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石の下の楽土には 1 創作 ブログトップ

石の下の楽土には 1 [石の下の楽土には 1 創作]

 亭主の小浜さんは洗い物をしている拙生の代わりに燗の上がった一合徳利をカウンターの上に置きながら、店の奥にある壁際の二人がけのテーブル席を指差すのでありました。
「ほら秀ちゃん、これをあそこの島原さんの席に」
 拙生は洗っていた皿を流し場の水切りに立てかけて、はいと小声で返事をするのでありました。それから手拭いを使いながらカウンターを出て、口から湯気のほのかに立ち上る徳利と、大振りの猪口を一つ盆に載せるとそれをそのテーブル席へと運ぶのでありました。
 席には、小柄でもう還暦をとうに過ぎたであろう年格好の男の客が一人、なんとなく行儀の良い居住まいで座って、拙生の運ぶ酒の到着を待っているのでありました。島原さんと云う、もうお馴染みのお客さんでありました。
「お待ち遠さまでした」
 拙生は横に立つと一礼してから、徳利と猪口を島原さんの前に置くのでありました。「一本終わった頃に、何時ものようにカツ丼をお持ちしますか?」
 拙生が聞くと島原さんははいと云って首を一つ縦に振り、その後でどこか恐縮しているような何時もの表情で拙生を見上げるのでありました。
 拙生は了解した旨知らせるためにまた一礼して、カウンターの方へ引き上げるのでありました。
「今日も、後でカツ丼かい?」
 亭主の小浜さんが魚を下ろす包丁を休めて聞くのでありました。
「ええ。何時ものタイミングで」
 拙生はそう返事をしてまた皿洗いの仕事に復帰するのでありました。
 島原さんは半年前位に初めてこの店にやって来たのでありました。夜の八時頃だったでしょうか。暖簾をはねた手つきを頭の横でその儘に、格子戸から遠慮がちに顔だけ中に入れて、初めての客にありがちな不安げな目で店の様子を先ず確認するのでありました。
「いらっしゃい。どうぞ中へ」
 亭主の小浜さんが大声ではなく、寧ろ聞きとるには不都合がない程度の声で新客を店の中へ誘うのでありました。
「ここは酒だけのお店ですか?」
 新客は店の中に幾人か座っている客の夫々のテーブルの上を見回しながら、なんとなく申し訳なさそうに聞くのでありました。
「まあ、酒が主ですが、食事も大丈夫ですよ」
 小浜さんが云うと新客は漸く引き戸を体一つ分入る位に開けて、遠慮がちな風情で店に身を入れるのでありました。一番奥の壁際の二人掛けのテーブルが空いていたので、新客はそこへ着席するのでありました。
「一人ですが、ここに座っても良いですかね、カウンターじゃなくて?」
 新客はもう座ってから、カウンターの内側の小浜さんに不安そうに聞くのでありました。
「ええどうぞ、お好きな処に」
 小浜さんが笑いながら云って新客を安心させるのでありました。
(続)
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石の下の楽土には 2 [石の下の楽土には 1 創作]

 店は『雲仙』と云う屋号なのでありました。居酒屋の構えでありましたが、亭主の小浜さんが云っていたように、或る程度ちゃんとした食事も供する店でありました。東京郊外の住宅地の駅前商店街にある店のためか、会社帰りの独身サラリーマンとかからは、酒ばかりではなくて腹に満足のいく食事の要望も結構あるので、自然に定食風のものも出すようになったのだと、小浜さんは説明するのでありました。
 だったらいっそ店を昼から開けて、昼食を出したらどうかと以前に拙生が提案したのでありましたが、小浜さんはそんな忙しい商売をしていると趣味の釣りにも障るかも知れないではないかと、まるで商売気のないことを云って、端から乗り気薄の風情なのでありました。ま、夕方から店を開けて酒と適当な料理を出してそれで生活が立つなら、それで御の字であると小浜さんは悠然と笑っているのであります。
 そんな小浜さんの緩い雰囲気や、威勢の良い声も出さずにそんなに活気にあふれないこの店の風情にも一定以上のファンは居るようで、繁盛とはいかないまでも、そこそこに安定した商売にはなっているようなのでありました。勿論小浜さんの料理に対する情熱は人に倍するものがあり、酒を飲む雰囲気に対してもかなり気を遣って店創りをしているのではありますが、その表出はそこはかとなく漂う程度に自制されていて、くどさが鼻につかないのであります。そんな小浜さんと店の雰囲気を慕う客も居て当然かなと、拙生は小浜さんの万事に淡白そうな風情を見ていると納得がいくのでありました。小浜さんは五十を少し出た位の歳でありましたか。
 おずおずと店を覗いて、遠慮がちに一合徳利の酒と、小浜さんに勧められた鯖の味噌煮とお新香を、飯つきで食して帰ったのが初めての『雲仙』への来店だった島原さんが、それ以降殆ど毎日、夜の八時位に店を訪うようになったのも、亭主の小浜さんの醸し出す安心感のようなものが気に入ったからでもありましょう。島原さん同様『雲仙』の常連客は、こんな風情の小浜さんが統べるこの店の雰囲気を愛している人達なのであります。
 ですから騒ぐ客は居ないのでありました。大勢で押しかける客もいないのでありました。多くて精々三人客、殆どは一人か二人連れで、静かな笑い声はあってもけたたましい大笑などは聞こえず、皆淡々と日本酒か焼酎かビールをゆっくり賞味し、供された料理に箸を差し入れ、満足して帰って行くのでありました。だから客層としては些か年齢が高い人達が多いのでありましたし、圧倒的に男性客の方が多いのでありました。
 島原さんもそんな客の一人になったのでありましたが、他の客とは少し肌合いが違う所があるのでありました。それは島原さんの食事の流儀でありました。偏執と云うよりは無精と云うべきかも知れませんが、毎日毎日決まって同じ料理を飽くことなく食し続けるのであります。最初の一合徳利と鯖の味噌煮は次の日も次の日もと、延々一月続いたのでありました。その次は白身魚のフライが一月、その後がゴーヤちゃんぷるを一月、そうして今はカツ丼でそろそろ一月が経過しようとしているのでありました。小浜さんが同じものばかりでは厭きるでしょうと、それとなく促して漸くにこの四種の品替えとなったのでありましたが、小浜さんの提案がなかったなら、島原さんは恐らく三月でも四月でも同じものを食して一向に差し障りないと云った風情なのでありました。
(続)
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石の下の楽土には 3 [石の下の楽土には 1 創作]

 大学四年生の九月から就職活動が解禁になったのでありました。オイルショック後の不況風がまだ猛々しく街の中を吹き荒れている頃であったから、拙生は幾つかの会社を訪問したのではありましたが、どの会社からも捗々しい求愛が得られずにいるのでありました。尤もこちらにも是が非とも就職を希望すると云う鉄柱のような切迫感もあまりなかったものだし、そう云う拙生ののんびりした心情が面接している先方に見えるだろうから、当然のこととして先方の拙生を観察する目も覚めて仕舞うのは、なんとなく拙生自身にも判っているのでありました。それでも若気の意味不明の頑固さから拙生は敢えて自分を鉄柱に変貌させる、或いはそれを装う気も起こさずに、漫然と同じのんびり態度で会社を訪問しているのでありました。その内こう云った拙生の風味が気に入ってくれる会社もあるだろうと、たかを括っているのは今から思うと偏に拙生の社会に対する甘い観測から来ているのではありましたが。
 十月になって或る会社の就職試験が早速実施されたのでありましたが、拙生はそのペーパーによる一次試験はなんとか合格したものの、二次試験の面接で傲慢なしくじりをやらかして仕舞うのでありました。と云うのは試験官がいやに常套の質問めかして拙生に「尊敬する人物は?」等と聞いてきたものだから、拙生は父母とか大学の卒論の担当教官とか、織田信長だの福沢諭吉だのと適当にありきたりなところを答えておけばよかったのでありましたが、その時ふと思いついた名が「荊軻」でありました。よって一瞬逡巡はしたのでありましたが、遂にその名を口に上せるのでありました。
「ほう、それはどのような人ですか?」
 四人居る面接担当者の内の件の質問をした人が聞くのでありました。
「はあ、中国の戦国時代の刺客です」
「刺客?」
「ええ。三角ではなく刺客」
「始皇帝を暗殺しようとしたヤツだね」
 質問者の隣りに座って居た一番年嵩の人がそうニタニタと笑いながら云うのでありました。この人がこの面接担当者の四人の中で長を務める人かと、拙生はその人物の顔を見ながら思うのでありました。一番貫禄がありそうな風体でありましたから。
「はい、その暗殺者です。ま、失敗したけど」
 拙生はそのニタニタ笑いに同調するようにニタニタと笑い返すのでありました。
「荊軻のどんなところが尊敬に値すると考えるのですかな?」
「壮士で詩人でテロリストと云うのは、なんか心情的にグッと来るものがありませんか?」
 不遜にも、と云うよりは不謹慎にも拙生はそう逆に問い返すのでありました。
「ははあ、そうですか」
 貫禄の御仁は笑い顔で軽く拙生の悪戯を受け流すのでありました。「それじゃあ、荊軻の他に尊敬する人はありますか?」
「そうですねえ、サヴィンコフでしょうか」
 こうなると拙生も殆ど自棄であります。
(続)
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石の下の楽土には 4 [石の下の楽土には 1 創作]

 だから全く当たり前のこととして、拙生はその就職試験をしくじったのでありました。荊軻の名前を出したところで拙生はなにやら急に、その就職試験がどうでもよくなって仕舞って、拙生の前に居並ぶ四人の面接官の前から早々に立ち去りたくなったのでありました。自分の不注意、或いは悪戯心を抑制出来なくて自らそうしておきながら、直後にええいもう、後はどうでも構うもんかと勝手に短気に、自棄のやんぱちを決めこむのは拙生の悪い癖でありました。
 連続企業爆破事件の記憶も未だ生々しく、成田闘争のピークでもありましたから如何様就職面接試験の場で、尊敬する人物を問われて荊軻だのサヴィンコフだのとほざく拙生も、身の程知らずに世間をなめた真似を仕出かしたものであります。こんな不真面目な者を雇う奇特な企業が不況風の吹き荒ぶ中あろうはずはなかろうし、それ以前に拙生の子供じみた嘲笑ものの応答に呆れ顔の先方の反応を、なにやら拙生に対する畏怖と警戒と不気味さからだと誤解して、自分のしくじりに淫靡な誇らしさなどを感じて仕舞うオメデタい拙生は、成程その企業にとって雇用する何程の価値もない者であったでありましょう。と云うわけで、一社だけ就職試験を受けてそれをしくじった拙生は、お家芸のええい面倒臭いと云う短気を起こして、今後の一年間を気儘に過ごしてそれから就職したって遅くはないわと、実にイサギヨく職探しにあくせくするのを以降放擲するのでありました。
 気楽で短気と云うのは生活には困るものであります。故郷に今年は就職難だからきっぱりこの時点で職探しは諦めて来年を期すと電話で報告したら、途端に未だ卒業まで五ヶ月もあるのにふざけるなと怒られて、来月からの仕送りを止るぞと脅かされたのは予想通りではありました。拙生が慌てて、では鋭意就職活動に邁進するとすぐに前言を翻したのは云うまでもありませんが、しかし来年の大学卒業時に結局ダメでありましたと報告するその言葉を、もうすでに腹の中には用意しているのでありました。
 目論見通り周りの就職活動などどこ吹く風と、竹林に籠ってのほほんとその後の時間をやり過ごして、見事にその後の身の振り方に当てのない儘大学を出されたは良いのでありますが、その時点で故郷からの仕送りは途絶えるのでありました。しかしこれは計算の内でありましたから、今度は拙生は何ら動じることはないのでありました。動じはしないのでありましたが、毎日の飯は食わなければならないのであります。故に拙生は当座のアルバイトを見つけようとするのでありました。
 アパートの近くの駅前商店街をふらふらと歩いていると、幾つかの店先でアルバイト募集の張り紙が目に入ってくるのでありました。その中で選んだのが居酒屋の『雲仙』でありました。時給もそこそこの額であったし、夕方から夜の十一時半までの拘束時間であったから就職活動にもそう響かないかと、まあ、あんまりやる気もない就職活動ではありましたが、一応そっちとの折りあいの点も考慮するのでありました。
 未だ暖簾の出ていない引き戸を開けて中を覗くと、亭主の小浜さんは料理の仕込みの最中でありました。アルバイトで雇って貰いたい旨告げると、小浜さんはカウンターの中から出てきて、拙生に入口脇の席の椅子を勧めてくれるのでありました。小浜さんは第一印象から、あんまり威勢の良いタイプではない風なのでありました。
(続)
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石の下の楽土には 5 [石の下の楽土には 1 創作]

 小浜さんが拙生のアルバイトに応募した経緯などを聞きつつ、なにやら遠慮がちではあるものの時々じっとこちらを見つめるのは、拙生が小浜さんが欲している人材として適切なのかどうか判断するために、拙生の受け応えやら表情やらを観察していたのでありましょう。拙生としたら、まあ聞かれもしなかったので今度は荊軻もサヴィンコフも持ち出すこともなく、しごく当たり前の応答に終始するのでありました。
「ま、そんなら出来たら明日から来て貰えると、助かるんだけど」
 これが小浜さんの採用通知でありました。拙生は宜しくお願いしますと頭を下げて、一応履歴書を書いて来てねと云う小浜さんの要請を快諾して店を出るのでありました。これで当面の生活費の問題は解決であります。
 拙生は週に六日、午後五時に店に入って十一時の閉店後に後一時間片づけを手伝って、それで放免と云うことになるのでありました。最初の話より三十分長く働くのでありましたが、どうせアパートも近所でありましたから、夜の遅いのは全く問題ないのでありました。それに一月換算で仕送りよりも多い稼ぎに、拙生としては大満足でありました。
 まあアルバイトを雇おうかと云うくらいでありましたから、店はそこそこ繁盛しているのでありました。しかしかと云って、格別目が回る程忙しいと云う程ではないのでありました。拙生の仕事は当面掃除や皿洗いや料理と酒の運搬係と云った雑用でありますが、意外にのんびりとした仕事振りで問題はないのでありました。小浜さんもそんなにカリカリと神経を逆立てて仕事をする風ではないし、万事に鷹揚な態度でありましたから、拙生が疲労困憊することなど殆どないのでありました。何より拙生は妙に小浜さんと気があうのであります。拙生にしたら全く都合の良いアルバイトを見つけたものでありました。
 それで、あんまり居心地が良いものだから、拙生は当初の契約の三ヶ月をとうに過ぎても未だ働いているのでありました。拙生は就職なんかしないで、このままこの店に当分居つくかとも考えるのでありましたが、小浜さんの方が拙生の就職を心配するのでありました。
「ウチは大いに助かるけどさ、でも秀ちゃんが早いとこちゃんとした処に就職しないと、郷里のご両親が心配だろうよ」
「いやあ、自分としてはこの儘ここで当分ご厄介になって、将来は飲み屋の亭主と云う手もあるなって、最近そう思ったりしますよ」
 拙生は結構本気でそんなことを考えているのでありました。
「折角大学まで出して、それじゃあご両親ががっかりだろうよ」
「しかし今の不況は当分続きそうな気配だし、地道にサラリーマンやってても、何時会社が潰れるか判らないご時世ですから、案外そっちの方が賢明な選択かもしれませんよ」
「ま、なんとも云えんけどね、確かに」
「自分はこう云う仕事は初めてだったんですが、なんか向いてるような気もします。まあ小浜さんの店で働かして貰っているんで、そう思うのかも知れませんが」
「俺の商売は、呑気なものだからなあ、自分で云うのもなんだけど」
 そんな話をしながら店の片づけが終わると二人で店を出て、小浜さんが軽自動車に乗って家路につくのを拙生は見送るのでありました。
(続)
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石の下の楽土には 6 [石の下の楽土には 1 創作]

 島原さんが帰った後、テーブルに残った一合徳利と猪口とカツ丼の器、それにお新香の小皿を片づけていると、小浜さんがカウンターの中から拙生に聞くのでありました。
「島原さんのカツ丼は、もう一月になるかな?」
「そうですね、ぼちぼち」
 拙生はカウンターの中に戻って、今下げてきた食器を流しの洗い水の中に移しながら云うのでありました。
「ほんじゃあ、ぼちぼち違う物を勧めてみるか」
「あの歳で一月カツ丼を続けても腹の調子がおかしくならないのは、島原さんの胃腸はかなり丈夫なんですね、屹度」
「しかし今度は、少し油気の薄い物にした方が無難かな」
 小浜さんはそう云うと明日島原さんに勧めるべき料理を思案するように、豚肉と大根を煮つけている鍋に目を落とした儘、灰汁を掬う手を止めるのでありました。煮汁の甘辛い香りが拙生の鼻まで漂ってきます。
「鰤大根、なんて云うのはどうですか?」
「お、それいいねえ」
「薄味にして、ちょっと減塩で」
「まあ、島原さんが好きかどうか判らないけどね」
 翌日、島原さんに今日から鰤大根はどうかと訊ねると、島原さんは一つ頷いて「じゃあ、お願いしますか」とあっさり応諾するのでありました。
 珍しく、と云うか初めて島原さんは何時ものテーブル席を立って、拙生が調理場へ戻るのについてカウンター席にやって来るのでありました。
「今日はここでご厄介になりますよ」
 島原さんはそう云いながらカウンターの奥から二つ目の席へ腰をかけるのでありました。
「ええ、どうぞどうぞ。珍しいですね」
 小浜さんがカウンターの内側からニコニコと笑いながら掌を上に向けて、それを前に差し出すのでありました。
「偶にはご亭主とお兄さんと話でもしながら、飲もうかと思いましてね」
「こんなむさ苦しいので良かったら」
 小浜さんが笑いながら自分の額を人差し指で小突いて見せます。
「島原と云う私の名前は、以前になにかの折りに云ってましたが、ご亭主のお名前は?」
「小浜と申しますが、まあこう云う場所柄、オヤジと呼んで頂ければで結構です」
 そう云った後に小浜さんは拙生の方を見るのでありました。「それから、こっちの若い衆は秀ちゃんと呼んで頂ければ」
「じゃあ、オヤジさんに秀ちゃんですね」
「はい、そんな風にお呼び願えれば」
 小浜さんはこっくりとお辞儀をするのでありました。その後に拙生も小浜さんよりは少し深く、島原さんに向かって頭を下げるのでありました。
(続)
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石の下の楽土には 7 [石の下の楽土には 1 創作]

 拙生は燗の上がった徳利の尻を拭って、それは手に持った儘島原さんの前に猪口をカウンターの中から置くのでありました。
「お待ち遠さまです」
 島原さんが返答に頷くようなお辞儀をしてその頭が上がった時に、拙生が徳利を島原さんの前に両手で捧げるように差し出すのは、最初の一杯をお注ぎしますと云うお客さんへの愛想なのでありました。もうここでのアルバイトが長いものだから、拙生のそう云う素振りもなかなか板についているのでありました。
 島原さんは猪口を片手で持って拙生の方におずおずと差し出します。拙生はそれに酒を八分程注ぐのでありました。
「秀ちゃんは将来居酒屋を出そうと、ここで修行中と云うところですかね?」
 島原さんが注ぎ終わりの砌に少し猪口を持ちあげて、傾いた徳利を立てる仕草をしながら拙生に聞くのでありました。
「いやあ、それもいいかなって考えないこともありませんが、まあ、アルバイトですよ」
「就職試験に備えて、準備中だもんなあ、今は」
 カウンターの他の客から注文を貰って、小浜さんは俎板の前に戻る序でのようにそう云うのでありました。それから拙生に小声で「あちらにビールを二本」と指示を出します。
 拙生が指示された席にビールを出してこちらにも最初の一杯を注いで戻って来ると、小浜さんが先程の話の続きを始めるのでありました。
「そんじゃあ、秀ちゃんは学生さん?」
「いや、もう卒業してます。就職の方は不況で去年は不如意だったものですから」
「へえ、不如意だったの」
「時々、妙にチャンバラ時代劇のような言葉を吐き出すんですよ、この秀ちゃんは。不如意だとか如何様にもとか、真っ平ご免なすってとか、するってえとなんですかいとか」
 小浜さんが包丁を使いながら云うのでありました。
「真っ平ご免なすってと、するってえとなんですかい、は云わないですよ。卒爾ながら、みたいなことは云うかもしれませんが」
「チャンバラ時代劇が好きなの?」
 島原さんが真顔で聞くのでありました。
「いえ、然様のことは」
「その、然様のことは、てのも、近ごろの若い人は滅多に使わないよ」
 すかさず小浜さんが、刺身の妻の大根の千切りを皿に盛りながら云うのでありました。
「ところで就職の話だけど」
 島原さんが逸れた話頭を元に戻すのでありました。「今年の就職活動だって、もう終盤も終盤と云ったところだろうに」
「そうですね、今年の新卒の就職活動も、ぼちぼち終わりの時期ですよね。あと少しで連中も卒業だろうし」
 拙生は皿を洗いながら云うのでありました。
(続)
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石の下の楽土には 8 [石の下の楽土には 1 創作]

「秀ちゃんはそれなのに、のんびりアルバイトなんかしてていいの、この時期?」
 島原さんは手酌で猪口を一杯傾けてから拙生に聞くのでありました。
「実はまともな就職活動なんて、ちっともしなかったんですよ、今年も。だから、当分ここで働かせて貰って、将来は飲み屋のおやじもいいかなって、最近思うわけですよ」
「ふうん。まあとんでもない不況だから、若い人は大変だよね。僕等はもう年金生活だから、あんまり今の不況も身に沁みないけど」
「ほい、刺身の盛りあわせ、上がり」
 小浜さんが包丁を置きながら拙生に声をかけるのでありました。拙生は島原さんに一礼して出来上がった刺身の盛りあわせを盆に載せると、それを注文のあったテーブル席の方へ運ぶのでありました。運んだ皿を席に置いた時丁度、お愛想をと云う声が他の席から上がるのでありました。
「はい、只今」
 拙生は刺身の盛りあわせを運んだ席に一礼して、カウンターの端に置いてあるお愛想の席の伝票を取るとそこへ急行するのでありました。
「それじゃあ、なにかとご不自由でしょうねえ」
 帰る客を送り出してカウンターの中へ戻ると、小浜さんが島原さんにそんなことを云っているのでありました。
「でもぼちぼち、慣れましたよ」
「いやね、島原さんは一人暮らしなんだってさ」
 小浜さんが拙生の方を向いて云うのでありました。「二年前に奥様を亡くされて、それからはずっと自分で家事をされているんだと」
「ああ、そうなんですか」
 拙生は島原さんに顔を向けるのでありました。
「まあ、年金暮らしで毎日遊んでいるようなものだから、洗濯とか部屋の片づけとか掃除は苦にはならないんだけど、私は無精な性質だから、女房がやっていたみたいにまめには出来ないですけどね」
「三度の食事は、どうされてるんです?」
 小浜さんが聞くのでありました。
「歳をとると量も減るし、元々凝った料理とか味なんかにもそんなに興味もなかったから、適当にと云うのか、いい加減にやってますよ」
「なかなか面倒なことが多いですよね、一人暮らしは。自分も東京へ出てきてからはずっと、アパートでの一人暮らしですけど」
 拙生はそう云って島原さんに笑いかけるのでありました。
「秀ちゃんはここで働いているんだから、料理の腕も上がったでしょう?」
「いやあ、とてもとても。第一、調理の方は自分は手を出しませんから」
「アタシはまあ、料理は得意な方ですよ、ちょっと意外かも知れませんが」
 小浜さんがおどけてそんなことを云うのでありました。
(続)
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石の下の楽土には 9 [石の下の楽土には 1 創作]

「私は一人暮らしするまで家事一切はすっかり女房任せだったから、実は料理なんてしたことがなかったんですよ。しかし毎日、今日は何を食うかとか考えるのが面倒なんでね、或る日料理の本を買って来ましてね、それで簡単で作り置きの出来るものを大量に作って、それがなくなるまで、朝昼晩と、いや大体は朝と夜の二回ですけど、食っていたんです」
「それじゃあ、厭きるでしょうに?」
 小浜さんがそう聞くのでありましたが、一月以上同じものを食し続けてなんら不都合を感じない人にこの質問は的外れだったかと云う色が、小浜さんのこめかみにぴくっと現れるのでありました。
「いや、さっきも云ったように、私はあんまり料理に拘らない方だから、同じものを続けて食っても、そう気にならないですよ。毎日の食事の支度から解放される方が、寧ろ気楽ですかね」
 島原さんはそこまで云うと、少し間を取るように猪口を一口傾けるのでありました。「しかし流石にここにきて、少々食傷しましてね、それでここを覗いたわけです」
「ああ、成程ね」
 小浜さんがそう納得するのと同時に、椅子席からこちらに向かって手が上がるのが目に入るのでありました。拙生はその席へ行くために急いでカウンターを出るのでありました。
「六調子二杯お代わりと、烏賊の一夜干し追加です」
 拙生はカウンターの端に置いてある伝票にそれを記入した後、小浜さんに向かってそう伝えながら流しの前に戻るのでありました。すると今度はカウンター席から手が上がり、小浜さんはそちらの注文を聞くために島原さんの前から離れるのでありました。
「ビールもう一本、あそこのお客さんへ」
 小浜さんが拙生にそう指示を出します。
「はい、ビール一本追加」
 拙生はそう復唱してボトルクーラーの中からビール瓶を取り出すのでありました。
「しかし優雅で良うご座んすね、仕事をしないで毎日気儘に過ごせるてえのは」
 食品冷蔵庫から烏賊の一夜干しを出して来てそれを俎板の上に載せ、包丁を手にした小浜さんが自分の方から島原さんにそう水を向けるのは、仕事のために途中で話の腰を折ったような格好になった島原さんへの気遣いのためでありましたか。
「いや、しかしなにもすることがないと云うのは、これでなかなか困ったものですよ、時間を持て余して。まあ、することがあったらあったで、面倒臭いと思うのだろうけど」
「どうやって毎日過ごされているんです?」
「歳が歳だからそう何時までも布団に入ってもいられないんで、七時には起き出してそれから冷蔵庫を開けてパンでも齧って、新聞に目を通した後はテレビの前で座ったり寝転んだり、時々うとうとして午前中は過ぎてしまいますかな。その後は洗濯物が溜まっていれば洗濯機を回したり、部屋が散らかっていれば適当に掃除をしたり、晴れていて気が向けば買い物とか年金を引き出しに銀行に行きがてら散歩したり、と云った風ですかな。なんにもすることがない時は、一日中テレビですよ。ああそうだ、後は・・・」
(続)
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石の下の楽土には 10 [石の下の楽土には 1 創作]

 島原さんが猪口を下に置いて徳利を傾けながら続けるのでありました。「女房の墓参りには、週に二回行きます」
「奥様のお墓は、ご近所なんですか?」
「ええ、少し離れていますけど、歩いて行けます。ほら、この辺は都営のやらなにやらと、墓地が結構たくさんあるでしょう。その中の一つにありますからね、女房の墓は。女房が死んだ時に、こさえたんですよ」
「週に二度いらっしゃるとは、奇特なことですねえ」
「まあ、することもないし、立ち寄るような親しい人も近所には居ないから、暇つぶしの散歩ですよ私のは、畏まった墓参りと云うのではなくて」
 島原さんは照れ臭そうに笑って顔の前で掌を何度か横に振るのでありました。
「それでも、なかなか出来ないことですよ」
 小浜さんが烏賊の一夜干しを盛りつけ終えたので、拙生はその皿と拙生がこしらえた焼酎のオンザロック二杯を盆に載せて注文のあった席へと運ぶのでありました。
「ぼちぼち鰤大根と飯を出しましょうか?」
 小浜さんが島原さんの傾ける徳利の角度を見ながら云うのでありました。
「いや、今日はもう一本つけてもらおうかな」
「ほう、珍しいですね」
「なんとなく、もうちょっと飲みたい気がするんで」
 拙生はその遣り取りを聞きながら、アルマイトの計量用の一合酒タンポに日本酒を一升瓶から注ぎ入れるのでありました。
「しかしなんですねえ、週に二度も奥様のお墓を訪ねられるんですから、ご生前は余程奥様を大事にされていたんでしょうねえ」
 小浜さんが後で出す鰤大根の鍋を火にかけながら云うのでありました。
「いや、その逆で、生きている頃は必要なこと以外は、殆ど口を利かないような夫婦でしたよ。私は人づきあいが昔から下手で、出来れば何時も一人で居たいと云う性分なんですが、長年連れ添った女房とも、そんな風なつきあいでしたかなあ」
「その分、外でおモテになったんですかな、実は」
「いや、からっきし。こんな無愛想で、気の利かない男が女性にモテるわけがない。女房はこんな男と連れ添ったのをさぞや後悔していたろうと思いますよ、死ぬ間際まで」
「しかし結婚されたんですから、奥様も満更でもなかったでしょうよ」
「いやまあ、戦争のどさくさの中、見合いで仕方なく私の処に来たんですよ」
「でも週に二回のお墓参りを欠かさない方ですから、そう仰っていながらも、本当は奥様の事を大事にされていたんでしょうねえ」
「いやいや、違いますって」
 島原さんはそう云った後、思い出したように急に話題を変えるのでありました。「ああ、そう云えばその墓参りなんですがね、時々出くわすんですが、家の墓の二つ隣りの墓にね、かなり風変わりな娘さんがね、よくお参りにやって来るんですよ。・・・」
(続)
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石の下の楽土には 11 [石の下の楽土には 1 創作]

 島原さんの手酌で徳利を傾けるピッチが上がるのを見て、小浜さんは鰤大根の鍋をかけたコンロの火加減をほんの少し強くするのでありました。
「ほう、風変わりな娘さんですか?」
「ええ。歳の頃は、そうねえ、まだ二十歳にはならないくらいですかなあ。小柄で、顔立ちのなかなか可愛らしい娘さんなんですよ。長い髪をゴムで後ろに束ねていて。私がね、何時もの散歩のような墓参りではなくて、その時は丁度女房の祥月命日で、少しは見栄えのする花と線香を持って行った日だったですかね、初めて見たのは」
 そう云い終った後、島原さんが逆さにした徳利から最後の一滴が猪口の中にゆっくり落ちるのでありました。
「鰤大根を出しますか?」
 小浜さんが島原さんに聞くのでありました。
「いや、もう一本つけてもらおうかな」
 島原さんのその言葉は拙生の予測の外でありましたから、拙生は慌てて傍らの一升瓶を取り上げて酒をタンポの中に注ぎ入れるのでありました。小浜さんが先程強くしたコンロの火勢を、さり気なく覚まさない程度の弱火に落とします。
 新しい二人連れの客が扉を開けて入って来たので、拙生は応対のため急いでカウンターを出るのでありました。その二人をいつも島原さんが座っていた席に案内して、注文を聞いてカウンターの中へ戻って来ると、拙生の代わりに小浜さんが燗の上がった酒タンポの酒を一合徳利に移して、島原さんの猪口に注いでいるのでありました。小浜さんが徳利を猪口の横に置くと、島原さんは猪口を取り上げて、僅かに立ち上る湯気の端に口を近づけるのでありました。
 拙生が新しい客の注文を小浜さんに伝え終わるの見計らってから、島原さんが話を再開するのでありました。
「あんまり墓地では人とは出くわさないんですが、珍しくお参りの人が二つ離れた処に居たものだから、お互いになんとなく顔を見あわせたんです。私は自然に軽く会釈をしたんですが、その娘さんは私の会釈を避けるように、プイと横を向くんですよ。なんかまるで私が現れたのが、いかにも迷惑だって云う風に」
「おやまあ、無愛想なと云うか、失礼な娘ですねえ。会釈ぐらい返せば良いものを」
「まあ、若いだけに人慣れていない娘なんだろうと、私もその娘さんを無視して墓の掃除を始めたんです。一通り墓石を拭いて、水入れに水を満たして、花も活けて、墓石に頭から水をかけて、線香も燻らせて、しゃがんで合掌しようとした時、その娘さんがね、急に私の傍に寄って来て、花を二本くれないかと云うんですよ」
「こりゃまた、無愛想で失礼で、その上図々しいときましたか」
「いきなりなにを強請っているんだって、最初私も吃驚したんですが、なんかその娘さんの目が妙に真剣でね、切羽詰まっているような風に見えるんですよ。確かに横目で見遣ると、その娘さんの参っていた墓には、花がなかったんです。私もなんとなく可哀そうな気がしてきてね、二つある花立ての一方の花をそっくり抜いて渡そうとしたんですよ」
(続)
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石の下の楽土には 12 [石の下の楽土には 1 創作]

 島原さんは猪口の酒を飲みほして、それを下に置くと横の徳利を取り上げて静かに傾けるのでありました。「そうしたら、そんなには要らないと両手をふるんです。白い菊の花を二本で良いんだって。そう云う時の表情は、妙にしをらし気に見えるんです」
「無愛想で、失礼で、しかも中途半端に図々しくて、尚且つ、しをらしい娘か。こりゃ確かに風変わりと云えば風変わりですかな」
 小浜さんが蒲鉾を切りながら云うのでありました。
「その娘さんの目が、いやにきっぱりしていて、私は気押されてね、二本で良いと云っているのをこちらがあれこれ云うこともなかろうと、菊の花を二本渡したんですよ。その娘さんは有難うと小声で云って花を受け取ると、自分が参っていた墓の二つの花立てに一本ずつ、それを差すんです。それから神妙な顔をして、一心に墓に掌をあわせて目を閉じるんです」
「成程、厚かましいのか、しをらしいのか、全く以ってよく判らない娘ですねえ」
「その墓の香炉から煙が出ていないのに気づいたものだから、私もよせばいいのに、良かったら線香もあげようかなんて聞いたんです。するとその娘さんはこちらを大きな目で見て、こっくりをするんです。私が線香に火をつけてそれを渡したら、また小さな声で有難うと云って、香炉の中にそれを横たえて、それで私の方を見て、嬉しそうに笑うんです。その笑顔は、とっても可愛いらしかったですよ」
 島原さんはそう云いながら顔の前に猪口を持った手を止めて、自分も嬉しそうな笑いを浮かべるのでありました。
「ぼちぼち、鰤大根を出しますか?」
 小浜さんにそう聞かれて、島原さんはもう一本徳利のお代わりをしようかどうか迷うような顔をするのでありましたが、自得するように一つ頷いて持っていた猪口を下に置くのでありました。
「そうですね、お願いしましょうか」
 拙生はその言葉を聞いて定食用の角盆を出してから、お櫃の蓋を開けると丼に飯を少なめに盛るのでありました。
 島原さんは一月ぶりに変更した鰤大根に大いに満足したようでありました。尤もその前のカツ丼の時も満足気ではありましたが。そりゃあ幾ら物ぐさとは云え誰でも夕食に一月も同じものを食い続けたら、いい加減厭きているに決まっていますから、この変更は島原さんには大歓迎であったろうと思われるのであります。
 その日はそれから店が結構立てこんできて、小浜さんも料理の手が忙しくなり、拙生も頻繁にカウンターを出入りし始めたものだから、こちらとしても不本意ではありましたが、鰤大根をゆっくり食す島原さんはなんとなく一人放って置かれるのでありました。
「そろそろ、お暇します」
 島原さんは鰤大根を食し終わってから、頃あいで拙生が出した茶を一口啜って、カウンターの中の小浜さんにそう云って立ち上がるのでありました。「いやあ、今日は久しぶりに喋って、楽しかったです。オヤジさんにはご迷惑だったかも知れませんが」
(続)
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石の下の楽土には 13 [石の下の楽土には 1 創作]

「いやあ、済みませんねえ、後半はお相手もろくに出来ずに」
 小浜さんが島原さんに頭を下げるのでありました。
「いやいや、本当に楽しかったです。お酒を飲みながら、人とこんなにお喋りをしたのは、何年ぶりだか。秀ちゃんも年寄りの詰まらないお喋りを聞いてくれて、有難う」
「いえ、とんでもありません」
 拙生は顔の前で手をふった後、頭を下げるのでありました。「またその、無愛想で、失礼で、図々しくて、そいで以ってしおらしい娘の話の続きを聞かせてください。なんか気になるところで、話が途切れてしまって、この儘だと臍の辺りが妙に落ち着きませんから」
 拙生の言葉に島原さんは笑うのでありました。勘定を済ませて帰る島原さんの背中には、何時もと違って確かに、満足気な気配が漂っているように見えるのでありました。
「島原さんも寂しいんだろうなあ」
 店を閉めてその日の片づけをしながら小浜さんが拙生に云うのでありました。「近所にも親しい人は居ないなんて云っていたから、普段は何時も一人で、殆ど人と話をする機会もなく暮らしているんだろうなあ。本当は人恋しいんだな」
 小浜さんは菜切り包丁を砥石にかけているのでありました。拙生は洗った皿や徳利や猪口を水切りの中に並べるのでありました。
「でも、人づきあいが下手で、何時も一人で居たい方だってご本人が云ってらしたし。亡くなった奥さんとも、あんまり話をしなかったとも仰ってましたよ」
「そりゃあそうかも知れないけどさ、しかしそんな奥さんとの仲だったとしても、亡くしてみると矢張り寂しいだろうよ。何時も喋ろうと思えば喋れる相手が居ればこその無愛想で、その相手が居なくなったとなれば、そりゃあ侘びしさも身に沁みると云うもんだろう」
「お歳もお歳だし、これから先ずっと一人だと考えると、心細くもあるんでしょうね」
「そうだなあ。その心細さが週に二回の奥さんの墓参りに現れているんだろうなあ。しかし、秀ちゃんは若いくせに、妙にものの判ったようなことを云うねえ」
「自分だって一人暮らしですから、偶には人恋しい時もありますよ。まあ、でも今のところは人と一緒に居て気を遣う煩わしさよりは、一人でぼんやり過ごす方が良いと云う了見の方が、まだ勝ってるかな、大体は」
「俺は秀ちゃんよりは島原さんの方に歳が近いけどさ、それでもまだ一人で居たい方の口だな。家でカカアにがたがた云われるのが嫌さに、店が休みの時は一人で釣りに行くぐらいだからな、俺は。あのカカアの口がこの世からなくなれば、どんなに気楽なことか」
 小浜さんは片目をつぶって、菜切り包丁の刃の砥ぎ具合を確認するのでありました。
「そう云えば、前は奥さんがこの店を手伝ってらしたんでしょう?」
「うん、この店を構えたすぐの頃はね。でも店でも、ああだこうだと指図がましいことばっかり云うんでね、或る日、もう来なくて良いて云ってやったんだ。のべつあの煩い口につきあうのは、真っ平ご免だからね。」
 小浜さんは、本当は違うのでありますが拙生がよく口走ると島原さんに云った「真っ平ご免なすって」に近い言葉を、今自分で云っているのでありました。
(続)
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石の下の楽土には 14 [石の下の楽土には 1 創作]

 島原さんはその日以降店がひどく混んでいる時以外は、カウンター席に座って二本以上の徳利を傾けてから、鰤大根を食して帰るようになるのでありました。多少こちらが忙しくしていても、遠慮して店の奥の二人がけの席につこうとする島原さんを、小浜さんはまあまあこちらへとカウンター席に招いて、仕事のあい間になるだけ話し相手になっているのでありました。拙生の方は相手としては若すぎるためか、それに拙生の接客経験の不足もあって、あんまり上手く島原さんの口の滑らかさを引き出せないのでありました。
 島原さんは何日もかけて自分の出自や経歴や、奥さんとの馴れ初めの事とか家族の事、自分の性格やそれに纏わる話、それに墓地で出逢う娘の事など、時間経過は前後しながらもぽつりぽつりと話してくれるのでありました。小浜さんが聞き上手なものだから、結構色んな事をほろ酔いに任せて喋る島原さんは、見ていて如何にも気持ちよさそうなのでありました。島原さんが多分唯一、くだけた感じで人とお喋りが出来る場として居酒屋『雲仙』があったものだから、島原さんの舌もそれを嬉しがって大いに大回転したのでありましょう。まあ、大回転と云っても縦板に水と云った風では決してなくて、舌の回転を不得手とする島原さんにしては、よく回転すると云った意味に於いてであります。
 ・・・・・・
 島原さんは千葉の産で、亡くなった奥さんと結婚したのは、太平洋戦争も終局にさしかかった頃と云うことでありました。当時呉の海軍工廠で軍人として働いていたと云うことでありましたが、体が壮健ではなかったために、内地勤務であったと云うことでありました。いくら体が丈夫でないとしても、戦局が悪化していて、この先何時艦艇勤務を命ぜられるか判らないから結婚はしないつもりであったのだけれど、千葉の実家から結婚を急かされて、面倒だからもし良い人が見つかれば結婚しても良いと云うごく消極的な内諾を伝えていたら、そう間を置かずに千葉から奥さんに当たる女性が、遥々呉までやって来たのだと云うことでありました。見合いもせず、いやそれどころか顔も見たことがないまま、実家の云いなりに結婚をさせられたのだそうであります。当時はそう云う結婚の形も珍しい話ではなかったからと、島原さんは回想するのでありました。奥さんは島原さんより一つ年上であったそうであります。
 新所帯を構えてみたものの窮地に陥っていた戦局のために、呉で落ち着いた新婚生活など送れるはずもなく、転属やらなにやらであちらこちらを転々としたのだそうであります。島原さんは艦艇勤務も少しの期間はあったけれど、結局横浜で終戦を迎えたと云うことでありました。終戦後は千葉の実家で暫く暮らしていたのでありましたが、二年後に或る知人の伝手で東京の小さな印刷会社で植字工として職を得ることになったのでありました。
 お子さんが一人あったそうでありますが、十歳になる前に病気で不幸にもこの世から去って、その後はお子さんには恵まれなかったのだそうであります。奥さんはお子さんを亡くされるまでは結構社交的で活発な方であったそうでありますが、それ以降、島原さんの言葉によれば「陰気で、めったに口を開かない無表情な女になってしまった」と云うことでありました。尤も島原さん自身も「どちらかと云うと無愛想で人づきあいが苦手なタイプ」だから「それをどうこう云う筋あいも自分にはなかったけど」と云う事でありました。
(続)
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石の下の楽土には 15 [石の下の楽土には 1 創作]

 島原さんはあまり人と話す必要のない植字工と云う仕事が、大いに気に入っていたとのことでありました。気がつけば朝と仕事終わりの挨拶以外、誰とも喋らない日もあったそうであります。会社の宴会やらも出ないで済むのなら出たくはなかったようでありますが、そうもいかない場合は仕方なく場の隅の方で喋りかけられれば喋るけれど、そうじゃなかったら一人で手酌でゆっくりビールのコップや日本酒の猪口を口に運んで、ひたすら宴のお開きを待っていたそうでありました。だから同僚と仕事帰りに酒を酌み交わすなどということもほとんどないのでありました。どうしても断れない謝恩旅行などの行事もあったけれど、そこでも島原さんは皆の最後尾について観光をし、宴席の隅の方で静かに時が過ぎるのを待っているのでありました。会社の同僚や上司からは人づきあいの悪い偏屈者と云われながらも、それでもそう云う評判も内心は返って有り難いくらいなのでありました。島原さんは出世とか金銭に対する野心とは無縁に会社務めをしていたのでありました。
 しかし本当は島原さんは、もしも会社に小浜さんのような同僚が居たらなら、そんなに人づきあいの悪い仁になることはなかったのではないかと拙生は考えるのでありました。現に『雲仙』では酒をちびちびやりながらの、小浜さんとの四方山話を楽しんでしるように見えますし、島原さんは喋らせればそこそこに饒舌にもなるのであります。
 小浜さんは無類の釣り好きで、ひょっとしたら釣りのためなら居酒屋の仕事も後ろへ回して仕舞いかねないのでありましたが、島原さんにはこの小浜さんにおける釣りのような趣味も道楽もないのでありました。島原さんが人に聞かれていつも難渋した質問と云うのが、その趣味を聞かれることだったそうであります。本当になにもないんだから実に困ったと島原さんは自嘲気味に笑って云うのでありました。一念発起して庭いじりとか囲碁なんかも試みたけれど、なんか退屈にしか思えなかったのだそうであります。と云っても他で時間を有効に使っているとも思えないけれどと、島原さんはこれも自嘲的な笑いを浮かべて云い添えるのでありました。
 お子さんを亡くしてからはずっと奥さんと二人暮らしで、お二人の間には必要な会話以外はなにもなく、ほとんど笑い声も響くことのない家庭だったと云うことでありました。一緒に居間に居ても夫々がてんでの方向に寝転がって、テレビを見ているか転寝をしているかと云った風であったそうです。奥さんもお子さんを亡くされてからは人変わりして、全く無趣味な人となって、外出は日々の買い物だけ、後は殆ど家の外には出ない人だったようであります。掃除が趣味と云えば趣味で、あちらこちらを拭いて回っている姿しか思い出せないなどと島原さんは云うのでありました。
 仕事も引退して、これと云った趣味もなく、それに奥さんを亡くしてからは、老いの侘びしさを濃くしていくだけの今後の一人暮らしへの不安などもあって、ここに来て急に、今まで感じもしなかった人恋しいと云う思いが、島原さんの心の中で急速に膨らんでいったのかも知れません。年齢や生活の変化から来る焦りと云うのか切迫感と云うのか、それが島原さんの中で無視出来なくなっていて、それでこの頃では『雲仙』に毎日顔を出すようになったのではないでしょうか。島原さんは『雲仙』で小浜さんと話をしている間、屹度云い知れぬ不安から束の間解放されているのでありましょう。
(続)
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石の下の楽土には 16 [石の下の楽土には 1 創作]

 ところで島原さんには奥さんに対して、払底できない悔悟があるようなのでありました。偏屈で人交わりが苦手で、察しが悪くて、てきぱきと状況にあった適切な行動もとれないこんな自分に嫁したばかりに、凡そ幸福とは云い難い、退屈で苛立たしい人生を送る羽目になったことを、奥さんは屹度悔いていたに違いないと島原さんは云うのでありました。しかし島原さんの奥さんは、会話もなければ共に行動することもない夫に対して、実は島原さんが云う程、それを恨みになど思ってはいなかったのではないかと拙生は考えるのであります。
 島原さんはお子さんがなくなった時、その事実に対して自分がなにも有効な対処が出来なかったこと、自分が涙を流さなかったことに対して、奥さんに自分への拭いがたい不信感と軽蔑が生まれたのだろうと云ったような回想を、不器用な云い方ながら披歴されたのでありましたが、しかしお子さんを亡くされる以前の奥さんは判らないながら、それ以降、確かに奥さんの様子やお二人の関係になにがしかの変化はあったとしても、だからと云って島原さんを嫌いになったり愛想を尽かしたりしたのではなかったのではないでしょうか。奥さんの資質の中にも実は島原さんと同じものがあって、島原さんの無愛想や口足らずや無趣味な一面を、子供を亡くしたのを切っかけに、ひょっとしたら秘かに歓迎されたのではないでしょうか。その方が自分を取り繕う必要もないわけでありますし。
 だから一面、そう云う島原さんと奥さんの関係も、実は気のあった睦まじい夫婦像ではなかったかと拙生は考えるのであります。そうでなければ奥さんは、特に恨みごとを云いつのることもなかったと云うことでありますし、死ぬまで島原さんと一緒に暮らしてなどいなかったろうと思うのであります。まあ、若輩の拙生にその辺の機微を本当に察せられるはずもないのでありますが、しかしなんとなく島原さんの奥さんに対する認識は、かなり思い過ごしの面もあるような気がするのでありました。
 とまれ島原さんはそうやって定年を迎え、年金生活に入ったのでありました。島原さんとしては今までの罪滅ぼしに、これからは奥さんに優しく接して、偶には二人でのんびり旅行などもして、優雅とは云えないまでも、せめて晩年の奥さんの心境を安らかならしめんと目論んだのでありました。しかしどうやってそれを実行に移していいものやら、島原さんにはとんと見当がつかないのでありました。心とは裏腹に、やはり奥さんに対しては相変わらず、無愛想に不親切に振舞ってしまうのでありました。気持ちと行動が統合出来ない自分への苛立たしさや焦り、島原さんがそんな感情に苛まれている内に、あっけなく奥さんはこの世から去って仕舞うのでありました。
 肺と肝臓に癌が見つかった時にはもうかなり末期で、入院後程なくして、奥さんは黄疸と腹水で膨張した腹部がいかにも痛々しい様子で亡くなったのでありました。島原さんの悔悟と云ったら、余人の推し測れる大きさではなかったであろうと思われるのであります。痛手から少しは立ち直る時間と云うものは、優に二年の歳月が必要であったのでありました。そんな経緯が判ってみると、島原さんが週に二回の奥さんの墓参りを欠かさないのは、矢張り島原さんが照れて云うような単なる散歩と云った域を越えたものに違いなかろうと、容易に推測出来るのでありました。
(続)
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石の下の楽土には 17 [石の下の楽土には 1 創作]

 さてその墓参りでありますが、なるべく雨天の日は避けて、しかし霖雨であったなら傘をさしてでも、島原さんは週に二回必ず奥さんの墓の前に立つのでありました。依って供えられる花の色艶は決して褪せることはないのでありましたし、墓石は何時も綺麗に清められているのでありました。島原さんは屹度、病床にあった奥さんの手足を摩るような優しさと丁寧さで墓を磨いているのでありましょう。
 それは孤独な作業だったのでありましたが「風変わりな娘」が出現して、期せずしてその娘と墓地で邂逅するような風になった島原さんは、そのことに多少の戸惑いと、それに多少の楽しみを見出すのでありました。殆ど人交わりのない自分の余生に、もうこの世では交流の兆しもなかろうと思っていた、もし居るとしたら自分の孫の年頃に相当する若い娘が、花を二輪贈呈したあの日以降、二つ横の墓の前に居るのを頻繁に目撃するのでありますから、島原さんの気持ちがそれまでの墓参りと少々違って浮き立ったとしても、それは不思議なことではないのでありました。
 島原さんは娘に逢えば何時も、強請られるわけではないのでありましたが二輪の花を彼女に渡すのでありました。娘はそれをしごく当然のように受け取るのでありましたし、島原さんは特段不快にも思わないのでありました。白い菊花ばかりではなく時には赤や紫や黄色の花を与えてみると、娘は嬉しそうな笑顔を見せるのでありました。
 幾度かそう云うことが重なってくると、島原さんは娘と次第に言葉を交わすようにもなるのでありました。聞いてみれば娘は毎日、花も線香も持たずに墓参りに訪れているようなのでありました。墓には彼女のお父さんとお母さん、それに二つ違いのお兄さんの遺骨が眠っていると云うことでありました。恐らくその娘が嘗て所属していた一家の成員の総ての遺骨が墓の中にあって、その傍らへ毎日花も線香も持たず通う若い娘となると、なにかちょっと迂闊に聞くには憚りのある経緯がありそうな気もして、島原さんは自分からそれ以上の事情を聴くことが出来ないのでありました。
 ・・・・・・
 小浜さんがカウンターの中からすこし身を乗り出して、島原さんの猪口に徳利から日本酒を注ぎ入れながら聞くのでありました。
「度重なると、段々花を渡すのが当たり前になってきて、図々しいなんて思わなくもなってきますかな、その娘ことを」
「ええ。まあ、私は全く不愉快ではなかったですからね、花をあげることが」
 島原さんが猪口を口に運びながら云うのでありました。この頃では、島原さんは店でその娘の話しばかりするようになっているのでありました。
「屹度花を貰おうと云う魂胆で、島原さんが来るのを何時も待っているんですよ」
 小浜さんがそう云いながら空いた島原さんの猪口にまた酒を注ぐのでありました。
「そうかも知れませんね。多分、そうなんでしょう」
「アタシだったら、その甘ったれた性根が気に入らないから、どやしつけてやりますがね」
「でも、居ない時もあるし。そんな時は墓には当然花が活けてないから、私は何時もその娘さんがしているように、花を両方の花立てに一輪ずつ入れて帰って来るんですよ」
(続)
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石の下の楽土には 18 [石の下の楽土には 1 創作]

 小浜さんはこめかみを人差し指で掻くのでありました。
「全く、島原さんはどこまでもお優しくていらっしゃるんだから」
「優しいと云うのではなくて、今じゃあその方がなんか自然な感じがするものだからね」
「でもその娘とは、島原さんが墓地にいらっしゃる時、必ず逢うと云うわけではないんですね?」
「まあ、タイミングがあわない時もあるのでしょうね。その娘さんも決まった時間に現れるのではないし、私も何時も同じ時間に墓地に行くわけでもないし」
「週に二回花を貰えると思って待っていても、島原さんが現れない場合もある。そんな時は仕方ないので帰って仕舞うわけだ。無愛想で失礼で図々しいに加えて、せっかちときたか。こりゃあ、益々以っていけ好かない娘ですねえ、アタシにしたら」
「でも、島原さんが現れなくても、花は何時も島原さんが差してくれているんだから、その娘にすれば、当初の目的は叶っているわけですよね、逢えなくても」
 拙生が洗った皿を拭きながら云うのでありました。
「ああそうか。そうなると図々しいの嵩が二倍になるなこりゃあ。全く太えアマだ」
「いやいや、実際はそんなに嫌な感じの娘ではないんですよ」
 島原さんは小浜さんの悪印象から、その娘を庇ってやっているのでありました。「人慣れしていないだけなんでしょう。それに私の方は、そんな風に待たれているのが、それ程悪い感じではないんで」
 その島原さんの言葉に小浜さんがやや身を引いて額を掌で一つ叩くのでありました。
「ひやあ、全く島原さんは仏様みたいな心根の広いお方ですねえ。なんか拝みたくなってきましたよ、そのお姿を」
 実際小浜さんは島原さんに向かって手をあわせるのでありましたが、島原さんはその小浜さんの仕草に苦笑いながら手を横に激しく振るのでありました。
「でも、毎日墓に来るのなら、その娘は決まった仕事とか持っていないんですかね。それとも学生かなんかで、暇を持て余しているのかしら?」
 拙生は洗い終った徳利を水切りに逆さに立てながら云うのでありました。
「高校を出た後暫くは、ほら一つ手前の駅から坂を下った処に大きなミシン工場があるでしょう、そこに就職していたらしいんだけど、お母さんが亡くなったのを機にそこは辞めて、今は都営霊園近くの花屋で、アルバイトをしているとか云ってました」
「へえ、花屋のアルバイトか。それならなんとなく墓参りの時間の都合もつきそうですね」
 拙生は納得して頭を小さく数回縦に振るのでありました。
「それに、都営霊園の近くならこちらの墓地へも近いしね」
「花屋なら、菊の二本くらい何時でも都合がつくだろうに」
 小浜さんが云うのでありました。
「いやまあ、幾ら花屋で働いているからと云っても、そう簡単に毎日花が二本、手に入るものでもないでしょうし」
 小浜さんはそう云って、その日三本目になる徳利を傾けて猪口を満たすのでありました。
(続)
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石の下の楽土には 19 [石の下の楽土には 1 創作]

「その娘は、何処に住んでいるんですかねえ。親父さんもお袋さんも、それに兄さんも亡くして一人っきりなんでしょう。家族が住んでいた家に、今も一人で住まっているんですかねえ?」
 小浜さんが聞くのでありました。
「ええ、家族は皆亡くなったと云っていましたね。先ずお兄さんが亡くなって、それからお父さんが続いて、お母さんと二人の時は駅の南口近くの二間のアパートに居たんだけど、今は一人で、花屋の近くのアパートに居るとか云っていましたかね」
「それなら、仕事場に行くにも墓に行くにも便利か」
 小浜さんは納得するように頷くのでありました。
「そうですね、そう云う意味じゃ、好都合な処に住んでいると云えるでしょうかね」
「でも、近頃の若い娘だから、仕事と墓参りだけで毎日暮らしているってんじゃないでしょうに。そんなんじゃあ、若い娘には面白いわけがない。五十を過ぎたアタシだって毎日それだけじゃあ、気が滅入りますよ。あそこの辺りは墓石屋ばっかりでスーパーとか買い物する店もないし、飲み屋も喫茶店もないし、それに駅には遠いし、どこかへ友達と遊びに出かけたりするには不便だし」
「それがね、あの娘さんは仕事と墓参りの他は、ほとんど他になにもしないらしいんですよ。一緒に遊ぶ友達なんか一人も居ないとも云っていましたよ。働いている花屋のご主人とも奥さんとも必要なこと以外は話さないし、一緒にアルバイトしている同年輩の女の子が一人居て、もう一人配達専門の男の若い衆も居るらしいんですが、その人達とも挨拶くらいはするけど、仕事中は殆ど何も喋らないんだそうです」
「でも花屋で働いているんだから、お客さんには愛想しないと。商売なんだから」
 小浜さんはそう云いながら、島原さんの猪口に酌をするのは徳利に入っている酒の残量を確認しているのであります。「まあ確かに、殆どが墓参りに来た人相手の商売だから、そう矢鱈に愛想や威勢の良さも必要ないだろうけど、でもそれなりの客あしらいが出来ないと拙いでしょうに」
「それはまあ、そうでしょうけど・・・」
 島原さんもその娘の店での様子を見たことはないでありましょうから、それ以上娘の働きぶりを紹介する言葉を続けることが出来ないようでありました。しかし島原さん自身がずっと寡黙に植字工の仕事をしていたと云うことでありましたから、その娘の店での様子は、島原さんにすればしごくリアルに思い描けているのかも知れません。
 ・・・・・・
 娘と島原さんは互いの墓に手をあわせ終わると、立ち上がってしばらく話をするのでありました。娘は島原さんには割と色々なことを話すのでありました。勿論、聞かれたことに対してだけではありましたが。
 墓石に刻まれている家名が松浦とありますから、娘の姓はそれと同じなのでありましょう。しかし島原さんは敢えて娘に姓名を聞かないのでありました。聞きたくはあるのでしたが、態々名乗りあうと、変に改まり過ぎるような気が島原さんはするのでありました。
(続)
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石の下の楽土には 20 [石の下の楽土には 1 創作]

 娘が中学生の時に、二つ年上のお兄さんが学校の屋上から転落すると云う事故で亡くなったのでありました。墓はその時に今の墓地に建てたのでありました。それから二年後に、彼女が高校生の時、今度は父親が胃癌で他界するのでありました。更に彼女がミシン工場に就職して一年後、父親が他界してから今度もまた奇しくも二年後に、母親がこの世を去るのでありました。
 なにやら薄幸な娘の運命を感じさせるのでありましたが、彼女の話によると、お兄さんと云うのが「グレてどう仕様もないワルで、警察の厄介になったことが何回もあった」人だそうで、結局屋上から落ちた原因は「はっきりとは判らない儘になってるんだけど、誰かと殴りあいの喧嘩してたからに決まってる」と云うことでありました。お兄さんの存在は「お父さんもお母さんも、ほとほと持て余していた」から、亡くなって「皆ホッとしたくらい」であり「だからちっとも悲しくなかった」そうなのであります。
 父親の胃癌は、仕事場の健康診断で見つかってすぐに手術をして、一時は恢復したのだけれど再発が確認されて、結局手術後一年を経ずに他界したのでありました。この時は収入の道が絶えたこともあって、母親は随分と途方に暮れていたのでありましたが、彼女自身は「それ程ショックじゃなかった」のでありました。彼女がもの心ついてからずっと、父親は朝家を出ると仕事と称して殆ど毎日夜遅くに、大抵は日を跨いだ時刻に酔っぱらって帰宅するような人だったから「生きている頃から、顔もぼんやりとしか思い出せない人」であって「そんな人が居なくなったって、別になんともないじゃない」と云うのでありました。
 しかし流石に母親の死は、彼女にとってはかなりの衝撃であったのでありました。彼女はこの世にたった一人残されたのでありました。
 母親の親類が青森の方に居るのでありましたが、母親が亡くなる時にはもう、彼女の祖父も祖母も他界していたと云うことであります。父親と母親が結婚をする折に親族の反対やら結構大変ないざこざがあって、母親は実家と縁を切るような形で父親の元へ嫁してきたそうで、それ以来青森の母方の親類とは殆ど交流がないのでありました。父親は元々縁者の居ない人だったのでありました。
 母親が亡くなった時彼女は既に高校を卒業して、ミシン工場に職を得て社会人となっていたのでありましたが、しかしまだ成人式も済ませていないのでありました。どうしてよいものか全く考えもつかない彼女ではありましたが、会社の上司や先輩同僚が完全に仕切ってくれて、母親の葬儀も墓への納骨もなんとか済ませたのではありました。しかしそれまで母親と二人で住んでいたアパートの家賃が、彼女の収入に鑑みればかなりの負担となってしまって、結局彼女は上司の取り計らいで、会社が幾部屋か一般のアパートから借り上げている独身者用の部屋に移るのでありました。
 一人で住む部屋は、寒々としているのでありました。遺品のように、母親と暮らしていた頃、いやそれよりも前の兄や父親とも一緒に居た頃の家具や小物が幾つか、一人住まいの狭い部屋に並んでいるのでありましたが、それらのものは返って彼女の気分を重く沈ませるのでありました。彼女はその部屋に一人で居ることが怖くなるのでありました。
(続)
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石の下の楽土には 21 [石の下の楽土には 1 創作]

 悲しくないはずであった兄と父親の死が、悲しみの一部に変容するのでありました。これから孤独にこの世を生きることになった彼女には、最愛の母親は勿論のことながら、たとえ「グレてどう仕様もないワル」の兄でも、「そんな人が居なくなったって、別になんともない」はずの父親でも、せめて今この部屋に一緒に居てくれたならどんなに心強いかと涙を流すのでありました。
 彼女は職場では元々寡黙で目立たない方でありましたが、益々その傾向が嵩じてくるのでありました。嵩じた果てに、彼女は思う通りに人と口をきくことも出来なくなって仕舞って、朝の挨拶の言葉も喉に閊えて出てこなくなるのでありました。あの怖い部屋に帰らなければならないと思うと、仕事の手もぎごちなくなってミスを重ねて、結局職場に居辛くなって会社を辞めるのでありました。会社の寮代わりのアパートも出て、駅からかなり離れた処で家賃が格安の部屋が見つかったものだから、そちらに転居するのでありました。その折、彼女を悲しませるだけの家具や小物類を、思い切って一切処分して仕舞うのでありました。
 転居費用を払うと、彼女には手持ちの金が殆どなくなるのでありました。彼女は一月ほど食を切り詰めるだけ切り詰めて生活するのでありましたが、遂にどうにも困窮して、自分にも出来そうな仕事を探すのでありました。好都合にもアパートの近くの大きな店舗で商いをする花屋でアルバイトを募集しているのを見つけて、なんとか今後の世過ぎの道を確保するのでありました。
 その辺りから、彼女の墓への日参が始まるのでありました。彼女は墓石の前にしか安息の場所がないように思うのでありました。この墓の前に立つことがこの世に生きる彼女の唯一の目的で、その他の生活の一切はそれを実現するための手段なのでありました。雨が降ろうが台風が来ようが、休日は勿論のことアルバイトの時間以外、彼女は屹度墓の前に立つのでありました。
 彼女にはそれが「墓参り」と云う行為であると云う思いはないのでありました。云ってみればそれは、彼女の中では「帰宅」と云い換えられるものだったのかも知れません。だから花や線香を供えなければとは、思いつきもしないのでありました。掌をあわせると云う所作も、彼女にはむしろこの墓の前では相応しくないものに思えるのでありました。自分の部屋を掃除するように、彼女は時々墓石を拭いたりはするのでありましたが。
 墓地では殆ど誰とも逢わないのでありました。周囲に茂る草と木々のさざめきの中で、墓石の前に立つ彼女と、土中に潜む蛇や百足や様々な幼虫と、夏に鳴く蝉、秋に集く虫の他には息をしているものは彼女の周囲には居ないのでありました。それは長閑な初夏の日に、縁側で庭を眺めながら寛ぐような感覚と同じだろうと彼女は思うのでありました。
 しかし或る時彼女の視界の中に、自分の墓の二つ隣りの墓に参る老人の姿が出現するのでありました。彼女は安息を乱されたような気がするのでありました。自分と家族とが団欒している家に、いきなり他人が侵入して来たような不快と緊張を感じるのでありました。老人もこの墓地で人と逢うのが珍しかったのか、怪訝な表情をして、しかし彼女に向かって少し頭を傾けるのでありました。
(続)
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石の下の楽土には 22 [石の下の楽土には 1 創作]

 老人は花束を抱えているのでありました。それを見て彼女は急に、そう云えば自分も墓に花を供えなければと思い至るのでありました。今まで考えすらしなかったのではありましたが、そうすれば、屹度母親も父も兄も喜ぶに違いないと気づくのでありました。
 花立てに水を注ぎ入れ、花束の結束を解いてそれをその中に差して見栄えを調えている老人に、彼女は思い切って声をかけるのでありました。
「花を二本、分けて貰えない?」
 老人は一瞬何を云われているのかよく判らないと云った顔をするのでありました。老人は彼女の顔をほんの少し長く見詰めるのでありました。その後に花立ての一方にある花をそっくり引き抜いて、彼女に渡そうとするのでありました。
「じゃあ、これを」
 彼女はたじろぐのでありました。
「そんなには要らないの。二本だけ、貰えればいいの」
 彼女が慌てて手を振ると老人は引き抜いた花を持ったまま、また先程と同じ目で彼女を見詰めるのでありました。それから急に笑い顔になって、二本の白い菊の花を渡してくれるのでありました。
「有難う」
 彼女はそう云ってその二本の花を受け取るのでありました。彼女は二つある花立てに一本ずつ、それを挿し入れるのでありました。急に墓が、華やかになったような気がするのでありました。
「良かったら、線香もあげようか?」
 老人が合掌している彼女の横顔に聞くのでありました。彼女は老人の方を見て、少し遅れて頷いて見せるのでありました。老人は持参した線香の箱から無造作に十本程を掴み取って、器用に片手でマッチを擦って線香の先端に火を移すのでありました。老人の手慣れた仕草を、彼女は感心しながら見ているのでありました。手を一振りして点火を終えた線香の炎を老人が消すと、煙がそこから急に立ち上り始めるのでありました。
「はい、どうぞ」
 老人が線香を差し出すのでありました。
「有難う」
 彼女は先程花を貰った時と全く同じ語調でそう云って線香を受け取ると、それを香炉の中に横たえるのでありました。香炉から煙が出ているのを、彼女は久しぶりに見るのでありました。それはひょっとしたら母親の納骨の時以来かも知れないのでありました。
 墓が如何にも墓らしく見えてきて、彼女は妙に嬉しくなるのでありました。なにやら漸くその墓の下に眠る家族に供養らしい供養をしているようで、彼女は少し興奮するのでありました。墓を前にしてその種の嬉しさを感じたのは、初めてのことでありました。
 老人がこちらを見ているのでありました。彼女は思わず、老人に笑いかけているのでありました。老人も彼女の笑顔を見て笑い返すのでありました。笑い返されたことが照れ臭くて、彼女は無愛想な顔をして老人からすぐに目を逸らすのでありました。
(続)
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石の下の楽土には 23 [石の下の楽土には 1 創作]

「どなたのお墓なの?」
 老人が聞くのでありました。彼女はもう一度老人を見るのでありましたが、その老人の問いに応えるのを躊躇するのでありました。父と母と兄であるとちゃんと話しても別に何も構わないのでありましたが、そうするとひょっとしたら好奇心から、老人が質問を重ねてくるように思えたのでありました。花と線香を貰った手前、彼女は老人の質問にいちいち応えなければならないであろうし、それは如何にも煩わしいのでありました。
「ああ、余計な事を聞いてご免ね」
 老人はそう云いながら立ち上がって、手桶の水を柄杓で掬うのでありました。その後それを持って彼女の墓の前まで来ると、二つの花立てに均等に水を注ぎ入れてくれるのでありました。
「こうしておかないと、花が可哀そうだからね」
 彼女は老人が近づいてくるのを見て、思わず立ち上がって老人の接近を避けるように墓の前から少し離れたのでありました。そうした後に彼女は、それはひょっとして老人に対して失礼な仕草だったかも知れないと思うのでありました。老人は別に意に介さないように、或いは意に介さない振りをして、空になった柄杓を持ったまま黙って墓石を眺めるのでありました。
「どうも有難う、お花とお線香・・・」
 彼女はそう云って老人に頭を下げるのでありました。老人は彼女に笑いかけて一つ頷くのでありました。彼女はその後、逃れるように墓石の前から去るのでありました。親切な老人に対して、ぎごちないどころか、どう考えてみても失礼にしかふる舞えなかった申しわけなさから、彼女は一刻も早く老人の傍を離れたいと思うのでありました。
 ・・・・・・
 小浜さんが店のシャッターを下ろして鍵をかけるのを、拙生は傍に立って見ているのでありました。
「さて明日は、久しぶりの釣りだ」
 小浜さんが鍵をポケットに仕舞いながら弾んだ声を上げるのでありました。「秀ちゃんは明日なにか予定でもあるの?」
「いや、別に何もありません」
「よかったら明日つきあう?」
 小浜さんは明日の店の休日に道志川の方へ釣りに行く予定なのでありまたが、それに拙生を誘ってくれるのでありました。
「どうしようかな」
 拙生は少し考えるのでありました。「いやでも、ずぶの素人が一緒だと、小浜さんが楽しめないだろうから、よしておきますよ。ちょっと就職活動もしないと拙いですから」
「どこかの会社に、面接かなにかに行く予定でもあるの?」
「いやそうじゃないんですけど」
 就職活動と云っても、拙生のは新聞の求人欄を見ると云う程度のものなのであります。
(続)
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石の下の楽土には 24 [石の下の楽土には 1 創作]

「そうだよな、考えたら秀ちゃんは今、本来は就職活動中なんだもんなあ。アルバイトの合間に、遊んでなんかいられないってところだ」
「もうかれこれ、就職活動も随分長くやってるんですけどね」
 拙生は頭を掻きながら云うのでありました。
「そろそろ二年てところか」
「そうですね」
 どう考えても二年間必死に、或いは有効に就職のための活動をやってきたわけではなかったから、拙生はもう一度頭を掻くのでありました。
「なんか、目途は立ったの?」
「いや、さっぱりです」
「今年も去年と同じでまだまだ不況の底らしいから、大変だよなあ」
 いくら不況とは云え、ろくに就職活動に身を入れているのではないから、就職出来ないのは当たり前と云えば当たり前の話であります。しかも当人があんまりそれを苦にしていないのでありますから、実に以って困ったものであります。
「自分なんかより、奥さんと一緒に釣りに行けばいいじゃないですか」
 拙生はすぐ前を駐車場まで歩く小浜さんに云うのでありました。
「冗談じゃない。態々そんな、折角の休日を台無しにするような真似が、出来ますかってえの」
 小浜さんが首を何度も横にふるのでありました。「カカアと一緒に休日を過ごすくらいなら、俺は休み返上で店を開けるね」
「いやしかし、そんなことばっかり云ってるけど、案外小浜さんは愛妻家なんじゃないかと自分は睨んでいるんですけど」
「いやいや、その睨みは全くの外れだね、残念ながら」
「小浜さんが奥さんのことをクソミソに云うのは単なる照れ隠しで、本当は奥さんなしでは生きられない人なんでしょう、実は?」
「とんでもない深読みのし過ぎだ、それは。俺はあのカカアから逃れるために、この世を生きているんじゃないかと最近考えるくらいなんだから」
「またまた、そうやって照れる」
 拙生は小浜さんを指差しながら笑うのでありました。
「秀ちゃんも将来嫁さんをもらったら判るよ、カカアと云うものの恐ろしさを」
 小浜さんが暗く低い声で云うのでありました。
「そう云えば前に上野の鈴本で、ウチのカカアは<おんな>じゃなくて<かんな>だ、とか圓楽が噺の中で云っているのを聞いたことがあります」
「なんだいそれは?」
「亭主の命を削るんだそうです」
「成程ね。道理で最近痩せてきたと思っていたら、そのせいか」
 小浜さんはカラカラと笑うのでありました。
(続)
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石の下の楽土には 25 [石の下の楽土には 1 創作]

 小浜さんは駐車場の自分の車に身を屈めながら乗りこむのでありました。
「じゃあ、明後日ね」
 小浜さんが拙生に手を挙げながら云うのでありました。
「はい。釣果を期待しています」
 拙生は別れの一礼をするのでありました。
「うん、量が釣れたら秀ちゃんに持ってくるよ」
「店でも出せばいいじゃないですか」
「それ程立派なものは釣れないよ」
 小浜さんは車のエンジンをかけるのでありました。
「奥さんによろしく」
 拙生がそう云って手を挙げると、照れたような困惑したような笑いを浮かべながら小浜さんは車を発進させるのでありました。
 ・・・・・・
 島原さんが三日ぶりに墓地へ来てみると、あの娘が墓地に備えつけの箒で島原さんの奥さんの墓の前を掃いているのでありました。そのしをらしさは、花と線香を分けて貰ったお礼の積りであろうと島原さんは思うのでありました。
「ああ、済まないねえ、こっちの墓まで掃除してもらて」
 島原さんは娘に声をかけるのでありました。娘は身を屈めた姿勢の儘、島原さんを見てはにかむように笑うのでありました。島原さんは別に要求されたわけではないのでありましたが、持ってきた小ぶりの花束の中から白い菊の花を二輪取って娘に渡そうとするのでありました。
「どうも有難う」
 娘はそれを素直に受け取って島原さんに一礼してから、また箒を動かすのでありました。
「ああ、こっちの方はもういいよ」
「でも、もう少しで終わるから」
 娘はそう云いながら集めた土埃や枯葉を塵取りに取って、小路脇に置いてある大きな金網の塵入れのところまで歩くとそれを処分するのでありました。
「お蔭で、墓石の周りが随分綺麗になったように見えるよ」
 島原さんが云うと娘はその言葉が嬉しかったのか、先程と同じにはにかむような笑いを浮かべるのでありました。
 娘は島原さんから貰った二輪の菊の花を、自分の家の墓の両脇の花立てに一輪ずつ差すのでありました。一輪ずつの花を飾られた墓は、それはそれなりに可憐に見えるのではありましたが、矢張りどこか物足りない風情が漂っているのでありました。島原さんは二つ持ってきた花束の内の一つを全部、娘に渡せばよかったかなとほんの少し悔やむのでありました。しかしそうしようとしても、娘はこの前と同じように二輪以上の花を貰うことを拒むかも知れないのでありました。今度来るときは花束を四つ買って来ようと島原さんは考えるのでありましたが、それを娘が喜ぶかどうかわ判らないのでありました。
(続)
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石の下の楽土には 26 [石の下の楽土には 1 創作]

「お墓の中にはね」
 島原さんが墓石を拭き、花立てに花を供えて線香を燻らし、それから合掌し終わるのを見計らって娘が唐突に喋り始めるのでありました。「あたしのお母さんとお父さんと、それにお兄ちゃんが眠っているの」
 それは墓石にある名前と享年から島原さんが想像した通りでありました。最初にこの墓に眠ることになったのが彼女の兄に当たる人であることも、島原さんはもう知っているのでありました。
「ああ、そうなんだ」
「あたし以外の家族が皆、この墓の中に居るの」
 娘はそう云った後に島原さんから目を逸らして、墓石を見るのでありました。島原さんは立ち上がって、彼女が見詰めている墓の傍に少し移動するのでありました。
「それじゃあ、君は一人で暮らしているの、今は?」
「そう。この墓地の近くのアパートで」
「ふうん。それは寂しいね。尤も、そう云う私も同じ一人暮らしだけど」
 島原さんが云うと娘は力ない笑いを浮かべるのでありました。
「お爺ちゃんが・・・」
 娘はそう云った後で言葉を切って、そう呼んでいいのかと云うような顔をして見せるので、島原さんは笑い顔で一つ頷くのでありました。「お爺ちゃんがお参りしているお墓は、お爺ちゃんの奥さんのお墓なの?」
「そう。二年前に亡くなった私の連れあいの墓だよ」
「ふうん、そう」
 娘は一つ頷いて島原さんの奥さんの墓石を見るのでありました。
「学生さん?」
 少し言葉が途切れた後に島原さんが聞くのでありました。
「ううん、違う。高校を出た後はミシン工場に就職したんだけど、お母さんが死んだ後暫くしてそこは辞めちゃって、今はアルバイトで生活しているの。ほら、この近くに大きな花屋があるでしょう、そこで」
 娘はこの後、先に話したような墓に眠っている家族の事や自分の経歴などを、ごく大雑把に語るのでありました。それを聞きながら島原さんは、この年頃の女の子が喋る声を久しぶりに聞くなと思うのでありました。尤も島原さんは老境に差しかかって後は、縁もなかったものだから、若い女性と会話する機会など市役所や銀行の窓口の女性との事務的な言葉の遣り取り以外には、ずうっとなかったのでありました。娘の話の内容もその喋る様子も一般的な若い女の子然としたものでは全くなかったのでありましたが、島原さんは俯きがちに訥々と口を動かす娘を見ながら、なんとなく気持ちが浮き立つのでありました。
「じゃあ、君は一年以上前から、ずうっとここへ日参していたわけだ」
 島原さんが娘の話が一通り済んでから云うのでありました。「それにしちゃあ、今まで全く出くわすことがなかったと云うのは、不思議と云えば実に不思議なことだ」
(続)
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石の下の楽土には 27 [石の下の楽土には 1 創作]

「そうね、そう云われれば、そうよね」
 娘は島原さんに一つ頷いて見せるのでありました。その後お互いに自分の前の墓石に目を向けた儘で、動きも言葉も発生しない時間が二人の間に暫く横たわるのでありました。
「そろそろ、あたし店に戻らないと」
 娘が云うのでありました。それは今日の邂逅のお開きを宣する言葉であると島原さんは思うのでありました。島原さんは少し寂しい気がするのでありました。
「家に帰るんじゃなくて、未だこれから仕事なの?」
 島原さんはなんとなく別れが名残り惜しいのでありましたが、またその内ここで逢えるだろうと思い直すのでありました。
「そう、今日は午前中働いて、それからまた夕方店に行って後片づけを手伝うの」
「ふうん。働く時間が決まってないんだ?」
「うん。朝から夕方までの時もあるし、午前中だけっていう日もあるし、午前中に働いて、午後は帰ってその後また夕方、店が閉まる頃に出ると云うのもあるの」
「なんか落ち着かない仕事時間だね」
「アルバイトが二人だから、時間のやり繰りから、そう云う風になっちゃうの」
「おちおち遊びにも行けないね、そんな感じだと」
「どうせあたしは、どこにも遊びになんか行かないから、別にいいの。それに、だからって云って、目がまわる程忙しいとか、きつい仕事ってわけでもないし」
 島原さんは自分も一緒に墓地を出ようかと思うのでありましたが、なんとなくこの墓地以外の場所に娘と自分が一緒に在ることは、不自然なことのように思えるのでありました。
「じゃあ、私はもう少し残るから」
 島原さんが云うのでありました。
「うん。お花とお線香、どうも有難う」
「いやいや、別にお礼を云われる程のことじゃないから」
「あたしのこと、図々しい奴だって思ったでしょう?」
 娘はそう云って自分自身に顔を顰めて見せるような表情をつくるのでありました。島原さんは娘の言葉とその顔を見て、なんとなく微笑むのでありました。
「いや別に。それより今日は、話が出来て楽しかったよ」
「さよなら」
 娘はそう云って頭を浅く下げると島原さんに背を向けるのでありました。
 ・・・・・・
 島原さんが猪口を口に運びながら小浜さんに云うのでありました。
「へえ、オヤジさんは二人のお子さんの父親と云うわけなんですか」
「そんな具合なんですよ。この二人がこれまた学校の成績が悪いときたもんだから、実に困ったもんです。屹度女房の方に似たんです」
 小浜さんが煮魚の鍋の蓋を細めに開けて中を覗きながら云うのでありましたが、これは島原さんに出す鰤大根とは別のものなのでありました。
(続)
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石の下の楽土には 28 [石の下の楽土には 1 創作]

「お幾つになられるんです、お子さん達は?」
 島原さんはそう聞きながら徳利を傾けるのでありました。最後の一口分が猪口の中に注がれます。島原さんが小浜さんの顔を見て、手にしている徳利を遠慮がちに少し上げてみせるのは、もう一本つけてくれと云う合図なのでありました。その仕草を見て拙生はすぐに酒タンポに一合の日本酒を一升瓶から注ぎ入れるのでありました。
「上の子が高校二年生で、下が中学三年生です。どちらも女の子ですよ」
「へえ、それはお賑やかそうですね」
「賑やかを通り越して、煩いと云うくらいなもんで。どうしてまあ、女の子は母親そっくりに父親の逐一に、ああだこうだと文句をつけるんでしょうかねえ」
「ああ、そうですかね」
 島原さんが笑いながら云うのでありました。
「下の子は少しはおっとりしているからまだ良いんですけどね、上の高校生ときたら朝飯のアタシの味噌汁の啜り方にまで、ああだこうだと批判がましいことをぬかすんです。アタシはこれでも一応は料理人ですぜ。味噌汁の粋な啜り方くらい娘に云われるまでもなく、ちゃんと心得ていると云うんですよ。まあ、味噌汁だけに限らず、アタシの動作のいいちいちが総て気に入らないんでしょうけど」
「そんなもんですかねえ」
「それでアタシがなんか云い返したりすれば、鬼のような顔をしてアタシを睨むんです。それから当分口をきいてもくれないんです。ちょうど自分の親父が、わけもなく嫌いになる年頃なんだからと女房は云うんですが、それにしても、女の子はなんとも扱い難くていけません。アタシは家の中に自分の安息の場所がない、可哀想な人間なんです」
「それで、釣りに行くわけだ」
 拙生がそう云って燗の上がった酒を徳利に移してそれを島原さんの方に近づけると、島原さんは持っていた猪口を空けてから拙生の方に差し出すのでありました。
「そう。秀ちゃんの云う通り。家の女共からこの身を守るために休日は必ず釣りに出る」
 小浜さんがそう云って島原さんに笑いかけるのでありました。「それがアタシがこの世を安らかに生きていくための、残された唯一の精神の保養であり、護身術であり、拠りどころなわけです。アタシは家の者に身勝手と云われようと、偏屈者扱いされようと、どんなに小馬鹿にされようとも、兎に角休日には魚釣りに行くんです」
 島原さんは小浜さんの大袈裟なもの云いにハハハと笑うのでありました。
「そんな弁解を、態々ここで自分等に向かって、声高に云いつのらなくてもいいですよ。自分達は別に小浜さんの釣りを、苦々しく思っているわけじゃあないんだから」
 拙生は島原さんに同意を求めるような顔を向けながら、小浜さんに云うのでありました。
「まあそりゃあ、そうだけどさ」
 小浜さんは声の調子を落として云うのでありました。「しかしなんですな、家の娘の横柄な態度なんか何時も見せられているから、その島原さんの墓地で逢う娘に対しても、逢ったこともないのに、つい批判がましいことをアタシは云っちまうんですなあ」
(続)
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石の下の楽土には 29 [石の下の楽土には 1 創作]

「その娘はオヤジさんの上の娘さんよりは、少し年上ですね。秀ちゃんと同じくらいかな」
 島原さんは猪口を下に置いて徳利に手をかけながら云うのでありました。
「聞いていると、自分よりはちょっと年下と云うところですかね」
 拙生が応えるのでありました。
「何れにしても若い娘は、アタシの天敵だ。ああいや、女房もか」
 小浜さんがそう云いながら手元の鍋の蓋を空けると、旺盛な湯気と、美味そうな鰯の煮つけの匂いがそこから立ち上るのでありました。
「だからこの店には、若い女性客が少ないんですかね」
 拙生が云うと小浜さんは湯気が顔にかかるのを避けながら鰯の仕上がり具合を菜箸で確認して、そうかも知れないと小声で独り言のように云うのでありました。
 ・・・・・・
 島原さんが墓地に現れると娘はニッコリと笑いかけるのでありました。その笑顔はなにか非常に貴重なもののように島原さんには思えるのでありました。
「はい、これ」
 島原さんはそう云って花を二輪娘に渡すのでありました。娘は遠慮するでもなくしごく当然のようにその花を受け取るのでありました。そうして次に島原さんが線香を差し出してくれるまで、二輪の花を手にした儘島原さんの傍に立っているのでありました。しかしその娘の様子は、別に島原さんの眉根を寄せさせるようなことはないのでありました。
「お爺ちゃんの奥さんが亡くなったのは、何時のこと?」
 島原さんが一通り墓石の前での作業を終えて、合掌の手を解いたのを見計らって娘がそんなことを聞くのでありました。
「二年とちょっと前だよ」
「あたしのお母さんが死んだのと、大体同じ時期ね」
「話からすると、そう云うことになるね」
「お爺ちゃん、寂しい?」
「うん、初めの頃は寂しかったね。でも今は気持ちも落ち着いたから、そうでもないかな」
「あたしは、お母さんが死んじゃった後は、ずうっと寂しい儘」
 娘が云うのでありました。彼女の家族は皆年若くしてこの世から旅だったのだから、それはそうだろうと島原さんは思うのでありました。自分のような老境に在る人間なら何時連れあいを亡くしても、そんなに不思議でも不自然でもないだろうけれど、娘のその若さで総ての家族に先立たれるのは、屹度受け入れがたい程理不尽なことであったろうと推察出来るのでありました。
「お兄ちゃんの二年後にお父さんでしょう。それからその二年後にお母さんが死んじゃって、なんかあれよあれよと云う間に、あたし一人になっちゃったのよ」
 島原さんは娘の方に同情に堪えないと云うような顔を向けるのでありました。しかしこう云うありきたりな表情でしかこの話に対応出来ない自分の態度が、娘の気分を返って害しはしないかと内心ハラハラとするのでありました。
(続)
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石の下の楽土には 30 [石の下の楽土には 1 創作]

 島原さんの秘かな危惧など全く素知らぬ様子で、娘が続けるのでありました。
「まだ、半分信じられない気がしているし、これは夢の中の出来事で、その内にお兄ちゃんもお父さんもお母さんも皆揃っている家で、あたしは屹度目が覚めるんだろうって、本気で考えたりするの」
「無理もないよねえ」
 島原さんは思いっきり優しい声でそう云うのでありました。香炉から真っすぐに上がっていた線香の煙がゆらゆらと揺れるのは、風が出てきたためでありました。その風に娘の前髪が少し乱されるのでありました。少しの間言葉が途切れるのでありました。
「皆、ほぼ二年置きに死んでいったのよ」
 娘は乱れた前髪を直すこともなく云うのでありました。「そうして、お母さんが死んでから、もう二年が経ったの」
 島原さんは娘のその後の言葉を待つのでありました。しかし娘はそれっきり黙るのでありました。
「妙な符合だね。まあ、偶然だろうけど」
 島原さんは焦れて自分から言葉を出すのでありました。
「だからね」
 娘が線香の煙の乱舞を見ながら云うのでありました。「ひょっとしたら、もうすぐあたしも、死ぬのかも知れない」
 抑揚のない娘のその言葉は風に乱される前の線香の煙のように、端然と空に吸いこまれていくのでありました。
「まさかそんなこと、あるわけがない」
 島原さんが云うのでありましたが、しかし云いながらその自分の言葉に、相手の冗談に対して返すような類の笑いを添えた方が良いのか悪いのか、島原さんは少し迷うのでありました。だからなんとなく云い方が弱々しいのでありました。島原さんが確然と笑いを添えてそう云い放てば、娘のその言葉は全くの冗談としてきっぱり確定され得たかもしれないと、云い終ってから思うのでありました。しかし自分がそうしなかったために、娘のその言葉の重い陰翳が、空に消え失せることなくこの場に残ってしまったように島原さんは感じるのでありました。
「夢からね、お兄ちゃんもお父さんもお母さんも揃った家に目覚めるってことは、それはきっとこの世の家ではなくて、あたしがあの世に行って、皆揃ったそこの家で目覚めるってことでも、別に構わないわけじゃない」
 娘はそう云い終えてから、島原さんに同意を求めるような目を一直線に向けるのでありました。
「いや、構わなくないよ。変なことを考えるもんじゃあ、ない」
 島原さんは娘の視線にたじろぎながらそう諭そうとするのでありました。「そりゃあ、寂しさからそんな事をつい思いついたとしても、それは馬鹿げた思いつきだ。有り得ない。全くの偶然に、変な意味を探るのは止めた方がいいよ。無意味なことだ」
(続)
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