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お前の番だ! 10 創作 ブログトップ

お前の番だ! 271 [お前の番だ! 10 創作]

 万太郎はそれ以上の遣り取りを中断させようと、その場に足を向けるのでありましたが、あゆみが居るのだから大丈夫であろうと途中で思い直すのでありました。若し威治教士が何か妙な真似でもしようとしたら、自分よりあゆみが先に止めるでありましょうから。
 万太郎はあゆみにその場の差配を任せて、他の門下生達への指導を再開するために踵を回すのでありました。威治教士にしてもまさかあゆみの目の前で顰蹙を買うような真似なんぞを、幾ら無分別だと云っても、好んで仕出かす事はない筈であります。
 しかし万太郎の後頭部を、すぐに新木奈の憚りのない悲鳴が直撃するのでありました。万太郎がいそいで首を回すと、畳に頽れて右肩を左手で庇うように抑えた新木奈と、その傍でその新木奈を睥睨するように立つ威治教士の姿を認めるのでありました。
「大丈夫ですか、新木奈さん?」
 あゆみが身を屈めて新木奈に顔を近づけるのでありました。
「ああ、いや、大丈夫です」
 新木奈は立ち上がって肩の具合を見るように何度か腕を回すのでありました。それから不体裁を繕うようにあゆみに笑いを送るのでありました。
 どうやら重大な事故が起こったと云うのではないなと、万太郎は一先ず胸を撫で下ろすのでありました。万太郎は少し離れてその場の様子を窺うのでありました。
「お前は随分大袈裟な声を出すヤツだなあ」
 威治教士が憫笑を浮かべて新木奈に云うのでありました。「そのくらいで悲鳴を上げているようなら、武道の稽古なんか出来ないだろう」
 そう云われて新木奈は怯えと敵意と屈辱感が綯い交ぜになったような表情で、威治教士を及び腰で見返すのでありました。
「威治先生、専門稽古でもないのに、いきなり肩の強い制圧は控えてください」
 あゆみが憮然とした表情で威治教士の無神経さに抗議するのでありました。
「いや、特に強く極めたわけではないよ。コイツが大袈裟な声を上げただけだ」
 威治教士はあゆみに繕うような笑いを向けた後に、もう一度新木奈の顔を見るのでありました。新木奈は如何にも小心そうにその視線を反射的に避けるのでありました。
「でも、相手が一般門下生である事を考慮していただかないと困ります」
「一般門下生だとしても黒帯を締めているんだから、この程度で悲鳴を上げるのは可笑しいよ。ウチの道場だったら白帯の初心者でも平気でこれくらいは耐えるが」
「ここはオタクの道場ではありません」
 あゆみが威治教士のあくまでもの抗弁に憤りの色を表すのでありました。
「何かありましたか?」
 何やらすぐに片づきそうにないものだから、仕方なく万太郎が間に入るのでありました。横から現れた万太郎に、威治教士は如何にも不快そうな目を向けるのでありました。
「俺の一本取りにコイツが過剰な反応をしただけだ」
 威治教士は新木奈を指差すのでありました。その指差す威治教士の姿を、万太郎は敢えて表情を加えない目で見据えるのでありました。
(続)
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お前の番だ! 272 [お前の番だ! 10 創作]

 要するに、稽古中にあゆみにじゃれつくような態度の新木奈を後ろから目撃し、悋気を起こした諸事に無分別な威治教士がそれを懲らしめようとして、技に託けて必要以上の痛みを、選りによって道場作法に日頃から弁えのない筆頭格の新木奈に与えたために起こった、何とも下らない不体裁であろうかと万太郎は内心げんなりしているのでありました。万太郎としては両者に即刻の退去を云い渡したいところでありましたが、相手はこの道の先輩であり他派の人でもある威治教士と、内弟子でもなく専門稽古生でもない一般門下生の新木奈でありますから、そんな荒けない事も成る丈しないで済ませたいのでありました。
「若先生、総本部での一般門下生稽古では少し手加減をお願いします」
 別派とは云え指導者であるのだから、威治教士に手加減をせねばならない理由を逐一あれこれ云い聞かせる必要もないかと、万太郎はそれだけ静かに云うのでありました。威治教士は万太郎を挑むような目で見るのでありましたが、万太郎はそれに取りあわないで、半眼の無表情の儘、静穏な顔を威治教士に向け続けているのでありました。
「何か、俺が酷い事を仕出かしたみたいな雰囲気になっているが、・・・」
 威治教士は抗弁をしようとするのでありましたが、半眼の奥の万太郎の目が意外に強梁な光を発しているのを認めて、竟たじろいで後の言葉を曖昧にするのでありました。
「新木奈さんも、稽古中は無闇な発声は慎んでください」
 万太郎は丁寧な言葉つきで、矢張り無表情な顔を新木奈に向けて云うのでありました。新木奈は、怒っていると云うよりは寧ろ鉄壁に微笑んでいるように見える万太郎の無表情に、返って圧倒されて怯んだように声もなく頷くのでありました。
「さあ、それではこれでこの場は納めて、稽古を続けましょう」
 万太郎が促すと先ずあゆみが万太郎に一礼してから、その場を離れて回り指導に復帰するのでありました。威治教士もあゆみとは違う方向に離れていくのでありました。
「皆さん方も稽古を再開しましょう」
 万太郎は手を止めてその場の推移を遠巻きに見ていた周りの門下生達に、どうぞ、とでも云うように両手を差し出すような仕草をして見せるのでありました。
 これでこの場は短時間に一応無事に収めた事になるかと、万太郎は安堵して小さく溜息をつくのでありました。その万太郎の溜息を聞きつけて、すぐ近くにいた新木奈が何を勘違いしたのかビクリと体を震わせたのは、万太郎には意外の反応でありましたか。

 稽古を終えて、万太郎が稽古の無事の終了を是路総士に報告するため師範控えの間に行くと、威治教士が部屋の隅で着替えをしているのでありました。威治教士はちらと万太郎の方に目だけを向けてから、万太郎の出現を無視して着替えを続行するのでありました。
 万太郎は一応作法から、お客さんである威治教士の方に座礼を送るのでありました。その後に是路総士に対して、格式張って低頭するのでありました。
「押忍。本日最後の一般門下生稽古を滞りなく終了いたしました」
「はい、ご苦労さん」
 是路総士は座卓の向こうから万太郎にお辞儀を返すのでありました。
(続)
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お前の番だ! 273 [お前の番だ! 10 創作]

「どうだったかな、ウチの道場長代理の稽古は?」
 是路総士は着替えを終えて座卓の方に来た威治教士に言葉を向けるのでありました。
「なかなか締まった、良い稽古でした」
 威治教士にしては珍しく、そつのない返答が返ってくるのでありました。ただ、如何にもそつのない返答を敢えてしているのだと云う意地の悪い仄めかしが、その無表情の顔にちゃんと潜ませてあるように万太郎には見受けられるのでありました。
 そこへあゆみが茶を持ってくるのでありました。あゆみは先程の稽古時の不体裁な経緯があるものだから、何となく威治教士の前に冷淡な手つきで茶を置くのでありました。
「飯の支度が出来ているのなら、威治君の分と私の分を持ってきてくれるか?」
 是路総士が盆を小脇に立とうとするあゆみに云うのでありました。
「ではすぐに運ばせます」
 あゆみはそう云って立ち上がるのでありました。運ばせます、と云うのでありますから、あゆみは自身でそれを運んでくる気はないのでありましょう。
「あ、いや、ちょっと用があるので、無調法ですが俺はこれで失礼します」
「何だ、もう帰るのかい?」
「ええ。ウチの親父さんでもないのに、俺がそんな厚意に与ると叱られますし」
「そんな事はあるまいよ。遠慮は無用だ」
 是路総士は威治教士に笑いかけるのでありました。
「いや、今日のところは本当にこれで失礼します」
 威治教士は是路総士の顔の前に掌を向けるのでありました。察するに、先程の稽古で自分が仕出かした不手際を恥じて、早々に退散したいと云うところであろうかと万太郎は考えるのでありましたが、それ程恥を知る威治教士でもなかろうとも思うのであります。
「まあ、そんなに云うのなら敢えて引き留めんが」
 是路総士は興醒めな表情をするのでありました。威治教士の食事の用意は手落ちなくしてあるであろうに、あゆみも一向に引き留める言葉を口から出さないのでありました。
 あゆみのこう云う冷淡な風情が癪に障って、威治教士は帰ると云い張るのだと云うのが万太郎の推察でありました。しかしそれ程シャイでもなかろうとも思うのであります。
「また後日、ゆっくりとお邪魔しますよ。あゆみちゃんの料理も魅力だし」
 威治教士はそう云って、立った儘で是路総士と威治教士の遣り取りを窺っていたあゆみに笑いかけるのでありました。あゆみは不興そうに瞼で一礼のみ返すのでありました。
「それならお父さんによろしく伝えてくれ」
 是路総士も長々とは引き留めにかからないのでありましたが、これは人つきあいに対しては諸事にあっさりとしている是路総士の何時もの応接流儀でありましたか。
「その内に、立場の同じ者同士で、あゆみちゃんとも色々意見を交換したいから、改めてゆっくりお邪魔しようと思っていますよ」
 威治教士はもう一度あゆみの方に視線を投げるのでありました。あゆみは先程よりももっと無愛想に無言で一礼するのでありました。
(続)
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お前の番だ! 274 [お前の番だ! 10 創作]

「それは有難い。あゆみに色々教えて遣ってくれ」
「教えるなんて烏滸がましいですが、俺は少し長く道場長と云う役職を経験しているから、あゆみちゃんのためになるような事も少しは話せるでしょう。あゆみちゃんには常勝流総本部道場長として、これから大いに活躍してもらいたいし、協力は惜しみませんよ」
「一つよろしく頼むよ」
 是路総士は威治教士に浅く頭を下げるのでありました。
「なあに、お安いご用です。俺はあゆみちゃんの兄貴のような心算でいますから」
 威治教士はまたもあゆみを見るのでありました。あゆみはこう云われては、礼儀から冷淡一辺倒ではいられないと思ったのか、愛想に少し口を綻ばすのでありました。
 あゆみのこの妙ちきりんな笑いは威治教士に対する愛想笑いではあるものの、見た目としては、無愛想笑い、とも云うべき笑いではないかと万太郎は何となく考えるのでありました。要するに、無愛想を誇張して仕舞うところの愛想と云う、複雑な表現でありますな。
 しかしそれにしても威治教士は道場で今の今、あんな不調法を演じて見せておきながら、いけしゃあしゃあと如何にもしおらし気な事を平気で宣う辺り、矢張り恥を知りもしないし、全く以ってシャイでも何でもないと云う事であるなと万太郎は断じるのでありました。その厚顔無恥に開いた口が塞がらない、とはこういう場面で使う言葉でありましょうか。
「ではこの辺で失礼します」
 威治教士は是路総士に低頭してから立ち上がるのでありました。礼儀から万太郎とあゆみは威治教士を門まで出て見送るのでありました。
「また近い内に」
 威治教士は門の内からお辞儀をするあゆみに、にこやかに手を上げて見せるのでありましたが、特段道場での自分の不調法を気に病んでいるような気配も更々なく、あゆみに如何にも爽やかそうな笑いを送って寄越す辺り、あの事を不調法とは端から思ってもいないのでありましょう。いったいどういう神経をしているのかと万太郎は、呆れると云うよりも何故かその人格に畏れのようなものまで感じて仕舞うのでありました。
 この威治教士の「また近い内に」は、すぐに実現するのでありました。何をどう考えたのか、それから後威治教士は二週に一度程総本部道場を訪うようになるのでありました。
 それも決まって一般門下生稽古の時間を狙って顔を出すのでありました。別に取り決めたわけでもないのに、それは何となく恒例化するのでありました。
 まさか来るなとは云えないので万太郎としては閉口するのでありましたし、あゆみとて屹度同様であったでありましょう。是路総士は特にそれを問題とは思っていない様子で、稽古にちょっとした刺激が加わるだろうと云う気楽な見通しであったでありましょう。
 興堂範士も威治教士の言に依れば、交流促進として威治教士の出稽古を好意的に見ているようでありましたし、寧ろ推奨していると云う事でありました。しかし威治教士の魂胆は、あゆみに逢いたさに繁く通って来ているだけなのだと判り切っているのであります。
 威治教士の一般門下生稽古への参加で現実の弊害が出たならば、万太郎は是路総士に談判する心算でありました。早手回しに事を起こせば、角が立つでありましょうから。
(続)
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お前の番だ! 275 [お前の番だ! 10 創作]

 是路総士は威治教士が来た時には、見所へ座る事は先ずないのでありました。若い者で適宜切り盛りしろと云う配慮であるようでありました。そうなったら威治教士は自分の頭を押さえる者が道場にいないのを幸いに、次第にやりたい放題にふる舞い出すかと思われたのでありましたが、万太郎が危惧する程に不埒な真似はしないのでありました。
 最初に仕出かした無調法を、その表情からは窺い知ることが出来ないながら、少しは悔いているようであります。幾ら無神経な威治教士とて、あゆみの不興を買うのは全く本意ではないと自重していると云うのであるなら、満更愚かでもないと云うものでありますか。
 しかしそうなると心穏やかでないのは新木奈でありました。新木奈はあれ以来、威治教士を大の苦手とするようになるのでありましたが、まあ、それも当然でありましょう。
 初対面で不意に痛めつけられて、痛がって見せると武道を習おうとする者の了見でないと怖い顔で詰られるのでありますから、それはもう立つ瀬もないと云ったところでありましょうか。元々新木奈は、技を施される時の痛みに対して必要以上に構えるところがありましたし、自分より格上の人間に対しては敬遠して近づかない態度でありましたから。
 稽古中に回り指導をしている威治教士が傍に来ると途端に、新木奈の全身が緊張のために硬くなっているのが傍目にもはっきり判るのでありました。再び激痛を伴う指導を受けたり屈辱的な言葉を浴びせられでもしたらどうしようかと、新木奈は自分の稽古相手よりも、傍にいる威治教士の方に過剰に意識を向けて緊張して仕舞うようでありました。
 威治教士も、何かちょっかいを出すと大袈裟過ぎる反応をする厄介なヤツだと新木奈の事を思いなしてか、全く言葉もかけないし指導もしないのでありました。ただ、傍に立ってじっと新木奈の動きを眉根を寄せながら見ていたりするのは、威治教士のある種の威迫行為で、新木奈の心を掻き乱して面白がっているようではありましたか。
 威治教士の姿が道場に在る場合には、新木奈は何時も見せるヘラヘラ笑いは極力控えているのでありました。これに関してのみは威治教士の稽古参加が齎した思わぬ好都合な効果であるかなと、万太郎は多少複雑な表情で少しくは歓迎するのでありました。
 威治教士の稽古参加は二週に一度の割ではあるけれど、決まった曜日に来ると云うわけではないのでありました。でありますから威治教士のやって来る日だけ、選んで稽古を休むと云う対策も新木奈には出来ないのでありました。
 新木奈としては威治教士と同様、別に稽古が主たる目的ではなく、あゆみに逢いたさに通って来ているのでありますから、これは実に悩ましい問題でありましたか。あゆみが最近道場に常駐するようになったのは大いに歓迎するところでありますが、それとほぼ同時に現象するようになった威治教士の稽古参加は、思いの外の困厄だったでありましょう。
 あゆみに対する忠義立てから稽古は休まないようにしたいし、二週に一度とは云え道場で威治教士の顔を見るのは何にも増して気が重いし、嗚呼何と世の中は儘ならぬ事よと、屹度新木奈は己が不運を嘆いているでありましょう。万太郎としては、そう云う新木奈の心境を色々忖度するのは特に不愉快な事でもないのでありました。
 この点万太郎も結構人が悪いと云う事が出来るでありましょうか。威治教士にこれまでの新木奈に対する苦々しい思いの、意趣返しをして貰っているような按配でありますか。
(続)
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お前の番だ! 276 [お前の番だ! 10 創作]

 しかしすぐに、総本部道場を主導的に運営しそこで行われる稽古を統括する者の一人として、そんな不謹慎な了見ではいかんと万太郎は自分の不見識を自ら叱るのでありました。技術は教える者の品格を介してしか学ぶ者に正確に伝わらないと云う、武道技の授受の鉄則からしても、人知れずとは云え不埒な思考は万太郎には絶対に許されないのであります。
 ところで、もう一人の運営者であり統括者であるあゆみは、この辺のところをどう云う具合に考えているのでありましょうか。チャンスさえあれば何かと自分を売りこみたがる二人の男共の騒がしさを、少なからず持て余しているように見受けられるのでありますが。
 勿論あゆみは二人の男共の自分に対する熱気を、疾うに判ってはいるでありましょう。しかし男共の意気軒昂な狂騒に比べると、あゆみの二人に応接する態度はなかなかに何時も、しいんと静まっているように万太郎には思われるのであります。
 静まっている、或いは見方に依っては冷ややかであると云う事はつまり、あんまり二人の男共の自分に対するご執心ぶりを歓迎していないと云う事でありますか。いや勿論、あゆみが万太郎の想像の限界を超えた狸でないなら、と云う前提でありますが。
 さてところでそれにしても、あゆみは実際に、狸ではないでありましょうや? 万太郎はふとそんな事を考えてみるのでありました。
 普段接するあゆみは如何にも違うように思われるのでありますが、それは若しかしたら万太郎のあゆみに対する油断が、彼の眼に知らず知らずに薄膜をかけて仕舞っていて、あゆみの実相を見えにくくしているのかも知れないではありませんか。いやしかしまさか、あゆみに限って狸なわけがないかと万太郎は疑念をふり払おうとするのでありました。
 しかししかし、他人の本性を見抜くなんと云う冷徹な観察眼が自分に備わっているとも、万太郎には到底思えないのでありました。特に世に棲む女なる生物は一般的に男には不可解至極なる翳を多く有する生き物のようでありますから、万太郎の如き世知にちっともたけない男なんぞは、いとも簡単に騙くらかされ仕舞うに決まっているでありましょう。
「万ちゃん、あたしの顔に何かついているの?」
 狸かも知れない不可解至極な生き物が、いやあゆみが、万太郎の顔を覗きこむのでありました。万太郎は慌てて数度瞬きをして、あゆみの顔から目を逸らすのでありました。
「ああいや、別にそうではないのですが。・・・」
 夕食の片づけも終えて、風呂場に行っている是路総士とその介添えの来間が居なくなった食堂のテーブルに、あゆみと差し向かいで座ってコーヒーを飲んでいる万太郎は、何となくばつの悪そうな仕草でカップを口に運ぶのでありました。
「あゆみさんは神保町の若先生が稽古に参加すると、指導がやり難いですか?」
 万太郎は取り繕うようにそんな質問をあゆみに投げるのでありました。
「そうね、何をやらかすか油断がならないと思って、最初はちょっとげんなりしたけど、あれ以後は特に何も仕出かさないから、今ではそんなでもないわ」
 あれ以後の、あれ、とは威治教士が一般門下生稽古に参加した初日、新木奈の肩を必要以上に強く極めて、新木奈に悲鳴を上げさせると云う不体裁があったあの時であります。
「あゆみさんに対しては、若先生はなかなか協力的ですからねえ」
(続)
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お前の番だ! 277 [お前の番だ! 10 創作]

「それにしても、迂闊に気は許せないけどね」
「まあ、あゆみさんに良いところを見せたいのでしょうから、あゆみさんが道場に居れば滅多な事は仕出かさないと思いますが、若し何かの都合であゆみさんが居ない場合は、非常に遠慮のない態度に出るんじゃないかと僕は危惧しているのですけど」
「あたしに良いところを見せたいのかどうかは知らないけど、でも、脇から見ていると威治さんは万ちゃんの目を、かなり意識していているような気配が感じられるわよ」
 あゆみはそう意外な事を云って円らな瞳で万太郎の顔を覗きこむのでありました。
「それはどうでしょうかねえ?」
「まあ、敬意とか云うのじゃないけど、でも、少し畏れているんじゃないかしら」
「畏れている、ですか?」
 万太郎は怪訝な顔を向けるのでありました。
「勿論プライドからそんなところははっきり見せっこないけれど、でも、道場では何となく万ちゃんの一挙手一投足に、かなりの注意を向けているように感じるわ」
「僕はちっともそんなのは感じませんよ。ただ只管、あゆみさんの目に自分がどう映るかだけにしか腐心していないように思っていましたがね」
 万太郎はコーヒーカップを摘み上げるのでありました。「ところであゆみさんは神保町の若先生のそんな目を、一応ちゃんと判ってはいるのでしょう?」
 万太郎の質問にあゆみは俄には応えないのでありました。今度は万太郎があゆみの顔を、特に円らでもない瞳で覗きこむのでありました。
「ま、それは何となく、ね。・・・」
 あゆみがボソリと呟くのでありました。その云い方は、あんまりそれを歓迎していると云うようなものではなくて、寧ろ困惑しているような様子でありましたか。
「まあそうでしょうねえ。僕が気づくくらいあからさまと云えばあからさまだし」
 万太郎はコーヒーカップをテーブルに置いて頷きながら、このあゆみの云い様を聞いて、少しばかり安堵している自分を見るのでありました。当然そうであろうと思っていたのではありますが、一方に一抹の得体の知れぬ不安もありはしたのであります。
 しかしそれをあゆみの今の口調からきっぱり確認出来て、思わず胸を撫で下ろしたと云ったところでありますか。いや勿論、あゆみが狸でない事が大前提ではありますが。
「僕は若先生と新木奈さんの道場での絡みが、実は一番大きな心配事なのです」
「そうね。威治さんと新木奈さんの間には初日から妙な軋轢が生じて仕舞ったしね」
「まあそれは、起こるべくして起こった、ものでしょうがね」
 万太郎がそう云うとあゆみはまた円らな瞳を向けるのでありました。それでもあゆみの耳は万太郎が無意識に何かをまわりくどく揶揄しいるその残響を聞き取ったようで、向けられたその瞳の奥には些か警戒の色が含まれているように見えるのでありました。
「起こるべくして起こった、ってどう云う事?」
「いやまあ、序に云って仕舞えば、あゆみさんを見る目が、新木奈さんも若先生と同様だって事も、実はあゆみさんは疾うに気づいていたんでしょう?」
(続)
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お前の番だ! 278 [お前の番だ! 10 創作]

 あゆみは万太郎から目を背けるのでありました。
「威治さんから新木奈さんの方に話しが移るの?」
「つまり、若先生と新木奈さんのあゆみさんに対する魂胆が同じ種類のものだから、早晩ぶつかって当然だと云う意味で、起こるべくして起こったと僕は云ったのです」
「同じ種類の魂胆?」
 あゆみは万太郎を一直線に見るのでありました。
「そうですね。そう云ったところももう、あゆみさんも気づいていたでしょう?」
 万太郎にそう云われてあゆみは目を逸らすのでありました。その逸らし様に多少の動揺があるのを万太郎は見逃さないのでありました。
「それはまあ、そうだけど。・・・」
 あゆみはまた万太郎の顔に視線を戻すのでありました。今更しらばくれても始まらないかと云う、どこか腹を据えたような図太さがその視線に籠っているのでありました。
「新木奈さんの方もあんなにあからさまですし、気づかない方がおかしいですよね」
「実のところ、あたしとしてはあの二人には困惑してはいるのよ」
 そう云うあゆみの表情には本当に困ったような色が浮かんでいるのでありました。と云う事はあの二人の思いの丈に比べれば、あゆみの二人への、或いはどちらか一人への思いなんと云うものは、全く以って低調な域にあると告白した事になるでありましょうか。
 そう理解した万太郎は、体に窮屈に纏いついていた衣服の締めつけが幾らか緩むような心地がするのでありました。これはもう間違いなく、あゆみはあの二人の自分に対する熱狂にげんなりしていると踏んで、先ず間違いないでありましょう。
「確認しますけど、あゆみさんは狸ではないですよね?」
 突然万太郎にそう云われて、あゆみは目を見開くのでありました。しかし万太郎が自分に何を訊かんとしているのかは了解出来ているようでありました。
「どちらかと云うとあたしは狐顔じゃなくて狸顔だって、前に友達に云われた事はあるわ」
「それじゃあ、狸なんですかね?」
「ま、顔の方はね」
 あゆみはそう云って趣意あり気な笑いをするのでありました。「要するに万ちゃんは、あたしが威治さんか新木奈さんのどちらかに本当は魅かれているか、或いは二人のそう云う気持ちを面白がって、意地悪に弄ぼうとしているんじゃないかって疑っているわけね。そんな邪心を隠して、万ちゃんに恍けているんじゃないかって、そう訊いているのね?」
 万太郎はそんなにあっさり云われて仕舞うと、何故かたじろぐのでありました。
「まあ、そんなような、そんなようでないような。・・・」
 万太郎はあゆみから目を逸らして手元のコーヒーカップを見るのでありました。
「生一本に、困惑しているのよ、あたしは」
「ああ、生一本、ですか」
 これは前に良平がよく使っていた言葉で、間違いなく、とでも云う意味でありますか。まあ確かに、あゆみはそんな下卑た魂胆を隠し持つような人ではないでありましょうし。
(続)
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お前の番だ! 279 [お前の番だ! 10 創作]

「態々時間を作って通っていながらちっとも武道の稽古に専念しないで、何か別の魂胆でここに来ているのが見え透く人は、道場の者としてげんなりもするしがっかりもするわ」
「そうですね。そう云う人は技の習得も道場での作法も好い加減だから、見た目も気合が抜けていてい如何にもだらしないですよね。だから他の門下生に対しても好い影響は全くありませんからね。専門稽古生なら厳しく諌める事も出来ますが、一般門下生となるとこちらも多少の躊躇があります。まあ一般的に、そう云う人は専門稽古生にはなりませんか」
「そうよね。でも一般門下生も、大方の人はちゃんとしているんだけどね」
 これは新木奈を対象としての会話と云う事になりますか。この後には威治教士を対象にした万太郎とあゆみの評言、或いは愚痴が続く筈でありますが、常勝流の先輩格でもあり他派の人でもあり、しかもその他派の将来の総帥たるべき人でもある事から、何となく威治教士の事をあれこれ論うのは二人共憚りが先に立つのでありました。
 あゆみにすれば新木奈よりも威治教士の方に、色々と云いたい事が多くあろうかと思われるのでありました。あゆみは屹度自分を見る威治教士の視線に猥りがわしさすら感じているかも知れませんし、これは傍で見ている万太郎も気づいている事でありました。
 まあ、あゆみに向けられる新木奈の視線にも、同じ種類の猥りがわしさは充分見て取れるのではありましたが、しかしその必要以上の気取り癖と、あゆみ自身の凛然とした容のために、迂闊な態度は見せられないと云う自重があるのも感得出来るのでありました。新木奈の方は多分、そう滅多な事は余程でない限り仕出かさないでありましょう。
 これが威治教士となると、若しも何かの拍子に逆上でもしたら、その後に何を遣らかすか判らないなと云う不気味さがあるのであります。新木奈に対しては一喝で事足りるでありましょうが、威治教士には何かと手古摺るのかも知れません。
 ま、手古摺ったとしても最後には屹度抑えこんで見せると云う自信が、別に確とした拠り所のある自信ではないのでありますが、万太郎には何故かあるのでありました。それは勿論、単に力を行使すると云う事ではなく、理に於いても迫力に於いても彼の人を屈服させることが出来るであろうと云う、妙に揺るぎない自信のようなものでありました。
「若しも何か不測の事態が出来したとしても、僕があゆみさんをちゃんと守りますよ」
 万太郎は決然とした顔をして、あゆみに出し抜けにそう云うのでありました。そう云った後で、如何にも出し抜けな言葉だったと反省したばかりではなく、その言葉の持つ別の意味に於いて、万太郎は不意にたじろいで仕舞って赤面するのでありました。
「そう? じゃあ、お願いね」
 あゆみが万太郎に大らかな微笑を向けるのでありました。万太郎は慌ててコーヒーカップを取り上げて、冷たくなった残りを咽に一気に流しこむのでありました。

 道場での威治教士の無言でありながらも執拗な威迫に竟に堪り兼ねたのか、近頃新木奈が稽古にちっとも姿を見せなくなるのでありました。そうなると、少なからず気を揉んで仕舞うのが万太郎の人の良さと云うものでありましょうか。
「今日も新木奈さんは稽古にいらしてませんね」
(続)
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お前の番だ! 280 [お前の番だ! 10 創作]

 一般門下生稽古が始まって、最初の基本動作と基本打ちこみを門下生達が道場一杯に散らばって反復稽古している時に、万太郎がその日の中心指導を担当するあゆみに近寄って話しかけるのでありました。丁度その日、威治教士の姿は道場にないのでありました。
「そうね。今日もお休みのようね」
 あゆみは一応道場を見回す真似をするのでありました。
「姿が在ると鬱陶しいのですが、ないとなると、ちょっと心配になりますね」
 万太郎は周りの門下生に聞こえないように小声であゆみに云うのでありました。
「どうしたのかしらね」
 あゆみはそう返すものの、特段に心配そうな表情をしないのでありました。万太郎はその日のあゆみの無表情が何時になく冷淡であるように思えて、少々心に引っかかるものを覚えるのでありましたが、まあこれは、万太郎の思い過ごしでありましょうか。
「はい。では技の稽古に移ります」
 あゆみが道場中に声を響かせるのでありました。その声で門下生達は下座に下がって正坐するのでありましたが、何時も通りそれと入れ違うように、受けを取るために来間が道場真ん中に立つあゆみの傍に駆け寄ろうとするのでありました。
 あゆみはそんな来間の方に掌を矢庭に突き出して見せて、その動きを拒むのでありました。来間は機先を制せられた形になって、つんのめるように静止するのでありました。
「今日は折野先生、お願いします」
 あゆみが万太郎を指名するのでありました。不意に名前を呼ばれた万太郎は戸惑いながらも即座に立って、あゆみの傍に駆けつけて半座の姿勢で控えるのでありました。
 万太郎が教士になってからは、あゆみは前のように道場で万太郎の姓を呼び捨てにはしなくなるのでありました。それどころか命令口調も改めているのでありました。
 それは教士となった万太郎への敬意からありましょうし、中心指導をするようになった万太郎を自分が格下扱いするのも、門下生の手前、忌憚があると慮ったからでありましょう。万太郎は当初、そんな如何にも律義なあゆみの道場での口調及び態度の変化に、大いにまごつくのでありましたが、もうこの頃はようやくに慣れて仕舞うのでありました。
 それにしてもその日に限ってあゆみが万太郎を受けに指名したのは、一体全体どう云う了見に依るのでありましょうや。来間では受けを熟し切れないような、高度且つ複雑な技をこれから稽古しようとでも云うのでありましょうか。
「では立ち技の、正面中段突き腕一本抑え、をこれから稽古します」
 これは常勝流体術の基本中の基本技であります。態々万太郎に受けを取らせようとするのでありますから同じ、腕一本抑え、でもあゆみに何か意趣があるのかも知れません。
 万太郎はあゆみの隠れた意趣を読もうと、やや身構えて組形の受けを取るのでありましたが、あゆみは特段変わった事をするわけではないのでありました。まあ、それならそれで万太郎としては形通りに見事な受けを取るだけであります。
 ただ受けを取っていて、万太郎は何時ものあゆみらしからぬ、妙な力みをその動きに見て取るのでありました。この力みは、何を万太郎に伝えているのでありましょうや。
(続)
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お前の番だ! 281 [お前の番だ! 10 創作]

「今日はいきなり受けを指名されて、些か戸惑いました」
 稽古が終わって、母屋の食堂で明日の打ちあわせをしている時に万太郎はあゆみに話しかけるのでありました。是路総士は来間を介添えに風呂に入っているのでありました。
「ああそう」
 あゆみはそれまで見ていた稽古予定表から目を放して、ゆっくりと顎を起こしてテーブルの向かい側に座っている万太郎を見るのでありました。その向けられた瞳が心持ち動揺しているように見えるのは、これは万太郎の僻目でありましょうか。
「このところ受けを取る機会がなかったので、緊張してしまいました」
「そうね。中心指導で万ちゃんに受けを取って貰ったのは随分久しぶりかしらね」
「とんでもない高度な技か、何時もはやらない崩し技の稽古でもされるのかと思って身構えたのですが、一本目も二本目も、それに最後の技も案外普通の基本技でしたね」
「何か急に、万ちゃんに受けを取って貰いたくなったのよ。どうしてだか知らないけど」
「ああそうですか」
 あゆみに先に、どうしてだか知らないけど、と云われて仕舞ったので、万太郎は何か意趣でもあっての事かと訊き募る言葉を失うのでありました。
「ま、ちょっとした気紛れみたいなものね」
「で、・・・その時感じたのですが、あゆみさんの仕手の動きが、何時になくぎごちないと云うのか、少し固かったようにお見受けしましたが?」
「あらそう。固かったかしら?」
 あゆみはたじろぐように少し目を見開くのでありました。「別に普通にやっていたつもりだったけど、でも矢張り、固かったかしらね」
 あゆみが照れたように笑うのでありました。「万ちゃんには何も隠せないわね」
「何か、あったのですか?」
 万太郎があゆみの顔を覗きこむのでありました。
「うん、まあ、ちょっとね」
「話し難い事ですか?」
「話し難いと云えば話し難いし、そうでもないと云えばそうでもないし、・・・」
 あゆみは何ともまわりくどい事を云って暫し口籠もるのでありました。
「話し難い話しならば、僕はこれ以上何も聞きませんが」
 万太郎がつれなくそう云うとあゆみは眉尻を下げた何とも情けなさそうな顔をして、やや上目に万太郎を見つめるのでありました。あゆみにそんな表情で見つめられた経験が今までなかったから、万太郎は内心大いに怯むのでありました。
「実はね、他でもない、新木奈さんの事なのよ」
「新木奈さん、・・・の事ですか?」
 ここで思わぬ名前があゆみの口から出てきたものだから、万太郎は不興気に眉根を寄せるのでありました。「新木奈さん、・・・が、どうかしたのですか?」
「あたし新木奈さんと、この前二人で、調布の喫茶店で逢ったの」
(続)
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お前の番だ! 282 [お前の番だ! 10 創作]

 これまた思わぬ事を打ち明かされて、万太郎は驚くのでありました。
「新木奈さんとあゆみさんが、調布の喫茶店で二人きりで逢ったのですか?」
 別にあゆみの言葉を態々再度、無意味に自分がここで繰り返す必要もないかと、云いながら万太郎は思ったりするのでありました。
「そう。新木奈さんに稽古の事で相談したい事があるからって、呼び出されたのよ」
「稽古の事で相談したい事があるから、ですか?」
 またもや万太郎はあゆみの言葉をその儘無駄になぞるのでありました。
「そう。だからあたしすぐにてっきり、威治さんが稽古に参加するようになってから道場に通いづらくなったって、そんな苦情か何か云われるのかって思ったの」
「ああ、成程ね」
 万太郎は一つ頷いて見せるのでありました。しかし気取り屋の新木奈がそんな体裁の悪い泣き言なんぞを、敢えてあゆみに聞かせる事もなかろうとも思うのでありました。
「若しもそう云う事なら、一応道場の者としてその苦情を聞かなければならないかなって思って、呼び出された調布駅まであたし出かけて行ったのよ」
「へえ。しかし何でまた調布駅なんですかね?」
「新木奈さんの勤務先から近いらしいの。それに道場からも比較的近いしね」
「と云う事は、日曜日とかじゃなくて平日に逢ったのですか?」
「そう。月曜日の昼過ぎ」
「ああ、月曜日なら道場は休みだ。でも新木奈さんは仕事じゃないのですか?」
 万太郎はそう訊きながらも、こんな事は別にどうでも良い事かとも思うのでありました。
「そうだけど、でもあちらの指定だから」
「仕事中に抜け出したのかな?」
「そうなんじゃないの」
「確か新木奈さんは建設機器メーカーの研究所に勤めているんでしたよね?」
「そうね。そう聞いているわ」
「研究所なんと云う所は比較的時間が自由なんでしょうかね?」
 未だ以って自分はどうでも良いところに話しを膠着させていると、万太郎は腹の中で舌打ちするのでありました。先の肝心な話しを聞きたいのは山々なのでありますが、全く些末な事に歩を止めよとするのは、自分ながら一体どういう了見からでありましょうか。
 万太郎があまりにぐずぐずと拘るべきでないところに拘っているものだから、是路総士が風呂から上がって居間に姿を現して仕舞うのでありました。居間の障子戸が開け放たれたところで、万太郎とあゆみはそれまでの話しの中断を余儀なくされるのでありました。
「ああ、良い風呂だった」
 是路総士は居間から食堂のテーブルに座っている万太郎とあゆみに、そんな愛想の言葉をかけるのでありました。介添えの来間も食堂の方に入って来るのでありました。
「お父さん、お酒呑むの?」
 あゆみが稽古予定表のノートを閉じて立ち上がるのでありました。
(続)
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お前の番だ! 283 [お前の番だ! 10 創作]

「そうだな、一つやろうかな。出来たら熱燗で」
 是路総士は何となく遠慮気味にそう強請るのでありました。あゆみが日本酒の一升瓶を出すと、来間がすぐにその後の仕事を買って出るのでありました。
「押忍。自分がやります」
 来間はあゆみから一升瓶を受け取るとそれを流し台の上に置いて、食器棚から徳利と是路総士愛用の猪口を取り出すのでありました。あゆみはお燗仕事を来間に任せて、再びテーブルの万太郎と向いあう席に座るのでありました。
「明日の稽古の打ちあわせか?」
 是路総士が居間から訊くのでありました。
「押忍。一週間分の稽古技の調整です。毎日、稽古した技やその折注意した点とか強調した点なんかをノートにちゃんとつけておかないと、迂闊者の僕なんかはうっかり二日も三日も続けて、同じ技の同じ部分ばかりを稽古する場合がありますから」
 万太郎が応えるのでありました。
「それは律義なものだな。まあ、その方が効率的な稽古が出来るか。以前に私と鳥枝さんと寄敷さんで、同じ技を三日続けて平気で稽古するなんと云う事もあったがな。前は、あんまり稽古技の打ちあわせなんかしなかったからなあ」
 これは勿論、万太郎とあゆみが厳格に毎日の稽古技を管理している事に感心している是路総士の言葉なのでありました。
「ああそうだ、お父さん、これから師範控えの間を使わせて貰って構わない?」
 あゆみが申し出るのでありました。
「それは構わないが、未だ打ちあわせが済んでいないのか?」
「それもあるけど、ちょっと一般門下生から意見が持ちこまれたものだから、その対応を万ちゃんと話しあっておきたいの」
「ふうん、意見が持ちこまれたのか?」
「そう。そんなに大した事じゃないんだけど、一応万ちゃんとつめておきたいのよ」
「ま、良しなに計らってくれ。道場の事はお前達にすっかり任せてあるんだから」
 是路総士はその、持ちこまれた意見、の具体的なところに関してそれ以上一切問わないのでありましたし、一寸言も容喙しようともしないのでありました。
「じゃあ、師範控えの間を使わせて貰うわね」
 あゆみが是路総士に念を押すのでありました・
「ああ、構わんよ」
「押忍。有難うございます」
 万太郎も是路総士に頭を下げるのでありました。
「後でコーヒーでもお持ちしましょうか?」
 来間が流し台で燗をしながら万太郎とあゆみの方をふり返るのでありました。
「有難う。でもそれは結構よ。そんなに長い話しにはならないから」
「押忍。判りました」
(続)
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お前の番だ! 284 [お前の番だ! 10 創作]

 来間はそう返事してから頭を元に戻すのでありました。
「で、どこまで話したっけ?」
 控えの間に移ると、あゆみが万太郎に訊くのでありました。是路総士が何時も座っている座卓の上座は遠慮して、あゆみがその右横に、万太郎が下席に着座するのでありました。
「あゆみさんが新木奈さんに道場休みの日に、喫茶店に誘われたと云うところまでです」
「ああそうだったわね」
 あゆみが頷くのでありました。「で、まあ、あたしは調布駅まで出かけて行ったの」
「ええと、ところで新木奈さんと逢う約束をされたのは何時の事なのですか?」
 万太郎はそう訊きながら、これも特に拘らなくても良い細部かと思うのでありました。しかし新木奈はこの頃はすっかり稽古に現れなくなっていたので、そんな事をあゆみと約するチャンスはないのではなかろうかと、ふと疑問に思ったのでありました。
「この前の金曜日よ」
「それなら新木奈さんは、稽古に姿を現さなくなって久しい頃だと云うのに、どのような方法であゆみさんに接触してきたのですかね?」
「道場にちょっと現れたのよ」
「え、道場に来たのですか?」
「そう。金曜日の朝稽古が終わった頃にね」
 朝稽古が終わったタイミングで現れるのでありますから、稽古に参加する気は毛頭なくて、偏にあゆみを喫茶店に誘うのが目的で、つまり自分とのデートに誘う心算でやって来たのであろうと万太郎は推量するのでありました。
「そんな時間に来て、それでまた都合良くあゆみさんと逢えたものですね?」
「あたし、朝稽古の後で何時も郵便受けを覗きに行くのが日課なの。それと夕方の専門稽古が終わった後ね。だからそのタイミングを目当てに来たのだと思うのよ」
「ああそうなのですか?」
 そう云うあゆみの日課なんと云うのは、万太郎は今までちっとも知らなかったのでありました。確かに郵便物はあゆみが管理しているような気配はあるのでありましたが、時間を決めて日課として郵便受けを覗いていたと云うのは初耳なのでありました。
 そう云えば万太郎は内弟子になって以来、郵便受けを覗いた事は全くないのでありました。それにそんな用を云いつけられた事もないのでありました。
 確かに熊本の実家から手紙か何かが届いた時には、それを万太郎に手渡してくれるのは何時もあゆみでありましたか。これは今まで考慮もしなかったうっかり事でありました。
「その日、門の郵便受けの処まで行くと傍らに新木奈さんが立っていたので、あたしびっくりしたわ。まさか新木奈さんがそこに居るとは思ってもいないもの」
「と云う事は、身近にいる僕さえ迂闊にもちっとも知らなかったあゆみさんの日課を、新木奈さんはちゃんと知っていたと云う事になるのですかね?」
 万太郎はどう云うものか新木奈のそんな抜け目のなさに、妬ましい驚きを覚えるのでありました。と同時に、反射的にある種の不愉快さと不気味さも感じるのでありました。
(続)
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お前の番だ! 285 [お前の番だ! 10 創作]

「そうね、そうなるわね」
「そう云うあゆみさんの日課を一般門下生の新木奈さんが知っていると云うのも、何やら薄気味悪いと云えば実に薄気味悪い事ですよね」
「そうね。でもひょっとしたら何かの折に、そんな事をあたしがちらと話したのかも知れないわ。あたしは覚えてはいないけど。別に秘密にする必要もないつまらない事だから」
「それにしたって、その、ちらとあゆみさんから聞いたかも知れない話しをしっかり忘れないでいると云うところにしても、充分薄気味悪い気がしますよ、僕は」
 これは実は新木奈の抜け目なさに対する万太郎の嫉心からの一言でありましたか。
「で、新木奈さんはあたしを見て、ご無沙汰しています、なんて笑って云うの」
 あゆみはこの話しの主題に戻るのでありました。「その云い方なんかは特に屈託があるような様子ではなかったわ。あたしは驚いた顔の儘で、この頃ちっとも稽古に来ないけど何かあったのか、なんて云うような事をしどろもどろに訊いたの」
「稽古に来なくなった事を悪びれている、と云った風ではなかったのですか?」
「ううん、特にそんな様子はなかったわ。何でも仕事の関係で、ここにきて急に忙しくなったからとか云う事だったわ。新しい掘削機械の特許とか設計の事、とかで」
 威治教士の稽古に於ける無言の、しかし明らかな威迫に怖じたから、とは勿論新木奈は云うわけはないのでありました。体裁をかなり気にするタイプの新木奈はあゆみには屹度、そんなものは屁とも思っていないところを強調して見せたいでありましょうから。
「掘削機械の特許とか設計、ですか?」
「ほら、新木奈さんは大手の建設機器メーカーの研究所に勤めているから」
「ああ、それは僕も知っています」
「その掘削機械と云うのが、新木奈さんが開発したらしい特許を組みこむものだから、設計を一手に任されているんだって、あたしの方から詳しい事は訊かないし、若しあれこれ説明をされたとしても、あたしそんな事チンプンカンプンだからね」
 一応尤もらしい理由ではあるけれど、矢張り主因は威治教士の稽古での無言の威迫に違いないと万太郎は思っているのでありました。
「で、ね、そう云う自分の事情とは全く無関係だけど、この頃の道場の一般門下生稽古について、あくまで個人的な感想なんだけどちょっと思ところがあって、あたしにそれを一応伝えておくのも無意味じゃないと思うから、時間を作って貰えないかって云うの」
「神保町の若先生が来るようになって、和気藹々と稽古が出来る雰囲気じゃなくなった、とか云う事でしょうかね、その感想と云うのは?」
 万太郎は早手回しに推測を述べるのでありました。新木奈のこの頃の稽古上の感想なんと云えば、それしかないと思われるのでありますし。
「あたしもそうかなって思ったけど、まあ、それは聞いてみないとはっきりしないから」
「要するに稽古がやりづらくなったと繰り言を云わんがために、朝稽古の終わるタイミングを狙って、郵便受けの前であゆみさんを待ち伏せしていたと云うわけですか」
 万太郎はそう云ってやや眉を顰めるのでありました。
(続)
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お前の番だ! 286 [お前の番だ! 10 創作]

「まあ、意地悪く云えば、そうなるけど」
 これは万太郎の僻目をやんわり窘めているあゆみの一言でありましょうか。
「それであゆみさんはその新木奈さんの申し出を受けたのですね?」
「だって、他ならぬ稽古の件で云っておきたい事があるって云うんだから、それをあたしが聞かないわけにはいかないじゃない」
「それはそうですが、要するに新木奈さんとしては、体裁良くあゆみさんをデートに誘い出す事に成功したと云うわけですよね」
 万太郎のその言葉に、あゆみは意識的か無意識か判らないながら無表情の儘で全く反応しないのでありましたが、このあゆみの無反応が今の万太郎の言葉を咎めているように思えて、万太郎はそう口走ったのをすぐに悔いるのでありました。要するにこの言葉にしても、万太郎の嫉心が発した揶揄半分の一言に違いないのでありますから。
「で、あちらの指定で、月曜日に調布でお昼に待ちあわせしたの」
 あゆみは先を続けるのでありました。「月曜日のそんな時間で大丈夫なのかって聞いたら、新木奈さんの研究所では任された仕事を期日までに果たすなら、時間は煩く云われないんだって。製図板に齧りついているだけではアイデアも浮かばないんだそうよ」
「金曜日の昼が大丈夫なわけだから、月曜日の昼も問題ないと云う事ですね」
 これは別にからかいの言ではないのでありましたが、あゆみにそう聞こえて仕舞わないかと万太郎は云った後から、少しくそわそわするのでありました。
「正午に待ちあわせして、駅から程近い、その辺では有名らしいフランス料理とケーキの、あたしお店の名前は忘れたけど、何とかと云うレストランで昼食と云う事になったの」
「まあ、正午に待ちあわせたのだからその後昼飯と云うのは自然な流れですね。そこでフランス料理の昼食を食べながら、新木奈さんの愚痴を聞いたわけですか?」
 矢張り新木奈の目論見通りの、典型的なデートの形態だなと万太郎は思うのでありましたが、それは敢えて云わないのでありました。
「ううん、食べている時は特に当り障りのない話しだったわ。会社では新木奈さんは設計部の主任をしていて、部下の面倒を見なければならないから、今の仕事に繋りきりになれないとか、新木奈さんは幾つかの特許を持っていて、その特許料がかなり会社に入るけれど、開発した自分は微々たる報奨金しか貰えないとか、まあ、そんなような話しを笑いながらね。あたしあんまりそう云うのは興味がないから、ただ愛想笑って聞いていたのよ」
 別に自慢話しと云う風にではないにしろ、しかし何につけても自分が大いに有能な人物である事をそれとなく匂わせよとする、結局は自慢話しをする新木奈の得意顔が万太郎には目に浮かぶのでありました。新木奈はよく話しの端々に自分を大きく見せようと、多少手のこんだ、鼻持ちならない工作を弄するところがあるのでありました。

 師範控えの間の障子戸の向こうから突然、来間の声がするのでありました。
「あのう、無用かとは思いましたが、取り敢えずコーヒーをお持ちしました」
 万太郎とあゆみは会話を止めて、揃って障子戸の方をふり向くのでありました。
(続)
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お前の番だ! 287 [お前の番だ! 10 創作]

「おう、入れ」
 万太郎が声をかけると障子戸がそろりと開くのでありました。
「注連ちゃん有難う」
 先程いらないと云ったけれど、あゆみが来間に礼を云うのでありました。
「話しは長引きそうですか?」
 来間は万太郎とあゆみの前にコーヒーを置きながら訊くのでありました。
「まあそうでもないが、お前先に風呂を使って、内弟子部屋で休んでいて構わんぞ」
 万太郎が早速コーヒーカップを口に運びながら云うのでありました。
「押忍。ではそうさせて貰います」
 来間は部屋を出際に座礼をして、閉める障子戸の向こうに消えるのでありました。
「注連ちゃんとしては、気を利かせてコーヒーを持ってきたんでしょうね」
 あゆみもコーヒーカップを取り上げるのでありました。
「まあそうでしょうがあいつの気の利かせ方は、何と云うか、フィット感がありません」
 万太郎は手厳しい事を云うのでありました。「どうでも良い事は気を働かせるんですが、肝心なところは往々にして期待を外しますね。ま、あいつなりに色々考えてはいるんでしょうが、もう一つ機要にピタリと嵌るようなしっくり感かありませんね」
「でも、真面目は真面目よ」
「それは僕も認めます。良い意味で愚直です。技の覚えなんかも悪い方ではないから、あいつはあの儘時間をかければ、相当なところまで腕を上げると思いますよ」
「ええと、ところで、さっきの話しの続きだけど、・・・」
 あゆみが話しを本題に戻すのでありました。「そんな感じで食事も終えて、その後ケーキとコーヒーが運ばれてきたの」
「ぼちぼち本題が始まるのですね?」
「それがそうでもないの。新木奈さんの趣味の話しがその後に暫く続くの」
「趣味の話し、ですか?」
「そう。写真の事とか旅行の事とか、スキーやゴルフやテニスの事」
「なかなか本題に入らないのですねえ」
 要するに稽古の事で話しておきたい事がある、と云うのは寧ろあゆみをデートに引っ張り出すための体の良い方便であって、新木奈の実の魂胆としてはあゆみと二人で食事をしたり、他愛のない話しに興じたかったのだと云うところだったのでありましょう。
「スキーの体の使い方と武道の体の使い方には少なからず共通点がある、とか云う話しを結構長い時間聞かされたわ。あたしもスキーは大学生の頃何回かやったことがあったから、愛想で適当な相槌は打つことが出来たけど、でも、あたしを呼び出した本来の話しがちっとも出ないものだから、あたしとしては実は内心、少し苛々もしていたの」
 どだい常勝流総本部道場の筆頭教士を捉まえて、そんな技術論を得々とする新木奈の気が知れないというものであります。そんな話しが披露出来る程、新木奈は常勝流武道に精通しているとは全く以って万太郎は思えないのでありましたから。
(続)
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お前の番だ! 288 [お前の番だ! 10 創作]

 まあ、あゆみの気を引こうとしての事でありましょうが、新木奈にしては余りに脇が甘いと云うものでありましょうか。実践で大したところがない分、論で大したところをあゆみに見せようと云う心算かも知れませんが、それはやや無謀と云うものであります。
「こう云っては何ですが、それは稽古と云う限定の中で、はっきり云うべき事があってとか、相談をするためにあゆみさんと逢おうとしたと云うよりは、単に一般的な意味でのデートをしたい、と云う魂胆であゆみさんを呼び出したとしか見えませんね」
 それは兎も角、万太郎は新木奈の真意をそう断じるのでありました。
「あたしなかなか本題に入らない新木奈さんに段々げんなりしてきて、あたしが聞いても無意味でない新木奈さんの稽古の感想と云うのを、ぼちぼち聞かせてくれないかって、話しの途中だったけど切り出したのよ。そうしたら新木奈さんは少し白けた表情をしたわ」
 あゆみが続けるのでありました。「新木奈さんは、ああそうでしたね、なんて笑って、それまでの話しを止めて、一呼吸するようにコーヒーを飲むの」
 得意になってあゆみに多趣味ぶりを披露していたのに、それを当のあゆみに中断されて仕舞って、新木奈としては大いに戸惑ったでありましょう。あゆみが自分の話しに魅かれて聞き入っているとばかり思っていたのに、実はそうでもなくて退屈していたようだと云う発見は、新木奈にしたら全く意外だったしショックな事柄だったでありましょうか。
 そんな勘違いをしていたと云う自分の体裁の悪さ自体も、大いに新木奈の自尊心を傷つけた事でありましょう。万太郎から見れば、そんなものは笑話の一種以外ではないのでありますが、まあ、これは現場にいない万太郎の勝手な忖度と云うものではありますが。
 つまり、新木奈にはあゆみが全く見えていなかったと云う事でありますか。あゆみの目に映る自分の像の方には何時も人一倍気を遣っているのでありますが、あくまでそれは自分への視線であって、あゆみをちゃんと見る事は竟に一度もなかったと云う事であります。
「新木奈さんが云うにはね、この頃の稽古には統一感がなくて、稽古する門下生の気持ちが散漫になっているような印象があると云うの。前はお父さんとか、鳥枝先生とか寄敷先生が稽古の中心にでんと座っていて、稽古全体を完全に掌握していたけど、その三人の姿が道場から欠けてからは、何となく稽古に締まりがなくなったように感じるんだって」
 以前から稽古に締まりをなくしていた当の本人がどう云う了見で、何を今更どの面下げて、そう云う利いた風な評言を吐くのかと万太郎は心中呆れるのでありました。
「あの新木奈さんが、それを云ったのですか?」
 万太郎の云い方は竟失笑紛れでありましたか。
「まあ、ね。・・・」
 あゆみも口の端を笑いに動かすのでありましたが、と云う事はあゆみもそれを新木奈から聞いた当座、万太郎と同じ思いに駆られたのでありましょう。「でも、云われてみれば確かに、そう云う面もあるかも知れないなって、あたしそうも思ったのよ」
「それはつまり、僕等には三先生のような稽古を統括する者としての威厳と云うのか、迫力と云うのか、そう云うものが備わっていないって事でしょうかね?」
「そうね。つまり、そう云う事ね」
(続)
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お前の番だ! 289 [お前の番だ! 10 創作]

 それを新木奈から指摘されるのは慎に心外でありましたが、それでも万太郎は一応冷静にその点について考えてみるのでありました。確かに自分には一稽古者としての矜持はあっても、指導者としての威厳なんと云うものは未だ備わってはいないでありましょう。
 年が若いと云う事もありはしますか。門下生の中には自分より歳も年季も上の猛者が多くいるのでありますし、そう云う者達は未だ白帯の頃から、それに黒帯になってからも鳥枝範士辺りに始終怒鳴られて、オロオロと狼狽えていた万太郎の姿を見知っているのでありますから、それが今、しかつめ顔で厳めしそうに装って道場で中心指導をしている姿を見れば、鼻先の微苦笑を誘われる程度が精々と云うところでありましょうか。
 そう云う者達の心服を得るには偏に、自分の常勝流武道の腕前と、大いに術理を納得させられるだけの指導のあり方に繋っているでありましょう。しかしそれはこれからの課題であって、今すぐにそれを求められても到底力及ばないものであります。
「確かに今の僕は三先生のようにはいきません。それが稽古の雰囲気を散漫にしていると云われれば、返す言葉は僕にはありません」
「あたしも三先生に比べるとそりゃあ、自分の指導が物足りなく思われているとは思うわ。でもその三先生に総本部の指導をすっかり任されたわけだから、その期待に応えられるように日々頑張るしかないとしか、今は云い様がないわ」
「三先生に総本部の指導に復帰していただくよう、稽古を見直す必要がありますかね?」
「それも一つの方法だけど、もう少しあたし達で頑張ってみないといけないんじゃないかしら。折角三先生の意向をお受けしたわけだから」
「それはまあ、そうですね。こんなに早く音をあげたら、男が廃ると云うものですし」
「あたしの場合は、女が廃る、だけどね」
 あゆみは一応念を押すようにそう冗談を云って、力なく笑うのでありました。
「男も女も、大体に於いて廃ってはいけません」
 万太郎は大真面目に頷くのでありました。「それと、当然第一義には僕等の力が足りない事もあるでしょうが、それとは別に神保町の若先生がこの頃一般門下生稽古に参加していると云うのも、稽古の雰囲気を散漫にしている一因ではないでしょうか?」
「そうね。それもあるかもね」
「僕等が稽古の雰囲気を統御しようとしても、若先生はその統御の外に何時もいるわけですからね。それに若先生の道場での在り方に、僕如きは正面切って文句を云えません」
「確かに威治さんは、別格と云う立場で稽古に参加しているようなものだから」
「僕は若先生が居るとどうにも指導がやり辛くて仕方ありません。僕の無用な遠慮かも知れませんが、しかし僕が中心指導で技を門下生に見せている時でも、若先生の僕の指導を侮ったような視線をビンビン背中に感じて仕方がありませんよ」
「あら、そうでもないんじゃないの?」
 あゆみが意外そうな顔を見せるのでありました。「威治さんが居ようと居まいと、万ちゃんは憚りも気後れなく堂々と、技も指導の言葉も披露しているように見えるわよ」
「いやいや、そんな事はありませんよ」
(続)
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お前の番だ! 290 [お前の番だ! 10 創作]

 万太郎は片手をせわしなくふって見せるのでありました。「あゆみさんが中心指導をしている時とはまるで違って、僕の場合には僕に対する敵意すら感じて仕舞います」
「そうであっても、万ちゃんの指導している時の姿は、威治さんの存在なんか意にも介していないように、如何にも堂々としているように見えるけど」
 あゆみはそう云うのでありましたが、この云い方はつまり、威治教士の万太郎に対する敵意らしきもの自体は、充分あゆみも認識していると云う事でありましょうか。それがどういう心根に依って発生しているのか、と云う辺りは敢えて考えないまでも。
「しかし神保町の若先生は、一体どういう了見でこの頃、総本部道場の一般門下生稽古に参加しているんでしょうかねえ?」
「さあ、どうしてかしらね」
「僕には何かしらの隠れた魂胆があってだと思えるのですがね」
「まあ、好意からかも知れないけどね。威治さん独特の考え方からのね」
「好意、ですか?」
 万太郎は大袈裟に目を剥いて見せるのでありました。
「例えばウチのお父さんが病み上がりで、当面総本部の指導陣が手薄になっているように見えて、しかもその新たに指導を任された者が如何にも頼りないのを見かねて、とかさ」
「はあ、そうですかねえ」
 万太郎は素っ頓狂に、そのあゆみの解釈に大いに懐疑的な風に云うのでありました。
「まあ、その辺の話しはまた後でゆっくりするとして、・・・」
 あゆみが瞼の辺りに宿った翳を掃って話頭を転じるのでありました。「で、新木奈さんがそう云うものだから、あたしは少し口を閉じて考えこむような仕草をしたの。そうしたら新木奈さんはあたしを困らせたと思ったのか、すぐに、ああこれは自分だけの感想であって、他の門下生が同じように思っているとは限らないから、なんて繕うの」
「で、そう云うわけで稽古に出る事に意欲的でなくなったと?」
「ううん。それは仕事の都合と云う事らしいけど」
「僕には新木奈さんが稽古に来辛くなったのは、神保町の若先生の姿が時々道場にある事が第一番目の理由だとしか、どうしても思われませんがねえ」
「でも、本人はあくまで仕事の都合だって云うんだけど」
 それはそうでありましょう。新木奈はあゆみの手前、自尊心にかけても屹度そんな如何にも無難な理由を述べるしかないでありましょう。
「その点は一先ずここでは置くとして、それでその後あゆみさんは、新木奈さんのそんな感想を聞いてどう応えたのですか?」
「それは偏に指導者の不覚に依る事だろうからお詫びします、なんて云って頭を下げたの。そうしたら新木奈さんは、あたしに関しては前から中心指導をしているのだし、その指導のやり方は特に最近になって変わってもいないし、稽古の雰囲気も前と同じだと云うのよ」
「と云う事はつまり、稽古の雰囲気を散漫にしているのは、あゆみさん以外の中心指導者たるこの僕だと新木奈さんは云っているんですかね?」
(続)
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お前の番だ! 291 [お前の番だ! 10 創作]

 万太郎は思わず不愉快な表情をして仕舞うのでありました。
「そうはっきり云ったわけじゃないわ」
「でも、結局そう云う事になるでしょう?」
「まあ、聞いて」
 あゆみは万太郎の憤慨を宥めるように、たじろぐ程大きな澄んだ目で万太郎を一直線に見るのでありました。「あたしも新木奈さんの云い方に嫌な含みを感じたから、それはもう一人の中心指導者である万ちゃんの事を主に批判して云っているのか、なんてはっきり聞いてみたの。そうしたら新木奈さんは頷きもしないし、首を横にふりもしないのよ」
「つまりそれは僕が問題だと、曖昧に肯ったと云う事になるわけですよね」
「要するにね、新木奈さんとしては威治さんの稽古中の跋扈を、万ちゃんがちっとも咎めないと云うところに苦言を云いたかったみたいなのよ。その後あれこれ聞いてみると」
「ああそうですか」
 万太郎は矢張り不愉快そうにそう云うのでありました。確かに面と向かって威治教士を咎めなければならないような状況は、今のところ出来してはいないのでありました。
 それは威治教士がはっきりとは万太郎の稽古統率に反するような言動をしないからでありました。まあ、一段高い位置から万太郎や稽古の総体を見下ろしているような在り様は崩さず、自分は万太郎の統御の外に在ると無言に宣しているような態度ではあるものの、万太郎の稽古に於ける主導権を侵害するような事は今のところしないのでありました。
 例えば、万太郎がその日指導しようとしている技に対して公然と異を唱えたり、万太郎を差し置いて自分が中心指導にしゃしゃり出てくる、なんと云う不謹慎な真似はないのであります。稽古の進め方に対しても、それ自体を妨害する事もないのでありました。
 でありますから威治教士の態度に苦々しさは覚えるものの、敢えて苦言を呈するまでには到らないと云う事であります。しかし若しも稽古に参加する態度に見過ごせない乱れが認められたなら、万太郎は遠慮なく注意をする用意はあるのであります。
「結局新木奈さんとしてはね、実は万ちゃんがどうこうと云う事じゃなくて、威治さんの姿が道場に在る事が疎ましいみたいなの」
「ま、矢張り実状としてはそう云った辺りでしょうかねえ」
 新木奈が万太郎の稽古統率者としての不手際をやんわり訴える事で、要は全くまわりくどく威治教士の稽古参加を止めさせるように求めているのであろう事は、万太郎にも何となく推察出来るのでありました。威治教士が初お目見えした稽古で肩を強く極められて痛い思いをして以来、新木奈は余程威治教士が苦手となったのでありましょうかな。
「それでね、あたしが困った顔で暫く何も云わなくなったものだから、急に新木奈さんは話題を変えようとするの。これはあくまで自分一人の感想で、ひょっとしてこれからの稽古の在り方に資するものがあれば、と云うつもりで云ったまでなんだから、あんまり深刻に考えないで欲しい、なんて今度はそう云いながら私に優し気に笑いかけるのよ」
 あゆみが陰鬱な顔で黙りこくっていたのでは、新木奈としては折角呼び出しい成功して食事を共にした甲斐がないと云うものでありましょうか。
(続)
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お前の番だ! 292 [お前の番だ! 10 創作]

「でも新木奈さんはそれを云わんとして、態々あゆみさんを呼び出したのでしょう?」
「そうね。あたしもそう思うから、一応真剣にその事を考えるわけよ」
 まあ、新木奈としては勿論そんな自分の窮状を訴えると云うのも、あゆみを呼び出した理由の一つかも知れないでありましょうが、しかしそれと同時に、あゆみを食事に誘い出す恰好の口実としてそれを使うと云う魂胆があったのであります。どちらかと云うと、その方が主たる思惑ではなかったのかと万太郎は推察するのでありました。
「それとも実は大して若先生の事は苦にも思っていないのに、単にあゆみさんをデートに引っ張り出すための理由としてその事を使っただけなのでしょうかね?」
「さあ、それはあたしには何とも判らないわ。ただあたしとしてはその事以外の、新木奈さんの仕事の話しとか旅行やゴルフなんかの趣味の話しとかを聞くだけなら、態々調布の街まで出かけて行った意味がないと云うのは確かね」
「新木奈さんはあゆみさんに優し気に笑いかけて、一旦稽古の話しを打ち切った後、またぞろそっちの方面の話しなんかを始めたのですか?」
「そうね。でも今度はあたしの趣味とか、武道や書道以外の好きな事とかを訊いてきたけどね。まあでも、あたしとしては威治さんと新木奈さんの確執がどうしても気になるから、あんまり乗り気でそう云った話しを聞いたり話したりするわけにはいかないわ」
「それはそうでしょうね。あゆみさんには、それに僕にしても新木奈さんから云われた事は、かなり重い問題ですからねえ」
「そうなの。何か道場の指導者としての自分の資質を問われているような具合じゃない」
 新木奈がひょっとして、あゆみを呼び出すための恰好の口実と云うだけの軽い気持ちでその話しを用いたとしたら、それは余りにあゆみの立場や自然な心の動きに無神経だったと云えるでありましょう。そんな間抜けな事は滅多にやらかさない、諸事にもう少し抜け目のない男だと思っていたのでありますが、存外新木奈と云う男は、人の心の機微に関しては、日頃の言動から推察される印象よりはうっかり者か初心な人間なのかも知れません。
「で、ね、あたし、あたしのその時の、重い懸案とはかけ離れた話しばかりをする新木奈さんに、段々うんざりしてきたのよ」
 あゆみは眉根に少しの険を添えるのでありました。「それで、新木奈さんの話しを途中で遮って、先程の感想を聞かしてくれてありがとうございます、その事は大変重要な事だと思えるので、その事で心が一杯になって他の話しは上手く聞き取れそうにありません、だからこれで失礼しようと思いますなんて、暗い声で云ったの」
 このつれないあゆみの言葉に、その時の新木奈の呆気にとられた顔が万太郎の目に浮かぶのでありました。新木奈にしたらとんだ思惑違いであった事でありましょう。
「それは新木奈さんにしたら、意外にきついあゆみさんの言葉だったでしょうね?」
「そうかもね。新木奈さんは自分のさっきの話しに、あたしが怒ったと思って怯んだような顔になったわ。あたし別に怒ったわけじゃなくて、少し気が重くなっただけだって説明して、その儘その日はもう帰ろうと思って立ち上がったの。そうしたら新木奈さんは、思わずと云った感じで急にあたしの手を取って、あたしが帰ろうとするのを止めるの」
(続)
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お前の番だ! 293 [お前の番だ! 10 創作]

「えっ、新木奈さんが、あゆみさんの手を、取ったのですか!」
 万太郎はたじろいでそう声を張るのでありました。その時の万太郎の顔は、屹度あゆみに暇乞いされて呆気にとられた新木奈と、さして違わない表情であったでありましょう。
「そう。あたし新木奈さんがいきなりそんな事をするなんて思いも依らなかったから、びっくりして咄嗟にその手をふり解いたの」
「離脱法、ですね」
 常勝流に入門したら体術で最初に習うのがこの、手解き、と呼ぶ離脱法でありました。相手に様々な状態で手を取られた場合に、その握りから瞬時に脱する技法であります。
「どうふり解いたかは覚えていないけど、兎に角、ふり解いたの」
 万太郎はその時の新木奈の茫然とした顔が思い浮かぶのでありました。思わずあゆみの手を取って仕舞ったのも、自分の仕業であるのに多分自分でも驚たであろうし、その取った手をあゆみに難なく一瞬であっさりふり解かれたのにも魂消た事でありましょう。
「新木奈さんはその後どうしました?」
「あたしにふり解かれた手を宙に止めた儘にして、無表情で固まっていたかな」
 このあゆみの行為で新木奈は、あゆみへのこれまで長い時間をかけて育んできた恋慕の情への明快な拒否を、これまた一瞬で表明された事になるでありましょう。新木奈にとったら真に立つ瀬のない、どんづまりの場面が一挙に現出したと云うわけでありますか。
 万太郎は、様を見ろと云う一種の痛快感が心を過ぎる反面、何となく新木奈が気の毒にも思えてくるのは自分でも不思議な気持ちの揺らぎでありました。このアンビヴァレントな感情は、万太郎の心の奈辺から発生するのか万太郎自身も確と判らないのでありました。
「あゆみさんはその後、新木奈さんを残して、その店を出たのですか?」
「そう。そうしないとあたしのした事への引っこみがつかないからね」
「あゆみさんは毅然として、新木奈さんの前から去ったわけですね?」
「毅然としてかどうかは判らないけれど、間違いなく無愛想な顔はしていたでしょうね」
 あゆみの普段は隠れた気の強さが、如何なく発揮された場面でありましょう。万太郎はあゆみに対するある種の畏怖の念を秘かに新たにするのでありました。
「そんな事があったとなると、新木奈さんはもう稽古に復帰する事はないでしょうねえ」
「そうかしら。でもその内に、しれっと現れたりして」
「いや、それは先ずないでしょう。新木奈さんはプライドを傷つけられたり体裁を潰されたりする事象に対しては、誰よりも脆いタイプだと思われますからねえ」
「まあ、あんな事があっても、しれっと現れたとしたら、あたしの方が困るけど」
「あゆみさんは別に悪びれる必要は何処にもないじゃないですか。しかし、でも、矢張り新木奈さんはもう道場には現れないと思いますよ」
「そうかしらね」
 あゆみはその点について少し考えるような顔つきをするのでありました。「あたし、新木奈さんに対して、悪い事をしたかしらね?」
「いや、それはありませんね。寧ろ僕に悪い事をしたとは云えるかも知れませんが」
(続)
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お前の番だ! 294 [お前の番だ! 10 創作]

 あゆみは大きく見開いた目で、しかも心外そうに万太郎を見るのでありました。
「え、どうして万ちゃんに対してあたしが悪い事をしたと云う風になるわけ?」
「つまり一般門下生を一人辞めさせたと云う事になるので、道場経営と云う観点から見れば、その一翼を担わせて貰っている僕に損害を与えた事になるじゃないですか」
「ああ、そう云う意味でね。そうなら、あたしはあたしに対しても悪い事をしたわけね」
「そうです。ここは一つ正坐して反省して貰わなければ困るところです」
 これは勿論半笑いで、全くの冗談口調で云う万太郎の戯れ言でありました。「まあしかし、ここにきて総本部の入門者も、それに各支部の入会者の方も、僅かながらも増加傾向にあるようですから、全体から見れば損害としては極めて軽微です」
「そうね、どうしてだか知らないけど、何となく入門者が増え出したわね」
「ですから、あゆみさんは新木奈さんとのこの経緯に関して、僕に対して特に気に病む必要はありませんから、どうぞ安心してください」
「あ、そう」
 あゆみは取りあえずそう無抑揚に返事するのでありました。
「それに新木奈さんは色んな意味で面倒なタイプの人でしたから、その人がもう来ないとなると、正直なところ僕としてはほっとするところもありはしますし」
 これは、恐らく気塞ぎに陥っているであろうあゆみに対する、万太郎なりの労わりの言葉ではありましたか。そんな万太郎の心根はちゃんと伝わったようで、あゆみは力なくではあるにしろ万太郎に笑み返すのでありました。

 風呂から上がって来た是路総士が、食堂のテーブルで何時も通りの打ちあわせをしていた万太郎とあゆみを、居間に手招きしながら呼ぶのでありました。
「そろそろ私も稽古に復帰したいと思うのだが、・・・」
 是路総士は卓を挟んで前に並んで座った万太郎とあゆみに云うのでありました。「何処か支部の指導に私が入りこめる余地はあるかな?」
 その言葉を聞いた万太郎はあゆみと顔を見あわせて嬉しそうに笑むのでありました。
「いよいよ総士先生のご復帰ですね」
 万太郎は笑みを顔の隅々にまでに広げて云うのでありました。
「この間、一人で木刀をふったり、来間を相手に体術や剣術を浚っていたが、ぼちぼち稽古の出来る体になってきたように思うのでなあ。そうなると見所に座って稽古を見ているだけでは物足りなくなったと云うわけだ。どうかな、私の入りこむ余地はあるかな?」
「それはもう、勿論です。そうなると総士先生には主に、総本部での稽古に復帰していただきたいと思います。棋道の総帥でいらっしゃるのだから、それが当然かと思います」
「しかし総本部は運営面も含めてお前達に任せる事になっているのだし、私の復帰がそれを邪魔するようなら、それは全く本意ではなしのだが」
「何を遠慮される必要がありましょうか。総士先生あっての常勝流武道であり総本部ではないですか。これまでが変則的な運営だったのですから」
(続)
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お前の番だ! 295 [お前の番だ! 10 創作]

「まあ、どういう風にでも、お前達の了見に私は従うのみだ」
 是路総士はそうあっさり云って一つ頷くのでありました。
「これは万ちゃんとも相談していた事なんだけど、お父さんの復帰を機に、鳥枝先生も寄敷先生にも、総本部の稽古に本格的に復帰して貰うつもりでいるのよ」
 あゆみが万太郎と話し手を代わるのでありました。「あたしと万ちゃんだけでは、どうしても総本部の指導陣が手薄な印象が拭えないから」
「そうでもないだろう。私が見る限りでは、前よりも道場の活気が増したように思うがなあ。指導者が若返った分、門下生達の意気ごみも増したような気がするが」
「でも矢張り、あたしと万ちゃんだけでは皆さん物足りないんじゃないかしら」
「しかし、このところ入門者も増えてきたじゃないか。前から居る連中も誰も辞めはしないし、寧ろ前よりも皆、溌剌と稽古に通って来ているように感じるぞ。当分今の儘でお前達が稽古を取り仕切る方が、将来のためにも良いのではないのかな?」
 是路総士の、誰も辞めないし、と云う言葉で、万太郎の頭に新木奈の顔がちらと過ぎるのでありました。あゆみとのあの件以来、新木奈は矢張り全く現れないのでありました。
「だから一層、ここで指導陣の層の厚さが要るとあたしは思うのよ」
 あゆみが云い募るのでありました。「前みたいに、お父さんと鳥枝先生と寄敷先生の三頭体制に返るのじゃなくてね、そこにあたしと万ちゃんも加わって、五人体制にするの」
「その五人の稽古の割りふりはどうするんだ?」
「例えば火曜日はお父さん、水曜日は寄敷先生、木曜日は鳥枝先生、として、金土日曜日はあたしと万ちゃんが担当する、とかね。まあ、誰がどの曜日を担当するかは後で話しあうとして、そうやって、その曜日の中心指導者を予め決めておくの。曜日の担当者はその日の総本部での稽古の総てを見ることになるわ。支部への出張指導は、他の四人が回り持ちとするの。指導者が多い方が稽古にも変化があって、厚みも出るんじゃないかしら」
「今の体制では、専門稽古生は鳥枝先生や寄敷先生の体術稽古を偶に受ける事が出来ても、夜の一般門下生は、両先生の指導を受ける機会が全くない事になります。夜は殆ど両先生は支部の稽古に行かれますから。しかし一般門下生も前のように両先生の指導が受けられるようになれば、それは屹度門下生もより意欲的になると思います。支部の会員にしても、色んな先生の指導を受ける方が、技の癖を失くすと云う観点からも益があると思われます」
 万太郎があゆみの後に続けるのでありました。
「ま、総てがその思惑通り好都合に回れば、それはそう云う按配になるだろうよ」
 是路総士はそう、やや冷めた云い方をするのでありました。「取り敢えず、運営はお前達に任せたわけだから、お前達の考える通りにやってみると良い。私はそれに従うのみだ」
「それでは、そうと決まればなるべく早く話しをしておきたいと思いますので、今度の月曜日の道場休館日にでも、申しわけないですが鳥枝先生と寄敷先生にお越しいただいて、この提案をさせていただこうとか思っているのですが、総士先生、如何でしょうか?」
 万太郎はそう云って畳に両手をついて、やや上体を前傾させた姿勢で是路総士の顔を窺うのでありました。あゆみも少し遅れてその姿勢に倣うのでありました。
(続)
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お前の番だ! 296 [お前の番だ! 10 創作]

「私は特に異存はない。私が稽古に復帰出来るなら、それで良いのだから」
 是路総士のその言葉を聞いて、万太郎とあゆみは同時に低頭するのでありました。
「ふうん。そう云う通達のためにワシ等は今日呼び出されたわけか」
 月曜日の昼食を兼ねた師範控えの間の件の五人の会合で、鳥枝範士がそう云いながら、来間が先程持ってきた茶を啜るのでありました。
「通達、と云うのでは勿論なくて、あくまでもご相談です」
 万太郎が訂正するのでありました。
「まあどちらでも良いが、何かお前達だけで指導をするのに不都合が生じたのか?」
「そう云う事ではありませんが、折角の多士済済を、理想的に活用しない手はないと云う考えからです。総本部での指導に厚みを持たせたいと云うのが狙いです」
「やってみたら、段々自信がなくなったと云うのではないのだな?」
「そう云う弱気な心根や、横着心とか無責任からのご相談と云うのではありません」
「まあ、最近入門者も増えてきたし、古参の者も誰も辞めたりもしないから、寧ろあゆみや折野は自分達が総本部の稽古を主導する事に大いに自信を深めたろうよ」
 寄敷範士が鳥枝範士にそう云うのでありました。「だからこの二人が今の責任から逃げ腰になって、で、こう云う提案をしているわけではないとは思うがね」
「総士先生のご復帰を機に、より重厚な新体制としたいのです」
 万太郎は寄敷範士と鳥枝範士の両者を交互に見ながら訴えるのでありました。
「ま、良い。ワシはお前達の了見に従うのみだ」
 鳥枝範士は、前にこの件を話した時の是路総士と同じ云い草をするのでありました。
「それでは、夫々の担当の曜日を決めたいのですが、両先生のご都合は如何でしょう?」
 あゆみが話しを前に進めるのでありました。
「その前に、総士先生のご都合は如何ですかな?」
 寄敷範士が是路総士の方に顔を向けるのでありました。
「私は何曜日でも一向に構いませんよ。寧ろご両所の方が他に仕事を持っていらっしゃるんだから、そちらを優先としたいですな」
「私も曜日を指定されれば、それにあわせますよ」
 寄敷範士はそう云いながら万太郎とあゆみの方を見るのでありました。
「ワシも金曜日はいけないけれど、他の曜日なら何曜日だろうと問題ありませんな」
 鳥枝範士もそう云って頷くのでありました。
「私等三人は、畢竟、こういう次第だ」
 是路総士は万太郎とあゆみを交互に見ながらそう云うのでありました。
「判りました」
 あゆみはそう返事して万太郎と顔を見あわせて一つ頷くのでありました。
「では、専門稽古でも一般門下生稽古でも稽古参加者の一番多い土曜日を、総士先生にご担当していただきたいと思います。それから火曜日を鳥枝先生に、木曜日を寄敷先生にお願いしたいと思いますが、そう云う事でよろしいでしょうか?」
(続)
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お前の番だ! 297 [お前の番だ! 10 創作]

 火曜日も木曜日も週の内で比較的稽古参加者の多い曜日でありました。万太郎とあゆみは予めそう云う数字を踏まえた上でこう提案をするでありました。
「日曜日を外してくれたのは有難い。時々日曜日には孫が遊びに来たりするからなあ」
 寄敷範士がそう云って万太郎とあゆみに笑みかけるのでありました。二人はその寄敷範士の事情に関しては特段、踏まえていたわけではないのでありましたが。
「それで、その他の曜日はお前達が担当するのだな?」
 鳥枝範士が一応念のために、と云う風に訊くのでありました。
「そうです。あたし達二人が夫々単独でとなると、未だ気後れするところがありますから、暫くは二人揃ってと云う形で稽古を担当するつもりです」
 あゆみが何度か頷きながら応えるのでありました。
「専門稽古の剣術の稽古は土曜日ですから、丁度総士先生にお願い出来る事になります。それから夜の内弟子稽古は僕等が見ます。各支部への定期の出張指導は、特別の場合は総士先生にお願いする場合もありますが、原則として総士先生は総本部にデンと腰を落ち着けていていただきます。病み上がりでいらっしゃる、と云う事情もありますから」
 万太郎が後を続けるのでありました。
「私ならもう、出張指導も大丈夫だと思うがなあ」
「いやいや、総士先生は折野が云うように矢鱈と外に出ないで、総本部にデンと腰を据えていらっしゃる方が如何にも重々しそうで結構ですかな」
 鳥枝範士が万太郎の意見に賛意を示すのでありました。
「では今日の話しあいを踏まえて、総士先生を除く四人の出張指導の割りふりとか、補助につく者の人選をします。四人は特定の支部に偏らない巡回制で色々な支部を回る事にしますが、それは一か月分の予定を僕等で按配して、前月の頭に連絡させていただきます。勿論、鳥枝先生は金曜日、寄敷先生は日曜日を避けるようにスケジュールを組みます」
「いやまあ、日曜日であってもそれはそれで私は構わないのだが」
 寄敷範士がそう云って頭を掻くのでありました。
「有難うございます。しかしまあ、日曜日は避けます」
「いやいや、済まんなあ、あれこれ横着な事を私が迂闊にも云ったものだから」
「これでようやく、落ち着くべき体制に落ち着いたような安堵感を覚えます」
 万太郎はそう云いながら是路総士、鳥枝範士、それから寄敷範士の順に顔を向けて笑むのでありました。万太郎に清々たる笑いを向けられたものだから、思わず知らずと云った具合に三人は万太郎に同じような笑みを返すのでありました。
 是路総士が総本部道場の稽古に復帰して指導が新体制になると、それにあわせるように威治教士が総本部の一般門下生稽古に姿を見せなくなるのでありました。是路総士に依れば、是路総士の復帰で指導体制が一新され、総本部の手薄になった稽古指導に自分の手助けはもう必要ないと判断したから来なくなったのだろう、と云う解釈でありました。
 それは威治教士が如何にも好意から来てくれていたと云う理解で、万太郎はその論に俄には賛成出来ないのでありました。威治教士がそんな善意の人とは思えないのであります。
(続)
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お前の番だ! 298 [お前の番だ! 10 創作]

 若し聞かれれば威治教士は、是路総士が云うようなお為ごかしの理由を用意していたのではありましょうが、その実、是路総士や寄敷範士、それに最も苦手とする鳥枝範士の目がない隙を狙って、あゆみに逢うために総本部の稽古にやって来ていたに決まっているのであります。そうして出来ればあゆみと、より昵懇の間柄にならんと目論んでいたのでありましょうが、そんな魂胆なぞは如何にも見え透いていたと云うものであります。
 是路総士にしても威治教士の善意なんぞと云うものは、端から信用してはいないと万太郎には思われるのでありました。しかしそこはそれ、万太郎如きよりは余程度量が大きいから、そう云う無難な辺りで一先ず手を打っていると云う事でありましょう。
 ところでこの間、威治教士のこの目論見は成就されたでありましょうか。寧ろ逆に、あゆみは前より一層つれなくなって仕舞ったのではないでありましょうか。
 あゆみも威治教士の自分への関心が普通ではない事は、疾っくに気づいてはいた筈でありましょうし、それを内心は重荷に感じていたような節も万太郎には間々見受けられたのでありました。それが、威治教士なりに自制してはいるのでありましょうが、それでも竟々顔を覗かせて仕舞うところの彼の人の地金に、より一層辟易して仕舞ったと云うのが、この間の掛け値なしのあゆみの心の見取り図ではないかと万太郎は思うのでありました。
 もう稽古に現れなくなった新木奈ばかりではなくて、威治教士は総本部道場の他の一般門下生達にも大いに評判がよろしくないのでありました。威治教士の場合は、指導をすると云うよりは自分の力量を実際以上に誇示しようとしてか、技をかけて見せる時に相手に不必要な苦痛を与えたり、態と受け身を取り難く投げたりする事に依って、門下生達を素人扱いして悦に入っているようなところが間々見受けられるのでありました。
 技の勘所を伝授したり体の使い方を具体的に示す事もなく、ただ荒々しく且つ意表を突くような勝手な変化とスピードを使って技を施すばかりで、それはとても指導と呼べる代物ではないと万太郎は何時も秘かに眉を顰めているのでありました。それで門下生達の心服を得ることが出来ると、威治教士は無邪気にも本気で思っているのでありましょうか。
 万太郎ばかりではなくあゆみもそう云う、ある意味で幼稚過ぎる了見の威治教士に愛想尽かしするのは、当然と云えば当然の事でありましょうか。そんなあゆみの心機の様相を知ってか知らずか、まあ、恐らく気づきもしないのでありましょうが、威治教士があゆみの心に好印象を残そうと、的外れなパフォーマンスを相変わらず繰り広げて止まない様子等は、これはもう愚かを通り越して可哀そうにも思えて仕舞うのであります。
 興堂範士の御曹司として小さい頃からちやほやされて、自分の周りにいる他者をしっかり見る、或いは冷静な自己省察を繰り返すなんと云う訓練を疎かにこれまで生きてきた威治教士は、その内興堂範士の庇護から離れた時に何やら手痛いしっぺ返しを、その周りにいる他者から屹度蒙る事になるのではないかと万太郎は思うのでありました。その手始めとも云えるのが、つまりこのあゆみの冷淡な視線であろうかと思われるのであります。
 まあ、威治教士の事はさて置き、是路総士の復帰と鳥枝範士と寄敷範士の総本部での指導再開は、総本部の指導陣の厚みを、前にも況して門下生達に印象づけたたようでありました。これは万太郎とあゆみの狙い通りであったと云えるでありましょう。
(続)
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お前の番だ! 299 [お前の番だ! 10 創作]

 古い門弟達には、ようやく総本部道場の指導体制が本来の充実を取り戻したと見えるでありましょうし、新しい門下生達には、万太郎やあゆみの稽古にはない、迫力やら重々しい雰囲気やらが体験出来るようになったと感じるでありましょう。各支部の稽古に於いても、鳥枝範士や寄敷範士にはない若々しさとか活きの好さとか近寄り易さが、万太郎とあゆみの支部指導への復帰に依って再び齎されたように感じた会員も多いでありましょう。
 是路総士は別格として、門下生達の中には万太郎やあゆみのファンも居れば、当然鳥枝範士や寄敷範士のファンも居るのであります。常勝流総本部道場では技がかなり厳密に統一されているので、夫々の指導者の教える技術は同じなのでありますから、夫々の醸し出す稽古の雰囲気が夫々のファンを獲得していると云う事でありますか。
 こう云う色あいの多様さがその道場の持つ厚みと云うものでありましょう。多士済々である指導陣容の色あいの厚みが、すなわち道場の魅力でも華やぎでもあるのであります。
 さてところで、この新体制になった矢先に、興堂範士から思わぬ申し出が総本部に持ちこまれるのでありました。その申し出には、先ず是路総士とあゆみが大いに困惑をして、それから他の者が波及的に思い煩う、と云った類のものでありましたか。
 興堂範士の総本部道場での出張指導は、是路総士が病院に入院した時以来、旧来の二月か三月に一度と云う不定期から月に一度の定期となっているのでありました。そのペースは是路総士が総本部の指導に復帰した後も、変わらず続いているのでありました。
 更に、興堂範士の出張指導は専門稽古生に対するものでありましたから、一般門下生稽古に顔を出している威治教士の出張指導とはまた別ものなのでありました。依って威治教士は興堂範士の助手と云う役割で総本部道場に現れる事はないのでありましたし、興堂範士の助手には何時も花司馬筆頭教士か板場教士が同道して来るのでありました。
 それが全く珍しく興堂範士が威治教士を伴って出張指導に現れたのは、何時もとは違った了見があるためであろうと万太郎はすぐに推察出来るのでありました。玄関を入った興堂範士の顔つきが心なしか何時もと違って固いように思われるのでありましたし、威治教士もどこか緊張した面持ちで、普段は聞き流している万太郎の迎接の言葉に軽い会釈等返すのは、これはもう滅多にない珍事とも云うべきものでありましたか。
 興堂範士の体術稽古そのものは何時も通りでありましたが、稽古後に興堂範士も威治教士も早々に着替えて体裁を整えて是路総士の前に畏まる風情は、何となく仰々しいものがあるのでありました。茶を献じながら、万太郎は自分がこの場に居るのが如何にもそぐわないように感じて、早々に師範控えの間から退散しようとするのでありました。
「折野君、あゆみちゃんにここへ来るように云ってくれるかのう」
 興堂範士は、廊下に出て正坐してお辞儀する万太郎に云うのでありました。
「押忍。承りました」
 万太郎はそう返事して障子戸を閉めてから、腰を上げる時に思わず知らず首を傾げるのでありました。何時もの稽古後とはどうも様子が違うのであります。
「あゆみさん、師範控えの間でお呼びですよ」
 万太郎は母屋の食堂で稽古着を着た儘でいるあゆみに云うのでありました。
(続)
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お前の番だ! 300 [お前の番だ! 10 創作]

「あらそう。何かしら?」
 師範控えの間のただならぬ気配を未だ知らぬあゆみは、そう云いながら椅子から立ち上がると、特段構えた表情もしないで母屋の食堂を出て行くのでありました。そのあゆみの後を追うように来間が控えの間の方に向かうのは、何時も通り中から用を云いつけられたらすぐに対応出来るように、控えの間傍の廊下で待機するためであります。
「ああ、来間、今日は自分が座敷の傍に控えているから、お前はここに居て、後でお出しする酒とか仕出し弁当とかの用意をしてくれ」
 万太郎はふと思いついて来間に声をかけるのでありました。
「押忍。承りました」
 来間はそう返事してから一緒に居る片倉とジョージに目配せを送るのでありました。片倉は流し台の下から日本酒の一升瓶や、戸棚から徳利や猪口を取り出して早速仕事用意に取りかかり、ジョージが受付兼内弟子控え室に向かうのは、もうそろそろ仕出し弁当屋から配達されてくるであろう四人分の仕出し弁当を受け取る用意のためでありました。
「折野先生、あゆみ先生の弁当はどうしますか?」
 来間が、控えの間に向おうとする万太郎の背仲に尋ねるのでありました。「仕出し弁当は四人分しか注文していないのですが」
 四人分とは、興堂範士と威治教士、それに是路総士と寄敷範士の分でありました。
「ああそうだったな」
 万太郎がふり返るのでありました。態々また控えの間の障子戸を開けて寄敷範士にその件を聞き質すのは、控えの間内のただならぬ雰囲気から遠慮したいところであります。
「急ぎもう一つ持ってくるように、弁当屋に電話しますか?」
 来間にそう云われて万太郎はほんの少し考えるのでありました。
「いや、それはしないで良いだろう。若しあゆみさんが向こうで食事を先生方と伴にすると云うのなら、こっちに用意してあるあゆみさんの分を持って行くとしよう」
「押忍。承知しました」
 万太郎は立礼する来間を食堂に残して、足音を立てない摺り足で控えの間の方に向かうのでありました。あゆみは余程勧められない限り向こうで食事する事はないように、特に根拠はないのでありましたが、万太郎には思われるのでありました。
 師範控えの間からは興堂範士の声が廊下まで聞こえてくるのでありました。
「いやまあ、いきなりの不躾な話しで総士先生も驚かれたでありましょうし、ましてやあゆみちゃんには寝耳に水の事じゃったろうとは思うけれど」
 その興堂範士の言葉にすぐに応える声は誰からも上がらないのでありました。暫くの間、師範控えの間は如何にもしめやかに森閑と静まっている儘なのでありました。
 万太郎は障子戸の端の方に、極力音を立てないように気配を殺してゆっくりと正坐するのでありました。是路総士に対してはいきなりの不躾であり、あゆみにとって寝耳に水の事とは、一体全体どう云った話しなのでありましょうや。
「いやまあ、些か驚きはしましたが。・・・」
(続)
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