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石の下の楽土には 91 [石の下の楽土には 4 創作]

 小浜さんは島原さんに対して、矢張り冷えのある云い方をするのでありました。拙生はその小浜さんの態度に朗らかならないのでありましたが、しかし納まりかけた云いあいをここで蒸し返して仕舞うのはうんざりだったので、なにも云わないのでありました。
「さてそろそろ暖簾を出すか」
 小浜さんがそう云って両膝を叩いて椅子から立ち上がるのでありました。拙生は暖簾を取って出入口の引き戸を開けるのでありました。
 ・・・・・・
 拙生は新聞を閉じて、その日の、本格化した就職活動(!)を仕舞いにするのでありました。それからごろんと畳に仰向けに寝転がって、アパートの部屋の見慣れた天井の染みを眺めるのでありました。そろそろ夕闇が部屋の中に侵入してきて、染みをぼやけさせているのでありました。
 腹がグウと鳴るのでありました。目を閉じていたら拙生は寝入って仕舞うのでありました。暫しのまどろみから目覚めた後、拙生は決然と上体を起こすのでありました。立ち上がって壁にかけていたコートを取り、それを暗い中で身につけるのでありました。それから洋服箪笥の一番下の引き出しから懐中電灯を取り出し、試しに何度か点けたり消したりてみるのでありました。懐中電灯をコートのポケットに押しこみ、拙生は部屋を出るのでありました。
 道を歩きながら、今日は念のため夕食は食わない方がよかろうと思うのでありました。暫く歩いて住宅地を抜けると駅に出るのでありました。駅前広場脇の踏切を渡って駅の反対側に出ると、すぐに広い幹線道路でありました。冬の風がそこを高速で吹きぬけているのでありました。拙生は幹線道路を渡って少し歩いて、そこから直角に延びる、未だそんなに夜更けてもいないのに人通りや車通りの絶えた、両脇に背の高い欅の街路樹が植えられた坂道の歩道を、街路灯に照らされて登って行くのでありました。
 島原さんの自宅の住所とか電話番号とかは聞かなかったのでありましたが、島原さんの奥さんが眠る墓地の名前と、大体の場所は聞いているのでありました。そこは坂道を登り切って峠を越え、都営霊園を過ぎて暫く下った辺りに在るのでありました。
 長い坂道でありました。急な傾斜もあって、拙生は時々立ち止まって休息するのでありましたが、それは休息と云う目的ばかりではなくて、墓地に到着する時間を少しでも遅らせたいと云う、拙生の気後れの表れでもありました。
 しかし墓地までの里程は容赦なく縮まるのでありました。峠の手前にある花屋は、屹度あの娘が勤めていた花屋でありましょう。店は閉まっていて、背後の木々と夜闇の中に深閑と溶けているのでありました。
 峠を越えて都営霊園を横目に、思っていたよりも長く坂を下ると、門燈に照らされた大きな石柱が道脇に建っているのでありました。石柱に刻まれた文字を読むと、島原さんから教えて貰った墓地の名前でありました。
 鉄の門扉は閉まっているのでありました。しかしそんなに高い門ではなかったから、拙生は辺りを見回した後、それを乗り越えるのでありました。
(続)
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石の下の楽土には 92 [石の下の楽土には 4 創作]

 墓地の中には街路灯がないのでありました。墓地は夕方五時が閉園時間であると前に島原さんから聞いていたのでありました。夜間は誰も居なくなるのでありますから、燈火の設備がないのでありましょうか。拙生は懐中電灯をポケットから取り出すのでありました。
 山の斜面に在る墓地でありましたから、墓石の建っている処まで行くには、先程歩いて来た街路樹のある坂道よりももっと急勾配に拵えられた路を、少しの距離上らなければならないのでありました。拙生は懐中電灯の灯りを頼りに、車が辛うじてすれ違える程の幅員の、少しうねった路を上るのでありました。
 路を登り切ると二階建ての管理事務所の建物があるのでありました。玄関灯と傍の電柱に取り付けられている灯りが、ぼんやりと建物の入り口を照らしているのでありましたが、建物の中の灯りは総て消えていて、人の気配は全くないのでありました。拙生は入り口の、硝子の嵌められたアルミサッシの引き戸に手をかけるのでありました。幸運にもそれは鍵がかけられておらず、軽い手応えで滑るのでありました。
 中は十畳程のコンクリートの土間に机とパイプ椅子が置かれていて、そこは待合室兼休息室として使われているのでありましょう。懐中電灯で四方の壁を照らすと、横手の壁の清涼飲料水の自動販売機の隣に、墓地の大きな見取り図がかけてあるのでありました。室内灯をつけるのはなんとなく憚られたから、拙生は見取り図の傍に寄って、それを懐中電灯で照らすのでありました。
 墓地の中には、島原と云う名前の墓が六基程在るのでありました。拙生はその二つ横に松浦と云う姓の墓を探すのでありました。娘の名前は前に島原さんから聞いているのでありました。この二つがセットになっていれば、即ちそれが拙生の探している二基の墓なのでありました。
 目指す二基の墓は、管理事務所の建物から一番遠くの区画に在るのでありました。拙生は位置をしっかり確認して、建物を出るのでありました。
 墓地は山の木立の中に在って周囲の空間から閉ざされ、一帯に民家が迫っているでもなく、若し拙生の不審な行動が目撃されるとしたら、それは空からしかなかろうと思われるのでありました。しかし矢張り後ろめたいことをしていると云う自覚が在るものだから、拙生はなるべく静かに建物の引き戸を閉めて、懐中電灯の明かりもなるべく遠くに投げずに、すぐ先の地面だけを照らすようにして、足音を忍ばせて墓地の中の小路を目指す墓まで歩くのでありました。
 夜の無人の墓地でありますから、拙生はなにかおどろおどろしい雰囲気を想像して、心中大いに怖じていたのでありましたが、拙生の持つ懐中電灯に時々照らされるものは、表面を綺麗に磨かれた単なる方形の石の等間隔な羅列であり、それはむしろ整然としていて美しくもあると思うのでありました。それに周囲の山の木々が茂る光景よりは遥かに人工的であって、その意味では人の体温を仄かに発している光景なのでありました。別に、たじろぐ程のことはまるでないのでありました。
 拙生は小路を登り降りして、漸く目指す区画に行き着くのでありました。三列目の六番目の墓石と八番目の墓石の名前を、拙生は懐中電灯で照らして確認するのでありました。
(続)
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石の下の楽土には 93 [石の下の楽土には 4 創作]

 二基の墓の花立てには花がないのでありました。島原さんが墓地を訪れなくなってから大分経つので、管理の人が枯れ果てた花を撤去したのでありましょう。島原さんが逃げるようにここから去ったために、娘の家族の墓の納骨棺の上に置いた儘にしていたと云う項垂れた二本の花も、だから当然一緒にそこから取り払われているのでありました。
 拙生は松浦家と彫ってある墓の基部を懐中電灯で照らすのでありました。それから鼻から一杯に空気を吸いこむのでありました。これは若し娘が墓の中に入っているとするなら、只ならぬ臭気が、屹度拙生の鼻の奥に感じられるかもしれないと思ってのことでありました。しかし何度か注意深く匂いを確認するのでありましたが、それらしい異臭はなにも感じないのでありました。
 この点については、島原さんが突拍子もないその思いつきを拙生に語った晩、実は疑問として拙生が島原さんに問うたところでもあったのでありました。しかし島原さんはその時は、自分が旧海軍に居た時に聞いた話を紹介して、密閉がちゃんとしていれば、誰も臭気に気づくことはないと断言するのでありました。
 島原さんは旧海軍に居た時、一緒の艦に乗っていた同僚の兵から或る自殺者の話を聞いたのでありました。それは陸戦隊の訓練で、その猛訓練に耐えかねて自ら命を絶った兵隊の話でありました。
 無人島でのサバイバル訓練で、確保した食料をなるべく長持ちさせるために、ドラム缶を幾つも地中に埋めてそこへ食料を貯蔵するようになっていたのでありましたが、その空になって放棄されたドラム缶の中で、その兵は自ら頸動脈を銃剣で切って果てたのでありました。彼はドラム缶の蓋を閉めた後、異臭が外に出ないように周到に粘土で内側から目張りをしていたのでありました。そのために彼の目論見通り異変を誰にも気づかれることなく、彼は彼の企画を全うしたと云うのでありました。彼は訓練が終わって撤収が完了するまで、脱走兵として認識されていたのでありました。
 だから臭気に関しては、それを周囲に気づかせない方策はあるのだと島原さんは拙生にきっぱりと云うのでありました。それはそんなこともあるかも知れないけれど、大方の場合は、そんなに上手くいくとは限らないものではないかしらと拙生は思うのでありました。しかしそう云ったところで、その時の島原さんは自分の推論以外を一顧だにしないだろうと考えて、まあ、そんなことも場合によってはあるかも知れませんがと、拙生は完全に納得したのではないことを曖昧に伝えるだけなのでありました。
 懐中電灯を持つ拙生に、全く異臭は感じられないのでありました。しかし娘が蓋の目張りに成功したのか、それとも、要するに中に居ないのかは、この段階では未だ確定は出来ないと拙生は考えるのでありました。
 納骨棺の蓋の周囲を懐中電灯を近づけて調べてみると、確かに目地を埋めるモルタルは綺麗さっぱり剥がれているのでありました。それから蓋の置き方の歪みも、拙生は島原さんがしたのと同じ要領で、指を遣って調べてみるのでありました。これも確かに、微妙に在るべき位置からずれているのでありました。触った指から御影石の氷のように冷たい感触が、拙生の血管の中に流れ入ってくるのでありました。
(続)
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石の下の楽土には 94 [石の下の楽土には 4 創作]

 さて、と拙生は思うのでありました。さていよいよ、この蓋を拙生は開けなければならないのでありました。
 島原さんの突拍子もない推理を、拙生は十の内九まで支持していなかかったのでありましたから、これから死体と対面するかも知れないと云う恐怖は殆どないのでありました。しかし墓を暴くと云う行為は、どう考えても異常な行為であることは重々承知しているのでありました。意図は別にしてもその行為自体は犯罪であろうし、墓地の管理者やここに墓を所有している総ての人々、それにここに眠る総ての遺骨に対して、また文化と云う観点から云えば全人類に対して(この云い方は余りに大袈裟過ぎるかも知れませんが)、卑劣で不敬で、到底許し難い行為であります。そんな畏れが拙生の頭の上に入道雲のように湧き上がってきて、拙生の手の動きが逡巡の重い粘り気に覆われるのでありました。
 しかしこれは島原さんの、この先そう長くもないであろう余生を安寧に過ごして貰うために絶対に必要な検証なのだと、拙生は前から何度も考たことを確然と頭の中でもう一度言葉にしてみるのでありました。島原さんが自分で検証出来ないのなら、代わりに拙生が島原さん対する友誼と云うのか、親愛の情と云うのか、兎に角そう云うものにかけて、これを行わなければならないのであります。
 また万々が一、島原さんが云うように娘がこの墓の中で果てていたなら、それは矢張り娘の骸をその儘放置しておくことも出来ないでありましょう。いや実は、ここのところは拙生にも、どうすべきか未だよくは判らないのでありました。その儘にして置くことが娘の意志に添うことのようでもあるし、しかしそれではなにか余りにも無惨であるとも思えるし。一面では、どうせもうこの墓の存在を気にかける人は、遂にこの世から居なくなったと云うことでありますから、拙生と島原さんだけの秘密にしておいても、発覚さえしなければ当分の間は面倒な問題は多分起こらないでありましょう。娘自身もこの世に極めて縁薄く生きていたのでありましたから。
 だからまあ、何らかの供養を拙生と島原さんでしてあげれば、ほぼ、それでいいのではないでしょうか。しかし墓の所有者が行方不明になったのでありますから、先のどこかの時点では間違いなくこのことは発覚するでありましょうけれど。
 いやいやまあ、それでも、これはあくまで万々が一の話であって、そう云った危惧は先ず、持たなくとも大丈夫なのであります。拙生には娘が幾らなんでもそんなことをするとは、どうしても思われないのでありますし。
 拙生は懐中電灯を傍らに置くのでありました。それから凍った納骨棺の御影石に手をかけるのでありました。どうしたものかその時、拙生の頭の中に、妙な思いがいきなり兆すのでありました。それは、蓋を開けたら、ひょっとしたら娘ではなくて、四年前に病でこの世を去った拙生の高校時代につきあっていていた彼女が、この中に蹲っているのではないかと。・・・
 なんの脈絡も、関連も、毛程の実現性もない錯乱のようなものでありましたが、しかし拙生はそう思った時、なにか体の芯が急に沸騰するような熱を帯びたような気がしたのでありました。彼女に、今、拙生は逢うことが出来るのかも知れない。失った時にこれ程悲痛な出来事はないと思った、あの、彼女に。拙生の納骨棺に添えた掌が、御影石の冷たさをなにも感じなくなっているのでありました。
(続)
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石の下の楽土には 95 [石の下の楽土には 4 創作]

 この、墓の納骨棺の蓋を開けると云う行為が、もう島原さんのための行為ではなくなっているのでありました。その行為に依って、拙生の四年前の無念と、手つかずの儘の気持ちの整理と、今に至っても時として襲って来る、震え戦慄くような絶望を劈き破る閃光が、棺の中から屹度放たれるのであります。その閃光の中にあの彼女が立ち上がって、拙生のこの四年間で少しくすみ始めてはいるものの、矢張り未だに大きな瘤の儘である気持ちの蟠りを一挙に粉砕してくれるような、神々しい微笑を投げかけるのであります。拙生は島原さんよりももっと突拍子もなく、支離滅裂で、毛程の実現性もない、何の用意もなく吹き上がって来たこの錯乱に唆されて、蓋に添えた手の指に力をこめるのでありました。
 そうして、納骨棺の底に塊のように泥んだ闇の中には、在るが儘の現実が、在るが儘の無表情で、静かに佇んでいるのでありました。放たれるはずの閃光が閃かないので、拙生は懐中電灯を取って、蓋の開かれた納骨棺の中を照らしたのでありました。中には無機質な白い骨壷が三つ、玉砂利の上に慎ましやかに置かれているだけなのでありました。その余りのあっけない当たり前さに、返って拙生の頭は混乱してくるのでありました。
 どのくらいの時間拙生は納骨棺の中を覗いていたでありましょうか。拙生の錯乱が急速に萎むのでありました。漸く落ち着いて、思考の脈絡を取り戻した拙生は、島原さん、矢張り娘はこの中で果てて等いませんでしたよと、口の中で云うのでありました。思った通りです。幾らなんでもそんな馬鹿なことを、娘が仕出かすわけがないのであります。
 娘は島原さんが考えたようなとんでもない理由からではなく、全く別の事情で墓地に姿を現さなくなっただけなのでありましょう。娘の突然の消失が余りにショックだったので、島原さんは惑乱したのであります。
 云ってみれば寂しくこの世を生きていくことになった者同士が、互いの不足を敏感に嗅ぎつけたから、島原さんと娘は出会ったのであります。そしてこの墓地で寄り添ったのです。だから誤解を恐れず云うとすれば、島原さんは娘に恋をしたのです。
 島原さんはその恋人を喪失してしまったのかも知れないと云う恐怖から、想像の底の方へついつい性急に跳び下りて仕舞ったのです。でもそれは、矢張り惑乱と云うべきものなのであります。待ってさえいれば娘はひょっとしたらまた、島原さんの前に現れるかも知れないではありませんか。娘の家族の墓がここに在る限り、娘は屹度またここへ来るでしょうし、その可能性はかなり高いと云えるでありましょう。少なくとも、拙生が高校時代につきあっていた彼女が、再び拙生の前に現れる可能性よりは、遥かに、遥かに、遥かに、高いではありませんか。・・・
 外れた島原さんの危惧が、恥ずかしそうに納骨棺の縁から夜の闇の中へ消え登って行くのでありました。その後を追うように、拙生の錯乱がきまり悪そうに俯いて、同じく夜の闇の中に消えて行くのでありました。
 拙生は納骨棺の蓋を元通りに閉めるのでありました。ひょっとして島原さんが墓地に来て、この蓋が前と違う風に歪んでいたり、或いは綺麗に嵌っていたりしたら、また余計な混乱をするといけないから、拙生は元の歪みをその儘再現しておくのでありました。
 ・・・・・・
(続)
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石の下の楽土には 96 [石の下の楽土には 4 創作]

 さてだからと云って、拙生はこの事実を島原さんに伝える術を持っていないのでありました。島原さんは『雲仙』にはもう全く姿を現さなくなって仕舞ったし。
 試しに個人名電話帳でこの地域の島原と云う姓を調べてみるのでありました。意外にもその姓は少なく、十数人程がそこに載っているだけなのでありました。それに住所から、墓地や『雲仙』に歩いて来ることの出来る家と云ったら、中でも四軒程なのでありました。これはしめたと拙生はその四軒に電話をかけてみるのでありました。
 しかしその四軒は当て外れなのでありました。島原さんは電話帳に自分の家の電話番号が記載されることを断っているのかも知れません。こうなると交番とか役所に問い合わせてみると云う手もありますが、それは如何にも大袈裟な仕業のような気がするのでありました。それに墓暴きと云う人に云えないことを行った拙生としては、お上に接触して島原さんを探すのは、ま、怖気づき過ぎでありましょうがなにやら憚られるのでありました。
 その内島原さんが『雲仙』に現れるかも知れないし、可能性は恐ろしく低いながら、逢いたいと念じていれば、駅前とか街中でひょっとして偶然に逢えるかもしれない等と、ずぼらなことを考えて拙生は敢えてそれ以上、島原さんに逢う手を尽くさないのでありました。この辺りが拙生の実に以ってだらしないところであります。
 まあ、時間が経って島原さん自身が落ち着けば、自分の思いこみのとんでもない非現実性に思い至って、屹度また奥さんの墓参りを再開するでありましょう。そうなれば娘と再び逢うチャンスもあると云うものであります。であれば、拙生が出る幕もないのであります。第一幾ら島原さんのためとは云え、娘の家族の墓暴きをした等と云うことを、当の島原さんに伝えることも、考えてみればなにやら憚られることのようでもあるし。
 そうであるなら、拙生の墓暴きは結局徒労であったと云うことになります。それでもまあ、いいかと拙生は思うのでありました。と云うのも、あの行為に及ぶ時、島原さんとはなんの関係もない、全くの拙生自身の抱え持つ事情による錯乱が、なんの脈絡もなく拙生の頭の中にいきなり出現したことが、なにやら拙生にはひどく大きな意味を持つことであったように思えるのでありましたから。
 それが拙生にとってどのような意味であったのか、実のところ未だ茫漠としている儘ではあります。失った彼女のことを拙生の中でどう整理すればいいのか、或いはひょっとしたら敢えて整理する必要などないと云うことなのか、またはそんなこととは全く違うなにかなのか、簡単にその意味を明瞭にすることは到底出来ないのであります。それは未だ本当に、なんとも云えないのであります。しかし兎に角、これから先拙生の生の中での、彼女の面影の置き場所をはっきりと決めるなにかしらの示唆が、あの行為と錯乱とその結末の連関の中にあったような気が、ただそんな気が、なんとなくするのであります。・・・
 拙生は『雲仙』を辞めるのでありました。それは、さして意気ごみもなかったのでありましたが、新聞の求人広告で応募した或る小さな出版社に就職が叶いそうな気配になったことと、拙生の代わりに入った『雲仙』の新人アルバイトが大いに意欲的で、出来たら一週間フルに働きたいと小浜さんに懇願していると云うことを聞き知ったからでありました。まあ、この辺が潮時であるなと拙生は考えるのでありました。
(続)
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石の下の楽土には 97 [石の下の楽土には 4 創作]

 島原さんとは未だ逢えないのでありました。駅前とか街中でそんなに簡単に島原さんと出くわすはずがないのは、全く以って当たり前なのでありました。だから拙生はかなり気後れがあったのでありましたが、あの墓地に行って島原さんの奥さんの墓の前で、島原さんを長いこと待ったりもしてみるのでありました。しかし島原さんは矢張り一向に現れないのでありました。花が供えてないのでありますから、島原さんはあれ以来、ここには未だ来ることが出来ずにいるのでありましょう。
 拙生は島原さんの奥さんがなんとなく可哀想になって、娘が嘗て働いていたであろう花屋から花束を買って、それを持って墓地に行くこともあるのでありました。当然娘の家族の墓には、花束の中から二本の花を取って一本ずつを二つの花立てに夫々差すのは、これは娘がしていた供養に倣ってのことでありました。拙生は娘の家族の墓には実に以って非礼極まりない真似を働いたのでありましたから、大いに豪勢な花束等を供えて詫びるべきところではありましたが、それでは返ってその墓の供養に似つかわしくないような気がするのでありました。そんな風なことを思いながら、何度か墓地へ足を運んだのではありましたが、島原さんとは全く逢えないのでありました。
 或る小さな出版社への就職が本決まりになって、拙生は通勤の便を考えて幾らか都心へ近い街へ引っ越すことにするのでありました。住み慣れたアパートやこの街に別れを告げる寂しさは大いにあったものの、就職が決まったのを切かけに生活の一新であると、多少の気負いも一方にはあるのでありました。心残りは、遂に島原さんと逢えない儘であることでありましたが。
 まあしかし、この儘島原さんが墓地へ行かず仕舞いであることは多分ないでありましょう。奥さんに対して(と云うか「亡くなった」奥さんに対して)島原さんは優しい心根でいるのでありましたから、自分の突拍子もない思いつきが、確かに突拍子もない思いつきであると納得すれば、何時かは必ず墓参も再開されるのでありましょう。そうして墓地で娘と再び出逢えば、何度も云うようですが、要はそれで御の字と云うことであります。
 ・・・・・・
 引っ越しの二日前に拙生は『雲仙』に顔を出すのでありました。未だ開店前の時間で、小浜さんは仕こみの最中でありました。新しいアルバイトもぼちぼち仕事に慣れたようで、小浜さんの指示を一々仰がなくとも、なんとなくそれらしく忙しげに立ち働いているのでありました。
「おう、なんだ秀ちゃんか。久しぶり」
 入口を入った拙生に小浜さんは一瞬意外なと云う顔をして、それからすぐに口元を綻ばせて見せるのでありました。
「どうもご無沙汰していました」
 拙生がそう云って頭を掻いて見せると、小浜さんは仕事を中断してカウンターの中から出て来るのでありました。
「どうだい、就職活動の方は?」
「ええ、ここに来てようやく決まったんで、それで、ちょっと挨拶にと思って」
(続)
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石の下の楽土には 98 [石の下の楽土には 4 創作]

「へえ、そうかい。それは良かった」
 小浜さんはそう云って、出入口傍にある席に座れと拙生を手で誘うのでありました。拙生が一礼して座ると、小浜さんも向かいあう席へ腰かけるのでありました。
「色々、ご心配をかけましたが」
「いやあ、兎に角おめでとうだな、それは」
 小浜さんは喜んでくれるのでありました。「どんな仕事だい?」
「ええ、小さな出版社で編集見習いのような仕事です」
「正社員なんだろう?」
「ええ、一応は」
「どんなもの出してるんだい、その会社は?」
「なんでも請け負うみたいですよ。どこかの会社の社史とか企画物とか販促品とかを作ったり、自費出版とか。それから大手の出版社からの委託で本の編集とか、雑誌の企画を丸抱えしたりとか」
「ふうん。聞いているだけでなかなか大変そうな仕事だなあ」
「どうなんでしょうかね、自分には未だなにも判らないですが」
「ああ、ちょっと待っててくれよ」
 小浜さんはそう云って立ち上がると、カウンターの中からから日本酒の五合瓶を持って来るのでありました。
「これ、就職祝いだ。なんか店の物で悪いけど、取り敢えず」
「いやあ、こんなことして貰うと、困りますよ」
「まあ、いいじゃないか。なかなか手に入らないぜ、これは。瀬戸の『明眸』って酒だ」
「瀬戸と云うと?」
「愛知県だよ」
「へえ、そうなんですか」
 拙生は瓶を持ってラベルを眺めるのでありました。「折角ですから、じゃあ、まあ、遠慮なく。どうも済みません」
「親御さんも喜んでいいらっしゃるだろう?」
「ええまあ。やっと頭の上の重しが外れたとか云ってました」
「そうだろう、そうだろう」
 小浜さんはそう云って笑って見せるのでありました。
「ああ、ところで、就職が決まったんで、引っ越すことにしたんですよ」
 拙生が云うのでありました。
「おや、そうなのかい?」
「仕事柄、深夜になることもしょっ中なんで、なるべく仕事場の近くに住んだ方が良いって云われたんですよ、会社の人に」
「へえ、引っ越すのか。そう聞くとなんかちょっと寂しい気がするねえ」
 小浜さんはそう云って少し身を引いて、椅子の背凭れに寄りかかるのでありました。
(続)
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石の下の楽土には 99 [石の下の楽土には 4 創作]

「ところで」
 拙生は話題を変えるのでありました。「島原さんは、この頃いらしてますか?」
「いやあ、ちっとも来ないよ、あれ以来」
「へえ、そうですか」
 矢張り島原さんの消息は知れないのでありました。
「小浜さんは薬屋のご主人とかと『イヴ』に通っているんですか、今でも?」
「まあ、時々ね」
 小浜さんはそう云って拙生から目を逸らすのでありましたが、それは小浜さんがスナック『イヴ』へ通い出した辺りから、拙生と小浜さんとの間の空気と云うのか、距離と云うのか、そんなものが微妙に変わって仕舞ったのだと、小浜さんがなんとなく察しているからなのでありましょう。別に顕著に気まずくなったと云うことではないのでありましたが、しかし矢張り拙生が『雲仙』を辞める気になったのは、確かにそう云う機微も影響してはいたのでありました。
「新入りのアルバイトは、どんな感じです? ここから見ていると、なんかシャキシャキと働いているようですね」
「うん、まあ、やっと少し慣れたかなこの仕事に。でも、秀ちゃんみたいに気が利かないな、色んなことに。あんまり察しが悪いんで、時々苛々することもあるよ」
 小浜さんは声のボリュームを落としてそう云うのでありました。
「まあ、自分も最初はそうだったし、その内仕事ぶりも板についてくるんじゃないですか」
「あいつ、もう猪口と徳利を三つ四つ割っちまったんだぜ。それに酒タンポに日本酒を入れる時、手捌きが雑なもんだから、よく零すしね。秀ちゃんはそんなことなかったけどさ」
「まあ、慣れれば、万事そつなくやるようになるんじゃないですかね」
「どうかね、それは」
 小浜さんがそう云って慌てて言葉を仕舞いこむように口を噤んだのは、新入りのアルバイトが傍に来たからでありました。新入りのアルバイトは拙生と小浜さんが座っている席の横に立って、こちらを窺っているのでありました。
「なんだい?」
 小浜さんが彼に聞くのでありました。
「残っているのは、後はこのテーブルだけなんだけど」
 そう云って、新入りは手に持った濡れた台拭きを揉むような仕草をするのでありました。開店前のテーブル拭きがこの席だけを残して、後は終了したと云うことでありましょう。
「ああ、それじゃあ自分はこれで失礼します」
 拙生はそう云って立ち上がるのでありました。
「悪いね、慌ただしくて」
「いえ、開店前ですから。忙しい時間にお邪魔して、申しわけなかったです」
「引っ越しても、またこっちに来ることがあったら寄ってよ、ウチにも」
 小浜さんがそう云って手を差し伸べるのは拙生と握手するためでありました。
(続)
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石の下の楽土には 100 [石の下の楽土には 4 創作]

「じゃあ、頑張れよ、新人」
 これは拙生が新入りのアルバイトに投げた言葉でありました。新入りのアルバイトは大きなお世話だとでも云うように、拙生を一瞬見据えて口を尖らすのでありましたが、一応瞼を少し細めるだけの挨拶を返して、すぐに拙生から目を逸らしてテーブルの上に台拭きを落とすのでありました。拙生はその些か邪険な態度に多少むかっ腹が立ったのでありましたが、ま、しかし先の言葉は確かに拙生の余計なお世話の一言ではありましたか。
「じゃあ、長いことお世話になりました。それにお酒、どうも有難うございます」
 拙生は小浜さんに一礼して笑いかけるのでありました。
「元気でね。本当に、また遊びに来てくれよ」
 小浜さんのその言葉に送られて拙生は『雲仙』を後にするのでありました。
 矢張り気になったものだから拙生は引っ越しの前日、思ったより早く片づいた荷造りの後に墓地へ行ってみるのでありました。男の一人暮らしでありましたから、大して荷物はないのでありました。もう夕方近かったのでありましたが、墓地の閉園時間前には行って帰って来ることが出来るであろうと踏むのでありました。
 墓地に行ってみたら、島原さんの奥さんの墓に新しい花束が供えられていて、娘の家族の墓に二輪の花が手向けられていたなら、拙生は心置きなくこの街を離れることが出来るのでありましたが、矢張りそうは上手くいかないのでありました。二基の墓には先日拙生が供えた花が少し萎れて色褪せて、俯いているのでありました。その花を拙生は持参した新しい花と交換するのでありました。まあ、その日新しい花を娘が働いていたであろう花屋で贖った時点で、拙生としては墓地に島原さんが訪れた形跡は多分未だなかろうと、詰まり既に、見当をつけていたわけではありましたが。
 しかし、実際予想した通りであるとなると、矢張りなんとなくがっかりするのでありました。畢竟、そんなに上手く結末がつくことなんか、この世の中にざらにはないと云うことなのでありましょう。拙生は二基の墓に少し長い時間夫々手をあわせて、墓地を去るのでありました。
 拙生はいよいよ、長く住み慣れたこの街を去るのでありました。引っ越し当日、頼んでいた運送会社の二トントラックが、午前中にアパートの玄関に横づけされるのでありました。トラックの運転手と荷物の積みこみをするのでありましたが、布団程度しか嵩張る物もなくて、トラックの荷台には未だ倍以上の荷物が入りそうな按配なのでありました。故郷から出てきて以来、これまでこの程度の生活道具で生きていたのかと、拙生はなんとなく己が五年間の生活の貧しさに、この期に及んで秘かに呆れ返るのでありました。運転手は荷崩れを心配して、積んだ荷物に長い結束ベルトを幾重にもかけ渡すのでありました。
 拙生を助手席に乗せたトラックは電車の線路を渡り、大きな街道に出るのでありました。この広い六車線の幹線道路を少し走ると両脇に欅の街路樹が並んだ、墓地へ向かう坂道が見えるのでありました。坂道はその日、珍しく晴れた蒼く高い冬空に向かって、ゆったりとうねって延びているのでありました。その坂道の歩道に、花束を抱えた老人が上って行く姿はないものかと、拙生は通り過ぎるほんの一瞬、目を凝らすのでありました。
(了)
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