So-net無料ブログ作成
ぎゅうにゅう 創作 ブログトップ

ぎゅうにゅうⅠ [ぎゅうにゅう 創作]

 もう一つ、とつ国の少年との思い出を書きます。もっとも彼がとつ国の少年だったのか、それとも国籍は日本だったのかよくは判らないのであります。恐らく彼は日本人だったのでありましょう。父親が佐世保に寄港した米軍艦船の兵士であり、母親は外国人バー街で働くホステスだったと考えられます。彼はその母親の私生児であったのでありましょう。これも確認したわけではないのであくまでも拙生の推測以外ではありませんが。
 彼と出会ったのは夏の海でありました。そこは市内有数の海水浴場であり、多くの市民が黒々とした強烈な夏の日差しの下で笑いさざめきながら一日を楽しむ場所でありました。拙生は小学校二年生だったか三年生だったか、まあ、そのくらいの歳で、近所に住む高校生の従兄弟とその友人に連れられて海水浴に来たていたのでありました。
 高校生の従兄弟とその友人にとっては、夏の海では、小学生の拙生など足手まとい以外の存在ではなく、来た早々から一人放って置かれるのでありました。拙生としても高校生二人が沖の、足の立たないところまで泳いで行くのにつき合うのはどうにもしんどかったものだから、放って置かれるのを幸いに、白砂の浜で寝そべったり岩場の潮溜まりに取り残された魚や人手を捕まえたり、磯巾着の触覚に指を差し入れたりしながら一人遊びを楽しんでいるのでありました。
 砂山を作ってそこにトンネルを掘っていた時でありますが、ふとした拍子に岩場の方に目を向けると、真っ黒に日焼けした少年が海を背に、岩場の一番高い処に立って拙生を見ているのが目に入ってきました。彼はしばらく此方を窺っていたのでありますが、徐に岩場の凹凸を苦もなく飛び越えながら拙生の方へ近寄って来るのでありました。
 傍まで来て、砂の小山の向こうに立って彼は拙生を見下ろしています。拙生には彼の顔が蒼く高い夏の空を隠す陰のように見えるのでありました。陰が白い歯を見せて拙生に笑いかけ「お前のことば知っとるぞ」と声をかけるのでありました。
「お前、御船町の久原菓子屋の上の家のもんやろう」
 彼は続けるのでありました。確かに拙生はそこに住んでいるのであります。
「そうやけど、知らんよ僕、あんたのこと」
 拙生は返します。身体の大きさから五年生か六年生であろうと思われるのでありました。彼は砂の小山の向こう側に腰を下ろします。
「オイも近所に住んどる」
 彼はそう云って説明をするのでした。「お前ん方の少し上の方にボロアパートの二軒並んで建っとるやろう。オイの家はそこ」
 確かにそのアパートは知っておりました。そこはある意味、近所で有名なアパートだったのであります。まあ、あんまり芳しからぬ方で有名だったのではありますが。かなり古い木造二階建てのアパートで、そこの殆んどの住人と云うのは、デパートやら商店やらが並ぶ目抜き通り裏にある外国人バー街で働く女性達でありました。拙生は母親にことあるにつけ、そのアパートには近づかないように云われていたのでありました。
(続)

ぎゅうにゅうⅡ [ぎゅうにゅう 創作]

 少年は拙生に断りもなく、砂の小山の向こう側からトンネルを掘りだします。彼の大きな掌は拙生の掘削作業よりもはるかに効率的に、大量の砂を一挙に掻きだします。その掌はその甲の艶やかな黒さに比して、潤んだようにほの白くどこか恥ずかしげにさえ見えるのでありました。短い髪の毛は一面毛玉をつくったように縮れていています。少し尖った分厚い唇から覗く前歯はとても大きく、これは誇らしげに白く輝いていいるのであります。少年の大きな歯はまるで、彼が特別の人間であることの証明のように拙生には思えるのでありました。畏怖に値する、少年の白く大きな歯。少年の肌の色は拙生の肌より、いや、浜辺の其処此処に居る誰よりも異質に、黒く鈍く輝いています。彼の肌は単に夏の日差しに炒られたために黒くなったのではなく、その色艶と云うものは生まれながらに彼が持っている肌の特徴のようでありました。で、トンネルは、あっけなく貫通してしまったのであります。
「お前琴平小学校に通いよるとやろう」
 少年が話しかけます。「朝時々、お前が学校に行くとば見かける」
「あんたも琴平小学校に行きよると?」
「いいや、オイはアメリカ人けん、アメリカンスクールに行きよる」
「ふうん。アメリカンスクールに行きよるとなら、英語とか話しきると?」
「当たり前くさ」
 少年は得意げにあの大きな歯を見せて笑います。
「へえ、すごかねえ。ちょっと話してみてん」
「急に云われてもすぐには出てくんもんか、そがんと。・・・」
 そう云いながらも少年はなにか言葉を見つけ出そうと、空に目を遣るのでありました。
「お前達のごたる日本人ば、英語でなんて云うか知っとるか」
「知らん。なんて云うと?」
 少年は日本人の蔑称を得意げに拙生に紹介するのでありました。
「へえ、ジャッ・・・」
 拙生は今聞いたばかりなのにその言葉をすぐに頭の中に収めることが出来ず、口ごもってしまうのでありました。少年がもう一度その蔑称を云ってみせます。
「判ったか、もう一回ちゃんと云うてみろ」
 拙生は今度ははっきりと繰り返します。少年はそれを見て満足げにうなづくのでした。
「そしたら、あんた達のことは何て云うと?」
「オイ達は・・・」
 少年がアフリカ系アメリカ人に対する蔑称を口にします。
「ふうん、なんか知らんばってん、格好良かねえ」
 拙生は初めて聞く自分達日本人を侮蔑して云うその呼称が、なんとなく気に入ったのでありました。なにやら誇らしい称号を得たような気分になったのであります。そう呼ばれる日本人と云うものは、きっとアメリカではとても尊敬されているに違いありません。
(続)
タグ: 佐世保 少年

ぎゅうにゅうⅢ [ぎゅうにゅう 創作]

「アメリカ人のことは、みんなそがん云うと?」
 拙生は少年に聞くのでありました。
「大体そう云うとやろうけど、特にオイ達んごと黒かとばそがん云うと」
「へえ、黒か人のことば云うとね。そしたら白か人のことは?」
 少年はアメリカ東部に住む白人一般の呼称を教えてくれるのでありました。
「ばってん本当は、オイのごたる者には別の呼び名もついとるとぞ」
 少年は今度は混血児を呼ぶ呼称を拙生に紹介するのでありました。「アメリカ人と他の国の人間の間に生まれたヤツはそがん風に呼ぶと」
「なんでお父さんとお母さんと、その子供のあんたは全部違う呼び名のついとると?」
 拙生は聞きます。
「さあ、なんでかは知らんばってん、とにかく別々になっとる」
「なんか僕、よう判らんごとなってきた」
「アメリカにはいろんなヤツがおるけん、結構難しかと」
「アメリカに行ったこと、あると?」
「いいや、行ったことはなか。ばってんオイはアメリカ人けんなんでも知っとる」
「へえ、すごかねえ」
「父ちゃんもそうらしかけど、オイなんかより・・・」
 少年はアフリカ系アメリカ人の蔑称を云って続けます。「・・・の本物はもっと真っ黒しとる。そいつ等が時々家に泊まりに来るけど、オイのことばいつでん邪魔にするけん、オイはあいつ等のことはあんまい好かん」
「お父さんの友達?」
「いや違う。オイは父ちゃんのことはよう知らんもん。一緒に住んどらんけん」
「どこに行っとらすと?」
「アメリカやろう多分」
「なんでアメリカに行っとらすと?」
「アメリカ人けんがくさ」
 ああそれはその通りだと拙生は納得します。
「いつ帰らすと?」
「知らん。母ちゃんも知らんて云わす」
「ふうん」
 拙生にはなんとなくその辺りの事情がもやもやと判りづらいのでありました。
「なんて云うと、名前?」
 拙生が聞きます。
「え、なんの?」
「あんたの名前さ」
「ああ、なあんか、オイの名前のことか」
 少年は顎を少し突き出して続けます。「オイの名前は、ぎゅうにゅう」
(続)

ぎゅうにゅうⅣ [ぎゅうにゅう 創作]

「ギューニュー?」
 またもや初めて耳にする名称が出てきて拙生は頭が痛くなるのでありました。
「そいは英語の名前?」
「いいや、違う。あの、飲む牛乳くさ」
「白か牛乳?」
「うん、そうくさ」
「ふうん」
「本当は違う名前のあるとばってん、母ちゃんも隣の小母ちゃんも、上に住んどらす姉ちゃんも誰でんオイのことばぎゅうにゅうて呼ばす」
「変なか名前ねえ」
 拙生はそう云って笑うのでした。少年も笑い出します。ぎゅうにゅうと名乗る少年の大きな歯が、またその口元から覗きます。その大きな歯に笑ったことを咎められているような気がして、拙生は急いで顔から笑いの痕跡を消し去るのでありました。
 夏の海辺の強い日差しが拙生の腕や足の産毛に留まります。熱が次第に体内に染みこんできて、その熱で身体が熔けていくようでありました。雲の欠片もない黒々とした夏空をなんとなく眺めた拙生は、くしゃみを一つしました。涙の溜まった目を手首で拭くとまた少年の方を見るのであります。ぎゅうにゅうの身体は黒く輝いていました。
 拙生の身体とは比較にならないような逞しい身体であると思うのであります。夏の日差しに簡単に熔けだすような柔な身体ではない、黒い鎧のようなその体躯。太陽の光を怯まず受け止め、その光を体内に取り込んで、ますます黒く美しい光沢を手に入れることの出来る身体。まるで太陽と同格、対をなす存在のように、少年のことを思うのでありました。
 肘で身体を支えて仰臥するぎゅうにゅうの顔を拙生はうっとりと眺めます。手を伸ばして拙生は砂の小山の向こうに居る彼の横腹を人差し指で突ついてみました。ぎゅうにゅうの固い腹筋はいとも簡単に拙生の指を弾きとばします。
「ん、なんや?」
 ぎゅうにゅうが拙生の方へ顔を向けます。
「ここ、硬かねえ」
 拙生はもう一度ぎゅうにゅうの横腹を突つきます。今度も拙生の指はまったく相手にされないのでありました。ぎゅうにゅうは腹に力を入れます。見事な腹筋がその腹の上に浮きあがり、威きり立つのでありました。
「お前も力ば入れてみろ」
 ぎゅうにゅうに云われて拙生も息を止め威きんでみます。拙生の腹には腹筋の盛り上がりがまったく浮き出てはきませんでした。
(続)
タグ: 佐世保 少年

ぎゅうにゅうⅤ [ぎゅうにゅう 創作]

 ぎゅうにゅうに腹を突つかれて、急に力が抜けて、拙生は身体を捩ってげらげらと笑い出してしまいました。
「こそ映ゆうして、力の入らん」
「もう一回力ば入れてみろ」
 再びぎゅうにゅうに腹を突つかれて拙生は発条を一杯に巻かれた人形のように、じたばたと笑い転げるのでありました。
「ねえ、なんで、ぎゅうにゅうて云うと?」
 ひとしきり笑い終えてから、一呼吸して拙生はそう聞きます。
「さあ。多分オイが牛乳ばっかい飲ませられるけんやろう。小まか頃からオイは母ちゃんに牛乳ばいつも飲まされよったっちゃん。牛乳ば飲んで、あと白かご飯ばいっぱい食べれば、少しはオイが白うなるやろうて云われて」
「牛乳ば飲むぎんた、白うなると?」
「なるもんか!」
 ぎゅうにゅうが吐きすてるように云います。
「白うなった方が良かと?」
「母ちゃんはそがん云わす」
 こんな美しい光沢のある黒い肌をなんで白くする必要があるのか、拙生には理解出来ないのでありました。そんな、勿体ない。
「牛乳、好いとると?」
「好かん。いっちょん、好かん!」
 ぎゅうにゅうは鼻翼を挙げて顔を顰めながら云うのでありました。
「そんなら飲まんぎんたよかたい」
「母ちゃんの飲めて云わすけん、飲まんば仕方なかと。そいに・・・」
 ぎゅうにゅうが拙生から目を逸らせて、遠くの、無数の針を浮かべたように波頭を煌かせている海を見ながら云います。「ひょっとしたら本当に、白うなるかも知れん」
「ばってん、白うはならんとやろう?」
「ならん。ならんばってん、なるかも、知れん」
 拙生にはぎゅうにゅうがいったいなにを云おうとしているのかが、さっぱり判らないのでありました。
「それよりお前、泳ぎきるとか?」
 ぎゅうにゅうが拙生を再びその大きな眼で見ながら聞きます。
「少しね」
「少して、どんくらい?」
「五メートルくらい」
「ふうん、五メートルねえ」
(続)
タグ: 佐世保 少年

ぎゅうにゅうⅥ [ぎゅうにゅう 創作]

 ぎゅうにゅうはにやにやと笑うのでありました。拙生はなにやら馬鹿にされたような気がして、むきになって言葉を募らせるのであります。
「頑張れば、十メートルくらいは泳ぎきるかもしれんよ僕」
「オイが泳ぎば教えてやろうか」
 ぎゅうにゅうがそう提案します。
 実は高校生の従兄弟に海に連れてきてもらったのは、彼に泳ぎを教えてもらうのが目的であったのでありました。この夏休み中に少なくとも二十五メートルは泳げるようになりたかったので、従兄弟による特訓を受けるつもりで海について来たのであります。しかし高校生の従兄弟は一緒に来た友達と遊ぶ方を主眼にしていて、拙生はずっと放って置かれているのでありました。もっともこの従兄弟はなにかにつけ人の頭を拳骨でぽかんと殴る癖のある人間だったので、一人放って置かれる方が安穏だと云う了見も、特訓を受ける覚悟と同じくらいの斤量で拙生としては持っていたのであります。
「厳しか訓練は、僕だめよ。始めから足の立たんところで練習するとか」
「そがんことはせん。膝くらいの深さのところで、顔ば水に浸けて浮く練習がらでよかと」
「膝くらいの深さのところでよかと?」
「そう。そいの出来るようになったら、今度は足のつけ根くらいのところ。そいから臍の深さて云うごと段々深うしていけばよかと。臍より深かところは行かんでもよか。顔ば水につけて少し長う浮くごとなったら、浅か方に向かって泳ぐ練習ばすればよか」
 ぎゅうにゅうの示す練習メニューは確かに魅力的であり、嫌がる拙生を無理やり足の立たないところまで引っ張って行って、手を離して必死に足掻きもがかせるような手荒い従兄弟の特訓なんかより確実性も高いようであります。第一安心感と云う観点から、拙生には好ましい練習方法であると思われるのでありました。
「本当に、臍より深かところには行かんでよかと?」
「よか。ちゃんと泳ぎきるごとなってから、行きたかなら行けばよかと、深かところは」
 ぎゅうにゅうはあの大きな歯を見せて、頼もしげに笑っています。この貝のように大きな彼の歯が、きっと自分を二十五メートル以上泳げるようにしてくれる証のように拙生には思えるのでありました。
 拙生とぎゅうにゅうは立ちあがり海に入るのでありました。そうして拙生の膝くらいの深さのところでしゃがみ、先ずは顔を水に浸けてゆっくり数を数えるのであります。最初は十、それから二十、二十五と段々長く顔を水中に没して置く訓練であります。ぎゅうにゅうは拙生の肩に軽く掌を置いて一緒に顔を水に浸し、人差し指でノックして数を教えてくれます。三十をクリアしたら、今度は手をついて腹ばいになり、足を浮かして頭を海面から出して、こっくりする要領で顔を水に浸けます。ぎゅうにゅうは同じく拙生の肩に掌を置いて人差し指でカウント数を教えてくれます。拙生に恐怖を与えないように気を遣って、ごくごくやさしく肩に掌を置いてくれているのが拙生にも充分判るのであります。
(続)
タグ: 佐世保 少年

ぎゅうにゅうⅦ [ぎゅうにゅう 創作]

 ぎゅうにゅうは彼が開示した指導法を順守し、拙生の頭を無理に海中へ押しこんだりなど決してしないのでありました。絶対にそう云う無体なことは自分はしないから安心しろと、拙生の肩に当てたその掌の力加減が拙生に囁いています。高校生の従兄弟の拳骨の邪悪さとはまったく違って、細心の優しさに溢れているのであります。拙生はぎゅうにゅうが指導者として全幅の信頼を置いても大丈夫な男であると確信するのでありました。ぎゅうにゅうに任せていれば、きっとこの夏の間に二十五メートルは泳げるようになるに違いありません。拙生は嬉しくて有頂天になるのでありました。
 突然、海の深い方から拙生を呼ぶ鋭い声がしました。拙生は立ちあがって声のした方に目を遣ります。高校生の従兄弟とその友達が両手を使って波を掻き分けながら、此方に近づいて来るのが見えました。
「そがん所でお前は、なんばしよっとか」
 従兄弟が拙生におらびかけます。同時に拙生のすぐ横で水音がします。ぎゅうにゅうが立ちあがったのでありました。見るとぎゅうにゅうの顔が恐怖に引き攣っているのでした。
「あ、お前は!」
 とこれは、従兄弟がぎゅうにゅうに浴びせる言葉であります。ぎゅうにゅうは出し抜けに、砂浜の方へ逃げるように走りだすのでありました。それを見た従兄弟は腰から下に絡みつく水を忌々しげに振り切りながら、こちらに全力で走り寄って来ます。
 拙生の横をすり抜けて、従兄弟はぎゅうにゅうを追おうと波打ち際まで走るのでした。しかしぎゅうにゅうの逃げ足が思ったよりも速かったようで、それ以上は追うのを諦めて、打ち寄せる波に足首を洗われながら暫らく浜辺の方を見ているだけでありました。
 従兄弟は拙生の所まで戻ってきて、いきなり拙生の頭を拳骨で軽く殴るのでありました。
「こら、お前、あがんヤツとここでなんばしよったとか」
「なあんも、しよらん。話しよっただけ」
 拙生は殴られた頭を両手で撫でながら云います。
「あがんヤツとなんの話か。あいつがどがんヤツが知っとっとか、お前は」
 従兄弟は拙生の添えた掌ごと、もう一度頭を今度は平手で叩くのでした。
「ぎゅうにゅうのこと?」
「ぎゅうにゅう?」
 従兄弟は険しい顔を拙生に近づけます。「なんかそいは?」
「あの人の名前」
「馬鹿たれ。そがん名前のあるか」
 また平手打ちを見舞われます。
「砂浜で遊んどったら、あの人の急に話しかけてこらしたと」
 拙生の声は半ば泣き声になっております。
「よかか、あがんヤツと話なんか、絶対すんな!」
(続)
タグ: 佐世保 少年

ぎゅうにゅうⅧ [ぎゅうにゅう 創作]

 従兄弟はそう拙生に怒鳴るのでありました。
「あの人は悪か人?」
「そう。あがん悪か人間はおらんとぞ」
 従兄弟が断言します。「あいはパンパンの子供けんね」
「パンパンてなん?」
 従兄弟まで聞き慣れない言葉を口にするのでありました。
「アメリカ兵ば相手にする女のことたい」
 今はもう外国人バーで働く人達は決してそんなことはしないでしょうし、所謂接客業一般として誇りを持って働かれているのでありましょうが、当時は一部裏で、米兵相手に春を鬻ぐ商売をする人達も居たのであります。
 従兄弟は続けます。「とにかく、あいは悪か商売ばしよる女の子供で、あの歳になっても学校にも行きよらんと」
「アメリカンスクールに行きよるて云いよらしたよ」
 拙生は小声でそう紹介するのであります。
「そがんと嘘に決まっとるやろうもん」
 また怒鳴られます。
「そいばってん、英語ば話しきらすとよ」
「話しきるもんか!」
 従兄弟のこの完璧な否定に、拙生はもう言葉を重ねる気力が萎えるのでありました。
「どうせ話すて云うても、あがんヤツ等の使う英語はパンパン英語て云うて、本当の英語じゃなかと」
「パンパン英語てなん?」
「嘘の英語で、本当のアメリカ人が使う英語じゃなか英語」
「ふうん」
 拙生はぎゅうにゅうに教えてもらった日本人やアフリカ系アメリカ人、白人や混血児を意味する英語を頭の中で反芻してみます。しかし従兄弟はこれを本当の英語ではないと云うのです。日本人を意味する言葉を大いに気に入っていた拙生は、それが本物の英語ではないらしいことがとても残念でした。本当の英語とやらの方にも、その言葉があることを切に願うのでありました。
「とにかく、よかか、あがんヤツとは絶対口ばきくな。あいは前からウチの町内では有名な嫌われ者やけんがね。ずうっと町内の鼻摘み者ぞ。今度一緒に居るところば見つけてみろ、お前もひどか目に遭わせるけんね」
 従兄弟は拙生をそう恫喝するのでした。しかし拙生としてはぎゅうにゅうに大変好印象を持ったものだから、彼のことを悪者と云いつのる従兄弟の方が実は悪人なのだと密かに思うのでありました。従兄弟の悪逆な言葉には、必ず天罰が下るに違いないでしょう。
(続)
タグ: 佐世保 少年

ぎゅうにゅうⅨ [ぎゅうにゅう 創作]

 あの美しい黒い肌と見事な腹筋を持ったぎゅうにゅうが、悪人であるはずはないのであります。美しい肉体と優しい態度、それに英語が喋れて物識りである彼を冒涜する輩は、当人が穢れているが故に彼を賤しめることで己の汚さを隠そうとするのです。等と、まあ、拙生はそう云ったことを小学生が知っている限りの言葉で考えるのでありました。
「もうそろそろ帰るけん、着替えてあそこの売店の辺りで待っとれ」
 従兄弟は松林から砂浜に入る辺りにある、ジュースやパンや水中眼鏡、海水や砂を洗い落とためのバケツ一杯幾らの真水を売っている、筵で囲った小さな売店を指示するのでありました。そうしておいて自分達はもうひと泳ぎしてくると云って、また海へ入って行くのであります。
 拙生は岩場の潮溜まりで遊んでいた時、履いていたゴム草履と、小魚を捕まえて水中眼鏡に入れたまま置いてきたのを取りに行こうと、潮が引いてかなり遠くまで岩礁が露出してしまった岩場を、突端まで富士蕾で足裏を傷つけないよう注意しながら向かうのでありました。自分のゴム草履と水中眼鏡を見つけて、草履に足指を入れ、水中眼鏡の中の魚を逃がすためにもっと海際まで岩の上を歩きます。
 日が傾いた頃の方が真昼よりも岩を洗う波音が高く聞こえます。それはまるで人が居なくなるのを喜ぶような、海の密やかな歓声のように聞こえるのであります。その歓声を掻い潜るようにトプンと海面を叩くような異質の波音がしました。岩場の先の深い辺りに人影が見えます。
 人影が海から顔だけ出してこちらに笑いかけます。
「あの二人は、もうそこにおらんか?」
 ぎゅうにゅうが立ち泳ぎしながら拙生に言葉を投げるのでありました。彼の手足がまるで海草のようになよやかに、しかしせわしなく海中で動くのが見えます。
「もうひと泳ぎしてくるて云うて、また沖の方に行かした」
「またここに戻ってくるとか?」
「いいや、泳いだら、あそこの売店で僕と待ち合わせして帰ることになっとると」
 ぎゅうにゅうは自分の近辺にあの二人の姿がないかどうかを、首を四方に巡らして注意深く確かめるのでありました。
「こっちに上がっておいで」
 拙生はそう誘うのでありましたが、ぎゅうにゅうは岩場から一定の距離をとって、決して泳ぎ寄ってはこないのでした。
「またあいつ等の来たら面倒やっか」
 彼ははそう云って拙生に笑いかけ、続けます。「よかか、ちょっと見とれよ」
 ぎゅうにゅうはこちらに顔を見せたまま横泳ぎで五メートル程移動し、急に伸び上がったかと思ったら直立のまま海に突き刺さるように沈んでいき、今度は潜ったままもと居た所まで泳ぎ帰り、バネ仕掛けのように海面から飛び出してきます。
(続)
タグ: 佐世保 少年

ぎゅうにゅうⅩ [ぎゅうにゅう 創作]

 そうしてそれから今度は背泳ぎで岩場から遠ざかり、しばらくして反転して、今度はクロールでまた元の位置まで戻ってきます。顔をぶるんと振って水を切り、掌で顔面をひと拭いした後ぎゅうにゅうは拙生に笑いかけるのでありました。
「上手かねえ」
 拙生はその見事なデモンストレーションに感嘆の声を挙げます。
「こんくらい、すぐに泳ぎきるごとなる」
 ぎゅうにゅうが云います。「明日も、お前、また来るとか?」
「明日は来んて思う。また三日くらいしたら来るかも知れんけど」
「またあの二人と一緒にか?」
「うん。多分」
「お前一人で来ればよかとに」
「僕一人でバスに乗って、まあだ此処まで来いきらんもん」
 拙生は申し訳なく思って俯くのでありました。
「まあ、よか。オイは毎日来とるけん、また会うたら泳ぎば教えてやる」
「うん。絶対教えておくれ」
「そん時はまたここの岩場に居れよ、お前一人で」
「判った。そん時はここに居る」
「じゃ、またここで会おうで」
 ぎゅうにゅうはそう云い遺してクロールで沖の方に向かって、時々岩場を振り返りながら力強く泳ぎ去って行くのでした。拙生は彼に向かって両手を力一杯振りました。そうして今日から、牛乳をたんと飲むぞと誓うのでありました。そうすればきっとぎゅうにゅうのような見事な身体と泳力を手に入れることが出来るかもしれません。ぎゅうにゅうの逞しさはきっと牛乳の摂取に拠っているのだと思ったのであります。・・・
 結果から云うと二度と、この岩場でぎゅうにゅうに会うことは出来ませんでした。拙生はこの浜に来た時には随分長い時間、必ずここで彼の出現を一人で待ったのでありましたが、ぎゅうにゅうは拙生の前に現れることはもうなかったのであります。同じ町内に住んでいるはずなのに、近所でも彼の姿を見かけることはまったくありませんでした。あのアパートの傍まで行ったこともあるのですが、結局その後、彼との再会はついに果たせなかったのであります。・・・
「おーい、まだこがん所におったとかお前は」
 従兄弟が砂山を作った辺りまで来て岩場の突端の拙生を呼びます。「着替えて売店の所に居れて云うたやろうもん」
 彼等はもう着替えてすっかり帰り支度をしています。怒鳴られて拙生は慌ててよろよろと岩場を歩いて砂浜の方に引き返します。従兄弟の傍まで来ると早速拳骨の挨拶が待っていました。
 拙生は従兄弟に小突かれ急かされながら帰り支度を終えるのでありました。拙生にお構いなく先を歩く従兄弟とその友人の後を彼等に遅れないように小走りしながら、先程ぎゅうにゅうが沖の方へ泳ぎ去った夕凪の海を、拙生は何度も振り返りつつ後にしたのでありました。
(了)
タグ: 佐世保 少年
ぎゅうにゅう 創作 ブログトップ
メッセージを送る