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もうじやのたわむれ 7 創作 ブログトップ

もうじやのたわむれ 181 [もうじやのたわむれ 7 創作]

「あの武芸十八般の時の語り口とかボケ方なんかを聞いていると、あれは地獄省の鬼達特有のものに相違ありませんよ」
「ふうん、そうですか。それは貴方の勘と云うものですね?」
「そうです。まあ、勘と云うだけで、なんの根拠もないと云えばその通りです」
 拙生は頼りなさげに頭を掻きながら笑うのでありましたが、鵜方氏の、拙生の目の中を鋭く窺う視線にたじろいではいないのでありました。「それに私が知っている地獄省の鬼達と云っても、閻魔大王官とか補佐官とか、審問官とか記録官とか、その他は宿泊施設のコンシェルジュ程度でしかありませんが、しかし、私のこの勘に先ず間違いないと思います。彼等には独特の洒落っ気と云うのか、地口遊びとか冗談とか、すかたんの云いあいを無性に面白がる性癖があるようで、その時の活き々々とした色あいが、あの賀亜土万三と云う名前の警護官の顔にも、矢張り確かに浮かんでいましたからね。こんなのは如何にも脆弱な根拠としか思われないかも知れませんが、でもこの見立てには大いに自信があるのです」
「矢張りそれは貴方の、思考の筋道を欠いた、単なる印象とか云うべきものでしょう?」
 鵜方氏は懐疑の言葉を口に上せるのでありました。
「まあ、そう云って仕舞われれば、私には返す言葉はありませんが」
「しかしそう云う或る種の印象と云うのか、独特の勘と云うのは、或る場合、実はクールで精巧そうに見える理屈なんかよりも、見事に正鵠を得ている事がありますからねえ」
 鵜方氏が口をへの字にして首をやや斜め前に倒して、腕組みするのでありました。それから時々拙生を上目でちらと窺ったり、その後また自分のつま先に視線を移したりしながら、あれこれと考えを廻らしているのでありました。
「宜しい」
 鵜方氏が暫くの後に顔を上げて云うのでありました。「ここは貴方の勘を信じましょう」
「それで本当に宜しいので?」
「人を観る時に、そのような即断的な勘も大事な場合もあります。疑えばきりがないですしね。それに我々がこうしている時にも、連中からはこちらの隙を窺っていて、期を見て襲いかかってくるような気配と云うのか、殺気というものは全く感じられませんしね」
「その辺の見立ては、貴方の方がご専門でしょうから」
「ま、この私の殺気を感じないと云うのも、云わば勘と云うものに属するものでしょうし」
 鵜方氏は納得気に何度か頷きながら、携帯電話をポケットに仕舞うのでありました。
「確認が出来ましたでしょうか?」
 我々が近づいて行くと、車のドアを開けた儘にして、その取手にずっと手を添えた儘の状態で待っていた賀亜土万三氏が、お辞儀をしながら訊くのでありました。
「はい。疑いが晴れました」
 鵜方氏が笑いながら明瞭にそう云うのでありました。
「ああそうですか。それは良かった」
「お気分を害するような真似をして、申しわけありませんでした」
「いやいや、とんでもない。一度襲われたのですから、その警戒は当然の事ですよ」
(続)
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もうじやのたわむれ 182 [もうじやのたわむれ 7 創作]

 賀亜土万三氏が愛想笑いながら云うのでありました。
「ではどうそ、お乗りください」
 賀亜土万三氏は掌を上に向けた手で車の中を指し示すのでありました。
 若い一人の、いや一鬼の警護員が運転席に、賀亜土万三氏が助手席に、我々がその後ろのシートに、それもう一鬼の警護員が我々の後ろのシートに着席すると、車はそろそろと動き出すのでありました。警察署の駐車場を出ると、車はすぐに棕櫚の並木の郡道一号線に出るのでありました。夜更けていて、道にはあまり車の姿はないのでありました。
「すぐに宿泊施設に着きますから」
 賀亜土間万三氏が首を後ろに回して云うのでありました。
 ほんの十分程で我々を載せた大型のバンは、閻魔庁の門の中に入って行くのでありました。鵜方氏の警戒が全くの徒労で終わった事に、拙生は安堵のため息を秘かに漏らすのでありました。実際、警護員達は間違いなく閻魔庁の者達、いや鬼達であると自信ありげに見立てたものの、内心この拙生の勘に多少の危惧は持っていたのでありましたから。
 車が停止すると賀亜土万三氏が素早く助手席から降りて、律義に敬礼しながら、拙生と鵜方氏のために態々後ろのドアを開けてくれるのでありました。
「恐れ入ります」
 拙生と鵜方氏は夫々そう云って、手刀を切りつつ車から降りるのでありました。
 人気、いや霊気もないのに二階へ上がるエスカレーターは動いているのでありました。聞けば終夜動いているのだそうであります。拙生と鵜方氏は警護員に囲まれて、宿泊施設の出入口へと、既に総ての店のシャッターが下りた商業フロアーを歩くのでありました。
 宿泊施設の出入口には、出た時と同じに警備員が二鬼立っているのでありました。警護員三鬼の先導があるものだから、我々は両脇からの敬礼に送られて、すんなり中へ入る事が出来るのでありました。本来ならここで、名前とか中に入る目的やらを申告して、所持品の検査も受けて、入館名簿に氏名を自著しなければ入れないのだそうであります。
 中に入っても我々は金属探知機の中を潜る事もなく、国際空港の入国審査のようなところを通過する必要もなく、あっさりと上階に上るエレベーターの前まで辿り着くのでありました。警護員がつき添ってくれていると、総てフリーパスのようであります。
 エレベーターで宿泊施設のエントランスホールに上がって、フロントの前まで賀亜土万三氏と他二鬼の警護員はつき添ってくれるのでありました。
「ではここで我々は失礼いたします」
 フロントの前で、賀亜土万三氏が敬礼しながら拙生と鵜方氏に云うのでありました。やや遅れて他の二鬼もきびきびとした動作で敬礼するのでありました。
「どうも面倒をおかけいたしました」
 鵜方氏がお辞儀をするのでありました。拙生も少し遅れて礼をするのでありました。我々が頭を上げると賀亜土万三氏と他の鬼の警護員は回れ右をして、エレベーターホールの方に去って行くのでありました。警護員の姿が見えなくなると、拙生と鵜方氏は顔を見あわせて、どちらからともなく散歩からの無事の帰還に安堵の笑みを漏らすのでありました。
(続)
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もうじやのたわむれ 183 [もうじやのたわむれ 7 創作]

「どうもお疲れ様でした。私がお誘いしたばかりに、とんだ散歩につきあわせて仕舞ったようで、大いに恐縮しております」
 拙生は鵜方氏にお辞儀しながら云うのでありました。
「いやいや、ある意味で大変面白い散歩でした。久しぶりに体も動かせて爽快でしたし」
 鵜方氏は笑いながら掌を横にふって見せるのでありました。
 フロントに鵜方氏の腕時計と携帯電話を返却して、拙生の方はもう後二日必要であろうから借りっ放しで結構と云う事で、我々は夫々の部屋のキーを受け取った後、すぐには部屋に引き取らずに、ロビーの噴水の傍のソファーに座って暫く話しをするのでありました。
「私も今、この邪馬台郡に生まれ変わろうかなと云う心持ちになりかけておりますよ」
 鵜方氏が云うのでありました。
「ほう、あんな危険を経験しても、ですか?」
「まあ、あれは偶々邪馬台郡に閻魔庁があるために、未だ生まれ変わらない我々亡者が一杯うろうろしているが故に起こった事件であって、ここの住霊になって仕舞えば、つまりもう、あの手の危険はないと云う事でしょうからね。・・・」
 そう云った後、鵜方氏が少し考えるような仕草をするのでありました。「いや、しかし考えてみたら、住霊も拉致されるなんと云う可能性はないのでしょうかね?」
「それはあるかも知れませんよね。新たに霊に生まれ変わったとしても、法律とか仕来たりとか風習とか云う点は別にしても、準娑婆省に住むと云う営為それ自体は可能なのでしょうからね。それで霊口増加のために準娑婆省の諜報機関が、あんな無体な事をやっているのでしょうし。そうなると生まれ変わった後だって、誘拐される危険はあるわけだ」
「そうですよね。その辺はどうなっているのでしょうね?」
「明日の審理で、閻魔大王官にでも聞いてみては如何でしょう?」
「そうですね。そうしますよ。しかしそう云う危険があるとしても、私は多分、邪馬台郡に生まれ変わりたいと、明日の審理で閻魔大王官に告げるでしょうね」
 鵜方氏はそう云って自得するように頷くのでありました。
「どう云う按配で貴方の目に、邪馬台国郡の街がそんなに魅力的に映ったので?」
「邪馬台銀座商店街の風情なんかは、娑婆の日本に確かに近いと思われますので、なんか親近感が湧きました。まあ、親近感と云うよりは、安心感と云うべきか」
「新たに生まれ変わって仕舞えば、その今の亡者の状態での親近感なり安心感なんと云うものは、あんまり意味がないのではないでしょうか?」
「まあそうでしょうし、そう云う風に閻魔大王官にも云われましたが、しかし矢張り私としては邪馬台郡が一番性にあっているようで。ま、この性にあうと云うのも、今の亡者としての感覚で、生まれ変わったらそんな亡者時代の感覚は消えて仕舞うのでしょうがね」
「それでもその今の、亡者としての感覚を大事にしたいと?」
「ええ。不合理は重々承知しておりますがね」
 鵜方氏はそう云って自嘲するように笑うのでありました。
「まあそう云う私も、その不合理は重々承知の感覚を後生大事に懐に抱えておりますがね」
(続)
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もうじやのたわむれ 184 [もうじやのたわむれ 7 創作]

 拙生も鵜方氏と同様に、自嘲的に笑うのでありました。
「貴方も邪馬台郡に生まれ変わられて、私もそこに一足先に、まあ、二日程先に生まれていて、となると、新しくこちらで霊になった後も、どこかでお逢いする機会があるかも知れませんよね。ひょっとしたら住んでいる家が近所で、学校の同級生になるかも知れませんね。まあ、その時はお互い、全くの見ず知らず同士になっているのでしょうが」
 鵜方氏はそう云った後、偶々近くを通りかかった宿泊施設の従業員と思しき身なりの女性の鬼を、手を上げて呼び止めるのでありました。呼び止められた女性の鬼は、鵜方氏の方へ体を向けて丁寧なお辞儀をするのでありました。
「何かご用でしょうか?」
「ああ、ここにコーヒーを二つお願い出来ますか?」
 鵜方氏が女性にコーヒーを注文するのでありました。
「かしこまりました」
 女性は深々と礼をして、噴水の向こうに去るのでありました。
「ここのロビーでは飲み物のサービスもあるのですか?」
 拙生が鵜方氏に訊くのでありました。
「ええ。娑婆のホテルと同様ですよ。お金はかかりませんが。しかも二十四時間」
「ところで、豆アレルギーは出ませんか?」
「ええ、大丈夫のようです。今に至るまでどこも痒くなりませんから」
 鵜方氏が自分の右手の肘の曲がり目辺りに、赤い発疹が出ていないかどうかを点検しながら云うのでありました。
「こちらの世では、そう云う厄介なアレルギーのない体に生まれ変わりたいものですなあ」
「いやいや、同感です」
 先程の女性が、香ばしい湯気が縁から仄かに零れるコーヒーカップを二つ、銀盆に載せて運んで来て、傍らに置いてある小さなテーブルの上にそれを静かに置くのでありました。丁寧なお辞儀と愛想の笑みを残して女性が去ると、テーブルに近い方に座っている鵜方氏が、一つのコーヒーカップを受け皿ごと取って拙生に渡してくれるのでありました。
「ああこれは恐れ入ります」
 拙生は受け取ると、そう云って軽く頭を下げるのでありました。
「今日は何杯コーヒーを飲みましたかな?」
 鵜方氏は一口飲んでから、続けるのでありました。「邪馬台銀座商店街の喫茶店と、それに警察署と、それからこのコーヒーで、都合三杯でしょうかな」
「私は審問室で審問官と記録官と話している時にもおよばれしましたから、もっと余計に飲んだ事になりますなあ」
「こんなに飲んだのは、娑婆で断って以来ですから、もう十年以上も前になりますよ」
「私もそのくらいになりますかな」
「好きなものを好きな時に好きなだけ嗜めると云うのは、実に嬉しいものですなあ」
「いやいやご同感、ご同感」
(続)
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もうじやのたわむれ 185 [もうじやのたわむれ 7 創作]

 拙生と鵜方氏は満足の笑みを片頬に浮べながら、カップの熱い縁に唇を恐る々々当てているのでありました。コーヒーを数口啜っている間、我々は暫し黙るのでありました。
「こちらの世でも合気道を続ける積りはおありですか?」
 拙生がカップから口を離して訊くのでありました。
「まあ、娑婆での記憶が蘇った後に、出来るのならば続けたいとは今思いますが、しかし生まれ変わった後の私が、どう云う了見になっているかは今現在不確定ですし、それに娑婆にいた頃と体の条件も変わっているでしょうし、娑婆で積んだ修行の成果はすっかり消滅しているのでしょうから、やるとしてもまた一からやり直しと云う事になりますかな」
「なんか如何にも勿体ないですよね。せっかくそんなにお強いと云うのに、その強さが生まれ変わった後には帳消しになっているなんというのは」
「いやあ、私など大した事はありませんよ」
 鵜方氏は謙遜するのでありました。「私なんかよりも、娑婆で名人達人の域に達した諸先輩方が、こちらの世でどう云う風になっておられるのか、どう云う風に暮らしておられるのか、こちらでも合気道で大家となられているのか、その辺は興味がありますがね」
「娑婆で師匠だったお方に、また師事する事になるかも知れませんよ」
「そうですね。しかし娑婆での人間関係は、こちらの世に生まれたら記憶は淡く蘇ってもすっかり消滅するらしいですから、全く新たに再び師弟関係を築く事になるでしょうね」
「ああ、そうなりますね」
 拙生はそう云った後にコーヒーを飲み干すのでありました。
「ま、生まれ変わってみてのお楽しみ、と云う事ですな」
 鵜方氏も顎を突き出して天井に顔を向けて、コーヒーカップに残っていた最後の一口を喉に流しこむのでありました。後鵜方氏は空になった自分のカップを傍らのテーブルに戻し、拙生のも受け取ってその横に置いてくれるのでありました。
「いやあ、今日は面白かったですな」
 鵜方氏がそう云って立ち上がるのでありました。どうやらこれにて部屋の方へ引き取る積りなのでありましょう。拙生も遅れて立ち上がるのでありました。
「こちらこそご一緒していただいて、大変感謝いたしております。実に以って有り難かったです。若し貴方がいらっしゃらなかったら、私は今頃、あの四鬼の男共に拉致されて、三途の川の暗がりに浮かぶ準娑婆省の工作船に乗せられているところでしたよ」
 拙生はそう云ってお礼のお辞儀をするのでありました。
「まあ、貴方は明日も明後日も、旅行気分の気儘な思い悩みの時間をお過ごしになるのでしょうから、散歩でこの建物の外に出られる時には充分注意をしてください」
「ご忠告、肝に銘じます」
「私の方は一足先にこちらの世に霊として生まれ変わっておりますから、ひょっとしたら産まれたての霊の赤ちゃんとして、産科病院の窓から、貴方が観光ガイドの絵地図を片手に、前の通りを歩いておられるお姿をお見かけするかも知れませんね。ま、産まれたての赤ちゃんですから、泣くのに忙しくて、窓の外を見る余裕なんかないかも知れませんが」
(続)
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もうじやのたわむれ 186 [もうじやのたわむれ 7 創作]

 鵜方氏はそう云って自分の冗談に自分で笑うのでありました。
「貴方がこちらの世で、幸福な霊として生まれ変わられる事をお祈りいたします」
 拙生は云いながら握手の掌を差し出すのでありました。
「有難うございます。貴方の方も。では、色んな意味で、お先に失礼」
 鵜方氏は拙生の掌を固く握るのでありました。その後徐に握手を解いて、その手を上げて横にゆっくり低振幅に何度かふって、サヨナラの仕草をするのでありました。拙生も同じように手をふりながら浅いお辞儀をするのでありました。
「我々は閻魔大王官の審理中の身の上ですので、生まれ変わった後にはこの間の事は、お互い何も覚えてはいないのでしょうけど、しかしまあ、一応挨拶として云いますが、若しご近所に生まれ変わった折は、どうぞご厚誼を宜しくお願いいたします」
「こちらこそ」
 鵜方氏は下げた頭を起こした後、笑いながら一度大きく手をふってから、拙生に背中を向けるのでありました。鵜方氏がエレベーターホールの方に歩き去る姿を、拙生は立った儘、その影が消えるまでずっと見送っているのでありました。
 さて、拙生も部屋に引き揚げようとしていると、先程コーヒーをここへ運んできた女性が現れるのでありました。
「カップをお下げしても宜しいでしょうか?」
「ええ、構いません」
 拙生が云うと女性は深くお辞儀をして、膝を斜め前方にやや折って身を低くして、可憐かつ楚々とした仕草で、空になったコーヒーカップを片手の銀盆に載せるのでありました。
「明朝コンシェルジュは、何時からあそこに座っているのですかな?」
 拙生がそう訊くと女性は膝を伸ばして、愛嬌のある笑い顔を返すのでありました。
「朝六時には参っております」
「ああそうですか。随分早起きのコンシェルジュですね。それから明日の朝食は何処で摂ればいいのでしょうかな?」
「朝食をお摂りになるのでしたら、エレベーターホール横に、黄泉路、と云う名前のカフェテリアがございます。そこにビュッフェスタイルの朝食を用意させて頂いております。朝七時から十時が朝食時間でございます。夜は食事も出来るバーラウンジとなります」
「そこは別に予約とか関係なく、ふらっと入っても構わないですか?」
「はい、結構でございます」
「判りました。有難う」
 女性は「どういたしまして」と云いながら深いお辞儀をするのでありました。
 拙生が徐に歩き出すと、後ろから「おやすみなさいませ」と件の女性の声がするのでありました。その後彼女は拙生の姿が見えなくなるまで、そこに立ってお見送りをしてくれているのでありました。フロントの前を通れば、中の係員が夫々に拙生に向かって律義なお辞儀をするのでありました。なんと従業員の躾けが行き届いた宿泊施設でありましょうか。娑婆にもこれ程客の気分をよくしてくれるホテルは、ざらにないでありましょう。
(続)
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もうじやのたわむれ 187 [もうじやのたわむれ 7 創作]

 部屋に戻ると拙生は施設案内のパンフレットと、観光絵地図を化粧台の上に置くのでありました。先ず部屋の鍵と、腕時計を外してそれをその上に置き、ボールペンと可愛いイラストの描いてあるメモ帳と携帯電話も、上着のポケットから取り出してその横に置くのでありました。そうしてミニバーの下の小さな冷蔵庫から缶ビールを一本取り出してから、部屋の奥の窓前のソファーに座って、上着を脱いで一度大きな伸びをするのでありました。
 そう云えば審問室で審問官と記録官相手に日本酒の話しはしたのでありましたが、こちらのビールなんと云うものは、いったいどう云った具合のものなのでありましょうや。興味津々に缶の飲み口を開けて、拙生は先ず少量を口に含むのでありました。それは全く娑婆の居酒屋なんかで飲み慣れた、日本国産のビールの味なのでありました。拙生は安心するようながっかりするような、微妙な心持ちが少しするのでありました。
 ビールを片手に立ち上がって化粧台の傍まで行って、拙生はそこに先程置いた観光絵地図を取ると、またソファーに戻って座るのでありました。絵地図を開いて、さて明日はどこへ行こうかと思案するのでありました。
 今日は邪馬台銀座商店街に脇目もふらず直行したものだから、その途中にある郡会議事堂とか郡長官邸とか官庁街は素通りしたのでありましたが、コンシェルジュが云っていたように、そこに働く霊達の身なりやら態度やら表情やらを仔細に観察してみると、邪馬台郡の大凡の政治の質とかを感得出来るのかも知れません。しかし邪馬台銀座商店街の賑わいやらそこを行き交う霊達の様子を観れば、間接的にしろ、邪馬台郡の行政レベルも推し測る事は出来るでありましょう。寧ろ官庁街よりはこう云った市井の盛り場なんかの方が、邪馬台郡の行政実状をはっきり表しているのではないかとも思われるのであります。
 どだい郡会議事堂とか郡長官邸とか行政庁とか云った建物は、如何にも厳めしそうな拵えになっているもので、どんなに荘厳だろうとそれがその儘、政治や行政の厳しさやら緻密さやらを映しているとは限らないでありましょう。政治家なんと云うものは、見てくればかりを気にするものだし、官僚なんと云うものは、逆に見てくれに現れない部分で、自分達の都合の良い事をこそこそと企むものであると云う傾向は、彼岸此岸を問わない普遍的なものなのでありましょうから、矢張り邪馬台郡の実状を観るには、繁華街やら住宅街やら時に陋巷やらの市井の様子を観察するに如かず、であろうと思われるのであります。
 と云う事は明日も、邪馬台銀座商店街近辺へと散歩に出向く事になりそうでありますが、そうなると今日遭遇したような危険が待ちうけているかも知れないと云う事であります。明日は鵜方氏の同行を願えないわけでありますから、拙生だけではとてもあのような難事には対処出来ないでありましょう。かと云って危険を避けるために、終日建物内に留まって、この部屋と下のロビーだけで過ごすのも如何にも能がないし、それでは折角の旅行気分が台なしと云うものであります。はてさて、ここはどうしたものでありましょうや。
 まあ、明日になったらコンシェルジュに相談してみるしかないでありましょう。それに昼間の人気、いや霊気の多い場所なら、準娑婆省の諜報機関の連中もそんなに滅多矢鱈な事は出来ないでありましょうし、夜になる前にここへ帰ってくれば、なんとか大丈夫なのでありましょう。コンシェルジュの口ぶりも確かそんな風でありましたし。
(続)
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もうじやのたわむれ 188 [もうじやのたわむれ 7 創作]

 そう云えばコーヒーは娑婆時代以上に飲んだものの、今日は食事を一度もしていなかったなと拙生は急に思い当るのでありました。しかし空腹は全く感じないのでありました。
 まあ、拙生の今の体てえものは、こちらの世に生まれ変わるまでの閻魔大王官の審理期間中の仮の身でありますから、ちゃんとした人間の、いや霊の身体機能は備えていないのであります。因って空腹と云う、生命維持に不可欠の欲求も生じないのであります。
 しかしそんな体であるにしろ食事は出来ると云う事でありますから、寝るまでの暇潰しにロビーに降りて、黄泉路と云う名前のカフェテリアで何か名物料理でも食って来ようかなと考えるのでありました。確かカフェテリアは、夜間は食事の出来るバーラウンジの体裁で営業していると、下でコーヒーカップを下げにきた女性が云っていたはずであります。
 朝食はビュッフェスタイルだと云う事ですから、屹度混雑していて、落ち着いてご馳走を賞味すると云う雰囲気ではないでありましょう。それにこちら独特の名物料理が若し出ているとしても、然程の豪華版は期待出来ないかも知れません。そうなると今夜の内に、とびっきりゴージャスなディナーとして、それを食してみると云うのも魅力的な事のように思えるのであります。それに料理は無料だと閻魔大王官が云っていたのでありますし。
 そう思って横に置いていた上着を取って袖を通そうとするのでありましたが、拙生は何やら急に、これからロビーまで降りていくのが億劫に思えてくるのでありました。別に体が疲れているわけではなさそうでありますが、この億劫さはどうした事でありましょうや。
 第一拙生のこの今の体てえものに、疲れなんと云う感覚が起こるのでありましょうか。人体としての、いや霊体としての物質代謝機能がないのでありますから、食事も摂る必要がないし、だから序でに云うと、恐らく排泄の心配も不要なはずであります。
 拙生の今のこの体の活動エネルギーは、そう云った生命体としての営みの埒の外で生成されていると云う事であります。そのエネルギーは、若しこの拙生の体が幽霊みたいなものと仮定するなら、まあ、レトリック風に云えばでありますが、怨念とか不満とか憎しみとか云う非身体的な営為が、その活動エネルギーの源泉だと云う事にでもなりますかな。いや勿論、拙生には取り立てての怨念も不満も憎しみも一切ないのでありますが、ま、つまり要するに、幽霊には物質代謝と云う現象に依拠する活動エネルギーの生成と云う仕組みは不要だ、と云う事を云いたいわけであります。ですから食事が不要なわけであります。
 では拙生のこの今の体の活動エネルギーは、どの様な仕組みに依って生成されているのでありましょうや。・・・いやまあ、こんな埒も明かない事を拙生が今、ウダウダと考えてみても無意味ですかな。どうせ数日の後には、この拙生の今の仮の姿は綺麗に消えてなくなって、こちらの世に新たな霊として生まれ変わって仕舞うのでありますから。ま、兎に角、拙生はどうしたものかこの部屋から出るのが急に億劫になったと云う事であります。
 そう云えば頼めば部屋まで料理を運んで貰えると、閻魔大王官が云っていたのでありましたから、フロントの方に電話を一本入れれば、この部屋の中でゴージャスな名物料理を堪能する事も出来ると云う事であります。その方が手っ取り早いわいと、無精な拙生はベッドのサイドテーブルの上に載っている電話機の処まで立とうとするのでありましたが、どうしたものやら、そのほんのちょっとの移動すらも大儀に思えて仕舞うのでありました。
(続)
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もうじやのたわむれ 189 [もうじやのたわむれ 7 創作]

 まさか今日の散歩で、風邪でも引いて仕舞ったのではないでしょうか。しかし熱っぽいとか体が怠いなんと云う感覚はないのであります。大体、幽霊が風邪等引くわけがありません。池から浮かび上がった戸板の上のお岩さんがくしゃみをしたら、恐ろしさも帳消しであります。ではそうすると、今のこの大儀だと感じる心根なんと云うものは、一体全体どうしたわけでありましょうや。そんなもの感じる必要はないはずでありましょうに。
 ソファーに座った儘でいると、拙生はなにやら眠たくなってくるのでありました。この、眠たくなる、と云うのも解せない話しではありませんか。拙生の今の体てえものは、生命体としての営みの埒外にあるのでありますから、睡眠を与える必要もないはずであります。眠そうな顔のお岩さんなんと云うのは、何やら見ていて気の毒になると云うものであります。そんな事を考えている内に、拙生は迂闊にも本当に眠って仕舞うのでありました。
 やけに後頭部が暑いので目覚めたのでありますが、薄目を開くと後ろの窓からカーテン越しに、朝日が部屋の中に侵入しているのでありました。すっかり朝のようであります。
 目覚めた後は大儀だとも思わず、拙生は立ち上がって化粧台まで行って、そこに置いていた腕時計を取り上げて見れば、針は朝の六時を差しているのでありました。矢張り間違いなく拙生は眠ったようであります。疲れてもいなかったし寝る気もなかったと云うのに。
 腕時計を見ながら、この、拙生が娑婆時代と同じに睡眠を摂った、と云う不可解について暫く考えを廻らしていたのでありましたが、その理由がはっきり判るはずもないので、拙生は一つ伸びをして、この件に関する思考をあっさり頭から追い出すのでありました。後で閻魔大王官に聞けば良い事であります。そんな事よりも、今日の行動計画であります。
 下のロビーにある、黄泉路、と云う名前のカフェテリアの朝食タイムは、七時からということでありますから、これからゆっくりシャワーを浴びて歯を磨いてちゃっちゃっと身繕いして下に行けば、ちょうどそのくらいの時間になっているでありましょう。昨夜は結局夕食を食いそびれたわけでありますから、たらふく朝食を摂らねば損であります。まあ、昨夜同様、別に腹が減っているのではないのでありましたが、しかしどうせ只で飲み食い出来ると云う事ですから、ここは一番、たらふく、を実行しない手はないのであります。
 拙生はそう決めると、洗面所に行って熱いシャワーを浴びるのでありましたが、この今の仮の姿であっても、シャワー後の爽快感は感じる事が出来るのでありました。備えつけのドライヤーで髪を乾かして、その後これも備えつけの歯ブラシで歯を磨いて、バスタオルを腰に巻いて洗面所を出ると、衣装箪笥が目に入るのでありました。
 箪笥を両開きに開けて見ると、紺色のブレザーと空色のブルゾンが一着ずつ釣り下がっているのでありました。それにカジュアルな柄のワイシャツが二着に半袖ポロシャツが二着、それからベージュのスラックスと紺のジーパンが折り畳まれて中に置いてあるのでありました。傍らにあるボックスの引き出しを引き開けると、そこにはパンツとTシャツが三枚ずつ入っているのでありました。これは当然拙生が使って構わないのでありましょう。
 至れり尽くせりであります。拙生はすっかり下着を替えて、図ったように寸法がピッタリの黄色いポロシャツを着てジーパンを穿いて、パンツも含めて昨日の衣服はそっくりソファーの上に無精に放り投げて、最後に空色のブルゾンを羽織るのでありました。
(続)
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もうじやのたわむれ 190 [もうじやのたわむれ 7 創作]

 ロビーに降りてエレベーターホールを出ると、拙生はフロントの方に目を向けるのでありました。成程フロント横のデスクには、昨日親切に散歩の相談に乗ってくれたコンシェルジュがもう座っているのでありました。確か朝六時にはああやってあそこに座っているのだそうでありますが、そんなに早く彼に相談をしに来る亡者がいるのでありましょうか。
 まあしかしコンシェルジュの方は後回しにして、取り敢えずは朝食であります。拙生はエレベーターホールの横に在る、黄泉路、と云う名前のカフェテリアに入るのでありました。すぐにウエイターが傍にやって来て、拙生に一礼するのでありました。
「朝食でいらっしゃいますか?」
「ここに宿泊している、閻魔大王官の審理を受けている思い悩み中の亡者ですが、このカフェテリアで、朝食を只でたらふく食おうと云う了見でやって来たのですが」
「はい、ご用意させて頂いております。ではこちらの方へ」
 ウエイターは掌を上に向けて、軽くお辞儀をしながら拙生を奥へ誘うのでありました。拙生は窓際の席に案内されるのでありました。
「朝食はビュッフェスタイルとなっております。あの中央の大テーブルに色んなものが並べてありますので、何でもご自由にお召しあがりください」
 ウエイターは掌を上に向けた手で中央のテーブルを指し示すのでありました。
「こちらの名物料理なんというのも並べてありますかな?」
「そうですね。ここいら辺の名物と云えば三途の川で取れる鯉の料理でしょうか。鯉濃とか鯉の甘露煮、それに鯉の洗いが三大鯉料理となります」
「なんか娑婆の葛飾柴又の料理屋さんみたいですね」
「葛飾柴又はここからもっと上流に行った辺りの地名ですが、まあ確かに、鯉料理はそこが本場です。川甚とか川千家とか云う老舗料理屋があります」
「三途の川の上流に柴又と云うところがあるのですか?」
「はいございます。そのまた上流には、信州佐久、と云う、矢張り鯉料理を名物とする街がございます。葛飾柴又も信州佐久も三途の川で捕れた鯉の水揚げ港です。私共で供させて頂いている鯉は葛飾柴又で仕入れて、信州佐久からやって来た料理人が調理するものです。ですから素材も調理技術も何処に出しても恥ずかしくない自慢料理となります」
「ふうん、成程ね」
 矢張り邪馬台郡は娑婆の日本にいた連中が多く生まれ変わっていると思われる故、娑婆の日本にある地名が自然についたのでありましょうかな。
「鯉の洗いに関してはあの中央の大テーブルにではなく、あちらの調理カウンターの方でお出しいたします。中で立ち働いているシェフに直接ご注文していただきまして、少々お待ちいだたければ出来たてを堪能する事が出来ます。鯉の洗いなんと云うのは、何と云っても氷水で洗ってすぐの、冷たく締まったものが美味いですからね。序でに云いますと、あの調理カウンターではベーコンエッグやハムエッグ、それにスパゲティー、ラーメン、ちゃんぽん、饂飩とか云った麺類や、後は鯉の洗いを始め、他の魚の刺し身や寿司等の生もの、それに日本酒の熱燗なんかもお出ししておりますので、宜しければご利用ください」
(続)
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もうじやのたわむれ 191 [もうじやのたわむれ 7 創作]

 ウエイターは腰をかがめた儘そう云って、大テーブルの先の壁際にある調理カウンターを掌で指し示すのでありました。
「鯉料理にベーコンエッグにスパゲティーにラーメンに刺し身に寿司ですか。和洋、それに中華を問わず何でもありの朝食ですね。日本酒の熱燗まであるとは驚きですな」
「酒類は日本酒の他にビール、ワイン、ウイスキー、焼酎、様々なカクテルもご用意させていただいております。ウーロン茶やコーヒー等のノンアルコール飲料もございます。調理カウンターの中にはワインのソムリエも、カクテルを作るバーテンダーもおります」
「朝から酒が飲めるとは結構ですなあ」
「いくら飲んでも亡者様は全くお酔いにはなりませんので、たんとご賞味ください」
「ええどうも恐れ入ります。しかしどうして亡者は酔わないのでしょうか?」
「そう云う風な体の構造になっておられるからですよ」
「そう云う風な体の構造、と云うのは、どういう風な体の構造なのでしょう?」
「いや私はその辺は詳しくは存じ上げないのですが、兎に角そう云う風な体の構造です」
「ああそうですか。成程ね」
 ちっとも成程ではないのでありましたが、拙生はそう返事するのでありました。これも後で閻魔大王官に訊けば良い事であります。
 しかし幾ら酒を飲んでも酔わないと云うのは、嬉しいような悲しいような妙な心持ちと云うべきであります。飲む量に喜びを見出すタイプには嬉しく、飲む気分に喜びを見出すタイプには悲しい体の構造、と云えるでありあましょうかな。
 拙生はと云えば、どうせ飲むならほろ酔い加減の、ちょっと良い気持ちになりたいと願うクチなのでありますが、ですからそうすると、少し悲しい体の構造と云うべきでありしょうか。まあ、こんな拙生の呑気な悲しみなんかはこの際どうでも良い事でありますが。
「序でに云っておきますと、食事に関しても、幾ら量を摂取されても満腹にもおなりになりません。これもそう云う体の構造故であります」
「ああそうですか。成程々々」
 ここも全く成程ではないのでありましたが、拙生は取り敢えず頷くのでありました。ま、若いころは貧乏な無駄飯食らいの徒食漢中の徒食漢、として鳴らした拙生でありましたから、こちらの方はちょいとばかり嬉しい体の構造、と云っても良いでありましょうか。
「グラスや猪口、それに取り皿やナイフとフォーク、箸等は大テーブルの方に置いてあります。それではどうぞ、ごゆっくりお過ごしください」
 ウエイターはそう云って、丁重な物腰でお辞儀をして拙生の傍から離れるのでありました。さて、では早速と、拙生は席を立って中央の大テーブルへ向かうのでありました。
 大テーブルには和洋中華取り混ぜてふんだんな料理が並び、様々な容をした取り皿が、高層ビルの如くに高く重ねてあるのでありました。拙生は取り敢えずお櫃から丼にご飯を大盛りに装い、それから娑婆の蜆の味噌汁に似た汁物、娑婆の鮭の切り身に似た魚肉片、それからこれも娑婆の焼き海苔に似た黒い薄い乾物を先ず自分の席に運び、大テーブルに取って返して、鯉濃と鯉の甘露煮、それから序でに半熟ゆで卵を皿に取るのでありました。
(続)
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もうじやのたわむれ 192 [もうじやのたわむれ 7 創作]

 それから欲張ってまた大テーブルまで行って、小松菜と焼き餅入りの澄まし雑煮、餅米の握りに豚肉片と煮染めた椎茸が中に詰まった笹の葉包みの粽、特大の海苔巻きと稲荷寿司、見た目が綺麗だったので紅白段違いに並べられた蒲鉾と、序でにこれも綺麗な紅白段違い重ねの菱餅、ラーメンに餃子に焼売にヤキソバ、鱶鰭スープと八宝菜と高菜チャーハン、パエリアにブイヤベースにホットドッグにスパゲティナポリタン、杏仁豆腐と羊羹と汁粉と月餅、西瓜にメロンに桃に洋梨等々、拙生は無節操に自分のテーブルに運んでくるのでありました。飲み物と云えばビールの大ジョッキと赤ワイン、それに日本酒と焼酎のお湯割りであります。これだけ運ぶのに何度大テーブルと自分のテーブルを往復した事か。
 しかしこれだけでは未だ飽き足らずに、拙生は調理カウンターの方へと向かうのでありました。遠目に自分のテーブルをふり返って見れば、上に載った料理がテーブルを隙間なく占領していて、これ以上の皿は載る余地がどこにもないようにも思えるのでありました。
 それでも拙生はもっともっと多くの料理を我がテーブルに運ぼうと云う了見を、変更する気は全くないのでありました。ま、腹が途轍もなく減っているのでもないのでありましたが、この拙生の仕業なんと云うものは、いったいどう云う魂胆からでありましょうや。
「こちらの名物料理の鯉の洗いを一人前ください」
 拙生は調理カウンターの中の和装の若い板前に声をかけるのでありました。
「へい、暫くお待ちを!」
 若い板前はそう大声で返事をして、きびきびとした動作で奥の大きな生簀まで行くと、ピチピチと跳ねる元気な鯉を一尾網で掬い取って、それを生簀横の俎板の上に叩きつけるように載せ、傍らに大皿を取り出すのでありました。どうやらこれから活け造りが始まるようであります。豪勢にも、大ぶりの鯉一尾が一人前なのでありましょうか。
「その鯉一尾が一人前ですかな?」
 拙生は奥で腕をふるう若い板前に、少し大きな声を出して問うのでありました。
「へい、その通りで!」
 板前は拙生の方に背中を向けた儘、手際良く出刃包丁を動かして鯉の解体作業を続けつつ、拙生と同じ声量で、なんとなく娑婆の江戸っ子風の口調で応えるのでありました。
「他に何かご注文はございやすかい?」
 これは別の年嵩の、同じく和装の板前が江戸っ子口調で拙生に訊く言葉でありました。
「そうですねえ、・・・では、刺し身は何が出来るのですかな?」
「今日は鰤と石鯛がお勧めですぜ」
「何処で捕れた鰤と石鯛でしょうかな?」
「へい、すぐ前の三途の川でやす。活きがようがす」
「三途の川に鰤と石鯛が泳いでいるのですか?」
「あったりめえでやす!」
 そう云えば審問官と記録官が地獄省の地理の話しの中で、こちらには海がないものだから、鯨も淡水で生きられるように環境適応したなんと云う事を云っていたのを、ふと思い出すのでありました。ですから鰤も石鯛も同じく、環境適応したのでありましょう。
(続)
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もうじやのたわむれ 193 [もうじやのたわむれ 7 創作]

「では、その鰤と石鯛の刺し身を両方ともください」
「へい、がってん承知しやした!」
 年嵩の板前も手を一つ打って、奥の大きな生簀へ行って鰤と石鯛を網で掬うと、先程の若い板前の横の俎板の上で、並んで拙生に背中を向けて調理を始めるのでありました。
「北京ダックとか、要らないあるか?」
 娑婆の中国風の、と云っても清朝時代風の、でありますが、装いをした別の料理夫が拙生に声をかけるのでありました。見ると彼は拙生の方に差し出した掌を空中で揉むような仕草をして、その後唐突にその中からチューリップの花を一本出現させるのでありました。
「おお、鮮やかなマジックですね」
 この手品は彼の拙生に対する一種のお愛想でありましょうか。
「種仕かけ、一杯ある」
「北京ダックですか?」
「とても美味あるよ」
「では一人前お願いしますかな」
「がってん承知したあるよ。ぼちぼちやるよ」
 中国風の装いの料理夫はゆっくり奥の自分の調理台の方に去るのでありました。
「ドチャメンテゴチャメンテ」
 今度は大柄で典型的な娑婆のイタリア人風のコックが声をかけるのでありました。
「何ですか?」
「スパゲティナポリターナゴンドーラスイスイ」
「はい?」
「トルナラバトーレトルナラトッテミーヨ」
 昔テレビのコマーシャルか何かで聞いたような科白であります。「ところで、焼き立てのピザなんか、食べてみたくはあーりましぇーんか?」
 これは西洋人が少し巻き舌で、日本人に片言の日本語で話しかけている風を、日本人が無理矢理大袈裟に演じているような按配の、如何にも胡散臭い口調であります。
「おお、ピザですか。そう云えば娑婆にいる時から数えても、十年以上もそんなものを食した事がなかったですなあ」
「私の焼くピザ、美味しいあるよ」
 コックの口調が、何故か急に中国人みたいな感じになるのでありました。
「では遠慮なく、久しぶりに食べてみましょうかな」
「そうするあるよ」
「どうでも良いですが、イタリア人ぽいのか中国人ぽいのか判らなくなりましたなあ」
「ああ、これは粗忽でありまーした。隣で仕事している中国料理のシェフに、竟々無意識裡の内に影響されたのでありまーす。吾輩とした事が、実にどうも慙愧に堪えましぇーん」
 別に構わないのですが、粗忽とか、実にどうもとか、無意識裡とか、吾輩とか、慙愧に堪えない等とは、娑婆の日本人もそう滅多に口走らない言葉だと思うのでありました。
(続)
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もうじやのたわむれ 194 [もうじやのたわむれ 7 創作]

「へいお待ち!」
 娑婆のイタリア人風のコックがピザを作りに去ると、最初の和装の若い板前が活き造りにした鯉の洗いの大皿を持ってきて、拙生の前にどんと置くのでありました。
「おお、もう出来たのですか」
 拙生は前に置かれた、笹の葉の上に載せられた、未だ口をパクパク動かして尾鰭をヒクヒク痙攣させている、解体されて情けない姿になり果てた鯉を見るのでありました。
「どうぞご堪能しやがれってんだ!」
「なかなか威勢が良い口調で実にどうも結構な事ですが、聞くところに依ると、貴方は信州佐久からいらしている板前さんだと云う事ですが?」
「へい、その通りで!」
「しかし喋っておられる言葉なんと云うものは、信州弁ではなくて、落語とかに出てくる江戸っ子の職人の言葉つきですなあ」
「あたぼうでやすよべらぼうめえ。こちとら神田でおぎゃあと産まれてこの方ずっと、信州佐久の江戸っ子でえ職人でえ、威勢が良いんでえ!」
「信州佐久の江戸っ子ですか。・・・神田の生まれ?」
「その通りでやすが、何か問題でもありやすかい?」
「いや、娑婆の方では信州佐久と江戸は全く違う処なのですが、こちらでは信州佐久の中に江戸と云う地域があるのでしょうかね?」
「その通りでやす。ま、江戸と云うのは昔の地名で、今は東京と名前が変わりやしたがね」
「信州佐久の中にある、昔江戸と云われていた東京、ですか。・・・?」
「正解でやす!」
 和装の若い板前は手にしていた菜箸でピースサインをするのでありました。
「地獄省邪馬台郡の行政府やら郡会議事堂やら、それに閻魔庁のあるこの辺りが江戸、或いは東京と呼ばれる地域ではないのですか?」
「そりゃ違えますぜ、旦那。この辺りは畝火の白檮原宮と云う地名でやす」
「ウネビノカシハラノミヤ?」
「その通りでやす」
 拙生の頭はこんがらがるのでありました。まあ、こちらと娑婆とでは色々事情や歴史が違っているのでありましょう。変に娑婆とこちらの世の整合を云々するよりは、こちらの世をそっくり其の儘受け入れるのが、亡者としての正しい在り方かも知れません。
「ま、それにつけてもお手間をおかけしました」
 拙生は取り敢えず料理の礼を云うのでありました。
「へい、どういたしましてってんだ!」
 板前はお辞儀をして去るのでありました。入れ替わりに和装の年嵩の板前が鰤と石鯛の刺し身の盛りあわせ大皿を持って現れるのでありました。
「へいお待ち!」
「ああこれは恐れ入ります」
(続)
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もうじやのたわむれ 195 [もうじやのたわむれ 7 創作]

「どうぞご堪能しておくんねえな!」
 先程の若い板前と同じ語勢でこの年嵩の方も云うのでありました。
「貴方も信州佐久の、昔江戸と云われていた東京からいらした板前さんで?」
「いや、あっしは信州佐久の、昔浪速と云われていた大阪から来たんでさあ」
「大阪の方ですか?」
「へ、そうでおま」
 板前は急に娑婆の大阪弁風の言葉つきになるのでありました。
「しかし言葉が江戸っ子調でしたよね、先程までは?」
「そうでんなあ。最初大阪で料理人になったんでおますが、すぐに東京の方に、包丁一本晒しに巻いて板場の修業に出たんでおます。東京での修行が長かったさかい、調理場では江戸っ子口調になって仕舞うたんですわ。そやけど私生活ではベタベタの大阪弁でっせ」
「ああ、そう云う事情ですか」
 拙生は心の中でこの板前の話しも、どんなに胡散臭くても其の儘、聞くが儘在るが儘に受け入れなければならんぞと、自分に秘かに云い聞かせるのでありました。
「お前達、何話してるあるか?」
 中国風の装いの料理夫が、家鴨を丸々油で揚げたものを皿に載せて表れるのでありました。「へい、北京ダック、お待ちあるよ」
「ああこれはどうも」
「ワタシの弟子の若い衆が後でテーブルまで行って、皮を削いだり削いだ皮を包んだりして、食べやすいようにしてあげるあるよ」
「それはお手間をおかけします」
「なあに、別に礼はいらないあるよ。そこまでがこの料理のサービスあるね」
 中国人風の料理夫が掌を顔の前でひらひらさせて愛想笑うのでありました。
「そんな湯気の上がっている油臭え料理なんぞを、俺の持ってきた刺し身の横なんかに置かねえでもらいてえもんだな」
 和装の板前が中国風の料理夫に、江戸っ子言葉の方で文句を云うのでありました。
「何云っているあるか。カウンターのこの場所は貴方の占有スペースではないではないか」
「おっとどっこい、テメエこそ何をいいやがる。俺が先に刺し身をここに置いたんだから、その丸揚げなんかは、熱が移らないように少しは気を遣って、離して置きやがれってんだ!」
「ワタシの料理をこのカウンターの上の何処に置こうが、ワタシの勝手あるよ。気に入らないなら、自分でその刺し身を離れたところにずらせばよいあるね」
「いいか、俺が先にカウンターのここに刺し身を持って来たんだから、後のテメエの方が気を遣って、その暑苦しい料理なんぞは離れたところに置くのが、料理に生きる同士の礼儀ってもんじゃねえか、この無神経の間抜けの鈍感野郎のすっとこどっこい!」
「お、その悪態、許せないあるね!」
 和装の板前と中国人風の料理夫が、カウンターの拙生の前の料理を置く場所をめぐって、領有権争いをおっ始めるのでありました。
(続)
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もうじやのたわむれ 196 [もうじやのたわむれ 7 創作]

「貴方達、何を揉めているのでーすか?」
 イタリア人風のコックがピザを持って現れるのでありました。
「また油臭えのが一匹現れやがったな」
 和装の板前が江戸っ子口調で、中国人風の料理夫への憤怒が冷め遣らぬ儘に、イタリア人風のコックに敵意のある視線を向けながら悪態をつくのでありました。
「まあまあまあ、そう興奮しないでくださーい。折角の料理が不味くなりまーす」
 娑婆のイタリア人風のコックが穏やかな笑みを浮かべて窘めるのでありました。「第一、この亡者のお客様の面前で、無神経千万ではありましぇーんか」
 イタリア人風のコックが親指で拙生を差すのでありました。
「おっと、それはそうに違えねえや」
「アイヤー、その通りあるね」
 和装の板前と娑婆の中国人風の料理夫が恥入るような表情をして、互いの顔を見るのでありました。それから拙生の方をばつの悪そうな上目で窺うのでありました。
「料理が出てくる傍から、私がどんどん自分のテーブルに運べば良かったのですよね。私が至らないばかりに、とんだ紛争を招来させて仕舞いました」
 拙生はそう云って軽く頭を下げるのでありました。
「いやいや旦那、それはいけませんぜ」
「大人対不起足下低頭万万不可」
「貴殿には何の落ち度もありましぇーん」
 夫々がたじろいで同時にそう云って掌を横に何度もふるのでありました。
「では早速料理を私のテーブルに運ぶとしましょうかな。どうも有難うございました。多謝多謝。グラッチェグラッチェ」
 拙生はそう云ってお辞儀をして、調理カウンターの料理を何度か往復しながら自分のテーブルに運ぶのでありました。拙生が総てを運び終わるまで、件の板前と料理夫とコックがカウンターの後ろに立って、最後まで見送ってくれるのでありました。
 しかしまあ、随分と豪勢に並べたものであります。拙生は自分の席に戻って、前に並んだ料理や飲み物の種類と量に呆れかえるのでありました。しかも和洋中華手当たり次第といった具合で、何とも統一感も品もあったものじゃない大棚揃えであります。
 いくら只で、満腹する事がないからとは云っても、さもしい了見でこんなに運んでくる事はないのであります。しかもディナーではなく朝食だというのに。
 とは云いつつも拙生はテーブルの上の料理を、片っ端から腹につめこむのでありました。成程、料理の味に関しては堪能できるし、幾ら腹に入れても一向に満腹の気配もないのでありました。一向に満腹しないと云うのは幸なりや不幸なりやと、食いながら頭の端でちらと考えるのでありましたが、ま、そんな事はどうでもいいやと結論するのでありました。
 質量のない体の拙生が質量のあるこの料理を食うと云う事は、いったいどう云う事態なのであろうかと云う事も、食いながら考えるのでありました。しかしこの疑問も、億劫だったので、後で閻魔大王官にでも聞けば良いかと頭皮の外に投げ遣るのでありました。
(続)
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もうじやのたわむれ 197 [もうじやのたわむれ 7 創作]

 食事の途中、件の中国風の装いをした料理夫が云っていたように、その弟子と思しき仁がやって来て、両手を前であわせて恭しく拙生にお辞儀をした後、丁重な手つきで北京ダックの皮を削ぎ、それを大きな小麦粉の薄皮に包んでくれるのでありました。拙生としては手当たり次第にガツガツと、前に並べた料理を胃袋につめこんでいたのでありましたが、家鴨の皮を嫌に丁寧に包んだこの弟子が、全く鷹揚にそれを拙生に差し出す所作が内心大いにもどかしいのでありました。しかしこのサービスに文句は云わないのでありました。
 最後に日本酒の猪口をグイと傾けて拙生は朝食を終えるのでありました。この間約一時間であります。娑婆にいる時には、こんな短時間にこれ程多くの料理を食し終えるのは全く無理であったでありましょう。その前に、余程の大食らいでも、一人の人間がこれだけ多くの量を一回で腹に収めるのは絶対不可能であります。しかも拙生は一向に満腹していないのであります。食おうと思えばもっともっと食えそうな気配であります。しかし幾ら食っても満腹しないのでありますから、これ以上食事を続けるのは時間の空費であります。
 徒食の輩、とは何の仕事もしないで食うだけ食う輩の事でありますが、今の拙生がズバリその謂に当て嵌まるでありましょう。しかも食っても食っても満腹状態には行き着かないのでありますから、考えればなんと罪深い体に成り果てたのでありましょうか。・・・なんぞと頭の片隅で少し反省の言を吐いてから、拙生は元気良く立ち上がるのでありました。
 さて、腹拵えも出来なかった事だし、これから邪馬台郡散歩の昨日の続きを敢行する事にしようかと、拙生が空いた数多の皿の間に目を這わせるのは、勘定書きを探すためでありましたが、そんなものがある筈がない事にすぐに思い至るのでありました。これは娑婆にいた頃の習慣からでありましょう。余談ではありますが、食事の後に勘定書きが机上に見つけられないとなると、拙生は何故か少しオロオロする小心のタイプでありました。
「お食事はお済みですか?」
 最初に拙生をこの席に案内したウエイターが近寄って来て声をかけるのでありました。
「いくら食っても満腹しないから、これで切り上げです」
「それはご愁傷様でございます」
 拙生の言が不満の表明に聞こえたのか、ウエイターは恐縮の態を表すのでありました。
「いやいや、味の方は充分堪能させて貰いました。有難うございます」
「この後は部屋で思い悩みの時間をお過ごしになるのでしょうか?」
「いやいや、旅行気分で邪馬台郡をあちらこちら観光します」
「ああそうですか。では良い観光の時間を過ごされますように」
 ウエイターはそう愛想を云うのでありました。それから拙生を送って、出入口まで一緒に来ると、またのお越しをお待ち申しております、と云って頭を下げるのでありました。
 カフェテリア黄泉路を出て、拙生はフロントの中の従業員の目礼を横目に、昨日色々散歩の助言を貰ったコンシェルジュの処に行くのでありました。コンシェルジュは拙生を認めると、椅子から立ち上がって一礼するのでありました。
「聞くところに依ると、昨日はとんだ目に遭われたそうで」
 コンシェルジュは昨夜の事件を既に知っているようでありました。
(続)
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もうじやのたわむれ 198 [もうじやのたわむれ 7 創作]

「そうですね、危うく誘拐されるところでした」
 拙生はあんまり緊張感のない口調で云うのでありました。
「ご無事で生還された事、何よりでありました」
「へい、有難うございます」
 拙生は無表情にそう云いながら椅子に腰を下ろすのでありました。「ところで今日これからの散歩の件ですが、少し郊外まで足を延ばして、すっかり旅行者の気分でこの近辺の見所とか、名所旧跡なんぞを巡ろうかと思っているのですがね。そう云う散歩のルートを考えて置くと、昨日仰っておられましたが、さて、どう云う按配になりましたでしょうかな?」
「昨日あんな目に遭われたと云うのに、今日も外へお出かけになるのですか?」
「ええ、その積りでおりますが、いけませんかな?」
 コンシェルジュはやや首を傾げて拙生を見遣るのでありました。
「いけなくはありませんが、なかなか豪胆な亡者様でいらっしゃると思いましてね」
「なかなか鈍感な亡者様、と云ったところでしょうかな」
「いやいや、滅相もない。そんな事は云っておりません」
 コンシェルジュが慌てて掌を横にふるのでありました。
「どっちでも構いませんよ。娑婆でも自分の評判なんかは気にしませんでしたから」
「まあ一応、今日のコースを考えては置いたのですが、・・・」
 コンシェルジュはそう云ってデスクの下から一枚の紙を取り出して、拙生の前にそろそろと押し遣るのでありました。「こんなところで如何でしょうかな?」
 拙生はテーブルの上に手を載せて、やや身を乗り出すようにして紙を見るのでありました。そこにはこの宿泊施設を起点として、幾つかの観光スポットを周遊するルートが、所要時間入りで書いてあるのでありました。拙生はその紙に暫く見入ってから、宿泊施設の次の、一番初めに書いてある訪問地を指差しながら質問をするのでありました。
「この畝火の白檮原タワーと云うのはなんでしょうかね?」
「テレビとかの電波塔です。鉄骨を組み上げた構造物で、赤白に塗り分けられていて、高さは三百三十三メートルあります。なかなか秀麗な塔で、邪馬台郡のシンボルと云ったところでしょうか。これは強艦地方の仏蘭西と云う地域で万地方博覧会が開かれたのを記念して建てられた、ケッヘル塔と云う構造物を真似て造られたものです。ケッヘル塔は高さが三百二十メートルですが、畝火の白檮原タワーはそれよりも十三メートル高いのです」
「ケッヘル塔? エッフェル塔、ではないのですか?」
「いや、ケッヘル塔です。これも強艦地方の、墺太利地域出身のケッヘルと云う名前の霊が考えた、材料の鉄骨に出来た年代順にケッヘル番号と云う通し番号をふって、組上げし易いようにする画期的な工法によって造られた塔ですので、そう呼ばれております」
「ケッヘル番号、ですか。・・・画期的な工法、ねえ」
 先の和装の料理人の言葉と同じで、これもどんなに胡散臭くても其の儘受け入れるのが、亡者としての正しい在り方だと拙生は心の中で呟くのでありました。「何やら、頂上にスピーカーがあって、そこからクラシック音楽が流れてきそうな塔ですね」
(続)
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もうじやのたわむれ 199 [もうじやのたわむれ 7 創作]

「頂上ではありませんが地上八メートルのところに、確かにスピーカーが取りつけられております。町会の連絡とか、小学生に帰宅時間を知らせる時なんかに使われておりますよ」
「なんか邪馬台郡のシンボルの割には、ちまっとした使われ方ですね」
 拙生はデスクについていた片肘を縁から滑り落として、少しずっこけながら云うのでありました。「その次に書いてある、深草(下町情緒)、としてあるのは?」
「そこは第二次省界大戦前は邪馬台郡一の盛り場だった処でして、喧騒寺と云うお寺の門前町になりますかな。お寺の参道に沿ってお土産屋さんとか饅頭屋さんとか、その他色々な店が並んでいて賑やかですよ。仲見世と云います。お寺の境内では、夏はほおずき市、それに暮れには羽子板市なんかが立って、昔ながらのしっとりした下町情緒が味わえます」
「娑婆の浅草みたいな処ですかな?」
「聞くところに依れば、娑婆の浅草と云う処に似ていると云う事です」
「深草の喧騒寺ねえ。・・・」
 拙生は腕組みをして少々首を傾げるのでありました。
「お寺だけではなくて町内一円にも、古くから在る蕎麦屋とか鰻屋とか、すき焼き屋とか泥鰌汁屋とかが点在しております。創業二千何百年なんと云う店もありますよ。それに映画館やら寄席やらストリップ小屋なんかが集まる、深草八区と云う街区もあります」
「邪馬台銀座商店街近くの映画・興行街とはまた違うのでしょうか?」
「邪馬台銀座近くの映画・興行街は第二次省界大戦後に、深草八区にあった映画館やら寄席やらが戦災に遭った深草から移転して興された街です。今ではそちらの方が賑やかになって仕舞いましたが、戦前は深草が邪馬台郡随一の繁華街だったのです。今でも深草に残って営業している老舗の映画館やら寄席やらもありはしますが、しかし往時の繁栄は遠い夢となって仕舞いましたかな。何となく時代に取り残された街と云った風情があって、しかしその哀愁の霧泥むように揺蕩う雰囲気が、深草と云う街を魅力的にしてもいるのです」
「益々、娑婆の浅草みたいな感じですね」
「ああそうですか。深草は有名な小説家の方々も愛して止まない街で、その人達の作品にもよく登場しますし、或る作家などは晩年の一時期、一人で深草に行くのを日課のようにしていて、気に入ったレストランやらで昼食を摂ったり、ブラブラと近辺を散歩したり、ストリップ小屋の楽屋に入り浸ったり、嫌いだと公言していた映画を観ながら時間を潰したりして、日が暮れると市川と云う処に在る自宅まで電車に乗って帰っていたようです」
「それはひょっとしたら、永井荷風と云う名前の小説家ではありませんか?」
「いや、そう云う名前ではなかったように思います」
 それはそうでしょうかな。荷風散人が向こうの世を去って未だ五十有余年ですから、平均寿命約八百歳のこちらの世では、未だ全く売れない若手作家の類に入るか、若しくは未だ小説筆記のための筆も取り上げてもいないに違いありません。
「次に書いてある、お茶のお湯、と云うのは?」
「お茶のお湯は学生街です。近くに帰去来堂と云うハラショー正教の教会があります」
「お茶の水、ではないのですか?」
(続)
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もうじやのたわむれ 200 [もうじやのたわむれ 7 創作]

「いや、お茶のお湯、です。実際、お茶を入れるのに使うのは水ではなくてお湯ですから、お茶の水、と云うと何となく不親切で行き届かない表現のような感じになるでしょう?」
「成程ね。まあ、一面の理屈を云えばそうですが。・・・」
 そう云えば、準娑婆省の娑婆交流協会の会長さんをしておられる大岩さんと云うお婆さんが、娑婆ではお茶の水にも住んでいたと云う事を拙生はふと思い出すのでありました。
「帰去来堂と云うのは?」
「地獄省のハラショー地方で主に信仰されているハラショー正教と云う宗教がありまして、その教会であり邪馬台郡布教出張所と云う事になりますか。建物は郡の重要文化財です」
「娑婆の、お茶の水にあるニコライ堂みたいな感じですね」
「聞くところに依れば、そちらと瓜二つと云う事です」
 それにしても漢字で、帰去来堂、とするのは無理矢理の地口遊びのような感じがするのでありました。しかしまあ、ここもその儘コンシェルジュの言を受け入れるのが、亡者としての仁義であると考えて、拙生は明確ないちゃもんをつけたりしないのでありました。
「因みにお伺いしますが、帰去来堂、と云う名前の謂れはどう云った事でしょうかね?」
「堂を起工した大教主が、赤頭巾・帰去来、と云う名前の方でしたので」
「赤頭巾・帰去来? カサーツキン・ニコライ、では?」
「いや、何でもハラショー地方の方では珍しい名前だそうで、赤頭巾・帰去来さんです」
「娑婆での国籍がロシアではなさそうですね。中国、或いは日本の方だったのでしょうか?」
「そこは私は詳しくは存じ上げないのですが、何でもその赤頭巾・帰去来と云う大教主の父方のご先祖様が、娑婆では中国系の方だった、なんと云う事を聞いた事があります。ご先祖様は娑婆の中国は六朝時代の東晋の有名な田園詩人で、唐の時代に孟浩然とかの追従者が出て有名になったとか。そのご先祖様が『帰去来辞』と云う賦を書いたとか云うので、屹度それに因んだお名前なのでしょう。いやこれは確かめたわけではありませんが」
 その儘受け入れるべし。・・・
「赤頭巾、の方は?」
 拙生は訊くのでありました。
「そちらは、お母様の方の実家のご先祖様が娑婆ではドイツにいらした方らしくて、そのご先祖様に、兄弟で学者をされていた方がいらして、何でも共同で童話を著わされたそうなのですが、その童話の中の一つの話しが由来だと云われております」
 拙生は瞑目するのでありました。なにも云わずその儘受け入れるべし。・・・
「ええと、その次に書いてある、柴又帝釈天、というのは?」
「葛飾柴又にあるお寺です」
「ああ、葛飾柴又と云えば、先程朝食を摂ったカフェテリア黄泉路の板前さんが確か、葛飾柴又から来たと云う事でしたなあ」
「そうですね。葛飾柴又は帝釈天の門前町で、鯉料理が名物です」
「ここは娑婆の方と同じ地名なのですね?」
「そうですかな。まあ、こちらの地名は娑婆と同じものもあれば違うものもあるようです」
(続)
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もうじやのたわむれ 201 [もうじやのたわむれ 7 創作]

「地名のついた由来が様々だからでしょうかね?」
「そうですね。さらっと娑婆と全く同じ地名がついている処もあれば、諸事情に因りそうでない処もあります。最近あちらこちらで住居表示が実施されて古い由緒ある地名が消えて仕舞うのは、個人的には寂しい思いがありますが、ま、傾向としては娑婆の地名をその儘拝借したり、娑婆での古称を敢えてつけたりするのが新住居表示の流行りでしょうかな」
 拙生はその、諸事情に因り、と云う辺りをじっくり質問してみたい気がするのでありました。今までの審問官と記録官、閻魔大王官と補佐官筆頭、この目の前のコンシェルジュと話しをした辺りから勘繰れば、ひょっとしたら我々亡者と会話をする時に、何となく面白い地口として成立し易いか否か、なんと云う実に下らない理由が、その諸事情の真相ではないかとも思えてくるのであります。まあしかしそれは拙生のこれから敢行せんとしている、閻魔庁周辺名所旧跡巡り散歩一日コースには直接の関係はない質問ではありますが。
「江戸川が流れていて、そこには矢切りの渡しと云うのがあって、対岸の、先に話しに出た小説家さんの自宅がある、市川と云う処まで小舟が往来しているのでしょうかね?」
「いや、江戸川と云う川は流れていません。流れているのは三途の川です」
「ああそうですか。と云う事は、対岸は市川ではなくて準娑婆省になるわけだ」
「そうですね。ですから往来する船は亡者様を運ぶ豪華客船です。小舟ではありません。尤もその客船は閻魔庁の港湾施設を使用しますから、柴又辺りはルートではありません」
「そうすると、矢切りの渡しというのもないわけですね?」
「渡し場はありませんが、三途の川で釣りをするお客さん用の釣り船とか、ボート遊びのためのちょっとした桟橋はあります。昔は釣り船の船頭は近くの農家のオヤジさんなんかが兼業していて、そのためか仕事ぶりが何となく意欲的でなくて、無愛想な感じだったものだから、お義理の渡し、と云う名称になっておりました。ま、渡し、ではないのですが」
「ふうん。矢切りの渡し、ではなくて、お義理の渡し、ですか。お義理にもあんまり味わいのある名前だとは云い難いですなあ」
「まあそうですかな。しかし近年の釣りブームで、至れり尽くせりのサービスを売りものにする、専業の豪華な釣り船なんかも登場しております。釣った魚をその場で捌いて寿司にして出してくれるサービスなんかが特に好評でしてね、それで最近は、にぎりの渡し、なんと云う名前に変更されると云う話しです。未だ決定したわけではありませんが」
「にぎりの渡し、ですか。益々間抜けな感じですね、それでは」
 夜間のお客は、夜釣りの渡し。船賃をまけろとゴネる釣り客は、値切りの渡し。金を返さない客は、不義理の渡し。他所の家の六畳間に住んでいる客は、間借りの渡し。考古学をやっている客は、矢尻の渡し。板金工なら、ヤスリの渡し。旅館経営者は、宿りの渡し。田圃に立っているのが山田の案山子。夜警で生活している人は夜勤の暮らし。・・・女っ誑に春の嵐、ワサビは辛し、餌は小出し、雪駄は素足、足もと暗し、夏来にけらし、・・・
「何をニヤニヤされたり、口を窄めたりされているのでしょうか?」
 コンシェルジュが暫し黙って仕舞った拙生に訊くのでありました。
「いや、別に何でもありません」
(続)
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もうじやのたわむれ 202 [もうじやのたわむれ 7 創作]

 拙生は居住まいを正して、小さな咳払いを一つするのでありました。「柴又帝釈天の次に書いてある、高尾山、と云うのは何でしょうか?」
「それは、この辺から半日コースでハイキングに行ける手頃な山です。邪馬台郡の繁華な地区に隣接した、交通至便の自然豊かな山と云う事で、本来はレストランとか料理屋とかホテルなんかのランクをつける、民間で出している『見知らむ』と云う権威ある案内本の中で、近年見事に、確か景観部門か何かで三つ星指定を受けた処です」
「娑婆の八王子にある高尾山と同じような感じでしょうかね?」
「いや、私は娑婆の方に在ると云う高尾山はよくは存じませんが」
「同じ、高尾山、と云う名前ですよね。だから何やら関連があるのかと思いましてね」
「さあ、山の名前の由来までは存じ上げません」
 コンシェルジュは無表情にそう云いながら、浅くお辞儀をして見せるのでありました。
「娑婆では高尾山は東京都の西端にある山ですから、東端にある柴又帝釈天の次に訪問するには、距離的に離れ過ぎていると云う感覚ですが?」
「いや、娑婆ではそうかも知れませんが、こちらでは柴又帝釈天の北隣にある山ですから」
「ああそうですか」
 拙生はそれ以上の言葉を喉の奥にグッと飲みこむのでありました。娑婆での知見を節度なくこちらに当て嵌めないのが、我々亡者としての在るべき姿の筈でありました。・・・
「山中深くに高尾山薬王院有喜寺と云うお寺が建っていて、これは一万二千年以上前に開山されたと云われていまして、閻魔庁のあるこの辺きっての名刹となります。元々修験道の山でしてね、天狗がマスコットになっておりますよ」
 娑婆の高尾山とすっかり同じであります。
「さらに西に行くと景信山とか陣馬山とか、それに相模湖なんと云う湖がありますか?」
 拙生は一応訊いてみるのでありました。
「おや、よくご存知で。しかしそれは西ではなくて三途の川沿いに北方に連なっております。高尾山はロープウェイとかリフトで中腹まで行けますが、その先に足を延ばすとなると丸一日のハイキングコースとなりますから、今日の処は高尾山だけされた方が無難です」
「ああ、成程ね」
「と、ここまでで本日の散歩コースは終了となります」
「畝火の白檮原タワー、深草(下町情緒)、お茶のお湯、葛飾柴又、高尾山と云うコースですね。なんか娑婆の感覚でも一日コースとしてはこれで一杯々々でしょうなあ」
「邪馬台銀座商店街アーケードの郡道一号線側入り口傍から、この辺の観光名所を巡る、ハトに豆鉄砲バス、と云う定期観光バスも出ておりますが、生憎それは亡者様はご利用いただけません。住霊とかこの辺に観光旅行に来た他所の霊専用になっておりまして」
「つまり<亡様歓迎>ではないのですね、その豆鉄砲バスは?」
「そう云う事でございます」
「そうすると、私は路線バスやら電車を乗り継いで観光する事になるのですね?」
「本来はそうですが、貴方様の本日の観光に関しては別の手立てになっております」
(続)
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もうじやのたわむれ 203 [もうじやのたわむれ 7 創作]

「別の手立て、ですか?」
 拙生はコンシェルジュを少しの戸惑い顔で窺いながら訊くのでありました。
「そうです。昨日の誘拐騒ぎの後ですから、こちらとしても貴方様が本日も散歩に出られるとなると、責任上、万全の安全策を講じておく必要がありますから」
「ああそうですか。それはお手数をおかけしますなあ」
「いえいえ、とんでもない。気になさらずに。一般的なサービスの範囲です」
 コンシェルジュは掌を横にふりながらお辞儀するのでありました。
「護衛か何かがつくのでしょうか?」
「はい。施設局警護係官が二鬼同行させていただきます」
「娑婆で云うSPみたいな方ですかな?」
「娑婆のSPは警察官ですが、同行させていただくのは閻魔庁の職員です」
「ああそうですか」
「しかし閻魔庁職員と云っても、警護のスペシャリストでありますから、SP並に頼りになります。彼等は逮捕権はありませんし、警官のように拳銃は所持しませんが、伸び縮み警棒とかスタンガンとか、一定の制圧武器は携帯しております。それに色々な武道の習熟者でもあります。柔道、剣道、合気道、空手、薙刀、それに水泳術も槍も弓も馬も、・・・」
「・・・未も申も酉も戌も、でしょうかな?」
 拙生は先回りして云うのでありました。
「おっと、その冗談をどうしてご存知で?」
「昨日警察署に迎えに来てくれた、賀亜土万三さんと云う名前の方から聞きました」
「ああそうですか。それは何とも。・・・」
 コンシェルジュはそのフレーズを拙生が既知であった事に対して、悔しそうな、残念そうな表情を隠さないのでありました。
「要するに、頼もしい護衛がつくわけですね、私の散歩に」
「そうです。しかしだからと云って貴方様の行動が何ら制約を受ける事はありません。貴方様は同行の警護員に全く気を遣わずに、何の遠慮もなく自分のペースで散歩していただけます。警護員はそれに一言の文句も云わず、ひたぶるに愛想良く、影のようにただ同行いたします。でももしご所望があれば、貴方様の散歩に有益な情報等をご提供する事は出来ます。云ってみれば、水戸黄門に同行する助さん格さんみたいな感じでありましょうか」
「家来みたいな感じですか?」
「まあ、家来と云うのは語弊がありますが、大いに謙った介助役、とでも申しましょうか」
「助さん格さんという感じではないのですな、そうすると」
「そうですね。私の先の譬えは訂正させて頂きます。調子に乗って余計な事を云わずに、単に、貴方様に何のご負担もおかけしない護衛がつくとだけ云えば足りましたかな」
 コンシェルジュはあっさりそう云って一礼するのでありました。
「いやこちらの方こそ、助さん格さんに余計に拘ったりしなければ良かったのですが」
 拙生はコンシェルジュの恐縮の体に恐縮するのでありました。
(続)
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もうじやのたわむれ 204 [もうじやのたわむれ 7 創作]

「これからすぐに街の散歩に出られますか?」
 コンシェルジュが訊くのでありました。
「そうですね。朝食も済ませて仕舞いましたし、しこたま食いに食って腹一杯で動くのが億劫になって、満腹の遣る瀬なさを感じている、と云った状態でも全くありませんし、出来ればこれからすぐに散歩に出発したいと思うのですが」
「ああそうですか。判りました」
 コンシェルジュはそう云うと、デスクの傍らに置いてある白い電話機から受話器を取り外すと、プッシュボタンを一つ押すのでありました。恐らく内線電話で、拙生の護衛につくと云う鬼を呼ぼうとしているのでありましょう。
「ああ、コンシェルジュの安奈伊ですが、警護の賀亜土係長に繋いでください」
 これはコンシェルジュが、耳に当てがった受話器に向かって云う言葉でありました。暫く待った後コンシェルジュは送話口に、ああどうも、はい、はあ、いや、そうです、はい、はい、そうです、はい、いや、はい、ではお願いします、はい、なんと云う言葉を吐いた後、徐に受話器を元に戻して拙生の方を見て、この儘少々お待ちください、と愛想笑いながら云うのでありました。拙生は頷いてその指示に従う仕草をして見せるのでありました。
「昨日態々私達を警察署まで迎えに来てくれた賀亜土万三さんという方は、警護の係長をされておられるのですか?」
 拙生が訊くのでありました。
「そうです。なかなか鬼当たりの良い、気さくな方です」
「その、鬼当り、と云うのは娑婆で云うところの、人当たり、と云う事でしょうかね?」
「正解です」
 コンシェルジュがピースサインをするのでありました。
「貴方は、安奈伊さん、と云うお名前で?」
「ええ。申し遅れましたが、安奈伊司太郎と申します」
 コンシェルジュはそう云って一礼するのでありました。
 待つ事暫し、警護の担当と思しき鬼が二鬼やって来て、立った儘で拙生にお辞儀をするのでありました。二鬼とも私服姿で、若い、きびきびとした態度の鬼でありました。
「昨日はどうも、とんだ事でした」
 一鬼が愛嬌のある笑みを浮かべて拙生に云うのでありました。
「ええと、あなたは確か昨日私達を迎えに来てくれた三鬼の中のお一方でしたね?」
「そうです。覚えておいて頂いたようで。昨日係長の賀亜土と一緒にお迎えに参上した、警護係りの逸茂厳記と申します。それからこちらの鬼は発羅津玄喜と申します」
「溌羅津玄喜です」
 もう一鬼が大学の体育会の学生のような、些か硬い礼をしながら云うのでありました。
「お二人共、いやお二鬼共下のお名前が、げんき、さんで?」
「そうです。げんきコンビで今日のお散歩のお伴を、元気にさせて頂きます」
 今度は二鬼揃ってお辞儀をするのでありました。
(続)
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もうじやのたわむれ 205 [もうじやのたわむれ 7 創作]

「では出発いたしましょうか」
 逸茂厳記氏の言葉に拙生は立ち上がるのでありました。
「では、安奈伊さん、ご案内有難うございました」
 これは拙生がコンシェルジュに云う言葉でありました。
「お気をつけて行ってらっしゃいませ」
 コンシェルジュも立ちあがって拙生にお辞儀をするのでありました。
 拙生がエレベーターホールの方に足を向けようとすると、逸茂厳記氏が拙生の顔の前に掌を差し出すのでありました。
「ああいやいや、今日はこちらでお車を出しますので、それでお観光をいたしましょう」
「え、専用の車で観光するのですか?」
「はい。警護の都合上そう云う事になります」
「いやそれは返って助かりますなあ。公共交通機関ではこちらの地理に不案内な私には、乗り換えとかその辺が、何かと面倒かなと思っていたところでした」
「そうでしょうね。娑婆の観光タクシーのような感覚でいらして結構ですよ。要所々々で煩くないようでしたら、私が案内役をやらせていただきますから」
「それは何とも恐れ入りますなあ」
「いやまあ、気になさらずに。一般的なサービスの範囲です」
 逸茂厳記氏が掌を横にふりながら、先のコンシェルジュと同じ事を云うのでありました。
 と云う事で、我々はフロント奥にある職員専用のドアからロビーを出て、職員専用のエレベーターで一階まで降りると、職員専用の出入口から宿泊施設の外に出るのでありました。外には、ドアに閻魔庁と特太ゴシック体で書いてある、昨日警察署まで拙生と鵜方氏を迎えに来てくれた車と同じ大型のバンが、玄関脇に横づけされているのでありました。
 逸茂厳記氏の相棒の発羅津玄喜氏が拙生の先回りをして、後部座席のドアを開けてくれるのでありました。拙生は、ああどうも、と云いながら車に乗りこむのでありました。
 発羅津玄喜氏が運転席に、逸茂厳記氏が助手席に座るのでありました。
「では出発進行!」
 逸茂厳記氏が娑婆の駅員みたいにきびきびした動作で、律義に前方を指差しながら云うと、車はそろりそろりと動き出すのでありました。
「若し車酔いみたいな症状が出たら、遠慮なく云ってください」
 逸茂厳記氏が後部座席の拙生をふり返りながら云うのでありました。
「はい。ご配慮有難うございます。私は娑婆では旅行に出ても、車に限らず船でも電車でも飛行機でも、乗り物には至って強い方でしたから大丈夫でしょう。しかしこの、こちらに生まれ変わるまでの仮の姿たるこの私の身体が、車酔いなんかするのでしょうか?」
「そうみたいですよ。どう云う按配なのか小難しい事は私には判りませんが、前に車酔いされた亡者の方がいらっしゃいましたから」
「へえ、そうですか。食い物はどんなに腹につめこんでも一向に大丈夫だったし、昨日の散歩でかなり歩き回っても疲労も感じませんでしたが、車には酔うんですね」
(続)
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もうじやのたわむれ 206 [もうじやのたわむれ 7 創作]

「そう云う事です」
「判りました。気をつけます」
 拙生は半分面倒になっていたので、どうして我々亡者が車酔いするのかと云う疑問に対して、それ以上深く考えを巡らさない事にするのでありました。亡者たる者はいくら食っても腹一杯にならないし、幾ら動いても疲労も感じないけれど、しかしながら車酔いはすると、その事実をその儘受け入れるのみであります。どうせ拙生は数日後には亡者を廃業して、こちらの世の霊として生まれ変わって仕舞うのでありますし、閻魔庁でのあれこれはその折にはすっかり忘却して仕舞うと云うのでありますから、ここで何らかの納得いく解答を得られたところで、それは爾後の拙生には何の意義もないものでありましょうから。
「では先程渡して頂いたペーパーに添って観光してまいりたいと思います」
 逸茂厳記氏が前を向いた儘そういうのでありましたが、先程のペーパーとは、コンシェルジュに貰った交通所要時間入りの観光コースを記した紙であります。
「お願いたします」
 拙生は逸茂厳記氏の後頭部に向かって浅くお辞儀するのでありました。
「ここに書いてある移動時間は恐らく公共交通機関を利用した場合の時間でしょうが、この専用車で回るのですから乗り換えなんかの手間はありませんので、幾分短縮されると思います。まあ、交通渋滞とかその辺の事情で何とも云えないところもありますが」
「はい。その点も了解しました。すっかりお任せいたします」
 車は郡道一号線には入らずに、郡道二号線と云う、三途の川沿いに南北に走る道路を暫く快調に疾走するのでありました。
 コンシェルジュが企画したコース通りに、我々は観光するのでありました。最初に訪れた畝火の白檮原タワーでは、一番上の展望台まで登って邪馬台郡の四方の景色を鳥瞰し、逸茂厳記氏が娑婆にあったりなかったり、或いは娑婆にあるものに近似した色々な地名を列挙しながら、街の様子なんかをあれこれ解説してくれるのでありました。
「あれが今日の最終訪問予定地の高尾山になります」
 北の彼方に連なり見える緑濃い丘陵地帯の、周りよりは少し高い山を指差して、逸茂厳記氏が教えてくれるのでありました。
 次に訪れた深草では先ず街のランドマークたる、大きな赤い提灯の下がった喧騒寺の雷震門を潜り、寺の本堂まで真っ直ぐ続く仲見世の、参道沿いの様々な物を商う小店を冷やかしながら漫ろ歩くのでありました。雷震門には左右に風神と雷神象が祀られ、これは準娑婆省にいる娑婆の天気担当官の姿を模している、と云う解説を逸茂厳記氏に貰うのでありました。名前こそ微妙に違えども、娑婆の浅草の浅草寺の雰囲気その儘であります。
 深草では喧騒寺の本堂に掌をあわせた後、下町情緒を味わうために寺の周りを暫し散歩するのでありました。この界隈も娑婆の浅草の街にそっくりでありました。荷風散人が晩年愛した洋食屋のアリゾナとか、蕎麦屋の尾張屋、喫茶店のハトヤ、汁粉屋の梅園、それにストリップのロック座みたいな店が、娑婆同様こちらにもあるのか探索してみたくもあったのでありましたが、後の予定がつまっているためにそれは断念するのでありました。
(続)
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もうじやのたわむれ 207 [もうじやのたわむれ 7 創作]

 コンシェルジュから娑婆にいた永井荷風みたいな作家がこちらにもいて、この深草をこよなく愛したなんと云う事を聞いていたものでありますから、娑婆の浅草にあったそのような店等も、名前は少し違うかも知れませんが、屹度あるに違いないと拙生は想像するのでありました。そんな事を考えていると、初めて訪ったはずのこちらの世の深草と云う街も、不思議に馴染み深く味わいのある街に思えてくるのでありました。
 次の訪問地のお茶のお湯では、帰去来堂と云う教会を見学した後、外堀川と云う小川に架かる、捻り橋、と云う、橋脚に幾つかのアーチを並べた趣きのある、コンクリート造りの橋を眺めたりするのでありました。昔は郡電(娑婆で云えば国電と云う事になりますか)、現在はYRと呼ばれている電車の、お茶のお湯駅と云うのがあって、その近辺には喫茶店やら中華料理屋やら、定食屋やらファーストフード店やらの様々な飲食店、それに本屋とか楽器屋とかスポーツ用品店等が軒を連ね、大勢の霊で賑わっているのでありました。
 この界隈は学生街であると逸茂厳記氏が紹介してくれるのでありましたが、確かにギターケースやらテニスラケットやらを手にした若い男女の霊が、笑いさざめきながら闊歩する光景が至るところに見受けられるのでありました。それにまた、電車のお茶のお湯駅前の広場では青いヘルメットを被って、タオルで顔の半分を覆った学生と思しき群れが、拡声器で革命を悲壮な声で叫び、通行する霊達に手当たり次第にビラを配っているのでありました。これは拙生が学生だった時分の娑婆の、お茶の水の駅前そっくりでありました。
 お茶のお湯駅は丘の上にあって、そこから坂を下って行くと神保町と云う街があるのだそうでありますが、そこは古本屋街だと云う事でありました。これも娑婆とそっくり同じであります。昨日友達になった亡者の鵜方三四郎氏と、邪馬台銀座商店街の喫茶店カトレアで話した、ラドリオとか神田伯剌西爾とかの喫茶店や、豚カツや天丼のいもやとか洋食屋のランチョンとかの、娑婆にあった店のこちらの世版が屹度あるに違いありません。まあ、これも深草の時と同様、後の予定がつまっているので探索は諦めるのでありましたが。
 その後に訪れたのは葛飾帝釈天であります。
「ここは帝釈天を祀る題経寺というお寺の門前町ですが『フーセンの猪さん』と云う映画で有名になったのです。それまでは鰻とか川魚料理が名物の鄙びた街だったのです」
 逸茂厳記氏が解説するのでありました。
「フーセンの猪さん?」
「ええ。正しくは、フーセンの亥さん、ですが」
「何ですかその映画は?」
 拙生は何となく想像がつくのでありましたが、敢えてそう問うのでありました。
「風船みたいにふわふわと居所を定めず、ちゃんとした仕事もせずにお気楽に行き当たりばったりに人生を送る、鞍馬亥次郎と云う名前の男が主人公の人情ドラマです」
「その映画が大当たりして、俄かに脚光を浴びたのですね、この街が?」
「そうです。その亥次郎が葛飾柴又の出身で、亥次郎の妹が親類のやっている団子屋を手伝っていましてね、その団子屋を中心に様々な悲喜劇が展開するわけです。もう何作もシリーズ化されていて、郡霊的人気映画となっております」
(続)
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もうじやのたわむれ 208 [もうじやのたわむれ 7 創作]

「その、郡霊的人気映画、と云うのは娑婆で云えば、国民的人気映画、ですね?」
「正解であります!」
 逸茂厳記氏がピースサインをしながら、至って元気に応えるのでありました。
「屹度お正月とか夏休みに公開される映画なのでしょうね?」
「そうです。それと五月のゴールデンウィークに」
「こちらにも五月に、ゴールデンウィークなんというのがあるのですか?」
「ええ。五月の三日から五日までの三連休の事ですが、その前の四月二十九日も祝日でして、その年のカレンダーによっては、五月二日を有給休暇にすると、丸々一週間連休になると云う年もありますね。元々は映画業界が、その連休中に大勢客を集めようと云う魂胆で云い出したのですよ。しかし今は皆、映画よりも旅行とかに行きますかな、連休中は」
 この辺りも娑婆の日本と同じ様相であります。
 そんなこんなで、団子屋と仏具屋の目立つ、くねった参道沿いに並ぶ店々をぶらぶら冷やかして、その後帝釈天にお参りするのでありました。帝釈天の回廊を巡りながら観る欄間の透かし彫りは、娑婆の帝釈天に勝るとも劣らない見事なものでありました。
 帝釈天を出て裏手の方に少し歩くと、三途の川の小高い土手に突き当たって、土手の上は自転車の通行も可能な遊歩道となっているのでありました。土手の上から三途の川の方を眺めれば、手前には広い草原の河川敷が広がっていて、野球場とかサッカー場やテニスコート、それに特に用途の決まっていないような広場が設えてあるのでありました。
 そこでは子供の霊が夫々の競技に興じていたり、若いカップルと思しき男女の霊が水際の草叢に寄り添って座り、川面を見ながらいちゃいちゃしていたり、草原にシートを広げて憩う親子連れの姿なんぞが見られるのでありました。この時間に子供が野球やサッカーをしていたり、親子連れがのんびり寛いでいるのでありますから、今日は恐らくこちらでは土曜日か日曜日に当たるのであろうと、拙生は頭の隅でちらと考えるのでありましたが、なんとなく面倒だったので、それを逸茂厳記氏に態々確認する事はしないのでありました。
 柴又帝釈天の後は、本日の最後の訪問地たる高尾山を訪れるのでありました。高尾山に着いた頃にはもう、腕時計を見ると午後の二時を大分回っているのでありました。
 広い駐車場に車を入れて、啓蒙線と云う私鉄の高尾山口と云う名前の駅から、川沿いに延びる小道を少し歩くと、山上に向かうケーブルカーの駅に出るのでありました。ケーブルカー駅の周りには、観光地によくあるお土産屋や食い物屋が集まっているのでありました。なにやら矢鱈に蕎麦の看板が目立つのは、これも娑婆の高尾山と同じであります。
「歩いて山上まで登るのは時間がかかりますから、ケーブルカーで向かいましょう」
 逸茂厳記氏がそう云って、券売機で二枚の切符を買うのでありました。これは当然、逸茂厳記氏と発羅津玄喜氏の二鬼分で、質量のない拙生には切符は必要ないのであります。審理室で閻魔大王官に、亡者は何の遠慮も後ろめたさもなく、只で大きな顔をして公共の乗り物を利用出来ると聞いていたのでありますが、実際に只乗りするとなると何やら大いに得をしたような了見になる半面、切符を買わない儘改札を抜ける時にややドキドキして仕舞うのは、これは全く、拙生の娑婆時代以来の小胆の然らしめるところでありましょう。
(続)
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もうじやのたわむれ 209 [もうじやのたわむれ 7 創作]

「紅葉の頃は多くの人出があって、このケーブルカーに乗るのにも行列が出来る程です。特に『見知らむ』で三ツ星を獲得して以来、一入混雑するようになりましたね」
 逸茂厳記氏がケーブルカーの最後部の窓から、斜め下方にゆるゆると遠ざかっていく駅舎の屋根を見ながら云うのでありました。車内には一般の霊も乗りあわせていたのでありますが、その霊達には拙生が見えないものだから、逸茂厳記氏が窓に向かって、何やらブツブツと独り言を云っているように見えるのでありましょう。しかし昨日の喫茶店カトレアの時と同じで、車内の一般の霊達はそれを特段奇異な光景だとは思っていないようで、気味悪げな顔もせず遠巻きの警戒の目も向けず、全く無関心の儘と云う風でありました。
「ケーブルカーを使わずに歩いて登るとなると、結構大変な登山になるのでしょうか?」
 拙生は最後部の窓に寄りかかって、車内の方を見ながら訊くのでありました。
「いや、登山と云うよりはハイキングと云った感じですね。幾つかの山頂を目指すルートがありますが、何れも小学校低学年でも充分歩けるようなルートです。高尾山の海抜は約六百メートルと云いますから、そんなに凄い山と云うわけではありません。地面が少しばかり腫れている、とでも云った具合でしょうかね。まあ、これはレトリックですが」
 この逸茂厳記氏の譬えは、古今亭志ん朝師匠の『愛宕山』と云う落語で、幇間の一八が、これから登らんとする愛宕山を見上げながらものする減らず口と何故か同じでありました。
「高尾山自然研究路、なんと云う何本かの遊歩道があるのでしょうね?」
「おお、よくご存知で」
「それにお猿のいる動植物園があったりとか」
「ええ、それもあります。どうしてそんなに詳しくご存知なのでしょうか?」
「娑婆の高尾山にもありますからね。ほぼ同じような感じかなあと思いましてね」
「ふうん、そうですか」
 逸茂厳記氏は口を窄めて何度か頷くのでありました。
 ケーブルカーを降りて鬱蒼たる巨杉に挟まれた山道をうねうねと暫く歩くと、薬王院の長い石段に出くわすのでありました。その石段を登ると仁王門、それから本堂、その上に木造銅葺入母屋造りの飯繩権現堂、そのまた奥に不動堂があるのでありました。これも娑婆の八王子にある高尾山と全く同じであります。拙生は懐かしくなるのでありました。
 薬王院から道なりに更に歩くと、山頂の大見晴台に着くのでありました。売店で缶コーヒーを売っていたので逸茂厳記氏がそれを奮発してくれて、まあ、亡者の拙生は別に喉は渇いてはいないのでありましたが、兎に角その奢りのコーヒーで喉仏を湿らせながら、眼下に広がる眺望を堪能するのでありました。眺望は娑婆とは少し違うのでありました。
 東には対岸を見渡す事の出来ない広大な三途の河の流れ、西にはたたなずく青垣、南には閻魔庁のある邪馬台郡中心部の街並がまるで零した牛乳のように地を覆い、その中に一際高く畝火の白檮原タワーを認める事が出来るのでありました。北はこれも街が広がっていて、その彼方には周りの山々とは明らかに格の違う、一際高く、そして頂きに雪を纏った秀麗な姿の、如何にも霊峰と呼ぶに相応しい独立峰を見霽かすのでありました。それはひょっとしたら、富士山、と呼ばれる山なのかも知れないと拙生は考えるのでありました。
(続)
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もうじやのたわむれ 210 [もうじやのたわむれ 7 創作]

「さて、そろそろ下山して帰路につくとしましょうか」
 逸茂厳記氏が四方の眺望に見蕩れている拙生に云うのでありました。
「そう云えばぼちぼち夕方の気配が漂い出しましたね」
「これから帰れば、未だかろうじて日のある内に宿泊施設に帰り着くと思いますよ」
「しかしまあ、頼もしい護衛が二人、いや二鬼ついていてくださるわけですから、帰りが少々遅くなってすっかり暗くなっても大丈夫でしょうがね」
 拙生はそう笑いながら云って逸茂厳記氏と、その横で一歩下がって立っている発羅津玄喜氏の顔を見るのでありました。この発羅津玄喜氏の方は今までずうっと、全くの無愛想と云うのではないのですが、逸茂厳記氏の後ろで控えめに、拙生の冗談に愛想笑うくらいで、殆どその発する声を聞かないのでありました。逸茂厳記氏が職場の先輩で、後輩たる発羅津玄喜氏は万事、先輩よりも出しゃばる事を憚ってそうしているのかも知れないと、拙生は勝手に当りをつけていたのでありました。何となく二人の、いや二鬼の呼吸と云うものが、まるで娑婆の大学の体育会の先輩後輩の関係のように見えるのでありましたから。
「まあ、我々はどんなに遅くなろうと、何が起ころうとも貴方様を守りますが、しかし何も起こらないに越した事はないですからね。転ばぬ先の杖と云う諺もありますし」
 逸茂厳記氏が恐縮のお辞儀をしながらそう返すのでありました。
「まあ、私としてもお二人に、いやお二鬼に、無用なご迷惑をおかけするのは本意ではありませんから、ではこの辺でこの高尾山を引き上げて、宿泊施設の方に戻りますかな」
「若しもこの後も、是非とも、例えば夜の繁華街とか、畝火の白檮原タワーから夜景を見てみたい等とお考えのようでしたら、それは貴方様のご希望の方が何より優先されますので、我々はどんなに夜更けようとも、粛々と貴方様の散策にお伴させていただきますが」
「いやまあ、今日のところはこれで引き上げるとしましょう。宿泊施設に帰って、またカフェテリアで夕食をたらふく食うと云うのも一興ですしね」
「若し我々にお気を遣われているのなら、それは全く無用ですよ」
 逸茂厳記氏が恐縮の表情を色濃くしながら云うのでありました。
「いやいや、私としても今日は充分に邪馬台郡観光地散策を堪能しましたかし、別にお二人、いやお二鬼に気を遣って、帰ると云っているのではありません」
「私の言葉を、ご帰還を急かす言葉とお受け取りになったとしたら、何やら申しわけないような気がいたします。私にはそんな事をお願いする気も、権限もないのですから」
「そう云うのではありませんよ。私は明日もう一日、思い悩み時間が残っていますから、今日はこれにて切り上げるのに何の不足も本当にないのです」
「なら良いのですが。・・・」
 逸茂厳記氏はそう云って拙生に一礼するのでありました。「ところで、と云う事は、明日もお散歩に出られるお積りで?」
「ええ、その積りです。明日は邪馬台銀座商店街の近くの、映画・興行街にある寄席にでもいってみようかと考えております」
「ああそうですか。因みに、そう云う事でしたら明日も我々が護衛をさせていただきます」
(続)
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