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枯葉の髪飾り 4 創作 ブログトップ

枯葉の髪飾りⅩCⅠ [枯葉の髪飾り 4 創作]

 病室の窓ガラスを手で拭って夕暮れのどんよりと曇った外の様子を眺めてみると、積る程ではないにしろ綿のような雪が舞っているのでありました。
「雪の降ってきたばい」
 拙生はベッドの上に足を投げ出して座る吉岡佳世に云うのでありました。
「積るやろうか?」
 吉岡佳世は何時もは後ろで束ねている髪をその日は下ろしていて、肩の辺りでその長い髪の先を指で弄びながら云います。
「いや、こんくらいなら積ることはなかやろう」
 拙生はそう返して手で拭った扇の形なりに見える窓の外に再び目を遣るのでありました。
「明後日から、三学期ね」
 吉岡佳世が云います。その彼女の言葉に自分が同級生と一緒に三学期を迎えられない寂しさが忍んでいるように感じて、拙生は無性に彼女が可哀相になってくるのでありました。彼女の顔を見るのが辛くて、拙生はうんとだけ返事をして窓の外を見続けます。常緑樹の葉群れが何度も項垂れるように枝を揺らしているのは、海からの寒風が造船所のクレーンや建物群、それから裏の公園を抜けて吹きつけて来るからでありましょう。
 吉岡佳世の明日の手術を前にして、彼女よりもむしろ拙生の方が大きな憂鬱に圧しかかられているのでありました。当人はと云えば意外にさばさばとしている風で、まったく何時もの彼女と変わらないように見えるのであります。
 手術そのものは屹度成功間違いないのでありましょうが、それでも大手術には違いないのであります。それは吉岡佳世の華奢な体にとっては大変な負担に違いないのであります。それに彼女のお母さんから聞いた話によれば、彼女の胸には縦に大きな傷跡が残るのだそうであります。それも屹度彼女には重荷になるに違いありません。明日にその手術を控えていながら、彼女の普段と変わらない笑顔やその落ち着いた言葉つきが拙生には妙にいじらしく見えて、目の前の水滴に覆われた窓ガラスのように拙生の気分を曇らすのでありました。
「お前が髪ば下しとるところは、オイは初めて見るごたる気のする」
 拙生は努めて、どうと云うことのない話題を口に上せるのでありました。
「ああ、そうかね。そう云えば、そうかも知れんね。何時もは動いてて、髪の毛が頬に触るとがなんとなく鬱陶しいけん、後ろで束ねてるしね」
「その髪型も、その、なんて云うか、意外によかね」
 拙生がそう云って照れると吉岡佳世は口に手を当ててクスリと笑うのでありました。
「こう云う髪型、好き?」
「うん。なんて云うか、その、女らしか」
「小まめに動いたりとか、病院ではあんまりする必要のないから、束ねることもないとさ」
「ああ、そりゃそうね。」
「でも、勉強する時とか本読む時は束ねるよ、後ろに」
 吉岡佳世はそう云いながら両手で髪を後ろに纏めて見せるのでありました。
(続)
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枯葉の髪飾りⅩCⅡ [枯葉の髪飾り 4 創作]

 彼女が髪を後ろに纏めると、耳から顎にかけての緩やかな線とほの白く細い首が露わになるのでありました。吉岡佳世の首はこんなに細かったかしらと、拙生は彼女の首に視線を当てながら思うのでありました。入院したために少しやつれたのでありましょうか。いやまさかたった四日間でそんなこともないでありましょう。考えてみれば今まで拙生は彼女の首をしげしげと眺めたことはないのでありますから、その時改めて見た彼女の首の細さが妙に目についただけでありましょう。
「明日は、いよいよ手術か」
 拙生は努めて軽い口調でそう云うのでありました。「明後日になったらその体も、どこも悪かところがなくなっとるて思うぎんた、ちょっと嬉しゅうなってくるね」
「そうね、そうなればいいけどね」
 吉岡佳世が後ろへ纏めた髪から手を離して心細そうに笑うのでありました。彼女の髪がさらさらとまた元のように戻ります。
「おいおい、そがん頼りなか顔しとったら、だめばい」
 拙生は笑いながら彼女を窘めるのであります。「絶対克服してやる、て云う気持ちが大事て思うぞ。手術は間違いなく大丈夫やろうから、後は強か気持ちぞ」
 拙生はそう云った後頭を掻くのでありました。「ちょっと云い方の、偉そうに聞こえるかね、こがん風に云うぎんた。そがん積もりはなかとやけど」
「ううん、井渕君の云う通りて思うけどさ」
 吉岡佳世は真顔で頷くのでありましたが、まあ、拙生の言葉は、実のところ本人ならぬ身の無責任な言葉でしかないのであろうなあと拙生自身が思うのでありました。他人の激励とか云うものは、結局その程度の重さ(いや、軽さと云うべきでありましょうか)をしか持ち得ないものなのでありましょう。云い募るだけ、場合によっては当人を不快にさせるのかも知れません。黙っているに如くはないのかも知れませんが、そうなるとなんとしても激励したいと云う一方にある本心をどう始末すれば良いのでありましょう。
「どうしたと、あたしの髪に、なんかついてる?」
 拙生が彼女の長い髪の毛に視線を釘づけたまま黙りこんだのを不審に思ってか、吉岡佳世はその大きな瞳で拙生を見つめながら問うのでありました。
「ああ、いや、別に」
 拙生はどぎまぎとしてそう云います。「まあ、その、オイが手術ば受けるわけでもなかとに、ちょっと無責任に、軽々しい励ましば云うたかねて思うて、反省しとったと」
「ううん、そんなことないとよ。井渕君に励まされるの、あたし好きよ。力の出るもん」
「そうやろうか」
 拙生は頭を掻くのでありました。「そんなら、お言葉に甘えて、もう少し励まそうかね」
「うん、励まして」
「こがん云い方は、傲慢に聞こえるかも知れんばってん、頼むけん、オイの為にも手術ば乗り切って、元気な体になれよ、屹度」
 拙生はそう云って、照れて、また頭を掻き毟るのでありました。
(続)
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枯葉の髪飾りⅩCⅢ [枯葉の髪飾り 4 創作]

「判った。手術もその後も、屹度、頑張るから」
 吉岡佳世はそう云って拙生に強い視線を送るのでありました。拙生は彼女の目の強さに負けそうになるのでありましたが、しかしここは踏ん張らなくてはと思ってより熱い視線を彼女に送り返そうとするのでありました。今までもことあるにつけ彼女に投げていた拙生の「手術頑張れ」と云う言葉と、吉岡佳世のそれを受けた「頑張る」と云う言葉の投げあいではありましたが、しかし考えてみたらこの場合、なんか拙生の方がたどたどしい励ましの言葉を、実は彼女に励まされながら吐いているいるような雰囲気であります。妙な具合の言葉のやり取りだなと拙生は内心首を傾げるのでありました。その後にふとどうしたものか、必ず吉岡佳世はこの手術を乗り切るであろうと云う安心感のようなものが、何の根拠もありはしないのですが、拙生の気持ちの中で明滅したのでありました。
 ちょっと売店に買い物に行って来ると云って席を暫く外していた彼女のお母さんが、その時丁度病室に戻って来たのでありました。
「井渕君、コーラ買うてきたけど、飲む?」
 彼女のお母さんは四人部屋の病室を歩いて一番奥の窓際の吉岡佳世のベッドまで来ると、拙生にそう云ってコーラの瓶を差し上げて見せるのでありました。
「ああ、頂きます」
 拙生は笑いかけながら一礼して見せます。
「ちょっと待っとってね」
 彼女のお母さんはベッドの横にある台の引き出しから栓抜きを取り出して、王冠を外して瓶を拙生に渡してくれます。
「あら、オイ、いや僕だけコーラば貰うて飲んでよかとですかね?」
 彼女のお母さんは拙生に飲ませるためのコーラを一本だけ買ってきたようで、吉岡佳世にはなにも渡さず、お母さんも拙生が瓶に口をつけるのをただ見ているのでありました。
「うん、よかと。佳世もあたしも別に喉の渇いているとやなかけん」
 そう云われれば拙生も喉の渇きを覚えているわけではないのでありましたが、ま、見舞客としての拙生へのもてなしなのでありましょうから、拙生は遠慮なく顎を突き出して瓶を傾けるのでありました。それにしても三十分程彼女のお母さんは席を外していたのでありますが、売店で買ってきたのはコーラ一本だけのようでありました。それなら実際はほんの数分で済む用事でありましょうが、拙生と吉岡佳世が暫く二人だけで、気兼ねなく話が出来るように取り計らってくれた三十分と云う時間だったのでありましょう。
「さて、そいぎんた、オイは帰ろうかね」
 拙生はコーラを飲み終えてゲップを一つして云うのでありました。「何度も煩かやろうばってん、手術、屹度うまくいくけんね。頑張れよ」
「うん、大丈夫」
 吉岡佳世が数度頷いてみせます。
「そいぎんた、帰りますから」
 拙生は彼女のお母さんにそう云って一礼するのでありました。
(続)
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枯葉の髪飾りⅩCⅣ [枯葉の髪飾り 4 創作]

 拙生からコーラの空き瓶を受け取ろうとする彼女のお母さんに、帰りしな売店に自分で返しておくからと云ってそのまま持って、拙生はもう一度吉岡佳世の方を見るのでありました。それから窓に近づいて先程拙生が拭った扇形に曇りのとれた部分に、はあと息を吹きかけるのでありました。
「なんしよると、井渕君?」
 吉岡佳世が拙生に聞きます。
「うん、大分白うはなってきたばってん、ガラスの此処だけ水滴の拭き取られとるぎんた、此処から外の冷気の侵入してくるごたる気のするけん、ちょっと修復しよるとくさ」
「ふうん」
 吉岡佳世は拙生の行為に意味を見いだせないような風に云うのでありました。「大丈夫て思うよ、そんなことせんでも」
「まあ、そうやろうけど、なんとなくオイの感覚の問題としてくさ」
 実は拙生は窓の外に降る雪を見ながらふと、以前に読んだことのある伊東静雄の詩の一節を思い浮かべたためにそのような行為に及んだのでありました。題名は思い出せなかったのでありますし、全部を記憶していたのではなかったのでありますが「わが死せむ美しき日のために」と云うところと「汝が白雪を 消さずあれ」と云う句がなんとなく目の前に現れたのでありました。大体が詩的な感受性と言語の感覚に乏しい拙生でありますから別にその詩の全体像には関係なく、単に「死」と云う言葉と「雪」と云う言葉が二つ詩の中で絡まっていると云うまったくもって単純な理由から、雪を不吉に思いなしたのでありました。ですから、吉岡佳世の病室に雪の気配の侵入を許したくなかったのであります。考えてみたら益体もない着目、或いは感傷と云うものでありましょう。
 まだ綺麗に窓を曇らすことはできなかったのでありますが、大凡のところで拙生はこの愚かな作業を止めるのでありました。拙生は吉岡佳世ににいと笑いかけます。
「ほんじゃ、帰るけんね。十日の日に集中治療室からこの病室に戻ってくるとやったぞね?」
「うん、その予定」
「そしたら、今度は十日に、学校の帰りがけにお見舞いに来るかね」
 拙生はそう吉岡佳世に云った後、彼女のお母さんの方に顔を向けて確認の積もりで聞くのでありました。「十日に来て、よかですかね?」
「うん、多分大丈夫て思うよ。なんやったら九日の夜にでも電話ばしてくれたら、その時はっきり返事出来るやろう」
「はい、判りました。そしたら九日の夜に家の方に電話ばさせてもらいます」
 拙生はまた吉岡佳世の方に顔を向けます。「何度も何度も云うけどさ、手術は屹度うまくいくけんね。しっかい頑張れよ。十日に元気になった顔ば見せてくれよ」
「うん、有難う。でも十日は、まだ痛さの残ってたりして、あたし、そがん元気な顔出来んかも知れんけど、もしそうやったとしても、勘弁してね。その顔、本心と違うからね」
 吉岡佳世は何時か前に聞いたことのあるような早手回しの云いわけを繰り返して、拙生に一つ頷いて見せるのでありました。
(続)
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枯葉の髪飾りⅩCⅤ [枯葉の髪飾り 4 創作]

 吉岡佳世の手術の日、拙生は朝からおろおろと心配ばかりしているのでありました。その日の午前中の授業はほとんどうわの空で、今頃病室から手術室に彼女は移動しているのかしらとか、麻酔がかけられてもう意識を失くしているのかしらとか、拙生はそんなことを教科書に落とした目の奥の方で絶えず考えているのでありました。横たわったベッドを数人の看護士に押されて、病院の暗い廊下を手術室に消えていく吉岡佳世の姿が見えるようでありました。
 聞いていた予定によると午後一時から手術が開始されると云うことでありました。それは学校の五時間目の授業が始まる頃であります。拙生は四時間目の授業が終わった時に、後先考えず病院へ行きたい衝動にかられたのでありましたが、そうやって駆けつけたところで吉岡佳世は麻酔によってもう昏睡しているかも知れません。それに家族でもない拙生がいきなり病院に現れても彼女のお父さん、お母さん、お兄さんにはなにかと迷惑であろうからと、彼女の傍に行きたい気持ちをなんとか宥めるのでありました。
「今日、吉岡の手術の日やったぞね?」
 昼休みに隅田が拙生に聞くのでありました。
「そう。ぼつぼつ始まる頃やろう」
 拙生は気も漫ろに返します。
「吉岡のことけん、無事に乗り切るやろう」
「まあ、大丈夫とは思うばってん」
「おい井渕、今日は吉岡の手術の日やろう、後で病院に行くとか?」
 安田がそう云いながら拙生の傍に寄って来て話に加わります。
「今日は行かん。行っても立ちあえるわけでもなかし、邪魔になる」
「まあ、吉岡の方も手術の終わった後、暫くは麻酔で意識の朦朧としとるやろうけんね」
 安田がそう云って頷きます。そこへ島田が来て話に加わるのでありました。
「佳世はどがんしとるやろうかね、今?」
「どがんもこがんも、麻酔で眠っとるに決まっとるくさ」
 安田が突っ慳貪に云うのでありました。
「そりゃそうばってんさ。大丈夫やろうか、手術」
「お前が心配しても始まらんやろう」
「大丈夫くさ。手術される方もする方も、万全の準備で今日に臨んどるとけんが」
 隅田が安田の素っ気なさを補うように云うのでありました。
「正月に島田の持って行った寄せ書きは、ちゃんとベッドの横の台に飾ってあったぞ」
 拙生は島田に云います。「何時も見とるし、元気の出るて吉岡が云いよった」
「ああ、そうね」
 島田が嬉しそうに微笑むのでありました。
 その寄せ書きに立てかけるように、吉岡佳世の家族が揃って家の前で映っている写真と、それに公園で撮った拙生の写真も一緒に飾ってあったのでありますが、それはここで殊更披露する話でもないと思って拙生は触れないのでありました。
(続)
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枯葉の髪飾りⅩCⅥ [枯葉の髪飾り 4 創作]

 吉岡佳世のことが気にかかって拙生がちっとも話に身が入らないものだから、この上長く会話をするのも詮ないと思ったか、隅田も安田も島田もなんとなく適当にその場を切り上げて夫々の席に戻るのでありました。当然拙生の方は五時間目以降の授業にも落ち着いて気持ちを集中出来るわけがなく、その日学校に居る間じっと机に縛り付けられているのが大いに苦痛でありました。尤もだからと云って拙生には、やきもきと吉岡佳世のことを心配する以外になにも出来ることはなかったのでありましたが。
 その日の夜に吉岡佳世のお兄さんから拙生の家に電話があったのでありました。手術自体はうまくいったとの彼女のお兄さんの第一声に拙生は安堵のため、全身の力が抜けて床に腰を下ろしたくなるような疲労感に襲われるのでありました。頭が急に重く感じられたのは、ずっと垂直に張りつめていた気持ちが一気に撓んで、首と肩の筋肉がその働きを緩めたためでありましょうか。
 しかしお兄さんが続けて云うには、心臓の手術は問題なく完了したらしいのでありますが、肺の衰弱が予想よりもひどかったため、これからの経過を注意して見守る必要があるとのことでありました。よって集中治療室から普通の病室へ戻れるのは、予定より少し遅れるかも知れないとのことでありました。しかしまあ当面の難問は解決したわけだから、ひとまず安堵して良いのではないかとのことであります。
「井渕君にも多分一日中、色々心配ばかけたやろうばってん、ま、取り敢えず安心して、今日はゆっくり寝てくれてよかばい」
 彼女のお兄さんはそう云ってくれるのでありましたが、その肺の衰弱と云う言葉がまたもや拙生の首と肩をすぐに緊張させてしまうのでありました。
「態々連絡してもろうて、有難うございました」
「うん、心配しとるやろうて思うてね。ま、そがんわけけんが」
「はい、電話ば貰うて安心しました」
「じゃあ、これで。オイは明日京都に帰るけん、また佳世のことはよろしくな」
「はい、判りました。お父さんとお母さんによろしゅう云うといてください」
「判った。ほんじゃあ」
「失礼します」
 電話を切った後で拙生は吉岡佳世のお兄さんには電話を貰って安心した旨告げたのではありましたが、お兄さんが云った彼女の肺の衰弱と云う言葉が矢張り妙に気持の壁に重く引っかかってしまって、手術の成功を単純には喜べないのでありました。それはどのような事態なのだろうと考えるのでありましたが、医学的な知識に乏しい拙生には明確にそのことが重篤なことなのか、然程ではないのかが想像出来ないのであります。しかし医学的な根拠は皆無であるにしろ、なにかやっと静まった気持の水面を脇から急に掻きまわされて、またぞろ激しく波立たされたような気分になるのでありました。水面が不安な波音を立てています。拙生としては彼女の肺の衰弱とやらが考える程に大変な事態ではないことを祈るのみであります。吉岡佳世にとってそれが次の深刻な問題となるのではなかろうなと、拙生は今切った電話を見下ろしながら気を揉むのでありました。
(続)
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枯葉の髪飾りⅩCⅦ [枯葉の髪飾り 4 創作]

 その後の三日間が拙生にとって如何に長い時間であったことか。拙生は吉岡佳世の容態が気になって気になって、彼女の家に夜に電話してみようかと玄関の台の上に置いてある電話機を見る度に思うのでありました。しかしもし彼女になにかあったとしたら彼女のお母さんが必ず電話を入れてくれるであろうと考え、電話機に途中まで伸びた手を引っこめるのでありました。電話がないと云うことが多分、彼女の容態が考えられる範囲の内で推移云している証拠であります。
 そうは思うのでありますが、なにか彼女に実は大変な変化が起きていて、彼女のお母さんが拙生に電話など出来ないような事態になっているのではなかろうかと云う危惧も、時に拙生の頭を掠めたりするのでありました。しかしまさかそんな最悪の事態が起こるはずもなかろうと頭を横に振って、拙生は不吉な考えを払い落すのでありました。それに吉岡佳世の手術後の恢復だけに向けられているであろう彼女のお母さんやお父さんの心労に対する遠慮から、云ってみれば他人の拙生がその件で不躾に電話を入れることは、寂しくはありましたが憚るべき行為であろうと思われたのであります。
 一月十日の夜に拙生は逸る心を宥めに宥めて、吉岡佳世の家に落ち着いた声の調子を装って電話を入れるのでありました。電話に出たのは彼女のお母さんでありました。
「ああ、井渕君」
 彼女のお母さんの言葉つきが少し沈んで聞こえるのでありました。
「どがんでしょうかね、佳世さんの様子は?」
 彼女のお母さんの声に反応して、拙生の少し早くなった心臓の鼓動が胸の奥を掻き毟ります。
「うん、それがね、心臓の手術はうまくいったとばってん、肺が予想よりも弱っとってね、まだ集中治療室ば出られんでおるとよ」
 彼女のお母さんの声はそれまでに聞いたことのないくらい、低く力のないものでありました。拙生は電話の此方側で思わず顔を曇らすのでありました。
「ああ、そうですか。しかし・・・」
「まあ、取りあえず命がどうこうて云うことではなかとやけど、手術ば切っかけに、急になんか、弱々しくなってしもうたような感じのするとさ」
「ああ、そうですか。・・・」
「肺の機能がもう少し良くなって、もっと一杯空気ば吸えるようになったら、みるみる恢復するやろうて先生も云わすけど、傍で見ていると苦しそうでね、今のところ」
「・・・その、肺の機能は、もう少し時間の経ったら、必ず元に戻るとでしょう?」
「大丈夫やろうて、先生は云わすけど」
 明日には見舞いに行って吉岡佳世の、窶れてはいるものの晴れやかになった顔を見ることが出来ると思っていたものでありますから、拙生は落胆に指先の力が抜けて受話器を取り落としそうでありました。
「そいけん、お見舞いには、まだ来て貰わん方がよかかね」
 彼女のお母さんが申しわけなさそうに云うのでありました。
(続)
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枯葉の髪飾りⅩCⅧ [枯葉の髪飾り 4 創作]

 電話を切った後で拙生は怒りを覚えるのでありました。勿論彼女のお母さんにではなく、楽観が裏切られたことへの怒りであります。それにその楽観を裏切ったのは誰かと云うと、これも勿論誰でもなくて、結局のところ、手術すれば総てうまく行くと能天気に考えていた自分への怒りと云うことになるのでありましょう。もう暫くやきもきする日が続きそうな気配に拙生はうんざりするのでありました。
 気持が萎んでその日は目前に迫った受験ための勉強どころではありませんでした。布団に入ってもなにやら良くない方、不吉な方にばかり考えが流れて行き、くよくよと悲観的なことを考えてはその泥濘からなかなか足を抜けずに、結局外が白んだ頃にようやくまどろんだくらいでありましたか。朝食を摂る気にもなれず母親に胃の調子が悪いからと云って、それを心配する母親の言葉をやたらと腹立たしく感じながら、熱い茶だけ飲んでその日は学校へ向うのでありました。本当は学校も休みたかったくらいでありました。しかし手術後の不如意な苦しみに耐えている吉岡佳世の現実に比べれば、拙生の懊悩なんかは些事に属するもの以外ではありませんが。
 登校して隅田や安田、それに島田と話をすれば少しは気が晴れて、吉岡佳世の病状に対する昨夜の不吉な観測が取り越し苦労のように思えてくるのでありました。隅田も安田も島田も、大変な手術だったのであるから経過に起こる少々の不測の事態も、云ってみれば完治までの過程のあり得るべき範囲の紆余曲折であろうと、まあ、拙生を慰めたり勇気づけたりしてくれるのでありましたが、成程そう思えば肝心の心臓の手術自体はうまくいったわけでありますから、その後の一々をあんまり神経質に考え過ぎない方が良いような気もしてくるのであります。それに吉岡佳世はその紆余曲折を乗り切ってくれるに違いありません。彼女は何事に対しても直向きでありますから、自分の体の恢復と云う目的に於いても屹度直向きに処することが出来るでありましょう。勿論拙生の方は彼女の恢復のためなら何でもするつもりであります。と云っても、今拙生に出来ることと云ったら、結局祈るくらいしかないかも知れませんが。・・・
 吉岡佳世が集中治療室からようやく元の病室へ戻ってきたのは、手術からちょうど一週間後でありました。その知らせを吉岡佳世のお母さんから電話で聞いた時の、拙生の喜びと云ったら!
 拙生は嬉しそうに電話の向こうで話す彼女のお母さんの声を聞きながら、これでようやく吉岡佳世は大丈夫だと云う確証を得た思いで、踊り出したくなるようでありました。
「明日学校の帰りに、病院に寄ってもよかですかね?」
 拙生の言葉は多分、必要以上に弾んでいたことでありましょう。
「うん、来ておくれ。佳世も逢いたがっとるけん」
「判りました。そんじゃあ、明日」
 そう云って電話を切った拙生は思わず指を鳴らすのでありました。当然のこととして目前に迫った受験のための勉強なんか手につくはずもないのは、状況は真反対ながら四日前と同じであります。その代わりその日の夜は久しぶりに寝つき良く安らかに、長い時間眠ることが出来たのでありました。
(続)
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枯葉の髪飾りⅩCⅨ [枯葉の髪飾り 4 創作]

「時々まだ、傷の痛むと」
 吉岡佳世は病室のベッドに寝たまま、拙生を見上げながらか細い声で云うのでありました。切開した胸の骨を固定するためにパジャマの下に分厚く包帯を巻かれているためでありましょうが、彼女はまるで身動きをする権利を剥奪されているように見えるのでありました。きっと寝返りも打てないのかも知れません。
「そりゃそうやろう、その辺の切り傷とはわけが違うとやから」
 拙生は掛け布団の上に出ている彼女の手を握ってやりたいのでありましたが、彼女のお母さんが傍につき添っているものだからそれは我慢するのでありました。
「咳とかする時が、大変でね」
 彼女のお母さんが拙生に説明するのでありました。
「ああ、オイ、いや僕も前に肋骨ば折ったことのありますけん、判ります」
「あら、肋骨ば折ったことのあるとね、井渕君は」
「はい。鉄棒から横向きに落ちゃけてですね」
 拙生はその、以前折った肋骨の辺りを学生服の上から擦って見せるのでありました。「痛かとよりも恰好悪うして、すぐに立ち上がって、なんでもなかような風にしとったとばってん、後であんまい痛かもんけん医者に行ったら、折れとったとです」
「頭ば打たんでよかったねえ、肋骨は災難やったけど」
「いや、頭も多分少し打ったとやなかろうかて思うですよ。その直後から、勉強のいっちょん出来んごとなったけん」
 吉岡佳世が拙生のそんな詰まらない冗談に顔をくしゃくしゃとして見せるのは、きっと痛みのために笑うに笑えないためでありましょう。
「笑わしたら、だめ」
 吉岡佳世が歪めた口の端から声を出すのでありました。
「ああ、ご免々々」
 拙生は謝りながら吉岡佳世の喉が、呼吸の度に聞こえるか聞こえないかくらいではありますが笛を吹くような小さな雑音を出すのは、手術してみて判った肺とか気管支のダメージのせいかしらと考えるのでありました。
「少し息苦しかとかね?」
 拙生は彼女に聞きます。
「うん、ちょっとね」
「手術直後は、これがもっとひどかったとさ。そいで集中治療室から出るとが遅れたと」
 彼女のお母さんが彼女の後を引き取って拙生に話すのでありました。
「まあ、そう云う不測の事態があっても、そいでもこうして段々恢復しよるとけんが、オイ、いや僕は取り敢えず安心しました。顔色もそがん悪うなかように見えるし」
 拙生はそう云いながらも吉岡佳世の顔色は、手術前に比べるとかなり蒼白であるなあと思うのでありましたが、同時に彼女の表情の中には、危機を脱した後の落ち着きのようなものも微細ではありますが感じ取ることが出来るのでありました。
(続)
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枯葉の髪飾りC [枯葉の髪飾り 4 創作]

 嬉しさから拙生は次の日学校で隅田と安田と島田に、拙生が実見した吉岡佳世の恢復具合を大いに話すのでありました。彼等はその話を喜び、島田は早速今度の土曜日に誰かクラスの女子を誘って見舞いに行くとのことでありました。隅田と安田は二日遅れて月曜日に拙生と一緒に病院に行くと云う予定を立てるのでありました。担任の坂下先生も拙生が吉岡佳世を早速見舞ったことを聞きつけて、彼女の様子などを終業のホームルームの後に態々拙生の席まで来て質すのでありました。
「普通の病室に戻ったて云う話は、一昨日吉岡のお母さんから電話ば貰うとったけど、そんならオイも明日辺り、見舞いに行ってみようかね」
 坂下先生はそんなことを云いながら、何故か拙生の肩を一つ叩くのでありました。拙生は吉岡佳世がこの春に卒業出来る見こみがまだあるのか、見こみがあるのならこれから先どの様な条件を満たせば可能なのかを、坂下先生に聞いてみたいと思ったのでありますが、吉岡佳世本人を差し置いて彼女の保護者でもない拙生が、先にそれを知ろうとするのは僭越かと思い直すのでありました。それに吉岡佳世が拙生と一緒に卒業出来ようが出来まいが、兎に角これでやっと、彼女が長年苦しんだ持病と云う霧はさっぱり晴れたことになるのでありますから、この時点で拙生は彼女の、そして彼女と拙生の未来に明るい兆しをしか観測出来ないのでありました。
 吉岡佳世が元気になったら、もしかすると拙生はこの四月から東京へ生活の拠点を移すことになるのでありますが、それでも夏休みには帰郷して二ヶ月間彼女と一緒に休暇を楽しむのであります。海にも二人で行けるし、今年は彼女も泳ぐことが出来るかも知れません。公園で毎日逢って話をしたり、二人で何処かに食事に行ったり、喫茶店でアイスコーヒーとかソーダ水なんかを飲んだり、映画を見たり、まあ、なにもすることがなくても、彼女と二人で過ごせるのならそんな退屈もきっと麗しい時間に違いないのであります。お盆には精霊流しも彼女と一緒に見物するのであります。その時彼女が浴衣など着て来たらそれはもう最高であります。細身の彼女には浴衣がよく似あうでありましょう。ああ、しかし、彼女は今年の夏は受験生と云うことになるのでありますから、そうそう遊びばかりに現を抜かしているわけもいきませんか。それでも、楽しい夏になることだけは受けあいであります。
 夏休みが終われば拙生はまた東京暮らしでありますが、なあにすぐに冬休みがやって来ますから、今度は隅田や安田や島田を呼び出して彼女とクリスマスパーティーであります。正月の初詣は彼女と一緒に八幡様にでも行きましょうか。彼女の病気平癒のお礼参りと云うことになりますか。
 春休みは、これは屹度彼女が受験のために東京へやって来ますから、拙生はそれまでは東京に留まって、彼女の受験のサポートをするのであります。ここが一丁、頼もしさの見せどころであります。大いに頼り甲斐のあるところを彼女に見せつけてやるのであります。
 吉岡佳世が晴れて大学生になったら、それ以降は何時だって彼女と逢えるのであります。佐世保を遠く離れて二人の仲はより緊密になって行くのであります。拙生は心躍らせながら、そんな楽しいことばかりの未来を思い描くのでありましたが。・・・
(続)
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枯葉の髪飾りCⅠ [枯葉の髪飾り 4 創作]

 吉岡佳世の入院は長引くのでありました。当初は一月二十日過ぎ辺りに退院できるであろうと云うことだったのでありますが、集中治療室から解放されるのが遅れたためにその分後ろへずれたとしても、一月中には必ず退院出来るのであろうと拙生は踏んでいたのでありました。しかし二月に入っても彼女の退院の日はまだはっきりと目途が立たないのでありました。
 吉岡佳世が普通の病室に戻ったその週の土曜日に島田がクラスの女子を二人連れて彼女を見舞い、週が明けた月曜日には拙生が病室に隅田と安田を連れていったのでありました。その時は彼女の容態は良好で、拙生と安田の軽口の応酬を聞いて、口に手を当てて手術痕に障らない程度に声をあげて笑ったり、彼女自身も色々喋ったりもしていたのでありました。大手術であったのだから傷の痛みは当分抜けないのは仕方がないとしても、それも段々治まるであろうし、こりゃあ学校への復帰ももうすぐだなと隅田と安田は病院の帰りに拙生に話すのでありました。しかしその二日後に彼女は急に肺炎を発症したのでありました。高熱のために意識も朦朧とした日が二日程あって、それは次第に治まりはしたものの、ピーク時程高くはないのでありましたが、発熱はその後も続いて、暫くの間はなかなか容態が安定しないのでありました。
 二月に入るとようやく熱が微熱程度に下がって、吉岡佳世の表情にかなり窶れた風ではありましたが笑顔が戻ってきたのでありました。このまま落ち着いてくれれば一先ず安心と云うところなのだがと、拙生は祈るような気持ちでいたのであります。
 拙生は吉岡佳世が高熱に苦しんでいる二日間は断腸の思いで遠慮をしたのでありましたが、それ以外はほとんど毎日、学校のある日はその帰りに、休日には面会時間の始まる三時丁度に彼女を病院に見舞うのでありました。拙生が来た日は、夜になっても彼女の容態が安定しているような気がすると云う彼女のお母さんの言葉もあって、これは絶対休まずに見舞わねばと拙生は気負うのでありました。
 しかしながら入試のために、数実後には拙生は東京へ発たなければならないのであります。東京には少なくとも二週間程逗留しなければなりません。受験する三つの大学の結果発表まで居るとすれば此方へ帰れるのは二月末になってしまいます。到底そんなに吉岡佳世と離れている積もりはないので、拙生は結果の発表は親類に見に行ってもらうか電報でも頼むことにして、二月十八日には一旦帰ってくる予定を立てるのでありました。拙生が戻るまでの二週間と云う時間があれば、吉岡佳世の容態も多分好転して、退院の段取りもつくか或いはひょっとしたらもう退院しているかも知れないと、拙生は楽観的な観測を立てるのでありました。
 それにしても肺炎を発症して以来吉岡佳世は、見違えるように弱々しく衰弱してしまっているのでありました。拙生がベッドの横に立っても時には起き上がれなくて、頬を枕に押しつけたまま目だけ向けて拙生に微笑みかける場合もあったりするのでありました。彼女は拙生に向かって必死になにかを云おうとするのでありますが、しかし表情を微少につくるだけで精一杯と云った風で、言葉を発する気力は遂に湧きあがらないと云った状態の時もあるのであります。拙生はそんな彼女を見るとひどく心細くなるのでありました。
(続)
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枯葉の髪飾りCⅡ [枯葉の髪飾り 4 創作]

 明日の夕刻にいよいよ入試のため東京に向けて出発すると云う日、拙生は少しでも彼女の容態が好転していてくれることを祈りながら、学校帰りに病院へと向かったのでありました。この後二週間程彼女の傍から離れるのでありますし、せめて少しは元気な顔で拙生を送別して貰えたらと云う願いがあったのであります。そうでないと拙生の受験にも障りがあるではありませんか。いや今頃そんなことを云うのは、元々いい加減な受験生であった拙生のこの一年を棚に上げる弁解でしかないでしょうけれど。
 恐る恐る病室のドアを開けて中を覗くと、吉岡佳世はベッドの上に座っているのでありました。お、起き上がっているぞと拙生は喜ぶのでありました。
「今日は、少しは調子の良かとかね?」
 拙生は窓際にある彼女のベッドまで近づいて、つき添っている彼女のお母さんに頭を下げて、吉岡佳世には挨拶代わりに手を挙げて見せながら笑いかけるのでありました。
「うん、熱も朝から上がってないし、なんとなく気分もすっきりしてる」
 吉岡佳世はそう云って拙生に笑いかけます。
「今日は、血色もよかごと見えるばい」
「食事も、いつもよりも摂れとるし、気分の良かせいで、今日はずっとこうして起きとるとよ」
 彼女のお母さんがそう彼女の今日の様子を報告してくれるのでありました。
「やっと安定して、恢復し始めたとばいね、ちょっと遅うはなったけど」
 拙生は嬉しくなって、そう云う自分の声の調子が少し高くなっているのを自分でも不自然に思うのでありました。
「まだ判らんけど、そうなら本当に良かとばってん」
 彼女のお母さんはベッドに座っている彼女を見ながら云うのでありました。
「屹度そうに違いなかですよ」
 拙生は調子よく受けあうのでありました。
「そんなら、井渕君の居る内にちょっと、あたしは買い物とか用足しに行ってこようかね」
 いつものように彼女のお母さんはこの場を外すために、そう云ってベッド横の丸椅子から立ち上がるのでありました。拙生が来ればいつも、彼女のお母さんは拙生と吉岡佳世を二人きりにしてくれようとします。勿論本当にその日の夕食の買い物とか必要な用事のために、病院からほど近い所にあるスーパーマーケット等へ出かけて行くには、拙生の来訪は好都合でもあったでしょうし、吉岡佳世に朝からずっとつき添っているお母さんにとって、そう云う外出はちょっとした気分転換にもなっていたのでありましょう。
「ああ判りました。帰ってこらすまで、オイはここに居りますけん」
 拙生はその言葉の後にどうぞごゆっくりと云い足すのは、なにやらお母さんを邪魔者扱いにしているように聞こえるかも知れないと思って云い控えるのでありました。いつもそこで拙生は、その言葉を口に出しても良いものかどうか迷うのでありました。
「そんなら井渕君、ちょっと買い物してくるけん、宜しくね」
 彼女のお母さんは拙生にそう云い残して病室を出て行くのでありました。
(続)
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枯葉の髪飾りCⅢ [枯葉の髪飾り 4 創作]

 拙生は吉岡佳世のお母さんが座っていた丸椅子に腰を下ろして彼女を見上げます。彼女が横たわっている場合、拙生は椅子に座っても彼女の顔を見下ろすことになるのでありましたが、彼女がベッドに座っていると今度は見上げることになるのであります。吉岡佳世の首から顎にかけての曲線が少し鋭角に見えて、元々細かった彼女が前よりも一層痩せてしまったことを拙生に明瞭に知らせるのでありました。
「ずっとそがんして座っとって、疲れんか?」
 拙生は彼女の顎の稜線を見ながら云うのでありました。
「ううん、今日は大丈夫」
「きつうなったら、遠慮せんで横になってよかぞ」
「うん、有難う。それよりさあ」
 吉岡佳世が拙生の目を見下ろしながら云います。「明日やったよね、東京に行くとは?」
 拙生を下に見ているために彼女の目はいつものように見開かれてはおらず、二重の上瞼が濡れた光沢を湛える瞳を半分程隠しているのでありましたが、それは拙生にはなんとなく妖艶に見えるのでありました。
「うん、明日の四時半発のさくら号で出発する」
「さくら号は、寝台特急列車やったよね?」
「そう、そいけんゆっくり寝て行ける」
「あたしも小学生の頃、一度乗ったことあるよ」
「オイも今度が二度目。中学生の時東京に遊びに行って以来かね」
「あのさ・・・」
 吉岡佳世はそう云って髪を掻き上げる仕草をするのでありました。「本当は明日、駅まで見送りに行く積もりやったとけど、まだこんな調子やから、行けん」
「ああ、それは仕方なかくさ。別によかとぞ、そがんこと気にせんでも」
「ご免ね、約束しとったとに」
 彼女は髪を掻き上げたその手を、まるで耳を隠すようにそこにずっと置いたままで云います。云った後に髪の束を強く掴み、その手を髪梳くように端までゆっくり滑らせてから放すのでありました。彼女の目には涙が浮かんでいるのでありました。
「ま、そがんこと気にせんで、早う治って退院してくさ、元気にならんばばい」
「なんか、悔しかと、自分の体が」
「まあまあ、そがん思い詰めん方がよかぞ。少し恢復の遅れたて云うだけやっか」
「本当に、恢復するとやろうか、あたし」
「するに決まっとるやっか。弱気になったらダメぞ」
 気をつけた積りではありましたが、そう云う拙生の語気が彼女には少し強く響かなかったかと心配して、拙生は彼女の顔を恐々として窺うのでありました。吉岡佳世は俯いて両手の拳で目頭を押さえて、少しの間泣きじゃくるのでありました。そんな彼女の姿に、不安定で過敏になっているのであろうその感情に対して、先程の言葉は労わりのない語調であったと悔やんで拙生はおろおろとするのでありました。
(続)
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枯葉の髪飾りCⅣ [枯葉の髪飾り 4 創作]

「ご免、少し言葉の強かったかね、そがん積もりじゃなかったとやけど」
 拙生は彼女を見上げながら極力優しく云うのでありました。
「ううん、そうじゃなくてさ」
 吉岡佳世は目頭に当てていた拳で涙を拭いながら続けます。「明日は井渕君の大事な出発の日やから、駅まで行けんけど、せめてここで激励してあげる積もりでいたとに、泣きごとのようなこと云って、逆に心配させてしもうて、申しわけないの」
「今日、今までよりも元気になっとる姿ば見せて貰うたけん、それがなによりの激励ぞ、オイにとっては。これで安心して、明日東京に出発出来るばい」
 拙生はそう云ってにいと彼女に笑いかけるのでありました。それに応えるように吉岡佳世も、泣いたために小さく震えようとする唇の端をなんとか震えさせまいとしながら、拙生に笑い返すのでありましたが、その彼女の表情を見ると拙生の方にもこみ上げてくるものがあるのでありました。
「あ、そうだ、井渕君、万年筆ある?」
 暫くして落ちついてから吉岡佳世が急にそんなことを云うのでありました。
「うん、持っとるけど」
「それ、受験の時使う?」
「いや、万年筆は使わん。試験に使うとは鉛筆と消しゴム」
「そんなら、その万年筆、東京から帰って来るまで、よかったらあたしに預けて行かん?」
「そりゃ構わんばってん、オイの万年筆ばどがんするとか?」
 そう云いながらも拙生はもう、制服の内ポケットから万年筆を取り出すのでありました。
「井渕君の受験の日にあたし、その万年筆で『合格』て云う文字ば、出来るだけ一杯ノートに書き続けるの。井渕君が答案用紙と睨めっこしてる同じ時間、あたしもずっと、気持ちばこめてその文字ば書き続けると。仕様もないおまじないみたいやけどさ、ひょっとしたら、少しは利くかも知れんやろう」
 吉岡佳世は万年筆を受け取ろうと拙生に掌を差し延べるのでありました。
「根ば詰めてそがんことしたら、体に障るとやなかろうか?」
 拙生はそう云いながらも彼女の掌の上に万年筆を置きます。
「大丈夫さ、そのくらいは」
「そうやろうか」
 吉岡佳世は拙生が掌に乗せた万年筆を握りしめるのでありました。
「馬鹿みたいて思うやろうけど、そんなことくらいしか出来んもん、今のあたしには」
「いや、もしそがんことして貰うたら、それに勝る効果的な受験対策はなかかも知れんぞ。なんせ実際のオイの受験勉強の方は、かなりいい加減なもんやけんが」
「あたしも一緒に受験してる気になって、気持ばこめて一字々々書くからね」
「いやあ、頼もしか。そんなら一丁お願いしようかね、それ」
 拙生は彼女に頭を下げるのでありましたが、彼女はその拙生の一礼に対して自分も一緒に頭を下げるのでありました。
(続)
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枯葉の髪飾りCⅤ [枯葉の髪飾り 4 創作]

「それから・・・」
 吉岡佳世はそう云いながら腰をずらして、枕の下から一枚の写真を取り出すのでありました。「これは、肺炎の治まった後からずっと、枕の下に入れておいて、夜寝る前にさ、井渕君が受験に合格しますようにて、そうお祈りしてから寝るようにしてたと。これも仕様もないおまじないでしかないけどさ、あたしの願いがこめられている写真やから、もしよかったら、東京まで一緒に連れて行って貰えたら、嬉しかと」
 彼女の差し出した写真は以前病院裏の公園で撮った、彼女と拙生が顔を寄せて納まっているものでありました。枕の下で彼女の頭を支え続けていたためにそれはかなり波打っているのでありました。吉岡佳世はその写真を両手で挿んで力を加えて、真直ぐに伸ばそうとするのでありましたが容易には荒波は収まらないのでありました。
「判った、有難う。絶対に持って行く。なんかグッと来るばい、こがんことして貰うと。それにお前ば一緒に東京に連れて行くごたる気のして、嬉しゅうなってくる」
 拙生は彼女の差し出した写真を受け取ると、先程万年筆を取り出した制服の内ポケットに大切に仕舞うのでありました。写真は受験が終わるまで、そこにずっと入れておく積りであります。
「なんかあたし、詰まらんことばっかり、してるように思うやろう?」
「そがんことはなか。色々心配してくれて有難か」
 実は拙生は今年受験に失敗しても、そうなると来年彼女と一緒に受験で東京に行くことが出来るかも知れないし、どちらかと云うとその方がいいか、などと不届きなことを考えたりしたこともあったのでありますが、ここまで吉岡佳世に拙生の入試合格を期されると、こりゃあなんとしても今年大学に入らねば収まらんぞと、神妙に了見を改めたりなどするのでありました。
「井渕君さ、受験、本当に頑張ってね」
「うん、頑張るけんね」
 拙生はそう云って立ち上ると吉岡佳世の手を握るのでありました。
 そこへ丁度彼女のお母さんが買い物から帰って来るのでありました。拙生は慌てて彼女の手を離すのでありました。
「おお寒。外は随分寒か風の吹きよるよ」
 彼女のお母さんは大きな紙袋を二つ抱えて来て、そう云いながらそれをベッド脇に下ろすのでありました。「四ヶ町まで行って来たら、体の冷えて仕舞うた」
「何買って来たと、お母さん?」
「今晩のお父さんのおかずとか、あんたのパジャマの換えとかたい」
 彼女のお母さんは、ああそうそうなどと云いながら紙袋の一つからアーモンド入りのチョコレートの箱を取り出して拙生に渡すのでありました。
「ああ、済みません」
「いつも井渕君が来てくれると買い物に出られるけん、助かる」
 彼女のお母さんは買い物に出ると必ず拙生になにか買ってきてくれるのでありました。
(続)
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枯葉の髪飾りCⅥ [枯葉の髪飾り 4 創作]

「ああそうだ、お母さん、今度買い物に行ったら、この万年筆のスペアインクば二箱と、それから大学ノートば三冊買って来てくれん?」
 吉岡佳世が拙生の万年筆をお母さんに見せながらそう頼むのでありました。
「よかけど、そがんと何に使うと?」
「まあ、よかけん、兎に角買って来とってよ」
「はいはい。ばってん今云われてもすぐ忘れてしまうけん、今度買い物に出る時、もう一回云うて貰わんばダメよ」
「そんじゃあ、オイ、いや僕はこれで帰りますけん」
 拙生は彼女のお母さんに向かってそう云うのでありました。
「あら、もう帰るとね?」
「はい。明日東京に行きますけん、今日は用意のあるけんが」
「ああ、そうやったね。そしたら受験頑張ってね、井渕君。そのことはすっかり忘れとったけん、そんならそがんチョコレートなんかより、もっと気の利いた餞別ば買うてくればよかったね、ご免ね」
 彼女のお母さんはそう云って恐縮の表情をするのでありました。
「いやいや、そがんことは。チョコレート有難うございました」
 その後拙生は吉岡佳世の方を向いて手を挙げて見せます。彼女も同じように手を挙げて、二人は暫しの惜別の情を交わすのでありました。
 病院を出ると彼女のお母さんが云っていたように、寒風が拙生の顔に吹きつけてくるのでありました。最寄りのバス停まで歩いて振り返ると、病院の建物が暗くなりかけた冬の曇り空の中に溶けこむように佇んでいるのでありました。縦横に連なる窓にはそろそろ明かりが燈され始め、その光がどこか弱々しく寒風の中に浮かんでいるのでありました。明日から暫く吉岡佳世の顔を見ることが出来ないのだと思うと、拙生は皮膚を剥がされるような強い寂寥感を覚えるのでありました。
 開けて次の日は拙生が東京へ出発する日であります。寝台特急さくら号は夕方四時三十分に発車するのでありましたから、拙生は家を二時半過ぎに出ると、未練がましく吉岡佳世の入院している病院へ立ち寄るのでありました。その日は拙生は来ないものと思っていたらしく、吉岡佳世も付き添っている彼女のお母さんも拙生の来訪に驚くのでありました。いや、驚いたのではなく呆れたのかも知れませんが。
「あ、井渕君!」
 吉岡佳世は拙生の顔を見て少し高い声でそう云うのでありました。しかしその表情は間違いなく嬉しそうな気色を湛えているのでありました。彼女は昨日同様ベッドの上に座っているのでありましたが、それは詰まりその日も引き続き体の具合が悪くはないということなのでありましょう。
「出発の時間は大丈夫と、ここに寄ったりしとって?」
 彼女のお母さんが心配そうに拙生に聞きます。
「まあだ一時間以上ありますけん。ちらっと最後に、顔ば見てからて思うてですね」
(続)
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枯葉の髪飾りCⅦ [枯葉の髪飾り 4 創作]

 拙生は頭を掻きながらそんなことを云うのでありました。
「びっくりした。まさか今日も来てくれるなんて、思うとらんやったから」
 吉岡佳世が祈るように両手を胸の前であわせて云います。
「いや、万年筆のスペアインクば持って来たとくさ」
 拙生はスペアインクの入った箱を学生服のポケットから取り出して、彼女が座るベッドの上に置くのでありました。「態々、買わんでもよかごとて思うてくさ」
 吉岡佳世はスペアインクの箱を手に取って、それを大事そうに両手で挟むように持ちながら拙生を見るのでありました。
「来てくれて、嬉しか」
「なんせオイの勉強なんかより、遥かに確実性の高い受験対策ばして貰うとけんが、そのくらいはせんと、オイとしても申しわけなか」
「なんの話?」
 彼女のお母さんが拙生と吉岡佳世の顔を交互に見ながら尋ねるのでありました。吉岡佳世はクスッと笑って肩を窄めて後で話すとお母さんに云うのでありました。
「なんか今日も、体の調子は良かごたるね」
 拙生は吉岡佳世に笑いかけながら云います。
「うん、昨日と同じ感じ」
「恢復に向かい出したとやろうね、昨日辺りから確実に」
「そうね、あたしもそがん気のする。だから井渕君、安心して東京に行って来てね」
「判った」
 拙生はその時は、これで大丈夫だと云う感触を吉岡佳世の様子から得るのでありました。
「そいぎんた、これで」
 拙生はそう云って彼女に片手を挙げて見せます
「うん、頑張ってね井渕君、受験」
「井渕君の東京から帰って来る時には、佳世ももっと元気になっとるぎんたよかけどね。井渕君、気をつけて行っておいでよ」
 これはお母さんの言葉であります。
「はい、有難うございます」
 拙生は彼女のお母さんにそう返した後、もう一度吉岡佳世の顔を見るのでありました。吉岡佳世も拙生の目の激励に応えるように強い視線で拙生を見つめて、一つ大きく頷くのでありました。
 廊下まで彼女のお母さんが拙生を見送ってくれます。
「佳世のことは心配せんで、受験に集中せんばよ」
「はい。昨日と今日の様子ば見たら安心しましたから、オイ、いや僕も頑張ります」
「うまくいくように、祈っとるけんね」
 廊下を歩きながら振り返ると、吉岡佳世のお母さんは遠ざかる拙生に深々と頭を下げるのでありました。拙生の方も同じ腰の角度を以てそれに応えるのでありました。
(続)
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枯葉の髪飾りCⅧ [枯葉の髪飾り 4 創作]

 出発する寝台特急さくら号では丁度同じ頃に東京で入試に臨む、二人の他のクラスの男子同級生と乗りあわせたのでありました。拙生はその二人が同じ列車で東京へ向うことを全く知らなかったので、車内で顔をあわせてから驚くのでありました。尤もその存在は当然知ってはいたものの親しくしている間柄ではなかったものだから、好い道連れが出来たとも思わなかったし、特段心強くも感じなかったのでありました。それに列車内での座席が離れていたために言葉を二、三かけあった程度で、後は互いに関知せずと云った風に夫々の席に散って、結局列車を降りるまで話をすることもなかったのでありました。
 拙生は席に座って受験参考書を広げて気分も乗らずその文字を追ったり、窓の外を流れる風景をぼんやり眺めたり、横に座っている中年のネクタイを締めた出張帰りと云う男のサラリーマンや、孫の顔を見に行くと云う向いの席に座るお爺さんとお婆さんの夫婦連れと言葉を交わしたり、その横で腕組みして寝入っている大学生と思しき男の乗客の様子を見るともなく見たり、腹が減ったので車内販売の弁当を買って食ったりしながら、寝台が設えられるまでの時間を過ごすのでありました。中学生の時以来久々の寝台特急列車の旅ではありましたが、これから受験のために東京へ向うのだと考えると気が重くなって、旅行気分を満喫すると云う風にはなかなかいかないのでありました。それに吉岡佳世の病状もやはり気にかかって、参考書の文字を追う目も、他の同席者と話す口も、なんとなく普段よりは活動が停滞気味になるのは仕方のないことでありました。
 寝台が調えられてその三段目の寝台に入りこむと、拙生は学生服を脱いでその内ポケットから吉岡佳世の写真を取り出して、仰向けに寝転がって列車の揺れに時々凝視を妨げられながらも見入るのでありました。吉岡佳世が枕の下で拙生の受験合格の願かけをしてくれた拙生と彼女が顔を寄せあって写っているものと、拙生が家から持って来た彼女一人が銀杏の木に片手を添えて写っている全身写真の二枚であります。拙生はその二枚を交互に随分長い時間眺め続けるのでありました。
 吉岡佳世がこのまま順調に恢復してくれることを願うのみでありましたが、手術以来急に、か細い体が余計か細くなったように見える彼女の姿がこの写真からも窺われるのでありました。写真の彼女の頬は少しはふっくらとしていたのですが、昨日今日の彼女の頬はかなり落ち窪んで線が鋭くなったように見えるのであります。それは如何にも病人然としているのでありました。恢復にはかなりの時間を要するかも知れないと推察するに十分なやつれ様であると云えます。しかしそれでも、どんなに時間がかかろうと、恢復してくれれば良しと拙生は列車の揺れに呼応して揺れる頭で考えるのでありました。
 拙生がここで受験に失敗して彼女を落胆させるわけにはいきません。拙生は彼女の恢復に障るような如何なることも仕出かしてはいけないのであります。それが拙生に出来ることであります。そう考えると入学試験に対する拙生の意気ごみのようなものもいきおい緊張感を漲らせるのでありましたが、なにせこれまでの拙生の勉強の方がからっきしその緊張感に対応出来ていないのであります。差し迫った今、吉岡佳世のおまじない頼りと云うのも至って情けない次第でありますなあ。もう少し本気で勉強しておけばよかったと、拙生は今頃になって悔やんでいるのでありました。
(続)
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枯葉の髪飾りCⅨ [枯葉の髪飾り 4 創作]

 東京では叔母の家に荷を下ろすと受験する大学の下見やら、交通事情の把握やら久し振りに会う親類との歓談やらでなんとなく忙しく過ごして、そう斯うしている内に三校受験する最初の大学の受験日を迎えるのでありました。その後の一週間で、出来具合は別として恙無く総ての受験を終えた拙生は、開放感にようやく肩の力を抜くのでありましたが、気になるのは吉岡佳世の恢復具合であります。大丈夫であろうとは思うのでありましたが、矢張り心配と云えば相当に心配なのでありました。こうも長く彼女の顔を見ないで過ごしたことがなかったために、彼女に逢いたいと云う気持ちも募りに募って、佐世保へ帰れる二日後を待ちきれなく思うのでありました。
 そう云えば最初の大学の入試でこんなことがあったのであります。それは世界史の試験で「A.D.(A)年、明王朝を開いた(1)は流民の出身で、中国歴代王朝の始祖の中で庶民から身を起こした者は、嘗てB.C.二〇六年に王となりB.C.(B)年に皇帝と称した(2)の(3)と二人しか居ない云々」とか云う問題で、ABに数字を、1と3に人名を、2に王朝名を記入する問題でありましたが、Aは一三六八、Bは二〇二、1は朱元璋、2は漢、3は劉邦と云うのが答えであります。この朱元璋の「璋」の字が拙生にはどうしても思い出せないのでありました。嘗て体育祭の日に無断で吉岡佳世を病院まで見舞いに行った拙生は担任の坂下先生から罰として歴代中国王朝名とその創始年、王朝を開いた人物名を暗記してくると云う宿題を出されて、四苦八苦してそれを覚えたのでありましたから、答えは総て判ったのでありますが、その漢字の偏だけがあやふやなのでありました。
 幾ら頭の隅からその字をほじくり出そうとしても確信のある文字が浮かばないのが悔しくて、拙生は学生服の内ポケット辺りを左手で触って吉岡佳世の写真に縋るのでありましたが、そうするとあらあら不思議「璋」の字が瞼の裏に忽然と現れたのでありました。拙生の驚喜する様は普通ではありませんでした。同時に吉岡佳世のおまじないの神秘に打たれたのでありました。
 この事実は、帰って吉岡佳世に話してやったら屹度彼女も面白がるであろうし嬉しがるに違いないと、拙生は東京のお土産話を一つ手に入れた気になったのでありました。しかし彼女を喜ばせようとして拙生が話を作ったと思われるのも嫌なので、この話にリアリティーを持たせるべく語るにはどう云う喋り方が良いのか、どう云う展開で語る方が真実味が有るのか等と考えていたら二日間はようやく過ぎて、いよいよ佐世保へと帰る日が到来したのでありました。
 拙生は叔母に入試の合格発表を見に行って貰って、その結果を電話してくれるよう頼んで、其の家の玄関を急ぎ足に出るのでありました。
「何処かに合格しとったら、すぐに知らせてくれんばばい」
 そう云い置いて逗留させてもらった礼の言葉を述べる時間も惜しむように出て行く拙生に、叔母は屹度眉を顰めたことでありましょう。これでようやく吉岡佳世に逢えると思うと拙生は心急きながら、叔母の家のある世田谷から私鉄と国電の中央線を乗り継いで、佐世保行きの寝台特急さくら号の出る東京駅へと向かうのでありました。吉岡佳世へのお土産は件の入試の時の話と、お茶の水の有名な画材屋で買った写真立てでありました。
(続)
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枯葉の髪飾りCⅩ [枯葉の髪飾り 4 創作]

 拙生が乗った寝台特急さくら号は、午前十一時半を少し過ぎて佐世保駅のホームへ滑りこむのでありました。吉岡佳世の顔を久々に見ることが出来る喜びに、夜中に列車の寝台の中へもぐりこんでもなかなか寝つけず、睡眠不足で茫と霞に覆われたような頭で駅に降り立った拙生は、本来ならこの儘学校へと向かって担任の坂下先生に、帰ってきた報告と受けた入試の首尾を報告すべきであろうとは一応思ったのでありました。しかしそれは明日登校してからの話として、取り敢えずはこのまま家に帰って一眠りして、夕方から吉岡佳世の入院している病院へ行くことにしたのでありました。学校よりは吉岡佳世に逢いたい気持の方が、入試も終わったことだし、この際の優先事項であります。
 駅の地下道を通ってバスターミナルへ向う途中、朝からなにも腹に入れていなかったので地下道にあるラーメン屋で空腹を満たした後、自宅のある方面へ向うバスに腰を落ち着けた拙生はいきなり眠気に襲われるのでありました。ここで寝たら乗り過ごす危険があるので、拙生は席から立ち上がって股の間に大きな旅行カバンを置いて、吊革に掴ってゆらゆらと上体を揺らしながら自宅まで帰るのでありました。
 受験から解放された気の緩みと長旅の疲れから、拙生は家に帰り着くと只今の声も出し惜しみするようにそのまま自分の部屋に行き、学生服を脱いで布団を引きずり出すとその儘倒れこむのでありました。瞬く間に昏睡状態に陥り、目覚めたのはもう三時を大分回った頃でありました。それも母親に声をかけられてようやく覚醒した次第で、母親の声がなかったらそのまま不覚に朝まで眠りこけていたかも知れません。やはり周りにはのほほんと見えていたとしても、この間の大学受験と云う頸木は拙生にとってかなりの圧迫であったわけであります。
 身支度をして吉岡佳世の入院する病院へ向ったのは四時過ぎでありました。勿論彼女へのお土産である写真立てと、彼女のお母さんに渡すはずの東京駅地下街で買った東京土産のお菓子の箱をちゃんと持って出たのは、まだ寝ボケたような様子の拙生にしては抜かりない仕業でありました。
 拙生が佐世保を離れる時よりももっと元気に彼女がしていてくれていることを願いながら、拙生はバスに座って彼女のために買った写真立てを握っているのでありました。このお土産を彼女は気に入ってくれるはずであります。病室に飾ってある拙生の写真を彼女はこの写真立てに入れるのでありましょう。いや勿論拙生の写真ではなくて、一緒に飾ってある彼女の家族写真の方を入れてくれても別に構わないのでありますが、しかし拙生が買ってきたお土産でありますから、屹度彼女は拙生の写真の方をこれに入れるでありましょう。そうすると、なんとなく拙生の方が彼女の家族よりも、ベッド脇の台の上では優遇されているような感じになるわけでありますか。これはちょっと、気まずい感じです。それではまるで拙生が彼女の家族を差し置いて、驕慢な態度で彼女のベッド脇の台の上にふんぞり返っている雰囲気ではありませんか。そんな図はまったくのところ本意ではないのでありますから、困った事態になるわけであります。もう一つ、彼女の家族写真用の写真立ても買ってくればよかったかなと拙生は悔やむのでありました。ま、そんな益体もないことを考えながら拙生は病院へ向うバスに揺られているのでありました。
(続)
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枯葉の髪飾りCⅩⅠ [枯葉の髪飾り 4 創作]

 吉岡佳世が居るはずの病室のドアを開けておずおずと中を覗くと、ベッドの上に座る彼女とすぐに目があうのでありました。彼女は拙生の出現に驚いたように口を開けるのでありました。拙生はにいと笑いかけて病室へと身を滑りこませます。吉岡佳世は拙生が東京に行く時と同じに元気そうであることに安堵して、拙生は彼女の窓際のベッドへと歩み寄るのでありました。
「あっ、井渕君、来てくれたと」
 吉岡佳世は拙生がまだベッド側へ辿り着かない内に、少々大きい声でそう云うのでありました。その彼女の声に同室の他の三人の入院患者が、拙生の方へ視線を向けるのが判るのでありました。
「おう、只今。元気しとったごたるね」
 拙生はベッドの横に辿り着いた後にそう云うのでありました。彼女だけが居て、何時もベッド脇に付き添って居る彼女のお母さんの姿が見当たりません。
「あれ、お母さんは?」
「うん、ちょっと主治医さんに呼ばれて出て行かしたと」
「ふうん。なんやろう?」
「多分あたしの、退院についての話て思うよ」
「お、退院出来るとか?」
 拙生は思わぬ朗報に接して飛び上りたいくらいでありました。
「うん、まだ判らんけど、多分ね」
 吉岡佳世は何故か照れ臭そうにそう云うのでありました。
「そりゃ、よかったやっか。その話ば聞けただけでも、今日ここに来た甲斐のあったぞ」
「今日来てくれるて、思いもせんかった、あたし。それより、東京はどうだったと?」
「うん、まあ、どうて云うこともなかったけど」
「入試の方は?」
「まあ、あんなもんやろう」
 拙生は上首尾と云う程に自信があるわけでもなく、かと云ってはっきりした失敗があったわけでもなかったので曖昧な返事しか出来ないのでありました。
「あんなもん、て?」
「そうねえ、出来たところは出来たばってん、出来んかったところは出来んやった」
 拙生のその云い草に吉岡佳世は困ったような顔をするのでありました。
「手応えて云うか、試験に受かる自信は、ある?」
 そう聞かれると拙生の方も困るのでありました。
「どこかの大学に引っかかっとればよかけどね。自分でもようは判らん」
 拙生は頭を掻くのでありました。
「ふうん、そう」
 吉岡佳世は拙生のあやふやな返事に少し口を尖らせて見せるのでありましたが、すぐに手を口元に添えて笑うのでありました。「でも、井渕君が無事に帰って来て、よかった」
(続)
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枯葉の髪飾りCⅩⅡ [枯葉の髪飾り 4 創作]

「ああ、そう云えばぞ」
 拙生は急に思い出したように云います。「世界史の入試で、どがんしても思い出せん漢字のあってね、胸のポケットに入れとった、ほら、ここで貰うたお前の写真に手ば当てて、一生懸命思い出そうてしたら、パッて頭の中でその漢字の閃いたことのあったぞ」
「へえ、写真に手ば当てたら?」
「そうそう、あれには吃驚した」
「ふうん、少しはあたしのおまじないの効果、あったとやろうか」
「そうね。充分効果はあったね」
「なんか、そがんこと聞いたら、ちょっと嬉しかね」
「助かったて思うて、指ば鳴らしそうになったぞ。あれは、云うたらお前のお陰ぞ。佐世保に帰ったら、絶対お礼ばせんばて思うたもんね」
 吉岡佳世は大きな目を見開いて嬉しそうな顔をするのでありました。
「その、お礼ばってん」
 拙生は続けるのでありました。「ほら、こがんとば買うてきた」
 手に持っていた四角い包みを拙生は彼女に手渡すのでありました。
「なん、これ?」
 吉岡佳世はその包みを受け取ると上下横とひっくり返しながら、包装紙を入念に観察するのでありました。「これ、開けてよかと?」
 拙生は頷くのでありました。吉岡佳世は丁寧に包装紙を留めた透明テープを剥がして、紙を破らないように気を遣いながら包みを開けます。
「あら、これ写真立て?」
「そう。お茶の水に在る、レモンて云う、結構有名らしか画材屋で買うてきた」
「有難う。じゃあこれには、井渕君の写真ば入れようっと」
 吉岡佳世はベッド脇の台の上から拙生の写真を取り上げようとするのでありました。
「いや、そっちの家族写真の方ば入れても、別によかとばい」
「なんで?」
「いや、なんとなく、オイが家族ば差し置いとるようで、申しわけなか気のするけん」
「そがんことないさ。この写真立ては、井渕君に貰ったとやからさ」
 そんなことを話している時に丁度病室のドアが開かれる音がして、彼女のお母さんが中に入って来るのでありました。
「あら、井渕君」
 彼女のお母さんは拙生をベッド脇に見つけて驚くのでありました。
「今日の昼頃帰ってきたけん、早速お邪魔したとです」
 拙生はそう云いながら頭を下げるのでありました。
「ああ、そうやったね。態々有難う、今日の内に来て貰うて」
「お土産ば買うて来たけん、渡さんばて思うてですね」
 拙生はもう一つ携えてきた包みを彼女のお母さんに差し出すのでありました。
(続)
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枯葉の髪飾りCⅩⅢ [枯葉の髪飾り 4 創作]

「あらあ、そがん気ば遣わんでもよかったとに」
 彼女のお母さんはそう云いながら、紙包みを受け取って拙生に一礼するのでありました。
「詰まらん物ばってん、ナボナて云う東京のお菓子です」
 それは帰りしな、東京駅の地下街の土産屋で買ったものでありました。
「これも、貰ったとよ」
 吉岡佳世が彼女のお母さんにそう云いながら、先程拙生が渡した写真立てを差し上げて見せるのでありました。
「なんか井渕君に、とんだ散財ばさせてしもうたごたるね。色々有難うね」
 彼女のお母さんは如何にも気の毒そうな顔をするのでありました。
「いやあ、今まで色々お世話になっとるとけんが、そがん云われると返って恐縮するです」
 拙生は頭を掻くのでありました。
「それでね、この写真立てに、井渕君の写真ば入れようとしたらさ、こっちの家族写真の方ば入れろて、井渕君の云わすと。井渕君の写真の方ば入れても、別によかよねえ」
 吉岡佳世がそうお母さんに確認のような、念押しのようなことを云うのでありました。
「そりゃ当り前たい」
「ねえ、ほら」
 吉岡佳世は「ねえ」でお母さんの方に、それから「ほら」で拙生の方に目を向けながら云うのでありました。
「いや、家族写真の方ば入れてもよかとぞて、オイは云うただけで・・・」
「そがん、井渕君の佳世へのお土産に、井渕君ば差し置いて、あたし達の写真が飾られるとはなんとなく変やろう。井渕君の写真ば入れる方が自然やろうし」
 彼女のお母さんがそう云うのでありましたが、そんな風に云われると、成程拙生の写真がそこに納まる方が道理の上では正しいような気がしてくるのでありました。しかしそれではなんとなく我が写真を飾って貰うために、拙生が態々この写真立てを買ってきたような意図せざる意図が匂うようで、それは如何にも驕慢な図に見えてしまうのではないでしょうか。まあ、どの写真を入れるか決めるのは、写真立ての所有権が吉岡佳世に移った以上彼女の専権事項であり、拙生の意見を差し挟める事柄ではないのでありますが、しかしやはり、なんとなく写真立てに納まった拙生の写真は、屹度居心地が悪いでありましょうし。取り敢えず一旦拙生の写真がそれに納まるとしても、その場を彼女の家族の方に譲ることは拙生としては何時なん時でも決して吝かではないのであります。
「やっぱりこれには、井渕君の写真ば入れよう」
 吉岡佳世がそう云いながら写真立ての裏の木の板を外して、公園の銀杏の木の横で畏まる拙生の写真をその中に丁寧に嵌めこむのでありました。
「さあて、そいぎんた、今日は帰ろうかね」
 拙生の写真が写真立てに納まったところで拙生はそう云うのでありました。
「東京から帰って来た早々、来てくれて有難う」
 吉岡佳世が写真立てを台の上に乗せてから云うのでありました。
(続)
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枯葉の髪飾りCⅩⅣ [枯葉の髪飾り 4 創作]

「そうね、帰ったばっかりやいから、今日はゆっくり休んで、またその内、東京の話ば聞かせておくれね、井渕君」
 彼女のお母さんが云います。
「はい、また今度、色々話します」
「明日も、来てくれるとやろう?」
 吉岡佳世がそう拙生に聞くのでありました。
「うん。明日は学校に行くばってん、帰りにまた寄る積りでおるけど」
「ああ、そんじゃあ、明日東京の話ば聞けることば、楽しみにしとるけん」
 彼女のお母さんが云うのでありました。
「順調に恢復しよるようで、オイも安心したぞ」
 拙生は別れ際にそう吉岡佳世に云って手を挙げるのでありましたが、そこで先程退院の話が出たのを思い出すのでありました。「ああそうそう、退院の目途が立ったとですか?」
「うん、このままいけば、あと一週間くらいで退院してもよかごとなるかも知れんて」
 彼女のお母さんが言葉は拙生に、顔は吉岡佳世に向けて云うのでありました。
「お、あと一週間で退院出来るとですか」
「まあ、ここんところ順調にきとるけん、多分大丈夫やろうて、そがん先生の云わす」
 拙生はそう聞いて嬉しくなって思わず指を鳴らすのでありました。
 受験が終わった開放感と吉岡佳世の退院がほぼ確実になったことで、試験の合否はまだ判らないでいるものの、拙生はもう既に有頂天になるのでありました。この有頂天を長く味わいたいがためにバスには乗らず、拙生は黄昏た冬空の下を歩いて家まで帰るのでありました。頬を刺す冷たい風もどことなく気持ちよく、足取りも至って軽やかであります。
 まあ、吉岡佳世の卒業は恐らく来年に持ち越しになるでありましょう。三学期に入ってまだ彼女は一度も登校出来ないでいるわけでありますから。どうしても出席日数不足はこの先埋めようがないでありましょう。しかしそれはそれとして、彼女は今後心臓のことを気にしないで暮らしていけるようになったのでありますから、こちらの方が遥かに重要であります。
 四月から彼女にはうんと頑張ってもらって、是が非でも来年は東京の大学へ進学してもらうのであります。そうして拙生といつも一緒に東京で過ごすのであります。これはかなりの度合で実現可能なことであります。もっとも拙生の大学合格の方はまだはっきりしてはいないのでありますが、なにやら吉岡佳世の退院と云う朗報にあやかって、こちらもなんとかなりそうな気がするのでありました。悪いことも立て続けに起こるのかも知れませんが、同じに良いことも勢いと云うものがあって、屹度重なってやって来るに違いないのであります。そうでないと世の中の幸と不幸の振りあいがつきませんし。
 拙生の足の筋肉が、そんな楽観によって何時も以上に運動効率を上げるものでありますから、拙生は予想よりもかなり早く病院から家まで辿り着くのでありました。開放感と有頂天とを存分に味わいたいがための徒歩でありましたが、こんなに早く家に到着してしまうとは、実に以って勿体ないことでありました。
(続)
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枯葉の髪飾りCⅩⅤ [枯葉の髪飾り 4 創作]

 翌朝、登校すると拙生は先に教室に居た隅田を見つけて、早速吉岡佳世の退院が間近いことを知らせるのでありました。
「昨日病院で聞いたとけど、後一週間くらいで、吉岡が退院することになったぞ」
「おう、そうか。そりゃ良かった。しかし、て云うことは井渕、お前、昨日東京から帰って来て、学校にも来んで、真っ先に吉岡の病院に行ったて云うことか?」
「そうばい」
 隅田が呆れたような顔をしたのは拙生にしたら予想外のことでありました。そこへ安田がやって来たので安田にも拙生は同じことを云うのでありました。
「ま、それは朗報ばってん。ところで井渕、入試の方はどがんやったとか?」
「ああ、入試ね、そっちは成るように成るやろう」
「吉岡の退院と入試と、どっちが今のお前にとって大事かとか?」
 隅田はそう云った後すぐに顔の前で両手を横に振りながら続けます。「ああ、いや、愚問やった。吉岡の退院て云うに決まっとるか、井渕は」
「もう入試は終わったことけんが、すっかり頭の中から飛んで行っとるとやろう、井渕にしたら。まあ、オイも同じやけど」
 安田も福岡にあるキリスト教系の大学の入試が既に済んでいるのでありました。
「予定より大分遅れたばってん、吉岡もやっと退院か」
 隅田はそう云った後に笑いを顔から消して顎を撫でるのでありました。「ばってん、三学期は一回も出席しとらんけん、今から復学しても、卒業は無理やろうなあ」
「うん、多分無理やろう」
 拙生は云います。「それでもそれは、既に本人も判っとることやろうし、納得しとるやろう。兎に角、体の方が第一けんね。吉岡はもう、来年に、東京の大学ば受ける積もりでおるようやし」
「長い人生、若い時の一年留年なんかは、なんでもなかくさ」
 安田が妙に達観したようなことを云うのでありました。「まあ、オイ達にしても受験に失敗したら、向こう一年浪人生活ば送ることになるかも知れんし」
「よし、退院するとなら、まあだ入院しとる内に、もう一回お見舞いにでも行くか」
 隅田が云うのでありました。
「退院して、落ち着いてからでよかとじゃなかか、お見舞いは」
 拙生が隅田の発言に水を差します。
「まあそうね、そがん慌ててオイとか安田が、吉岡の様子ば見に行かんでもよかか」
 隅田が納得します。「吉岡が病院に居る内は、井渕に任せとけばよかしね」
「留年てなったら、もう三学期は学校には来んやろうね、吉岡は」
 安田が云うのでありました。
「そうね、来ても無駄やもんね。まあ、卒業までこっちも色々忙しかし、もうあんまり吉岡には逢えんて云うことになるか、オイとか安田は」
 隅田がまたもや顎をなでるのでありました。
(続)
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枯葉の髪飾りCⅩⅥ [枯葉の髪飾り 4 創作]

「ところで、合格発表は何時か、井渕は?」
 隅田が聞きます。
「今週の金曜日に一校と土曜日に二校。あっちの親類が見に行ってくれることになっとる」
「合格しとったら、また東京に行くとか?」
「いや、合格証と入学案内はその親類が貰ってきて、こっちに送ってくれるとくさ。そいで期日までに入学手続きばして、学費とかば振りこめばよかやろう」
「入学手続きとか、合格証ば貰うとは本人じゃなくてもよかとか?」
「代理で大丈夫やろう。叔母に行って貰うことにしとる。入学手続きば送るのとお金の振りこみはこっちからすればよかし。発表まで向こうに居れて云われたばってん、吉岡のことも気になるけん、高校の授業の方が大事かて云うて、戻ってきたとくさ」
「そんなら後は卒業まで、ずっとこっちに居らるっとか?」
「まあ、その積りやけど」
 拙生はそんな事情説明をするのでありました。
「オイは合格発表は来週の月曜日ばい。ちょっと福岡までオイは行ってくるけど」
 安田が云うのでありました。
「隅田はどがんなっとるとか。入試は?」
 拙生が聞きます。
「オイは三月に入ってからやからね、試験が」
「ところで島田の入試は、どがんなっとるとやろうか?」
 拙生は安田に聞くのでありました。
「島田のことはよう知らんばってん、今日第二志望の入試に行っとるとやなかかね。第一志望の方は、発表とか入学手続きとかは大体オイと同じ日程やったて思うぞ」
「しかも同じ福岡やしね」
 隅田が云うのでありました。
「そんならぞ、卒業前に、吉岡が退院して落ち着いて、隅田の入試が終わって、結果発表のあった後辺りで、夫々の報告がてら、皆打ち揃うて吉岡の家に行くか」
 拙生が提案するのでありました。
「しかしぞ、なんか卒業の決まっとるオイ達が、留年する吉岡の家に揃って行くて云うとも、なんとなく抵抗のある気のせんか?」
 隅田が難色を示します。
「大丈夫やなかか。卒業したらどうしても縁の薄うなるとやから、そう云う意味で」
 安田が云います。
「そりゃ、形式上はそうかも知れんけど、ひょっとしたらぞ、吉岡の内心ば傷つけることになりはせんやろうか、無神経に」
 確かにそう云う隅田の危惧する面もあるかも知れないと拙生は思うのでありました。もしも拙生の思い到らなさから吉岡佳世の気持が少しでも傷つく可能性があるようであるなら、この拙生の提案は撤回しなければなりません。
(続)
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枯葉の髪飾りCⅩⅦ [枯葉の髪飾り 4 創作]

「そんなら、経緯ば見て、行くか行かんかは、まだ先で決めるか」
 拙生はそう云って卒業前に我々が打ち揃って、吉岡佳世の家に行くと云うこの提案をうやむやにするのでありました。皆がバラバラになる前でしかも皆の身の振り方が決まった段階で、クラスのこの親ししい連中が一堂に会するのも悪くはないと単純に考えたのでありましたが、隅田の指摘により確かに夫々の少し微妙な気持ちの問題が潜んでいるとも思えたのでありました。
 その日放課後に職員室で担任の坂下先生に拙生の受験の首尾等を報告して、いよいよ週末にこの一年、いや二年、お前がどれだけ努力してきたかその結果が出るわけだなと先生に或る意味脅かされて、拙生は学校を後にしたのでありました。勿論向かった先は吉岡佳世の入院している病院であります。
「東京は、馴染めそうね?」
 吉岡佳世のお母さんがベッド脇にある台の上の、写真立てに入れられている写真を凝視している拙生に聞くのでありました。
「いやあ、なんとも云えんばってん、まあ、今のところ、問題なかて思うですけど」
 拙生はお母さんの方へ顔を向けて云うのでありました。「第一まあだ、入試の結果も判っとらんから、ひょっとしたらこっちで、浪人生活て云うことになるかも知れんですよ」
「井渕君のことけん、大丈夫さ、屹度」
「いやあ、これがあんまい当てにならんとですよ、困ったことに」
「どっちにしても、金曜日にははっきりするとよね」
 吉岡佳世が云うのでありました。拙生はそれに頷きます。
「金曜日に発表のある大学が第一志望ね?」
 彼女のお母さんが聞きます。
「いやあ、受けた大学が皆同じくらいのレベルのところけんが、そこが第一志望て云うこともなかとですけど」
 拙生はそう云いながら、試験で吉岡佳世の写真のお陰で「朱元璋」と云う漢字を思い出したのは金曜日に合格発表のある大学だったから、受験当初は入れてくれるところがあればどこでも良しと考えていたのでありましたが、因縁から、そこが第一志望のような気になっていたのでありました。
「あ、そうだ」
 吉岡佳世が突然そう云ってベッド脇の台の引き出しを開けるのでありました。「これ、返しとかんといかんかった。うっかりしてた」
 彼女が取り出したのは拙生が預けた万年筆でありました。「はい、これ。井渕君、今まで貸してくれて、どうも有難う」
「ああ、うん、・・・どうも」
 拙生は此方が返却を受けたのでありますから、一緒になって有難うと云うのはおかしいかと考えて不明瞭な言葉を漂わせるのでありましたが、これで彼女が拙生の合格祈願をしてくれたわけですから、当然有難うと云って受け取っても良かろうと思い直したりしているのでありました。
(続)
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枯葉の髪飾りCⅩⅧ [枯葉の髪飾り 4 創作]

 吉岡佳世はまたベッド脇の台の引き出しを探り、拙生が渡した万年筆のスペアインクも返してくれるのでありました。スペアインクは全く減っておらず、寧ろ一箱分多く返ってきたのでありました。
「井渕君が持って来たインクは使わんかったの。インクまで借りたら悪いけん。だからお母さんに頼んで、二箱買ってきてもらったと。一箱はその残り」
 吉岡佳世はそう事情説明するのでありました。
「それから、これ」
 吉岡佳世はそう云いながら、やはり引き出しから三冊のノートを取り出すのでありました。「これがあたしの、おまじないノート」
 彼女は三冊のノートをひらひらと振って見せます。
「お、ちょっと見せてくれ」
 拙生がそのノートを受け取ろうとすると彼女は胸に抱えこんで、拙生の手からノートを庇うのでありました。
「ダメ。あたしの字、汚いもん。それにまだ結果の発表前やから、今見せてしてしまうと、威力の落ちるかも知れんもん」
 ああ成程と思って拙生は出した手を引くのでありました。夫々のノートの表紙には拙生が受験した大学の名前が大書してあるのでありましたが、それだけはちらと見えたのでありました。そのノートの中に「合格」と云う文字がびっしりと書きこんであるはずであります。吉岡佳世の労を思うと拙生は頭を深々と下げなければなりません。
「ほんじゃあ、合否のはっきりしたぎんた、見せて貰おう」
「なんか、ちょっと恥ずかしい感じのする、改まって井渕君に、見せてて云われると」
 吉岡佳世はそう云いながらノートを余計庇うように胸に抱き締めるのでありました。「それに、もしもよ、もしも井渕君がどこも不合格やったら、申しわけない気もするし」
「大丈夫さ。井渕君は絶対何処かに受かっとるさ」
 彼女のお母さんがうけあってくれるのでありましたが、さてどうなることやら。
「そがん、胸にノートとか圧しつけても、もう痛うはなかとや?」
 拙生は吉岡佳世に聞くのでありました。
「うん、こんくらいは全然大丈夫。もう傷の痛みは、殆ど感じないけん。でも、大きな傷跡は、はっきり残ってるとけどね」
 吉岡佳世のその言葉に彼女のお母さんが悲しそうな顔をするのでありました。拙生としても急に彼女が気の毒になって、受けて返す言葉に窮するのでありました。
「あ、そうだ、井渕君、傷跡、見る?」
 自分の言葉によって雰囲気が少し重苦しくなったのを嫌って、吉岡佳世がそんなことをおどけた口調で拙生に云うのでありました。
「いやあ、それは・・・。そがんことは・・・」
 拙生はどぎまぎとして言葉を縺れさすのでありました。拙生の顔が赤くなったのを見て吉岡佳世が悪戯っぽく笑ってみせます。
(続)
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枯葉の髪飾りCⅩⅨ [枯葉の髪飾り 4 創作]

 最初に結果発表のあった大学に幸いにも拙生はどうにか合格していたのでありました。大学まで合格者の張り紙を見に行ってくれた東京の叔母から午前中に電話があったらしく、学校が終わって例によって吉岡佳世を見舞って帰った拙生は母親からそのことを聞くのでありました。合格証と入学に必要な書類は叔母が貰って帰って、その日の内に此方へ送ってくれたとのことでありました。拙生はそれは嬉しくはありましたがなんとなく合格と聞いた途端に気が抜けて、まあ呆気ないものだなと云う感想しか涌きあがってこないのでありました。その夜に東京の叔母へ足労をかけた礼の電話を入れ、行くのはその大学に決めるから残りの所に関しては、合格発表を態々明日見に行って貰わなくともよい旨告げるのでありました。知名度も合格した大学が一番あるようなので、拙生の母親もその大学に決めたことに異論はないのでありました。
 叔母への電話を切った後に拙生は吉岡佳世の家に電話を入れるのでありました。電話に出たのは彼女のお父さんでありました。拙生はお父さんの声を受話器の向こうに聞いた途端、少し緊張して丁寧な言葉遣いで入試に合格したことを告げるのでありました。彼女のお父さんからは此方が恐縮するくらい大袈裟に祝いの言葉を貰って、拙生は大いに照れるのでありました。
「井渕君のことだから合格は間違いないとは思っていたけど、大したもんだ。佳世に報告方々、明日も病院に見舞いに行ってくれるんだろう?」
「はい、一応その積りです。毎日んごと顔出しして、図々しかですけど」
「いやいや、そんなことはないよ全然。変に気を回すことはないから。それに佳世に井渕君の口から直接そのことを云って貰えれば、佳世も一層喜ぶだろうし」
「はい、色々、心配して貰うとるしですね」
 拙生はその電話を切った後に、後でなんで吉岡佳世の家にだけ報告の電話を入れたのか母親に変に勘繰られるのを恐れて、その後隅田と安田にも電話をするのでありました。そうすれば親しい友人何人かに報告を入れたと云うことで、なんとなく不自然な印象は持たれないであろうとその辺は必要以上に気を回すのでありました。
 翌日の吉岡佳世の入院している病院へ向かう拙生の晴れがましい顔と云ったら、今思い出しても恥ずかしくなるくらいでありました。
「昨日発表のあった大学に、運良く合格しとったばい」
 拙生は吉岡佳世にあまり得意げな風に見えないように、努めてさらりと云うのでありました。
「本当、凄い!」
 吉岡佳世はそう云って口元に手を当てて喜んでくれるのでありました。
「井渕君おめでとう」
 彼女のお母さんもそう云って嬉しそうな顔をしてくれます。
「おまじないのおかげぞ、九割方は」
「そんなことないって、井渕君の実力だって」
 吉岡佳世がそんなことを云って拙生を心地よく照れさせてくれます。
(続)
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枯葉の髪飾りCⅩⅩ [枯葉の髪飾り 4 創作]

「合格のお祝いばせんといかんね、それは」
 彼女のお母さんが云うのでありました。「なにか欲しかもんとかあるね、井渕君は?」
「いやあ、そがんことばしてもらうぎんた、困るです」
 拙生は頭を掻くのでありました。
「すぐに東京に、また行くと?」
 吉岡佳世が聞きます。
「いや、手続きとかは全部郵送とかで出来るて思うけん、卒業まではこっちに居る」
「色々と、あっちで用意のあるとやなかと?」
「まあ、落ち着き先も叔母さんのやっとるアパートに入る手筈やから、そがんなんやかんやと用事はなかやろう。四月になってから向こうに行っても、間にあうて思うとるとけど。色々所帯道具とか揃うまでは、叔母さんの家に厄介になればよかし」
「そんなら佳世が退院したら、そのお祝いと一緒に、井渕君の合格祝いもいしょうか」
「そうね、そうしようよ。うん、それがよか」
 吉岡佳世が手を打つのでありました。
「隅田君や安田君、それから島田さんはどうやろうか、受験は?」
 彼女のお母さんが拙生にとも吉岡佳世にともつかない風に問うのでありました。
「安田と島田はぼちぼち判るとやなかですかね。隅田は少し先になるばってん」
「ああそうね。隅田君がはっきりしてからの方がよかかね、皆一緒にお祝いするとしたら」
「お祝いになるか、残念会になるか判らんですよ、まだ」
「お、余裕の発言ね、それは」
 吉岡佳世がそう云う拙生をからかうのでありました。
「いや、別にそがん積りじゃなかとけど」
「そんなら、あたしの退院祝いと、皆の卒業祝いて云うことにすれば、よかとやなか?」
「ああ、そうね、卒業祝いたいね、名目は」
 彼女のお母さんがそう云った後吉岡佳世を見ながら続けるのでありました。「佳世は四月の卒業は、多分無理やろうけど」
 そう云われて吉岡佳世はなんとなく笑っているのでありましたが、内心彼女はそれがとても残念なのでありましょう。この四月から誰も知り合いの居ない下級生の中に混じってもう一度三年生として高校に残るのは、ひどく心細かろうと拙生は彼女の気持ちを推し量るのでありました。出来れば自分も一緒に卒業したかったでありましょうが、それはもう絶対無理であると自分でも諦めているようであります。
「兎に角、そう云うことで決まり。早く退院したかよ、あたし」
 吉岡佳世が努めて陽気に云うのでありました。「お母さん、あたしの退院の日はいつになったと?」
「一応、来月の初めて云われとるけど、結局あんた次第さ」
「そうか、よし、あたしも頑張らんと」
 吉岡佳世はそう云って華奢な拳を顔の横に突き上げて見せるのでありました。
(続)
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