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お前の番だ! 91 [お前の番だ! 4 創作]

 宴席では花司馬頭教士が万太郎に打ち解けた態度で接して、板場教士も花司馬筆頭教士程ではないにしろ、先に道場に向かう時に見せた万太郎に対するある種の警戒感は解いたような様子でありました。威治教士はと云えば、目をあわせる事も自ら話しかける事もせずに、すっかり万太郎を無視すると云った風でありましたか。
 大体に於いては常勝流総本部道場の本格的な内弟子になって二月程度の者に対しては、威治教士の接し方の方が普通なわけで、寧ろ花司馬筆頭教士と板場教士の態度の方が異例でありましょう。異例と云えば、興堂範士の万太郎に対する親和的な態度も言葉つきも、これはもう異例中の異例と云って差し支えないでありましょうが。
 興堂範士が率先してそう云う態度を示してくれる事で自ずと、花司馬筆頭教士と板場教士の万太郎に対する態度をも好意的な風に規定されて仕舞ったと云えなくはないのでありましょう。興堂範士がどのような了見で、万太郎に対してまるでふとした気紛れとしか思えないような親和的な態度をとってくれるのか、実際のところ良くは判らないのでありましたが、まあ、万太郎にとっては決して悪い事ではないと云うものではあります。
 それにしても単に万太郎の腕を、或いは将来の可能性を認めてくれたが故の好意と云うには、少し度が過ぎているよにも思われるのでありました。万太郎が逆に、心根の隅に少しの警戒を持ったとしてもそれはあながち不自然でもないでありましょうか。
「折野君、今後永く総本部内弟子として修業に励んであにさんをしっかり支えてくれよ」
 興堂範士はそんな勿体ない言葉を宴の最後に万太郎に投げるのでありました。
「また君と剣術の稽古が出来るのを楽しみにしているよ」
 これは花司馬筆頭教士の言葉でありました。
「今後ともよろしく交流をお願いする」
 これは板場教士の言葉であります。勿論威治教士は、何の言葉も万太郎にかけようとはしないのでありました。
「興堂さんはお前を、大いに買ってくれたようだな」
 是路総士は御茶ノ水駅から乗った新宿行きの電車の中で、前に立っている万太郎の顔を見上げながら話しかけるのでありました。
「押忍、じゃなかった、はい。有難い事だと思います。しかし、・・・」
 万太郎は道場ではなく今は街中に在る事を慮って返事を改めるのでありました。
「ん、しかし、何だ?」
「何やらこう云う風に云っては申しわけない気がするのですが、しかし興堂先生にお示しいただいたご好意は、今現在の僕にはあまりに勿体なさ過ぎるような気がして、そのご心底を明快に測りかねていると云うのが正直なところです」
 それを聞いて是路総士は目を逸らして少し考えるような素ぶりをするのでありました。
「まあ、お前が若かりし頃の興堂さんに似ているからかも知れんな」
「そうなのですか?」
「風体も、気性も、それに諸事に対する心の構えなんぞも、はっきり似ていると云うのではないが、しかし何となく私も似ているような気がするような、しないような。・・・」
(続)
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お前の番だ! 92 [お前の番だ! 4 創作]

「興堂先生は若い頃はどのような方だったのでしょう?」
「そうだな、短気でせっかちで、武道に対しては生真面目過ぎるくらい生真面目で、ひたむき過ぎるくらいひたむきで、何より常勝流の稽古が好きで堪らないと云った風だったな。己が強くなるためには何だってするし、どんな激しい修行にも耐えると云った気概があって、それにそう云った誰よりも意欲的であるところを表に出すタイプの人だったな」
 是路総士の視線は万太郎の顔に当てられてはいるものの、万太郎を通り越して遠い過去の思い出に向かっているようでありました。「そのくせ何をやらせても諸事にすばしっこくて、機転も利いて要領も実に良かったかな。それになかなかの粋人で、それに精力家でもあったから、しょっちゅう女の話しを聞かされたものだった。実際、良くもててもいた」
「それなら僕とはまるで違うタイプのようですが?」
「ま、一見したところ、確かに心機の外に表れる容としては全く違う」
 是路総士は、今度は万太郎の目をしっかり見るのでありました。「しかし外容が正反対に見えるだけで、実は根っ子のところで通うものがあるのかも知れん」
「そうでしょうか?」
 万太郎は懐疑的な目をして見せるのでありました。
「お前が粋人かどうかと云うのは置くとして、武道に対する態度とか思いの点では」
「粋人でないのは確かですが、後半に云われた点も僕は自分ではよくは判りません」
「まあ、もう少し常勝修行者としての経験が深くなれば、自ずと表れてくるだろうよ」
 是路総士はそう云ってニヤリと笑うのでありました。「内弟子に限らず道場の門下生になる者には大凡二タイプがあってな、最初は大いに意気ごんでいても案外あっけなく息切れしてくるタイプと、取りかかりは然程ではなくても、続けている内に次第に人変わりしてきて、急に意欲的になる者と。・・・さて、お前はどちらかな」
 これは万太郎に対して問いかけていると云うよりは、是路総士が自分に問いかけていると云った口ぶりなのでありました。つまり、万太郎は何となく品定めをされているような按配で、そう思うと秘かにそわそわとしてくるのでありました。
「どちらかと云うと後者でありたいと思います」
「まあしかしだな、急に変貌して張り切り出した者の中にも、その内またすぐに熱が冷めて仕舞うと云うタイプもいるにはいるかな」
 是路総士は無表情にそう云う事も云い添えるのでありました。万太郎は返すべき言葉が見当たらなかったので、その点に関しては黙っているのでありました。
 長く指導者をしているとそう云った門下生達の気分の変化や機微に対して、結構敏感になるのでありましょう。是路総士くらいになると入門してきた門下生を一目見ただけで、その者の行く末をほぼ過たずあっさり見通して仕舞えるのかも知れないのでありました。

 あゆみが洗った皿を万太郎に渡しながら訊くのでありました。
「外食が長いと飽きるでしょ?」
 皿を受け取る時に、万太郎の指がほんの少しあゆみの指に降れるのでありました。
(続)
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お前の番だ! 93 [お前の番だ! 4 創作]

「いやあ、僕は味とかに拘る方では全くありませんから」
「でも外食は概して味が濃いから飽きる、なんて良君は云っていたわよ」
「僕はその辺は苦にならないですね。大体僕は一年中同じ献立でも、平気でそれを一年間食い通すようなヤツですからね。味の濃い薄いなんと云う点も気にしないのです。ただ量さえ満足出来ればそれで良いと云った風の、到って無粋な人間でして」
「好き嫌いもないしね」
「はい。何でもガツガツ、です」
「まあその方が、作る方は助かるけどさ」
 そう云ってあゆみはまた皿を万太郎に渡すのでありましたが、今度は指は触れないのでありました。万太郎はそこはかとなく残念なような気がするのでありました。
 昼食の後に少しの休息を挟んで、午後一時から内弟子と準内弟子の専門稽古が始まるのでありました。これは昨日、万太郎が無理矢理体験させられた稽古でありました。
 その日の専門稽古では万太郎はまたあゆみに、先程の一般稽古の時と同じように初心者としての稽古をつけて貰うのだろうと思っていたのでありましたが、あゆみは疎か万太郎に構ってくれる門下生は一人もいないのでありました。つまり万太郎は稽古の間中、道場下座の隅にずっと正坐させられていたのでありました。
 ただ単に正坐して稽古の見取りをしているだけではなく、姿勢が崩れているとあゆみは元より近くに居る黒帯の先輩弟子連中が誰彼なく万太郎を叱責するのでありました。万太郎はその都度背筋を張るのでありましたが、中には別に腰も背筋も緩めていないと云うのに、近くに来た事の序でに叱咤して行く先輩なんかもいるのでありました。
 三十分はさしてどうと云う事なく正坐が出来ていたのでありましたが、四十五分を過ぎる頃から急に足の指先に痺れを感じ出すのでありました。後はあっという間に膝から下の感覚を喪失して仕舞って、脳の指令で足指を動かす事が出来なくなるのでありました。
 尻を左踵に移してみると多少は右足の血行が回復したような気になるのでありました。しかしその内に目立たない左右の腰ふりも無意味と化すのでありました。
 結局稽古の終わりの礼まで万太郎は正坐で過ごしたのでありました。礼をして是路総士が退場した後あゆみが万太郎に近づくのでありました。
「その儘前に倒れて、五分間じっとしていなさい」
 このアドバイスは痺れ切った足で立とうとして、足指や脛を損傷しないためのものでありました。かろうじて立ったとしても、すぐによろけて転倒するだけでありましょう。
「押忍。では」
 万太郎は上体だけで浅くお辞儀した後、両手で前受け身をする時のように体を支えながら前に俯すのでありした。その儘の横着な姿勢で血行が回復する時のもぞもぞとした嫌な脱力感に耐えていると、足指に感覚が次第に戻ってくるのでありました。
 五分程度が経過したので、未だ脱力感は残っているのでありましたが、ほぼ大丈夫そうな気がしてきたので万太郎はゆっくりと立ち上がるのでありました。あゆみに挨拶しようとしたのでしたが、もうあゆみの気配は万太郎の傍から消えているのでありました。
(続)
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お前の番だ! 94 [お前の番だ! 4 創作]

 午後三時からは一般門下生稽古が始まるのでありました。この稽古とその後五時からの専門稽古は、もう一人の総本部付範士である寄敷保佐彦範士が担当するのでありました。
 寄敷範士は一時からの専門稽古が終わった辺りで道場に表れるのでありました。万太郎は未だ正坐後の何となく萎えたような感覚の儘の足を引き摺って、あゆみと良平と三人で寄敷範士を玄関で迎えるのでありました。
「おう、お前さんが今度内弟子に入った折野か?」
 寄敷範士は万太郎を見るなり人懐っこそうな笑顔を向けるのでありました。
「押忍。折野です。向後よろしくお願いいたします」
 初対面であるから万太郎は格式張ったお辞儀をして見せるのでありました。
「こちらこそ」
 寄敷範士はそれに対して矢張り威儀を正した立礼を返してくれるのでありました。寄敷範士は是路総士よりは少し背が高くて、鳥枝範士よりは横幅はないのでありました。
 万太郎が寄敷範士を師範控えの間に案内するのでありました。部屋には是路総士が座卓の前に座って茶を飲んでいるのでありました。
「折野、ちょっと中に入れ。寄敷さんに紹介しておく」
 是路総士が、廊下で正坐して一礼した後障子戸を閉めようとした万太郎に声をかけるのでありました。昨日までは、折野君、でありましたが、内弟子となった初日のその日からは名前は呼び捨てとなるのでありました。
「押忍。失礼いたします」
 万太郎はまた一礼して立って敷居を跨ぐのでありました。
「部屋にはいる時は一々立ち上がらないで、膝行で構わん」
「押忍。以後気をつけます」
 万太郎は改めて障子を背にして正坐するのでありました。
「これは今日から内弟子となった折野万太郎と云う男です。学校を卒業するまでは通いの内弟子として努めてもらいます。入ってすぐですから行き届かない点もありましょうが、まあ、色々面倒を見てやってください」
 是路総士が万太郎をそう紹介するのでありました。
「折野万太郎です。よろしくお願いいたします」
 万太郎は先程の玄関先での挨拶と同じ言葉をもう一度繰り返すのでありました。
「寄敷です。こちらこそよろしく」
 寄敷範士も先程と同じような言葉で返して、両手を畳について常勝流の風習に則った綺麗なお辞儀をするのでありました。「ああ丁度良い。折野、私の着替えを介添えしろ」
 寄敷範士が上体を起こした後、ふと思い立ったようにそう命じるのでありました。万太郎は稽古着を全く着慣れていない上に、袴のつけ方もさっぱり知らないのでありましたから、介添えはすぐに良平と変わる段取りでありました。
 しかし内心及び腰ながらも、命とあらば万太郎がやるしかないのであります。それにこれは恐らく、早く万太郎に着付けを覚えさせようと云う寄敷範士の配慮でありましょう。
(続)
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お前の番だ! 95 [お前の番だ! 4 創作]

「僕でよろしいのでしょうか?」
 万太郎はたじろぎの表情を作るのでありました。
「剣道をやっていたのだから、袴のつけかたも知っているのだろう?」
「ええ、一応は。しかし全くの我流ですし、剣道とは少し着付け方が違うようですし」
「まあ良い。こっちであれこれ指示するからその通りにやってみろ」
 寄敷範士はあくまでも万太郎に介添えさせるつもりのようであります。
「良い機会だから承ってみろ、折野」
 これは是路総士の言葉でありました。是路総士は湯呑を片手に持ってニヤニヤ笑いしながら万太郎を見ているのでありました。
「ほれ、早くせんと稽古が始まって仕舞うぞ」
 寄敷範士が万太郎に手招きをするのでありました。
「押忍。では」
 万太郎は膝行で寄敷範士の傍まで進むのでありました。丁度その時、障子戸の外で良平の声がするのでありました。
「お茶を持ってまいりました」
 そろそろと障子戸を空けた良平が、寄敷範士の傍に両膝つきになって控えている万太郎を見て怪訝な顔をするのでありました。
「着付けは自分が介添えします」
 良平は茶を載せた盆を部屋の中に静かに押し遣り、その後自分も膝行で部屋に入ってから云うのでありました。「着付けの折は自分と交代する事になっていましたので」
「まあ良い。折野にやって貰う。お前は道場に先に行っていろ」
 寄敷範士は良平に、まあ、一見すると同じ仕草に見えるのでありますが、さっき万太郎を手招いたのとは逆の感じで手首を動かしながらそう命じるのでありました。良平は恐らく、介添えの交代のために待っていた納戸兼内弟子控え室に万太郎がちっとも来ないものだから、茶を運びがてら様子を覗きに来たのでありましょう。
「押忍。では自分は道場に行っております」
 良平は茶を座卓の隅に置くと先ず万太郎の方に心配そうな視線を投げて、それから是路総士と寄敷範士に夫々座礼してからあっさりと座敷を下がるのでありました
 稽古着の着付けの介添えは、傍らに控えて催促される物を寄敷範士が持ってきた風呂敷き包みから取り出して渡すだけでありましたから、手際の良し悪しは殆ど関係ないのでありました。しかし袴は、仁王立ちして両手を横に広げた儘の寄敷師範の胴に、細かい手順の指示を受けながら万太郎が四苦八苦して紐を巻きつけなければならないのでありました。
「稽古中に寄敷さんの袴が落ちたら、折野のせいだぞ」
 是路総士が湯呑を持った儘座卓の方から冗談を投げるのでありました。
「剣道で慣れているからか、それ程体裁悪くはならなかったな」
 つけ終わった袴の股断ちに手を入れて、稽古着のあわせ目を綺麗に直しながら寄敷範士はそう云って笑うのでありました。つまり多少体裁が悪いと云う事でありましょうか。
(続)
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お前の番だ! 96 [お前の番だ! 4 創作]

「それじゃあ私は先に道場へ行っております」
 寄敷範士が正坐して是路総士にお辞儀するのでありました。
「判りました。では後程」
 是路総士もお辞儀するのでありました。
「折野、お前も一緒に来い」
「押忍。同行させていただきます」
 万太郎はそう寄敷範士に頭を下げながら云って、是路総士の方に向かって格式張った座礼をするのでありました。「押忍、先に行っております」
 是路総士は頷くのでありました。是路総士の後ろの床の間に置いてある時計を見ると、稽古開始の午後三時には未だ十分程あるのでありました。
 寄敷範士を先導して道場まで来ると、絶妙のタイミングで良平が引き戸を開けるのでありました。先ず寄敷範士が入ってその後に万太郎が続くと、良平が引き戸を閉めておけと顔を横に一回小さくふって無言で合図するのでありました。
 既に道場に参集していた二十人程の門下生が寄敷範士の登場を見て、夫々に「押忍」の挨拶を送るのでありました。寄敷範士はそれに一々応えながら、見所の前に正坐して横手の壁にかけてある時計に目を遣るのでありました。
 稽古開始五分前になると寄敷範士は下座奥に退くのでありました。それを合図に門下生達は下座に整列して、是路総士の入場を待つのでありました。
 あゆみの先導で是路総士が道場に姿を現して、三時からの一般門下生稽古が始まるのでありました。是路総士はまたもや入場の際に敷居に少し躓いて見せるのでありました。

 神保町の興堂派道場への出稽古から調布の総本部道場に帰り着くと、午後十一時近くになっているのでありました。万太郎が玄関の引き戸を開けて是路総士の帰着を告げると、出迎えのために良平が納戸兼内弟子控え室からすぐに出てくるのでありました。
 気配を察して少し遅れてあゆみも母屋の方から趨歩して来るのでありました。良平は未だ稽古着の儘でありましたが、あゆみは平服に着替えているのでありました。
「お疲れ様でした」
 二人は板張りに正坐して是路総士に畏まってお辞儀するのでありました。
「はい、ただ今帰りました」
 是路総士は一礼を返した後で靴を脱ぐのでありました。是路総士が脱ぎ捨てた靴を万太郎がすかさず沓入れに仕舞うのでありました。
「風呂が沸いております」
 良平が気をつけをした儘やや上体折って云うのでありました。
「おおそうか。では早速入るとするか」
 是路総士は良平に先導されて直接母屋の風呂場に向かうのでありましたが、あゆみもつき従うのは是路総士の着替えを出すためであります。万太郎は出稽古に持って行った木刀を納めるために一人道場に向かうのでありました。
(続)
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お前の番だ! 97 [お前の番だ! 4 創作]

 木刀を一拭きして、是路総士のものは見所の専用木刀かけに、自分が使ったものは道場横手の壁の木刀かけに戻してから道場の電気を消すのでありました。その後着替えのために内弟子部屋に引き取ってから、改めて母屋の台所兼食堂に行くと、あゆみが風呂から上がった後の是路総士に出す酒の用意をしているのでありました。
「ああ、僕が代わります」
 万太郎はあゆみの傍に行ってそう申し出るのでありました。
「じゃあ、お酒の燗の方を頼むわ」
「押忍。承りました」
 万太郎はテーブルの上に出ている一升瓶を取ると傍らの一合徳利に日本酒を移すのでありました。是路総士は夜の出稽古から帰ると決まって、まるでそれで一日の課業に終止符を打つ如くに一合の酒を体に入れるのが決まり事なのでありました。
「どうだった、威治教士に虐められなかった?」
 あゆみが俎板の上に白菜の浅漬けをのせて、それを食い易いように適当な長さに切り揃えながら訊ねるのでありました。是路総士は何時ものようにもう興堂派道場で食事を済ませていたから、ちょっとした愛想の酒の当てがあればそれで良いのでありました。
「いや特には」
 万太郎は一升瓶の口に蓋を掌で押しこみながら返すのでありました。
「良君がこの前の出稽古の時に虐められたって云う話しをしていたけど?」
「お辞儀の仕方が武道家らしくないとか、云いがかりをつけられた件ですか?」
「そうそう」
 あゆみは切った白菜漬けを菜箸で平皿に盛るのでありました。
「僕は別に何もありませんでしたね。まあ前の時もそうでしたけど」
「ああそう。万ちゃんは時々妙に目の据わったような顔をするから、それでかな」
 あゆみは仙川駅に向かう時に是路総士が云ったと同じような事を云うのでありました。
「いやあ、そう見えるのは人徳の不足と伴に、僕の目が悪いせいでもあります」
 万太郎も矢張りその時と同じような言葉を返すのでありました。
「威治教士はあたしもあんまり好きになれないタイプだわ。何だか心の底の方で何時も悪巧みを考えているような感じがして」
「悪巧み、ですか?」
「まあ、本当のところは判らないけど、そんな風に相手に感じさせるって事」
「自尊心、と云うか虚栄心が強くて、何時も顔が構えているからですかね?」
「顔が構えているのなら、もう少し表情に緊張感があると思うけど、そう云うのじゃなくてあの人の顔は、どこか何時もニヤけているでしょう?」
「いやそこが、無構え、と云う構えと同じで、一見ニヤけて見えるのは構えていないように装うためで、・・・いや、と云うか、装うためと云うよりは、装っているのだと云うその事自体は巧妙に仄見せる事で、つまり自尊心と云うのか虚栄心と云うのか、そう云うものを入り組んだ二重のバリケードに依って守っているのと云うではないかと云う、・・・」
(続)
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お前の番だ! 98 [お前の番だ! 4 創作]

 万太郎はその辺の機微を上手く説明出来そうにないと、喋っている途中で既に思って仕舞うのでありました。依ってあゆみは万太郎のこの威治教士の心理分析に対して、捗々しい反応を全く示さないのでありましたが、これはあゆみが鈍感と云うのではなくて、偏に万太郎の言葉のものし方が拙劣であるが故でありましょう。
「ああ、良い風呂だった」
 顔を上気させた是路総士が居間に入ってくるのでありました。廊下で障子を開けた良平が是路総士の着座を見届けてから廊下に正坐した儘一礼するのでありました。
「障子は開けといてくれ」
「押忍。判りました」
 良平は是路総士の指示に一礼して立ち、台所兼食堂の方に入ってくるのでありました。
「ではこれで下がらせていただきます」
 万太郎が起立のままで今の是路総士に一礼するのでありました。
「はい、ご苦労さん。面能美ももう下がって構わんぞ」
「押忍。ではそうさせていただきます」
 良平も立礼するのでありました。万太郎と良平はあゆみにも律義なお辞儀をしてから内弟子部屋に引き上げるのでありました。
「どうだった、神保町の道場では息子先生に虐められなかったか?」
 部屋に帰ってから稽古着を着た儘で良平は部屋の真ん中に腰を下ろすのでありました。
「いや、特には」
 万太郎の方は、隅に置いてある小ぶりのテーブルの横に行って座るのでありました。
「ああそうかい。それは良かったな」
「今日は、稽古以外で威治教士とは殆ど接触する機会がありませんでしたからね」
「総士先生と興堂先生が食事している間に、ちょっかいを仕かけられなかったのか?」
 稽古着の胸をはだけながら良平が訊くのでありました。
「ええ。どうした風の吹き回しか興堂先生が僕や向こうの内弟子の人達を、勿論威治教士も一緒ですが、控えの間の方に入れてくれて、皆で食卓を囲んだんですよ」
「へえ。そんな事、俺は今まで経験した事がないな」
「だから結局僕は殆ど、総士先生と興堂先生から離れる時間がなかったのです」
 良平は暫く口を尖らせて黙っていたのでありましたが、すぐに尖らせていた口を元に戻すと改めて万太郎の顔を見るのでありました。口を尖らす前とは表情の色あいが微妙に変わっているところを見ると、これは良平の関心の向きが今日の威治教士の万太郎に対する仕打ちから離れて、何か別の対象へとあっさり移ったためのようでありました。
「出て来た食事はにぎり寿司か?」
「ええ。興堂先生が、相も変わらず寿司政のにぎりだとかおっしゃっておられました」
「と云う事はつまり、ひょっとしたらお前も寿司政の上にぎりを食ったのか?」
 良平は上目で万太郎を見るのでありました。
「五人前で寿司桶二つでしたから、皆一緒のものを食ったのでしょうね」
(続)
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お前の番だ! 99 [お前の番だ! 4 創作]

「そうすると、お前等も間違いなく上にぎりだな」
 良平は腕組みをするのでありました。「上にぎりと並にぎりを一緒に混ぜて一つの寿司桶に盛る筈は通常ないからなあ」
「そりゃそうですね」
「俺の場合は何時も別室に用意してあって、それを向うの花司馬さんやら板場さんと、偶に息子先生も混じって一緒に食う場合が殆どだが、それは同じ寿司政でも並にぎりだな」
「ああそうですか」
 万太郎が寿司政の上にぎりを食った事に、良平は並々ならぬ興味を抱いたようでありました。それは興味と云う心の指向が、羨望と云う薄絹を纏っているようでもありますが。
「どうして興堂先生はそんな酔狂を起こしたんだろう?」
「どうしてかは僕には判りません」
「全くの興堂先生の、ふと思いついた酔狂と云うのなら、今後俺にもそう云う美味しい目が回ってくる可能性も考えられるな」
 良平は腕組みを解かずに、やや首を傾げて、目線を内向させてその可能性についてあれこれ考えているような様子でありました。
「ところで、明日の朝も早いから、もうぼちぼち布団を敷きませんか?」
 万太郎が良平の顔を覗きこむのでありました。
「ああそうだな」
 良平はそう云って腕組みを解くのでありました。「ま、お前が神保町の息子先生から虐められずに帰って来て、先ずは良かったと云う事だ」
 良平はそう云いながら立ち上がると押入れの襖を開けるのでありました。
「明日の母屋の庭掃除は僕の番でしたっけ?」
 布団に入ってから並べた隣の布団に潜りこんだ万太郎が訊くのでありました。
「そう。お前の番だ。俺が道場と玄関の掃除だ」
「ところで鳥枝建設の稽古の方はどうだったんですか?」
 万太郎は間欠的に襲ってくる眠気の隙間を縫って訊ねるのでありました。
「ま、何時もと変わらずだな。鳥枝先生と向こうの古手の黒帯連中に俺がぎゅうぎゅうやられて、それから近くの居酒屋で酒盛りして、鳥枝先生の家のある成城まで先生の送迎車に同乗させて貰って帰って来て、その後はここまで歩いて帰ってきたと云う具合だ」
「何時頃道場に帰り着いたのですか?」
「お前が帰る三十分くらい前かな」
「そいでジャージじゃなくて稽古着に態々着替えて、総士先生を待っていたのですか?」
「そう。ジャージは昨日洗濯したんだが、未だ全然乾いてなくてな。面倒臭いから明日着る予定の稽古着を間にあわせに着てたんだよ。本来道場内では内弟子は稽古着て寝るまで通すものだと前に鳥枝先生が云っていたから、これさえ着ていれば如何なる時でも問題なしだ。この季節、未だポロシャツやTシャツだけじゃ夜はちと寒いからな」
 布団に入る時には、良平はパンツ一丁でありました。万太郎もそうでありますが。
(続)
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お前の番だ! 100 [お前の番だ! 4 創作]

「稽古には香乃子ちゃんは来ていたのですか?」
「ああ、香乃子ちゃんね。勿論来ていたぞ」
 この、香乃子ちゃん、と云うのは、名前を川井香乃子と云って、渋谷にある短大をその年に卒業して鳥枝建設に就職してきた新入社員でありますが、入社してすぐに上司に誘われて鳥越建設の常勝流武道愛好会に入会したのでありました。万太郎は嘱託社員と云う立場ではありますが、まあ、云ってみれば彼女とは同期入社と云う事になりますか。
 小柄でなかなか可愛らしい女性で、笑うと大きな笑窪がそのふっくらとした頬に浮くのが目立つ特徴でありましょうか。どうやら良平はこの香乃子ちゃんを初めて見た時から、寿司政の上にぎり以上の興味を抱いたようだと万太郎は睨んでいるのでありました。
「香乃子ちゃんは初心者ですから、先輩があれこれと手取り足取り教えないのですか?」
「まあ、受け身の取り方とか多少教えない事もないな。俺等は技に関しては未熟で到底指導出来る域ではないけど、鳥枝先生やらあゆみさんやらに何時も容赦なくボロボロにやられている側だから、事、受け身に関してはそれなりの自信はあるからな」
「香乃子ちゃんに熱心に教えている先輩のニヤついた顔が目に浮かびます」
「別にニヤついたりはしない。しかし香乃子ちゃんの笑い顔は実にキュートではある」
 電気を消しているので確とは判らないのでありますが、そう云う布団の中の良平の顔は屹度ニヤついているだろうと万太郎は想像するのでありました。
「ああそうですか、実にキュートですか。・・・」
「うん、キュートだ。お前もそう思わんか?」
 万太郎の返事はないのでありました。そこまでで彼は竟に寝落ちたのでありました。

 寄敷保佐彦範士は鳥枝桐蔵範士より一歳年下で、大学生の時に常勝流の内弟子となった人なのでありました。若い頃からこの二人は仲が良くて、稽古以外でもしょっちゅう一緒に連んで遊んでいたと云う事でありました。
 この二人の兄弟子と云う立場で興堂範士がいて、時には三人で朝まで道場で飲み明かしたと云う話しを、万太郎は前に鳥枝範士から聞いた事があるのでありました。その輪の中に時折是路総士が混じる事もあったようであります。
 酒豪と云う点では意外にも鳥枝範士ではなく寄敷範士が断然トップのようで、恐らく今でもそうでありましょうが、無表情に身じろぎも忘れて黙々と杯を重ねると云ったタイプだと云う事であります。鳥枝範士は勢いで飲むタイプで、取りかかりからガンガン呷って、一定量を体に納めると後は大鼾で大の字になって寝て仕舞い、雨が降ろうが風が吹こうが雷鳴が轟こうが、一切お構いなしに頑固一徹に目を開かないのだそうであります。
 興堂範士は何時も賑やかな酒で、印象としては大笑いしながら、誰彼構わず間断なく喋りかけ、その肩を何度も叩いていると云った風だったそうであります。それに飲むと悪戯小僧に変貌し、寝ている鳥枝範士の顔に墨で落書きをしたり、鼻の上で胡椒を撒いて鳥枝範士が嚏をしようとしたら鼻を摘むのだそうでありますが、あれで俺は何遍興堂範士に殺されかけたかと、鳥枝範士は結構真顔で万太郎に語って聞かせるのでありました。
(続)
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お前の番だ! 101 [お前の番だ! 4 創作]

 で、寄敷範士でありますが、大学を出た後も二年間は内弟子として総本部道場に常駐して、教士となったのを折に、他の諸般の事情も重なって、その後は税務署に職を見つけて常勝流教士との二股でやってきた人なのでありました。二股と云う点では鳥枝範士もそうでありますが、この時代に内弟子となった人達は、戦争やら戦後の混乱やらで、武道一筋の道を歩むには様々な困難があったと云うことでありましょうか。
 税務署を定年前に退いた後は新宿に事務所を開いて、今も税理士として活躍しているのだそうでありますが、鳥枝範士と同じく若い頃に儘ならなかった稽古を取り返すべく、六対四の比重で常勝流総本部道場範士としての務めに重きを置いていると云う具合のようであります。また、税理士としては鳥枝建設の仕事も引き受けているのだそうであります。
 万太郎は寄敷範士の怒った顔を殆ど見た事がないのでありました。万太郎のような内弟子や他の門下生に対する口のきき方にもどこか遠慮が潜んでいて、鳥枝範士のような、時に無茶な命令なんぞも先ず、出した事はないのでありました。
 内弟子に対して体術の技をかける時も、その接触する掌の中に、ある種の労わりが籠っているのを感じる事が出来るのであります。これが鳥枝範士となると、どうだ参ったか、と云ったような容赦のない技を特に内弟子に対しては繰り出してくるのでありますが、どちらが武道の稽古として資するものがあるのかは何とも云えないのでありますけれど。
 さて、三時からの一般門下生稽古では、万太郎は前の専門稽古の時のように、正坐しての見取り稽古、と云うだけにはいかないのでありました。またあゆみが一対一で稽古をつけてくれるのでありましたが、万太郎は道場の隅の方で右構えに構えた儘五分間、体をピクリとも動かさない静止状態で居続ける事を要求されるのでありました。
 その後に左構えでも同じ事を要求され、次は脚を前後に大きく開いて、前脚の膝を屈してそちらに八分の重心をかけて体勢を低くした状態で、これもまた左右の脚を換えて各五分ずつ、それから横に脚を開いて股関節と膝関節がほぼ九十度に曲がる位置に重心を落として五分間、今で云うアイソメトリックでの鍛錬をやらされるのでありました。それにその体勢で左右に上体を動かして重心を夫々の脚に間断なく柔らかく移動させる動作、これはアイソトニックトレーニングのような鍛錬を十分間続ける事を課されるのでありました。
 間に少しの休息を挟むのでありますが、しかし万太郎の脚は先ずプルプルと震え始め、次に、特に大腿前面の筋肉が悲鳴を発し、その後感覚がなくなり、結局後ろ足の膝から畳に頽れたり、尻餅をついたりと云った無様を演じて仕舞うのでありました。
 あゆみも一緒に同じ静止動作や左右の重心移動運動を行うのでありましたが、あゆみは静止する場合にはそれこそ微動だにせず、また動く場合には如何にも滑らかに動作し続けて見せるのでありました。見かけによらず、そん処そこいらにないタフな筋肉を持っているのだと万太郎は驚嘆するのでありましたが、しかし仔細に観察してみると、どうやらあゆみは筋の力みだけでそう云った運動を行っているのではないようなのでありました。
「常勝流では先ず全身の力を出し尽くした後から、技の稽古が始まるんだから」
 あゆみはこの鍛錬の意味をそう解説するのでありました。しかしそう云う理念はあるにしろ、要は極めて効率的な力の入れ方やぬき方のコツが屹度あるに違いありません。
(続)
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お前の番だ! 102 [お前の番だ! 4 創作]

 この一般門下生稽古後に五時からもう一度専門稽古があって、万太郎はまた正坐で見取り稽古をするのでありました。今度は少し慣れたせいか稽古終了時に然程の苦痛を感じる事はないのでありましたし、足の痺れも思ったより早く回復するのでありました。
 これで日曜日の稽古は終了するのでありました。万太郎は行きがかりから寄敷範士の着替えを介添えして、その後あゆみと良平共々玄関に寄敷範士を見送るのでありました。
 寄敷範士が帰って道場の後片づけも終えて、稽古着も着替えて、七時からの夕食を食堂のテーブルで囲んだ時に万太郎の向いに座ったあゆみが訊くのでありました。
「疲れた?」
「ええ、未だ足に力が入りません」
 万太郎はそう云う割に然程憔悴した顔はしていないのでありました。
「俺も初日はそうだったな」
 これは横に座っている良平が、野菜炒めを口に頬張りながら云う言葉であります。「食欲もすっかりなくなって仕舞ったくらいだった」
「万ちゃんは、食欲は失くしてないみたいね?」
 あゆみが茶碗から飯を大量に口に運ぶ万太郎を見ながら云うのでありました。
「押忍。体中の力はもう殆ど残っていませんが、胃の力は何時もと変わらずですね」
「そう云えば良君は確かに初日の時に、精も魂も尽き果てたって顔して、茫然と目の前の料理を手出しもせずにげんなり顔で見ていただけだったわね」
「あゆみさんの料理はとても美味いのですが、どうしてもそれが食えませんでしたよ」
「あら、それ半分おべんちゃら?」
「ええ。チャンスがあれば空かさずよいしょをするのが自分の身上ですから」
「武道の内弟子と云うより、何か落語家の内弟子にみたいな感じ」
 あゆみが口元に箸を持った右手を添えて笑うのでありました。
「何ならウチを止して落語家の内弟子になるか? 道分さんの道場に何某とか云う落語家が稽古に来ているようだから、何なら紹介してやろうか?」
 居間の座卓で一人離れて食事をしている是路総士が会話に参加するのでありました。
「いや、現段階ではもう少しこちらに居させていただきたいと思っております。あゆみさんの手料理が食えなくなるのは残念ですから」
「何だ、あゆみの料理狙いでここに居るとあっさり白状しおったな」
「まあ、それが総てではありませんが」
 良平がけろりとそう応えると是路総士は箸の動きを止めて大笑するのでありました。
「道分さん、とおっしゃるのは?」
 万太郎が訊くのでありました。
「お父さんの弟弟子に当たる人で、神保町に道場を構えている道分興堂先生と云う方」
 あゆみが万太郎の質問を引き取って是路総士の代わりに応えるのでありました。
「ああそうですか」
「同じ常勝流でも、あちらは総本部からは独立した別派と云う位置づけになるの」
(続)
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お前の番だ! 103 [お前の番だ! 4 創作]

「先の総士先生の口ぶりからすると、別派とは云え、交流はあるのですね?」
「そう。お父さんは月に一度剣術の出張指導に行っているし、興堂先生も二月に一度くらいこちらに体術指導に来るわ」
「道分さんは常勝流の体術の使い手としては随一だな」
 是路総士がそう云うのでありましたが、随一、と云う事はつまり、是路総士よりも剣術は兎も角として、体術では興堂範士の方が腕前に於いて上だと云う事なのでありましょうか。それとも、自分を除いて、と云う言葉が省略されているのでありましょうか。
 体術を主とする常勝流の同門ならば、総帥たる是路総士が体術のトップであって貰いたいと云う万太郎の思いは、自分が是路総士の内弟子となったがためだけではないのでありました。その方が常勝流の組織的な容としても、すっきりしているではありませんか。
 総帥が技術に於いてその下の誰かに憚りを持っていると云うのは、組織に属する者として何やら気分の上で落ち着かなさを感じて仕舞うのであります。まあ、是路総士は別に興堂範士を憚っている、と云うものでもないかも知れないのではありますが。
「明日は稽古がない日だから道場に顔を出さなくても良いぞ。一日ゆっくり休息して、火曜日にはまた元気にやって来い」
 暇乞いに居間の是路総士の方に向かってお辞儀をする万太郎に、是路総士はそう云って笑って見せるのでありました。その笑いには、初めての稽古で大いに疲れたであろう万太郎への労わりと同時に、万太郎が初日で音をあげて仕舞って、火曜日以降道場に現れなくなるのではないかと云う危惧もこめてあるように感じられるのでありました。
「押忍。また火曜日の朝に参ります」
 万太郎は努めて快活に云うのでありましたが、云い様が必要以上に快活過ぎてもまた是路総士の憂慮を深める事になるだろうから、その辺の声色の匙加減が難しいところであります。実際万太郎は全く音をあげて等いないのでありましたから。
「今日の稽古で懲りたりしないで、火曜日には屹度来いよ」
 憂慮は良平も抱いていたようで、納戸兼内弟子部屋まで一緒についてきた良平は、万太郎の稽古着の入ったバッグを取り上げる動作を見ながら声をかけるのでありました。
「押忍。また火曜日から色々教えてください」
「実際、もう懲り々々なんて思っていないか?」
「いや、別に」
「本当にそうか?」
 良平は万太郎の顔を結構真剣そうな目で窺うのでありました。
「生一本に、本当ですよ。稽古のきつさは想像していた範囲の内でしたから」
「ああそうか。それなら末頼もしいが」
「前に、二日目以降姿を見せなくなった内弟子がいたのですか?」
「うん。あゆみさんや鳥枝先生に聞いた事がある。一人や二人ではないそうだ」
「まあ、僕は大丈夫ですよ」
 万太郎は無表情に近い真顔で、努めて呑気そうな口調で云うのでありました。
(続)
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お前の番だ! 104 [お前の番だ! 4 創作]

「ああそうかい」
 良平は万太郎が火曜日に屹度来るようにともっと念押ししたそうでありましたが、あまりしつこく云って万太郎にげんなりされると困ると思ったようで、最後に納得顔に一つ頷いて見せるのでありました。ただ、頷いた後に縋るような目をして万太郎を見遣るのでありましたが、その目が万太郎には何とも可愛らしく映るのでありました。
 玄関にはあゆみも見送りに出てくるのでありました。
「じゃ、火曜日にまたね」
 あゆみは稽古の時とは全く違う情味のある声色で云うのでありました。
「押忍。暫くは足手纏いにしかなりませんが、よろしくお願いします」
「そんな事ないわ。初めてなのに今日の働きぶりなんか見ていたら、要領は良いしてきぱき動いていたし、もう長年内弟子として務めているような感じだったわよ。ねえ、良君」
「その通りです。内弟子になるために生まれて来たような男だと思ったくらいで」
 良平が調子の良い事を口走るのでありましたが、さすがにチャンスと見れば必ずよいしょするのが身上と云うだけあって、この兄弟子は弟分に対してもよいしょの精神を見事に発揮するようであります。ま、それは別に嫌味ではなく、愛嬌と映るのでありますが。
 これから先、この常勝流総本部道場に身を寄せる事になったのは自分にとって好事であろうと、万太郎は仙川駅に向かって夜道を歩きながら思うのでありました。是路総士の人としての奥深さには大いに心魅かれ、内弟子として師事するに屹度足る人でありましょう。
 鳥枝範士も少々口煩いし人扱いが荒けなくはあるにしろ、しかしそれにしたところで決して矩を外す事はないと云う信頼感があるのであります。貫録十分な、いざと云う時に大いに頼りになる上司、と云った風でありましょうか。
 あゆみは一旦稽古着を着て道場に在る時はどこまでも厳しく下僚に接する先輩でありますが、しかしそれはあくまでもけじめからそう自分に強いているのであって、本来は全く以って優しい人柄なのでありましょう。根が真面目なものだから、道場での態度とそれ以外の場所での態度に峻別を設けているのであろうところが傍で見ていても判るのは、これは慎に失礼な云い草かも知れませんが、寧ろ微笑ましいと云うものであります。
 良平は兄弟子ではあるものの同い歳であり、必要以上に兄弟子たるを気取るところもなさそうで、まあ、つきあい易い同僚と云えるでありましょう。総じて常勝流総本部道場に於いてこれから先睦むべき面々は、嫌な癖のないさっぱりとした人達のようであります。
 稽古の雰囲気も一般門下生稽古と内弟子や準内弟子の専門稽古では色あいに多少の差はあるものの、総じて参加している者は皆、容儀も行儀も良く無駄口を利かず武道的礼容を弁え、清明であり真摯であり意欲的であります。稽古人数も道場の広さに対して適正であり、厳かな雰囲気を乱すような大人数ではないのが好ましいと云えるでありましょう。
 修めんとする武技にしてもその日目のあたりにした体術は、鋭く鮮やかで、尚且つ呆れ返る程に複雑怪奇過ぎる事のない、見ているだけで合理である事が判る明快なものが殆どでありました。徒に力に頼る事も力を軽視する事もなく、ただ効率的にそれを用いる事に専念しようとする、努力次第で修得の可能性を充分感得させるものでありました。
(続)
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お前の番だ! 105 [お前の番だ! 4 創作]

 万太郎は久々に感じた足腰の疲労感を、仙川駅から乗った電車の揺れに早速にふるい落とされるような気がしてくるのでありました。火曜日の朝、またこの電車に乗って道場に足を運ぶ時には、もうすっかり自分の全身から所労は抜け去り、その代わりに稽古に対する意欲のみが、池を満たす湧き水のように漲っているに違いなかろうと踏むのでありましたが、実際には脚の筋肉痛はそう早くに彼の体から去りはしなかったのでありますが。

   ***

 玄関まで迎えに出た万太郎に興堂範士が笑顔を向けるのでありました。
「おう、折野君、助教士になったそうだな?」
「押忍。お陰様で今月より助教士を拝命いたしました」
 万太郎は律義らしくお辞儀するのでありました。助手として興堂範士と一緒に出張指導にやって来たのは息子の威治教士でありましたが、威治教士はそんな話題に興味はないと云った仏頂面で、頭を起こした万太郎と僅かに目をあわすだけでありました。
 何時もは花司馬筆頭教士か板場教士が助手としてついて来るのでありましたが、その日に限って興堂範士が威治教士を連れて来るとは、いったいどう云う風の吹きまわしでありましょうか。威治教士はこう云った、自分が持て囃されもしない助手と云う立場で他道場を訪問するのは、あまり好まないであろうと万太郎は思っていたのでありましたが。
「あにさんの内弟子になってからどのくらいになるかな?」
 興堂範士が万太郎の顔を一直線に見ながら訊くのでありました。
「早いものでもう三年になります」
「三年で助教士なら出世は早い方だな。とんとん拍子に境地が進んだものと見える。ワシなんぞは先代に助教士にしてもらったのは、入門から五年以上過ぎてからだった」
「押忍。役職こそ助教士となったのですが、相変わらず未熟者の儘です」
「いや興堂先生、別に折野の境地が進んだからではなく、人手不足の折、と云う道場の台所事情から折野と面能美の二人を助教士にしたのですよ」
 これは一緒に玄関に迎えに出て廊下に正坐している鳥枝範士が云う言葉でありました。
「鳥枝君は相変わらず口が悪い。二か月前にお邪魔した時に、このところ体術の技量が随分上がったと感じておったし、助教士はしごく順当な役職だと思いますぞ」
 社交辞令とは判っているものの、しかし万太郎は敬服する興堂範士にそう云われて内心大いに嬉しがるのでありました。
「興堂先生、総士先生がお待ちです。お上がりになってください」
 鳥枝範士がそう云いながら立ち上がるのは、興堂範士に早々に靴を脱ぐ事を促すためでありましょう。万太郎は急いで三和土に降りて、興堂範士と威治教士の脱いだ靴を靴箱の中に丁重に仕舞うのでありました。
 鳥枝範士は二人を師範控えの間に案内するのでありました。万太郎は尻払いについて一緒に師範控えの間まで向かうのでありました。
(続)
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お前の番だ! 106 [お前の番だ! 4 創作]

 師範控えの間には是路総士が座っているのでありました。
「ようようあにさん、またもや出張指導に罷り越しましたぞ」
 興堂範士は縁側に正坐して一礼した後に是路総士に声を投げるのでありました。
「ご苦労さんです。本日の出張指導、よろしくお願いしますよ」
 是路総士は手招きするのでありました。「おお、今日は若先生を助手としてお連れになったのですな。これは珍しいですなあ」
「どうも、よろしくお願いします」
 興堂範士の後ろに控えていた威治教士がお辞儀するのでありました。その礼容にはどこか狎れたような崩れが感じられるのでありました。
 興堂範士と威治教士、それに鳥枝範士が座敷に入ると、万太郎は是路総士も含めて四人に出す茶を入れるために母屋の台所に向うのであありました。自分も是路総士の助手として他派の道場に出向いた時には同じでありますが、花司馬筆頭教士や板場教士なら指示があるまでは決して座敷には入らず、廊下に控えているのが常でありました。
 しかし威治教士に於いては当然のような顔をして座敷に上がりこむのでありました。幾ら興堂範士の実子で将来の興堂派の後継者であるからと云って、それでは門弟としての弁えのない不作法と謗られても仕方ないであろうと万太郎は思うのでありました。
 これは第一義には、本人の慎みのなさがこう云った不躾なふる舞いをさせるのでありましょうが、それにしても興堂範士ともあろう人がそれを叱らない、或いは予め教育していないと云うのはいったいどう云った按配でありましょうや。まあ、万太郎風情がとやこう云うべき事柄では全くないのは判り切った事ではありますが。
 師範控えの間からは威治教士の声も混じった歓談の声が聞こえるのでありました。万太郎とは違って中に居る四人には威治教士のふる舞いなんぞは、不謹慎でも何でもない、全く問題にすらもならないものだと云う事でありましょうか。

 最初は大いに戸惑いがちであった内弟子の課業にも、住みこんで三月もすると万太郎はすっかり慣れるのでありました。但し、のんべんだらりと日を送っていた学校時代に比べると、その忙しさに於いては別世界の観があるのでありましたが。
 体力も急速についてくるのが判るのでありました。一日七時間稽古をして、最初はくたびれ果てて次の日まで残っていた疲労も、次第に殆ど感じなくなるのでありました。
 早起きは不得意だと思っていたのに、これが案外大丈夫なのでありました。一日六時間の睡眠で事足りる事が判ったのは、万太郎としては意外な発見でありました。
 剣術の稽古には、常勝流の組形を覚えるのが大変ではあったものの、元々竹刀の扱いに慣れていた万太郎は案外早く馴染むことが出来るのでありました。剣の乱稽古でも是路総士には到底歯が立たないながらあゆみとは、勿論実力的には大きな差があるにしろ、そこそこ相手になる事が出来るようになるのにそう長い時間はかからないのでありました。
 これが体術となると、先ず受け身をマスターするのに手を焼くのでありました。しかも受け身は形ではなく即応の術なので臨機応変が求められるのであります。
(続)
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お前の番だ! 107 [お前の番だ! 4 創作]

 しかし是路総士や鳥枝範士、それに寄敷範士の苛烈な投げ技や抑え技の受けを始終取る内に、万太郎の受け身もそこそこ恰好がついてくるのでありました。一旦コツを掴むと気持ちに余裕が生まれて、どんなに崩した投げにも即応出来るような受け身をすんなり取れるようになるのは、万太郎には自分の事ながら嬉しい意外でありました。
 受けの技量が上がると、仕手側も思う存分の技をかける事が出来ると云うものであります。と云う事はつまり、受けを取る事に依って自分が投げられた、或いは抑えられた技の理屈も充分深く理解出来るようになると云う事であります。
 これは自分の技を磨く、と云う点に於いても大いに有益なのでありました。また、受けを取る事でその技を施した仕手の技量も自ずと判って仕舞うと云うものであります。
 一般稽古と専門稽古の別に依らず、様々な門下生達の受けを取る事で、その人の技量は云うまでもなく稽古に臨む姿勢も武道観も感得されるのでありました。それに引いてはその人固有の気質も、諸事に対する胆の在り様のようなものも、場合に依ってはその日の気分の置き処なんぞも、万太郎は感じ取る事が出来るような気がするのでありました。
 こう云った稽古の持つ構造を理解すると、万太郎は稽古が無性に面白くなるのでありました。それは意欲的と云う言葉も軽々しい程、云ってみればのめりこむとか耽溺すると云った表現がピッタリなくらいの形相に、万太郎の顔を妖しく隈取るのでありました。
「この頃万ちゃんは稽古が始まると、顔色が変わるわね」
 この万太郎の変貌ぶりを最初に万太郎本人に指摘したのはあゆみでありました。「何かに取り憑かれているみたいな、鬼気迫るものがあるって感じ」
 あゆみは夕餉の後片づけで横に立って水仕事を手伝う万太郎に云うのでありました。
「そうですか?」
「お父さんも、この頃折野は人変わりした、なんて云ってたわ」
「そうですかねえ?」
「うん。でもそれは悪い意味で云っているのではないみたい」
「稽古が、この頃面白くて仕方ないのですよ」
 万太郎は至極正直な、それにそれ以上には気持ちの機微を表しようとしない、有りふれた言葉で返すのでありました。
「なんか近寄り難いところがあるけど、それは道場での稽古の時だけで、普段こうして話している時は内弟子として入門してきた頃の儘だけどさ」
 良平も万太郎の、人変わり、は感じているようで、あゆみのように言葉で指摘はしないものの、何となく普段の接し方が少し狎れ々々しくなくなってくるのでありました。しかし別に敬遠していると云うのでは全くないようで、それは要するに稽古に取り組む姿勢に於いて、兜を脱いだが故の遠慮の気持ちが先に立つと云った風でありましょうか。
 この頃は二か月兄弟子の良平の方が、どちらかと云うと稽古では万太郎に遜っているようなところがあって、呼び方も前は、万太郎、と名前を呼び捨てにしていたのが、万さん、とこの頃は敬称つきになっているのでありました。始めは冗談のような感じで敬称つきで偶に呼んでいたのが、その内にそれが通常の呼称となったような具合でありましたか。
(続)
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お前の番だ! 108 [お前の番だ! 4 創作]

 内弟子仕事にしても良平は万太郎にあれこれと指示をしなくなるのでありました。それは万太郎が仕事の大概をすっかり掌握し、要領を体得したので指示の必要がなくなったと云う事もありますが、多岐に渉る気遣いと諸事をこなす手早さと、先読みの確かさに於いて良平はあっさり万太郎の方が上と畏れ入ったが故でのようありました。
 万太郎に差配させた方が何に依らず上手くいくのであります。良平は気が利かないと云うのではないのでありますが、万太郎の方がより信頼感があると云う事でありますか。
 かと云って良平は卑屈になるわけではなく、言葉遣いも態度も弟弟子に対するようにではなく、頼もしい同僚に対するがごとくに変わったと云うだけであります。万太郎を呼ぶ時の呼称変更は、良平の万太郎に対する認識の改まった一端と云えるでありましょう。
 万太郎の方は相変わらず兄弟子に対するような言葉遣いを変えないのでありましたが、それは高々二か月とは云え兄弟子は兄弟子であり、弟分の身の程を堅守すべきであると思い做しているからであります。これを万太郎の律義さ或いは義理堅さと見るか、一面の堅苦しさ或いは過剰な形式主義と見るかは人に依って様々でありましょうが。
 一年で、万太郎と良平は伴に是路総士から黒帯を授与されるのでありました。一般の門下生の場合、どんなに早くとも黒帯を取得するまで三年はかかるものでありますが、内弟子として一日七時間一年間殆ど休み無しの猛稽古荒稽古をこなした彼等は、それに充分匹敵するだけの実力を養成出来ていると見做されたのであります。
 内々ではあるものの、是路総士を始め鳥枝範士、寄敷範士、それにあゆみと云う総本部道場の重立つ顔ぶれが揃って、内弟子稽古終了時に黒帯授与式を挙行してくれるのでありました。四人が威儀を正して万太郎と良平に笑顔で座礼をしてくれるのを見て、万太郎と良平は一年間の内弟子としての苦労が報われた思いがするのでありました。
「万さん、どうだい、似合うか?」
 黒帯授与式の後、内弟子部屋に帰って来てから、良平が白の稽古着に締めた真新しい黒帯を撫でながら些か照れ臭そうな笑顔を向けるのでありました。
「何か急に強くなったように見えますよ」
「そうかな、強そうに見えるかな?」
 確かに筋骨逞しくなった良平の黒帯を締めた稽古着姿は、一年前と比べると見違えるようでありました。勿論万太郎の体も、かなり武道家らしく変貌しているのでありますが。
「何処からでもかかって来い、みたいな頼もしさが腰の黒い辺りから発散していますよ」
「いやいや、長足の進歩を遂げる万さんと違って俺は亀の一歩の口だから、何か腰の辺りの黒帯の納まり具合が今一つのような気がする」
「そんな事ありませんよ」
 万太郎は片手を横にふるのでありました。「どうです、記念写真でも撮りましょうか?」
「そうだなあ、撮って貰おうかな。一応信州の親父にそれを送ってやるか。俺が風変わりな仕事に就いているのを、今でも大いに心配しているからなあ」
 良平は満面の笑みの中にほんの少しの目尻の翳りを宿した面相で云うのでありました。
「ああそれは良いですね。そんなら僕のも撮って貰おうかな」
(続)
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お前の番だ! 109 [お前の番だ! 4 創作]

 万太郎の熊本の家族は万太郎が常勝流総本部道場の内弟子になった事を、然程に心配してはいないようでありました。基本的には人に後ろ指差されない稼業ならどのような仕事に就こうと、無難に飯を食ってさえいければそれで御の字、と云った具合で、父親なぞは万太郎が武道を終生の仕事と決めた事を、寧ろ喜んでいるくらいでありました。
 返って家族の中にそう云ったへそ曲がりが一人出現した事を、面白がっているような風情すら見受けられるのであります。ま、そう云ったわけでありますから、父親の憂慮を払拭するために黒帯を締めた凛々しい姿の写真を送る、なんと云う動機も実情にそぐわないようでありますが、ま、父親への愛想としては成立するでありましょうか。

 万太郎が正坐した後、四つの茶碗が乗った盆を傍らに置いて廊下から師範控えの間に声をかけると、一瞬中で交わされていた会話が滞るのでありました。
「茶を持って参りました」
「ご苦労。入れ」
 一拍の間の後に、鳥枝範士の指示の声が締まった障子戸越しに聞こえるのでありました。万太郎は静々と障子戸を開けてから一礼した後、先ず茶碗の乗った盆を部屋の中に押し遣ってから膝行で身を入れるのでありました。
 座卓を囲んでいた四人が会話を控えて、万太郎の挙動を見ているのでありました。これは用事が住んだら早々にこの部屋から退散せよと云う空気であろうと思い、万太郎は茶を夫々の前に置き終えたら、すぐに障子戸の処に下がってお辞儀するのでありました。
「折野君、未だ稽古が始まるまで多少時間があるから、そんなにさっさと引き下がらないで、少し話しに加わらんか?」
 興堂範士が万太郎が頭を起こした時にそう誘うのでありました。助教士になったと云っても未だ遣い走りが担当程度の内弟子風情が、お歴々の談話に加わるのは不遜であろうと戸惑って、万太郎は鳥枝範士に伺いを立てるような及び腰の視線を送るのでありました。
 鳥枝範士は無愛想な表情ではありながら小さく頷くのでありました。興堂範士直々のお言葉であるから、そうしろと云う指示でありましょう。
「助教士となると、指導の方もやらんければならんのう」
 興堂範士が座卓に近寄らず障子戸を後ろにして正坐している万太郎に、笑顔を向けながら云うのでありました。「もう、道場での中心指導はしているのかい?」
「いえいえ、未だそこまでは任せられません」
 万太郎に変わって鳥枝範士が云うのでありました。
「しかし、ぼちぼちそう云う事も経験させなければいかんじゃろうよ」
「それはそうですが、まあ始めは傘下の支部とか同好会に派遣指導に行かせて、そこで実績を積んでから、折を見て総本部の指導もやらせてみるつもりですよ」
 今度は是路総士が云うのでありました。
「ああそうですか。それならウチの道場へも指導に来て貰うかな」
 興堂範士が笑いながらそんな勿体ない愛想を云うのでありました。
(続)
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お前の番だ! 110 [お前の番だ! 4 創作]

 その興堂範士の軽口に、威治教士が不快気に口を歪めた笑い顔をすぐにつくるのでありました。何を助教士風情でそんな差し出がましい、と咄嗟に思ったのでありましょう。
「滅相もありません。例え教えを請うための出稽古であっても、こんな不束者一人でなんか興堂先輩の道場には未だ遣れませんよ」
 鳥枝範士が大袈裟に両手を横に何度もふりながら云うのでありました。
「いやいや、ワシは今から大いに折野君の将来を買っているのだが」
「そうだ、時々道分さんの処に折野と面能美を出稽古に行かせようかなあ」
 是路総士がふと思いついたと云った様子で呟くのでありました。
「おう、そうなさいあにさん。ワシの処は何時でも大歓迎ですぞ」
「総本部道場だけではなく、道分さんの道場で体術をしっかり仕こんで貰うと云うのも、二人には良い修行になるかも知れんなあ」
「ワシはそのお役目引き受けますぞ」
「どうですかな鳥枝さん?」
 是路道士が鳥枝範士の方を見るのでありました。
「まあ、二人別々で週に一回程度なら、遣れん事もないでしょうが」
「よし決まりじゃ。来月から早速ウチに寄越してくだされ」
 興堂範士は大いに乗り気で請けあうのでありました。対照的に威治教士はこの話しに全く無関心と云った様子で、目を下に落として、別に俄に痒くなったわけでもないのでありましょうが、自分の左掌を手持無沙汰気に右手の人差し指で掻いているのでありました。
 万太郎としては特に異存はないのでありました。興堂範士直々に体術の稽古をつけて貰えるのと云うのは、寧ろ願ってもいない事であります。
 しかし威治教士を、蛙を除いてこの世に生きとし生けるものの中で最も苦手にしている良平は、この話しをおいそれとは喜ばないでありましょう。是路総士の付き人として行くのなら未だしも、自分一人で神保町へ出向くのは出来れば免れたい筈であります。
「時にあにさん、今日はあゆみちゃんの姿が見えませんが?」
 興堂範士が急に気づいたと云うように話頭を変えるのでありました。あゆみの名前が出た瞬間に、威治教士が落としていた視線を自分の掌から上げるのでありました。
「今日は寄敷さんと二人で八王子の方に出張指導に行っております」
「ああそうですか。そうなるとあゆみちゃんの手料理は今日はいただけんのか」
 興堂範士は少しがっかりした顔をするのでありました。「ワシは女房を失くしてから家庭料理と云うものは滅多に口に出来ないので、あゆみちゃんの手料理も楽しみの一つとしてこちらにお伺いさせて貰ってあるようなところもある次第で」
 興堂範士は聞き様によっては不謹慎な事を云うのでありました。しかしその云い草には妙に愛嬌があって憎めないのであります。
「いや申しわけない。今度いらした時のお楽しみと云う事で」
 是路総士が笑い顔で頭を下げるのでありました。興堂範士は三年程前に細君を交通事故で亡くしているのでありました。
(続)
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お前の番だ! 111 [お前の番だ! 4 創作]

「いやしかし、あゆみちゃんは料理は上手いし家向きの事は何でも手際良く熟すし、礼儀正しいし、諸事に弁えもあるし、それでいて武道は強いし、見目も凛としていて美人だし、何処に出しても恥ずかしくない、あにさんのご自慢の娘さんに育ちましたなあ」
 興堂範士があゆみを誉めそやすのでありました。
「いや、あれも母親を亡くして以来私が男手で育てたものだから、何に依らずがさつで女としての躾はまるで成っておりません。まあ、武道上の躾は厳しく仕こみましたがなあ」
「いやいや、あの子は利発ですから、男であるあにさんのどうしても行き届かないところも自分でちゃんと身につけておりますよ。今時あんな良い子は珍しいですわ」
「ま、話し半分、いや三分の一として聞いておきましょう」
 万太郎がふと威治教士の方を見ると、威治教士は心持ち目を輝かせて是路教士と興堂範士の顔に交互に目を動かしながら、二人の会話を聞いているのでありました。どうしたものかその顔が、万太郎には何やら不快に下卑て見えるのでありました。
「おい折野、そろそろ道場の方に行っていろ」
 興堂範士と是路総士の話しが一息を挟んだ折を窺って、鳥枝範士が万太郎に顔を向けて指示を出すのでありました。
「押忍。では」
 万太郎はそう返事して一同の方に向かって格式張った座礼をするのでありました。
「じゃあ折野君、また後で」
 興堂範士が片手を上げて見せるのでありました。
「押忍」
 万太郎は興堂範士に向かって更にお辞儀してから師範控えの間を出て、廊下でもう一度座敷の中に向かって座礼をしてから障子戸を閉めるのでありました。
「随分お茶出しに時間がかかっていたなあ」
 道場に戻った万太郎に良平が話しかけるのでありました。
「ええ、ちょっと道分先生に呼び止められまして」
「何か万さんに特別な話しでもあったのかい?」
「僕等二人、来月から神保町の道分先生の道場に週一で出稽古に行かされそうですよ」
「二人揃ってかい?」
「いや、一人ずつ別の日になるようです」
 万太郎がそう云うと良平は複雑な表情をして見せるのでありました。良平としては興堂範士の道場に出稽古に行くのは、内弟子としての武術修行の上で有益であるとは思うのでありましょうが、当然そこには苦手にしている威治教士も居ると云う事であります。
「息子先生にしごかれに行くわけかい?」
 良平の眉根が少し寄せられ、目に少しのたじろぎが表れるのでありました。
「いや、特段そう云うわけでもないでしょうが」
「前からそう云った話しがあったのかな?」
「総士先生がふとそう思いつかれて、道分先生が請け負われたと云う按配です」
(続)
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お前の番だ! 112 [お前の番だ! 4 創作]

「ふうん、成程ね。体術の技法は少し総本部道場と違うところもあるから、向こうの技を体験させて貰えるのは大いに面白そうだが、しかし息子先生にご教授いただくのは勘弁して欲しいもんだなあ。万さんは何となく息子先生に一目置かれているところがあるようだから、そんなに苦にもならないだろうが、俺なんざお互いに忌み嫌っているのが判っているから、飛んで火に入る夏の虫状態で息子先生に手ひどく扱われるんだろうなあ」
 良平はそう云ってため息をつくのでありました。
「僕は別に威治先生から一目置かれてなんかいませんよ」
「いやいや、俺が総士先生の剣術稽古の時について行くと、まるで人扱いしないような態度をとるけど、万さんには少し遠慮しているらしいじゃないか」
「何処からそんな話しが出るんですか?」
「何処と云うわけでもないが、道分先生がこっちに来る時について来る花司馬さんやら板場さん辺りと話しをしていると、何となくそう云ったところが推し量れるよ」
 確かに普段より良平から聞かされる威治教士の彼に対する態度なんと云うものは、傲慢そのものと云った風でありました。良平の是路総士の手前を憚る抑制心と、それに同じ常勝流ながら別派として独立する興堂派への遠慮と、しかし別派ながらも同流の先輩後輩の順を尊ぶ自制心なんかを巧みに暗黙の方便に用いて、随分と無体な悪戯を仕かけてみたり、全くすげない態度や歯牙にもかけないような接し方をしているようなのでありました。
 しかし万太郎は威治教士から、良平から聞かされる程の侮りを受けた覚えはないのでありました。剣術稽古の折に感じる鬱泱とした対抗心とか、組形稽古であるのに何かとこちらの動きの意表を突こうとする不見識さなんぞは頻りに感じるのでありましたが。

 万太郎と良平がお互いの黒帯姿の写真を撮りっこした次の日、真新しい黒帯を締めて道場に現れた万太郎と良平を、普段一緒に稽古をしている夜の部の一般門下生達が祝福してくれるのでありました。二人は照れ臭さと誇らかな心情相半ばと云った笑顔で、祝意を表してくれる門下生達に一々軽く一礼しながら礼を云うのでありました。
「道場に住みこんで内弟子としての一日七時間の猛稽古に一年間耐えてきたんだから、そりゃあ精々週に二三度稽古するのがやっとの俺達とは違って、早々に黒帯になるのは考えてみれば当たり前の話しさ。いやまあしかし、兎に角おめでとう」
 万太郎と良平の二人とほぼ同時期に入門した一般門下生の新木奈紋太と云う門下生が、最後に祝意を表するのでありました。新木奈は万太郎達より五歳年上でありました。
 大手の建設機械メーカーの開発部に勤めていて、取引のある鳥枝建設の線から常勝流と云う武道を知って、総本部道場に一般門下生として入門してきたのでありました。写真撮影やら旅行やら歌舞伎鑑賞やら、ダイビングやらスキーやらゴルフやらドライブやらと色々多趣味な男で、常勝流の稽古もその多趣味の一環として始めたようであります。
 内弟子の二人にとって一般門下生は、道場で軽口くらいは云い交わす事はあるにしても、専門稽古に来る準内弟子の門下生達よりは親しまない存在でありました。しかし新木奈は入門が同時期と云う事もあって、普段から頻りに二人に話しかけてくるのでありました。
(続)
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お前の番だ! 113 [お前の番だ! 4 創作]

 特段それが鬱陶しいわけではないのでありますが、五歳年上を意識してか、何処か目上が目下に教誨を垂れるような話しぶりをするのが万太郎には鼻につくのでありました。それに屡、どう云う省察によるのか判りませんが、自分は人生の優等生であるみたいな事をふと口走るところがあって、しかも優等生である事を他人に印象づけようと腐心しているといった煩さも一緒に仄見えるので、万太郎は苦手なタイプの人間なのでありました。
 先の祝意の表明にしても、その言葉は取りようによっては稽古時間の圧倒的多さがあるのだから、万太郎と良平が一年で黒帯を取得したのは至極当たり前で、自慢話しにもならないと云う見解を表明したとも取れるのであります。それだけの稽古量があれば誰だって一年で黒帯になれるさと云う、どこか冷えた断定が祝意の裏に潜んでいるのを暗黙に明示しようとする企図があると、勘繰れば勘繰ることが出来る云い草でありましょうか。
 万太郎としてはこの一年間の内弟子として取り組んだ稽古に、他人にはおいそれと真似の出来ないような精進を重ねたつもりでありました。それを単なる、稽古量に対する至極当然の結果、と云った単純な数量計算として評されるのは慎に以って不本意と云うものでありますが、まあ、これは万太郎の勘繰り過ぎと云うものかも知れないのでありますが。
 で、当然新木奈の方も万太郎が自分をあんまり尊重していないと云うのは判るようで、どちらかと云うと彼は万太郎よりは良平の方と心安くしているのでありました。良平は万太郎のように新木奈に対して懐疑的な素ぶりは見せず、寧ろどちらかと云うと、人生のエリート層、に属ずるらしき新木奈に心服しているような節もあるのでありました。
 万太郎が前から踏んでいるところ、実は新木奈は稽古よりもどうやらあゆみにご執心のようで、あゆみに会いたいがため一般門下生にしては熱心に道場に通ってきているようでありました。あゆみの方も万太郎のように新木奈を敬遠するようなところは見せず、話しかけられれば気軽に応対する辺りは、万太郎としては恨めしいところでありますが。
「どうだい、黒帯取得のお祝いに稽古仲間を誘って何時か一杯やろうじゃないか?」
 新木奈が良平の方を向いて提案するのでありました。
「ああ、自分等の黒帯のお祝いと云うのは置くとして、稽古仲間で飲むのはいいですね」
 良平が応じるのでありました。
「何曜日が都合が良いかな?」
「そうですねえ、平日は夜に内弟子稽古があるからだめですが、土曜日だったら七時頃、日曜日だったら八時過ぎくらいなら時間が取れると思います」
「じゃあその線で、ちょっと参加するヤツを募ってみるか」
 新木奈が頷くのでありました。「そうだ、事の序でだからあゆみさんも誘うか」
 新木奈はふと思いついたと云う風にそうつけ足すのでありました。ははあ成程そう云う事か、と万太郎は新木奈の真意を合点するのでありました。何の事はない、万太郎と良平の黒帯取得を出汁に飲酒の会を企画して、それにあゆみを誘うのが新木奈のまわりくどい真の目論見だと万太郎は看取するのでありましたが、これは邪推でありましょうや。
「あゆみさんまで飲み会に参加すると、その夜は総士先生が一人になられます」
 万太郎が脇から水を差すような事を云うのでありました。
(続)
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お前の番だ! 114 [お前の番だ! 4 創作]

「ああそうだなあ。それは拙いかなあ」
 良平が頷くのでありました。新木奈はちょっと白けたような、恨めし気な目なんぞを万太郎に向けるのでありました。
「まあ、あゆみさんがダメだとしても、二人は大丈夫なんだろう?」
 あゆみが出席出来ないのなら新木奈の真の目論見も無意味と化すと云う事でありましょうが、しかしあくまでも万太郎と良平の黒帯取得を祝うのが目的の酒宴である事を強調しようとしてか、新木奈はそんな風に訊いてくるのでありました。
「ええ。総士先生のお許しがあれば」
 良平が応えるのでありました。
「二人が大丈夫と云う事なら、それで結構だけどな」
 どこまでも自分が酒宴を提案した趣旨は、万太郎と良平の黒帯取得祝いなのであると云う事にしたいようであります。
「では、総士先生にお許しを貰っておきますよ」
「判った。じゃあ今度の金曜日の稽古までに返事を頼むよ。一応次の日の土曜日に決行と云う事で気のあった連中に声をかけておくから」
 その日の夕食の終わりかけの頃に、今度の土曜日に一般門下生の新木奈から、万太郎と良平の黒帯取得のお祝い会を開いてくれると云う申し出があったのだが、出席しても構わないであろうかと、良平が居間で食事をする是路総士にお伺いを立てるのでありました。
「ほう、それは有難い申し出だな」
 そうは云うものの、是路総士は特段喜ぶでもない顔つきで応えるのでありました。
「夜の七時過ぎからと云う事なので、道場の土曜日の務めには差し支えないと思います」
 良平がつけ足すのでありました。
「まあ、折角の門下生からのお誘いなんだからお受けしたら良い。私に遠慮は要らん」
「お受けして構わないでしょうか?」
「ああ、その時間からなら問題ないだろうよ」
「押忍。有難うございます」
「じゃあ、土曜日は良君と万ちゃんの夕食は要らないと云う事ね」
 調理担当であるあゆみが、その点を確認するのでありました。
「押忍。そう云う事になります」
「判ったわ」
 あゆみは無表情に頷くのでありました。
「実はあゆみさんの御出馬もと、新木奈さんは云っていたのですが」
「え、あたしも?」
 あゆみは良平の方に少しの驚きの顔を向けるのでありました。「だって、あたしは無関係じゃない。内弟子二人の黒帯のお祝い会なんでしょう?」
「ええまあ、それはそうですが、どうせなら、と云う事じゃないですか」
「あたしも序でに、と云う事かしら?」
(続)
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お前の番だ! 115 [お前の番だ! 4 創作]

 序で、どころか、それが新木奈の本当の魂胆ですよと万太郎は云いたい衝動に駆られるのでありましたが、そこは当然黙っているのでありました。
「序に、と云う事ではないでしょうが」
 良平が新木奈の代わりに云い繕うのでありましたが、あゆみが別に不機嫌になっているのではないのはその表情から判るのでありました。
「まあ、道場生たる三人を一緒に、と云う事だろうよ」
 居間の方から是路総士が云うのでありました。「折角だからあゆみも一緒に出席するといい。私の事は別に気にする事はないよ」
 是路総士は沢庵を口に放りこんでパリと一噛みするのでありました。
「その方が新木奈さんは喜ぶと思いますよ」
 食堂の食卓テーブルの良平が、向かいに座るあゆみを見ながら是路総士と同じように沢庵を一切れ頬張りながら調子をあわせるのでありました。あゆみの参加があったら確かに新木奈は、良平が思う以上に喜ぶであろうことはこれはもう間違いないと、良平の隣に座る万太郎は思うのでありましたが、口の沢庵が邪魔で言葉にする事はないのでありました。
「どうしようかな」
 そう独り言ちた後あゆみは箸を置いて、両掌をあわせてごちそうさまと小声で呟いてから立ち上がるのでありました。それから自分の使った食器を流し台の方に運ぶのでありありましたが、万太郎も慌てて食事終わりの儀式的仕草をしてから、同じように食器を持って流し台の方に行くのは四人分の茶を入れるためでありました。
「お茶は僕が入れます」
 ポットの方にあゆみが手を伸ばしかけたのを制しながら万太郎が云うのでありました。
「じゃ、お願いね」
「押忍、承りました」
 あゆみはちらと万太郎を見てからまた食卓に戻るのでありました。
「でも矢張り、あたしは関係ないから止しておこうかな」
 そうそう、その方が良いと思いますよと、ポットから急須に湯を注ぎ入れながら万太郎は背中であゆみに声を立てずに云うのでありました。
「私に遠慮する必要は本当にないんだよ。こう見えたって私だって風呂も自分で沸かす事が出来るし、着替えが何処にあるかも知っているし、布団も敷けるんだからね。だから偶にはあゆみも家事を忘れて、外で酒でも飲んで楽しんでくれば良いんだ」
「それはそうでしょうけど、でもあたしそんなにお酒が好きな方でもないし、お酒を飲んだからって特段気持ち良くなるわけでもないしさ」
「そんな事云っているけど、私が寝る前の時間に居間で古鏡の写真本でも開いてちびちびやっていると、何時も横に来てお相伴しているじゃないか。私の娘なんだから、本当はあゆみも結構いける口だと踏んでいるんがなあ」
「あれはお父さんへの娘としてのサービスと云うのか、一種のお愛想よ。第一お相伴たって精々お猪口で三四杯程度じゃない」
(続)
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お前の番だ! 116 [お前の番だ! 4 創作]

 あゆみが抗弁するのでありました。
「僕も行かないでおこうかな」
 先ず是路総士に、それから食卓のあゆみと良平の前に茶を配った万太郎が自分の分を最後にテーブルの上に置いて、椅子に腰かけながら云うのでありました。
「おいおい、万さんも乗り気でないのか?」
 良平が横に座る万太郎の方に顔をふり向けて驚くのでありました。
「ええ。何となく」
「それじゃあ、折角お祝い会を企画してくれる新木奈さんに悪いだろう」
 良平の声にはやや憤然とした響きが籠っているのでありました。
「万ちゃんは行かないと拙いでしょう。万ちゃんと良君のお祝い会なんだから」
 あゆみも良平に同調するのでありました。
「折野、ひょっとしてお前まで私に遠慮しているのか?」
 是路総士が居間から万太郎を見るのでありました。
「そう云うわけではありませんが、まあ、何となく、申しわけないのですが、気乗りがしないと云うのか、何と云うのか。・・・」
「おい万さん、こういう云い方は語弊があるかも知れないが、一般門下生はそう安くもない指導料を毎月払ってくれる、云ってみればお客さんみたいなものじゃないか。そのお客さんの折角の厚意を受けるのも、俺達道場生の務めの内に入らないか?」
 良平が、聞きようによっては微妙な辺りを云うのでありました。
「一般門下生はお客さんなんですか?」
「そう改まって訊き返されると少したじろぐけど、まあ、稽古に対する意欲なんかは内弟子も専門稽古生も一般門下生も、それはもうその個人の心の持ちようだから、どちらがどうだとは一様に云えないけれど、少なくとも日々の稽古に対する切迫感みたいなものは、一般門下生の方が、それを職業にしている俺達道場生よりは薄いとは云えないか?」
「それはそうかも知れませんがね」
「稽古に対する切迫感が薄い人達の気持ちを、如何に稽古に長く繋ぎ止め続けるかと云うのは、まあ、これも敢えて誤解を恐れずに云うと、・・・」
 良平はここで居間の是路総士の顔をちらと窺うのでありました。「世間一般のサービス業に従事する営業社員の、お客さんに対する接し方と云うのか、心配りみたいなところも、俺達道場生には少しは求められているようにも思うんだがなあ」
「だからと云って一般門下生をお客さん扱いしていたら、武道の稽古なんと云うものは成り立たなくなると僕は思います」
 万太郎は少し憤然とした語調で云うのでありました。「まあ、先輩の云うような側面が僕たち道場生に求められているとしてもですよ、それは稽古そのものの質を提供する事に依って、気持ちを繋ぎ止めるべく僕等としては励めば良いのであって、道場外の飲み食いの誘いを受けるか受けないかと云う事とは全く別の問題なんじゃないですか?」
「原則的にはそうに違いないけど、しかし色々小難しい人情の機微もあってなあ。・・・」
(続)
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お前の番だ! 117 [お前の番だ! 4 創作]

 良平が苦笑いながら万太郎から視線を逸らすのでありました。
「面能美の云う事も確かに一理はある」
 居間の是路総士が云うのでありました。そう云われて良平はほっとしたような顔を是路総士に向けるのでありました。
「昔は武術家は、芸者、と呼ばれていた。武芸を為す者、と云う事で、今の、酒宴の折の遊芸や接待を業とする、所謂芸者さんとはちょっと違うがな」
 是路総士は続けるのでありました。「しかし、今の芸者さんのようなところも、この現代に於いて武道で世過ぎする身には必要な面でもありはする。いや、昔の武芸者にしたところで、そんな側面も屹度あったに違いなかろうよ」
「まあ、それはそれとして、・・・あたしは矢張り出席は遠慮しとくわ」
 あゆみが話しが面倒な隘路に入りこむのを厭うようにそう云うのでありました。
「ああそうですか。で、万さんは?」
 良平が万太郎の顔に視線を移すのでありました。
「どうしようかな。・・・」
 万太郎は如何にも気乗り薄な風に良平から目を逸らして首を傾げるのでありました。
「万ちゃんは行ってらっしゃいよ」
 あゆみが勧めるのでありました。「折角新木奈さんが誘ってくれているんだから、あんまり難しく考えないで気楽につきあえばいいんじゃないの?」
「ああそうですか。・・・」
 あゆみが行かないのなら新木奈の本当の目論見は成就しないのであろうにと思いながら、万太郎は不承々々に諾の返事を良平に返すのでありました。

 興堂範士が体術の出張稽古に総本部道場に来る日を、万太郎は何時も楽しみにしているのでありました。だからと云ってそれは別に、総本部道場の稽古がつまらないとか、興堂範士の稽古に比べて色褪せているように思えるから等では決してないのでありました。
 是路総士の重厚で一々が理に適っている事を納得させられるような技も、奥深く細心でしかも理解し易い指導も、鳥枝範士の荒技も強面の態度も、寄敷範士の端正な技術も理路整然とした技の解説にも大いに心服しているのでありました。それに一緒に稽古する内弟子の良平にも、あゆみにも、他の門下生達にも何の不満もないのでありました。
 しかし興堂範士の武道観や、その武道観に則った武技や独自の指導法なぞは、王道を行くべき総本部道場にはない、閃きと進取の気風に富みに富んでいるように感じられるのでありました。意欲的である若者に限って往々にして見られるような、隣の糂汰味噌的な気持ちが全くない事もないにしろ、興堂範士の開いた別派の道には、王道の道端では先ず見られない魅力的な碧玉が至る処に転がっているようにも感じられるのであります。
 興堂範士の指導に一度でも浴してみると、万太郎は興堂派の道場が総本部を凌ぐ程の勢いがあって、興堂範士が武道界に限らず世間に広く持て囃される理由が判るような気がするのでありました。一言でいえばそれは、派手、と云う事でありますか。
(続)
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お前の番だ! 118 [お前の番だ! 4 創作]

 興堂範士の動きは相手を翻弄するように奇抜で素早く、しかもその速さに負けない姿勢の強靭さがあって、そう云う体捌きから繰り出される技は実に華麗なものでありました。それに捌きの途中で相手の顔面やら喉やら脇腹やらに対する当身が多用されるので、それは見ていて如何にも実戦的であり、捌きに捌いて相手の体勢の崩れが最大値に達したところで、威力ある強烈な投げ技を以って相手を制圧するのであります。
 この興堂範士の技には見る者に息を呑ませる迫力があるのでありました。これは余人の真似出来ない、興堂範士独特の華でありました。
 興堂範士は地味で修得するのに時間のかかる抑え技よりも、投げ技の方を重視しているのでありました。しかも相手を仰け反らせて後頭部から地に叩きつけるような、或いは宙で翻筋斗打たせて受け身が取れない程強烈に投げ落とすような技が多いのでありました。
「ワシはせっかちだから、その体勢にもちこむまで手数のかかる抑え技よりは、なるべく短時間で、二度と立ち上がれない程に相手を投げて仕舞う方が性にあっておるのでなあ」
 興堂範士は興堂派の技が投げ技重視である事の説明に、クールに、訊いた相手が震え上るような笑いを浮かべてそう応えるのが常でありました。確かに万太郎も興堂範士の強烈な投げ技の受けを取るのに、最初は受け身を取れずに大いに閉口したのでありました。
「さあて、今日は先ず、肘当て投げ、からいくかな」
 興堂範士の出張指導に参集した、下座に正坐して居並ぶ総本部道場の十数名の内弟子や準内弟子達に向かって、興堂範士はにこやかな笑顔を向けながら云うのでありました。それから一同をゆっくり見回して、良平の顔に視線を止めるのでありました。
「面能美君、ちょっと前に」
 良平は名前を呼ばれて即座に「押忍」と返事して興堂範士の前に疾駆するのでありました。興堂範士は威治教士とか、その日連れて来た自分の内弟子よりも、総本部道場に於いては良平や万太郎を指導の助手としてよく使役するのでありました。
「相手と対峙して、相手がこちらの顔面を正拳で突いてきたとする」
 興堂範士の説明に良平がすぐに反応して、興堂範士に対して左半身で右正拳を脇に構えて何時でも突けるように用意するのでありました。興堂範士は一間弱の間合いで良平に向かうと、左の相半身に一足半の足幅を取って正対するのでありました。
 頃は良しと良平が裂帛の気合の声を発しながら、右足を大きく歩み足に踏み出して右正拳を興堂範士の顔面に向かって突き出すのでありました。興堂範士はぎりぎりのタイミングで、体を右にやや開いてその打撃を鼻先一寸にあっさりあしらい躱すのでありました。
「この捌きは剣術の相打ち返しとほぼ同じ動きじゃな」
 良平の斜め上方に突き出した腕越しに、興堂範士が下座の総本部の門下生の方に視線を向けながら云うのでありました。「常勝流は剣術の理を体術に移したものだから、剣術と体術とでは間合いの違いは多少あるものの、同じ理屈でこちらは動いておる」
 興堂範士は同じ捌きを、角度を変えて何度か門下生に演じて見せるのでありました。万太郎は食い入るように興堂範士の体捌きを見るのでありました。
「相手の拳が伸び切る直前に、こちらは先ず左の当身を小さく相手の脇腹に打ちこむ」
(続)
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お前の番だ! 119 [お前の番だ! 4 創作]

 興堂範士はまたもや顔面に伸びてきた良平の拳を体を右開きに躱しつつ、自分の左拳を接近してきた良平の脇腹に小さく突き刺すのでありました。良平の体線がその不意打ちのような当身に依って少し崩れるのでありました。
「相手の腕の伸び切る直前、と云うところが重要で、この機を逸すると相手は腕をすぐさま引いて仕舞う。この機で打つと相手の腕は伸び切って後一瞬静止するんじゃよ。しかもあまり強く打ってはいかん。この当身は仮当で、この一発で相手を倒そうとする当身ではない。当身のタイミングと打撃の強さ加減が、云ってみればこの技のミソじゃな」
 興堂範士はこの動きも門下生の前で何度か繰り返して見せるのでありました。確かに絶妙のタイミングで興堂範士の拳が良平の脇腹に食らいつくのでありました。
「この左拳の当身は、刀を腰に差している場合は柄頭での当身となるわな」
 興堂範士のその言葉に下座にいる万太郎が機敏に反応して、きびきびとした動作で壁の木刀を取って疾駆して先ず興堂範士に、それから良平に手渡すのでありました。興堂範士はそれを受け取ると腰に差し、良平は八相に構えて対峙するのでありました。
 良平の八相から刃先を寝せて心臓を突く動きに対して、興堂範士は剣術の組形の一本目、相打ち返し、の動きで良平の右横に進み入り、木刀を腰に差した儘で左手で半分程を抜き出して拳の場合と同じく良平の脇腹に柄頭を当てるのでありました。
「剣術だと、刀は抜かないで柄頭で相手を打つが、体術では柄頭の代わりに拳を用いると云う事じゃ。理は剣術も体術も同じ事じゃな。ちなみに、・・・」
 興堂範士はそう云って良平にもう一度突いてこいと目で指示するのでありました。「剣術としての技であるのなら、・・・」
 興堂範士はそう云いつつ突いてきた良平の脇腹を、同じ要領で今度は少し強く柄頭で打つのでありました。良平は当身を食らった瞬間、息をつめるような呻き声を漏らして、脇腹をかばうように体を屈しながらよろめき下がるのでありました。
 空かさず興堂範士は木刀を腰から抜き放って、良平に体勢を立て直す隙を与える間もなく、その頭頂部に上段からの素早い斬撃を加えるのでありました。
「まあ、こう云う事になるわけじゃな。これは剣の、相打ち返し、の別法じゃ」
 興堂範士は愉快気に哄笑するのでありました。「まあ、剣の方は置くとして、・・・」
 興堂範士は下座に控えている万太郎に視線を投げるのでありました。万太郎は興堂範士の意を即座に酌んで、すぐに傍に近づいて木刀を受け取るのでありました。
 良平からも木刀を返却してもらうのでありましたが、脇腹への柄頭の当身が相当に効いたらしく、良平は未だ顰め面をした儘で近づいた万太郎を恨めし気に見るのでありました。同じ内弟子の万太郎ではなく、偶々自分が興堂範士に指名されて受けを取る羽目になったのが身の不運、とその目は万太郎に嘆いているのでありました。
 良平の愛嬌のある顰め面に万太郎は思わず吹きそうになるのでありましたが、勿論そんな不謹慎な真似はしないのでありました。道場では静謐であらねばなりません。
「さて、体術に戻るが」
 興堂範士のその声に、良平は気を取り直してまた突きの構えをとるのでありました。
(続)
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お前の番だ! 120 [お前の番だ! 4 創作]

 一間の間合いで良平と対峙した興堂範士は、脚こそ前後に左撞木立ちして構えの歩幅を取るのでありましたが、両手は横にダラリと下げて良平の突きの構えに対して正面を如何にも無造作に晒しているのでありました。しかしこれは誘いであって、すぐに反応出来るように体から力みを取り去っているので如何にも無造作に映るのであります。
 良平が頃を見計らって鋭い正面突きを上段に繰り出すのでありました。興堂範士は先程剣を持った時と同じに良平の右にほんの少し逸れる位置へ体を開いて前進しながら、柄頭の代わりに左拳で良平の脇腹に突きを呉れるのでありました。
 この興堂範士の突きは前の時と違って形ばかりの突きではなく、やや強い打撃でありました。良平は思わず体勢を崩して苦悶の表情を浮かべるのでありました。
 興堂範士が空かさず良平の伸びた右腕の手首に右手を添えて、右に素早く回転して良平の右横に並ぶような位置に移動すると、良平は腕を伸び切らせた状態で前のめりにもっと大きく体勢を崩すのでありました。興堂範士は不安定な体勢になった良平の右肘に対して自分の左肘を宛がってから、その儘鋭く前に一歩踏み出すのでありました。
 良平は伸び切った肘を強く弾かれたような形になって、その力に抗しきれずに前方に大きく鮮やかに投げ飛ばされて仕舞うのでありました。これが、肘当て投げ、と云う技、正確に云えば、正面上段突き肘当て投げ、と云う体術の技であります。
「すべてはタイミングの勝負じゃな」
 興堂範士が下座の門下生の方に向かって云うのでありました。「相手の上段突きを避けるのも、あんまり早く動くと相手にこちらの動きを悟られるし、こちらの脇腹への突きが相手に見えて仕舞う。遅れたらまともに上段突きを食らう事になる。ギリギリの、ここぞと云うタイミングを掴んでいないとこう云った捌きは使えないものじゃよ」
 興堂範士の技の冴えを見せつけられて万太郎は心中唸るのでありました。何時もながらの俊敏で流麗な動きと技の迫力であります。
「では先ず、最初の、相手の突きを剣術の、相打ち返し、の要領で捌いて、相手の脇に身を入れて脇腹を打つ体捌きの稽古から始めるとしようか」
 興堂範士のその言葉に門下生達がすかさず反応して、「押忍」の発声と伴にきびきびとした動作で一斉に立ち上がると、二人一組になって道場一杯に広がるのでありました。万太郎は何時も通りに良平と、内弟子同士で組むのでありました。
「脇腹への突きは形だけにするように。一々本気で打ちこまれては受けの身がもたん」
 興堂範士は笑い顔をして大声で注意するのでありました。まあ、これは云わずもがなの事を云ったまでで、愛想の戯れ言の一つと解すべきでありましょう。
「では稽古始め!」
 興堂範士のかけ声に門下生達が「押忍」と応じ、各個に稽古に励む気合の声が道場一杯に乱れ響くのでありました。万太郎が横目にちらと見所の方を見遣ると、鳥枝範士が横に座っていた是路総士に一礼して、見所から降りてくるのが見えるのでありました。
 これは指導のために門下生の間を回るためであります。この回り指導には興堂範士を始め鳥枝範士と、それに威治教士の三人がつくのでありました。
(続)
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