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お前の番だ! 61 [お前の番だ! 3 創作]

 廊下から師範控えの間に近づいて来る足音が聞こえるのでありました。次第に大きくなるその床を踏む音は如何にも堂々とした足取りを想像させるもので、これは一般稽古を終えた鳥枝範士が道場から控えの間に戻って来たのでありましょう。
 障子が開いてその後ろに正坐しているのは、矢張り鳥枝範士その人でありました。
「ただ今滞りなく一般稽古を終えて参りました」
 鳥枝範士はそう云いつつ是路総士に畏まって座礼するのでありました。
「ご苦労様でした」
 是路総士も首を垂れて返答のお辞儀するのでありましたが、先程の万太郎に向かってした座礼の丁寧さよりは些かぞんざいな風でありました。
「失礼します」
 鳥枝範士は控えの間に膝行で入り後ろ手に障子を閉めるのでありました。
「誓紙をいただいて、当流の大概をお話ししたところでした」
 是路総士がこれまでの万太郎との遣り取りを鳥枝範士に報ずるのでありました。
「ああそうですか。有難うございます。この後は私の方でこの男に内弟子の心積もりやら作法やらを教誨して、それに今後の具体的なあれこれの話しなんぞもつめましょう」
「よろしくお願いします」
 是路総士は横に座った鳥枝範士にまた一礼するのでありました。「さて、それでは私はこれで母屋の方に引き取らせていただきますかな」
 是路総士のその言葉に鳥枝範士はすぐに反応して、少し後ろに躄って両掌を畳につくのでありました。万太郎も座卓から離れて鳥枝範士の容を真似るのでありました。
 是路総士は座卓から立ち上がって鳥枝範士と万太郎の間を進み、障子を開けて廊下に出ると座敷の方に向き直って立礼するのでありました。その立礼に鳥枝範士は「押忍」と発声しながら頭を低くするのでありましたし、万太郎もそれに倣うのでありました。
 本来なら内弟子たる万太郎が是路総士より先に障子戸に趨歩して、是路総士のためにそれを開くべきなのであろうと思うのでありましたが、まあ、もう後の祭りでありました。
「誓紙を出した以上、内弟子なんだから横着しとらんで、きびきびと気を利かせんかい」
 是路総士が去った後、早速鳥枝範士がそう云うのは、屹度その辺の万太郎の手際の悪さを難詰するためであろうと察しがつくのでありました。
「済みません。出遅れました」
 是路総士を憚ってか床の間を背にした位置には座らずに、座卓の横手に躄ってついた鳥枝範士に万太郎は頭を下げるのでありました。
「ふむ。ワシが何の小言を云っているのかはちゃんと判ってはいるようだな」
 鳥枝範士は万太郎の斟酌の良さがやや意外そうで、且つ少しく満足したような云い草をするのでありました。「以後気をつけよ」
「はい。申しわけありません。迂闊でした」
「それから当流では返事は、はい、ではなく、押忍、と決めてある。以後そのように云うように。まあ、礼の仕方は捨身流とか剣道をやっていただけあって様になっておるが」
(続)
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お前の番だ! 62 [お前の番だ! 3 創作]

 廊下に人の気配がするのでありました。
「失礼します」
 そう云って静々と障子を開けたのは良平でありました。良平は鳥枝範士に献じる茶を持ってきたようでありました。
 鳥枝範士の前に茶碗を置くと、良平はすぐに立ち去らず、座卓から少し下がった位置に正坐して万太郎の方を見ているのでありました。今度新しく入る事になった自分の後輩内弟子たる万太郎に、興味津々と云った風情であります。
「こら面能美、そんなところに落ち着いていないで、道場の畳の拭き掃除でもしていろ」
 鳥枝範士が良平を睨むのでありました。
「ああ、押忍」
 良平は慌てて表情を引き締めて鳥枝範士に座礼し、控えの間をすごすごと出ていくのでありました。何となく愛嬌のある同い歳の兄弟子であります。
「さて、何時から道場に転がりこむか?」
 良平が障子を閉めた後、鳥枝範士が訊くのでありました。
「先程総士先生にお許しを得て、大学を卒業するまでは通いの内弟子で良いと云う事になりました。稽古には明日から参加させていただきます」
「ああそうか」
 鳥枝範士は無表情にそう云うのでありました。そんな甘っちょろい事を云っとらんで、等とすぐさま大喝しないところを見ると、そう云う事情に特段文句はないようであります。
「稽古は内弟子稽古も含めて全部出るのか?」
「総士先生には未だ内弟子稽古は無理だろうから、一般稽古で体を慣らせとおっしゃっていただきました。しかし僕としては可能な限りの稽古に出たいと思います」
「ま、確かにいきなり内弟子稽古に来られても足手纏いにしかならんからな」
「それから通いの期間中も時間の許す限り道場に居るようにしたいと思っています。僕としても早く内弟子の仕事に慣れたいので」
「ふむ。結構な心がけではある」
 鳥枝範士は無愛想な顔の儘でありながらも、大きく頷くのでありました。
 この後、内弟子仕事の具体的なところを鳥枝範士は結構細々と万太郎に語って聞かせるのでありました。なかなか大変そうではあるものの、一旦内弟子として入門する限りは、万太郎はそれを以って俄に気後れを感じるとか尻ごみする事はないのでありました。
 はっきり自分で決めた以上、万太郎は以後の事を先走りしてあれこれ心配してみたり、悲観的な観測に支配されたりする気性ではないのでありました。これは、潔い、とか云うのではなくて、少年時代から養われた彼の呑気さにひたすら由来するのでありましたが。
 鳥枝範士との話し、と云うのか、今後の打ちあわせを終えた万太郎は、その日はもう一般稽古がないのでそれで道場を後にする事になるのでありました。万太郎が師範控えの間に残る鳥枝範士に丁重な座礼をすると、意外な事に、鳥枝範士も先の是路総士と同様に、畳に両掌をついて威儀を正して万太郎に向かって頭を下げるのでありました。
(続)
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お前の番だ! 63 [お前の番だ! 3 創作]

「今後とも、よろしくお願いいたします」
 鳥枝範士は今まで聞いた事のないような、返って万太郎の方がまごつくような丁重な物腰で云うのでありました。是路総士にしても鳥枝範士にしても、新入門の内弟子風情に対するこの丁重さはどうした事でありましょうか。
 万太郎は常勝流と云う流派の秘められた薫香を嗅いだような気になるのでありました。当流の長く厳しい、そして正しい修行を積んだ人であるからこそ、体得された武道的厳格さが物事の折り目で見事な礼容として現れるのでありましょう。
 万太郎は一種の感動に浸りながら、更衣のために納戸兼内弟子控えの間に行くのでありましたが、そこには良平がまるで万太郎が現れるのを待っていたかのように、部屋の中央に座しているのでありました。
「おう、内弟子入門の手続きと挨拶は済んだのかい?」
「はい、じゃなかった、押忍」
 万太郎の慣れぬ返答言葉に良平はニヤと笑って見せるのでありました。
「そんじゃあ俺は、鳥枝先生の茶を替えに行ってくるか」
 良平はそう云いながら億劫そうに立ち上がるのでありました。「ところでお前さん、何時から道場に引っ越して来るんだい?」
「一応三月までは通いの内弟子と云う事で、稽古には明日から参ります」
「ふうん、三月まで通いの内弟子、ねえ。そんなまどろっこしい事しないで、さっさとここに腰を据えれば良いじゃないか。内弟子仕事の色々も教えんといかんからな」
「ええまあそうかも知れませんが、一応未だ学校の方もありますし。・・・」
「まあいいや」
 良平は万太郎の脇を抜けて出入口の戸に手をかけるのでありました。「お前さんが来れば少しは俺の仕事も楽になるだろうから、楽しみにしているぜ」
「はい、じゃなかった、押忍。よろしくお願いします」
「よっしゃ。承りましたときたもんだ」
 良平は戯れ言のような妙な応諾の返事をして見せるのでありました。
「着替えが済んだら、僕はその儘、総士先生や鳥枝先生にお暇の挨拶をしないで帰って仕舞っても良いんでしょうか?」
「別に構わんよ。お二方共、今日はもうお前さんに用事は何もないだろうからな。俺も、取り敢えず用事はない」
「押忍。判りました」
 万太郎は良平にお辞儀をして見せるのでありました。
「明日は何時に来るんだ?」
「朝稽古に間にあうように来ます」
「つまり十時頃と云う事か? 出来たらそんな無精をしていないで、八時頃来て貰うと好都合だな。通いとは云え、もう内弟子なんだから色々覚えて貰う仕事もある」
「判りました。それでは八時に参ります」
(続)
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お前の番だ! 64 [お前の番だ! 3 創作]

「よっしゃ。よろしく頼むぜ」
 良平は兄弟子らしく些か横柄に万太郎の肩を叩くのでありました。この同い歳で二か月だけ先輩たる良平の兄貴面に、万太郎は特段嫌味を感じる事はないのでありました。
 それは万太郎が内弟子に入った事を、生一本に嬉しがっている様子がその素ぶりの中にちらちら仄見えるからでありました。勿論、弟分が出来る事で、内弟子仕事上の功利的思惑で嬉しがっていると云うのも多分にありはするのではありましょうが、しかしそればかりではなくて、まるで家族が増えたのをただ純一に歓喜する小学一年生のような心根が、良平の体膚から隠れもしないで滲み出しているのであります。
 この気立ての大いに好ましき先輩が納戸兼内弟子控えの間から消え去ると、万太郎は更衣を始めるのでありました。待遇面では当初の彼の希望からは大外れであろうものの、それでも結構、満足すべき就職先を見つけ得たのではなかろうかと、万太郎は片頬に笑みを浮かべて上着の袖に腕を通すのでありました。
 貰った稽古着を入れたビニール袋を小脇に、暮れかかった道を仙川駅の方に向かっていると、前から、曲げた左肘にキルトで出来た黄色のバッグを提げ、右手にスーパーで買い物した大きな紙袋を一つ抱えた見覚えのある女性の顔が近づいて来るのでありました。
「あ、どうも。先程道場では有難うございました」
 そう声をかけてきた男が万太郎である事をあゆみは一瞬判らなかったようでありましたが、すぐに合点して小首を傾げるような仕草でお辞儀を返して破顔するのでありました。
「ご苦労様でした。お帰りですか?」
 稽古の時とは違って丁寧なもの云いであります。
「はい。通いの内弟子として明日から稽古に参加させていただきます」
「ああそうですか。今後ともよろしくお願いします」
 あゆみは上体をやや深く倒してお辞儀するのでありました。その時右手に抱えた紙袋から一番上に乗っていた林檎が一つ転がり落ちそうになるのでありましたが、それはかろうじて袋の中に留まるのでありました。
「通いの内弟子とは云え、可能な時はなるべく長く道場にいたいと思いますので、色々ご指導をよろしくお願いいたします」
「はい。大変でしょうけど内弟子の仕事には徐々に慣れてください。家の内が益々賑やかになって、あたしも嬉しいです」
 あゆみはそんな愛想を云って目を弓形に細めるのでありました。
「では明日」
 万太郎がまたお辞儀をするとあゆみも先程と同じ程度に深く低頭するのでありました。万太郎は上体を起こすと同時に歩き始めたので、彼より少し長く頭を下げた儘のあゆみの持つ紙袋から、今度は林檎が落ちなかったかどうか背中で少し心配するのでありました。

 是路総士が、相打ち返し、と云う形の要諦を説明するのでありました。
「あくまでも相手に左横への変化を悟られないように動くのがミソですな」
(続)
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お前の番だ! 65 [お前の番だ! 3 創作]

 是路総士は木刀を片手で柔らかくふって見せるのでありました。「そのためには刀のふり方に少し工夫がありましてな。こちらの刀はあくまでも相手の正面に向かう軌跡を見せます。その太刀筋に相手の意識が囚われていれば、これはしめたものです」
 確かに是路総士の木刀はこちらに一直線に向かって来るように万太郎には見えるのでありました。だから後の先の有利を活かして、こちらも太刀筋を一切変化させる事なく、最短距離で是路総士の前額目がけて打ちこもうとしたのでありました。
「しかし一足横に動くとなると、明らかに太刀筋の変化が現れてしまいますな。言葉は悪いですがここを如何に誑かすかと云うところです」
 是路総士は道場下座に並ぶ興堂派門下生に対して背中を見せて立つのでありました。「私の体の横への動きと、私のふる木刀の太刀筋とを比べながら見ておいてくださいよ」
 是路総士はそう云って、横に体を変化させながら二三度木刀を上段から真っ向斬りにふって見せるのでありました。しかし見ただけでは是路総士の体の変化と太刀の動きに、総士の云う工夫と云うものを看取出来るような者はそうはいないのでありあます。
「どうじゃな、私の太刀筋と体の動きの間にある関係を見抜けましたかな?」
 是路総士は門下生の方に向き直って訊ねるのでありましたが、誰も声を発する者はいないのでありました。勿論万太郎も無言の儘でありましたが、太刀の操法と云うよりは、実は是路総士の太刀が迫切してくる時の恐怖と云うのか、その正確無比でしかも一切の容赦を知らぬような酷薄なる刃先の威圧感に秘訣があるのではないかと、これは万太郎が幾度か是路総士と内弟子の剣術稽古で手あわせして得た感触なのでありました。
 是路総士は接する時は何時如何なる時でも、至って柔和な人なのでありました。しかしそのこの上もなく柔和な仁が手にする太刀は、人を切り刻んでも眉一つ動かさない相手をたじろがせるに充分の酷虐な面相をしているのであります。
 これは是路総士と云う個人がそう云う本性を秘め持っていると云うのではなく、恐らく常勝流の苛烈な修行がもたらしたもの、一度太刀を手にした時に是路総士の本来の資質をも超えて仕舞う、殺傷術、として現れざるを得ない武術家の業と云うものであろうと万太郎は考えるのでありました。武術修業とはかくも恐ろしいもののようであります。
 であるなら、ここで是路総士の云う、工夫、なるものは余人には容易に真似の出来ない技術なのであります。しかし、技術、であるなら、可能性として体得出来ないものでもないはずでありますが、はてさてどうでありましょうや。
「威治さん、私の太刀筋と体の動きの関係が判ったかな?」
 是路総士は笑い顔で下座の端に座っている威治教士に愛想を向けるのでありました。
「いやあ、僕等のような凡人には到底。・・・」
 威治教士のその一見遜ったような物腰に、万太郎は是路総士に対する無礼を読み取るのでありました。敬して遠ざける、と云う言葉があるのでありますが威治教士のその云い草には、敬する、ところもないある種の侮慢のみが埋蔵されているようでありました。
 威治教士は是路総士から学ぶ意欲が更々ないようであります。強さと云う点で、要はそんな小難しい太刀筋と動きの関係等大した意味はないと云った了見なのでありましょう。
(続)
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お前の番だ! 66 [お前の番だ! 3 創作]

「さあて、こうしてあれこれ話しばかりしていてもつまらないでしょから、二人で組んでこの一本目の形をやってみましょうかな」
 是路総士はその場に正坐すると、先ず万太郎に、それから下座の門下生に向かって「では夫々どうぞ」と云いながらお辞儀するのでありました。一同はそれに「押忍」と声を揃えて応えて立ち上がると、二人ずつのペアになって道場一杯に散らばるのでありました。
 見所を下りた興堂範士が木刀を片手に万太郎に近づいて来るのでありました。
「折野君、一つワシとお願い出来ますかな?」
 思いがけぬその申し出に万太郎は面食らうのでありましたが、だからと云って断る理由は何もないのでありました。
「あ、どうも。よろしくご教授願います」
 万太郎は恐懼して少し深い立礼をするのでありました。常勝流の名人位にある興堂範士と稽古出来るのは全く以って有難いのでありますが、入門僅か二か月の万太郎には畏れ多いと云えばこれ程畏れ多い、対等の立場での稽古相手はないと云うものであります。
 幾ら高名であるとは云っても興堂範士からは、この場にあっては是路総士に稽古をつけて貰う一門人に過ぎないと云った遜った物腰が、如何にも自然にその体貌より匂い出ているのでありました。万太郎は興堂範士の人格の大きさに打たれるのでありました。
「先ずは折野君が仕太刀で、ワシが打太刀をつかまつろう」
 一間半の間合いで正眼に対峙した興堂範士は、一足左足を前に送って八相の構えになるのでありました。呼応するように万太郎も構えを八相に変えるのでありました。
 先ず万太郎が誘いをかけるように肘を微妙に動かすと、それに反応して空かさず興堂範士が木刀を上段に上げて正面に打ちかかってくるのでありました。その打ちこみの速さは是路総士以上なのでありました。
 万太郎は後の先、と云うよりは、あしらい損ねて明らかに後手に動くしかないのでありました。そうなれば横の変化も何も不可能なのでありました。
 万太郎は上体を捻って興堂範士のふり下ろす太刀の線からかろうじて逃れて、同時に木刀を頭上で横にして興堂範士の斬撃を受けるしか術がないのでありました。木刀の搗ちあう乾いた音が道場に響くのでありました。
「済みません、出遅れました。もう一度お願い出来ますか?」
 万太郎は興堂範士の撃刀の重さを腰に感じながらそう請うのでありました。
「おう、何度でも」
 興堂範士はそう云うが早いかすぐに後ろに跳び退って、また一間半の間合いで八相に構えるのでありました。是路総士の打ちこみは、その威圧感に依って相手を居竦ませて動作を儘ならぬものにして仕舞うのでありましたが、興堂範士のそれは、真に目にも留まらないスピードが身上であると云えるでありましょう。
 万太郎はもう一度、後の先を試みるのでありましたが矢張り敗北的に出遅れるのでありました。彼はふと高校生の頃の剣道の試合を思い出しているのでありました。
「もう一度お願いします!」
(続)
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お前の番だ! 67 [お前の番だ! 3 創作]

 万太郎は脂汗を額に滲ませるのでありました。
 出遅れないためには誘いをかけない方が良いと、二度興堂範士の木刀を頭上で受けた衝撃の残滓を掌に残しながら万太郎は考えめぐらすのでありました。
 万太郎は八相に構えた儘動く気配を殺して秘かに左足の指で地を噛むのでありました。これは相手に動作の起こりを察知されずに一気に前に跳びだすための用意であります。
 しかしその万太郎の見えない筈の身じろぎを捉えたのか、それとも彼の底意を察したのか、興堂範士は木刀を上段に動かして仕かけてくるのでありました。万太郎は興堂範士の木刀がその頭上に到達する前に左足で畳を蹴るのでありました。
 万太郎の左横への変化は殆ど僅かしかないのでありました。万太郎の木刀は直進して興堂範士の頭上に止まるのでありました。
 しかしほぼ同時に、興堂範士のふり下ろす木刀が万太郎の右耳朶を擦る程の近さで彼の首根に据えられるのでありました。これは真に、相打ち、であります。
「ほう、やられましたな」
 興堂範士が上目で自分の頭上に止まっている万太郎の木刀の物打ちを見上げるのでありました。そうは云うものの興堂範士の木刀も万太郎の首根を打ってはいるのであります。
「折野、それはいかんなあ」
 万太郎の左斜め後ろから是路総士の声がするのでありました。「今のお前の動きは組形稽古で求められる、後の先、の動きではなく、単なる、先、見切り発車、だ」
 万太郎は身を後ろに引いて木刀を下段に下ろすのでありました。それから体ごと後ろをふり返って是路総士に一礼するのは、どこが「いかん」のか訊くためであります。
「組形稽古ではな、・・・」
 是路総士が諭すような物腰で云うのでありました。「組形稽古では、後の先、の目と、動きを養うのが目的だ。見切り発車的に仕かけるのは今の稽古の趣旨にあわんな」
「押忍」
 万太郎は頷くのでありました。確かに今のは誘いもなく兎に角、先、を取ろうとこちらから打ちこんだのであります。
「単なる、先、で打ちこむのは道分さんの、後の先、の術中に嵌ったと云うだけだ。組形稽古は、先、とか、先の先、の動きを錬るために行うのではなくて、あくまでも、後の先、を錬るのが目的だ。先、とか、先の先、或いは、先先の先、は乱稽古で用いる機微で、後の先、が充分出来てから後に行わなければそれも結局中途半端で終わるしかない」
「押忍」
 万太郎はお辞儀と云うよりは項垂れると云った様子で低頭するのでありました。
「今のは相打ちだから、相打ち返し、と云う形にもなっておらん。つまりお前は私が指示した、相打ち返し、の組形稽古を稽古しようとないで不謹慎にも乱稽古もどきの了見であったと云うわけだ。それに乱稽古であって道分さんが自由に動けるとしたなら、お前の木刀は間違いなく道分さんに好きなようにあしらわれてその体を掠りもしないだろうよ」
「押忍。申しわけありません」
(続)
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お前の番だ! 68 [お前の番だ! 3 創作]

 是路総士が傍から離れた後、万太郎は興堂範士に頭を下げるのでありました。
「僕の了見違いから稽古の手を止めさせて仕舞って、申しわけありません」
 そう云う万太郎に興堂範士はニンマリと笑い返すのでありました。ここで「いやそれにしてもなかなか鋭い打ちこみでした」なんぞと言葉で慰めを云わないところが、興堂範士の分別のあるところでありましょう。是路総士が去ったすぐ後にそのような言葉を出すなら、それは折角の是路総士の万太郎に対する指導を蔑ろにする事になるからであります。
 その辺の興堂範士の配慮は万太郎にも充分理解出来るのでありました。万太郎は興堂範士の床しき心映えを慮って益々敬服の念を篤くするのでありました。

 早速、日曜日から万太郎の通いの内弟子としての武道生活が始まるのでありました。アパートを出がけに些かの緊張と不安を覚えるのでありましたが、こう云うものは早く慣れて仕舞えばどうと云う事はなかろうと思い切り、玄関ドアの内で一つ頭を横にふってそれをふるい落としてから、万太郎は快晴の冬空の下に跳び出すのでありました。
 八時少し前に調布の常勝流総本部道場の玄関を入ると、納戸兼内弟子控えの間から出て来た良平が満面の笑みで迎えてくれるのでありました。
「おう、待っていたぞ。早く上がって稽古着に着替えろ。仕事が山ほどあるんだから」
 良平はそう云いながら手招きの仕草もそこそこに、今出て来た納戸兼内弟子控えの間に消えるのでありました。万太郎は靴を脱いでちょっと迷ってからそれを上がり框下の隅に揃えて、良平の後を追って部屋に入るのでありました。
「靴は玄関に脱いだ儘にしておいて良いのでしょうか?」
「ああ、後で俺達が使う靴箱を教えるよ」
 着替え終わった万太郎は今一度帯の結び方を良平に指導して貰うのでありました。
「総士先生にご挨拶したいのですが」
「ああそうだな、じゃあ、俺について来い」
 良平は万太郎を従えて、昨日是路総士と対面した師範控えの間の方に廊下を進むのでありました。しかしその部屋には入らずに、廊下の突当りにある扉を押し開いてそのまた奥へと歩みを進めるのでありました。
 その扉から先は、どうやら是路総士とあゆみが暮らす母屋と云う按配のようであります。すぐに台所があってそこを左に折れると、大きな引き違い窓から日差しの入る縁側兼廊下がずっと先まで続いているのでありました。
 良平は障子戸の開け放たれた台所隣の和室の外に正坐して、万太郎にも座るように手で指示するのでありました。
「新米内弟子がご挨拶をしたいと云うので連れて参りました」
 良平は律義らしく座礼しながら部屋の中に言挙げするのでありました。万太郎も倣って両手を揃えてお辞儀するのでありました。
「ああ、折野君か。随分と早いな」
 中で本を開いていた是路総士が廊下で畏まる万太郎を見るのでありました。
(続)
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お前の番だ! 69 [お前の番だ! 3 創作]

「本日からお世話になります。どうぞよろしくお願いいたします」
 万太郎は顔を伏せた儘で云うのでありました。
「はいよろしく」
 是路総士も威儀を正して万太郎に頭を下げるのでありました。「面能美、お前が怠けようと云う魂胆で、こんな早い時間から折野君を呼びつけたんだな?」
 是路総士は良平の方に顔を向けて云うのでありました。
「いや、そう云うわけではない、事もないですが。・・・」
 良平はあっさり認めて頭を掻くのでありました。なかなか愛嬌のある男であります。
 台所からお茶を載せた赤い漆塗りの丸盆を持ってあゆみが座敷に入ってくるのでありました。あゆみは縁側で畏まる万太郎の方に可憐な笑顔を向けるのでありました。
「昨日は色々有難うございました。本日からよろしくお願いいたします」
 万太郎はあゆみに対しても丁寧な座礼を行うのでありました。座卓の横に座ったあゆみは、手にしていた盆を自分の横に置いて万太郎の方に向かって両手をついて矢張り丁寧なお辞儀をするのでありました。
「こちらこそよろしくお願いします」
「それでは早速朝の仕事にかかります」
 良平がもう一度お辞儀をして立ち上がるのでありました。万太郎も少し遅れて一緒に立つのでありました。
「ほんじゃあ、お前さんは道場の掃除だ」
 納戸兼内弟子控えの間に帰ってくると良平は万太郎に指示を出すのでありました。「昨日の夜に一応の掃除はしてあるから、壁の木刀かけとか神棚の上とか名札板とか細々したところ、それに吊るしてある籠手なんかの小物の埃を掃って乾拭きしておいてくれ。それから木刀も一本々々丁寧に拭いて揃えておいてくれよ。俺は母屋の庭の掃除をしてくる。ああそれから、道場のどこかの蛍光灯が切れかかってちらちらしていたから、換えておいてくれ。電気をつければすぐ判るだろう。換えの蛍光灯はそこの棚の一番上にあるから」
 良平は後ろの整理棚を指差すのでありました。
「判りました」
「呑気にやらないで手際良く三十分で済ませてくれよ。済んだらここで待っていてくれ」
「玄関に脱いだ僕の靴はどうすればよいのでしょう?」
「ああ、横の壁に靴入れがあるからそこの一番下の段に入れておけば良いや。一番下の段が俺とお前が使って構わない段だ」
「判りました」
 万太郎はもう一度頷くのでありました。
「道場の雑巾とか箒とか木刀拭きとか脚立なんかは、奥の壁の物入れの中にあるからな」
「判りました」
「道場では、判りました、じゃなくて返事は、押忍、だ」
「押忍」
(続)
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お前の番だ! 70 [お前の番だ! 3 創作]

 万太郎が良平に云われた通り木刀を一本一本壁の木刀かけから取って拭っていると、稽古着に着替えたあゆみが道場に顔を出すのでありました。万太郎は竟愛想で笑顔を向けるのでありましたが、それに対してあゆみが先程見せた可憐な笑顔ではなく、厳めしそうな面差しを向けるのは意表を突かれたと云った感じでありました。
「今朝の道場掃除は折野が担当するのか?」
 随分と高飛車な云い方であります。
「はい。面能美さんに指示されましたので」
 万太郎はたじろぎながら返すのでありました。
「道場では返事は、押忍、だけ。以後気をつけるように」
「押忍」
 先程までとはガラリと変わったこの威圧的な物腰はどうでありましょうや。
「それなら、終わったら、内弟子の間に居るから報告するように。後で点検する」
「はい、じゃなかった、押忍。判りました」
「押忍、と云えばその後に、判りました、は要らない」
「押忍」
 あゆみは厳めしそうな面差しの儘万太郎をジロリと一睨みして去るのでありました。万太郎は面食らった顔を急ぎ修復する暇もなく、それを見送るのでありました。
 良平に指示された仕事を終えて納戸兼内弟子控えの間に戻ると、あゆみがそこの掃除をしているのでありました。
「押忍。道場の方は終わりました」
 万太郎は立礼しながら報告するのでありましたが、ちゃんと正坐して座礼してから報告をすべきだったかと倒した頭の中で考えるのでありました。
「ご苦労さん」
 あゆみは屈みこんで座卓の上を拭く手を休める事なく、無表情な顔だけを万太郎に向けて返すのでありました。正坐して礼をしなかった事は特段咎めないようであります。
「僕が代わります」
 万太郎はあゆみの持つ膳拭きに手を伸ばすのでありました。
「いや、ここはいいから道場玄関周りの掃除を。箒にバケツと雑巾は靴箱の中に仕舞ってあるから。水は外に出たら水道があるのでそこから汲んで」
「押忍」
 万太郎がその指示に従うためくるりと反転して部屋を出ようとすると、あゆみの次の言葉が彼の襟首を掴むのでありました。
「指示を受けた場合、承りました、と返事するように。さっき道場では云いそびれたけど」
 万太郎はもう一度体を反転させてあゆみにお辞儀をするのでありました。
「押忍。承りました」
 あゆみはそこで一旦手を止めて無愛想に頷くのでありました。それから今度は立ち上がってすぐに壁際の棚拭きに移るために、つれなく万太郎に背を向けるのでありました。
(続)
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お前の番だ! 71 [お前の番だ! 3 創作]

 朝稽古の前は色々仕事が一杯あって目が回るくらい忙しいものだと、万太郎は良平に唆されて初日から朝早くに道場に来た事を少し悔やむのでありました。しかし遅く来ていたとしても、初日こそこの忙しさを免れ得たかも知れないけれど、結局二日目以降にはあゆみと良平に扱き使われる事になるのでありましょう。
 玄関の上がり框を雑巾がけしていると、納戸兼内弟子控えの間の掃除を終えたあゆみが姿を現すのでありました。
「先ず沓脱全体を外箒で掃いたか?」
 あゆみが訊くのでありました。
「押忍。壁の埃も払って靴箱も拭いて、その後でここの雑巾がけをしています」
「うん。手順は問題なしだな」
 あゆみは満足気に頷くと、沓脱に降りて草履を突っかけて外箒を持って玄関引き戸を開けるのでありました。これから玄関外周りを掃くのでありましょう。
 そこに母屋の庭掃除を終えた良平が現れるのでありました。
「おう、やっぱり三人でやると朝の仕事もはかどるなあ」
 良平は廊下に立った儘万太郎を見下ろして云うのでありました。
「面能美、無駄口を叩いていないで廊下の拭き掃除を始めろ」
 玄関引き戸の向こうからあゆみの叱声が良平を襲うのでありました。
「押忍。承りました」
 良平は万太郎に眉を上げて舌を出して見せるのでありました。しかしニコニコと嬉しそうな笑い顔の儘でいるのは、今まで一人きりであゆみの叱声に甘んじて目まぐるしく朝の仕事に扱き使われていたのが、万太郎と云う弟分の参入によって、扱き使われる度合いが些かなりとも減じたのを心から喜んでいるからであろうと思われるのでありました。
 三人そろって師範控えの間から納戸兼内弟子控えの間、それから道場とその向こうに続く門下生更衣室までの廊下を雑巾がけして、ようやくに朝の仕事は一段落を迎えるのでありました。ここまで終えて腰を伸ばした時に、万太郎はまるで一人暮らしの自分のアパートの部屋の、一年分の掃除をしたような達成感を覚えるのでありました。
 この後は万太郎が最初に担当した道場掃除をあゆみが点検して、前の廊下に万太郎と良平が横に並び、それに向いあうようにあゆみが立って儀式的な挨拶を交わして、これで目出度く内弟子総員での朝の道場掃除は終了と云う按配でありました。
「朝掃除を完了する」
 あゆみが万太郎と良平に立礼しながら宣するのでありました。
「押忍。ご苦労様でした」
 良平があゆみに立礼するのでありました。一拍遅れてたじろぎながらも万太郎も「押忍」と発声して、あゆみにお辞儀を返すのでありました。
 万太郎と良平の低頭した姿を残して、あゆみは今拭き掃除したばかりの廊下を母屋の方へ去るのでありました。良平はあゆみの姿が納戸兼内弟子控えの間の角から消えるのを見届けてから、万太郎に聞こえるような大袈裟なため息を漏らすのでありました。
(続)
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お前の番だ! 72 [お前の番だ! 3 創作]

「どうだい、なかなか内弟子も大変だろう?」
 良平が横に立っている万太郎に訊くのでありました。
「そうですね。しかしこれは想像していた内です」
 万太郎は然程めげた風もない様子で笑うのでありました。
「ああそうかい」
 初端から万太郎が大いに怯んだだろうと想像したのに、存外ケロッとしているのが良平には期待外れのようでありました。「俺は参ったね。大体が怠け者で掃除なんて好い加減にしかやった事がなかったから、あゆみさんに指示されてもどうして良いのやら勝手が判らなくて、一週間くらいは叱られっぱなしだったぜ。しかも今まではあゆみさんと俺の二人でやらなければならなかったから、もう、てんてこ舞いとはこれを云うのかと知ったね」
「僕も本来は、掃除なんかは苦手な方です」
「ま、一週間も同じ事やっていれば慣れるけどな」
「ところで稽古までの仕事はこれでお仕舞いなのですか?」
「そう、朝稽古が始まるまで暫しの解放の時間だ。内弟子部屋で寛いでいようぜ」
 良平は門下生更衣室の角を曲がった、更に廊下の奥にある内弟子部屋へと万太郎を連れて行くのでありました。そこは良平が起居している部屋のようでありますが、その内万太郎もそこに同居する事となるのでありましょう。

 是路総士の「止め」の声が上がるまで万太郎は興堂範士と、相打ち返し、の組形を仕太刀と打太刀を交代しながら繰り返すのでありました。興堂範士の太刀扱いは兎に角素早く、木刀が空気を切り裂く音が万太郎の操る木刀のそれより格段に鋭いのでありました。
「さあて、このくらいで」
 是路総士が大きくはないながら道場中に渡る声を上げるのでありました。その声に反応して、散らばっていた門下生達が下座に下がって横一列に正坐するのでありました。
「次は、逆打ち返し、の形をやるとしましょう」
 是路総士はそう云いながら万太郎の方に目線を向けるのでありました。万太郎は即座に是路総士の前に疾行するのでありました。
「ご存知のようにこれも、相打ち返し、と要領は同じで、八相の構えから相手に直進すると思わせて、微かに今度は相手の左横に歩み足で出ながら正面を打つ技ですな」
 是衣路総士は万太郎と向いあって八相に構えると、逆打ち返し、の組形をゆっくり演じて見せるのでありました。是路総士がゆっくり演じようとしているのならそれを敏感に察して、万太郎の方も矢張りゆっくりと打太刀としての木刀をふり下ろすのでありますが、これは指示も何もない状態で是路総士の意を酌む能力が必要とされるのであります。
 若し師である是路総士がゆっくりと打てと無言に要求しているのに、弟子が無分別に早い打ちこみを敢行したなら、勿論是路総士に簡単にあしらわれて即座の反撃を受ける事になるのでありますが、それ以前に、相手との関係の機微を読めない、武道家としては魯鈍な不器量者とされるのであります。これは慎に以って立つ瀬のない評価なのであります。
(続)
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お前の番だ! 73 [お前の番だ! 3 創作]

「どうですかな、要は、相打ち返し、と同じでしょう?」
 是路総士は門下生の方に向かって云うのでありました。下座の門下生の内何人かは頷いているのでありましたが、頷く程にその理を理解している者がどれだけいるのか。
 是路総士はこの後三方向から、初めの一本を入れると四方向から、逆打ち返し、の組形をゆっくり下座の門下生に演武して見せるのでありました。それから今度は素早い動作で、同じく四方向から演じて見せるのでありました。
「ではこの形を暫し稽古しましょう」
 是路総士はそう促すのでありました。万太郎はまた興堂範士と組むつもりで、その座っている前に行って正坐の後お辞儀をするのでありました。
「またご指導をお願いいたします」
「いや折角ですから、この技は一つ威治と組んで稽古して下さらんかな?」
 興堂範士はそう云って道場を見回して威治教士の姿を探すのでありました。まるで万太郎に威治教士への教授を依頼するような口ぶりであるのは、万太郎としてはたじろぐ程に畏れ多い事であり、且つ忝さ過ぎる事でもあるのでありますが、けれどもあまり快い印象を持っていない威治教士と組まなければならないのは些かげんなりでもあります。
 しかしそれを云うわけにもいかないので、万太郎は極力無表情で同意の頷きをして見せるのでありました。そう云えば剣術の稽古で、まあ、万太郎が思わず知らず避けていた事もありますし、向こうも稽古相手として万太郎風情は目にも入らなかったと云う事もありましょうが、二人で組んだ事は今までなかったなあと万太郎は思うのでありました。
「おうい、威治、こっちへ来い」
 威治教士の姿を見つけた興堂範士が手招きをするのでありました。取り巻き連の一人と組んで稽古しようとしていた威治教士は、興堂範士に呼ばれて、その相手と礼も交わさないでこちらにやって来るのでありましたが、いくら取り巻きの手下であろうからと云って一礼もなしにその相手に背中を向けると云うのは、礼貌としてどうでありましょうや。
「折角の月に一度の機会だから、この折野君に一手お願いしろ」
 興堂範士にそう云われて威治教士は、思わず細めた目に険を宿して万太郎を一瞥するのでありました。どうしてこんな入門間もない白帯風情に一手お願いする必要があるのかと云った、明らかな不服の色がその細めた瞼の奥に表れているのでありました。
「そうだなあ。総士先生の直弟子さんと組める機会はこういう時でないとないからなあ」
 威治教士は一応そう畏まった風を口にするのでありましたが、その口調には入門間もない白帯風情を見縊る傲慢と伴に、総本部道場に対する興堂派道場の対抗心みたいなものが勿論含まれているのでありました。それなら折角だから、是路総士の直弟子なる者を興堂派の若先生たる自分が、一丁揉みに揉んでやろうかと云った魂胆でありましょう。
「よろしくご指導をお願いします」
 万太郎は威治教士の外貌に現れている悪心を大方呑みこんだ上で、丁寧なお辞儀をして見せるのでありました。威治教士は無言の儘頷きもせず、道場真ん中の開いているスペースの方に勝手に歩き出すのでありました。
(続)
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お前の番だ! 74 [お前の番だ! 3 創作]

 通例として手始めには下位者が仕太刀を、上位者が打太刀の役を取るのでありますから、お互いに八相に構えた後に入門間もない白帯風情の万太郎は、威治教士の打ちこむ動作の起こりを待つのでありました。威治教士は目を細めたり首を傾げたり唇を突き出したりしながら、万太郎の八相の構えをあれこれ検分している風で、何とも騒がしい構え姿だと万太郎は秘かに眉を顰めるのでありましたが、それは表情に表わさないのでありました。
 威治教士は万太郎を試すように左肘をひょいと動かして見せるのでありました。しかしそれは万太郎を惑わすための動作である事はすぐに知れるのでありました。
 その如何にも見え透いた計略に、入門間もない白帯風情である筈の万太郎が全く乗ってこないので、威治教士は少しばかり意外であったようでありますが、その僅かな気持ちの波立ちを隠そうとするためか口の端に余裕の笑いを浮かべて見せるのでありました。万太郎は秘かに威治教士のこの、人を端から嬲ろうとする魂胆に舌打ちをするのでありましたが、勿論これも表情には表わさないのでありました。
 ところでその策略に乗るか乗らないかは別にして威治教士の微動を捉えたならば、寧ろしめたとばかり即座に素早い打ちこみで突貫しても構わない筈であります。まあ、そんな風に心理をあれこれ遣り取りするのは、組形稽古の趣旨からは外れるかも知れませんが。
 万太郎は目を細めて無表情の儘、威治教士の構えを注視し続けるのでありましたが、威治教士の方にすればそんな静まった儘の万太郎の姿が、先入の洞察とは違って意外に手強く見え出したようであります。威治教士は口の端の笑いを俄に消して表情を引き締め、目を見開いて対抗心を露わにして見せるのでありました。
 何とも判り易い人だと万太郎は思うのでありました。思慮もなくこんな風に相手に気持ちをはっきり披露して仕舞うようなら、その剣術の手並みも知れたものでありましょう。
 確かに剣の修行に関しては万太郎の方も威治教士に引けを取らないくらい長いのでありますし、少年の頃から竹刀剣道の試合で揉まれていた分、即応力と云う点では一歩長じているかも知れません。万太郎は生じてきた余裕を心根の奥に仕舞って、半眼で、微動だにしない八相の構えで以って威治教士の剣の動きの起こりを待つのでありました。
「おいおい折野、それでは組形稽古ではなくて、まるで乱稽古だ」
 万太郎の横手から是路総士の声が上がるのでありました。万太郎は威治教士から目を離さないで八相の構えを解くのでありました。
 勿論、是路総士は万太郎に声をかけたのでありますが、万太郎だけにではなくて威治教士にも云っているのであります。しかし威治教士の表情には、その言葉が自分にも向けられているとは露許りも感じていないような蒙さが映っているのでありました。
「押忍。済みません」
 万太郎は木刀を左手に納めて是路総士に向かって頭を下げるのでありました。当然ながら、威治教士は別にお辞儀等しないのでありました。
「組形稽古では、動きの起こり、と云う一点以外の相手の気配には一先ず目を向けてはいかん。攻防術を錬るのは今の稽古の後での話しだ」
 是路総士が万太郎に向かって諭すのでありました。
(続)
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お前の番だ! 75 [お前の番だ! 3 創作]

 まあひょっとしたら多少は是路総士の間接的な教誨が効いたのか、効きはしなかったのか、威治教士はこの後は万太郎を玩弄するような所作は慎むのでありました。しかし打太刀として直進しながら真っ直ぐ相手の頭頂部にふり下ろすべき斬線を、万太郎が右に、組形稽古でありますから予め動く方向が判っているのを良い事に、微妙に変化させて打ちこんでくるのは万太郎の組形稽古に対する真摯さを障害する仕業と云うべきでありましょう。
「はい、止め」
 是路総士の声が道場に響くのでありました。万太郎と興堂派の門下生達はその声に反応して急ぎ下座に下がって横一列に正坐するのでありました。
「良いですかな、今やっているのは組形稽古なのですから、相手の不意を突くようなあしらいでまごつかせてやろうとか云った妙な了見で、木刀をふらないように願いますよ。仕太刀と打太刀が相手を思い遣りながら、協力しあって励むのが組形稽古なのですからな」
 この是路総士の言葉は、先程の万太郎と威治教士の稽古の様子を念頭に置いての戒めである事は明白であろうと万太郎は思うのでありました。万太郎は、先に威治教士が仕かけてきたとは云うものの、迂闊にそれに乗ったような結果として、相手の出方への対応をあれこれ検討して仕舞った自分の心根を恥じるのでありました。
 是路総士がちらと万太郎の方を向くのでありました。万太郎は即座に立って是路総士の前に出るのでありました。
「では今度は、相円転返し、の組形をやりましょう」
 是路総士は正眼の構えで万太郎の八相と対峙するのでありました。「こちらが相手の喉に剣先をつけている限りは、八相に構えた相手は手出しが出来ません」
 確かに是路総士の木刀の切っ先から迸る迫力が、万太郎の動きを奪っているのでありました。若し万太郎が微動すれば空かさず、是路総士の木刀の切っ先が最短距離で喉笛に到達するに違いないでありましょう。
「だからこれをこうして、・・・」
 是路総士はそう云いながら、木刀の切っ先を万太郎の喉元から少しばかり左方に動かすのでありました。「相手の左側に外して相手に打ちこむ隙を与えてやると、・・・」
 万太郎は自分の真ん前に迫っていた切っ先が僅かに逸れたので、空かさず上段に木刀をふり被ると是路総士の正面に斬撃を加えるのでありました。すると是路総士は先の、相打ち返し、の時と同じように万太郎の右に動き、その木刀は円く万太郎の斬線に同調しながら往なすように動いて、万太郎の頭頂部に素早く切り返されるのでありました。
 結果、万太郎の木刀は是路総士の右肩の一寸横に逸れた位置に帰着し、是路総士の木刀は物打ちで万太郎の頭頂部を捉えているのであります。これが常勝流剣術の組形三本目、相円転返し、と云う技でありました。
「自分の剣で相手の斬撃を受けないようにするのが肝心です。ギリギリのところで剣の接触を避けて丸く切り返すのですぞ。剣が触ると相手の切り下してくる力に影響されますから、こちらの丸い剣の軌跡が乱れる場合がある。ま、そうなっても本当は乱れてはいかんのですが、相手の剣に触らない方がこちらは滑らかに剣を返し打てますからな」
(続)
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お前の番だ! 76 [お前の番だ! 3 創作]

 是路総士はこれも前と同じに四方から、ゆっくりした動きと早い動きで下座の門下生に形を示して見せるのでありました。
「さて、今度はこれをやりましょう」
 是路総士がそう促すと下座の門下生達はきびきびとした動作で道場に広がるのでありました。万太郎は興堂範士の指示がないので、また引き続き威治教士と組む事になるのかと思って心の内で些かげんなりするのでありました。
 しかし万太郎の前に威治教士を差し置いて、稽古の始めに素ぶり鍛錬の号令をかけた花司馬渉筆頭教士が立つのでありました。
「興堂先生の命により、今度は自分と相手をしていただく」
 花司馬はそう云って万太郎に立礼するのでありました。万太郎は「押忍。お願いいたします」と返しつつ花司馬筆頭教士より少し深いお辞儀をするのでありました。
 威治教士を相手に次の組形稽古をしないで済むのは何よりでありますが、次から次へと自分の高弟に万太郎の相手をさせようとするのは、どう云った興堂範士の思惑に依るのでありましょうや。まあ、万太郎に対する悪意からでないのは判るのでありますが。

 良平が一人で使っているのだからその起居している内弟子部屋は、さぞや乱雑に衣類などが散らかっているのだろうと万太郎は想像するのでありました。持ち物の極端に少ない自分は兎も角として、大学の友人の物持ち連中の一人暮らしのアパートは、大体が衣類や雑誌がそこかしこに取り散らかり、飲み終ったビールやコーラの缶が自由奔放に転がり、部屋塞ぎに敷きっ放しにされた寝床の毛布や掛布団が小高く聳えているのでありました。
「ま、稽古が始まるまで中で気楽にしていてくれ」
 良平は部屋の引き戸を開けるのでありましたが、その六畳間は万太郎の想像とは違って意外にさっぱりと整理整頓されているのでありました。万年床でもなく、衣類は唯一の家具である衣装箪笥の中に総て仕舞われているようであります。
「おや、綺麗に部屋をお使いですね」
 万太郎は良平の後に部屋に入ってから引き戸を閉めつつ云うのでありました。
「まあ、綺麗にも何も、どだい持ち物が少ないからなあ」
「この部屋も道場掃除の時のようにあゆみさん辺りから点検されるのですか?」
「いやそれはないよ。自由に使っている。俺の数少ないプライベートスペースだからな」
「部屋の掃除も行き届いているようですが?」
 見渡したところ埃の一つも落ちてはいないのでありました。
「まあ、俺はこう見えても実は綺麗好きな方だし」
 良平は東向きの窓際に置いてある、折りたたみ足の小さな座卓の傍に腰を下ろすのでありました。万太郎は部屋の真ん中に良平の真似をして胡坐をかいて座るのでありました。
「僕も住みこみになったらこの六畳の部屋に同居するわけですね?」
「そうだな。話しに依ると以前にはここに三人の内弟子が住んでいた事もあったようだ」
「ここに三人は辛いですね」
(続)
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お前の番だ! 77 [お前の番だ! 3 創作]

「ところでお前さんは持ち物は多い方かい?」
 良平はそう訊きながら畳に寝転んで、肘を立ててそれを枕にするのでありました。
「いいえ、極端に少ない方で」
「あんまり一杯所帯道具を持ちこんで来るなよ。この六畳の内弟子部屋に二組布団を敷くんだから、その辺を考えて整理箪笥とかの嵩張るような物は処分してから来いよ」
「判りました。衣類と少々の本くらいにします」
「衣装持ちの方かい?」
「いやあ、下着や靴下の他はシーパンが二本にポロシャツが三枚、それに冬のコートくらいです。ああそれと、三つ揃いのスーツとワイシャツが夫々一着にネクタイが一本」
「結構々々。それ以上増やすなよ」
「押忍。承りました」
 万太郎はそう云って、胡坐の両膝に肘を張った手をついて頷きとお辞儀の中間くらいに頭を下げるのでありました。
「ああそうだ、良い物がある」
 良平は立ち上がると、押入れの中から菓子折りを持ちだすのでありました。「信州の故郷から送ってきた菓子だ。ちょっとつまめ」
「ほう、栗鹿子ですか」
 朝食を抜いていたので食い物を前に万太郎の腹が不謹慎にぐうと鳴るのでありました。
「ああ。鄙びた物だが案外味わいのある菓子だぞ」
「頂きます」
「おお、頂け。ところでお前さん、朝飯は食ったのかい?」
「いや、朝早かったので」
「ああそうかい。それは気の毒な事だな」
 良平は今度は押入れの中から二つのマグカップとインスタントコーヒーの瓶を取り出すのでありました。なかなか篤く持て成してくれるようでありあす。
「ま、菓子じゃ腹の足しにはならんが、あるだけ食って構わんぞ。一緒にコーヒーでも飲めば昼まで少しは空き腹を誤魔化せるだろう」
 良平は一緒に押入れから小さなポットを取り出して「ちょっくらちょいと母屋の方からお湯を貰って来る」と云って立ち上がると部屋を出て行くのでありました。
 待つこと暫し、良平はポットの他に円い朱盆を手に持って帰って来るのでありました。
「お前さんが朝飯抜きらしいと云ったら、あゆみさんがこれを作ってくれた」
 朱盆には皿に海苔を巻いた大ぶりの握り飯が一つと、その他に二つの湯気の上がっている日本茶の湯呑が載っているのでありました。
「これをいただいて良いのですか?」
「ああ。稽古前だからあんまり腹一杯になってもいかんのでこれだけ、と云う事だ」
「あゆみさんは、案外おやさしいですね」
「うん。稽古着を着て道場に立つと途端に厳しい姉弟子に変貌するけどな」
(続)
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お前の番だ! 78 [お前の番だ! 3 創作]

 朝稽古は十時から始まるのでありました。日曜日と云う事もあって道場には二十人程の門下生が参集しているのでありました。
 朝稽古の中心指導は是路総士が担当するのでありました。是路総士は昨日見学した時と同じように、良平が開けた引き戸から入場する時に敷居に躓くのでありました。
 実際、この日以降も是路総士は入場の際に何故かよく敷居に躓くのでありました。万太郎は入門して最初の内は、指導者は道場に入ったら先ず軽く躓いて見せるのが常勝流の作法か、とも半ば本気で考えたのでありました。
 しかし鳥枝範士も、もう一人の総本部付範士である寄敷保佐彦範士にしても、そんな事はしないのでありましたから、これは作法とは無関係な是路総士に特有な現象のようであります。常に沈着で、あらゆる所作に隙と無駄のない是路総士は、どうして道場入場の際だけ何時もこんなおっちょこちょいをやらかすのでありましょうや。
 万太郎は再びあゆみに基本を指導して貰うのでありましたが、その日は新米の内弟子として臨む稽古でありますから、あゆみは昨日のように親和的な態度は露程も見せないのでありました。口調も気色も厳しく、万太郎の動きにも厳格さを要求するのでありました。
 そう云えば早めに道場に入っていた万太郎はあゆみが現れると、礼儀から握り飯の礼を云うのでありました。あゆみは無愛想に頷くのみで、その頷き方も不謹慎にも道場の中に道場外の事を持ちこむな、とでも云いたげな不機嫌そうなものなのでありました。
「ほらもっと腰を入れて」
 あゆみは万太郎の構え姿を検分しながら叱咤するのでありました。「だからと云って前に出した腕や前脚の膝を固くしないように。力が滞るから」
「押忍」
「ほら未だ無駄な力が入っている」
 あゆみは構えた万太郎の、前に伸ばした腕を手刀で打つのでありました。前腕部に受けたその手刀は重く鋭く、万太郎は軽い痺れを感じて思わず手を下げるのでありました。
 この一見華奢そうに見えるあゆみのどこに、手刀に乗せるこんな威力が隠されているのでありましょう。これがつまり常勝流と云う武道の恐ろしさの一面でありましょうや。
「動くな! 一旦構えたら外からどんな力が働いても構えを崩すな」
「押忍」
 万太郎の額に汗が噴き出すのでありました。
 是路総士が稽古している門下生の間を回りながら、万太郎の傍にも来る折があるのでありました。あゆみに動きの逐一にあれこれと遠慮なしの注意と注文を頂戴しながら真剣な面持ちで奮闘する万太郎を見て、是路総士は頬に笑いを浮かべて見せるのでありました。
 これは冷やかしの笑いとか憫笑とかではなくて、激励のサインであるのは万太郎にも判るのでありました。しかしあゆみから次々に出される注意と注文が多過ぎて、万太郎には是路総士の激励に応えるための表情を作る余裕等ないのでありました。
 ところで是路総士が折節に下座の門下生に見せる見本の技は、鳥枝範士のものとは趣が違って流麗なものでありました。万太郎はその美しさに見惚れるのでありました。
(続)
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お前の番だ! 79 [お前の番だ! 3 創作]

 鳥枝範士の技が剛なら是路総士は柔と云った印象でありましょうか。相手の動きに逆らわないで、いやむしろ相手を操るように動かしていると云った風であります。
 相手は気がついたら何時の間にか是路総士に抑えこまれている、或いは投げられていると云う事になるのでありましょう。それだけ是路総士の動きは相手の次の出方を的確に読んだ巧妙で精緻な、力のぶつかりあいも動作の停滞もない柔らかいものでありつつ、しかしあくまで優位的に、相手を制圧すると云う結果に向かって進行しているのであります。
 これこそ実に恐ろしい技と云うものでありましょう。万太郎はその動きの美しさへの感動と伴に、肌の粟立つような酷さも同時に感じ取るのでありました。
 別に相手を手酷く扱うと云うのではないのであります。如意の心算で動いている相手を知らず知らずの内に、いや実は最初の最初から、不如意な終局へとあしらっていく蜘蛛のような武術的欺罔の恐ろしさを万太郎は感じ取ったのでありました。
 道場の隅で、内弟子頭格のあゆみの持て余すような注文と注意に只管たじろいでいる今の自分が、何時か是路総士の如く技を使えるようになる日が来るのでありましょうか。
「ほらまた、後ろ脚の張りが緩んでいる!」
「押忍」
 あゆみが右構えをしている万太郎の後ろ脚の膝の裏を平手で叩くのでありました。万太郎は反射的に後ろ脚を強く張るのでありました。
「後ろ脚を張った途端、それに影響されて上体が動揺しないように」
「押忍」
「上体の揺れを止めようとして、前脚の膝が固まらないように」
「押忍」
「ほらまた後ろ脚が緩んだ」
「押忍」
 こんなにやいのやいのと云われれば、居竦むしかないではないかと万太郎はげんなりするのでありましたが、勿論そんな繰り言を発するわけにはいかないのでありました。
「その儘前脚を膝を緩やかに使って摺り足で徐々に前進させて、足幅を三足半まで開いて、前足に八分の重心をかけて低い姿勢で止まるように」
「押忍」
 万太郎は前方に足を運んで体勢を低くするのでありました。
「見下ろした時、前脚の膝の迫り出しで爪先が隠れるくらいに重心を前に」
「押忍」
 万太郎は確認のため直下を見下ろして、自分の右脚の膝をその下にある足指を隠す位置まで前に迫り出させるのでありました。前足に乗せた八分の重心が、万太郎の大腿前面の筋肉に強い負担を強いるのでありました。
「その儘の姿勢を十分間保持」
「押忍」
 万太郎の大腿が震え始め、膝が笑い出し、額に脂汗が浮くのでありました。
(続)
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お前の番だ! 80 [お前の番だ! 3 創作]

 次に万太郎はあゆみに前後の足を換えて、同じ姿勢でまた十分間の静止を要求されるのでありました。確か鳥枝範士が鳥枝建設の会長室で万太郎と面接した折、無意味にしごくなんと云う愚にもつかないどこかの学校の体育会のような真似は端からしない、と云っていた言葉が頭の中に虚しく蘇るのでありました。
 一時間半の朝稽古が終わると、万太郎の下肢から力がすっかり失せているのでありました。今若し誰かに後ろから押されでもしたら、間違いなく万太郎は簡単に足を無様にもつれさせて転倒して仕舞うでありましょう。
「どうだったか、あゆみさんのしごきは?」
 道場から納戸兼内弟子控えの間に引き上げて来てから、良平が万太郎にニヤニヤ笑いをしながら訊くのでありました。
「いやあ、脚や腰の筋肉をあんなに使ったのは全く久しぶりでしたから、今は何だか脚が萎えたような感覚でいます」
「そうだろうな。ま、俺も最初はそうだったな。明日になったら筋肉痛で歩くのも辛くなるぜ。それは明日のお楽しみと云うところだ」
 良平がニヤニヤ笑いの濃度を上げるのでありました。「三時からの一般門下生の昼稽古前に内弟子と準内弟子の専門稽古が一時からあるから、それまでゆっくり休んでおけよ」
「内弟子稽古までに何か仕事はないのですか?」
「取り敢えず今日は何もない。もうすぐしたら昼飯を食うくらいだな」
 良平はそう云ってから立ち上がるのでありました。
「何か仕事があるのなら僕も手伝いますよ」
 万太郎が座った儘良平の顔を見上げて云うのでありました。脚に力が戻らず、実際、立つのも億劫なのでありました。
「昼飯の支度を手伝って来る。ま、初日だからお前さんは今日のところは免除と云う事で構わないや。呼びに来るまでここで休んでいろ」
 良平はそう云い残して納戸兼内弟子控えの間を出て行くのでありました。万太郎は兄弟子に労わられて申しわけなく思うのでありましたが、その気持ちの地階で、正直、それは助かったと安堵のため息を秘かに漏らすのでありました。
 初日の最初の稽古からこの調子では後が続くかしらと、万太郎は大いにたじろいでいるのでありました。迂闊に内弟子になんぞなった事を、彼は少し悔いるのでありました。

 花司馬筆頭教士の操る剣は、威治教士のそれに比べると慎に素直なのでありました。組形稽古の本義を守り、原則を決して踏み外すような事はなく、そう云う意味では気持ちの良い稽古が出来る相手なのでありました。
 威治教士のように万太郎に不意打ちを食らわして、自分の方が上位である事を反則気味に見せつけようとするような邪心が、その稽古態度からは微塵も見当たらないのでありました。さすがに興堂派道場の筆頭教士だけの事はあると、万太郎は生意気な事を考えるのでありましたが、勿論そんな態度も顔色も表わさないのでありました。
(続)
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お前の番だ! 81 [お前の番だ! 3 創作]

 この後の、相円転返し、とは逆方向に足を運ぶ、逆円転返し、と云う組形では万太郎は、これも興堂範士の指示に依るようで、先程道場へ向かう時に廊下で声をかけられた板場教士と相手をさせられるのでありました。板場教士は威治教士と同格の次席教士と云った地位で、この人の剣も矢張り威治教士に比べれば実直なものではありましたが、花司馬筆頭教士よりは剣気に何となく陰鬱があるように感じられるのでありました。
 この間興堂範士は是路総士と同様、門下生の間を歩いてあれこれと指導に専念しているのでありました。考えてみれば一本目の組型では指導者に、さしでみっちり稽古をつけて貰ったようもので、万太郎にとっては大いに有難い稽古となったのでありました。
「はい、では次の稽古に移りましょう」
 組形を五種類稽古した後で是路総士が云うのでありました。「残りの組形は次回に回すとして、今度は今の組形を準組形稽古としてやりましょう」
 この準組形稽古とは組形稽古の内ではありますが、打太刀が仕太刀の変化を読んだらその動く方に斬線を変えても構わないと云う、試合形式の乱稽古に少し近づいた稽古法であります。とは云ってもあくまで、一定の約束の下に行うものではありますが。
 これも万太郎は最初に興堂範士、次に威治教士、そのまた次に花司馬筆頭教士と板場教士と組むのでありました。当然興堂範士の指示に依るものと推察されるのでありました。
 興堂範士の打太刀は矢張り素早さを威力としている太刀筋で、少しでももたついていると逆に頭頂部への打ちこみを食らうのであります。気が抜けないと云う点で、仕太刀の気持ちの稽古に大いに資するものでありました。
 こちらが打太刀を取る時も、ほんの些細な万太郎の動きを感知しただけで興堂範士は、相手に悟られないような横への変化を以って対応すると云うこの組形の本来の狙い以上に、余人の真似できない素早い斬撃を以って切りこんでくると云う感じであります。集中力をフル動員しなければ、打太刀の役割も十分にこなせないと云った有り様であります。
 威治教士に関しては、仕太刀を取る場合も打太刀の相手をする場合も、こちらも一定の変化を容認されているのでありますから、肝を据えて落ち着いて対すれば満更万太郎の叶わない相手ではないようにも思えるのでありました。威治教士の変化はどちらかと云うと相手への対処としと云うよりは、始動時にフェイントをかけて相手を幻惑しようとか云う魂胆に依っていて、それに威力ある斬線をこの稽古に依って創ろうとする真摯さの感じられない、云ってみれば戯れあいの感覚で剣術の稽古をしているところがあるので、そんなものは気迫と正しい道理に依れば恐れるまでもなかろうと万太郎は思うのでありました。
 剣技に於いては興堂範士を除いて多分、その内弟子たる威治教士も板場教士も花司馬筆頭教士も、総本部道場のあゆみには及ばないであろうと万太郎は思うのでありました。勿論今のところ万太郎もあゆみに簡単にあしらわれているのでありましたが。
「はいでは、今日はこの辺で」
 是路総士が稽古終了の声を発するのでありました。稽古中の門下生はその声で剣を左手に納め、下座に整列正坐するのでありました。
「神前に、礼!」
(続)
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お前の番だ! 82 [お前の番だ! 3 創作]

 稽古開始時と同じに威治教士が号令をかけて、この興堂派道場での剣術稽古は一応滞りなく終了するのでありました。是路総士と興堂範士が門下生の下座で畏まる中を退場する折、万太郎は趨歩して是路総士に近づいてその木刀を受け取るのでありました。
 是路総士と興堂範士には板場がすぐにつき添うのでありました。残った万太郎は先ず花司馬筆頭教師の下へ行って座礼するのでありました。
「本日は稽古をつけていただき有難うございました」
「いや折野君、君の剣の腕前には敬服した」
 座礼を返して花司馬筆頭教士は起こした顔に笑みを湛えるのでありました。「今日初めて剣術稽古のお相手をさせて貰ったが、こちらの方が大いに勉強になったぞ」
 その物腰には万太郎に対する親しみが感じられるのでありました。相手をしてみて、俄に見直したと云った驚きと敬意もこめられているようであります。
「いえ、とんでもないです。私の方こそ良い稽古をさせていただきました」
「今君の、剣の腕前、と云ったが、剣の才能、と云った方が正しいかな。未だ常勝流の剣術になり切ってはいないが、それにしても斬撃の鋭さと剣線の正確さは見事だ」
「そのお言葉を向後の励みにします」
 万太郎は恐懼しながらもう一度お辞儀するのでありました。興堂派の筆頭教士にそう云われると万太郎は素直に嬉しいのでありました。
 花司馬筆頭教士の下には万太郎と同じように、稽古終了時の礼を交わそうとする門下生が次々にやって来るのでありましたから、万太郎は早々にその場を切り上げて、今度は道場内を見渡して威治教士の姿を探すのでありました。
 威治教士は見所の前に立って取り巻きと思しき二人の男を相手に何やら言葉を交わしているのでありました。花司馬筆頭教士に礼を済ませた門下生がやって来て、傍に正坐して丁寧に一礼しても、威治教士は立った儘で頭を少し前に傾げるだけのぞんざいな意のない答礼を返すのみでありましたが、こういう尊大な態度は如何なものでありましょうや。
 とは云うものの、従弟弟子として礼をせぬわけもいかないので万太郎は威治教士の方へ近づくのでありました。
「本日の稽古、有難うございました」
 万太郎は傍らに正坐して一礼するのでありましたが、威治教士は取り巻きとの話しを中断されて、万太郎に対してちらと無愛想な顔を向けるのでありました。それから何を考えたのか、不意に万太郎の前に正坐するのでありました。
「折野、と云う名前だったな?」
「はい。折野です」
「総本部に内弟子に入る前に剣道でもやっていたか?」
「はい。やっておりました」
「道理でな」
 威治教士は頷くのでありましたが、その頷き方はどこか万太郎を小馬鹿にしたような色を帯びているのでありました。
(続)
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お前の番だ! 83 [お前の番だ! 3 創作]

「お前の剣じゃ人は斬れんな」
 これはまた出し抜けに異な事を宣うと万太郎は威治教士の言葉に、まあ、余裕を以って少々驚くのでありました。
「押忍」
「人を上手に引っ叩く事は出来ても、斬ると云う手筋じゃない」
「ご教誨、有難うございます」
 万太郎はそう云いながら、思わず笑いに動く口元を隠すためにすぐにお辞儀するのでありました。と、したり顔で云うあんたは人を斬った事でもあるのかい、等と冷笑を浮かべて問い返すまでもなく、後輩に対してこう云う言葉を吐く場合は往々にして、内心畏れ入った時だと云う事を少ない人生経験ながらも既に万太郎は知っているのでありました。
 まあつまり、高校一年生の時に試合形式の稽古で万太郎に一本を取られた上級生が、よく稽古後に口にした言葉と同じタイプのものでありましょう。曰く、当たりはしても太刀筋が弱いから今のは試合では一本とは見做されない、とか、偶々当たったと云うだけで手の内が錬れていないから未だ技にはなっていない、とか。
 万太郎は高校一年生の時には、どの上級生よりも長い剣道の修行歴と試合経験を持っているのでありました。しかも捨身流と云う、名の知れた道場で修業していたのであります。
 片腹痛し、とはこう云う場合に用いる言葉でありましょう。しかしそう云う思いを表出して徒に先輩達の敵意を買っても仕方がないので、万太郎は何時も穏やか且つ真摯気な顔を崩さないのでありましたが、これは万太郎の処々を心得た歳に似合わない老獪さと云うよりも、彼の人後に落ちない人づきあい上の無精からくる世過ぎ術でありましょう。
 で、万太郎は威治教士が自分を侮り難し、と認めてくれたものと考える事にするのでありました。そう思っていてくれれば返って好都合で、前に良平にしたような意地の悪いちょっかいの矛先は滅多には自分には向かないでありましょうから。
「おい、折野君、控えの間の総士先生達の処に行くぞ」
 花司馬筆頭教士が万太郎に後ろから声をかけるのでありました。
「押忍」
 万太郎はふり向いて急いで立ち上がるのでありました。
「威治教士、後の道場の仕切りは頼んだぞ」
 花司馬筆頭教士は未だ座った儘の威治教士に指示するのでありました。後の仕切りとは門下生の帰りを見送って後の道場の後始末であります。
「判りました」
 威治教士は抑揚のない声で返事をして特に威儀を正さない礼をするのでありました。興堂派道場では指示のあった時に、承りました、と返す風習はないようであります。
「折野君は未だ入門二か月と云う事だが?」
 廊下を範士控えの間に向かって歩きながら、花司馬筆頭教士が万太郎に話しかけるのでありました。一緒に稽古をして後、大いに親しみが増したと云った口調であります。
「はい。住みこみの本格的な内弟子になってから二か月になります」
(続)
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お前の番だ! 84 [お前の番だ! 3 創作]

「ではそれ以前から総本部道場に来ていたのか?」
「ええ。その三か月前から通いの内弟子と云う事で」
「通いとは云っても内弟子には違いないから、実質的には常勝流を始めて半年程になるわけだ。道理で二か月にしては内弟子としての挙措が板についていると思ったよ」
 花司馬筆頭指導員は納得したと云う風に二度程頷くのでありました。
「いえ、未だまごつく事があれこれあります」
「しかし是路先生はどちらかと云うと癖のない方だから仕えやすいだろう。ところが興堂先生は意表を突く行動が多くて、なかなか手を焼くよ」
「ああそうですか」
「風呂に入っても先ずゆっくり湯に浸かるか、それとも先に体を洗うかはその日の気分次第だし、出稽古に行く道順も思いつきで不意に変えてみたりでな。なかなか先読みの効かないタイプでだから、俺なんか気が利かんと云ってよく叱られているよ」
「確かに是路先生はそう云う事はあまりやられませんね。どちらかと云うと決まった通りを律義に滞りなくこなされると云った風ですね」
「内弟子としてはその方が有難い」
 花司馬筆頭教士が愛想良くこう云った打ち解けた繰り言のような話しをしてくれると云うのは、万太郎に仲間意識のようなものを持ってくれた証しでありましょうか。

 万太郎が、通いとは云うものの内弟子としての初回の稽古で久しぶりに疲労した太腿をさすっていると、良平が昼食の支度が出来たから食堂の方へ来いと呼びに来るのでありました。万太郎は良平の後について食堂に向かうのでありました。
 二人は一旦道場の方に回る事なく、そちらとは反対側に廊下を進むのでありました。道場が北向きで母屋が南向きに背中あわせになっていて、その外周をぐるりと縁側兼廊下が廻っていると云った家の造りのようであります。
 道場に来て最初に是路総士に挨拶をした部屋の障子戸の横に開き戸があって、その開けっ放しの入り口から良平が台所兼食堂に入るのでありました。
「押忍。新入りを呼んで参りました」
 良平の後に万太郎が遠慮気味に台所兼食堂に入ると、そこは六畳よりやや広いくらいの、普通の民家によくあるようなダイニングでありました。部屋の真ん中に古そうな四人がけの食卓テーブルがあって、そこには三人分の昼食の皿が用意してあるのでありました。
 台所兼食堂と是路総士の座っている居間は隣りあっていて、四枚引き戸で仕切られているのでありました。その引き戸は開け放たれていて、居間の方に是路総士が床の間を背に座っていて、その和テーブルの上にも一人分の昼食の皿が乗っているのでありました。
「押忍」
 万太郎はそう挨拶して和室に居る是路総士にお辞儀をするために、引き戸脇の板張りに正坐しようとするのでありました。
「食事の時は正坐は必要ないよ」
(続)
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お前の番だ! 85 [お前の番だ! 3 創作]

 居間の是路総士が万太郎に云うのでありました。「礼をするなら立礼で構わん」
「押忍。失礼しました」
 万太郎は正坐しようと途中まで折り曲げていた膝を伸ばして、立った儘で是路総士にお辞儀するのでありました。膝を伸ばす時に太腿の前の筋肉が、不甲斐なさ気に力を出していると云った按配でありました。
 心得たもので良平は万太郎の後から是路総士に立礼をするのでありました。
「適当に座って」
 流し台の傍に立っているあゆみが、食卓テーブルへの着席を万太郎と良平に促すのでありました。二人はあゆみにも一礼して並んで腰を下ろすのでありました。
 あゆみは稽古着から普段着に着替えてエプロンをしているのでありました。稽古着の儘ここへやって来て良かったのかしらと万太郎は考えるのでありましたが、是路総士も良平も稽古着の儘であるし、あゆみも別に万太郎の風体に何も文句をつけないのでありますから、仕来たりとしては恐らく問題はないのでありましょう。
 あゆみは先に是路総士に出す飯をお櫃から碗に盛ると、それを居間に座っている是路総士に届けるのでありました。
「ご飯は各自で装ってね」
 あゆみは居間に向かう端にそう二人に云うのでありました。
「押忍。いただきます」
 良平が自分の碗を持ってあゆみが去ったお櫃の処に行くのでありました。後ろから万太郎も同じく碗を持って立つのでありましたが、どうした了見か良平が万太郎の碗を受け取って、代わりに手際良く飯を装ってくれるのでありました。
 何とまあ、優しい兄弟子ではありませんか。その様子を見ながら居間から出て来たあゆみが口に掌を添えてクスッと笑うのでありました。
「良君は弟分が出来て余程嬉しいのね」
 良君、・・・で、ありますか。道場とは打って変わって随分と柔らかな物腰であります。
「はいもう、手下が出来れば少しは楽になりますのでね。これからたっぷりと扱き使ってやりますから、今日のところは出血大サービスと云うところですよ」
「今までお前一人をたっぷりと扱き使ってきて、悪かったなあ」
 居間から是路総士が笑いながら冗談めかして云うのでありました。
「ああいや、とんでもありません。思う存分扱き使っていただいて有難いくらいです」
 良平の妙な云い草にあゆみがまた掌を口に添えて吹くのでありました。どうやら母屋での食事の時にはある程度は緩んだ態度も許されるようであります。
「さ、では」
 全員が着席してから是路総士が仕切り直すのでありました。「いただきます」
 是路総士の音頭であゆみと良平が箸を両手で捧げ持って頭を倒しながら同じ言葉を復唱するのでありました。万太郎も真似をするのでありましたが、そう云えば一人暮らしの時には、いただきます、等と云う発声は全くしなかったなあと思うのでありました。
(続)
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お前の番だ! 86 [お前の番だ! 3 創作]

「折野君、何か好きな食べ物があったら聞いとくよ」
 箸を動かしながらあゆみが万太郎に話しかけるのでありました。万太郎は焼いた鯵の開きを口に運びながら上目であゆみを見るのでありました。察するところ、この家の料理一般はあゆみが殆ど担当しているようであります。
「そうですねえ、嫌いなものが何もない、と云った方が早いですね」
 こんな返答では訊ねた張りあいもなかろうかと、万太郎は云った後に反省するのでありました。しかし実際、万太郎はどんな場合でも出されたものは何に依らず総て口に入れる性質で、文句の一言も決して云わないのでありました。
 外食でも、時々塩昆布と高菜の油炒めで茶漬けが食いたいとか、妙な嗜好が頭の毛穴から飛び出す事もありはするものの、大体において大学の学食でも街の定食屋でも、ラーメンとカレーと素饂飩の他の場合は、今日のお勧め定食、と相場が決まっているのでありました。食い物を具体的にあれこれ心象する力が大いに欠如しているのでありましょう。
「出された物は何でもガツガツと残さず食べるって口ね」
「はい。ガツガツといきます」
「ま、その方が、面倒がなくて良いけどさ」
「その代り飯の量を何時も大目に願えたら、これに勝る喜びはありません」
「量に関しては、どんなに多くても大丈夫よ」
「それを聞いて安心しました」
 万太郎はニンマリ笑うのでありました。それにつけても、あゆみのこの、道場にいる時とは大きな落差のある物腰はどうでありましょうや。
 道場では折野と呼び捨てにしていたのにここでは急に、折野君、ときたらまごまごすると云うものであります。しかも語気が、別人が話しているように円やかなのであります。
 恐らくあゆみなりにけじめをつけていると云う事でありましょう。稽古着を着て道場に在れば典型的な厳しい先輩内弟子として、母屋に在っては優しい姉のような存在として。
 一体どちらがあゆみの天性に、より近いのでありましょうや。察するところ母屋の方が何となく板についているように見えるのでありますが、しかしまあ、これは万太郎の希望的推量と云うものなのかも知れません。
「お変わり自由よ。但し自分でご飯は装ってよ」
「ではお言葉に甘えて早速」
 万太郎は空になった碗を持って立ち上がるのでありました。
「おう、序に俺の分も頼む」
 横の良平が急いで残りの飯を口の中に掻きこんで、自分の碗を万太郎の前に横着な仕草で差し出すのでありました。早速、扱き使いが始まったようであります。
「押忍」
 万太郎は良平の碗を恭しく受け取るのでありました。
「俺のは小盛りでな」
「押忍。小盛り、承りました」
(続)
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お前の番だ! 87 [お前の番だ! 3 創作]

「二口か三口くらいの量だぞ」
 良平が、小盛り、の具体的な程を指示するのでありました。万太郎は自分は大盛りにするつもりであったのに、先輩内弟子の良平が二口か三口となると、その弟弟子たる者が二杯目の大盛りはちょっと無神経かなと気を遣うのでありました。
 万太郎が良平の碗に二口か三口分の飯を入れてそれをすぐに良平に渡し、さて、自分はそれより少しだけ多めの三口か四口分を入れる方が無難に違いないと思い巡らしていると、あゆみが万太郎に声をかけるのでありました。
「折野君は遠慮しないで好きなだけ盛っていいのよ」
 そう勧められて万太郎はあゆみに嬉しそうな上目を向けるのでありましたが、その表情が可笑しかったのかあゆみは箸を持った右手の甲で口を隠して吹くのでありました。
「総士先生は、お代わりは如何ですか?」
 万太郎は居間の是路総士の方に視線を向けるのでありました。
「いや、結構」
 是路総士は左手に抱えた御付の具の、賽の目に切ってある豆腐を箸で摘みつつ万太郎の方に顔を向けずに云うのでありました。
「押忍。畏まりました」
「こっちに構わずたんと食え」
「押忍。有難うございます」
 成程、窮屈な内弟子生活で食事の時間が和気藹々の貴重な息抜きとなるのだなと、万太郎は感得するのでありました。道場の稽古ではきつくしごかれ、家に在っては家隷の如くに扱き使われて、それでも文句も云わず格式張ってお辞儀ばかりする生活だけでは、それは確かに内弟子なんぞはやっていられないと云うものであります。
「折野君、後片づけ手伝ってね」
 大いに腹も満足して万太郎が箸を置くとあゆみが声をかけるのでありました。支度は良平が手伝ったので、片づけの方は自分が手伝う番だと云う事でありましょう。
「押忍。承りました」
 一同でごちそうさまでしたと合掌しながら声を揃えた後、良平が部屋に引き上げ、是路総士が常勝流総帥としての事務仕事のためか師範控えの間に移動すると、台所兼食堂に万太郎とあゆみだけが残るのでありました。
「テーブルのお皿を流しの方に持ってきて。それからこれで後を綺麗に拭いておいてね」
 あゆみは万太郎に湿らせてきつく絞った膳拭きを手渡すのでありました。万太郎は先ず居間の是路総士が使った食器類を持って行き、その後で食堂のテーブルの上の三人が使った皿や碗を重ねて流し台の方に運ぶのでありました。
 テーブル拭きが終わると、今度はあゆみが洗った皿や箸を万太郎が布巾で拭くのでありましたが、二人並んで流し台の前に立ってあゆみの手際の良い水仕事ぶりを見ながら、万太郎は小学生の時に同じように実姉の手伝いで皿を拭いた事をふと思い出すのでありました。その時は嫌々手伝ったのでありましたが、今はそれほど嫌でもないのでありました。
(続)
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お前の番だ! 88 [お前の番だ! 3 創作]

「折野君、じゃなくて、母屋では、万ちゃん、て呼ぼうかな。面能美君も、良君、だし」
 すぐ横で流し台に目を落として皿を洗っているあゆみが云うのでありました。「万ちゃん、で良い? それとも、万君、の方がしっくりくる?」
「万君、は何となく響きが悪いですね」
「じゃあ、万ちゃん、ね」
 万太郎としては万ちゃんであれ万君であれ、少年の頃から今までそんな風に通称されたためしがなかったので、秘かに臍の周囲がくすぐったくなるのでありました。
「万ちゃん、アパートでは自炊していたの?」
 はっきり諾と返事してはいないのに、あゆみの方はもう万太郎の呼称を、万ちゃん、に決定しているようでありました。まあ、どんな風に呼ばれても構わないでありますが。
「いや、殆ど外食でした」
 万太郎はそう応えつつこの自分の風体に、万ちゃん、なる呼称は折りあいが良いのか悪いのか、頭の隅で未だあれこれ考えたりしているのでありました。

 興堂派道場の範士控えの間の開け放たれた障子戸の傍らに、先に是路総士と興堂範士に同道した板場教士が正坐して控えているのでありました。三人は互いに目礼して、花司馬筆頭教士は板場教士の横に、万太郎は二人の後ろに静かに正坐するのでありました。
「折野君も一緒かな?」
 興堂範士が気配を察して廊下に声を投げるのでありました。万太郎は「押忍」と返事して、座敷の方から見える位置に移動してお辞儀するのでありました。
「総士先生がこれから風呂を使われるので、介添えをお願いしますぞ」
「押忍。承りました」
 万太郎の返事を待ってから、是路総士が「よっこらしょ」と云いつつ両手を座卓について立ち上がるのでありました。万太郎もすぐに立つのでありました。
 板場教士が一緒に立つのは是路総士を風呂まで案内するためであります。万太郎と板場教士は是路総士の歩行を促すように障子戸の脇に避けるのでありました。
「では失礼して、折角だから風呂をよばれるとしましょうかな」
 是路総士は興堂範士に一礼して廊下に出るのでありました。板場教士の先導で是路総士を真ん中に挟んで、三人は廊下を静かに風呂場の方に向かうのでありました。
 是路総士はごく偶に内弟子に背中を流させるのでありましたが、それは別に偉ぶるためにではなくて、自分の体を限られた弟子に開示するためでありました。師匠の体幹や手足の骨格的特徴であるとか、どのような筋肉に鎧われているのか、またはその筋肉がどのような硬さ或いは柔らかさを持っているのか、それを実際に弟子が触れて確認するのが目的なのであり、これは昔から武道にはよくある師弟間の交感儀式の一種なのでありました。
 しかし実際のところ、是路総士はあまり弟子に背中を流させるのは好きではないようでありました。総本部道場の母屋では、風呂場が狭いと云う事情もあり、弟子を連れて風呂に入るなんと云う事は稀にしかないのでありました。
(続)
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お前の番だ! 89 [お前の番だ! 3 創作]

 でありますからこの興堂派道場への出稽古の折り等は、内弟子が是路総士の体を観察する数少ないチャンスではありました。まあ、是路総士としては風呂に入る時くらいは師匠と云う気の張る立場から離れて、一人でのんびり解放感に浸りたいでありましょうが。
 興堂派の風呂場は優に一坪くらいあって、総本部道場の母屋の風呂に比べればゆったりとしているのでありました。しかも床も壁も浴槽も芳香漂う檜造りでありました。
 さすがに栄えている興堂派道場であります。是路総士の贅を嫌う一面とは別に、まるで古木材で拵えたような総本部道場母屋の風呂場とは大違いであります。
 風呂から上がると是路総士は背広姿になるのでありました。万太郎も裸になって三助を承ったのでありましたから、風呂から出るとスーツ姿に着替えるのでありました。
「いや結構な風呂を頂戴しました」
 是路総士は範士控えの間に戻ると興堂範士に愛想を云うのでありました。卓の上には是路総士を饗するためのご馳走が調えられているのでありました。
「相変わらず九段下の寿司政のにぎりですが」
 興堂範士は座った是路総士に日本酒の一合徳利を差し出すのでありました。
「いやいや、何よりです。調布と違ってこちらには老舗の鮨屋さんがありますからなあ」
「何をおっしゃいますか。あゆみちゃんの手料理こそ何よりでしょうよ」
「いやいや、母親を失くして以来、料理の手ほどきをする者がおりません」
 是路総士の連れあいでありあゆみの母親たる人は、あゆみが高校一年生の時に病没したと云う事を万太郎は良平から聞いた事があるのでありました。
「しかしあゆみちゃんの料理は実に美味い。屹度良い嫁さんになりますよ」
「いやあ、躾も碌にしませんでしたからな。不束な娘です」
 興堂範士は是路総士の出張指導のお返しと云う事で、三月に一度程総本部道場に指導に来るのでありましたが、その時にはあゆみの手料理の持て成しを受けるのでありました。
「ああ今日はあにさんのお許しも貰っているから、ここに折野君も一緒にお上がんなさい。それから花司馬も板場もな。今日は一同で賑やかにやろう」
 興堂範士が廊下の三人に手招きをするのでありました。三人は「押忍」と声を揃えて座礼してから座敷の中に膝行で入るのでありました。
 何時もなら給仕兼雑用係として花司馬筆頭教士か板場教士が一人だけついて、後の者の食事は内弟子控え室に別に用意してあるのでありました。内弟子控え室ではごく稀に威治教士も同席する事があるのでありましたが、殆どの場合、稽古が終わると威治教士は取り巻き連中と攣るんで道場の外に食事に出て行くのでありました。
「板場、威治もここに呼んでこい」
 興堂範士が、座敷に膝を踏み入れたばかりの板場教士に指示するのでありました。
「押忍、今呼んでまいります」
 板場教士がそう返事するものの少々困じたような顔をするのは、もう既に威治教士は道場から出て行ったかも知れないと考えたからでありましょう。興堂範士の命であるから、そう云う場合でも板場教士は外まで探しに出なくてはならないのでありました。
(続)
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お前の番だ! 90 [お前の番だ! 3 創作]

「まあ、折野君一つ」
 興堂範士が自ら万太郎の前に徳利を差し伸べるのでありました。万太郎は是路総士の顔をちら窺い、特に控えろと云うサインが出ていないのを見定めてから、両手で捧げ持った猪口を興堂範士の前に畏まって差し出すのでありました。
「押忍、有難うございます」
 万太郎は酒を入れて貰った猪口を翳しながらお辞儀するのでありました。
「じゃあ、花司馬君」
 これは是路総士の声でありました。興堂範士と是路総士は互いに相手の内弟子に夫々酌をしたと云う容でありましたが、これは是路総士が自分の内弟子に対する興堂範士の心遣いに返礼したと云う事でありましょう。
「花司馬、どうだったか、折野君に相手をして貰って?」
 興堂範士は猪口を口に運ぶ花司馬筆頭教士に訊くのでありました。
「押忍、自分のような者が云うのも何ですが、なかなかの剣の才能だと敬服しました」
 花司馬筆頭教士はそう云いながら万太郎に笑顔を向けるのでありました。
「うん、確かになかなかの腕前だ。とても入門二か月の内弟子とは思えない」
「未だ常勝流の剣術にはなり切ってはいないようですが、それにしても剣の軌道の確かさとか斬撃の鋭さは大したもので、下手をするとこちらが位負けしそうでした」
「いやいや、未だ々々折野の剣はあゆみの剣にも及びませんよ」
 是路総士がそう云いながら猪口の酒を喉に流しこむのでありました。すかさず花司馬筆頭教士が徳利を取って恭しく是路総士の猪口の前に差し出すのでありました。
「いやまあ技量としては、今はあゆみちゃんの方が未だ上ですかな」
 興堂範士が猪口を空けるのでありました。今度は万太郎が素早く両手で徳利を取って注ぐ用意をするのでありました。
「いや確かに、あゆみ先生の剣には自分なんぞは到底太刀打ち出来ません」
 花司馬筆頭教士が自分の方が歳上であるにも関わらず敬称をつけてあゆみを呼ぶのは、よちよち歩きの頃から常勝流を習っているあゆみの方が修業歴が長いためで、弟子間の関係では歳に関係なく入門の早い方が兄或いは姉になるからであります。勿論、自分はあゆみの剣の腕前には及ばないと云う認識がある故の敬称でもありましょう。
 廊下に、威治教士と板場教士の姿が現れるのでありました。どうやら板場教士は外に出る前に威治教士を道場内で捕まえたようであります。
 二人は廊下で座礼してから座敷に入るのでありました。
「おう来たか。今日は一同で卓を囲むことにした」
 威治教士が席につくと興堂範士がそう事情を説明するのでありました。「お前も良い機会だから是路素先生に色々ご教誨をいただけ」
 威治教士は無言で愛想笑って、顎を突き出すようなぞんざいなお辞儀をして見せるのでありました。これはあからさまではないにしろ、この席に呼ばれて些か迷惑と云った色が、そのぞんざいさから滲み出していると万太郎は見取るのでありました。
(続)
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