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石の下の楽土には 2 創作 ブログトップ

石の下の楽土には 31 [石の下の楽土には 2 創作]

 娘は島原さんを瞬きもせずに見つめ続けるのでありました。今の島原さんの言葉が全く耳の中に届いていないように。
「どうせあたしはもう、この世に居ても居なくても、どうでも構わないんだから」
 娘のその言葉は捨て鉢な調子で口から放たれたのではなくて、しごく落ち着いた冷静な口調で語られたのでありました。それだけに島原さんの腹の中にその言葉が重く響くのでありました。
「今の寂しさに負けてそんな悟ったようなことを云ってみたり、投げやりになるのはどうかなあ。君にはこの世で未だ一杯、楽しいことが待ち受けていると思うよ、若いんだから」
「どうかしら」
 娘はそう云って懐疑的な顔をして弱々しく笑うのでありました。
「私みたいな老人が云うのならまだしも、これから後、今の歳の何倍も生きる可能性のある人が、そんな風にこの世と向きあうのはあんまり感心しないなあ。いや、喩え老人が云ったとしても、あんまり聞き心地の良い言葉ではないよ、そんなのは」
「若いから、これから色んな人と出逢うし、色んなことが出来るって云うんでしょう?」
「そうだね、まあ、そう云うことかな」
「でもあたし、色んな人と出会いたくないし、色んなこともしたくないの。本当に」
「そんな風に云うのは、未だ早いと思うけどね、私は」
 島原さんは妙に厄介な処に話が迷いこんでしまったなと思って、心の中で小さくため息をつくのでありました。
「あたしがこの世でやることは、このお墓の前に来ることしかないの」
「だって花屋での仕事もあるし、買い物とか美味しいものを食ったりもするだろう」
「そんなこと、仕方ないから、しているだけだもん」
 島原さんは自分もずっとそうだったなと思うのでありました。仕事も買い物も食事も、その他の生きていく上でこの世でしなければならない様々な営為も、特にやりたくてやっていたのではないのでありました。意欲的に仕事に向きあってきたわけでもなく、激しい恋をすることもなく、欲しいものもこれと云ってなく、食べたいものも特段見当たらない儘、総てに無精に淡白にこの世をずっと過ごしてきたと思うのでありました。だから、娘を諌めようとしても、自分にはその資格も迫力もなかろうと思い至るのでありました。
「お爺ちゃん、怒ったの?」
 娘が黙りこんだ島原さんに云うのでありました。
「いや、そうじゃないけど」
「ね、あたしと話してもちっとも面白くないでしょう。だからあたしは人にも好かれないの。でも、別にいいの、それでも」
「いやいや」
 島原さんは娘の顔を見て優しげな笑いをするのでありました。「君はとても優しい人なんだと云うことはよく判るよ、私には。それにとっても可愛いらしいし」
 島原さんが云うと、娘はそう云う評価は意外だと云うような顔をするのでありました。
(続)
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石の下の楽土には 32 [石の下の楽土には 2 創作]

「どうしてそんなことが判るの?」
「君の話ぶりを見ていたら、ちゃんと判るよ」
 自分の話しぶりのどこを見ればそんなことが判るのか、娘は納得がいかないと云った顔をして島原さんを見るのでありました。確かに島原さんには娘が優しいのかそうでないのかなど、今の時点で全く判るはずがないのでありました。判らない儘なんとなくそう云った言葉を娘に向けて仕舞うのは、娘の言辞が娘の本来の心根から出たものではなくて、一時の気の迷いがそう云わせているだけなのだと、仄かながら本人に指摘しようとしてでありましたし、優しい心根であろう本来の姿に、全く似つかわしくない思いに振り回されているように見える娘が、島原さんには少々可哀想に思えたからでありました。
 しかしこの娘が優しい心根の娘であるのかどうか、未だ判らないではないかと島原さんはもう一度考えるのでありました。自分はそんなに勘の良い方でもないし、その自分の勘と云うものに大した自信もないのでありました。それに一目でその人の本心を見抜くほどの眼力も備えてはいないのであります。ほんの少し話したくらいで娘が本当に優しいのかそうでないのか、そんなものが自分に判るはずもないのであります。でも、この娘がとても可愛いらしい顔をしていると云うことだけは、紛れもない事実であると島原さんは思うのでありました。
「なんとなく、勇気づけてくれているんだと云うことは、判るわ」
 娘が云うのでありました。「でも、勇気づけてもらうために、あたしはこんな話をしたんじゃないの。あたしがこんな話をしたのは、・・・」
 娘はそこで次の言葉を暫く失うのでありました。「本当はただ、お花とお線香を何時も有難うって、そう云いたいだけだったのに。・・・」
「そんなもの、お礼を云われる程大したことじゃないよ」
 島原さんが云うのでありました。なんとなく今までの話がここで終息しそうな気がして、島原さんは内心ほっとするのでありました。
「自分でお花とお線香を買ってこようって、いつも思うんだけど」
 娘が俯くのでありました。
「毎日花を持って来るんじゃあ、大変だしね」
「せめて一週間に一回持ってくれば、それでお爺ちゃんに花を貰わなくても済むんだけど。それにあたしはお花屋さんで働いているって云うのに」
「いやあ、高いからねえ花も。いくら花屋で働いているとは云っても、タダで貰って来るわけもいかないだろうしね」
「お線香も、ウチのお花屋さんに置いてあるのに」
「それもタダとはいかないしね。アルバイトだからそんなに貰っていないんだろう、給料?」
 島原さんのその問いに娘は俯いた儘ほんの少し頭を縦に動かすのでありました。
「もっとみっちり働けば、週に一回花を買えるくらいのお給料は貰えるんだけど」
「いいよいいよ、二輪の花と線香の十本くらい、なんと云うこともないんだから、私は」
 島原さんがそう云うと娘は顔を上げるのでありました。
(続)
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石の下の楽土には 33 [石の下の楽土には 2 創作]

「ご免ね、お爺ちゃん」
 娘はひどく情けなさそうな顔をして、島原さんに合掌して見せるのでありました。
「おいおい、私に掌をあわせて貰ってもなあ。それもこんな場所で」
 島原さんがおどけて云うのでありました。娘の顔に弱々しいながらも、漸く薄い笑みが浮かぶのでありました。
 ・・・・・・
 島原さんに徳利のお代わりを差し出しながら小浜さんが云うのでありました。
「それからその娘が、掃除担当になったわけですね?」
「うん、多分私に花と線香を貰うその代わりと云う積りなんだろうけど、なんとなく何時も自分の家族の墓だけではなくて、私の女房の墓の周りも掃除してくれるようになったんですよ」
 島原さんが小浜さんの酌を猪口で受けながら云うのでありました。
「一応は、恩にきる気持ちも持ちあわせてはいるわけだ。まあ、当然と云えば当然の話ですがね。花と線香を貰うばっかりで、お返しに何一つしようとしない娘となりゃあ、アタシが黙っていませんよ。一遍その墓地に乗りこんでいって、このアタシがその娘に説教してやりますよ」
「いや、オヤジさんのお出ましを待つまでもなく、その娘は普通以上の、優しい心根を持った娘さんなんですよ、間違いなく」
 そう云って猪口を唇に載せて傾ける島原さんの顔にも、なんとも優しげな笑みが浮かんでいるのでありました。
「島原さんは墓地でその娘と、どんな話をするんですか?」
 拙生は洗い終った何枚かの皿と徳利を拭きながら聞くのでありました。
「そうねえ、まあ、娘の亡くなった家族のこととか、前に働いていたミシン工場での仕事の話しとか、今の花屋での働きぶりとかかな。私の方は戦前の海軍に居た時の事やら、今の生活ぶりやら、聞かれれば女房のことも話したりするよ。それから、そうねえ、あの世の話とか」
「あの世の話?」
 小浜さんが包丁の動きを止めて顔を上げるのでありました。「あの世の話と云うと?」
「宗教的なこととかそんなに深い内容のことじゃないけど、まあ、墓地に居るんだから、そう云ったのもなんとなく自然に話題になることもありますよ」
「若い娘の好む話題じゃなさそうですね、それは」
「でも、結構色々私に質問したりしてきますよ、その手の話になると。尤も私も不信心な方だから、仏教とかのちゃんとしたところは全く話せないんだけど。屹度、亡くなった自分の家族があの世でどうしているのか、家族が居るあの世と云うのがどんな処なのか、そんな辺りがちょっと知りたいんじゃないですかねえ。矢張り亡くなった家族があの世で幸せにしているかどうか、心配なんでしょう。尤も、あの世が在るとしたらの話ですが」
 島原さんは手酌で徳利の酒を静かに猪口に移すのでありました。
(続)
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石の下の楽土には 34 [石の下の楽土には 2 創作]

 死ねば後はすっかりパア、と云うのが拙生の大体の考えでありました。尤も若かったから、純然とこの世の出来ごとたる死そのものの事は、それは偶に考えないこともなかったのでありますが、死んだその後の話となるとはさっぱりイマジネーションが働かないのでありました。そう云えば死んだ後に、自分はどうなるのかしら。何処に行くのかしら。ちゃんと向こうでも豚バラ肉の唐揚げ定食とか、ラーメンとかちゃんぽんとかが食えるのかしら。酒も飲めるのかしら。向こうでもどこかの会社に就職して、毎日通勤しなくてはならないのかしら。向こうでも当面はアルバイトをしながら生活していくことは出来るのかしら。・・・
「娘と話すあの世の事って、どんな風なことなんですか?」
 拙生は徳利を拭く手を止めて島原さんに聞くのでありました。
 ・・・・・・
 娘が手桶に水を汲んで来てくれるのでありました。
「いやあ、悪いねえ」
 島原さんが礼を云うのでありました。
「ううん、こんなことくらい別に」
 島原さんは受け取った手桶の水を柄杓で掬って墓に頭から注ぐのでありました。島原さんが水を注ぎ終わると娘が手桶を受け取って、島原さんの真似をするように残った水を自分の家の墓にかけるのでありました。線香の束に島原さんが火をつけてその半分を娘に渡すと、娘はこれも島原さんの所作を真似て線香を香炉に横たえるのでありました。二基の水に濡れた艶やかな御影石の墓が、香炉から細い煙をたてながら日差しに映えるのでありました。尤も島原さんの前にある墓の花立てには華やかな花の束が、娘の前にある墓の花立てには一輪ずつの花が差してあるのでありました。
 島原さんの墓参は何時しか週に二回から、ほぼ毎日と云う風になっているのでありました。それは墓地で娘と逢って話をしたいからでありました。
「お墓の下にはね」
 娘があわせた掌を解きながら、横を向いて島原さんに云うのでありました。「楽土と云うのが在るんだって」
「楽土?」
「そう。苦しいこととか辛いこととかが一つもない、楽しい土地のこと」
 娘は墓石の下の納骨棺の蓋を見るのでありました。「お父さんの納骨の時、青森から来た、お母さんの叔父さんて云う人がそう云ってたの」
「お母さんは青森の実家の方とは、殆ど縁が切れていたんだっけ?」
「うん。それでも一応青森の親類に知らせたら、葬儀には誰も来なかったんだけど、納骨の時、なんだっけ、四十九日って云うんだっけ、その時にその叔父さんて云う人が一人やって来たの。お母さんと逢うのは二十年ぶりくらいだって云ってた。勿論あたしはその時その人に初めて逢ったんだけど」
「いくら縁が切れたようになったと云っても、青森の方でも気にはしていてくれたんだろうね、屹度お母さんの消息を」
「それは知らないけど」
 娘はそうぶっきら棒に云ってから、水に濡れた納骨棺の滑らかな御影石の蓋の上に掌を載せるのでありました。
(続)
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石の下の楽土には 35 [石の下の楽土には 2 創作]

「なんと云ってもその叔父さんにとっては、君のお母さんは姪にあたるわけだから、弱っているお母さんを元気づけるために、屹度来てくれたんだろうね」
 島原さんが云うのでありました。
「だったら、お葬式の時にも来てくれてよさそうなものじゃない」
「それはそうだけど・・・」
「まあ、そんなことはどうでもいいの」
 娘はそう云って仕切り直すように口を閉じてから、徐に先を続けるのでありました。「その叔父さんがね、どう云う積りなのか、納骨の時この蓋が開けられているのを見て、あたしに云ったの、墓石の下には楽土があるんだって」
「君を安心させるために云ったんだろう」
「そうだとは思うけど」
 娘は御影石の蓋を掌でゆっくり撫でるのでありました。「でも、お母さんのお葬式の時は、違う人が来たのよ。お母さんの妹のご主人だって云う人が。叔父さんからは手紙も電話もなかったの。お母さんやあたしを本当に可哀想だと思ってくれるのなら、連絡くらいしてくれてもいいんじゃないかしら」
 島原さんは実家と娘の母親との経緯が、未だ忌憚のあるなにやらややこしい状態の儘だったのであろうと推察するのでありました。そのややこしい事情の具体的なところに興味は湧かないのでありましたが、なんとなくそんな事情とは全く無縁であるべきはずのこの娘がその余波を被っていると云うことであるのなら、それはひどく気の毒なことだと思うのでありました。
「そんな話じゃなくて、楽土のこと」
 娘が御影石の蓋から手を離すのでありました。「その叔父さんの印象は、その後逢うこともなかったから忘れてしまったけど、でも、その楽土の話はあたしずっと覚えていたの」
 娘は濡れた掌をもう一方の掌に擦りあわせるのでありました。「楽土って云うのは、なんにも苦労がない処で、そこに行った途端この世で経験した色んな苦しみが、すっかり消えてなくなるんだって。死んだ人はそこでその後、何時までも楽しく笑いながら暮らしているんだって。お墓の中には玉砂利がひかれていて、お兄ちゃんの遺骨が在って、その横にお父さんの遺骨が置かれて、お父さんは蓋が閉まったら、お兄ちゃんが待っているその玉砂利の下に在る楽土に降りて行くんだって」
 娘は両掌を胸の前であわせて云うのでありました。
「ふうん。楽土が玉砂利の下に在るんだ」
 島原さんは蓋が閉まったら埋葬された人が楽土に降りて行くと云う件に、妙なリアリティーを感じるのでありました。確かに魂が天に昇ると云うよりは、地の下の楽土に降りて行くと云った方が、埋葬と云う手続きの延長としてすんなり納得出来るような気がするのでありました。そう云えば神話で死者が行く黄泉の国も地下にあると云われているし。しかし黄泉の国は穢れた暗黒の世界であって、決して楽土などと云う気楽そうな処ではないのであります。その辺の不整合が島原さんはほんの少し気になるのでありました。
(続)
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石の下の楽土には 36 [石の下の楽土には 2 創作]

「墓の下にそんな良い処が在るなら、なにも別に何時までもこの世に居ないで、皆早くそこへ行ってもいいんじゃないのって、その時、あたしは叔父さんに云ったの」
 娘が続けるのでありました。「そうしたら叔父さんは、この世で四人以上の人の葬式に立ちあった者じゃないと、楽土には行けないんだって云うの」
「四人以上の人の葬式?」
「うん、そう。四人以上の人の葬式」
 娘が島原さんの顔を見るのでありました。「なんで四人以上なのかは、教えてくれなかったけど。多分叔父さんも、知らないんだと思う」
 まあそれはごく一般的な考えとして、人一人が、生まれて順調に与えられた生を生きていって、老境と云われる年齢にまで達したとしたら、一生の中で立ちあうことになるであろう葬儀の数は、確かに少なくとも四人以上にはなるだろうと島原さんは思うのでありました。娘の叔父さんは<誰でも>と云う意味のレトリックとして、<四人以上の人の葬儀に立ちあった者>と云ったのであろうと島原さんは考えるのでありました。大らかで大雑把なレトリックではあるにしろ。
「あたし小さい時に、同じような話を、お母さんから聞いたことがあるの」
 娘は墓を見上げるのでありました。「お母さんは、五人て云ったように覚えているんだけど、大体は同じような意味の話だったの」
「へえ、そう。お母さんの生まれた地方に在る云い方なのかねえ、人生を全うすることを、四人とか五人とかの葬式に立ちあうって云う風に云うのは」
「そうかも知れない」
 娘は目の前の墓から視線を落として、両掌で口と鼻を覆うと、小さな咳をしてから続けるのでありました。「あたし叔父さんにその話を聞いた時は、そんなに子供でもなかったから、天国とか極楽とか地獄とかの言葉は知っていたし、そんなもの在るはずがないって考えていたの。まったくの子供じみたお伽噺みたいなものとか、誰も見たことがないような話なんかは、ちゃんと疑ったり、馬鹿々々しいって軽蔑することも出来る年齢だったの。でも、お母さんからずっと昔に、同じ話を聞いていたからかも知れないけど、叔父さんに墓に埋葬された人が、地中の楽土に降りて行くって云う話をされた時、お母さんの話と同じだって思って、すぐすんなりと受け入れちゃったの、ああそうに違いないって」
 娘は胸の前であわせた掌を一つ音がしないように叩くのでありました。「それでその後、あたし考えたの。この世で四人の葬式に、あたしは立ちあえないかも知れないって」
「どうして?」
 島原さんが小さな声で聞くのでありました。
「だって、お兄ちゃんと、お父さんと、それからその内お母さんを見送るとして、これで三人でしょう、そうすると、四人にはとどかないわけじゃない」
「でも、この後ずうっと君が寿命まで生きていれば、家族以外にも、後一人の葬儀くらい間違いなく経験することになると思うよ」
 島原さんは云いながら、言葉に笑いを添えてもよいものかどうか迷うのでありました。
(続)
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石の下の楽土には 37 [石の下の楽土には 2 創作]

「でもあたし、この後もずうっと、誰とも深くつきあうつもりはないもん。第一、お墓とお花屋さんにしかあたし行かないから、誰もあたしのことなんか気づきもしないだろうし。そうなると誰かのお葬式なんか出ることは、一生ないと思うの」
「まあ、そんなこと未だ判るもんじゃない。君がこの後の何十年もの間、この墓とアルバイト先の花屋以外に、本当に何処にも行かないとは私には到底思えないし。今後一人の知りあいも君はつくらないなんと云うのも、まず絶対ないことだって思うよ」
 島原さんは今度は少し笑いを浮かべて云うのでありました。しかしなにやら諭すような口調になっていることが、島原さんは実は多少不本意なのでありました。「君の家族のお墓は、ずっと在るとしても、君が働いている花屋が、後五十年間、ちゃんと営業しているとは限らない。花屋のご主人はお幾つになるのかい?」
「今もう、五十歳は越えていると思うわ」
「だったら後何年、あそこで花屋をやっていられるんだろう。まさか百まで花屋を続けているとは思われない。それに君だって七十歳になって、今と同じようにアルバイトとして花屋に勤め続けていると云うのも、まあ、花屋が存続していたとしても不自然な話だしね」
「それはそうだけど、アルバイトを変わったとしても、あたしは結局今と同じような感じで、一人暮らしして、どこかで働いているんだって思うの。長い間には住んでるアパートだって変わるだろうし。でもやっぱり今と同じようにこれから先、あたしは生きて行くんだと思うの。どこに住んでようが、どこで働いていようが、結局このお墓の前に来るのが、あたしのこの世での唯一の仕事なの」
「知りあいも出来ないって云うけど、この私と知りあったじゃないか、つい最近」
 島原さんが云うと、娘は島原さんの顔を眩しそうに目を細めて見るのでありました。
「それはそうね。でもこの先、・・・あの、ずうっと先の話だとしてよ、あたしがお爺ちゃんのお葬式に出ることは、知りあいでも、まずないでしょう?」
「それはそうかも、知れないけど」
 島原さんは云うのでありました。云いながら、そう云えば自分の葬儀は誰がどのように執り行うのだろうと思うのでありました。そんなことを依頼する人が周りには一人もいないと、島原さんは今更ながらに気づくのでありました。千葉の親戚は皆、自分同様老人になってしまったし、その次の世代にとってはあまり深いつきあいもしてこなかった自分など、他人も同様だろうし。
「お爺ちゃん、どうかした?」
 島原さんが黙ったので、娘が島原さんの表情を窺いながら云うのでありました。
「ああ、いや、どうもしないけど」
 島原さんは間近で覗きこむ娘の顔をちらと見るのでありました。「要するに私が云いたいのは<四人、或いは五人の葬式に立ちあった者>と云う表現は、詰まり<誰でも>と同じ意味で使われているってことだよ。だから現実にそれだけの数の葬儀に立ちあう必要もないし、もし君が今後一つの葬式にも行かなかったとしても、それでもちゃんと楽土には行けるってことだから、なんの心配も要らないってことだ」
(続)
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石の下の楽土には 38 [石の下の楽土には 2 創作]

「本当?」
 娘が島原さんに聞くのでありました。
「そう。だから君も間違いなく、ずうっと先の話だけど、楽土には行ける。まあ、そう云う世界が墓石の下に本当に在れば、と云うことだけど」
「じゃああたしも絶対、石の下の楽土には、行くことが出来るのね?」
「勿論そうだ」
「お兄ちゃんとお父さんとお母さんが居る楽土に、あたしも行けるのね?」
「大丈夫だよ」
 島原さんは受けあうのでありましたが、墓の下に在る楽土と云う話を、実は島原さん自身は未だ受け入れてはいないのでありました。しかしそんなことは噯気にも出さないで続けるのでありました。「考えてもみてごらん、君の兄さんは四人の葬儀に立ちあった後で亡くなったかい?」
「そう云われてみれば、・・・そうよね。今まで考えもしなかったけど」
「それでも叔父さんは、お兄さんが待っている楽土にお父さんが行くんだって云ったんだろう? だったらお兄さんはもう既に楽土に居るってことじゃないか。四人とか五人とかの葬儀に実際に立ちあわなかったお兄さんが楽土に居ることを、そうしなければ楽土には行けないなんて云った叔父さんが既に、認めていることになる」
「だったら、四人以上の葬式に立ちあった者しか、楽土には行けないなんて、云わなければ良いのに。誰でも楽土にいけるんだって、そう云ってくれれば良いのに」
「まあ、言外に、孝を尽くして、身を大事にして老少の順を守れと、諭すためなのかも知れないね、そう云う風な云い方になるのは、屹度」
「それにしても、まわりくどいじゃない」
「そりゃあそうだ。でも、そう云いならわされてきたんだから、ここで文句を云っても仕方がない」
「でも、あたしも家族が居る楽土に行けるんだって判ったら、なんだか安心した」
 娘はそう云って島原さんの顔を見つめるのでありました。「お爺ちゃんさ、本当にあたしも、楽土に行けるのよね?」
「うん、大丈夫だよ。・・・相当、先の話だけどね」
 島原さんは受けあうのでありましたが、地下に楽土が在ると云うことを未だ本気で信じていない自分が、そんなことを保証するのは一種の詐欺ではないだろうかと思うのでありました。島原さんは大きな目を自分の顔に一直線に向けている娘の顔から視線を逸らして、俯いて秘かにたじろいでいるのでありました。
 ・・・・・・
「へえ、楽土ねえ」
 小浜さんが盛りつけ終わった刺身の見栄えを点検をしながら云うのでありました。「極楽浄土ってことですかね、要するにそれは。しかしアタシはあんまりピンとこないですなあ。どうせなら、今生に居る内に出来るだけ良い目を見たいと云うクチでしてね、アタシは」
(続)
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石の下の楽土には 39 [石の下の楽土には 2 創作]

「仏教で云うと、極楽とか浄土とかになるんでしょうがね」
 島原さんは傾けた徳利をゆっくり元に戻すのでありました。「まあ私はもうこの歳ですから、今後、今生で見る良い目と云ってもたかが知れているし、どちらかと云うと来世に期待するところは大いにあるんですが、しかし墓地で出逢う未だ二十歳そこそこの娘が、この先、今生を亡くなった家族の供養だけで生きて、来世に行けるであろう楽土のことを夢見ているなんと云うのは、今のご時世どこか歪な了見に思えるんですよね」
「そりゃそうだ。第一どこに居ようと、どんな狭い世界で生きていようと、この先その娘には色んな、面白そうなこととか誘惑とかが、嫌でも目の前にふんだんに湧いてくるでしょうから、墓参りだけでその後の人生を送れるわけがない。今はそんな心根でいたとしても、屹度その内すぐに心変りして、墓にも滅多に姿を見せなくなるんじゃないですかね」
「まあ、私もオヤジさんが云うような風になった方が良いと思いますがね」
「屹度そうなりますね。まあ、その娘は今のところこの世に絶望しているんでしょうが、そのくせ、まだこの世に救いがある事も信じてもいるんですよ。その救いに縋りつこうとしているんですな。その証拠が島原さんとの墓地での会話だと見ますね、アタシは」
「ほう、そうなんですか?」
 島原さんは口元持っていった猪口をそこで止めて小浜さんを見るのでありました。
「本当に絶望しているのなら、偶々現れた島原さんに話しかけたりするもんですか」
「それは花を貰おうと思って」
「いや、その後もその娘は島原さんには身の上話みたいなことも話すんでしょう? それに島原さんの奥さんの墓の周りを、自分から掃除してるんでしょう?」
「ええ、そうですね」
「と云うことは、墓参り以外にこの世になんの興味もなかったはずなのに、島原さんが出現すると、その娘の興味が自分の家族の墓石以外のところにも、自然にと云うか、当たり前に向いたと云うことですよ」
「花や線香を貰っているから、礼儀上それくらいはするんじゃないかしら」
「家族の供養以外に本当に興味がないのなら、島原さんに自分の身の上語をしたり、あかの他人の墓の周りを掃除したりするもんですか」
 小浜さんが島原さんの前の徳利を取って、下に置いたままの猪口に酒を満たすのでありました。「娘は島原さんの出現が、嬉しかったんですよ、屹度。憂い以外になにもないと思っていたこの世だったけど、島原さんの出現で、ポオッと娘の目の前に薄日が差したような具合になったんですよ。家族の供養以外に、この世になんの興味もないと云い張っていても、まあそんなもの、なんかの切っかけですぐにころっと変わるものですよ。島原さんを無意識に頼っているからこそ、身の上話もするし、島原さんに喜んでもらいたいから、奥さんの墓の周りも掃除するんです。人を頼ったり、その歓心を得ようとする行為は、頑なな厭世観からは生まれてこないでしょうし」
 拙生は小浜さんのこの洞察に秘かに感心するのでありました。家族から逃れて一人で釣りをすることによって、小浜さんはこのような慧眼を手に入れたのでありましょうか。
(続)
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石の下の楽土には 40 [石の下の楽土には 2 創作]

「まあ尤も、幾らその娘が島原さんに好意を持ったとしても、それに島原さんが光り輝いて見えたとしても、島原さんを<男>として、好意を持ったり輝かしく見たりしているわけではないと云うのは、蛇足ながら一言しておきますが」
 小浜さんがそう云って小さく島原さんに頭を下げるのでありました。
「そりゃそうだ。オヤジさんに云われるまでもなく、二十歳そこそこの娘がこんな爺を<男>として見ているわけがない」
 島原さんがそう云って目の前の先程小浜さんが酒を満たした猪口を手に取って、少し大袈裟過ぎる程の大笑をするのは、ひょっとしたら自分が<男>であることから、もうとうの昔に引退してしまった寂しさのような情けなさのような感情を、大笑の裏側にぎごちなく隠蔽しようとする、意図せざる意図のためだったかも知れません。それは小浜さんも感じたようで、島原さんに限らず、男は性として<男>であることの胡散臭さを、引退の後も相変わらず発散し続けて居たいものなんだよなあと、後に拙生にしみじみと語るのでありました。
 ・・・・・・
 確かに、島原さんは娘の表情が最初に逢った時に比べて、少しは和んできたようにも感じるのでありました。島原さんと話をする娘は、薄くではありますが笑ったり、おどけた様子を表現したりするのでありました。それはつまり、島原さん自身をも大いに和ませるのでありました。
 或る日のこと、娘は墓地にやって来た島原さんに、持っていた紙袋からビニールパックされた卵と野菜のサンドイッチを取り出して、それを差し出すのでありました。
「お爺ちゃんもう、お昼ご飯食べた?」
「いいや、未だだけど」
「良かったら、これ、食べない?」
 娘は島原さんの顔を見て笑うのでありました。「お昼と云うには、少し遅いけどさ」
「へえ、それは有難いね」
 島原さんが受け取ると、娘は今度は紙袋から缶コーヒーを一本取り出して、それも差し出すのでありました。
「一緒に食べようと思って買ってきたの」
 娘はそう云って自分の分のサンドイッチを島原さんに示すのでありました。
「じゃあ、早速」
 島原さんは缶コーヒーを香炉の傍に置いてサンドイッチのパックを開けるのでありました。それを見て娘も自分のパックを開きます。
「本当はなにかお弁当でも作ってくればよかったんだけど、あたしさ、料理が全然出来ないから」
 娘は自分の缶コーヒーのプルリングを開けて、一口飲むのでありました。大体島原さんは何時も遅い朝食を昼飯と兼用で食べているものだから、未だそんなに空腹は感じていなかったのでありましたが、折角の娘の厚意を断る積りは全くないのでありました。
(続)
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石の下の楽土には 41 [石の下の楽土には 2 創作]

「いつもお昼はどうしているの?」
 島原さんが聞くのでありました。
「アパートの近くに、菓子パンとかこんなサンドイッチとか売ってる小さな店があって、何時もそこで買ってるの。このサンドイッチもそこで買ってきたのよ」
「この辺はなんにもないからねえ、スーパーも惣菜屋さんも、食堂も喫茶店も」
「そうね。その店が一つっきりね」
「お昼ばかりじゃなくて、夕食も困るんじゃないの?」
 島原さんは先程娘が料理が全然出来ないと云っていたので、そんなことも聞くのでありました。
「夕食もその店で、なにか適当に買って済ませることが多いかしら」
「駅前の商店街まで行くのは、大変かな」
「うん。面倒臭いし。それに一人で食堂とかに入るのは、あたし苦手だから」
「何時も菓子パンとかサンドイッチだけじゃ、厭きるだろうに」
「そうでもないけど」
 島原さんは自分も食事に大した手間をかけているわけじゃないのに、それでもまあ確かにそんなに不自由は感じていないし、無精から同じ食事を何日も続けていても、別に厭きもしていないのでありましたが。
「でも、毎日のことだから食事が楽しくないだろう、それじゃあ」
 これも自分が云えた義理ではないかと、島原さんは云った端から思うのでありました。
「別に楽しくなくてもいいの。それに偶には、駅前に買い物にも行くのよあたし」
「そうか。そりゃあ、そうだろうね」
「でも外食はしないの。苦手だし。だからスーパーとかで適当に買い物して帰るの」
「じゃあ、その内私がなにか美味い夕食でも奢ってあげようか?」
「そうね、もし、機会があったら」
 娘はそう云うのでありましたが、あんまり乗り気ではなさそうな口ぶりでありました。島原さんは秘かに少し落胆するのでありました。
 ・・・・・・
 島原さんが猪口を空けてそれを下に置くのを待って小浜さんが云うのでありました。
「ほんじゃあ、その娘を一回ここへ連れて来てくださいよ」
「いやあ、本人が外食が苦手だと云っているし」
 島原さんが徳利の酒を猪口に注ぎながら云うのでありました。
「苦手と云っても、今まで一切外で食事をしたことがないわけじゃないだろうし」
「そりゃあそうです。小学生の頃は、ほんの偶にだけど、家族揃って外に食事に行ったこともあったって話してましたよ。その時は嬉しかったって」
「一人で外食するのが苦手で、連れがあれば大丈夫なんでしょう」
「さあ、どうでしょう。そこまで確認しなかったから」
 島原さんは猪口に注いだ酒を飲み干すのでありました。
(続)
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石の下の楽土には 42 [石の下の楽土には 2 創作]

「まあ、若い娘、とりわけ図々しくて無愛想な娘に、アタシの料理が判るわけはないんだけど、それでも島原さんの連れとなりゃあ、大いに歓待させて貰いますよ」
 小浜さんが云うのでありました。
「そんなに図々しいとか無愛想とかじゃないですよ、その娘は」
 島原さんが娘の肩を持つのでありました。
「そりゃあ、今までの島原さんの話を聞いていると、なんとなくそんなにいけ好かない娘と云う風には思わなくなりましたよ、アタシも。最初は初対面の人に花をくれとかぬかす娘は、どれだけ非常識な奴かって印象を持ちましたが、話しを聞いてみると、世間知らずと云うだけで、そんなにふざけやがった娘じゃあないと云うのは判りましたよ。しかしほら、若い娘一般とカカアは、アタシの天敵だから」
 小浜さんはそういう云いながら鬢の辺りを小指で掻くのでありました。
「まあ、折角のオヤジさんの申し出だから、一応は誘ってみましょうかな」
 島原さんもこの店に娘を食事に連れて来るのは妙案かと思ったようで、そう云って小浜さんの提案に少し乗り気になるのでありました。
「若くて可愛い娘となると、自分も興味がありますね」
 拙生は他の席の客が注文した焼酎のお湯割りを三杯作りながら云うのでありました。
「でも、墓地に出没する娘だぜ」
 小浜さんが態と陰鬱な声で拙生に云うのでありました。
「ディスコで踊りまくっている娘だとか、テニスだスキーたヨットだなんて、なんでそんなにと思うくらい遊びに忙しい女の子よりは、墓地に現れる娘なんと云う方が、自分の好みの領域に近い娘のような気がしますが」
「ああ、そうかねえ」
 小浜さんが納得したようなしないような口ぶりでそう返すのでありました。
「秀ちゃんは、どんな娘が好みなの?」
 島原さんが聞きます。
「そうですねえ・・・」
 拙生は高校時代につきあっていた同級生の事を思い浮かべるのでありました。その娘は心臓に重い持病を抱えていて、結局つきあって一年もしない内に他界してしまったのでありました。細身の、中高の顔に目は大きいのでありましたが鼻や口が小造りの、なんとなく華やかな顔立ちの娘でありました。仕草がなよやかで喋る口調も緩やかな感じでありましたが、それは病気のせいで以前から溌剌とした動きを制限されていたためでありました。しかしつきあってみると以外に大胆であったり、お茶目でもあったりして拙生は大いにその娘に夢中になったのでありました。俯くと長い睫が拙生の目を惹くのでありましたし、拙生はいつもその睫の動きにどきどきとしていたのでありました。
「なんだい、なんかいやに勿体ぶって黙るねえ」
 小浜さんが拙生の沈黙がほんの少し長くなったのをからかうのでありました。
「別に勿体ぶっているんじゃないですけど」
(続)
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石の下の楽土には 43 [石の下の楽土には 2 創作]

 拙生はそう云って焼酎のお湯割りを盆に載せるのでありました。「まあ、改まって聞かれると、こう云うタイプが好みだっていうのは、はっきり云えませんかねえ」
「どんなのでもオーケイと云うわけかい?」
「いや、そんなわけじゃありませんが」
 拙生は焼酎のお湯割りを注文のあった席へ運ぶためカウンターを出るのでありました。
「秀ちゃんは、今つきあっている彼女が居るの?」
 カウンターの中へ戻った拙生に島原さんが聞くのでありました。
「友達は何人か居ますが、それは彼女とか云えるものじゃあないですね」
「結構、秀ちゃんは男前なんだから、モテるんじゃないの?」
「いやあ、恐れ入ります」
 拙生は脂下がった笑いを島原さんに返すのでありました。
「秀ちゃんは実は、女に対する理想とか要求とかが高過ぎるんじゃあないかい?」
 小浜さんが云うのでありました。
「そんなことはないですよ。ただ、自分は学校を出ても就職はしていないし、貧乏だし、それをあんまり苦にしていると云うんでもなし、なににつけても面倒臭がりだし、無精だし、男前と云う以外、モテる要件を全く完備していないわけですよ」
「男前は完備しているわけだ」
 小浜さんがそう云って失笑するのでありました。
「桂小文枝が『稽古屋』と云う落語の中で、男のモテる条件を十ヶ条、列挙してますよ」
 拙生がそんな話を紹介するのでありました。
「ほう、モテる条件ねえ」
「ええ。第一の条件が見栄えだそうです。次に男気です。ええと・・・」
 拙生は噺を思い出しながら続けるのでありました。「一見栄、二男、三金、四芸、五精、六おぼこ、七科白、八力、九胆、十評判、だったかな」
「なになに、もう一度云ってくれるかい」
 小浜さんが大いに興味を示すのでありました。拙生は小浜さんの求めに応じて、何度かその言葉を繰り返すのでありました。
「してみるとですね」
 拙生は云います。「自分は貧乏だから三番目の<金>はないわけです。依って一番目の<見栄>も男前ではあるにしろ立派には作れない。優れて<男>気のある方じゃないし、女の子に喜ばれるような<芸>もないし、無精だから<精>もない。<おぼこ>詰まり可愛げもないし、頭の回転が悪いからグッとくる<科白>も云えない。多少<力>はあるけれど誇れる程でもない。<胆>が据わっている方じゃないし、近所で良い<評判>が立っているんでもない。要するに、全滅です」
「いやあ、いいことを聞いた」
 小浜さんが感心してその後黙るのは、屹度条件に自分がどれだけ当て嵌まるのか、早速検証しているためなのでありましょう。
(続)
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石の下の楽土には 44 [石の下の楽土には 2 創作]

 島原さんまで猪口を持つ手を止めて黙るのは、矢張りこちらも気持ちが自己検証に向いているためなのでありましょうか。全く男と云うのは、幾つになっても胡散臭い生き物であります。
 ・・・・・・
 島原さんは娘を『雲仙』に食事に誘うきっかけの言葉が、なかなか口から出ないのでありました。それはこんな老人と食事をしても娘が面白くなかろうし、しかし花や線香を貰っている手前断わり難くもあるだろうと云う、まわりくどい思い遣りからでありました。それにこの墓地以外の場所で娘と邂逅するのは、どこか二人の関係にそぐわないことのようにも思えるのでありました。それでも偶には少し豪勢な食事をしたいと云う気が娘にあるかも知れないし、誘えば案外すぐに、乗り気の返事が返って来るかもしれないとも考えるのでありましたが。
「楽土って、どんなところかしら」
 娘は立ち上る線香の煙を見上げながら云うのでありました。
「苦しみや悲しみのない処と云うから、それは屹度綺麗な処だろうよ。明るくて花が咲き乱れていて、美しい風景が開けていて、食うことや住む処の心配もなくて、誰も歳をとらなくて、争うこともなくて、人の気持ちをあれこれ忖度する必要もなくて・・・」
 島原さんはそんなことを云いながら、実はさっぱり楽土のイメージが湧いてこないのでありました。花が美しく咲き乱れている処とか、美しい風景などはこの世にも在るし、住む処や食う心配は年金暮らしのこの世に居る自分もないと云えばないし、歳をとらないと云うのも実は在る意味で辛いことかもしれないし、この世に居たって一定程度は争わないことも出来るだろうし、人の気持ちを考えない輩はこの世にも大勢居るし、そんなヤツ等ばかりだと返って苛々しそうだし。
「今でこそあたし、お兄ちゃんもお父さんも嫌いじゃなくなったけど、でもそれは二人が今のあたしが居る処とは別の処に居るからで、同じ処に居ることになったら、やっぱりなんか、うまくいかないような気もするわ」
「勿論ずっと先のことだけど、向こうに行ったら、多分君の気持ちそのものが変わるんじゃないのかな、この世に居る時とは全く別のものに」
「お兄ちゃんやお父さんの嫌だったところが、気にならなくなるの?」
「そうね、多分」
「詰まり、無関心になるってこと?」
「そうじゃなくて、嫌いだったところがそうでもなくなって、この世では見つからなかった良いところばっかりが見えるようになるってことかな」
「そうして、二人が好きになる?」
「そうだね」
「でもそれは詰まり、やっぱり実のところ、無関心になるってことなんじゃないかしら?」
 娘が拘るのでありました。「それに好きになることが出来るってことは、詰まり嫌いになることも出来るってことじゃないの?」
(続)
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石の下の楽土には 45 [石の下の楽土には 2 創作]

「楽土では、この世の理屈とか道理とかが、屹度消えてしまうんだよ」
 島原さんはなんとなく腕時計に目を落としながら云うのでありました。
「だから、好きになることはあっても、嫌いになることはないって云うわけ?」
「楽土に行った人は皆、否定的なことは考えなくなって、総てのことを、良い方にしか捉えなくなるんじゃないのかな」
 島原さんはそう云いながら、楽土について知りもしないし今まで考えもしなかったのに、そんないい加減なことをここで自分が云って良いのかしらと考えるのでありました。
「それは、この世の人が、この世でそうあって欲しいって考えていることなんじゃないかしら」
 娘が云うのでありました。「あの世じゃなくて、この世の中に願っている理想のようなものにしか、あたしには聞こえない。あの世に、この世とは全く違う理屈とか道理があるのなら、この世であって欲しいこととかあって欲しくないこととか云う基準とは、全然違う基準があっていいんじゃないの? この世に居る良い人の見本のような人達があの世に居るだけなら、それはあの世のことではなくて、単にこの世のことを話しているだけなんじゃないかしら」
 娘にそう云われて、島原さんは腕時計から目が離せなくなるのでありました。確かにこの世でそうあって欲しい人間像とか人間関係とかを、単にあの世に仮託しているだけの話で、あの世の実相とは程遠いのかも知れないと島原さんは思うのでありました。しかし所詮あの世なるものを仮想すること自体がこの世の営為である以上、それはこの世でなかなか実現困難な理想をそこに展開して仕舞うのは、確かに娑婆っ気臭が大いに漂っているとしても、まあ、仕方のないことではないかとも考えるのでありました。だから、楽土と云う言葉も使われるのではないかしら。
「それはそうだね」
 島原さんは腕時計から目を離さずに云うのでありました。「でも、この世に生きていると、疲れることとか目を背けたくなるようなこととかが一杯あって、そんなものから逃れたいって云う願いが、詰まり、楽土って云う考えを生んだんじゃないかな」
「じゃあ、楽土は、本当はないの?」
「それは知らない。行ったことがないから」
 島原さんはようやく娘の顔を見て少し笑うのでありました。しかし、こんなはぐらかすようなことを云って、娘を失望させてしまったのではないかと考えて、すぐに笑いを顔から消し去るのでありました。
「お兄ちゃんやお父さん、それにお母さんは、じゃあ、今何処にいるのかしら?」
 娘が今度は島原さんから視線を外すのでありました。
「君は亡くなった家族が、楽土に居てほしいと思っているんだろう?」
「そうなんだけど・・・」
 娘は墓石の下の納骨棺の蓋を見詰めているのでありました。それはその下の地中にあるはずの楽土に向けられているように、島原さんには思えるのでありました。
(続)
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石の下の楽土には 46 [石の下の楽土には 2 創作]

 島原さんは娘が急に可哀想になるのでありました。単純に楽土の存在を信じて、家族がそこでこの世では実現しなかった団欒を楽しんでいて、自分も最後にはそこへ行くことが出来ると考えていたいし、しかし彼女の一面のリアリスティックで唯物的な思考が、時にその観念を乱雑に攪拌してしまうこともあるのでありましょう。娘は楽土が在ると云う確証が欲しいのでありましょうし、恐らくそれを島原さんに保証してもらいたくて、屹度こんな話をしたのかも知れません。
「楽土は、君が在ると信じれば、在って欲しいと願うのなら、屹度在るんだよ。なんかなげやりで曖昧で無責任な云い方に聞こえるかも知れないけど」
 島原さんは自分が楽土の存在を保証する任に堪えない人間であることを、秘かに娘に申しわけなく思いながらもそう云うのでありました。娘はその島原さんの言葉が聞こえなかったように黙った儘、暫く虚ろな目を墓石に向けているのでありました。
 ・・・・・・
 拙生は高校時代に居た恋人の事を考えるのでありました。クラスメイトではあったものの、三年生の夏にひょんなことから街の公園の中で出逢って、その時初めて二人で長く話をしたのがつきあうきっかけでありました。
 彼女は心臓に重篤な病を抱えていて、学校も休みがちな生徒でありました。細身で、髪が長くて、中高の顔にくりっとした目のなかなかの美人でありました。彼女はおとなしい性格であったし病気のせいもあったから、男女を問わず親しい友達もそれまで出来なかったのでありました。だから偶々出来た拙生との縁を、とても嬉しく思ってくれているようなのでありました。拙生の方も受験やらなにやらで単調で憂鬱な毎日を送っていたものだから、偶然成立した彼女とのつきあいに小躍り、いや大躍りしたのでありました。
 彼女は拙生と一緒に高校を卒業することが出来なかったのでありました。それは年明けに施された彼女の心臓手術の経過が思わしくなかったことで、入院がずっと長引いて出席日数が足りなくなったからでありました。
 拙生はその年の春から東京で大学生として暮らすことになったのでありましたが、彼女はもう一年高校三年生を繰り返すことになったのでありました。しかし彼女はそう気落ちするのでもなく、じっくり体を治して、それに一年間みっちり勉強して、その次の年には東京の大学を受験するのだと意気ごむのでありました。拙生は一年後に彼女が東京に出て来るのを大いに楽しみにするのでありました。
 しかしそれは叶わぬ拙生との約束でありました。彼女は夏になる前に再入院することになってしまったのでありました。再入院後の彼女は肺にも致命的な病が見つかり、日々衰弱して遂には帰らぬ人となったのでありました。
 拙生は彼女の最後に立ちあうことが出来なかったのでありました。拙生はいきなり異次元に引きこまれたように放心して、その後長い間なにも考えられずなにも手につかずの日々を過ごすのでありました。彼女が来ることのなくなった東京の生活になんの意味も見出せずに、島原さんが墓地で逢う娘のように、拙生は大学を辞めて故郷へ帰って彼女の面影と静かにそこで、その後の生を生きていきたいとさえ思うのでありました。
(続)
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石の下の楽土には 47 [石の下の楽土には 2 創作]

 拙生が結局大学も辞めず故郷にも戻らず、実際には何の転機の衝動にも手を出さないで、揺らぎながらも、云ってみれば穏当なその後の軌跡をこれまで歩いたのは、亡くなった彼女が、自分のせいで拙生があたふたしたり、将来を悲観してやけっぱちなことを仕出かすのを悲しむだろうと思うからでありました。それと、生来のずぼらと臆病と忘れっぽさからでも、屹度ありましたか。
 彼女の遺骨は当初、寺の納骨堂に安置されるのでありました。それは彼女のお父さんが岡山の人で、仕事を退いた将来、その後の生を郷里の岡山で送る積りであったためでありました。彼女の遺骨をその折に岡山に運び、墓を建てて、そこで供養すると云うことになっているのでありました。だから彼女はそれまで、当分の間は彼女が生まれ育った故郷、それは詰まり拙生にとっても故郷に眠るはずでありました。しかし彼女を亡くしたお父さんの心の傷が思いの外深く、日増しに募って行く落胆と寂寥感と、その当時の戦後最悪の不景気の風を決断の契機として、晩春に彼女が亡くなったその年の暮れには、岡山に一家して帰ると云うことになったのでありました。その時に当然ながら、彼女の、そして拙生の故郷に在った彼女の納骨壇は撤去されることになるのでありました。
 拙生は夏休みや、秋に学費値上げ反対の紛争によって大学がロックアウトになったために仕様方なく故郷に帰った折には、殆ど毎日、彼女が眠る寺の納骨壇の前に立つのでありました。彼女を失った拙生の傷も、彼女のお父さんに劣らずかなりの深手であったのでありました。
 納骨壇の前に立つと、ささくれていた拙生の気持ちが、ほんの少し和らぐのでありました。言葉を交わすことも、彼女の息を感じることも、髪の匂いを嗅ぐことも、そのなよやかな手を拙生の両掌で包むことも、唇の温もりを確かめることももう出来ないのではありましたが、それでも彼女の傍に居ると思うだけで、拙生は仄かな安心感のようなものを感じることが出来るのでありました。春までの時に比べれば余りに決定的に姿を変えて仕舞った彼女の、傍ではありましたが。
 暮れには撤去される予定の彼女の納骨壇を最後に訪ねたのは、初冬の風がこの世に残っていた秋の名残りをすっかり吹き攫っていこうとする頃でありました。近々東京の大学へ戻らなければならなかった拙生は、それが最後の彼女との邂逅と思って、納骨壇の前に立つのでありました。撤去の日までには未だ少し間があるから、冬休みにまた帰って来て訪ねることも可能であったのでしたが、しかしその時が最後と、拙生はなんとなく依怙地に決めているのでありました。
 岡山は余りに遠いのでありました。いや、拙生は東京に住んでいるのでありましたから、距離の上では故郷よりも岡山の方が余程近いのでありました。しかしそこは拙生の<縁>と云う地理の上では、途轍もなく遠い場所なのでありました。だから未だこの世に生のある彼女を岡山に訪ねると云うのならまだしも、彼女の遺骨を訪ねると云うことは、なにかもう、拙生のすべきことではないような気がするのでありました。彼女の遺骨が故郷にあるのなら、拙生は彼女を拙生の生が尽きるまで訪ね続ける積りでいたのであります。それこそが拙生がこの世を未だ生き続ける唯一の理由のように。
(続)
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石の下の楽土には 48 [石の下の楽土には 2 創作]

 さようなら、と拙生は納骨壇に飾られた彼女の小さな写真に無言で云うのでありました。
写真の彼女は変わらぬ微笑を浮べているだけでありました。拙生は彼女との<縁>が如何にも遠く隔たったのだと云うことを実感するのでありました。そうして彼女の死を知らされた時と同じくらいの喪失感に拉がれるのでありました。しかしそれはあの時のように、体中の総ての血管が一気に収縮しきったように衝撃的だったわけでもないし、手荒く頭蓋の中を掻きまわされたように混乱の極みに陥ったわけでもない、なにかゆっくりと深海に沈んで行くような、云ってみれば底なしの委縮感とでも云うものに近かったであろうと思うのであります。お前を二度失ったことになるなと拙生はそう云って苦く、しかし静かに、彼女の写真に笑い返すのでありました。
 この先どうしていいのかさっぱり判らない、と拙生は写真に語りかけるのでありました。
お前とずうっと繋がっているための方法が総て閉ざされてしまった気分だと、拙生は写真に訴えるのでありました。写真の彼女の微笑みがなにも変化しないのは、当たり前のことでありました。拙生は変化しない彼女の微笑を見詰め続けるのみでありました。
 どうしていいのかさっぱり判らないのなら、なにもしなければ良いと、写真の彼女が云うのでありました。いや勿論写真が話すはずはないので、それは拙生の、窮余の一策と云うには余りに茫漠とした、冴えないくすんだ不意の思いつきだったのでありましょう。静かな水面を突然跳ねる小魚の水音程度の。成程、なにもしないと云う手があったかと、拙生はもっと苦く笑いながら写真の彼女に云うのでありました。そうしてなにもしないでいるとその内、屹度治らないと思っていた傷も、恐らく知らない間に癒えて仕舞うのだろうと思うのでありました。それがいかにも無精で不甲斐なくて寂しい術であるにしろ。
 でも、お前がそう云うのなら、なにもしないでいると拙生は云うのでありました。彼女の不在を受け入れて、それに決然と耐えると云うようなきっぱりした態度では些かもないけれど、そのきっぱりしなさ加減が、結局彼女が居なくなったこの世となんとなく折りあいをつけながら、この先一人でこの世を過ごすための一番上手い方策なのかも知れないと、拙生は頷くのでありました。取り敢えず、その方策の善し悪しとか、後に悔いるかも知れないとかそんなことは置いておくとして。第一ちゃらんぽらんな拙生には、それが最もしっくりいく方策に違いないのでありました。
 さようなら、と拙生はもう一度写真の彼女に云うのでありました。ずうっと先にそっちに行ったら真っ先にお前を訪ねるから、それまで忘れないでいてくれよと声に出さずに云って、拙生は写真の彼女と同じような微笑みを浮かべてから、片手を上げて見せるのでありました。如何にも未練な仕草でありました。
 時に遣る瀬なさにアパートの部屋の壁を不意に強打してみたりすることもありました。自棄になって当時そんなに飲めもしない酒を大量に呷ってみたり、友達の何気ない言葉に急に激昂してその友人の顔を震える拳で殴ってみたりと、情緒に醜い乱れをきたして仕舞うこともありはしました。しかし時間の経過と云う恐ろしく強大で揺るぎない摂理によって、確かに拙生の傷はやがて瘡蓋に覆われ、乾き、大方塞がっていくのでありました。そう云う経緯を、とても寂しく思ったり、歯がゆく思ったりもするのではありましたが。
(続)
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石の下の楽土には 49 [石の下の楽土には 2 創作]

 その間、拙生はすぐ目の前の事柄以外には目を移さずに、そのことだけに専念しようとするのでありました。そうやって時間の小さな積み木を一つ々々重ねて行くことに現を抜かしている方が、結局楽でもあり、大きな破綻から自分の身を護る、亀の甲羅のように頑なな護身術なのでありました。
 そうやって確かに大きな破綻は免れたものの、亡くなった彼女に対する後ろめたさは、傷の疼きが癒えるに従って、かえって増幅していくのでありました。いやそれは、彼女に対すると云うよりは多分、彼女を失った時の自分の激痛への後ろめたさであったろうと思われるのでありました。拙生の受けた衝撃は、恐ろしく強大で揺るぎない時間の摂理に、結局諸手を挙げて降参したのでありました。それを遥かに越えていると思っていたのでありましたが。・・・
 なんだかんだと云っても、ま、その程度のことだろうと、拙生は謹んで、自分自身に皮肉な笑いを贈呈するのでありました。必ず癒える程度の傷しか負えない自分が、自分が思っていた程大したヤツではなくて、その辺に居るごく普通の忘れっぽい男であることがはっきり証明されたのでありました。これでは後に彼女が居る世に行った時、拙生はどの面下げて彼女に逢えばいいと云うのでありましょう。冷や汗をかきながら卑屈に笑って目をあわせないでいる拙生を、彼女は屹度少し離れて笑いながら見下ろすのでありましょう。
 ・・・・・・
 墓石に向いていた娘の目が島原さんに向けられるのでありました。
「じゃあ、墓石の下に楽土は屹度在って、あたしも将来そこへ行けるんだって、あたしが信じていればそれでいいのね?」
「うん、まあ、そうかな」
 島原さんは改めて今までの話をそう云う風に短くなぞられると、妙にたじろいで仕舞うのでありました。その通りと、なにはともあれ自信を持って肯えない自分の曖昧さが、なんとなく申しわけないのでありました。しかし楽土の存在も、その様相も、それに娘がそこに行く資格があることも、確信出来てもいない儘さも尤もらしい顔をして娘に保証するのは、これは詐欺になると島原さんは弱々しく思うのでありました。実際そんなこと、今まであんまり真面目に考えたこともないのでありますから、責任は持てないのであります。
「判ったわ。あたし信じる」
 娘がもう一度墓石の方を向きながら云うのでありました。その表情は先程の虚ろな目に比べれば幾らか決然としているように、島原さんには見えるのでありました。島原さんはその娘の顔に安心するのでありました。あくまで自分は楽土の存在を明確に保証したわけではなく、それは娘の心一つだと云ったまでであります。それでも娘が楽土の存在を信じると云うのであれば、それは詰まり、もう娘の問題なのであります。こんな論旨は姑息な責任回避かも知れないけれど。
 娘が島原さんに笑って見せるのでありました。その笑いは一つの結論を得た安心の笑みのようにも、島原さんの言葉の機微を見透かしていて、その潔くないものの云い方を揶揄するための笑みのようにも見えるのでありました。
(続)
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石の下の楽土には 50 [石の下の楽土には 2 創作]

 しかし、信じると決めたら、それだけで本当に信じられるものかなと島原さんは思うのでありました。そんなに簡単に自分の心を制御出来たら、こんな楽な話はないでありましょう。決意と云うのは、単なる一時的な気分の高揚でしかないのじゃないかしら。それは次の瞬間に、あっけなく消沈してしまうことだってあるかも知れません。島原さんは娘の横顔を見ながら、そんな不安のような疑問のようなものを覚えるのでありました。勿論それを今敢えてここで表出して話をややこしくする気は毛頭ないから、島原さんは黙って娘の横顔を窺うだけでありましたが。
「どうだい、花屋は忙しいかい?」
 島原さんは話題を変えるためにそんなことを聞くのでありました。
「そうね、元々そんなに忙しい仕事じゃないから」
「不景気だから、売上げが減ったなんて店のご主人が零してないかい?」
「不景気って云っても、あそこはお墓参りの人相手のお花屋さんだし、お墓参りに来る人はそんなのにあんまり関係なく来るから」
「そりゃあ、そうだな」
 島原さんはそう返しながら、娘が「あそこ」と自分が働いている店のことを差して云った言葉が、小さな指のささくれ程に気になるのでありました。それは娘が如何にもその花屋を自分には関係のない場所であると考えているような語感が漂っていて、花屋と自分の関係を必要以上に希薄に捉えている査証であるように、島原さんには聞こえたのでありました。仕事と割り切っているためのクールな態度からその言葉が発せられたわけではなさそうだし、店のことを本当は相当に嫌っていると云ったことでもなさそうだし、それは如何にも無関心だと云う風なのでありました。少なくともその店で働いて給料を貰ってそれで生活しているのでありますから、もう少し身内の感情が籠っていてもよさそうなものであります。喩え多少の不満があったとしても。しかし娘は多分、店には不満は殆どないのでありましょうし、寧ろ不満を覚える程店に帰属意識を持っていないのでありましょう。
 そう云うなら、店にだけではなくてこの世の中のこと全般に、娘は関心を持とうとしてはいないと云えるでありましょう。彼女の念頭にあるのは家族の墓の前に毎日立つことと、その家族が今居るであろう墓石の下の楽土のことだけなのであります。そう考えると、島原さんは改めて娘が無惨に見えるのでありました。この先娘の傷が癒えて、この世の、もっと違う世界にも目を向けようとする機会が、将来娘に訪れることがあるのかしら。
「花屋の仕事は、好きかい?」
 島原さんが娘の横顔に聞くのでありました。
「別に好きじゃない。嫌いでもないけど」
「お客さんの中に、金額だけ云って、それで良いように花束をアレンジしてくれなんて云う人とかは、いないのかい?」
「うん、居ないこともないけど、あたしそんなの得意じゃないから、もう一人のアルバイトの娘に任せちゃうの。その娘が居ない時には、奥さんに」
「ふうん、得意じゃないか」
(続)
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石の下の楽土には 51 [石の下の楽土には 2 創作]

「あたしに任せてもダメだって思われているから、そんな風になったらちゃんとその娘とか奥さんが横から出てきて、お客さんの相手をするの。決まりきったお供え用の花束を幾つも作るくらいは、あたしにも出来るけど」
「花は好きなの?」
 島原さんは今頃改めてそんなことを聞くのは意味のないことかなと思うのでありました。
「そんなに好きでもない。見ていたら心が癒されるなんて云うけど、あたしは特別そんなこともないし。あたし造花でも生花でも、色とりどりの花を見ていても、綺麗だとはあんまり思わないし、なんか目の奥が疲れるの、本当は。匂いも、好きじゃない」
「へえ、そう」
 島原さんはなんとなく苦笑するのでありました。
「レジとか、店の中や外を掃除するとか、そっちの仕事の方があたしは実は好きなの。だから可愛げがないの、あたし」
 そんな風に云う娘を、島原さんは寧ろ可愛いと思うのでありました。
 ・・・・・・
 小浜さんが鰤大根を島原さんの前に出しながら云うのでありました。
「さてそろそろ、明日から違う料理にしましょうか?」
 島原さんに鰤大根を出し続けて、そろそろ一月になるのでありました。「なにか、ご希望のものはありますかな?」
「そうですねえ・・・」
 島原さんはそう云って鰤大根を見下ろしながら暫し考えるのでありました。しかし容易に思いつかないらしく、島原さんはなかなか鰤大根に箸をつけないのでありました。
「鍋焼き饂飩なんてどうですかね?」
 拙生が味噌汁と丼に軽く盛った飯を出しながら云うのでありました。「ぼちぼち寒さも本格的になりますから、温かい汁物の料理だと体が暖まりますよ」
「そうですねえ・・・」
「饂飩はお嫌いですか?」
 小浜さんが聞くのでありました。
「いや、嫌いではないです。寧ろ好きな方です」
「矢張りご飯がついた料理の方がお好みでしょうかね」
 小浜さんが島原さんの前の空の徳利と猪口を下げるのは、島原さんに箸を動かす切掛けを与えるためでありましたが、それは余りに彎曲なサインでありました。
「まあ、そんなでもないですけど」
 島原さんはそう云って未だ鰤大根を見ています。
「ああ、冷めないうちに召し上がってください。箸を下ろそうとした時に要らないことをお聞きしたりして、あい済みません」
 小浜さんが直截に云って、促すように前に出した掌を微妙に上下に動かすのでありました。それでようやく島原さんは鷹揚な仕草で、大根の真ん中に箸を刺すのでありました。
(続)
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石の下の楽土には 52 [石の下の楽土には 2 創作]

 島原さんが箸を動かし始めると、なんとなく会話が途切れるのでありました。小浜さんも拙生もその間、敢えて島原さんに話しかけることはせずに、夫々の目の前の仕事に手を動かしているのでありました。
 三人の会話が途切れるのを待っていたように、店の中が急にたて混み始めるのでありました。三人連れのサラリーマンと思しき新規の客が入って来ると、間を置かずに、こちらは常連の商店街で薬屋をやっている中年の客が一人、店内を少し見回してから、空いているカウンター席の島原さんの横に座るのでありました。それからやはりそんなに間を置かず、これも常連の、初老の不動産屋の社長が派手な身なりの中年の女性を伴って現れるのでありました。社長は「ほう、今日は混んでるねえ」と云いながら、前に島原さんがよく座っていた隅のテーブル席に、女性と向かいあって座るのでありました。
 拙生は応対のために頻繁にカウンターを出入りするのでありました。小浜さんは矢張り料理の注文が幾つも重なって、カウンターの中を忙しげに歩き回りながら同時進行に幾つかの肴を調えているのでありました。島原さんはその間、ゆっくりと黙った儘食事に専念するのでありました。
「不動産屋が連れて来たのは、ありゃあ、駅裏にある『イヴ』ってスナックのママだぜ」
 仕事が一段落して、小浜さんの愛想の酌を猪口に受けながら、カウンターに座った薬屋の主人が小浜さんに話しかけているのでありました。
「ほう、そうですか」
 小浜さんは酒を注ぎ終わった後で徳利を薬屋の主人の前に置くのでありました。
「不動産屋は、あのママ目当てで『イヴ』に通い詰めていたんだけど、ようやく連れ出しに成功したってわけかな?」
 薬屋の主人は一息で猪口の酒を干すのでありました。
「なかなか美人のママじゃないですか」
 小浜さんが横目で隅の席を窺いながら云うのでありました。
「そうね、少しぽっちゃりしてて、物腰がやけに色っぽいよね。不動産屋ばっかりじゃなくて、肉屋の大将も酒屋のケンちゃんも、それに郵便局の局長もママ狙いで『イヴ』に通い詰めているって話だぜ、駅前商店街の仲間内の噂では」
「そう云う茂木さんも、その通い詰めているクチなんでしょう?」
 茂木と云うのは薬屋の主人の名前であります。
「いやいや、カアチャンの監視が厳しいから、ほんの時偶ね」
 薬屋の主人はそう云ってから、普段の話声とは裏腹の妙に甲高い、喉を引き攣らせるような独特の笑い声を上げるのでありました。拙生はこの笑い声が苦手と云うか、生理的に受けつけないので、なるべく傍に居ないように何時もしているのでありました。
「今日はスナックは休みなんですかね、こんな時間にママがここに現れると云うのは?」
「そう。水曜が定休日だからね、あそこは」
「茂木さん、ほんの時偶のわりには、定休日までちゃんと知っているじゃないですか」
 小浜さんはそう云って、からかうように薬屋の主人を指差して見せるのでありました。
(続)
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石の下の楽土には 53 [石の下の楽土には 2 創作]

「いやいや、俺はそんなに行ってないってば。肉屋の大将に誘われて、つきあいで、そりゃ何回かは行ったけどさ」
 薬屋の主人がニヤけながらそんな云いわけをするのでありました。その脂下がった顔からすると、要するに通い詰めているクチだと云っているわけであります。拙生はその後また、あの笑い声を聞くのかと構えたのでありますが、薬屋の主人は口で笑いを作っただけで今度は声を立てないのでありました。拙生は止めていた息を秘かに吐くのでありました。
「今度アタシも誘ってくださいよ」
 小浜さんがそう云いながら薬屋の主人が持つ猪口に酌をするのでありました。
「なんだいオヤジも参戦かい、ママの争奪戦に」
「はい、あんな艶っぽいママなら、宣戦布告させて貰いたいもんで」
「そんなら序でに、そこの秀ちゃんもどうだい? あの店には若い女があと二人居るから、そっち狙いでさ。飲み代は俺が出してやるよ」
 薬屋の主人が拙生に話しかけるのでありました。
「いやあ、自分は遠慮しときますよ。そう云うのは苦手だから」
 拙生は顔の前で手を振るのでありました。
「なんだい、もう彼女がいるから遠慮しときます、てか?」
「そんなんじゃないですが」
「そうすると秀ちゃん、屹度ホモって云うわけかい」
 薬屋の主人が下卑た笑いを口元に浮かべて云うのでありました。
「それも違いますよ」
 拙生は薬屋の主人のその無礼な口調と、呆れる程単純で大雑把な推理に多少ムカッとしたのでありましたが、それは腹の中から出さずになるべく穏やかに返すのでありました。
「だったらいいじゃねえか、つきあっても。それにあそこにはカラオケもあるし、インベーダーゲームも置いてあるぜ」
「自分は音痴だし、ゲームもしないし」
 拙生は薬屋の主人のくどい誘いが鬱陶しくなって、今度は少し無愛想な云い種になるのでありました。拙生は鼻歌も歌わない人間でありましたから、人の前でマイクを握って歌を歌うなんと云うのは、寄席の高座に上がって曲芸を披露するのに近いと考えていたのでありました。それに当時のカラオケは演歌ばかりで、拙生が知っている曲などは一つもないのでありました。それから、拙生は喫茶店に入る時も、なるべくゲーム機の置いてない処に入るのを常としていたのでありましたから。
「なんだい、居酒屋で働いているくせに、随分お固い兄さんだなあ」
「ま、アタシの店は女の客が極端に少ないんで、こんな秀ちゃんでも大丈夫なんですよ」
 小浜さんがそんなフォローになっているような、なっていないようなことを云って、薬屋の主人のしつこい攻勢から拙生を庇ってくれるのでありました。小浜さんが間に入ってくれなければ、薬屋の主人の使った「お固い」と云う言葉の穿ってなさに喰いついて、拙生は衝動的になにかやり返していたかも知れません。
(続)
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石の下の楽土には 54 [石の下の楽土には 2 創作]

「ま、いいや。そんならオヤジ、今度誘うよ」
 薬屋の主人は小浜さんを見上げながらそう云って、徳利を持つ小浜さんからまた酒を注いで貰うのでありました。
 食事を終えた島原さんがその遣り取りを黙って見ているのでありました。島原さんが拙生の方を見たので、拙生はにこやかに笑いかけながら島原さんに云うのでありました。
「お茶のお代わり、出しますか?」
「ええ、お願いします」
 島原さんは拙生に小さく頭を下げるのでありました。
 ・・・・・・
 拙生の出したお茶を島原さんはゆっくり啜るのでありました。拙生はそんな島原さんを見ているのでありましたが、聞こうとしなくとも、隣りで小浜さん相手にスナック『イヴ』について話す薬屋の主人の声が、嫌でも聞こえてくるのでありました。
「店ではほとんどママは髪をアップにして着物を着てるんだけどさ、色っぽいよ。俺この前ママとカラオケをデュエットしたけど、横で歌ってたら化粧の良い匂いがしてきて、なんかムラムラしたね」
「店では歌ってばっかりですか?」
「そうね。ママと差しで話そうとしても、次から次と客の歌が続くから、煩くてしんみり話しなんかしてられないよ。ママとしても本当は俺と話したいんだろうけど、客の歌が終わる度に商売だから拍手しないといけないしね。店の若い娘に、なんか歌ってくれって俺もすぐ催促されるしさ。百円玉、ガンガン減っていくよ」
「お賑やかな様子ですなあ」
「だからさ、不動産屋が何時あのママを口説いて、今日ここへ連れ立って来たのか不思議だぜ。あいつもなかなか油断のならねえヤツだ」
「焼けますねえ、茂木さん」
 薬屋の主人は小浜さんにそう云われた後、不動産屋と『イヴ』のママの席を体を捩って見るのでありました。それからすぐに体の向きを戻します。
「ああそうだ、ちょっとあの席に邪魔しに行ってやるかな」
 薬屋の主人は自分の徳利と猪口を持って席を立つのでありました。
 見ていると薬屋の主人はママのにこやかな顔に迎えられるのでありました。薬屋の主人は隣りの席から椅子を引き寄せてそこに居座り、二人に混じって徳利の酒を先ずママに、それからママに酌をした手つきに比べれば幾らか無愛想に、不動産屋の社長にも酒を注ぐのでありました。不動産屋の社長が薬屋の主人の出現をなんとなく迷惑に思っている風情が、その背中からこちらにも伝わってくるのでありました。そこへいくと『イヴ』のママの様子は、薬屋の主人が席に混ざるのを歓迎している風に見えます。それは常連のお客さんに対する営業的な寛容さからなのか、それとも薬屋の主人に特別の好意をもっているためであるのか、不動産屋の社長と二人きりでの杯の遣ったり取ったりがあんまり楽しくないせいなのか、そこの処は拙生にはなんとも判断出来ないのでありました。
(続)
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石の下の楽土には 55 [石の下の楽土には 2 創作]

「放ったらかしにして、申しわけありませんね」
 小浜さんが島原さんの前に移動してそう云うのでありました。
「いやいや、常連さんでしょうから、こちらにお構いなく」
 島原さんは笑いながらそう返して、茶の最後の一口を啜るのでありました。
「島原さんもご常連さんですから」
 小浜さんがそう云って頭を下げるのでありました。
「さて、私はぼつぼつ失礼しようかな」
 島原さんの言葉が終わらない内に、スナックと不動産屋と薬屋の席から、薬屋の主人の例の甲高い笑い声が聞こえてくるのでありました。ママも口を抑えて笑っていますから、なかなかに盛り上がっているのでありましょうか。尤も不動産屋の社長は内心面白くないのかもしれませんが、背中しか見えないものだからどんな顔をしてそこに居るのか、拙生は確認することが出来ないのでありました。
 その笑い声が納まってから、島原さんは拙生に代金を払って席を立つのでありました。
「じゃあ、明日は鍋焼き饂飩と云うことで。楽しみにしています」
「なにか中の具にご希望がありますか、これを入れてほしいとか?」
 小浜さんがそう聞くと、島原さんは少し考えるのでありました。
「そうですねえ、まあ、普通のやつで。・・・と云うか、私は鍋焼き饂飩にどんな具が入っているのか、今咄嗟に思いつかないんですよ。前に食べたことはあるんですが、さて、中にどんなものが入っていましたかなあ」
「まあ、鶏肉とか蒲鉾とか椎茸とか、場合によっては牛蒡とか人参とか、それに卵とか」
 小浜さんが説明するのでありました。「まあ、それなら、こちらにお任せと云うことで」
「ええ、そう願います。なんか張りあいのない客で、申しわけない話ですが」
「いえいえ、とんでもありません。では一丁、これぞ鍋焼き饂飩と云うようなのをお出ししましょう。明日をお楽しみになさってください」
 小浜さんはさも腕が鳴ると云った風に両掌を擦りあわせながら、島原さんに笑いかけるのでありました。
 島原さんは小浜さんと拙生の、有難うございましたの声に送られて店を出るのでありました。島原さんの姿が店の中から消えると、薬屋の主人がカウンターの方へやって来るのでありました。
「なんでも店の女の子が今住んでるアパートを替りたいから、手頃なのがないかってその相談らしいぜ、ママが不動産屋と一緒に今日ここへ来たのは」
 薬屋の主人はそう云いながら、持ってきた空の徳利をカウンターの上に置くのでありました。
「へえ、そうですか」
 小浜さんが徳利を下げながら云います。「もう一本つけますか?」
「うん。二本ね」
 その言葉を聞いて拙生は日本酒の燗の用意をするのでありました。
(続)
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石の下の楽土には 56 [石の下の楽土には 2 創作]

「部屋替えの相談なら、当事者の女の子がすればいいのに」
 小浜さんがそう云うのでありました。薬屋の主人がカウンターの椅子に尻半分だけ乗せて浅くしか座らないのは、燗が出来上がったらすぐに立って、それを持ってまた向こうの席へ戻るためなのでありましょう。
「ま、ママもあれでなかなか世話焼きだからな。それにママが相談を持ちかけた方が、不動産屋の力の入れようが違うだろうって、そう云う計略からだろう。確かに不動産屋のヤツ、ここが一番、頼り甲斐のあるところの見せどころてな感じで、なかなか張り切ってやがるよ。あいつはスケベで単純なヤツだからなあ」
 薬屋の主人はそう云って、不動産屋の社長を哄笑するように片方の唇の端を上に釣り上げて見せるのでありました。
「茂木さんがその相談の邪魔に入っていて、大丈夫なんですか?」
 小浜さんが包丁を洗いながら聞くのでありました。
「構やしないよ。どうせ月いくらくらいの部屋で、この辺のアパートを何時までに、なんて程度で話は終わるんだから。態々ママをここへ誘って承る程のこみ入った話じゃあねえよ。不動産屋は単に、ママと二人でしっぽり飲みたいだけなんだし。そんな見え透いた魂胆を黙って見過ごせるもんかい」
「なかなかの攻防戦ですなあ」
 小浜さんは俎板を拭きながら薬屋の主人に笑いかけるのでありました。
 薬屋の主人は出来上がった、湯気の仄かに上がる日本酒の徳利の注ぎ口を親指と人差し指の二本で摘むと、それを両手に一本ずつ下げてスナックのママと不動産屋の社長の席へ戻るのでありました。
「確かになんとなく色っぽいよなあ、あのママは。美人と云うわけじゃないんだけど」
 小浜さんが拙生に話しかけるのでありました。「男好きのするタイプってやつだ」
「ああそうですか」
 拙生は今一つピンとこないものだからそう無愛想に返すだけでありました。
「ま、秀ちゃんは当然、中年女の色気なんて云うのは興味もないだろうし、未だ判らないかも知れないけどね」
「どちらかと云うと、あのママは自分の母親に近い歳でしょうから」
「逆に云うと、俺なんか若い女の子なんと云うのは、ウチの娘に近いから色気もなにも感じないけどね。尤も中年女と云ってもウチのカカアは別物だけど」
「またまた。本当は愛妻家のくせに、すぐそう云うことを云う」
 拙生はそう云って小浜さんをからかうのでありました。
「俺が家でどんだけ虐げられているのか、なんにも判っちゃいないくせにそう云うことを云うか、この秀ちゃんは」
「奥さんのことを悪く云うのは、詰まり照れ隠しみたいなものでしょう?」
「俺ん処の実情を知らないくせに、そんな判ったようなことを云うもんじゃないよ。そんな生易しいもんじゃないんだから、実際」
(続)
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石の下の楽土には 57 [石の下の楽土には 2 創作]

 小浜さんは憮然として拙生にそう返すのでありました。
 しかし拙生にはどう見ても小浜さんが、云う程家庭生活に倦んでいる風には見えないし、寧ろ奥さんと二人の娘さんに囲まれて、休日には好きな魚釣りを楽しむ今の生活に、大いに満足しているとしか思えないのでありました。それは小浜さんなりに、小さな不平不満は幾つかあるにしろ。
 スナックのママと不動産屋の社長と薬屋の主人の席から、店の中に漂う緩やかな空気を無粋に掻き回す不協和音のような、ママの発する笑い声とそれに和する薬屋の主人の甲高い笑い声が、カウンターの中まで聞こえて来るのでありました。
「なかなか盛り上がっているねえ」
 小浜さんが拙生に云うのでありました。
「この店の何時もの静かな雰囲気には、ちょっと馴染まない感じですけどね。ま、お得意さんあっての商売だから、仕方ないですけど」
 拙生は席の三人の無神経さに少し眉を顰めて見せるのでありました。ママは初めてだから仕方ないとしても、薬屋の主人は散々この店に通っているくせに、この『雲仙』と云う居酒屋の美質がなんで未だ理解出来ていないのでありましょうか。
「ま、賑やかなのも、偶には良いかも知れない」
 小浜さんが寛容なことを云うのでありました。
「他のお客さんが白けるんじゃないですかね」
「まあ、そんなでもないだろう」
 小浜さんがそんな大らかな態度であるのなら、どうこう云う筋あいは拙生にはどこにもないのであります。それに店の立てこみ方もやや潮引け時であるようで、他にはカウンターに座っている一人客と、件の三人の席とは離れた席に二人連れの客が居るだけでありましたから、そんなに大仰に三人の不躾をあげつらうこともないのでありました。しかしそれだから余計に、拙生には三人の嗜みのなさが気になるのでありましたが。
「ああやって一見楽しげで和気藹藹なようでも、不動産屋の社長と薬屋のご主人の間で秘かに、ママの気を引こうとして、屹度鞘当てが火花を散らしているんでしょうね」
 拙生は小浜さんに云うのでありました。
「そうかも知れないな」
「なんか、ちょっと近づきたくない光景ですね」
「そう云うなよ。男なんてものはそう云う生き物なんだから。どうせ男と生まれたからには、目の前に色っぽい女が現れればついフラフラっとするし、喋喋喃喃と話がしてみたいと、そう考えるのが普通だよ。俺もそうだし。云ってみれば男にとってはそれこそが、この世の第一の生き甲斐みたいなところもあるだろう。女も多分そうかも知れない」
「この世の第一の生き甲斐ですか。ふうん、そんなもんですかねえ」
 拙生はそう返しながらなんとなく、島原さんと島原さんが墓地で逢う娘のことを考えているのでありました。
 ・・・・・・
(続)
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石の下の楽土には 58 [石の下の楽土には 2 創作]

 娘が島原さんから花を二輪受け取る手を止めて、島原さんを上目に見るのでありました、
「あたし、お花屋さん、辞めたの」
「え、辞めたの?」
「そう。なんか奥さんとか一緒のアルバイトの子とか、あたしの仕事ぶりがあんまり気に入らない風だったから、もう居辛くなって」
 島原さんは二輪の花を娘と二人で持ちながら、その手を離すことを暫し忘れるのでありました。
「辞めてくれとか、云われたの?」
「ううん、はっきりそう云われたわけじゃないんだけど、でもずっと前から、なんとなくそんな感じだったから」
「ああ、そうなんだ」
 島原さんはようやく花から手を離すのでありました。娘は受け取った花を一輪ずつ墓の花立てに差すのでありました。花立てに入れられた白い菊花が心持ち項垂れてているように、島原さんには見えるのでありました。
「この後、どうするの、仕事は?」
「さあ、どうしよう。働かないと生活していけないから、すぐにも次の仕事、見つけなければいけないんだけど」
「この辺で探すのは、少し辛いかも知れないね」
「そうね。駅前まで出れば、なんかアルバイトもあると思うけど」
「そうだね、駅前ならね」
「でも本当はあたし、このお墓からあんまり離れたくないの」
「そう云ったってねえ。それに、離れるったって、駅前なら全然遠くじゃないだろう」
「でも、なんかあたしこの辺ばかりで生活していたから、駅前でも、すごく遠いような気がするの。そんなの、馬鹿みたいにお爺ちゃんは思うかもしれないけど」
 娘はそう云って自嘲するような笑いを唇の端に作るのでありました。
 島原さんは『雲仙』のことを思い浮かべているのでありました。あの居酒屋で働かせて貰うわけにはいかないかしら、と。しかし別にアルバイトをもう一人募集しているとはついぞ聞かないし、オヤジさんと若い男のアルバイトで仕事は充分賄いきれているようだし。
 それにこの娘が居酒屋のような処でアルバイトをするのは、ちょっと無理かも知れないと島原さんは思うのでありました。花屋よりももう少し余計に愛想の良さとか、動きの機敏さが求められるでしょうし、それはいかにもこの娘には苦手なことに違いないでありましょうし。それにオヤジさんがこの娘のことを、あんまり気に入っていないようだし。
「早く次の仕事が見つかるといいねえ」
 島原さんはそう云うしかないのでありました。
「うん、我が儘とか悠長なこと云ってられないから、あたし明日にでも駅前に行って、アルバイトの募集が何処かにないか、調べてみようと思うの」
「そうだね。良いアルバイトが、すぐ見つかるといいね」
(続)
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石の下の楽土には 59 [石の下の楽土には 2 創作]

「でもあたし、人と話すのが苦手だし、気が利かないし、愛嬌もなにもないから、雇ってくれるところなんかないかも知れない」
 娘がそう云って花立ての花のように少し項垂れるのでありました。
「ところで、暫くは大丈夫なの、収入がなくても?」
 島原さんが聞くのでありました。
「ううん、大丈夫じゃない」
「なんだったら、少し融通してあげようか?」
 そう云うと娘が顔をあげて島原さんを見るのでありました。島原さんは真っ直ぐに自分に向けられているその目にたじろぐのでありました。余計なことを云ったかしらと、島原さんは少しおどおどとするのでありました。
「有り難いけど、それは遠慮しとく。何時も図々しくお花とか貰っていて、その上そんなことまで甘えられないもん、お爺ちゃんには」
「でも困っているのなら、別に遠慮なんかしなくてもいいんだよ」
「でも、遠慮しとく。そんなことまでして貰うと、あたし明日から、ここでこうしてお爺ちゃんに逢えなくなっちゃうもん」
 娘はそう云って漸く島原さんから目を逸らすのでありました。「でも、有難うお爺ちゃん」
 島原さんはその娘の言葉で、そんなに酷く娘の気分を害したわけでもなさそうだと判断して、ようやくに胸を撫で下ろすのでありました。
「もし、新しいアルバイトのこととか、うまくいかないようだったら、遠慮なく相談して貰っていいんだからね。こんな私だって、なにかしら君の力になれることもあるかも知れないから」
 島原さんはそう云いながらも、娘の力になってやれることなんか、今の自分にはなにもないだろうと思うのでありました。無責任にそんな頼りになるところを娘に示唆しておいて、いざとなったら結局、娘の落胆する顔を見るのが落ちだろうと云う予想図が、島原さんの頭の中にリアルに展開されるのでありました。島原さんは自分に舌打ちをして、娘に見えないように苦い顔をするのでありました。
「有難うお爺ちゃん、心配してくれて」
 娘が笑い顔を向けるのでありましたが、その笑いに力がないのは、娘が自分を当てにしていないことの査証であるように島原さんには思えて仕舞うのでありました。
 娘の口数がその日は何時もより少なく感じるのは、と云っても娘は何時も然程お喋りでもないのでありますが、それは矢張り、事態が結構深刻である故でありましょうか。島原さんは大いに心配なのでありました。
「早くあたしの家族が、あたしを向こうに呼んでくれないかしら」
 別れ際に娘が云った言葉が、島原さんは気にかかるのでありました。それは屹度自分の現状を嘆く娘の単なるレトリックなのでありましょうが、なにかもっと直截な言葉であるようにも、島原さんには採れるのでありました。
「そんなこと、云うもんじゃないよ」
(続)
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石の下の楽土には 60 [石の下の楽土には 2 創作]

 島原さんは一応、娘を窘めるのでありました。「自棄になっても、なにも解決しないし」
「うん、判ってる」
 娘が俯いて云うのでありました。「でも、本当にそう思わないでもないの、あたし」
「おいおい、冗談じゃないよ」
 島原さんが娘の言葉から深刻な色あいを剥ぎ取るために、同じく深刻に返すのではなく、強い云い方ではあるものの、如何にも大袈裟に、声を一調子張り上げて云うのでありました。序でに笑いも添えて。
「ご免なさい、変なこと云って心配させて。あたしが向こうに行って仕舞ったら、お墓の世話をする人も供養する人も居なくなっちゃうから、それは出来ないの。そこら辺はちゃんと判ってるのよ、あたし」
 娘が島原さんに気を遣ってか、幾らか快活にそう云うのでありました。
「その通りだよ。それに、屹度なにか見つかるよ、良いアルバイトが。アルバイトが見つかれば、当面の問題は一先ず解決するし、要するにそれだけの話なんだと考えると、なんとなく気楽になるだろう」
「そうよね、それだけの話なのよね」
 娘が云うのでありました。「でもね、・・・」
 娘はその後の言葉を続けないのでありました。
 ・・・・・・
 鍋焼き饂飩の用意をしていたのに、次の日島原さんは店に現れないのでありました。そんなことはここのところずっとなかったし、もし何かの都合で来店しない場合、島原さんは前の日に予め小浜さんに律義に云っておくのが常であったのでありますが。
「もうとっくに来てもいいはずなのに、どうしたのかね、島原さんは」
 小浜さんがそう云いながらカウンターの中から店の入口を見るのでありました。
「そうですね、変ですね。来ない時はいつも前以ってそう云ってくれてたんですがね。なんか急用でも出来たんですかね」
 拙生も入口の硝子のはめられた格子戸を見るのでありましたが、するとその格子戸が急に引き開けられて、現れたのは島原さんではなくて件の薬屋の主人なのでありました。薬屋の主人は小浜さんに片手をあげて見せ、カウンター席に座るのでありました。
「取り敢えず今日はビールね」
 薬屋の主人はそう注文して、隣りの何時も島原さんが座っている席を横目で見るのでありました。「あれ、何時もの爺さんは今日は居ないのかい?」
「ええ、今日は未だ」
 小浜さんがつけ出しの牛蒡と人参の煮しめを冷蔵庫から取り出して、小皿に盛るのでありました。拙生はボトルクーラーからビール瓶を一本取り、栓を抜くのでありました。
「おっつけ、酒屋のケンちゃんが来るよ」
 薬屋の主人は小浜さんから最初の一杯を注いで貰いながら云うのでありました。
「ああそうですか。今日はお二人で、ここでなにか良からぬ相談でもするんですか?」
(続)
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