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合気道の演武会について [合気道の事など 2 雑文]

 九月に合気道錬身会の第二回演武大会が江戸川区スポーツセンターで開催されたのでありました。昨年の第一回大会も盛況でありましたが、今回も昨年を凌ぐ数の参加者や観覧者の熱気で会場が煮え立つ様でありました。合気道錬身会の勢が確実に大きくなってきている査証でありましょうから、この点は拙生も慶賀に堪えないのであります。
 しかし勢が拡大すれば当然のこととして、様々な考えや経歴の愛好者が参加して来るのでありますから、その技法なり考え方の統一感が少なからず希薄化するのも否めない事実であります。勢の拡大と、その大きくなった流派の技法や、技法の依って立つ思想の統一は、一般的には恰も相克の様相を呈し始める関係でもあるようであります。
 養神館の演武会の頃からの印象でありますが、そこでは多種多様な演武が披露されるのでありました。しかしこれが同じ会派の合気道かと云う程に異相を示す技法が公然と演武されるのは、これは内部の者として秘かに戸惑いを禁じ得ないのでありました。この現象は養神館の演武会ばかりではなく、他の合気道各派にも云えることかも知れません。
 最高師範たる千田先生の技法を模範の最高域に戴く錬身会は、千田先生の技法に忠実に稽古し、その完成度や、その術理から外れていない範囲で創意工夫した成果や変化を披露するのが、本来合気道錬身会としての演武会の在りようでありましょう。錬身会ではその点で基本技法の正確さを競う競技演武が行われていますから、技法統一に大きく資する演武項目が採られていると云えるでありましょう。また外に対しても錬身会の技法は確たる模範と芯が存在すると云う点を明確に標榜出来るのであります。
 基本技競技演武に対しては最高師範から細かい注意点や技法上の指示が前もって各道場指導者に示されます。この指示に則って各指導者は演武技の指導を行います。これは改めて技法の細部や、千田先生の教示される理合と普段の自分の稽古との整合性に指導者が向きあう機会であります。引いては技法の統一に果たす役割が極めて大でありますし、演武会が普段の稽古に有機的に結合されている優れた制度であると云えます。
 にも関わらず、であります。指導者演武を含めた他の演武に於いて、どの様な考えがあってのことかは知りませんが、錬身会の合気道とは何の「関係もない」杖道の十二本目「乱合」の演武をそのままやってみたり、養神館の某師範の演武をその残心の取り方までそっくり真似ていると思われる演武があったりでは、その方がなんのために千田先生の錬身会で合気道を修練しようとしているのか疑問に思わざるを得ないのであります。それは合気道錬身会の演武会で敢えて行うべきものでありましょうか。特に他武道の演武をされた方は、その武道流派の責任者の方に、それと伴に錬身会最高師範の千田先生に事前に許可を得て演武を披露されたのでありましょうか。本来武道は徒に技術を公開しないものでありますから、どの様な武道でも代理者が演武を行う場合、術技披露はその流派を統べる最高責任者の許可を得て行うのが筋でありましょう。しかも他武道の演武会で態々演武するのでありますから、披露するに堪える力量の演武でなければなんの意味もないのであります。この点で先ずその武道に対しても錬身会に対しても、厳密に云えばその方は武道的な礼を欠いていることを知るべきであろうと思われます。第一、合気道の演武会なのですから、貴方の他武道の実力ではなくて、合気道の実力を披露して頂きたいものであります。
(了)
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合気道の「持ち手」に対する稽古Ⅰ [合気道の事など 2 雑文]

 相手が此方の手首や肩、胸倉や肘を持ちにきた場合、塩田剛三先生は本当は持たれたらその時点で負けだと常に仰っておられました。相手が此方の手首なりを持ったと実感する前に、或いは持つと云う行為が完了する前に、捌きや当身を繰り出すことによって相手のペースで持たせないようにしなければならないと云うことであります。千田務先生も持つと云う行為を三段階に区切られて「触る」「握る」それから「押す或いは引く」となると解説されておられます。千田務先生はこの「握る」の段階が相手に最も隙が出来るところで、相手が握ったと実感した瞬間に技を施すと巧くかかると仰います。しかし「触る」「握る」は一瞬の内に完了しますから、その「握る」タイミングを捌きによって遅らせてやると此方も相手の「握る」瞬間を捉え易くなります。捌きによって相手の「握る」タイミングを制御し、相手が持ったと思った時には既に相手の体は崩れている状態にするのが、捌きの意味と云うことになります。また同時に相手に此方と接触する直前まで持てると思わせておいて、実はどこも取らせないと云う操作も捌きによって行うのであります。
 しかし稽古の取りかかりとして先ずは捌きから入らずに、相手に確実に此方の手首や肩なりを持たせて、その力を割ると云う稽古が相手の持ち手に対する稽古の最初とされます。つまり相手の「押す」或いは「引く」若しくは「固定する」と云う力に対する稽古であります。相手の「握る」タイミングを取る稽古、即ち捌きの稽古から入ると、相手の「握る」と云う行為の完了時の感覚を体感出来ないであろうし、そうであるならそのタイミングを捉えることも結局出来ないことになります。またリアルな局面に於いて相手の「握る」タイミングを此方が逸した場合、不覚にも確実に持たれてしまった場合に、その後何も為せなくなるようでは合気道の武道としての意味がありません。意ならずも相手に確実に持たれてしまったとしても、その頽勢をなんとしてもめぐらすのが武道の要件であるはずであります。此処に相手の力を割る稽古が生きるのであります。また捌きの稽古は充分に自分の体が「合気道体」として錬られ、合気道的な動きが何時でも遂行可能になってから行わなければ結局稽古の意味がないと思うのであります。
 塩田剛三先生や千田務先生のような達人の域にある方ならば、相手の持ちに来る意図やタイミングを自在にコントロール出来るでありましょうし、それが合気道を修錬する者の目指す域ではありましょうが、やはり稽古には段階や自分のその時点での力量との兼ねあいがありますし、段階を確実に踏む方が結局その域に達する近道であろうと思われるのであります。嘗て塩田剛三先生が主宰されていた黒帯会でも、相手に確実に持たせてそれを親和的な力の作用で割ると云う稽古が頻繁に繰り返されていましたが、これは今にして思えば塩田剛三先生の或る種の武道的示唆であったとも思われるのであります。
 こうして定位置での「押す或いは引く」若しくは「固定する」でもいいのでありますが、この相手の力を一定の条件の下で割ることが出来るようになれば、次に「握る」の段階に入ります。これは相手の「握る」が完了する直前を実感したら即動くと云う稽古であります。捌きと云うよりは自分の反応を磨くのが目的であり、この後に内避け外避けの基本的な捌きの修錬に移っていくのであります。此処では捌きは「握る」あるいはその直前の状態を引きのばすための動作であり、その状態を続けることで相手を崩す動作であります。
(続)
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合気道の「持ち手」に対する稽古Ⅱ [合気道の事など 2 雑文]

 合気道の技の始まりから完了までを現象的便宜的に段階として大まかに区切れば、先ず間合いから「接触」「崩し」「作り」それから「投げ或いは固め」と進んで技の総てを完了することになります。この中で最初の「接触」から「崩し」の段階で相手との此方の主導による一体感を如何に構築するかで、技の成否が決定すると云ってもよいでありましょう。これが不完全であるなら、次の段階へ進むことが出来ずに、つまりは技が取りかかりの部分で停滞して、完了に向かって順を踏めなくなるわけであります。ここで云う「接触」は前の頁の「触れる」「握る」と云う行為であり、「押す或いは引く」若しくは「固定する」と云う相手の対抗的意図の現れる前段階を大まかに指します。
 また一応「先」「後の先」「先の先」或いは「先先の先」等の相手との「接触」直前の機微は考慮の外に置くこととします。勿論合気道を修錬する者として大先生の、合気道に「後の先」や「先の先」とかはなく「動いた時にはもう終わっている」のだし、「だから合気道に此方から攻める技は必要ないのだ」と云う境地を目指すのは云うまでもありませんが、この稿では相手との「接触」前の駆け引き、或いは駆け引きを超越した境地は、論が煩瑣になることを避けるため外に置くこととします。
 それから当身との絡みで云っておくなら、相手が突きや打撃と云う「打ち手」で「接触」を図ってきた場合、その「接触」の端に第一の当身が繰り出され、その後に「崩し」「作り」の各動作間でも当身が駆使されて「投げ或いは固め」に至ると云うことになります。「投げ或いは固め」と云う技の完了までを遂行するためには、その間に繰り出す当身は総て「虚当」か「仮当」であります。「本当」の場合、それを繰り出した時点で相手との関係が完了してしまうからであります。これが片手持ちとか肩持ち等の「持ち手」で相手がくる場合は「接触」の直後の「崩し」で第一の当身が用いられます。しかしこの場合当身を打たない「接触」は「持たれる」のではなく「持たせる」わけでありますから、次の「崩し」の捌きに資するような持たせ方を先ず図ることとなります。これは前の頁で述べた相手が「握る」そのタイミングを取ると云うことにも該当するものでもありますが、また同時に此方が当身を繰り出す積りで、しかし結果として「持たせる」現象になると云うもので、此方の当身の意図が常に隠れて存在しているのであります。
 さて、では相手の「持ち手」に対する「接触」でありますが、結果として此方の有利な状態で持たせるためには、捌きの途中で相手の持とうとする意思を排除しないようにしなければなりません。つまり「触れる」かその直前の状況を、動いていようとも現出させ続ける必要があります。相手の手の密着である「握る」を避けながらも、相手に今にも密着出来ると云う「期待」を持たせ続ける動きであります。そのためには相手の動きのスピードと此方のスピードが調和していなければなりません。ここが相手との此方の主導による一体感と云う部分であります。合気道の動きの親和性とでも表現するべきものでありましょうか。これが充分に錬られてこそ、相手が密着した、つまり「握る」を実感した時には既に此方の有利、相手の不利が明瞭に創り出されている状態、捌きが「崩し」となっていてその最終域で「作り」ともなっていると云う動きが可能になるでありましょう。相手に「押す或いは引く」若しくは「固定する」暇は、もうそこではないのであります。
(続)
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合気道の「持ち手」に対する稽古Ⅲ [合気道の事など 2 雑文]

 次に相手の「持ち手」に対する密着度と云うものを考えてみたいと思います。
 捌きが「崩し」となってその最終域で「作り」ともなった時点での相手の手は、此方の「接触」している部位に密着していることが望ましいわけであります。持とうとし続けた相手がようやくに狙っていた此方の部位を捉えるのでありますから、その相手の意思を削ぐような待たせ方になっては意味がないのであります。
 但し相手は崩れています。しっかり持つには持ったが、体勢が不利であることはすぐに相手も察知しますから、それを立て直そうと試みます。しかしその試みの暇を与えず、此方はすぐに「投げ或いは固め」に入らなければなりません。相手の「持ち手」が「作り」のところで此方に密着していなければ、この間髪を入れない「投げ或いは固め」は成功しないでありましょう。
 そのためには此方の持たせる部位の、反発を招くような緊張を除去して相手に衝突感を感じさせないこと、相手に持たせたい位置で此方の部位が動揺しないこと、相手の持ちに来る勢いに此方の体勢が揺らがない体幹の強さが創られていること等が重要でありますが、錬られた「合気道体」をして合気道的な動きを遂行出来る此方の「動きの錬度」が高くなければ、これはなかなかに難しいことであります。それに姿勢維持筋群、揺らぎを制御する体幹の深部筋や股関節関連の深部筋の筋力と、同時にそれが働く時に強力な表層筋がその働きに拮抗しないように充分に緩んでいると云うような、云わば筋連動(相反抑制)に優れていることも重要なファクターでありましょう。これは所謂身体感覚、運動感覚の鋭敏さと云うものであります。以前に書いた『合気道と筋力』の頁で紹介した鍛錬や、目的を持った基本動作の反復、単純な捌き動作の反復稽古等でこの身体感覚や運動感覚が充分に養成されている必要がありますが、こうやって養成された体がつまり錬られた「合気道体」であり、高い「動きの錬度」を発生させる基であります。
 密着度と云うことに話を戻してみると、先ずは基本動作の相対稽古や定位置で相手にしっかり持たせた上での、捌きの動作が小さい基本技の稽古によってその密着感を実感し、動いてもその密着度が下がらないような鍛錬から始める必要があるでありましょう。そう云う動きの中で高い密着度を維持出来るようになったら、次第に大きな動きを加えていきます。先ずはゆっくりそれから次第に早く動いて、密着度への配慮を第一にします。この段階の後、「接触」は先ず「触れる」であり、相手の持とうとする意思を途切れさせることなく捌いて、その捌きの最終域で相手が此方の部位を高い密着度で捉えた瞬間が「握る」であり「接触」の完了であり、それは即「崩し」「作り」となって「投げ或いは固め」と云う技の完結に至ると云う稽古になるのであります。塩田剛三先生が仰っておられた「相手が縋りついてくるようでなければいかん」と云う状態が目指すところであります。
 また千田務先生はこの密着度と云うことに関して、例えば手首を相手に持たせた場合、此方の皮膚の遊び(緩み)がとれる程度を最良の密着度とされますし、肩を持たせた場合は大胸筋の収縮と弛緩を用いて密着度をコントロールされます。これは「高い密着度」が只単に「強い密着度」と必ずしも同一ではないと云うことでもあります。ここは我々の向後の課題として示唆的に一言しておくものであります。
(了)
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合気道家の言葉 [合気道の事など 2 雑文]

 とかく合気道家の言葉は判りにくいものが多いように思えるのであります。晩年の大先生がその至高の境地を表現されるために、技の成り立ちの説明に神道的な言葉を多用されたこと等がその因の一つであろうと思われるのでありますが、その言葉を使用される大先生の心の在処を修行者として真摯に受け止めることは重要でありながら、大先生ならぬ者が未消化の儘その言葉を用いて昨日今日入門したばかりの者に指導を為すことは、これは指導者としてどうであろうかと思うのであります。『天狗芸術論』に「若し初学より何の弁へしる事もなく、無心にして事自然に応じ、柔を以て剛を制す、事は末なりといひて頑空惰気になりて足もとのことをしらずんば、現世後世ともに取失うべし」とありますが、これは指導一般に於いて大いに心すべき指摘であります。
 例えば日本神話に登場する神名はものや状態を形容したり、理念を表象するものが多いのでありますが、これを過剰な意味付与を以て合気道的な動きの根拠やら説明と為すのは、一般社会から見ればいかにも強引な解釈学であり、突拍子もない思いつきであり、合気道の一般性普遍性を追求する態度とは凡そ云い難いでありましょう。合気道が青少年の育成と教育をその目的の一つとして標榜するのなら、個人の感覚的な部分に依拠しない一般化された厳密な言葉に依って理念なり術理なりの体系を形成していなければ、それは育成とか教育、或いは指導と云うものでもなくて、単なる洗脳、或いは科学性を有し得ないことの弁明でしかないと云う誹りを免れないでありましょう。
 如何にも合気道は言葉ではなくて行為であります。しかし行為が正しければ言葉への拘泥等は無用とする態度は、言葉の魔力性や暴力性に対して、護身術を標榜する合気道の割にはあまりに無防備であると云えます。同時に言葉の有効性に対しても鈍いのであります。少なくとも合気道が上に述べた育成と教育と云う側面を棄てないのなら、そこで繰り広げられる言葉の営為に対しても、大いに厳密で真摯で内省的であって然るべきであろうと思うのであります。
 同時に長い歴史を有する他武道各派の真髄に属する表現を、その武道の修行経験も、修行に匹敵するような研究の痕跡もないくせに、いともお手軽に拝借して我が境地なり合気道の在りようを玄妙めかして語ろうとする態度も、これもいかにも軽率で、合気道に対して不敬な態度であろうと思われるのであります。色々具体的に事象を紹介して揶揄することはここでは控えますが、その種の言葉を借用した途端、実はそれは合気道が(いや、その仁がと云うべきか)その武道各派の至った境地に未だ及んでいないことを言外に暴露したことになるのであります。現在の合気道が他武道の至った境地に到達しているかいないかと云う話は全く置くとして、合気道家であるならばもう少しばかり己が修錬する合気道に、矜持と敬意を持って頂きたいと願うのであります。そう云えば「芸術未熟の者、名僧知識に逢いたりとて開悟すべきにあらず」と云うのも『天狗芸術論』でありましたか。多年に修錬を為し心を錬り真摯に術を求めて止まぬ、そう云う下地のある者が契機として名僧の至言に逢ってこその高い境地の獲得ではなかろうかと思うのであります。
 或る合気道指導者の文章を読んでいて感じたことを記したのでありますが、そう云う文章に目くじらを立てることこそ、実は我が修錬の至らなさなるべし、でありますか。
(了)
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合気道の稽古態度について [合気道の事など 2 雑文]

 久々の合気道の話題でありますが、些かイカメシ気な話題で恐縮するのであります。大上段から稽古態度について論じようとするものではありませんから、なんとなく「ふうん」と云った調子でおつきあいいただければ幸甚であります。また、前に何処かの文章で少し触れた内容でもあります。
 合気道を稽古する目的は個人によって自由であります。武道そのものとしての合気道を追求しようとする人、誰かより強くなりたいと思って稽古に通う人、克己を目的にその端緒を掴みたいと思って稽古に打ちこむ人、合気道の雰囲気が好きだと云う人、美容と健康のためと云う人、稽古後の誰かさんとの憩いの一時を目的に通う人、若しくは稽古後に大勢の仲間とワイワイ酒盛りをするのが目的の人と、多種多様であります。また一つだけの目的ではなくて幾つかの目的が同じ斤量で複合していることもあるでありましょう。
 目的別にクラスを分けて稽古出来るような専用道場を持つ団体は別として、その他の多くの団体は色々な目的の人が同じ時間と空間の中で稽古することになるのであります。さればそこに、一定の規範が持ちこまれなければならないのは必然のことでありましょう。
 合気道はその成り立ちから今日まで、純然たる武道としてこの世に存在しております。宗教的側面を強調されている合気道、健康法に特化された合気道、喧嘩の術としての合気道、修身の道として特化された合気道等は史上謳われたことはあっても、それは合気道に似て非なるものでしかありませんでした。或いは合気道の偉大な全体像から一部を切り出してそこのみを誇張した、合気道の一側面でしかありませんでした。
 因って、当然のこととして合気道は武道として稽古されなければならないのであります。これは各人各様の目的に関わらず、稽古形態としては武道の形式と武道的な意識、武道的な態度によって稽古されなければならないのであります。それが結果として、健康や美容に大いに資するのであるし、スカッと爽やかな稽古後の充実感を齎すのであります。また自己を見つめ直す契機を提供するのでありますし、共にする稽古を通して仲間との繋がりを篤くし、美味いビールが飲めるのであります。
 この技の稽古は健康に資するところがないと考えてそれを行わなかったり、折角の指導をそんなことは相手を吹っ飛ばすことに役には立たないとお座成りな態度で聞き流してしまったり、そんな地味な稽古では汗が出ないと不満気な顔をしていては、結局結果としての健康も、強さも、爽やかな汗も手に入れることは到底出来ないでありましょう。そんな勝手気儘な稽古態度では武道的な緊張感も喪失してしまっていて、思わぬ怪我をしたりさせたり、それに全体の稽古の雰囲気にも悪影響を及ぼすだけであります。
 幾多の先人が苦心して積み重ね研究してきた合気道の稽古の歴史を、合気道以外の自分の狭い経験や知識を余りに過信して感覚的に摘み食いして事足れりとするのは、如何にも合気道の稽古に馴染まない傲慢な態度でありましょう。また自分の技の発展も停滞してしまい、結局合気道のほんの狭い表面を軽く撫でた程度で、健康や爽やかな汗どころか、合気道に対する度し難い勘違いと軽視だけを獲得して終わるのではないでしょうか。
 往々にして比較的ベテランの域に近づいた人にこのタイプが多く見受けられます。そんな気概も自戒も忘却してしまったベテランなどにはなりたくないものであります。
(了)
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合気道の「我ヨリ進テ・・・」1 [合気道の事など 2 雑文]

 歴史的に見れば「武道」の実態としては「先」を取ることに多くの試行と考察がなされてきたと云えます。「後の先」「先の先」「先先の先」等と云った武技の発動タイミングは、相手との相対的な関係の中で「勝」を得るために先人達が多大な研鑽を積んできた結果としての、謂わばこれこそが最重要な「奥儀」と呼ぶに相応しい技術であろうかと思われるのであります。
 合気道においても戦前は「先」の取得が極めて重要視されてきたのでありました。その査証として植芝盛平大先生が昭和十三年に著わされた『武道』の正面打ち抑え技の解説に、「我ヨリ進テ攻撃スルコト」とされているのであります。これは「後の先」「先の先」「先先の先」等の何れか、或いはそう云うものとは成立を異にするものであるかどうかは一応ここでは置くとしても、先ず以って「先」を取らんとする考えであります。
 戦後の合気道が「気」の定義拡大によって理念的観念的な領域に圧倒的に進んだと云う実態の一方で、戦前の合気道があくまで相手との相対的な「勝負」の領域を追求していたと云う側面をこの言葉は如実に表していると云えます。いやそれは終戦まではしごく当然な在りようであって、ここを除いては「武道」が「武道」たり得る要件はないのでありました。寧ろ戦後において様々な事情から「気」の解釈の拡大と同じに、「武道」の意味拡散がなされてきたのだと云えます。戦前まで歴史的に営々と続いてきた「武道」と戦後に於ける「武道」が、観念の上に置いては一定に断絶していると云えるでありましょう。
 ここで断わっておくのでありますが、拙生はこれを以って徒に戦前の事象一般を是としているのでは決してありませんし、戦後のあらゆる事象の多義化に異を唱えているのでもありません。寧ろ戦後の価値観の解放は、可能性として硬直逼塞を回避する上で大いに意味のある変容であったと思っているのであります。ただ「武道」に於いて現象としてそう云うことが云えるとのみ云っているのであります。念のため。
 戦後の合気道に於いて大先生は絶対的な己の在り方を提唱されました。ですから「後の先」「先の先」「先先の先」等の或る意味の駆け引きではなく、向かいあった時にはもう既に勝っているとか、すっと動いた時にはもう終わっている、或いは合気道には攻める技は必要ないのだと云った境地を表現されました。それは大先生にしてはじめて表現出来る絶対不敗の至高の境地であります。しかしその絶対的境地を我がものとされる前には屹度、リアルに相対的な「勝負」の世界を必死に極めようとされ、極め尽くされたと云う修行経緯が存在したでありましょう。それが「我ヨリ進テ・・・」であります。神ならぬ身が必死の相克や試行や煩悶もなしに、初めから天の理を感得出来る筈はないのであります。そう云う苦闘の経緯が存在するからこそ、大先生の到達された境地が至高であるのであります。
 さて、先に行われた合気道錬身会の指導者講習会で、正面打ち技法の1(表技)のみは仕手から正面を打っていくのに、横面打ちや他の技法の1(表技)の方はどうして受けの攻撃を待つのか、と云う門下の人の疑問にどう応えたら良いのかと云う質疑が或る指導者からなされました。宜なる哉とも思うのでありましたが、これは単に「基本」の稽古法がそうであるからそうしなければならないのだと説くだけではなく、戦前の合気道の在りようを考慮敷衍すればもう少し明確に回答できるものではないかとも思うのでありました。
(続)
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合気道の「我ヨリ進テ・・・」2 [合気道の事など 2 雑文]

 技の成立に於いて先ず以って「先」を取ることを第一義とするなら、当然「我ヨリ進テ攻撃スル」でありますから、正面打ち技法1(表技)に於いては仕手から打っていくことは納得出来るでありましょう。戦前の合気道を修行された塩田剛三先生の流れを汲む多くのものは、今もこの通りの形を継承しています。
 では正面打ち技法2(裏技)ではどうでありましょう。一般的な稽古では仕手受けが決められた構えを保持したまま逆半身に対峙して、一足一打の間合に入り、受けが一足踏みこんで仕手の正面を手刀で打ち、それを仕手が中心線を利かせた体を使って同側の手で受け止め、相手の前に出る力を利用して相手の肩肘を制しながら回転動作で崩すと云うことになります。これは「我ヨリ進テ」=「先」ではなく、云ってみれば完全に「後」に徹することになります。「勝負」と云う観点から云えばこれは成立しないものであると云えます。
 では何故このような稽古をするかと云うと、前にも他の文章で記したと思いますが、体の強靭な線を創ると同時に、その創られた体の線が動いても崩れないように錬ると云う意味に於いてこう云う稽古をするのであります。「勝負」を取り敢えず脇に置いて、その前に「勝負」に耐えるだけの自分の強い合気道体を創る鍛錬であります。「勝負」以前の「地稽古」であります。
 次にこれを「勝負」の観点で観るならば、相手に自分の次の動きを読まれることを避けるために、先ず逆半身で相手と対することを避けます。常に相半身か無構えとします。それから、相手が一足踏みこむよりも先に「我ヨリ進テ」「先」を取るために、こちらから一歩を発動させます。その時、こちらが出すその一歩は歩み足となって相手の正面に進み、主導的に結果として逆半身で相手との接触を取得します。正面打ち技法1(表技)と同じに「我ヨリ進テ」でありながら、その進んだ一歩が逆半身となる一歩であります。「我ヨリ進テ」接触した次の瞬間、前に相手の力を誘導しつつ回転動作によってそれを崩すことで正面打ち技法2(裏技)が成立するのであります。でありますから、正面打ち技法の2も(裏技も)、こちらの「先」によって技の発動が可能になるのであります。
 合気会の正面打ち一教の裏技を見ると、その一歩が相半身様で接触した同時か直後に相手の側面に大きく踏み出されます。これは「我ヨリ進テ」の足の動きの名残、或いは入り身の理念との整合性を考えた意図的な変容でありましょう。古い写真や、大先生の『武道』を再現された斎藤守弘先生の動きを見ると、一教も二教も三教も延いては四教も、裏技に於いても正面打ちはこちらから打っていくとされ、その時の一歩は相手の側面ではなく正面を外れない位置に踏み出されています。これは先に述べた動きと符合します。
 次に横面打ち技法であります。「地稽古」の段階では、技法1(表技)の多くの場合はお互いに相半身で一足一打の間合まで接近し、振りかぶりをあわせて受けが仕手の横面を打ちこむと、仕手はその受けの打ちこんでくる手側に後ろ足から丸い横移動をして、力の乗る前にその手を逆側の手刀で受け止めます。技法2(裏技)の場合は逆半身から前足を矢張り受けの打ちこんでくる手刀側にやや踏みこみ横移動して、これも矢張り手刀で受けの横面打ちの手を受け止めます。受けの力がその手刀に乗る前のタイミングの取得と、こちらの体軸の強さと重心の安定、あわせの瞬間の力の集中を錬る稽古であります。
(続)
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合気道の「我ヨリ進テ・・・」3 [合気道の事など 2 雑文]

 これは「地稽古」でありますから緩慢な、申しあわせた「後」であり、先の正面打ちの技法2(裏技)のところで述べたと同じ、合気道体の養成を主眼にした稽古であります。でありますから勿論「勝負」ではないのであります。
 では横面打ち技法に於いて「勝負」の観点をとって観るならば、先ず以って相手が横面を打ちこんでくること自体が約束されてはいないと云うことがあります。それは正面打ちの場合も同じでありますが、でありますから「我ヨリ進テ」であるわけであります。こちらから「先」に正面を打っていくことによって、それを防御しようとする相手の、正面であわせる同側の手を正面打ちに取るのであります。正面打ちは正中線上での手の動きであるから、比較的単純なあわせの動作となります。しかし横面打ちの場合は受けの体軸がやや回旋しながら手刀が袈裟がけに打ちこまれてくるので、それにあわせようとすれば「地稽古」時の防御的な「後」の動きしかないように思えます。「後の先」であっても「先」であっても、相手の横面打ちに対して「我ヨリ進」むことは困難であると思えます。依って前に記した講習会での質問が発生することとなります。
 では如何にして「我ヨリ進テ」「先」を取るかと云う時に、絶対採用されなければならないものが「当身」の意識であると思われます。補足的に云うと、正面打ちの場合も「我ヨリ進テ」相手の正面を正面打ちで「当」るわけでありますから、これも実は「当身」の意識に依って「我ヨリ進」んでいると云うことが出来ます。
 横面打ちの場合は、相手の体軸が回旋する「起こり」を察知したならば(=「後の先」)、或いは相手に全く何の「起こり」もない段階でも(=「先」)、こちらから逆側になるべき手(例えば「後の先」で相手が右横面打ちで来ると読んだらこちらは左の手)で、直線的に相手の顎に正拳か手刀を打ちこむと云う「当身」を繰り出すこととなります。これは以前に「当身」における項で記したところの「本当(ほんあて)」であります。
 あわせにおける「本当」が当たる瞬間に緩めば「仮当」となり相手の仰け反る反応を引き出したら、それに乗じて同側の手を使って泳いだ相手の手を捌きながら次の段階の位置に移るのであります。これが「虚当」なら接触の前に相手の一瞬の怯みを誘発したことを察知して、こちらの手が相手の顎へ向かう軌道を変えて相手の手刀方へと変化し、詰まり「地稽古」時のあわせと同じような容態に、相手の手刀をこちらの「虚当」を繰り出した手刀に依って制すると云う形をとることとなります。ただこの場合相手の空いている手を牽制するために、こちらももう一方の手で相手の面に向かって裏拳の「虚当」を同時に繰り出すのでありますが、これも「地稽古」の時のもう一方の手で裏拳を繰り出すのと同じ容態であります。地稽古の「形」は、詰まり「虚当」の技を「形」化したものであります。
 であれば、正面打ちの1の技法(表技)ばかりではなく、正面打ちの2の技法(裏技)も、横面打ちの1も2も、本来的には「我ヨリ進テ」と云う、仕手が「先」を取るべき技であることを理解出来るでありましょう。単に「地稽古」上での稽古の約束事だけではなく「勝負」或いは「武道」と云う観点、その観点から必須に導き出されるところの「当身」の観点を踏まえれば、横面打ちの場合も、否、あらゆる場合にも「我ヨリ進テ」となるのが合気道技の本来であると、門下の人の疑問にも応えることが出来るわけであります。
(続)
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合気道の「我ヨリ進テ・・・」4 [合気道の事など 2 雑文]

 さて、特に「虚当」を使えるようになるには量的質的に充分なる稽古を積まなければならないのは言を待ちません。またそう云う稽古が出来にくい今の合気道稽古形態の現状であることも事実であります。「当が七分」とされる合気道が、残り三分の投げや固めばかりの稽古に明け暮れていると云うのも思えば妙な話であります。我々が合気道総体の内の七分の稽古をまったくしていないことになるとしたら、我々が「合気道」を標榜するに於いて、脇の下を冷たいものの伝うような心地がするのを禁じ得ないのであります。
 投げ技の稽古が即ち当て技の稽古にも結果としてなっているのだと云われるかもしれませんが、それではそれをちゃんと稽古時に体系的に提示されているでありましょうか。提示するだけではなく、実態として「当身」としての稽古が充分になされているでありましょうか。それに単に示唆するだけでは、寧ろ混乱が生じはしないでしょうか。なにより、稽古していない技は実際の使用に堪えないのは当然のことであります。「知っている」と云うだけでは、それが即ち「使える」と云うことにはならないのであります。
 打ち手の技ばかりではなく、持ち手の技にも当然「我ヨリ進テ」が適用されます。先ずこちらが「当身」を繰り出すことによって「先」を取り、その「当身」が「虚当」であるが故に相手は当てようとして緩んだこちらの手を、或いは誘っているこちらの肩を、防御的に持たざるを得ないと云う状況に追いこまれるのであります。これが「持たせる」の謂いであります。「持たせる」も「持たれる」も一見同じであるが、その心構えに於いて違うのだ、と云うような余裕とか精神上の優位性だけではなく、実態として相手をそうならざるを得ないように追いこむような「持たせる」でなければ「先」ではないのであります。
 塩田剛三先生が「持たれたらその時点で負け」と仰っていた謂いも、つまりそう云った絶対優位な相手との関係を創れる技術を云われていたのだと思うのであります。これは相手が触れた時にはもう終わっていると云う高い境地であります。だから接触が成った時には、既に相手は制せられているのであります。
 合気道総体の中の七分と云われる「当身」は当今失伝しているか、地中深く隠れて仕舞っております。戦前に大先生の薫陶を受けられた偉大な師範の方々は多くが鬼籍に入られ、当時の合気道は今や伝説と化しております。戦前の厳しい合気道の遺風を体現された塩田剛三先生も、また戦後派ではあるものの「当身」技法を技の中に明確に体系づけられた西尾昭二先生も、大先生の戦前の合気道を真摯に跡づけようとされた斎藤守弘先生も逝かれ、大先生のお姿は我々にとって益々模糊たるものになっております。
 後の道を歩む我々は、大先生の残された合気道の結果をなぞるだけではなく、その結果に至る道程中に在る、今は埋もれて仕舞った珠玉の欠片を丹念に発掘して、それを文化財的に保存するだけではなく、今の使用に耐える「技法」として合気道総体の中に再構築すると云う態度も必要なのではないでしょうか。それがあって初めて大先生の、向かいあった途端もう既に勝っているとか、すっと動いた時にはもう終わっている、或いは合気道には攻める技は必要ないと云った境地を、勿論そこへ到達するのは至難でありましょうが、しかし理念上だけではなく、リアルに相対的な「勝負」の上に於いても納得することが出来るのではないでしょうか。また、この発掘と云う営為も、我々が合気道稽古の中に見出す、尽きざる楽しみでもあると思うのであります。
(了)
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合気道の組形稽古について 1 [合気道の事など 2 雑文]

 多くの合気道各派の稽古が相対の組形稽古を主としている以上、その稽古する形に対する理解の深さが、稽古の質を保証しているのは敢えて云うまでもない事であります。
 組形稽古と云うのは或る条件下に於ける、武技による攻防の中の一つの典型を抜き出してそれを約束稽古として反復する事に依って、武技展開の要諦を習得せんとするための稽古法の一つであります。日常的な稽古の殆どを組形稽古に依っているのであるなら、根本的に肝要となるべき形に対する理解を深化しておく事は、稽古意図の認識や稽古効率、ひいては合気道と云う武道の本質に至る上でかなり重要な作業と云えるでありましょう。
 合気道は「気を和する」の道であると抽象的観念的によく喧伝されています。依って力で「争わない」或いは「競りあわない」武道であり、先ず以って相手と「気を和する」事を原則とし、その原則に外れないように修錬し、その果てに相手を超えた「宇宙」と一体化する事を目指して修行する「愛の武道」であるとされます。
 これは確かに合気道の高邁性、ある種の現在的有用性を語ろうとする言葉であります。また、長い修行の果てに辿り着いた高次の心境から発せられた言葉であろうと思われます。しかしこの言葉を理念的にではなく実体性の暗喩として解読してみると、組形稽古を支えている意味の領域を奄有する言葉としても意味を獲得するでありましょう。
 またところで、この文章で扱う「気を和する」とは東洋哲学的な宇宙の根源力としての「気」と云う概念ではなく、また「気持ち」とか「意志」とか云う心的なものでもなくて、云ってみればそれはもっと卑近で簡単な、「気があう」の「気」のような、「相手」との「呼応性」と云う意味を以って使用していると云う事を前もって云い添えておくのであります。依って「気を錬る」と云う事はつまり「呼応性」を磨くと云う事であります。この「呼応性」の高さが合気道を合気道たらしめている武道的特性であろうかと思うのであります。
 つまり合気道の形は「呼応性」に依拠した動きを典型化したものでありますから、形を行う仕手と受けにその共通認識があってはじめて、武道の稽古としての意味が発生する事となります。この共通認識が両者に、或いは仕手と受けの片方にないならば、それは単に見栄え良く手順通りに動く殺陣と何ら変わらないと云えるでありましょうし、合気道から武道性を剥離して、あたかも舞踏と為して仕舞う仕業との誹りを免れないでありましょう。
 既存の合気道の入門書や解説書等の多くには組形の約束稽古の解説を行う場合に、仕手の動きのみに解説の殆どが割かれているのでありますが、これはその組形の約束稽古が仕手と受けの共通認識の上にしか武道的に意味を持たないのであってみれば、正に不備との誹りを免れ得ないでありましょう。同等か寧ろより多く受けの動きに対して解説されていなければ、それは結局合気道の組形の稽古実体を解説してはいないと思うのであります。
 多くの場合、解説書に先ず「片手を持たれて引かれた場合」とか云ったように、仕手の技が発動される前の条件が記してあって、受けの動きに関してはこの「片手を持って引く」と云う動作が述べられているのみであります。後は只管仕手の動きの解説が続くのでありますが、受けのこの「引く」と云う動作にしても後ろに下がるように体ごと動いて引くのか、或いは体の動きを用いず肘肩を動かして腕のみに依って引くのか、自分の正中線上に引くのか、それとも脇位置に引くのかは特に触れられていない場合が多いのであります。
(続)
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合気道の組形稽古について 2 [合気道の事など 2 雑文]

 受けの「引く」と云う組形の端緒に関わる動作だけでも多種多様であるし、そうであるならその受けの「引く」動作に「呼応」する仕手の最初の動きも多種多様にならざるを得ないのであります。この受けの「引く」と云う動作の形態を先ず以って規定しないと、その後に続けられる技の組形展開を述べる事は出来ないと云う事になって仕舞うのであります。あくまでも組形とは典型を錬磨するものでありますから、非実用的なように思えたとしても、先ずは自由度を極力排して、多種多様性の迂路を回避して行う稽古法であります。
 合気道の組形の約束稽古では実は受けの認識力がかなり重要になってくるのであります。先の事例に即して云えば、先ず受けがこれから稽古しようとする組形展開のためにはどのような引き方が要求されているのか、確実に理解していなければならないと云う事であります。組形の解説書ならばそう云う点の綿密さをも備えていて欲しいと思うのであります。
 まあ、既存の入門書や解説書の事は置くとして、ではこれから二三の組形の例を引きながら、仕手と受けの関係性、つまり受けの意識及び動きの展開と、それに対する仕手の「呼応性」に依拠した動きについて述べてみたいと思うのでありますが、取り上げる組形の技は日常的に稽古に於いてよく行われている基本的なものを抜粋して述べていきます。

 「正面打ち一ヶ条抑え(一)」或いは「正面打ち一教(表)」と呼称される技の組形の第一挙動目は、仕手と受けがお互いに間合いに入ったら、受けの動作の起こりを捉えて仕手より先を取って受けの眉間を目がけて手刀を打ちこむのであります。先を取られた受けはその仕手の手刀を、同側の手を同じく手刀状にふり被って額の前で防ぎます。
 この手刀同士の接触の端緒に於いては先を取った仕手の有利、先を取られた受けの不利が現出しているのであります。受けはこの頽勢をめぐらすために接触の端緒以前の状態に戻ろうとして体を引いて元の間合いを取り戻そうとします。この時の夫々の心理の方向は、仕手の気持ちは自分の前方に、受けの気持ちは自分の後方に向かっているのであります。
 受けの、体を後ろに引こうとする動作の起こりに乗じ「呼応」して、仕手は斜め前方に大きく摺り足で誘導的に優勢を保持したまま踏み出して、手刀を防ごうとして挙げた受けの腕を一本取りに制した状態で、受けを蹲らせるように下方に崩します。これが第二挙動目であります。この第二挙動目に於いて仕手の「呼応性」が修錬されるのであります。
 でありますから、受けは上述した心理の方向に即した動作を先ず確実に行う必要があるのであります。その受けの動作の起こりを確実に仕手に伝える事に依って、それに「呼応」しようとする仕手のこの第二挙動目の動きが展開されるのでありますから。
 もし仮に受けが「先・後の理」を無視して受けた手刀で力を以って押し返そうとするなら、その受けの反応に対してはこれも「呼応性」に忠実に、仕手の方もより強い力でそれを対抗的に押し返そうとせずに、「正面打ち一ヶ条抑え(二)」或いは「正面打ち一教(裏)」と云う、後ろに回転して受け流す技に変化しなければならない筈であります。こうなると「(一)」或いは「(表)」技の組形を稽古しているのではなくなり、受けの不規則な変化に対して即応するための稽古に変質しているのであります。勿論そう云う稽古も必要でありますが、段階的には組形の謂いを先ず理解した後の、変化即応の稽古となるのであります。
(続)
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合気道の組形稽古について 3 [合気道の事など 2 雑文]

 受けは組形の約束稽古の中に於いては、仕手の「呼応性」を引き出す端緒の役割を担っているのであります。見方を変えるなら、受けが仕手の「正面打ち一ヶ条抑え(一)」或いは「正面打ち一教(表)」の技を誘導しているのであります。
 ところで、片腕を一本取りに制せられて蹲った受けはそれでも仕手の制圧から脱するために、仕手から離れる方向に逃れようと試みます。つまり制せられた腕を引いて脱する方向であります。しかし肘肩がつまった状態で制せられているので腕を縮めるように動かす事が出来ないため、体ごとそちらの方向に動こうとします。仕手の側から云えば強い正中線上から横方向に外れる、体勢が開いて不安定になって仕舞うような方向であります。
 受けのこの動きの起こりを察知したら仕手はその方向に逆らわないで、腰を切りながら角度を変更して歩み足に一歩大きく前進し、受けの腕を介してその斜め前下方の肩の方向に受けを押しこみます。結局受けは逃れようとした方向により低い体勢に崩され、より強く肘肩の制圧を受ける事となります。これが第三挙動目の仕手と受けの関係であります。
 ここでも受けは仕手の「呼応性」に依拠した動きを誘発すると云う意味に於いて、自分の動こうとする方向とその動きの端緒を確実に仕手に伝えなくてはなりません。繰り返しになるようですが、それがあってこその仕手の「呼応性」を錬る稽古なのであります。
 ここまでくれば仕手は前脚の膝の柔軟な前方送り出しを利かせて、歩み足にもう一歩大きく前進してより低く、受けが前のめりに俯すところまで移動して制圧します。同時に受けの腕を一本取りにした儘、後ろ足を強く引きつけて片膝をついた安定した姿勢を取ります。肘肩を制せられ低く制圧を受けている受けは、その仕手の前進に対して抗しきれずに地に伏して仕舞うのであります。これが四挙動目の制圧終了動作であります。
 後は、仕手は姿勢の崩れがないように自らの立てている膝を地に着け、一本取りにした受けの腕も地に下ろして、受けの腕を引き延ばすようにしながら肘関節を極めれば、「正面打ち一ヶ条抑え(一)」或いは「正面打ち一教(表)」と云う組形の技の重要部分が完了します。この後に極めた肘を解放して受けから離れる時には、仕手は受けの腕の延びている延長方向に体を開いて若しもの受けの反撃に備える充分な距離を取って、残心しながら体勢を起こします。まあこれを組形の五挙動目=完結動作と云う事が出来るでありましょう。
 四挙動目と五挙動目では受けは無理な離脱行動を取らずに仕手の制圧に従いますが、仕手の動作に緩みがあれば何時でも反撃可能であることを仕手に意識させるために、気持ちを抜かずに仕手に注意を向け続けます。肘の制圧が解かれたら素早く上体を起こして仕手に対峙し、その儘「気」が繋がった状態で双方の適度な間合いを保って立ち上がります。

 では次に「正面打ち一ヶ条抑え(二)」或いは「正面打ち一教(裏)」と呼称される技の組形の場合には、仕手と受けの間にどのような関係性が生じているのか、その関係性に忠実な組形とはどの様な委細と機微を備えているのかを述べてみたいと思います。
 この「(二)」或いは「(裏)」と云う技は受けの方が先を取って攻撃してくると云う切っかけを持った形であります。この受けの先制を仕手は先ず受け止めるのでありますが、勿論、充分な予測と備えを完備した余裕のある状態での受け止めであります。
(続)
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合気道の組形稽古について 4 [合気道の事など 2 雑文]

 当然、組形として行うのでこう云う一見すれば受けの「先」が現出するのでありますが、そこには受けの動作の起こりを捉えて受けが正面を打たざるを得ないような誘導を仕手が先んじてかけるとか、一瞬早く当身を発動するとかの、武道としての「後の先」の理が埋伏されているのであります。しかしここでは組形稽古と云う限定で論を進めるので、そう云う「後の先」「先の先」と云った初動の駆け引きの機微は一先ず置く事とします。
 仕手は受けの正面打ちを充分な予測と備えを完備した余裕のある状態で受け止めた後、受けの前に出てくる力を途切れさせる間をあける事なく、正面を打ってきた腕の肘肩を上方に丸くつめるように返しながら受けの後方側面に回転して入身します。受けに正面を打たせるのが第一挙動目、仕手が回転してその打撃を無効化するのが第二挙動目であります。
 正面から回避されて後方側面に回りこまれた受けは、前にのめりながらももう一度仕手の正面を捉えようとして仕手の回転を追うように、同回転にすかさず歩み足で自らも回りこもうとします。受けとしては死角に回りこまれた自分の不利を立て直そうとするのが急務であり、もう一度自分が先を取った一挙動目の状態を復元しようとするわけであります。
 この受けの復元動作に乗じながら受けの回りこもうとする方向と勢いに同調するように、仕手は重心移動動作により受けの体勢をより前にのめるように誘導しながら大きく崩します。同時に移動する重心を次第に低くしていき、受けの起き上がりが困難な回転形態を現出させて、恰も螺旋状に次第に低く、上から見れば二つ巴を描くように仕手と受けが同側回転をしながら、結果として仕手が受けを俯せに前のめりに倒れこませるように制するのであります。この時仕手は受けの肘肩をつめた状態を保持し、受けの肩の自由な動きを終始封じておかなければなりません。これが第三挙動目の制圧終了動作と云う事になります。
 後は「(一)」或いは「(表)」の場合と同様に、仕手は姿勢の崩れがないように自らの立てている膝を地に着け、一本取りにした受けの腕も地に下ろして、受けの腕を引き延ばすようにしながら肘関節を極めれば「正面打ち一ヶ条抑え(二)」或いは「正面打ち一教(裏)」と云う組形の重要部面が完了します。この後の技の完結動作も離れ際も同様であります。
 受けの方に、仕手に回りこまれたら自分もすかさず同回転に回りこみながら一挙動目の自分の体勢と仕手との関係を復元しようとするとする意識が、技の初動から完了まで一貫して保たれていなければこの組形を稽古する意義はないのであります。その受けの復元動作に同調するのが仕手の稽古であり、受けの回りこみに遅れればつめている筈の受けの肘肩が緩み、それこそ第一挙動目への復元を許して仕舞う結果となり、受けの回りこみの動作より早く動いて仕舞えば受けの前にのめる体勢に乗じる事が出来ず、誘導が利かなくなり受けの自律的な動きを許す結果となるのであります。この動作中の微妙な互いの関係性を稽古するためには、繰り返しますが受けの理合いへの理解が絶対不可欠なのであります。
 日常の稽古に於いてよく目にするのでありますが、二挙動目以降に受けがそのような復元行動を全くとらずに仕手にされるが儘に、単なる怠惰な「やられ役」に徹して仕舞っている場合とか、また技の反復に狎れて関係性の緊張感を全く喪失して、仕手と受けとの機微を無視した自分勝手な「ぶつかり」稽古にしかなっていないものがあります。こう云う光景を目にすると、これは如何にも稽古として勿体ない限りであると思うのであります。
(続)
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合気道の組形稽古について 5 [合気道の事など 2 雑文]

 組形稽古の蘊奥とは、仕手と受けが互いの力や意識を対抗的に作用させようとしないで、双方の同調的な関係性が綺麗に一つに纏まる、または纏まるように鍛錬しあう事であります。そう云う稽古を繰り返す事に依って、現象面で、無理のない、力を「争わない」或いは「競りあわない」ところの「気を和する合気道」の理合いが理解出来るのであります。
 また云うまでもない事ですが、合気道の技が如何なる構造を持っているのかを受けが深く理解して組形を稽古しないと稽古の実質が得られないのと同様に、当然仕手側も組形稽古に於いては、受けがそう云う認識の上で動いている(動いてくれている)と云う事を承知しておく必要があります。さもないと仕手は自分の合気道的力量を見誤って(往々にして高く見積もって)仕舞うと云う「幸せな勘違い」が発生する恐れがあるからであります。
 組形を鮮やかに演武すると云う事と、武道的に鮮やかに相手を制すると云う事は同じではないのであります。組形稽古は武道的に鮮やかに相手を制するための数ある稽古法の中の、受けの自由な反撃を排除して行うところの一稽古法たるに過ぎないのであります。組形の上手さが即その人の武道としての合気道の強さを保証しているとは、必ずしも限らないと云う冷静な認識を必ず心底に保持しておかなければ、自分の現状よりも更に合気道的な高みと強さを深化させようとする、切実さも真摯さも気概も持ち得ないでありましょう。

 さてもう少し具体的な技に於ける組形稽古を検証してみたいと思いますが、次は「片手持ち二ヶ条抑え(一)」或いは「片手取り二教(表)」と云われる技であります。
 この技は受けが相対した仕手の逆側の手首(例えば受けの右手で仕手の左手首)を持って引く場合の技となるのでありますが、勿論初動時の駆け引きを一旦脇に置いて組形稽古としてそのような前提を設けるのであります。「持たれたら負け」とは故塩田剛三先生がよく稽古中に仰っておられた言葉でありますし、仕手が先に優位的に誘導を仕かけて受けに手を持たせて引かせる、或いは持って引かざるを得なくさせると云う、これも「後の先」「先の先」と云う技の発動時の機微と云うものを一先ず考慮しないと云う事であります。
 受けは仕手の手首を持ったら自分の体を動かさずに腕の力を以って、繋がった腕を介して仕手の体を自分に近づけるような心算で引きます。即ち肩を軸として肘を曲げながら自分の脇後方に引くような力の出し方であります。これが技の端緒であります。
 第一挙動目で仕手はその受けの引く力に逆らわずに、と云うよりは、そう云う力を受けに出させるように、誘導的に腕を差し出すような要領で受けの引きを現出させます。仕手が受けの力に対抗的な力を作用させて引きあいが生じると、引こうとして引いている受けの方が優位でありますから、仕手の体が受けの企図通りに不利に嵌る事になります。故にあくまでも受けの引こうとする力と方向に抗わないようにします。但しその時、丸く腰を切りながら体ごと滑るように動いて、受けの引く腕側の斜め前位置に接近するように受けの力に便乗するのであります。仕手の体は受けに対して斜め前角度から正対しています。
 あくまで仕手は、優位に引いているのだと云う受けの意識を消去しないように動きます。受けは優位にある事を疑わないで引いているにも関わらす、しかし結果として現出した位置関係は、自分の優位ならざるものになっていると云う状態を生み出したいのであります。
(続)
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合気道の組形稽古について 6 [合気道の事など 2 雑文]

 受けとしては優位に引いていた筈であるにも関わらず結果として仕手の手首を掴んでいる腕の肘肩がつまる状態になり、仕手にもう一方の腕の届かない斜め前方向からつめ寄られる事になります。この時に仕手は掴まれていない方の手で裏拳の眉間への当身を繰り出すと、それを防御するために受けに空いている手を使わせる事となり、それはまた受けにその不利な状態を解消すべき次の動きの方向を誘導的に示唆する事にもなるのであります。
 受けは現出したこの不利な状況を解消すべく、仕手の体に正対するように体の向きを変更しながら仕手の当身から遠ざかる斜め後ろ方向にやや後退りしつつ、自分の間合いを回復して仕手の手を取った初動時の優位な体勢と位置関係を取り戻そうとします。仕手はその受けの動きに乗じながら、受けの後退った分をつめていくようにやや前進しつつ掴まれている手を自分の正中線上にふり被り、受けの掴みを脱して、受けの手首を掌屈尺屈の二ヶ条或いは二教の形に極めるべくその用意位置に取ります。これが第二挙動目であります。
 受けは当面、自分有利の体勢と間合いの回復が急務でありますから仕手の手首を掴んでいた手からは意識が薄れて、その手は「虚・実」で云うところの「虚」の状態となって、容易に仕手の二ヶ条、或いは二教のつくりを許す事となるのであります。約束稽古の弊害でありますが体勢と間合いの致命的不利に思いを致さずそれでも尚、仕手の手首を強く握り続ける事に固執して、何としても二ヶ条のつくりを阻止しようと「頑張る」受けを時に見るのでありますが、これは仕手と受けとの間の全体的有利と不利の関係性を全く理解出来ずに、只管表層的な手首の繋がりのみに意を用いて力の捏ねあいをしている「合気道遊び」であります。そこには真摯な稽古態度も武道性の欠片も存在していないのであります。
 先として仕手の手首を取った受けの初動時の優位、次に引いた結果として生じた不利、その不利を解消すべく動いたにも関わらず、自分の腕の「虚」から仕手の二ヶ条のつくりを許して仕舞った一層の不利、と云う関係性を受けが明確に表現してこそ、組形稽古に於ける仕手の稽古に資するところの受けの関係的役割と云えるでありましょう。組形稽古では仕手と受け間の関係性以外の「攻防」的要素は一先ず保留しておくべきであろうと考えます。二ヶ条或いは二教の強さを磨くとか、相手の不測の動きに対応するとか云う稽古は稽古の意味あいが質的に違うものでありますから、組形稽古とは別に行うべき稽古でありますし、別に特化して行わなければなかなか身につくものではないでありましょうから。
 さて、受けの手を二ヶ条或いは二教に取った仕手は、受けが局面の不利を解消しようとして後退的な動きをするのを、間合いが開かないように前進同調しながら追いつめる、と云う流れの中で二ヶ条或いは二教の締めを受けに施します。これが第三挙動目であります。ここで仕手は受けの手首と云う部分への締めの強さに必要以上に捉われる事なく、自分の力の乗る正中線上で剣を真っ向切りに切り下すような要領で受けに力を作用させます。
 補足的に云うと、ここで腕力に頼り過ぎると自分の体の浮きが生じて体の重く沈む力が生まれないし、また握力への依存も高くなって受けの不必要な反発を招いて仕舞います。受けの腕を介してその肩を経由し腰から膝にまで影響するような力を発揮するには、受けの腕の緩みを除去した上で握力の強力なるも排して、自分の両脇下の固定と正中線上での動作を旨として、膝の柔らかさを利かせた力を漏れなく手首に作用させるよう錬磨します。
(続)
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合気道の組形稽古について 7 [合気道の事など 2 雑文]

 ここでも受けは仕手の二ヶ条或いは二教の締めに対して対抗的な動きをする事なく、寧ろ自ら同調していくようなつもりで仕手の締めを甘受します。繰り返しになりますが二ヶ条或いは二教の強さを磨くとか、相手の不測の動きに対応するとか云う稽古と云うのは、稽古の意味あいがここで行っている組形稽古とは質的に違うものでありますから、組形稽古の意味を喪失しないためにも「争わない」し「競りあわない」事が重要であります。
 しかし受けは仕手の締める方向にズレがあったり腕力や握力が必要以上であったりしたなら、それを仕手に伝達すると云う意味で仕手の力のズレた作用方向を上手に体現した受け止めをしなければなりません。これは対抗的な意識からそうしているのではなくて、仕手と無言に会話しているのであります。仕手が受けの受け止めに依って自分の二ヶ条或いは二教の締めが、合理であるのかそうではないのか感得出来るような受け止めであります。
 仕手の二ヶ条或いは二教の締めにより受けは体を沈降させられ、後ろ脚の膝を地に着く事となります。制せられて片膝を着いたとは云え、受けとしては未だ仕手の締めから脱して起立して間合いを回復し体勢を立て直すべく企画しています。それは当然直接的に固められた手首より、その力の流れの中で間接的に固められていて手首よりは自由度を失っていない筈の肘を伸長させる事に依って、二ヶ条或いは二教の締めを無効化する事であります。依って、受けは自分の背面後方に身を引いて仕手から離れるような動きを見せます。
 受けの、後ろに躄ろうと肘を伸ばして上体を仕手から遠ざけるように引こうとする動作の起こりを察知したら、仕手はその受けの動こうとしている方向を妨げずに、前脚の膝の迫り出しを利かせて寧ろその方向に先導するように同調し、二ヶ条或いは二教に取った手首の締めに緩みを生じさせる事なく前足から大きく継足に前進して、受けの体勢を前に述べた「正面打ち一ヶ条抑え(一)」或いは「正面打ち一教(表)」の第二挙動目の完了動作に持ちこみます。受けの企画通りにその肘が伸びて仕舞わないタイミングでの同調が、この局面での仕手の稽古課題であります。これがこの技の第四挙動目と云う事になります。
 補足的に云えば、二ヶ条或いは二教の締めが十分に効いていれば受けの肘の自由を許さずに、仕手の方が先導的に受けの肘の動きを制御した儘動作する事が出来るでありましょう。また前方に継足で大きく出る時に、自分の真正面(受けの真背面)ではなくやや開いた方向に前進する事に依って、受けの蹲った姿勢をより脆弱に誘導出来るでありましょう。
 この後は受けの手首側を持つ手が受けの手首を折り曲げてそれを手甲側から保持した形になるにしろ、「正面打ち一ヶ条抑え(一)」或いは「正面打ち一教(表)」の三挙動目及び第四挙動目と同じに、仕手が受けを俯せの状態に制します。「片手持ち二ヶ条抑え(一)」或いは「片手取り二教(裏)」と云う技では第五挙動目、第六挙動目となります。
 二ヶ条或いは二教の組形としての抑えは一ヶ条或いは一教の抑えとは違って、受けの腕を地に下ろして伸長させて肘を圧迫制圧するのではなく、俯せにした受けの肩を最大伸展内転内旋位に持っていって自分の両手を用いて体の前で密着固定し、その肩を限界伸展内転内旋位まで締めるものであります。この時仕手は受けの腕を抱こうとして背を丸くせず、胸を張るように姿勢を正して体全体を使って受けの肩を限界位に極めます。受けは仕手の力が肩に正確に伝わった段階で、それを仕手に伝えるために地をもう一方の手で打ちます。
(続)
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合気道の組形稽古について 8 [合気道の事など 2 雑文]

 離れ際も仕手は受けの若しもの反撃に留意して、極めた受けの腕をその俯せた背面に肘肩の緩みがないように折りたたんだ後に、受けの頭頂部方に体を回し開いてから極めた受けの腕を解放し、半座に構えて受けのその後の動きに注意を向けます。受けは素早く仕手より離れるように身を引きながら上体を起こして、同じく半座に構えて双方の間合い二歩の距離を取って仕手と対峙し、両者の気を合わせてから隙のないように立ち上がります。

 では次に「片手持ち二ヶ条抑え(二)」或いは「片手取り二教(裏)」と云う技について、仕手と受けの繋がりを見ていきたいと思います。ここでも判り易いように「(一)」或いは「(裏)」同様、仕手の左逆半身から受けが仕手の左手を右手で持った場合を例とします。
 組形の端緒は「片手持ち二ヶ条抑え(一)」或いは「片手取り二教(表)」と同じでありますが、今度は「(二)」或いは「(裏)」でありますから、受けが仕手の逆側の手首を持った後に押す圧力を仕手に加えるのであります。肘を緩やかに刀の反りを表現した腕の形状をその儘変えずに、仕手の手首を保持したら、自分の腕をその状態で固定し、肘肩の力のみではなく姿勢を崩さずに腰を入れて、前脚の膝をやや前方に迫り出すような要領で前方への圧力を仕手に伝えます。つまり受けは体全体で仕手を押すような要領であります。押す、と云うよりは体の前進する力を仕手に伝えると云った表現が適切でありましょうか。
 受けは「片手持ち二ヶ条抑え(一)」或いは「片手取り二教(表)」の場合のように、腕のみの動きを使って引くと云う動作を敢行するのと違い、押す場合には、体全体の前への推進力を使って、押す、と云う力を生じさせるのであります。受けが肘を突っ張って腕を伸ばすような押し方をすると、その腰は反動で往々にして引き腰となり、その押力は弱く硬く、押すと云う受けの力に対する組形の稽古に足る押しとはとならないからであります。
 弱く硬い力は仕手を押し続ける事が出来ずに、往々にして組形の端緒と云う大事な局面で仕手の動きを察知した瞬間、反射的に引く力に変容する場合があります。それでは受けの押す力に対する組形の稽古ではなく、押し引きの鬩ぎあいとなって仕舞い、形の崩しとか変化とか駆け引きとか云った趣旨の攻防術の稽古をしている事になるわけであります。
 さて、この受けの体全体の力を乗せた押しに対して、仕手は先ず持たれた手首を穏やかにやや下方に落して受けの水平前方に押そうとする圧力の方向を変えます。直線状に繋がった力の線が結節点で折れるようなイメージであります。
 力の飽和が緩んだら、即座に仕手は持たれている側の手刀を曲線の軌跡を取って受けの体から離れる横方向に丸く滑らかに動かし、同時に前足から同方向に適度な大きさに動いて体を横滑りに開く位置に移動させます。下に逸れた受けの圧力を横に流して受けの前に推進してくる体自体に崩しをかけるのであります。受けとしては正面に進もうとしている力が下及び横方向に逸らされるので、腰が前に引き出されるように崩されるのであります。
 受けは前方水平方向に押している力を途中で応変させずに、また仕手の体の横方向への変化に対して、同じように横方向に前足を動かして仕手の動きに連れるような動作をせずに、寧ろ前足をやや前に摺り出すように動かして仕手の崩しに体ごと同調する事を心がけます。そうする事で仕手の崩しが受けの体全体を崩している状態を表出するのであります。
(続)
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合気道の組形稽古について 9 [合気道の事など 2 雑文]

 仕手は体を横滑りに開く時に空いている右手で裏拳の当身を受けの眉間に繰り出すと、受けの前に迫り出してくる勢いに不意打ちを呉れる事となり一層の受けの崩れを引き出せると伴に、受けの手首を持った手に「虚」を作り出す事にもなるのであります。受けはこの当身に対して矢張り空いている左手を顔の前に翳して防御を取ります。この動きが「片手持ち二ヶ条抑え(二)」或いは「片手取り二教(裏)」の第一挙動目であります。
 第二挙動目は、仕手は体を横滑りに開いた位置で前足を軸として斜め前にいる受けに相対するようにやや体を回転させ、その動きの内に太刀を上段にふり被るような要領で受けの手首を二ヶ条に取ります。この時仕手の動きに連れて受けの体が立ち直らないように留意します。つまり受けを押し返すような力が働くと崩れが解消して仕舞います。間合いを充分に取って、寧ろ受けの体が前のめりになって不安定な状態になるようにつくります。
 またこの時、仕手が両手を使って受けの片手を二ヶ条に締めるべくふり被っているのでありますから、受けのもう片方の手は何の拘束も受けていないのであります。これは仕手の両手が塞がっていて受けの片手が空いている関係であって、条件に於いて仕手の方が不利となっているのであります。受けの空いている片手の有効性を奪う意味でも、両者の間合いが二ヶ条に取った受けの肘が伸長しきらない程度に、しかし適度に離れている事が必要になってくるのであります。この間合いの距離感を習得すると云う意味でも、受けの不用意で己が役割を失念した動作は組形稽古には何も寄与しないと云えるでありましょう。
 次にふり被った太刀を真っ向に切り下すようにして二ヶ条或いは二教の締めを受けに施しますが、切り下しの時に前脚の膝はあくまでも緩やかに前に迫り出すように動かして、その迫り出しの分、前足を受けの爪先近くまで摺り足に進めてつめ寄ります。締めを施されて受けの体が下に崩れて膝を着く動きと、仕手の二ヶ条或いは二教の締めの動作が同調していないと、受けの肘肩に緩みが生じて受けの立ち直りを許して仕舞いますし、仕手の締めを施す力が効率的に受けに伝わらないでありましょう。これが第三挙動目になります。
 「片手持ち二ヶ条抑え(一)」或いは「片手取り二教(表)」とは違って、受けは自分の前から逸れた位置に在る仕手の体の前に巴の軌跡を踏んで回りこんで、仕手の手首を取った時点の優位であったはずの関係性を回復しようとするのが「(二)」或いは「(裏)」の受けの現状況回避動作であります。依って「(一)」或いは「(表)」の場合のように自分の背面方向を指向して仕手から離れようとするのではなく、右手を二ヶ条に締められている場合なら自分の左側方向に進み動いて仕手の正面に回りこもうと企画するわけであります。
 この受けの動きの起こりを捉えたら仕手はその受けの指向を妨げる事なく、受けの右側面に大きく回りこんで前に回ろうとする受けの指向を利用するように、その体を自分の螺旋状に沈む回転動作に巻きこみ結果として受けを俯せに制するのであります。この時二ヶ条或いは二教の締めに緩みがないなら、受けの肘は屈曲した儘あたかも仕手に持ってくれと云わんばかりに上方に迫り上がってりきます。仕手は左手でこの受けの肘を自分の前で制圧的に保持し、それに依って受けの肩の自由を剥奪し、その肩が回転に受けが巻きこまれるその動きの先導をするように操作するのであります。これがこの技の第四挙動目であります。最終的な二ヶ条或いは二教の抑え動作は「(一)」「(表)」の場合と同様となります。
(続)
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合気道の組形稽古について 10 [合気道の事など 2 雑文]

 ここまで述べた技で、受けは「(一)」或いは「(表)」の技の組形の場合には、つめ寄ろうとする仕手と間合いを取るために後ろに下がっていこうとする指向があり、それに乗じて仕手は前に向かって進むと云う「呼応性」を以って技を施していると云えるのであります。また「(二)」或いは「(裏)」の場合は、受けは前に押し出ようとしてそれをいなされて側面に回りこまれた仕手に対して、巴に回って追うような軌跡を取りながら接触時の「先」の状況を回復せんと指向し、仕手はその受けの自分を追う動きを、矢張り回りながらいなし続ける中で技を施すと云う「呼応性」によって制圧を成立させているのであります。
 この仕手と受けの相互の関係性を同調せしめるための稽古が組形稽古であります。依って受けがその理合いを仕手以上に充分認識した上で、無用な対抗性を発揮する「邪心」なく協力的に稽古に臨まなければ、組形を稽古する意義はないと云えるでありましょう。

 これまでは抑え技の例でありましたが、次に投げ技の場合を挙げてみます。先ず「片手持ち側面入り身投げ(一)」或いは「片手取り呼吸投げ(表)」と云う技の場合を例とします。右相半身で対峙して、受けが右手を以って仕手の左手を取って引いた場合であります。
 受けは前に述べた「片手持ち二ヶ条抑え(一)」或いは「片手取り二教(表)」と同様に体軸の動きを用いずに、仕手の手首を持った腕の肘の屈曲と肩の伸展動作に依って仕手を自分に引きつけるように引きます。仕手は受けの引く動作の起こりを察知したら同調して手の密着を保持した儘、その手を引かれる儘に掌が上を向くように螺旋に前に出し同時に右前足を受けの右前足爪先近くに、摺り足で足部内側を仕手の正中線に対して直角を取るように進めながら重心を下げます。この時仕手の後ろ足は右前足の進んだ分爪先立ててそれを追い進み、膝を柔らかく適度に屈する事に依って上体の安定した重心の下げを確保します。
 仕手の右前足首が外回りして横を向く分、仕手の上体は正面から四十五度以内の角度を自然に取ります。尤も、補足的に云えば足関節及び膝関節は外旋しませんので、この右前足の形状は股関節の屈曲外転外旋運動に依って引き起こされています。とまれ、この角度に依って、自分の左肩の前に突き出した手も同じように受けの正面からやや角度を取っていますので、受けの引くその肘は屈曲して内に入るような軌跡に変容されるのであります。
 この時受けの肩は肘が屈曲して内に入る動きにより内転外旋を余儀なくされ、その儘上体が正面を向き続けるには窮屈な姿勢を強制されます。依って受けは体を横向きに変更しながら後ろ足をやや後方に下げて体の余裕を確保しようとします。これが第一挙動目です。
 次に受けは尚も、仕手に正対しながらその手首を取った接触時の自分の有利な状態に体勢を復元するために、先に後ろ足を下げた分前足を後退させて間合いを取りながら構えの歩幅に復し、横向きになった体を仕手に対して正対するように立て直そうとします。この受けの復元動作の起こりを察知したらその動きにやや先んじるタイミングで、仕手は膝を屈して爪先立った後ろ足で地を蹴るような要領で、受けの背面方向である左斜め前方に歩み足に大きく一歩、側面から受けに自分の体を密着させて絡みつくように踏み出します。持たれた手はその形状で前に出した儘に体の前進にあわせて受けの体上を滑り進み、受けの体が反るように誘導し、もう片方の手も前に出して段違いに受けの側腹部辺に添えます。
(続)
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合気道の組形稽古について 11 [合気道の事など 2 雑文]

 仕手が屈して爪先立った後ろ足で地を蹴るように歩み足に踏み出す時、受けの爪先前に横に踏んでいた前脚は膝の伸展と同時に、股関節が伸展及び内旋運動を自然に引き起こしますが、この股関節の運動が体の推進に対して適切に連動するとかなり強力な体勢の維持効果が発揮されます。これは体のぐらつきを除去して体幹の安定を保障しますので自分に絡んだ受けの体に影響されない、技を支える正しい姿勢の維持に強力に資するものであります。この股関節の運動を動作に連動させるのも重要である事を云い添えておきます。
 受けはこの仕手の第二挙動目の動きによって復元を期してまさに動こうとした刹那、仕手に先んじられて腰が浮揚し体が反らされ、体勢の崩れが復元不可能な状態にまで持ちこまれて仕舞うと云うわけであります。それでも受けは尚もこの決定的に不利な状況からの脱出を画策します。それは仕手の体の密着から離れて体勢を整える事であります。
 受けは反った自分の体の重心が乗っていない左脚は未だ一定の股関節の自由度を失っていませんので、それを仕手から離れる方向、つまり自分の斜め後方に下げようと試みます。しかしこの動作は受けの左股関節が最大伸展する事になり、受けはここで体勢復元の意図に反して、体の運動可動域が限界となって反身になった儘、完全に姿勢の柔軟性を喪失して仕舞う危険を内在させています。また当然その動作を起こす時に軸脚たる右脚一本で、崩れた体を支えなければならない状況を発生させて仕舞う事にもなるのであります。
 この受けの急場の足掻き的な動きを察知したら、仕手はその受けの後方に送り出そうとする左足の動きの起こりに同調して、左前足の膝を前に迫り出しながら受けに下方向の圧力をかけて受けの上体が起き上がるのを阻止します。と同時にこれも膝の迫り出しを利用して重心の浮きなく左前足から継足に前進して、受けの体の上に翳していた腕を受けの体の崩れに従って下に切り下します。段違いに受けの側腹部辺に添えていた右腕も左腕の動きに同調させます。体の前下方への推進と両腕の切り下しに依って受けを前方に崩し投げるのであります。これがこの技の最終動作たる第三挙動目、投げの完了動作であります。
 この投げる時に仕手は前脚の膝を固めないで柔らかく屈曲して、また両腕が受けの体を過度に押さえつけないようにして自分の体が上方に浮かないように留意します。硬い構造の体から繰り出された投げよりも、柔らかい撓りのある体から発動された投げの方が威力は高いので、仕手は体の強張りを極力排して腕力任せの投げにならないように自制します。また、投げ捨てた後に受けの動きを注視し、掌を上に両腕を前に出した残心をとります。
 受けも矢張り体の力みを排して柔らかい受け身を心がけます。投げ技の場合は特に体に強張りがあると受け身を失敗する危険性があります。股関節最大伸展位でその儘股関節を固めて投げを受けると体は地に叩きつけられますので、仕手の前下方に投げる動きに乗って左脚を斜め後方に下げたらすぐに腰を落とすようにして股関節の緊張を緩め、斜め後方に接地した足のすぐ近くに腰を落とし、体を丸くして転がるように後方受け身を取ります。
 ただ受け身を取った後、後ろへ転がった軌跡をまたその通りに辿って前に転がり戻ると、残心を取っている仕手の手中に再び入る事になりますので、仕手から離れる位置に素早く起き上がって仕手の次の動きに備えます。また、後方受け身を取っている最中も仕手を必ず視界に捉え続け、仕手に対して常時背中を向けないような身ごなしを心がけます。
(続)
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合気道の組形稽古について 12 [合気道の事など 2 雑文]

 組形稽古に於ける受けの役割は仕手の崩しに対して如何に上手くその崩しに嵌るかと云う一点であります。受けが上手に仕手の意図に嵌らなければ仕手は変化を余儀なくされて、組形稽古の狙いである典型の反復により同調性を錬ると云う稽古にはならないのであります。特に投げ技の場合はどのようにして同調しながら動いて受けを最大崩しの姿位にまで持ちこめば、その後に続く投げが容易であるかと云う体感を得るための経験の積み重ねが重要なのであります。最大崩しの姿位まで持ちこめずに投げを敢行すると、結局徒に力に頼ってみたり自分の姿勢が合理でなくなったりと云った不完全性をその儘温存する事になり、合気道の根幹である「呼応性」を錬るための同調的な動きの習得を妨げて仕舞います。

 では次に「片手持ち側面入り身投げ(二)」或いは「片手取り呼吸投げ(裏)」と云う技の場合を考えてみましょう。この技は先に述べた「片手持ち側面入り身投げ(一)」或いは「片手取り呼吸投げ(表)」の接触時の受けの仕かけが押す場合であります。ここでも判り易いように仕手の左逆半身から受けが右手で仕手の左手を持って押すと云う仮定にします。
 この場合も「片手持ち二ヶ条抑え(二)」或いは「片手取り二教(裏)」の時のように、受けは体全体の前への推進力を腕を介して仕手に伝えるような押し方を心がけます。この時仕手もやや押し返し気味にして受けの押す圧力を充分に引き出しておきます。これは接触点の密着を強固にして仕手の肩と腕の動きを緩みなく受けに作用させるためで、受けの腕と仕手の腕が一本に繋がっているような状態を現出させるためであります。
 仕手は受けの押す力を利用して左前足を軸に右回りに回転して受けの正面から体を回避させます。この時持たれた手が離脱しないように接触点に力みを加えないで、肩を軽度伸展(肩の力を抜くようにして腕をその重みの儘下方に落とす運き)して、同時に前腕の回外する動き(掌が上に丸く返るような動き)を使って前に押す受けの圧力を回転動作に吸収するのであります。仕手の手首を握る受けの五指に無用な攻めを加えずに、寧ろ受けの掌の中心への密着を切らないようにしますが、これは持つために力を入れている指に対抗力を感じると、受けはその指へのプレッシャーを嫌って手を放して仕舞うからであります。
 受けは仕手の手首を持って前に押す力が逸らされるので右前足が前方に踏み出て仕舞います。密着している仕手の手首から自分の手が離脱していないので仕手の体の回転と前腕の回外運動に依り、肩の内転外旋と肘の屈曲運動を引き起こされて体勢を右に傾けながら前に踏み出す事になるのであります。受けはその仕手のつくりに抗わずに仕手の動きに乗って腰から浮き出るように一歩前に出ます。これがこの技の組形の第一挙動目であります。
 窮屈な形状を強いられた肘肩の作用のため不安定に右に上体を傾斜させながら前に踏み出た受けは、この頽勢をめぐらすために踏み出した右足を軸に矢張り右回りに後ろ足を追い継いで、仕手の後を追うように同側回転して体勢を立て直そうとします。最初の接触時に「先」として片手を取って仕手の正面に対峙した元の状況に復そうとするのであります。
 この技の場合特にこの受けの状況回復動作が重要であります。腰が浮き前に一歩誘い出され肘肩がつまって右傾斜して崩れた姿位の儘向き直ろうともせず、次の仕手の動きをじっと待っているようでは、仕手と受けの同調を稽古している事にはならないのであります。
(続)
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合気道の組形稽古について 13 [合気道の事など 2 雑文]

 仕手は受けのこの状況回復動作の起こりを察知したら、その動きに同調しながら前足を受けの背後に踏み出し、持たれている左手を前方に伸ばすように進め出して、向き直ろうとする受けの鎖骨から顎の部位に接触を持ち、同時に受けの体の向き直りの勢いに対して接触した一点を以って抗するのではなく、寧ろ受けの体上を腕が滑って、真っ向からの勢いのぶつかりを回避しながら体同士の自然な密着をも使って受けが仰け反るように誘導します。受けは右傾斜を解消して仕手に正対するべく向き直ろうとする動きを利用されて、結果として仰け反って体勢の崩れが復元不可能な状態にまで持ちこまれて仕舞うのであります。これがこの技の第二挙動目であり、仕手と受けとの間に起こる運動関係であります。
 後の投げは「片手持ち側面入り身投げ(一)」或いは「片手取り呼吸投げ(表)」と同じで、姿勢の正しさと前に出して受けの体上に被せた両腕の力みのない制圧力を利かせた儘、前脚の膝を緩ませるのを始動として、継足に大きく前進しながら撓やかに両腕を切り下して受けの体を投げ捨てます。残心も「(一)」或いは「(表)」と同様であります。
 受けの受け身の取り方もその後の起き上がり方も同じ要領で、仕手の投げに乗った柔らかい後方受け身を取ります。これが第三挙動目の投げの完了動作であります。
 この技は仕手と受けの同調が非常に良く表現される技であり、同調性とはどう云うものか、それに同調して受けを制するためには如何に仕手の安定した姿勢と強い体軸が必要か、また「後の先」の同調的な動きとは如何なるものかを納得出来る技であります。その意味に於いても受けの稽古上の技量がはっきりと表れる技だと云う事が出来るのであります。
 受けは組形の上での単なる「やられ役」ではないのであります。派手に崩れて見せて仕手の投げを見栄え良く支えるために受けがあるのではなく、仕手の正確で、合理であり、安定していて乱れのない、撓やかな、然も確固たる同調性を体した動きを磨くためにこそ在るのであります。先に云った事でありますが組形稽古とは殺陣でもなく舞踏でもなく、況してや小賢しい思いつきの動きで相手をする者や大向うを唸らせる見世物でもなく、相手の裏をかいて悦に入る武道ごっこでもなく、力を捏ねあう筋肉トレーニングでもないのであります。それは偏に合気道の特徴たる「呼応性」を錬るための稽古なのであります。
 組形稽古を倦まず繰り返す事を通して、合気道と云う武道の技がどのような理合いで成り立っているのかが自ずと理解出来るようになるでありましょう。またそれは合気道以外の武道との差異を研究する事でもあり、徒に自己賛美に陥る事なく、多の中の一たる合気道と云う武道の優位性も欠点も、自然な道筋として見えてくると云うものであります。勿論、真摯に取り組めば、と云う前提はここで敢えて云うまでもないでありましょうが。
 今まで述べてきた幾つかの技の「(一)」或いは「(表)」と「(二)」或いは「(裏)」の区別も、仕手が接触後に恣意的にそれを選んでいるのではなく、受けの動きに「呼応」しているが故に仕手の無理のない同調性が必然的な流れとしてその技を選択する事になるのであります。例えば片手持ちの技で接触時には引いているのに第一挙動目の後に受けが急に押すような力を出すに転ずれば、仕手はそれに「呼応」して自ずと第二挙動目からは「(二)」或いは「(裏)」に変化するべきであります。ただこうなると組形稽古から逸脱して稽古の実質が変化の対応稽古に変容して仕舞いますので、組形稽古では戒めるべき事であります。
(続)
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合気道の組形稽古について 14 [合気道の事など 2 雑文]

 組形稽古は合気道と云う武道の特性を動きの中で体得する基本稽古であり、その後に展開するべき極めや締めを鋭利に磨く稽古、変化即応の稽古、恣意の攻防の中で合気道技を繰り出す稽古、「先の先」の稽古、崩しや「先の先」を保障するために有効な当身の稽古等のための、合気道的な自身の体と感受性とを錬る稽古であります。そう云う組形稽古の意味を喪失したり曖昧な儘繰り返していては、武道的に得るものは少ないでありましょう。

 さてここで、これまで各技のところで付言してきた事の繰り返しにもなって煩わしいでありましょうが、もう一度組形稽古について整理しておきたいと思います。
 合気道と云う武道の特性は「呼応性」であり、相手と対抗的に力を「争う」或いは「競りあう」のではなく、同調的に「争わない」或いは「競りあわない」で、「気を和する」ような動きを積極的な意味に於いて展開しながら相手を制しようとする武道であります。依ってこの「呼応性」を錬るために、一定の約束の下に行う組形稽古を繰り返す事で合気道の特性を我がものとするとともに、合気道のすべての技に通底する理合いの意味を明確化出来るのであります。組形稽古とはそう云う意味に於いて合気道と云う武道の基本中の基本稽古であり、依って我々は日常的にこの組形稽古を主要な稽古としているのであります。
 組形稽古が「呼応性」を磨くための重要な稽古であるなら、受けの意識の在り方とそれに依拠して与えられた役割が稽古の実質を支えているのであり、云ってみれば受けが組形の開始から終了までを一貫して主導しているとも云えるのであります。ですから受けは単なる「やられ役」等では決してなく、有利から不利へと変化した状況をまたすぐに有利へと立て直すべく動かなければ、それに「呼応」すべき仕手の動きも展開出来ない事になるのであります。受けは組形の意味を仕手以上に理解していなければならないのであります。
 また受けは仕手の状況に合致しない動きや力を感知したならそれを無言に仕手に伝える役割も有していて、仕手はその受けの示唆を感得したら即座の修正を躊躇ってはならないのであります。仕手と受けが協力的な心性ではなく相手に対して対抗的な「邪心」で稽古に臨めば、組形稽古の質は格段に低下して、組形稽古が有している高度な武技展開上の相互関係性を深化させる事の出来ない怠慢な「合気道遊び」となって仕舞うでありましょう。
 組形稽古が殺陣でも舞踏でもない事を保証するのは、仕手と受けの組形稽古の意義に対する認識なのであります。依って相互に協力的ではあっても決して稽古に緊張感の喪失がなく、相手への狎れもなく技への狎れもなく、武道稽古とは何の関係もない和気藹々とした社交性も娑婆っ気も当然なく、意欲の減退もなく行わなければならないでありましょう。
 合気道の力は「集中力」であるとは塩田剛三先生の言葉であります。この「集中力」とは、錬りに錬った体全体の力を武技を発露する一点より「集中して発揮する」力と云う、合気道独特の意味を有する表現でありますが、一般的に「集中力」と云うと、対象への注意や意欲を持続すると云う「集中するために必要な」力、と云う謂いになります。組形稽古に於いて先ず求められるのは、一般的な意味で使われるところの「集中力」であります。依って合気道に然程熟達していない初心者でも「集中力」を以って合気道の組形稽古に臨む事が出来るのであります。まあこれは、蛇足と云えばそうに違いない付言でありますか。
(続)
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合気道の組形稽古について 15 [合気道の事など 2 雑文]

 では組形稽古をどのように実践していくかと云う点でありますが、先ずは各技、第一挙動目、二挙動目、三挙動目・・・、と挙動目毎に立ち止まって動きの同調性を確認しつつ、始動から終動までを通すと云う形式で行います。仕手は体の安定を心がけながら受けの動きとズレが生じない事を専らに動作を進めます。仕手が受けの動きに遅れると一瞬引きあいや押しあいと云う対抗性が生じますので、これを挙動中から除去していく事を心がけます。ですから最初は早い動作で行わずに、受けは努めてゆっくり挙動毎の役割を果たします。
 この形式で同調性が一定程度まで錬れたら、今度は矢張りゆっくりとした動きで挙動目間の動作間隔を次第に縮めていきます。そして最終的には第一挙動目、二挙動目・・・、と区切って挙動間に途切れ目を設けないで技の始動から終動までを一連の動き、云ってみれば総ての動きを一挙動に纏める事を目指します。しかしあくまでも仕手は受けに「呼応」して動く事が肝要であります。ですから最後まで、ゆっくりとした動作で技を完了させます。
 その後に今度は一連の動きに速度を加えます。受けがその速度を主導し、仕手はそれに同調する事に専心します。速度が増していくと次第に同調性が崩れ易くなり、互いの対抗性が増大していきます。ここで稽古者同士の個々の組形稽古に対する真摯さと認識の深さが問われます。受けに仕手を翻弄してやろうと云う「邪心」が出たり、仕手が自分の低い同調性に焦れて、受けの体勢回復動作の起こりを未だ感得しないのに先走って動いて仕舞うと云う組形の崩れであります。そうなると組形稽古の意味は何時しか雲消霧散して、ここからは稽古ではなく、実質のない武道ごっこと云う遊びが始まって仕舞うのであります。
 あくまでも仕手は自分の「呼応」力を磨くのだと云う真摯さを散逸させる事なく、また受けはその仕手の真摯さに見あうだけの、質の高い受けとしての役割を担っていくのだと云う気概を喪失せずに、互いのこの真摯さと気概をそれこそ同調させて組形稽古に取り組まなければ、合気道の上達を得る事は難しいでありましょう。またそう云った稽古を専らとするからこそ、理念的な意味に於いても「争わない」或いは「競りあわない」で「気を和する」ところの「愛の武道」としての心骨を養成出来るのでありましょうから。まあ、合気道界を俯瞰すると、この理念からは程遠い現実が一部にあるようでありますが。・・・
 それからこの一文で時に使用した「後の先」とか「先の先」或いは「先先の先」と云う事について少し述べておきます。これは武技の発動に於ける主に初動の機微を表現した言葉でありますが、相手の攻撃の動きの起こりを捉えて「先」を取るのが「後の先」、相手の攻撃の気持ちの起こりを捉えるのが「先の先」、攻撃以前の相手の「殺気」「邪気」を捉えるのが「先先の先」であるとします。剣術の長い歴史の中で覚悟された必勝術であります。
 また一方、植芝盛平大先生の言葉に「先」をその様に分けてはならないし「合気道の先は一つで最初からこちらが既に勝っている」とか「こちらが動いた時にはもう終わっている」とかと云うものが伝わっております。これは対峙時の相対的な駆け引きに捉われないで絶対的な位相に在れと云う大先生の教えであり、大先生の余人の為し得ない厳峻な修行の果てに到達された境地であります。しかしその大先生の境地を客観に捉え変えれば、奥村繁信先生が指摘されるように、これは見事な「先先の先」であろうと思うのであります。この「先の先」「先先の先」の稽古が「後の先」たる組形稽古の先に在るのでありましょう。
(了)
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関節運動等の呼称について 1 [合気道の事など 2 雑文]

 合気道の事に関して前に記述したものとの関連から、大まかな関節等の運動学的な語句の解説の意味でこの一文を設けます。「股関節の伸展」とか「肩の内転」とか云う語句に対して、それがどのような運動を意味するのかよく判らないと云う指摘があったためであります。合気道の動きに主要となる関節及び身体部位の運動形態を指示する用語であります。

 先ず「正中線」でありますが、これは人体を正面から見て二次元で左右に等分割する線であります。また人体を横から見てこれを前後に二分割する線は「前額線」であります。当然人体を三次元の立体で捉えれば「正中面」「前額面」となります。
 また直立姿勢で「正中線」は「体軸」及び「重心軸」と重なりますが、「前額線」は必ずしも「重心軸」とは重なりません。ここで云う「体軸」とは動き或いは様々な姿勢の中で人体を前後左右に等分する線で、「重心軸」とは人体の重心の乗っている線であります。
 人体はやや前重心に在るので、頭頂部やや後ろから発した「重心軸」は足首やや前で、地表に対して垂直に落ちます。人は自然状態では少し前傾して立っていると云う事であります。一方「体軸」の方は地軸に対して有角度であっても構わないと云う事であります。また「重心軸」上の仙骨三番辺の高さに重力の中心があります。これが「重心点」であります。「臍下丹田」と云われている部位は、要はこの「重心点」なのでありましょう。

 頸の運動では、俯くように頸を垂れるのが「前屈」或いは「屈曲」、上を向くように動かすのが「後屈」或いは「伸展」であります。頸を左右に回し捻る運動は「回旋」で、右を向くのは「右回旋」で、左を向くのが「左回旋」となります。また頸を傾げるように横に倒す動きは「側屈」で、右に頭を倒すのが「右側屈」、左に倒せば「左側屈」であります。

 腰に関しては、お辞儀するように上体を前に倒す動きが「前屈」或いは「屈曲」で、上体を後ろに反らすような動きが「後屈」或いは「伸展」となります。腰部を軸に上体を左右に回し捻る動きが「回旋」であり、右方に回すのは「右回旋」、左方に回すのは「左回旋」となります。また上体を左右に倒す動きは「側屈」と云い、右方に倒せば「右側屈」、左方に倒せば「左側屈」であります。また腰の動きとは云っても、それは骨運動としては腰椎、仙骨、腸骨、場合に依っては大腿骨や肋骨等の運動が微妙に連動する動きであります。

 肩甲骨の動きとしては、腕を前に突き出して伸びをするような、左右肩甲骨間を開くような動きが「屈曲」又は「外転」、胸を張るように両肩甲骨を寄せるような動きが「伸展」又は「内転」、首を竦める時のように肩を持ち上げる動きが「挙上」、肩を下げる動きが「引き下げ」、腕を横から上に挙げるような時に同調して回る動きが「上方回旋」、持ち上げた腕を横から下げるような時に同調して回るような動きが「下方回旋」であります。しかし肩甲骨の場合動きの連動性が高く、「挙上」する時に同時に「上方回旋」も行われ、「引き下げ」の時に「下方回旋」が同時に引き起こされます。また肩甲骨は肋骨の上に、靭帯に依って貼りついているようなもので、動きの大きさはないにしろ自由度は高いと云えます。
(続)
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関節運動等の呼称について 2 [合気道の事など 2 雑文]

 肩は腕を前に挙げるような動きが「屈曲」、後ろに挙げるのが「伸展」、外横側に挙げるのが「外転」、内側に動かすのが「内転」であります。上腕を体側につけて肘を曲げて前腕を外側に動かす動き、丁度横にいる相手に裏拳で当身を入れるような動きで肩は「外旋」に動き、上腕を体側につけて肘を曲げて前腕を内側に動かす動き、前にいる人の額を肘を曲げた状態で掌で引っ叩くように動かせば、「内旋」の動きをすると云う事であります。

 肘を曲げるのは「屈曲」と云う動きで、肘を伸ばすのは「伸展」と云う動きであります。腕を水平に上げて行うと「屈曲」が「水平内転」、「伸展」が「水平外転」であります。ここでは「屈曲」と「伸展」のみ使えば煩わしくないでありましょう。肘の運動はこの二方向のみでありますが、多少「外転」「内転」方向に遊びがあります。

 前腕の動きは、上腕を脇につけて肩の動きを固定した上で、掌を上に向けるような動きが「回外」、手の甲を上に向けるような動きが「回内」であります。「回内」運動の時には橈骨と尺骨は交差します。合気道で四ヶ条を締める時に用いる前腕の螺旋運動であります。

 手首は掌側に曲げれば「掌屈」或いは「屈曲」、甲側に曲げれば「背屈」或いは「伸展」となります。また親指側に横方向に曲げれば「橈屈」、小指側に曲げれば「尺屈」です。「橈屈」とは橈骨側に動かすから、「尺屈」は尺骨側に動かすからそう云われるわけであります。「橈屈」「尺屈」は「屈曲」「背屈」程の可動域の大きさはありません。

 股関節は脚を前に上げれば「屈曲」、後ろに上げれば「伸展」と云う運動が起こり、外横に開けば「外転」内横に動かせば「内転」、内股にするように捻れば「内旋」、外股ならば「外旋」と云う運動が起こります。股関節は身体運動を支える土台の強さに関わる関節であります。依って柔らかで可動域を広く取れるようにしておく事が重要でありましょう。

 膝は折り曲げるのが「屈曲」、伸ばすのが「伸展」であります。この二方向だけでありますが、多少「外転」「内転」「外旋」「内旋」の遊びがあります。上肢の肘と違って、膝は半月板があったり膝蓋骨があったり、関節内に前十字靭帯や後十字靭帯があったりと複雑な構造を持っています。これは股関節と連動しながら、重量と身体運動を支えるために、膝が如何に重要で微妙な役割を担っているかを左証するものでありましょう。

 足部は、空手の後ろ蹴りをする時のように、踵を突き出すような動きが「背屈」で、上足底或いは爪先に依る前蹴りのように足先を伸ばすのが「底屈」であります。また足刀蹴りのように小指側エッジを突き出すのが「内返し」或いは「内反」、その逆で小指側エッジを持ち上げるのが「外返し」或いは「外反」であります。

 他にも多々ありますが、後に書くであろう稿のためにこの程度補述しておきます。
(了)
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合気道の脅威のパワー(?) 1 [合気道の事など 2 雑文]

 ほんの軽く相手の手首を握っただけで相手の腰が浮揚し、後ろに崩れて昏倒して仕舞うとか、無造作に触れられただけであるのに、或いは触れられもしないのに「気」或いは「呼吸力」に依って吹き飛ばされて仕舞った等と云う「夢のような」逸話を、時々合気道やそれに類した武道の中で散見する事があるのであります。果たしてそう云う事は既成の合気道の修錬を続けていればいずれ可能になるのか、合気道にはそんな秘めたる信じられない「効能」が本当にあるのか、ここは閑暇があれば少し考えておいても良いかも知れません。
 現象面でそう云う事が起こる可能性はこれは絶対ないとは云えません。またそう云う現象に依って合気道の理合いを、大向こう受けを狙って、慎に「大雑把」に説明解説しようとする手段として用いる場合もあるでありましょう。いやひょっとしたらひょっとして本当に、まあ、仕手と受けの暗黙の了解とか、阿吽の呼吸とか、麗しき師弟愛とかではなく、事前の打ち合わせもなしにそう云う現象をいとも簡単に可能ならしめる「達人」がいるのかも知れません。しかし何れにしても、何の納得出来る「ちゃんとした」合理性も示さず、単に「あっと驚く」現象だけを示して得意になっているなんと云うのは、これは大いに「無粋」であり、合気道家にあるまじき「不親切さ」であると云うべきには違いありません。
 腰を狙って技を施すとか、腰に効く技を施すとかはよく云われる事でありますが、確かに重心点としての腰を崩せば、その後に相手を転倒させる「処理」は案外簡単に可能であるのかも知れません。一瞬にして腰に技を利かせれば、上述したような「奇跡」も理論的な帰結として、やってやれない事はなさそうな気がしない事もないような、あるような。
 例えば二ヶ条或いは二教のような、直接的には手首に接触点を持つ技で、その接触点に施したパワーをいきなり腰に伝えると云う事は、相手が彫像のような無関節の硬い構造物なら簡単でありましょうが、多関節の柔らかい構造体たる人体には些か手に余る仕業と云うものであります。多関節であると云う事は手首から肘、肩、肩甲骨、鎖骨、胸骨、肋骨、十二個の胸椎、五個の腰椎、仙骨、腸骨とこれだけの骨格に緩みを許さず、一定の力を伝播し続けなければならないのであります。この経路を総て固めておくのは至難であります。
 腰に効かせる技とは直接的に相手の腰を狙ってこちらの技のパワーを到達させるのではなくて、多関節構造体である人体の一部に受けた力が関節の連動性を介して、ある関節の安定が崩れたらそれが次の関節の安定を崩し、そうやって必然的に次々に波及する構造を利用したところの、間接的に腰にまで到達するような仕組みを持った技なのであります。
 二ヶ条では手関節に加えられた力が、前提として相手の肘及び肩関節の遊びが除去されていると云う条件の下に、直接攻撃点である手首に無駄なく伝えられて、その相手の極められた手首の崩れが肘に遺漏なく伝播し、その肘の窮状がまた肩の崩れを誘発し、肩の崩れが上体の前にのめる動きを誘い出し、その結果として不安定化された重心点が自ずと下に落ちると云う作用が現出するのであります。手首から直接的に相手の腰にこちらのパワーが作用しているのではなくて、あくまでも相手の人体的構造を通じて結果として終着的に腰にまで影響するのであります。依って始めから直接腰を狙う二ヶ条或いは二教と云うものは、人体構造上至難と云う事になるのであります。強いて云えば、それはあくまでも攻撃着眼のレトリックとしてそう表現されていると云う事を理解すべきでありましょう。
(続)
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合気道の脅威のパワー(?) 2 [合気道の事など 2 雑文]

 四ヶ条或いは四教と云う技にしても前腕の脈部に力を加えられた場合、その作用に依って肘が上方に突き上げられ、それが当然骨格の連動として上腕骨を通じて自分の肩甲骨を上に吊り上げると云う運動を引き起こし、それが肋骨を挙上させ、その肋骨の挙上が胸椎腰椎を通じて仙骨を浮かせ、依って結果として重心点を浮揚させる事になるのであります。
 要するにこちらは始めから相手の重心点たる腰に、直接的に狙いをつけているのではないのであります。あくまでも四ヶ条或いは四教と云う技に於いては、直接の狙いは相手との接触点である前腕の脈部にあるのであり、注意点として精々、肘と肩の緩みが除去されているか、と云う範囲より遠くには必要以上に意を用いる事はないと云う事であります。
 前述の二ヶ条に於いても直接作用部位である手関節を効果的に攻撃すれば、まあ、あくまで効果的に攻撃すればでありますが、相手の骨格構造を通じて、自ずとこちらの力は相手の崩すべき腰に間接的に影響すると云うわけであります。言葉を変えるなら、一点に力を受けた相手が、自分の人体である事の避け難さに依って自分で自分の腰を崩しているのであります。考え方としても様々な経由部位や経由関節の遥か先にある腰を直接目指すよりは、稽古上簡素な考え方となるでありましょうし、修錬もし易くなるでありましょう。
 よく感想として「二ヶ条を極められたら一気に腰から力が抜けて膝がストンと落ちた」とか「掴まれた瞬間全身が痺れたように動かなくなった」と云う表現が、一種の合気道の技の驚異性や神秘性、或いは他武道に対する圧倒的優位性を強調するために大袈裟に喧伝されたりするのでありますが、先にも云ったようにこれは現象面でそのような事が起こる可能性は敢えて否定しません。しかしこれも何度も云うように、多関節の柔らかい構造体である人体に、そのような物理力はそうそう簡単に及ぼせるものではないでありましょう。
 まあこれも敢えて解釈すれば、物理的構造物としての身体にそのような技を施していると云うよりは、もっと別の心理面でのある種の作用が必要以上に働いているからこそ、そう云った驚嘆に値する技が現出する事があるとは思うのであります。それは「恐怖心」であるとか「混乱」であるとか、或いは「畏怖」であるとか「遠慮」であるとか、序に、シニカルな云い方を繰り返しますが、仕手と受けの暗黙の了解とか阿吽の呼吸とか、麗しき師弟愛とか云う要素も含まれるのでありましょう。また自分が修錬している合気道と云う武道に、そうあって欲しいと願う「贔屓目」の発露と云う心性も考えられるのであります。
 確かに心理的側面は「勝負」の重要な要素ではあります。ですから武道家が仏教の禅に近づいたり、道教的無為の境地を求めたりするのであります。しかし禅的な悟りを開いたり、無為の境地を我がものとしたとしても、それが「勝負」に勝てる直接的絶対的根拠にはならないでありましょう。寧ろ「勝負」と云う世界とは違う地平に向かう事になりそうであります。まあ、若しそんな悟りや境地が「勝負」に必勝する事を保証するのならば、武道家は武技の修錬からきっぱり足を洗って、今すぐ滝に打たれに行くべきであります。
 少し話が脱線しましたが、要は我々は多関節で柔らかい構造体であり、それを筋力で統御している、そのような人間の身体を先ず以って武道的な相手としているのであります。精緻である人体を、思うが儘に操れると云う幻想を先ずは捨てるべきでありましょう。それを捨てたところから、我々の武道的な修練や試行錯誤や工夫が始まるのでありますから。
(了)
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