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あなたのとりこ 111 [あなたのとりこ 4 創作]

「じゃあ旅行ですか?」
「いやそんなんじゃなくて、向こうに云ったら数年、いやひょっとしたら十年くらい留まる事になるかも知れないかな」
「十年留まる?」
 頑治さんはこの意外な報告に少し驚いて見せるのでありました。「そんなに長く北海道の網走で一体何をすると云うんですか?」
「空手だよ」
 刃葉さんはあっさりそう云ってから思わせ振りに無表情をするのでありました。
「空手、ですか?」
「そう。空手。今通っている道場の師範の、そのまた先生が網走に住んでいるんだよ」
「詰まり源流を訪ねる、と云ったところですかね」
「まあ、そう云うところもあるかな」
 刃葉さんは無表情の儘一つ頷くのでありました。「俺が仕事を辞めてフリーの身の上だと云うのを聞いて、それならば網走に行ってみないかって師範が云ってくれたんだ」
「その師範の方に刃葉さんが見込まれて、より凄い先生の道場で修業をするように推薦された、とか云った感じですかね、要するに」
「その先生は別に道場はやっていないんだ」
「道場をやっていない?」
 頑治さんは訝しそうに刃葉さんの顔を覗くのでありました。「それなら何のためにその先生の下へ身を寄せるんですかね?」
「小さな農園をやっているんだよ、網走の近くで奥さんと二人」
「ああそうですか」
 頑治さんは刃葉さんの網走行きの目的が上手く呑み込めないのでありました。羽場さんは空手をやりに網走に行くと先程明快に云った筈であります。しかしその訪ねるべき先方の先生は空手の道場をやっていないと云う事らしいのであります。
 刃葉さんの雑に語る話しのあれこれから推察してみるとつまり、羽場さんは網走に行ってその先生の所有になる農園の中の粗末な小屋に一人滞在して、農園仕事を手伝いながら殆どの人交わりを断って、刃葉さんの言に依れば、山籠もりのような生活、をしながら空手の修業に只管打ち込むと云う事のようでありますか。勿論その先生に事あるに付け様々指南を頂戴するのでありましょうが、基本は一人暮らしの一人修行のようであります。
 江戸時代かそれ以前の求道者のような、なかなか浮世離れした、大自然を相手の隠者みたいな修行と云えるでありましょう。まあ、人交わりが無いと云うところが刃葉さん向きとも云えるかも知れません。しかしあの万事にがさつで怠け者の刃葉さんみたいな人が、そう云う人目から隠れた厳しい修行なんぞ務まるのでありましょうか。
 意地悪く勘繰れば、実は調子に乗せられて体良く刃葉さんが今通っている道場から追っ払われているとも考えられるのであります。どうせ道場でも師範や同門連中と様々余計な摩擦を引き起こしたり、良くない意味で独立不羈でやっているのでありましょうから。
(続)
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あなたのとりこ 112 [あなたのとりこ 4 創作]

「刃葉さんはご両親と一緒に暮らしているんでしたよね?」
 頑治さんが懸念を眉宇に湛えて訊くのでありました。
「そうだけど」
「ご両親は刃葉さんの網走行きを承諾されたのですか?」
「ああ、ウチの両親ね」
 刃葉さんはあっけらかんと笑うのでありました。「それは何も問題は無いな。ウチの両親は出来損ないの俺の事なんか、もう疾の昔から眼中にないからね。何処で野垂れ死にしようと知った事じゃないだろう。それに俺には兄貴が居て、こちらは結構大きな会社に就職していて真っ当なサラリーマンをやっているし、俺になんかに頼る必要は全く無い」
「ああそうですか」
 頑治さんはその、ある意味好い気で自分勝手な返答に疑わしさを表する心算で、敢えて無表情をして少しばかりの不愉快を籠めた声音で云うのでありました。「網走の先生とやらの農園は、一度くらい訪ねた事はあるんですか?」
「いや、ないよ」
「先生個人には東京の道場か何処かでお逢いされた事はあるのですか?」
「それもない」
「こんな云い方は失礼かも知れませんが、その先生は信頼が置ける方なのですか?」
「道場の師範が云うには、向こうは大いに乗り気だったと云う事だ。今時奇特な漢だと俺の事を感心して、俺にその意志と覚悟があるのなら是非鍛えてみたいと云ったらしい。まあ、道場の師範はなかなか出来た人だし、その師範が云うんだから間違いないだろう」
「ああそうですか」
 頑治さんは先程と同じ文句を、先程と同じ顔付きと声で繰り返すのでありました。矢張り体良く東京の道場を追っ払われて、網走で賃金の殆ど掛からない都合の良い労働力として期待されているだけのような気もするのでありましたが、そんな憶測を今の段階で大乗り気になっている刃葉さんに対して表明するのは何となく及び腰になるし、第一頑治さんがそんな心配をする謂われも無いと云えば全く無いのでありますし。
「来年の正月明けには俺は網走に行くから、唐目君に逢うのはこれが最後と云う事になるな。まあ、逢ったのは全くの偶然だったけど。つまりそう云う訳で、・・・」
 と、ここで刃葉さんは口調を改めて頑治さんに笑い掛けるのでありました。「唐目君も、今の会社でしっかり頑張れよ。その内良い事もあるよ」
 刃葉さんは別に名残惜しそうでもない口調で頑治さんを励ますのでありました。アンタに激励されたくもないし余計なお世話だと頑治さんは内心鼻を鳴らすのでありましたが、そう云う真似もせず如何にも邪気の無さそうな笑い顔をして見せるのでありました。
「じゃあ、まあ、刃葉さんもお元気で」
 頑治さんが云うと刃葉さんは片手を上げてそれに応えるのでありました。それから頑治さんにクルリと背中を向けてその場を去っていくのでありました。少し強い初冬の風が吹いて、刃葉さんの着ているジャケットの裾を翻すのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 113 [あなたのとりこ 4 創作]

 頑治さんは両手に一本ずつ持っているコーヒーと葡萄ジュースの缶を見るのでありました。予期せぬ刃葉さんとの再会と思わぬ長話しのせいで、買った時には熱くて同じところを長く持てないくらいだったコーヒーの缶は、すっかり冷めて仕舞っているのでありました。まあしかし、夕美さんに頼まれた葡萄ジュースの方は、どだいそんなに冷えていた訳ではなかったから、こちらの温度はさして変わらないようでありました。
 頑治さんはベンチで待っている夕美さんの方に急ぎ足に戻るのでありました。急ぎ足のところが夕美さんへの、遅くなった事の多少の申し訳でありますか。

 夕美さんは寒そうに肩を竦めてベンチに腰掛けているのでありました。
「待たせたなあ」
 頑治さんはそう云いながら夕美さんの横に腰を下ろすと葡萄ジュースを手渡して、自分の缶コーヒーのプルリングを引き開けるのでありました。
「随分のんびりした買い物だったわね。何処まで行っていたの?」
 夕美さんは葡萄ジュースを受け取って、すぐには飲まずに暫く缶を両手で弄びながら首を傾げて見せるのでありました。
「動物園の入り口の自動販売機で買ったんだよ」
「それにしては戻るのが遅かったのね」
「いやね、買っていたら後ろから俺の肩を叩く人がいたんだ」
 頑治さんは夕美さんの両手の間を転がりながら行き来する葡萄ジュースの缶に視線を遣りながら云うのでありました。「それがこの前会社を辞めた刃葉さんだったんだ」
「ああ、この前会社を辞めた、頑ちゃんの業務仕事の先輩に当たる人ね」
 そこで夕美さんはやっとプルリングを引き開けるのでありました。
「そうそう。こんなところで逢うなんて全く予期していなかったから驚いたよ」
「この辺にお家があるの?」
「いや、そうじゃない筈だよ」
「上野に遊びに来たのかしら」
「さあ、それは知らないけど。でも博物館や美術館見学とか、動物園見物とか、それに公園散歩もあの人の趣味には無いと思うけどね。それから西郷隆盛や野口英世の熱烈なファンだと云う訳でもないし、考える人の像を見ながら何か考えるタイプの人でもない」
 頑治さんはすっかり冷めて仕舞ったコーヒーを一口飲むのでありました。
「それで、ちょっと立ち話をしていたから遅くなったんだ」
 夕美さんは葡萄ジュースの缶をチョビチョビと傾けるのでありました。
「そう。何でも年が明けたら北海道の網走に行くんだって」
「別に刑務所に入る訳でもないけど?」
 夕美さんは云ってから小首を傾げて愛嬌たっぷりに頑治さんを見るのでありました。これは頑治さんが時々科白に付け加える仕様も無い蛇足を先回りに口にして、それで頑治さんの反応を窺うと云う夕美さんのちょっとした悪戯っ気か洒落っ気でありましょう。
(続)
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あなたのとりこ 114 [あなたのとりこ 4 創作]

「そうね」
 頑治さんは何食わぬ顔であっさり受け応えるのであありました、「長滞在のようだからひょっとしたら、網走の顔を立てて刑務所観光はする事もあるかも知れないけど」
「長滞在って、十日くらい?」
「いやいや、十年とか聞いたけど」
 夕美さんはそう聞いて眉をヒョイと上げて少しの驚きを表するのでありました。
「それじゃ旅行で長滞在って云うより、向うに移住するって事だわね」
「そうね。そう云う方が正しいかな」
「向こうで仕事が見つかったの?」
「そうじゃなくて空手の修業らしい」
「空手の修業?」
 夕美さんはここでも眉を少し上げるのでありました。
「何でも網走に偉い先生が居て農場を遣っているんだと。そこに寄宿して農場を手伝いながら、その先生に時々一対一でみっちり教えを受けるんだそうだよ」
「ふうん。まるで熱血少年漫画、みたいな話しね」
「そうだよな。確かにちょっと浮世離れしている感じかな」
「まあ、人夫々だけど」
 夕美さんはそう云って、もうこの話しには興味を失ったような無表情になるのでありました。夕美さんはこれ迄の人生で武道とか修行とか云う言葉にはあんまり馴染んだ事は無かったのでありましたし、殊更の関心を持った事もないようでありました。ま、夕美さんは、大方のスポーツや身体運動はあんまり得意な方ではないようでありますし、
 公園の中の木々が俄にさざめくのでありました。ベンチの傍に溜まっていた枯葉が吹き払われて宙に舞うのでありました。
「随分強い風だな」
 埃が入らないように目を細めて頑治さんが云うのでありました。夕美さんは上着の襟を立てて寒そうに肩を竦めるのでありました。
「木枯しみたいね」
「今日の夜の天気予報で木枯し一号が吹きました、とか云うんじゃないのかな」
「そうね。そんな感じね」
 二人はベンチから立ち上がって傍らの塵入れに飲み終えた空の缶を棄てるのでありました。それから来た時と同じルートで上野公園を後にして帰路に就くのでありました。
 やや早足になるのは風が冷たいせいであります。不忍池の水上音楽堂の先の左岸の緑道に囲まれた一画には、木枯しの吹く中でもボートが多く浮かんでいるのでありました。木枯しの中での水遊びと云うのは一種酔狂ではあるにしろ、頑治さんにはなかなか勇気の要る遊びに思えるのでありました。頑治さんは生来の寒がりでありましたから。頑治さんは頑治さんの腕に腕を搦めて並んで歩く夕美さんをチラと窺うのでありました。夕美さんが何時もより強い力で頑治さんの腕に縋っているのは屹度寒い故でありましょう。
(続)
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あなたのとりこ 115 [あなたのとりこ 4 創作]

 刃葉さんは人里離れて、山籠もり、のような空手修行に入るという事でありますが、さて、この身を寄せて同じ歩調で歩くこちらの羽場さんは、来年になったらどのような身の振り方を決断するのでありましょうか。大学院に進むのかそれとも就職するにしても東京に残るのか、或いは郷里に帰って博物館職員とか学校の先生と云う道を選ぶのか。
 勿論頑治さんとしては東京に残って欲しいと願うのでありましたが、しかしながら頑治さんがどうあがこうと、この決定は夕美さんの専権事項であるのは云う迄もないのでありました。頑治さんはただ、夕美さんがこの先もずっと頑治さんの傍を離れたくないと、先ず以て願ってくれているであろう事を切実に望むしかないのであります。頑治さんは自分の腕に縋り付いている夕美さんの手を取って強く握るのでありました。
 頑治さんの手は今迄上着のポケットに突っ込んでいたから少しは防寒出来たけれど、夕美さんの指は寒い中に出ていたせいで嫌に冷たいのでありました。頑治さんはその夕美さんの指を自分の手で急いで温めなければと、何故か妙に焦っているのでありました。

   那間裕子女史

 倉庫で頑治さんが梱包作業をしていると均目さんが下りて来るのでありました。何か制作部関連の材料の搬入があるのかしらと思って頑治さんは声を掛けるのでありました。
「搬入があるのなら手伝おうか?」
「ああいやいいんだ。ちょっと北海道の観光絵地図の刷り本を取りに来ただけだから」
 均目さんはA全判観光絵地図の北海道の刷り本を数枚棚から取って、それを丸めながら作業台の頑治さんの傍に遣って来るのでありました。
「冬のボーナスの事、誰かから何か聞いているかい?」
 均目さんは丸めた刷り本に輪ゴムを掛けながら頑治さんに訊くのでありました。
「いや、何だい冬のボーナスの事って?」
「それが、この暮れはどうやら支給が無いらしいぜ」
「ふうん」
 頑治さんのあんまり興味が無さそうな上の空の応答振りに均目さんはちょっと興醒めしたようで、次の句を継ぎ損ねたように少し口籠もるのでありました。
「ああそうか、唐目君はこの冬が初ボーナスになる筈だったからなあ」
 均目さんは頑治さんが贈答社に於けるボーナスの事情をよく知らないために素っ気ない返答をしたのだと解釈したようで、そう云って自得するように頷くのでありました。
「そう云えば七月と十二月の年二回、ボーナスの支給があるって入社の時に土師尾営業部長から聞いたような気がするなあ」
「そうなんだ。業績次第で変動はあるけど、夏が大体基本給の二か月分、それから冬が二か月半分何時も支給されていたんだ。それがこの冬は無いらしいんだよ」
「ほう、それだけ貰えればちょっとホクホク、と云うところだけどなあ」
「社員は皆、それを当てにしていたんだ。だから冗談じゃないってところだ」
(続)
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あなたのとりこ 116 [あなたのとりこ 4 創作]

 均目さんは少し大袈裟に深刻そうな顔をするのでありました。
「支給しないと云うのは片久那制作部長がそう云ったのかい?」
「いやそうじゃない」
「じゃあ、土師尾営業部長から直接聞いたの?」
「いや、それもそうじゃない」
「じゃあ、何処から出た情報なんだい?」
「日比課長からそうらしいよと袁満さんが聞いて、袁満さんから俺が聞いたんだ」
「日比課長にボーナスを支給するかしないかの決定権があるのかい?」
 頑治さんは眉宇を上げて訝しそうな物腰で訊くのでありました。
「いやいや、そうじゃない」
 均目さんが頑治さんの察しの悪さにげんなりしたのか、苦笑って丸めた観光絵地図を持っていない方の手を小さな振幅で横に何度か振って見せるのでありました。
 要するに均目さんの話しに依れば、日比課長が営業打ち合わせと称して土師尾営業部長に会社近くの喫茶店に連れ出されて、そこでそんな話しをされた模様であります。と云う事は土師尾営業部長発信の情報と云う事になりますか。
 今年度の営業成績が前年に比べて今のところかなり落ち込んでいて、来年上半期の売り上げ見込みも全く芳しくない観測と云った情勢で、社員に暮れのボーナスを支給する目途が立たないと、土師尾営業部長はさも日比課長の常日頃の営業活動を暗に詰るような、それに且つ脅すような口調で宣したと云う事のようであります。まあ、その時の土師尾営業部長の口調に関しては伝聞のそのまた伝聞と云う事になるので、日比課長か袁満さんの土師尾営業部長に対する日頃の心証が反映されている可能性があるから、副詞的信憑性は保証の限りではないと均目さんは如何にも慎重そうな口調で付け足すのでありました。
「日比課長の売り上げ成績が随分と落ち込んでいるのかい?」
 頑治さんが聞くと均目さんは首を傾げるのでありました。
「確かに落ちてはいるけど、そんな詰られるような極端な落ち込みではないと云った感触のようだけどな、日比課長としては」
「じゃあ、袁満さんや出雲さんの出張売り上げが落ちたのかな?」
「袁満さんの言に依れば、前に比べると確かにここのところ漸次落ちてはいるけど、こちらも下半期が極端に悪いと云う事でもないらしいよ」
「じゃあ、残るは土師尾営業部長の成績、と云う事になるのかな」
 頑治さんが云うと均目さんは陰鬱そうな顔で頷くのでありました。
「特注関連の大口の注文が一番落ち込んでいると云う袁満さんの話しだな。それと毎年、大体決まった量の注文がある旅行斡旋会社や関連出版社、それに共済組合関連の会社や進物用品関係の会社への納品量も、今年は或る一社から丸々注文が無かったところもあって、グッと落ちたと云う按配かな。その辺は制作部でも仕事量の実感としてあるな」
「そう云った定期物とか特注物のセールスは土師尾営業部長が担当しているのかな?」
「そうね。土師尾営業部長と日比課長が分担している」
(続)
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あなたのとりこ 117 [あなたのとりこ 4 創作]

「誰の売り上げがどのくらいあるとか、数値としてはっきりしているのかな?」
「その辺は結構曖昧かな。出張営業は分担があるけど、日比課長と土師尾営業部長に関しては大まかにと云うのか、何となく担当はあるみたいだけど、どの会社が何方の担当とはっきり区分してあると云う訳でもないようだし。まあ、全日本地名総覧社時代から取引のある会社は、主に土師尾営業部長が総取りで受け持っていているようだけど」
 その辺の詳しいところは制作部の均目さんは知らないようでありました。日比課長にでも直接聞いてみないと明快には判らないでありましょう。
「売り上げがガクンと落ちた事に関して土師尾営業部長は、ちゃんと具体的で妥当な分析をしてから、自分の反省と共に日比課長に苦言を呈したのかな?」
 頑治さんが首を傾げて均目さんを見るのでありました。
「その辺は確認してはいないけど、まあ、自己反省は無いだろうな。例に依ってザックリとした自分に都合の好い感触と、このタイミングで少し日比課長を脅して置いてやろうと云う不埒な魂胆から、思いつきで急に喫茶店に呼び出したんだろうけどね」
 均目さんは皮肉っぽい笑いを口の端に浮かべるのでありました。「あの人は自分の保身を目的に他人を大した考えも無しに排斥するところがある。先ず以って自分の責任逃れのために日比課長をやり玉に上げようとしたんだと思うね。あの人の常套手段だよ」
「しかしさっきの説明に依ると、得意先の分担がはっきりしていないと云う事だから、売り上げ低迷の責任は、半分くらいは土師尾営業部長にもある事になる訳だよな」
「その通り」
 均目さんは確然と頷いて見せるのでありました。「しかし何でも手前味噌にしか考えない土師尾営業部長は、責任をすっかり日比課長の方に押し付ける心算なんだろうな」
「それは余りにも無体と云うものじゃないかな」
「その通り」
 均目さんの頷き様は先と同じでありました。
「その無体さは日比課長も判るだろうから、反発しないのかな」
「内心は大いに反発しただろうよ」
「内心は、と云う事は面と向かっては反発する言なり態度なりを控えたと?」
「まあ、多分そうだろうな」
 均目さんの口の端に今度は苦笑が浮かぶのでありました。「日比課長は土師尾営業部長をえらく軽蔑しているくせに、何故か実際の態度や言動は妙に遜っているんだ」
「ふうん。それはまたどうして?」
「ま、こちらも一種のサラリーマン的保身だろうけど。或いはひょっとしたら土師尾営業部長に決定的な弱みか何かを握られているのかもね」
「そうなのかい?」
「いやこれは俺の何の根拠もない好い加減な憶測以上ではないけど」
 均目さんの口の端には今度は自嘲の笑みが浮かぶのでありました。「でも、確かに日比課長は必要以上に土師尾営業部長にオドオドしているよなあ、どんな場合でも」
(続)
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あなたのとりこ 118 [あなたのとりこ 4 創作]

「地位の上下関係の秩序以上に、と云う事かな」
「そうね。何かオドオドしているようにも見える」
 その辺の詳しい事情に関しては頑治さんには全く判らないのでありました。

 月曜日に池袋の宇留斉製本所から帰って、納品書を制作部の山尾主任に渡した後、頑治さんが引き取って来た荷を車から下ろしているところに、山尾主任が上の事務所から下りて来るのでありました。何か納品書の記載に不首尾があってその確認に来たのかと思うのでありましたが、山尾主任の用件はそうではないのでありました。
「唐目君、ちょっと良いかな」
 山尾主任は頑治さんを倉庫の奥に誘うのでありました。
「納品書の記載に不備がありましたか?」
 作業台の前で頑治さんが訊くと、山尾主任はしかつめ顔をして頑治さんを見ながら首を横に何度か振るのでありました。
「唐目君も今度の冬のボーナスが出ないと云う事を聞いているだろう?」
「ええ、何となく知っています」
「冬のボーナスが若しカットになるなら色々困るので、その件について従業員全員で話し合いを持とうと云う事になってね、明後日の水曜日の、仕事が終わってからなら銘々の都合が良さそうなんだけど、唐目君はどうかな?」
「大丈夫だと思いますが」
 頑治さんはほんの少し考えてからそう返答するのでありました。
「じゃあ、予定に入れて置いてくれるかい」
 山尾主任は頑治さんの了解に二度頷きを返すのでありました。
「従業員全員と云う事は、両部長も入れて、と云う事ですか?」
 頑治さんは山尾主任の二度目の頷きが終わったところで訊くのでありました。
「いや、片久那制作部長と土師尾営業部長は来ないよ。声も掛けていないし。それから日比さんと甲斐さんも今回の会合には誘っていない」
「じゃあ、出席するのは、・・・」
「俺と唐目君の他には、制作部の那間さんと均目君、それから営業部の袁満君と出雲君と云う面子だな。全部で六人と云う事かな」
「ああそうですか」
 出席は社員十人中の六人と云う事だから、山尾主任は全従業員と云ったけれど、そうではないようであります。両部長も日比課長も役職に就いているけれど厳密な区分としては従業員の内でありましょうし、第一、主任と云う役職の山尾さんは除外されてはいないのであります。況してや甲斐計子女史は一人で経理を担ってはいるけれど別に役職に就いているのでもないのでありますから、こちらは紛う事無く従業員の内でありましょう。
 要するに、年齢が近い普段から比較的気さくな同士の集まりと云う了見のようでありますか。まあ新人の頑治さんは未だそんなに気さくな方ではないのでありますが。
(続)
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あなたのとりこ 119 [あなたのとりこ 4 創作]

 刃葉さんが居なくなって何となく社内が落ち着いたと思ったのに、今度は冬のボーナスカットと云う問題が間を置かず出来するのでありました。頑治さんは陰鬱な気分になるのでありましたが自分だけ蚊帳の外で知らん顔をしている訳にもいかないでありましょう。あんまり気乗りはしないものの、山尾主任に誘われた従業員会合には出なければならないでありましょう。慮れば何かとゴタゴタの多い会社に入ったものであります。

 この水曜日の会合は会社近くの居酒屋で執り行われるのでありました。例に依って頑治さんの歓迎会が開かれた人生通りに在る居酒屋でありました。
 先ずは何となくビールで乾杯してから、料理が出て来る迄、付き出しとして供された牛蒡の削ぎ切りの甘辛煮に銘々は箸を付けているのでありました。
「さて、今日集まって貰ったのは冬のボーナスの件なんだけど」
 山尾主任が早速、主たる話題を切り出すのでありました。その声にテーブルを囲む全員が自分の小鉢から目を離して顔を上げるのでありました。
 この面子の中では山尾主任が一番年嵩であるために、畢竟この人が話しをリードする役回りとなるのでありましたし、それには全員特段の異議は無いのでありました。
「本当に冬のボーナスは出ないの?」
 那間裕子女史が山尾主任に、一応と云った語調で訊ねるのでありました。頑治さんはこの那間裕子女史とは、同じ制作部に属している均目さんとは違って出退社時に挨拶を交わす程度しか今迄会話をした事は無いのでありました。
「日比さんの話しだとそう云う事らしいね。なあ、袁満君」
 山尾主任は隣に座る袁満さんを見るのでありました。
「そうですね、俺は土師尾営業部長がそう云ったって日比さんから聞いたけど」
 袁満さんが頷くくのでありました。
「それは別にきっぱり確定的に云ったんじゃなくて、日比さんの営業に喝を入れる心算で、そんな可能性もあるぞって、そんな風なニュアンスだったんじゃないかしら?」
「いや、日比さんの話しでは、出さない事に決まったようだったですけどねえ」
「本当に日比さんは決定事項として冬のボーナスが出ないと聞かされたのね?」
 那間裕子女史は念を押して訊き募るのでありました。
「いやまあ、俺はその場に居た訳じゃないからその様子は何とも云えないけど、でも日比さんの口振りではもうすっかり決定した事と云った調子でしたけど」
「あれこれ自分への批判を並べられて日比さんがちょっと興奮して仕舞って、うっかり決定事項と云う風に聞き取って仕舞っただけ、なんて云う事はではないのね?」
「さあ、まあ、それは、・・・」
 袁満さんはしつこく詰め寄られてたじろぐ気配を見せるのでありました。
「日比さんは、決定事項、とかそんなような言葉を使ったの?」
「いや、そうじゃないけど、冬のボーナスは出ないらしいよって、・・・」
 段々袁満さんの口から出る言葉が曖昧の色を濃くするのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 120 [あなたのとりこ 4 創作]

「そこが曖昧なままで、これから一体何の話し合いをするの?」
 那間裕子女史はそう云って小さく舌打ちをするのでありました。この会合の抑々の辺りを無効にするようなこの発言に、山尾主任が嫌な顔をするのでありました。
「まあそうだけど、出ない可能性があるんだから、その場合も考えて今から対策を話し合って置くのも決して無駄じゃないだろう」
 まあ、呼び掛け人としてはそう云って会合の意義を強調するしかないでありましょう。この時点で会合を持つ事自体が間抜けな事と断じられたようなものでありますから。
「無駄よ」
 那間裕子女史は鮸膠も無いような云い草で決めつけるのでありました。「だって出る事がはっきりしたなら全くの無駄じゃないの」
「出ないかも知れないんだからね」
「先ずは土師尾さんにちゃんと確認する方が先よ」
 何となく二人の意地の張り合いみたいな雲行きであります。袁満さんを始め均目さんも出雲さんも、それに頑治さんも、山尾主任と那間裕子女史の掛け合いに口を挟む余地も気持ちも無くてダンマリを決め込むと云った按配でありました。
 どうやら山尾主任と那間裕子女史は、普段から余り反りが合わない同士なのでありましょう。確か山尾主任の方が一つ二つ歳上でありますが、そんな歳の差を那間裕子女史は全く問題にしていないようであり、それを問題にしようとしない女史に対して山尾主任としては内心、少しは歳上の俺を敬ったらどうだと云った苦々しさがあるようであります。
「じゃあ、もう、今日の会合はこれで打ち切るか」
 山尾主任は短気を起こしたようでありました。
「山尾さんなり袁満さんなりが先ず、明日にでも土師尾さんにちゃんと確認を取るって、そこを確認したら、取り敢えず今日集まった意味はある事になるじゃない」
「俺が確認を取るのか?」
 山尾主任が少したじろぐのでありました。それに突然ここで名前の出てきた袁満さんの方は「え、俺?」と小声で呟いて、自分の驚いたような顔を自分で指差して見せるのでありました。こちらも明らかに及び腰のようであります。
「そうよ。この中では一番歳上だし古株だし、主任と云う肩書きもある山尾さんが六人を代表して訊くのが妥当でしょう。それに後は、営業部繋がりでは袁満さんよね」
 こういう時だけ歳上扱いかい、と云う山尾主任の不満の声が聞こえてきそうでありましたが、膨れっ面をするだけで山尾主任はそう云う事はものさないのでありました。これは案外、ここで那間裕子女史に歳上と認められた事が満更でもないのかも知れません。袁満さんの方は只管山尾主任の方にお鉢が回る事を祈るような顔付きでありましたか。
「じゃあ判ったよ。責任上俺が明日確認を取るよ。そう云う事でお開きとするか」
 山尾主任は怒ったように云って席を立とうとするのでありました。
「待ってよ、そんなにカリカリする事は無いじゃないの」
 ここで那間裕子女史は急に顔と言葉から無愛想色を消すのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 121 [あなたのとりこ 5 創作]

 この女史の変化に山尾主任は立ち上がろうとする動作を中断するのでありました。山尾主任は中腰の姿勢の儘、那間裕子女史の方に視線を向けるのでありました。那間裕子女史はその山尾主任を横目で見上げながら続けるのでありました。
「この六人の面子でこうやって一緒にテーブルを囲んでお酒を飲むなんて事、多分今まで一度も無かった事じゃないかしら?」
 那間裕子女史は今度は袁満さんの方に視線を移すのでありました。
「そうね。考えたらそうかな」
 視線を向けられた袁満さんが頷いて見せるのでありました。
「だったら冬のボーナスの話しは別として、折角なんだから親睦会って事にして、もう暫く他愛も無いお話しでもしていって良いんじゃない?」
 那間裕子女史は中腰姿勢の山尾主任の方にまた目を向けるのでありました。
「それは別に構わないよ、折角酒も料理も注文したんだし」
 先ず袁満さんが賛意を示すのでありました。
「他の人は?」
 那間裕子女史は均目さんと出雲さんに視線を回らすのでありましたが、二人は見られた順に「いいですよ」「俺も構わないっス」と頷くのでありました。最後に頑治さんが女史の目に捉われたのでありますが、頑治さんも特に異を唱えるべき理由も無かったし大いに腹も空いていたものだから、右に同じの頷きを返すのでありました。こう云う三人の様子を見て、山尾主任がようやく尻を再び座布団の上に落とすのでありました。

 頑治さんは入社以来那間裕子女史とは挨拶以外はほんの数語しか、それも総て仕事絡みの数語しか言葉を交わした事は無いのでありました。その数少ない言葉の交換からの印象でしかないのではありますが、那間裕子女史はなかなかお高く止まった、多分誰彼を問わず話している対象に対する警戒心からでありましょうが、言葉の端々に何時も嫌な圭角の現れる喋り方をする、出来ればあまりお近付きになりたくないタイプの女性と云う感じでありました。喋っていてもちっとも打ち解けた気配が見られないのであります。
 何を初っ端からそんなに警戒してくれているのか、その心根が頑治さんには良く判らないのでありました。何はさて置き人の好き嫌いの感情が先行して仕舞って、嫌いとなったらとことん無愛想に相手をあしらおうとするのでありましょうか。しかしまたどうして、或いは自分のどう云うところが那間裕子女史に嫌われたのか、頑治さんにはさっぱり覚えが無いのでありましたし、これはもう生理的嫌悪と云うところなのでありましょうか。
 まあそんな訳でこの女史とは一緒に酒を飲む機会なんぞは一度も訪れないであろうと思っていたのでありましたが、計らずしもここでこうして杯を遣り取りする事になろうとは一体全体何の因果であろうかと、頑治さんが秘かに考えを回らすような回らさないような顔で横に座る均目さんからビールを注いで貰っていると、均目さんのそのまた向こうに座っていたその当の那間裕子女史が、お辞儀をするように上体をやや前に傾がせて、間の均目さんを遣り過ごして頑治さんの方に顔を向けて声を掛けてくるのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 122 [あなたのとりこ 5 創作]

「唐目君は均目君と同い歳だったわね?」
「ええそうです」
 頑治さんもやや上体を前のめりにして、挟まれた均目さんの顎の前で那間裕子女史と言葉の遣り取りをするのでありました。均目さんは二人の邪魔にならないようにと慮ってなのか、二人とは逆に上体を後ろに逸らせるようにしているのでありました。
「この前の昼休みに二人で喫茶店から出て来るところを目撃したわ。仲良さそうね」
「同い歳の気安さから、均目君には色々懇意にして貰っています」
 ここ迄会話したところで、間に均目さんを挟んで言葉を交わすのが煩わしくなったのか、那間裕子女史は舌打ちしながら立ち上がって均目さんを自分が座っていた席に押し遣り、均目さんと頑治さんの間に尻を落とすのでありました。頑治さんと均目さんで那間裕子女史を挟むような位置取りになるのでありました。
 頑治さんは那間裕子女史のグラスにビールを注ぎ入れるのでありました。
「那間さんは色々多趣味な方だと聞いていますが」
 那間裕子女史の返杯を受けながら頑治さんが話し掛けるのでありました。「ジャズダンスとか、フラメンコギターだとか、水泳とか、スワヒリ語の勉強とか」
「均目君に聞いたの?」
「ええそうです」
 頑治さんが頷くと那間裕子女史は均目さんの方に顔を向けるのでありました。
「何か余計な事とか云っていないでしょうね?」
 そう問われた均目さんは顔と、グラスを持っていない方の掌をヒラヒラと何度か横に振って見せるのでありました。
「勿論それ以外の事は云っていませんよ。第一、他の事とかはあんまり知らないし」
「そう? それなら良いけど」
 那間裕子女史は目を均目さんから離してグラスを傾けるのでありました。「酒癖が悪いだとか、結構な男好きだとか、遅刻の常習犯だとか、期限通りに仕事を終わらせた例がないとか、料理とか掃除とか大凡女らしい仕事が出来ないだとか、いつも約束した時間に三十分以上は遅れるヤツだとか、最近男に裏切られて落ち込んでいるとか」
「そんな事俺が喋る訳がないじゃないですか。第一最近男に裏切られたとか、そんな那間さんの個人的な事なんか俺は大して知らないんだし」
 均目さんはもう一度顔と掌を振って見せるのでありましたが、那間裕子女史はビールグラスを傾斜させる作業に忙しく、均目さんの抗弁なんか上の空で全く聞いてはいないようでありました。女史の空いたグラスに頑治さんがまたビールを注ぎ足すのでありました。成程その飲みっ振りからすると大酒飲みであるのは確かな事のようであります
「スワヒリ語の勉強をやっているんですか?」
 頑治さんが訊くのでありました。
「そう。三鷹に在る外国語学校に通っているの」
「仙川駅の近くに在るアジア・アフリカ語学院ですか?」
(続)
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