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大きな栗の木の下で 1 創作 ブログトップ

大きな栗の木の下で 1 [大きな栗の木の下で 1 創作]

 斜面を吹きあがって来た風が、高台の小さな公園突端に立つ栗の古木の葉群れを騒がすのでありました。古木の蔭の中に居る御船さんは幾度となく風に乱される前髪を掻き上げながら、眼下に広がる市街を見下ろしているのでありました。もうすぐ彼岸だと云うのに、暑気は一向にこの街を去らないのでありました。
 公園まで大きく円を描くように伸びる道の下には、まるで市街から隔絶されたように市営団地の五階建の鉄筋コンクリートの建物が六棟、鬱蒼たる木々に囲まれて建っていて、その白い屋根が未だ夏の儘の日差しを公園に向けて跳ね返しているのでありました。市営団地の屋根の群れを通り越して暫く山の斜面に視線を下らせれば、ようやく小学校の校舎やら校庭やら、その周りに建つ家々やらが青やかに縮こまる木々の間にぽつぽつと現れ、家々は次第に下に向かって密度を増していって、建物の密集した市街地へと繋がるのでありました。市街地の向こうは、もう海でありました。
 海際には造船所のドックが四つ広い間隔をとって並び、大型のクレーンが幾つもそのドックを取り囲むように建っていて、クレーンの間にトタン屋根の工場群が幾棟も整列しているのでありました。造船所の横は自衛隊の基地になっていて、幾隻かの護衛艦が重列に桟橋に繋がれているのでありました。そのまた横はアメリカ海軍専用の桟橋でありました。広い道路が造船所や基地と住宅街区とを切り離すために、長い切開痕のように地面を切り裂いて、緩やかなカーブを見せながら市街地の縁を走っているのでありました。
 梅雨が明けて夏になると、御船さんはほぼ毎日公園突端の栗の古木の下で昼間の殆どの時間を過ごすのでありました。特になにをするでもなく、木蔭の中に寝そべって眼下に広がる、子供の頃から見慣れた下界の風景を見下ろしているのでありました。御船さんには当面他にやることがなにもなく、それにやる気も全く起こらなかったものだからそうやって時間を潰すしかないのでありました。
 御船さんの家は高台の市営住宅から三十分程道を下った、家々がそろそろ密集しはじめる際辺りにあるのでありました。少し山歩きして闘病生活で弱った足腰の筋肉をつけるためにと云うのが、御船さんが家を出る口実なのでありました。しかし御船さんはこの公園まで登って来るともうそれ以上の足腰の鍛錬を放棄して、公園の栗の古木の下に腰をおろしてしまうのでありました。
 体がしんどいと云うのも、間違いない一方の理由ではありました。しかし御船さんは足腰を鍛え直すことに、然程の意味を見いだせないのでもありました。寧ろこの儘足腰の弱さを引き受けている方が、もう暫くの間無為な時間を過ごすための方便になると云う風にも考えるのでありました。
 御船さんは三十歳の誕生日を迎えた数日後に、髄膜炎を発症して半年程入院生活を送ったのでありました。職場で突然眼球の痛みを覚えて、妙だなと思っている間に激しい頭痛が襲ってくるのでありました。医務室で薬を貰って暫く休んでいれば直るだろうと思って、椅子から立ち上がったら急に嘔吐物がみるみる口の中に溢れ、堪えきれずそれを吐き出した途端意識が霞みはじめるのでありました。その後御船さんは救急車で市民病院に運ばれるのでありましたが、救急車に乗せられるまでしか記憶はないのでありました。
(続)
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大きな栗の木の下で 2 [大きな栗の木の下で 1 創作]

 病院のベッドの上で意識が戻るまでに、もうかなりの時間が経過していたのでありました。意識状態はほぼ復したものの、体は麻痺したように動かないのでありました。御船さんの闘病生活の始まりでありました。
 半年後にようやく医師から恢復を宣されて退院の目途が立った時には、御船さんの体は驚く程衰弱しているのでありました。長期間寝た儘であったから、先ず体中の筋肉と云う筋肉が総て委縮し硬化しているのでありました。暫くの時間座っているだけでも苦痛なのでありましたし、同じ姿勢を長時間続けているのも叶わない状態なのでありました。
 加えて姿勢を変える動作が、これまた難儀なのでありました。自分の体を動かすことがこれ程大変になって仕舞ったと云うことに、御船さんにはひどく驚くのでありました。寝ていても、痩せ細って固まった筋肉の繊維が悲鳴を上げるのでありました。
 長い間栄養補給のために喉に管を通していたので、御船さんの声は潰れて仕舞うのでありました。それは言葉を発すると云うよりは、呼気の雑音と云う方が正しいようなものなのでありました。呼吸自体も、浅く早いリズムでしかなせなくなっているのでありました。
 これを恢復と云うのかと、御船さんは医師の言葉を懐疑するのでありました。髄膜炎と云う病因そのものからはなんとか脱出したものの、その後に残った自分の体のあり様と云ったら、それはとても健常とは云い難いのでありました。しかし一つの致命的な病因がその体から離れた以上、他の致命的でない様々な不都合が残っていても、或いは不測に生じていたとしても、それでも病院は出なければならないのでありました。
 家に戻った御船さんの生活は、病院に居た時と殆ど変化してはいないのでありました。しかしそれまでの過酷な経緯を思えば、家族は御船さんに強いて積極的な病後回復のための課題を課すことはないのでありました。御船さんは退院後の一月、病院に検診に行くこと以外全く外へ出ることはないのでありました。だから御船さんの体は益々、弱るのでありました。
 早期に社会復帰したいと云う意欲は、意外にも少しも頭の中に湧き上がってこないのでありました。御船さんは自分の頭蓋の内側に、焦る気持ちが全く生成されないことを不思議に思うのでありました。仕事の上では一年間の休職が認められているのでありましたから、後五ヶ月程はその儘生活していても失職の心配はないのでありました。しかし一年を経過して休職扱いが取り消されて、その後自然退職と云うことになったとしても、まあ、それはそれで構わないかと御船さんは秘かに思っているのでありました。
 考えてみたら子供の頃から、自分は大層な怠け者であったと思い当たるのでありました。少しでも余計に怠けることばかり考えて、今まで世過ぎしてきたなあと御船さんは思い返すのでありました。そう云う性質に生れついたのでありましょう。
 しかし家族や周りの人達には、少しは社会復帰のための努力をしているところを見せなければ体裁が悪いから、御船さんは山歩きと云うトレーニング方法を試みる自分を演出するのでありました。しかしこれはあくまで演出であったから、御船さんは公園に到着すると栗の木蔭の中に寝そべって動かなくなって仕舞うのでありました。それだけで確かに息は切れるのでありましたが、動けなくなる程の消耗は実はないのでありました。
(続)
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大きな栗の木の下で 3 [大きな栗の木の下で 1 創作]

 将来の不安は、それは大いにあるのでありました。しかし御船さんは楽観主義者を決めこんで、いよいよ働かなければどうにも体裁が整わなくなくなったら、その時から働き始めればそれでよかろうと考えるのでありました。今この時山歩きのトレーニングを怠っているとしても、その頃にはいくらなんでも自分の体も多少は壮健になっているでありましょうから。幸い父親は、小さな事業とは云え幾人かの従業員を抱える建築設計事務所をやっていて、家計の上では相応以上の収入は確保されているのでありましたから、暫く以上の間、病み上がりの自分を養う資力くらい充分にあるであろうと、御船さんは全く身勝手で虫の良い観測の見取り図を秘かに頭の中で線引きしているのでありました。自分の怠け者ぶりも随分と醜く成長したものだと、御船さんは自嘲的な笑みを唇の端に浮べて、眼下に広がる下界の街の景色を見下ろしているのでありました。
 下の道にバスが止まるのでありました。バスから数人の乗客が降りるのでありましたが、それは多分市営団地に住む者達なのでありましょう。杖をついた老翁が一人と老媼が二人、それに初老の女性が二人でありました。彼等は手ぶらの者もあれば、下界で買い物をしたのか両手に大きな紙袋を抱えている者もあるのでありました。皆誰とも口をきくこともなく、市営団地の門内に消えていくのでありました。
 バスはこの後道をもう少し上って終点の展望公園まで行くのでありました。山頂の展望公園には斜面に突き出した展望台と、小学生が遠足に使う広い頂上広場と、そのすぐ手前に殆ど人の訪れない観光ホテルが建っているのでありました。市営団地で人を降ろしたバスは、恐らく乗客をもう誰も乗せてはいないでありましょう。平日の昼下がりに山頂を訪れる人など、まずないのでありましたから。
 バスが姿を消すと再び、全く人の気配の絶えた空間が御船さんを囲むのでありました。未だに夏の儘の日差しに、空気が煮え立っているのでありました。木蔭の中に居ても御船さんの額は汗ばむのでありました。下界を舐めて吹き上って来る海からの風が、相変わらず御船さんの前髪を心地よく何度も乱すのでありました。

 女が突然現れるのでありました。足音も立てずに近寄って来た女は(いや、それは御船さんが惚けたように目を細めて下界の風景を見下ろしていたために、その気配に気づかなかったと云うだけのことなのでありましょうが)、栗の古木の蔭の中に入って来て御船さんの横に腰を下ろすのでありました。御船さんは女を見るのでありました。女も御船さんを見て笑いかけるのでありました。
「御船君、久しぶり」
 女がそう云って口元に手を添えて笑うのは、御船さんが未だ女の正体に思い当たらないような顔をしているのが可笑しいのでありましょう。御船さんは女の顔をほんの暫く見つめるのでありました。
「あれ、沙代子か?」
 御船さんがかすれ声で聞くと、女はまだ口元に手を添えた笑い顔の儘で一つ頷いた後、御船さんの声の調子を奇異に思ったような気配を見せるのでありました。
(続)
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大きな栗の木の下で 4 [大きな栗の木の下で 1 創作]

「そう、沙代子よ。もう忘れたの、あたしの顔?」
 御船さんはようやく破顔するのでありました。忘れるはずのない顔であるのに。
「いや、ずっと逢ってなかったから、咄嗟に判らなかったんだ」
 御船さんはそう云って一つ瞬きをするのでありました。「本当に、久しぶりだなあ」
「八年ぶり、ううん、九年ぶりかしらね」
「そうだよなあ、その位になるよなあ。大学生の頃以来だから」
「どうしたの、声?」
 沙代子さんは首を傾げて御船さんを見なが聞くのでありました。沙代子さんの前髪が少し動いて眉を隠すのでありました。
「うん、病気して、こんな声になっちゃったんだよ」
「病気って?」
「髄膜炎」
「髄膜炎?」
 頭には骨の内側に硬膜、その下にクモ膜、それから脳に付着するように軟膜と云う三層の膜があって、その軟膜に細菌性の炎症が起きると云う病気であると、そんな説明をしても話がややこしくて冗長になるだけのように思って、御船さんはどう簡潔に髄膜炎と云う病気を説明したら良いのか少し迷うのでありました。
「脳を包んでいる膜の病気だよ」
「脳を包んでいる膜?」
 矢張り上手く伝わらないようであります。
「要するに、ここがおかしくなる病気だよ」
 御船さんは自分の頭を人差し指で軽く二三度突いて見せるのでありました。「と云っても、オツムの働きが妙ちきりんになるんじゃなくて、あくまで脳外科的な病気だからな」
 これは沙代子さんを笑わそうと思ってふざけた動作をしながら冗談めかした口調で云ってみたのでありましたが、それを聞く方にしたら、自分の口から放たれる普通ではない嗄れ声の方に多くの注意を奪われて仕舞うであろうから、あんまり笑えるような軽やかな感じにはならないだろうなと、云いながら御船さんは思うのでありました。
「脳外科的な病気? なんかそう聞くだけで大変そうな病気ね」
「半年、入院してたんだ」
「半年も!」
 沙代子さんは傾げていた首を真っすぐにして、眉根を寄せて驚くのでありました。「それじゃあ、とんでもなく大変な病気なんじゃない」
「うん、大変だったよ、確かに」
「声もそうだけど、そう云えば、なんか前に比べると、随分痩せちゃったわよね」
 沙代子さんはそう云って一端御船さんから目を逸らして、それから再び視線を御船さんの顔に戻して真顔で続けるのでありました。「もう、いいの?」
「うん、頭の方はいいんだけど、なんせ入院が長かったんで、体の方がガタガタだよ」
(続)
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大きな栗の木の下で 5 [大きな栗の木の下で 1 創作]

 御船さんはポロシャツから覗く細った自分の腕を撫でながら云うのでありました。「長いこと病院で喉に管を入れていたから、声はこんな風になるし、体中の筋肉は委縮して足腰はか弱くなるし上半身の力も落ちるだけ落ちたし、だから病気以来、気持ちも、大いに萎えちゃって、なんに因らず消極的になっちまったし」
「ふうん。でも、それは時間がたてば段々、治るんでしょう?」
「そう思うけどね。でも目下のところ、それが何時になったら良化に転じるのか目途も立たないし、なんか治る気がちっともしないんだよ」
 御船さんはそう云いながら、これが泣き言に聞こえて仕舞わないか心配するのでありました。約九年ぶりに逢った沙代子さんにいきなり泣き言を云い募ってみても仕方がないし、それじゃあ余りに情けなかろうし、第一失礼でもあろうと思ったのであります。
「そう。・・・」
 沙代子さんは気の毒そうな目をして御船さんを見るのでありました。
「ああ、いや、久しぶりに逢ったのに、こんなつまらないこと云い出して悪い々々」
 御船さんはおどけるようにそう云って頭を掻いて見せるのでありました。
「ううん、こっちから問い質したようなものだし。でも、なんかそんな御船君にここで今日逢おうとは、思ってもみなかったわ。昔はあんなに力持ちでスポーツマンだったのに」
「力持ちでスポーツマン?」
「だって大学生の時は、合気道部の副将だったじゃない」
 御船さんと沙代子さんは高校の同級生でもあったし、あくまで偶然ではありましたが、二人共高校を卒業した後は東京に出て同じ大学に通うことになったのでありました。しかもこれまた全く示しあわせたわけでもないのに、二人は大学の合気道部の初稽古で顔をあわせてしまったのでありました。
「俺は力で合気道やってたわけじゃないぜ。そもそも力に頼らないのが合気道だし。それに合気道はスポーツじゃなくて、武道だぜ」
「そんな風なことをムキになって云うのは、昔の御船君と変わってないわね」
 沙代子さんはそう云って掌で口を隠して笑うのでありました。それまで何故か静まっていた海からの風が山の斜面を吹き上がって来て、木蔭の中の二人の顔を撫でて通り過ぎて行くのでありました。栗の古木が旺盛な葉擦れの音を蔭の中にふり落とすのでありました。その音が静まってから、御船さんは少し自嘲的な笑いを漏らすのでありました。
「なんか未だに、合気道の話になると妙に熱くなっちまうなあ。大学卒業して合気道辞めてから、もう大分経つってのにさ」
「大学の時から、力が入っているとか、技が力強いとか、腕力があるとか云われたら、兎に角力って言葉を使われたら、御船君何時も不満そうな顔をしてみたり、なんか小難しいこと云って反論してたわよね」
「力を褒められると、お前は合気道について実はなんにも判ってないんだって、揶揄されているような気がしてさ、それで竟々クールじゃなくなってたんだよ。まあ、今考えると、確かに大いに力で、技をやっていたんだけどさ」
(続)
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大きな栗の木の下で 6 [大きな栗の木の下で 1 創作]

「大学出た後、合気道続けなかったの?」
 沙代子さんが首を傾げて聞くのでありました。先程の風の後、沙代子さんは一度乱された髪を指で掻き上げたのでありましたが、その仕草でまたもや前髪が眉にかかるのでありました。
「こっちに帰ってからは一切やってないよ。こっちにも市民体育館で合気道やってる社会人のクラブがあるんだけど、俺等が大学でやっていた合気道とは流派が違うから、なんとなく行かない儘、今まで時間が経ったと云う感じかな」
 御船さんはそう云ってから改めて沙代子さんの顔を見るのでありました。「沙代子は、あれ以来、合気道はやらなかったのか? ま、やるわけないか」
 沙代子さんは大学三年生の夏合宿の後、合気道部を辞めたのでありました。
「うん。とてもそんな余裕なかったし」
「ああそうか。なんか人づてに噂はちらっと聞いたことあるけど、沙代子も結構大変だったってなあ、色々あって」
「うん、そうね。色々あったわね」
 沙代子さんはそう云って眼下に広がる下界の風景に視線を馳せるのでありました。

 大学に近い大きな喫茶店の奥まった席で、御船さんは苛々しながら学生服の詰襟のホックを外すのでありました。
「お前、なんで辞めんだよ、合気道部?」
 御船さんがそう云った時、丁度注文したコーヒーが運ばれてくるのでありました。ウエイトレスが先ず御船さんと向かいあう席で俯いている沙代子さんの前に白いコーヒーカップを置き、それからゆっくりした動作で御船さんのカップをテーブルに載せるのでありました。ウエイトレスは一礼して去るのでありましたが、御船さんはウエイトレスの動作の間中、そのおっとりした動きがやけにもどかしくて、テーブルの上に置いた手の人差し指の腹で、テーブルの上をコツコツと苛立たしげに叩いているのでありました。
「なあ、沙代子、なんで辞めるんだよ?」
 御船さんはもう一度沙代子さんに詰め寄るような口調で聞くのでありました。沙代子さんは一度顔を上げたのでありますが、すぐにまた力なく項垂れるのでありました。
「黙ってないで、なんか云えよ」
 本当はこんな詰問口調で沙代子さんと話したくなんかないんだけどなと、御船さんは内心思っているのでありました。沙代子さんが仕方なくと云った感じで顔を起こすのでありました。沙代子さんの悲しそうな視線を顔に受けると御船さんは思わず動揺してしまうのでありましたが、それは体面上億尾にも出さないで沙代子さんを睨むのでありました。
「何時まで黙っていたって、仕方ないだろうが」
「なにを説明していいのか、それとも説明する必要なんかないのか」
 沙代子さんはそう云って視線を横に流して御船さんの目から逃れるのでありました。「あたし、よく判らないのよ」
(続)
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大きな栗の木の下で 7 [大きな栗の木の下で 1 創作]

 瞼を少し落として横目をする沙代子さんの表情を見た途端、御船さんの胸が熱くなるのでありました。沙代子さんの長い睫に、御船さんの視線が釘づけになるのでありました。沙代子さんの目がいきなり正面を向いて、彼女に自分のこの今のどぎまぎとした様子を見られでもしたらきまりが悪いなと思って、御船さんは椅子の背もたれにゆっくり上体を退避させて沙代子さんとの間合いをとるのでありました。
 三年生の時、夏合宿が終わって後期の稽古が始まったその日に沙代子さんは退部届を出したのでありました。四年生の幹部三人が色々と慰留したのでありましたが沙代子さんの退部の意志は固く、彼等に沙代子さんを翻意させることは出来ないのでありました。退部の理由を沙代子さんははっきりとは云わないのでありました。そこで高校時代から同級生であった御船さんに沙代子さんの真意を聞き質して、出来れば翻意させろと云う命が下るのでありました。
 御船さんは沙代子さんが退部届を出したと云うことに驚くのでありました。まったく意外でありました。それに大いにショックなのでありました。そう云えば合宿中になんとなく何時もより元気がないような風情は見受けられたのでありましたが、まさか退部まで考えているとは思いもよらなかったのでありました。御船さんは沙代子さんを喫茶店に呼び出すのでありました。
「合気道ばっかりやってることに、疲れたのよ。他にもやりたいことがあるし」
 沙代子さんが俯いた儘云うのでありました。
「なんだよ、他にやりたいことってのは?」
「それ、御船君に云わなければならないことなの?」
 そう云う沙代子さんの眉が寄せられて、御船さんを見る目の光にみるみる険しさが現れるのでありました。御船さんはたじろぐのでありありました。だめだ、自分には沙代子さんを説得出来ないと御船さんは思い知るのでありました。
「いやまあ、なんだ、小島先輩に聞いてこいって云われたからさ」
 御船さんはなんとか体裁を整えようと突っ慳貪にそう云うのでありましたが、しどろもどろになっている自分に気づいているのでありました。「それに、辞めます、はいそうですか、じゃあ、これまで一緒に稽古してきた同じ合気道部員として、余りに情けなさ過ぎやしないか?」
「それはそうかも、知れないけど。・・・」
 沙代子さんはそう呟くと余計深く俯くのでありました。御船さんは沙代子さんの旋毛を見ながら、彼女の合気道部員への誠意というものに訴えかけるのではなくて、自分と云う個人のためにこの儘部に残ってはくれないかと訴えたい衝動を懸命に堪えるのでありました。しかし沙代子さんが合気道部を辞める肝心の理由を自分に云おうとしないと云うことは、つまり自分と云う者が彼女の中で彼女の核心に近い処には居ないと云うことであろうから、そんな或る意味で自惚れたような科白を吐いたとしたら、間違いなく彼女の失笑を買うだけに終わるでありましょう。しかしその科白がここで放たれた時に纏うであろう印象とは別に、その言葉そのものは御船さんの全くの真意であったのでありました。
(続)
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大きな栗の木の下で 8 [大きな栗の木の下で 1 創作]

 御船さんは何時でも、沙代子さんの一番の理解者として在りたかったのでありました。いやもう少し正しく云うならば、沙代子さんに自分をそう思っていて貰いたかったのでありました。実際隠れてそう努めていたのでありました。それは沙代子さんの歓心を買いたいと云う下心であると云えば、確かにそれだけなのでありましょう。しかしどうしても沙代子さんに、そう見做されたかったのでありました。高校三年生の時からずっと、御船さんはそうなのでありました。極めて秘かに。
 だから大学受験で沙代子さんと自分が同じ志望校を受験すると判った時には、御船さんは小躍りして嬉しがったのでありました。志望学部は違っているから、高校のクラスメイトと云う程ではなくなるにしても、同じ大学なら沙代子さんとの繋がりが全く切れると云うことはなくなるわけでありましょうから。それが、全くひょんなことから(!)お互いに事前に示しあわせたわけでもないのに、大学で二人共同じ合気道部に所属することになったと知れた時には、御船さんは目が眩む程喜んだのでありました。これも、極めて秘かにと云うことではありますが。
「ご免ね、御船君」
 沙代子さんが俯いて目を上げない儘云うのでありました。「理由は、他にやりたいことがあるってこと以外、云いたくないの」
 御船さんは沙代子さんのそのか細い声を聞きながら、体中の力が座っている椅子に吸い取られて仕舞うような気がするのでありました。御船さんの眉間に苦渋の皺が一本深く刻まれるのでありましたが、それを沙代子さんに見せないために御船さんは横を向くのでありました。尤も、沙代子さんは俯いた儘で御船さんの顔を見ようとはしないのでありましたから、御船さんの深い皺は沙代子さんに見られる心配などなかったでありましょうが。
 結局自分は沙代子さんにとってその程度の人間なのだと、今はっきり、沙代子さんの弁明すらしようとしない、頑なな態度によって宣されたのだと御船さんは思うのでありました。高校時代から秘かに自分の心の中を軽やかに闊歩し、伸びやかに跳ね、なよやかに身を翻しながらそこの大半の地所を占有し続けていた沙代子さんの像に比べれば、沙代子さんの中の自分の像と云うものは如何にも矮小な木偶人形のようなものでしかなかったろうし、今以ってそれ以上の大きさになってはいないのでありましょう。それでも構わないとずっと思いなしてきたはずではありましたが、御船さんはそれでも脱力感で、目の前にあるコーヒーカップを取り上げる力も湧いてこないのでありました。
「判ったよ」
 互いにそっぽを向いた儘の長い重苦しい時間に終止符を打つために、御船さんはぶっきらぼうに云い放つのでありました。「何も話したくないのなら、これ以上ここで顔を突きあわせていても、何にもならないな」
 そう云いながら、二人共相手の方を見ないようにしていたのだから、別に顔を突きあわせていたわけでもないかと御船さんは思うのでありました。そんなこと、別にどうでも良いことではありましたが。それにしても、自分がこんな冷え々々とした口調を沙代子さんに対して使っていることに、無船さんは耐えられないくらい悲しくなるのでありました。
(続)
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大きな栗の木の下で 9 [大きな栗の木の下で 1 創作]

 沙代子さんが目を上げるのでありました。
「本当に、ご免ね、御船君」
 沙代子さんは済まなさそうに御船さんを見るのでありましたが、結局沙代子さんは御船さんに対してご免ねと云うのみで合気道部を辞める明白な理由を提示しないし、それはそのことで、御船さんが自分をどう推測しようと構わないと思い定めているからなのでありましょう。沙代子さんのその言葉を、そう云う言葉であると御船さんは受け取るのでありました。こうして沙代子さんは御船さんの前に自分をきっぱり閉ざしたわけでありますから、もう万事休すだと御船さんは心の中で云い捨てるのでありました。
 沙代子さんが腹を割って相談してくれれば、御船さんは沙代子さんが合気道部を辞めることを非難も慰留もしないで、寧ろ沙代子さんのために出来るだけのことはしてあげる積りであったのに、挙句は最も残念な結果にたち至ったようでありました。御船さんは席を立つのでありました。膝がテーブルの隅に当たって、上に載っている二つのーヒーカップが煩く騒ぐのでありました。
「これ以上の話は無駄だろうし、沙代子も俺から早く解放されたいだろうから、もういいよ。小島先輩には適当に、今日の話の結果を報告しとくよ」
 御船さんはそう意ならぬ冷めたい調子で云って、テーブルの傍らに伏せてある会計伝票を取り上げるのでありました。沙代子さんも力なく立ち上がるのでありました。
 二人は喫茶店を出るとそこで別れるのでありました。沙代子さんは坂道の上に在る駅に向かって歩きだすのでありました。御船さんは一度もふり返らない沙代子さんの後ろ姿を、沙代子さんが人波に紛れるまで何時までも見送っているのでありましたが、その姿を見失うと、大学の方へ向かって坂を下って行くのでありました。

 海からの風が斜面を吹きあがって来て、公園の木蔭の中の御船さんと沙代子さんの前髪をまた乱すのでありました。沙代子さんは下界の風景からゆっくり目を離して、少し顎を上に向けて遠い空を見るのでありました。
「あたしが合気道部辞めた時さ、御船君、小島先輩になんか云われた?」
「いやあ、特には」
「小島先輩にあたしの慰留に失敗したこと、責められなかった?」
「うん、特には。ただ横に今福先輩が居て、なんか皮肉みたいなことを云われたよ」
「皮肉って?」
「いや、云われた言葉はもう忘れたけど、お前には影響力がないなとか、なんかそんな感じのことだったかな」
「影響力?」
「つまり、お前の気の力とやらも大したことないなあってそう云うことだろうな。ほら、俺がさ、日頃から合気道のことに関しては先輩も後輩も関係なく、なんか偉そうなご託をよく垂れていたからさ、それと絡めて皮肉られたんだろうな」
 御船さんはそう云って、すぐ傍の沙代子さんの横顔を見るのでありました。
(続)
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大きな栗の木の下で 10 [大きな栗の木の下で 1 創作]

「ふうん、そう」
 沙代子さんは口を引き結んで頷くのでありました。沙代子さんの唇が両端に小さな皺を刻んで昔と同じ可愛らしい、飛んでいるカモメの形を描いているのでありました。御船さんはどぎまぎとして、何故か慌て沙代子さんの唇から視線を外すのでありました。
「まあ、小島先輩は別に俺にどうこう云うことはなかったし、そうかご苦労さんなんてこと云って、それで終わりになったよ」
「なんかさ、あたしのことで御船君が、幹部に責められたりしなかったかって、ちょっと心配ではあったのよ」
「いくら体育会だからって云って、わけの判らないいちゃもんをつけて、下級生を虐めたりはしないさ。高校生じゃないんだからさ」
 海からの風に頭上の葉群れがさざめくのでありました。御船さんは空を見上げるのでありました。葉群れの際から見える空には線状に走る薄い雲が幾筋か、海の方へ向かって流れているのでありました。
「ちっとも、涼しくならないわね」
 沙代子さんが額に手の甲を当てながら云うのでありました。
「そうだなあ。もう彼岸も近いのになあ」
 御船さんは未だ空を見ながら返すのでありました。
「でも、考えたら、奇遇よね」
 沙代子さんも御船さんと同じように遠くの空を見ながら云うのでありました。
「奇遇って、詰まり、ここでこうして再会したことがか?」
 御船さんは沙代子さんの顔に視線を戻すのでありました。
「ううん。まあ、それも奇遇だけど、そうじゃなくて御船君とあたしが東京の同じ大学に行くことになって、合気道部で三年と少しだったけど、一緒だったてことがさ」
「まあ、確かにね」
「御船君と同じ大学を受験するってことは、前から知っていたんだけど、でもあたし、とても入れる自信なんか、実はなかったのよ、高校三年生の初めの頃は」
「俺もそんなに自信がある方じゃなかったけどさ。なんとなくちゃらちゃらしてて、あんまり真面目な受験生じゃなかったしな、俺は」
「御船君、あそこ第二志望だったんでしょう?」
「うん。でも第一志望も第二志望も本当はなくて、入れればどこでもよかったかな。兎に角俺としては親から離れて、東京で一人暮らしがしたかっただけだから」
「あたしはあの大学が第一志望だったのよ。だってあたしそんなに勉強、得意な方じゃなかったし。だから三年生の時は結構一生懸命受験勉強したの、これでも」
「ウチの高校から五人だったか、あそこの大学を受験したから、沙代子と一緒になるかも知れないことは、まあ、考えられることではあったけどさ、しかしまさか、大学で沙代子が合気道部に入るとは思いもしなかったよ。これこそ俺にしたら本当に、奇遇と云えばこれ程の奇遇はなかったかな」
(続)
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大きな栗の木の下で 11 [大きな栗の木の下で 1 創作]

 御船さんは眉をひょいと上げて、その時の驚きを沙代子さんに伝えるのでありました。
「何時だったか、高校三年の一学期だったかな、教室で御船君が神島君や鵜渡越君なんかと合気道の話しているのを、あたし実は後ろの席に居て聞いていたのよ」
 沙代子さんが云うのでありました。「確か昼休みだったと思うけど、珍しく御船君なんかが体育館にバスケットやりに行かないで、教室に残って話していた時かな」
「あれ、そんなことがあったっけ?」
「うん。三人が御船君の机で頭を寄せあってなんか熱心に話してたから、つい聞いちゃったの。あたしすぐ後ろの席で英語の参考書読んでいたんだけどさ」
「俺、それ、覚えてないなあ」
 御船さんが目線を上に向けて栗の木の葉群れを見るのは、その時の情景を思い出そうとしてのことでありました。「いや、その時の事は全く覚えていないや。まあ、あいつ等に合気道はすごいぞなんて云うことは、俺よく話してはいたけどさ」
「ところで、うちの高校じゃあ合気道部もなかったし、合気道なんて知っている人殆どいなかった筈なのに、御船君はなんで合気道のこと知ってたの?」
 沙代子さんが首を傾げながら聞くのでありました。可憐な仕草でありました。沙代子さんの傾げた側の髪が少し膨らむように動いて、小さな白い耳朶が覗くのでありました。
「柔道やっている従兄弟がいてさ、そいつが色んな武道の本とか持っていて、その中に合気道の本が何冊かあって、それをなんとなく見せて貰った時に、どうしたものか俺すごい興味が湧いたんだよ。その従兄弟も合気道と云うのは凄いらしいとか云うし。袴姿もなんか格好よかったし。そいで俺としてもそっち方面の本とか集めるようになってさ、それを読んでいる内に段々深みに嵌っていったって感じかな。まあ詰まり、俺は高校生の時、実は不届き千万にも受験勉強なんかそっち除けで、合気道関係の本ばっかり読んでいたって、そんなことを今ここで、期せずして沙代子に白状しているようなもんだな、こりゃあ」
 御船さんがそう云うと沙代子さんがクスッと笑うのでありました。
「御船君は体操部で鵜渡越君は剣道部で、神島君は確かラグビー部だったわよね?」
「そう。合気道とはあの二人も何の関係もない。でも俺の感化であいつ等も合気道のことに多少は興味が湧いてきたみたいだぜ。俺の話から、合気道の動きとか考え方が剣道にもラグビーにも、なにか遣えるところがありそうな気がしたんだろうな屹度。まあでも、あいつ等は合気道結局やらなかったみたいだけどな、大学に行っても」
 御船さんは沙代子さんの仄かに覗く耳朶を見ながら云うのでありました。
「あたしも、実は御船君に感化されたクチかな」
 沙代子さんが傾げていた首を真っすぐ起こしながら云うのでありました。沙代子さんの耳朶が髪の毛の中に隠れるのでありましたが、御船さんはそれを少し残念に思うのでありました。
「俺に感化されたクチ?」
「うん。だってあたし、英語の参考書の方にちっとも気持ちが向かないで、御船君が神島君と鵜渡越君に合気道のこと話しているの、なんとなくずっと聞いていたのよ、あの時」
(続)
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大きな栗の木の下で 12 [大きな栗の木の下で 1 創作]

「へえ、そうだったんだ。ちっとも知らなかった」
 御船さんは少し照れ笑いをしながら云うのでありました。あの頃は屹度、本から仕入れた壮大で玄妙な言葉を受け売りに、その意味も全く理解していないくせに、さも大したことめかして大袈裟に声高に喋っていたに違いなかったからでありました。今思えば全く以って赤面の至りであると御船さんは気恥ずかしくなるのでありました。
「一瞬で相手を吹っ飛ばすとか、力じゃなくてほとばしる気で相手を制するとか、愛と和合とか、天地自然の理とか、宇宙と一体とか、それから体じゃなくて気を錬るんだとか、無限の呼吸力とか、マサカツなんとかとか」
「正勝吾勝勝速」
「うん、それそれ。あたしも合気道やってたくせに、未だに意味も判らないけど」
「正勝吾勝勝速日天之忍穂耳命。元々は神話に出て来る神様の名前。邇邇芸命のお父さん」
 御船さんが云うと沙代子さんは眉根に皺を寄せて、困惑の表情をするのでありました。昔と同じにその沙代子さんの表情も、数ある印象的な沙代子さんの表情の中で、御船さんはとても好きな表情の一つなのでありました。
「ニニギノミコト、・・・?」
「まあ、いいや。兎に角そんなような言葉、確かに俺は捲し立てていたかな、あの頃」
「なんか意味とかそんなのは全然判らなかったけど、なんとなくそんな言葉がずうっと耳に残っていたのよ、あたし」
「ふうん。云っている俺がよく判らないで云っていたんだから、なんかそう云われると申しわけないような気分になるな」
 御船さんは頭を掻くのでありました。
「で、さ、大学生になってから友達もいないし、四年間打ちこめるものも欲しいって思ってさ、それで、合気道ってふっと思いついたの。まあ多分、同じ大学に高校の同級生だった御船君がいることもあってさ、御船君大学生になったら合気道部に入るって云ってたでしょう、そんならあたしもやろうかなって、そう思ったの。なんに依らず始める時に知りあいがいると、ほら、なんとなく心強いじゃない」
「それで合気道部に入ったと」
「うん、ざっと云うと、そんな感じ」
「今初めて聞いたな」
「あれ、前に合気道部の頃、こんな風なこと、話さなかったけ?」
「うん、聞いてないな」
「そうかな、あたし前に話したような気がするんだけど、違う人にだったかしら」
「俺は聞いてないよ」
「詰まんない話だと思って、忘れたんじゃない?」
「そんなことない。本当に今初めて聞くよ、それは」
 どんな仔細なことであるにしろ、御船さんは今までに交わした沙代子さんとのお喋りの中身を、自分が忘れる筈がないと思うのでありました。
(続)
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大きな栗の木の下で 13 [大きな栗の木の下で 1 創作]

「初稽古の時、あたしがそこにいて、御船君驚いたみたいだったわね?」
「うん、驚いた。まさか沙代子が合気道部に入るなんて、考えてもいなかったから」
 御船さんはその時の胸の高鳴りを思い出すのでありました。

 大学入学後、合気道部の初めての稽古は、キャンパス・ガイダンスと云う行事があらかた終わった四月半ばを少し過ぎた頃でありました。薄暗い大学記念館地下の部室の前に集合させられた新入部員は、些か緊張の面持ちで部室のドアが開いて上級生が出て来るのを待つのでありました。
 不意に背中を指で軽く小突かれたので、御船さんはゆっくりと後ろを振り返るのでありました。そこにまさか沙代子さんの顔があろうとは思いもしなかったものだから、御船さんは思わず小さな驚嘆の声を出すのでありました。沙代子さんは御船さんの顔を見ながら、白い綺麗な歯並びを見せて笑うのでありました。
「あれ、なんでお前がここにいるんだ?」
 御船さんの顔からは未だ驚きの色が失せないのでありました。
「あたしも、合気道部に入ったのよ」
 沙代子さんはそう云って肩をひょいと上げて見せるのでありました。
「お前が、・・・合気道部?」
「意外でしょう? でもあたし本当に入ったの」
 御船さんは次の言葉を失くすのでありました。この全く思いがけない、仰天すべき歓喜のために心臓が一際大きな鼓動を開始するのでありました。
 部室のドアが開かれるのでありました。上級生二人が出てきて、一人が腕時計を見ながら云うのでありました。
「集合時間だけど、新入部員は全員揃っているな」
 上級生は指をふり上げふり下げしながら、集まった新入生の頭数を勘定するのでありました。「よし男六名、女三名の都合九名、全員揃っているな」
 その後をもう一人の上級生が引き取って、集まった新入部員に告げるのでありました。
「会議室に行って、幹部との顔あわせとか、これからの活動のことやら諸注意やらをするから、一緒について来るように」
 上級生二人は黙って歩き出すのでありました。新入部員九名は同じく黙って、その後を少し間隔を取ってぞろぞろとついて行くのでありました。
 会議室と云うのは記念館地下に部室のある体育会のクラブが供用に使う部屋で、地下通路の一番奥にあるのでありました。上級生二人が先ず入って中の蛍光灯を点けるのでありましたが、部屋の広さに対して明度が決定的に不足していて、なんとなく陰鬱な雰囲気の部屋でありました。その陰鬱な暗さの中に、長机がコの字に置いてあって奥の壁にはパイプ椅子が十脚程纏めて立てかけてあるのでありました。床のリノリウムのタイルは半分程が剥がれていたり欠けていたりしているのでありました。壁も全体にくすんでいて、所々ペンキが剥がれて、しかも大きな薄汚れた染みが幾つも浮いているのでありました。
(続)
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大きな栗の木の下で 14 [大きな栗の木の下で 1 創作]

 正面奥の壁には大きな黒板がかかっていて、それには各クラブの会議室の使用予定が、如何にも読みにくそうな字で乱雑に書きなぐってあるのでありました。この黒板がこの部屋の唯一の装飾品なのでありました。
 上級生二人は奥の長机にパイプ椅子を三脚並べるのでありました。特に椅子を出せとも指示されないものだから、新入部員九名は入口を入ったすぐ横手の壁際に並んで立って、上級生の動きを黙って見ているのでありました。
 暫くすると学生服姿の二人と紺色のスーツを着た一人が、無愛想な面持ちで部屋に入って来るのでありました。新入部員を連れてきた先の二人が、三人に向かって上体をぴんと伸ばした儘腰を折る固い礼をしながら「押忍!」と声を発するのでありました。どうやらこの三人が幹部のようであります。
 三人は奥の長机に並んで腰かけるのでありました。部屋のドアがノックされて、黒いスーツ姿の部員と思しき女性が「失礼します」とこれも固い一礼をして入って来て、持っていた盆の上の茶を、座った三人の前に丁重に置くのでありました。座った三人から見て、左側の壁に沿って新入部員が、右側の壁に沿って件の二人の男子学生と、今茶を持ってきた女子学生が居並ぶのでありました。
 スーツ姿の中年の男が合気道部OB会長で、その右横に座る背の高いがっしりとした体格の学生服の男が四年生の合気道部主将、左横の華奢な体格の嫌に老けた顔の男が同じく四年生の副将でありました。三人は夫々自己紹介と簡単な挨拶をするのでありましたが、右手の壁に居並ぶ上級生三人は各幹部の挨拶の前と後に、揃って「押忍!」と声を上げて揃って礼をするのでありました。こりゃあ如何にも体育会的な雰囲気だと思って、御船さんはやや気押されて緊張の面持ちで、列の真ん中辺りに立ってこの場面に臨んでいるのでありました。
 新入部員は幹部の真ん前に一人々々立って、大声で名前と所属の学部学課、出身地、それから「宜しくお願い致します」の一言を大声で云わされるのでありました。この顔あわせが済むと幹部三人は退出するのでありました。後は残った上級生が新入部員を男女に分けて、合気道部の伝統的風習についてとか、服装から挨拶から、部員としての日常の心得やら仕来たりやら、それに稽古のスケジュールと稽古上の諸注意、当番制の部室の掃除のことや細々した雑用のこと等々教示するのでありました。要は詰まり、早く合気道部の活動に慣れろと、そう云う論旨でありましたか。この上級生三人は何れも二年生で、新入部員の纏め役兼お世話係の役目を仰せつかっているのでありました。
 新入部員はこの後体育棟の道場で、その日の合気道部の稽古をずっと下座に正坐して見学させられるのでありました。稽古の終了時には全員足が痺れて暫く動けないでいるのでありました。それを先程顔あわせした主将が笑いながら、どうだ参ったかと云うような目で一瞥して部室の方へ引き上げて行くのでありました。お世話係の二年生がこの位のことで音を上げるなよと新入部員を叱咤するのでありましたが、まあ云わばこれは新入部員に対する最初の歓迎儀式のようなものでありましたか。御船さんは沙代子さんがこれでたじろいで仕舞って、早々に合気道部を辞めると云いださないかと心配するのでありました。
(続)
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大きな栗の木の下で 15 [大きな栗の木の下で 1 創作]

 しかし沙代子さんは意外にけろっとしているのであました。
 稽古後に部室の前で部員全員整列して主将、副将、それから顔あわせには来なかったけれど、四年生の主務やら幹事やらと云う役職の幹部連を送り出した後、その日は解散となるのでありました。帰りに御船さんはどちらから誘うともなく、沙代子さんと二人で大学の近くの定食屋に入って二人で食事をするのでありました。
「仰けから一時間半の正坐は参ったな。どうだい、早速辞めたくなっただろう合気道部?」
 御船さんは料理の注文が済んだ後、かなり本気の危惧を、そんな軽い感じの言葉にして口の端に上せるのでありました。
「ううん、あたしそんなにうんざりしなかったわよ、今日の正坐は」
「ほう。俺はうんざりだったぜ。これからしょっちゅうあんなに長く正坐なんかさせられるのは、勘弁してもらいたいけどなあ、全く」
「あたし皆の手前、すぐに立てないふりしてたけど、本当は足もそんなに痺れてなくて、立とうと思えばなんてことなく立てたわよ」
「へえ、お前、正坐、慣れてんの?」
「うん、子供の頃から家ではずっと正坐だったし」
「ふうん、大したものだな。あの、応援団みたいに一々、大声で押忍々々云うのはどうだ、なんかちょっと抵抗とかないか?」
「まあ、体育会だからあんなもんじゃないの。慣れたらあんまり気にならなくなると思う」
 沙代子さんは水を一口飲むのでありました。「でも、押忍って便利な言葉よね。なに云われてもそう云っていれば済むみたいだし。『今日は暑いな』『押忍!』『でも朝は冷えるな』『押忍!』『お前は寒くないのか?』『押忍!』『暑いのか?』『押忍!』『どっちなんだ?』『押忍!』『お前は押忍しか云えないのか?』『押忍!』」
 沙代子さんはそう云って口に手を当てて可笑しそうに笑うのでありました。
「お前、見かけに依らず豪胆なんだな。なんか尊敬しちゃうなあ」
「押忍!」
 沙代子さんはおどけて敬礼して見せるのでありました。どうやら沙代子さんが合気道部の雰囲気に然程たじろいでもいないようなので、御船さんは安心するのでありました。
 実は寧ろ、御船さんの方が少々うんざりしているのでありました。御船さんは合気道そのものをやりたくて合気道部に入ったのでありましたが、しかし入部したからには、合気道にだけ専念すれば済むと云うわけにはいかないようなのでありました。部の活動上一年生は一年生の、上級生には上級生の合気道以外の仕事分担があって、御船さんにはそれがいかにも面倒に思われるのでありました。それに上級生下級生の間の口のきき方やらなにやらの、細々とした礼式も如何にも煩わしそうに思えるのでありました。

 下界からの風がまた、高台にある栗の古木の葉とその下の蔭を揺らすのでありました。
「沙代子が合気道部に入ったのもそうだけど、初稽古の後、あの一時間半の正坐も、体育会の殺伐とした雰囲気にもお前がそんなにめげていないのに、実は俺はもっと驚いたけど」
(続)
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大きな栗の木の下で 16 [大きな栗の木の下で 1 創作]

 御船さんは風に乱された前髪を指で梳きながら云うのでありました。「沙代子はもっと線の細い、華奢な心根のヤツだと高校生の頃からずっと思っていたけど、意外に俺なんかより図太いところがあるって、そう思ってさ。お見逸れ致しましたって感じだったぜ」
「一応、褒め言葉だと思って聞いておくね、それ」
「いや、正真正銘の褒め言葉だって、頼もしいって云う」
「なんか、がさつでふてぶてしいって云われてる気が、ちょっとするからさ」
「なにを仰いますやら。生一本の褒め言葉だよ」
 御船さんがそう云って指を一本立てて見せるのは、御船さんとしてはつまり、生一本の表象としての一本指なのでありました。
「でも、あの時、ふり返った御船君の驚いた顔、今でも思い出すわ」
「そのあの時と云うのは、会議室に行く前に部室の外に集合した時のことだな?」
「うんそう。話は全くの最初に戻るけど」
 沙代子さんが目を少し細めて御船さんの顔を見るのは、話を急に前に戻したことへの恐縮が多少あったためでありましょうか。「あたしが背中を叩いて合図するまで、あたしがいることに全く気づかなかったの?」
「うん、気づかなかった。記念館の地下に行ったら奥の方で学生が屯していて、その前の部屋に合気道部って表札がかけてあって、ああここだなってそれだけ思ってさ。他にどんなヤツがいるかなんて、そっちには特に気が向かなかったんだよ、あの時は。第一、沙代子がそこにいるなんて考えすらしなかったから」
「御船君あの時、あたしの顔を見てこんな顔したのよ」
 沙代子さんはそう云って、目を剥いて眉根を寄せて、口をへの字にして見せるのでありました。「あたしがそこにいたのが、如何にも迷惑だって感じの険しそうな顔」
 沙代子さんのその大袈裟に作った表情も、とても可愛いらしい表情であると御船さんは秘かに思ってその顔を見ているのでありました。
「いや、迷惑とか云うんじゃなかったけどさ。ただ、本当に魂消たんだよ。そう云う時って、なんか思わず険しそうな顔になるんじゃないのかな、そんな了見は毛頭なくても」
 御船さんはその時の息の詰まるような気分が、またもや頭の中に蘇るのでありました。それは心臓のすぐ横で衝撃とか驚嘆とか歓喜とか動揺とか怯懦とか高揚とかが、破れかぶれに綯交ぜに絡みあったようなものであり、そう云ったちょっと自分でも始末に困るような一瞬の取り乱しを、最も見せたくない人に思わず見せて仕舞ったかも知れないと云うたじろぎでありました。だから竟、一見すると険しい表情のようになったのであります。実は綯交ぜの中でも、歓喜が一番大きな地所を占めていると云うのに。
 御船さんは会議室で幹部の挨拶を聞いている時も、自己紹介している時も、その後の稽古見学で正坐の苦痛に足が唸り声を上げている間も、稽古後に沙代子さんと食事していた時すらも、沙代子さんが合気道部に入ってくれたと云うその事実に完全にいかれて仕舞っていたのでありました。実は総てがしどろもどろであり、苦痛を苦痛として感じる感覚経路の大部分が混線し、その日の最後まで情けない程うわの空の状態でいたのでありました。
(続)
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大きな栗の木の下で 17 [大きな栗の木の下で 1 創作]

 初稽古から帰って、寝しなに布団の中で御船さんは甘やかに考えるのでありました。沙代子さんはひょっとしたら、自分を慕って合気道部に入ったのではなかろうかと。今まで自分の一方的で密やかな沙代子さんへの恋慕であろうと思いなしていたものが、実は沙代子さんの方にも、少ならず自分を恋う気持ちがあったのかも知れないのであります。
 高校生の頃、大学に入ったら合気道を始めようと御船さんが決意していると云うことは、一部の同級生の間では周知の事実であったし、沙代子さんもそれを知っていたのでありました。だから、同じ大学に通うことになった沙代子さんは、これぞ、御船さんにもっと接近するチャンスと考えて、そのなんたるかもよく知りもしない合気道部に所属しようとしたのであります。これは、余りに事象を都合よく解釈し過ぎているでありましょうか。いやいや、案外、正鵠を得た観測かも知れません。しかし、いや、待て、・・・。
 御船さんはその夜、興奮の冷めやらぬ頭でそんなことばかりを考えながら、何時までも布団の中で寝返りを打っているのでありました。だから次の日は当然、すっかり寝不足になったのでありました。
「ま、確かにあたしが合気道部に入るなんて、御船君は考えもしなかったでしょうね。あたしだって、高校の卒業式までは、そんなこと考えもしなかったんだから」
 沙代子さんが、未だに夏のような日差しに明るく輝いている遠くの海に目線を投げながら云うのでありました。
「でも本当のところ、沙代子はなんで合気道部に入ろうなんて了見を起したんだ?」
 御船さんがそう聞くと、沙代子さんは木蔭の中の御船さんの顔に視線を戻すのでありました。その目は未だ眩しそうに細められた儘なのでありました。
「さっきも云ったように四年間、なんか打ちこめるものが欲しかったからよ」
「しかしそれなら、合気道じゃなくても別に良かっただろうに」
「だから、御船君の言葉がずっと頭に残っていたから」
「でも、なんか未だそれだけでは唐突な感じが拭えないなあ。沙代子が合気道を選ぶ必然性みたいなものが、もう一つピンとこないや」
「ほら、合気道って剣道とか薙刀とか居合とか、他の武道と違って、稽古着だけ買えばそれで済むじゃない。安上がりだしさ」
「そんなら、柔道でも空手でもよかったことになるぜ。その方が後で袴代もかからなくて、もっと安上がりじゃないか。だからさ、今のその理由もなんとなく取ってつけたような感じで、成程と思わせるものが今一つ足りないんだな、なんか」
「あたしこれでも一応は、合気道について少しは調べたのよ、本読んだりして。他の武道よりも、女の子にも取つき易そうな気がしたのよ、合気道は」
「でもそれなら、テニスとかゴルフとか、いやゴルフは金がかかるか。・・・まあしかし、なんかそんなようなものでも良いわけじゃないか。しかも体育会のクラブじゃなくて、同好会みたいなものなら、もっと取つき易かっただろうに」
「でも、やるからには、なんか覚悟みたいなものも欲しかったの。体育会のクラブの方が、ちょっと厳しそうな感じだからさ、そっちの方が良いかなって考えて」
(続)
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大きな栗の木の下で 18 [大きな栗の木の下で 1 創作]

「そりゃそうかも知れないけど、なんか未だ今一つピンとこないなあ、それだけでは」
 御船さんは首を傾げた儘でいるのでありました。要は、自分を慕って合気道部に入ったのだと云う沙代子さんの言葉が欲しくて、こうもしつこくその辺りを聞き質しているんだろうなと、御船さんは傾げた頭の下になった辺りで考えるのでありました。
「困ったなあ。ほんとうにそう云う理由から、あたしは合気道部に入ったんだから。・・・」
 沙代子さんも首を傾げて御船さんを見るのでありました。「御船君みたいに、合気道にぞっこん惚れこんで入ったわけじゃないところが、御船君には不満なのかな?」
「いや別に、不満とかそういうんじゃないんだけど、ちょっとばかりそこいら辺がずうっと謎と云えば謎だったからさ、俺としては」
「ま、でも結局あたし、三年間しか合気道やらなかったけどさ」
 沙代子さんはそう云ってまたゆっくりと遠く海の方を見るのでありました。それはなにやら御船さんに対する申しわけなさと云うのか気まずさと云うのか、そう云うもののために沙代子さんが視線を外した風にも御船さんには見えるのでありました。まあ、沙代子さんは自分の判断で退部したのでありますし、御船さんが沙代子さんを強く合気道部に誘ったわけでも全くないのでありましたから、殊更それを気に病む義理は何処にもないのであります。二人の間の空気がなんとなく急に、妙にしめやかになるのでありました。
「そう云えば辞め方の方は、なんか唐突だったからちょっと困惑したよ、俺は」
「そうよね。御船君には喫茶店に呼び出されて慰留されたしね。まあ、次期主将か副将候補の御船君としては、幹部に慰留して来いってそう指示されたから、一応仕事上あたしを慰留しなければならなかったんだろうけどさ」
 沙代子さんはそう云った後、急に御船さんの方に顔を向けて悪戯っぽい微笑を投げるのでありました。「ねえねえ、でもさ、御船君自身は、寂しかった、それともそんなでもなかった、あたしが突然合気道部を辞めたことが?」
 今度は御船さんが海の方を向く番でありました。
「なんか、せっかく入学以来頑張っていたのにと思って、ちょっとがっかりしたかな」
 ちょっとがっかりしたどころじゃなくて、それこそ陳腐な表現ながら、奈落へ突き落されたくらいの衝撃を受けたと云うのが正確なところなのでありましたが、それは今、沙代子さんに表明する必要はなかろうと御船さんは思うのでありました。
「あたしのことなんか全然眼中になくて、何時も合気道のことばっかり考えていると思っていたけど、そうすると少しは、あたしのことも気にしてくれていたんだ、御船君」
「そりゃそうさ、一応高校の頃からの同級生なんだし」
 御船さんはそう云って沙代子さんの方に顔を戻そうかと思うのでありましたが、なにやら今の言葉以上に、自分の様々な思いに溢れた表情を沙代子さんに見せて仕舞いそうな気がして、御船さんは海の方に顔を向けた儘にしているのでありました。

 沙代子さんが合気道部を辞めた本当の理由を、御船さんは後に人づてに知るのでありました。それは御船さんにとっては、耐えられないくらい衝撃的なものなのでありました。
(続)
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大きな栗の木の下で 19 [大きな栗の木の下で 1 創作]

 沙代子さんは同じ文学部地理学科の同級生の男と何時も一緒にいるところを、合気道部の同期の女子部員に頻繁に目撃されているのでありました。沙代子さんはその男と如何にも仲睦まじそうに寄り添っていると云うのであります。
 四年生になって主将となった御船さんが、同じ師範から指導を受けている五大学合同演武大会の打ちあわせのために、部室で渉外係りの女子部員二人と一緒に居る時、なにかの折りの雑談として沙代子さんの消息をその同期の女子部員から聞くのでありました。
「ねえねえ、知ってる、沙代子のこと?」
 その赤崎と云う名前の女子部員は、メモ帳を見ている御船さんに話しかけるのでありました。沙代子さんの名前が不意に出たものだから、御船さんはメモ帳から目を離して赤崎さんの顔を見るのでありました。
「沙代子のことって?」
「ほら、三年生で合気道部辞めた、同期の沙代子よ。御船君と同じ出身高校の」
「そりゃ判ってるよ。他に沙代子なんて名前のヤツを俺は知らないし」
 御船さんは「沙代子」と云う名前を聞けば誰のことかすぐにピンとくるに決まっているのに、そんな云わでもがなの説明を態々する赤崎さんの了見を測り難く思って、少々疎ましく思うのでありました。
「沙代子さ、地理学科の同じクラスの男と、半同棲してるんだってよ」
「半同棲?」
「そうそう。その男、何時も沙代子のアパートに入り浸っているんだって。学校にも何時も二人一緒に来るんだってさ」
 赤崎さんはそう云いながら、一方の口の端を少し釣り上げた笑いを浮かべて御船さんの顔を大きな目で覗きこむのでありましたが、それはその情報に接した御船さんがどの様な反応をするのか、興味津々に窺っているといった感じの表情なのでありました。
「へえ、そうなんだ。初めて聞いた」
 御船さんは内心の動揺を押し隠して努めて冷静な口調で、殊更その話題に対して強い興味を示さない風の語調で云うのでありました。
「沙代子先輩のことは、学課内でも結構有名ですよ」
 もう一人の渉外係の女子部員で、一級下になる日野と云う名の子が横から話に参加するのでありました。「あたしも沙代子先輩と同じ学課だけど、学年違いのあたしなんかが知ってるくらいだから」
「ふうん。しかし全学的な評判は立っていないわけだな、経済学部の俺は全く知らなかったんだから。まあ、文学部地理学科は一学年五十人くらいの小さい世帯だから、ちっと目立つことすると、すぐに皆に知れ渡るんだろうけどな」
「御船先輩は同じ高校の出身だから、とっくに知っているかと思っていましたけど」
「いやあ、俺ん処の高校から五人ばかりこの大学に来ているけど、でも学部が違うともう殆ど交流なんかないし、アイツが合気道部辞めた後は、俺は顔も見ないよ」
 御船さんはそう悠長に云って、如何にも落ち着きはらった様子を演じるのでありました。
(続)
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大きな栗の木の下で 20 [大きな栗の木の下で 1 創作]

「御船君は高校の同級生だから色々情報が入ると思っていたし、沙代子が辞めた後も沙代子のこと、随分気にしているって思っていたけどなあ」
 赤崎さんがそう云って目を細めて口の端に笑いを作って云うのは、なにやら含むところがあるのを態々御船さんに仄めかすための仕草のようでありましたが、御船さんはそれを無視して極力無表情に徹しているのでありました。
「いや、情報なんてなにも入らないよ」
 この言葉の後に、自分の方には情報を取ろうと云う気も義理も全然ないからと続けようとしたのでありましたが、それを態々つけ足すと、返ってなにやら赤崎さんに余計な憶測の材料を提供することになりそうなので、御船さんはその言葉を口に上せるのを取り止めるのでありました。
「その、沙代子先輩がつきあっている人って、結構有名人なんですよ。だから、色々評判が立ったりするわけですよ」
 日野さんが云うのでありました。
「有名人?」
「そうそう。あたしも前から知っているもん」
 赤崎さんが横から頷くのでありました。
「フォーク歌手なんですよ、その人」
「フォーク歌手?」
 御船さんは首を傾げるのでありました。「学生じゃないのか?」
「学生でフォーク歌手」
 日野さんがそう云う後を受けて、赤崎さんが説明するのでありました。
「ウチの大学の学生なんだけどさ、高校生の頃から路上ライブとかずっとやってて、結構そっちの方面で有名になって、あっちこっちの大学の学園祭とかに引っ張りだこなのよ。話によると、もうすぐプロデビューするんだって。レコードとかも出して」
「確かにすごく歌上手いんですよ、その人。学園祭の時聴いたけど、うっとりしちゃいましたもん。歌詞も物語性があって、感情の機微をうまく表現していて、繊細な感じで」
 日野さんはその時の情景を思い出して、両手で自分の胸を抱いて、恍惚の表情を作りながら目線を中空に投げて見せるのでありました。
「ふうん。そんなヤツのことなんか、俺はちっとも知らなかったけど」
「ま、御船君の頭の中は合気道のことばっかりで、大体脳ミソが無骨に出来上がっているから、音楽とかには丸きり鈍感だろうって云うのは、顔を見ていて想像出来るけどね」
 赤崎さんはそう云って、御船さんを如何にも小馬鹿にするように、下唇を突き出して見せるのでありました。
「俺だって、偶には音楽くらい聞くぜ。これでなかなか、無骨一辺倒と云うわけでもない」
「なに、演歌とか聞くわけ?」
「違うよ、そんなんじゃ」
 御船さんは語気強く否定するのでありました。
(続)
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大きな栗の木の下で 21 [大きな栗の木の下で 1 創作]

「そうね、演歌って感じじゃないか。どっちかって云うと軍歌か」
「それも違うぜ、全然」
「御船先輩はどんな音楽、聞くんですか?」
 日野さんが興味津々といった顔で聞くのでありました。
「フォークなんかも聞くし、ま、色々」
「ギターとかやります?」
「簡単なコード位は抑えられるよ」
「へえ、意外だ」
 日野さんは両眉を上げて目を見開くのでありました。
「いや、俺の話じゃなくて、その地理学科のフォーク歌手の話だろう、今は。で、そいつと沙代子がつきあっているんだ」
 御船さんはわけもなくなにやら苛々とし始めるのでありましたが、それは努めて気色には表わさずに云うのでありました。
「そう。その男、名前は矢岳って云うんだけど、沙代子に猛アタックかけて、それでつきあいだしたんだって二人は」
 赤崎さんが続きを話すのでありました。
「沙代子はどっちかって云うと、そう云う連中にはあんまり興味がないタイプだと思ていたけどなあ俺は、高校の頃からずっと」
「だからクールな感じの矢岳君に猛烈に云い寄られて、意表を突かれてついふらっとしたんじゃないの? 沙代子にはそんなタイプに対する免疫が、全然なかっただろうからさ」
「ふうん、成程ね」
 御船さんはそう云ってほんの少し俯くのでありました。「それで、具体的にはどんな感じのヤツなんだ、その矢岳ってヤツは?」
「具体的とか云われても。・・・そうね確かに背が高くてハンサムで、髪が長くて足も長くて、お尻が小さくて、ベルボトムのジーパンと五センチ位の黒いヒールなんか履いていて、・・・」
「目がすごく印象的ですよ、色っぽいし」
 日野さんが後を受けるのでありました。「なんか目線が強いって云うのか、見られるとどぎまぎしちゃいますもん、あたし。尤もあたしは、学園祭のコンサートで客席の前の方から見上げていただけなんですけど」
「ファンがいっぱいいるのよ、ウチの大学の中だけでも」
 赤崎さんが云うのでありました。
「そんで、赤崎もファンの一人か?」
「あたしは違うわよ、あたしはどちらかって云うと筋肉モリモリ型が好きだし」
「ウチの合気道部には筋肉モリモリ型はいないな」
「そうね。あたしは空手部の愛宕君みたいな方がタイプかな」
「ああ、あの何時も妙に張り切っているヤツか。ふうん、へえ、そうなんだ。それは知らなかった。いやところで、その矢岳ってヤツの話だ、今は」
(続)
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大きな栗の木の下で 22 [大きな栗の木の下で 1 創作]

 御船さんが矢岳と云う男のことに話を戻すのでありました。「フォーク歌手なら、ファンを大事にしなきゃならんのだろうに、特定の女とつきあったりしていると、大切なファンが怒るんじゃないのかね?」
「でも、そう云うのって情熱的な人に見えるから、逆にそれでまた大勢、ハートがキュンとする女の子が居るんじゃない? その辺はちゃんと判っていて、それで敢えてって云うか、結構安心して、気儘にそんな行動とってるんじゃないかしら、矢岳君としても」
「ああ、成程ね。そうかも知れんし、そうじゃないかも知れんが」
「でも確かに、クールだと思っていたのに、思いつめたら一途に突っ走るんだって、そんな意外性があるとしたら、ちょっとあたしも、胸の底がざわざわする感じがしますもん。まあ、アイドルとかじゃなくてフォークシンガーだから、それもオーケーでしょ」
 日野さんがまた自分の胸を両手で抱くような仕草をして見せるのでありました。
 実にいけ好かない野郎だと、御船さんは思うのでありました。まあ、その矢岳と云う男には会ったこともないのでありましたが、男前で見栄の良い自分の利点をちゃんと自覚していて、それが人にどのような印象を与えるかもちゃんと弁えていて、それを最大限利用して人の気持ちの機微に巧妙につけ入ってくるその生来の抜け目なさのようなものに、御船さんはムカムカと腹を立てるのでありました。それにその行動に人がどのような感触を持つかをも予めちゃんと計量済みだと云う傲慢さからしても、御船さんは唾棄に値する輩に違いないと推量するのでありました。屹度他人を無礼きったヤツであります。
 尤も、これは赤崎さんと日野さんの話だけに依っての印象でありますから、矢岳と云う男の実像をちゃんと捉えてはいないかも知れないと云うことは、御船さんとしては一応考慮してはいるのでありました。しかし兎に角、いけ好かない野郎であります。大体、沙代子さんの心を捉えたと云うその時点で何より、性格とかどんなタイプの男かと云う以前に、御船さんは矢岳と云う男に既に激しく敵愾心を抱くのではありましたが。

 栗の木蔭のすぐ外に、白い中に所々黒い斑点のある小さな鳥が一羽舞い下りるのでありました。その鳥は木蔭の中に居る御船さんと沙代子さんにはまるで気づかないように、蔭の縁辺りを歩き回りながら地面を嘴で忙しなく突いているのでありました。
 そうしながら、鳥は木蔭の中に入ってくるのでありました。するとそこで急に、蔭の中に居る二人の姿に気づいたと云う風に顔を上げて、首を傾げたり小刻みに横に動かしたりしながら暫く二人を見ているのでありました。
「ところでさあ、沙代子は、なんでまたこの公園に来たんだ?」
 御船さんがそう云うと、白い鳥は慌てて蔭の中から中空に飛び去るのでありました。
「うん、このすぐ下の団地に祖母が住んでいて、そこにちょっと用事で来た序でにね」
 木蔭の中には、また御船さんと沙代子さんだけが残るのでありました。海からの風が公園まで吹きあがってきて、栗の木の葉群れを騒がせるのでありました。
「でも、どう云う気紛れで、態々この公園まで上がって来たんだ?」
 御船さんが尚も聞くのでありました。
(続)
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大きな栗の木の下で 23 [大きな栗の木の下で 1 創作]

「御船君の姿がこの木の下に見えたからよ、道から見上げたら」
「下の道から、よく俺と判ったな」
「なんとなくそうかなって思ってさ」
「俺はこんなに痩せて、前とは風貌もすっかり変わっているって云うのに」
「でも、なんとなく雰囲気で判ったのよ。御船君の雰囲気」
「ふうん、そんなもんかねえ」
「だから、急にすごく懐かしくなってさ」
 御船さんは遠目に見ただけで沙代子さんがすぐに自分と判ってくれたことが、満更嬉しくなくもないのでありました。
「お祖母さんの家は、しょっちゅう来たりするの?」
「うんそうね。お祖母ちゃんには、ウチの子が可愛がってもらっているから」
 沙代子さんはそう云って御船さんに微笑むのでありましたが、その笑みにはどこか屈託の翳りがあるように見えるのでありました。
 御船さんは沙代子さんに子供があることは既に知っているのでありました。それは同窓会かなにかで、高校時代の同級生の女子から聞いたことだったでありましょうか。
「じゃあ、お祖母さんの家に遊びに来ていた子供を迎えに来たとかかな、今日は?」
「ううん、そうじゃないけど。第一今日は水曜日でしょう。ウチの子は学校だもん」
「え、もう学校に行ってるんだ?」
「そう。小学校の二年生」
「へえ、そんなに大きいんだ」
 御船さんはそう云いながら沙代子さんがその子を産んだ歳を逆算するのでありました。大学を出て間もなく沙代子さんは子供を産んだことになるわけでありましたから、その子は当然、当時つきあっていたあの矢岳と云う名の地理学科のフォーク歌手の子供なのでありましょう。そう思うと御船さんはなんとなく胸の奥に、かさかさと乾燥した風が吹き当たってくるような気がするのでありました。
 二人が少しの間黙るのは、御船さんも沙代子さんもその子の父親のことを思い浮かべているからでありましょう。このなんとなく重苦しい沈黙から推し測って、御船さんは無神経にその子の父親のことに話頭を移すことを憚るのでありました。それは沙代子さんには屹度、触れてほしくない機微に属する話題に違いないのでありましょうから。
「沙代子は今、働いているのか?」
 御船さんは少し不自然に長い沈黙に遂に耐えかねたものだから、沙代子さんにそんな話をふり向けるのでありました。
「うん、働いているよ」
「水曜日が休みの仕事か、それは?」
「そうじゃないけど、今日は有給休暇貰ったの。ここのところずっと、お祖母ちゃんが体の調子を崩しているから、そのお見舞いのためにね。で、今はその帰り」
 沙代子さんはその日、自分が何故ここに姿を現したのかを説明するのでありました。
(続)
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大きな栗の木の下で 24 [大きな栗の木の下で 1 創作]

「なんの仕事しているんだい、沙代子は?」
 御船さんが聞くのでありました。
「小さな測量会社で働いているの」
「と云うと、なんかヘルメット被って長い棒持って、道端に立ったりする仕事か?」
「あたしはそれはやらないけどね。まあ、事務とか、調製図の編集とか」
「調製図って?」
「ほら、周りに色んな広告の載った町内の住宅案内地図とか、災害時の避難所の一覧地図とかあるでしょう、そういう特定の目的のために調製した地図よ」
「ああ、なんかちょこちょこ見たことがあるかな、そんなやつ」
 御船さんは頷くのでありました。「あれを作っているのか、沙代子が?」
「まあ、その編集作業よ、細々した」
 沙代子さんはそう云って微笑むのでありましたが、それはそれだけの説明では自分のしている仕事の内容が、御船さんにちゃんと伝わらないだろうなと云うもどかしさと云うのか諦めと云うのか、そんな風の力のない笑みなのでありました。確かに御船さんは沙代子さんの仕事の内容については今一つ明確には判らないのでありましたが、しかしまあ、測量会社に勤めていると云うそれだけ聴けば、ほぼ満足する回答なのでありました。
「じゃあ、土日が休みで、その他の日は朝九時から夕方五時までの仕事と云うわけだな」
「うん、原則ね。残業とか偶に休日出勤とかあるけど」
「まあ、そういうのは、どんな仕事でもつきものだろうさ」
「御船君は?」
 今度は沙代子さんが聞くのでありました。
「俺は、市役所」
「ああ、公務員?」
「環境保全課って云うところにいるよ」
 御船さんはそう云った後で、「いる」ではなくて「いた」と云うべきかとも考えるのでありました。しかし長期休職中とは云え未だ一応自分の籍はそこにあることになっているわけだから、その云い方で問題はないかとも思うのでありました。しかしこの儘いけば数ヵ月後には失職と云うことになるのだなあと、御船さんは改めて思うのでありました。
「今は病気療養中で、仕事は休んでいるの?」
「そうね、休職中だよ。未だ俺の体は仕事に耐えられないだろうから。来年の一月までは休めるんだよ、市の規定でさ。今は病院通いが仕事みたいな感じかな」
「ふうん。一月までに体を元に戻す、今は途中ってわけね」
「ま、そう云うこと。リハビリの積りでこうして時々外を歩いたりしているんだよ。あんまり意欲的にやっているんじゃないけど。なんかすっかり怠け者になっちゃってさ」
「御船君、結婚はしているの?」
 沙代子さんがいきなりそんなことを聞くものだから、御船さんは吐こうとした息を喉の奥につまらせて噎せそうになるのでありました。
(続)
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大きな栗の木の下で 25 [大きな栗の木の下で 1 創作]

「いいや、未だしていないよ」
 一つ咳をしてから、御船さんは応えるのでありました。
「若し奥さんとか子供さんが居たら、御船君、気持ちが大変かなって思ってさ」
「いや、俺は独身の気楽な身だから、そんな気患いはないよ」
「ふうん」
 沙代子さんは海の方を見るのでありました。風が吹きあがってきて木蔭の中の沙代子さんの前髪を泳がせるのでありました。御船さんはそんな沙代子さんの横顔を遠慮がちに見ているのでありました。見蕩れて仕舞いそうでありました。
「でも、ところで、決まった彼女とか、いるんでしょう?」
 沙代子さんが御船さんの方に顔を戻すのでありました。御船さんは慌てて目を逸らそうとしたのでありましたが、一瞬の機を逸して仕舞って沙代子さんと視線がかちあうのでありました。屹度沙代子さんに、自分の瞬間たじろいだ目の色を見られたに違いないと思うのでありました。しかしこれから目線を外すのは如何にも不自然な気がして、御船さんはどぎまぎと数回瞬きをするのでありました。
「そんなもの、いるわけがない」
 そう云って笑いに紛れて御船さんは沙代子さんの顔から目を離して、一端下の団地の白いコンクリートの屋上の方に目線を移すのでありました。「ほら、俺は晩稲の方だから」
「あれ、御船君、晩稲だったっけ? ちっとも知らなかった」
「晩稲も晩稲、生一本の晩稲だよ俺は」
 御船さんは指を一本立てるのでありました。
「ウチの子ね、さっきも云ったように今年小学校の二年生になったんだけど、それは大学時代に知りあった矢岳って人との間に出来た子供なの」
 沙代子さんが云うのでありました。「御船君、矢岳って名前、聞いたことある?」
「ああ、聞いたことがあるよ。合気道部の同期の赤崎からだったかな」
 御船さんはそう返すのでありましたが、突然沙代子さん自身の口から矢岳と云う男の名前が出てきて少し戸惑うのでありました。
「あの人、結構有名人だったから」
「フォーク歌手だったかな。兎に角、音楽やってんだろう?」
「そう。一応プロデビューもしたの。結局あんまり売れなかったけどさ。その人は、あたしと同じ地理学科の学生で、或る日あたしにアタックかけてきたのよ。あたしとしたら唐突で、びっくりしたんだけど、あたし、なんとなくそのアタックに気押されたような感じで、その矢岳君とつきあうことになったの」
 沙代子さんはそう云ってどこか翳りの或る微笑みを浮かべて、遠い海の方に視線を投げるのでありました。御船さんとしたら話頭が急に沙代子さんと矢岳と云う男のことに向いたことを、なんとなく居心地悪く感じるのでありました。そんな話は、別にこちらから聞いたわけでもないし、敢えて話してくれなくてもいいと云うのに、沙代子さんはいったいまたどうして、そのことを出しぬけに話し出したのでありましょうか。
(続)
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大きな栗の木の下で 26 [大きな栗の木の下で 1 創作]

 沙代子さんは少しの間黙るのでありました。それはこんな話を始めた唐突さを悔いている故の沈黙だったかも知れません。沙代子さんの海の方へ向いた目が細められているのは、御船さんにこの先の話をしてもよいものやら逡巡しているためでありましょうか。御船さんは沙代子さんの横顔を、秘かに息をつめて見ているのでありました。
 沙代子さんがまた口を開くのでありました。
「で、あたしは、その矢岳君と、つきあいだしたの。・・・」

 <あたしはそれまで、矢岳君と云う人のこと殆どなにも知らなかったの。地理学科は人数が少なくて、殆どの講義がクラス単位だったから、そう云う人がクラスの中に居るってことは知っていたけれど、それに高校時代から音楽やっていて、学内じゃ結構有名なアマチュアのフォークシンガーだってことも、人に聞いて知ってはいたけれど、でもそれまで殆ど口もきいたこともなかったし、接点も全然なかったのよ、三年生になるまでは。あたしの方は、まあ、合気道部の方も忙しかったからさ。
 或る時講義が終わって、矢岳君が横の席に来て、あたしに突然話しかけてきたの、若し良かったらこれからお茶を飲みに行かないかって。丁度月曜日で、その後合気道部の稽古もなかったし、特に誰かと約束をしているわけでもなかったけど、なんか急にそんなこと云われて、そんなに親しくもない男の人と一緒にお茶を飲みに行くのも、あたしなんとなく抵抗があったから一応断ったの。
「でも、今日は合気道部の稽古はないんだろう?」
 そうしたら矢岳君がそう聞くの。あたしが合気道部に居て、その合気道部の稽古は月曜日と日曜日はないってこと、どうやら知ってるようなの。予め調べていたのかしらね。
「今日はこれから、行く処があるから」
 あたしがそう云うと矢岳君は凄く真剣な顔で聞き返すの。それはどうしても今日、これから行かなければならない処なのかって。
 あたし別に行く処なんて実はなかったし、断る方便としてそう云っただけだったから、なんとなくその矢岳君の真顔に気押されて、別にどうしてもってことはないんだけど、なんて気の弱いこと云ってしまったのよ。
「だったら、今日はこれから俺につきあってくれよ。なあ、頼むよ」
 矢岳君はそう云ってあたしに掌をあわせて見せるの。
「どうしようかなあ」
 あたし未だそんなこと云うんだけれど、まあそんなに云うんなら、お茶ぐらいつきあってあげてもいいかって、ちょっと気持ちがもう動いてたのよ。
 で、結局二人で学校の近くの喫茶店に行ったの。ほら、あたしが合気道部辞める時、御船君に辞めるなって説得されたでしょう、あの同じ喫茶店。
 そこで二人で一時間半くらいお喋りしたの。矢岳君はあたしのこと色々と聞くの。出身地とか、そこはどんな処かとか、あたしの高校生の頃のこととか、どんな風な高校生活を送っていたのかとか、家族のこととか、合気道はどんなところが面白いかとか、色々。
(続)
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大きな栗の木の下で 27 [大きな栗の木の下で 1 創作]

 殆ど自分のことは喋らないで、あたしのことばっかり聞きたがるのよ。あたしそれ、結構意外だったの。だって、矢岳君は有名人だし、音楽やっているんだから自己主張が強いだろうし、周りからちやほやされていて、かなりの自信家でもあるだろうから、音楽の蘊蓄とか、まあつまり自分の自慢話のようなことばっかり喋るんだろうなって、あたしそう思っていたのよ。それなのにそんなことは、あたしに聞かれればぼそぼそって調子でちょっと話すくらいで、あたしのことを一杯知りたいって感じの会話の進み方だったの。それに、あたしを笑わせて和ませようと気を遣ってもくれているし。
 あたし矢岳君のイメージがちょっと狂ったのよ。まあ、それまで話したことも殆どなかったわけだから、あたしが勝手に持っていた矢岳君のイメージなんだけどね。話すと、全く普通の学生なの。あたしその意外なところに、屹度惹かれたのよね、すぐに。・・・>

 御船さんはそう話す沙代子さんの横顔をずっと見ているのでありました。別に遮る積りはないのでありましたが、なんとなくあんまり聞きたい話ではないと思いながら、沙代子さんの話を聞いているのでありました。これでは自分は矢岳と云う男のように、聞き上手を演じることはどうも出来そうにないなと思うのでありました。
 それにつけても矢岳と云う男、単なる通俗的な手を遣う女誑しに違いないのであります。意外性の使用法が、見え透いているものの、如何にも手慣れている風情が窺えるではありませんか。尤も今の沙代子さんの話からだけで推測するならば、でありますが。
 まあしかし、それは定式通りの手練手管であり、あんまり工夫が見られないと云う誹りは免れません。人誑しの常套手段から一歩も出ていないわけで、そんなんじゃあ、音楽家としての独創性等さっぱり発揮していないではありませんか。
 してみると、矢岳と云う男のものする音楽なんと云うのも、一度も聴いたことはないのではありましたが、屹度大したことはないに違いないのであります。いや尤も、御船さんはつまり結局意気地のなさから、そんな見え透いた通俗的人誑し法どころか、それと思しき手練手管を発揮して女性を口説いたことは今まで一度もないのではありました。自分は誇り高い者であるから、そんな低俗な策など使わないのであると、御船さんは胸の奥の方で高らかに宣しながら、そして単に、自分の気弱さを自己弁護しているのでありました。それに、そんなつまらない手管に乗る沙代子さんも沙代子さんであると、これも胸の奥の方で小さな舌打ち等しているのでありました。
 下界から風が吹きあがって来て、沙代子さんの着ているシャツの襟をはためかせるのでありました。暫く黙った後、風が去ってから沙代子さんは続けるのでありました。

 <つきあい始めると、矢岳君はあたしをとても大事にしてくれたの。まあ、初めの内はね。あたしも矢岳君に誰よりも大事にされていると思うと、なんかちょっと勿体ないような気なんかして、とても嬉しくて有頂天になっていたの。
 あたし合気道部の活動があったし、矢岳君も音楽の活動があったから、初めの方はそんなに頻繁に逢ったり出来なかったの。でも、矢岳君はそれで不満を云うこともなかったわ。
(続)
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大きな栗の木の下で 28 [大きな栗の木の下で 1 創作]

 その内、実はあたしの方が、頻繁に逢えないことがとても寂しくなっていたのよ。合気道部の活動が、なんとなく色褪せてきたの。寧ろ合気道なんかやっているから、あたしは矢岳君に逢いたい時に逢えないんだって、そんな風に思うようになったの。で、ま、そんなこんなで、あたしは結局合気道部を辞めたんだけど。・・・
 矢岳君はプロ歌手の前座としてのステージ活動とか、レコードデビューする話なんかもちらほら持ち上がっていて、とても忙しかったから、大学にもあんまり顔を出さなくなっていたの。でも電話とかで頻繁に連絡はとりあってはいたのよ。
 あたし学校の講義サボったりして、赤坂とか青山の喫茶店なんかに、少し時間の出来た矢岳君に逢いに行ったりしたの。矢岳君は何時もギターケースを持って、あたしとの待ちあわせ場所に現れたわ。矢岳君に目をかけてくれている音楽事務所とか、そこが手配してくれる貸しスタジオとかが、その辺にあったのよ。
 音楽事務所が、目をつけた何人かのアマチュアの歌手を世話していて、練習やら曲作りとか、偶にプロのミュージシャンの手伝いとかのために、事務所が手配した貸しスタジオを開放していたの。その何人かの中に矢岳君も入っていたのね。矢岳君としてもそこに頻繁に顔を出して、プロの人にアドバイスを貰ったり、色んな人とのコネクション作りとか、事務所の人に注目して貰うためとか、まあ、そんなことに律義に励んでいたのよ。
 あたしも矢岳君もその内、学校とかで偶にしか逢えないことが段々不満になって、お互いのアパートを訪ねるようになったの。矢岳君のアパートには、矢岳君の音楽の仲間とかがしょっちゅう出入りしていたから、二人で逢うにはちょっと都合が悪くて、殆どは矢岳君があたしのアパートに来ていたわ。
 あたしは学校が終わったらアパートに帰って、矢岳君を待つの。矢岳君は大体、夜やって来たわ。スタジオの帰りだから、ギターケースを持ってね。ひどく遅くて、日を跨いでから現れることもあったわ。でも、毎日逢えるのがあたしは嬉しかったの。矢岳君がスタジオに行かない日は、二人で一緒に大学に行ったりするんだけど、あたしなんとなくそんな時は、クラスの人に対して結構気恥ずかしかったけどね。
 でも逢いたいのに逢えないし、殆どが電話だけの恋人同士なんて、そんなの嫌じゃない。だからあたしのアパートで、結局、半同棲生活みたいなことになっていったの。・・・>

 栗の古木に海からの風が吹き当たって、木蔭の中を葉擦れの音で満たすのでありました。御船さんは座っている姿勢に疲れて、片肘をついてゆっくり寝転ぶのでありました。
「沙代子は部屋に電話を持っていたのか、大学時代?」
 御船さんが今までの沙代子さんの話とは全く関係のないそんなことを聞くのは、実は沙代子さんと矢岳と云う男の当時の甘い生活の実態を、沙代子さんの口から縷々聞かされるのがそれ以上耐えられないからなのでありました。
「うん。大学生になって、あたしが東京のアパートで一人暮らしすることになったから、父親がね、部屋に電話を引いてくれたの。まあ、遠くで目が行き届かない分、せめて電話で、あたしを監視する積りだったからでしょうけどね。あれ、番号教えてなかったっけ?」
(続)
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大きな栗の木の下で 29 [大きな栗の木の下で 1 創作]

 沙代子さんは横で寝転んだ御船さんの顔を見下ろしながらそう云うのでありました。
「いや、教えて貰っていないよ、俺は。残念ながら。しかしまあ、羨ましいなあ。俺なんかは、アパートの大家が家族なんかからかかってきた電話なら、一応取り次いでくれはするんだけど、なんか大いに遠慮があったぜ。それにこっちから電話をかける時は公衆電話だし、料金を気にしてろくに話なんか出来なかったよ、貧乏学生としては」
「あたし、結構使い放題だったかな、電話は。電話代の分は仕送りに上乗せして貰っていたからさ。でも、あんまりあたしから他にかけることはなかったけどね。まあ、確かにあたしの周りでも、一人暮らしの人は電話を持っている人なんかあんまり居なかったかも知れない。でもそれは、あたしが強請って電話を取りつけて貰ったわけじゃなくて、親がそうしたんだもの、自分達が気兼ねなくあたしに何時でも電話するためにさ」
「でも、いいよなあ、家に専用電話があるって云うのは。ま、電話のことは、ちょっと今までの話に関係ないことだけどさ。それに、今更羨ましがっても仕方ないんだけどさ」
 御船さんはそう云って肘をついた手の前の草をもう一方の手で少し毟って、それを軽く前に放るような仕草をするのでありました。「でも、もしあの頃俺が電話を持っていたら、合気道部の連絡とか、色々使えて便利だったと思うよ。それに料金が親持ちだってところが、余計羨ましいや」
「あたしの行動を見張るのが目的なんだもん、親としては。まあ、電話で見張るって云うのも妙な話だし、自ずと限界があるけどさ。でも、この前電話した時は長いこと話し中だったけど、誰にかけていたんだとか、結構色々追求があったわよ。それにしょっちゅう父親に電話かけてこられるのも、鬱陶しいものよ」
「まあ、そうやって元手をかけて監視していても、結局、半同棲なんかやらかされるわけだから、親としては立つ瀬がないな」
 御船さんは云った後に、しまった、電話を持っていることを当時自分に教えてくれなかったことへの腹いせに、つい迂闊にこんな皮肉のような科白を口に上せて仕舞ったけれど、こんなこと云ったら、また前の話に舵を戻すことになるではないかと秘かに焦るのでありました。沙代子さんを見上げると、沙代子さんは御船さんの言葉に思わず吹いて、それから口を引き結んで、咎めるような目を作って御船さんを見下ろすのでありました。
「だから、矢岳君には、かかってきた電話には、絶対出ちゃだめって云ってあったの」
 沙代子さんが云うのでありました。嗚呼、御船さんがつまらない一言をついうっかり口にしてしまったものだから、案の定、また沙代子さんは矢岳と云ういけ好かない男との顛末の話しを始めるようであります。・・・

 <矢岳君は、かかってきた電話に出ることはないんだけれど、かける方は自由にしていいって云っていたから、結構バンバンあっちこっちに電話するのよ。音楽関係の打ちあわせとか、仲間との連絡なんかで。それで電話代の請求がすごいことになって、あたし父親になんて云って説明していいのか、ちょっと困ったりしたわよ。でもまあ、あたしは矢岳君との生活が、とても楽しかったけど。
(続)
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大きな栗の木の下で 30 [大きな栗の木の下で 1 創作]

 矢岳君の創る詩って、案外硬派なものが多いのよ。それは恋愛とか失恋とかの詩も結構あるけど、あたしは実はそんなのより、もっと硬い主張のあるものの方が好きだったの。あたしには詩や曲の善し悪しなんてまるで判らないんだけど、でもそっちの方が、言葉がピリピリと律動しているって感じがするの。
 なんだったかな、ええと、もう今となっては、この世から俺達の心を躍らせるような大きなテーマや共感や、それに悲劇すら、すっかり消滅して仕舞って、細々とした破片が錆びて散らばっているだけだから、結局抑揚のない歌しか俺達は歌えなくなっていくんだ、だったかな、細部は違っているかも知れないけど、なんかそんな詩があってさ、当時あたしそれにグッときたの。確かにあたしたちの世代には、前の世代が持っていたような大きな目標みたいなものが、どうしたわけかなくなっていたような気がしていたからさ。まあ、だから要するに、そんな詩の方が、矢岳君の創る詩の中でも特に好きだったのよ。
 でもそう云う歌は、コンサートなんかでもあんまりウケないの。十曲の内九曲は恋愛の歌よ。確かに矢岳君の創る恋愛の歌も物語的で抒情的なんだけど、実は矢岳君はそんな歌を歌うために音楽活動をしているんじゃないんだって、あたしには思えたの。まあ、矢岳君に聞いたわけでもないし、矢岳君もそんなことあたしに説明なんかしないし、あくまでもあたしがそう感じたと云うだけなんだけどね。
 だから、あたしだけが、矢岳君を理解しているんだって気が、あたしはしたの。それだけでも、あたしが矢岳君の傍に居る意味があるんじゃないかってさ、そう云う風に考えたのよ。あたしほら、その頃矢岳君に逆上せあがっていたからさ、だからね、そう云う自分に都合の良いこと、結構真面目に毎日、考え出したり確認したりしていたわけよ、要するにつまり。・・・>

 御船さんは遠くに見える海をぼんやり眺めながら、話す沙代子さんの声を聞いていたのでありました。しかしその話の内容には殆ど気持ちが向かってはいないのでありました。沙代子さんの声を聞きながら御船さんは、大学時代に電話を所有していながら、どうして沙代子さんは自分には電話番号を教えてはくれなかったのだろうかと云うことを、少々の恨みがましさと無力感の領域で、ウジウジと詮索していたのでありました。
「ところで、さっきの電話の話だけどさ」
 御船さんは唐突にそう沙代子さんに訊ねるのでありました。「沙代子の部屋の電話番号、その当時、沙代子の家の人以外に誰が知っていたんだ?」
 そう聞かれて沙代子さんは御船さんの顔を見るのでありました。
「え、なに、あたしの電話番号を知っていた人?」
「うん、いや、合気道部の他の連中も知らなかったのかな、それは?」
「そうね、同期の優梨子は知っていたかな。それと後、地理学科の親しい何人かの女子には教えていたけど、まあ、それくらいかな」
「ふうん、そうか」
 優梨子と云うのは合気道部の渉外係の赤崎さんのことでありました。
(続)
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