこれは当方の勝手な願望でありまして、あゆみちゃんにその気がないのだからこれはもう諦めるより他ないのですわい」
 流石に興堂範士はこの間のあゆみと威治教士の間の経緯や状況に疎くても、ほんの一瞬でほぼすべてを過たず察知して仕舞ったようであります。興堂範士が更に凄いのは、それを察知したらなら、事態が動く前にすぐさま修復のための行動をとるところであります。
 この辺りの敏捷さが武道に於いても遺憾なく発揮されるから、是路総士と比肩出来るところまでの上達を得たのでありましょう。そればかりではなく、人間的な信頼感とか魅力とかをも大いに勝ち得て、多彩な人士に持て囃されるその所以でもあるのでありましょう。
「あゆみちゃん、余計な気煩いをさせて仕舞って済まなかったのう」
 興堂範士はあゆみに頭を下げて見せるのでありました。
「いえ、そんな。・・・」
 あゆみも慌てて興堂範士に恐懼のお辞儀を返すのでありあました。しかしその眉宇には何とも云えぬ安堵の色が浮いているのを、万太郎はちゃんと見取るのでありました。
「それにあにさんや鳥枝君や寄敷君、それに折野君に対しても、ワシの無神経を謝らなければならんじゃろうのう。ワシが突然威治とあゆみちゃんの縁談話しを切り出したものだから、屹度要らぬ疑心暗鬼を呼び起こして仕舞っただろうからのう」
 興堂範士は名前を云った夫々の顔を順番に見て、矢張り低頭するのでありました。万太郎は自分まで名指しされたのを畏れ多く思うのでありましたが、これは万太郎が総本部の運営の一端に与っている事を承知しているための、興堂範士の気遣いでありましょう。
 興堂範士の云う疑心暗鬼とは、興堂範士が現れるまで師範控えの間で話されていた、常勝流の跡目を興堂範士が狙っているのではないかと云う問題でありましょう。威治教士とあゆみが結婚すればそう云った小難しい問題も出来するのは当然でありますから。
「ワシは単なる親馬鹿であの申し出をした迄で、他の魂胆なんぞは一切有りませんわい」
(続)
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お前の番だ! 321 [お前の番だ! 11 創作]

 興堂範士はそう云ってから頭を掻くのでありました。「ワシは皆も知っての通り、せっかちでその上迂闊で単純な性分でしてな、一旦親馬鹿が頭を擡げてくると他の事をすっかり失念して仕舞うのですわい。後先を考える事なんぞは昔から大の苦手でしてのう。だから後で家に帰って冷静に考えてみると、ワシの唐突な申し出が要らぬ心配やら疑いやらを引き出して仕舞うのじゃなかろうかと恐れましてな、もう冷や汗がじわっと出ましたわい」
 そう云うものの、しかし興堂範士ともあろう人が、その辺りに思いを致さぬ筈がないではないかと万太郎は推量するのでありました。興堂範士は、多少せっかちな点は当て嵌まるとしても、全く以って迂闊でも単純でもないし、先の事にしても、鋭い独特の勘も働かせて事態の推移の幾手も先まで読み通す事の出来る人なのであります。
 依って興堂範士の実の狙いが奈辺にあったのかは、今のその言葉を聞いただけでは未だ明快には判らないと云うものでありましょう。興堂範士はなかなかの狸でありますし。
「ワシとしては、お騒がせいたしましたと、早々にあっさり頭を下げるのが、要らぬ心配をおかけせずに、しかも無難な帰結を得る最上の策と思いましてな」
「今日の急遽のご来意は、確と判りました」
 是路総士が穏やかに云うのでありました。
「あにさんにはワシの軽率をくれぐれもお詫びしますわい」
「いやいや。事態が動く前に早速にこうしてお出ましいただいたのですから、あの申し出をなかった事とするのは何でもないと云うものですよ」
「あゆみちゃんにも要らぬ気煩いをさせて仕舞って、慎に申しわけない」
 興堂範士は先程と同じ事を繰り返し云って、再度あゆみに頭を下げるのでありました。
「いえ、そんな。・・・」
 矢張りあゆみも前と同じ言葉と仕草で返すしかないのでありました。
「威治にはあの日帰ってからすぐに、あゆみちゃんにはお前と結婚しようと云う意志は小指の爪の先ほどもないと見受けたから、綺麗さっぱり諦めろと因果を含めましたわい」
「それで威治君はどうしていましたか?」
 是路総士が静かな口調で訊くのでありました。
「始めは何だかんだとぶつぶつ云うておりましたがなあ、しかしまあ、最終的には受け入れたようですわい。ですから向後はあゆみちゃんも、何の心配もせんでも良いし、威治に対しても、まあ、これは無神経で虫の良いお願いになるかも知れんが、出来れば蟠りなく今まで通りにつきあってくれれば、ワシとしてはこんな有難い事はない」
 それは全く無理であろうし、あまりに虫の良い願いであろう万太郎は腹の中で思うのでありました。現にあゆみも返答せずに陰鬱気な顔を隠すため俯くのみでありましたし。
「鳥枝君や寄敷君にもあれこれ余計な煩いをかけたろうからワシは謝る。この通りじゃ」
 興堂範士は二人の方に深々と頭を下げるのでありました。「ワシとしては単なる親馬鹿から仕出かした事で、他意は本当に何もないのじゃ。ワシとしても痛くもない腹を探られるとすればこれは慎に不本意じゃから、二人にもここではっきり申し開きしておきたい」
 鳥枝範士と寄敷範士は困惑の表情を浮かべるのみでありました。
(続)
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お前の番だ! 322 [お前の番だ! 11 創作]

「道分さんの本意は判りました。早々に、事が動く前にこうして態々ご足労いただいた誠意も充分伝わりましたよ。ですからどうぞ、それ以上お気に病まれませんように」
 是路総士が一切を完全に飲みこんだと云う頷きを興堂範士に送るのでありました。
「いやもう、それは有難いあにさんのお言葉ですわい。そのご度量に報いるためにも、今までにも増して、こちらへの出張指導には力を入れさせて貰いますわい」
「よろしくお願いします」
 是路総士はそう云って静かに頭を下げるのでありました。興堂範士はその是路総士の低頭に、より深いお辞儀を以って応えるのでありました。
 事がこう素早く収まった以上、鳥枝範士も寄敷範士も、勿論万太郎もそれ以上何やかやと、もの云うべき言葉はもうないと云うものであります。あゆみにしても、未だすっきりと気持ちの整理はつかないとしても、自分の意思が興堂範士に受け入れられたと云う事になるのでありますから、つべこべ文句の重ねようがないと云うものでありましょう。
 興堂範士直々の申し出の撤回でありますから、その重さは重々認識出来るのでありますが、はたしてそれで威治教士が本心から納得しているのかどうかは、不明と云えば不明なのでありました。一旦こう収まってはみたものの、それでも何やら良からぬ魂胆を未だ秘め持って、今後胡乱な動きをしないかどうかと万太郎は懸念するのでありました。
 云ってみれば、虚栄心の人よりもかなり旺盛なるあの威治教士の事でありますから、了見違いからあゆみを逆恨みして、何かしらの陰険な意趣返しを企むかもしれません。そうなったら自分があゆみを守るしかなかろうと、万太郎は秘かに臍を固めるのでありました。
「さて、折角のお出でですから一杯やっていかれませんかな?」
 是路総士が興堂範士に提案するのでありました。
「いやいや、今日はこれで失礼いたしますわい。手土産の一つも持たず急ぎお邪魔したのも非礼なら、その上にお酒までご馳走になっては非礼に非礼を重ねる事になりますわい」
 興堂範士はせわしなく是路総士に掌を横にふって見せるのでありました。「また改めて、今度は威治も連れて正式にお詫びにお邪魔しますわい」
 興堂範士が、威治も連れて、と云った言葉に反応して、あゆみがほんの僅かにたじろぎを見せたのを万太郎は見逃さないのでありました。まあ、あゆみとしては決まり悪さもあって、当分威治教士の顔は見たくはないと云うのが偽らない心持ちでありましょうから。
「いやもうそんなお気遣いは、向後一切必要ありませんよ」
 是路総士が興堂範士の真似をするように掌を何度か横に動かすのでありました。
「それに明日からワシはハワイに行くのです」
「明日からハワイ、ですか?」
「はいな。横須賀のアメリカ海軍基地で愛好会の責任者をしていた者が、今ハワイの方におりましてな、そこに指導に来いと呼ばれとるのですわい」
「ああそう云えば、そんなお話しを、前に確か伺っておりましたかなあ」
「飛行機は夜の便ですから、明日はそんなにバタバタとはしないのですがな、まあそれでも今回はワシ一人での旅行となりますので色々支度もあるのですわい」
(続)
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お前の番だ! 323 [お前の番だ! 11 創作]

「おや、誰もお連れにならないので?」
「そうですな。花司馬も板場も堂下も忙しくしておりますから、今回はワシ一人で行ってきますわい。なあに、ハワイは何度も行っておりますからワシも慣れたものです。それに向うでは、出迎えから宿泊の手配まですっかり調えてくれとるようですからのう。偶には一人で気楽にやんちゃな旅行が出来るのを、実はワシは楽しみにしておるのですわい」
「ああそうですか。それはどうぞお気をつけて」
 是路総士は笑って見せるのでありました。この時には、これが興堂範士との今生の別れになろうとは、その場に居る誰もが思いだにしてはいないのでありましたが。・・・

 興堂範士が帰った後の師範控えの間の中には、妙に弛緩した空気が泥んでいるのでありました。興堂範士は、嵐のように総本部の師範控えの間に現れて、嵐のように去って行ったと云ったと云った按配で、何やら昔のテレビドラマの活劇みたいでありました。
「さて、休みにも関わらず折角お二人にもお越し願ったのですが、まあ、こんな風にあっさり片づいて仕舞って、何やら無駄足をさせたような具合になりましたなあ」
 是路総士が鳥枝範士と寄敷範士に向かって頭を下げながら云うのでありました。
「いやいや総士先生、そんな事はお気になさらないでください。それより何より、拍子抜けするくらいの速さで、あっと云う間に懸案が一先ず片づいたのですから、これは重畳と云うべきところでしょうなあ。あゆみもほっとしただろう?」
 鳥枝範士があゆみの方に目を向けるのでありました。
「ええ、まあ。・・・」
 あゆみは気抜けしたような顔で鳥枝範士を見返すのでありました。それは別に威治教士との縁談がご破算になったのを落胆しているのではなく、これまであれこれ思い悩んだり不愉快に思った事が、一挙に霧消した虚脱感からであるのは云うまでもない事であります。
「ところで、実のところ、あゆみはこれぞと見こんだ誰か意中の人とかいないのか?」
 鳥枝範士が何となく弛んだ心根が口を軽くするのか、そんな事を訊くのでありました。訊かれたあゆみは恥ずかし気に鳥枝範士を見返すのみで、何も応えないのでありました。
「おや、別に否定しないところを見ると、いない事もない、と云うところかな?」
 寄敷範士が口元に笑いを湛えて訊き重ねるのでありました。その問いにも、あゆみは意趣有り気な笑いを返すだけしかしないのでありました。
「若しそんな男がいるのなら、話しておいてくれよ。あゆみの結婚話しにはお前さんの気持ちがどうのこうのだけじゃなくて、常勝流一門の将来が関わって仕舞うんだからな」
 鳥枝範士が口元の笑いを消して、念を押すように云うのでありました。それに対してもあゆみは愛想の笑いは返すものの、小さく頷くだけで言葉を発しないのでありました。
 このあゆみのあくまでも無言を貫く了見はどのような思いに根差しての事なのやらと、万太郎は傍で三人の問答を聞きながら考えるのでありました。確かに意中の人がいるためにあゆみは敢えて否定の言葉を口に出さないのかも知れないし、それとも鳥枝範士の質問や寄敷範士の追及が単に煩わしいので、態々返事をしないのかも知れないのであります。
(続)
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お前の番だ! 324 [お前の番だ! 11 創作]

 若しもあゆみに意中の人があるとすれば、それは一体誰でありましょうや。あゆみの生活の範囲は万太郎と重なるところが多いので、案外容易く目星がつきそうでいて、しかし万太郎にはこれと云って確と思い当る男の顔が浮かばないのでありました。
 新木奈、と云う線は先ずないでありましょう。それから他の門下生達に対する時にしても、あゆみはその様な気配は全く見せないように思うのであります。
 そうなると総本部道場の門下生関連ではないと云う事でありましょうが、それならひょっとしたら興堂派の道場関係者でありましょうか。しかし向うの顔触れにも思いつく儘に名前を列挙したところで、特段該当するような男には思い到らないのでありました。
 花司馬筆頭教士と板場教士は既婚者であるし、堂下は弟分と云う以上の存在にはどうしても見えないのであります。向こうの門下生達にしてもこれはと云う候補の存在は、総本部の門下生達よりも更に印象として薄いように思われるのでありました。
 そうなると武道関連の男ではないかも知れません。例えば幼友達とか、中学や高校時代の同級生や上級生とか、大学時代に交流のあった他の大学の男の学生だとか、まあ色々、そう云った辺りだって考えられなくもないのでありますが、そう云えばこう云った話しを随分前に、良平とした事があるのを万太郎はふと思い出すのでありました。
 それから、書道関連と云う線もあるでありましょう。或いは一人で散歩をしていて偶然道ですれ違った男、と云う事だって可能性として全くなくはないでありましょう。
 そうなると万太郎には全く見当もつかないわけであります。日々の生活の中でかなりの時間を共有しているようでいながら、実はあゆみの全体像からすればほんの僅かな部分しか自分は見てはいないのかも知れないと、万太郎は少し寂しく考えるのでありました。
 いやいや、実際はあゆみに意中の人等は端からいなくて、単に鳥枝範士の質問と寄敷範士の追及に応えるのが億劫なばかりに、だんまりを決めこんだのかも知れないではありませんか。そっちの可能性だって、充分考えられるのであります。・・・
「それにしても道分先生のあの云い分は、丸々信じて良いものでしょうかなあ?」
 鳥枝範士の声が万太郎の思念の流れに割りこんでくるのでありました。
「そうですなあ、あの海千山千の道分先生の事ですから、すっかり本心を打ち明けられたのだと、素直に考えられないところも確かにあります。情勢を判断して一先ず先の申し出を引っこめる形にした方が後々有利と、そう計って云われたのかも知れなませんなあ」
 寄敷範士が腕組みして頷くのでありました。
「総士先生は如何お考えになりますか?」
 鳥枝範士に言葉を向けられて、是路総士は俯いて小指の先で頭を掻くのでありました。
「まあ、態々早々に自ら足を運んで、提案を引っこめて詫びられた事になるのですから、その儘こちらも素直にその篤行を受け入れれば良いのじゃないですか」
「現段階ではそう決着させたとしても、或いは私の杞憂かも知れせんが、どうも私にはこの道分先生の行動は何やらの後図があっての事のように思われてなりません」
 寄敷範士が懸念を表明するのでありました。
「ま、そう疑って繋ってばかりでも仕方がないでしょう」
(続)
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お前の番だ! 325 [お前の番だ! 11 創作]

「確かに道分先生の事ですから、これは前の私の言と矛盾するかも知れませんが、そう滅多な事はされない、と云う風にも思いますけれど。・・・」
 寄敷範士はそう云って口を引き結んで、眉間の皺を深くするのでありました。あの興堂範士の事だから何をしてくるか判らない、と云うある種の懸念も寄敷範士の確かな思いでありましょうし、あの興堂範士の事だからそう滅多な事はしないだろう、と云う彼の人に対する信頼感も、これもまた寄敷範士の確かな思いには違いないのでありましょう。
「まあ、私の立場に対しては道分さんも憚りがおありでしょうし」
 是路総士はあくまでも楽観的なのでありました。
「しかし総士先生に対してはそうであっても、まあ、こんな事を今から云うのも何ですが、総士先生の次の代に対しては、道分先生はもうどのような憚りもないでしょう」
 鳥枝範士がそんな指摘をするのでありました。
「それはそうかも知れませんな。順番からすると私の方が道分さんよりは早く、この世とおさらばする事になりましょうからね」
 是路総士はそう云って笑むのでありました。「しかし道分さんは義理堅い人ですから、それでもあの世の私に義理立てしてくれると、そう私は思いますよ」
「それでも威治の代になれば、それもなくなります。威治は今度の事で、大いに面目を潰した事になりますから、逆にこちらに対して攻撃的になるやも知れませんぞ。その頃になるとワシも寄敷さんも、もう総本部を後見出来るかどうか怪しいでしょうから、あゆみに威治の矛先が向く事になります。となると、威治は何を仕出かすか判ったものじゃない」
「まあ、あゆみがこの道場と私の跡目を継ぐとなったら、の話しですがね」
 是路総士はそう云った後であゆみの方に顔を向けるのでありました。あゆみは特に言葉を発せずに、是路道士の顔を気後れしたような目で見返すのでありました。
 是路総士は恐らくあゆみが常勝流宗家を継ぐ事に対して、大いに及び腰であるのを判っているでありましょう。それはあゆみに前にはっきりと云われたのかも知れないし、日常のあゆみの口ぶりから、気配としてそう感づいていると云うだけなのかも知れませんが。
 何時だったか、もう大分前になりますが、あゆみは自分にそういった心根を打ち明けた事があったのを万太郎は思い出すのでありました。それは確か何かの用事で興堂派道場に二人で向かうために、御茶ノ水駅から近辺を緩々歩いていた時でありましたか。
「あゆみのためにも、そう云った憂いは早々に掃っておきたいとワシは考えます」
 鳥枝範士もあゆみに目を遣るのでありました。もうすっかりあゆみが常勝流の跡目を継ぐものと決めてかかっているその目を持て余すように、あゆみは俯くのでありました。
「あのう、そのご懸念には、及ばないでしょう、多分」
 万太郎が座敷の隅の方から突然そう呑気そうに声を上げるのでありました。卓を囲んでいる皆の視線が万太郎に一斉に向くのでありました。
「ほう、折野はどう思っているのかちょっと話してみろ」
 是路総士が万太郎の発言を許すのでありました。
「神保町の若先生が、万事に於いてあゆみさんに敵うわけがありませんから」
(続)
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お前の番だ! 326 [お前の番だ! 11 創作]

 万太郎は明快にそう口走るのでありました。「武道の実力でも、頭の良さでも、人間的な強さに於いても、それに門下生達の信頼感も周りの色々な方々の評判と云う点でも、何をとっても、若先生には申しわけないですが、あゆみさんの方が数段上だと僕は思います」
「それは云うまでもない」
 鳥枝範士がその点は全く頷くのでありました。
「だったら、若先生が若しも邪な魂胆から、どのような悪策を仕かけてきたとしても、あゆみさんにはおいそれとは通用しないと云う事です」
「まあ確かに、威治の考えそうな悪巧みなんぞと云うのは児戯に等しいだろうがな。しかしすっかり侮っていると、寝首をかかれる事だってある」
「では、侮らなければ良いのです」
「つまりそれなりの注意をおさおさ怠らなければ、恐れるに足らずと云うわけだな」
 鳥枝範士はそう云って口を尖らせて二度頷くのでありました。
「まあ確かに、相手が道分先生ではなくて威治となれば、何をされようとこちらが泰然自若としておれば、大概の事はそれで大丈夫でしょうな」
 寄敷範士も頷くのでありました。
「それに、今から将来の取り越し苦労をしても仕方がないですな」
 是路総士がそう云うのでありましたが、些か曖昧過ぎはしますが、これが本日の相談事の結論と云う事になるでありましょうか。興堂範士の申し出はあっさりと引っこめられたのでありますから、当面の問題は確かに解消したと云う事にはなるでありましょうし。
「あのう、折角将来の話しが出たので、この際あたしの考えを、・・・」
 あゆみが不意に言葉を発するのでありました。
「まあまあ、あゆみ、今日のところはこれにてお開きとしよう」
 空かさず是路総士があゆみのその後の言葉を遮断するのでありました。「喫緊の話しでないのなら、今日でなくともこの後幾らでも話す機会もあるだろうし」
 是路総士のそのもの云いには、どこか断固とした威厳が漂っているのでありました。それに気圧されたようにあゆみは口を噤むのでありました。
「ねえ万ちゃん、ケーキ食べに行くけどつきあって。驕るから」
 鳥枝範士と寄敷範士の帰宅を見送った後で、あゆみが玄関で万太郎にそう話しかけるのでありました。数日来の懸案が急転直下解決したものだから、気も晴れて、あゆみは急にケーキでも食べたくなったと云うところかと万太郎は考えるのでありました。
「押忍。喜んでおつきあいさせていただきます」
 万太郎も何となく気持ちが軽くなってそう弾んだ声で応えるのでありました。
「注連ちゃんも行く?」
 あゆみは一緒に見送りに出てた来間にも聞くのでありました。
「いえ、自分は残ります。どうぞお二人で」
 来間は辞退するのでありました。万太郎とあゆみの間に自分が挟まるのを何となく遠慮するような気配が、来間の無表情の中に隠れているのに万太郎は気づくのでありました。
(続)
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お前の番だ! 327 [お前の番だ! 11 創作]

 万太郎とあゆみは仙川駅近くの、線路を跨ぐ橋を渡った先にある喫茶店に入るのでありました。もうほんの少し歩けば甲州街道に出る辺りでありました。
「何かほっとしたら、すっかり力が抜けちゃったみたいよ」
 ケーキとコーヒーを待つ間にあゆみがそう話しかけるのでありました。
「どうしたものか、当事者でもない僕も今、妙に気抜けしています」
 そう応える万太郎はどことなくこのゴタゴタを経過した後のあゆみの面貌が、何時もと違って妙に艶めいて見えるのでありました。あゆみの顔には特段の変化はないようでありましたが、そうなると自分の目の具合でそう見えると云う事になるでありましょうか。
 これは一体どう云った按配の我が眼球の状態であろうかと、万太郎は目を何度か瞬かせるのでありましたが、目の機能には別に異常はないようでありました。と云う事は、目のそのまた奥にある、脳ミソの表面に何やらの変化が起こったと云う事でありましょうか。
「万ちゃん、目の調子でも悪いの?」
 あゆみが心配そうな表情をして顔を近づけるのでありました。
「いや、そう云うわけではないのですが。・・・」
 万太郎はそう云いながら近づいて来るあゆみの顔に何故かたじろいで、ゆるゆると遠のくように上体を背凭れの方に引くのでありました。あゆみは近づけた顔をその位置に固定して、万太郎の目の様子を観察するようにじっと見入っているのでありました。
 万太郎は何となく気恥ずかしくなってきてあゆみの目から視線を逸らすと、運ばれて来たコーヒーにミルクを加えてスプーンでやや乱暴に掻き回すのでありました。深みのある墨茶色の半透明の液体の表面に白い渦巻模様が揺らめいて、それがすぐに馴染んで仕舞うと、コーヒーは狐色の全く不透明な液体に変化しているのでありました。
「万ちゃん、何時もはコーヒーにミルクなんか入れたっけ?」
 あゆみが万太郎のスプーンを持った手元を見ながら訊くのでありました。
「気が緩んだせいか、ちょっと気紛れをしたくなって入れてみたのです」
「ふうん。万ちゃんがコーヒーにミルクを入れるのは、初めて見るような気がするわ」
「ああそうですかねえ」
 万太郎はスプーンを受け皿に置きながら云うのでありました。「それよりも、ちょっとお訊きしたいことがあるのですが、よろしいでしょうかね?」
「何? 別に構わないわよ」
 あゆみはそう云いながらレアチーズケーキを一口頬張るのでありました。
「先ず、先程の三先生との話しあいの最後の辺りで、折角将来の話しが出たので、この際だからあゆみさんの考えを、・・・とか云うような事を喋り始められましたが、あれは常勝流の宗家を継ぐ気がないと、そう云うお気持ちを表明されようとしたのでしょうかね?」
「そう。その通りよ。でもお父さんに止められたけれどね」
「あゆみさんは本当に宗家を継ぐご意志がないのですか?」
「これはあたしの勝手で決められる程簡単な問題じゃないかも知れないけど、でもあたしとしては出来ればそれは勘弁して欲しいって思っているのよ」
(続)
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お前の番だ! 328 [お前の番だ! 11 創作]

 あゆみはコーヒーを一口飲むのでありました。「あたしが継がなくても、色んな方面の人達に大方納得して貰えるような、もっと良い決着があると思うの」
「古武道としての一子相伝と云う技術の伝承の問題、それから家元制度上の血統の継承の問題を考えてみれば、矢張りあゆみさんが宗家に落ち着くのが、それこそいろんな方面の人達が大方納得出来る最終的な結論のような気が、僕なんかはしますがねえ」
「でも、古武道の文化の上からは、あたしが女である事が決定的に、大方の納得しないところって事になるんじゃないかしら」
「しかし女性が武道の宗家となった事例が、ない事もないでしょう」
「でも結局、殆どは流派全体があんまり上手く纏まらなくなって仕舞ったんじゃないの」
 要するに、あゆみはあくまでも自分が宗家になる事を回避したいようでありました。
「鳥枝先生なんかはもうすっかり、あゆみさんが総士先生の後を継ぐものと、決めてかかっている節があるように見受けられますが」
「でも、お父さんはあたしの考えに、屹度同調してくれると思うんだけどなあ」
 あゆみはそう云ってチーズケーキを頬張るのでありました。
「まあこれは緊急の問題ではないので、その内により良い結論が導かれるでしょう」
 万太郎は口の端についた自分の食しているショートケーキのクリームを、親指で拭いながら云うのでありました。「それからもう一つ、お伺いしたい事があるのですが、・・・」
「何? この際何でも訊いて良いわよ。何でも応えちゃうから」
 あゆみは万太郎の次の質問を待ち受けるように、フォークを置いて身を乗り出して万太郎の方を一直線に見るのでありました。そう云う風に構えられると、万太郎としてはこれから訊かんとする質問を口の外に出すのに、妙に及び腰になって仕舞うのでありました。
「いやあ、これは道分先生が帰った後の話しの中で、ちょろっと僕が引っかかった部分なんですが、まあ、引っかかったのは僕だけかも知れませんが」
「だから何?」
「ええと、つまりそのう、・・・あゆみさんは、今現在、意中の人とか居るのですか?」
 万太郎はそう訊いた後、あゆみの自分を見る視線にたじろぐのでありました。あゆみは表情を少しも変えずに万太郎をしっかり見ているのでありました。
「万ちゃんの引っかかった部分、と云うのは、その事?」
「ええまあ、ちょろっと、ですが。・・・」
 万太郎はそう云いながら右手の人差し指と親指で二センチほどの間隙を作って、あゆみの顔の前に、ちょろっと、の程度を示して見せるのでありました。
「意中の人、ねえ」
 あゆみはそう云って背凭れにゆっくりと上体を沈めるのでありました。
「鳥枝先生の質問にも寄敷先生の質問にも、あゆみさんは曖昧に笑って思わせぶりな無言を貫かれましたので、少々気になったと云うわけです」
 万太郎は親指と人差し指の間の隙間で、またその少々の具合を殊更示すのでありました。
「意中の人が居るってあたしがここで云ったら、万ちゃんはどうする?」
(続)
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お前の番だ! 329 [お前の番だ! 11 創作]

 あゆみはそう云って意味あり気に笑うのでありました。
「いや、どうすると云われても、どうも仕様がありませんが。・・・」
 万太郎はそう受け応えてどぎまぎと顔を伏せるのでありました。
「居るかと訊かれれば、居る、と云う返事になるわね」
「ああそうですか」
 万太郎は顔をゆっくり上げるのでありました。そのあゆみの応えを聞いて、何故か心臓の辺りがざわざわと騒ぎ痛むような感覚を覚えるのでありました。
「結構、素敵な人よ、その人は」
 あゆみはまたもや意味あり気な笑いを頬に刻むのでありました。
「その人は、僕も知っている人でしょうか?」
「勿論、万ちゃんも知っているわよ」
 万太郎にはしかし矢張り、全く見当がつかないのでありました。あゆみの言葉に、勿論、と云う副詞がついているからには、万太郎が良く知っている男なのでありましょうが、まあ、少なくとも散歩中に偶々道ですれ違った男と云うのではないようでありますか。
「そう云われても、僕には特に思い当りませんねえ」
「ああそう。それは、・・・残念ねえ」
 あゆみは少しがっかりしたような調子で云うのでありました。万太郎は心当たりのありそうな男の顔をあれこれ手あたり次第に思い浮かべるのに忙しくて、何故あゆみががっかりしたような調子で、残念、と云うのかを冷静に考えてみる暇もないのでありました。
 要するにそう云う男が一方に居るものだから、あゆみは宗家を継ぐ事に難色を示していると云うわけでありましょう。あゆみが宗家を継げばその男を諦めなければならないし、その男を取るなら宗家になる事が障りとなると云う事なのかも知れません。
「その人が居るから、あゆみさんは宗家を継ぐのを躊躇っているわけですか?」
 万太郎はその辺の事情を探ろうとしてあゆみにそう問うのでありました。そこがはっきりすれば、少しは候補の男を絞りこめそうな気がするからであります。
「そうね。・・・でも、ひょっとしたら、そうでもないのかも知れないわ」
 何と云う曖昧な回答でありましょうか。宗家を継ぐ事に障りとなる男のような、特段の不都合がないようなそんな男を絞りこむのは、これは返って難事と云うものであります。
「常勝流の門人、或いはもっと広く、武道界に身を置いている人でしょうかね?」
「そうね。武道をやっている人よ」
 これで少しは限定が出来たわけでありますが、しかし未だ燈火の消えた内弟子控え室で自分の黒帯を探すような按配であります。もう少しその男の面貌が明らかになるような問いかけはないものかと、万太郎はあゆみの意味あり気な笑い顔を茫洋と両眼に捉えて、腕組みして頭の中で質問とするべき言葉の色んな組みあわせを考えているのでありました。
 端的に、それは誰かと名前を尋ねれば話しは早いでありましょうが、何となくそう云う直截な質問は憚られるような気がするのでありました。第一、露わな聞き方は如何にも無粋で、拒絶反応を引き起こしたりするとあゆみは口を堅くするでありましょうし。
(続)
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お前の番だ! 330 [お前の番だ! 11 創作]

「判らない?」
 あゆみが、喋るのを忘れて考えこむ万太郎に言葉を向けるのでありました。
「いやあ、内弟子控え室の電気は、未だ消えた儘ですねえ」
 万太郎は顔を起こして至極真面目な表情でそう応えるのでありました。
「内弟子控え室の電気?」
 あゆみが眉間に皺を刻んで混乱の顔を見せるのでありました。
「ああ、要するに皆目見当がつかないと云う事です」
 見当がつかない、と云うのと、燈火の消えた内弟子控え室、と云う言葉の関連性が今一つ明快に判らないながらも、あゆみは万太郎の困り果てた頭の中の様子は何となく想像出来たようで、思わずと云ったように微笑んで何度か頷いて見せるのでありました。
「ピンとくる人は、もう十分ピンときている筈よ、それだけ云えば」
「どうも人間が鈍感に出来ているせいか、僕はピンともシャンともきません。如何にも察しが悪くて相済まない次第ですが」
 万太郎はそう云って、背筋はピンと伸ばしてあゆみに頭を下げるのでありました。
「万ちゃんがピンとこないのなら、もうこの話しはこれで止しましょう」
 あゆみは万太郎から目を外してチーズケーキにフォークを刺すのでありました。万太郎は自分の愚鈍を無言に叱られているような気がするのでありました。
 その後あゆみは妙に無愛想になるのでありました。屹度自分の間抜けさ加減にげんなりしたのであろうと万太郎は推察して、慎に申しわけない思いに胸が痛むのでありました。
 しかしあゆみに意中の人が居ると云うその事実自体が、実は万太郎にはかなりの衝撃だったのでありましたし、その衝撃のために血の巡りが何時もにも況して滞ったが故に余計、ピンともシャンともこなくなったのであろうと思うのでありました。万太郎は寡黙になったあゆみを忍び見ながら、冷めたコーヒーを寂しく口の中に流しこむのでありました。

   ***

 真夜中の家中が寝静まった闇の中で居間の方にある電話の鳴り響く音が、内弟子部屋の布団の中に居る万太郎の耳にも微かに届くのでありました。万太郎は首を捻じ曲げて枕元に置いてある目覚まし時計に目を遣るのでありましたが、夜光塗料の光がもうすっかり薄れて仕舞っていて、時間を確認する事は出来ないのでありました。
 万太郎の横に敷いてある布団がめくれる気配がするのは、そこに寝ていた来間もその呼び出し音に目覚めたためでありましょう。
「こんな夜中に何の電話だ?」
 万太郎がそう声を上げると来間がゴソゴソと布団の上に立ち上がって、天井から釣り下がる蛍光灯の紐を引いて明かりをつけるのでありました。万太郎も目を覚ましている様子なので、安心して灯火を点けたのでありましょう。
「こんな時間に電話が鳴るのは妙ですね」
(続)
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