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毛布と拙生のややこしい関係Ⅰ [本の事、批評など 雑文]

 夏場、暑くて寝しなに剥いでいたタオルケットが、明け方に体が冷えて目が覚めて必要とする時には布団の上にはなく、足もとの遥か手の届かないところにあって、態々拙生は上体を起こしてそれを取らなければならない場合があります。すぐ横に、掛けようと思えばすぐに掛けられるように用意していたはずのタオルケットは、いざその瞬間を迎えた時には決まって、在るべき場所から遥か遠方に勝手に移動してしまっているのであります。
 これが冬の夜となると、布団に潜りこんで蹲り足先の冷えが体から抜け去る時を今かいまかと待っていても、いつまで経っても足先は氷のように冷めたいままで、その間は寝つけないで困ってしまうことがあります。敷布団と毛布と掛け布団の関係の何処かに破綻が起きていて、きっとそこから冷気が侵入してくるためであります。拙生は足を動かしてまず毛布の具合を平らに均し、どこかにあるであろう隙間を塞ごうと試みるのであります。しかしやはりまだ冷気の侵入口は完全に塞がれてはおらず、足先は冷たいままであります。仕方なく一旦起きあがって布団を取り除け、毛布を少しの隙間もない様にきれいに均し直してから、その上で掛け布団を被せて、この布団もこれでもかと云うくらい平らに均して、静かに毛布と布団の形状に動揺を与えないように体を中に納めていくのであります。しかしまだ冷気は何処からか侵入してきます。首元が怪しいと思い毛布を手繰り上げて首の辺りの隙間を埋めるのでありますが、その手繰り上げ方が悪かったのか、またぞろ足先の方から冷気は布団の中に忍びこんで来るのであります。やれやれ。
 ユーリー・カルロヴィチ・オレーシャの『羨望』(集英社文庫・木村浩訳)と云う小説の冒頭辺りにある「わたしはいつも毛布とややこしい関係をもつ」と云う記述を思い出すのであります。その前後を引用すると「品物はわたしを愛してくれない。家具はわたしに脚払いをくわせようと機会をうかがっている。ワニス塗りの何かの角が、いつだったか、文字どおり、わたしに噛みついた。わたしはいつも毛布とややこしい関係をもつ。わたしに出されるスープはいつまでたってもさめない。何かちょっとしたもの-お金とかカフスボタン-が机から落ちると、それはきまって、どけにくい家具の下に転がりこむ。わたしは床を這う。そして、頭をあげると、食器棚が冷笑しているのが見える」とあります。
 オレーシャは一八九九年ウクライナでポーランド人の家庭に生まれ、十代で黒海沿岸のオデッサでロシア革命に遭遇し、その後モスクワに出て『羨望』で一躍ソヴィエト文学の寵児となった作家であります。『羨望』はオレーシャの社会主義体制との齟齬感をリリカルに表現した作品でありますが、社会主義リアリズムがソヴィエト文学の基調、と云うかそれ以外のものは容認しない体制の中にあって、彼は次第に書く場を失って、時に沈黙し、時に体制賛美の評論や映画シナリオを書き、困窮し酒に溺れ、その後スターリン体制の終焉で彼にも雪解けが来たのですが、一九六〇年六十一歳で此の世を去ったのでありました。オレーシャに関しては、最近では岩本和久氏の『沈黙と夢-作家オレーシャとソヴィエト文学』(群像社刊)に詳しいのでそちらを読まれるのをお勧めするのでありますが、拙生は先に引用した記述に関して、ちいと軽いこと等書いてみたいと思います。
(続)
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毛布と拙生のややこしい関係Ⅱ [本の事、批評など 雑文]

 ロシア文学の大概に漏れずオレーシャの『羨望』も、全体的に重苦しい気分に満ちております。社会主義体制に対する違和感を表現しようとした作品でありますから、当然そんなに明るい作品になるわけはないのでありますが。しかしどうしてロシア文学には沈鬱で己が運命を嘆き悲しむと云った類のものが多いのでありましょうか。その気候のせいでありましょうかな。まあしかし、拙生はロシア文学についそんなに詳しいわけではなし、またさほど多くの作品を読んでもおりません故、中には底抜けに明るいものもあるかもしれません。ロシア小噺集とかいったものを読むと結構洒脱で軽いタッチの噺も多く、自虐ネタもあって、ロシア人が皆深刻面をしているとは思われませんし。
 しかし『羨望』はやはり結構重苦しいのであります。だからこそその重苦しさの中で「・・・わたしは焼け切れた時代の心臓をふってみたいのです。心臓の電球の切れた線がふれあうように。・・・そして、一瞬の、えもいわれぬ美しい輝きを呼び起こしたいのです」とかの言葉に、読者としては縋りつくように感動と美しさを見出すのかも知れません。また、重苦しい『羨望』ではありますが、突飛であるけれどぴんとくる比喩、その比喩を駆使して日常的なものを異化し、まったく新鮮なイメージにしてしまうオレーシャの手法にわくわくさせられるのであります。この辺は先に挙げた岩本和久氏の著書に詳しく論じられております。ここで最初に引いた「品物はわたしを愛してくれない。・・・」に戻ると、岩本和久氏はメアリー・シェリーの『フランケンシュタイン』、「ロボット」と云う単語を生み出したことでも知られるチャペックの戯曲『R・U・R』の主題たる「事物の反乱」と絡めてオレーシャの手法を語られるのでありますが、この辺りは拙生の出る幕などありません。
 拙生がこの表現に接して最初に持った印象は、結構ポップじゃないか、と云うものでありました。「おお、これは云えてる」と感心したのであります。時間の前後も顧みず敢えて云うと、少し前に流行った『マーフィーの法則』と云う本のノリであります。これはその先駆的な記述ではないでしょうか。日頃なんとなく感じていた別に大した不条理とも云えない不条理を、この作家も自分と同じように感じていたのだと云う共感であります。オレーシャと云う作家の背景もロシア文学史における位置づけも知らず、ただその本の題名たる『羨望』と云う文字になんとなく惹かれて手にはしたものの、読みはじめてどこか調子が出ずにいたのですが、すぐにこの記述があって、これでちょっと読み進む意欲が出てきたのであります。まあ、この記述のおかげで途中下車をせずに最後まで作品を読まされたと云った感じでありますか。
 しかし読み進めば、先に云ったように煌めくような比喩や、イメージの多彩さと云った作品の素晴らしさに次第にのめりこみ、一気に読み終わったのであります。二十代前半の閉塞感とか憂鬱とか、その時代の流行りものに対する意味不明の反発やらを抱えて、鬱勃とした時間を過ごしていた身にあっては、社会主義と云う新しい時代に齟齬をきたしその孤立感を表現するこの作品に、なんとなく救われたような気がしたのであります。
 夜中に、二十歳を少し越えた拙生は布団とのややこしい関係を持て余しつつ、隙間から侵入する冷気と闘いながらオレーシャの『羨望』の項を捲っているのでありました。
(了)
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『孫子』と云う書Ⅰ [本の事、批評など 雑文]

 云うまでもなく中国の古典であります。『呉子』『三略』『六韜』等と並ぶ兵書であり、扶桑では最もよく馴れ親しまれた兵書と云うことが出来るでありましょう。
 戦国武将武田信玄の「風林火山」の旗印はこの『孫子』からとられたと云うのは夙に有名であります。四文字と云うのは語呂もリズムも良くてそれで「風林火山」となったのでありましょうが、この後に「難知如陰」(知り難きこと陰のごとく)「動如雷震」(動くこと雷の震うがごとくして)と続いて「風林火山陰雷」の六文字を揃えるのが本来かと余計なお節介的に、且ついちゃもん的に愚考するのであります。拙生としては後の「陰」と「雷」の方に詩的な余韻をより強く感じるものでありまして、どうやら武田信玄と拙生は言葉に対する感受性に微妙な乖離があるのでありましょう。もっとも『孫子』の言葉に感ずるところがあったと云うことのみ一致点としても、向こう様と拙生ではその存在の大きさからして月と鼈、駿河の富士と一理塚、中国の黄河と家の近所にある道路脇の側溝くらいの決定的な開きがあるのでありますから、感受性の乖離があろうがなかろうが向こう様にとっては拙生との対比そのものが、失笑を通り越して迷惑の沙汰ではありましょうが。
 この『孫子』でありますが春秋時代の呉の闔廬に仕えた孫武のものしたものであるか、戦国時代の斉の孫臏の手になるのか大いに論争のあった書であります。軍団に於ける戦車、歩兵の比率や騎兵の登場等、春秋時代の戦争形態と戦国時代のそれを鑑みれば『孫子』が春秋時代の戦争形態を背景にものされていると云う分析が成り立ちます。またしかし仮定されている戦争の規模や、中で使われている用語は戦国時代のものに近いとも云われていて、孫武と孫臏どちらの手になるものであるのか、または後世の誰かが著したものかは俄かには判ぜられなかったのでありました。三国志で有名な魏の曹操が孫武に名を借りて、その内容は実は自ら作ったものであると云う説もあるくらいであります。記録としては前漢武帝時代の司馬遷の『史記』にも「孫子・呉起列伝」の中に孫武に十三編の著作があったことが記してあり、孫臏の兵書も後の世まで伝わっているとあります。『漢書』にも呉の孫子兵法八十二編と斉の孫子兵法八十九編の書名が記録されております。
 現行『孫子』十三編は『史記』に記されている孫武の著作と編数が一致することから、孫武のものと従来考えられていたのでありました。また『孫子』の虚実編に「越人之兵雖多」と云う語句があるところを見ても、この著者が越を敵国と認識していることが明白であり、そうであるなら『孫子』の作者は孫武であるとすることに異の差し挟まれる余地はないと云う論であります。しかし後世の人が前の時代に仮託して書けば、そう云うことはある程度簡単に一致を目論むことは出来るのでありますし、それだけで孫武の作であることの明証にはならないでありましょう。この十三編が孫武の作そのままであるのかそれとも呉の孫子兵法八十二編と斉の孫子兵法八十九編の中から、例えば曹操辺りが新たに編み直して『史記』との整合性を考えて十三編としたのか、または多くが失伝した中で辛うじて十三編が残ったとするのかは説の分かれるところであります。孫武か孫臏かあるいは別の第三者か、作者をめぐる謎は『孫子』と云う書を考える上でなかなか魅力的な謎と云えるでありましょうか。
(続)
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『孫子』と云う書Ⅱ [本の事、批評など 雑文]

 一九七二年に山東省銀雀山の前漢時代の墓から『孫子』に関わる竹簡が発見されました。その分析により現行十三編の『孫子』に当たる資料と、これとは別に孫武の他の兵書及び孫臏オリジナルの兵書が出土したことで『漢書』にある呉の孫子兵法八十二編と、斉の孫子兵法八十九編の存在が事実であったことが確認されました。また、よって現行十三編からなる『孫子』は孫武の作であることが判明したとされました。
 しかし現行十三編のものとは別に孫臏オリジナルの兵書が出土したこと云うことだけでは、現行の『孫子』が孫武の著したものであると云う証明には、直接的にはならないのではないでしょうか。それは講談社学術文庫版の浅野裕一氏編『孫子』の解説にもあります。実はこの拙文はこの文庫本に触発されて書いているのであります。
 浅野裕一氏はここを指摘された上で、尚且つ現行十三編の『孫子』は孫武のものであると結論されています。先に記した『孫子』虚実編の「越人之兵雖多」と云う語句と、それを語る「吾」をキーワードに『孫子』を著した人物が呉王に加担していると云う状況を明示し、斉王に仕えた孫臏では『孫子』の状況設定上からも在り得ないとされます。また曹操の筆削説も曹操が自分の解釈で勝手に改竄したのではなく、出土した銀雀山竹簡と曹操が「撰びて略解を為」ったとされる現行『孫子』十三編が殆ど一致するとこ、曹操自身が孫武をその作者とする前提を明記していることで『孫子』は孫武の作になることは疑いないと解説されます。この浅野裕一氏の『孫子』は銀雀山出土の竹簡本をテキストとして使用してあり、最古のテキストを底本とされていると云うのは大変な魅力であります。そのための労の甚大であったことは察して余りあるものがあります。まあ、一読者たる拙生ごときが氏の労を察しても、これはむしろ僭越であると云うだけではありましょうが。
 しかしながら拙生、浅野裕一氏の論を重きとするに吝かでないのではありますが、敢えてこう推論することも可能であろうと思うのであります。即ち、現行『孫子』十三編はやはり孫臏或いは孫臏学派の人達が自学派を権威づけるために、学派内に伝わる派の開祖たる孫武の書として、実は彼等が編んで世に出したのではあるまいかと。
 孫臏は孫武の子孫であると『史記』にあります。本当のところは判らないとしても、孫臏はかつて呉王に仕えてその功績大であったところの孫武の兵学の流れを受け継ぐ者として自らを規定し、孫臏兵学を興すに於いて天下に広く知られていた先祖(?)たる孫武の偉業を取りこむことで、学派の権威を高めようとしたと勘繰ることも出来るのであります。
 馬陵の戦いで参謀として名を天下に顕した孫臏は戦の神様と讃えられ当然その弟子志望者も多かったでありましょう。彼の学派が形成され、それは孫臏の業績で充分な権威を獲得出来たでしょうが、しかし学派が大きくなると更にもっと大きく揺るぎない権威が希求されたでありましょう。それは当然学派に歴史性を付与することであります。長い歴史に裏打ちされ実戦での効用も無比となれば、これはもう天下無敵の大学派の完成であります。
 この天下無敵の大学派の聖典として編まれたのが現行『孫子』十三編ではなかったのか、と云うのが拙生の勝手な気儘な推察であります。当然孫武について伝えられているもの、当時の戦争形態等を慎重に背景に使いながら、観念的抽象的な表現と錬られた名文を連ねて、孫臏或いは孫臏学派の人達が孫武著とする『孫子』を編んだのであります。
(続)
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『孫子』と云う書Ⅲ [本の事、批評など 雑文]

 昔から云われていたことでありますが『孫子』は具体的な戦術や、戦争に実際に役に立つ方法が散りばめられた書と云う体裁ではなく、観念的で示唆に富んだ(示唆する程度に止めた)兵学書であります。決して実用書ではなく、それは哲学書の様な、また文学書の様な香りすらするのであります。読んでいるとその格調高い文章に酔うようであります。そしてここが第一に「臭い」のであります。
 当然のこととして学派の聖典でありますから、こう云う時はこうしましょう的な具体性を避けてなるべく抽象度を上げて記述する必要があります。しかも拙生のものしているこの雑文のような、品格も風格もあったものじゃないような書き方や言葉遣いも禁物であります。あくまで格調高く重々しく原則のみを並べるのみであります。語句の解釈に幅をもたせるような記述の方が目的に適っております。
 戦争の形態は兵器の進化によって劇的に変化します。ですから妙に具体的な兵器の使用等はなるべく明瞭に記述せず、春秋時代の戦争の背景としてなるべくぼんやり記述しておく方が無難であります。当然孫武の時代の戦いを臭わす必要から騎馬戦術等の孫臏の時代の常套戦術は記述しません。その辺りは巧妙に注意深く記述します。自ずと抽象度の高い書き方しか採用出来ないのであります。
 聖典は長く読み伝えられなければなりません。また後学のために様々な解釈が可能なように書かれなければなりません。『孫子』の抽象度はこの要望に見事に合致しているように思えてならないのであります。
 孫臏学派はこうして、まず遡ること百年余に開祖である孫武が出現して学派の基を築き、その兵学の精髄たる十三編からなる『孫子』を残したと云う学派起源伝説を創りあげます。それが子孫たる孫臏にまで営々受け継がれ、孫臏はその奥儀を極めた者として斉の威王に仕え、将軍田忌の軍師として自らの兵学を駆使し斉を軍事の強国へと導いたとするのであります。孫武によって開かれた孫家の兵学は孫臏によって大成され、天下無敵の兵学とし隆盛をみたとするのであります。
 孫臏は後に敵となる龐涓と伴に兵法を学んだと『史記』にありますが、これは拙生の論でいくと当然孫家に伝わる兵法であることになります。孫臏は孫家兵学の後継者となるべく自流の最高師範格の先生に就いて学んでいて、その同窓に龐涓が居たと云うことになります。この推論は少々無理がありますかな。拙生はそうでもないと思うのでありますが。そして紆余曲折の後功成り名遂げて孫臏は孫家兵学の中興の祖となったのであります。これが孫臏或いは孫臏学派の人々が創りだした流派の歴史ではないかと考えるのであります。でありますから『孫子』十三編は孫武の書ではなく、孫臏或いは孫臏学派の人達が自派の権威づけのために世に出した書であろうという結論であります。ま、まったくの推論であり、資料的な裏付け等はないのでありますが、こう云う『孫子』の楽しみ方もあっても良かろうと思うのであります。
 とまれ『孫子』はその抽象度と名文の故に二千年以上後の拙生等が読んでも、まことに面白い書であります。但しこの書を兵学書として読むのは、これは実はかなり危険であるような気もしてくるのでありますが。
(了)
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不射之射-中島敦『名人伝』などⅠ [本の事、批評など 雑文]

 その煌めくような才能から将来の大成を期待されながら、昭和十七年に僅か三十三歳でこの世を去った作家中島敦は、祖父が儒者であり父が中学校の漢文教師と云う家に生を受けたのでありました。祖父以来その家系は儒家を多く出し、漢学的儒教的教養の中で彼はその文学的な背骨を形成したのでありました。中国古典を教養としながら、またカフカやガーネット等の影響によって西洋的な実存主義的思考や美意識を血肉に、人間の根源的な深み向かってに突き進むように作品世界を展開した作家であったと云えるでありましょう。
 世に出た最初の作品『山月記』は昭和十七年二月に「文学界」に掲載され、その年の暮に『名人伝』を発表してすぐに喘息によって彼はこの世を去ったのでありました。文学的にひどく短い生涯でありますが、中島敦の遺した作品は“和氏の璧”のごとく、今も鋭く美しい光彩をこの世に放ち続けているのであります。
 作品『名人伝』は中島敦の遺作であります。中国戦国時代に編まれたとされる道家の思想書『列子』中の寓話から素材を得たもので、天下第一の弓の名人になろうと志を立てた紀昌と云う男の鍛錬譚であり、その射芸の極みに至った紀昌の人間的変貌、道教的な真人達成譚であります。中国の武芸を含む諸芸事の至芸観は不案内でありますが、扶桑のそれは作品中の紀昌の言「至為は為す無く、至言は言を去り、至射は射ることなし」と云う道教的境地に到達することをもって完成とされる場合が確かに多くみられます。仏教で云えば真諦と同じ位相に昇ることでもありましょうか。技術であるところの芸事も、極めれば技術を去って道教的境地若しくは仏教的悟りの境地を獲得することになるようであります。そしてその境地こそが到達するべき地平とされるのであります。道教や仏教に深く影響を受けた扶桑の歴史的文化的な背景から、武道を始めとして扶桑の諸芸が道教や仏教思想と結びついてその至芸観を確立しているのは当然でもありましょうか。それならばいっそのこと芸事を志すのはやめにして、初めから道教か仏教を学べばよかろうものをと短略するのは拙生の至らないところであしまして、こう云った至芸の境地からは程遠いところで今だ右往左往しているこの拙生でありますが、まあ、それはさておき。
 作品『名人伝』の紀昌はまず術の大家たる飛衛と云う名人の門に入ります。ここでは瞬きしない目、微を著のごとく見ることの出来る目を養えと云われて、これに五年を費やした後にようやく奥儀伝授となるのであります。その腕前師匠と同格となるや遥かに高い技を有すると云う霍山の甘蠅老師を教えられ、今度はその門に入るのであります。甘蠅老師は紀昌に「不射之射」を伝授します。射技の極みに至った者は既に矢を射る必要もないのであります。老師は断崖上に突きだした危石の上に手ぶらで立って「弓矢の要る中はまだ射之射じゃ。不射之射には烏漆の弓も粛慎の矢もいらぬ」と云って弓も矢も持たない素手で見えざる矢を無形の弓につがえて空に放てば、高所を飛ぶ鳶が中空から石のごとく落ちてくるのでありました。紀昌はこの芸道の深淵を見せられて慄然とするのであります。
 甘蠅老師の下で九年間修業をした紀昌は山を下り戦国時代の趙の都邯鄲に帰ってきたのであります。その紀昌の顔つきと云うものは過日の精悍な面魂は消え失せ、無表情の木偶のごとき容貌に変わってしまっているのでありました。嘗ての師飛衛はこの紀昌の顔つきを一見し、これこそ天下の名人であり自分は足下にも及ばぬと叫ぶのでありました。
(続)
タグ:中国 中島敦
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不射之射-中島敦『名人伝』などⅡ [本の事、批評など 雑文]

 邯鄲の都人士は天下一の弓矢の名人紀昌が妙技を披露するのを待ちに待ったのでありました。しかし紀昌は一向に弓矢を手に取ろうともしないのであります。そのわけを質した者に紀昌は先に紹介した「至為は為す無く、至言は言を去り、至射は射ることなし」ともの憂げに云うのでありました。成程名人とは斯くやと人々は納得し紀昌の評判は愈々上がるのであります。そんな中で紀昌は老い、益々枯淡虚静の風情濃くして、遂に帰国後一度たりとも弓矢に触れることなくこの世を去るのでありました。
 技芸を極めれば、即ちその技より乖離して技に囚われることなく、至高の境地は遂にその境地すら遺棄して憚らず「既に、我と彼との別、是と非との分を知らぬ。眼は耳の如く、耳は鼻の如く、鼻は口の如く思われる」ような模糊たる生の在り様を示すようになると云う話であります。ここまで至らずとも成程古今の武芸者、芸術の徒にこうした大家は確かに居たような気がいたします。至芸極北に至って獲得した生の在り様、扶桑の風土の中に存在するそう云った道教的真人のような姿を至高の達者として崇める気分を、中島敦は『名人伝』の中で描いたのであります。
 この至高たらんとする意思の成り果てる末は『山月記』の中でも形を変えて、幾らか自虐的に、また心情吐露的な文学的色艶を付加して語られるのであります。『山月記』は頑なで自らの才を恃み賤吏に甘んずることを潔しとせずに、人交わりを絶ってひたすら詩作に耽る李徴と云う男が、結局貧窮に絶えず節を屈して木端役人の職を奉じて、嘗て彼が鈍物俗物として軽視していた連中の下で自尊心を傷つけながら働く内に、遂に発狂して闇の中へ分け入り再び戻ることはなかったと云う物語であります。李徴はその後虎に姿を変え、次第に一頭の完全なる虎と成り果てていくまでの間の、時に還って来る人間としての意識の中で己が人間であった頃の悔悟や、虎と化しても尚自分の詩業を一部でも世に残さんとする芸術的未練を、その友人だった袁傪に表明します。唐代の『人虎伝』と云う説話を借りて、中島敦は自分の詩的才能への矜持と、同時にある意味で醜くもあるその自尊心と羞恥心を相対化して見せたのでありましょう。
 作品『李陵』の中でも、人の意思、煩悶、在り様の極北を中島敦は描いて見せます。漢の武帝時代に匈奴との戦いに敗れその俘虜となり、遂には匈奴に溶けて再び漢へ戻ることのなかった勇将李陵。その李陵を正義感から一人弁護したが故に宮刑を蒙りながら、しかし己が使命とするところを全うし『史記』を書き上げた司馬遷。李陵が俘虜となる一年前に漢の和平使節団長として匈奴に赴き、匈奴の内紛に巻きこまれて囚われの身となり、節を曲げないが故に大凡考えもつかない様な辛苦を舐めることになった蘇武。この三者の云ってみれば境遇としての極北とその極地の中での夫々の生き様、煩悶、葛藤それに意志を描いたこの作品は、中島敦の文学的指向を見事に表明した作品と云えるでありましょう。
 もし中島敦がもっと長い生を得ていたとしたら、彼は中国の古譚や歴史を借りて、人間の最も深い一面と隠れて容易には見えない普遍性や特殊性、それに実在の姿をその美しい言葉で我々に垣間見せてくれたのではないかと思うのであります。返すがえすも、中島敦はあまりに早くこの世を去りあまりに少ない作品をしかこの世に残さなかったのが、拙生には残念で仕方がないのでありますが、これは云っても詮ないことであります。
(了)
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プラムディヤ選集は今後 [本の事、批評など 雑文]

 先日のこと、覘いた本屋でインドネシアの作家プラムディヤ・アナンタ・トゥール氏の『ガラスの家』(押川典昭氏訳・めこん刊)を見つけて、おやと思って買ってきたのでありました。十年程前にめこんと云う出版社で出されている氏の選集第六巻『足跡』を買って以来、待てど暮らせどこの第七巻『ガラスの家』が出版されず、出版取り止めにでもなったのだろうと勝手に思っていたのでありました。この『ガラスの家』は奥付が二〇〇七年に第一刷発行となっており、今が二〇〇九年でありますからこの一年半の時間差に関しては、本屋の棚を眺める拙生の注意不足に依ると云うべきでありますが。
 最初に氏の『ゲリラの家族』(同じく押川典昭氏訳・めこん刊)を、なんとなく買ってきたのがもう二十年程前のことになります。独立戦争時のジャカルタで或るゲリラの家族に起こった出来事を通じて、革命と戦争下で苦悩するインドネシア民族の姿を描こうとしたこの作品に魅せられて、めこんから刊行される氏の選集を貪るように読んだのでありました。『ゲリラの家族』が一九八三年、少し間を置いてブル島四部作の第一部『人間の大地』上巻が一九八七年、同下巻と第二部『人間の大地』上下巻、それに第三部『すべて民族の子』上下巻が一九八八年に立て続けに出版されました。拙生が『ゲリラの家族』を読んだのが一九八八年頃で、ここまでは間断なく氏の作品に触れることが出来たのでありました。
 その後十年程空白があって一九九八年に第三部『足跡』が出版されて、随分待たされたと云う感じを受けたのでありました。第一部の『人間の大地』などは場面の印象が薄くなっていたり、物語の推移が曖昧になっていたりするものでありますから、もう一度さらっと読み返した後にようやく『足跡』の表紙を開くのでありました。第一部と第二部が立て続けに出たのでありますから、第三部『足跡』と第四部『ガラスの家』も続けて出版されるものと期待したのでありますが、しかし結局約十年待つことになったのでありました。
 押川典昭氏のあとがきによれば「この小説の原本にはおびただしい数の誤りがあり、最新版でもほとんど訂正されていない」ということであり、著者自身が原稿の見直しや校正はしないことを信条にしているようでもあって、翻訳の御苦労は並大抵のものではないことは理解出来るのであります。元原稿とインドネシア語初版テクストの全文照らし合わせ、第二版以下との照合、著者独自の用語法や文体を勘案しながらの校訂作業は、想像するだけでも気の遠くなるような作業であります。邦語出版に完璧を期すべく努力の最大を傾注されている翻訳者の塗炭の苦しみを一考だにせず、のほほんと出版の遅さにやきもきするのは、これは一読者たる拙生の方がちいとばかり身勝手と云うものでありますか。
 しかしそう反省しつつも、こうしてようやくにブル島四部作の第四部を手にすることが出来た幸せを噛みしめるのではありますが、気になることが新たに出来したのであります。と云うのは『ゲリラの家族』以来、奥付の後ろの最終項にプラムディヤ選集全巻が今後の出版予定も含めて記載されていて『足跡』までは、第七巻『ガラスの家』の後に第八巻『夜市ようにではなく・他』と第九巻『追跡』が確かに載っていたのであります。しかし『ガラスの家』のそれにはこの二巻が記載されていないのであります。ひょっとして『ガラスの家』でプラムディヤ選集はお仕舞いとなるのでありましょうや。身勝手は重々承知ながら、やはりそれはやきもきする事態ではあります。
(了)
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遡行としての調べ-或るオルガニストの企てⅠ [本の事、批評など 雑文]

 先日、扶桑を代表するオルガン奏者の酒井多賀志先生から最新のCD『アイザック・スターンホールの須藤オルガン』をいただいたのでありました。宮崎県立芸術劇場にある須藤宏氏制作による巨大なパイプ・オルガンを駆使して、酒井多賀志先生がバッハの曲や自ら作曲された日本の童謡をテーマとした曲、八重山民謡をオルガンで展開した曲が収められたCDであります。夜、布団に入って、この中の「イントロダクションとフーガ ハ長調(新世紀21)」と云う先生の作曲された作品を聞きながら眠ったら、どうしたものかインドネシアのバリ島で見たケチャック・ダンスの夢を見たのでありました。それはこの曲が拙生の頭の隅で蹲っていた、嘗て強烈な印象を持ったケチャックの急変するテンポや意表を突く変調や、猿の鳴き声を恍惚状態で合唱するその迫力の記憶を、どう云う回路でかは判じかねますが微妙に刺激したからに他ならない故でありましょう。
 酒井多賀志先生はバッハをはじめ古典から現代までの幅広い演奏で高い評価を得ておられる演奏家であり作曲家でいらっしゃいます。同時に大学教授であり、カトリック教会のオルガニストでもあり、電子オルガンを軽自動車のバンに積んで演奏に日本各地を回られる、精力的なオルガンの伝道者でもいらっしゃいます。温厚な語り口がとてもチャーミングであり、オルガンへの直向きな愛情を熱く語られる方であり、職業柄肩と背中が異常に凝っていらっしゃる方であり、休日には何時も一人で高尾山に登っておられる方であり、買い物をしてお釣りの小銭をズボンのポケットに無造作に押しこんで、それが貯まりに貯まってポケットが何時もパンパンに膨らんでおられる方であり、煩雑な事務仕事に悩ましい表情をされる方であり、服装に無頓着で履いている左右の靴下の色が違っていても恬としておられる、達人の風格がゆかしく香る方でいらっしゃいます。拙生は先生から何時も、気持ちの平穏と、同時に創作的な刺激をいただいているのであります。
 先生は、勿論西洋古典音楽の忠実で創造的な再現者であると同時に、東の果ての国に生まれたオルガンと云う西洋楽器の演奏者として、その自分のレーゾン・デートルに何時も忠実たらんとされているように拙生には見えるのであります。先生自ら『流離/SASURAI』と云うCDの解説の中で「祈りの次元で音楽活動を続けてゆくことが、今の私の存在の意義だと思っております」と書かれておられます。これは当然キリスト者としての先生の音楽に対する関わり方の根底の思想に違いないのでありますが、しかしそれと同時にこの東の果ての国に生を受けた避け難い宿命に対しても、先生の視線は常にそれを正面から生真面目に捉えようとされているようにお見受けいたしします。先生の作品にはよく日本の童謡であるとか古謡等がテーマとして取りあげられます。日本人のオルガニストであると云う所与の条件に対して忠実であろうとされる先生の視線の生真面目さが、こう云った音楽活動の展開を不可避に引き寄せたものと拙生は思うのであります。それは例えば作家の遠藤周作氏の主要テーマ等と通じているのかも知れません。
 西洋的なものと日本的なものの齟齬をきたすことのない統合と云う主題は、日本が近代化の道を歩みはじめて以来、芸術の分野に限らず多くの先人たちが苦闘してきた主題とも云えます。それは弁証法的な統合を目指したものもあれば、道教的な達観として虚無的並列的に矛盾をも破綻をもそのままに引き受けようとした態度もあったでありましょう。
(続)
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遡行としての調べ-或るオルガニストの企てⅡ [本の事、批評など 雑文]

 西洋的価値観を主旋律とする近代国家としての日本と、古来からこの国に存在した旋律を主調とする歴史的国家としての日本の、齟齬をきたすことのない統合によって、云わば近・現代日本を生きる我々の拠点を確立しておきたいと云う欲求は、今だにこの社会のあらゆる分野の中で続けられている苦闘のように拙生には思われます。もっと云えば、これは日本に限ることなく、帝国主義の時代以降に西洋の文化や技術を享受した、或いは受け容れざるを得なかった国家が共通に持った課題であったし、今に至っても座りの良い結論を得ない儘、社会の基底部に刺さった棘のように疼く課題であり続けているものであろうと思われるのであります。
 こう云った文脈の中で酒井多賀志先生の作品を聞いてみると、先生が日本の童謡に魅かれ、しかしその童謡が西洋的楽譜の既定を逃れていないことから、古謡と伝統楽器である尺八や箏との合奏に歩を進められ、もっとこのテーマを遡ろうとされて、奄美島唄との協奏によってより源日本的な(それは弥生的なものから縄文的なものへと云えるのかも知れません)風景へ回帰を試みられている軌跡であろうかと愚考するのであります。完全音程を主体とする作曲及び演奏活動から童謡を主題にした活動、そして日本古謡、奄美島唄へと進まれる先生の足跡は、オルガンと云う西洋楽器を日本の風土に自然な形で溶けこませ、到達点として日本の楽器化する作業のように拙生には思われるのであります。
 神話学の吉田敦彦氏が『日本神話の源流』(講談社現代新書)と云う著書の中で、日本文化は「吹溜りの文化」であることを紹介されておられます。北方ユーラシアの狩猟民文化、西方の馬の飼育を特徴とする所謂騎馬民族の文化、それにインドを起源とする南西アジアからの農耕・漁労民の文化、そして南太平洋からインドネシア、フィリピンを経由して黒潮の流れに乗って伝播した文化が、日本列島に吹溜り、独特の固有の文化として醸されたとする説であります。この南太平洋ルートを酒井多賀志先生の足跡の中に嵌めてみると、先生の活動がこのルートを遡行されているような印象を持つのであります。日本の風土に、日本の文化に、日本人に回帰し、次にその源流に向かって歩を進める旅を想定するなら、先生は今奄美大島まで遡られたのであります。この先沖縄、フィリピンと辿られて遂にはインドネシアへとその足は向かわざるを得ないのであります。つまり、拙生のケチャックの夢も強ち的外れではないわけであります。それに其処が到達点ではありません。もっと其の先、メラネシア、ポリネシア、ミクロネシアへと遡行の旅は続くのであります。
 いやまあ、これは拙生の推論の勝手で無責任な飛躍であります。先生にはご迷惑な話かも知れません。マンドリンとオルガンの協奏を収めたCD『Fantasy』の中で「アジア的なもの、バロック的なもの、現代的なものを、すべて現在という立場で等価にとらえ、構成した」と先生は述べておられますが、つまりはこの境地が先生の目指されるところでありましょう。過度に日本的なものに拘るのでもなく、窮屈に足跡を整合させるのでもなく、云わば先生のあの笑顔のようにおおらかに総てのものを調和させようと云うのが、先生の姿勢の実際であるのでしょう。拙生はそんな酒井多賀志先生の曲を、勝手な推論や憶測を交えながらも、これからも歓喜をもって聞き続けるのであります。それに第一、オルガンをミクロネシアまで運んで行って演奏するのは骨でありますから。
(了)
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怨嗟と冷笑-永井荷風『狐』Ⅰ [本の事、批評など 雑文]

 永井荷風の短篇『狐』は嘗て彼の人が生まれ、幼少期を過ごした小石川金富町の記憶として語られます。そこは彼の人の父君永井久一郎が「旧幕の御家人や旗本の空屋敷」を「三軒ほど一まとめに買い占め」た広大な宅地でありました。先ずは『狐』の粗筋から。
 話はその屋敷内に残る樹木と二つの古井戸についての記憶で始まります。最初は一つの井戸側を取り壊す時の記憶として蟻や八十手や蚯蚓、小蛇等が這い出しのたうち廻り、枯れ枝を集めて燃やす火に掻き寄せて一緒に始末される気味の悪い光景が描写されます。次には深過ぎて埋める能わざるもう一つの井戸で、この井戸は邸宅のある地よりは一段低い崖下の「屋敷中で一番早く夜になる」忘れられた庭に在り、井戸は「風に吠え、雨に泣き、夜を包む」老樹に囲まれていて、まるで「夜は古井戸のその底から湧出るのではないか」と云う程の彼の人には堪え難い恐怖の対象でありました。しかしその古井戸を中心とする恐怖の空間で父親は古井戸の柳を背に弓の稽古を始めたのでありました。父親がどうしてこの崖下の庭を恐れないのかと云うその父親に対する畏怖は、荷風と父久一郎の感受性の埋めるべくもない距離の表白であります。
 この小石川金富町の屋敷に関しては松本哉氏の『荷風極楽』(三省堂刊)他に平面図が載っており、その図によって位置関係等大いに参考になるのであります。尚、松本哉氏には『永井荷風ひとり暮らし』(三省堂刊)や『女たちの荷風』(白水社刊)等の著書があり、此れ等は拙生にとって荷風の作品を楽しむ上で欠かせない資料であります。
 さて、この空間に狐が出現したのでありました。朝の弓の稽古の時に父親が出くわしたもので、父親は慌ただしく崖の小道を駈け上がって来て、田崎と云う書生に狐の出現を知らせるのでありました。この田崎は「如何にも強そうなその体格と肩を怒らして大声に漢語交りで話をする」男で「その後陸軍士官となり日清戦争の時血気の戦死を遂げた」「天性殺戮には興味をもっていたのであろう」人物であります。狐の穴を捜索したものの探しあぐねて父親は田崎に引き続きの捜索を命じます。田崎は心配する荷風の母親に向かって「堂々たる男児が狐一匹。知れたものです。先生のお帰りまでにきっと撲殺してお目にかけます」と力み返るのでありました。ですが労虚しく狐の塒を遂に見つけることが出来ず、父親も以後相変わらず弓の稽古は続けているものの、狐の姿を目にすることはなかったのでありました。狐の件は何時しか誰の脳裏からも消えてしまったのでありました。
 しかしところが、狐のまたもやの出現であります。今度は勝手口傍、井戸端の鶏小屋の鶏を盗み捕ったのでありました。財産に対する侵害に対しては敢然と、家を守るべき家長としての父親を頭に、加担する抱車夫の喜助、鳶の頭清五郎、植木屋の安吉、それに田崎で憎き狐を正義の名の下に駆除しなければなりません。折からの雪に足跡を辿れば、崖下の庭で以前あれほど捜しても判らなかった狐の穴が、熊笹の繁る蔭にあっさりと見つかったのでありました。いよいよ狐退治であります。父親の弓、田崎の鉄砲、喜助と安吉は天秤棒、清五郎は鳶口、果ては燻し出す硫黄と烟硝まで用意されるのであります。
 そうして狐はあっけなく撃退されたのでありました。打割られた頭と喰いしばった牙の間から血を滴らせながら、狐は田崎と喜助が担ぐ天秤棒に吊るされて荷風少年の前に現れるのでありました。
(続)
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怨嗟と冷笑-永井荷風『狐』Ⅱ [本の事、批評など 雑文]

 首尾よく正義を完遂した一同は大酒盛りを催すこととなり、父親はその饗応のために狐の忍び入った鶏小屋の鶏を二羽潰すのでありました。鶏を殺した狐を殺し、それが祝いに更にまた二羽の鶏を殺したのであります。荷風少年には鶏を肴として酒を飲む人たちの赤ら顔が絵草紙の鬼のように見えるのでありました。荷風は「世に裁判といい懲罰というものの意味を疑うようになったのも、あるいは遠い昔の狐退治。それらの記憶が知らず知らずその原因になったのかも知れない」とこの作品を結ぶのであります。
 岩波文庫版の竹盛天雄氏の解説にあるように、この作品は佐伯彰一氏の指摘する「二つの世界」を対置する構造をもっていると云えるのであります。父親と田崎に連なる世界としての「強者」「創る者」「君臨する者」「男性的な規範」「実用」等と、それと対側にある「弱者」「毀される者」「統べられる者」「女性的な価値観」「迷信」等と云う世界であります。後者に属するものは古井戸、樹木の生い茂る庭、闇、狐等であり、狐を殺すのは不吉であると説く迷信家の御飯焚のお悦、このお悦と共に狐つきや狐の祟り、沢蔵稲荷の霊験等を荷風に話し聞かせる乳母等の住む世界もそうでありましょう。
 磯田光一氏の『永井荷風』(講談社刊)ではこの対置の構造の上で「もし[父-田崎]という系の力が、単純に狐を殺したのであったら、おそらく短篇『狐』は成立出来なかったにちがいない。というのは、古井戸や老樹の世界の延長上に、しかも[父-田崎]という系とは異なる地点に成立しているのが、作品のもう一つの軸、つまり“江戸”の影を背負って現存する人間の世界だからである」と述べておられます。これは磯田光一氏の見事な指摘であると拙生は思わず感嘆したのでありました。
 作品の中で出入りの者の話しとしてさり気なく挿入された、年の暮が近づいて首を括った「崖下の貧民屈で提灯の骨けずりをしていた御維新前の御駕籠同心」や身代限りをした「水戸様時分に繁盛した富坂上の辰巳屋という料理屋」の話がありますが、これは仲働のお玉と云う女性と出入りの八百屋の御用聞春公との駆け落ち事件で、それを見つけて取り押さえた田崎への敵意と警戒の言葉の前振りのように挿入されている話であります。荷風の筆もそれ等の事件を「しかし私には殆ど何らの感想をも与えなかった」とさらりと書き流してあり、ならばこの文が作品の中から妙に浮いていて、拙生にはこの短篇中に殊更書かれるべき記述なのかどうか、必要なら単なる雰囲気創り以外に何故必要なのかと、納豆の糸のように引っかかっていた文章なのでありました。先の磯田光一氏の指摘に接して、ようやくにこの文章が作品の中に落ち着いたような気がしたのでありました。お玉と春公の駆け落ち騒動と云うのも、そう云えば何処となく江戸の世話物めいた話であります。
 先の「二つの世界」の対置と云う主題に戻れば『狐』は詰まるところ「新しい世界-明治」と「古い世界-江戸」が二本の軸として描かれていると云えるでありましょう。しかも予め後者が前者を屈服させることはすでに了解された既定事項であります。明治維新後の日本が急激な西洋化、近代化をかち取ろうとして、様々な歪みを踏み潰すように疾駆するそのためには、古い世界を弊とし、諸悪の発する源と見做し、毀すべき廃屋であると明確に表明する必要がありました。新生日本のためにはそれまでこの世を支配してきた諸価値は、以後は一顧だにする必要もない足手纏いな代物と化したのでありました。
(続)
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怨嗟と冷笑-永井荷風『狐』Ⅲ [本の事、批評など 雑文]

 荷風の父親久一郎氏は明治政府の官吏であり、後に日本郵船の横浜支店長でありました。青年荷風のアメリカ渡航はこの線に乗ったものでありました。久一郎氏は荷風のフランス行きを認めず、実学の国アメリカ行きは認めたのでありました。久一郎氏は一方で漢詩を能くする人でもありましたが、明治政府の推し進める西洋化政策、実学重視政策の忠実で厳格な加担者でありました。云わば「新しい世界-明治」に属する人であります。作品中の田崎はこの父親の路線の無批判な追従者であります。磯田光一氏によれば[父-田崎]という系が「新しい世界-明治」と云う軸を持ち、前に挙げた情緒としての古井戸、老樹、闇、狐、それに家に居る女達、作品中に時々差し挟まれる陰惨で世知辛い時世の出来事等が「古い世界-江戸」を象徴するもう一つの軸であります。この二つの軸は歴史的に有無を云わさず「新しい世界-明治」の軸に統合されようとするのは判っています。ご飯焚のお悦が狐を殺すのは不吉であると云いつのるのに対して、田崎が「主命の尊さご飯焚風情の嘴を入れる処でないと一言の下に排斥」する場面はこの象徴的なシーンであります。
 繰り返しますが、明治と云う時代はその前の時代を徹底的に壊し、新しい国家像を創るために様々な所で格闘が展開され、多少の無理も厭わず、急激に新しい秩序の側に統合を果たさねばならない時代であったと云えるでありましょう。日本の近代化-西洋化は、世界情勢の上でも日本と云う国家が生存していくための急務であったと理解出来ます。この辺りの事情は既に在る論を態々ここで拙生がなぞる必要はないでありましょう。
 しかしもう一つ問題に思えるのは「新しい世界-明治」の側に属する人の中に、毀し踏みつけ屈伏させる対象たる「江戸」と云う名の廃屋に漂う情緒を、実は自分の内部にも色濃く残しながら廃屋のみを破壊したことにあるのではないでしょうか。その意味でその破壊行為は不徹底でありました。この不徹底を、荷風は『狐』の中に霧が泥むように、ある意味冷笑的に漂わせてようとしているように思われます。先の田崎がご飯焚のお悦を排斥する言葉の中に「主命の尊さ」と云うものがあります。「新しい世界」に属しその立場で「古い世界」を象徴する狐を駆除しなければならないはずの田崎が、旧世界の秩序に属する言葉を盾にお悦の訴えを一言の下に排斥するのであります。父親が近代武器ではなく悠長にも片肌脱ぎで弓の稽古をするのもこの不徹底さの暗喩であります。結局父親の中にも「古い世界」を脱しきれない情緒がまだ色濃く残っているわけであります。荷風にはこの「新しい世界」を担うはずの「強者」「創る者」「君臨する者」「実用」側の不徹底さが我慢ならなかったのかも知れません。江戸趣味も、後の荷風がその生に於いて個人主義を全うしたのも、実は斬新で強靭たる新時代と呼ばれる世界の実相を見破り、その不徹底な実態を怨嗟した故ではなかったかと思うのであります。
 己の不徹底を恥じない今の時代と距離を置くために荷風は、排斥されるべきそれ以前の時代に自分の住み家を定めるのであります。そこから今の時代をクールに傍観しながら、今の時代を強く無視する作品を書くことで、荷風はその不徹底な実態を笑おうとしたのではないでしょうか。荷風はこの意味に於いて間違いなく“現代作家”であったと云えます。
 そう云うわけで作品『狐』は作家永井荷風のその後を、ある意味で決定づける短篇であったと見做すことが出来るでありましょう。
(了)
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「刎頸の交わり」のはなしⅠ [本の事、批評など 雑文]

 この「刎頸の交わり」と云うのは、司馬遷の『史記』廉頗・藺相如列伝の中に出てくる言葉で、その友のために頸を刎ねられても悔いないと云うくらいの親交のことであります。「完璧」でお馴染みの中国戦国時代の趙の上卿であった藺相如と、廉頗将軍とのつきあいを称してそう云うのであります。
 藺相如は大国秦の昭王と趙の恵文王の澠池での会見で、その胆力をもって秦王の辱めから趙王を守った忠臣であり、廉頗将軍はそれまでに数々の武勲を立てた英雄であります。澠池の会見での功を愛でた趙王は藺相如を上大夫から上卿に親任するのでありましたが、そうなると面白くないのは地位が下になった廉頗将軍であります。自分は攻城野戦に趙の大将として大功をたてたと云うのに、藺相如は口先ばかりの働きで自分の上位に立った。それに元々卑しい出自のヤツである。顔をあわせたら屹度恥辱を与えてくれようと誰にとなく言いふらすのでありました。
 藺相如はその噂を聞いて廉頗には近づかないに如かずと、朝見の時も病気と称して彼の人との同席を憚るのでありましたし、外出時に遠くから廉頗の姿を認めただけで姿を隠すのでありました。そうなると藺相如の家来たちは主人のそんな態度が面白くありません。自分達は殿様の高義を慕って仕えていると云うのに、廉頗が悪口したからと云って、それを恐れて逃げ隠れするのはなんとも情けない話だと主人を諌めるのでありました。
 藺相如はそんな家来に、諸君は廉頗将軍と大国秦の昭王と、どちらが上と思うのかと問うのでありました。云うまでもなく秦王の方が上であると家来たちは応えます。藺相如は、自分はその秦王の威勢をも恐れなかったと云うのに、なんで廉頗ごときを恐れようかと返すのでありました。強大なる秦が趙に攻めて来ないのは、趙に自分と廉頗の二人が共に揃って居るがためである。もし二人が争ってどちらかが欠けるようなことになれば、秦につけこむ隙を与えることになるだけで、自分が廉頗に対してこのような態度をとっているのは、国家の急を先とし、私的な憤怒を後とするからであると説くのでありました。
 それを伝え聞いた廉頗は自らを深く恥じ、罪人が罰を受ける身なりになって藺相如の屋敷の門へ出向いて謝罪するのでありました。藺相如はそんな廉頗をあくまで立て、気遣い、心おきなく歓待して二人は「刎頸の交わり」を結ぶのでありました。なかなかに麗しい交友の始まりでありあます。
 この「刎頸の交わり」と同じ意味の言葉に「管鮑の交わり」と云うのがあります。これは戦国時代よりももっと遡った春秋時代の覇者で、斉の桓公に仕えた管仲と鮑叔の交誼を云うものであります。同じく『史記』の管・晏列伝の中に出てくるのであります。
 管仲は貧乏で、何時も鮑叔を騙して自分の利を先にしていたのでありますが、鮑叔は常に善意で管仲に接し、一言の不満を云うこともなかったのでありました。それは管仲が賢者であることを知っているが故でありました。その内に鮑叔は斉の公子小白(後の桓公)に仕え、管仲は公子糾に仕えるのでありました。この二人の公子は斉の主の座を争うのでありますが、管仲は公子糾のために公子小白の命を狙ったこともありました。後に公子小白が位についた時、管仲は囚われの身となるのでありました。しかし鮑叔はこの敵方であった管仲を桓公に推挙したのでありました。
(続)
タグ:中国 史記
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「刎頸の交わり」のはなしⅡ [本の事、批評など 雑文]

 桓公は自分の命を狙ったことのあるこの管仲を側近にすることが不快であったけれど、鮑叔の意見を入れて結局管仲を任用して斉の政治を委ねるのでありました。管仲は鮑叔の信頼を裏切ることなくその才を遺憾なく発揮して、人民の利益を第一とする政治を為し、斉の国を富強にして、ついには桓公を春秋の覇者としたのでありました。管仲の「倉廩満ちて礼節を知り、衣食足って栄辱を知る」と云う言葉は夙に有名であります。
 しかし管仲の業績もさることながら、管仲と云う人間の真実と能力を知り、彼を桓公に薦めた後は常にその下位に甘んじた鮑叔の度量と云うものは、これは並大抵の大きさではなかったわけであります。人々は管仲の業績よりも、鮑叔の態度をこそ賞賛するのでありました。小さな節義に拘ることなく、一旦信じたらとことん信じ尽くすと云った交誼を「管鮑の交わり」と云うわけであります。
 また『三国志』で、劉備が孔明を優遇するのを面白く思わない関羽や張飛を宥める言葉として「水魚の交わり」と云う語があり、これも水を離れて魚は生きられないと云った、互いに離れる能わざる間柄を指して云うのであります。春秋時代、親友が死んでしまって、もう自分の琴の音を理解してくれる者は誰もこの世に居なくなったと、その後の生涯で再び琴を手にすることのなかった者の故事から「断琴の交わり」とか、『易経』にある「断金の交わり」「金蘭の交わり」、『漢書』に出てくる「金石の交わり」等と大昔の中国では「交わり」の強固なることを讃える言葉が多く見受けられるのであります。と云うことは現実に於いて「交わり」が如何に儚いものであったかと云うことの、紛れもない表明であるわけであります。古代の中国に限らず、現代の扶桑や世界に於いても裏切りや離反は殊更珍しい事柄ではなくて、色々な実話例証がその辺にゴロゴロ転がっているようであります。
 さてところで、拙生は高校時代バス通学をしておりました。混んだバスに乗るのが嫌さに、早起きの眠気の始末にはちょいと困じるのでありましたが、登校時間よりも三十分も早く学校に到着するバスに乗りこんで、最後部の座席に踏ん反り返って悠々と通学するのでありました。拙生がバスに乗りこむ停留所には朝早いにも関わらす、それに拙生と同じ魂胆かどうかは判らないのでありましたが、数人の高校生がバスを待っているのでありました。同じ高校の制服を着た上級生も居れば他校の生徒も居るのであります。さして多くない人数でありましたから、どの顔もその内に見知るのでありましたが、しかし早朝の高校生は機嫌が悪いと相場が決まっていて、皆眠そうな表情をして不機嫌に口を引き結んだ儘、誰も他の連中と朝の挨拶の言葉をとり交わしたり、楽しげに話をしたりなどは決してしないのでありました。
 拙生とて例外ではなく眠くて不機嫌な顔でその日バス停に到着したのでありましたが、瞬いた拙生の目がふと何時もの早朝通学連中の内の一人の目とかちあったのでありました。お互い不機嫌であるからと云って、別に火花が散ったわけではないのでありました。それどころか頭の中の回路でなにがどう繋がったのか、拙生はその彼に目礼などしてしまったのでありました。拙生のその態度はもののはずみと云うしかないのであります。拙生のこの不意打ちのようなフレンドリーな態度に、彼は目を瞬かせて戸惑いを隠そうとはせずに、しかし反射的に同じ目礼を拙生に返してくれるのでありました。
(続)
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「刎頸の交わり」のはなしⅢ [本の事、批評など 雑文]

 などて拙生がその日に限って目礼をしたのか、彼には不思議であったろうと思うのであります。いや寧ろ不気味であったろうと推察されるのであります。もし聞かれたとしても、拙生の目礼の真意は拙生にも判りかねます。なにせ、もののはずみでありますから。
 その日以来彼とは朝、バス停で顔をあわせたらどちらからともなく互いに目礼を交わすようになるのでありました。しかしそれ以上の交流の進展はなくて、バス停ではお互い何時もの定位置たる少し離れた自分の立ち待ち場所を守り、数言の会話すら交わすこともないのでありました。拙生としたらうっかり軽はずみな会釈などをしてしまったために、彼にその日以来余計な目配りをさせることになったようで、なんとなく申しわけない気もほんの少しするのでありました。
 或る日、交通ゼネストかなにかでバスが間引き運転されるのでありました。バス停に参集する件の早朝通学連中は、苛々しながらなかなか来ない何時ものバスを待っているのでありましたが、皆遂に辛抱の針がふり切れて、行き先が夫々の高校の在る所とは違っているにも関わらず、取り敢えず来たバスに舌打ちしながら乗りこむのでありました。途中のバス停で、別方面から来る目的地行きバスに乗り換えるためでありましょう。そのバス停を利用する生徒の大方の高校は、近い遠いはあるにしろバスの同じ進路方向にあるのでありました。
 ところで我々は早朝通学連中であります。詰まりまだ登校時間には大分余裕があるのであります。それなのに態々手間な手段を選択することもなかろうし、もう少し待っていれば目的地行き直通バスがやって来るに違いないと、拙生は停留所に居残って他の連中が乗りこんだバスを見送るのでありました。
 バスが去った後に停留所に残ったのは拙生と、件の目礼相手の高校生の二人でありました。同じ魂胆同士であろうからなんとなくお互い顔を見交わして、どちらからともなくニタリと笑うのでありました。彼の学生帽についている記章は拙生とは違う高校のものであります。帽子のつばと学生服のヨレ具合から拙生は彼が三年生であろうと見当をつけるのでありました。拙生はその時二年生でありました。因って敬語で「今のバスに乗らんで、よかとですか?」となんとなく彼に声をかけるのでありました。「うん。どうせ登校時間にはまあだ余裕のあるけん」と彼は応えるのでありました。「なんで何時もこのバスに乗るとですか?」「少し早う学校に行って、受験の英単語の勉強ばしようて思うてね」「ああ、そうですか」矢張り三年生のようであります。
 少し言葉が途切れるのでありました。暫くの後「君は二年生か?」と彼は拙生に聞くのでありました。「はい」と拙生は頷きます。「二年生ならまあだ受験勉強にあくせくせんでもよかやろうに、なんでこがん早かバスで通学するとや、君は?」「混んだバスで立った儘乗っとるとが嫌で、座って行こうて思うて、それで」拙生はそう応えるのでありました。「ああ、成程ね」「受験勉強のために早出ばするとですか? 流石頭のよか**高の人ですねえ」これは拙生のお追従であります。「まあ、クラスのヤツ等の殆どが早う出て来るけん、オイも仕方なしに早出しとるだけばってん」「ウチの高校の三年生は、中にはそがん殊勝な心がけのヤツも居るかも知れんけど、殆どが気合いの入っとらんヤツばっかりですよ」
(続)
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「刎頸の交わり」のはなしⅣ [本の事、批評など 雑文]

 確かにウチの高校の三年生は呑気な連中が多いのでありました。受験生としての自覚が少しばかり欠落しているのではなかろうかと、二年生の拙生が、しかも呑気にかけては人後に落ちない拙生が、自分の周りに居る三年生を見てそう心配するのでありました。「君は大学受験はするとか?」彼は拙生に聞くのでありました。「もしそうなら未だ二年生けんそがん切羽詰まった感じはなかやろうけど、そいでもぼつぼつ、もう受験勉強は始めとるとやろう?」「いやあ、まあだ先の話けん、全然」とそう応える拙生に、我が校の三年生を心配する資格などは全く以ってないわけでありますが。
 不躾かとは思うのでありましたが「何処の大学ば受験されるとですか?」と拙生は彼に聞くのでありました。彼は東京の某有名大学の理工学部と応えるのでありました。「へえ、すごかですねえ。そんなら勉強の大変かとでしょうねえ」「本心はオイは文学部に行きたかとやけどね」「え、文学部ですか?」「うん、本当はオイは詩ば書きたかと」「詩、ですか?」拙生は意外な話の展開に少々興味をそそられるのでありました。「そう、詩ば勉強したかと。ばってん親も先生も将来の就職とかば考えて理系にせろて煩かけん、仕方なしに理工学部ば受験することになったと」「理工学部の方が難しかとやなかですか?」「うん、オイは物理とか化学とかは苦手けん、大変かぞ」「そいでもレベルに達しとるけん、受験することにしたとでしょう?」「いやあ、どうかね。一応滑り止めに同じ大学の文学部も受けるけど、内心は理工学部に落ちて、文学部に入ればよかて思うとるとけど」「他の大学の理工学部よりは、その大学の文学部の方が有名かけん、そうしたら先生とか親とかも納得させた上で、文学部に行けるかも知れんですね」「うん、そんなら親には悪かばってん万々歳やけど」「内心は文系志望て云うことになるとですね」「君は漠然とくらいは、どがん方面ば受験したかては考えとるとやろう?」「取り立ててなかですね。まあ、数学はからっきいし出来んけん、文系の学部になるて思うけど、文学部でも経済学部でも法学部でも、入れてくれるところのあるなら、何処でもよかとです」「ふうん、そうか。まあ、未だ切迫感はなかかも知れんけど、頑張れよ」と彼は拙生の志の低い返答にそれ以上の話の進展を憚ったようで、そう云って受験の話を切り上げるのでありました。未だ、バスは来そうにないのでありました。
 それ以後も彼とはお互い目礼に多少の親しみは以前よりは多く籠めはするものの、相変わらず少し離れたバス待ち位置を夫々保守したまま、言葉を交わすこともないのでありました。彼は目論見通りその大学の文学部へ進学したのでありましょうか。拙生の方は志望通り(!)彼に遅れること恐らく一年、某大学の文系学部へと進学したのでありました。この拙生と彼との交流はさしずめ「刎頸の交わり」ならぬ「文系の交わり」でありましょうかな。いや、まことに以て仕様もない駄洒落で申しわけない限りであります。
 確かに「刎頸の交わり」「管鮑の交わり」もそれは感動的で濃密で清冽ではあるものの、実生活の上の話となるとそう云った格調高い「交わり」と云うものは、かなりな程度に重苦しくて骨の折れる代ものかも知れません。ずぼらの国からずぼら教を布教しに来たような拙生としては、拙生の「文系の交わり」のような淡い「交わり」の方が肩も凝らなくて結構だと遂々考えてしまうのであります。それに淡くはあっても、その情景は何時までも何時までも、頭の片隅に懐かしい記憶として残っているもののようでありますから。
(了)
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パイプオルガン・コンサート [本の事、批評など 雑文]

 先日、武蔵野市民文化会館で行われた定例の酒井多賀志先生のパイプオルガン・コンサートに行ってきたのでありました。このコンサートは今回で四十九回目を数え、この回数を見ただけでも、先生の地道な演奏活動とファンの支持の篤さを証明するものでありましょう。来年には節目の五十回を迎えるので、武蔵野市と府中市で二回のコンサートを予定されているとか。今から楽しみであります。
 曲目はオルガンのソロでは、バッハの数曲、それに先生の意欲作である瞑想的即興曲『流離』、アメリカ民謡として、それに讃美歌第二編一六七番『われをすくいし』として愛唱される『アメイジング・グレイス』をテーマとした変奏曲とフーガ等でありました。またソプラノの井上由紀さん、アルトの奥野恵子さんを迎えて、バッハ、ペルゴレージ、ヘンデル、メンデルスゾーン、フランク等の曲、それに『荒城の月』『夏の思い出』等の日本の歌との協演もあり、実に楽しいコンサートでありました。
 バッハの曲は、当初バッハの忠実な演奏家たらんとして出発された先生の実績が、どの演奏家にもない曲の厚みを保証していて、毎度のことながら聞き惚れる内容でありました。瞑想的即興曲『流離』は以前先生にCDを頂いて、普段からよく聞く曲でありますが、一途に自分の道を歩もうとする人間の情熱を、松尾芭蕉の辞世「旅に病んで夢は枯野をかけ廻る」に託して、日本の四季の情感の中に表現した先生の意欲作であります。日本人のオルガン奏者たる自己を見つめ、その不可避の条件の下で、西洋楽器オルガンへの情熱を鍵盤に接する手足に籠められる先生の覚悟と心境が生み出した名曲であります。因みにこの曲はオックスフォード大学出版局から、日本人では最初に楽譜が出版された曲であります。
 もう随分前でありますが、拙生は松尾芭蕉『おくのほそ道』の旅程や宿泊場所、宿泊日数、巡られた故地等を、文献の上のみではありましたが少々綿密に辿ったことがあるのでありました。因って芭蕉の辞世をイメージして作られたと云われると、かなりの親近感と同時に、芭蕉に対する理解と云う点に於いてある種の張り合い意識と云うのか、対抗感のようなものをも持つわけでありますが、曲としての深みに浸っていると、そんな狭量な気持ちの棘が融解していって、純粋に音を楽しむ気分になるのであります。聞きながら改めて酒井先生の音楽の厚みに圧倒される思いでありました。
 井上由紀さん、奥野恵子さんの歌との協演は、御三方の音楽家としての相手への敬意が醸し出すなんとも云えぬ暖かい雰囲気が、聞いていて心洗われるような清明さを感じさせるのでありました。オルガン演奏と歌の二重奏を聞いていると、ピアノのような促音楽器とは違って、鍵盤を抑えている間はずっと音が出るオルガンのような楽器は、息継ぎのような感じも伝えられて、云ってみれば第三の声として、それはまるで歌の三重奏のようでもあり、曲にある種のシンプルで明快なイメージ性を持たせることが出来るのだなあと思うのでありましたが、こう云うところが宗教音楽にパイプオルガンが向いているところかと、全くの素人考えながら納得するのでありました。
 コンサートの途中、まあ、事なきを得たのでありますが「おや、オルガンが誤作動している」と云う酒井先生の声がマイクに拾われて、少々ハラハラドキドキ。満足感と同時にスリルとサスペンスも、ほんのちょっと味わうことの出来たコンサートでありました。
(了)
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暴虐の王と美女のはなし [本の事、批評など 雑文]

 司馬遷の『史記』には高潔の士も情義の人も、節義の仁も数多く登場するのでありますが、暴虐の王と云うのも暫し登場するのであります。殷(商)の最後の帝紂はその代表格と云う事になるでありあましょうか。
 殷(商)の前の夏王朝最後の帝桀も暴君とされているのでありますが、夏本紀の最後の方に「帝桀は徳を修めず百官を殺したので、云々」とあるだけで、その暴虐の具体的なところは『史記』からは掴めないのであります。そこへいくと殷(商)の帝紂はその暴虐ぶりが具体的に縷々述べられているのであります。
 『史記』に依ると、紂は酒好き女好きで、特に美女妲己に溺れ、楽官に命じて淫靡な曲を創らせ、税を高くして富を集め、権力と財に飽かして貴物を収集し、自分専用の動物園まで造り、「酒池肉林」の宴を催して遊楽の限りを尽くすような毎日を送ったとされています。またそれを怨嗟する者や諌める者があると、炮烙の刑と云う残忍な刑罰を考案してそれを執行し、罪人がもがき苦しんで死んでいく様を眺めて楽しんだとされています。
 しかし一方で紂の人となりを、天性の能弁家であり行動も素早く、見聞に聡くてその上力持ちで、素手で猛獣を倒す程の膂力があり、悪知恵が働いて臣下の諫言も反対にやりこめることが出来たと紹介されているのであります。つまり自分の能力を誇り、人を侮り、増長するだけ増長し、であるから自分以外に貴人なきが如く、当然のようにやりたい放題をやらかしたと云うことでありましょう。
 この紂のやりたい放題は、妲己の望むことは何でも聴いてやったと云う記述もあることや、周本紀に殷(商)を討つ周の武王の檄や誓言にそれを匂わす記述のあることから、妲己の歓心を買うためにとか妲己に唆されてとか云う風にも解釈され、後世その線に沿った「物語」も多く創られるのでありました。それに妲己は後に殷(商)を滅ぼした周の公子旦が秘かに仕こんだ、紂を誑しこむための秘密兵器であると云う穿った(穿ち過ぎた)説もあるのでありますが、それは『史記』に記述はないのであります。
 この、次の周王朝も十二世幽王が褒姒と云う美女に狂い、生まれてから一度も笑った事のない褒姒を笑わせたい一心で、浅慮に碌でもないことを仕出かして国を傾けたのでありました。妲己と褒姒を並べると、傾国の陰に女あり、ああ、とかく女人は恐ろしき哉等とつまらぬことを考えて、拙生の取るに足らない卑近なところも序でにちらと加味したりなんかして、一人秘かに身震い等するのでありますが、ま、拙生のことはこの際どうでも宜しいのであります。
 幽王の場合は紂とはちと色あいが違って、暴虐性よりも寧ろ愚かさ加減が強調されるのでありまして、これはその創り過ぎた感じからも「物語」として読む方がよいのかも知れません。それから、紂における妲己、幽王における褒姒の話はあまりに展開が酷似していて、これはより古い「物語」の発生時の祖形を窺わせて、この一文とは趣旨の違ったところでなかなか興味深いものがあります。
 さて、紂のことであります。一方に、『史記』の記述と異なって、紂は実は極めて政治に意欲的で厳格で、知力、胆力、膂力何れを取っても申し分ない、素晴らしい君主であったのだと云う説もあります。このような優れた統治者が、一女人に溺れて国を傾ける等と云うような事がはたして「物語」ではなく「歴史」として蓋然性があるのでありましょうか。紂の復権は『古代中国』(貝塚茂樹氏・伊藤道治氏著、講談社学術文庫)にも、この線に沿った記述が見受けられますし、他にも多くの本で見受けられるのであります。
 殷(商)王朝の崩壊は、五百年と云う長い時間の推移と、広がった国土、接受した文化に対して祖先祭祀と呪術至上主義の宗教国家である殷(商)の統治制度が矛盾を呈し出した事、外征による国内疲弊、王権の簒奪を目論む周の脅威等の様々な要因が考えられるのであり、紂個人の資質だけにその責を負わせるのはあまりに無理があるように思われるのであります。まあ、紂の宗教的厳格さ、非妥協的政治態度の故に、臣下や民の心服を得られなかったと云うことは「物語」的な領域で推察出来るかもしれませんが。
 「酒池肉林」にしても、悪意一辺倒の目から解放されて眺めてみれば、それは紂の奢侈的退廃的趣味から催された宴ではなく、厳かな古代的な宗教儀式であったかも知れないではありませんか。炮烙の刑にしてもスキーのジャンプ競技の発祥のように、殆ど不可能ながら若し猛火の上に渡された油の塗られた銅柱を万が一渡り切れば、罪人の罪を帳消しにしても良いとする或る種の寛恕の発想から執行されたのかも知れないのであります。
 紂を、妲己と云う美女に蕩かされた暴虐の王として印象づけたのは、後の王朝の、易姓革命の辻褄を確保しようとする御用歴史家達と、周朝の有り様を至上とし、周公旦を聖人として崇める儒家の目論見であったろう事は容易に判るのであります。勿論、司馬遷にもその責はあるのであります。でありますから、そう云った「史料」によって紂の暴虐性を云い募ってみても、それは無意味な仕業だと思われるのであります。
 さて、では紂の実像は如何と問われれば、それはもう「歴史」的に検証するのは不可能に近いのであります。であるなら、これは一方の「物語」的な領域で、新たな紂の像をいかにも妥当と思わせる綿密さと冷静さで、考古学的成果や歴史文献学的成果をも踏まえた上で構築して見せるしかないでありましょう。こうなると浅学で了見が狭い上に、思考に粗が多く、嗜好に偏りの多い拙生の出る幕は、これはどうやら全くなさそうであります。何方か、ここんとこ、宜しくお願いするわけにはいきませんでしょうか。・・・
(了)
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