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石の下の楽土には 3 創作 ブログトップ

石の下の楽土には 61 [石の下の楽土には 3 創作]

「よせやい。そんなんじゃないよ」
 薬屋の主人はそう云って例の甲高い笑い声を上げるのでありました。
「酒屋の時津さんとは珍しいですね。滅多にいらっしゃいませんからね」
「あいつは一人でこう云う処に来るタイプじゃないしね。酒屋のくせに大して飲まないし。まあ、大勢の中に混じってワイワイやるのは好きみたいだけど」
「それがなんでまた、今日は茂木さんと差しで飲もうと云うんです?」
「ほら、あいつは養子だろう。尻に敷かれっ放しのカアちゃんと子供にやいのやいの云われながら、肩身狭く晩飯食ってばっかりじゃストレスで寿命を縮めると思ってよ、ちょっと気晴らしに誘ったんだよ。俺が一緒ならあそこのカアちゃんも、ケンちゃんが外で飯食ったり飲んだりするのを少しは大目に見てくれるからな、どうしてかは知らないけど」
「へえ、茂木さんは時津さんの奥さんに信用があるんですねえ」
「ひょっとしてあそこのカカアは、俺に惚れてるんじゃないかって思ってよ。尤も俺の方はあの手はご免蒙るけど」
 薬屋の主人は今度は少しばかり卑俗な色あいを加味して、また甲高い笑い声を上げるのでありました。拙生は薬屋の主人の、軽妙さの欠片もなく、うんざりするくらいの飛躍に満ちて、そのくせ呆れる程単純で目の粗いこう云った冗談が大いに苦手なものだから、秘かに目を逸らして、誰にも聞こえないように舌打ちなどするのでありました。
 暫くすると酒屋の時津さんが現れるのでありました。時津さんは薬屋の主人の横に腰をかけて、小浜さんから渡されたコップに薬屋の主人からビールを注いで貰うのでありました。その席は、何時もは島原さんが座っている席でありました。時津さんはいかにも腰が低いと云った感じの人で、小浜さんからコップを受け取る時も、薬屋の主人からビールを注いで貰う時も、一々ひょいと顎を前に出すような仕草で軽い挨拶を返すのでありました。
「時津さん、久しぶりですね」
 小浜さんがそう云ってつけ出しを出すと、これにもひょいと挨拶をして押し頂くように両手でそれを受け取るのでありました。
「いやあ、ご無沙汰で申しわけないですね。三か月ぶりくらいですかね」
「商売の方がお忙しいんでしょう。結構ですね」
「そうじゃないよ」
 薬屋の主人が小浜さんと時津さんの会話に割って入るのでありました。「カアちゃんに家から出して貰えないだけだぜ、こいつの場合は」
「そんなこともないけどさ。それに、商売繁盛とか云うんでも全然ないけど。ま、なんとなく足が向かなかっただけ」
「そんなことよりお前なにか注文しろよ。俺は厚揚げと焼き茄子と、一緒に日本酒を冷で」
「じゃあ、こっちはビールをもう一本。それに手羽の焼いたやつに、ええと冷や奴辺りを取り敢えずお願いします」
 酒屋の時津さんは横手の壁に貼ってある品書きの吊るし札を熱心に眺めながら、そう注文するのでありました。
(続)
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石の下の楽土には 62 [石の下の楽土には 3 創作]

 拙生が一合桝にコップをセットしてそれに一升瓶から日本酒を注ぎ入れると、小浜さんがそれを取って薬屋の主人の前に置きます。
「へい、お待ち」
 その後拙生はビール瓶の栓を抜いて、それを時津さんの方に差し向けるのでありました。時津さんは半分程飲み残したコップの中身を一気に空けて、それを拙生の方に出すのでありました。拙生はビールをコップ一杯に注いでからそれを時津さんの前に置きます。時津さんは拙生にも顎をひょいの挨拶を返します。小浜さんが調理をしている間、薬屋の主人と時津さんは他愛もない話をしながら酒を飲むのでありました。
 薬屋の主人が兄さん格で時津さんは弟分といった雰囲気であります。薬屋の主人の随分失礼な冗談やくどいからかいにも、時津さんは心根が大らかな人のようで、ニコニコと笑って拘る風もなくあくまで下手に徹しているのでありました。こんなんじゃあ一緒に飲んでいても面白くないだろうと拙生は同情するのでありましたが、時津さんは特段それを気にしている感じではないのでありました。そんな時津さんの様子を見ながら、とても拙生には真似できない姿であると、拙生は自分の未熟を思い知るのでありました。まあ、それを成熟させようと云う気は、拙生にはあんまりないのではありましたが。しかしひょっとして将来拙生が飲み屋を営むとするなら、こう云った人に対する好悪は、持っていても臍より下に何時も綺麗に隠しておかなければならないのでありましょう。
「そう云えば『イヴ』にも全然行ってないなあ」
 時津さんが云うのでありました。薬屋の主人と時津さんの話題は何時しかスナック『イヴ』の話になっているのでありました。
「昨日、ここに『イヴ』のママと不動産屋の社長が、二人で来てたんだぜ」
「おや、それは聞き捨てにならないな」
「なあに、デートとかじゃなくて『イヴ』の若いのがアパートを替りたいらしくて、その相談と云うことだから、別に色っぽいところはなにもないんだけどな。不動産屋のスケベ心を適当に利用して、手数料でも負けて貰おうってママの魂胆だから、そう心配は要らねえよ。あのママは、俺に気があるんだから」
「ふうん、そんならいいけど。ママが誰に本当は気があるのかは、別として」
「お前見ていて判らねえのか、ママが俺に気があるってのが」
「そうかねえ。寧ろ偶にしか行かない俺に、秘かに恋焦がれてるかも知れないし。俺が行くとさ、やけに親切だしなあ」
「そんなわけがあるかい。それはお前が偶にしか行かないから、もっと来て貰って金使わせようって、ママの商売っ気に決まってるだろう。なに勘違いしてるんだよ」
「いやいや、そうでもないと思うけどなあ、俺は」
 時津さんはそう云ってニヤけるのでありました。
「馬鹿。すっかりママの術中に嵌っているお前も、全くオメデたいヤツだね。それにママが特別お前に親切な風には、俺にはちっとも見えないぜ、俺以外のヤツに対する態度と、なにも変わちゃいねえよ、お前に対しても」
(続)
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石の下の楽土には 63 [石の下の楽土には 3 創作]

 薬屋の主人は時津さんの頭を軽く叩くのでありました。
「時津さんも、あのママにぞっこんの口ですか?」
 小浜さんが聞くのでありました。
「妙に色っぽいですからね、あのママは。切れ長の目尻とか少し厚い唇とか、ちょっと化粧窶れした小鼻とか頬っぺたとか、ふっくらした顎とか喉とか、なんとなくしどけない体の線とか、妙にそそるタイプだよねあれは」
「オッパイもでかいしな」
 薬屋の主人がそうつけ足して、例の甲高い笑い声を響かせるのでありました。「お前ん処の、あのノッポでガリガリの日陰の桃の木みたいなカカアとは、全然違うよな」
 拙生はこの「日陰の桃の木」と云う喩えを聴いて、即座に以前寄席で聴いた志ん朝の『三枚起請』と云う噺を思い出すのでありました。こんな喩えは一般的な会話ではそう使わないでありましょうから、してみるとこの薬屋の主人も、意外に落語などをよく聴く人なのでありましょうか。それにしてはそのもの云いに、捌けた感じとか粋な風情がまるでない人だと拙生は思うのでありました。ま、落語を聞いていると云うだけで即ち、拙生も含めて、捌けているとか粋な人であるとは俄かに断定出来ないのは理の当然のことでありましょうが。拙生はまことに手前勝手ながら、薬屋の主人も落語好きなのかも知れないと思うと少々不快を覚えるのでありました。
「ま、ウチの女房はこの際どうでもいいとして」
 時津さんはそう云ってコップを空けると、ビール瓶を取って手に持った儘のコップの中に次の一杯を満たすのでありました。
「お二人の話を伺っていたら、こりゃあいよいよ、アタシも近々お伴させて貰わなくっちゃならなくなってきましたなあ」
 小浜さんが二人に調子をあわせるのでありました。
「なら、今度のこの店の定休日にどうだい?」
 薬屋の主人が提案します。
「是非、お願いします」
「魚釣りは行かないで良いのかい、休みの日は何時も釣りだろうオヤジは?」
「なあに、釣りは今度でなくても何時でも行けますから。それよりこうなったら『イヴ』のママの方が、断然優先ですよ」
「でも、ママは俺に気があるんだから、その辺弁えていてくれないと。スケベ心でくっついて来ても、あのママはオヤジには靡かないからな」
「そりゃあ、判るもんですか」
「お、大した自信だなあ」
「これでアタシも少し前までは、粋筋辺りを大いに泣かしてたんだから」
 小浜さんはそう云って得意げに笑うのでありました。三人の話が盛り上がるにつれて、拙生が口を出す隙間がすっかりなくなるのでありました。尤も拙生は、三人の会話に別に入りこみたくもなかったものだから、無愛想にカウンターを出るのでありました。
(続)
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石の下の楽土には 64 [石の下の楽土には 3 創作]

 それにしても島原さんは今日はどうしたのかしらと、拙生はテーブル席から下げてきた皿や猪口や徳利を洗いながら思うのでありました。もしかして悪い風邪でも拗らせて、寝こんでいるのではないでしょうか。如何せん老人なんだから何時なにがあるか判らないしと、拙生は別に胸騒ぎもなにも感じないで考えたりするのでありました。まあ、胸騒ぎしないからまさかそう滅多なこともないでしょうが、しかし何時も居る人の顔が見えないと云うのは、どこか引っかかるものであります。明日は何時もの時間に、この店に現れてくれると良いのでありますが。
 ・・・・・・
 島原さんは三日間『雲仙』に現れないのでありました。そうして四日目にようやく何時もの時間に片手で捲った暖簾から、元気そうな顔を覗かせるのでありました。
「おや、どうされてたんです?」
 小浜さんがカウンター席に座った島原さんに聞くのでありました。
「ええ、千葉の親類が亡くなったものだから、その通夜と葬儀に行っていたんですよ」
「ああ、そうでしたか」
「私の従弟に当たるんですが、私より二つ年下なんですよ。まあ、少し前から病院に入院していたんです。上顎洞癌とか云うんで一年前に大変な手術をしましてね、面相が随分変わってしまいましたよ。そのすぐ後に膵臓に転移が見つかって、抗癌剤とかやっていたんですが副作用がひどくて、もう対症療法しかないような状態だったんです。それでこの前再入院になって、それからそんなに経っていないんですが、遂にね」
「それはお悔やみを申します」
 小浜さんが畏まって島原さんに頭を下げるのでありました。それに倣って拙生もすこし遅れて低頭するのでありました。
「初七日まで済ませたので、今度は四十九日にまた行かなければなりません」
「お風邪でも召されて、寝こんでおられるんじゃないかって、秀ちゃんと心配していたんですよ」
 小浜さんはそう云いながら拙生を見るのでありました。「秀ちゃんがお宅へ伺ってみようかとか云ったんですが、それもなんか不躾なようだし、それに第一ご住所をはっきり存じ上げないものだから」
「ああ、心配して頂いて恐縮です。私も電話でもしようかと思ったんですが、考えたらこちらの電話番号を知らないし、それに態々、大勢の中の単なる一人の客でしかない私から伺えないと電話するのも、なんか如何にも余計なことかと思ったものですから」
「まあ、ご無事なお姿を見て安心しましたよ。ご親戚がお亡くなりになったと云うのにこんなことを云うのも、あれなんですが」
 小浜さんが遠慮がちな笑いを島原さんに向けるのでありました。
「いや、有難うございます。昨日の夜は家に帰って来てましたから伺えたんですが、疲れちゃってね。今日は昼まで寝ていましたよ」
 島原さんはそう云って顔を一つ撫でるのでありました。
(続)
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石の下の楽土には 65 [石の下の楽土には 3 創作]

「熱燗でよろしいですか?」
 小浜さんが訊ねるのでありました。
「ええ、お願いします」
 島原さんのその返事を聞いて、拙生はすぐに一升瓶から酒タンポに日本酒を一合注ぎ入れるのでありました。
「後で鍋焼き饂飩を出しますから」
 小浜さんが云うと島原さんは一瞬怪訝そうな顔をするのでありました。しかしすぐに三日前のここでの会話を思い出したらしく、その時の会話の内容を失念していたのを恥じるように笑いを眦に浮かべるのでありました。
 島原さんは暫くはゆっくり猪口を傾けながら、千葉の葬儀の様子やその亡くなった従弟との幼少の頃からの交誼のあり様など、小浜さんや拙生に聞かれる儘に話すのでありましたが、それは結構淡々とした話しぶりで、痛手から未だ立ち直れないと云った様子ではないのでありました。会話の中に「この歳になれば何時誰と別れても不思議じゃないから」と云う言葉が時折混じるのは、従弟とのこの世での離別を既に前から覚悟していたからかも知れませんし、どうせそう遠くない将来あの世でまた逢うことになるであろうと云う、島原さんの自分自身の生に対する頓着の薄れた心根からでもあるのでありましょうか。
 島原さんの前に鍋焼き饂飩が出されたのが切掛けのように、入口の扉が引き開けられる音がして、暖簾を額で押し分けるようにしながら薬屋の主人が店に入って来るのでありました。薬屋の主人は片手をあげて見せて、カウンターに近寄って来るのでありました。
「今日は熱燗でね」
 薬屋の主人はそう云いながら島原さんの隣りに座るのでありました。座る時にちらと島原さんの白髪の後頭部に横目を向けるのでありましたが、その目は島原さんに対して親愛の色あいが籠っている視線であるとは云い難いものでありました。ま、例えば、暫くその邪魔な顔を見なくて清々していたんだけれど、未だくたばっていなかったのかいとでも云うような。勿論そんなことを口に出したのではないのでありましたが、拙生にはそう云う薬屋の主人の声がはっきり聞こえたような気がするのでありました。拙生の熱燗を作る手つきが、ぞんざいになるのでありました。
「明日ここ、定休日だろう?」
 薬屋の主人はまるで横に座っている島原さんを無視するように、小浜さんに声を張り上げて聞くのでありました。
「ええ、休みにさせていただきます」
「だったらどうだい、オヤジも『イヴ』に行くかい?」
「そんな相談が出来上がっているんですか?」
「うん。酒屋のケンチャンと、それに肉屋とさ」
「へえ。今日は時津さんや肉屋の高来さんはここにはいらっしゃらないんですか?」
「そう。あいつ等は明日のために今日はカアチャン孝行だな」
 薬屋の主人はそう云ってあの甲高い笑い声を上げるのでありました。
(続)
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石の下の楽土には 66 [石の下の楽土には 3 創作]

「そんじゃあ、折角のお誘いですから、お伴させていただきましょうかね」
 小浜さんが乗り気を見せるのでありました。
「よっしゃ、決定だ。でもオヤジはあくまで俺の引き立て役にしかならないんだから、ママに妙なちょっかい出すんじゃないよ」
「引き立て役かどうかは、未だ判らないじゃないですか」
 小浜さんがそう云って徳利を差し出しながら、ちらと自信を見せるのでありました。
「無理々々。云っとくけど相手は人間の女なんだから、魚釣りの魚みたいにはいかねえよ。それにこっちは、これまで随分元手を入れてるんだから」
 薬屋の主人は猪口に酌を受けながら云うのでありました。
「入れた元手と回収が思い通りに釣りあわないのは、事業ではよくあることですよ」
 小浜さんが余裕の発言をするのでありました。薬屋の主人は小浜さんの言葉にふんと鼻を鳴らしてから、拙生の方を見て聞くのでありました。
「後で拗ねるといけないから一応誘うけどよ、秀ちゃんはどうだい、行くかい?」
「行きません」
 拙生は即答するのでありました。拙生は以前から行かないと云っているではありませんか。それに誰がそんなことで拗ねると云うのでありましょうか。
 島原さんは時々箸の動きを止めて顔を上げ、小浜さんと薬屋の主人の会話を聴いているのでありましたが、当然その中に口を割りこませることはないのでありました。ただ、割りこむとか会話の邪魔をする気など毛頭ないのではありましょうけれど、鍋焼き饂飩が熱いせいか島原さんはそれを啜りこむ時、暫し軽く咳きこむのでありましたが、それを薬屋の主人が一々、顔を顰めて反射的に身を横に少し引いて避けるのは如何にも過剰な反応であり、拙生には厭味な仕草にしか見えないのでありました。
 島原さんが鍋焼き饂飩を食べ終えた後も、小浜さんと薬屋の主人はスナック『イヴ』へ繰り出す話を続けているのでありました。島原さんはこれでは到底小浜さんが自分の相手をする暇はなかろうと判断したようで、おしぼりで顔をつるんと拭くと拙生が食べ終わり頃に出した茶を一口飲んで、両手をカウンターに添えてゆっくり席を立つのでありました。
「お帰りですか?」
 拙生が聞くと島原さんはこっくりと頷くのでありありました。
「ええ。そろそろ私はお暇しましょう」
 その声で小浜さんが薬屋の主人との会話を中断するのでありました。
「ああ、毎度有難うございます。如何でしたか、鍋焼き饂飩は?」
「美味しかったです。またお願いします」
 島原さんはそう云って小浜さんに笑いながら頭を下げるのでありました。
「オヤジ、ホッケの一夜干しと厚揚げ、貰おうかな」
 薬屋の主人が小浜さんと島原さんの挨拶の遣り取りが終わるのを待てないように、小浜さんに言葉を投げるのでありました。小浜さんは島原さんに一礼すると、はい承知と薬屋の主人に返事をして、そそくさと注文の品の調理に取りかかるのでありました。
(続)
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石の下の楽土には 67 [石の下の楽土には 3 創作]

 勘定を済ますと島原さんはゆっくり歩いて、引き戸に手をかけるのでありました。拙生はなんとなく島原さんの丸めた背中が妙に寂しそうに見えたものだから、普段はしないのでありましたが追いかけて行って、島原さんを外まで出て見送るのでありました。
「久しぶりにお見えになったのに、騒がしい人が隣りに居て済みませんでした、今日は」
 拙生は島原さんに頭を下げるのでありました。
「いや、とんでもない」
 島原さんが拙生に頭を下げ返すのでありました。「常連さんは、大切にしなければね」
 その言葉はたとえどんな客であろうと、客を批判するようなことは云ってはいけないと、やんわり拙生をたしなめる言葉のようにも聞こえるのでありました。
「今日はお墓には行かれたんですか?」
「ええ、昼間にちょっと」
 島原さんはそう云って上着の襟を立てるのでありました。
「墓地で逢う何時もの娘も心配していたんじゃないですか、島原さんが三日間現れなかったのを?」
「いや、それが、逢えなかったんですよ。実は昨日もそうだったんだけど」
「ああ、そうですか」
「ええ。ま、そんなこともあるでしょう」
 島原さんの言葉がなんとなく寂しげなのでありました。「だから、昨日の話だけど、何時ものようにお花を二本、私が花立てに挿してきましたけどね」
「次のアルバイトが、ちゃんと見つかったでしょうかね、その娘は」
「さあ。それが私も心配なんですが。・・・」
 そこで言葉が途切れるのでありました。
「大分寒くなって来たから、風邪引かないようにしてくださいね。明後日の鍋焼き饂飩は、今日のと少し中の具が違っているかもしれませんよ。毎日少し中身や味を変えてお出しするようにしようって、小浜さんが云ってましたから」
「それは楽しみだ」
「じゃあ、帰り途、お気をつけて」
「じゃあ、これで」
 頭を下げた拙生に島原さんは片手を上げて見せるのでありました。
 ・・・・・・
 墓地に娘の姿は未だないのでありました。島原さんは花束の中から二本の花を抜いて、それを娘の家族の墓石の上に置いて、奥さんの墓を拭き清め、水をかけ、花を供えて火のついた線香を香炉に置くのでありました。そうしている内に娘が墓地にやって来るだろうと思うのでありましたが、一連の作業を終えても娘は未だ現れないのでありました。
 手持無沙汰に娘の出現を待ちながら、次のアルバイトが早速決まって、こんな時間にここへ来れなくなったのかも知れないと、島原さんは考えたりするのでありました。香炉から立ち上る煙がゆらゆらと揺れて、そうかも知れないと肯うのでありました。
(続)
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石の下の楽土には 68 [石の下の楽土には 3 創作]

 そうか、娘に千葉のお土産を買ってくればよかったなと、島原さんは娘を待ちながら思うのでありました。全く、気が利かないところは昔からちっとも変っていないんだからと、島原さんは自分を叱るのでありました。明け方の月のように、自分の思いつきなんと云うものは何時も時宜を逸してからしか閃めかないものだから、結局今までに誰をも喜ばせることが出来なかったなあと、島原さんは自分にため息をつくのでありました。気が利かないと昔から女房にもよく云われていたよなと、島原さんは思い出すのでありました。その女房も、子供を亡くした後は、自分のこの気の利かなさ加減を詰ることも竟にしなくなったけれど。島原さんは目の前の墓をぼんやり眺めるのでありました。娘は、未だ、現れないのでありました。
 今日は来ないのかしらと島原さんは思うのでありました。何時もと、ここへ来る時間が少し違ったからひょっとしたら娘はもう、待ちくたびれて帰ったのかも知れないとも思うのでありました。そうでなかったら、矢張りアルバイトが決まったからこの時間には墓地に来られなくなったのかも知れません。もしそうなら、少し残念な気もするけれど、それはそれで喜ばしいことには違いありません。そうだ、屹度そうに違いない。
 娘がどんなアルバイトを見つけたのか、島原さんは大いに興味をそそられるのでありました。接客業は随分苦手のようだから、一人でこつこつと作業をするような仕事だったら良いのだけれど。そう云う意味で云えば、嘗て娘が就職したミシン工場のラインの仕事なんかは、娘に最も適していたのではないかしら。
 抱えきれないような色々な経緯があって娘はそこを辞めてしまったけれど、考えたら最初に就職したその仕事を続けていられたら、娘も生活に困窮することはなかったかも知れません。まあしかし、そうなると家族の墓に日参することは出来ないでしょうから、それは娘には不本意なことに違いないでありましょうけれど。それでも職場に毎日顔をあわせる仲間が居て、同年代の話し相手も居るなら、娘は今程に家族の墓に執着しなかったのではないでしょうか。その方が娘には良かったかも知れないと島原さんは考えるのでありました。まあ今となっては自分の何時も時宜を逸する思いつきのような、遅れ馳せの仮定論でしかないのでありますが。
 島原さんは墓の前を去るのでありました。結局その日は娘には逢わず仕舞いでありました。しかし近い内に、娘の家族の墓がここに在る限りまた逢うことも出来るでありましょう。去り際に娘の家族の墓に二本の花を立て、線香に火をつけてそれを香炉に横たえてから島原さんは墓地を後にするのでありました。
 気になって、島原さんは次の日も墓地へ出かけてみるのでありました。しかし娘の姿は墓の前には矢張りないのでありました。屹度その内現れると云う予感すら、全く気配の中に閃かないのでありました。墓石の周りを掃除した様子もないのでありましたから、娘は未だ来てはいないのだろうし、この後も恐らく来ることは、まずないような気がするのでありました。娘の家族の墓の花立てに昨日島原さんが一輪ずつ挿した花が、挿した当初より随分項垂れて立っているのでありました。そう云えば墓もその周囲も、ここ数日手を入れた形跡が全くないなあと思いながら、島原さんは辺りを眺め遣るのでありました。
(続)
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石の下の楽土には 69 [石の下の楽土には 3 創作]

 娘はここ暫くの間、墓地に来てはいないのかも知れません。毎日、雨が降る日も台風の日でも来ていた娘が、いったいどうしたと云うのでありましょう。新しいアルバイトのために、毎日来ることが叶わなくなったのなら、それはそれでいいのでありますが、島原さんは何故か妙に不安にかられるのでありました。娘の身になにかのっぴきならぬ事態が出来したのでありましょうか。
 偶々かも知れないと、島原さんはすぐに考えなおすのでありました。取り越し苦労をしてもなんにもならないのであります。島原さんは油断すると膨らもうとする不安を、結構必死で宥めるのでありました。明日は屹度、娘はこの墓地で自分を待っていて、あの可愛らしい笑い顔を見せてくれるに違いないでありましょう。そう考えて島原さんは花立ての二輪の花のように項垂れて、その日も墓の前を離れるのでありました。
 しかし三日目も姿を現さないとなると、矢張りこれはなにか只ならぬ事態が、娘の身に起こったと島原さんは考えないではいられないのでありました。いったい娘は、どうしてしまったと云うのでありましょうか。
 とは云っても、島原さんには娘と連絡を取る術がないのでありました。前に娘が勤めていた花屋へ行ってみようかしらと、島原さんは真剣に考えるのでありました。そこで娘の住所を聞くことは可能かもしれないけれど、しかしはたして店の人が自分にそれを教えてくれるでありましょうか。花屋の近くのアパートを手当たり次第調べてみると云う手もあります。あの辺にはアパートもそんなに多くは建っていないでありましょうし、苗字は判っているのでありますから、アパートの郵便受けをしらみつぶしに見て回れば、探し当てることが出来るかも知れません。
 しかしそれはなんとなく、穏当を欠く行為のように島原さんには思えるのでありました。不審者に間違われたら、叶いませんし。それにそうやって一人暮らしの娘のアパートを探り当てて訪ねたとしても、娘がそんなことをする自分に胡散臭そうな顔でも向けたとしたら、それこそ島原さんはもう娘と墓地で逢えなくなってしまうであります。それは全く以って不本意なことであります。
 結局、もう少し様子をみるかと島原さんは考えるのでありました。娘の家族の墓に挿した花が、昨日よりももっと項垂れているのでありました。島原さんの奥さんの墓に供えた花は、まだちゃんと前を向いていると云うのに。島原さんは娘の家族の墓から項垂れた二本の花を抜き、奥さんの墓からもう二輪花を取って、それを新たに娘の家族の墓に立てるのでありました。一本ずつ立てているから、余計項垂れて仕舞うのかも知れないと思って、先に抜いた花をもう一度花立てに戻すのでありました。しかし二輪ずつの花が挿された娘の家族の墓は、どこかしっくりとこないのでありました。それにそんな風な何時もとは違うやり方で娘の家族の墓に花を供えることが、どうしたものか不吉にも島原さんには思えてくるのでありました。
 島原さんは項垂れた方の花をもう一度抜き取るのでありました。それからその花を二本揃えて納骨棺の御影石の蓋の上に置くのでありました。その時、納骨棺の蓋の目地を埋めるモルタルが、すっかりなくなっていることに島原さんはふと気づくのでありました。
(続)
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石の下の楽土には 70 [石の下の楽土には 3 創作]

 風雪のせいでそれは自然に剥がれてなくなってしまったのかも知れません。そんなこともあるでありましょう。しかし島原さんは気になって、奥さんの墓の納骨棺の蓋を確認してみるのでありました。奥さんの墓のそれは、そんなに簡単に剥がれてしまうものではないと云うことを証明するように、モルタルが未だ綺麗に目地を埋めているのでありました。娘の家族の墓が開かれた時期と奥さんの墓の蓋が開かれた時期は、前に娘から聞いた話によるとほぼ同じ二年前であり、確かにその位の時間の経過で目地に瑕疵が生じることは、余程雑な仕事をしない限りないように島原さんには思えるのでありました。
 では娘の家族の墓の目地が剥がれているのは、故意に剥がした故でありましょうか。そんなことを誰がすると云うのでありましょう。娘でありましょうか。しかし家族の墓を娘が故意に傷つけることはないはずであります。娘を快く思わない誰かが居て、こんな陰湿な悪戯を仕かけたのでありましょうか。娘はこれまで世間との関わりを最小限に生きていたのでありますから、誰かにこのような悪戯をされる程に恨まれるようなことも、まずないのであります。それにそんな目立ちもしない悪戯を考えついて、娘の家族の墓を毀損することに喜びを見出すような人間が、果たして居るのでありましょうか。
 墓を管理する石材会社の仕事が、矢張り雑だったのでありましょうか。それが一番考えられることであります。モルタルの練りが半端であったとか。ま、実際に、そんなところなのでありましょう。妙な部分に自分の目が偶々止まっただけであります。島原さんはそう考えて、自分を納得させようとするのでありました。
 しかし島原さんの目は目地を埋めるモルタルの剥がれだけではなくて、その御影石の蓋自体が本来嵌るべき位置から、ほんの少しずれていることを発見するのでありました。これも奥さんの墓と比べて見るのでありました。奥さんの墓の納骨棺の蓋は、浅く切ってある溝に綺麗に嵌っているので、その置き方に歪みが見られないのでありました。
 歪んでいるように見えるだけなのかも知れないと思って、島原さんは指を使って棺の縁と蓋との左右の寸法差を測ってみるのでありました。すると矢張り等間隔ではなくてほんの一センチ弱、誤差が確認されるのでありました。目地を埋めるモルタルの剥がれと云い、この蓋の置き方の歪みと云い、いったいこの墓はどうしてしまったのだろうと島原さんは考えるのでありました。
 しかしずっと前からそうだったのかも知れないとも、思うのでありました。大体、そんな処になど普段目が行かないから、偶然今日それを発見したに過ぎないのであります。娘の家族の墓は前から、そんな風になっていたのでありましょう。そうすると、矢張りこの墓の直近の納骨の作業をした石材会社の仕事が、いい加減だったと云う結論であります。もしそうなら、島原さんはなんとなく、雑に扱われたことになる娘の家族の墓が可哀想になるのでありました。年端も行かない世間知らずにつけこまれたためなのか、きっちり仕事をして貰えなかった娘のことも妙に不憫に思えるのでありました。
 御影石の蓋の上に置かれた、項垂れたような姿の二輪の花が、島原さんには如何にも哀れに見えるのでありました。それをそこから除けるために島原さんは花に手を伸ばすのでありました。しかしその手が、なにかに驚いたように、急に中空に止まるのでありました。
(続)
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石の下の楽土には 71 [石の下の楽土には 3 創作]

 島原さんは咄嗟に墓から一歩、後ろへ跳び下るのでありました。島原さんの眉間に深い皺が刻まれ、その瞼は見開かれたまま凍っているのでありました。口から低い唸り声が漏れ出るのでありました。島原さんの手が震えだすのでありました。
 島原さんは二本の項垂れた花を納骨棺の歪んで置かれた蓋の上に残した儘、逃げるようにその前を離れるのでありました。小走りに墓地の門に向かって島原さんは急ぐのでありましたが、途中で足の動きがついていかずに何度か転びそうになるのでありました。
「まさかそんなことが、あるわけがない!」
 門に急ぐ島原さんの乾いた口から、掠れた声の独り言が放たれるのでありました。
 墓地を出ても、島原さんは足の動きを緩めることなく、一散に自分の家を目指すのでありました。まさかそんなことがと云う島原さんの独り言が、繰り返しその口から飛び出すのでありました。道をすれ違う人が、なにかに取りつかれたように妙なことを口走りながら、縺れようとする足を持て余すように急ぎ足に去って行く老人の後ろ姿を、ふり返って凝視するのでありました。
 ・・・・・・
 店を開ける準備を一通り終えてから、拙生は小浜さんに話しかけるのでありました。
「島原さんは、あの後ちっとも見えませんね」
「うん、そうだな」
 小浜さんは冷蔵庫の中の食材をもう一度点検しながら返すのでありました。「亡くなった従弟さんのことで、色々忙しいんだろう」
「でも、この後は四十九日まで千葉には行かなくていいって仰ってましたけど」
「人が一人死ぬと、遺品の整理だとか遺産の相続とか、なにかと面倒臭い事後の始末が色々出てくるからなあ。そう云うことじゃないのかね」
 島原さんは千葉から帰った次の日に三日ぶりにこの店に来て二本の徳利を空け、鍋焼き饂飩を咳きこみながら食して帰ったのでありましたが、その後はまたもやとんと顔を見せないのでありました。店を出る島原さんを見送った時の様子からすれば、次の日も当然やって来るものだと拙生は思っていたのでありましたが。島原さんが顔を見せなくなって、もう一週間になるのでありました。
「なんか体の調子が悪いんじゃないですかね」
「どうかな、それは判らないな。ま、この前出した鍋焼き饂飩が、あんまり気に入らなかったのかも知れないし、そろそろウチの味に厭きたのかも知れない」
 小浜さんが云うのでありましたが、拙生はその小浜さんの云い種に、島原さんに対して示していた今までの気遣いとか労りとか敬意とかが、まあ、拙生の考え過ぎなのかも知れませんが、少し冷えているような按配を見つけるのでありました。小浜さんは島原さんが店に現れないことを、拙生程に気にしていないのでありましょうか。
「でも、島原さんはそんなに味とかに、特に拘らない人じゃありませんでしたっけ」
「人の味覚なんてえものは気紛れだからな。それに味に鈍いとか、好きな味は特にないとしても、嫌いな味と云うのは、結構誰にでも頑なにあるからなあ」
(続)
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石の下の楽土には 72 [石の下の楽土には 3 創作]

 小浜さんは冷蔵庫の扉を閉めてから、壁の時計を見上げるのでありました。
「じゃあぼちぼち、暖簾を出しても良いですか?」
 その仕草を見て拙生が聞くと小浜さんは一つ頷くのでありました。
「うん。ほんじゃあ秀ちゃん、今日も張り切っていくか」
 店にはこの頃薬屋の主人が毎日顔を出すのでありました。酒屋の時津さんが一緒だったり、肉屋の高来さんが後で合流したりして、カウンターに陣取って賑やかに酒を酌み交わしているのでありました。当然商売ですから、小浜さんもその賑やか連中に混ざって冗談を飛ばしているのでありましたが、拙生は薬屋の主人が頻繁に現れるようになってから、この店の雰囲気が以前に比べて少し俗っぽくなったような気がするのでありました。だからと云って小浜さんがそれを許容している限り、拙生にはなにも文句をつける筋あいはないのでありましたが。
 小浜さんは先日、薬屋の主人と時津さんと高来さんの四人でスナック『イヴ』に行って来たようで、なにかにつけて『イヴ』のママの話で盛り上がっているのでありました。どうやら小浜さんも『イヴ』のママを取り巻く、入れ上げ連に入会したようでありました。
「来週の土曜日は『イヴ』の三周年記念パーティーだぜ」
 薬屋の主人が手酌で日本酒を猪口に注ぎなたら云うのでありました。
「そうらしいですね」
 小浜さんが頷くのでありました。
「ありゃあ、俺聞いてないよ、そんなこと」
 肉屋の高来さんが割りこむのでありました。
「なんでもその日は常連だけ十人ばかり招待して、勘定は格安の会費制で夜通し騒ぎまくろうって寸法らしいけど、お前招待されなかったのか?」
「うん、全然聞いてないよ」
「じゃあ、お前は常連として認めて貰ってないんだな、屹度」
「そんなことはないだろう、俺も結構通っているんだから」
 高来さんが口を尖らせて見せるのでありました。
「哲ちゃんはこの前酔い潰れちゃったから、聞き損ねたんだよ」
 酒屋の時津さんが高来さんの肩を叩きながら云うのでありました。「哲ちゃん」は肉屋の高来さんの愛称でありあます。
「ケンちゃんも招待されてんの?」
「うん、当然」
「だったら俺も大丈夫だよな。ケンちゃんよりは俺の方が通ってるもん」
「心配しなくても大丈夫だって。ちゃんとママの勘定に哲ちゃんも入ってるからさ」
 酒屋の時津さんが肉屋の高来さんを安心させるのでありました。
「二三杯飲んでカラオケ二三曲歌って、すぐに酔って亀みたいに寝ちまうんだから、お前は夜通しとか関係ないし無意味じゃねえか、どうせ」
 薬屋の主人が高木さんの肩を小突くのでありました。
(続)
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石の下の楽土には 73 [石の下の楽土には 3 創作]

「それでも俺だけ除け者は、気分が悪いじゃねえか」
「大丈夫だって。除け者にされてないから」
 時津さんがそう云って高来さんの猪口に酒を注ぐのでありました。
「オヤジは声かけられてんの?」
 薬屋の主人が小浜さんに聞くのでありました。
「ええ。アタシはあの日初めて行ったんですけどね、一応お誘いは受けましたよママに」
「ありゃ、そうなんだ。常連だけってわけじゃないんだ、そいじゃあ」
 時津さんが云うのでありました。
「ま、俺がこのオヤジを連れて行ったような感じだったら、ママも俺に気を遣って、オヤジにも一応声をかけたんだろうな屹度」
 薬屋の主人はそう云って徳利を真っ逆さまにひっくり返して、自分の猪口に残っていた酒を殆ど注ぎ尽くすのでありました。
「いや別に、茂木さんに気を遣ってと云うんじゃなくて、あのママはアタシに来て欲しくて、初めて来たアタシも招待したんですよ。アタシが一目で気に入ったから」
 そう云いながら小浜さんは拙生の方にカウンターの下に隠した指を二本示して、もう二本日本酒の燗をとサインを送るのでありました。
「けっ、そんなんじゃねえよ。なんでも都合良く解釈するんだからな、このオヤジは」
「で、皆さん行かれるんですか?」
 小浜さんが三人に聞くのでありました。
「うん、行くよ俺は」
 高来さんがそう云って、別にそうする必要はなにもないのでありますが、手を元気良く真上に挙げて見せるのでありました。
「俺も行くよ、絶対」
 時津さんも同調します。
「お前んところの日陰の桃の木は大丈夫なのか、お前が朝まで帰らなくても?」
 薬屋の主人が先程殆ど空けてしまった徳利を、自分の猪口の上にまた逆さまにするのでありました。それを見て拙生は燗の具合を確かめるのでありました。
「大丈夫だろう、多分。組合の宴会でつきあわされたとかなんとか云えば」
 時津さんが頼りなさそうに云うのでありました。「怒られたら、そん時はそん時だ。まさか俺を叩き出しはしないだろうしさ、その位のことで」
「でも色っぽいママの居るスナックで、朝まで飲んだくれていたなんて後で知れたら、かなりやばいんじゃないの、ケンちゃんところは」
 高来さんが心配しているのかそれとも面白がっているのが、どちらともつかないような云い方で云うのでありました。
 小浜さんが出来上がった燗酒を拙生から受け取って、一本は時津さんの前に置いて、もう一本を薬屋の主人の方へ差し向けながら聞くのでありました。
「茂木さんは、勿論行くんでしょう?」
(続)
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石の下の楽土には 74 [石の下の楽土には 3 創作]

「俺が行かなきゃ、話にもなにもならんだろうよ」
 薬屋の主人はそう云いながら小浜さんの酌を猪口に受けるのでありました。
「そりゃそうでしょうなあ。あのママに一番入れ上げてるんだから、茂木さんは」
「そんな云い方じゃなくて、相思相愛と云ってくれよな」
「そりゃどうだか」
 高来さんが口の中の酒を吹き出すように笑うのでありました。
「で、オヤジは行くの、行かないの?」
 薬屋の主人は高来さんの笑い声を無視して小浜さんに聞くのでありました。
「そうですね、アタシはこの店がありますから、ここを仕舞ってから、ゆっくり後で伺いましょうかね。皆さんがもう出来上がっている頃」
「どうせ朝までやってんだから、それでも別に大丈夫か」
「丁度ママが皆さんのあしらいに厭いた頃、目先変わりの新手として伺うと云う寸法です」
「そんな拙いオヤジの計略通りになんか、なるもんかい」
 薬屋の主人が持っていた徳利を傾ける仕草を止め、片頬を釣り上げて自信たっぷりの笑い顔を作ってから鼻を鳴らすのでありました。
 ・・・・・・
 島原さんは全く顔を見せなくなるのでありました。拙生は心配で大いにやきもきするのでありましたが、小浜さんはと云うと意外にあっさりとしているのでありました。
「来る来ないは、お客さんの勝手だからなあ」
 小浜さんはそう云うのでありましたが、なにやらそれは拙生には少々冷淡過ぎる云い方に聞こえるのでありました。尤も、今のカウンター席は薬屋の主人一派に占拠されているような按配でありましたから、島原さんが店に現れたとしても、なんとなくカウンターには居辛いかも知れません。小浜さんも薬屋の主人一派の相手に忙しいだろうし、それに小浜さん自身も島原さんを相手にしているよりは、今では薬屋一派の相手の方が楽しそうでもありましたし。また、残念ながら拙生ごとき若造では島原さんの相手はそう長く出来そうにもないし。・・・
 そうやってもう一週間程が過ぎ、この『雲仙』と云う居酒屋に島原さんの姿がないのが常態となったような気分になった頃、調律の狂ったギターが突然外れた音を上げるように、島原さんの両手がこの店の暖簾を遠慮がちにかき分けるのでありました。拙生と小浜さんは思わず顔を見あわせるのでありました。以前の島原さんが現れる時間よりは、かなり遅い時間でありました。
 島原さんはカウンター席で薬屋の主人一派がワイワイやっているのを見て、カウンターに席を取ろうかどうか迷うような素振りを見せるのでありましたが、しかしそれを諦めて、以前に座っていた壁際の二人がけのテーブル席に、カウンターに背中を向けるように座るのでありました。拙生は急いでカウンターを出て、島原さんが座った席に行くのでありました。島原さんは横に立った拙生を見るのでありましたが、何時ものように笑いかけることもなく、寧ろなにかに怯えたような色をその両目は湛えているのでありました。
(続)
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石の下の楽土には 75 [石の下の楽土には 3 創作]

「随分、久しぶりじゃないですか」
 拙生が話しかけると島原さんはようやく笑顔を見せるのでありましたが、その笑いはどこか表情に鈍さが漂っているのでありました。
「熱燗をください」
 島原さんはそう云って拙生から目を逸らすのでありました。
「はい、すぐ持ってきますね。それから後で鍋焼き饂飩を出しますか? それとも、もし鍋焼き饂飩がお嫌なら、なにか他のものにしましょうか?」
「いや、取り敢えず熱燗だけをお願いします」
 島原さんはそう云うと俯くのでありました。明らかに、以前とどこかしら様子が違っているのでありました。
「なんか変ですよ、今日の島原さんは」
 拙生は小浜さんに云うのでありました。小浜さんは薬屋の主人との会話を暫し中断して、壁際の席で蹲るように座っている島原さんの背中を見るのでありました。
「そう云えば、ちょっと気落ちしているような感じに見えるなあ」
「どうしちゃったんでしょうかね?」
「さあ、判らないけど」
 小浜さんは云い終らない内に島原さんから目を逸らすのでありました。
「ほんじゃあ、俺達はぼちぼち『イヴ』に行ってるぜ」
 薬屋の主人が小浜さんに云って席を立つのでありました。釣られるように時津さんと高来さんも立ち上がるのでありました。これからスナック『イヴ』の三周年記念パーティーに三人して向かうのであります。
「アタシも後で伺いますから、それまでに散々飲んで、アタシが行く頃にはもう三人共すっかり酔い潰れていてくださいよ。そうじゃないと、ママと差しでじっくり話をしながら、アタシが美味い酒を飲めなくなるんだから」
「そうはいくかい。冗談じゃない。丁度佳境に入った辺りで、ママと俺は良い感じになっているし、こいつ等もオヤジが来たことも気がつかないくらい、がんがん歌って楽しんでるよ。尤も肉屋はひょっとしたら酔い潰れているかも知れないけど」
「おいおい、朝まで盛り上がるんだから、俺がそんなに早く潰れるわけないだろう」
 肉屋の高来さんが薬屋の主人にそう抗議するのでありました。
「ま、いいや。ほんじゃあ先に行ってるぜ」
 薬屋の主人がそう云って拙生をちらと見るのは、勘定をしろと云うことでありましょうから、拙生は脇に置いてある伝票を見ながら金額を集計して、それを一番下に書き入れ、薬屋の主人の方に差し出すのでありました。
「この数字を、きっちり三で割ってくれや」
 薬屋の主人は伝票の数字を見て、そう云って再びそれを拙生に戻し、それから拙生の云うきっちり一人前の金額を、カウンターの空の徳利の横にぞんざいに置くのでありました。時津さんと高来さんもそれに倣うのでありました。
(続)
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石の下の楽土には 76 [石の下の楽土には 3 創作]

「島原さんを、カウンターに呼びましょうか?」
 拙生は三人が去ったカウンターの上の徳利や猪口や料理の皿を下げて、濡らした台拭きで周りを丁寧に拭きながら小浜さんに聞くのでありました。
「そうね、ちょっと声をかけてきてくれないか」
 小浜さんに云われて拙生は島原さんの席へ向かうのでありました。
「カウンターが空きましたから、良かったらいらっしゃいませんか?」
 拙生が促すと島原さんは一つ頷いて椅子から立ち上がるのでありました。
「随分ご無沙汰でしたね」
 島原さんが何時ものカウンターの席につくと小浜さんが話しかけるのでありました。
「ええ、ちょっと」
 島原さんは力なく笑ってそう云った後、小浜さんから目を逸らすのでありました。「体の調子が少し優れなかったものだから」
「もう大丈夫なんですか、お体の方は?」
「ええ、もう。・・・」
「風邪かなんかですか?」
「まあ、そんなようなものです」
「お声の調子が何時もと違うようですけど」
 小浜さんにそう云われて島原さんは唾を飲みこむ仕草をするのでありました。
「いや、もう大丈夫なんです」
 その声も弱々しい感じで、あんまり大丈夫な風ではないのでありました。
「鍋焼き饂飩、どうします?」
「ええ、今日は遠慮しときましょうかね、申しわけありませんが」
「そうですか」
 小浜さんはそう云って島原さんの表情をそれとなく窺うのでありましたが、それは島原さんが鍋焼き饂飩を本当は好きではないのではないかと、探るためのようでありました。
「なんなら、湯豆腐かなにかお出ししましょうか?」
「そうですね、どうせなら、冷や奴の方がいいかな」
 島原さんは遠慮がちに云うのでありました。
「判りました。それからお酒のお代わりは、どうしましょう?」
「ええ、それじゃあ、お願いします」
 そこで島原さんと小浜さんの会話は途切れるのでありました。小浜さんはなんとなくそれ以上は話しかけ辛そうにその儘黙って、冷蔵庫から豆腐を取り出して来て冷や奴を作るのでありました。島原さんも目を上げないで、カウンターの上に置いた猪口を持った自分の手を見ているのでありました。
 この気まずい雰囲気はなんなのだろうと拙生は考えるのでありました。島原さんの体調が優れないためでありましょうか。それとも小浜さんの今までとは違ったどことなく冷えのある対応を、島原さんが敏感に察知して戸惑っているためなのでありましょうか。
(続)
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石の下の楽土には 77 [石の下の楽土には 3 創作]

「今日は少し早仕舞いさせていただきます」
 出来上がった島原さんの燗のお代わりを拙生から受け取って、島原さんの猪口の横に置きながら小浜さんが云うのでありました。
「ああ、そうなんですか」
「へえ、ちょっと野暮用があるもんで」
 その小浜さんの野暮用と云うのは当然、スナック『イヴ』の三周年記念パーティーに行くことなのでありました。
「じゃあ、これを空けたら失礼させていただきますよ」
 島原さんはそう云って今出て来た徳利を触るのでありました。
「いやまあ、ごゆっくりされていて構いませんけど、アタシは先に失礼するかも知れません。後はこの秀ちゃんが何時もの閉店まで居ますから、お酒の方は存分に召しあがって頂いて結構です。但し料理はお出し出来なくなります。それにお酒のお相手も」
 酒だけは存分に構わないけれど、料理と話し相手はご勘弁をと云われれば矢張り長居はし辛いよなと、拙生は小浜さんの云い方にさっぱりしないものを感じるのでありました。結局早く引けてくれと云っているようなものではありませんか。
 島原さんは冷や奴には殆ど手をつけずに、寡黙に二本目の徳利の中身をちびりちびりと減らしているのでありました。そんな島原さんに小浜さんは何時もみたいに話しかけるでもなく、時々壁の時計を気にしながら、こちらも自分の仕事を黙々と続けているのでありました。
「済みませんが、もう一本、頂いてもいいでしょうか?」
 二本目の徳利を空けた島原さんが、云いにくそうに小浜さんに聞くのでありました。
「はい、熱燗もう一本、承りました!」
 拙生が小浜さんより先に、少し威勢良くそう云うのでありました。島原さんはお客なのでありますからそんな遠慮がちにではなく、もっと威張ってお代わりを要求すればいいのにと拙生は思うのでありました。
 島原さんは三本目も寡黙に俯いたまま、ちびりちびりを敢行しているのでありました。それはゆっくり酒を楽しんでいると云うのではなく、まるで、なにかある一所に止まろうとする考えを先に繰り遣るために、時々手を動かすことによって思考にも動きをつけようとしていると云う風に見えるのでありました。そんな島原さんを時々見遣る小浜さんの目が、なにやら厭わしげであるように思えるのは、これは拙生の考え過ぎでありましょう。
「なにか肴をお造りしますか?」
 小浜さんが島原さんに聞くのでありました。「ぼちぼちアタシはご免を蒙りますので、もし料理の追加があれば、今の内に承りますが」
 小浜さんが来る客来る客に今日の早仕舞いを念押しするものだから、遂にその日はもう、残っている客は島原さん一人になっているのでありました。
「いや、料理は結構です」
 島原さんは今気がついたように、客がもう誰もいない店内を見渡すのでありました。
(続)
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石の下の楽土には 78 [石の下の楽土には 3 創作]

「熱燗のお代わりを、もう一本つけますね」
 拙生がそう島原さんに云うのでありました。
「いや、お酒も結構ですよ」
「そう仰らずに」
 拙生は云いながら、もう酒タンポに日本酒を注ぎ入れているのでありました。「こんな若造が相手じゃ面白くもないでしょうけど、この後は静かにゆっくり飲めますから、今日は久しぶりにいらしたんだから、どうぞ存分に召しあがっていってくださいよ」
 島原さんには今なにやら懸案があって、それを考えの上で解決するには、恐らく酒の力が要るのだろうと拙生は踏んだものだから、そう云って引き止めるのでありました。家に居て一人で考えの堂々巡りに陥っているのが、島原さんは嫌なのではないかしら。だから屹度、今日ここに現れたのであります。
「どうぞ、お酒だけで構わないなら、ゆっくりやってください」
 小浜さんが云うのでありました。それに拙生が用意しているお代わりの徳利がぼちぼち湯気を立て始めたものだから、島原さんはそれならば言葉に甘えてもう少しばかり落ち着こうか、と云う素振りを見せるのでありました。
 調理用具一式の後片づけを終えた小浜さんが、カウンターの下からその日の売上の入った手提げ金庫を取って、店の奥に設えてある一坪程の倉庫兼更衣室に引きさがるのでありました。暫くすると小浜さんは私服に着替えて出て来るのでありました。
「ほんじゃあ秀ちゃん、店を頼むね」
 小浜さんが拙生に云うのでありました。
「了解しました。後は任せてください」
「島原さん、それじゃあ今日は、アタシは申しわけないですがこれで失礼させて貰います。どうぞ秀ちゃん相手に、ゆっくりしていってくださいね」
「はい有難うございます」
 小浜さんは島原さんに礼をして、それから拙生に片手を上げてから引き戸に片手を添えるのでありました。
「ああそうだ、暖簾はもう仕舞って置こう」
 小浜さんはそう云うと引き戸を空けてから外の暖簾を外して、それを戸の内側にかけ直して、もう一度店内に片手を上げて見せるのでありました。
「ほんじゃあ、楽しんできてください。他の人と張りあって飲み過ぎないように」
 拙生が出て行こうとする小浜さんの背中に声をかけるのでありました。小浜さんが背中を向けた儘また手を上げて、掌を横に二三度振るのはさようならの挨拶代わりなのでありましょう。小浜さんが閉める戸の音が消えると、店内は急に静かになるのでありました。
「気兼ねなく、ゆっくりしていってくださいね」
 拙生が島原さんに声をかけると、島原さんは口元を綻ばせて一つ頷くのでありました。「そうだ、なにもないのは如何にも無愛想だから、アタリメでも焙りましょう」
 拙生はそう云って冷蔵庫からスルメを取り出すのでありました。
(続)
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石の下の楽土には 79 [石の下の楽土には 3 創作]

「秀ちゃんも、料理をするんだ」
 島原さんが話しかけるのでありました。
「まあ、アタリメを焼く位は。それにそんなものは料理の内に入りませんから」
 拙生はそう云いながらコンロに焼き網を載せて火つけ、細く裂いたスルメを軽く焙るのでありました。それから焙り終えたスルメを皿に盛って、横にマヨネーズを絞ってから島原さんの前に置きます。
「それにしても島原さんは、夕食は食べたんですか、今日は?」
「いや、あんまり食欲がないから」
 島原さんはそう云って拙生が出したスルメの一片を指で摘んでその端にマヨネーズを少しつけて口に入れるのでありました。摘む時も口に放りこんでからも島原さんがあんまり熱そうな素ぶりを見せないものだから、拙生は焙りが足りなかったかしらと、ちらと心配になるのでありました。
 島原さんは拙生が出したスルメには殆ど手をつけずに、寡黙に猪口を傾けているのでありました。もし島原さんが懸案を解決しようとして、今頭の中で色々と考えを纏めようとしているのであれば、ここでなんの関係もない余計な話題をふり向けない方がよかろうと考えて、拙生は島原さんに話しかけないのでありました。
 島原さんが時々顔をほんの少し顰めるのは、なにか嫌なことにでも思い当たるからなのでありましょうか。それに深刻そうに額に皺を寄せているかと思えば、急に眉を開いて弛緩した表情になってみたり、それから暫くすると口の端が微妙に動いて自嘲的な笑みが浮かんだりと、島原さんの頭の中では様々な思考が、時々鈍い光を放ちながら惑星のようにゆっくり順行しているのでありましょう。
 ・・・・・・
 暫くして拙生は徳利のお代わりをもう一本、黙って出すのでありました。それを猪口の上でゆっくりした間隔で数回横に傾けた後に、島原さんは徐に顔を起こして拙生を見るのでありました。
「秀ちゃん、これから話すことを、下らない妄想だって笑わないでくれるかい?」
 島原さんはそう前置きするのでありました。
「なんですか? 笑うなと云われれば、自分は勿論笑いませんよ」
 拙生がそう真顔で返すと、島原さんは一つ頷いて拙生から一瞬目を逸らして、そうしてまたすぐに拙生の顔をじっと見据えるのでありましたが、それは拙生が本当に笑わないで島原さんの話を聞くことが出来るかどうか、拙生の云った言葉の重みを計量しているからなのでありましょう。
「ほら、私が千葉の従弟の葬儀から帰った日、もう夕方になったんだけど、ちょっと気になって墓地へ行ってみたんだよ」
「気になったと云うのは、墓地で逢う娘のことが気になったと云うことですか?」
「うん。私が三日間行かなかったから、ひょっとしてあの娘が心配しているかも知れないと思ってね。まあ、心配なんかしていないかも知れないけれど」
(続)
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石の下の楽土には 80 [石の下の楽土には 3 創作]

 島原さんはそう云って猪口を口元まで持ち上げるのでありました。「時間が何時もと違ったから、逢えないかも知れないとは思ったんだけど、矢張りその日は娘には逢えなくてね。墓には、少し萎れかけた三日前の花が二本、挿してある儘だったよ」
「ああ、そうですか」
 拙生は一応そう相槌をうつのでありました。
「その日は、私が花を取り替えて、家に帰ったんだ」
 島原さんはようやく猪口に口をつけるのでありました。「次の日は逢えるだろうと、何時もの時間に墓地に行ったんだけど、その日も娘は居なかったし、墓や周りを掃除をした跡もなかったんだよ」
「島原さんが千葉に行った日以降、娘は墓地に来ていないと云うことでしょうか?」
「うん、そうだね。ずうっと毎日、来ていたんだけどね、あの娘は、墓地に」
 島原さんはカウンターに片肘をついた手に猪口を持った儘、なかなかそれを口に運ばないのでありました。
「ああそうか、娘がアルバイトを替えたって、前に話していましたよね。それで墓地に行く時間がとれなくなったのかな」
「いや、前のアルバイトは辞めたけど、次のアルバイトは未だ決まっていないって云っていたんだよ、最後に逢った時には」
「ああ、そうだそうだ、そんな話でしたかね、前に島原さんにお聞きしたのは」
 拙生がそう云って島原さんの前の徳利を取り上げると、島原さんはその拙生の所作に動かされて猪口を口につけるのでありました。島原さんが手に持った儘の空いた猪口に、拙生は日本酒を注ぎ入れます。
「私も、娘のその次のアルバイトが決まったんで、墓地に来る時間が取れなくなったのかも知れないとは思ったんだよ、その日は。でも、その次の日も現れないとなると、ちょっと心配になってね」
「娘は矢張り、全く墓地に来なくなったんですね、詰まり、そうなると」
「そう云うこと、だよね」
 島原さんはそう云って、拙生が酒を注いでから未だ口もつけていない猪口を、カウンターの上に静かに置くのでありました。
「毎日来ていた娘が、急にぷっつり来なくなると云うのは、それは確かに変ですよね」
 拙生が云うと島原さんは返事をしないで、顔を俯けてカウンターの上に置いた猪口をじっと見るのでありました。
「ああそうだ、秀ちゃんも飲むかい?」
 島原さんは暫く黙った後、今気がついたと云う風に急にそんなことを云うのでありました。拙生は一礼して、こんな場合のために流し台の横に何時も置いてある自分専用の猪口を取り上げるのでありました。客に酒の相手を求められた時の流儀として、愛想に猪口を差し出して一杯は注いで貰うけれど、それは口をつけても決して飲まずに、酒を満たした儘手元に置いておけと拙生は小浜さんに指示されているのでありました。
(続)
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石の下の楽土には 81 [石の下の楽土には 3 創作]

 島原さんは徳利を取って拙生の差し出した猪口に酒を注ぐのでありました。拙生はそれを押し頂いて軽く口をつけると、その儘また流し台の横に置くのでありました。客が何度もしつこく、こちらが遠慮しても勧めてくる場合は、気づかれないように中の酒は流しに棄てて、それを口に持っていって、グッと空けるような仕草をした後差し出すようにとも小浜さんに云われているのでありました。幾ら愛想とは云え、商売をしている側が仕事中に飲むのは、厳に慎まなければならないのは全く当然のことでありました。
「娘は、どうしちゃったんですかねえ」
 拙生はそう云いながら島原さんの手から徳利を貰って待機していると、島原さんは自分の猪口を取り上げて、一口舐めた後それを拙生に差し出すのでありました。殆ど中身が減っていない猪口に、拙生はそれこそほんのお愛想程度に酒を注ぎ足すのでありました。
「新しいアルバイトの都合で墓地に来られなくなったのなら、それは仕方ない話だけど、でも考えたら、墓地に来るのを犠牲にしなければならないようなアルバイトを、幾ら不景気で仕事がないと云っても、娘が選ぶことなんかないように、私は思うんだよ」
 島原さんはそう云って、また口をつけずに猪口を下に置くのでありました。
「そりゃそうですよね、今までの経緯からしても」
「一応花を取り替えたり、一通りの仕事を片づけた後、まあ、娘が現れる気配のようなものは全く感じられなかったんだけれど、それでもその日は結構長い時間、私は墓地で娘を待っていたんだよ」
 島原さんはそこで猪口を取って、口の中を湿すように一口飲むのでありました。「それでね、娘の家族の墓をなんとなく見ていたら、ちょっと妙な様子に気づいたんだよ」
「妙な様子って、詰まり墓の姿が、と云うことですか?」
「うん、そう。と云っても気づかないでいたなら気づかない儘、なんと云うこともなく見過ごしてしまうようなことかも知れないけど。・・・」
 島原さんはそう云った後、猪口の酒を一気に飲むのでありました。拙生は徳利を傾けて空いた猪口にまた酒を満たすのでありました。
「墓に、疵かなにかついていたんですか?」
「いや、そんなんじゃなくてね、ほら、墓ってのは、一番下の段が納骨棺になっていて、その上に石が三つ重ねてあるだろう。一番上のが家の名前とかが彫ってある縦長の石で。ウチの女房の墓もそうだし、娘の家族の墓もそんな形になっているんだよ」
 島原さんにそう云われても、拙生はぼんやりとしか墓の姿形を思い浮かべられないのでありました。そう云われれば、確かにそんな風でありましたか。
「ああ、そうでしたかねえ」
 拙生は曖昧に云うのでありました。
「その墓の納骨棺、お骨を入れるところなんだけど、それには石の蓋がついていてね、その蓋は納骨した後にモルタルで縁取ってしっかり固定するんだけど、その縁取りのモルタルが、娘の家族の墓の方はすっかり剥がれてなくなっていたんだよ。ウチの女房の墓は綺麗に目地にモルタルが埋まっているんだけどね」
(続)
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石の下の楽土には 82 [石の下の楽土には 3 創作]

 島原さんはまた猪口の酒を一気に空けるのでありました。
「それは、長い時間が経つと、結局剥がれてしまうものなんじゃないですか?」
 拙生が云うのでありました。
「いや、女房の墓の納骨棺が開けられた時期と、娘の家族の墓の納骨棺が開けられた時期は殆ど同じ二年程前でね、その位の時間でモルタルが劣化してしまうことは、多分ないはずなんだよ。現に女房の墓の方はちゃんとしているんだし」
「誰かが故意に剥がしたと云うことでしょうか?」
 拙生は再び島原さんの猪口に酒を満たすのでありました。
「判らない。それにもっとよく見てみると、納骨棺の蓋が本来嵌っている位置からすこしずれていて、僅かに歪んで置いてあることに気づいたんだよ」
「詰まり、誰かが蓋を開いたと云うんですか?」
 拙生がそう聞くと島原さんは黙った儘、納骨棺の蓋の微小な変化ように、ほんの僅かに身震いするのでありました。
「それは判らない。でも、・・・」
「初めから少しずれて蓋が置かれていたと云うことは考えられないですか、納骨の仕事をした人が大雑把な性格の人だったりとかで?」
「そうかも知れないけど。でもそう云うことに対して遺族は結構デリケートになるものだから、墓の管理の仕事をする人は、気を遣って丁寧な仕事をするんじゃないのかな」
「いやあ、その辺は自分にはよく判らないですが」
 拙生は頭を掻くのでありました。
「私はなんか、その蓋のモルタルの剥がれと、ずれが気になって仕方がないんだよ」
「それじゃあ矢張り島原さんは、誰かが納骨棺の蓋を開いたと思っているわけですね?」
「その可能性も、あるよね。・・・」
「モルタルの破片とか、墓の周りにあったんですか?」
「モルタルの破片?」
 島原さんはたじろぐようにそう云って、眉根を寄せて拙生を見るのでありました。
「誰かが剥がしたのなら、その破片がそこいらに散らばっていてもいいじゃないですか」
 島原さんは拙生から目を逸らして、その辺りの状況を思い出そうとするのでありました。
「それは、なかったような気がする。でも、私は迂闊で、そんなこと考えもしなかったから、見落としたのかも知れないけど。・・・」
 島原さんは少し混乱したようで、猪口を手にとって、ほんのちょっと逡巡した後、それをまた一息に飲み干すのでありました。「でも、発覚するのを恐れて、その破片はどこかに始末したのかも知れないし」
「まあ、そう云うこともあるかもしれませんが」
 拙生は島原さんの猪口に酒を注ぎ入れるのでありました。「じゃあ、もし誰かが蓋を開けたとして、そんなことを誰がすると云うんでしょう?」
 拙生が云うと、島原さんは拙生を切なそうな目で見上げるのでありました。
(続)
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石の下の楽土には 83 [石の下の楽土には 3 創作]

「それは、・・・」
「島原さんは、屹度、娘がそうしたんだとお考えなんですね?」
 島原さんがゆっくりした瞬きをしながら頷くのを見て、拙生は続けるのでありました。「その石の蓋と云うのは、娘の力で動かせるものなんですか?」
「かなり重いだろうけど、出来ないことは、ないと思う」
「それなら、なんのために、娘が納骨棺の蓋を開けたんでしょう?」
「それは、色んな推察が出来ると思う」
 島原さんはまたもや一気に猪口の酒を空けるのでありました。その仕草は酒を飲んでいると云う意識が殆ど薄れて、注がれたものは腹の中に収めなければならないと云う島原さんの律義さからの、反射的或いは機械的な作業のようでありました。
「例えば寂しさに娘が惑乱して、つい家族の骨壷に触りたくなったとか、骨壷を家に持ち帰ったとか、そう云うことでしょうかね?」
 拙生がそう云うと島原さんは俯いて返事をしないのでありましたが、それはそんな風なことを島原さんが考えているのではないと云う査証のようでありました。
「そう云うことかも知れないけど。・・・」
「いや、島原さんはそうじゃないとお考えのようですね」
 島原さんは顔を上げて拙生を見るのでありました。
「うん。そんなことのために、娘は蓋を開いたんじゃないような気がする。娘がそうしたのは、私があくまで咄嗟に閃いたことなんだけど、もっと切羽詰まった意図からだったんじゃないかと思うんだよ」
「なんですか、その切羽詰まった意図と云うのは?」
「詰まりね、・・・」
 島原さんはそう云った後次の言葉を口から放つことを逡巡して、空になった猪口を両手で包んで何時までも凝視するのでありました。まるでその底の方に蟠っているかも知れない娘の意図を、見極めるように。だから拙生は徳利を取ったはいいものの、次の一杯を猪口に注ぎ入れることが出来ないのでありました。暫く重苦しい沈黙が続くのでありました。
「だから、詰まり」
 島原さんがようやく口を開くのであありました。「蓋を空けて、納骨棺の中に、その、詰まり、娘がさ、入って仕舞ったんじゃないかと、・・・、」
 拙生はその島原さんの言葉を聞いて思わず失笑しようとするのでありましたが、慌ててその笑いを口から外に漏らさないために、途轍もなく大粒の錠剤を飲みこむ時のように、喉を引き攣らせながら懸命に空気の塊を嚥下するのでありました。島原さんの話に対して笑わないと誓約したのでありましたから、ここで笑うわけにはいかないのであります。
「娘が、墓の中に、入って仕舞ったんですか?」
 喉のあちらこちらに引っ掛かりながらも、飲みこんだ笑いが漸く胃に落ちついてから拙生がそう聞くと、島原さんは猪口を見つめたまま頷くのでありました。
「私は、そう思えて仕方がないんだよ」
(続)
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石の下の楽土には 84 [石の下の楽土には 3 創作]

 島原さんはそう云って猪口から手を離すのでありました。
「いやあ、それは、・・・どうでしょう」
 拙生は島原さんが離した猪口に酒を注ぐのでありました。娘が墓の中に入って仕舞った等と云うのは、幾らなんでも余りに突拍子もない思いつきではないでしょうか。
「そんなのは、突拍子もない考えだと思うかい?」
 拙生は思わず「はい」と即答しかけるのでありました。しかし島原さんの真顔を見ていると、島原さんにとってはかなりリアリティーのある思いつきであることが判るのでありました。だから無下に否定するのは、如何にも礼儀知らずのふる舞いのように思えるのでありました。先程の笑いと同じに、拙生はこの「はい」も懸命に腹の中に飲み下すのでありました。
「うまく島原さんの思いこみ、いや推察が頭の中に落ち着かないんですが、詰まり、どう云うことなんでしょう、娘が墓の中に入って仕舞ったと云うことは?」
「だから、アルバイトも上手く見つけられないし、そうなると差し迫った生活の困窮を解決する目途も立たないし、先の希望も見出せないし、大体がそんなに生きる意欲も、この世への未練もなかったし、自分が生きている意味が遂に消え失せたんだと、娘はここにきてはっきり悟ったんじゃないかな。だから、家族の居る墓石の下の楽土に行こうって、そう考えたんじゃないのかな」
「詰まり、娘は自分も墓の中に入ってもう出て来ない決意をしたと、そう云うことですか?」
「なんか、娘が結局そう云う結論を得るのは、彼女のお母さんが亡くなって仕舞った時に、なんとなくもう、決まっていたような気がするんだよ、今から考えると」
「ちょっとあからさまな云い方になりますが」
 拙生がそう前置きするのは、なんとなく島原さんがそんな直截な言葉を聞きたくないのではないかと気を遣うからでありました。「娘は墓の中に入って、自殺を試みたと云うことですかね、それは要するに」
 その拙生の言葉に、島原さんはようやく判るか判らないか位の、ごく僅かな頷きの動作を返すのでありました。それからすぐに拙生から目を逸らすのでありました。
「しかしですよ」
 拙生は続けます。「そんな昔の即身成仏みたいなことが、娘に出来るんですかね」
「例えば睡眠薬とかを使えば、そんなに苦痛はないかも知れない」
「娘に睡眠薬を手に入れる手段があるんですか?」
「いや、そこら辺は私には全く判らないけれど」
「いやいや、それよりそもそも、その墓の納骨棺は人一人が入れる大きさなんですか?」
「入れると思うよ。身を丸くして縮こまれば」
「なんとか重い蓋を開けて、身を縮めて中に入りこんで、それからまたその重い蓋をぴったり閉めてと云う作業が、本当に娘一人で出来るんですか?」
 島原さんはそれが娘に本当に出来るかどうか、多分もう既に何度も考えたことでありましょうが、もう一度頭の中でじっくり検証するように目を閉じて黙るのでありました。
(続)
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石の下の楽土には 85 [石の下の楽土には 3 創作]

「不可能では、ないと思う」
 島原さんは暫くしてから目を開くと、そう小さな声で応えるのでありました。
「でも、ですよ」
 拙生は尚も食い下がるのでありました。「娘は、自分がこの世から居なくなったとしたら、家族の墓の世話も供養も出来なくなるって、そんな風なことを云っていたと、前に島原さんは話してくれませんでしたっけ?」
「うん、確かに娘はそう云っていた」
「なにを差し置いても、それは娘にとって大事な仕事であるわけでしょう?」
「この世に一人残った以上、それを最も大事な自分の仕事だと思っていたようだね」
 島原さんは拙生を見上げて頷くのでありました。
「だったら、自分がこの世に生きていなければならないと、詰まり生きている意味はあるんだと、娘はそう自覚していたと云うことになりませんかね?」
「確かにね」
「それなら、それを簡単に放棄するような真似を、娘がするでしょうか?」
「この先、生きていく手段が残っていれば、娘は屹度墓守と供養のために生きようとしたと思うよ。でも、次のアルバイトがなかなか見つからないし、今後のこの世での生活の目途も立たないと思ったら、ぎりぎりに追いつめられたような気になってしまったのかも知れない。そうなると娘があっさり死を選んで仕舞う理由として、それは如何にも充分なものだったと思う。なんせ、この世に生きる意欲が、驚くほど希薄な感じの娘だったからね。もっと云えば、生きていくことに、投げやりな感じだったし」
「でも、本当にそれですぐに、死のうと短絡して仕舞うんでしょうかね?」
「それは、全くその個人の資質の問題になるから、結局なんとも云えないかも知れない。もっと頑張ろうとする人もあれば、すぐに諦めて仕舞う人も居るだろう。ただ、娘の場合は、矢張り後者だったような気がするよ、私は」
「娘はこの世から去って家族の居る楽土に行くために、墓の中に入りこんで、もう出てこない決心をしたと、島原さんはそう考えるんですね?」
「私には、そう思えるんだよ」
「でも自分には、それは矢張り余りにも現実離れした推理のようにしか、・・・」
 島原さんは拙生にそう云われることを、既に最初から判っていたのでありましょう。だから苦く自嘲的に笑って項垂れるのでありました。
 しかし島原さんの推理に、拙生はどうしてもリアリティーを感じることが出来ないのでありました。もっとなにか、なんと云うこともない単純な別の事情で納骨棺の蓋が歪んでいたり、目地のモルタルが剥がれたりしたのではないでしょうか。それに娘が墓地に何日も現れないのも、それこそアルバイト探しとか或いはアルバイトが決まって、今迄のように自由に動けなくなったからだと考える方が、拙生には如何にも自然で無理のない推察であると思われるのでありました。島原さんの白髪の頭頂部に拙生は「幾らなんでもそれは余りに考え過ぎですよ」と、目線のみで語りかけるのでありました。
(続)
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石の下の楽土には 86 [石の下の楽土には 3 創作]

 しかし島原さんにとってはその推理こそが唯一リアルな、娘が島原さんの前に現れなくなった理由なのでありました。それは苦笑った後に島原さんが、酒を注がれるのを拒むように猪口を両手で包むように持った儘、俯いてなにも喋らなくなったその痛々しい姿ではっきり拙生には判るのでありました。島原さんの、恐らく持て余すような頑迷さで強固に鎧われた、悲観的で絶対的なその突拍子もない思いこみを覆すことは、幾ら拙生が情理を尽くして、他の妥当と思われる可能性や楽観的な観測を色々提示出来たとしたところで、全く以って無理であろうと思われるのでありました。
 重苦しい沈黙が続くのでありました。もう口を開かなくなった島原さんを、拙生は徳利を持った儘何時までも見下ろしているしかないのでありました。
「若し万が一そうであるなら、ですよ」
 拙生は遂にその沈黙に堪えかねて、恐る々々言葉を放つのでありました。「そうであるなら、それは娘が自殺したと云うことになるわけだから、もう間にあわないでしょうけど一応、救出と云うことを考えなければいけませんよね、そうと気づいた以上。それから救出が手遅れであったとしても、それでも事件性みたいなものはありますから、その島原さんの推理を警察かなにかに話して、何らかの解決を図らなければならないんじゃあ、ないでしょうかね」
「警察が、信じてくれるかね?」
 いや到底信じてはくれないでしょうと拙生は口の中で云うのでありました。拙生が信じられないくらいだから、島原さんに対して拙生よりは敬意や遠慮の気持ちが薄い警察が、そんな推理を親身になって聞く筈がないのであります。しかしそんなことを云うところを見ると、島原さん自身もその自分の推理を、一般的には突拍子もないものだとちゃんと判っていると云うことでありましょうか。
「まあ、なかなか信じては、くれないでしょうね」
 拙生はそう小さな声で云うのでありました。
「それにそうやって周りが大騒ぎするのは、娘の意に反することのような気が、私にはするんだよ。娘はこの世の殆どの人から忘れられた存在だったし、娘自身もそう云う存在で居ようとしていたわけで、その娘が自分の意思で墓の中に入って仕舞ったのなら、それはそれである種の厳粛な完結なんだとも思えるし。余計な真似をして騒ぐのは、それは娘の選んだ完結を、私が穢すことになるような気もするんだよ」
 島原さんが云うのでありました。
「ああ、そうですか。・・・」
 拙生はなんとなく、島原さんが対処の行動をしない理由に、自分の確信に対する潔さみたいなものが不足しているような気が一方でするでありましたが、しかしそれは云わずに続けるのでありました。「島原さん自身は、それを確認することはしないのでしょうか?」
「確認?」
 島原さんは少したじろいで、拙生の言葉を繰り返すのでありました。「それは、私にはとても出来そうにないよ、怖くて」
(続)
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石の下の楽土には 87 [石の下の楽土には 3 創作]

「ああ、そうですか。・・・」
 拙生はまたそう繰り返すのでありました。
「実は、娘が墓の中に入ったんだと気づいてからね、私は恐ろしくて恐ろしくて、墓地に行くことが出来ないでいるんだよ」
 島原さんはそう云った後に小さな身震いをするのでありました。「なんかあの墓の中に娘が身を横たえているんだと思うと、とても墓地には近づけないんだよ」
「じゃあ、奥さんの墓参りも、今は中断していると云うことですか?」
 島原さんはその拙生の問いに、ごく振幅の小さい頷きを一つ返すのでありました。
「本当に不本意なんだけど、私はどうしても墓地に行けないんだよ」
 島原さんの猪口を握る指が小刻みに震えているのでありました。
「で、どうする積りでいらっしゃるんでしょうか、島原さんは?」
 暫くの沈黙の後、拙生が聞くのでありました。島原さんは拙生から目を逸らして、俯いてしまうのでありました。
「この後どうしていいのか、私には全く判らない。・・・」
 そう云って島原さんはため息を一つ吐き出すのでありました。その息は島原さんが両手で持つ猪口の中に入りきれずに、縁から溢れるのでありました。
 ・・・・・・
 この頃は居酒屋『雲仙』の雰囲気がすっかり変わって仕舞っているのでありました。良く云えば以前より活気が出てきたとも云えるし、悪く云えば騒々しくなったと云えるのでありました。客層も様変わりして、カウンターには薬屋の主人が何時も陣取っていて、酒屋の茂木さんや肉屋の高来さん、それに時には不動産屋の社長も顔を見せて、横に居並んでワイワイと楽しそうに杯の遣ったり取ったりや、ビールの注ぎっこが繰り広げられるのでありました。また『イヴ』のママやらそこで働いている若い娘やらが来たりもするし、それに『イヴ』繋がりで新しい男の客も幾人か出入りするようになるのでありました。
 小浜さんも以前に比べると如何にも饒舌に客あしらいをするようになったし、時には居並び連の大笑に和して、高らかな笑い声を発するようにもなるのでありました。商売繁盛と云った様子は、それは経営と云う面では大いに歓迎するところではありましょうが、それにその変化を喜んでいるらしい小浜さんには申しわけないのではありましたが、拙生にはどこか馴染めない鬱屈があるのでありました。なにより小浜さんの仕事ぶりが、以前に比べて少々雑になったように感じられるのでありました。それは拙生にはなんとも遣る瀬ない変化なのでありました。
 島原さんはあれ以来、全く店に来ないのでありました。憔悴の面持ちで肩を落とした儘帰って行った島原さんの丸めた背中が、拙生は何時までも目に焼きついていて離れないのでありました。島原さんは未だあの突拍子もない思いつきに翻弄されていて、墓地へ行くことも出来ず、解決策も思い浮かばない儘悶々と毎日を送っているのでありましょうか。全くの偶然頼みでありましたが、なんでもなかったような顔で街の中を歩く娘に、島原さんがパッタリ出くわしてはくれないものかと、拙生はそんなことを願うのでありました。
(続)
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石の下の楽土には 88 [石の下の楽土には 3 創作]

 縦し、娘が遂に再び現れないとしても、その内になにかの切かけで喉に刺さった小骨が落ちるように、突拍子もないあの思いつきが島原さんの喉首から嘘のように離れてくれて、晴々とした顔でまたこの『雲仙』の暖簾を潜ってくれると良いのでありますが。いや、未だ小骨が落ちていなくても、来てくれたなら拙生は喜んで島原さんの話を聞く積りであります。それはあんまり楽しくなるような話ではないにしろ、それで多少の島原さんの気散じになるのなら、拙生は聞くだけは聞く用意はあるのでありました。それに若し島原さんが許してくれるなら、拙生は墓地まで一緒について行って上げても良いとも、考えているのでありました。
 しかし島原さんが来てくれたとしても、今の『雲仙』に島原さんの居場所はどこにもないかも知れません。そう云う意味でも、拙生は店の雰囲気変わりが残念でならないのでありました。
 ぼちぼち本腰を入れて就職活動を始めるかなと拙生は考えるのでありました。今の儘の『雲仙』に、拙生は急速に魅力を失いつつあるのでありました。将来飲み屋を創めようかと云う気持ちも、次第に萎んでくるのでありました。自分は結構人の話にあわせることが上手いとか、客あしらいにそつがない方だとか勝手に思っていたのでありましたが、この頃はその自信もすっかり失せて、接客仕事は結局自分には向いていないのかなと思うようになるのでありました。腹蔵を隠して嫌いなタイプの人と一緒に笑うことが、途轍もなく大変な作業なのだと拙生は漸く判るのでありました。
 人の好き嫌いなんと云うものは、どの世界に居てもどう云う仕事に就いていても結局はつき纏うものでありましょうが、それがその仕事の枢要であるような種類の仕事は、これは畢竟、拙生には手に負えないものであるかも知れません。人の好き嫌いを前面に押し出して突っ走る程豪胆でも自信家でもなく、かと云ってそれを内に秘した儘、露ほども顔に出さずにいられる程したたかな狸でもなく、風に柳の柔らかい護身術処世術を身につけているのでもなく、況してや大悟しているわけでは更々ない拙生が、こう云った接客業に本格的に身を置いたら、それこそ屹度早々に行きづまるに違いありません。酒がなによりも好きであるのでもなく、美味い食い物のためにはどんな労も厭わないと云うタイプでもなく、それに寂しがり屋でも、ま、ないし。
 こう云った拙生の了見の変化は小浜さんにもなんとなく判るようで、小浜さんと拙生のそれまで結構噛みあっていた筈の息も、微妙に齟齬が生じてくると云った按配でありました。小浜さんは拙生の少し投げやりになった仕事態度に、戸惑ったり苛立ったりする風であるし、拙生もそれは従業員として小浜さんに大いに申しわけないことだと判りながらも、薬屋の主人の慎みのない一言や面白くもない冗談、弁えのない頓狂な大声等に接すると、つい自制を忘れて無愛想にもなって仕舞うのでありました。
「秀ちゃん、最近口数がすっかり減ったね」
 小浜さんは店を開ける前等に、そんなことを云って彎曲に拙生を窘めたりするのでありましたが、そんな折り拙生が「小浜さん、最近無駄口が矢鱈と増えましたね」と腹の中で云い返すのは、実に以って不届きな態度であったと云えるでありましょう。
(続)
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石の下の楽土には 89 [石の下の楽土には 3 創作]

 島原さんは一向に現れないのでありました。拙生は大いに心配するのでありましたが、しかし島原さんが娘と連絡をとる手段を持っていなかったように、拙生は島原さんの消息を知る手立てをなにも持っていないのでありました。住所とか電話番号とかをそれとなく前に聞いておけばよかったと思うのでありましたが、それは思っても今更詮ないことなのでありました。
 心労が募ると老人のことでありますから、いや老人に限ることではないでしょうが、体調を崩すこともあるかも知れません。云ってみれば勝手に自分で考えついた突拍子もない思いこみではありますが、そのために墓地にも行けず、一般的にこの先そう長くもないであろう余生を心安らかに過ごせないでいるかも知れない島原さんが、拙生はひどく可哀想に思えるのでありましたし、拙生の心配は日毎に大きくなっていくのでありました。
 拙生は就職活動の本格化を理由に『雲仙』でのアルバイトを、週に二日間少なくし貰うのでありました。本当は半減といきたかったのでありましたが、急にそう云うわけにはいかないでありましょう。拙生の手が減った分、小浜さんとしては新しいアルバイトを雇ってそれを埋めなくてはならないだろうし、その新しく雇ったアルバイトがいきなり拙生のしていた仕事をそつなくこなせるとは限らないでありましょうから。
 しかし就職活動本格化の実態はさて置き、拙生はなんとなく気が楽になるのでありました。小浜さんとの微妙な気持ちの齟齬が少々重荷にもなっていたし、なんとなくカウンターの内側に居辛い思いもありましたし。なにより薬屋の主人の声を毎日聞かないで済むと云うのが、拙生の気分を結構さっぱりさせるのでありました。しかし島原さんのことは矢張り頭から離れないのでありました。
 さて序でに云い添えれば、就職活動本格化でありますが、要するに今までよりも少し熱心に新聞の求人広告覧を眺めていると云うのが、その実態なのでありました。別に企業に電話をかけまくって、スーツを着こんで面接に動き回ると云うことでもなく、大学時代の卒論の担当教授に相談をしに出かけると云うことでもなく、職安に通うのでもなく、要するに寝そべって新聞を繰っているだけなのでありますから、これは云ってみればアルバイトを二日減らして、その分長閑な時間を楽しんでいるのとそう変わらないのでありました。
 居酒屋『雲仙』には新しいアルバイトが入るのでありました。ようやく二十歳になったばかりの、少し目に険のある、柔道整復師の専門学校に通っていると云う男の学生でありました。当初は週に二日、拙生の居ない日に慣らし旁、拙生のしていた仕事を代わるのでありましたが、拙生が見るところ、なんとなく大雑把な性格で、あまり色んなところに気が回ると云うタイプではないのでありました。しかし彼の意気ごみたるや大したもので、本当は柔道整復師になるよりは飲食店で働いて、行く々々は自分の店を一軒持って、それをチェーン展開して大勢の人を顎で使うのだと、ぬけぬけと、いや、あっけらかんと、いやいや、情熱的に、聞いてもいない将来の夢とやらを披露してくれるのでありました。
「ああ、そう。・・・まあ、頑張れよ」
 と、これは小浜さんと拙生が壮大なる夢を語る彼に対して云った銘々の、たじろぎながらの激励の言葉でありましたが、久々に小浜さんと拙生の見解が一致するのでありました。
(続)
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石の下の楽土には 90 [石の下の楽土には 3 創作]

「どうですか、新入りのアルバイトは?」
 それから暫くして、暖簾を出す前に拙生は小浜さんに聞くのでありました。最初の二日間だけ、要領を教えると云うことで拙生は彼と一緒に仕事をしたのでありましたが、その後は顔をあわせることはなかったのでありました。
「ま、意欲的にやってるよ」
 小浜さんが応えるのでありました。「でも、あいつはなんとなくやる事ががさつだし、ちょっとおっちょこちょいだな。変に気が短いところもあるし。云うことも妙に怖いもの知らずで鼻につくけど、しかしまあ、未だ歳も若いからそれは仕方がないかな。元気一杯で、小柄だけど体力はあるし、声は大きいし、料理人としてはダメだと思うけど、案外水商売向きかも知れないよ、あれは」
「へえ、そうですか。声が大きいのは、今の『雲仙』向きかも知れませんね」
「それ、どう云うこと?」
 拙生にそんな積りはなかったのでありましたが、小浜さんは拙生の言葉に小さな棘を見つけたようでありました。少々不用意な発言だったと拙生は悔やむのでありました。
「いやまあ、自分がこの店で働きだした頃よりは、今の方が随分と活気があると思ったんですよ。お客さんも増えたし」
「店の雰囲気なんて云うのは、こっちが押しつけるもんじゃなくて、お客さんに創って貰うもんだよ。こう云った、盛り場にある店じゃない場合は、特にね。出入りするお客さんの絶対数が決定的に足りないんだから、この街では。そりゃあ、こんな感じの店でやっていきたいとか云うこっちの思いはあるけど、そればかりじゃあ、到底上手くいかないさ。俺や俺の料理に、客を惹きつける強烈な魅力があれば別だけどね」
「いや、別に今のこの店をどうこう云っているわけじゃないんですよ」
 拙生は穏やかな声で弁明するのでありました。「ただ、島原さんは今のこの店には、屹度入り辛いだろうなと思うわけですよ」
「島原さんねえ」
 小浜さんはそう云って暫く考えるように小首を傾けた儘、自分の腕時計をぼんやり見ているのでありました。「そう云えば、この頃ちっとも来ないなあ」
 これはこの店の現状について拙生とこれ以上あれこれ云いあわないための、小浜さんの話題転換なのでありました。
「どうしているんでしょうね、この頃は?」
 拙生もこんな云いあいは不本意にも大儀にも思えものたから、小浜さんの話題転換に乗るのでありました。「小浜さん、島原さんの住所とか聞いていませんか?」
「いやあ、特には」
「ああそうですか」
「頻繁に来てくれていた客が、急にパッタリ来なくなるのは、まあ、よくあることだからな。一々気にしていてもどう仕様もない。島原さんが来たいと思ったなら、その内また来ることもあるだろうさ」
(続)
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