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お前の番だ! 5 創作 ブログトップ

お前の番だ! 121 [お前の番だ! 5 創作]

 万太郎が良平と交互に仕手と受けの動きを反復していると、興堂範士が傍に来てそれを暫く見ているのでありました。興堂範士に間近でじっと見られていると、些か緊張して万太郎も良平も何となく動きが硬くなるのでありました。
「どれ折野君、ワシが一本受けを取ってあげよう」
 興堂範士はそう云うと万太郎と一間の間合いで対峙するのでありました。
「押忍、お願いします」
 万太郎は即応の動作に支障がないように出来るだけ手足の力を抜いて、左撞木に足を取って興堂範士の上段正面突きに備えるのでありました。剣術の、相打ち返し、と同じでこれも後の先を狙うのでありますが、相手の動きの起こりを捉えて仕かけると云うよりは、正拳突きが当たる寸前で仕手はぎりぎりそれを躱すのでありますから、剣の場合よりは余程体の緊張を除去して俊敏に反応出来るよう備えておく必要があるのであります。
 頃あいで興堂範士は右足を歩み足に大きく踏み出して、正拳を万太郎の顔面に向かって一直線に突きを繰り出すのでありました。そのブレのない軌跡は、正面から見ると顔面に伸びてくるその距離感が上手く捉えられないのでありました。
 万太郎は瞬間、目測を放擲して勘に任せて体を開くしかないのでありましたが、興堂範士の拳が鼻の一寸先を掠め過ぎて、直後に拳が空気を切り裂いた風圧の余波が万太郎の眼球に当たって、彼の目を細めさずにはおかないのでありました。万太郎は体を躱すだけで精一杯で、興堂範士の脇腹に自分の左拳を突き出す余裕等全くないのでありました。
 約束稽古でなかったら、興堂範士の拳は万太郎の鼻頭を確実に粉砕していたでありましょう。何時もながらの、圧倒的に早く鋭い興堂範士の突きでありました。
「脇腹への突きが来なかったなあ」
 興堂範士が万太郎に笑いかけるのでありました。
「押忍。道分先生の突きを避けるだけで精一杯でした」
「いやしかし、体を躱すタイミングは絶妙だったかのう」
「もう目では測り難かったので、一か八かの勘に頼って仕舞いました」
「結構々々。それで良いわい。最近は、動体視力、なんぞと云ってその能力を持て囃す風潮が武道界に限らずあるがな、そんなものは実はものの用には立たん。見て、測って、それから体を躱すなんと云う了見じゃ、どんなに目が良くても遅過ぎるわい」
 興堂範士は高笑うのでありました。「あれこれ新味を狙って云う世間の流行に惑わされてはいかんよ。目は、あっさりと、茫洋と、出来るだけ相手の全体を、捉えるともなく捉えておくだけの方が良い。相手との関係を目に頼って判断しようとしてはいかんよ」
「押忍。ご教誨を胸に仕舞っておきます」
 万太郎は深くお辞儀するのでありました。
「ほんじゃあ、次は面能美君」
 興堂範士は良平の方を見るのでありましたが、万太郎がふと気がつくと、道場中の視線が興堂範士と総本部内弟子の万太郎と良平に集まっているのでありました。見所の是路総士もこちらを注目しているのでありました。
(続)
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お前の番だ! 122 [お前の番だ! 5 創作]

 万太郎と同じで良平も興堂範士の、予兆の微動もなく繰り出される早い上段突きを持て余すのでありました。万太郎はギリギリでかろうじて避けたのでありましたが、良平はその打撃を少し鼻先に食らって仕舞うのでありました。
「面能美君も未だ自分の目を頼っているのう」
 鼻先を擦る良平に興堂範士は笑いかけるのでありました。「こちらの動きを読もうとして目を凝らすと、動きが硬くなるじゃろう?」
「押忍。それに何とか避けようとして上体が波打って仕舞います」
 良平は鼻を啜るのでありました。
「そうそう。上体が揺れると軸を失うから、相手の脇腹に返す拳にも力が入らんわい」
「ああそう云えば、直撃を避けるのが精一杯で、突き返す動作すらも出来ませんでした」
 良平の言葉に興堂範士は頷くのでありました。
「まあしかし両君はワシの突きを何とかあしらったのじゃから、たいしたもんじゃよ」
「折野は避けましたが、自分は食らいました」
 良平がまた鼻先に手を遣るのでありました。
「いやいや、鼻を掠った程度だから充分避け得たと云うべきじゃよ。ワシの正面上段突きを面能美君みたいに避けられるのは、ウチの門弟の中にもそうはいないからのう」
 興堂範士が良平を持ち上げるのでありました。「二人共その意気で稽古に励まれよ」
 興堂範士はそう云い残して万太郎と良平の傍を離れるのでありました。
「道分先生は自分の門弟じゃなくて、総本部道場の内弟子である俺達に遠慮して手加減をしてくれたから、俺達は何とか先生の上段正面突きの直撃から免れたんじゃなかろうか」
 これは稽古後に良平が万太郎に云った言葉でありました。まあ確かにそう云う面もあるかも知れないと万太郎は思うのでありました。
 是路総士の弟子の面目を潰すのは、引いては是路総士の面目も潰す事になると憚ったと云うのは、興堂範士の気遣いとして充分あり得るでありましょう。飄々として磊落に見える興堂範士は、実はその場に応じた細かい気遣いをする人でもあるのであります。
「ほれほれ、人の稽古に見惚れていないで、自分達の稽古に専念しなされよ」
 興堂範士は、興堂範士の突きを捌く万太郎と良平に集まっていた門下生達の息を殺した視線を蹴散らすように、そんな大声を道場中に響かせるのでありました。その声に促されて、また道場に気合の発声が乱れ飛び交い始めるのでありました。

 新木奈が主宰する土曜日の万太郎と良平の黒帯取得の祝賀会は、仙川駅近くの居酒屋で開かれるのでありました。万太郎と良平、それに新木奈の他に、日頃道場で一緒に稽古をしている男ばかり五名の一般門下生の出席があるのでありました。
 新木奈はあゆみが来ないのが残念至極であったに違いないのであります。しかし自尊心と日頃から大人風を装っている手前、そんな気配は露とも見せないのでありました。
「さあ今日は二人のお祝いの宴だから、二人共大いに飲んでくれよ」
 新木奈が乾杯に先立ち万太郎と良平にそう話しかけるのでありました。
(続)
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お前の番だ! 123 [お前の番だ! 5 創作]

「有難うございます」
 良平がそう応じて笑いながら頭を下げるのでありました。万太郎も無言ではあるものの一緒にお辞儀するのでありました。
「勿論二人からここの飲み代は取らないから安心してくれよ。予め云っておくけど」
「それは悪いですねえ」
 良平が嬉しそうな顔で諂うのでありました。
「若しこの後二次会に行くとしても、そこでも俺の奢りと云う事にするからな」
 新木奈は一次会の始まる前から気前の良い事を云うのでありました。しかし結局は明日の内弟子仕事に差し支えると云う事で、万太郎と良平は二次会を断るのでありましたが。
 乾杯も済んで料理も揃い、八名は店の真ん中に据えてある大きな円卓を囲んで夫々隣同士で雑談を始めるのでありました。万太郎と良平の黒帯取得のお祝いの宴とは云っても、それはまあ集うための方便みたいなもので、格式張ったような会では全く以ってなく、稽古帰りに道場仲間が集ったと云う風の到って気楽な集合でありましたし、この度の黒帯取得おめでとうと初めに乾杯したら後は式次第も何もないのであります。
「今、道場から貰っている内弟子の給料って幾らなんだい?」
 新木奈が偶々探した話題、と云った感じで良平に話しかけるのでありました。
「四万円ですよ」
 厳密には道場から貰っていると云うよりは、鳥枝建設の嘱託社員として貰っている報酬となるのでありましたが、その辺の事情は特に話さずに良平が応えるのでありました。
「四万円?」
 新木奈が全く意外な額であると云った顔をするのでありました。「大企業の平均的な大卒初任給の半分以下の額だなそれは。そんなんじゃあ、やって行けないだろう?」
 万太郎は新木奈のその問い方に、まるで薄給を蔑むような響きがあるのを感じ取るのでありましたが、それは顔色に出さないで応えるのでありました。
「食事も住む処も一切お金がかからないから、四万円でも持て余すくらいですね」
「しかも遊ぶ時間なんかないし」
 良平が同調するのでありました。
「それにしても、思っていたよりも悲惨な待遇だなあそれは。学校時代の同級生なんかと比較して、普通の会社に就職した連中が妬ましくなんかならないのかい?」
 新木奈は呆れたような笑いを口の端に浮かべるのでありました。
「いや全然妬ましくなんかないですね」
 万太郎は新木奈の口の端の笑いから目を背けて云うのでありました。
「自分が好きで入った道なんだし、待遇とか仕事の内容とかは予め充分判った上で、志を持って内弟子になったんだから、傍がとやこう云う話しじゃない」
 新木奈の隣に座っている、新木奈と同年配でしかも同じ頃一般門下生として入門した、三方成雄、と云う名前の門下生が横から言葉を挟むのでありました。三方は普段は無愛想な顔をしていながら、話すと意外に情味のある人なのでありました。
(続)
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お前の番だ! 124 [お前の番だ! 5 創作]

「それはそうだ」
 新木奈は自分の云い草が如何にも傲慢だと周りに受け取られるのを恐れてか、横の三方の方に慌てて顔を向けて頷いて見せるのでありました。「今時そんな額の給料があるのかと思って、少し驚いただけだが、まあ、確かに普通のサラリーマンとは違うからなあ」
「毎日揉まれる満員電車、嫌な課長に頭を下げて、・・・なんと云うしがないサラリーマンよりは、俺はこの面能美さんと折野さんの方が、薄給ではあっても余程羨ましく見えるね」
 三方は歳上であっても内弟子の二人をさんづけで呼ぶのでありました。同じ常勝流総本部道場門下生として、より過酷な修錬をしている二人に敬意を表しての事でありましょう。
「あれ、その科白、クレージーキャッツの歌にありませんでしたっけ?」
 良平が三方に笑いかけるのでありました。
「お、面能美さんは知っているんだ、この歌を」
 三方が目を見開くのでありました。
「ええ。確かその後に、貰う月給は一万なんぼ、とか云うんでしたよね」
「そうそう。昭和三十年代のサラリーマンの給料は一万なんぼだったようだ。しかし俺より大分若いのに、面能美さんはどうしてその歌を知っているの?」
「何年か前にテレビの深夜番組か何かで、クレージーキャッツの映画を時々やっていたでしょう。自分は好きで欠かさず見ていたのですよ」
「おお、なんと云う奇特な御仁である事か」
 三方は良平に酒を注いでやるのでありました。「俺は小学校の頃に、夏休みとか冬休みとかに東宝の怪獣映画を見に行った折に、同時上映でクレージーの映画もやっていて、それでいつの間にか、どちらかと云うと怪獣映画よりもクレージーの映画の方がお目当てとなって仕舞ったんだな。そんな俺も、慎に奇特な小学生だったと云う事になるか」
「加山雄三の若大将シリーズも同時上映されていましたよね」
「そうそう、それに森繁久彌の社長シリーズね。してみると面能美さんも小さい頃、東宝の怪獣映画によく行った口か?」
「ええ。近所に住む高校生の従兄に連れて行って貰ったりしましたよ。その頃はクレージーキャッツの映画をちっとも面白いと思わなかったのですが、大学生になってから偶々テレビの深夜映画で見てファンになったのです」
 万太郎はクレージーキャッツと云うコミックバンドの名前は知っていたものの、その主演した映画とかものする音楽等は殆ど知らないのでありました。スーダラ節、とか、ハイそれまでよ、なんぞと云う曲は何となく部分的に知っているのでありましたが。
 万太郎だけではなくどうやら新木奈もその辺には精しくはないようで、クレージーキャッツで盛り上がる良平と三方に興醒めの顔を向けているのみでありました。
「ところで折野君は熊本の出身だったよな?」
 良平と三方の話題に入り切れない新木奈が万太郎に話しかけるのでありました。
「ええそうです」
「俺の親類が長崎の方に居るよ」
(続)
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お前の番だ! 125 [お前の番だ! 5 創作]

「へえ、そうですか」
 長崎と熊本じゃさして関連がないだろうと万太郎は思うのでありました。ま、同じ九州地方の中にあると云う事はありますが。
「子供の頃にその親類の処へ遊びに行った事があってね、船で一度熊本の方に旅行に連れて行かれた事があるよ」
 ああ成程そう云う話しの展開かと万太郎は一応納得するのでありました。
「船で熊本の方に行かれたと云う事は、長崎と天草の富岡を結ぶフェリーがあります。それに島原から三角と云う処を結ぶフェリーもありますね」
「茂木と云う処から乗る船だったな」
 新木奈は遠い記憶を辿っている顔をするのでありました。
「じゃあ富岡の方へ行くフェリーですね」
「その辺はもう忘れたな。結構その船が揺れたのは覚えているが」
「そうですか。あの辺の海は波が高いですからね」
「で、天草五橋とか熊本城とか水前寺何とか庭園に行ったかな」
「阿蘇山とか人吉の方は行かなかったですか?」
「さあどうだったかな。なにせ小学校低学年の頃だからあまり覚えていない。確か熊本市内で一泊して次の日には帰ったな」
「一泊二日となると阿蘇山には強行軍をすれば行けるかな。若し阿蘇山に行かれたとするなら、小学校の低学年とは云っても、記憶が残っていると思いますよ。広大な噴火口からモクモクと上がる噴煙はかなり印象的ですからね」
「そう云った記憶は全くないね」
 新木奈はあっさりと首を横にふるのでありました。
「僕の出身は人吉と云う処で熊本県の南の山の中ですよ。ま、その一泊二日の熊本旅行では恐らく日程上行かれなかったでしょうけどね」
「ああ、人吉ね。聞いた事はあるよその地名は」
「温泉と球磨川下りが有名ですかね」
「そう云う地名を知っていると云うだけで、他の事は何も知らない」
「ああそうですか」
 はいこれにてこの話題はお仕舞い、と万太郎は思うのでありました。クレージーキャッツで盛り上がる良平と三方とは大違いであります。
 新木奈としても、万太郎と熊本の話題で盛り上がる気なんぞは更々なかったでありましょう。良平と三方のクレージーキャッツの話しに入りこめないので、同じく徒然顔の万太郎にちょっとした愛想の心算で話しかけたと云うだけの事でありましょうか。
「折野さん、内弟子の稽古は俺達一般門下生なんかとは全然違って厳しいんでしょう?」
 新木奈の隣に座っている、木間注連男、と云う万太郎や良平より三つ年下の門下生がビール瓶を万太郎の方に差し出しながら云うのでありました。
「稽古もきついけど、先生方のお世話とか道場仕事のあれこれの方が大変ですかなあ」
(続)
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お前の番だ! 126 [お前の番だ! 5 創作]

 万太郎は丁寧な物腰で受け応えるのでありました。一般門下生に対しては年齢や年季に関係なく、内弟子は丁重なもの云いをするのが道場の仕来たりでありました。
「ああそうですか」
 来間は万太郎の差し出したコップにビールを注ぎながら云うのでありました。「稽古についてなんですが、皆さんは一般門下生稽古とは全く違う事をやっているのですか?」
「そんな事はないですよ。同じ常勝流の体術を稽古しているんですから。まあ、一般門下生の方達より時間的に多く稽古しているという事はありますがね」
 万太郎は来間にビールを注ぎ返しながら応えるのでありました。
「いやいや、稽古時間の長さだけじゃなくて、質的にも断然違うな」
 良平と二人で盛り上がっていたクレージーキャッツ話しに一段落をつけた三方成雄が、横からそう口を挟むのでありました。「技の精度や威力にも厳しい要求があるだろうし、総士先生や鳥枝先生、それに寄敷先生の容赦のない技を毎日、身を以って体験させられているんだから、そりゃあもう過酷さに於いて一般門下生稽古なんかの比じゃないだろうよ」
「その容赦のない技を自分等に施す先生方の内に、あゆみさんの名前も加えてください」
 良平が話しに加わるのでありました。
「ああそうだ。あゆみ先生の技も凄いや」
 三方が頷きながら云うのでありました。あゆみは助教士であるから、一般門下生からは、先生、と云う称号つきで呼ばれているのでありました。
「確かにあゆみさんの技は凄いな」
 あゆみの名前が出たので新木奈もここ一番と口を出すのでありました。一般門下生であるにも関わらず新木奈はあゆみに対して何故か、先生の呼称をつけないのでありました。
 あゆみの事を、あゆみ先生、と呼ばない一般門下生は新木奈くらいしか居らず、これは新木奈のあゆみに対する一種の秋波の、秘めやかで意識的でまわりくどい表出なのであろうと万太郎は勘繰っているのでありました。他の門下生達と自分とではあゆみに対する意識が違うのだと、他の連中にも、勿論あゆみ本人にも、判りにくいながら判ろうとすれば何となく判るような、新木奈一流の表現方法に違いないと思うのであります。
 今のところそれに気づいているのは万太郎だけのようで、他の誰彼にも、一番気づいて欲しいあゆみ当人にも、この新木奈の遠回しな努力は無駄な骨折り以上ではないようでありますが。・・・いやしかしところで、何故自分だけはそうと気づいているのか万太郎はその点に引っかかりはするものの、特に掘り下げて考えてみる事はしないのでありました。
「内弟子の皆さんの稽古では、一般門下生稽古では省略されて仕舞うような、技の微妙な勘所なんかの解説もあるのですか?」
 来間が万太郎に真剣な眼差しで訊ねるのでありました。
「いや、特段そんな事はないですよ。寧ろ何ら細かくは教えてくれずに、先生方の技の受けを取ったり、只管回数を熟す事で自得しろと云った風ですかねえ」
 万太郎は新木奈をちらと見ながら云うのでありました。あゆみに関する話しがそれ以上展開せずに、稽古の話題に戻った事で新木奈は興醒めな顔をしているのでありました。
(続)
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お前の番だ! 127 [お前の番だ! 5 創作]

「ひょっとして来間さんは内弟子になりたいのかい?」
 三方が少し身を乗り出しながら訊くのでありました。
「もっともっと、常勝流武道が上手くなりたいと思っています」
 来間のこの応えは、曖昧ながらも彼が内弟子になりたいと希望しているのを、半ば吐露した事になるでありましょうか。
「ああそう。道場の内弟子は生半な覚悟じゃ出来ないと思うよ、ねえ面能美さん」
 三方は良平に話しをふって椅子の背凭れに上体を引くのでありました。
「まあそうですかねえ」
 良平は確信なさ気にそう云いながら万太郎の顔を見るのでありました。
「良さんは別として僕なんかは、実はあんまり覚悟もなくて、就職活動に捗々しい成果が見られないので、偶々ご縁を得た鳥枝先生の勧めで内弟子にして貰ったような次第で」
 万太郎はそう云ってビールを三方のグラスに注ぐのでありました。
「自分も寄敷先生の会計事務所でアルバイトをしていて、先生に誘われてちょっとした好奇心から道場に見学に行って、それでまあ、常勝流と云う武道に一目で惚れて、後先考えずに総士先生に頼みこんで内弟子にして貰ったのです。内弟子になるまでは内弟子なるものがどう云うものかも全く知りませんでしたよ」
 この良平の話しを聞く来間の目が煌めいているのでありました。
「まあしかし折野さんも面能美さんも一年間、厳しい内弟子修行を続けてきたんだから、人に倍する意気地があったというわけだ」
 三方が万太郎の注いだビールグラスに口をつけるのでありました。「来間さんはこの二人に匹敵するだけの性根があると自分で思うかい?」
「いやあ、考えたら僕なんかには到底務まりそうもありません」
 来間は伏し目をして及び腰を見せるのでありました。「お二人の日頃の内弟子としての仕事を見ていても、確かに僕みたいな甘ちゃんがやれるものではないようです」
「ま、止めておいた方が無難だろうよ」
 新木奈が椅子に背を深く凭せかけた儘、薄笑いを顔に浮かべて横から口を出すのでありました。この薄笑いは来間の秘かな志望に向けた冷笑と見えるのでありました。
「考えてみれば覚悟も性根も、実は僕には殆どないのです。毎日内弟子稼業が嫌だ々々と思いつつも辞める踏ん切りがつかないでいたら、いつの間にか一年が過ぎていたのですよ。楽天的と云うのか好い加減というのか、苦境に対する鈍感さが僕の身上ですから、それで今日まで持ったんですね。で、おまけに頃あいで黒帯なんかを貰ったから、少し良い気分にさせられましてね、それで竟、もう少し努めてみようかな、なんと思ったりするのです」
 万太郎は新木奈のそれとは全く違う誠実そうな笑いを顔に浮かべるのでありました。
「今の万さんの意見に一票」
 良平が指を一本立てながら茶目な賛意を示すのでありました。
「ま、これは折野さんの照れ隠しの言葉で、来間さん、本気で聞いてはいかんよ」
 三方が来間にビールを注いでやるのでありました。
(続)
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お前の番だ! 128 [お前の番だ! 5 創作]

「判っています。何度も云いますが、内弟子の大変さはお二人を見ていれば判ります」
 来間は注がれたビールをグイと飲むのでありました。
「道場の内弟子になんかなったら、気儘に旅行に行ったり映画を見たりとか云った趣味を楽しむ時間も、それから彼女と二人でイチャイチャ過ごす時間なんかも全くなくなるし、若い頃にしか出来ない楽しい事も殆ど諦めるしかないな。それで給料が四万円ホッチしかないんだから買いたい物も買えないし、ましてや将来のための貯金も出来そうにないぜ」
 新木奈が来間に矢張り薄笑いを浮かべた儘そう諭すのでありましたが、しかし万太郎は別にこれと云った趣味も道楽もない自分であってみれば、それを楽しむ時間がない事を特に苦痛に感じる事はないと思うのでありました。依って四万円の手当にしても、それは同年代の一般企業に就職した連中に比べれば不足かも知れませんが、万太郎としてはそれだけあれば全く不満のない一か月を悠々と過ごす事が出来るのでありました。
 衣食住が取り敢えずちゃんと保障されていて、手当の四万円は丸々自分の小遣いとして使えるのでありますから、寧ろ同年配の一人暮らしのサラリーマンなんかよりは自由に使える金は余程多いのかも知れません。何よりも、好きな武道の稽古三昧の日々が送れているのでありますから、こんな結構な身の上はないと云うものであります。
「当の折野さんと面能美さんの前で、そんな云い草はないだろう」
 三方が新木奈の言葉に突っかかるのでありました。
「ああいや、それだけ内弟子は大変だと云う意味で云ったんだよ、俺は」
 自分の先の云い方が万太郎と良平に対しては失礼に当たるかもと、すぐに察した新木奈が慌てて抗弁するのでありましたが、新木奈は単なる社会的エリートを気取りたいだけの男ではなく、一応それなりの、まあ、自分の現状の立場の有利不利に対してと云う限定ではありますが、鼻持ちならないヤツと思われないための一定の察しの良さも持ちあわせてはいるようであります。万太郎は、鼻持ちならないヤツと思うのでありましたが。
「二人には今の自分の境遇に一先ず不満はないと見ているね、俺は。今は将来に実を結ぶであろうところの高い志望のための雌伏の時で、だから傍から見れば鳴かないし飛ばないように見えるわけだ。傍が見た目だけでその今の境遇に対してとやこう云う必要はない」
 三方はそう捲し立てるのでありましたが、少し酒に酔ったのでありましょうや。
「二人が、鳴かず飛ばず、だと云いたいわけか?」
 新木奈がこれも薄笑いながら揚げ足を取るのでありました。
「鳴かず飛ばず、大いに結構。この言葉は今の日本では良い意味で使われないが、本来はこれは司馬遷の史記にある言葉で、中国の春秋時代の楚の荘王がちっとも政治をしないで三年間遊び暮らしているのを、五挙と云う男が諌めようとした時に、三年鳴かないが一度鳴けば人を驚かさずにはおかないし、一度飛べば天まで昇るだろうよ、五挙よ控えろ、ワシは判っておるのじゃ、と返した故事に依っている。鳴かず飛ばず、大いに結構!」
 三方は彼の日頃の言動からは想像出来ないペダンチックな事を云い募るのでありました。これは間違いなく酔っているのでありましょう。
「その話しは、前に総士先生からも聞いた事がありますよ」
(続)
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お前の番だ! 129 [お前の番だ! 5 創作]

 良平が云うのでありました。「総士先生は中国の古鏡が好きで、よくその方面の本なんかを見ていらっしゃいます。中国の大昔の故事なんかにもお詳しいようですよ」
「へえ、それは知らなかったな」
「三方さんは中国の歴史か何か勉強されているのですか?」
 良平が訊くのでありました。
「いや別にそう云うわけでもないが、中国に限らず、歴史一般は好きだよ」
 三方は少々恥ずかしそうに応えるのでありました。
「俺は歴史とかはさっぱりだな。小学校の頃から一貫して理系一辺倒の人間で、数字とか数式を弄繰り回すのは好きだったが、歴史的な年代なんかを覚えたり、歴史上の事件やら故事なんかにはちっとも興味がわかなかったね。そんなものが今の俺に何の役に立つのか、実は未だにさっぱり判らんよ。まあ、地理とかはそんなに嫌いでもなかったけどな」
 新木奈が横から口を挟むのでありました。
「自分は文学部の地理学科に在籍していましたよ、大学では」
 良平が新木奈に対する愛想のつもりでそう言葉に乗っかるのでありました。
「ああ、文学部の地理学科ね。つまり人文地理学と云う事だな。俺が興味があるのは自然地理学とか地質学の方だよ」
 新木奈の云い草には、地理学と云ったら何が何でも自然地理学で、つまり人文地理学をまるで小馬鹿にしているように万太郎には聞こえるのでありました。尤も万太郎にとって人文地理学にしろ自然地理学にしろ、どんな学問なのか全く判らないのではありますが。
「お前は要するに生身の人間に対する興味が薄いんだよ」
 三方が新木奈の顔を指差して云うのでありましたが、少し呂律があやしくなっているように万太郎には思われるのであります。間違いなく酔っているようであります。
「そんな事もないんだがな」
 新木奈はその絡んでくる三方の口調に少しげんなりした顔をするのでありました。
「いや、そんな事もある。だからお前は人間の営為たる武道もちっとも上手くならんのだ。そもそも数理を超えたところに武道があるんだぞ。二かける二が四にしかならないなら、武道に何の面白味がある。そんなだから道場の稽古でも総士先生の指導の言葉を自分勝手にしか聞こうとしないし、注意された大事な点もちゃんと理解しようともしない。お前は大体、稽古態度が不遜なんだよ。お前からは総士先生や鳥枝先生や寄敷先生、それにあゆみ先生、それから折野さんや面能美さんに対しても、まるっきり敬意が感じられない」
 三方が怪しい呂律で捲し立てるのでありましたが、万太郎はこの三方の新木奈評に対して一点異議があるのでありました。それは新木奈があゆみに対してのみは明らかに敬意を払っている、或いは敬意を払っているような物腰をするではないかと云う点であります。
 確かに新木奈の稽古態度は、武道を学ぼうとする態度としては万太郎も不謹慎であると感じていた事ではありますし、何となくそう云うところを見せられるのが興醒めではあったのでありますが、事あゆみに対する時は、その新木奈が妙に誠実にふる舞っているように見えるのでありました。誠実に、と云うよりは寧ろ、諂っているように。
(続)
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お前の番だ! 130 [お前の番だ! 5 創作]

「武道の弟子たる者、師匠の指導を先ずは全的に受け止めるのが弟子たるの道だ。始めから自分の了見で適当に摘み食いするような態度は、到底弟子の態度とは云えん」
 三方はなおも続けるのでありました。「お前のその小賢し気な稽古態度は、俺は前から気になっていたんだが、今の内に改めた方が良かろうよ」
「まあまあまあ、・・・」
 良平が両掌を三方に示してそれを小刻みに揺らしながら、云う内に次第に嵩じてきたらしい三方の剣幕を抑えにかかるのでありました。

「まあまあ、と云ったところですかな」
 出張指導を終えて師範控えの間に帰ってきた興堂範士が、威治教士の介添えで着替えを終えてから、その日はあゆみが寄敷範士と八王子に出張指導に行っているため、あゆみの手料理の代わりに取り寄せた仕出しの弁当に箸をつけながら云うのでありました。興堂範士は箸で摘んだ椎茸の煮つけを丸々頬張ってから、横に座って同じく仕出し弁当の鰻の蒲焼を口に運んでいる威治教士の方をちらと横目に見るのでありました。
「まあまあどころか、もう立派な跡取りとして門下生方も認めているでしょうに」
 是路総士が日本酒の徳利を興堂範士に差し出しながら返すのでありました。
「いやいや、まあまあと云うのもワシの贔屓目で、未だ到底一派の長としては武道の技量も人間としても到らんと云うのがかけ値なしのところですえわい」
「いやいや、今日の威治君の指導を見ていても、安心感がありましたよ」
 是路総士は威治教士にも徳利を差し出すのでありました。威治教士は照れ笑いを浮かべて「恐縮です」と云いながら持っていた箸を置いて、両手で自分の猪口を是路総士の差し出した徳利の下に持っていくのでありました。
「しかしまあ、ワシももう良い歳ですから今後の事を考えなければならんし、後援してくれる人達も、そろそろ威治が次期総帥である事を明示しておくべきだとおっしゃるものですからな、それで来月よりこの威治を道場長と云う役職に就ける事にしたのですわい」
「ほう、そうですか」
「技量的には筆頭教士の花司馬の方が今のところ上ですが、ま、道場経営の上から威治を道場長にすると云う次第ですわ。技法の面では花司馬、道場全体の仕切りは威治が責任を持つと云う事で、二頭立ての馬車で道場を運営するような按配ですかな」
「着々と将来の布石を打っておられるようで、羨ましい限りです」
 是路総士はそう云ってから猪口を口に当てるのでありました。
「あにさんの処も、ぼちぼち将来の事を考えておかなければならんでしょう?」
「そうではありますが、まあ、ウチはこの鳥枝さんと、それに寄敷さんが良しなに計らってくれるものと、私は到って安心しておりますよ」
 是路総士は横に座っている鳥枝範士を見るのでありました。
「あにさんとしては、あゆみちゃんを跡取りにとお考えですかな?」
「さて、どうしますかなあ」
(続)
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お前の番だ! 131 [お前の番だ! 5 創作]

 是路総士は猪口を置いて頭に手を遣るのでありました。「あゆみは女ですし、当流の総帥としてはどんなものですかなあ。確かに当流は一子相伝となっておりますが」
「しかしこれからの世の中、女の武道宗家があっても良いかも知れませんぞ。技量的にはあゆみちゃんは宗家として将来充分立って行けるでしょうし」
「考えとしてはそうですが、現実的にはどんなものでしょう」
「まあ、武道の世界は、特に古武道の世界は、風習も考え方も恐ろしく古臭い儘ですし、またその古臭さが尊いとも云えますからなあ」
 そう云った後、興堂範士は鳥枝範士の方に目を向けるのでありました。「鳥枝君としてはどういう風に考えておるのかい?」
「いや未だ具体的なところは何も」
 鳥枝範士も是路総士と同じように頭に手を遣るのでありました。「未だ々々総士先生もお元気ですし、益々お強くなっておられるように拝察致しておりますので、正直なところ将来の事に関しては未だ全く思い致す必要を感じておりません」
「それはそうじゃが、転ばぬ先の杖じゃよ」
「興堂先生のご教誨として腹に納めておきます」
「あゆみちゃんに婿養子を取ると云う手もあるか。道場の門下生の中に、技量や人柄、それに歳頃とか、目星をつけられておられる方なぞはいらっしゃいませんかな?」
 興堂範士がそう云うと横の威治教士の眉が微かに動くのでありました。さてところで、廊下の方に正坐してずっと控えていた万太郎の眉も、実は本人も気づかない程度に同じように微かに動いたのでありましたが、まさかそれに気づいたためではないでありましょうが、鳥枝範士が急に万太郎に声をかけるのでありました。
「おい折野、徳利をもう二三本、熱燗にして持ってこい」
「押忍」
 万太郎は控えの間の方に一礼して立つと台所へと趨歩して去るのでありました。
「おや、大岸先生、いらしていたんですか?」
 母屋の台所には、近所に住む書道のお師匠さんである大岸聖子先生が来ているのでありました。大岸先生は割烹着を着て四枚の小皿に何やら盛りつけているのでありました。
「そう。あゆみちゃんから頼まれてちょっとしたお酒の肴を持ってきたのよ」
「ああそれはどうも恐れ入ります」
 万太郎は大岸先生に丁寧にお辞儀してから良平の方を向くのでありました。「良さん熱燗のお代わりを二本お願いします」
「あいよ。熱燗二本追加!」
 良平は居酒屋の若い衆みたいな口調でそう云うのでありましたが、見ると稽古着の上から前掛けをして頭には捩り鉢巻きなんぞを巻いているのでありますが、すっかり板前か何かのような了見になり切っているようであります。
「あゆみさんが先生に今日の事を頼んだんですか?」
「そうよ。良君と万ちゃんだけじゃ接待係として頼りないからってさ」
(続)
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お前の番だ! 132 [お前の番だ! 5 創作]

 まあ確かに、幾ら良平が板前気取りで張り切っているとしても、男手だけでは行き届かないところもあれこれあるに違いないと万太郎は思うのでありました。仕出し弁当とは別に酒の肴を拵えるなんぞと云う事は、思いつきもしなかったのでありますから。
 大岸先生にはあゆみばかりではなく万太郎も良平も、週に一度道場の手空きの時に先生宅まで出向いて書を習っているのでありました。武道家の嗜みとして芸術性は別にして、一応は能筆であった方が良かろうと云う是路総士の意を受けての事でありました。
「ほい、熱燗二丁上がり!」
 良平が湯気の漂う徳利を布巾で拭いながら云うのでありました。
「じゃあ万ちゃん、この小皿四つとそこの大皿も一緒に持って行ってね」
 大岸先生が菜箸の頭でテーブルの上を差すのでありました。小皿は先程から大岸先生が盛りつけていた大根と人参を細かく刻んで小鰯の焙ったものを散らした膾が、大皿には乱切りの大根と豚肉を醤油で甘辛く煮たものが体裁良く盛りつけてあるのでありました。
「押忍、判りました」
 万太郎は大きめの朱盆に皿を移しながら、書道の先生に対して「押忍」の返事は具合が悪かったかしらとちらと思うのでありました。
「取り皿も一緒に持っていくのよ」
「はい。判りました」
 万太郎は食器棚から白い取り皿を四枚出してそれも重ねて朱盆に載せてから、台所を出て廊下を趨歩するのでありました。胸の前に抱え持った朱盆から立ち上る、煮つけの香ばしい匂いに万太郎の腹がぐうと反応するのでありました。
「おお、大根と豚肉の煮つけじゃな」
 興堂範士は盆に載せられた大皿を見て大袈裟に喜んで見せるのでありました。「これはワシの大好物じゃが、ひょっとしてあゆみちゃんが帰って来ておるのかな?」
「いえ、あゆみさんは未だお帰りになっておりません」
 その万太郎の返事を聞いて、興堂範士の横で威治教士が少しがっかりしたような表情をするのでありました。万太郎は目の端でその顔を見るともなく見るのでありました。
「するとこの料理は誰が作ったんだ?」
 鳥枝範士が、手際良く大小の皿を座卓の上に並べている万太郎の手つきを見ながら訊くのでありました。「呑気者の面能美が気を利かせて前もって仕こんでいたとは思えんが」
「押忍。大岸先生がいらしていて、これは先生が家で作って来られたもののようです」
「おや、大岸先生がいらしているのか?」
 これは是路総士が万太郎に訊く言葉でありました。
「押忍。あゆみさんに頼まれたからと云うので、台所にいらっしゃいます」
「それは慎に忝い事だ。こちらにお呼びしろ」
 是路総士にそう命じられて万太郎は急ぎ台所に引き返すのでありました。
「総士先生のお呼びなら、少しだけ顔を出してきますか」
 大岸先生はそう云って万太郎に先導されて師範控えの間に向かうのでありました。
(続)
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お前の番だ! 133 [お前の番だ! 5 創作]

「大岸先生、お手を煩わせているようで恐縮です。あゆみが先生に頼んだようで」
 廊下で万太郎と並んで畏まる大岸先生に是路総士が声をかけるのでありました。
「ええまあ、頼まれたと云うわけでもないんですが、どちらかと云うとあたしの一存で、ちょっと出しゃばりをさせてもらっております」
「大岸先生お久しぶりですなあ」
 興堂範士が破顔するのでありました。昵懇とは云えないまでも興堂範士と大岸先生は全く知らない同士でもないのでありました。
「ご無沙汰しております。道分先生も何時もながらお元気そうなご様子で」
「さあ、そんなところに居ないで中に入って下さい」
 是路総士が掌で大岸先生を誘うのでありました。
「ではちょっと、ご挨拶だけさせていただきますわ」
 大岸先生は立って控えの間に歩み入るのでありました。万太郎は急いで膝行で大岸先生の後を追い入ると、傍らにある座布団を取って是路総士を見るのでありました。
 是路総士は少し横にずれて自分の隣を空けるのでありました。万太郎は空かさずそのスペースに座布団を置くのでありました。
「折野、大岸先生の皿と箸と、それに猪口も持って来い」
 鳥枝範士が座布団から手を離した万太郎に指図するのでありました。
「押忍。持って来ております」
 万太郎はそう返して、廊下に置いていた盆を持って来るのでありました。鳥枝範士は万太郎の気の利かせ方に満足気に頷くのでありました。
「それから仕出し屋に一走りして、大至急でもう一人前弁当を貰て来い」
「これから急にでは、仕出し屋さんも困るでしょう」
 大岸先生が是路総士の横に腰を下ろしながら云うのでありました。
「なあに、総本部道場の鳥枝が是非にと頼んでいると云えば、何とか用意するでしょう」
「あたしは後程、内弟子のお二方と向こうでいただきますよ。ここはちょっとだけ愛想をさせていただいて、それで失礼いたします。門外の者が長居しても何ですから」
「いやいや、遠慮なさらずに長居してくだされ。男ばかりが旋毛を寄せて飲み食いしていてもつまらんですから大歓迎ですぞ。ねえ、あにさん」
 興堂範士がにこやかな顔で、座った早々の大岸先生に徳利を差し出すのでありました。
「折野、さっさと仕出し屋まで走り出せ。向こうでごにょごにょと断りをぬかしおったら、今後一切出入り禁止にすると啖呵を切ってこい」
「押忍。行ってきます」
 万太郎は鳥枝範士にお辞儀するのでありました。「どうしても駄目な場合は、啖呵を切った後で、仙川商店街の雲仙に寄って何か適当に作って貰ってきます」
 雲仙、と云うのは商店街の中に店を出している、是路総士や鳥枝範士が贔屓にしている日本料理の居酒屋の屋号であります。そこのオヤジが気の良い人で、万太郎も偶に鳥枝範士や寄敷範士に連れて行って貰った事があるのでありました。
(続)
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お前の番だ! 134 [お前の番だ! 5 創作]

「おう、その線でいけ」
 鳥枝範士は万太郎の言葉に大きく頷くのでありました。
「ご免ね、万ちゃん、使い走りさせるようで」
 大岸先生が万太郎に両掌をあわせて見せるのでありました。万太郎は大岸先生の合掌を返って恐縮、と云う風に畏まってお辞儀してから控えの間を出るのでありました。
「良さん、鳥枝先生の云いつけで、もう一人前仕出し弁当を貰いに行ってきます」
 万太郎は台所の食器棚の引き出しからがま口を取りながら云うのでありました。
「大岸先生の分かい?」
「そうです。向こうで先生方と一緒に食事をされるようです。ああそれから僕の戻りが遅いようなら、適当な時間に控えの間に行って、徳利のお代わりをお伺いしてください」
「へい、承りやした」
 良平が居酒屋の横着そうな若い衆の口調で返すのでありました。その良平の言葉の尻が消えない内に万太郎は急いで台所を後にして、内弟子部屋に行くと稽古着を普段着に超特急で着替えて、裏口から外に飛び出すのでありました。
「鳥枝先生のご用命とあっちゃ、逆らうと後が怖いな。先に届けたものと中の品がちょっと変わりますがそれでも構いませんか?」
 仕出し屋の主人は苦笑しながら万太郎に訊くのでありました。
「結構です。取り急ぎでお願いします」
 主人は一つ頷いて暖簾の向こう側に隠れるのでありました。
「さあ、これをどうぞ」
 待つこと暫し、主人が大ぶりの弁当を持って暖簾のこちら側に戻るのでありました。
「有難うございます。無理を云って申しわけありません」
 万太郎は律義に一礼するのでありました。
「内弟子さんもあれこれ用事を云いつけられて大変ですねえ」
 仕出し屋の主人は、出来上がった弁当を万太郎が持ってきた風呂敷に気忙しそうに包むのを見ながら云うのでありました。
「お支払いは如何程でしょう?」
「前のと同じで結構です」
 万太郎は持参したがま口を開くのでありました。
「はい確かに。今、領収証を書きます」
 主人は万太郎の気忙しそうな様が乗りうつったように、領収書を傍らの書類入れからもどかし気に取り出して、殴り書いてそれを万太郎に手渡すのでありました。
「有難うございます。では急ぎますので」
 万太郎はもう一度律義に頭を下げてから仕出し屋を飛び出すのでありました。
「おう、ご苦労」
 道場に帰りついて万太郎は稽古着へ着替えるのももどかしそうに、早速に弁当を控えの間に届けると鳥枝範士がそれを受け取りながら云うのでありました。
(続)
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お前の番だ! 135 [お前の番だ! 5 創作]

「早かったところを見ると、雲仙に回る必要はなかったか?」
 是路総士が万太郎に訊くのでありました。
「押忍。鳥枝先生の名前を出したら仕出し屋ですぐに引き受けてくれました」
「ははあ、成程ね」
 是路総士は納得気に頷いてから鳥枝範士を見るのでありました。「鳥枝さんの勇名は仙川駅周辺の商店や飲み屋に遍く鳴り響いているようですからなあ」
「いやいや、知れ渡っているのは総士先生のお人柄です」
 鳥枝範士は苦笑しながら弁当を大岸先生の前に恭しく置くのでありました。
「万ちゃん済みませんでしたね」
 大岸先生の労いの言葉に万太郎は一礼した後、廊下に下がって前と同じに控えるのでありました。座ってみると少しばかり息が上がっているのが判るのでありました。
「折野、ここはもう良いから、下がって面能美と食事をしろ」
 是路総士がそう声をかけてくれるのでありました。万太郎は一応鳥枝範士の方を窺い見て、鳥枝範士が小さく頷くのを確認してから座敷の方にお辞儀するのでありました。
「では下がらせていただきます」
「万ちゃんと良君のおかずも作ってきたから、それを食べてね」
 大岸先生が頭を起こした万太郎に云うのでありました。
「押忍、有難うございます」
 この師範控えの間の宴が引けて興堂範士と威治教士、それに鳥枝範士が道場から去ってから、万太郎は良平とインスタントラーメンでも作って、それをおかずに飯を食おうと打ちあわせていたのでありました。しかし大岸先生が二人のおかずも作って来てくれたと云うのは、全く以って思いの外の大助かりと云うものでありました。
 一応是路総士から下がって構わぬとの言葉を貰っているものの、徳利のお代わりとか急に呼ばれてもすぐに対応出来るように、範士控えの間の廊下と母屋を繋ぐ扉は開け放した儘で、台所の引き戸も締めないでおくのでありました。それに勿論ゆっくり食事する事は許されないので、内弟子の二人は大岸先生が持ってきた大盛りの野菜サラダと、鶏の唐揚げを冷めた状態の儘、大盛り飯と一緒に忙し気に腹に掻きこむのでありました。
 案の定、食事の終わらない内に控えの間から鳥枝範士の呼ぶ声が届くのでありました。
「僕が行きます」
 万太郎は一緒に立った良平に掌を見せるのでありました。それからその掌で口の周りを拭い、口の中にあるものを急ぎ呑みこんで控えの間に駆けつけるのでありました。
「酒をもう二三本持ってこい」
 廊下で座礼する万太郎に鳥枝範士が命じるのでありました。
「押忍。承りました」
 万太郎はまた台所に取って返して良平に熱燗を三本と伝えるのでありました。
「あいよ、熱燗三本追加!」
 食事中は外していた捩り鉢巻きをまた頭に巻きながら良平が応えるのでありました。
(続)
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お前の番だ! 136 [お前の番だ! 5 創作]

 熱燗の番をする良平の横で万太郎が自分達の使った皿を洗っていると、廊下をこちらに向かって来る気配が伝わってくるのでありました。それは威治教士のものでありました。
 万太郎は急ぎ手を拭き、引き戸の脇に佇んで廊下を曲がった威治教士の姿が現れるのを待つのでありました。万太郎が早手回しに控えているのを見て、威治教士は一瞬少し驚いたような顔をして歩を止めるのでありました。
「押忍、御不浄でしょうか?」
 万太郎が訊くと威治教士はジロリと万太郎を睨んで無愛想に一度頷くのでありました。万太郎は浅く一礼してから厠まで廊下を先導するのでありました。
 威治教士は前に何度か総本部道場を訪っていたし、母屋の厠の在り処も既に知っているとは思われるものの、一応お客への礼儀から万太郎は先導を買って出たのでありました。二人は押し黙った儘廊下を進むのでありましたが、威治教士が何か話しかけない以上、殊更に万太郎の方から愛想の言葉を発する必要はないでありましょう。
 万太郎は威治教士が用を済ませて厠から出てくるまで外で控えているのでありました。それからまた廊下を先導して台所の引き戸まで戻るのでありましたが、途中で万太郎の無言が気づまりになったのか威治教士が後ろから声をかけるのでありました。
「あゆみさんは何時も遅いのか?」
「押忍。八王子の出張指導では、稽古後に門下生と皆で食事をするのが慣例となっていますので、何時も戻りは遅くなります」
 万太郎はふり返って、しかし歩を止めないでそう応えてから目礼するのでありました。
「ああそうか」
 威治教士はそう云ってからすぐに、万太郎の視線から少し目を逸らすのでありました。

 黒帯取得の門下生数名でのお祝い会から戻った万太郎と良平に、食堂に居たあゆみが声をかけるのでありました。
「あら、そんなに遅くならなかったのね」
「押忍。三方さんが急ピッチで出来上がって眠って仕舞ったものだから、少し早目にお開きとなりましたので」
 良平がそう応えながら椅子に腰を下ろすのでありました。万太郎は流し台の方へ行ってコップ二つに水道水を入れようとするのでありました。
「万ちゃん、お水じゃなくて、冷蔵庫に麦茶が冷やしてあるからそれを飲めば?」
 あゆみが水道の蛇口を捻ろうとした万太郎に云うのでありました。
「押忍。それじゃあそっちをいただきます」
 万太郎は冷蔵庫から麦茶を取り出して二つのコップに注いで、一つを良平の前に置いてから横の椅子に座るのでありました。
「それで三方さんはどうしたの?」
「来間さんが帰る方向が一緒だからと、仙川駅まで負ぶってその儘連れて行かれました」
 麦茶を一口飲んでから良平が応えるのでありました。
(続)
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お前の番だ! 137 [お前の番だ! 5 創作]

「他の方達はもう一軒行くかとおっしゃって、別の居酒屋に向われました」
 万太郎が後を続けるのでありました。
「良君と万ちゃんは一緒に行かなかったの?」
「ええ。明日の朝の道場仕事もあるからと帰ってきました。それにこのところ懐不如意でもありますし、二次会に行くのならそこの代金は俺が持つと、頼もしくおっしゃっていた筈の新木奈さんの姿が、いつの間にか見えなくもなったものですから、ま、それで」
「新木奈さんはどうしたの?」
「いや判りません。矢張り二次会を遠慮して、三方さんを負ぶった来間さんを見送りに皆さんと仙川駅へ行って、改札前でさよならを云い交わしている時にはもういらっしゃいませんでしたね。一次会の居酒屋を出た後、すぐにどこかへ行かれたのでしょう」
「皆にさよならの挨拶も云わないで?」
「ええ、まあ、そうですね」
 どうせ酒に酔った三方にくどくどしく絡まれて、気分を害して二次会に行く気も失せて、そんな不貞腐れた態度に及んだのであろうと万太郎は推察したのでありました。しかしその辺の経緯をあゆみに説明するのも億劫であったから、万太郎は何故新木奈がそんな無愛想をするのかまるで見当がつかないと云った顔をしているのでありました。
 どだいあゆみが参加していない飲み会でありましたから、新木奈には初めからそれ程気乗りのしない会であったのでありましょう。あゆみの目以外の視線に、自分の良いところを見せようと頑張る了見なんぞも端から新木奈にはないでありましょうし、だからさよならも云わずに姿を晦ましたとしても、当人は別に何とも思ってはいないでありましょう。
「宴会中に何かあったの?」
 あゆみが首を傾げて訊くのでありました。
「まあ、酔いつぶれる前の三方さんとちょっと小難し気な云い争いをされていまして」
 良平がコップの麦茶をすっかり飲み干してから云うのでありました。
「云い争い?」
「ええまあ、云い争いと云うのか新木奈さん相手に三方さんがくだを巻いたというのか」
「それで怒ってさよならも云わずに帰ったってわけ?」
「その真意は俄には判りませんが、思い当る事と云ったらそれくらいです」
「ふうん」
 あゆみはそう云って顰め面をして首を横に何度かゆっくりふるのでありました。これは新木奈の態度に対してそう云う反応を見せたのか、それとも宴席の和気藹々たるべき雰囲気を壊して酔い潰れて仕舞った三方の無粋に対してなのか、或いは二人になのか、万太郎には俄に判断出来ないのでありましたが、まあ、両者に、と云う事でありましょうかなあ。
「おう、帰っていたのか」
 丁度風呂から上がって居間に戻った是路総士が、未だ濡れた頭をタオルで拭いながら食堂の方に声をかけるのでありました。
「お父さんそんなところで頭を拭いたら髪の毛が畳に落ちるじゃない」
(続)
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お前の番だ! 138 [お前の番だ! 5 創作]

 あゆみが是路総士を窘めるのでありました。
「ああ、これは済まん」
「掃除する者の身にもなってよ」
 是路総士は決まり悪そうな顔であゆみを上目に見つつ一つ頷いてから、頭拭きを止めてタオルを首にかけるのでありました。母屋に在っては是路総士と云えども、家事一切を取り仕切るあゆみには遠慮の気持ちが思わず出ると云ったところでありましょうか。
「どうだった黒帯のお祝い会は?」
 是路総士は座卓の前に座りながら食堂の内弟子二人に訊くのでありました。
「押忍、楽しかったです」
 良平がそう応えるのでありましたが、これは宴席であった不体裁を態々是路総士に報告する必要はないとの良平の判断からでありましょう。
「ああそうか。それは良かったな」
 是路総士はそう云ってから後ろに体を捩じって押入れの襖を開けるのでありました。
「おとうさん、お酒?」
 あゆみが是路総士のその為業を見つつ訊くのでありました。
「うん、一升瓶」
「何時ものように台所の方にあたしが移動したわよ。そこに置いていたら、何かの拍子にお父さんが倒すといけないと思って」
「ああそうか」
 あゆみは立って流し台の下の棚の扉を開けて中に仕舞ってある日本酒の一升瓶を取り出すと、それを居間の是路総士の方に掲げて見せるのでありました。是路総士はその一升瓶を見ながら、思わずと云った風に顔を綻ばせるのでありました。
 是路総士は一升瓶を居間の押し入れに仕舞っておこうとする癖があり、あゆみはそこに一升瓶を置いておく事に常時不安を感じていると云う事であります。依って是路総士の襖開けの行為とあゆみの先の常套句が、例によって何時も通りに儀式のように繰り返されたのでありましたが、万太郎は何となくその光景を微笑ましく感じているのでありました。
「どうだ、黒帯取得祝賀会の別席と云う事で、皆で一杯やらんか?」
 是路総士が一升瓶に手を添えて提案するのでありました。
「いいわね、偶には」
 あゆみがすぐに賛同して、早速酒杯を食器棚から四つ取り出すのでありました。
「押忍、お呼ばれします」
 良平が嬉しそうに応じるのでありましたし、勿論万太郎も異存はないのでありました。良平はあゆみが取り出した一升瓶と四つの杯を居間の座卓に運び、万太郎は冷蔵庫を開けてちょっとした肴を用意するあゆみを手伝うのでありました。
「道場での授与式の時に既に云ったが、ま、面能美君と折野君、黒帯取得おめでとう」
 是路総士が杯を頭の高さに持ち上げるのでありました。久々に是路総士に君づけで呼ばれた万太郎と良平は思わず畏まるのでありました。
(続)
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お前の番だ! 139 [お前の番だ! 5 創作]

「押忍。有難うございます」
 万太郎と良平は改まってお辞儀してから杯を干すのでありました。
「これから稽古の時には初心者の指導をしてもらわんといかんな」
 是路総士が杯を揺らして酒の量を検分しながら云うのでありました。その後で、口をつけるとすっかり飲み干すのでありました。
「押忍。到底未熟ですから、未だ初心者の指導など出来そうにありません」
 万太郎が一升瓶を取って是路総士の杯に酒を注ぎ入れるのでありました。
「いやいや、二人共一年で大分境地が進んだように見えるぞ」
「道場での立ち居ふる舞いも、すっかり板についてきたって感じよ」
 あゆみが後を引き取って誉め言葉を重ねるのでありました。
「それでも未だあゆみさんには始終怒られていますが」
 良平が一升瓶を取ってあゆみにも勧めるのでありました。
「道場で内弟子に怒るのはあたしの役目だもん」
「あゆみさんは一般門下生稽古の中心指導をぼちぼち始められるのでしょう?」
 あゆみは万太郎と良平の黒帯取得の少し前に、段位も進んで教士補となっているのでありました。教士補となると体術稽古の中心指導も時に任される場合があるのであります。
「そうだな、中心指導をして貰わんといかんな。そうなると私は少し楽が出来る」
 是路総士が肴の蒲鉾を小皿の山葵醤油につけて口に運ぶのでありました。
「あたしは未だ鳥枝先生や寄敷先生みたいにやる自信がないもの。そんな弱気で指導なんかやっても誰もついて来てくれないと思うわ」
「いやいや、あゆみさんが中心指導をすると、なかなかに厳しい稽古になりそうです。怪我人続出と云う事にもなりかねないような気がします」
 良平が冗談口調でそう云ってあゆみの杯に酒を注ぐのでありました。
「夜の我々だけの内弟子の剣術稽古から鑑みれば、良さんの意見に僕も一票です」
 万太郎が良平から一升瓶を受け取り、是路総士の杯に注ぎながら云うのでありました。
「一般門下生からもあゆみさんに稽古をつけて貰うと、次の日には必ず筋肉痛になると云う意見が多々、今日の宴会でも出ましたよ」
 返杯としてあゆみに注いで貰いながら良平が云うのでありました。
「そんな事ないと思うわよ。あたしは到って優しい稽古を心がけているから」
「押忍。・・・」
 万太郎と良平は先ず自分達で顔を見あわせて、それから同時にあゆみの顔に視線を移して、同時に目を剥いて、同時にそう返すのでありました。この仕草は息のあった二人の、特に打ちあわせ等を必要としない俄か狂言風な座興の一種と云ったところでありますか。
「あれ、あたしの稽古はこよなく優しいでしょう?」
「お、お戯れを。・・・」
 良平が云い淀むような云い草をするのでありました。是路総士はその三人の遣り取りを聞きながら哄笑するのでありました。
(続)
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お前の番だ! 140 [お前の番だ! 5 創作]

「そう云えば今日の宴会で三方さんと新木奈さんの間で、どんな遣り取りがあったの?」
 あゆみが万太郎と良平の顔を交互に見ながら訊くのでありました。
「いやまあ、直接道場の稽古に関係のあるような事ではなかったのですが。・・・」
 万太郎は言葉が喉の途中で滞るような云い方をするのでありました。
「あのお二人は前から仲があんまり良くなかったかしら?」
「いやそうでもないと思っていましたが。第一、新木奈さんが今日の居酒屋の宴会に三方さんを誘って、三方さんはちゃんと参加したくらいですからね」
「日頃からお互いに本当はあんまり快く思っていなかったけど、一応一般門下生稽古で一緒に汗を流す義理から、新木奈さんが三方さんも誘った、と云う事はありますかね」
 良平がまたあゆみの杯に酒を満たすのでありました。
「二人共他の一般門下生からは比較的懐かれている方だと思っていたが」
 是路総士が万太郎の酌を受けながら云うのでありました。
「三方さんはどちらかと云うと白帯の人達には面倒見の良い兄貴分的な存在で、黒帯の目上の人にも、行き届いた気配りの出来る人だと思われていると云うのが僕の印象です」
「そうですね、自分も三方さんにはそう云う印象を持っています」
 良平が一つ頷いて万太郎の三方評に賛意を示すのでありました。
「新木奈さんはどちらかと云うと、三方さんのように皆さんに慕われていると云うよりは、敬されている、と云った感じでしょうか」
 万太郎が云うのでありましたが、これは、尊敬されている、或いは、重んじられている、と云わないところがミソで、言外に、敬して遠ざけられている、と云う色調を秘かに含ませている言葉の選択であります。少なくとも、敬せられているが心服されているわけではないと云った辺りをそこはかとなく匂わそうとしたのであります。
「二人共白帯の一般門下生の中ではリーダー格と云ったところでしょうか」
 良平が万太郎の後に続けるのでありましたが、実は万太郎にはその云い方にはあっさり賛同出来ないところがあるのでありました。三方にはそれに近いものがあるかも知れませんが、新木奈の在りようは、リーダー、と云うようなものではないと思うのであります。
「二人共、良く稽古にいらっしゃっているしね」
 あゆみが頷いて見せるのでありました。それは万太郎の言外に微妙な色を含ませた、温度の低い新木奈評に特に頷いていると云うわけではなさそうでありました。
「そうだな。意欲的だな、確かに二人共」
 是路総士が肯うのでありました。熱心は熱心でも、三方と新木奈の熱心さはちょいとばかり色あいが違うと万太郎は思うのでありました。
 三方は確かに、先ず常勝流武道が好きだから繁く通ってきているようでありますが、新木奈は然程に常勝流の稽古に熱意を持っているとは思えないのでありました。新木奈の熱意の拠りどころは、単にあゆみに逢いたいと云う一点でありましょう。
 それは稽古態度を見れば明瞭であります。新木奈は稽古中に稽古に無関係な事を一緒に組んだ相手と喋っていたり、不要な笑い声を憚る事もなく立てたりするのでありました。
(続)
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お前の番だ! 141 [お前の番だ! 5 創作]

 尤もそれは鳥枝範士の稽古と、あゆみが参加している一般門下生稽古の時には控えているようでありました。新木奈は自分の稽古態度が些か不謹慎であるとはちゃんと自覚しているようで、その不真面目さをあゆみには見せたくはないし、そんな態度を見せようものなら、烈火のごとく怒るであろう鳥枝範士の前では慎重にしていると云う事であります。
 しかし滅多に怒声を発しない是路総士と寄敷範士の稽古の時には、勿論その場にあゆみがいない場合に限られるのでありますが、特に謹慎であろうとする気持ちも端から持ちあわせていないようで、静粛な道場に新木奈の気合のぬけた溜息とか甲高い笑い声とか、それに無用なお喋りをする声が響く事が儘あるのでありました。何の事はない、新木奈はちゃんと怒らない人を選んでそんな真似を働いているのであります。
 そう云うあざといところが判る分余計に、万太郎は新木奈に何時も苛々とさせられるのでありました。万太郎は一般門下生稽古であろうと専門稽古であろうと内弟子稽古であろうと、武道の稽古は須らく静粛に真摯に、発するのは気合の発声と押忍の返事以外は全く不要であると思っているのでありましたから、新木奈の腑抜けたような声を稽古中に聞く度に、まるで自分の真剣さを汚されているようにも感じるのでありました。
 専門稽古とか内弟子稽古でなら、是路総士も寄敷範士もそう云う気合の抜けた態度を決して許さないでありましょう。しかしまあ、比較的緩い縛りの一般門下生稽古でありますから、稽古生が楽しく稽古しているのなら大目に見ようと云うところでありましょう。
 そんな是路総士と寄敷範士の寛容をこれ幸いと新木奈は好い気な態度に出るのであり、それは幾ら一般門下生だからと云って一門弟が是路総士に対して無礼極まりなかろうと、万太郎は止むに止まれず一度窘めようとしたことがあるのでありました。しかしその時は近くにいた是路総士の苦笑を以って万太郎の任侠心は無言に制せられたのでありました。
「二人共意欲的ではあるけど、新木奈さんの方は武道の稽古とゴルフやテニスの練習を一緒のように考えているような気配があるなあ」
 是路総士が云うのでありましたが、それは万太郎としては我が意を得た言葉と云うものでありましたから、思わず頷いているのでありました。「勿論ゴルフやテニスの練習も厳しくもあろうし、その道を究めようとすれば人一倍の胆力も必要だろうがね」
「しかし武道の稽古には武道の稽古に相応しい容儀があると云う事ですね」
 万太郎が訊く、と云うより追従するのでありました。
「そうだな。ゴルフにはゴルフの練習に相応しい、テニスにはテニスの練習に相応しい態度があるのだろうし、武道の稽古に於いても、それは武道的な心根で稽古に臨まないと結局肝心なところは学べないだろうよ。どれも同じ了見なら敢えて武道をやる甲斐もない」
「新木奈さんは運動神経が良いのですかねえ、色々とスポーツをされているから」
 良平が別に意趣があってではないようでありますが話頭を変えるのでありました。
「うーん、どうかな」
 あゆみが唸るのでありました。「動きを見ていても特にそうは思えないけど」
 確かに新木奈は技をかける時も受ける時も無用な力が体に籠っていて、動き自体はかなり固いのでありました。それは痛みへの恐怖がそうさせる面もあるでありましょう。
(続)
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お前の番だ! 142 [お前の番だ! 5 創作]

 相手の特定の部位に痛みを与えて体勢を崩したり、痛みから逃れようとする動きに乗じて相手を投げたりするのは体術の常套的な技術であります。こちらの優位を確保したり、相手を決定的に制圧したりするために痛みを利用するのは当然なのであります。
 武道の稽古に痛みはつきものなのであります。それを必要以上に恐怖していては稽古にならないし、痛みに対する耐性を身につけるのも稽古の内なのだとも云えます。
 しかし新木奈はそれがどうしても嫌いらしく、約束の組形稽古に於いても相手の力を受けつけまいと体を固く閉ざして形とは異質の動きをしてみたり、相手との形稽古上の協調的な動きを敢えて拒絶したりするのでありました。そのくせ自分が痛みを与える側として形稽古をする時には、特に自分より未だ稽古経験の浅い門下生に対しては、相手の苦悶の表情を面白がるように得意になって適正以上の力を加えたりするのでありました。
 抑々武術なんと云うものは、命の遣り取りに勝つための術として編み出され稽古されてきたものであります。身体の特定部位の痛み程度に一々恐怖していては、それこそ命が幾つあっても足りないと云うものでありましょう。
 また命の遣り取りを大前提にしているからこそ、稽古は厳粛に行われるべきなのであります。一撃で命を奪える程の技術の苛烈さや鋭利さを磨くと同時に、それ故その磨く過程に於いては、稽古相手への労わりをも決して忘れてはならないとされるのであります。
 殺傷の術としての武術が殺傷を自ら封じ心身の錬磨と、相手と須らく協調する事に依って寧ろ伴に生き伴に高い境地に到ろうとする業法として揚棄され、武術から武道となったその過程を追体験するのが大きな意味での稽古であるなら、痛みに対しても稽古に取り組む姿勢に於いても、新木奈の態度は不適正と云うべきでありましょう。その了見を変えようとする気が更々ないのであるなら、常勝流武道の修業から足を洗って、もっと他の、そう云う態度を容認してくれる武道やスポーツに、さっさと鞍替えすべきであると万太郎は思うのでありましたが、道場経営者としての是路総士の意見は些か違うかも知れませんが。
「新木奈さんは教えてもその場では頷くんだが、なかなか教えた通りに動かないな。自分に自信、或いは自己愛があり過ぎて、人の教えに素直に従えないのかなあ」
 是路総士がそう云って杯の酒を飲み干すのでありました。
「自信があり過ぎる、と云う表現に見あうような技量では到底なさそうに思いますが」
 万太郎が是路総士の杯に日本酒を注ぎながら云うのでありました。是路総士はその万太郎の横顔を少し驚いたような表情で眺めるのでありました。
「おや、折野にしては、しれっとしてなかなか辛辣な事を云うなあ」
「いや、どうも済みません。僕ごときが生意気な事を云って仕舞いました」
 万太郎は頭を掻くのでありました。「ただ、見ていて新木奈さんは面白可笑しく稽古をやろうとする思いが先走る分、真摯さの点で欠けるものがあるような気がします」
「まあ、武道の稽古の他にあの人は色々やっているようだから、ウチの稽古も楽しくやりたいと云うところなのだろうよ」
「余所での了見を遠慮もなくこちらに持ちこむのは、少し違うように思いますが」
「まあ、あの人は一般門下生で、専門稽古生や内弟子じゃないからなあ」
(続)
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お前の番だ! 143 [お前の番だ! 5 創作]

 是路総士は机上の自分の杯に手を遣りながら、余裕の笑いとも苦笑ともつかない笑みを頬に浮かべるのでありました。
「ま、確かに新木奈さんは稽古中に組んだ相手とよくお喋りをしたり、こちらの気合が抜けるような妙な声を、意識的にか無意識にか、上げたりする事があるなあ」
 良平が万太郎から一升瓶を受け取り、あゆみの杯に酒を注ぐのでありました。良平も新木奈がそんな稽古態度である事をちゃんと認識しているようではあります。
「へえ、そうなの? そう云うところ、あたしは見た事がないけど」
 あゆみが良平の手から一升瓶を取り、良平と万太郎に注いでくれるのでありました。
「その了見は確とは判らないが、まあ確かに、あの人の稽古態度は実に騒がしい」
 是路総士がまた頬に笑みを湛えるのでありました。
「そのせいで道場全体の緊張感が削がれる事を僕は危惧します」
 万太郎が拘るのでありました。
「活気があって楽し気ではあるぞ」
 良平が自分の杯を口元へ持ち上げるのでありました。
「ああ云うのを稽古の活気とは云わないと思いますよ」
 万太郎も杯を口元に運びながら良平を見るのでありました。「それに楽し気だと云うのも僕には異議があります。へらへら笑ってお喋りして冗談半分に面白可笑しくやるのを楽しい稽古だとはちっとも思いません。真剣に何もかも忘れて打ちこむ事が、寧ろ稽古の醍醐味じゃないですかね。それでどうしても出来なかった動きが少し出来るようになったり、判らなかった動きの意味が少し判ったりする事が、つまりこよなく楽しいわけですよ」
「ま、それはそうだが」
 良平は杯を一気に空けるのでありました。
「万ちゃん、意外に堅苦しいのね」
 あゆみが万太郎に笑いかけるのでありました。万太郎としてはあゆみに、堅苦しいと云われるのは些か心外でありましたが、まあ、確かにそう云われても仕方ない自分の云い様だとも頭の隅の方で考えるのではありました。
「まあ、その内新木奈さんも変わる事を期して、折野もあんまりカリカリしない事だ」
 是路総士が万太郎を見ながら云うのでありました。
「内弟子でも専門稽古生でもない、云ってみれば一般門下生と云う道場の大事なお客さんなんだから、へたに注意なんかして辞められては元も子もない」
 良平も万太郎を見るのでありました。是路総士にも良平にもそう諭されるような風に見つめられて仕舞うと、まるで万太郎一人が新木奈に非寛容な事を云い募っているような気配ではないかと、万太郎としてはこれも些か心外な気がしてくるのでありました。
「押忍。僕も道場の内側の人間ですから、お客さんとしてその不謹慎な稽古態度に目を瞑れと云われれば、素直にそれに従うのに吝かではありませんが」
 万太郎は小難し気な顔をして是路総士の空になった杯にまた酒を注ぐのでありました。
「そうそう、お客さんは大事にあしらわんといかんのだぜ。そうですよねえ、総士先生」
(続)
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お前の番だ! 144 [お前の番だ! 5 創作]

 この良平の言葉に対しては、是路総士は無表情の儘聞き流して一寸尺も頷かないのでありました。と云う事はつまり一般門下生をお客さん扱いにして、只管ご機嫌を損じないように気をつけなければならないと云う考えには、是路総士としては全面的に与しているわけでなないのであろうと推察して、万太郎は内心安堵するのでありました。
 幾ら一般門下生とは云いながら弟子には違いないのでありますから、不謹慎な稽古態度を無制限に許していては武道の稽古にはならない筈であります。武道稽古の楽しさと云うものは表面上の楽しそうな様子とは違うところに在ると云う事を教誨するのも、不心得な弟子に対する師匠の愛情の一つでもあると云うものでありましょうし。

 神保町の興堂派道場に向かう御茶ノ水駅からの道すがら、あゆみが横を歩く万太郎に話しかけるのでありました。
「それは道分先生の、万ちゃんに対する愛情の表れに違いないわ」
「道分先生の道場に稽古に伺う度に、何かと若先生と組んで稽古させるのが、ですか?」
 万太郎は、端と端を結んで輪を作った自分の稽古着の入った風呂敷包みを右肩に荷い、左手にはこれまた風呂敷に包んだ、是路総士から頼まれた進物の日本酒の一升瓶をぶら下げているのでありましたから、駿河台辺の下り坂が妙に歩きにくくて、時々横のあゆみから肩一つ分ほど遅れるのでありました。あゆみは自分の稽古着の入った風呂敷包みは自分で持ってくれているので、その分は少し助かるのでありましたが。
 この日の出稽古が是路総士の出張剣術稽であったなら、右手に是路総士の稽古着の風呂敷包みと、左肩に二本の木刀の入った木刀入れを持たなければならないので、両手両肩が塞がって仕舞うわけであります。それに駅で切符を購入したりするのも万太郎の仕事でありますから、興堂派道場に着く頃にはくたびれ果てているであろうと思うのでありました。
 興堂範士の申し出から始まった万太郎と良平別々の週に一度の興堂派道場への出稽古に、その日はあゆみが同道するのでありました。と云うのも、興堂派の新しい支部が千葉の市川に開設されるのが本決まりになったと総本部に報告があったので、その取り敢えずのお祝いの使者をあゆみが是路総士から承ったためでありました。
「将来の常勝流武道のために、興堂派の威治さんと総本部の万ちゃんの気心が通じあうように、との道分先生の配慮じゃないかしら。」
「そうでしょうかねえ」
 万太郎は些か懐疑的な目をしてあゆみの横顔を見るのでありました。「そう云う事ならば僕なんかより、あゆみさんと若先生と云う跡取り同士の気心が通じあうようにと取り計らうのが、どちらかと云うと本筋のように思いますけど」
「あら、あたしは跡取りになる気はならないわよ」
 あゆみが万太郎の顔を、目を見開いて真正面から見るのでありました。その表情が実に愛くるしくて、万太郎は何故か思わず照れて、視線をあゆみから逸らすのでありました。
「しかし常勝流は一子相伝ですし、そうなら跡取りはあゆみさんしかいないでしょう?」
「それは、建前上はね」
(続)
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お前の番だ! 145 [お前の番だ! 5 創作]

「建前上は、ですか?」
「古武道の世界はえらく保守的で、驚く程古臭い慣習があって、女が流派のトップになるにはあれこれと難しい問題があると思うのよ」
「いくら古武道とは云っても民主主義の男女同権の世の中に存在するのですから、そう云った風習は変化しても良いんじゃないでしょうかねえ」
「昔から連綿と続く伝統を尊重しなければ、それはもう古武道ではないでしょう?」
「しかし何であれ古い伝統を今に誇るものも、その歴史の中で、その時々に多少の変化はしてきているものだと思いますよ」
「許される変化と許されない変化があるんじゃないかしら」
「女性を跡取りにする事は、許される変化の内だと僕は思いますが」
「何か、万ちゃんと話しをしていると何時も会話が小難しくなるわね」
 あゆみはそう云って万太郎から目を外すのでありました。その仕草は、もう万太郎とこの話しはしないと云うきっぱりとした拒絶ではなさそうでありますが、しかしあゆみを多少うんざりさせて仕舞ったかしらと万太郎は内心狼狽えるのでありました。
「済みません。小難しくする心算は全然ないのですが」
 万太郎は頭を下げるのでありました。その折に右肩に荷っていた風呂敷き包みが肩先から肘の方に滑り落ちるのでありました。
「ま、要するにあたしは常勝流の跡取りになる気はないの」
「そうなると総士先生の代で道統が途絶える事になるのではありませんか? またまた、小難しい話しになって恐縮ですが」
 万太郎は風呂敷き包みを肩上に摺り上げるのでありました。
「その辺はお父さんや鳥枝先生や寄敷先生が、良しなに考えてくれるんじゃないの」
「ああそうですか。・・・」
「あたしね、大学を出たら銀行か何処かに就職してOLになろうと思っていたの」
 あゆみは前を見ながら云うのでありました。「でも、色々あってそれは止めたの」
「OLに、ですか?」
 万太郎はあゆみのOL姿を想像するのでありました。銀行の窓口か何かで、制服を着て髪の毛を後ろに束ねて、手を前に組んでお辞儀するあゆみの像は、それはそれでなかなか可憐であろうと思われるのでありました。
「別にOLになるのが夢とか云うのじゃなかったけど、武道を離れて普通の会社勤めの生活をするのも悪くないなって云う風にも思ってはいたの」
「小さい頃から内弟子の扱いでやっていた、或いはやらされていた常勝流武道の稽古に倦んだ、と云ったところですか?」
「ううん、そうじゃないの。あたしは道場での稽古が好きだもの。でも、何となく女が一生どっぷりと浸かり続ける世界じゃないなって、そんな風に思うようになったのよ」
「ふうん、そうですか。・・・」
「でもまあ、色々あって、今のこんな風な感じになっちゃったけどさ」
(続)
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お前の番だ! 146 [お前の番だ! 5 創作]

「後悔している、と云うわけではないのですね?」
「誰憚る事なく好きな稽古が出来るんだから、勿論後悔なんかしてないけど。でもまあ、あたしは跡取りにはならないわよ」
 あゆみはそう云った後きっぱりした目で万太郎を真正面から見るのでありました。
「ああ、そうですか。・・・」
 万太郎は何故かたじろいであゆみから目を逸らすのでありました。肩の風呂敷き包みがまたもや万太郎の肩先から肘に摺り落ちるのでありました。
「その件は兎も角として、道分先生は威治さんと万ちゃんに期待しているのよ。二人で力をあわせて、常勝流の将来を引っ張って行ってくれるようにってさ」
「そうですかねえ。しかしそれだけでは僕と若先生を稽古で組ませようとする道分先生の意図として、全的には納得出来ないような、出来るような・・・」
 万太郎は首を傾げるのでありました。その時にまたまた風呂敷き包みが落ちそうになるのでありましたが、急いで肩を怒らせたので今度は荷は肩先に止まるのでありました。
 神保町の交差点で白山通りを向う側に渡って暫く歩くと興堂派道場が見えてくるのでありました。考えてみれば是路総士と同じであゆみも興堂派道場へ向かう時には、水道橋駅からではなく御茶ノ水駅からの行程を当然のように選ぶのでありました。矢張り親子でありますから道筋の好き嫌いも似通っていると云う事でありましょうか。
 道場の玄関を入ると受付にはもう顔馴染みになった、堂下良郎、と云う名前の興堂派の一番若い内弟子が笑顔で万太郎達を迎えるのでありました。
「ああ、折野さん、ご苦労様です」
 堂下は受付室から廊下に出てくるのでありました。彼は興堂派の内弟子になってから未だ一年に満たない門弟で、当然白帯を締めているのでありました。
「堂下君、今日は是路先生の代参と云う事で総本部のあゆみ先生をお連れしたので、道分先生のところに行ってそのように取り次いで貰えるか。一応ここで待っているから」
「押忍、判りました。暫くお待ちください」
 堂下は万太郎とあゆみに夫々一礼してから奥に趨歩して去るのでありました。
「初めて見る顔ね」
 堂下が去った道場の奥を見ながらあゆみが万太郎に云うのでありました。
「興堂派の一番若い内弟子の堂下良郎です。なかなか元気者で愛想の良いヤツですよ。あゆみさんは未だ面識がなかったですかね?」
「うん、知らなかった。こちらに伺うのは一年ぶりくらいだから」
「堂下は内弟子になってから未だ一年は経ちませんかね。一般門下生上がりではなくて、いきなり内弟子として入門したようですから、あゆみさんは未知なのでしょう」
「いきなり内弟子として入門、と云うのは、万ちゃんや良君と同じね」
「そうですね。全く勝手が判らない儘で、当初は大いにまごついたと云う体験が同じものだから、僕や良さんには比較的懐いていますよ」
「可愛い弟分が出来たって感じね」
(続)
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お前の番だ! 147 [お前の番だ! 5 創作]

 あゆみが万太郎に笑いかけるのでありましたが、その笑いを納める暇もない内に奥から人の近づく気配がするのでありました。見ると花司馬筆頭教士が、取次いだ堂下を従えて二人の方に手を上げつつ近づいて来るのでありました。
「ああこれはあゆみ先生、お久しぶりです」
 花司馬筆頭教士は先ずあゆみに、それから万太郎にお辞儀するのでありました。
「父から道分先生への言伝とお届け物を頼まれましたので、突然で不躾かとは思いましたが、折野の出稽古に一緒について参りました」
 あゆみはそう云って丁寧な一礼を花司馬筆頭教士に返すのでありました。
「ささ、お上がりになって下さい。道分先生のところにご案内します」
 花司馬頭教士は通り道を空けるように廊下の壁際に背中を寄せるのでありました。
「おお、これはあゆみちゃん、今日はどうした風の吹き回しかな?」
 師範控えの間で興堂範士があゆみを迎えるのでありました。
「突然伺いました無礼をお許しください」
 あゆみは廊下に正坐して座敷の中の興堂範士に一礼するのでありました。
「そんなところで畏まっていないで、お入りなさい」
 興堂範士に促されてあゆみは座敷に上がるのでありましたが、万太郎は花司馬筆頭教士と一緒に廊下に控えているのでありました。
「この度千葉の市川にこちらの新しい支部道場を開設されたと云うので、父から祝詞と、この粗品を預かって参りました」
 あゆみはそう云って三つ指をついて座礼した後に、横の風呂敷き包みを手にして、興堂範士の前までそっと卓上を滑らせるのでありました。
「おや、これはまた丁寧に恐れ入ります」
 興堂範士は風呂敷き包みに手を伸ばす前にあゆみにお辞儀を返すのでありました。
「お招きがあったのに所用で道場開きに参列出来ないで申しわけない事でした、何かの折には是非にも新道場に伺いたいと父が申しておりました」
「お気遣いいただいて返って申しわけない事です」
 興堂範士がまた頭を下げるのでありましたが、起こした時の目は前に置かれた風呂敷包みを捉えているのでありました。
「こりゃ、日本酒の一升瓶とお見受けしたが」
「ええ。懇意の酒屋に取り寄せさせた、豊の秋、と云う島根の方のお酒だそうです」
「ほう、それは有難い」
 興堂範士はそこでようやく風呂敷きを解いて一升瓶を手にするのでありました。「この酒は美味いと前にワシが云ったのを、律義に覚えていてくださっていたようだ」
 興堂範士の少年のようなニコニコ顔にあゆみも釣られて笑い顔になるのでありました。
「いやね、支部道場と云っても直轄ではなくて、ウチに前に居た内弟子が開いた道場でね、体育館を借りて週に三日稽古しているんじゃよ。まあ、新設支部と云う事で無愛想もならんから一応あにさんに申し上げたのじゃが、返ってお気を遣わせて仕舞ったようじゃ」
(続)
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お前の番だ! 148 [お前の番だ! 5 創作]

 興堂派は総本部からは独立した団体なのではありますが、常勝流を名乗る以上はその総帥たる是路総士に、自派の動静を逐一報告しておくべきだと興堂範士は律義に弁えているようであります。こう云った慎に義理堅いところ等も、興堂範士が各界の様々な人士に大いに持て囃される要因であると云えるでありましょうか。
「でも、総本部と違って、こちらは派勢がお盛んですよねえ」
 あゆみが愛想を云うのでありました。
「なあに、支部開設の条件が総本部より好い加減だと云うだけじゃよ」
 興堂範士はそうすぐに返すのでありました。あゆみとしては興堂派の支部道場が次々に増える事のみを云ったのではなく、入門者が引きも切らない事やら、興堂範士その人の世間の耳目を引く派手な活躍なんかも含めて殷賑であると表したのでありましょうが。
 しかし故意かどうかは不明瞭ながら、興堂範士は支部道場が開設されるスピードの速さのみに限定して、あゆみの評言を受け取って見せるのでありましたし、それは総本部のように厳格な開設のための条件がないためだと自歉的に解説するのでありました。これは興堂範士の是路総士に対するある種の忌憚と解すべきものでありましょう。
「ところで今日は、あゆみちゃんはウチで稽古をしていかんのかね?」
 興堂範士が話頭を変えるのでありました。
「折角お邪魔したんですから、久しぶりに道分先生のご教導をいただきたいと思って、稽古着を持参してまいりました」
「おおそれは結構。あゆみちゃんが稽古に参加してくれると稽古が華やぐわい」
 興堂範士は廊下の万太郎に目線を移すのでありました。「じゃあ折野君、着替えが済んだらあゆみちゃんと一緒に先に道場に行っていてくれ」
「ああそうだ、・・・」
 万太郎が興堂範士の言葉に押忍の返事をする前に、あゆみが竟うっかりしていたと云う顔をしてそう云い出すのでありました。「このタイミングで云うのも何ですが、何時も当方の面能美と折野がお世話になっております。今後ともよろしくお願いいたします」
 あゆみはそう云ってお辞儀してから、茶目な笑みを浮かべて見せるのでありました。興堂範士はあゆみのその愛嬌たっぷりの表情につい微笑を誘われたようでありました。
「ああ、何の々々」
「その事もちゃんとご挨拶しなくちゃいけなかったのですけど、うっかりしていて」
「それもあにさんに云えと頼まれたのかい?」
「いえ、特にそのような事はないのですが」
「と云う事は今の言は、直の姉弟子が可愛い弟分の引き回しをよろしく頼むと自らワシに依頼する、弟分への気遣いの言葉と云うわけじゃな。なかなか弟思いの姉さんじゃな」
「会社なんかで上司が直接担当の部下を、自分の目の届かないところで色々不作法をするかもしれないけれど寛容にお願いしますとか、お得意さんに挨拶するでしょう、そんな感じの言葉ですかね。だから弟分に対してと云うよりは、こちら様に対しての気遣いです」
 あゆみが妙にクールにその心根の在りかを興堂範士に申し述べるのでありあました。
(続)
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お前の番だ! 149 [お前の番だ! 5 創作]

「そりゃまあ、恐れ入りますわい」
 興堂範士はあゆみの言に呵々と大笑するのでありました。「ま、何れにしても弟に対する軽からぬ思いの姉さんを持って、折野君も実に嬉しかろう」
 興堂範士が万太郎に向って云うのでありました。
「押忍、恐れ入ります」
 まあ、万太郎にしたら、こう返す以外に適当な返答の言が見つからないのは、仕方がないと云えば仕方がないと云うものでありましょうか。
「では、お先に道場に行っております」
 あゆみがもう一度興堂範士に丁寧にお辞儀するのでありました。それに同調するように万太郎も座敷に向かって座礼するのでありました。
「あゆみ先生、着替えのために内弟子部屋を空けましょうか?」
 廊下を歩きながら先導する花司馬筆頭教士が後ろをふり返って訊くのでありました。
「いえ、そんな気遣いは無用です。門下生方の女子更衣室の方で着替えますから。それに着替えが済んだら勝手に道場の方に参りますので、花司馬先生は先に道場にいらしていてください。折野も着替え終わったらあたしを待っていなくていいからね」
「押忍。ではそういたします」
 万太郎はすぐ前を歩くあゆみに、同歩調で歩きながら一礼するのでありました。
「では不作法ながら先に道場へ行っております」
 更衣室の方へ曲がる処で花司馬筆頭教士はあゆみに格式張った一礼をすると、道場へ向かう方に廊下を歩み去るのでありました。
「じゃ、後で」
 隣りあった男女の更衣室前で歩を止めて、あゆみは万太郎にそう云い置いてから女子更衣室のドアの向こうに姿を消すのでありました。万太郎は一応弟分の礼儀から、あゆみがドアを閉めるまで廊下で頭を下げているのでありました。

 土曜日の専門稽古のために道場に入った万太郎に、万太郎と良平の黒帯取得のお祝いと云う名目で、暫く前に一緒に居酒屋で酒を酌み交わした来間注連男が、すかさず近寄って来て律義らしく頭を下げるのでありました。その日は是路総士が良平を連れて出張指導に出ているので、寄敷範士が中心指導をする事になっているのでありました。
「折野さん、今日の稽古では相手をしていただいてもよろしいでしょうか?」
 来間はその月の初めから専門稽古に出席するようになったのでありました。一般門下生稽古よりはもう少し真摯な稽古を希求しての事のようでありました。
「判った。じゃあ一緒に稽古をしよう」
 万太郎の即答に来間は嬉しそうな笑顔を以って謝意に代えるのでありました。来間は一般門下生ではなく、内弟子や準内弟子ではないにしろ専門稽古生となったのでありましたから、万太郎はもう彼に対して丁寧な言葉遣いはしないのでありました。
「よろしくお願いします」
(続)
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お前の番だ! 150 [お前の番だ! 5 創作]

 来間はきびきびとした動作で万太郎にお辞儀をして傍から去るのでありました。専門稽古生になった途端、来間の挙措が素早く活き々々としたしたものになるのでありましたが、これは稽古に対する一層の彼の意気ごみを表していると云うものでありましょう。
 廊下を歩み寄る足音が聞こえると、万太郎は片膝をついて頃合いのタイミングで道場の出入口の引き戸を中から開けるのでありました。そこから先ず寄敷範士、その後に続いてあゆみが静々と道場に足を踏み入れるのでありました。
 仕来たり通りに神前への礼、それから一同との礼が済むと寄敷範士は立ち上がって万太郎に目配せをするのでありました。万太郎はその目配せを受けて道場中に響き渡る声で一同に号令をかけるのでありましたが、号令係は内弟子の仕事なのでありました。
「稽古隊形に!」
 皆を居竦ませる程の大音声の号令に、一同が「押忍」と矢張り大音声で呼応して畳を手で打ちながら立ち上がり、速やかな動作で道場一杯に見所の方に向いて広がり整列するのでありました。専門稽古では先ず全員で単独の基本動作を行うのが倣いでありました。
「右半身に構え!」
 万太郎の号令で全員一斉に右足を一歩前に出して撞木立ちして、体は開かず正面を向き、右手を正中線上に出して左手を腰に添える常勝流の右構えの姿勢をとるのでありました。これは剣術で云えば正眼の構えを体術に表わしたものであります。
 構えた儘の門下生の間を寄敷範士とあゆみが巡回して、重心の置き方やら右手の高さ、それに足幅の狭い広い等の個々の門下生の構えの不備を修正するのでありました。二人が一通り巡り終えた頃あいで万太郎がまた号令をかけるのでありました。
「構えなおれ!」
 全員が一斉に足裏で畳を摺る音をたてながら気をつけの姿勢に戻るのでありました。
「左半身に構え!」
 暫くの間を置いて、それから今度は左構えの号令でありますが、これは足や手を右半身とは左右対称に構えるものであります。摺り足の音が止むと、また寄敷範士とあゆみが門下生の間を回って全員の姿勢補正をするのでありました。
「構えなおれ! 再び、右半身に構え!」
 全員の姿勢補正が終了するとまた右半身に構え直すのであります。万太郎は全員の意気がその体の中で漲るタイミングを待って、次の号令をかけるのでありました。
「正面打ちこみ三十本、各個に始め!」
 全員が上段に右手をふり被り「エイ!」の発声と同時に右足から継足に一足大きく踏み出して、頭上にふり被った手刀で前に居ると仮想した相手の正面を打ちこむのでありました。これは各個に行うので、夫々が発する気合が道場中に乱れ満ちるのでありました。
 その蛮声の乱舞の内を寄敷範士とあゆみがまた巡回して、右足の踏み出し方や後ろ足の追い足のタイミング、動作時や動作後の腰の安定、それに手刀への力の乗せ方等を指導して回るのであります。構えも打ちこみも、基本動作は勿論万太郎も皆と一緒に行うのでありましたし、内弟子には他の門下生よりはもっと厳格な指導が入るのでありました。
(続)
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