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枯葉の髪飾り 5 創作 ブログトップ

枯葉の髪飾りCⅩⅩⅠ [枯葉の髪飾り 5 創作]

 吉岡佳世の退院の日、拙生は特に頼まれたわけではないのでありましたが、手伝いに病院へと向かうのでありました。丁度土曜日だったのではありますが、彼女のお父さんは仕事で来られないと云うことなので、それならと自ら買って出たのでありました。拙生は学校が昼前に終わるといそいそと最寄りのバス停からバスに揺られて病院へ急ぎます。二時に退院と云うことであったので、その一時間前には病院へ着く計算であります。尤も拙生が手伝うと云っても、荷物持ち程度ではありましたが。
「なんかこのベッドとも、今日でお別れてなると、ちょっと寂しい気がする」
 吉岡佳世はそんなことを云いながら枕を摩るのでありました。それからベッド脇の台の引き出しを開けて中の私物をベッドの上に並べるのでありました。湯呑の蓋とか箸とかストローの束とか文庫本等が、ベッドの上に綺麗に整列するのでありました。その中に拙生の受験した大学の名前を大書した、例のおまじないノートも混じっています。彼女が他のものを取り出すのにかまけているのを幸い、拙生はその中の一冊を取り上げてパラパラと頁を繰るのでありました。
 そこには几帳面な彼女の性格を反映して「合格」と云う丁寧な文字が、全頁に渡って縦横を揃えてびっしりと並んでいるのでありました。時々「何々大学何々学部合格絶対間違いなし」とか「この万年筆には不思議な力がある」等と云う文字が、単調な羅列にアクセントを添えるように挿入してあるのでありました。その中に「井渕君大好き」とか「世界で一番大切な人のため」とかの文字を見つけて、拙生は胸の奥が擽ったくなるのでありました。成程こう云うことが書いてあるために、吉岡佳世は拙生にこのノートを見せるのを恥ずかしがったのでありましょう。
「あ、見たらだめ!」
 吉岡佳世が気づいて拙生から慌ててノートを取り上げるのでありました。「あたしの字、汚いけん、見られたら恥ずかしか」
「いやあ、綺麗に書いてあるて思うて、感心しとったとぞ」
「中、読んだ?」
「いや、読もうてしたら取り上げられたもん。まあ、合格て云う字の頁一杯に書いてあったとは、なんとなく判ったけど」
 吉岡佳世は頬を赤くして拙生から庇うようにノートを胸にきつく抱くのでありました。
「なんか、オイは今、実は感動しとるぞ。オイのために、こんなにしてくれたて思うと」
 拙生はそう真面目な顔で云うのでありました。
「こんなことしか出来んとが、本当はあたし、悔しかとやけど」
 彼女はそう云って拙生から伏し目に目を逸らすのでありました。
「ほら、あんた達、そがん遊んどらんで、早う支度ばせんね」
 衣類やタオル等をカバンに詰めていた吉岡佳世のお母さんが、動きを止めていた拙生と彼女に声をかけるのでありました。「用意の出来たら、先生とか看護婦さんとかに、お礼ば云いに行かんといかんとけんね。忙しかとよ、今日は」
 お母さんに窘められて、吉岡佳世は肩を竦めて舌を出して見せるのでありました。
(続)

枯葉の髪飾りCⅩⅩⅡ [枯葉の髪飾り 5 創作]

 荷物持ちとして拙生は吉岡佳世の家までくっついて行くのでありました。
「久しぶりで、懐かしか」
 腰を落ち着けてから吉岡佳世がそう云いながら居間を見まわすのでありました。
「まあ、結局二ヶ月以上、入院しとったけんがね」
 彼女のお母さんがそう云った後すぐに立って台所の方に向かうのは、茶を入れるために湯を沸かそうとしてのことでありましょう。
「お兄さんは京都から帰っとらっさんとか、まだ?」
 拙生が吉岡佳世に聞きます。
「うん、三月の末に帰るとて。大学の、入試の手伝いのアルバイトがあるとか云う話」
「へえ、学生がする入試の手伝いの仕事てなんやろう?」
「入試会場までの道案内とか、云いよらしたけど」
「ああ、そうか。オイが受けた大学でも、駅とか道の途中に案内版ば持った学生の立っとって、大声で道案内ばしよったねえ、そがん云えば。合格電報承りますとか叫んどるヤツもおったし、青とか赤とかのヘルメットば被って、学生運動しよるヤツとかもおったぞ」
「井渕君、大学生になったら学生運動、すると?」
 拙生が大学受験する頃はいささか下火にはなっていたのではありますが、まだ学生運動がそれなりの態を保っていた時期で、大学の至る所に黒と赤の二色でスローガンやらを大書してある立て看板があって、流石に入試の時は排除されていたようでありますが、校内で集会やらデモ行進等が頻繁に行われていたのでありました。
「いや、多分せんやろう」
「ノンポリ?」
「ま、そうね。政治に暗かけんね、オイの頭は。明るかとはお雛様の照明灯くさ」
「なん、それ?」
「ぼんぼり」
 我ながら下らないと拙生は頭を掻くのでありましたが、それでも吉岡佳世は口に手を当てて笑ってくれるのでありました。
「そう云えば、今年はお雛様ば出さんやったね、佳世が入院しとったけん」
 そう云いながら彼女のお母さんが盆に茶の湯気が上がる椀を乗せて、台所から出てくるのでありました。「なんでお雛様の話ばしよったと、二人で?」
「お雛様の話なんか、しよらんよ、別に」
 吉岡佳世が云います。
「お雛様て云うのが聞こえたし、雪洞がどうとかても云いよったやろうが?」
 彼女のお母さんは炬燵の上に三つの茶碗を盆から移して座り、先ずその一つを拙生の前に滑らせるのでありました。
「井渕君の行く大学の話で、たまたま、お雛様とか雪洞て云う単語が出てきただけ」
 吉岡佳世が少し困ったような顔で説明します。
「井渕君の行く大学に、お雛様が飾ってあると?」
(続)

枯葉の髪飾りCⅩⅩⅢ [枯葉の髪飾り 5 創作]

「いや、そうじゃなくて、なんて云うか、ものの弾みで、お雛様とか雪洞とかオイが口走っただけで、話の内容とはなんの関係もなかとです」
 拙生は頭をか掻きながら説明するのでありました。
「ふうん」
 彼女のお母さんはなんとなく未だ解せないと云った顔つきのまま、口を突き出しながらそう云うのでありました。「まあ、それはそうと、井渕君も四月から大学生たいね」
「はい。なんとか大学生に成れるごたるです」
「井渕君、髪の毛は伸ばすと?」
 吉岡佳世が聞くのでありました。
「いやあ、長髪にするぎんた色々面倒臭かごたるけん、多分これ以上は伸ばさんやろう。床屋代の浮くとは少し魅力やけど。その代わり、銭湯で洗髪料ば取られるて聞いたこともあるけど」
「髪の毛はあんまい伸ばさん方がよかよ。どがん美男子でも不潔に見えるけん」
 彼女のお母さんがそんなアドバイスをしてくれるのでありました。
「でも長髪の井渕君も、見てみたい気のする。案外恰好良かかも知れんしさ」
「オイの髪の毛は癖毛けん、長うしたら纏まらんやろう」
「パーマかければよかたい」
「パーマなんかしたらだめよ、男が」
 彼女のお母さんがすかさず吉岡佳世の意見に反論するのでありました。「男が髪の毛なんかに気ば遣い出したら、勉強の方が疎かになるたい。そがんことにお金ばかけるより、本でも買うた方が学生らしかよ」
 彼女のお母さんの意見は確かに正論ではあるかと拙生は思うのでありました。
「元々、オイは土台が悪かとやけんが、髪の毛ばどがん弄っても、そがん大して変わり映えせんやろうて思うですよ、自分でも」
「そがんことはなかよ。井渕君は結構美男子の方て思うよ」
 拙生の自己分析に対して彼女のお母さんがそう元気づけてくれるのでありました。
「あたしも、井渕君は美男子て思う」
 吉岡佳世までがそんなことを云うのでありました。拙生はどう云う反応をしていいのか判らずに俯いて頭を忙しなく掻き毟るのでありました。
「ああそうそう、もう用も済んだけん、オイはこれで帰ろうかね」
「明日も来てくれるやろう?」
 吉岡佳世が聞きます。
「うん、来てもよかなら」
「佳世もなかなか外に出られんで寂しかやろうけん、話し相手に来ておくれ井渕君」
 彼女のお母さんにもそう乞われて、拙生は明日の訪問の意味を得た思いがするのでありました。あんまり頻繁に家に押しかけるのも図々しいかと少し躊躇するところもあったのでありますが、そんな拙生にとって実に有難いお母さんの言葉でありました。
(続)

枯葉の髪飾りCⅩⅩⅣ [枯葉の髪飾り 5 創作]

 病院から家に戻った吉岡佳世はその後も比較的落ち着いて過ごしているようでありました。もう病人と云う感じではないのでありましたが、しかし微熱が出たり、息苦しくなってベッドを半日離れられないことも時たまあるようでありました。
 平日学校が終わってから拙生が必ず吉岡佳世の家を訪ねるのは、以前彼女が学校を休みがちであった時と同様でありました。受験が終わった拙生は暇を持て余しているのでありましたから、日曜日も彼女の家に行って居間であったり彼女の部屋であったりはしましたが、長い時間彼女と話をするのでありました。
 吉岡佳世はお母さんにつき添ってもらって病院に行く時意外、まだ家から一人で外に出ることが出来ないのでありました。それはもし外出先で体の異変に襲われたらと云う恐怖からで、その内彼女に自信と勇気が戻れば、それも追々克服されるであろうと拙生には思われるのでありました。
 そんな具合でありますから当然学校に通えるはずもなくて、そうなれば彼女が卒業出来ないのはもう決定的でありました。彼女によれば担任の坂下先生とは留年後の段取り等の話はもう纏まっていて、彼女自身もその線で気持ちも切り換えて、この一年で当初の希望通り大学受験を目指すのだからと、くよくよすることもなく留年を前向きに受け止めているようなのは、彼女の意外な豪胆さを見るようで拙生は秘かに畏れ入るのでありました。
「四月から、ちゃんと学校に行けるように、今しっかり体ば治さんばと」
 吉岡佳世はそんなことを云って、春からの学校への復帰に大いに意欲があるところを拙生に見せてくれるのでありました。
 三月も旬日を過ぎた頃、卒業前に一度四人を招待したいと云う吉岡佳世のお母さんの意向もあって、拙生は吉岡佳世の家の訪問に隅田と安田と島田を誘うのでありました。彼等が拙生の誘いに二つ返事で応じたのは、夫々の四月以降の身のふり方がもう決まった気楽さからでもありましたが、吉岡佳世の退院後の様子を大いに気にかけてくれていたためでもありました。
 四人の内一番最後に進学先が決まった隅田は、第一志望だった福岡に在る入試難解大学に見事合格したのでありました。安田も第一志望の大学に進路を決め、島田も或る短大への合格をかち取ったのでありました。安田の進学する大学も島田が行く短大も福岡にあって、この三人は四月から揃って福岡の住人となる予定でありました。ことの序でに云えば体育祭の時に拙生が殴打して、それ以来同じクラスに居ながらまったく交渉の絶えた大和田は、隅田と同じ大学を受験してこちらは不合格となり、一年間佐世保で浪人生活を送ることになったようでありました。
 我々四人揃っての訪問を吉岡佳世も彼女のお母さんも大いに喜んでくれて、お母さんの豪華な手料理の昼食で大歓待してくれるのは昨年のクリスマスパーティーと同様でありました。恐縮なことに、帰りにがけに四人は大学進学のお祝いと云うことで、熨斗袋に入った図書券の恵贈まで受けたのでありました。吉岡佳世の留年を敢えて慰めず、来年、後に続けよと前向きの激励のみ吉岡佳世に送る隅田と安田と島田の心馳せに、吉岡佳世も彼女のお母さんも、それに拙生も心の内で大いに感謝するのでありました。
(続)

枯葉の髪飾りCⅩⅩⅤ [枯葉の髪飾り 5 創作]

 何時ものように吉岡佳世の家を学校帰りに訪ねた拙生に、彼女は殊更嬉しそうに瞳を輝かせながら云うのでありました。
「あたしさ、今日は一人で病院まで行ってきたのよ」
「お母さんに、つき添いして貰わんでか?」
「うん、一人で。それからちょっと気分の良かったから、玉屋まで行ってきたと」
 玉屋と云うのは佐世保の有名なデパートの名前で、三ヶ町と云うショッピングモールと、同じく四ヶ町と云うショッピングモールを繋ぐ位置に在る繁華街のランドマークであります。この辺りが佐世保で最も賑やかな地区でありましょうか。
「ほう、そしたら病院ば出た後、佐世保橋ば渡って、三ヶ町ばずっと歩いて行ったとか?」
「うん。人ごみは疲れるかも知れんて思うたけど、平気やった」
「手術の後、そがん長い距離ば歩いたとは、初めてじゃなかとか?」
「うん。初めて」
 吉岡佳世はそう云って頷くのでありました。
「体は特別なんともなかったや?」
 拙生は吉岡佳世の顔を覗きこみながら云うのでありました。
「ちょっと疲れたけど、別にその後もどうもなかったよ。そいから、島ノ瀬町からバスに乗って、家まで帰ってきたと」
「お、すごかやっか。そんなら、ちょっとした外出はもう大丈夫ばいね」
「うん、多分。あたし少し自信のついた」
「そんならこいから先は、まあ、体の調子次第やろうばってん、ちょくちょく外出とかして、体力ばつけんばばい」
「うん。病院の先生もそがん云わした」
 吉岡佳世のこの報告から、彼女の体が次第に壮健になっているのだと云う確証を得たようで、拙生は矢鱈に嬉しくなるのでありました。
「だからさ」
 吉岡佳世が拙生を見ながら唇の端をすこし上に挙げて云うのでありました。「井渕君と外で、二人だけでデートも出来るよ、あたし」
「お、本当や?」
「うん。遠出とかはまだ無理かも知れんけど、例えばあの病院裏の公園とかやったら、屹度大丈夫て思うよ」
 別に彼女の家での逢瀬も拙生はそんなに不満はなかったのでありましたが、しかし二人きりで外でデートが出来るのなら、それはそれでもっと気分が浮かれると云うものであります。そうなれば彼女と、なんの気兼ねもなく手も繋げるでありましょうから。
「そんなら、今度病院に行くとは何時か?」
「ええと、来週の月曜日」
「よし、その日に、久しぶりに公園でデートばするか」
 その日は高校の卒業式の二日後になるのでありました。
(続)

枯葉の髪飾りCⅩⅩⅥ [枯葉の髪飾り 5 創作]

 高校の卒業式で拙生が晴れやかな高揚感に浸っているのは、これでようやく学生服とか煩瑣で息苦しい校則等とは真っ平縁もゆかりもなくなると云う開放感と、四月から始まる東京での大学生活への期待感と、一応ようやくこれで子供でなくなったことになるかと云う、根拠不明な自覚からでありました。バスの運賃で云えばすでに中学生の時から子供ではなくなっているわけでありますし、成人式が大人と子供の明確な分岐点であるのなら、まだ二年方拙生は子供の範疇に入る生きものと云うことになるのであります。しかしなんとなく高校を卒業したらその時から大人の条件の殆どをほぼ手中にしたことになるような、そんな気分を拙生は高校入学当時から持っていたのでありました。まあ、高校を出たら身長の伸びは大方打ち止めになりましょうから、その辺りが大人であることの根拠と云えば云えるような云えないような。隅田も安田も島田もやはり拙生と同じに朝から晴れやかな顔をしているのは、やはり彼等も身長がそれ以上伸びないことへの満足感からであろうと拙生は思うのでありました。
 体育館での卒業証書受け取り式とか送辞答辞の遣ったり取ったりとかの後に、教室に戻ったクラス全員を前にして担任の坂下先生は敬語をもって我々に最後の挨拶をするのでありました。坂下先生の挨拶は丁寧で過度ではない感情の抑揚もあり、我々への今まで見せたこともない敬意が滲み出ていて、しかし主調としては落ちついていて、後にしみじみとした余韻の残る名調子でありました。クラスの女子の中には坂下先生の話の途中で惜別の情を抑えきれなくなって、ハンカチで目頭を抑える者も数人出るのでありました。島田辺りは卒業式の端から涙腺を全開にして、式の間ずっと両頬を水滴で光らせて肩を引っ切りなしに上下させておりましたが、教室での坂下先生の挨拶によって、彼女のハンカチは絞れば水の滴る程になったことでありましょう。そんな島田を安田が何時ものようにからかったり茶化したりすることもなくじっと見つめていたのは、安田にもこみ上げるものがあったからでありましょうか。
 最後のホームルームの後に坂下先生と、殆ど大多数が残ったつい先程まで高校生であったクラスの教え子とで、六つの机を寄せた大テーブルを五つほど造り、あらかじめその予定で分担して持ち寄っていた飲み物と菓子をその上に広げて、立食の謝恩会をするのでありました。紙コップに注がれたジュースを飲み、広げられたチョコレートやビスケット、それに誰が持ってきたのか魚肉ソーセージ等を口に放りこみながら、誰彼となく話し笑いしていると、体育祭や文化祭や球技大会、その他様々な思い出が懐かしく頭の中で明滅を繰り返すのでありました。名残を惜しむように謝恩会は何時果てるともなく続くのでありましたが、一人去り二人去り、午後三時を回って最後に残ったのはこの謝恩会を企画した島田を筆頭とする数名の女子と、男では隅田と安田と拙生、それに坂下先生でありました。
「そろそろ、お開きて云うことにしますかな」
 坂下先生の言葉に残った者どもはまだまだ名残は尽きねどと云った顔つきで、底に残ったジュースを飲み干してからそのコップを机の上に置くのでありました。
「ほら、あんた達も後片づけば手伝わんね」
 島田が机上の食い物飲み物を片づけながら拙生と隅田と安田に指図するのでありました。
(続)

枯葉の髪飾りCⅩⅩⅦ [枯葉の髪飾り 5 創作]

 島田に促されて拙生と隅田と安田は、上の物が片づけられた机を元通りに並べ直すのでありました。あらかた教室が元の状態に復したのを坂下先生が点検をして、さていよいよこれでこの教室ともお別れであります。
「どうも一年間、お世話になりました」
 隅田がそう云って坂下先生に頭を下げると、それに倣って残った一同もやや遅れて夫々に感謝の言葉を吐きながら一礼するのでありました。
「いや、此方こそ色々お世話になりました」
 坂下先生はこの言葉の後に教室に残った全員の名前を「さん」づけで、ゆっくりとした口調で呼んでから続けるのでありました。「皆さんのおかげで、楽しい一年でした」
 坂下先生は威儀を正して頭を下げます。先生の丁重さに恐れ入って一同は慌てて頭をより低くするのでありました。
「あのう、坂下先生に、急にそがん丁寧に云われるぎんた、調子の狂うですよ」
 安田が坂下先生の初めて接する慇懃さに堪りかねたように云うのでありました。
「いや、今日からは教師と生徒じゃなくて、社会的には対等の関係になるとですけんが」
 坂下先生はそんなことを云うのでありました。
「ばってん、何時になっても教師と生徒て云う関係はそのまま残るとやし、長幼の順て云うか、師弟間の節度て云うともあるとけんが、先生にそがん謙られたら、オイ達は冷や汗ば流さんばことになるやなかですか」
 隅田がなんとなくもじもじと訴えるのでありました。
「そうそう、さすが隅田、よう云うてくれた。その通りばい。今までのごとしてくれんば、オイはどがん顔して先生ば見ればよかとか、困るもんね」
 安田はそう云いながら控えめな音の拍手を隅田に呈するのでありました。
「そんなら安田!」
 坂下先生は急に語調を変えて云うのでありました。「お前がそがん云うとなら、今まで通りに喋ることにしてもよかけど」
「そうそう、その調子ばい。今までのごと偉そうに、オイの名前も呼び捨てにしてくれて、厳しく、こいから先も宜しく指導してくれた方が坂下先生らしか」
「お前のその言葉に甘えて、今までのごとさせてもらう序でに宿題ば出すばってん、来年の同窓会までにアメリカの歴代大統領の名前ば、ワシントンからずうっとニクソンまで、全部覚えてこい」
「うわあ、なんやそいは!」
 安田はそう叫んで仰け反るのでありました。「そがんことはもう、勘弁ばい!」
「こいからも厳しく指導してくれて、お前が云うたとやなかか」
 坂下先生はニヤニヤと笑いながら安田へのからかい納めをするのでありました。
「他はなんでも指導して貰うてよかけど、世界史関係の指導は、もう金輪際、遠慮させてもらいたかもんね、オイとしては」
 安田は猛烈な速さで振幅大きく両手を横に振っているのでありました。
(続)

枯葉の髪飾りCⅩⅩⅧ [枯葉の髪飾り 5 創作]

 謝恩会の帰りに拙生は吉岡佳世の家に寄るのでありました。玄関で迎えてくれた吉岡佳世と彼女のお母さんは、卒業おめでとうと云って二人揃って拙生に拍手を送ってくれるのでありました。
「卒業証書、見せて」
 吉岡佳世が居間に通った拙生にそう強請ります。拙生は深草色の紙筒の蓋を開けて中の丸まった卒業証書を取り出して彼女に渡すのでありました。
「へえ、結構立派な証書たい」
 彼女のお母さんが横から覗きこみながらそう云います。その後立って台所の方へ行くのは拙生に茶を出すためでありましょう。
「卒業アルバムも貰うてきたけど、見るか?」
「うん、見せて」
「お前も何枚かに写っとるぞ」
 そう云いながら拙生はカバンから厚手の卒業アルバムを取り出すのでありました。拙生と吉岡佳世は頭を寄せ合って、あまり良い画質ではないもののそこに写っている拙生と彼女の姿を探しながらそれに見入るのでありました。
「出過ぎた真似て思うたばってん、一応話の序でて云う感じで、来年お前のことば宜しゅう頼むて、謝恩会の時坂下先生に云うたら、坂下先生がオイの肩ば叩いて、万事任せて、安心して東京に行けて云わしたぞ」
 拙生は卒業アルバムに目を落としながら彼女にそんな報告をするのでありました。
「あたしも来年卒業して、卒業証書とアルバムば貰ったら、東京でそれば居渕君に見せるね。あたしも来年、東京の大学生になれるように、頑張るから」
「うん、楽しみにしとる。ばってんがぞ、来年の卒業式の頃は、春休みでオイも多分佐世保に帰って来とるて思うけど」
「ああそうか。そうよね。そしたら来年の卒業式の日に何処かで会って、卒業証書とアルバムば見せることにしようか」
「そう云うことなら、病院裏の公園で見せてくれ。そこで待ち合わせして」
 拙生と彼女はもう来年の彼女の卒業式後に公園で逢う約束などをしているのでありましたが、これはあまりに気が早いと云うものでありましょう。
「隅田も安田も島田も、卒業した後も時々お前に連絡とか入れて、来年のお前の入試に力になる積りでおるて云いよったぞ。まあ、オイの邪魔にならん程度に、とも云いよったけどさ」
「うん。皆がそうやって、まだあたしのことば気にかけてくれるとは、とても嬉しかし、感謝してると。三年生になって、本当に良い人達にめぐり逢ったて思うよ、あたし」
 吉岡佳世は拙生を見つめながらしみじみとそう云うのでありました。
 拙生は夕飯前に彼女の家を後にするのでありました。明後日は久しぶりの吉岡佳世との二人きりのデートであります。楽しみで拙生は気持ちが弾むのでありました。尤も、どうせ明日も拙生は彼女の家にお邪魔するに決まっているのでありますが。
(続)

枯葉の髪飾りCⅩⅩⅨ [枯葉の髪飾り 5 創作]

 公園で吉岡佳世と待ち合わせた日、拙生は公園の銀杏の木の下のベンチで、病院の診療を終えた彼女が現れるのを待っているのでありました。まだ東から日が射している頃で、すっかり春の暖かさに満たされた公園の中には、長閑な空気がゆらゆらと泥んでいるのでありました。横の銀杏の木はまだ裸の儘でありましたが、それでも木の息遣いのようなものが春の深まりにあわせて大きく深くなっているように感じられるのでありました。
「ご免ね、待った?」
 小走りしながら公園の中にあらわれた吉岡佳世は、そう云いながら拙生の横へ腰を下ろすのでありました。病院の棟からここまで小走りしたくらいで彼女の息が弾んでいるのは、矢張り彼女の心臓や肺がまだ充分に効率的に働いていないためであろうかと考えて、拙生の鼻腔の中に満たされた春の空気がやや湿り気を帯びるのでありました。
「なんか、息の上がっとるごたるけど、大丈夫か?」
「うん、待たせたら、悪いて思うて、気持ちの、焦ったから。体の方は、なんともないとよ」
「そうや、そんならよかばってん」
「心配せんで、大丈夫よ、本当に」
 そう云って吉岡佳世は深呼吸をするのでありましたが、容易には頻繁で浅い息遣いは元に戻らず、それを拙生の手前急いで調えようとするものだから、余計に彼女の肩の上下動は静まらないのでありました。
「せっかく良うなっとるとに、無理したらダメけんね」
 そう云った後で拙生が黙るのは、彼女の息が静かなリズムを取り戻すのを待つためでありました。拙生は大いに心配でありました。
「井渕君、四月六日に東京に発つとやったよね?」
 漸く呼気と吸気の調律を終えた吉岡佳世が拙生に聞くのでありました。
「そう。四月十日が入学式けん、それに間にあうごとね」
「でも、考えたら、そがんゆっくりでよかと?」
 吉岡佳世は拙生の顔を覗きこみながら云うのでありました。「あっちで生活するための物ば買うたり、あっちの様子に慣れたりとか、色々することのあるとやないと?」
「どうせ叔母さんのアパートに転がりこむとやけんが、布団と机くらいしかこっちから持っていくとはなかもんね。その布団とかは四月になったら叔母さん宛てに送るし、鍋釜とかは叔母さんが融通してくれるけん。それにあっちで買うものて云うたら、小さか箪笥と本棚と白黒テレビと、夏の扇風機と冬用の炬燵くらいやし。それもアパートのある駅の傍の商店街に大きか電気屋とかあるけん、行ったその日にでも調達出来るし」
「大学の方は、入学式前に、なんか行事とかないと?」
「健康診断とか、なんとかガイダンスとかあるらしかばってん、それも入学した後の話やもん。教科書なんかも、受講する講義ば決めてから四月中に買えばよかごたるし。大学て云う所は万事悠長に出来とるごたる」
 拙生はそんな説明をするのでありました。
(続)

枯葉の髪飾りCⅩⅩⅩ [枯葉の髪飾り 5 創作]

「ふうん、そう」
 吉岡佳世は拙生の説明にそんなものかと云う顔で何度か頷くのでありました。「そしたら、井渕君が佐世保に居るとは、後二週間足らずで云うことになるね」
「そうね。考えようによっては短かかも知れんし、特に何もすることのなかオイみたいな者にとっては、長かようにも思えるし」
「短いよ、二週間足らずなんて」
 吉岡佳世が云うのでありました。「後二週間もしないで、井渕君が遠い処に行ってしまうて思うたら、なんかひどく寂しか」
 吉岡佳世は心細そうな顔をするのでありました。彼女のその顔が拙生をうろたえさせるのであります。拙生はなんと云って返していいのか判らずに、咄嗟に彼女の手を握ったものの、多分彼女と同じような表情で彼女を見返していただけでありましょう。
「でもさ、そんなことば今、云うべきじゃないとよね」
 吉岡佳世は続けます。「井渕君のせっかくの門出とに、それに水を差すようなこと、あたしが云うたらダメよね。井渕君、御免ね」
「いや、オイも夏休みまで暫く逢えんて思うぎんた、堪らんごとなるけど」
「本当?」
「本当くさ。お前ば一人佐世保に残して東京に行くのは、心配で堪らんとぞ。ばってん、こいばかっりは仕様のなか」
「そうね、仕方ないことよね」
「夏休みまでの辛抱やっか。それに一年経ったら、東京で何時でん逢えるようになるやっか。そいば楽しみにしとるぞオイは」
「うん、そうなるように、あたしが頑張ればよかとよね」
「そうそう。まあ、手紙とか電話とかでしょっちゅう連絡ばとりあっとったら、一年なんか、あっと云う間に経ってしまうくさ」
「うん、そうね。そうよね」
 吉岡佳世は少し笑って見せるのでありましたが、すぐにまた顔を曇らせます。「そうやけど、そうて判ってるとやけど、それでも寂しかもん」
 彼女はそう云っていきなり拙生に抱きつくのでありました。拙生は仰天して体が硬直するのでありました。拙生はおずおずと彼女の肩に手を回します。暫くそうして拙生と彼女は抱きあっていたのでありましたが、平日の午前中で公園の中には殆ど人影がなかったことが幸いであったと、そんなどうでも良いような体面のことを拙生は高鳴る動悸の間隙でぼんやりと考えるのでありました。
 抱きあっていて次第に嵩じてきた、後二週間で暫く彼女とは逢えなくなると云う切羽詰まった思いと、辺りに人影がないことが拙生に或る種の勇気を与えたのでありました。拙生は吉岡佳世の体をほんの少し遠ざけて彼女の瞳を間近に見つめます。吉岡佳世が目を閉じたのが拙生にその行為に及ぶことを踏ん切らせた切っ掛けでありました。拙生は彼女をゆっくり引き寄せて、静かに唇を重ねたのでありました。
(続)

枯葉の髪飾りCⅩⅩⅩⅠ [枯葉の髪飾り 5 創作]

 暫くして二人の顔は離れるのでありましたが、しかし互いの体温を感じることの出来る程の距離であります。拙生は彼女の目を間近に見るのでありました。彼女の瞳がなにやら拙生を咎めているように見えて、拙生は内心おろおろとするのでありました。
 吉岡佳世が急に顔を背けます。拙生は彼女が拙生の及んだ行為に怒ったのかと思って、彼女の肩から手を離すのでありました。
「恥ずかしい」
 吉岡佳世が拙生に横顔を見せて云うのでありました。
「あの、ご免な、変なことしてしもうて」
 拙生は何故か謝るのでありました。すると吉岡佳世は拙生の顔に視線を戻してから口を尖らせて見せるのでありました。
「なんで、謝ると?」
「いや、驚かせてしもうたかて思うてくさ」
「そりゃ、少し吃驚したけどさ、でも、嫌な吃驚じゃないもん」
「怒っとらんか?」
「ううん。それどころか、とっても、嬉しいと」
 拙生は吉岡佳世のその言葉に胸の中で大きな安堵のため息をつくのでありました。で、そうなると彼女の唇の感触をもう一度欲しくなって、拙生はまた彼女の肩に手を乗せます。
彼女はそれに目を閉じて応えるのでありました。
「嬉しいけど・・・」
 彼女が暫くして、唇の端から云うのでありました。「なんか、ドキドキして、ちょっと胸の苦しゅうなってきた」
 拙生が彼女の言葉を妨害しまいとその唇から離れた後に、彼女はそう続けるのでありました。拙生は彼女の肩に手を添えたままで体を後ろに少し反らします。二人のことなど知らんぷりして公園の中に吹いていた春の風が、ここぞとばかりに意地悪く、二人の間に出来た僅かな隙間に入りこんできたような気がするのでありました。
 吉岡佳世は自分の胸に片手の拳を宛てて、少し早い息遣いをしているのでありました。その様子が彼女の気持ちの高まりを表す「ドキドキ」と云う言葉の域を超えて、身体的にも苦しそうな風に見えたので、拙生は心配になって声をかけるのでありました。
「ありゃ、大丈夫か?」
「うん、ちょっとドキドキし過ぎたと。でも、大丈夫」
 彼女のその様子にまだ彼女の体の調子が十全ではないことを、拙生は改めて知らされるのでありました。矢張り拙生は彼女に悪いことをしたと云うことになるのでありますか。
「ご免な、オイが調子に乗って、余計な負担ばかけてしもうたようで」
「井渕君、そがん、謝ったらダメ」
 吉岡佳世はそう云うのでありました。「あたしは本当に、本当に、嬉しいとやから。井渕君にここで謝られたら、そのあたしの本心が、認められないことになるし」
 彼女は片手を胸に添えたまま、もう片方の手で拙生の手を強く握るのでありました。
(続)

枯葉の髪飾りCⅩⅩⅩⅡ [枯葉の髪飾り 5 創作]

 暫くして吉岡佳世が胸に添えていた手を下ろすのでありました。
「もう、大丈夫、すっかり落ち着いた」
 彼女はそう云って拙生にニコニコと笑って見せます。
「家まで送って行こうか?」
 拙生が彼女の目を覗きこむようにしながら聞くと、彼女は眉根を寄せて頬を膨らませて見せるのでありました。
「なあん、もう帰ると?」
「うん、体の具合が今一番大事かとけんが、帰ってゆっくり休んだ方がよかとやなかか?」
 拙生のその言葉に吉岡佳世は握っていた拙生の手を離して、拙生の手の甲を叩いてから嫌々をするように肩を揺するのでありました。
「せっかくの、久しぶりのデートとに、もう帰ると?」
「そがん云うたって、ずうっと外に出とって、疲れて、また体の具合の悪うなったら困るやっか」
「大丈夫て、そがん心配せんでも。さっきのはちょっと吃驚して、嬉しくなり過ぎて、調子の狂っただけ。本当に今日は、何時もよりも、断然体調のよかとやけん、あたし」
「そうかあ?」
 拙生は疑わしげに云うのでありました。
「そうそう。大丈夫、本当に。ああそうだ、まだ昼ご飯食べてないやろう、井渕君?」
「うん、まあだ食うとらん」
「そんならこれから何処かで、二人でお昼ば食べようよ」
 吉岡佳世はそんな提案をするのでありました。「ねえ、何処で食べる?」
「うん、そがん云われても、オイが知っとる食い物屋て云うたら、学校の近くのラーメン屋と饂飩屋ぐらいしかなかもんねえ。この辺やったら、玉屋の食堂とか、少し先まで行ってトンネル横町のちゃんぽん屋とか、駅の地下道のラーメン屋のお富さん、とかね」
 何れにしても味も量も値段も拙生には大いに満足のいく食堂ではありましたが、吉岡佳世とのデートに似合う店ではないなあと拙生は考えるのでありました。
「じゃあ、白十字パーラー、に行こうか?」
 白十字パーラーは四ヶ町アーケードにある一階がケーキ屋で二階が洋食屋と云う店で、そこで売っている「南蛮ぽると」と云う菓子で有名な店でありました。拙生も以前家族と行ったことがある店であります。その菓子名が店名の代わりに使われたりもします。
「ああ、南蛮ぽると、なら知っとるぞ、オイも」
「あたしもあんまり、食べ物屋さんは知らんけど、あそこは前に、家族で時々行ったことあるよ」
「よし、そこがよか。無難か。もっと綺麗なレストランとかがよかかも知れんけど、なんせオイの人生で、そがん洒落た店とかは、今まで全然縁のなかったけんがね。しかし、本当に体の具合は、大丈夫とか?」
 拙生は吉岡佳世の体調への気がかりが今一つ掃えないでいるのでありました。
(続)

枯葉の髪飾りCⅩⅩⅩⅢ [枯葉の髪飾り 5 創作]

 拙生と吉岡佳世は公園を出ると、市民病院の棟を横目にして大通りを手を繋いでゆっくり歩くのでありました。佐世保橋を渡って暫く行くと三ヶ町アーケードの入り口であります。拙生と吉岡佳世は三ヶ町アーケードへ折れて、月曜日でそんなに人通りの多くない商店街を、繋いだ儘の手を世間に大胆に晒していることに照れながら歩を進めるのでありました。
「体のきつうなかか?」
 拙生は横の彼女に時々聞くのでありました。
「大丈夫、なあんも、心配ないって」
 吉岡佳世はその都度拙生の目をその大きな瞳で見ながら云って、その後拙生の心配が杞憂であることを知らせるためにか、屈託なさそうに笑って見せるのでありました。
「もしもぞ、ちょっとでもきつかったら、すぐに知らせんばぞ」
「判った。でも本当に大丈夫とよ。気分爽快やもん」
 彼女はそう云った後に、あっと声を出して道端にやや進む方向を曲げるのでありました。拙生と彼女の繋いだ手が少し伸びて、彼女の手に引っ張られるように拙生も彼女の進む方向へ足の向きを変えます。彼女はペットショップを見つけてそこへ立ち寄るのでありました。
 店の入り口にはケージに入れられた仔犬が寝そべっているのでありますが、彼女の接近を察して立ち上がると尻尾を忙しなく振るのでありました。茶色の柴犬でありましょうか。仔犬はケージの中で小躍りしながら、差し入れられた彼女の人差し指を舐めたり甘噛みしたりして、歓迎の意を示しています。
「可愛かね、この犬」
 吉岡佳世が差し入れた指を動かして仔犬をじゃらしながら云います。「この前病院の帰りに久しぶりにここば歩いた時、この仔犬が目についたと。他にも何人かこの仔犬ば見よらしたけど、この犬さ、どう云う積りか、あたしの顔をじいっと見てると。その目のあんまり可愛かけん、あたし今してるように指ば近づけたとさ。そうしたら、嬉しそうに、あたしの指で一生懸命遊ぶの。他の人が指ば近づけても、そっちには見向きもせんで、あたしの指にばっかり構うの。なんか、いじらしくなってさ」
 吉岡佳世はそんなことを云いながら仔犬と指で遊ぶのでありました。
「オイも、この指以外とは遊びとうなかばってんね」
 拙生はそう云って繋いでいる彼女の手を上に挙げて見せるのでありました。「これでなかなかオイも、いじらしかやろう」
 拙生のおふざけに吉岡佳世は照れたように笑って拙生が挙げた自分の手を見て、その指に力を入れるのでありました。
「でもさ、井渕君、東京に行ったら、あっちには綺麗な女の人とか、一杯おらすやろうけん、目移りするとやろうね、きっと。あたしとは、遠くに離れてしまうし」
 そう云って仔犬を見る彼女の表情がひどく寂しそうな色をしているのでありました。拙生は彼女以上に指に力を入れて、彼女の手を固く握り締めるのでありました。
(続)

枯葉の髪飾りCⅩⅩⅩⅣ [枯葉の髪飾り 5 創作]

「そがんことは、せんばい」
 拙生は云うのでありました。「オイの行く大学は、男子学生と女子学生の比率が八対二らしかけん、周りにあんまり女っ気はなかて思うぞ。学部も学部やし」
「それでも、全然女子が居らんとやないやろう」
「そりゃそうばってん、オイはこう見えてあんまい器用じゃなかけんが、あっちの生活とか大学とかに慣れるために、そっちに精力ば遣うてあたふたしとったら、あっと云う間に一年過ぎてしまうごたる気のするばい。一年したらお前が東京に来るとけんが、他に目移りする暇なんかあるもんか。そいに夏休みとか冬休みとかで、一年の内三分の一はこっちに帰って来とるやろうけんが、問題はなあんもなかて思うぞ」
「そうやろうか」
「そうに決まっとる。それに、もうちっとオイば信用せんばダメぞ」
「そうね、井渕君なら大丈夫よね、あたしのこと、忘れたりせんよね」
「当たり前くさ」
 拙生がそう云った時吉岡佳世が小さな悲鳴を上げて、仔犬の居るケージから手を引くのでありました。何ごとかと思って拙生は吉岡佳世の顔を見るのでありました。
「あたしが、仕様もないこと云うもんけん、噛まれた」
 彼女はそう云って今まで犬と戯れていた人差し指を拙生に示すのでありました。それから頬を膨らませて眉根を寄せて仔犬を睨むのでありました。仔犬は恐縮したように彼女を不安そうな上目で見ています。指には傷はないようでありました。
「ほれ、犬も余計な心配するなて云いよる。そいけん、安心しとかんば」
 拙生は実にタイミング良く彼女の指を噛んだ仔犬に、でかしたと声をかけてやりたい気がするのでありました。
「そうね、判った。心配せんようにする、あたし」
 彼女がそう云ってまた懲りずにケージに指を差し入れると、仔犬は嬉しそうにその指に再びじゃれつくのでありました。
「この仔犬、あたしの味方て思うとったら、井渕君の味方やった」
 吉岡佳世がそう云った後、拙生も彼女に倣ってケージに指を差し入れてみるのでありました。仔犬はほんのちょっと拙生の指の匂いを嗅いで、その後すぐにそんな指には何の興味もないと云った風情でそっぽを向いて、吉岡佳世の人差し指との遊戯を再開します。
「ありゃ、この犬はきっと雄ばいね。男の指には興味ば示さん」
「そうやろうか」
「多分ね。屹度お前の指が、良か匂いのするとやろう。まったく、このスケベ犬が」
 拙生がそう云って彼女の指と戯れている犬の鼻先を突っつくと、犬はいきなり今度は拙生の指に噛みつくのでありました。
「あ痛。こら、なんばするか」
「なんか、兄弟喧嘩みたいに見えるね、そがんして井渕君と犬がじゃれあってると」
 吉岡佳世がそんなことを云うのでありました。
(続)

枯葉の髪飾りCⅩⅩⅩⅤ [枯葉の髪飾り 5 創作]

「オイとこの犬が兄弟てか?」
「そう。それって心外?」
「まあ、お前の指が好いとるて云うところはよう似とるかも知れんけど、顔は全然似とらんと思うぞ。そいにオイはこがん毛むくじゃらじゃなかし、耳も立っとらん。第一オイには尻尾はなかもんね。それからコイツんごと裸でうろうろもせん」
「そりゃそうやけどさ。でも、なんか似てるような気が、段々してきたよ」
 吉岡佳世はそう云って拙生の顔をまじまじと見るのでありました。
「そがんやって、オイとこの犬ば見比べるな」
「あ、そうだ、お父さんに強請って、この犬ウチで飼おうかな」
 吉岡佳世はケージに吊るされた犬の値段票を見るのでありました。「この犬、井渕君の代わり」
「オイの代わりか」
 拙生は少し複雑な気持ちになるのでありました。「コイツ、オイの代わり、出来るとや?」
 拙生は自分が案外安く見積もられたような気がして、口を尖らせるのでありました。
「勿論、本当にこの犬が、井渕君の代わりに、なるわけはないとやけど、でも、ちょっとあたしは、寂しくなくなるかも知れんから」
「ああ、そうね。お前が寂しくなくなるとなら、まあ、仕方なかか」
 拙生はあっさりと仔犬と同じ位相に並ぶのでありました。まあ、彼女の寂しさがこの仔犬を飼うことで少しでも解消されると云うのならば、拙生はこの仔犬と義兄弟の契りを結ぶこと、吝かではないのであります。
「おい君、あたしが買いに来るまで、誰にも連れていかれたらダメよ」
 吉岡佳世は犬に向かってそう命じるのでありました。仔犬はまるで彼女の言葉を理解したように、ぴょんぴょんと跳ねてから尻尾を今まで以上に激しく振って、小さな声でワンと返事をするのでありました。
「ほんじゃあな、兄弟」
 拙生は仔犬のケージを離れる時にそう云って手を上げるのでありました。只、この犬が吉岡佳世に引き取られた後彼女によって拙生と同じ名前をつけられるとしたら、これは勘弁願いたい事態であると思うのでありました。そんなことになれば、もし拙生がこの先この犬を呼ぶ時にまごつくではありませんか。
 三ヶ町のアーケードが途切れた処に玉屋と云うデパートがあるのでありました。一昨日吉岡佳世はここまでの距離を退院以来歩いたと云うことでありました。ここから前に在る島ノ瀬公園を横切って大通りのバス停からバスに乗って帰ったと云うことであります。
「ああそうだ、御飯食べたら、後で玉屋に寄らん?」
 吉岡佳世が拙生に提案するのでありました。
「別によかけけど、なんか買う物のあるとか?」
「うん、ちょっとね」
 吉岡佳世はそう云って意味あり気な顔をして見せるのでありました。
(続)

枯葉の髪飾りCⅩⅩⅩⅥ [枯葉の髪飾り 5 創作]

 拙生と吉岡佳世はデパートの玉屋を尻目に今度は四ヶ町へと歩を進めるのでありました。三ヶ町に比べると四ヶ町の方が大規模店舗や飲食店が多く並んでいて、歩く人の数も多い賑やかなアーケードであります。説明が遅くなりましたが、三ヶ町と云うのはアーケードの通りを挟む三つの町からなる商店街と云う謂いでつけられた名称であります。同じく四ヶ町とは四つの町に跨るアーケードであります。ですから四ヶ町の方が長いアーケードと云うことになります。元々佐世保の繁華街の目抜き通りはこの四ヶ町で、アーケードになったのも三ヶ町よりは此方の方が早いのでありました。
 さて、四ヶ町に入って暫く歩くと右手に目指すレストランの白十字パーラーが見えます。ケーキや菓子の並ぶショーウィンドー横のレンガの階段を二階に上がると、レストランの木枠にガラスの嵌めこまれた扉があるのでありました。扉には鈴が取りつけられていて、拙生が扉を押し開けると鈴の音が店内に響き渡るのでありました。昼食時で結構席が埋まっているものでありましたから、拙生と吉岡佳世は空いている席を探して店内を奥へと進むのでありました。
 窓際の四人掛けのテーブルが空いていたのでそこへ拙生と吉岡佳世は着席します。透かさずウエイトレスが水の入ったコップを銀盆に載せて此方へやって来ます。拙生がそのウエイトレスに高校を出たての子倅と見くびられたくないものだから、なるべく場馴れしている者の鷹揚さを装って椅子に座っているのは、今まで親と一緒にしか此処へ入ったことがなく、女性をエスコートして食事をすると云う初めての経験に緊張していたからに他ならないのでありました。
 拙生はウエイトレスからメニューを受け取って、それを開いてからひっくり返して向かいに座る吉岡佳世へ渡します。
「何にするや?」
「そうねえ、あんまり一杯、あたし食べられんから・・・」
 吉岡佳世はそう云いながらメニューに目を落とします。
「オイはトルコライスにしようかね」
 それは前に此処で注文したことの或る料理で、結構ボリュームがあって美味かったものでありますから、拙生は店に入る前からそれを注文しようと決めていたのでありました。トルコライスとはどうやら長崎県内特有のレストランメニューで、大皿一枚の上にドライカレーとスパゲッティーと豚カツ、それに添え物のサラダが載った料理であります。
「あたしは、マカロニグラタンにしよう」
 吉岡佳世が料理を決めたので拙生は横に立っているウエイトレスに二つの料理を、ぶっきらぼうな声の調子で注文をするのでありました。
「マカロニグラタンは、少し時間のかかるですよ」
 ウエイトレスが云うのでありました。
「時間のかかるてばい。どがんする?」
 拙生は吉岡佳世に聞きます。吉岡佳世はほんの暫く悩んで、それでもあたしはマカロニグラタンにすると云うのでありました。
(続)

枯葉の髪飾りCⅩⅩⅩⅦ [枯葉の髪飾り 5 創作]

「入院してから、ずうっと食べたかったと、マカロニグラタンが」
 吉岡佳世がコップの水を一口飲んでから云います。「それまでは、特別好きて云うとでもなかったけど、病院に入ってから、なんか急に思いついて、食べたくなったと。なんでか判らんけどさ」
 確かに拙生が注文したトルコライスが早く来て、その後暫く経ってもマカロニグラタンが運ばれてくる気配がないのでありました。
「井渕君、先に食べてよかよ、冷めるから」
 吉岡佳世が気を遣うのでありました。
「そうや、そんなら、ぼちぼち食べよろうかね。その内グラタンも来るやろう」
 拙生がゆっくり料理の半分程を食べ終えた頃、ようやく吉岡佳世の注文したマカロニグラタンが運ばれて来るのでありました。吉岡佳世は礼儀正しく両手を合わせて頂きますと云ってからスプーンを取り上げるのでありました。
「井渕君、食べると、早いね」
 吉岡佳世が一口目を口に入れる前に云うのでありました。
「そうね、育ち盛りけんがね。て云うても、身長は最近さっぱり伸びんばってん」
「羨ましくなるような、食べっぷり」
「がつがつしとって品のなかかね、これじゃ」
「ううん、見てるだけで、なんかこっちまで気持ちのよくなる。あたしはのろのろ食べるけん、何時もお母さんに急かされるとよ」
 本人がそう云うだけあって、拙生が食べ終わっても彼女のグラタンは未だ三分の一も減っていないのでありました。
「なんか四六時中腹の減っとるし、幾ら食うても、いっちょん腹一杯にならんけん、自分では困るとぞ。傍で見とったら気持ちよかかも知れんばってん」
 拙生が云います。「大食いて云うとも、これで実際、不便かもんぞ」
「そう云えば夏に海に云った時も、あたしの作って来たお弁当、井渕君あっと云う間に殆ど、食べてくれたよね」
「ああ、あの弁当は美味かった。半分お母さんに手伝うて貰うて、作ったとやろうばってん」
「違うて」
 吉岡佳世はスプーンを持つ手の動きを止めて断言するのでありました。「あたしが殆ど作ったと。味付けも盛り付けも、色あいも考えて。そう云うたやろう、前に」
「ああ、そうやった、そうやった。そう云うことになっとるとやった」
「あ、全然信用しとらん口ぶり」
「いや、信用しとるて」
 拙生は水を飲みなが云うのでありました。「信用しとるけん、今年の夏にまた海に二人で云く時、あの弁当ば食わせてくれ。楽しみにしとるけん」
 拙生がそう云うと彼女は自信満々の顔をして何度か首を縦にふるのでありました。
(続)

枯葉の髪飾りCⅩⅩⅩⅧ [枯葉の髪飾り 5 創作]

 成程、吉岡佳世が自分で云うように、彼女の食べっぷりと云うものは如何にも祐長でありました。先ずスプーンに掬う量が少なくて、熱いものだからそれを冷ますために丁寧に息を吹きかけ、注意深くそれを口の中に含み、恐る々々咀嚼するのであります。それから口の中の物をすっかり嚥下してから、徐に次の一掬いにかかるのであります。食いっぷりのせっかちでは人後に落ちない拙生としては、途中から手伝って残りを我が口にかきこんでしまいたい衝動に駆られるくらいでありました。
 漸くに彼女がスプーンを置いた時には、拙生は水のお代わりを二回傍を通ったウエイトレスに所望し、それをすっかり飲み干しているのでありました。
「ああ、お腹一杯」
 吉岡佳世はそう云ってコップの水を一口含みます。「あたしの食べるとが、あんまり遅くて、呆れたやろう?」
「いや、そうでもなかったばい」
 拙生はそう云うのでありました。遅いなと思って時に苛々はしたけれど、呆れはしないのでありましたから別に嘘ではないのであります。「お前の、口ばもぐもぐ動かす様子も、なんとなく可愛いかった」
 拙生がそんなことを云うと吉岡佳世は肩を竦めて恥ずかしそうに笑うのでありました。
「さて、そんならぼつぼつ、玉屋に行こうか」
 彼女の腹具合が落ちついた頃を見計らって拙生は云うのでありました。「なんか買い物するとやろう、玉屋で?」
「うん、そう。ちょっとね」
「なんば買うとや?」
「行けば判るって」
 吉岡佳世は思わせぶりをして見せるのでありました。
 拙生と彼女は再び四ヶ町の通りに出ると、ゆっくり歩いて玉屋まで戻るのでありました。玉屋に入るとエスカレーターを幾つか乗り継いで、吉岡佳世の先導で二人は文房具売り場へ向かいます。文房具売り場と同じ階の、エスカレーターを降りた辺りは玩具売り場になっていて、そこを横切る途中、拙生はブーブークッションやガムを引きだすとネズミ捕りのようにその指をパチンと挟む仕掛けが隠してある代物等、悪戯玩具が並ぶコーナーで一寸立ち止まるのでありました。
「井渕君、なんか玩具買うと?」
「いや、そうじゃなかばってん、ここには何年かぶりに来たけん、ちょっと見よるだけ」
 拙生がそう云って其処にある悪戯玩具の幾つかを眺めていると、吉岡佳世も拙生を真似て玩具のあれこれを触るのでありました。なんの気なしに彼女がブーブークッションを手にした時、結構周りに響くような大きな音がいきなり漏れ出たのでありました。彼女は動きをなくして拙生をきょとんとした目で見るのでありました。それから一拍置いて口を大きく開いて、仕舞ったと云うように目を瞬かせて、クッションを手から放り出すのでありました。彼女が拙生の陰に急いで隠れるのは余程恥ずかしかったためでありましょう。
(続)

枯葉の髪飾りCⅩⅩⅩⅨ [枯葉の髪飾り 5 創作]

 拙生は大いに笑うのでありました。拙生の腕に掴まって吉岡佳世も笑い出します。
「ああ、恥ずかしかった」
 吉岡佳世が拙生の耳元でささやくのでありました。「いきなり大きな音が、出るとやもん」
 彼女は顔を赤らめて照れ笑いながら拙生を上目で見ています。
「何ごとかて、周りの人の一斉にこっちば見らしたばい」
 拙生はそう云って彼女を余計たじろがせるのでありました。
「早う、文房具売り場に行こう」
 吉岡佳世は拙生の腕を引いて、一刻も早くこの場から立ち去ろうとするのでありました。拙生と彼女は時々吹き出しながら文房具売り場へと歩くのでありました。
 文房具売り場で彼女が買おうとしているものは写真立てでありました。
「あんまり恰好良かとが、ないね」
 吉岡佳世はそう云いながらも、三点程の候補の中から自分が一番気に入った薄桃色をしたシンプルなデザインのものを選んで買い求めるのでありました。綺麗に包装された写真立てを受け取ってから、店員が去るのを見計らって彼女はそれを両手で持って拙生に差し出すのでありました。
「これ、あたしから、高校卒業と大学進学祝いのプレゼント」
「あれ、オイに買うてくれたとか?」
 拙生は差し出されたそれを見るのでありました。
「うん。よかったらさ、これにあたしの写真入れて、東京で机の上に置いといて」
 彼女は先程のブーブークッションの時とはまた違った趣の、恥ずかしげな表情をして見せながら云うのでありました。
 拙生は差し出された拙生へのプレゼントを両手で受け取るのでありました。まるで卒業証書を授与された時のようなその拙生の仕草は大仰で、不相応な丁寧さを彼女に感じさせたかも知れません。
「有難う。なんか嬉しかぞ、矢鱈に」
「本当?」
「うん。これにお前の写真ば入れて、机に飾っとくけんね、絶対」
 拙生は思ってもいなかった彼女の心尽くしに、甚く感動しているのでありました。
「井渕君に買って来てもらった、東京の写真立てに比べると、なんかあんまり恰好良くないけどさ、でも、我慢してね」
「いやあ、そがんことはなか。ずうっと大事にするけん」
 拙生はもし人目がなかったら彼女を抱き竦めていたでありましょう。
「屋上の遊園地で、ジュースでも飲んで行くや?」
 文房具売り場を後にする時に拙生は彼女にそんな提案をするのでありました。
「うん、でも人混みの中より、またあの公園に戻って、二人でお話しばしようよ」
 吉岡佳世の提案の方が確かに好ましいと考えて、拙生と彼女は玉屋デパートを出て、今度は佐世保川沿いの道をゆっくり歩いて病院裏の公園へと戻るのでありました。
(続)

枯葉の髪飾りCⅩL [枯葉の髪飾り 5 創作]

「結構疲れたやろう、一昨日の倍以上歩いたことになるけん」
 拙生は公園のベンチに座ってから吉岡佳世に聞くのでありました。
「うん、まあ、ちょっと疲れた」
 吉岡佳世が云います。
「大丈夫や?」
「うん、大丈夫。具合の悪う、なってるわけやないし」
「家で、お母さんの心配しよらすとやなかろうか?」
「大丈夫さ。井渕君と一緒て、知っとらすから」
 風が吹いて来て拙生と彼女の前髪を揺らすのでありました。少し汗ばんだ額に風が心地よく感じられます。
「気持ちのよか風ね」
 吉岡佳世が云うのでありました。
「もうすっかり、春ぞ」
 拙生はそう云いながら銀杏の木を見上げるのでありましたが、春とは云ってもまだ銀杏の木は裸の儘でありました。
「あと十日ちょっとで、お別れて云うことになるね」
 吉岡佳世が足下に視線を落として呟くのでありました。
「お別れて、そがん云い方は当たっとらんぞ」
 拙生は少しむきになって彼女の言葉を訂正しようとするのでありました。「夏休みまでの四か月間、ちょっと離れとくだけ。お別れじゃなか」
 拙生は彼女の「お別れ」と云う言葉を忌むのでありましたが。・・・
「それはそうやけど、なんか、やっぱり、考えたら寂しかもん」
「寂しかとは、オイも一緒やけどさ」
「本当に、それでお別れなんかに、ならんよね?」
「そがんことの、あるはずなかやっか」
 拙生は彼女のくよくよする気持ちも、取り越し苦労も充分判るのでありましたが、しかしそれはきっぱり否定し去らなければならないと焦るのでありました。とても低い確率ながら過剰な不安が妙な化学反応を起こして、現実を変えてしまうことだってひょっとしたら在るかもしれませんから。ですから拙生は彼女の中に蟠る不安が、彼女の中でふとした拍子に激しく波立つのが怖いのでありました。
「四ヶ月くらい、あっと云う間に経つくさ。それに、一年もあっと云う間・・・」
 彼女がいきなり拙生に抱きつくのでありました。拙生の言葉の続きが呆気なく風に攫われてしまうのでありました。
 もう、拙生は彼女の力よりも強く彼女を抱き締めるだけでありました。傍目も憚らず長く二人はそうやっているのでありました。何度かお互いの唇を求め、その後にきつく互いの体を自分に密着させようとします。まるで引き離されることに必死に抗う弱い磁力しか持たない磁石のように。
(続)

枯葉の髪飾りCⅩLⅠ [枯葉の髪飾り 5 創作]

 翌日吉岡佳世を家に訪ねると、彼女は朝から微熱があると云うことで自室のベッドに横になっているのでありました。
「ありゃあ、昨日はちょっと無理させたかね」
 拙生は傍らの彼女の勉強机から丸い座布団が乗った椅子をベッド傍へ引き寄せて、それへ腰を落としながら云うのでありました。
「ううん、昨日のせいで、熱が出たのやないと思うよ。でも、ちょっと疲れはしたけど」
 彼女は枕に乗せた頭を拙生の方へ向けて云うのでありました。
「まあだ、あんだけ動くとは、無理やったばいね」
「熱が出たて云っても、そがん大した熱やないし、起きていようと思えば、起きていられるとよ、本当に。お母さんが、寝とかんばて云わすから」
 拙生は昨日、彼女の体調を考えずに街を歩きまわったことを後悔するのでありましたが、拙生のそんな思いを察して吉岡佳世も昨日の今日、自分が熱を出してしまったことを申しわけなく思っていると云った顔をするのでありました。
「病院には行かんでよかとか?」
「うん、そがん大したことじゃないけん」
 吉岡佳世はそう云った後、拙生の顔を見つめて下唇を噛むのでありました。「井渕君、本当に大したことじゃないからね。ただ用心のため、寝てるだけよ。だから、また近い内に二人で、公園でデートしようね」
「うん、そう云うことなら」
 拙生は頷くのでありましたが、外での二人のデートが彼女の体に障るようなら控えた方が無難かなと頭の中では考えているのでありました。
「ねえ、井渕君」
 吉岡佳世はそう云って掛け布団から掌を出して、拙生においでおいでのような仕草をするのでありましたが、促されるまま拙生は彼女に顔を近づけるのでありました。「昨日はさ、あたし初めてのチューしたから、お母さんやお父さんと、顔をあわせるのが、ちょっときまりが悪くて、そいで大したことでもないのに、こうして部屋に閉じ籠もってるとよ。体の調子もそうやけど、本当は、そっちが主な理由」
 そう云って吉岡佳世は意味ありげな笑いをするのでありました。また彼女は「初めてのチュー」と云う時に態々唇を尖らせて見せながらそう云うのでありました。拙生は彼女に近づけていた顔を少し離して頭を掻くのでありました。拙生の頭の中に昨日の「初めてのチュー」をした時の、目を閉じた彼女の顔が蘇るのでありました。あの時彼女は口なんか尖らせてはいなかったはずだがと拙生は思うのでありました。
「あんなことしたけん、熱の出たとやろうか? そう云えば胸苦しかて云いよったもんね」
 拙生はそう云って頭を掻く手のピッチを上げるのでありました。なんとなく吉岡佳世の顔を見るのが照れ臭くなって、拙生は彼女の机の上にある拙生が東京土産に買ってきた写真立ての方を向くのでありました。銀杏の木をバックに真面目くさった顔をした写真の拙生が、頭を掻いている拙生を睨んでいるのでありました。
(続)

枯葉の髪飾りCⅩLⅡ [枯葉の髪飾り 5 創作]

 その後暫く彼女と他愛もない話をして、拙生は椅子から立ち上がるのでありました。繋いでいた彼女の細い腕がそのために布団の外に出てくるのでありました。
「そんなら、今日はこれで帰ろうかね」
「もう帰ると、井渕君?」
 吉岡佳世の手がまだ帰るなと云うように一瞬拙生の手を強く握り締めます。
「うん、そろそろ夕方になるけん」
「明日も、来てくれるとやろう?」
「うん、来る」
 拙生をじっと見つめながら吉岡佳世が拙生の手を引くのでありました。拙生は抗わないで引かれるままもう一度椅子に腰を落とします。
「じゃあさ、さようならのチューして。もう、それで胸苦しくはならんからさ」
 吉岡佳世はそう甘ったれた声で云って目を閉じて口を尖らせるのでありました。それがいかにもおどけた仕草であるのは、彼女自身がそんなことを拙生に要求する自分に大いに照れているために違いありません。しかし拙生以外には、そんなおどけたもの云いや甘え方など彼女は決してしないはずであります。彼女の拙生だけにしか見せないもう一つの表情なのでありましょうから、そこまで深く打ち解けてくれていると思えば拙生としても返って嬉しくなってくるわけであります。
「お母さんの急に、部屋に入って来らすかも知れんやっか」
 拙生がそう云うと吉岡佳世は目を開くのでありました。
「大丈夫さ。さあ、ほら、早く」
 彼女はそう拙生を激励して(!)また目を閉じるのでありました。観念した拙生は彼女の唇に自分の唇を乗せてすぐさま離れるのでありました。離れてから彼女を見下ろしたら、そんな度胸も愛想もない拙生の行為が物足らないとでも云うようにその柔らかな唇は窄められたままでありました。彼女の唇を間近に見ながら、拙生としてもなにやら勿体ないことをしたような心持ちになるのでありました。
 拙生が椅子から立ち上がると吉岡佳世もベッドの上で上体を起こします。
「じゃあ、玄関まで送っていく」
 彼女はそう云ってベッドから足を出して床に下ろすと、繋いだ拙生の手を頼りに立ち上がるのでありました。
 拙生は彼女の部屋を出ると居間でテレビを見ている彼女のお母さんに声をかけるのでありました。
「ほんじゃあ、これで失礼しますけん」
「あら、もう帰ると?」
 彼女のお母さんが拙生の方をふり向いてそう云って立ち上がってから、拙生の後ろに吉岡佳世が立っているのを見て続けます。「佳世、あんた起きて大丈夫と?」
「大丈夫さ。大体、そんなに寝てる程、体の辛いわけやないとやから。もう熱もすっかり、下がったような気がするもん」
(続)

枯葉の髪飾りCⅩLⅢ [枯葉の髪飾り 5 創作]

 三人で玄関まで来てから、彼女のお母さんが拙生に云うのでありました。
「井渕君、東京に行く用意で忙しかやろうけど、明日もちょっとでよかけん、佳世の顔ば見に来ておくれね」
「はい。お邪魔でなかなら、来させて貰いますけん」
「この頃は佳世は朝起きてから、井渕君が来るまで、そわそわしていっちょん落ちつかんとやもん。あたしがなんか云うても、生返事ばっかい。そいで、井渕君の顔ば見た後は、急にニコニコして、愛想のよくなるとよこの子は。お父さんの焼き餅ばやかすくらいやもんね。まあ、これは冗談やけど。ねえ、佳世」
 彼女のお母さんはそう云って吉岡佳世の顔を見るのでありました。吉岡佳世はそのお母さんの言葉になにか云いわけをするのかと思いきや、彼女はうんそうねと云って肩を竦めてあっけらかんと笑うのでありました。
「お兄さんは未だ、京都から帰って来らっさんとですか?」
 拙生は彼女のお母さんに聞くのでありました。
「うん、あの人も忙しか人やけん、帰って来るとは四月の頭やろうね。そいで一週間も居らんで、すぐまた京都に戻るとらしかけど」
「そしたらオイがまあだこっちに居る内に、会えるですかね」
「うん、一度くらいは顔を見れるて思うよ。尤もさ、井渕君がお兄ちゃんに会っても、別にお兄ちゃんには、なにも用はなかやろう?」
 吉岡佳世が云うのでありました。
「そりゃまあ、そうやけっど、あっちに行く前に、ちょっと一言挨拶ばしたかけんね」
「どうせ佳世は、井渕君がお兄ちゃんに会うぎんた、その分自分と話す時間の少し減るてぐらいに思うとるとやろう。このケチんぼが」
 彼女のお母さんがそう彼女をからかうのでありました。
「べつに全然、ケチんぼじゃないけどさ、でも、実際本当に、井渕君がお兄ちゃんと話す間、あたしと話す時間は、その分減るやろう?」
「なんば云いよるとかいね、この子はまったく」
 彼女のお母さんが呆れ顔で、処置なしと云った風に云うのでありました。
 拙生は吉岡佳世と彼女のお母さんに見送られて玄関を出るのでありました。ようやく日が長くなって、まだ外の明るさは残照と云う雰囲気ではないのでありました。しかし彼女の家から最寄りのバス停まで歩いていると、瞬く間に目に入る辺りの風景総てに朱色が浮き出してくるのでありました。
 吉岡佳世と外で二人きりで逢える機会が、拙生が東京に行くまでの間に何回あるのだろうかと拙生は考えるのでありました。彼女の体の具合は、実際のところどうなのでありましょうか。この前のようなデートは今後暫くの間は不可能なのでありましょうか。昼間の時間は次第に長くなっていくと云うのに、誰に気兼ねもなく彼女の体温や息遣いを身近に感じることの出来る残された拙生の時間は、春が深まっていくのに連れて次第に短くなっていくのでありました。
(続)

枯葉の髪飾りCⅩLⅣ [枯葉の髪飾り 5 創作]

 四月になって最初に吉岡佳世が病院へ行く月曜日が、結局彼女との最後の二人きりのデートとなってしまったのでありました。それ以外の日は拙生はせっせと彼女の家に日参したのでありました。
 彼女の家を訪ねたら先ずは彼女の部屋で二人で色んな話をして、例によって何度かぎごちなく唇を重ねて、その後で彼女のお母さんも交えて三人して居間でまた取りとめのない四方山話に時間を費やすのであります。彼女の家で過ごす時間は、なかなか落ちついていてゆったりとした良い時間でありはしましたが、しかし恐縮なことながら、彼女の部屋で彼女と二人だけで居る時もなかなか気兼ねなく、二人きりの時間を過ごしていると云うような気分にはなれないのでありました。
 彼女が病院へ行くその日、拙生は彼女の診察が終わる頃を見計らって、病院一階の背凭れのないベンチが幾列か並んだ薬局前の待合所で彼女を待つのでありました。前のように病院裏の公園で待ちあわせても別に良かったのでありましたが、当日彼女の体調が芳しくなかったもしもの場合を慮って、病院内で落ち逢うことにしたのでありました。そうすれば彼女に、その旨拙生に告げるべく態々、僅かの距離ではありますが拙生の待つ裏の公園までの足労もかけなくて済むのでありますし、彼女はそのままタクシーを使って病院から直接家に帰れるという次第であります。その場合勿論、拙生が彼女の家までつき添う積りであるのは云うまでもありません。
「どうや、診察の結果は?」
 診療を終えて一階にやって来た彼女に拙生はベンチに座ったまま聞くのでありました。
「うん、特に変なところはないって。何時も通り、血液検査で、血取られた」
 彼女はそう云って拙生の横に腰を下ろします。
「今の体の具合は?」
「うん、普通。て云うか、井渕君の顔見たら、病院に来た時より元気になった感じ」
「本当か?」
「うん、本当」
 吉岡佳世はそう云って少し眉根を上げて拙生を見ながら、口の端を笑いの表情に動かすのでありました。「ねえ、だからさ、薬もらって、会計が済んだら、病院出て、公園に行こうよ」
 当然拙生としては事情さえ許せば公園で二人きりになること、まったくもって吝かではなかったので、それならと彼女が薬局から薬を貰って、その後会計を済ませるのを待ってベンチから腰を上げるのでありました。
「ちょっとでも具合の悪うなったり、寒かったりしたら、すぐに云わんばだめぞ」
 そんな、出来れば云って欲しくないと思っていることを彼女に念押ししながら、拙生は彼女と伴に病院の棟を後にするのでありました。
 一週間ぶりの彼女との外での逢瀬に拙生は大いに気持ちが昂ぶっているのでありました。でありますから、拙生は病院を出ると早速彼女の手を取るのでありました。春の日差しが繋いだ彼女の手の白さに爆ぜて拙生の目の端に跳びこむのでありました。
(続)

枯葉の髪飾りCⅩLⅤ [枯葉の髪飾り 5 創作]

「あと五日で、井渕君、東京に行ってしまうとよね」
 公園の何時ものベンチに並んで腰かけてから吉岡佳世が云うのでありました。
「うん。ま、夏までチラっと、東京に行って来る」
 拙生は二人がそんなに長い期間離れているわけではないと云ったニュアンスを強調するために、そんな風な云い方をするのでありました。しかし吉岡佳世はいかにも心細そうに拙生を少し上目遣いに見るのでありました。
「なんか、時間のことは、考えないようにしようて思うとけど、ついあたし、あと何日で、井渕君が東京に行ってしまうて、数えてしまうと」
「そりゃ、オイも同じやけど、まあ、仕方なか」
「そうね、仕方ないて、判っているとやけど・・・」
 吉岡佳世はそう云って拙生から目を逸らせて少し遠くを見るのでありました。「ご免ね、こんな、泣き言みたいなことばっかり云うて。こんなくよくよしてたら、嫌われるね井渕君に、屹度」
「いや、嫌いはせんばい、お前がなんば云うても」
「本当?」
「うん、本当」
「よかった。でも、もうこれから先、くどくどと泣き言は、云わんようにするね。そんな話で、井渕君とあと五日間、過ごしとうなかしね」
 吉岡佳世はそう云って笑顔を作るのでありました。拙生は彼女が愛おしくなって掌で彼女の頬に触れるのでありました。
「あ、そうだ」
 吉岡佳世が急に声の調子を変えるのでありました。「お兄ちゃんさ、明日帰って来るとて」
「ああ、そうや明日か」
 拙生は彼女の頬から掌を離します。「そんなら、明日ちょっと挨拶の出来るばいね」
「そうね、もう昼には家に居らすて思うけど」
 吉岡佳世は拙生の離した掌を素早く掴んで、それを自分の頬にもう一度導いてから云うのでありました。
「用心のために、明日はお前と外で逢わんで、オイがお前の家に行こうて考えとったから、丁度都合の良かったばい」
 拙生は彼女の頬や顎の先端を指で触りながら云うのでありました。
「明日はあたし、熱は出さんて思うよ。今日もしこの後、チューしたとしても」
「・・・まあ、その、ええと、一応、用心のためくさ」
「でも、その次の日は、外で逢おうね」
 吉岡佳世が彼女の口元に添えた拙生の指に軽く唇を押しつけるのでありました。なんか映画の中で観たような恋人同士のいちゃつきあいを、今自分が吉岡佳世と演じているのだと思って拙生は陶然となるのであります。この後に唇と唇の交感に進展するのは、至極自然な成り行きと云うものでありました。
(続)

枯葉の髪飾りCⅩLⅥ [枯葉の髪飾り 5 創作]

 唇同士の交感中に拙生の腹がぐうと鳴ったので、拙生と吉岡佳世は何処かで昼食をと云う話になるのでありました。また四ヶ町辺りまで歩いて行くと疲労からこの前のように彼女が体調を崩すかも知れないし、かと云って病院へ戻ってその食堂でと云うのもなんとなくデートっぽくないし、それならばと三ヶ町アーケードの入り口辺りにある喫茶店でと一決するのでありあました。
「あんまり一杯は、食べられんから」
 その小さな喫茶店の最奥の、白十字パーラーよりは薄暗い照明の席に座ってから、吉岡佳世はこの前のデートの時と同じようなことを云いながらメニューを見渡して、野菜サンドとホットミルクを、拙生はスパゲッティーナポリタンとコーヒーを注文するのでありました。店内は拙生等の他に中年の二人連れの女性客と、我々よりは少し年上らしき男女のカップルが少し離れた席に座って、邪魔にならない程度のボリュームで流れる、多分バッハの有名な幾つかの曲に自分たちの会話の内容を紛らせながら、他の客には何の興味も示さず夫々に話こんでいるのでありました。
「井渕君の住むことになる世田谷て、どんな処?」
 吉岡佳世がサンドイッチを両手で持って口に運びながら聞くのでありました。
「そうね、案外田舎て云う雰囲気ぞ」
「でも、佐世保よりは都会やろう?」
「いやあ、そうでもなか。まあだ周りに、キャベツ畑とか栗林とかあるとばい」
「ふうん、そう」
 吉岡佳世はキャベツ畑と栗林のある住宅地の光景はどんなものかと想像するように、少し上を向くのでありました。
「妙な話、便所のくさ、まあだ水洗じゃなかとばい、オイの入るアパートは」
「へえ、そしたら、本当にまるで田舎て云う感じやろうかね。最近は佐世保でも、結構水洗トイレが多いとにね」
「佐世保のごとすぐ山の迫とらんし、海もなかし、だだっ広か平地に、ごちゃごちゃて家の建っとったり、やたら豪邸の並んどる一画の在ったり、畑の在ったり、空地の在ったり、金網で囲まれとるゴルフ練習場とかテニスコートの在ったり、映画の撮影所の在ったりして、なんか街の様子が今一つ掴みどころのなかて云う印象ばい」
「ふうん。でも、映画の撮影所のあると、近所に?」
「うん、少し歩いた処にある。三船プロて云うて、ほら三船敏郎の」
「へえ。そうしたら、三船敏郎も住んどらすと、近くに?」
「さあ、ようは知らんばってん、そうかも知れん。アパートから二十分くらい歩いた処が成城て云う街で、有名人の結構住んどるらしかぞ、叔母さんの云いよらしたけど」
「そんなら、道で有名人に会うかんも知れんね、井渕君」
「ひょっとしたら、ね。ま、来年お前が入試に来たら、色々案内してやるけん」
「うん、ちょっと楽しみね、それ」
 吉岡佳世はそう云ってミルクの入ったカップを口元に運ぶのでありました。
(続)

枯葉の髪飾りCⅩLⅦ [枯葉の髪飾り 5 創作]

「あたしの親類は、豪徳寺て云う処に居らすとよ、前に云ったかも知れんけど」
 吉岡佳世はホットミルクを一口飲んで続けます。
「うん、豪徳寺はそがん遠くじゃなかばい、オイの住むアパートから。小田急線で駅四つくらい先にあるかね。尤もアパートからは本当は、京王線の駅の方が近いとやけど」
「駅四つ先なら、結構遠くにならんと?」
「佐世保線とか松浦線の積りで云うたらそうばってん、あっちは駅と駅の間の短かかけん、こっちで云うなら、バス停四つ先くらいの感覚かね」
「ふうん。バス停四つなら、そんなに遠くないか」
「そうやろう」
「井渕君が今云った、路線とか駅の名前、後で地図で調べてみよう」
「来年お前が東京に出て来たら、彼方此方、色々連れて行ってやるけんね」
「うん、二人で、色んな処行こうね」
「時々、横浜とか鎌倉とか、遠出もしようで」
 拙生が云うと吉岡佳世は目を見開いて拙生を見ながら、さも嬉しそうに同意の頷きを何度も返すのでありました。
「ああもう、来年が待ち遠しくなってきた、あたし」
「そうね。オイも待ち遠しか。ばってんがぞ、そのためには受験勉強ば、必死になってこの一年せんばダメとばい。そうせんとお前、来年東京に住めんとやからね。まあ、オイがこがんこと云うのも、なんばってん」
 確かに吉岡佳世のおまじないを最大の頼みに大学受験して、まったくの幸運から三校受験した大学の内の一つになんとか引っかかった拙生でありましたから、そんな偉そうな訓戒を垂れるのは如何にも身の程知らずであると反省して拙生は頭を掻くのでありました。
「そうね、あたし、絶対頑張るからね、この一年」
「ばってん、体の調子と相談して、あんまい根ば詰めたりしたらダメけんね」
 拙生としては彼女のことでありますから受験勉強の方は着実にこなすでありましょうが、そのために彼女が体に無理をさせはしないかと危惧してそう一言するのでありました。
 あんまり彼女が疲れても宜しくなかろうと云う判断から、拙生はぼちぼち帰ろうかと云いながら支払い伝票を取るのでありましたが、吉岡佳世は口を引き結んだ顔をして、もう帰るのかと云う不満の意を表するのでありました。
「ああそうだ、帰る前に、この前のペットショップに、ちょっと寄らん?」
 吉岡佳世が提案します。
「疲れとらんや?」
「うん、大丈夫。何ともないよ、あたし。あの仔犬に会ってから、帰ろうよ」
 と云うわけで拙生と吉岡佳世は喫茶店を出ると、すぐ横の三ヶ町アーケードへと足を向けるのでありました。ペットショップまでは然したる距離でもなくて、彼女の体に障ることも、まずなかろうと拙生は思うのでありました。それに拙生自身にしても、まだもう少し彼女と一緒に居たかったものでありますから。
(続)

枯葉の髪飾りCⅩLⅧ [枯葉の髪飾り 5 創作]

 吉岡佳世はペットショップの入り口脇の、あの仔犬が居たケージに駆け寄るのでありました。しかし彼女は前のようにすぐにケージの中に指を差し入れて仔犬とじゃれようとはせずに、傍らにただ立ったままでケージを見ているだけでありました。
 ケージの中にあの仔犬の姿はないのでありました。新聞紙のひかれた床に小さな毛布が丸まった儘置かれているのは、仔犬が中で暮らしていた痕跡を留めているのではありましたが、それは如何にも冷えた空気の中に取り残されているのでありました。吉岡佳世は空のケージから目を離して、横に立った拙生の顔を不安げな表情で見るのでありました。
「仔犬が・・・」
 吉岡佳世はそう云ってから店の中に入って行くのでありました。拙生も彼女の後ろからついて行くのでありました。鳥の鳴き声でかまびすしい店内の最奥には鳥籠やら熱帯魚の水槽に囲まれて大きな木の机が置いてあって、その上でパイプ椅子に座って小鳥の餌らしき菜っ葉を、机上に据えたまな板の上で切り刻んでいるのは恐らくこの店の主人でありましょうか。
 その主人と思しき野球帽を阿弥陀に被った、背は低いながらいかにも骨太な体格の初老の男の人に、吉岡佳世は仔犬の不在のわけを尋ねるのでありました。
「ああ、あの犬なら、昨日売れて仕舞うたばい」
 主人と思しき人はまな板の前に座ったまま吉岡佳世を見上げて、一旦野球帽をとったもののまたすぐに元通り阿弥陀に被りなおしてから云うのでありました。「お姉さん、あの犬が欲しかったと?」
 そう聞かれて吉岡佳世は無言で一つ頷くのでありました。
「残念やったね、一日違いやったばい。もしなんなら、連絡先ば教えて置いてくれたら、またすぐ同じ犬種ば仕入れられるけんが、取り寄せてあげよか?」
 主人と思しき人は彼女にそう持ちかけるのでありました。吉岡佳世は首を横に振りながらそれには及ばないからと告げるのでありました。
 あの仔犬が自分以外の人に買われていったのが、彼女には大いにショックだったようでありました。三ヶ町アーケードを戻ってバス停まで向かう間、吉岡佳世は拙生の手を握り締めて無言で歩くのでありました。拙生は慰めようと思うのでありましたが、彼女の沈黙に気押されて言葉をかけるのをなんとなく躊躇っているのでありました。
「まあ、残念やったね」
 彼女の家の方へ向かうバスに乗り込んで、二人一番後ろの席に並んで座ってから拙生は彼女におずおずと話しかけるのでありました。
「うん、がっかり」
 吉岡佳世がそう云って悲しそうな顔をするのでありました。まあ、縁がなかったのだろうろうと云おうとして、拙生はその言葉を飲みこむのでありました。飼おうと思ってその気で探すなら可愛い仔犬が他にまた見つかるだろうと云うのも、なにやら彼女の傷心に塩を塗るような言葉であろうかと考えるのであります。彼女には屹度、あの仔犬でなければならなかったのでありましょうから。
(続)

枯葉の髪飾りCⅩLⅨ [枯葉の髪飾り 5 創作]

 翌日吉岡佳世を家に訪ねると、彼女は前の日の拙生との外での逢瀬にも、執心の仔犬が他の誰かに買われてしまったと云うショックにもめげず、体調を崩すことはなかったのでありました。拙生は彼女の様子が昨日と変わりないことに先ず安堵するのでありました。
 仔犬の件はひょっとしたら単に誰かに先を越されたと云う無念さも然ることながら、拙生がもうすぐ彼女の傍を離れて東京に行ってしまうことの悲痛な暗喩として、若しくは拙生と彼女の仲がこの先辿る結果の前兆として、彼女が変な風に考え過ぎたりはしないだろうかと、まあ、拙生の大袈裟過ぎる取り越し苦労からではありますが、秘かに心配していたところではあったのでありました。しかし見た目の上では彼女の拙生に対する態度はなにも変化がなさそうでもあり、その表情にも翳りが認められないのでありました。
 彼女の家で、拙生は先ず居間で彼女のお兄さんに挨拶をするのでありました。
「大学に受かったて云うことは聞いとったけど、よう頑張ったばいね。井渕君おめでとう。東京には今週末に行くとてねえ?」
「はい。もうそがん佐世保に居る時間は長うなかとです」
「もう、用意とかは大体済んだとや?」
「こっちから送る荷物は、明日出すことになっとるとです。まあ、叔母一家のやっとらすアパートに転がりこむとやけんが、大した用意て云うともなかとですよ、実際。オイがこの体ば東京まで運んだら、それだけで完了て云う感じですかね」
「叔母さんのアパートに入るとなら、見知らん土地でも、少しは心強かかも知れんね」
「その代わり、監視の目が、何時も傍にあるて云うことですばってん」
「ああ、羽目の外せんことも、あるかも知れんね、それは」
「羽目なんか外したら、ダメよ井渕君」
 吉岡佳世のお母さんが横から話に加わるのでありました。「一人暮らしで自由になったからて云うて、なんでもして良かわけじゃなかけんね」
「そいは、実はオイに云いよるとやろうか、このオバさんは?」
 彼女のお兄さんが云うのでありました。
「一人暮らしの気儘さから、勉強もせんでアルバイトばっかりして、ほれスキーだ飲み会だ麻雀だて遊びまわって、挙句の果ては、オートバイの免許ば取るとか云い出すごとなったら、それこそダメよ。そがんとは学生のする本業やなかけんね」
「ああ、矢張りオイのことやったばい」
 彼女のお兄さんがそう云って頭を掻きます。
「井渕君、アルバイトとかすると?」
 吉岡佳世が聞きます。
「うん、仕送りだけぎんた心もとなかけん、チョコチョコする積りではおるけど」
「アルバイトなら、水商売のアルバイトが実入りのよかぞ」
 彼女のお兄さんがそんな知恵をつけてくれるのでありました。
「水商売のアルバイトなんか、したらダメよ、井渕君!」
 彼女のお母さんはそう云って彼女のお兄さんを怖い顔をして睨むのでありました。
(続)

枯葉の髪飾りCL [枯葉の髪飾り 5 創作]

「水商売のアルバイトは、お給料の良かと?」
 吉岡佳世がお兄さんに聞くのでありました。
「おお、他のチマチマしたアルバイトの倍くらい出るともあるぞ」
「へえ、倍ですか。そりゃあ良かですねえ」
 拙生がそう感心すると、間髪を入れず彼女のお母さんがその会話に待ったの手を差し出します。
「ダメダメ、どがん給料の良くても、水商売はだめ。学生がそがんことしたらダメけんね。なまじ給料の良かったりすれば、そっちに気ばとられて、勉強なんかいっちょんせんごとなるに決まっとる。それに佐世保の田舎者が急にそがん処でアルバイトなんかしたら、妙な感化とかば受けて、結局身ば持ち崩すけんね。」
「そりゃあ、極論ばい。結局本人次第くさ。それに、そがん妙な感化とか云うとも、実際はそうはなかとばい。結構皆真面目に働いとるとばい、大体は」
 彼女のお兄さんがそんなことを云うのは、お母さんに云われているのであろう小言への弁明なのでありましょうか。
「水商売には綺麗かお姉さんの一杯おらすけん、ふらふらってなるかも知れんよ井渕君も。そしたら困るやろう、佳世?」
 彼女のお母さんがそう吉岡佳世に話をふるものだから、彼女は拙生の顔を見るのでありました。見られた拙生が彼女の視線に必要もないのに何故かどぎまぎしたのは、これは実に以て拙劣なる反応と云うものでありました。
「うん、それは困る。井渕君、水商売のアルバイトしたら、絶対ダメよ」
 水商売と云ってもそう云ったものばかりではなくてもっと業態は広いのだと、彼女のお兄さんが云い足すのではありましたが、吉岡佳世は拙生を鋭い目でじいっと見据えるのでありました。
「まあ、オイは妙に鈍感で、そのくせ人の好き嫌いのあるけんが、向いとらんやろうなあ、水商売て云うか、そう云った接客業一般は」
 拙生はそう云いながら吉岡佳世の顔を上目に窺うのでありました。
 彼女のお兄さんの旗色が悪くなったので、しかもなんの覚えもないと云うのに、とばっちりで拙生の旗色までくすんできたものでありますから、その話はなんとなく切り上げになるのでありました。その後拙生は吉岡佳世と一緒に彼女の部屋に引き下がるのでりましたが、別れ際彼女のお兄さんはもし佐世保と東京の行き帰りに立ち寄ることがあるならと、京都の自分の連絡先を教えてくれるのでありました。
 彼女の部屋で夕方まで過ごして、当然のように部屋から出しなに長く唇をあわせて、拙生は彼女の家を後にするのでありました。
「明日は公園でデートしようね」
 吉岡佳世はそう云うのでありましたが、万が一のことを考えて公園での待ちあわせではなく、拙生が昼頃に彼女を家まで迎えに行くことにするのでありました。体調が良かったものだから、彼女は帰る拙生を送るため最寄りのバス停までついて来るのでありました。
(続)
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