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大きな栗の木の下で 4 創作 ブログトップ

大きな栗の木の下で 91 [大きな栗の木の下で 4 創作]

「そうね、そんなんじゃないんだけど、なんとなくそういったものには縁遠い生活を送っているわ。未だ我が家の腕白少年君にも手がかかるし、仕事の方も結構忙しいし」
「それは勿体ない。未だ々々、沙代子はイケるんだからさ」
 御船さんは大袈裟に目を剥いて、冗談めかして云って笑うのでありましたが、その言葉は御船さんの全くの本心なのでありました。
「あらそう? それは有難う」
 沙代子さんは御船さんの言葉をさらっと受け流すのでありましたが、それを御船さんはほんの少し寂しく感じるのでありました。
 また急に蜩が鳴くのでありました。今まで全くなりを潜めていたのに、ここで急にまた一声を上げる蜩の気紛れに、御船さんの注意が引き寄せられるのでありました。暫く黙って御船さんはその声を聞いているのでありました。するとまるでその声に誘われるように、御船さんはふと、なんの脈絡もなく、高校生の頃のある情景を思い出すのでありました。それは二年生の頃の、全くの偶然から教室で沙代子さんと二人だけになった時のことなのでありました。・・・

 土曜日の放課後の体操部の練習が終わってから、御船さんは教室に戻ってきたのでありました。弁当箱をうっかり机の中に忘れてきたのを思い出したからでありました。
 誰もいないであろうと思った教室の引き戸を開けると、そこには沙代子さんが一人で自分の席に座っているのでありました。御船さんは全く意外であったし、沙代子さんの方も急に誰かが教室に入って来たものだから、扉の傍に立つ御船さんを大きな目をして驚きの顔で見るのでありました。
 沙代子さんが教室に残っているとは思いもしなかったし、それ程近しい間柄でもなかったので、おっと失礼等と云ってここで親しげな愛想をするのもなんとなく気後れするものだから、御船さんは沙代子さんに一瞥をくれただけですぐに目を離して、少々のたじろぎを隠してすぐに廊下側端の一番後ろの自分の席に向かうのでありました。御船さんはそれまで沙代子さんとは、あんまり口をきいたことがないのでありました。
 御船さんが自分の机の中に手を入れて弁当箱を取り出すのを、沙代子さんがずっと見ているのでありました。御船さんの方も手は机の中に突っこんだものの、態々目を近づけてそこを覗いているわけではなかったから、顔はなんとなく沙代子さんの方に向けているのでありました。
「忘れ物?」
 沙代子さんが話しかけるのでありました。
「弁当箱」
 御船さんはぞんざいにそれだけ応えるのでありました。
「ああ、あの大きな御船君のお弁当箱?」
 沙代子さんはそう返して口に手を当てて笑うのでありました。
「そんなにデカくはないよ。普通サイズの範囲だ」
(続)
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大きな栗の木の下で 92 [大きな栗の木の下で 4 創作]

 そういって取り出した緑色の布に包まれた弁当箱は、確かにかなりのビッグサイズであると、今更ながら、御船さんはそれを見て呆れるのでありました。大食漢と云うのか、体格から鑑みれば徒食漢と云う方が的を射ているところの御船さんは、高校に入学する時、母親から金を貰って、一番大きな弁当箱を態々街の金物屋で買ってきたのでありました。
「御船君のお弁当の大きさは、結構女子の間では評判よ」
 沙代子さんが口元を手で隠して笑いながら云うのでありました。
「ほう。でも弁当箱の大きさなんかで女子の評判を取っても、そんなに嬉しくないかな」
 御船さんはそう云いながら、机から取り出した空の弁当箱を体操着の入ったバッグに仕舞うのでありました。
「いいじゃない、なんに依らず女子の関心を引くのは」
「お前、なんでこんな時間に教室に残っているんだ?」
 御船さんが聞くのでありました。
「綾子とか咲子とかで、さっきまで文化祭の時の展示作品の打ちあわせをしていたの」
「展示作品?」
「書道部の二年生の作品の課題についてさ」
「あれ、お前書道部だったっけ?」
「そうよ、知らなかった?」
「うん、初耳だ」
「そりゃそうか。御船君とはそんなに親しくないから、あたしが書道部に入っているってこと、知らないのは当たり前か」
 沙代子さんはそう云って自得するように何度か頷いて見せるのでありました。御船さんは沙代子さんが書道部に所属していることを自分が今まで知らなかったことを、なんとなく申しわけなく思うのでありましたが、しかしそれを知るべき義理は特になにもないかとも一方で思うのでありました。
「その打ちあわせはもう済んだんだろう?」
「そうだけど、帰りのバスの時間待ちで残っていたの」
「お前、バスもあんまり通わない僻地に住んでいたんだっけ?」
「そうじゃないけど、バスの乗り換えするのが面倒だから。直通バスに乗ろうと思ってさ。直通バスは一時間に一本しか来ないの」
「ああ、そいで、バス停で待っているのもなんだからって、教室にいたのか」
 御船さんはそう云ってさっきの沙代子さんの仕草と同じに、納得するように何度か頷いて見せるのでありました。
「ぐずぐずしていたら、前の一本に遅れちゃってさ。だからもうちょっとここで、手持無沙汰に残っていなければならないわけ」
 沙代子さんはそう云って自分の腕時計を見るのでありました。
「ふうん。でもそんなに直通バスに拘らなくても、乗り換えで帰った方がずっと早く帰れただろうに。なんとなく無意味に時間潰しをしているような気もするけど」
(続)
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大きな栗の木の下で 93 [大きな栗の木の下で 4 創作]

「そう云われればそうだけどさ、なんとなくね。・・・」
「まあ、バスの乗り降りの点では、直通の方が労力の節約にはなるか。教室で無為に時間を潰す精神的疲労と、バスの乗り降りの身体的労力との兼ねあいをどう考えるかだな」
 御船さんはそう云いながら、その兼ねあいについて少し考えてみるのでありました。
「あたしは時間の無駄だとしても、直通に乗って帰る方が、ほんのちょっと気分が良いの。それになんとなく得した気がするの。まあ、本当に得かどうかは疑わしい面もあるけど。それに、そんなつまらないこと、どっちだっていいことなんだろうけどさ」
「乗り換えよりは、少し時間をロスしても直通の方が気分が良いと云うのは、なんとなく判らないでもないか。でもそのロスが一時間とか云う単位になると、俺はちょっと考えるね。・・・いや別に、お前が直通に拘るのを、暇な奴だって腐しているんじゃないけどさ」
「腐しているじゃない」
 沙代子さんはそう云って笑いを湛えた口を尖らせるのでありました。初めて見る沙代子さんのそんな表情が御船さんにはとても可憐に見えるのでありました。
「御船君、もう大学入試の勉強始めている?」
 少しの間二人共黙る時間があって、その後沙代子さんが聞くのでありました。
「いいや、全然」
 弁当箱をバッグに入れたのでありましたから、御船さんはもう教室に残る理由はないのでありました。しかしなんとはなしに、偶然手にした沙代子さんと二人きりの時間を早々に切り上げるのは勿体ないような気がするものだから、少しの間の沈黙の手持無沙汰に耐えて、御船さんは自分の机の上に浅く腰を下ろして、椅子に座って片手で頬杖をついている沙代子さんの方を、無神経で不躾にならない程度に窺っていたのでありました。
「もう二年生の二学期なんだから、そろそろ始めなくちゃいけないわよね」
「そうかな。そうでもないんじゃないか」
「今から始めるのも遅いくらいだって、さっき綾子が云っていたわよ」
「だって未だ遠い先のことだから、切迫感もさっぱりないしさ」
 御船さんはそう云って膝を一つ叩いてからその後でその膝を撫でるのでありましたが、これは全く無意味な仕草だと考えるのでありました。どうしてこんな仕草を不意にこのタイミングで自分がしているのか、御船さんは自分でもよく判らないのでありました。
「ああ、御船君もう帰るのね?」
 沙代子さんが頬杖を解いて云うのでありました。「ご免ね、あたしが要らない話なんかしたものだから、引き止めちゃったみたいで」
 沙代子さんは御船さんが膝を叩いたその仕草から、そう推察したのでありましょう。しかしそれは誤解なのであります。別に早く帰りたいことを暗に伝えるために、御船さんは膝を打ったのではないのであります。それは全く無意味な余計な動作なのでありました。御船さんは沙代子さんに誤解を与えたことを申しわけなく思うのでありました。
「いや、なんか知らないけど急に、俺の手が勝手に膝を打っただけで、別に早く帰りたいと云うサインなんかじゃないよ、今のは」
(続)
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大きな栗の木の下で 94 [大きな栗の木の下で 4 創作]

 御船さんはそう云いながら笑って見せるのでありました。「俺の手は時々、俺の思っていることと全く違う動作を不意にやらかすことがあるんだ。実に困った手なんだ」
 御船さんは膝を打った左の掌を目の前に差し上げて、右手の人差し指で弾いて見せるのでありました。沙代子さんがそれを見てクスッと笑うのでありました。
「それはそれとして御船君、あたしに構わず別に帰っても良いのよ」
「うん、帰っても良いんだけどさ、それじゃあんまり愛想がないからさ、お前のバスの時間が来るまで一緒に待っていてやるよ。どうせ俺も暇なんだし」
「本当? なんかそれ、嬉しいな」
 沙代子さんがそう云って目を見開いて、肩を竦めて両手の拳を上げて笑いが零れる口元を隠すのでありました。その沙代子さんの仕草は、どうしたものか御船さんの方が照れ臭くなってたじろぐ程とても可憐に見えるのでありました。

 それまでに御船さんは沙代子さんを特に意識したこと等ないのでありました。同じクラスの女子の一人と云うだけで、席が近いわけでもなかったから親しく言葉を交わしたたこともないのでありました。クラスの中では沙代子さんは特に目立つ存在ではなく、かといって全く存在感の希薄な風でもなかったのでありました。
 だから弁当箱を取りに行った教室で沙代子さんの姿を認めても、最初は殊更胸がときめいたわけでもなかったのでありましたが、こうして二人きりで言葉を交わしてみると、沙代子さんの大きな目であるとか、長い睫であるとかとか、表情豊かな中高の顔とか、笑うと両頬に現れる笑窪とか、ポニーテールにした髪型とか、綺麗な歯並びとか、制服の襟から延びる細い首とかが、矢鱈に好ましく見えて仕舞うのでありました。特に鼻につく程ではないけれど少し媚びるようなその話し方も、声音も、なよやかな物腰も、御船さんには全く以って好ましく思えて仕舞うのでありました。
 言葉を交わしながら御船さんは、ひょっとするとこの目の前に居る沙代子さんと云うものは、一般的な範疇で捉えるところの、美人で可愛らしい女、と云う部類に属するのかも知れない等と秘かに心中深い処で考えるのでありました。またそう考えてみると、なんとなく気持ちが浮き立ってもくるのでありました。
 尤も御船さんにはそれまで特に親しい女友達がいたわけではなく、誰かに妙に気持ちが魅かれてしまうと云う経験もなかったものだから、こうして偶々沙代子さんと云う女子と二人きりで過ごす時間を得たことに、今まで感じたことのない感奮を覚えたと云う事情はあるでありましょう。実際沙代子さんが美人であるかどうかの評価は、御船さんの経験的な力量を鑑みれば、まことに以て僭越な判定と云われても仕方がないものでありましょう。しかし御船さんが無表情の顔の下で、そう云う驚きに似た印象を強く持ったのは、全く以って疑いのないことなのでありました。
「御船君って、誕生日、何時?」
 沙代子さんが聞くのでありました。それは取り立てた話題が二人にないための、特に意味もない愛想笑いと同じ類の質問なのであろうと御船さんは思うのでありました。
(続)
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大きな栗の木の下で 95 [大きな栗の木の下で 4 創作]

「俺は一月二十日。一年で一番寒い日だよ」
「ふうん。するとあたしの方が半歳くらいお姉さんになるのね」
 沙代子さんが指を折りながら云うのでありました。「あたしは七月二十日。暑い時に生まれたの。それと明日から夏休みが始まるって云う日」
「へえ。月違いの同じ二十日なんだ」
「そうね。偶然の一致ね」
 沙代子さんがそう云うのを聞きながら、御船さんはとくに意味はないのでありましたがなんとなく嬉しくなるのでありました。
「誕生日会なんてやる、最近?」
「いやあ、小学生の頃は友達呼んでやったことあるけど、もう最近はとんと」
「あたしもそうね。クリスマスパーティーみたいなこともやらなくなったし」
 沙代子さんはそう云って少し寂しそうな表情をして見せるのでありました。
「俺の親父の誕生日が実は十二月二十四日なんだけど、クリスマスも親父の誕生日会もウチはやったことがないかな。ウチはあんまり儀式めいた事はやらない家だし。それに、親父の誕生日会なんて、若しそんなことやられても冗談じゃないって感じだし、返って大いに迷惑なだけだな。ま、ウチは、その後にある正月祝い一本槍」
「あたしの処はお父さんの誕生日もお母さんの誕生日も、それにお兄ちゃんの誕生日も、ちゃんとしたパーティーなんかはしないけど、ショートケーキくらいは買うわよ、なんとなく。プレゼントなんて云うのはないけどさ」
「誕生日のケーキねえ」
 御船さんはそう云って顎を撫でるのでありました。「俺、小学生の頃はケーキは好きだったけど、今はケーキなんかより、豚カツと大盛りの御飯とかの方がいいな。お菓子よりは飯だ。それも脂っこくてずっしり腹にたまるヤツ。そう云えば、クリスマスは不二家のアイスクリームケーキなんて云うのがあったよな」
「ああ、それあたしも知っているわ。ウチでは近所のケーキ屋さんに頼んで、クリスマスイヴに持ってきて貰って、前はよく食べたわ」
「俺はそれ、実は食ったことがないんだ。勿論家ではクリスマスなんてやらないから食わないし、一度友達の家にクリスマスで呼ばれたことがあったけど、その時も出なかったし」
「アイスクリームケーキ、すごく美味しかったわよ」
 沙代子さんは目を見開いて、深い笑窪を両頬につくるのでありました。
「今は売ってないのかな?」
「そうね、あんまり見ないわよね。まあ、あることはあるのかも知れないけど。それにあたし、今はアイスクリームケーキなんかより普通のケーキの方が好き」
「俺は、豚カツと大盛り御飯!」
 御船さんはとっておきの自慢話をしているような、妙に得意満面な顔をするのでありました。それを見て沙代子さんが口を隠して笑うのでありました。
「成長期だからね。でも、あたしはケーキも好き」
(続)
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大きな栗の木の下で 96 [大きな栗の木の下で 4 創作]

 沙代子さんがニコニコした儘、自分の見解に自分で頷いて見せるのでありました。
「そりゃ、出てくれば俺だってケーキも食うさ」
「ケーキに限らなくても、御船君は出てきたものは何でも、ガツガツ食べちゃうって感じでしょう、要するにさ」
「その通り!」
 沙代子さんの言葉には、兎に角食い気ばかりが旺盛で嗜好に対する考慮が殆ど感じられない御船さんへの、少々の揶揄が含まれていたのかも知れませんが、それに気づいていても御船さんはまた得意気な顔をして見せるのでありました。そんな御船さんを、沙代子さんはさも可笑しそうに笑いながら見ているのでありました。
 沙代子さんがさり気なく腕時計を見るのでありました。
「そろそろ、バスの時間か?」
 御船さんが聞くのでありました。
「そうね、ぼちぼち教室を出たほうが良いかな」
 沙代子さんはそう云って立ち上がるのでありました。御船さんはこれで偶然にしろ、沙代子さんと二人だけで話しをした時間が終わるのかと思うと、妙に心残りな気がするのでありました。とは云っても、二人でなにか心躍るようなロマンチックな話をしたわけではなくて、遠慮がちな戯れ言と、主な話題と云えば大学入試の事と、誕生会の事と、クリスマスの事と、ケーキと豚カツと大盛り御飯の事くらいだったのでありましたが。しかしそんな取り取り留めもない話であったけれど、御船さんは充分心躍ったのでありました。
 御船さんの家の在る方面に向かうバスは沙代子さんとは反対方向でありましたから、そのバス停は沙代子さんが待つ停留所の道反対にあるのでありました。しかし沙代子さんの傍を離れ難かったから、沙代子さんが嫌がらないのを幸いに、御船さんは沙代子さんの向かうバス停まで一緒に歩くのでありました。
 バス停では二人横に並んで、なんとなく言葉少なにバスを待つのでありました。一緒にいてくれなくても自分に構わずもう行っていいと沙代子さんが云わないことが、御船さんには大いに喜ばしいことでありました。それはつまり、沙代子さんも御船さんがこうして用もないのに傍にいることを、不快には思っていないと云うことであろうし、むしろ穿って考えれば、沙代子さんの方も御船さんとなんとなく離れ難く思っているのかも知れないではありませんか。
 横に立ちながら、御船さんは沙代子さんの体温が浸みてくるような気がして、たじろぎながらも秘かに陶然となるのでありました。その体温に触れていることがとても嬉しいのでありました。勿論実際の接触は僅かもないのであるし、接触する勇気なんと云うものも全くないのでありましたが、しかしその気配としての体温に触れていることの方が、実際の接触よりは、より素晴らしいことのような気がするのでありました。
 沙代子さんが頻りに腕時計を見るのは、時間になってもバスがなかなか来ないためでありましょうか。御船さんはバスが大いに遅れてくれることを祈るのでありました。御船さんは何時までもこうして、沙代子さんの体温の届く処に立っていたいのでありました。
(続)
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大きな栗の木の下で 97 [大きな栗の木の下で 4 創作]

「バス、なかなか来ないわね」
 沙代子さんがそう云いながら唐突に下を見てしゃがみこんだのは、沙代子さんの足下に何処から現れたのか白いネコが近寄って来たからでありました。
「あ、可愛い!」
 沙代子さんはそう云ってネコの背を撫でるのでありました。ネコは餌を強請るように沙代子さんの近づけられた顔に向かって首を伸ばすのでありました。
「野良ネコかな?」
 御船さんが云って沙代子さんの傍にしゃがんで、ネコの頭に手を載せようとするのでありましたが、ネコは今度は頭上に翳された御船さんの掌に鼻を近づけるのでありました。
「首に鈴がつけられているから、屹度この辺の家の飼いネコよ。毛並みも綺麗だし」
 成程ネコの首には小さな鈴が一つリボンで吊り下げられているのでありました。
「さっき教室でクリスマスケーキとかの話しをしていたから、ひょっとしたらお前にケーキ、それに俺に豚カツの匂いを嗅ぎつけて寄ってきたのかも知れない」
 御船さんが笑うと沙代子さんはまさかそんなことと云って、しかし念のため自分の制服の襟の匂いと、横の御船さんの肩の辺りの匂いを嗅ぐのでありました。肩口に沙代子さんの顔が不意に近づけられたものだから、御船さんはひどく緊張するのでありました。近接した沙代子さんの髪から、ケーキの匂いではなくて仄かなシャンプーの匂いが漂ってくるのでありました。
「あたし前にネコ、飼っていたことがあるのよ」
 沙代子さんがネコの背を何度も撫でながら云うのでありました。「このネコみたいに全身は白いネコだったけど、鼻のあたりにちょっと茶色の斑があったの」
「ふうん。俺はネコも犬も縁がなかったな、今まで」
「普通ネコって無愛想で、人に阿ないでクールに生きているじゃない。でもウチのネコは心根が優しいのか、あたしが外に出るときは玄関まで送りにきたし、帰ってくると急いで玄関にお迎えにもくるのよ、尻尾なんかふりながら」
「犬みたいなネコだな」
「あたしが家に居ると、もうあたしにベッタリ。トイレにまでついてくるの」
 沙代子さんがネコの背を撫でながら少し首を傾げるのは、前に飼っていた自分のネコの事を懐かしく思い出しているのでありましょう。
「それは雄か、雌か?」
「うん、雄ネコ。あたしをお母さんだと勘違いしていたのかも知れないわ」
 いや、お母さんではなくて、恋人だと思っていたんじゃないかと云おうとして、御船さんはその言葉を口にするのを辞めるのでありました。そう云った類の茶化しを沙代子さんは喜ばないかも知れないと、ふと危惧したからでありました。しかし若し自分がそのネコだったとしたら、間違いなく沙代子さんを恋人だと思って、同じように四六時中つき纏ったでありましょう。考えように依っては実に羨ましいネコであると、御船さんは面目なくもこんな戯けたことを秘かに考えているのでありました。
(続)
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大きな栗の木の下で 98 [大きな栗の木の下で 4 創作]

 ネコが一声鳴くのでありました。まるでそれが切っかけだったように道の向こうにバスが現れるのでありました。先に立ち上がったのは御船さんの方でありました。沙代子さんは一度バスの方を見てそれからネコに視線を戻して、バスがすぐ横に停車するまで、名残惜しそうにそのネコを撫でているのでありました。
「今日はなんか楽しかったわ、偶然だけど御船君と話せて」
 沙代子さんは立ち上がって云うのでありました。
「大した話しはなにもしなかったけど、俺も楽しかったよ。今のネコの話しはなんか尻切れトンボみたいになったけど。また今度、お前の飼っていたネコの話し、聞かせてくれよ」
「うん、聞かせてあげる」
 沙代子さんはそう云って教科書とかノートとか、空の弁当箱とかの入ったカバンを両手で前に持って、笑窪を両頬に刻んで頷くのでありました。「バス停まで見送りに来て貰ったみたいで、なんかそれも嬉しかったわ」
「いやまあ、愛想は最後まできちんとしないと。なんとなくお前の飼っていたネコの心持ちかも知れないな、これは。今、そのネコの了見がちょっと判ったような気がする」
 御船さんがそう云うと沙代子さんは片手をカバンから離して口元に添えて、肩を竦めてクスッと笑うのでありました。
「じゃあ、また月曜日に」
 バスの入り口の扉が開くと、沙代子さんはそう云ってクルッと御船さんに背を向けるのでありました。沙代子さんの制服のスカートが、ふわりと舞うのでありました。
 バスに乗りこんだ沙代子さんは扉のすぐ後ろの座席に座って、窓越しに御船さんに手をふるのでありました。御船さんはなんとも云えぬ満足感と、少しの解放感と、寂寥感を掌に籠めて、それを窓硝子の向こうの沙代子さんに向かってふり返すのでありました。

 結局御船さんは沙代子さんから、飼っていたネコの話しの続きを聞くことは出来なかったのでありました。学校では沙代子さんと二人きりになるチャンスは殆どないのでありました。そんな場面があったとしても、それは長く話しをするには全く以って物足りないごく短い時間なのでありました。
 土曜日の体操部の練習が終わった後で、前と同じ時間に教室を覗いても、そこに沙代子さんの姿は見られないのでありました。沙代子さんが自分を避けているのかも知れない等と、御船さんは不安に胸をつまらせることもあるのでありました。なにか自分の思いもつかないところで鈍感にも、沙代子さんの不興を買う様な戯れ言をうっかり云って仕舞ったのかも知れないとも考えて、あの日の沙代子さんとの会話を細部まで点検してみるのでありましたが、殊更の不覚はなにも仕出かしてはいないように思われるのでありました。
 それに教室で観る限り、沙代子さんが自分を避けているようには見えないのでありました。つまり沙代子さんは御船さんとは特に関係なく、単にバスの乗り換えを疎まなくなったか、土曜日の一本前の直通バスに乗り遅れなくなったと云うだけなのかも知れません。なんと云う明快で、甘酸っぱさの欠片もない、余計苛々の募るところの理由であることか。
(続)
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大きな栗の木の下で 99 [大きな栗の木の下で 4 創作]

 そんな状況が暫く続いて行く内に、御船さんの中に沙代子さんの像が色濃い影をはっきり刻みこむのでありました。その像は時に眩しく輝き、時に可憐に佇み、時に冷たくそっぽを向き、時に妙に色っぽく横目で御船さんを見るのでありました。御船さんはその影に殆ど翻弄されるのでありました。
 しかし沙代子さんの心根にも同じ現象が起きていると云う気配は、全く感じられないのでありました。自分だけが妙に盛り上がっているのはどこか癪であったし、体裁も悪かろうし、それに自分のその熱がかえって敬遠されるのを恐れて、御船さんは沙代子さんの目に、別になんと云うこともないような素ぶりを映じることに努めるのでありました。
 殆ど濃い交流がない儘で歳が明けて、御船さんの沙代子さんへの思いは、ギリギリまで絞りこまれたタオルのように硬直しているのでありました。これ以上絞られ続けると、このタオルは屹度千切れて仕舞うに違いありません。御船さんはなんとなく切羽つまったような思いに打ち拉がれるようでありました。
 四月になって三年生になったら、御船さんは沙代子さんと違うクラスになる事を願うのでありました。そうすれば、間に出来た距離感に依って自分の昂ぶった気持ちも、少しは落ち着きを取り戻すであろうと思われるのでありました。しかし一方で沙代子さんと違うクラスになるなんと云うのは、考えられない程の悲劇のようにも思うのでありました。
 そんなこんなで正月も冬休みも明けた或る日、放課後の教室で全く珍しく後ろから御船さんの肩を沙代子さんが人差し指でつっ突くのでありました。ふり返ると沙代子さんの照れたような笑い顔が、すぐ傍に近づけられているのでありました。
「これ、つまらない物だけど、誕生日プレゼント」
 沙代子さんはそう云って御船さんに、ネコのイラストの描いてある小さな紙袋を渡すのでありました。折り口には飾りの赤いリボンがついているのでありました。この全く思わぬ沙代子さんの厚意に、御船さんの気持ちは一気に有頂天に登りつめるのでありました。
「お、なんだなんだ」
 御船さんは紙袋を押し戴くように受け取って、それをしげしげと眺めるのでありました。
「開けてみて」
 そう促されて丁寧にリボンを外して、破かないように袋の折り返しを戻すと、御船さんは中に入っている物を掌に取り出すのでありました。
「あ、豚カツだ!」
 それはミニチュアの食品サンプルのキーホルダーなのでありました。小さい物ながら結構精巧に出来ていて、皿に載った豚カツの揚げた衣の質感が実物のようでありました。横に薄緑色のキャベツの千切りも添えられているのでありました。
「結構可愛いでしょう?」
「こんなの、何処で手に入れたんだ?」
「街の繁華街のアーケードの中に、化粧品とか雑貨とか衣類とか売っている店があってさ、その隅にこんな玩具のようなものも並べているのよ」
「へえ、そうなんだ」
(続)
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大きな栗の木の下で 100 [大きな栗の木の下で 4 創作]

 御船さんは横に取りつけられた金色の短い鎖を持って、豚カツのキーホルダーを目の前に翳すのでありました。
「こんなんじゃあ御船君のお腹の方は、全然一杯にはならないけどさ」
「いやいや、嬉しいよ。有難う」
 例え腹は一杯にはならなくとも、しかし御船さんのそのちょいと上の胸の方は、今一杯になっているのでありました。一杯になった御船さんの胸の奥で、心臓が秘かにファンファーレを鳴らしているのでありました。
 あの日の放課後の、御船さんに云わせれば偶然拾った小さな宝石のような出逢いの時の、全く取り留めもない会話の中で教えた御船さんの誕生日を、沙代子さんが忘れずにいてくれたことがなにより嬉しいのでありました。あの日以来、特に二人きりになるチャンスもなく、それを欲するような素ぶりも沙代子さんからは感じられなかったのではありましたが、しかしひょっとしたら沙代子さんの方も自分に一定以上の好意を寄せるようになっていて、この誕生日プレゼントがその好意を御船さんに伝えるための、或る種の沙代子さんなりのサインと云うのか、告白なのかも知れないではありませんか。そう考えると、御船さんはその考えに全く以って陶然とするのでありました。
 しかしこの誕生日プレゼント以後も、特に沙代子さんの自分を見る熱い眼差しとか、表情のぎごちなさとか、それにより緊密になろうとする意欲のようなものはあまり感じられないのでありました。相変わらず沙代子さんはごく普通に、寧ろ御船さんの目から視ると落胆する程クールで、他の男子のクラスメートと同じ程度の親しさ以上で御船さんに対しているとは思えないのであります。まあ、以前よりは多少打ち解けた雰囲気と云うのは、クラスの中での少ない会話の機会中に感じられなくもないのではありましたが。
 しかしそれは沙代子さんの羞恥心とか矜持とかが邪魔をして、御船さんに対して素直になれないだけなのかも知れません。若しそうなら、今度は自分の方が、沙代子さんのその羞恥心とか矜持とかを霧消してあげるアクションを起こさなければならないのであります。
 そうではあるものの、御船さんには大いに気後れがあるのでありました。だって沙代子さんの気持ちが御船さんの読み通りではなくて特段盛り上がってもいないと云うのに、軽率で鈍感な行動などして見せたら、返って沙代子さんを遠ざけて仕舞う結果なるかも知れないではありませんか。そうなったら立つ瀬もないし、元も子もないのであります。
 今度は御船さんの方の羞恥心とか矜持とかが、御船さんの勇気と手足の自由を奪うのでありました。御船さんは自分の軽挙が不首尾を招くかも知れないと云う想像に怖じて、なにも為せない儘焦れったい日々を送るのでありました。
 まあ後日、沙代子さんの誕生日に御船さんはお返しと云う名目で、沙代子さんが豚カツのキーホルダーを買った、街の繁華街にある店を探し出して、そこでショートケーキのキーホルダーを贖って沙代子さんに渡しはしたのでありました。そんなのは御船さんの沙代子さんへの思いの、万分の一も表現出来ていないと云う敗北感のようなものを感じつつ。それに自分の気持ちの程からすればあまりに能のない、単に義理を果たしていると云う低調な印象をしか沙代子さんに与えられないであろうことを、大いに歯痒く思いつつ。・・・
(続)
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大きな栗の木の下で 101 [大きな栗の木の下で 4 創作]

 補足として云うと、三年生になってからも、幸いにも御船さんは沙代子さんとまた同じクラスになったのでありました。だから沙代子さんの誕生日にショートケーキのキーホルダーを渡す時、態々と云う印象ではなくて事の序でみたいな気軽な感じで渡すことが出来たのでありました。まあその気軽な感じ自体が、御船さんにとっては歯痒いわけでもあったのでありましたが。
 それに親密度と云うのか、会話を交わす頻度も、御船さんの願いからは到底納得いくような水準ではないのでありましたが、三年生になって多少は増したのでありました。しかし結局、沙代子さんの飼っていたネコの話しの続きを聞く機会は遂に訪れる事はなかったのでありました。土曜日の放課後の教室で二人きりになることも、だから当然、その帰りに沙代子さんの乗るバス停まで御船さんが送って行くと云う愛想をする機会も、一度も訪れないのでもありました。
 しかしそれだからこそ、御船さんの中で沙代子さんの影が益々色濃くなっていったということはありましたか。相手に対する不足感とか焦れったさとか疎隔感とか、或る種の陰鬱さとか云うものが、碧玉をより凄烈に、場合に依ると実価以上に輝かしく磨き上げる絹布となると云う、恋愛の古来よりの定石が綺麗に当て嵌まったのでありました。
 これで若しもライバルでも居たとしたなら、それこそ見事なまでに御船さんは沙代子さんの像を、この世にない程の輝きを獲得するまで磨きに磨き上げたことでありましょう。しかしそうなっては、御船さんは沙代子さんと言葉を交わすことも出来なくなっていたかも知れません。

 海からの風が御船さんの思い出に満ちた頭部に吹きつけるのでありました。
「どうかした、御船君?」
 沙代子さんが聞くのでありました。
「ああ、いや別に」
 御船さんは沙代子さんの方を見ながら云うのでありました。
「なんか御船君、すっかり黙っちゃったからさ。ひょっとしたら体の具合でも悪くなったのかと思って、ちょっと心配になったのよ」
「ああ、ご免々々。そんなんじゃあないよ。ただちょっと、不意に思い出したことがあって、そのことを考えていたんだよ」
 御船さんは頭を掻くのでありました。
「ふうん、そう」
 沙代子さんはそう云って海の方に視線を投げるのでありました。夕方に近くなって凪いだ海が、水平線の辺りをきらめかせているのでありました。
 造船所のクレーンが、横に並ぶ建物の屋根に影を長く引いているのどでありました。街を貫く幹線道路には、造船所の建物の屋根に張りついたクレーンの影よりも長い車の列が、動いているのかいないのか判らないくらいの微妙な変化を見せながら、傾きかけた日差しを公園に向けて反射させているのでありました。
(続)
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大きな栗の木の下で 102 [大きな栗の木の下で 4 創作]

 街の至る所に縮こまる青やかな木々も、遥か遠くに盛り上がり広がる低い山並みも、濃い緑色に輝いているのでありました。御船さんが見る海や山や街が、夏の儘の強い日差しの中に溶けているのでありました。総ての光景が光の中に沈澱しているのでありました。風を受けて、古木が葉擦れの音を微かに御船さんの耳に届けるのでありました。
 沙代子さんには、余計な陰翳などいらないのだと御船さんは考えるのでありました。美しく磨いた碧玉には、それを美しく輝かせる光だけがあればそれで足るのでありました。必要もない翳りを添えられた璧は、悲惨ですらあると思うのでありました。御船さんの中で磨かれた沙代子さんと云う璧は、単純で明快な光沢だけを何時までも湛えてくれてさえしていればそれで充分なのでありました。いやそれだけと云うよりも、それだからこそ。
 その単純明快な光沢に包まれながら、高校生の時に聞きそびれた他愛もないネコの話しを何時か聞きたかったのでありました。それにもしそう云うチャンスが訪れれば、全く他愛もない誕生日のプレゼントを、再び恥ずかしそうな笑いを浮かべて交換出来ればと思うのでありました。あの大学生の時に沙代子さんが御船さんの前から去ったことだって、他愛のない冗談に紛らわせて話しをすれば済むことであって欲しかったのでありました。
 しかし生きて人と交わり続けることは、色々な陰翳を引き受けることでもあろうと云うことは、御船さんにも判ってはいるのでありました。一定の長さの時間を生きた人間の体や気持ちに、窺い知れぬ様々な翳りが付着して仕舞うであろうことは、全く以って当然なのであります。しかし翳りが増していくからこそ魅力も増していくと云う云い方も、一方にはあるでありましょう。だからこそ生きていけるのだとも云えるのかも知れません。
 自分が単に呼吸を繰り返している間に、沙代子さんは重く長い歳月を生きたのだと、御船さんは考えるのでありました。自分の方と云ったら、迂闊にも、のほほんと過ごして仕舞って、その間に、自分の中の沙代子さんと云う璧を実際の沙代子さんには何も関わりなく、ただせっせと磨いていただけだったように御船さんは思うのでありました。
 そうして、御船さんと沙代子さんは今こうしてまた出逢ったのであります。大学生の時は関与を拒否されたのでありましたが、今度は沙代子さんの翳りに対して、御船さんはそれを優しく撫でて上げられるかも知れません。勿論、沙代子さんが許してくれるのなら。
 特段こちらが求めてもいないのに、沙代子さんは自分の翳りについて話をしてくれたのでありました。と云う事は、ひょっとしたら沙代子さんはこれから先、御船さんの関与を求めていると云う風に考えることも出来るかも知れません。まあ、それは御船さんのお先走りで、実際はそうではないと云うこともあるでしょうが。
 しかし、大学生三年生の時にこと切れた二人のその後の展開を、出来るのなら再び出逢った今から、御船さんは再開してみたいと思うのでありました。単純明快で他愛もない光の中で、出来て仕舞った翳りが薄く璧に馴染んで仕舞って見えなくなるように、二人で生きていたいと御船さんは切に願うのでありました。眩しいくらいの、光の中で。・・・
 御船さんはすぐ先の地面を見るのでありました。栗の古木の蔭が地面に黒々と張りついているのでありました。御船さんはその蔭の中に座っていることに、なにやら急に苛々としてくるのでありました。
(続)
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大きな栗の木の下で 103 [大きな栗の木の下で 4 創作]

 自分のすぐ横に沙代子さんが座っているのでありました。沙代子さんも当然、木蔭の暗がりの中に佇んでいるのでありました。御船さんは居た堪れなくなってくるのでありました。沙代子さんは、蔭の中に座っていてはいけないと云うのに。・・・
 御船さんは固く目を閉じるのでありました。蔭なんか消えて仕舞えと、御船さんは祈るのでありました。目を開けることが出来なくなるのでありました。
 するといきなり、全くの無音を御船さんは感じるのでありました。世界の総ての音と云う音が、たじろぐ程綺麗に消滅しているのでありました。
 風の音も聞こえないのでありました。葉擦れのさざめく音も、消えているのでありました。鳥も、蜩も、全く鳴かないのでありました。静まり返った不穏な世界が、不意に御船さんの閉じた瞼の内側に出現するのでありました。
 ほんの暫くの後、御船さんは恐る々々目を開くのでありました。開いた刹那はぼんやりと霞んでいた視界が、次第に明瞭になってくるのでありました。するとどうでありましょう、蔭が、木蔭が消え失せているではありませんか!
 あんなに黒々と地に張りついていた蔭が、二人に陰鬱に圧しかかっていた蔭が、音の消滅に呼応して、地表に吸いこまれたように跡形もなく消え失せているではありませんか。こんなことが起こって良いものでありましょうか!
 御船さんは息が止まるのでありました。沙代子さんが蔭の中から脱しているのでありました。自分も一緒に蔭から解放されているのでありました。こんな現象は、奇跡としか云い様がないのではないでしょうか!
「なんか、急に曇って来たわね」
 沙代子さんののんびりした声が遠くから聞こえてくるのでありました。その声に反応して、見開いた儘だった御船さんの瞼が一度瞬きをするのでありました。御船さんは沙代子さんの言葉で、一瞬に総てを了解するのでありました。
 そうなのであります。奇跡でもなんでもないのであります。ただ単に、曇っただけなのであります。日が翳ったものだから、当然、木蔭が消えたのであります。ごく普通の自然現象であります。なんと云う、げんなりするような当たり前であることか。
 沙代子さんが御船さんを見るのでありました。御船さんは空騒ぎを咎められたように、おどおどと沙代子さんから目を逸らすのでありました。
「ああ、そうだな、・・・曇ってきたな。」
 風が吹いてきて、栗の古木が葉擦れの音を御船さんの頭の上にふり撒くのでありました。
「もうぼちぼち夕方ね」
「そうだな、夕方だな。・・・」
「日の暮れ方は早いって云うから、もうじき、暗くなり始めるわね」
「ああ、暗くなり始めるかな。・・・」
 沙代子さんは少し御船さんを無表情に見つめるのでありました。それから街の光景に目を移して、膝の上に未だ散らかった儘になっている小さな草切れを両手で払って、徐に立ち上がるのでありました。釣られるように御船さんも立ち上がるのでありました。
(続)
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大きな栗の木の下で 104 [大きな栗の木の下で 4 創作]

「今日はもう帰ろうかな。思いがけず、御船君に逢えて嬉しかったわ」
 沙代子さんが云うのでありました。
「いや、俺の方こそ嬉しかったよ」
 御船さんはそう云いながら下を向くのでありました。
「これからも逢えるわよね、この公園に来れば?」
「勿論。いやいや、この公園じゃなくても、街の他の処でもさ」
「それはそうよね、同じ街に住んでいるんだしね」
 沙代子さんの言葉は、二人が出逢うのを如何にも偶然任せ以上には考えていないようで、御船さんは少し不本意な気がするのでありました。偶然出くわすなんてことではなく、逢う積りがあるならば逢えると御船さんは云いたいのでありました。
「それに、沙代子は今、高校生の頃と同じ家に住んでいるんだろう? そうだったら、住所も電話も判っているしさ」
「あたしは同じ処よ。御船君は?」
「俺もそうだよ。だから逢おうと思えばお互い何時でも連絡もつけられるし」
「それはそうよね」
 沙代子さんはそう云いながら御船さんの足下を見るのでありました。そこには沙代子さんの小さなバッグが置いた儘にしてあるのでありました。御船さんはそのバッグを取って沙代子さんに渡すのでありました。
「ああご免、有難う」
 沙代子さんは、その御船さんの行為がさも嬉しいような笑いを浮かべてバッグを受け取るのでありました。それから手に持っていたハンカチをその中に仕舞うのでありました。
「御船君、絶対前みたいな健康な体に戻れるから、リハビリ、頑張ってよね」
「うん、まあリハビリと云うよりは単なる散歩に近いけど、取り敢えず続けるよ」
 その御船さんの言葉を聞いて、沙代子さんは一つ頷いて、片手を上げるのでありました。
「じゃあ、今日はこれで」
「うん、またな」
 御船さんも片手を上げるのでありましたが、急に思い出したように云うのでありました。「ああいや、そこの下の市営団地の停留所まで一緒に行くよ」
「御船君も帰るの?」
「そうね。もう日暮れが近いし」
「じゃあ、そこまで一緒に行こう」
 沙代子さんが目を細めて云うのでありました。

 バスの停留所で沙代子さんと並んで沙代子さんの乗るバスを待っているのは、先程思い出した高校生の頃の情景と同じなのでありました。御船さんはなんとなく嬉しくなるのでありました。これで首に鈴をつけた白ネコが出てきたら、云うことなしなのだがと御船さんは考えるのでありましたが、しかし何処からもネコは現れないのでありました。
(続)
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大きな栗の木の下で 105 [大きな栗の木の下で 4 創作]

「覚えていないかもしれないけど、御船君さ、高校生の時にこんな感じで、バス停であたしを見送ってくれた事があったわよね」
 沙代子さんが云うのでありました。覚えていないどころか、それは忘れもしないと云うべき事であります。なにせついさっき、その情景を御船さんは鮮明に思い浮かべていたのでありましたから。
「覚えているよ。土曜日の夕方だった」
「あたしは家に帰る直通バスに乗ろうと思って、教室で時間を潰していたんだけど、そこに御船君が現れたのよね。なんで教室に戻ってきたんだっけ、御船君?」
「忘れた弁当箱を取りに、だよ」
「ああ、そうだったっけ」
 御船さんがかなりの細部も明瞭に覚えていると云うのに、沙代子さんは大概しか覚えてはいないようでありました。御船さんは沙代子さんがあの思い出に、然程強い印象を残してはいないことを少し寂しく思うのでありました。
「教室で、クリスマスとか正月の話をしたぜ。それにクリスマスケーキの話しも」
「ああ、そうだったわね、なんとなく覚えているわ」
 沙代子さんが何度か頷くのでありました。
「そいで、時間が来たのでバス停に行く沙代子について行ったんだ、俺が」
「ネコがバス停にいたわよね。それは覚えているわ」
「途中でどこからかやって来たんだよ。そいで沙代子が前にネコを飼っていたって話しになって、それから、そのネコの話しが始まろうとした時に、丁度バスが来たんだよ」
「ああ、そうだったっけね。御船君よく覚えているわね」
 忘れるわけがないと御船さんは口の中で云うのでありました。あの時が切かけで、俺はお前のことを忘れられなくなったんだからな。その時お前の方は、俺のことなんか別にどうでもよかったんだろうけどな。
「俺にとっては、ついこの間のことみたいだよ」
「あたしには、なんか随分遠い昔のことのようだわ」
 あれから、重く長い歳月を生きた沙代子さんが、単に呼吸を繰り返していた御船さんに云うのでありました。
「沙代子の飼っていたネコの話し、結局未だ聞いていないんだぜ、俺は」
「ああ、そうだったかしらね」
「そりゃそうさ、その後あんまり長く二人で話しをする機会なんかなかったんだから」
 御船さんは自分の口調が、なにやら繰り言を並べるような調子になっているのに気づくのでありました。御船さんは一つ咳払いをするのでありました。
「まあ、確かにあたしは前にネコを飼っていたけどさ」
「そのネコの話し、実は俺、ずうっと気になっていたんだよ」
「なに、あたしのネコの話しが?」
 沙代子さんが御船さんの方を向いて首を傾げて見せるのでありました。
(続)
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大きな栗の木の下で 106 [大きな栗の木の下で 4 創作]

「そう。何時か聞きたいものだってずっと思っていたんだ」
「ふうん、そうなんだ」
 沙代子さんは御船さんが自分のネコの話にどうしてそんなに興味を持ったのか、全く判らないと云う顔をして見せるのでありました。
「だから今度、聞かせてくれよ」
「そりゃいいけど、そんなに面白い話しなんかじゃないわよ、そんなの。・・・」
 坂の上の方から、道を回ってバスが下ってくるのが見えるのでありました。バスは御船さんと沙代子さんが並んで待っているその前に止まるのでありました。圧縮した空気が抜けるような音をたててバスの扉が開くのでありました。
 沙代子さんが御船さんの方を見て目の表情でさようならを云ってから、くるりと御船さんに背を向けてバスのステップに足をかけるのでありました。入口のすぐ後ろの席に座った沙代子さんは、窓越しに御船さんに手をふるのでありました。その様子はあの高校生の時の思い出とまったく同じなのでありました。
 坂道をゆっくり下って行くバスの後部を、御船さんは何時までも見送っているのでありました。下の大きくくねった道を曲がって仕舞うと、沙代子さんを乗せたバスは御船さんの視界から消え去るのでありました。
 急に夕暮れの気配が濃くなるのでありました。高台の公園を見上げると、栗の古木が風に葉群れを泳がせているのでありました。海の方から差す斜陽に、栗の古木は微かに赤く染まっているのでありました。夕風に葉の騒ぐ音が、公園の下の道にいる御船さんの頭の上にまでさらさらと降り注ぐのでありました。

 御船さんはその後この公園で沙代子さんと逢うことはないのでありました。下の市営団地に沙代子さんのお祖母さんが住んでいると云うのだから、沙代子さんが偶にそこを訪れることはあるのでありましょうが、あの日以来、御船さんは沙代子さんの姿を見ることは全くないのでありました。単に時間があわないから逢えないのか、それとも他に理由があるのか御船さんには判らないのでありました。
 時間があわないと云うところで云えば、御船さんが前のように公園突端の栗の古木の蔭の中で、午後の長い時間を過ごすことがなくなったと云うのも、二人が出逢わない理由の一つになるのかも知れません。御船さんがそこにいる時間は前に比べれば極めて僅かになったのでありました。
 と云うのも、御船さんは家からこの公園まで上がって来ても、そこで歩を止めることなく、観光ホテルを通り越してもっと上の展望公園にまで、休むことなく上って行くようになったのでありました。最初は息切れが激しかったのでありましたが、次第に慣れてくると、御船さんの呼吸は然程に乱れることはなくなったのでありました。
 結構大丈夫なものだなと御船さんは思うのでありました。要するに本気でやろうとすればとうに出来たことを、了見違いと怠慢から、単にやらなかっただけのことのようであります。御船さんは少し、己の体力の回復具合に自信を持つようになるのでありました。
(続)
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大きな栗の木の下で 107 [大きな栗の木の下で 4 創作]

 御船さんは家から展望公園までの長い登り途を、軽いランニングで完走出来るようになるのでありました。自分の脚にみるみる筋肉が蘇ってくるのを実感出来るのでありましたが、それは何とも云えぬ喜びでもありました。
 御船さんが大学時代にやっていた合気道には単独で行う基本動作と云うものがあって、人気のない展望公園に着くと、御船さんは筋力強化に有効と思われるその中の幾つかの動きを試みるのでありました。例えば脚を前後に開いて前足にかけた六分の重心を、脚を尚も開きながら八分の重心にまで移し、その儘低い姿勢を保持するのであります。五分間もそのままにしていれば脚がブルブルと震えてくるのでありましたが、その儘可能な限り長い時間その姿勢をとり続けるのでありました。
 そう云った事が出来るようになると、今度は細った上半身も強化しようと云う欲求が出てくるのでありました。腕立て伏せとか腹筋運動とかスクワットとか、そんな一般的な筋力トレーニングは勿論、家にある一番重い木刀を持ってきて、それで素ぶりを一千回繰り返したりするのでありました。すぐにそれが出来たわけではないのでありましたが、しかし徐々に回数と強度を上げていって、そう長い日時もかからずに案外早く達成出来るようになるのでありました。ひょっとしたら今の方が大学時代よりも、体力がついたのかも知れないと御船さんは額から流れる汗を拭きながら、大いに満足気に思うのでありました。
 御船さんは体力強化に極めて真面目に取り組みだした自分が、自分で意外でもありました。一刻も早く体の頽勢を元に復せんとする了見なんぞ、ついこの間まで気持ちの端にも持ちあわせてはいなかったのでありました。
 やれば出来ることをやるようになったのは、矢張り沙代子さんとの邂逅が大きな転機になったと云えるでありましょう。蔭の中にいる沙代子さんに、同じ蔭の中にいる自分が何もなしてあげられないのは、全く以って自明なのであります。沙代子さんを蔭から解放するためには、先ず自分が蔭から日向の方へ足を踏み出さなくては始まらないのであります。
 御船さんは展望公園の芝生の上で、全力疾走を繰り返すのでありました。充分以上の体力を取り戻し、充分以上の気力と自信を得て、その後にもう一度面前に自分が現れるまで、どうか沙代子さん、屹度待っていてはくれぬだろうかと、はち切れそうになった心臓と肺とが足掻く隙間で、御船さんは沙代子さんに話しかけるのでありました。そうして先ず軽い取りかかりとして、ネコの話を聞かせて貰いたいものであります。
 しかし沙代子さんに自分は必要とされないかも知れないとも、一方で思うのでありました。そんなことだって、充分にあり得るのであります。考えてみたら高校生の時から今の今まで、沙代子さんは切実に自分を求めたことなどなかったではありませんか。とんだ三枚目として、自分は沙代子さんの前に現れる事になるかも知れないわけであります。
 しかし、しかし、そうであっても、兎も角御船さんは体力と気力の復旧に駆り立てられるのでありました。それがないと、本当に、本当に、なにも始まらないと思うからでありました。そのまた後に出来する事態等に、今は思い悩んでいる暇はないのであります。だから、今沙代子さんに逢えなくとも、それは仕方がないのでありました。変貌を果した自分が沙代子さんに逢わなければ、何の意味もないのであります。
(続)
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大きな栗の木の下で 108 [大きな栗の木の下で 4 創作]

 御船さんはダッシュを繰り返して疲労困憊していた体の中に、もっともっと体を虐めてやろうと云う気力が充溢してくるのを感じるのでありました。それは気力と云うのか焦りと云うべきものか、その辺りはよく判らないのでありましたが、しかし御船さんは草の上に横たえていた体を敢然と起こすのでありました。

 十一月の半ばを過ぎる頃、御船さんは自分の気力も全身の筋力も、その使用感も、かなりの程度に充実しできたように感じるのでありました。ひょっとしたら髄膜炎を患う以前よりももっと、壮健な身体を獲得しているかも知れません。
 声も殆ど元に戻っているのでありました。木刀を振りながら気合いの発声をしても、その声は如何にも鋭く前方の空気に突き刺さるのでありました。ほんの偶に擦れることはあるのでありましたが、だからと云ってそれでまた喉を傷めることはないのでありました。
 御船さんの家族は御船さんのこの変貌に驚くのでありました。御船さんは仕事への復帰も決めるのでありました。挨拶に行った職場の上司や同僚は御船さんの回復を喜び、以前よりも逞しくなったかも知れないその体躯に驚嘆の声を上げるのでありました。
 今年のクリスマスには、ネコのキーホルダーを買って沙代子さんに渡そうと、御船さんは考えたりするのでありました。高校生でもあるまいし、そんなものじゃあ、ちゃち過ぎるような気もするのでありましたが、しかしそのプレゼントを渡す事は重要な沙代子さんへのサインであり、厳かで秘かな儀式なのでありました。

 十一月も押しつまると、もうそろそろ冬の気配が高台の公園に漂っているのでありました。いよいよ明日から仕事に復帰すると云う前日、御船さんは最後のリハビリを終えると(いやそれはもうリハビリと云うよりは鍛錬と呼ぶべきものでありましょうが)、公園突端へと足を運んでみるのでありました。
 眺め下ろす街の風景にも造船所のドック群にも、遥か遠方の海の上にも、すぐそこの市営団地の屋根にも、水平線からせり上がって空一面に広がった冬の重い雲が覆いかぶさろうとしているのでありました。海から街を舐めて山肌を吹き上がってくる寒風が、絶え間なく、突端に立つ栗の古木の枝を嘲弄するように吹き過ぎていくのでありました。
 枝を撓らせるくらい密集した葉群れが未だ夏の儘の日差しに輝き、旺盛な葉擦れのさざめきを辺り一面にふり撒いていたほんの少し前の古木は、もうすっかり様相を変えて、寒々と細った姿で重苦しく曇った冬空に向かって屹立しているのでありました。この間で、御船さんの方は体に厚い筋肉を蘇らせ、古木の方は痩せ細って仕舞ったのでありました。
 栗の古木は冬の風にされるが儘に、殆どの葉を落とした梢を揺らしているのでありました。木蔭が黒々と貼りついていた地面には落ちた葉が厚く降り積もり、イガに包まれた栗の実が所々に散らばっているのでありました。
 御船さんは暫くの間栗の古木を見つめているのでありました。それから、お、木蔭が消え失せているなと小声で呟いて、一つ笑って、前に沙代子さんがバスでこの高台を去っていった同じ坂道を、下界に向かって下って行くのでありました。
(了)
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