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その犬の思い出Ⅰ [散歩、旅行など 雑文]

 もう二十年以上も前の話であります。中学以来の友人と信州は別所温泉に旅行した時のこと、泊まった旅館で貰った「別所温泉観光案内図」と云う地図を頼りに、翌朝、北向観音の裏手から延々歩いて周辺の観光スポットを散策したのでありました。
 まず夫婦道祖神とやらを祭った祠にたどり着いたのでありますが、そこで観光客に餌などたかっている、薄茶色の毛並みがなんとなく薄汚れている柴犬ベースの雑種犬に出会ったのであります。子犬ではないようでしたが、かといって成犬にも完全になり切っていないくらいの犬だったでしょうか。この犬、拙生と友人の服装があまりに貧乏たらしく見えたのか、我々にはとんと見向きもしないで、他の幾人かのハイカーや観光客の足元を回ってせわしげに尻尾を振りながら物欲しげな視線を投げ上げたり、なにやら食い物を投げてもらうと、いそいそとそちらへ歩いて行って臭いをかぐのももどかしげにかぶりつくといったことを繰り返しておりました。長いこと手入れをしてもっらっていないようなその毛の色艶と、首輪がないところからどうやらノラ犬であろうと思われます。
 自分のことを棚にあげて、服装と容貌から我々を貧乏人と侮るごときの態度は無礼な犬であると拙生と友人は憤るのでありましたが、その我々の憤慨に気がついたのか近づいてはこないものの、こちらの様子にそれとなく注意を向けているそぶりが、よおく観察しているとその犬の態度に見てとれるのであります。お互いに無視を気どりながらも、なんとなく気になりつつその場は別れると云った風情で、我々の方はその犬を尻目に次の目的地へ向って歩き始めたのでありました。
 山を切り開いた、車が一台かろうじて通れそうな道を沢山湖と云う農業用のため池を目指して歩き、そこから点在する民家をつたうように歩を進め、独鈷山登山口を過ぎて、信州最古の建造物である薬師堂のある中禅寺という古刹を目指すのであります。我々の他は一人だにハイカーとかの気配もなく、実にのんびりと晩秋の少々寒気の混じり始めた風に背中を軽く押されながら、中学時代の同級生だった誰彼の消息など話しつつ、二人の貧乏臭い風貌の男どもは緩い足取りで旅行気分を満喫するのでありました。
 風に木々がさざめく音とは違った草擦れの不協和音を聞き取ったのは、まず友人のほうでありました。誰か後ろを歩く者でも出現したかと振り返った友人は、おっと云う小さな声を発して立ちどまったのであります。つられて振り返ってみるとあの夫婦道祖神のところで見た犬が、いささか距離をとってまるで我々の後を追うように軽やかに小走りして来るではありませんか。犬の方も我々が立ちどまったのを見とめて足をとめ、舌を垂らしてやや頚を傾げるような仕草でこちらを見ているのであります。
(続)
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その犬の思い出Ⅱ [散歩、旅行など 雑文]

 その犬は我々と十メートル程の距離を保って地べたに尻を落としてこちらを窺っているのですが、決して近づこうとはしないのでありました。我々が再び歩き始めるのを待っているようであります。友人が試しに犬の方へ歩み寄ろうとすると、尻を浮かして飛びのくように数歩下がり、こちらが近寄る仕草をやめるとまたそこへ座って小首を傾げています。まあ、先の道程が長いのですからその犬にそんなに関わっている時間はないので、我々はまた沢山湖に向って歩き出しました。それとなく窺っていると、なんのつもりかつかず離れずの距離を保って犬はその後も我々についてくるのであります。
 不可思議な犬の行動に我々は少々薄気味悪いものを感じるのでありましたが、なんとなく及び腰で後をついてくるその様子から危害を加えようと云う気はさらさらないようです。妙な道連れが出来たものだと話しながら拙生と友人はのんびりと歩を進めるのでありましたが、どこかのタイミングで急にその犬の姿が後方から消えてしまいました。こんな貧乏臭い奴ばらについていってもなにかくれることもなさそうだと判断したのか、犬は我々の後を追うのをやめたようでありました。なんとなく我々も犬が居なくなってくれたのに安堵しました。ま、ちいとばかり寂しくもなったりするのでありましたが。
 もうほんのすぐで沢山湖が見えてくる辺りにさしかかると、今度は前方の道脇の雑木林の中でがさごそと云う背の高い草を踏みしめる音が聞こえてきました。林の中からふいに顔を覘かせたのは件の犬であります。犬は我々の方に目を向けてまた雑木林の中に消え、我々の後方へ回りこんで再び十メートルくらいの辺りで林から道に降りてきました。ちょっと寄り道はしたもののやはり我々の後を追っていたようであります。
 きっと我々がいかにも頼りなげな旅行者に見えたので、ちゃんと目的地まで散策コースを外れずに行くことが出来るのか、頼みもしないのにああやって後をついてきてくれているのかもしれないとは友人の推察であります。その内昼食に食い物を我々が取り出すはずと踏んで、根気よく追ってくるのだろうとは拙生の考えであります。いずれにしても犬は沢山湖を過ぎ独鈷山登山口という木札が立っている辺りを横目に、結局中禅寺まで同じような距離を置いて我々の後を相変わらずついてくるのでありました。
 中禅寺に着いて我々は中を拝観するのでありますが、犬は寺内には入ってはこず、夫婦道祖神の時のようにその辺に居る観光客に食い物をたかりはじめます。しかし我々が寺から出てくるのをちゃんと待っていて、次の龍光院と云うお寺に足を向けるとやはりのそのそと後をついてくるのでありました。いったいどこまで我々に同行するつもりなのでありましょう。まことにもって妙な犬であります。
(続)
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その犬の思い出Ⅲ [散歩、旅行など 雑文]

 龍光院でも犬はまったく同じ行動をするのでありました。次の塩田城跡の碑に我々が向おうとすると、他の人がくれる食い物に心が残る仕草はするものの、犬は我々の姿を見失う前にちょこまかとこちらへ駆け寄ってきて、相応の距離を保ってやはりちゃんと後ろをついてくるのです。
 塩田城跡の碑はふうんと云った感じで眺めてすぐに通り過ぎ、そのまま進んで前山寺へ着く頃には、犬は多少我々との間の距離をつめて、まあ、傍から見れば我々の連れと見てもおかしくない程の間隔で同行するのでありました。おいどこまでついてくるのだと、友人が歩きながら後ろの犬に声をかけると、犬はやはり歩きながら友人を見上げてなにか云いたげに口元を少々動かすのですが、特に声は発せず、まだ多少あどけなさの残る顔を傾げて舌をひらひら忙しげに揺すっておりました。
 前山寺を拝観して次の信濃デッサン館へ向おうと山門まで戻ってくると、どうしたものか犬の姿が門前から消えていたのであります。門を入る前は我々をそこで待っている様子でちゃんとお座りをしていたのでありますが、いったいどこへ行ったのやら。我々は心配になって犬の姿を探してみるのでありましたがどうも見当たりません。拙生と友人はなんだか拍子抜けしたような気分でしばし山門の横でつっ立っておりました。
 にわかにそう遠くない辺りで、けたたましい犬の鳴き声が聞こえてきてきたのでありました。顔を向けるとその鳴き声に追われてほうほうの態で、こちらへ必死に走ってくるあの犬が目に飛び込んできたのであります。犬は我々の傍まで走り寄ると拙生の足の間に体を滑り込ませて、荒い息遣いで鳴き声のする方を凝視しているのでありました。薄汚れた毛を逆立てて、体全体がぴりぴりと恐怖で戦慄いております。拙生の両足にぴったり体をくっつけて恐怖に震えるその心胆を拙生に伝えております。待っている間暇なものだから、その辺の家に飼われている犬にでもちょっかいを出して、その犬を怒らせて急に吠え立てられて、びっくりして逃げてきたに違いないとは友人の推察、観光客に例によって餌をたかっていたら、この辺を縄張りししている他の犬に見咎められて、追っかけられて逃げてきたのであろうとは拙生の考えであります。
 信濃デッサン館へ向う道すがらでは、犬は拙生と友人の間に体を収めて、その間隔ゼロメートル、我々からほんのちょいとも離れないと云った風情で歩くのでありました。我々はそのために歩きにくいこと夥しいのでありました。犬は面目なさそうな顔つきで拙生と友人を交互に見上げながら、尻尾を下げてそれでも多少は左右に力なく振って、こうして二人と一匹は、間隔の狭い横並びで旅路の空をゆっくり歩いて行くのでありました。
(続)
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その犬の思い出Ⅳ [散歩、旅行など 雑文]

 拙生と友人はひどく心配になっていたのであります。と云うのもこの犬がこの先どこまで我々についてくるつもりなのか測りかねていたからであります。我々の旅程は後は信濃デッサン館を残すのみで、その後は上田交通の中野駅まで歩いて電車で上田へ行き、信越本線で上野へ帰ると云う予定でありますが、中野駅から先もこの犬が我々についてくるつもりならば、ちょいと面倒なことになります。犬は電車に乗れません。犬の顔を見るとなにやらすっかり我々との道中が気に入っているような、完全に我々の仲間になりきっているような風情で尻尾を振っております。困った犬であります。
 それに困ったのは犬ばかりではなく二人の人間様も同様に困った連中で、拙生と友人も情がうつってこの犬とこのまま別れるのが辛くなっていたのであります。当然のようについてくるつもりでいる犬を中野駅に一人、いや一匹残して、犬の気持ちを土壇場で裏切るように我々だけ電車に乗ってしまうというのは、なんとも情において忍びない。それはなにやら人非人の仕業のようではないでしょうか。さあて、困った。
 多分我々が出てくるのを待つために軒下で寝そべっている犬の姿を、信濃デッサン館の中に併設されている喫茶店のガラス越しに眺めながら、拙生と友人は電車の時刻表など貸してもらって、コーヒーを啜りつつ、犬を電車に乗せて東京まで連れていく方法やら、連れていった後この犬をどうやって飼うかなどを真剣に考えるのでありました。電車がだめなら、最終的には時間と手間が掛かるけれどヒッチハイクでもして犬もろとも東京へ帰るしかないか、とは友人の意見であります。確かに最終的にはそれでいくしかないかと拙生も同意します。なんとなく東京まで連れ帰るリアリティーのある算段(!)が見つかって、我々はやっと一息つくのでありました。
 で、そうと決まってすでに夕闇迫った外へ犬を迎えに出ると、肝心の犬が姿を消しているではありませんか。さっきまで窓の外に寝そべった犬の姿を見ていたはずなのにと、拙生と友人は動揺するのでありました。おい犬どこへ行ったと友人は当然名前も知らない、いや、ついているかも判らないのでそう云って犬を呼ばわります。おい犬犬と拙生も声をあげます。しかし犬はついに我々の前に二度と現れることはありませんでした。
 あっけない幕切れに、拙生と友人は暗がりが濃くなる信濃路でしばし立ちつくしているのでありました。犬の気まぐれに腹がたつのでありますが、考えてみれば我々が勝手に自分達の思い込みに振り回されただけで、犬には特に罪はないのであります。だから余計に己が浅はかさに腹がたつのであります。しかし半面安堵の気持ちも確かに覚えるのではありました。懸案と犬の姿は信濃の風にひゅうと呆気なく消えてなくなったのであります。
(続)
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その犬の思い出Ⅴ [散歩、旅行など 雑文]

 エリザベス・M・トーマス著『犬たちの隠された生活』(深町眞理子訳、草思社刊)によれば、二歳の飼い犬が二百から五百平方マイルのテリトリーを展開している事実が報告されています。当然個体差はあるにしろ、犬と云う生き物はとてつもなく広大な領域を移動し、もとの位置に戻ってこれる生き物のようであります。信濃路のあの犬はノラ犬かも知れませんので、実は想像するよりはるかに広域な縄張りを持っていたのかもしれません。
 となると、別所温泉からなんだかんだで寄り道しても二十キロメートルに満たない散策コースなど、彼にとっては家の庭を散歩するような感覚でありましょうか。どこまでも我々についてくると拙生が考えたのは、つまり彼が自分のテリトリーを越えて自分達についてきているのだと勘違いした、犬なるものの生態を知らないための感情移入以外ではなかったと云うことであります。彼にとってはごく日常的な移動であって、貧乏臭い二人連れを見込んでその後をついて旅に出たのでは、決してなかったのでありましょう。
 ああ、ここで断っておくのでありますが、便宜上あの犬を「彼」と云ってはおりますがひょっとしたら「彼女」であったかもしれません。まあ、そんなことはどうでもいいか。
 彼が自分のホームタウンを棄てて我々についてこようとしていると勘違いした我々には、当然のこととしていったいなんのために彼がそうしているのかまったく理解出来ません。こっちの承諾もなしになにを勝手なと云うある種の薄気味悪さもありはするのですが、しかしなんとなく健気にも思えて、彼の意図は知れないながらも邪険に追い払おうなどとはしないのでありました。別の犬に吠え立てられてほうほうの態で拙生の股座に逃げ込んできた後は尚のこと、なんとなく頼りにされているようで拙生としても更々迷惑でなどなかったのであります。
 しかし今考えても単なる彼の日常的な移動と云うだけなら、我々の寄り道に律儀に付きあってくれることはなかったのであります。中禅寺でも龍光院でも前山寺でも、我々を置いて勝手に先を急げばよかったものを、彼はどうして我々を待っていて我々と同行しようとしたのでありましょう。他に食い物をくれる可能性の高い人達や、もっと彼に対してフレンドリーな人達ではなく、よりによっていかさない風体の貧乏臭い二人連れと。まあ、結局信濃デッサン館で見限ってくれはしましたが。
 これも犬の行動学とか生態とかで説明出来なくはないのでしょう。しかしまたなんとなく、もっと情緒的なところであの犬の心持を解釈したいような気分もするのであります。人に勝手についてくる犬も困ったものですが、相変わらず犬を擬人化してこれも勝手に感情移入したがる人間も、まあ、困ったものでありますかな。
(了)
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昔はよく散歩に出たもの [散歩、旅行など 雑文]

 学生の頃は文京区本郷二丁目の本郷給水所の辺りにアパートを借りて住んでおりました。今は家に杖つく年頃となってしまいましたので、もう三十年以上も前のことでありますが、学生の分際でしごく貧乏だったため金のかかる遊びは出来ないものだから、よく散歩に出かけておりました。
 主なコースは三つほどありまして壱岐坂を下って後楽園に出て、安藤坂を上って伝通院に詣でて、裏道をとろとろ歩いて小石川植物園をぶらついて、それから小石川一丁目まで戻ってこんにゃくえんまの源覚寺を背に左へ折れて白山通りを横切り、菊坂から本郷通りに出てアパートまで戻るのが云わば「西北コース」であります。これとは反対に外堀通りへ出て御茶ノ水駅まで向かい、もうなくなってしまった明溪堂書店を五階までぐるっと回って、当時はまだあった明大の古めかしく厳しい記念館を見ながら駿河台下まで下りて、古本屋をひやかしながら靖国通りを神保町から九段下へ向かい、日本武道館から北の丸公園をちらと回ってまた靖国通りを戻り、その頃は地下から三階まであった冨山房書店、東京堂書店、書泉グランデ、ブックマート、三省堂書店と本屋をはしごして、小川町から本郷通りを北上してニコライ堂を左に再び御茶ノ水駅へ。丸善もことのついでに覘いてから聖橋を渡って湯島聖堂を右に見てアパートへ戻るのが「南コース」であります。「東コース」は本郷三丁目から出て春日通りに入り、警視庁本富士署のところを左に折れて東大病院の塀に沿ってくねくねと雷状に歩いて無縁坂を、当時あった司法研修所を横目に下り不忍通り、そこから不忍池に沿って歩いて上野公園をぶらつくか、気が向けば合羽橋本通りを突っ切って浅草六区まで行って、演芸ホールを右に見ながら浅草寺、仲見世を通って雷門へ抜けて隅田川岸を吾妻橋から駒方橋までちらと歩いて浅草通りを上野に戻り、無縁坂から同じ道をとって帰るのであります。
 この拙生の散歩、偶の休日を長閑な日和に誘われてぶらりと街に出ると云った、悠長な気分ではなかったように思います。学生ですから偶の休日どころか、やることもなくて毎日が休日みたいなものでありますし、雨風の強い日にも飽かず歩いていたような気がします。こよなく散歩が好きと云うのでもなく、結構疲れやすい体質なので帰ってくると疲労困憊の風情で、崩れるように畳に寝転ぶのでありました。
 では何故それでも散歩に出ていたのかと云うと、十五歳の三島由紀夫の詩ではないですが「椿事」を期待してのものだったのであります。退屈で貧しくて先になんの当ても見えない泥濘のような日常に倦んで「凶変のどう悪な砂塵」がこの身に不意に押し寄せてくるのを密かに期待していたのであります。今考えると赤面の至りであります。それにいつでも、なにもない普通の散歩以上では結局ありませんでしたしなあ。
(了)
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寄席通い [散歩、旅行など 雑文]

 もう三十年近くも前の話でありますが、拙生、新宿末広亭、上野鈴本演芸場、池袋演芸場、浅草演芸ホール等によく出没したものであります。ひょんなことから寄席の雰囲気が気に入って、通いつめると云う程ではないにしろ、日曜日毎にどこかしらの入場券を購入したものでありました。「ご趣味はなんでしょう?」と聞かれれば「はい、寄席の入場券の半券を集めるのが趣味のような道楽のような」と、素直に「寄席通いです」とは云わないところがいかにも拗ね者みたいで嫌味でござんしょう。
 改築前の池袋演芸場の雰囲気が一番好きでありました。大概は観客よりも出演者の方が多いと云う逆転の発想を地で行く、将来と云う点で考えればかなりスリリングな寄席で、その分噺家もどこかしら気楽な雰囲気でありました。二つ目の演者の時は、今考えればまことに無礼千万ではありますが、畳に寝そべって聞いたり出来たのでありました。この寄席にはお茶子さんが居て席までお茶を運んできてくれるのであります。なんとなく良い風情でありましょう。
 誰だったか忘れてしまいましたが当時の若手が、鈴本でとてつもなくお下劣な噺をしたら六代目円生に「そんな噺を鈴本でやるやつがあるかい、そい云ったものは池袋でやりなさい」と叱られたと云う噺を末広亭で聞いたことがあります。ま、池袋演芸場はそう云う由緒正しき、なんでも在りの寄席でありました。夜席が終わった後に二つ目の勉強会等もよく行われていました。
 しかし周りの風情という点では浅草演芸ホールが抜群でありましたかな。地下鉄の駅を出たら神谷バーで電気ブランを一杯ひっかけて、雷門から浅草寺を冷かしてから寂れたとは云え六区の興行街をぶらついて、それから夜席見物であります。引けたら関根で腹ごしらえして、その辺のバラック建ての飲み屋でモツ煮込みで一杯てな感じであります。ただこの小屋は"はとバス"の観光コースになっていて、噺家の変わり目でどやどやと団体客が場内に雪崩れこんで来て、二、三席程聞いたらまた忙しげにどやどやと帰って行くのがちと興醒めではありましたが。
 そう云えば、記憶が定かではありませんが、この二階がストリップのフランス座だったでしょうか。酔った客がフランス座に入るつもりで来たのにちっともその手の出し物がないので、高座の噺家に「裸はまだか!」となにやら地口遊びのような文句を云ったら、噺家が「私でよければ脱ぎましょうか」と返したと云う話があります。
 末広亭では何の拍子だったか、志ん朝師匠の住吉踊りを見せてもらったことがありました。入場券売りのお姉さんと入り口で入場券をもぎるお姉さん、それに誰だったか、確か志ん駒師匠でしたかな、とにかく四人で高座に出てきてひと踊りであります。志ん朝師匠は好きな噺家であったので、これは得をした気分になりました。末広亭の裏方のお姉さんの芸まで見ることが出来て、拙生思わず石原裕次郎になった気分で心の中で呟いたのでありました。「もぎりよ今夜も有難う」
 いやこれは拙生の作ではなくて随分昔に噺家がよくやった小話であります。
(了)
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富士夫と云う芸人さん [散歩、旅行など 雑文]

 因縁と云うのはあるような、ないようなと云う話であります。都合でなななか寄席に足を向けずにいて、ようやく暇が出来て久しぶりに行ってみると、別にお目当てにしていたわけではないのですが、必ず高座でお目にかかる芸人さんがいらっしゃいました。曲芸の東富士夫師匠であります。
 当初は気にもしていなかったのでありますが、そう云えばいつも富士夫師匠が出ているなあとふと思ったら、これが因縁のつきはじめであります。行く度に貰ったプログラムに目を通すと、必ずと云っていい程「曲芸 富士夫」の文字がそこに鎮座しているのであります。富士夫師匠の出演ローテーションと拙生の寄席に行くリズムとが、何故か妙に同調していたのでありましょう。仕舞いにはプログラムを開く前から「曲芸 富士夫」の文字がその表紙に浮き出て見えるようになるのであります。いや、まだ電車で寄席に向かっている時点で、きっと今日も出てくるに違いないと云う予感が、揺れる頭の中で明滅しているのでありました。
 富士夫師匠の芸はまことに静かでありました。高座では一言も喋らないで微笑んだり困っようなた表情をしてみせたり、間の抜けたような顔を作ってみせると云うのが喋る代わりの愛想で、あとはちんまりと正座してひたすら手を動かして曲芸を見せるとか、二つに畳んだ座布団に尻を乗せて寝転がって危な気に足で樽を回したりと云ったスタイルであります。海老一染之介・染太郎師匠の対極を行く芸風でありました。地味と云えば地味、まあ、枯れた味わいと表現すればいいのでしょう。その風貌と云ったらいかにもその辺に居る叔父さん風で、見様によってはどこかの中小企業の社長さんのようでもありました。
 正座してスキーのストックでポリバケツの蓋を回しながら(考えれば玄人にしては随分と安直に用意した小道具でありますよね、これって)ちょっと気を抜いていたら、いつの間にか蓋が落ちていてそれに気づかず、まだストックだけを気の抜けたままの顔でまわし続ける、と云ったいつもの古風なボケを見ながら小さく笑って、はて、何故こうも寄席に来ると必ず富士夫師匠と遭うことになるのかと暫し考えるのでありますが、因縁としか云いようがないでありましょう。
 その内富士夫師匠を見ないでは、寄席に来た甲斐がないような心持ちになってくるのでありました。電車の中で、もし今日富士夫師匠が出ていなかったらどうしようと半ば動揺するよになるのであります。志ん朝、小三治、談志、円楽、円歌、それに三平、円菊、馬生、時に円生、後の彦六で当時は正蔵等の錚々たる師匠連をさし置いて(と、こう云う云い方は富士夫師匠に失礼になるかも知れませんが)色物の富士夫師匠をお目当てにしているような自分が、自分でも不可思議極まりないのでありました。
 その富士夫師匠を地下鉄の浅草駅で見たことがあります。夏場で、いかにも地味ななポロシャツにベージュのズボン姿は芸人の派手やかさが微塵も匂わず、この人が芸人かと思うくらいの極々ありふれた姿であります。時間からしてきっと演芸ホールの昼席を終えての帰りであったのでありましょう。拙生はどきりとして立ち止まり、師匠がホームへ向かって歩く姿を暫し目で追うのでありました。拙生の顔はなにやら憧れの有名人を見るような、うっとりした表情であったろうと思います。
 そうしてはたと気づくのでありました。と云うことは、この後の夜席には富士夫師匠は出ないと云うことか、と。拙生の衝撃はかなりのものでありました。急に演芸ホールへ行く目的を失ったような心持ちになるのでありました。で、どうしようかと迷った挙句についにその日は演芸ホールへは入らず、近くのバラック建ての一杯飲み屋に入りこんで時間を潰して、そのまま歩いて当時住んでいた本郷のアパートへ帰ったのでありました。
 寝床に入って暫し考えたのであります。本来は落語を聴く目的で寄席に行っているはずなのだと。決して富士夫師匠の曲芸がその通う目的ではないはずなのです。ですから富士夫師匠が出ないと判ったからと云って、寄席に立ち寄るのをやめた今日の拙生の行動てえものは、はたして美しい青春を生きる男として正しい態度だったのか、否か。・・・
 考えていると次第に目は冴え意識は自責と苦悩の螺旋階段を登り続け、ついに朝を迎えてしまいました。富士夫師匠は拙生にとってなんと悩ましい存在となっていたのかと、今更ながらに布団の中で気づくのでありました。こういう苦悩と愛憎の時を右往左往していた拙生の青春時代を、仕様もないとお考えであるならどうぞ遠慮なく、笑わば笑え。・・・
(了)
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世田谷の端っこでⅠ [散歩、旅行など 雑文]

 大学進学のため東京に出て来て、最初に住んだのは世田谷の上祖師谷四丁目でありました。東京に住んでいる叔母がアパートをやっていて、そこに転がりこんだのであります。まったくの住宅地であり、近くに商店もなく、栗林やキャベツ畑もあって結構田舎の風情が残っておりました。この辺りは水洗トイレもまだ全面的に普及していなかったのであります。こりゃあ見様によっては佐世保より鄙びているかなと云うのが、住みはじめた頃の最初の印象でありました。小田急線の成城学園前駅と京王線の仙川駅の丁度中間辺りでありました。近くのバス通りの向こう側はもう調布市であります。最寄りのバス停と云えば中央電通学園裏でありましたが、電通学園とは今のNTT東日本研修センターであります。
 アパートを出て畑や空地や住宅の連なる細い道を歩いてバス停に出ると、節約と趣味を兼ねて当然バスには乗らず、拙生は徒歩でバス通りを成城学園前駅の方へ南下するのであります。程なく、もう今はなくなってしまいましたが、俳優の三船敏郎さんがやっていた三船プロが左手に見えてきます。ここには時代劇のセットが組まれていて、セットの中はなんとなく誰でも出入り自由でありました。時々町娘姿の女優さんと浪人姿の俳優さんが、側のベンチで弁当を使っているのを目にすることが出来ました。友人やら佐世保の親類知人が拙生宅に訪ねて来たら、よくここへ案内などしておりました。佐世保に住む従兄弟がミーハーなヤツで、三船プロに連れて行くと興奮して一日中、セットの中を走り回っていたり近くに散在する有名人の家などを覗きに行ったりで、あちら此方東京見物に連れて回る手間もないので、拙生としてはまことに勝手ながら三船プロとは有難い近所づきあいをさせてもらっておりました。
 バス通りを避けて道を雷形に折れて住宅街の中に入ると、車の喧騒もなく静かな散歩となるのでありますが、この辺りはもう成城のお屋敷街で、広い敷地に瀟洒な、或いは贅を尽くした、また奇抜な住宅が方形の区画にゆったりと並んでおります。貧乏学生の拙生もなんとなく裕福そうな心持になって、歩調も緩く塀や垣根越しにのぞく庭木の枝振りに目を止めたりしながら、まるでこの辺に住まっている人間のような顔してやや顎を上げて歩くのでありました。お屋敷街にある桜の並木は、これはもう見事で、花頃には桜のトンネルが出現するのであります。
 成城学園前駅の南口には当時国鉄のチッキを扱う窓口がありました。チッキと云うのは国鉄の乗車券を持っていれば荷物一個を到着駅まで送ってくれるサービスであります。偶さかの帰省にはこれで荷物を先に送って、ほとんど手ぶらで帰れるので大変重宝しておりました。JRになってからはもう、よくは知りませんがなくなってしまったサービスでありますかな。
 そう云えば北口のバス停の向い側にどこかの建築会社の展示住宅があって、ここでは山口百恵さんと宇津井健さん共演の「赤い迷路」と云うテレビドラマのロケが行われておりました。展示住宅でありますから普段は誰でも入れるのでありますが、拙生も一度家の中に上がりこんだことがあります。
二階のある部屋に置いてあった備品の大きな机の引き出しを何気なく開けてみたら、中に中学生のものと思しき学習参考書が数冊入れてありました。展示住宅の飾りとして机はいいとしても、その中に、しかも目立たないように参考書を入れておく必要はなかろうと考えて、俄かにはたと思ったのであります。ひょっとしてこれは撮影の合間に勉強しようと、山口百恵さんがここに置いていったものではなかろうかと。今となってはその持ち主が誰であったのかは、調べようもありませんから謎のままであります。
(続)
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世田谷の端っこでⅡ [散歩、旅行など 雑文]

 世田谷のアパートを出て北に向かうと京王線の仙川駅であります。アパート前の車が一台すれ違えるかどうかと云うくらいの道の横には栗林が広がっており、林の真ん中を突っ切るように舗装されていない黒土の道が通っておりました。冬や早春の朝は霜を踏みしめる音などして、葉を落としてしまった低い栗の木の不規則に交差する枝越しに、低く厚い雲に覆われた空を見上げればそれはいかにも冬の光景でありました。また道の脇に山躑躅が植えてあって、五月になれば一斉に小さな深紅の花を咲かせ、新緑と相まってなんとなく林の中が彩に満ちてくると、歩く此方の気分も弾んでくるのでありました。
 この栗林の道を歩き終えるとやや広い通りに出て、すぐ前には緑色のネットで覆われたゴルフ練習場がありました。ここの横の道を抜けて民家の何軒か固まる一角に出ると、すぐそこには至誠会第二病院の寮に付属したテニスコートが見えます。そう云えばこの一角の切れ目の家で飼われていた犬が、横を通るとよく拙生に吠えかかっておりました。吠えてはいるものの尻尾は振っているので、愛想をしているのか敵意を示しているのかがよくは判りませんでしたかな。
 至誠会第二病院の寮は木造二階建ての拙生の住まうアパートのような建物で、敷地の中に何件か建っておりました。ここには若い看護士さん達が住んでいたようで、時々病院の方へ白衣を着て向う姿など見かけるのでありました。拙生と同い年くらいの女性がすぐ前を足早にすり抜けていくと、拙生も若かったものだからちょっと緊張して仏頂面など装うのでありましたが、更の白衣の匂いと一緒に、石鹸の匂いなのか束ねた髪の毛の匂いなのか、とにかく好い香が仄かに残って漂って、拙生の仏頂面の口元がだらしなく緩むのはこれは自分でもなんとも制御能わざる反応でありました。
 至誠会第二病院からまるで参道のように真直ぐに道が延びていて、この道の右側が件の看護士さん達の寮、左側は広い空地でありました。確か道は舗装されていなかったように記憶しているのでありますが、この記憶には自信がありません。この道が尽きるとようやく二車線の道に出るのでありましたが、二車線と云っても知れたもので、車がすれ違う時など道脇を歩く拙生に今にも車が接触しそうになるくらいの幅員なのであります。この道はこの辺では古くからの幹道であったらしく、道の両側には雑貨を商う店や洋服店、電気屋さんや小ぢんまりしたスナック、写真屋さん等が何軒か並んでおりました。この道に成城から調布駅方面へ向かうバスが乗り入れて来て、仙川駅入口まではバスのすれ違いもあるのであります。いったい歩行者は路傍でどう云う恰好をしてバスをかわせばよいのか、バス会社か道路を管理する東京都に教えて貰いたいくらいでありました。
 でありますから拙生はバスがこの道に合流する辺りですぐに路地へと入り込みます。ここからはもう調布市であります。民家の間を縫う、めったに車が入ってくることはない路地をジグザグに歩いて、赤ちゃん用品の和光堂の倉庫があった辺りに出ます。ここまで来ると仙川駅はもうすぐ側で、今は違う店になっているようでありますが、当時は京王ストアの二階建ての大きな店舗がありました。この京王ストア向いは広い駐車場で、ここでは時々消防の訓練などが行われておりました。
 京王ストアの横を仙川商店街に出ると、ここはよくある賑やかな駅前商店街で道の両側に様々店舗が並び、行き交う人の流れに乗って仙川駅まで買い物気分で一歩きであります。仙川駅は当時は木造平屋の建物で改札口も木製でありました。そう云えば仙川駅横に大きな桜の木があって、駅前開発でこの木を切るの切らないのと揉めているという記事を、もう世田谷を去って随分してから新聞で見たことがありました。あんな大きな桜の木を切るのは勿体ないと思ったものですが、さてどうなったのでありましょうか。
(了)
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よく喫茶店で憩っておりました [散歩、旅行など 雑文]

 最近は街中にあまり喫茶店を見かけなくなってしまいましたが、拙生の学生の頃は至る所に夫々に趣向を凝らした店があって、毎日のようにその扉を押し開いて薄暗い店内で一人、或いは数人で憩っていたものでありました。結構ゆったりとした椅子に座って、店内に流れる音楽を聞くともなく聞きながら、低料金で最低一時間は時間を潰せるのでありますから、貧乏学生にとってはまことに有難い空間でありました。
 拙生は本読みの場所としてよく使っておりました。本を読むならアパートでも大学の図書館でもよかったのでありますが、なんとなくコーヒー、しかも他人様がいれてくれたものをちびちび口に運びながら、四人掛けのテーブルのクッションのいい椅子に一人ふんぞり返って、持参した読みかけの本の、栞を挟んだ項を徐に開くのがなんとなく気持ちがよかったのであります。まあ、これから暫し誰にも邪魔されない自分だけの寛ぎの時間が始まるのだと云う嬉しさでありましょうか。小学生にとっての夏休み第一日目のような気分と似たようなものでしょうかな、云ってみればそれは。夏の茹だるような暑い日や冬の寒さが身に凍みるさ中など、アパートよりも余程居心地の好い場所でありました。
 東京に出てきて最初に入ったのは新宿のカトレアと云う大きな喫茶店でありました。大学で新しく出来た友人に連れて行かれたのであります。新宿と云う街そのものもほとんど馴染みのない街でありましたし、友達と喫茶店に入ると云う行為も佐世保の田舎では経験がなかったことでありましたから、なんとなく新宿の喫茶店に行こうかと誘われた時にはワクワクとしたものでありました。紀伊国屋書店から地下に入ってすぐの場所にあり、新宿駅構内からも外に出ることなく行くことが出来たので、その後も一人で時々新宿に出てはカトレアでコーヒーを飲んでおりました。
 そう云えば当時はマンモス喫茶と云って、フロアーが広く客席が多い喫茶店が多くありました。今では考えられないでしょうがそれだけのニーズが当時はあったのでしょう。本郷に引っ越してからお茶の水の喫茶店によく出かけましたが、お茶の水にもウィーンとかシェーキースとか、田園とかのマンモス喫茶がありました。田園などはよく行きましたが、フロアーの広さに比して従業員の数が少なかったためか、着席してもなかなか注文をとりに来てくれないこともありましたかな。
 しかしそれなりに喫茶店気分を楽しむとしたら、マンモス喫茶よりは小ぢんまりとした喫茶店の方がよかったでしょうか。考えたら「喫茶店気分を楽しむ」と云う娯楽も、まあ今の娯楽の感覚からすれば、随分とチープで静か過ぎる娯楽でありますが、それはさて置き、お茶の水駅の近くだったら拙生はよく画材屋のレモンの喫茶部とか、神保町まで下ると三省堂書店裏のラドリオと云う喫茶店に行っておりました。このラドリオは結構有名な店で、「ホットコーヒー」と注文するとウィンナーコーヒーが出てくるのでありました。内装は古臭く、喫茶店の奥はちらと仕切られてはいるもののお酒の飲めるバーでありましたかな。拙生はバーの方には行ったことがありません。聞くところによると年配の有名人や作家の方々が通っておられたとか。
 ラドリオの喫茶店の方にも、お顔を存じ上げている作家の方や漫画家の方が時々片隅の席に座って、ウィンナーコーヒーをすすったりオムレツを食されていたりしておられるのを偶に目撃いたしました。「ガロ」と云う漫画を出していた青林堂と云う出版社が近くにあって、そこの編集者と思しき人と若手漫画家と思しき人が差し向かいで、漫画原稿を机に置いてなにやら話しこんでおられる光景も見られました。
 クラシック音楽を流している名曲喫茶、ジャズを流すジャズ喫茶と云うのも結構ありました。ジャズ喫茶ではコーヒーよりもビールなどの方が雰囲気に合っておりましたが、ビールとなると少々値段がお高くなるので、拙生はジャズ喫茶にはあまり出入りすることはありませんでした。それに喫茶店気分よりもジャズそのものを楽しむと云った雰囲気で、ちと拙生の喫茶店趣味とは違っていましたし、中には突出して騒ぐ連中やらやたら議論を吹っ掛けてくる連中も居て「チープで静か過ぎる娯楽」にならない場合もたまにありましたから。
 とまれ、もうそんな喫茶店が流行る時代ではなくなったようであります。確かに喫茶店で一時間も二時間も時間を潰すなんと云うのは、今の時代勿体ないという感覚の方が先立ちますかな。
(了)
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バリ島とコーヒーⅠ [散歩、旅行など 雑文]

 拙生が最初に行った海外旅行がバリ島でありました。もう四半世紀前のことであります。本当は、インドネシアを旅行するなら先ず、プラムディヤ・アナンタ・トゥール氏の小説に魅せられていた頃でありましたから、ジャカルタや近辺のインドネシア独立戦争の史跡などを見てみたかったのでありましたが、この旅行の性格上バリ島観光になったのでありました。
 まあ、ツアーでありましたからパスポートの入手くらいしか、さして手間暇もかからなかったのでありますが、しかし大体がものぐさで面倒臭いことが苦手な質でありますし、小心者であるため万事に“初もの”をあんまり歓迎しない人間としては、生涯初の海外旅行と云うことで少なからず緊張感はあったのでありました。その緊張感の実態てえものは、例えば言葉も通じない所で迷子になったり俄かに差しこみに襲われたり、有無を云わさずわけも判らず突然当局に連行されたりしたらどうしようかとか云った類の、云ってみれば埒もない取り越し苦労であります。
 さて、万事に戸惑いながら成田空港からガルーダ・インドネシア航空の機上の人となり、機内食に舌鼓を打ったり暫しまどろんだり、赤道を越えた記念のシールを貰ったりしながら、夕暮れのヌグラー・ライ空港へ八時間弱の時間を要して到着したのであります。地へ足を下ろすとそこは熱帯植物の濃密な匂いに囲まれた南海の楽園でありました。
 手荷物検査を終えるといきなり大柄のお兄さんが笑いながら近づいてきて、親切にも我が手荷物を押してロビーへと案内してくれます。申しわけ御座らん等と日本語で一声。しかしお兄さんは拙生の荷物に手を添えたまま立ち去る気配を見せません。口元を見ているとどうやら「チップ」と云っている様子。前もって読んでいた旅行案内書で、この国ではチップの習慣はないと云う情報を得ていたものでありますから、貴国に於いてチップは不要では御座らんのかと、これまた早口の日本語で問うのでありましたがこれは野暮と云うものでありましょう。ま、仕様がないと急ぎ両替所で一ドル紙幣を両替して半分程渡すと、お兄さんはニコニコしながら拙生に手を挙げるのでありました。
 チップなんぞと云うものは、なんとなく日本人の感覚からすれば不愉快な習慣であると、渋い顔をして突立っていると、現地旅行会社の案内の人が日本語で話しかけてくるのでありました。彼はツアーの名称と拙生の名前を確認して、迎えに来た旨告げ、拙生を旅行会社差し回しの車へと誘うのでありました。
 空港からサヌール・ビーチまでその車で送ってくれるのでありましたが、途中バリ・ビーチ・インターコンチネンタルホテルで、戦時中にバリに居たことがあると云う三人連れのお爺さん観光客を降ろして、拙生ともう一人の連れをその先のバリ・ハイアットホテルまで運んでくれるのであります。ツアー・ガイドの男性はバリ・ビーチ・インターコンチネンタルホテルは日本人観光客が多くて騒がしいが、これから向うハイアットホテルは欧米人の宿泊者が殆どで静かだから、お主らは良いホテルを選んだと云う話をするのでありましたが、してみるとどうやら日本人は騒がしいと現地で評判であるらしく、それを拙生等日本人に語る彼の心胆てえものはいったい那辺に在りや、等とぼんやり考えていたら間もなくハイアットホテルへと車は滑りこむのでありました。
(続)
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バリ島とコーヒーⅡ [散歩、旅行など 雑文]

 滞在の殆どをホテルのプールサイドやビーチで寝そべって過ごしたのでありましたが、あい間に観光地巡りに駆り出されるのはツアー旅行のお決まりであります。ものぐさの国からものぐさ教を布教しに来たような拙生としては、実に以って面倒臭がったのでありますが、連れがホテル生活のダラダラに倦んでいそいそと観光に出かけるものだから、拙生としては不承々々につきあうのでありました。
 それでも芸術家村と云われるウブドでは画家達のバリ伝統の手法やその色使いにほうと唸り、金銀細工のチュルクと云う村では今現在も愛用するペーパーナイフを購入してみたり、バリ木彫りの本場たるマスではお土産の木彫りのお面の値段がやけに高いではないかと店の人に食い下がったり、なかなか拙生なりに観光地巡りを楽しむのでありました。ベドゥルでは象の洞窟の彫刻に見入り、タンパクシリンでは元大統領のスカルノが建てたと云う宮殿をなかなか豪勢なことをするものと腕組みして見上げ、キンタマーニ高原ではその深みのある美しい眺望に見とれ、移動途中の田園風景が昔の日本の農村風景に似ているでしょう等とガイド氏に云われると、しかし扶桑の田園にヤシの木など大概ないであろうと彼の人にニコニコ笑いながらケチをつけたり、拙生、すっかりものぐさ教の布教を忘れてなかなかにはしゃいでおります。それにまだまだ、ガムランの調べとバロンダンス、夜間に篝火の中で見た迫力あるケチャックダンスには我を忘れて熱中するのでありました。
 或る晩、デンパサール市街のレストランへと連れて行かれた時でありますが、歓迎の意味でと髪に花飾りを刺され、白い一輪花の髪飾りなんぞは扶桑では男児の為すべき装飾にあらずと面喰い、なんとなく照れながらテーブルへと案内されるのでありましたが、そこでインドネシア風焼き飯のナシ・ゴレンやらサテーと云う焼き鳥等を食して、その後にコーヒーが出てきたのでありました。店のボーイさんが云うには、これはバリ島独特のコーヒーであるから、もし口に合わなければ普通のコーヒーと取り換えてあげるとのこと。成程そのコーヒーはガラスのカップに入れてあって、確かに普段拙生が扶桑の喫茶店で飲むコーヒーとはその器からして趣が違っているのでありました。
 それにその味は、見事と云う程に甘かったのでありました。普段拙生は砂糖もミルクも混ぜないコーヒーを飲んでいるものでありますから、先ずその甘さに閉口するのでありました。しかも砂糖だけで作られているのではなさそうな独特の甘みなのであります。加えてガラスの器の底にコーヒー粉と思しき沈殿物が堆積していて、実に以って飲み難そうであります。“初もの”嫌いの拙生としてはこれを腹に納めるのに躊躇いを禁じ得ないのでありました。しかしボーイさんがとても親切な人だったので、取り換えを要求する勇気がなくて、無理してそれを飲み干したのでありました。
 ホテルへ帰るとコーヒーショップへ直行して飲み慣れた普通のコーヒーを注文し、拙生はその甘みの残滓を口の中から取り除こうとするのでありました。バリ島滞在中はあのガラスの器に入ったコーヒーだけは金輪際飲むまいと、口元に差し上げた陶器のコーヒーカップから立ち上る湯気にそう固く誓う拙生でありました。
 しかし味覚の好悪は移ろう秋の空のごとくであります。元々好き嫌いなどと云うものは、ほんの些細な切っかけで簡単にひっくりがえる程度のものなのかも知れません。
(続)
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バリ島とコーヒーⅢ [散歩、旅行など 雑文]

 扶桑へ帰ってからはそのバリ島で飲んだコーヒーのことはすっかり忘却しておりました。しかし或る日、或る知人の家を訪うた時、砂糖のたっぷり入ったコーヒーを出されて、断り辛い状況であったので、内心閉口しながらもそれは噯気にも出さず飲み干したのでありました。その時不意に、バリ島のレストランで飲んだコーヒーのことを思い出したのであります。同時にバリ島旅行時の様々な断片がスライド写真の様に頭皮の内側に蘇り、あれはなかなかに面白い旅行であったなどと振り返ったりするのでありました。
 あの甘くてグラスの底に沈殿物のあるコーヒーを、後で知ったのはそれを「コピ」と現地では呼ぶと云うことであります。懐かしいバリ島観光の思い出に浸る内に、どうしたものかもう一度あの「コピ」なる液体をこの喉に流してみたいような気になるのでありました。この宗旨替えは、屹度味の印象が薄れたために他なりません。喉に絡みついて暫し離れないあの甘さと、グラスの底のいかにも飲み干すのを躊躇わせる如く堆積する黒々とした沈殿物の衝撃が、時間の靄に覆われて淡くなり、美味い不味いの判断も最早茫漠と風化しております。それにもう一度それを口にすれば案外美味いのかも知れぬなどと性懲りもなく思うのは、これはひょっとしたら人類がこの地球上で繁栄した普遍的理由の内の、不屈のチャレンジ精神と好奇心と云うもので、今拙生の内でそれがムラムラと立ち上がった故ではないでしょうか。ま、単に忘れっぽいだけと云う話もありますが。
 と云うわけで拙生はその「コピ」を振舞ってくれる喫茶店か料理屋が東京の何処かにないものかと、なんとなくいつも気に留めてはいたのでありました。しかしそう熱心に探したわけでもないので、それに当時はまだバリ島の風物や文化が今ほど一般に認知されてはいなかったものだから、そんな店が容易に見つかるはずもないのでありました。
 一度普通に扶桑で売られているインドネシア産のマンデリンとかトラジャとかのコーヒー豆をミルで挽いて、それをまた金槌で細かく粉末状になるまで砕いてグラスに入れて、その上に熱湯を注いで飲んだことがありました。これはその飲み難さの点では結構イケるのでありました。さてそれならばと今度はコーヒーの粉末に砂糖を混ぜこんで湯を注ぎ入れ、攪拌した後粉が沈むのを待って口の中に入れてみると、益々イケるのであります。確かにヘコたれてしまいたくなる程こんな甘い味だったと八割がた納得して、しかしなんとなく甘さの性格が少し違うような気もするのでありました。屹度他に何か混ぜものをしているのか、扶桑で手に入る砂糖とは違った砂糖を使っているためでありましょう。
 しかし兎も角「コピ」もどきのコーヒーは、このようにすれば何時でも飲めるようになったわけであります。拙生はその後普通のコーヒーを淹れて、満足の笑みを片頬に浮かべてそれをゆっくり飲むのでありました。
 元来が無精に出来ている拙生であります。毎回々々挽いた豆をまたパウダー状になるまで潰して等と云う手間暇を辛抱出来るわけがないのであります。よってこのバリ島風コーヒーの作成はこれにて終幕し、以後試みることはなかったのでありました。また再びバリ島へ行く機会でもあったら、その折本場ものをしこたま飲むことにしましょう。それまではお預けと云う事にしておくのであります。と、この一文を書いていたら本当にもう一度バリ島へ旅行したくなってきましたが。
(了)
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蘆花公園の白ネコⅠ [散歩、旅行など 雑文]

 今から四半世紀程前に或る女性との最初のデートは、世田谷の北烏山寺町から蘆花公園までのぶらぶら歩きでありましたが、当時は世田谷に住んでいたので、寺町は拙生にとって恰好の散歩コースでありました。と云ってもそのデートの前に一度きり歩いたばかりではありましたが。
 烏山寺町は関東大震災以後に浅草や築地、麻布や芝辺りの諸寺が集団移転してきた処であります。寺院の数は二十六、寺々の甍に大樹の枝が寄りかかる、住宅街に忽然と広がる緑豊かな別天地と云った趣きであります。
 彼女と京王線の千歳烏山駅で待ちあわせて、そのまま寺町通りを北上して甲州街道を突っ切ればすぐに寺町の一角であります。頃は梅雨の只中、低い雲が垂れこめ、時々落下してくる雨粒に頬を濡らしながら、住宅街の道を二人は埒もない話に興じながらゆるゆると歩くのでありました。
 彼女を案内して、妙善寺で為永春水の墓に手をあわせて、幸龍寺では「江戸名所図会」の挿絵で有名な長谷川雪旦の墓に頭を垂れ、そば切り寺の弥往院に於いては宝井基角とその父たる榎本東順の墓を眺め、専光院の喜多川歌麿の墓前に二人しゃがんで、拙生は彼の人の画風について彼女に仕入れたばかりの蘊蓄を得意気に垂れるのでありました。関東大震災のために縁もゆかりも無い当地で密やかに眠ることになった此れ等の墓の主は、さぞや魂消ているであろうにと陰気に語る拙生の声に、詰まらなさそうな顔も出来ずに頷く彼女の災難の程は如何ばかりかと、今にしてようやくに考え及ぶのでありますが、思えば探墓趣味とは初デートにしては若々しくもなく時めきの欠片もない散歩でありました。
 高源院の弁天池はシベリアから小鴨が飛来する池として有名で、水面に浮かぶ睡蓮の葉が雨に打たれてその色艶が一層際立っているように見えるのは、これは美しい光景ではありました。この葉の上で昼寝をしたらさぞや涼しかろうと雨蛙みたいな了見を彼女に披瀝してみせる拙生でありましたが、これは前に寄席で聞いた志ん朝師匠の『品川心中』で、本屋の金蔵が心中を持ちかけられた花魁のお染に「この世で所帯を持っても仕様がねえから、あの世へ行って蓮の葉っぱの上でお前と所帯を持とうじゃねえか」と、志ん朝師匠によれば雨蛙みたいな了見になったと、そう云う話を不意に思い出したから何とはなしに口に上せたのでありました。
 自分ながら呆れる程、これも最初のデートにしては初々しさも瑞々しさもない会話でありますが、一つだけデートらしい佇まいはと云えば雨脚が激しくなったので、とある寺の軒先を借りて彼女の手になる弁当を広げたことくらいでありましょうか。昼にも関わらず辺りは暗く、蕭状たる雨景色の中での弁当でありますから、まあ、これがデートらしい光景かどうかは厳密に云えば多少疑問の余地があるようなないような。
 弁当を終えて雨が降り収まるのを寺の縁の欄に二人して寄りかかって、益体もない話に時間を潰しながら待っていると、漸くに驟雨はこの地を去り、微かに辺りが明るくなってくるのでありました。無駄話の種も尽きかけて、やっと歩行の自由を得た拙生と彼女はこの後千歳烏山駅まで戻り、駅を通り越したら南南東に足の親指の向きを変えて今度は蘆花公園へと向かうのでありました。
(続)
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蘆花公園の白ネコⅡ [散歩、旅行など 雑文]

 緑豊かな蘆花公園をそこまで辿り着いた足取りそのままのゆるりとした歩調で散策すると、奥まった林の中に蘆花恒春園が佇んでいます。徳冨蘆花が明治四十年から死去する昭和二年まで隠棲して半農生活を送った武蔵野の面影をとどめる住居跡であります。母屋や書院、展示してある彼の人の遺品や遺墨を彼女と二人で眺めながら、キリスト教の影響から夫人にそれまでの自分の女性遍歴を洗い浚い告白し懺悔しようとしたら、夫人がヒステリーを起こしたのでぶん殴ってしまったと云ったエピソードがあるのは、確か兄の徳富蘇峰ではなく蘆花の方であったよなあなどと考えている拙生でありました。
 空を覆う雲がまたぞろ厚く低くなり始めて、林の暗がりが一層濃くなってきたのは再び多量の雨粒の来襲を予感させるのでありましたが、果たして下瞼の辺りに雨滴の降りかかる律動はアダージョからアンダンテに変わろうとしております。二人は空を見上げて雨宿るために母屋の軒下の縁にかけてある木の梯子段に座って、雨と風にさざめく木々の葉音に無言で耳を傾けているのでありました。すると木々のざわつきの間隙を縫うように、縁側の下からネコの頼りなげな鳴き声が聞こえてくるのでありました。
 上体を前に屈して股覗きすると、寒いためにか身を縮めて戦慄く一匹の白いネコと目があうのでありました。ネコは歩み寄ってきて福笑いの絵のように逆さになっている拙生の顔を凝視しながら、口を小さく開けて再度弱々しく鳴いてみせます。拙生は上体を起こして彼女にネコの存在を知らせるのでありました。
 彼女が拙生と同じ様に身を屈めて縁下を見る前に、白ネコは其処から出てきて拙生等が腰をかけている木の梯子段へ震える前足を載せるのでありました。ネコはそのまま彼女の膝によろよろと上がりこみ蹲り、彼女の顔を見上げてなにやら訴えかけるように幾度か声を上げます。彼女は少し爪先立って膝を水平に保ってネコが滑り落ちないように気遣いながら、身を避けず追い払わず、寧ろ顔を近づけてネコの表情を見るのでありました。
 白ネコからは異臭が立ちのぼっているのでありました。老ネコではないようでありましたが痩せて肋骨が浮き出ていて、顔は眼脂に汚れて手入れの痕跡が一切窺えないのは屹度此処を塒としている野良ネコなのでありましょう。彼女の穿いている白いジーパンはネコの体の汚れをうつされて、膝の辺りを中心に薄茶色の染みが出来ているのでありました。
 体の震えが止まらないのは空腹がその主な原因であろうと推察した彼女は、背負っていたリュックの脇ポケットからビスケットを取り出して、それを小さく割ってネコの口元に差し出すのでありました。白ネコが顎を上げて彼女を見ながら一声鳴くのは、まるで礼を云っているような風情でありますが、その後差し出されたビスケットに無心に齧り付くのでありました。彼女は白ネコが食べ続ける限りビスケットを与え続けるのでありました。
 雨空のためだけではなく辺りの闇が深くなっていくのは、日の入りが近づいたためでありましょう。白ネコは与えられるものがあれば際限なくそれを口に入れる積もりのようでありますし、彼女もビスケットが仕舞いになったら今度はリュックの中を捜してチョコレートとか、持っている限りの食物をこのネコに供する積もりのようであります。食物を与え続ける彼女とそれを与えられる儘口に入れ続ける白ネコの光景は、なにやら妙に、厳粛で神聖な様式美を有しているように拙生には感じられるのでありました。
 しかし夕闇の到来とようやく上がった雨と拙生のそろそろ帰ろうかと云う言葉が、この様式美に彩られた光景に終幕をもたらすのでありました。彼女は白ネコを丁重に膝から木の梯子段に下ろし、残っている食物をその前に置いて立ち上がります。白ネコは立ち上がった彼女には目もくれず、鼻を押しつけるようにしながら自分に供された食物を頬張り続けるのでありました。
 歩きだした彼女は白ネコの様子が気になるために、暫し振り返っては縁側の梯子段の方に視線を向けるのでありました。ほら、まだ必死に食べていると彼女は拙生を見上げながら云うのでありましたが、蹲った白ネコの背中が咀嚼に連動して微動しているのが、彼女にはなにやらひどく切ない光景のようでありました。彼女自身はあんまり気にはしていないようでありましたが、彼女の白いジーパンが汚れてしまったことを拙生は大いに気の毒に思うのでありました。
 ・・・・・・
 さてこの彼女でありますが、今は奥と名を変えてずっと拙生の家に居るのであります。屹度今頃は居間で寝そべって、ビスケットか何かを自らの口に放りこんでいるに違いありません。嗚呼、あの時の白ネコ程に拙生は今現在彼女に大事にされているのかどうかなどと、小さな疑問符が頭の中でメトロロームのように揺れているのでありますが、同時に拙生としては彼女に対してその亭主運の悪さを、大いに気の毒に思ったりなんかしているこの頃であります。
(了)
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