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お前の番だ! 241 [お前の番だ! 9 創作]

「寄敷さん、どっちが良いかな?」
 鳥枝範士が横の寄敷範士の顔を覗くのでありました。
「どちらかと云うと、帰りを考えたら家に近い小金井の方が好都合かな」
「それじゃ、私が八王子に行こう」
 二人の出張先の割りふりはあっさり決まるのでありました。「助手は誰だ?」
「八王子の方は片倉が、小金井は山田が助手を務める予定です」
 万太郎がすぐに応えるのでありました。
「よし、判った。二人には折野から予め伝えておけ」
「押忍。承りました」
「今日の総本部での昼以降の稽古は、何か予めお考えの指定の技がありますか?」
 あゆみが鳥枝範士の顔を見るのでありました。その日の総本部での稽古は、朝の専門稽古では万太郎が中心指導を担当するので既に稽古予定の技は決まっているのでありましたが、昼と夕方の専門稽古と夜の一般門下生稽古は鳥枝範士が担当する筈でありました。
「お前達に一切任せる。稽古内容は二人で自由に決めろ」
「押忍。承りました」
 あゆみはやや不安気な表情で頷くのでありました。朝稽古が終わったら、二人で少し摺りあわせをしなければならないだろうと、万太郎は黙った儘考えるのでありました。
「当初は少しまごつくかも知れんが、云ってみれば総本部道場は今日からグッと若返って、あゆみと折野が前面に出る新体制になるわけだ」
 鳥枝範士がそう云うのでありましたが、これは二人を励ます言と取るべきか一種の脅しと取るべきか、万太郎は少し考えるのでありました。
「総士先生のご復帰まで、非力ながら頑張ってみます」
 万太郎は一応決意表明の心算でそう云ってお辞儀するのでありました。
「いやいや、総士先生が復帰された後も、あゆみと折野の新体制は変わらないぞ」
 寄敷範士が顔を横に一度ふるのでありました。
「この先ずうっと、そうなるのですか?」
 あゆみの眉宇の困惑の色が一層濃くなるのでありました。
「そう云う事だ。少なくとも私と鳥枝さんはそう云う心算だ」
「総士先生も賛同なさるだろうよ」
 鳥枝範士が力強く頷くのでありました。
「この先ずうっと、となると如何にも大任ですね。あたし達に務まるでしょうか?」
「否が応でも努めて貰う」
「押忍。承りました」
 万太郎はもう一度、今度はやや深めにお辞儀するのでありましたが、横に座っているあゆみは無言を守って小難し気な表情の儘で俄には頷かないのでありました。あゆみの方は、この思いがけない両範士からの通達を相当重く受け止めているようでありました。
「あゆみは、今日も病院に行くんだろう?」
(続)
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お前の番だ! 242 [お前の番だ! 9 創作]

 鳥枝範士があゆみの重苦しそうな表情に向かって訊くのでありました。
「これから、朝稽古中にちょっと顔出ししてこようと思っています」
「ああそうか。それならワシも一緒に行って、この間の事情を説明して、総士先生にいただくべき裁可をいただいてくるとしようか」
「手術の次の日だから、そんな長話しをして大丈夫かな?」
 寄敷範士が横から鳥枝範士に話しかけるのでありました。
「それもそうだな」
 鳥枝範士は少し考えるのでありました。「まあ、話して大丈夫のようなら話すが、そうでないのならまた後日とするか。しかし取り敢えず、総士先生のお顔だけは見ておきたいから、矢張りワシはあゆみと一緒に病院に行ってこよう」
「鳥枝先生は朝稽古で見所に座る役目があります」
 万太郎が口を挟むのでありました。
「ああそだった。だけどまあ、先に話した通りワシは稽古に口出しは何もしないで、ただ黙って見所に座って睨みを利かせているだけだから、これは寄敷さんに代わって貰おうか。寄敷さんは、今日はこれから何か用事でもあるかい?」
「いや、代わるのは別に構わんけど」
 寄敷範士が気安く請け負うのでありました。
「ではそうして貰おう」
 鳥枝範士はそう云って、もうすっかり冷めた茶を一気に飲み干すのでありました。
「病院には誰かにつき添わせますか?」
 師範控えの間から退出して、食堂へ向かう途中の廊下で万太郎は一歩先を歩むあゆみの、後ろに束ねた艶やかな黒髪に向かって訊くのでありました。
「ううん、その必要はないわ」
 あゆみがふり返るのでありました。束ねられた黒髪の先が小さく躍るのでありました。
「鳥枝先生もご一緒ですが?」
「そうね。でも、必要ないわ。病院の正式な面会時間は午後からだし、急用でもないのに時間外に三人で押しかけると云うのも、何か如何にも無神経な気がするし」
「押忍。判りました」
 万太郎は歩を止めないで浅くお辞儀するのでありました。
 その後万太郎は受付兼内弟子控え室に回って、八王子と小金井の出張指導者が鳥枝範士と寄敷範士に代わった事を中に居た来間と片倉と山田、それにジョージに告げるのでありました。片倉と山田は両範士に代わったと聞いてやや顔色を固くするのでありました。
「両先生からどんな話しがあったのですか?」
 来間がやや不安そうな物腰で訊ねるのでありました。
「これから先総士先生がご復帰になるまでは、余所への出張指導は鳥枝先生と寄敷先生が担当される事になった。依ってあゆみさんと自分とで総本部道場の稽古は総て受け持つ」
「あゆみ先生と折野先生はこれから先、総本部道場に常駐されると云う事ですか?」
(続)
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お前の番だ! 243 [お前の番だ! 9 創作]

「そう云っている。同じ事を、態々言葉を変えて念を押すな」
 万太郎はどうしたものか不機嫌な口調でそう来間を叱るのでありました。しかし特段不機嫌になっていると云うわけでもないのでありましたが。
「押忍。済みません」
 来間がたじろぎながら慌てて万太郎に頭を下げるのでありました。万太郎があゆみと共に急に総本部道場の総ての稽古を任される事になったので、屹度ナーバスになっていて不機嫌なのだろうと来間は受け取ったのかも知れません。
「出張指導の助手にしても、総本部での稽古や諸事にしても、総士先生が復帰されるまではお前等も一層気を引き締めて繋って貰うぞ。若し何か総士先生のお留守中に無様な事でもあれば、留守を預かる者として総士先生は元より門下生に対しても申しわけがない」
「押忍。承りました」
 万太郎の訓言に対して四人が声を揃えるのでありました。
 稽古では見所に座った寄敷範士は、万太郎の指導には本当に何も口出ししないのでありました。万太郎が先ず、来間を相手に示した課題技を個々に門下生が繰り返している時でも、見所から降りて門下生の間を巡って夫々に声をかける事もしないのでありました。
 しかしながら寄敷範士の姿が道場内にあると云うだけで、矢張り場が引き締まるのでありました。若し万太郎一人の指導に依る稽古であったなら、この緊張感を稽古時間中に亘って高い状態に維持するのは至難であったかも知れません。
 稽古が終わると自分の指導に対する講評を貰おうと、師範控えの間へ来間の先導で戻った寄敷範士の下に万太郎はすぐに参じるのでありました。
「如何でしたでしょうか、今の稽古は?」
「そうだな、概ね良かったんじゃないか。技術の説明に関しても大まか過ぎる事もなく、微に入り過ぎる事もなく程の良い説明であったし、時間中に門下生達にダレも全く見られなかったからな。寧ろ俺の稽古の時より連中の目は意欲的だったように見えたぞ」
 寄敷範士はそう云って万太郎に微笑むのでありました。
「押忍、有難うございます。しかし自分としては寄敷先生のように上手く、門下生達に高いモチベーションを維持させ続けられる指導が出来たか、心許ない気がするのですが」
「いやいや、その辺は問題なかろうよ。お前の説明は明快だし、思わぬ着眼もあって気が散らない。俺も聞き入ったくらいだ。見本の技にしても、自分の凄いところを見せてやろうとか云った外連味もなく、あっさりと演武するところが大いに好ましかった」
 万太郎にとっては過分な程の寄敷範士の評言でありましたか。万太郎は安堵すると同時に、内心大いに喜ぶのでありました。
 万太郎が師範控えの間を辞そうとしていると、是路総士の見舞いに病院へ行っていた鳥枝範士とあゆみが帰って来るのでありました。あゆみが開けた障子戸から座敷に入る鳥枝範士のために、万太郎は脇に躄って座礼するのでありました。
「おう、お帰り」
 寄敷範士が座布団に腰を下ろす鳥枝範士に声をかけるのでありました。
(続)
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お前の番だ! 244 [お前の番だ! 9 創作]

 座敷にはあゆみも入って、万太郎の傍に静かに座るのでありました。
「いやまあ、手術が昨日だったと云うのに、思いの外お元気な様子だったよ」
 鳥枝範士が寄敷範士に報告するのでありました。「もうベッドに上体を起こして座っておられたし、朝食も出されたものは総て食されたようだよ」
「へえ。それは一安心だ。昨晩のご様子はどうだったんだろう?」
 寄敷範士はあゆみの方を見て訊くのでありました。
「全く手がかからない患者さんだったなんて、看護婦さんがおっしゃっていました」
「ふうん。・・・それで、話しは出来たのかい?」
 寄敷範士は鳥枝範士の方に目を戻すのでありました。
「ま、大まかなところはお伝え出来たし、思うようにやれと云うご裁可もいただいた」
「あゆみの総本部道場長と云うのも、折野の道場長代理と云うのもお許しが出たかい?」
「お許しいただいた。ただ、道場内の機構はそれで良いが、対外的には一応ワシが総士代理、寄敷さんが総士代理補佐、と云う形にしろとの命があった」
「ふうん。まあ、その方が対外的な体裁としては色々と納まりが良いか」
 寄敷範士が無表情で頷くのでありました。
「ワシ等の役職はあくまで名目的なもので、あゆみと折野の主導で今後の総本部道場を実質的に運営すると云う線は、ワシの提言通りご納得されたよ」
 鳥枝範士は並んで座っているあゆみと万太郎の方をジロリと見るのでありました。「ところで今日の稽古での折野の中心指導ぶりはどうだったかな?」
「まあ、これまでも中心指導は時折やっていたから特段問題はなかった。急に気負いが前面に出る風でもなかったし、専門稽古生共のあしらいも堂に入っていたよ」
「あゆみと折野の二人に、総本部道場の稽古を任せても大丈夫かな?」
「大丈夫だろう。寧ろ俺達がやるより稽古に活気が出るだろう」
「若いだけに足りないのは、後は威厳だけか」
「いやいや、若造の癖に稽古中の折野の威厳は大したものだったよ」
 寄敷範士は万太郎を見るのでありました。その視線にどう云う表情をして良いのか判らないものだから、万太郎は無表情な儘で半眼をしているのでありました。
「寄敷さんの評価は何時も甘いからなあ」
 鳥枝範士がそう云って笑いながら万太郎の方を向くのでありましたが、その視線に釣られたのか、横のあゆみまで万太郎の方に首を捻じるのでありました。万太郎は正坐で尻を乗せている踵の内側辺りがむず痒くなる心地がするのでありました。

 昼食を終えてから今度は万太郎と寄敷範士が、是路総士を見舞うために病院へ向かうのでありました。仙川駅でタクシーを拾って世田谷の大蔵まで二十分程の行程でありました。
 是路総士は一般入院病棟に移っているのでありました。四人部屋の窓際のベッドで、窓からはあまり手入れのされていない病院中庭が見下ろされるのでありました。
「おう、時を置かず替わり顔が現れよったな」
(続)
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お前の番だ! 245 [お前の番だ! 9 創作]

 是路総士は上体を起こしてフカフカのマットに背を預けているのでありました。
「もう起きていて大丈夫なのですか?」
 寄敷範士が心配そうな表情で訊くのでありました。
「傷が開かない程度に上半身を起こしていないと逆にしんどい。仰向けに寝る事が出来ないから、寧ろこの姿勢の方が私には楽なくらいだね」
「そう云う風に動かしても背骨の方は問題ないのですか?」
「骨はボルトで固定してあるから、返って前より強固になっているだろうよ」
 是路総士が云うのを聞いて寄敷範士は納得気に何度か頷くのでありました。
「手術後の脚の具合は如何ですか?」
「下半身のモヤモヤした感覚は和らいだかな。痺れも少しは解消したように思える」
 是路総士は腰から下にかけてある薄い布団を捲って足部を露わにすると、足首や指を動かして見せるのでありました。その動きを寄敷範士と万太郎は凝視するのでありました。
「問題なく動いているようにお見受けしますなあ」
「まあ、立ち上がるとどうか、と云うところだな。何でも明日から、もう立って歩く訓練を開始すると云う院長の話しだ」
「そんなに早く立ち上がって良いのですか?」
「横になっているばかりとか座ってばかりでは、脚の筋力がみるみる落ちるからと云う事らしい。一度落した筋力はまたつけるのに時間がかかるし、回復も遅れるからなあ」
「ああ成程。それはそうですな」
 寄敷範士はまたもや数度頷くのでありました。
「あのう、これはあゆみさんからの託り物です」
 万太郎が手にしていた風呂敷き包みを解いてやや大判の本を二冊取り出して、ベッド横の台の上に乗せるのでありました。是路総士が夜に何時も、ちびりちびりと酒を飲みながら飽かず見ている中国古鏡の写真集でありました。
「おお、これは助かる。入院中の退屈をどうして紛らわそうかと思っていたところだ」
 是路総士が意外であるように喜ぶのでありますから、頼まれたから託けたのではなく、あゆみが気を利かせて差し入れたと云う事でありましょうか。「序に私の本棚に岩波文庫の『春秋左氏伝』があるから、今度来る時に全巻持ってくるようにあゆみに伝えてくれ」
「押忍。承りました」
 ここは道場ではなく娑婆であるにも関わらず万太郎はそう返事するのでありました。その返事に対して是路総士の方も特段何も云わないで聞き流すのでありました。
「序の序でに、日本酒の五合瓶でも持って来てくれれば尚更嬉しいのだが、病院と云う場所柄それは絶対拙かろうなあ」
 是路総士はそんな冗談を云って笑うのでありました。「ああ折野、私がこんな事を云っていたと、後であゆみに告げ口なんかするんじゃないぞ。また怒られるんだから」
「押忍。それも承りました」
 万太郎は是路総士に深くお辞儀して見せるのでありました。
(続)
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お前の番だ! 246 [お前の番だ! 9 創作]

「手術の直後でこんな事を訊くのも何ですが、退院は何時頃になりそうですか?」
 寄敷範士が話頭を変えるのでありました。
「抜糸が済めば大丈夫だと云う話しだ。長くても二週間程度で退院出来るだろうよ」
「まあ、退院されてもすぐに稽古復帰がお出来になると云うわけではないでしょうが、それでも総士先生が帰って来られると、我々も一安心と云ったところですなあ」
「鳥枝さんの話しでは、あゆみと折野を中心にした新体制でこれから総本部の運営に当たるわけだから、私が戻ってすぐに復帰しなくともそれでどうこうと云う事はなかろう」
「それでも総士先生が病院ではなく家にいらっしゃると云うだけで、矢張り我々の安心感が違いますよ。総士先生は常勝流の支柱でいらっしゃるのですから」
 寄敷範士は慎に真剣な面持ちでそう云うのでありました。
「まあ、常勝流の将来と云う点では、私の入院が良い転機と云うものだろうよ。流石に実業家でもある鳥枝さんは機を見るに敏、と云う気がしたよ。確かに我々老体が何時までも前面に居座っていては、将来の展望は何時になっても開けない。退院したらそれこそ私は、それに寄敷さんも鳥枝さんも、隠れ柱となって新体制を支える役に回る事にしよう」
「それは私も大いに賛同いたします」
 寄敷範士はそう応えた後で是路総士と伴に、やや後方に控えている万太郎を見るのでありました。その二人の視線に万太郎は思わす及び腰になるのでありました。
 暫くすると病室のドアが開いて、手術後の早速の見舞客が現れるのでありました。
「おお、あにさん、思ったより元気そうなお顔で」
 そう云ってベッド脇に近づくのはスーツ姿の神保町の興堂範士でありました。後ろには花司馬筆頭教士が同じくスーツ姿で大きな果物篭を持ってついているのでありました。
「ああこれはどうも道分さん」
 是路総士は居住まいを正そうとするのでありました。
「いやその儘で。気を遣わんでくださいよ」
 興堂範士は是路総士が体を動かそうとするのを、掌を見せて止めるのでありました。「背骨の手術だと聞いて心配しておりましたが、横になっていないでもう座っていらっしゃるとは全く意外でしたのう。そんな姿勢をしていて大丈夫なのですかな?」
「なあに、この方が楽なくらいですよ」
 是路総士と興堂範士がそんな会話をしている後ろで、花司馬筆頭教士が万太郎に目配せしながら果物篭を手渡すのでありました。万太郎は恭しく受け取るのでありました。
「つまらん見舞いですがあにさん、どうかご笑納ください」
 後ろの気配にあわせて興堂範士が是路総士に云うのでありました。
「いや痛み入ります」
 是路総士は背中の傷を庇ってか、興堂範士に浅くお辞儀するのでありました。
「こんなものはあにさんは喜ばれないじゃろうと思いましてな、実は中にこっそり日本酒の瓶を忍ばせてあるのです。大っぴらに酒を手渡すのも拙かろうと思いましてな」
 興堂範士は辺りを見回して悪戯小僧のような笑いを目尻に浮かべるのでありました。
(続)
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お前の番だ! 247 [お前の番だ! 9 創作]

「いやそれは、何とも有難い」
 是路総士も共犯者のような笑みを頬に作るのでありました。「いやね、先程日本酒の差し入れがあればこんな嬉しい事はないと、寄敷さんと折野に話していたところでしたよ」
「その言葉をあゆみさんに僕が告げ口すると後で総士先生が叱られるから、屹度内緒にしろと云う固い指示を受けたところでもありました」
 万太郎が云い添えるのでありました。
「そりゃそうじゃ。ワシの見舞い品についても、あゆみちゃんには云ってはならんぞ」
 興堂範士が後ろの万太郎をふり返って、口に人差し指を添えて見せるのでありました。
「押忍。承りました」
 万太郎は固いお辞儀をするのでありました。
「私は別に胃腸の病気で手術を受けたわけじゃないから、酒は飲んでも構わん筈だ」
 是路総士は勝手な理屈を宣うのでありました。
「いや、血流に関係しますから少なくとも三日はいけません。傷の治りが遅くなります」
 寄敷範士があまり窘める気もなさそうに、一応窘めるのでありました。
「なあに、ワシやあにさんの体は鍛え方が違うから、少々の酒など問題ないわい」
 興堂範士はそう云って大笑するのでありました。こういう会話を病院の関係者に聞かせたら途轍もない顰蹙を買うであろうと、万太郎は内心面白がるのでありました。
「ところであにさん、道場の方は大丈夫ですかな?」
 興堂範士が話題を転じるのでありました。
「鳥枝さんとそこの寄敷さんが良しなに取り仕切ってくれています」
「若し道場運営に必要があるようでしたら、ワシも一肌脱ぎますぞ」
 興堂範士は茶目っ気たっぷりに片肌脱ぐ仕草をして見せるのでありました。
「有難うございます。これを丁度良い機会として、今後は若い者を前面に押し出した運営をしていこうと云う話しになっておりますよ」
 寄敷範士が是路総士の代わりに応えるのでありました。
「若い者、と云うと、あゆみちゃんとそこの折野君ですかな?」
「そうです。向後あゆみを総本部道場長、それから折野を道場長代理と云う役職につけまして、それを私と鳥枝で後援すると云う形です」
「私も、退院して復帰した暁には後援の方に回る所存ですよ」
 是路総士が云い添えるのでありました。
「総本部道場もいよいよ新体制と云うわけですかな。結構々々。ウチの道場も若い者をこれから大いに売り出そうと、前にお話ししたかと思いますが威治を道場長にして、そこの花司馬筆頭教士と二人で引っ張っていって貰うような算段をしております。まあ、これは実は、ワシがこれからは大いに楽をしようと云う魂胆が第一番なのですがな」
「遅ればせながら総本部も六十過ぎの爺さん連中は後ろに退いて、徐々に世代交代ですよ。まあ、日本武道協会とか古武道協議会とかへの体裁がありますから名目的に、鳥枝さんが総士代理、寄敷さんが総士代理補佐として、外交的な活動を補佐して貰う予定です」
(続)
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お前の番だ! 248 [お前の番だ! 9 創作]

「総本部があゆみちゃん、ウチが威治と、次代を担う跡継ぎが夫々第一線に並ぶような体勢と云うわけですから、これは常勝流の未来も明るいですぞ」
 興堂範士はまた大笑するのでありました。
「門下生達に動揺がなく、それで上手く纏まるなら、と云う事ではありますが」
「あゆみちゃんと、それを補佐する折野君ならば、大丈夫に決まっていますわい」
 興堂範士は力強く頷きながら受けあうのでありました。「ま、それにしても、若しワシで間にあうようなら、出稽古でも何でも当座はお手伝いしますぞ」
「有難いお言葉を感謝します。何かありましたらよろしくお願いします」
 是路総士は背の傷を庇って目だけのお辞儀を興堂範士に送るのでありました。
「ところでそうなると、あにさんの月に一回のウチでの剣術稽古と、これまで続けてきた折野君の出稽古は、一先ず休止となりますかなあ?」
「そうですね。また落ち着いたら再開、と云う事になりましょう」
 寄敷範士が応えるのでありました。
「あにさんの剣術稽古は仕方がないけれど、折野君の方はその稀なる才能と将来性も考えて、もう少しワシとしても鍛えてみたいと思っていましたから残念ですなあ」
 興堂範士はそう云いながら万太郎の方に視線を投げるのでありました。
「過分なお言葉を有難うございます。また状況が許すようになりましたなら、是非ご教導をいただきに神保町の道場に参上いたします」
 万太郎がそう云って頭を下げるのでありました。
「暫くは折野君が来ないとなると、ウチの門下生共も寂しがるじゃろう。なあ花司馬」
「押忍。拠ない事情とは云え、内弟子の堂下を始め、ウチの専門稽古生達からも折野君は大いに慕われていますから、皆残念に思うでしょう」
 花司馬筆頭教士が如何にも残念そうな表情を作って同調するのでありました。
「ワシの方の総本部での体術出張指導はどうしますかな?」
 興堂範士が是路総士と寄敷範士を交互に見ながら訊くのでありました。
「それは是非続けていただきたいと思っております」
 寄敷範士がすぐに応えるのでありました。
「そうじゃ、そうじゃ」
興堂範士が何か思いついたような表情になるのでありました。「今までは二か月に一度程度の不定期じゃったが、これからは月に一度日時を決めて、定期的に伺おうかのう。その折、総本部の内弟子と準内弟子に限って延長指導をしても良いが、どうじゃろうか?」
「それは有難い。そうすれば総本部と興堂派の交流も薄くはならないし」
 是路総士が先ず頷くのでありました。
「お忙しい道分先生ですから、定期として、不都合はありませんか?」
 寄敷範士が恐縮の表情で伺いを立てるのでありました。
「なあに、何とでもなりますわい。時々威治も連れて来れば、次代の総帥同士、あゆみちゃんと良い関係を作る機会も増えると云うものですわい」
(続)
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お前の番だ! 249 [お前の番だ! 9 創作]

 興堂範士のその言葉を聞きながら、万太郎は心の内が少々冷えるのでありました。興堂範士の出張指導が定期になるのは大歓迎でありますが、威治教士が一緒について来てあゆみと親しく交流すると云うのは、何か余計な事のように感じるのでありました。
「それでは出張稽古の件はよろしくお願いしましょうかな」
 是路総士がまた目礼を興堂範士に送るのでありました。
「如何にも承知しましたぞ。ここがあにさんへの日頃の感謝の気持ちの見せどころと、ワシとしても大いに張り切らせて貰いますわい」
 興堂範士はベッドの是路総士に深くお辞儀するのでありました。「さて、長居してあにさんを疲れさせるのも何ですから、ワシはこの辺で退散いたしますかな。出張指導の方は後で寄敷君や鳥枝君と日取りや時間等の委細をつめるとしましょう」
 頭を起こした興堂範士がそう云いながら寄敷範士を見るのでありました。
「私の方からもよろしくお願いいたします」
 寄敷範士が先程の興堂範士と同じくらいに頭を下げるのでありました。寄敷範士の後ろに立っていた万太郎も、同程度に一緒に低頭するのでありました。
 万太郎は帰途につく興堂範士と花司馬筆頭教士を病院の玄関まで送るのでありました。二人の乗ったタクシーが成城学園前駅に向かって走り出し、車が視界から消えるまで万太郎は浅くお辞儀した姿勢の儘で見送るのでありました。
 病室へ戻ると寄敷範士も帰り支度をしているのでありました。
「さて折野、我々もお暇するぞ」
 寄敷範士は万太郎にそう云ってベッド脇の椅子から立つのでありました。
「道分先生からいただいた果物はどうしましょうか?」
 万太郎は是路総士に問うのでありました。
「中の酒だけ残して、後は家に持って帰って皆で食えば良い。こんなにたんとあっては、食い切れないで持て余す事になるだろうからなあ」
「林檎とかバナナとかを少し残して、後は持って帰りますか?」
「いや、この篭の儘置いておいた方が良いでしょう」
 寄敷範士がふと思いついたように云うのでありました。「酒だけ残しておいたら、屹度看護婦とか掃除の人に見つかるでしょう。その台やベッド近辺に隠し場所はありませんし」
 寄敷範士はベッド脇の台を指差すのでありました。「この果物篭に忍ばせておけば多分見つかりはしないでしょうよ。まさか連中が見舞いの果物篭の中まで手を入れる事はないでしょうからなあ。無難な隠し場所として、間違いなくこの篭は重宝しますよ」
「ああ成程。流石寄敷さん、なかなかの悪巧みだ」
「いやいや、お誉めに与って恐縮です」
 寄敷範士は得意気な笑みを浮かべて頭を掻くのでありました。
「と云う事で、その果物篭は置いていってくれ」
 是路総士が万太郎に指示するのでありました。
「押忍。承りました」
(続)
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お前の番だ! 250 [お前の番だ! 9 創作]

 万太郎はそう云って律義らしく是路総士にお辞儀するのでありました。酒は置いていくとしても茶碗とかコップはあるのかしらと、万太郎は前に倒した頭の隅で心配するのでありましたが、ま、その辺は是路総士が何なりと手立てを尽くすでありましょう。
「ではこれで失礼します。くれぐれも酒は医師や看護婦や掃除の人等の病院関係者、それに同室の入院患者さんにも見つからないようにしてください」
 寄敷範士が声を潜めるのでありました。
「心得ました。抜かりなくやりますよ」
 是路総士は眉根に力を籠めて頷くのでありました。
 病院から道場に戻った万太郎と寄敷範士を、内弟子の来間と準内弟子の三人が揃って玄関で迎えるのでありました。師範控えの間の障子戸の前で寄敷範士と別れた万太郎は、来間を引き連れて母屋の食堂に向かうのでありました。
「ああ、万ちゃんお帰り」
 食堂では夕食の仕こみでもしているのか、エプロンをかけて流し台に向かっているあゆみが万太郎を迎えるのでありました。
「ただ今戻りました」
 万太郎は食堂入口で気をつけをしてあゆみに低頭するのでありました。
「お父さん、案外元気そうだったでしょう?」
「そうですね。手術翌日なのにもうベッドに座っていらしたのには驚きました」
「最近は手術直後でも寝かせたままにしないで、すぐに起こして色々体を動かしたりさせられるそうよ。病院では入院患者もゆっくり気儘に寝ていられないんだって」
 あゆみのその言葉に笑いかけた後、万太郎は台所入口脇に立って控えている来間の方に顔を向けるのでありました。
「おい来間、すぐにお茶を師範控えの間に持って行け」
「押忍。承りました」
 来間はそう云われてようやく気づいた、と云った表情をして慌ててポットと急須の置いてある台の方に進むのでありました。
「茶を出したら、鳥枝先生がお使いになっていた湯呑はちゃんと下げてくるんだぞ」
「押忍。承りました」
 来間は急須に湯を注ぎ入れながら返事するのでありました。
「どうも来間は、人柄は決して横着ではないんですけど、なかなか気が利きませんね」
 来間が新たに淹れた茶を二つ盆に載せて台所を出ると、万太郎は少し苦った表情をしてあゆみに愚痴を云うのでありました。
「そうね。万ちゃんや良君のようにはいかないわね」
 あゆみが同意するのでありました。「でも、その内変貌するでしょう、鍛えられて」
「まあ、気が利かない代わりに、云われた事は無精しないで打ちこむタイプですが」
「武道家としては、そう云う気質は寧ろ褒められるものでしょう」
「しかし、臨機応変、も武道には求められます」
(続)
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お前の番だ! 251 [お前の番だ! 9 創作]

「それはそうだけどさ」
 あゆみは困ったような顔で一応頷いて見せるのでありました。
「ところで総本部道場運営の仕事を、これから先僕とあゆみさんが担当すると云う事ですが、僕等の方の役割分担はどうなりますかね?」
 万太郎が話しの舵を曲げるのでありました。
「そうね、具体的にどんな仕事があるのか鳥枝先生や寄敷先生に詳しくお伺いして、それから後で万ちゃんと二人で細部を摺りあわせる事になるわね。それは確かに大まかな様子は判ってはいるけど、未だ曖昧なところや知らない仕事もあるし」
「そう云った経営面なんかに今まで僕は全くノータッチでしたから、ちゃんとあゆみさんの手助けを無難に熟せるのかどうか、非常に心もとないような心持ちです」
 万太郎は気後れの表情をあゆみに向けるのでありました。
「あたしの手助け、とかじゃなくて、万ちゃんも共同で責任を持って貰わないと困るわ。まるで助手みたいな気分でいて貰っては、あたしの方が心細いじゃない」
 あゆみが万太郎をやや強い眼光で睨むのでありました。
「それは勿論、僕も無責任でいようとしているわけではありません。しかしあゆみさんが総本部道場長であり、僕がその代理と云う職分から、そんな風に云ったまで、ですよ」
「本心のところは、あたしとしては万ちゃんが頼りの綱なんだから、お願いよ」
 あゆみは万太郎に合掌して見せるのでありました。その真剣な眼差しが、万太郎にはえも云えず可憐に見えるのでありました。
「押忍。僕は全力で、あゆみさんを支えて見せます」
 万太郎はあゆみの懇願の仕草に、秘かに我を忘れる程の満悦を覚えるのでありました。こうなったら何が何でも、あゆみのために張り切らざるを得ないと云うものであります。

 その日の夜の一般門下生稽古に鳥枝範士ではなくあゆみが現れたのを見て、下座に座る門下生の中で最も喜躍したのは新木奈でありましょうか。あゆみの後について道場に入る時に、新木奈の顔が一瞬光燿したのを万太郎は横目でちらと見るのでありました。
 来間のすぐ横、やや前に万太郎が、見所に向かって道場中央にあゆみが正坐すると、来間の号令に依り神前への礼からその日の一般門下生稽古が始まるのでありました。
「では基本動作を始めてください」
 あゆみが指示すると門下生達は各個に道場一杯に散らばって、夫々自分のペースで基本動作を止めの指示があるまで繰り返すのでありました。専門稽古と違って、一般門下生稽古では整列して号令に依り基本動作や基本の当身動作を反復するのではなく、個々の門下生のペースがある程度は許されているのでありました。
 それは参集した門下生達の経験や体力や年齢が専門稽古生よりはばらつきが大きくて、しかも本格的に常勝流武道を稽古しようと云う意気も専門稽古生よりは薄いであろうと云う判断からでありました。一般門下生達は健康維持とか体力増強とか、娯楽のためとかダイエットのためとかの、夫々固有の稽古目的もある程度は許容されているのでありました。
(続)
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お前の番だ! 252 [お前の番だ! 9 創作]

 しかしあくまで武道でありますから、規律や態度は一般門下生と云えども厳格さを求められはするのでありました。本来、命の遣り取りを前提に創られた武術の技を稽古するのでありますから、緩んだ気持ちは専門稽古生でも一般稽古生でも等しく厳禁であります。
 常勝流の稽古着が白と決められているのは、それは、死に装束、と云う意味もあるのだと前に鳥枝範士から万太郎は聞いた事があるのでありました。この稽古に於いて死んだとしても文句はないと云う覚悟と真摯さを、稽古着の白に表わしていると云うのであります。
 現代に行われ稽古される武道ではあるものの、その遺風を酌んでいるのでありますから、稽古態度や礼容に厳しさを求められるのは殊更云うまでもない事であります。そう云う文化を快く思わないのなら、何も敢えて武道を習う意味はないと云うものでありましょう。
「はい、では今日の技を」
 あゆみがそう道場中に響く声を上げると、下座に下がる門下生とは逆に来間が道場中央のあゆみの傍に向かって飛び出すのでありました。あゆみは手本技を来間を相手に何本か繰り返し、技の勘所なども解説して門下生達にその技の反復稽古を促すのでありました。
 夫々に二人組んで組形を稽古する門下生達の間を、あゆみと伴に回り指導している万太郎に、偶々来間と組んだ新木奈の声が聞こえてくるのでありました。
「今日は鳥枝先生の予定なのに、何であゆみさんが中心指導する事になったんだい?」
 それに竟応えようとする来間を制するように、万太郎は言葉をかけるのでありました。
「おい来間、稽古中に余計なお喋りは慎め」
 万太郎に注意されて来間は発しようとした言葉を呑みこむのでありました。直接新木奈を窘めたのではないのでありますが、当然新木奈もたじろぐのでありました。
 傍を去り際に新木奈と目があうのでありましたが、新木奈は慌てて万太郎から目線を外して興醒め気に口の端に固く力を入れるのでありました。一応万太郎の注意にたじろぐのでありましたから、自分の緩んだ態度が不謹慎であると判ってはいるのでありましょう。
 稽古後に仕来たり通りの礼が済んであゆみが道場から去ると、新木奈は万太郎と来間の傍に早速来るのでありました。範士以上の者が退場する時には介添えに誰かが必ず付き従うのでありましたが、教士の場合、露払いはつかないのでありました。
 新木奈は取り敢えず先に万太郎に如何にもおざなりな風の座礼をするのでありました。万太郎も正坐してこちらは律義らしく応えるのでありました。
 次に新木奈は来間にも、もっとくだけた感じの座礼をするのでありました。来間は流石に内弟子でありますから、きちんとした礼容でそれに対するのでありました。
「さっきの話しの続きだけど、今日はどうしたわけで、鳥枝先生の代わりにあゆみさんが中心指導をする事になったんだい?」
 新木奈は万太郎にではなく来間に気安そうにそう訊くのでありました。それは受け取り方によっては、傍にいる万太郎の耳にも聞かせて、先程の稽古中に受けた万太郎の注意への対抗として、遠回しな意趣返しをしているようにも受け取れる態度でありました。
 万太郎は何となくげんなりして二人から離れるのでありました。その万太郎の傍に、他の門下生達が寄って来るのは万太郎と稽古後の礼を交わそうとして、でありました。
(続)
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お前の番だ! 253 [お前の番だ! 9 創作]

「本日の稽古、有難うございました」
 殆どの門下生と稽古後の座礼を終えた万太郎の前に、三方が最後に座って堅苦しそうなお辞儀をするのでありました。三方成雄は随分前に万太郎が黒帯を取得した折、仙川駅前の居酒屋で新木奈や来間達と伴にお祝いの酒宴を開いてくれた男であります。
「お疲れ様でした」
 万太郎も三方に端正に座礼して見せるのでありました。
「ところで折野先生、何で今日は鳥枝先生がいらっしゃらなかったのですか?」
 三方は万太郎より入門が早くしかも五歳程歳上であるにも関わらず、万太郎が教士になってからは言葉つきや態度を改めて敬意を示すようになったのでありました。他の門下生に対する万太郎の立場を慮って、と云う面もありましょうが、技術に於いて自分は到底万太郎に叶わなくなったと覚悟したが故と云うところがあるからでもありましょうか。
 三方はそう云う意味で慎に律義な性格の人であると云えるでありましょう。そんなところに全くルーズな、或いはどう云う了見からか知らないけれど、全くルーズであるところを態と見せつけようとでもしているような新木奈とは、全く以って正反対であります。
「ええまあ、ちょっとした機構の変更がありまして」
 稽古後でもあるから、万太郎は三方に向かってそう応えるのでありました。勿論弁えのある三方でありますから、新木奈のように稽古中に、稽古とは直接関係のないそんな質問を万太郎にするような不見識、或いは不遜、は控えていたのでありましょう。
「へえ、そうですか」
 三方は万太郎のそんな曖昧な返答にすぐに納得の顔をして見せるのでありました。その事はこれ以上、道場運営側の人間でもない者が立ち入って聞き糺すべき事柄ではないのであろうと、万太郎の曖昧な返答を即座に自分なりに解読したが故の態度でありましょう。
 まあ、話したとしても特段の差し支えはないでありましょうが、はっきりここで三方に事の経緯を披露する事に何故か些かの憚りを万太郎は感じたのでありました。それに詳しく話すとなると、それは如何にも面倒臭いと云うとこもありはしましたし。
「鳥枝先生のお加減が悪い、と云うわけではないのでしょう?」
 三方は質問の方向をそう云う風に変えるのでありました。
「ええ、それは全くお元気です。まあ、都合に依り今日は、僕とあゆみさんの代わりに寄敷先生共々出稽古の方に行かれたと云うだけです」
「鳥枝先生に何かあったのでないのなら、それで安心ですよ」
 三方はその万太郎の回答を以って自分の質問を納めるのでありました。当然鳥枝範士の健康を心配したと云うだけではないのでありましょうが、その万太郎の返答で質問を綺麗に締め括る辺りが三方の奥床しい配慮と云うものでありましょうか。
「ところで話しは違いますが、今日の昼間に総士先生のお見舞いに行ってきたんですが、すっかり元気にされていましたよ」
 万太郎は三方の奥床しさに報いるためもあって、聞かれもしないのにそんな内輪の話しをして見せるのでありました。是路総士の入院は門下生にはもう既知の事でありましたし。
(続)
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お前の番だ! 254 [お前の番だ! 9 創作]

「へえ、それは良かった。そうなると総士先生のご復帰も早いかな」
「いやまあ、完全なご復帰には少し時間がかかるかも知れませんが、遠からず総士先生の元気なお姿を道場で見る事が出来ると思いますよ」
「門下生の一人として、それは嬉しい知らせだなあ」
 三方は万太郎に、さも嬉しそうな笑顔を向けるのでありました。
 道場の隅では来間が未だ新木奈と何やら話しているのでありました。万太郎は再度三方と礼を交わして立つと、出入口の方に向かうのでありました。
 その万太郎の様子に気づいた来間が急いで万太郎の方に駆け寄るのでありました。来間は出入口引き戸の傍らに片膝ついて、出ようとする万太郎を見送るのでありました。
「後は頼んだぞ」
 万太郎は出際に来間に云うのでありました。
「押忍。承りました」
 来間は首を前に傾けるのでありました。道場から皆が退出したら道場内の整理をして、門下生達が建物から去るのを確認する仕事が来間には残っているのでありました。
 母屋の食堂に戻るとあゆみがすぐ後から入って来るのでありました。あゆみは自分の部屋で稽古着から普段着に着替えていたのでありましょう。
 この後内弟子だけの剣術稽古があるのでありますが、あゆみが稽古が終わる都度に、面倒臭がる事なく着替えるのは何時も通りでありました。万太郎や来間がその日最後の稽古が終わるまで稽古着を着放しにしているのは、男であるが故の無精からでありますか。
 あゆみはすぐに流し台に向かうのでありました。稽古と稽古の合間に夕食の支度をある程度調えておいて、後は火を入れて完成させるだけの段取りのようであります。
「手伝いますか?」
 万太郎があゆみの背中に声をかけるのでありました。
「ううん、一人で大丈夫よ。お父さんも鳥枝先生もいないからお酒の心配とかしないで済むし。あたしと万ちゃんと注連ちゃんだけなら、夕食の支度も簡単なものね」
 あゆみは来間の事を母屋では注連ちゃんと呼んでいるのでありました。
「では来間の方を見てきます」
 万太郎はそう云ってあゆみの背中に一礼して食堂を出るのでありました。
 道場はもうすっかり人の気配がなくなっているのでありました。来間は受付兼内弟子控え室で日誌をつけているのでありましたが、日誌と云っても稽古参加人数、それに指導者の名前、後は稽古した技、あれば特記事項を記すだけの到って簡単なものであります。
 万太郎が入って来ると、来間は正坐した儘で万太郎の方に向き直ってお辞儀するのでありました。万太郎は立礼を返して来間の傍に座るのでありました。
「さっき新木奈さんと何を話しこんでいたんだ?」
 万太郎は来間のつけている日誌を覗きこみながら訊くのでありました。
「特別な事は何も」
「道場運営の方針が変わった事とか、あれこれ詳しく話していたのか?」
(続)
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お前の番だ! 255 [お前の番だ! 9 創作]

「いや、詳しくは何も話してはいません。だた、これからはあゆみ先生と折野先生が総本部での稽古を主導する事になるだろうと云っただけです。後は世間話しのような事です」
「門下生に対して道場の内部の事情は殊更秘匿する事も別にないが、態々こちらから打ち明ける必要もない。門下生にはその内に自然に判る。披露すべきなら鳥枝先生や寄敷先生が披露されるんだから、内弟子が勝手な了見で喋る事じゃない」
 万太郎は少し語調を厳しくするのでありました。しかし喋るべきかそうでないかの判断なんかも、ひょっとしたら自分達に任されるのだろうかとふと考えるのでありました。
「押忍。気をつけます」
 来間は頷くのでありました。来間が新木奈と交わす世間話し、と云うのも万太郎には少し興味があるところでありますが、それは万太郎の立ち入る筋ではないでありましょう。
「明日、道場に来る準内弟子連中の顔ぶれは?」
 万太郎は語調を緩めるのでありました。
「朝からはジョージと目白、午後の稽古からはその二人と入れ替わりで狭間と高尾が来ます。それに明日は世田谷の駒沢に出稽古があります。自分が助手につく予定です」
「駒沢の出稽古はあゆみさんの担当だったが、多分寄敷先生と代わる事になるだろう」
「判りました」
「さて、日誌をつけ終わったのなら食堂に行くぞ」
 万太郎はそう云って立ち上がるのでありました。来間は「押忍」と返事してから鉛筆を傍らの筆立てに差して日誌を閉じるのでありました。
 夜遅くの内弟子の剣術稽古には寄敷範士に同行して小金井に行っていた山田が、鳥枝範士の助手として八王子に行っていた片倉が帰ってきて合流するのでありました。このところ常時準内弟子が数人混じるようになったので、以前のようなあゆみと万太郎と良平の三人だけの稽古の時よりは、幾らか賑やかな風情があるのでありました。
 この剣術稽古も当然あゆみと万太郎が主導するのでありましたが、入院する前には是路総士が時々覗きに来て、気が向けば指導をしてくれる場合もあるのでありました。云わば内弟子に是路総士が差しで剣技の伝授をしてくれる貴重な機会でありました。
 しかし今はあゆみと万太郎がその役を担わなければならないのでありますが、到底是路総士の代役は務まらないと万太郎は思い做しているし、あゆみとて同様でありましょう。ならば是路総士の復帰までこの剣術稽古をどのように仕切れば良いのか、如何なるところに重点を置いた稽古にすれば良いのか、万太郎とあゆみには悩ましい課題でありました。
「今日から暫くはこの時間の剣術稽古は、主に袋竹刀を使った乱稽古とする」
 あゆみが稽古に際して先ずそう宣するのでありました。「今日病院に行った折に総士先生にもご裁可をいただいている。総士先生のご復帰までと云う限定ではあるけど」
 乱稽古とは試合形式の稽古であります。
「形稽古も未熟な我々が、今の段階で乱稽古に専念して大丈夫でしょうか?」
 万太郎が疑問を呈するのでありました。
「それはあたしも思ったけど、総士先生はこんな風におっしゃったわ」
(軸)
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お前の番だ! 256 [お前の番だ! 9 創作]

 あゆみは万太郎を一直線に見るのでありました。「組形こそ、確実な目を持った者がその正確さを確認する必要がある。未熟な者が自分の考えであれこれ形を解釈して行うと、結局形稽古の意義を満たす稽古にはならない事が間々起こる。それよりは確実な目がそこにないのなら、乱稽古や準乱稽古で相手との息の絡みあいを錬る方が余程為になるだろう。乱稽古は形を崩して変化させて、形で培った技を実用するための術を養おうとする稽古だから、そう云う稽古を経て後、また形稽古に臨めば形の意味が改めて鮮明になろう、と」
「成程、そう云うものでしょうかね」
 万太郎は一端口を噤んで、少しの間を取って改めて訊くのでありました。「では、どのような形式の乱稽古を行うのでしょうか?」
「試合時間を八分として、一本取ったらその時点で止めとする。一本の判定は常勝流の組形の技であるかどうかには拘らない。相手の面や首、それに胴や小手に、充分威力のある打ちこみか突きが入ったらそれで一本とする。組形稽古と同じで面や胴に防具はつけないけど、籠手はつける。籠手以外は防具がないから、必要以上の強襲は厳に慎む事とする」
「で、ここに居る者が交代で一組ずつ出て、そう云う稽古をするわけですね?」
「いや、全員で同時に行う。他の組とぶつかったりするのは、要するに状況をちゃんと読んでいないと云う事で、そう云った一種の多敵の備えも同時に錬る事にする」
 万太郎は郷里の熊本で行っていた、捨身流の竹刀剣道稽古を思い浮かべるのでありました。捨身流では高校生までは形稽古よりは竹刀剣道の稽古が主でありましたか。
「それで、この時間中は乱稽古のみを行うのですか?」
「いや、前半は組形稽古を行う。あたしと折野の認識の及ぶ範囲で、指導もする」
「押忍。判りました。僕は異存ありません」
 万太郎はそう云ってあゆみにお辞儀するのでありました。万太郎が異存ないのなら、来間や他の準内弟子達に異見を述べる者は当然いないのでありました。
「尚、この形式の内弟子稽古は総士先生が復帰されるまでとして、先生のご復帰後は改めてそのご指示を仰ぐ事とする」
 あゆみのその言葉に下座の全員が「押忍」と声を揃えるのでありました。こうして新しい形式の内弟子の剣術稽古がその日から開始されたのでありました。
 こうして始まった内弟子の剣術乱稽古では、矢張りあゆみと万太郎に腕で敵う者は一人もいないのでありました。その次に力のある来間も、あゆみと万太郎の力量には到底及ぶ事が出来ず、況や他の準内弟子連中等は軽くあしらわれると云った具合でありましたか。
 準内弟子としてこの稽古に参加出来るのは、片倉、山田、目白、狭間、高尾と、それからもう一人山口と云う者であります。ジョージは夜に仕事があるために殆ど顔を出さないのでありましたが、参加出来ないのが如何にも残念と云う顔で悔しがるのでありました。
 勿論、稽古時間が夜遅くからでありますから、日中に用事のある者や学校に通っている者でもやる気さえあれば参加可能なので、常時六人程が顔を出すのでありました。試合形式の稽古は形稽古とは違ってゲーム性があって面白いためか、来間も準内弟子連中も何時もにも増して意欲的な面持ちで参加すると云った有り様でありましたか。
(続)
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お前の番だ! 257 [お前の番だ! 9 創作]

 ただ、万太郎にはこの試合形式の稽古を重ねていく内に、形そのものへの認識が変容して仕舞うのではないかと云う危惧があるのでありました。古武道である以上、そこで培われた剣術の形は常勝流太刀操法の精髄と云えるものであります。
 試合と云うのは勝ちを取るために臨機応変を求められ、それは身体運動上の効率を最優先にして動くものであります。一方、形にはそう云った効率の観点から見れば疑問に思われるような動きが間々含有されていているものであります。
 その場の勝負に勝つために、若し古武道常勝流の精髄たる形を軽視する感性が知らず知らずに養われて仕舞えば、それは結局、巷間行われている竹刀剣道とあまり変わらないものとなって仕舞うでありましょう。防具と通常の竹刀か袋竹刀かの違いはあるにしろ。
 組形稽古と乱稽古の両立は、特に乱稽古の比重を増やそうとする場合には、余程心しておかなければならない古武道修行者の課題だと云えるでありましょう。稽古を主導するあゆみと万太郎には、その辺りをしっかり踏まえておくべき責務があると云うものでありますし、これは引いて云えば剣術だけに限らず、体術に於いても同じでありましょう。
 ここは何時か、あゆみとじっくり話しておくべきところであります。来間の突きを往なしてその小手を手厳しく袋竹刀で打ちながら、万太郎はそんな事を考えるのでありました。

 その日は朝から道場が、何時になく慌ただしい気配に包まれているのでありました。と云うのは二週間の入院を終えて、是路総士が家に帰って来るからでありました。
「おい折野、俺と一緒に総士先生を病院にお迎えに行くのは誰だ?」
 寄敷範士が師範控えの間でそわそわと落ち着かなく立ったり座ったりしながら、茶を運んできた万太郎に訊くのでありました。
「押忍、あゆみさんと僕が一緒に参ります」
 万太郎が持ってきた茶を座卓の上に置くと、寄敷範士はその茶の香に誘われたのか、また座布団の上に尻を下ろすのでありました。
「おい寄敷さん、少し落ち着いたらどうだ」
 こちらは少し呑気そうな表情の鳥枝範士が、茶を取りながら苦笑するのでありました。
「お迎えするに当たって、何か手抜かりはないかと心配で」
「手抜かりも何も、帰っていらっしゃるのをお迎えするだけじゃないか」
「それはそうだが、・・・」
 寄敷範士はそう云いながら茶に手を出すのでありましたが、茶碗が予想以上に熱かったようで慌てて触った手を脇に引いて、その指先に息を吹きかけながら万太郎に訊くのでありました。「折野、総士先生のお部屋の掃除なんかはちゃんとしてあるんだろうな?」
「はい。もう済ませました。帰られてからすぐに横になっていただけるように、来間に云いつけて布団も延べさせてあります」
「布団か? ・・・」
 寄敷範士はまた茶に手を延ばすのでありましたが、今度は備えがあるため手を引かないのでありました。「布団は要らんだろう。昨日も椅子に腰かけていらしたぞ」
(続)
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お前の番だ! 258 [お前の番だ! 9 創作]

「押忍。一応念のためです。若し要らないとおっしゃられたらすぐに仕舞います」
「ああそうか。一応念のため、か」
 寄敷範士は万太郎の言に数度頷くのでありました。
「茶を上がられたら、ぼちぼち病院に向おうと思いますが」
 万太郎は手にした茶碗に息を吹きかける寄敷範士に云うのでありました。
「よし判った」
 寄敷範士は熱い茶を無理して急ぎ飲み干すのでありました。
 お迎えの万太郎達の到着を待ちきれなかったのか、是路総士はもうすっかり着替えを終えて、如何にも手持無沙汰そうな顔で病室のベッド脇の椅子に腰かけて待っているのでありました。横のベッド上には家に持ち帰るべき荷物を入れた紙袋が二つ、倒れないように互いに寄り添わせるような風情で置いてあるのでありました。
「遅くなりました」
 寄敷範士が椅子に座っている是路総士にお辞儀するのでありました。
「ご苦労さん」
 是路総士はにこやかな顔で手を上げてから腰を浮かすのでありました。
「荷物はこの二つでしょうか?」
 万太郎が訊くと是路総士は笑顔の儘で頷くのでありました。
「あたしちょっと、先生や看護婦さん達に挨拶してくるわ」
 あゆみはそう云い置いて病室から一人出るのでありました。
「もう、立ったり座ったりとか、歩行なんかは大丈夫ですか?」
 あゆみが戻るのを待つ間に、寄敷範士が是路総士に聴くのでありました。
「何も問題はないよ。何ならここから仙川の道場まで歩いて帰ろうか?」
「ああそうですか。しかしまあ、今日のところはタクシーで帰りましょう」
「稽古の方も 帰られたらすぐにお出来になるでしょうかね?」
 万太郎が訊くのでありました。
「自分ではもう出来そうな気がするが、しかし二週間、運動らしい運動もしないでベッドの上でゴロゴロしていたから、大分足腰の筋肉が落ちただろうよ」
「道場の稽古の方はあゆみとこの折野が、指導から何からしっかりやってくれていますから、総士先生は万全のお体に回復されるまで、ゆっくり養生していただいて大丈夫です」
 寄敷範士が両手に紙袋を下げた万太郎の方を指差すのでありました。
「折野には色々世話をかけたな」
 是路総士が万太郎を労うのでありました。
「押忍。とんでもありません。良い経験を積ませて貰っております」
「最初は少し心配しておりましたが、なあに、なかなかどうして、二人で良く切り盛りしていますよ。門下生達のあしらいも私なんかよりも上手なくらいで、今や道場では私や鳥枝さんより、あゆみと折野の方が連中の心服を得ているといった風ですかなあ」
 寄敷範士が万太郎を持ち上げて見せるのでありました。
(続)
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お前の番だ! 259 [お前の番だ! 9 創作]

「そうか。鳥枝さんもお前達が意外に頼りになる、なんと云ってと褒めていた」
 是路総士は万太郎を満足そうな目で見るのでありました。万太郎はそんな目で見られると何とも面映ゆくなって、笑みを溜めた顔を竟俯けて仕舞うのでありました。
 あゆみが院長と担当医、それから看護婦長を連れて病室に戻って来るのでありました。
「いよいよ退院ですな。お見送りに参上しました」
 院長は是路総士に笑いかけるのでありました。
「一月後に来院ください。そこで手術部位の最終検査をします」
 四十代くらいの担当医が後に云い添えるのでありました。
「いやどうも、大変お世話になりました。お陰様ですっかり元に戻りました」
 是路総士が頭を下げるのでありました。一緒に寄敷範士もあゆみも万太郎も、夫々の位置で院長と担当医と婦長に低頭するのでありました。
「何時も、もの静かでニコニコされていて、あれこれ駄々もこねたりしない非常に良い入院患者さんだと、看護婦の間でもなかなかの評判でしたよ」
 婦長が是路総士の入院中の有り様を褒めるのでありました。「まあ、少しやんちゃなところも、一度お見受けしましたがね」
 このやんちゃなところ、と云うのは、ひょっとしたら興堂範士がお見舞いの果物篭に忍ばせて秘密裏に持ってきた酒瓶が、隠蔽に失敗して看護婦にでも見つかって仕舞った事の、遠回しの当て擦りの言であろうかと万太郎は思うのでありました。その辺の詳しい経緯は万太郎は何も聞いていないのでありましたが、考えられるとしたらそれでありましょうか。
「いやどうも、面目ない次第で」
 是路総士は婦長に向かって何ともばつの悪そうな笑いをしてから、なかなか愛嬌のある仕草で頭を掻いて見せるのでありました。婦長はその是路総士の仕草を見ながら口に手を当てて声を立てずに、肩だけを小刻みに揺すって笑うのでありました。
 院長と担当医と婦長は、病院の玄関まで一緒に来て見送ってくれるのでありました。三人は建物の正面出入り口の前に立って、タクシーの中から手をふる是路総士に何時までも手をふり返してくれているのでありました。
「ようやく家に帰れるな」
 是路総士はタクシーの中でさも嬉しそうに云うのでありました。是路総士にとっては、道場の汗や埃の匂いから遠ざかっていた事が何より寂しかったのでありましょう。
 その日は定休日だと云うのに、調布の道場玄関前には内弟子の来間と準内弟子の顔が殆ど揃って、是路総士の帰宅を待っているのでありました。タクシーが道場の門前に止まってドアが開くと、横隊に並んだ連中は「押忍」と声を揃えて低頭するのでありました。
「やあ、皆には色々心配をかけたな」
 来間に手を添えられて車を降りた是路総士は、背を伸ばして彼等に丁寧な立礼をするのでありました。すぐにもう一度「押忍」の和唱が是路総士に返されるのでありました。
 玄関上り口の廊下には大岸先生が、鳥枝範士と並んで座って是路総士を迎えるのでありました。是路総士は二人にも丁重な立礼をするのでありました。
(続)
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お前の番だ! 260 [お前の番だ! 9 創作]

「大岸先生、いらしてくれていたのですか」
「退院祝いを述べに寄せていただきました」
 大岸先生はそう云って立つと鳥枝範士共々、是路総士が廊下に上がるのを邪魔しないように脇に体を避けるのでありました。
「布団を母屋の部屋に延べてありますが、すぐに横になられますか?」
 万太郎がそう訊くと是路総士はすぐにげんなり顔で首を横にふるのでありました。
「いや、大丈夫だ。もう病院で寝厭きた」
「押忍。では布団は仕舞っておきます」
 万太郎はそう云ってから来間に視線を向けるのでありましたが、来間は万太郎のサインに気づかないのでありました。万太郎はその鈍さに秘かに舌打ちして、是路総士の部屋の布団を片づけておくようにと言葉で指示し、それから準内弟子は一応内弟子控え室の方に下がっていろと指図してから、師範控えの間に向かう一行の最後尾につくのでありました。
「たった二週間しか離れていなかったが、この部屋の匂いも懐かしい」
 万太郎の介添えで床の間を背にした座布団に腰を下ろした是路総士は、座敷を見回しながら云うのでありました。「まあ、匂いと云っても古畳の臭いなんだがな」
「総士先生、お帰りなさいませ」
 是路総士の対面に並んで正坐した鳥枝範士と寄敷範士、その後ろに控えるあゆみと万太郎と、その一団とは少し離れたところに居る大岸先生が、鳥枝範士の発声で一斉に威儀を正して座礼するのでありました。是路総士も綺麗な座礼でそれに応答するのでありました。
「皆さんには本当に、ご心配をかけました」
「改めてご退院をお祝い申し上げます」
 寄敷範士のその言で、もう一度一同が揃って低頭するのでありました。
「じゃあ、あたしは御膳の用意がありますから」
 大岸先生がそう云って立つのでありました。
「退院祝いにと、大岸先生が昼の御膳を調えてくださっております」
 鳥枝範士が是路総士に報告するのでありました。
「ああ、それは慎に申しわけありません。色々気をお使いいただいて恐縮です」
 是路総士が大岸先生にもう一度お辞儀するのでありました。
「いえ、大層なものは出来ませんが、ほんの心尽くしと云う事で」
「じゃあ、あたしも手伝います」
 あゆみも立ち上がるのでありました。
「今日は若い人が大勢いらっしゃるから大丈夫よ。皆で色々と手伝ってくれるから。あゆみちゃんはここで皆さんとお話しがあるでしょう?」
「でも御膳の支度は、あたしの方が余程手際が良いでしょうから」
 あゆみはそう云って大岸先生について師範控えの間を出るのでありました。入れ代りに来間が片倉を従えて茶を運んでくるのでありました。
「来間、二三の者を食堂に手伝いに行かせろ」
(続)
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お前の番だ! 261 [お前の番だ! 9 創作]

 万太郎は来間に指示するのでありました。
「押忍。承りました」
 来間はそう返事して片倉を従えて台所の方に戻るのでありました。盆や余った二つの茶は片倉に持たせて、自分は一緒に台所に戻らずにすぐに内弟子控え室に行けばよいものをと、万太郎は来間の手際のスマートでない様子に少し苦るのでありました。
「どうだ折野、任せられた総本部道場の仕切りの方は?」
 是路総士が鳥枝範士と寄敷範士の後ろにいる万太郎に訊ねるのでありました。
「押忍。道場長の補佐をどうにかこうにか務めさせていただいております」
 道場長と云うのは勿論あゆみの事であります。
「今のところ滞りなくやっていますかな」
 鳥枝範士が云い添えるのでありました。今の今まで、鳥枝範士は万太郎とあゆみの仕方に、本当に何の文句も注文もつけなし、また褒めもしないのでありましたのに。
 それどころか出張指導のスケジュールも任せきりにして、その指図に繰り言一つ云わずに従ってくれているのでありました。総本部道場の稽古で見所に座る時にしても、あゆみや万太郎の指導法に一切口出しせずに、寡黙な儘でその役を熟しているのでありました。
「暫く続けていると道場切り盛りの事務ばかりではなく、金銭の出入りや、どのような経営状況にあるかとかも把握出来るようになるだろう」
 是路総士が茶を手にして続けるのでありました。
「帳簿づけは道場長の担当です」
「それにしたって、お前にも判るだろうよ」
「まあ、ほぼ判ってはいますが、しかし僕ごとき住みこみの一内弟子がどこまでその方面にタッチして良いものやら、何となく戸惑いと気後れがあるのも正直なところです」
「ああ、それで思い出しましたが、折野にはそろそろ道場を出て自活して貰って、道場長代理及び総本部教士の仕事をやらせてはどうかと思うのですが、如何でしょう?」
 鳥枝範士が是路総士に突然そんな意見具申をするのでありました。
「それもそうだな」
 是路総士はそう云って俯いて手にしていた茶碗に目を落とすのでありました。「折野、お前内弟子に入って何年になるかな?」
 是路総士は顔を起こすのでありました。
「七年、いやそろそろ八年になります」
「ぼちぼち自活するのも適当な時期ではあるな」
 是路総士は納得するように一つ頷くのでありました。しかし万太郎としては、もう少しこの儘道場に住みこんで、ほぼ稽古三昧に過ごしたいと云う魂胆でいたのでありました。
「自活するとなると、折野に相応の給金を出す事になります」
 鳥枝範士が話しを続けるのでありました。「それは鳥枝建設の方で賄うとして、同期でウチに就職した連中と同等程度の賃金を給せば、何とか自活も出来るでしょう」
 鳥枝範士は後ろの万太郎の方に顔を捻じるのでありました。
(続)
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お前の番だ! 262 [お前の番だ! 9 創作]

 これはつまり内弟子卒業と云う事でありましょう。内弟子としてではなく、何処かに一人暮らしして常勝流総本部道場に出勤する、と云った按配でありましょうか。
 仕事は今迄と全く同じでありましょうし、この仕事柄、結局時間も不規則でありましょうから、それなら住みこみの方が何かと好都合ではありますか。それに住むアパートを探したり一応の所帯道具を揃えたりと、面倒な仕事が色々付随するでありましょうし。
 自活してやっていくだけの給金は貰えるようでありますが、万太郎としては住む処と食事の心配のない今の儘の方が、給金のアップ等よりは余程魅力的に思えるのでありました。第一、食住の金がかからないから今の儘の手当でも万太郎には充分なのであります。
「ちょっと僕の存念を述べても良いですか?」
 万太郎は顔を捻じった鳥枝範士から一旦視線を逸らしたのでありましたが、すぐに目を戻すのでありました。鳥枝範士は後ろに首を捻じった儘の姿勢が窮屈になったようで、万太郎のその言を聞いて体ごと万太郎に向き直るのでありました。
「何だ、その存念とは?」
「僕は内弟子に入ってから今まで鳥枝建設の嘱託社員と云う扱いでしたが、このところは鳥枝先生や面能美が専門に鳥枝建設の常勝流愛好会を指導していますから、僕はその嘱託社員としての役割を全く果たしていません。それなのに鳥枝建設の丸抱えで僕の生活を見て貰うと云うのは、僕としては何とも気持ちが収まるところに収まらないのですが」
「内弟子を鳥枝建設の嘱託社員とするのは、総本部道場の負担を軽くするための方便だ。ワシが会長をする鳥枝建設は不況下とは云え、未だ々々その程度の余裕はある」
「それは承知しています。鳥枝先生の恩徳も含めて。しかし鳥枝建設の一般の社員の人達には、それは何とも間尺にあわない不愉快な事と思えるのではないでしょうか?」
「社員にそんな文句はワシが許さん。このワシが一喝すれば誰も口を噤む。それに幸いな事に鳥枝建設には労働組合はない」
 鳥枝範士は典型的なオーナー会長然とした意見を云うのでありました。
「それはそうでしょうが、いや僕は、鳥枝建設の中の事情を云々する心算ではなく、このところの道場の出納を窺い見ることが出来る立場から申し上げますと、僕の給金の五万円、それに来間の給金の四万円は、道場の経費で充分処置出来るように思うのです」
「それは確かに月に九万円ぽっちの出費なら、どうにでもなる」
「ですから、僕等の給金は道場の方からいただくとして、その分の年百万余りは鳥枝建設からいただいている毎年の寄付に上乗せしていただければ良いと思うのです」
「何だ、単に勘定項目を変えると云う話しか」
 鳥枝範士がそう云いながら、特に頷かないのでありました。
「道場と鳥枝建設の両方の経理を見る立場からすると、その方がスッキリはするな」
 寄敷範士が横から云うのでありました。「寄付に百万上乗せするためにはちょっと経理操作がいるが、まあしかし、そんなに大してまわりくどい操作じゃない」
「僕もその明快なスッキリさを求めているのです」
 万太郎は先ず寄敷範士に、その後に鳥枝範士に無邪気な笑顔を向けるのでありました。
(続)
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お前の番だ! 263 [お前の番だ! 9 創作]

「うーん、成程ね」
 鳥枝範士は頷きながら腕組みするのでありました。「そう云う経理上の事は、もうあゆみとは話しあっている事なのか?」
「いえ、あゆみさんとは先生方のご納得を得た上で協議しようと思います」
「何だ、お前の一存か」
「押忍。今のところそう云う次第です」
「あゆみとお前が話しあった上で結論を出して、こちらに持ってくるのが順序だろう」
「押忍。迂闊でした。申しわけありません」
 万太郎は頭を掻くのでありました。しかしそう云われても困るのは、この提案が一人暮らしの自活を何とか回避して、今までの内弟子の儘でいたいと云う魂胆から咄嗟に思いついたものでありますから、万太郎としては順序も何もないのでありました。
「いやところで、自活するお前に、給金五万円と云うわけにはいかんだろうなあ?」
 鳥枝範士が腕組みを解いて万太郎を指差すのでありました。
「で、そこの点なのですが、僕としましては今までの五万円の給金の儘で住みこみの内弟子を続けさせて貰って、もう暫く経理上の経過を見たいと考えているのですが」
「何だ、自活をせんのか?」
「ええ。道場の余計な出費は抑えるに如くはないと思いますから」
「要するに今までの待遇の儘で結構、と云っているわけだな?」
 是路総士が笑い顔で云うのでありました。
「押忍。道場の収支の変化は、今のところ起こしたくありませんので」
 万太郎は是路総士に道場運営を任された者としての顔でお辞儀するのでありました。
「まあ、折野がそう云う了見なら、一先ずはそうしておいては如何かな?」
 是路総士がちらと万太郎を見た後で鳥枝範士に云うのでありました。
「一旦任せた限りは、勿論私は差し出がましい事は申しません」
 これで鳥枝範士も万太郎の一存に、それ以上あれこれ意見は差し挟まないと宣したわけでありましょうか。万太郎は秘かに胸を撫で下ろすのでありました。
「その手の話しは、今日はそのくらいにしておきましょうや」
 寄敷範士が話題を締め括ろうとするのでありました。
「押忍。あゆみさんと協議をしてから、また後日提案をいたします」
 万太郎にこの話しを打ち切る事を阻む何の理由もないのでありました。
 丁度そこに来間が現れるのでありました。来間は廊下に正坐して是路総士の退院祝いの膳が調ったが、ここに運んでよいかと万太郎に訊くのでありました。
「総士先生如何いたしましょうか?」
 万太郎は、来間の報告を一緒に聞いていた是路総士に伺いを立てるのでありました。
「そうだな、今日は道場に何人いる?」
「押忍。ええと、総勢十二人ですか」
 万太郎が指を折りつつ勘定してから報告するのでありました。
(続)
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お前の番だ! 264 [お前の番だ! 9 創作]

「食堂と居間の襖を取り払って卓を並べれば、それくらいの人数は座れるだろう。道場の休みの日と云うのに折角来てくれたのだから、一同打ち揃って昼食としよう」
「押忍。ではそのように支度いたします」
 万太郎はそう云って廊下に畏まっている来間を見るのでありました。ここは流石に来間も心得たと云う表情で万太郎の視線を受け止めるのでありました。
「押忍。すぐに支度を調えてから、またもう一度参ります」
 来間は座礼して去るのでありました。
「僕も向うを手伝ってきます」
 万太郎は是路総士にお辞儀して、その後で鳥枝範士と寄敷範士にも夫々座礼してから来間の後を追うのでありました。先生方三人の中に座っているよりは、食堂の方で朋輩達と仕事をしている方が万太郎としては場違の感もなく、また気楽だと云うところであります。
「総て大岸先生が調えられたのですか?」
 居間と食堂を一つに繋げて座卓を三つ並べた空間に一堂が座ってから、是路総士が横に座った大岸先生に訊くのでありました。
「家から持ってきた物もありますが、こちらで調えさせて貰った物もあります。これだけ人手があると何でも捗りますねえ。皆さん買い物でも何でもきびきびと動いてくれるから助かりますよ。書道の方のお弟子さん連中とは全く毛色が違います」
「書道の門下生さん達はさすがに家向きの仕事に扱き使うわけにもいかないでしょうが、ここに居る内弟子共は、そう云った仕事を嬉々として熟します。なあ、来間」
 鳥枝範士が食堂の方の座卓隅について、準内弟子の山田と一緒にビールの栓を抜いている来間に笑いながら声をかけるのでありました。来間は栓を抜き終えたビール瓶を卓上に並べながら、栓抜きで忙しいためか何となく上の空で「押忍」と返事するのでありました。
 嬉々として熟すかどうかはこの際別にして、大岸先生も内弟子を取れば、その内弟子はこう云った家向きの仕事もしなければならないでありましょう。まあ、書道で内弟子と云う師事の形態が馴染むかどうかは別の話しであるけど、と万太郎は思うのでありました。
「では、杯もいき渡ったところで、・・・」
 是路総士が威儀を正すのでありました。「今日は忙しい中、こうして来てくれて大変嬉しく思います。これまで私の入院で皆さんにも色々苦労をがけました。私が病院に居る間、立派に道場を守ってくれた事も併せて感謝します。皆さん、有難う」
 是路総士は手にしたビールグラスを掲げて頭を前に倒すのでありました。
「総士先生、退院おめでとうございます」
 鳥枝範士がそう受け応えて、同じようにグラスを額の高さまで上げて頭を垂れるのでありました。その後には全員の、おめでとうございます、の唱和が部屋に響くのでありましたが、大岸先生とあゆみの女声が混じってこの唱和に華やぎを添えるのでありました。
 昼食とは云うものの、卓上は豪勢な料理で埋め尽くされているのでありました。来間や準内弟子達はその料理をゆっくり味わう暇もなく、燗の出来た日本酒の徳利を運んできたり、空いた皿を下げたりと忙しく立ち働くのは道場の宴席での何時もの光景でありました。
(続)
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お前の番だ! 265 [お前の番だ! 9 創作]

 大岸先生は退院したばかりの是路総士を労わるように、横に座って欲しい物はどれかと声をかけてから料理を小皿に取ってやったり、腰は辛くないかと始終気遣ったりするのでありました。是路総士の猪口が空けばすかさず徳利の酒を注ぎ入れてそれを満たし、そのくせ、今日はたんとはいけませんよ、等と横目でその顔を覗きこんで窘めてから、目があうとはにかむように伏し目で笑むのは、何やらまるで相愛の夫婦の如くでありましたか。
 万太郎はそんな様子を見ながら、母親と云っても不自然でないくらいの歳であるのに、大岸先生がやけに可愛らしく見えたりするのでありました。意外や意外、いや全くの意外と云うわけでも実はないのでありましたが、大岸先生は是路総士を心秘かに慕っているのではないかしらと、万太郎は二人の微笑ましい姿を横目に考えるのでありました。

 次の日の夕刻に、興堂派道場の威治教士が総本部道場を訪ねて来るのでありました。威治教士は興堂範士の意を受けて、是路総士の退院を祝しに現れたのでありました。
 その日夕刻の専門稽古を終えて、夜の一般門下生稽古までの暫しの休憩時間に、食堂で来間の淹れてくれたコーヒーを飲んでいる万太郎の傍に、取り次いだ準内弟子の狭間が報告に来るのでありました。一応師範控えの間に通したと云う事でありました。
「判った。すぐに茶を出せ。その前に総士先生にご報告しろ。総士先生はお部屋だ」
 万太郎は狭間にそう指示して食堂の椅子を立つと、急いで範士控えの間に向かうのでありました。是路総士の退院祝いに来たのだろうとはすぐに察しがつくのでありました。
「若先生、いらっしゃいませ」
 万太郎は先ず開ける許しを請うてから、ゆるゆると障子戸を引き開けて、廊下に正坐した姿で中に居る威治教士にお辞儀するのでありました。威治教士は顔を上げた万太郎を高飛車な目で見て、一つ頷いただけで何も言葉を発しないのでありました。
 すぐにあゆみを従えた是路総士がこちらに歩いて来る姿が廊下の先に見えるのでありました。万太郎は廊下先に体の向きを変えて後ろに膝行で躄って、是路総士が座敷に入る道を開けてから、両手を床についた儘の姿勢で是路総士を迎えるのでありました。
 障子戸陰で一旦立ち止まった是路総士は万太郎に立礼するのでありました。万太郎も「押忍」とやや低い声で云ってから頭を前に倒すのでありました。
「おおこれは、威治君」
 是路総士は中の威治教士に気さくそうに片手を上げて見せながら、座敷に足を踏み入れるのでありました。あゆみの方は廊下に座って、持っていた湯気立つ茶碗の載った盆を傍らに置いて、威治教士に静々と座礼するのでありました。
「いらっしゃいませ」
 あゆみのその形通りの挨拶を横で聞く万太郎は、あゆみの云い様には中の威治教士には気づかれない程度ではあるものの、明らかに冷えがあるのを感じ取るのでありました。しかしあゆみの姿を見た一方の威治教士は、先程万太郎に見せた無愛想極まりない仏頂面を一変させて、現金にも満面に喜色を湛えてあゆみに視線を送るのでありました。
「ああどうも、あゆみさん」
(続)
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お前の番だ! 266 [お前の番だ! 9 創作]

 是路総士にお辞儀するよりも先にあゆみにそう声をかける威治教士の不心得を、万太郎は秘かに笑うのでありました。ま、無邪気、と云えば聞こえは良いでありましょうが。
 あゆみが威治教士に献じる茶を卓に静かに置いたのを潮に、万太郎は師範控えの間前の廊下から退くのでありました。是路総士とあゆみが接客に現れたのなら、万太郎がそこに何時までも留まっている必要はないでありましょうから。
「コーヒーを入れ直しましょうか?」
 万太郎が食堂に引き上げて飲み残しのコーヒーカップを取り上げるのを見て、来間が背後から訊ねるのでありました。
「いや、これで良い。それより、一般門下生稽古が始まる前に道場を点検しておけよ」
「押忍。これから行ってきます」
 来間は万太郎に一礼して食堂を去るのでありました。一人残った万太郎は椅子に腰かけて冷めたコーヒーを口に含んで、威治教士への対応があるから、この後の一般門下生稽古には是路総士もあゆみも出ないだろうと考えるのでありました。
 それにしても威治教士が一人で総本部道場にやって来るのは、ここ最近では稀な事でありましょうか。あゆみに逢いたさに、興堂範士に云われていそいそとやって来たのでありましょうが、あくまで名目は是路総士の退院のお祝いを述べに来たという事でありますから、あゆみと二人でじっくり話しをするチャンス等はないと云うものであります。
 しかし是路総士が次の稽古で見所に座るとなると、師範控えの間で威治教士はあゆみと二人きりになれるのであります。是路総士はその日午前中の専門稽古では、久しぶりに見所に座ったのでありましたから、その可能性は高いと云うものでありましょうか。
 是路総士は見所に座った後少し疲れたような様子で、昼稽古と夕方稽古は道場に現れないのでありました。しかし特段の腰の不具合は感じていないようでありました。
 となると夜の一般門下生稽古は見所で稽古を看る心算かも知れません。そうなると威治教士はあゆみと二人になれるわけで、これは面白くないと万太郎は思うのでありました。
 稽古開始の十五分前になると、万太郎は是路総士とあゆみの意を確かめるために師範控えの間に伺いに出向くのでありました。障子戸を開けるとあゆみの姿はなく、卓の前に座る是路総士から少し離れたところで威治教士が稽古着を着つけているのでありました。
「折野、折角だからと云うので、威治君がこの後の稽古に参加してくれるそうだ」
 是路総士が廊下に正坐する万太郎に云うのでありました。
「押忍。しかしこの後は専門稽古ではなくて一般門下生稽古ですが?」
 万太郎は是路総士にそれで良いのかと云う目を向けるのでありました。
「まあ、専門稽古ばかりではなく、偶には一般の稽古に参加してくれるのも、ウチの一般門下生達にとっても良い刺激になるだろう」
「押忍。それではよろしくお願いいたします」
 万太郎は威治教士の方に体の向きを変えて、興醒め顔を隠して丁寧な物腰で座礼するのでありました。威治教士は黙って一つ、無愛想な表情で頷いて見せるのでありました。
「総士先生は如何なさいますか?」
(続)
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お前の番だ! 267 [お前の番だ! 9 創作]

 万太郎はまた是路総士の方に向き直って訊ねるのでありました。
「そうだな、威治君が出ると云う事だし、私はここで稽古が終わるのを待っていよう」
「押忍。承りました」
 万太郎は是路総士に座礼してから顔だけを威治教士に向けるのでありました。「では、稽古開始の五分前になったらお迎えに参ります」
 万太郎は障子を閉めてから受付兼内弟子控え室に行くのでありました。そこには狭間が居て、開け放った障子戸から玄関の様子を見ているのでありました。
「狭間、稽古の五分前になったら師範控えの間に行って威治教士を道場にお連れしろ」
「押忍。興堂派の若先生が稽古に参加されるのですか?」
「そうらしい」
「専門稽古でもないのに、ですか?」
「そうだ」
「へえ、それは珍しいですね」
「折角来た序でに、と云う事だろう」
「ひょっとして、あの若先生が中心指導をなさるのですか?」
「いや、若先生はあくまでもお客さんだから、それは予定通り自分がやる心算だ」
「押忍。判りました」
 狭間はそう云って万太郎に頭を下げるのでありました。その間、稽古にやって来た門下生が二人程、万太郎と狭間にお辞儀して更衣室の方に急ぐのでありました。
 一旦食堂の方に戻ると、あゆみが稽古着に着替えて椅子に座っているのでありました。
「威治先生が稽古に参加されるようですね」
 顔を向けたあゆみに万太郎が無表情に云うのでありました。
「そうみたいね」
 あゆみのその云い様は、専門稽古ではなく一般稽古に出ようと云う威治教士の意に、万太郎と同じく多少の困惑があるように見受けられるのでありました。万太郎もあゆみも神保町の興堂派道場に出稽古に行く場合は、一般稽古は遠慮して専門稽古にしか出ないのでありましたし、興堂派の花司馬筆頭教士も板場教士も調布に来る場合はそうでありました。
 専門稽古生よりは練度に於いて多少劣る一般門下生が、同じ常勝流とは云っても他派の技を摘み食いしても、混乱こそすれ資するところはなかろうとの配慮からであります。まあこれは暗黙の了解のようなもので、絶対にダメと云う事ではないのでありましたが。
「一般門下生稽古ですから、予定通り僕が中心指導をしても良いのですよね?」
「それはそうよ。あくまで威治さんはオブザーバー的に参加して貰うんだから」
「判りました。ではそのように」
 万太郎は頷くのでありましたが、威治教士が上位者のわけ知り顔で普段の指導とは異なる理を無責任に門下生に教えたりしないか、万太郎は少し危惧しているのでありました。ならば万太郎は理屈に於いて、威治教士を黙らせるだけの自信は秘かにあるのでありましたが、しかしまあ、そうなると威治教士との間に些か角が立つと云うものでありましょう。
(続)
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お前の番だ! 268 [お前の番だ! 9 創作]

 威治教士がそのような挙に出たらどうあしらえば良いのか、万太郎は気が重いのでありました。威治教士は考えもなく平気でそんな事をやらかす人でありますし。
 こんな時、是路総士が見所に座っていてくれたら有難いのだがと万太郎は思うのでありました。しかし実は、こんな場合に一人で無難に事を切りぬけるだけの威と力量と手際を、是路総士から試されているのかも知れないと万太郎は思い直すのでありました。
 万太郎としては普段通りに稽古を主導すれば良いのであります。何か問題が起きたら、その時はその時で一番適切と思われるやり方で切りぬけるしかないでありましょう。
「神前に、礼!」
 万太郎が道場の中央に座ると、静まり返った道場に響き渡る声で来間が下座隅から号令をかけるのでありました。神前への礼の後に下座に向き直った万太郎は横隊に居並ぶ門下生よりやや前で、あゆみと並んで正坐している威治教士を目の端で見るのでありました。
「先生に、礼!」
 来間の号令で全員が「押忍」と発声して万太郎に座礼するのでありました。万太郎は全員との礼の後で、あゆみと威治教士の方に体を向けて改めて一礼するのでありました。
「今日は神保町の興堂派道場から若先生がお見えになっているので、普段一般門下生の皆さんは他派の技を体験する機会がありませんが、丁度良い折ですから皆さん、日頃総本部で稽古している技とは少し違う理合を体験してみてくださいください」
 万太郎は稽古に先立って下座の門下生にそう云うのでありました。これは威治教士の稽古参加を歓迎すると云う表明であると伴に、何時もとは異なった理を威治教士が教えたとしても混乱する事なく、威治教士の顔を立ててそこは一応素直に、その指導を聞いておくようにと云う、云ってみれば稽古を滞らせないための予防線的言辞でもありました。
「では何時ものように二人組んで、基本動作と基本打ちこみから各個に始めてください」
 万太郎がそう指示すると門下生達は「押忍」と声を揃えてから、道場一杯に広がって夫々に稽古を始めるのでありました。万太郎は門下生達の間を回りながら指導を開始するのでありましたが、あゆみは道場隅で何やら威治教士と立ち話しをしているのでありました。
 威治教士があゆみに総本部道場での一般門下生稽古の様子とか要領とかを訊いているのでありましょうか。あゆみは早く指導に回りたそうな素ぶりでありますが、威治教士がそれを引き留めてあれこれと質問を重ねていると云った風情であります。
「あゆみ先生、巡回をお願いします」
 丁度傍に来た折に万太郎はあゆみにそう云って一礼するのでありました。
「押忍。判りました」
 あゆみがそう云って万太郎の方に少し頭を傾けるのでありました。「では、あたしは巡回しますので、威治先生も門下生に不備なところがあったら指導をよろしくお願いします」
 あゆみがそこを去る時にちらと万太郎と目があうのでありました。あゆみの目は、良いところに来てくれて助かった、と万太郎に語っているように見受けられるのでありました。
「若先生も巡回をよろしくお願いいたします」
 万太郎は威治教士にも一礼するのでありました。
(続)
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お前の番だ! 269 [お前の番だ! 9 創作]

 威治教士は黙った儘で無愛想に頷くのでありました。あゆみとの立ち話しを邪魔されたのが不愉快だと云ったところでありましょうか。
 しかし今は稽古中なのでありますから、中心指導者の万太郎の言には逆らえないのであります。それに礼儀的な縛りの比較的緩い一般門下生稽古であっても、武道の稽古にそぐわない弛んだ態度は、稽古に参加している以上誰も等しく許されないのであります。
 勿論それは、幾らお客さん格であっても同様であるのは当然であります。万太郎のこの指示には、建前の上で全く非道も非礼もないのでありました。
 見ているとあゆみが門下生達の間を縫って巡回する後を、少し離れて威治教士はついて回っているだけのような気配でありましたか。威治教士は門下生達の動きには全く興味を示さず、あゆみの後ろ姿のみにその神経を向けているようでありました。
 何という不謹慎、と万太郎は心中憤るのでありました。興堂派の稽古でも、威治教士は若い女の子と稽古とは関係のないような話しばかりしていたり、時々その女の子と一緒になって締まりのない笑い声を立てたりしている、と苦々し気にそれに揶揄するように万太郎に語っていた、興堂派の専門稽古生の宇津利益雄の言葉を思い出すのでありました。
 勿論、興堂範士の姿が道場に在る時はそう云った態度は控えているでありましょうが、しかしチャンスさえあれば何処までも緩もうとして仕舞う輩のようであります。威治教士の締まりのない、あるいは締まろうともしない稽古態度に関しては、同じく興堂派専門稽古生の、巨漢で好漢の目方吾利紀からも以前に何度か聞いた事があるのでありました。
 その癖、自分の姿を実際以上に誇示して見せようとする欲求は人一倍旺盛なようで、無意味に門下生を痛めつけてみたり、無駄で派手な動きばかりを使って技をかけて、大向うを沸かそうとしてみたりするのであります。しかし裏目に出る場合もあるようで、宇津利とか目方辺りからはすっかりその下卑た魂胆を見透かされているようでありますが。
 これは父親である興堂範士の人としての大きさに、自分が到底及ばないと云う絶望感の捻じ曲がった表出であるのかも知れません。興堂範士の跡継ぎである己の在り様が、比較にならない程みすぼらしい事を威治教士は実は自分で判っているのでありましょう。
 要するに意識的にも無意識にも、拗ねて見せているのでありますか。そう考えると万太郎は威治教士を何となく可哀そうにも感じるのでありましたが、しかし、今のこの稽古にあっては、相応しくない態度は絶対に相応しくないと云うものであります。
 技の稽古に移ってからもあゆみの回り指導に、そうとははっきり知れない程度の距離感を保って、威治教士は後ろからつき纏っているのでありました。威治教士が稽古に参加したのも、是路総士に遠慮する事なくあゆみの姿を見ていたかったがためで、別に稽古がしたかったからと云う心根からではない事がこれで知れたと云うものであります。
 最近新しく入門した門下生と組んで技の稽古をしていた新木奈の傍をあゆみが通った時、新木奈があゆみに言葉をかけるのでありました。
「あゆみ先生、相手が両手でこちらの片手をがっちりと持ってきた場合、どう云った軌跡で腕を動かせば相手と力がぶつからないのでしょうかね?」
 こう云った質問も本来は、稽古中にはご法度でありました。
(続)
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お前の番だ! 270 [お前の番だ! 9 創作]

「腕を自分の正中線上に置いて、そこから絶対外さないで腰を先ず逆に切って、・・・」
 最初あゆみは新木奈の質問にやや険しい目つきをして見せるのでありました。しかし何を思ったのか新木奈の不心得に目を瞑って、あゆみは指導を始めるのでありました。
「こうかな?」
 新木奈はあゆみの言葉をなぞるように腰を動かすのでありました。
「そう。そうしたら少し相手の固定が緩むでしょう?」
「ああ成程」
「そこで剣をふり被るような要領で、腰を今度は反対に切りながら手刀で相手の腕を押し上げると、案外小さな力で固定を破る事が出来るでしょう?」
「こうやって、と。・・・」
 新木奈はあゆみの指導に従って手刀をふり被ろうとするのでありましたが、相手の手は全く持ち上がらないのでありました。何度か試してもちっとも上手くいかないものだから、堪え性のない新木奈は焦れて強引に相手との力比べに走るのでありました。
 相手は黒帯を締めた先輩格でもある新木奈の体裁を思い遣ってか、態と力を緩めて新木奈に手をふり上げさせて遣るのでありました。
「いやいや、ちっとも上手くいかないや」
 当然相手の思い遣りが判った新木奈は、繕うように笑って見せるのでありました。
「それじゃダメですよ」
 あゆみが代わって新木奈の相手に自分の片手を握らせるのでありました。
「良いですか、こうして先ず逆側に腰を切って、・・・」
 あゆみは少し大袈裟な動きで、腰と手刀の連動を再現して見せるのでありました。あゆみの腕を持った相手は面白いようにその思う壺に嵌って体勢を崩して仕舞い、あゆみにあっさり逆に腕を一本取りに制せられて仕舞うのでありました。
「本当はこんなに相手に覚られるように動いたりしないんだけど、まあ、最初は腰と手刀の動きを習得するために、少しくらいオーバーにやっても良いでしょう」
 あゆみは新木奈にニコニコと笑いかけるのでありました。
「ちょっと俺にもかけてみてください」
 新木奈はそう云うとあゆみの腕を両手で取るのでありました。あゆみはそれも、今度は小さな動きで難なく一本取りにするのでありました。
「へえ、流石に大したものだ。もう一本お願いします」
 新木奈は再びあゆみの腕を取るのでありました。少し離れた位置でその様子を見ていた万太郎には、新木奈があゆみにじゃれついているようにしか見えないのでありました。
 同時に、あゆみの手に何度も接触したいと云う新木奈の魂胆も見え透いているのでありました。これを不謹慎な稽古態度と云わずして、何と云えば良いのでありましょう。
「じゃあ、俺の手を持ってみろ」
 あゆみが再び新木奈の腕を一本取りにしたところで、そこに近寄って来た威治教士が声をかけるのでありました。表情に、何やら不穏な気配が浮いているのでありました。
(続)
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