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あなたのとりこ 10 [あなたのとりこ 1 創作]

 そろそろ寝ようかと部屋の片隅の、畳の上に直に置いている、東京に出て来て以来使っている小さな白黒テレビを消した時、これも畳に直に置いている電話がけたたましく鳴るのでありました。こんな時間に電話をしてくるのは羽葉夕美以外にはなかろうと当りを付けて受話器を取れば、果たしてその大学に通っていた時以来の女友達で、頑治さんはこの御明算に、例の卜占の了見から思わず知らずほくそ笑んでいるのでありました。
「どうなった、就職の按配は?」
 受話器の向こうから夕美さんの声が頑治さんの耳の鼓膜を震わせるのでありました。
「うん、決まった」
「へえ、おめでとう」
 夕美さんの弾んだ声は耳内の産毛を一層大きく振動させるのでありました。
「有難う」
 頑治さんは声の抑揚を抑えて努めクールにそう云いながら受話器の向こうの夕美さんに向かって小さくお辞儀をするのでありました。
「何時から働き出すの?」
「来週の月曜日」
「どんな仕事?」
「倉庫で商品の管理とか配送とか集荷とか、雑用とか」
 頑治さんは昼間に聞かされた仕事内容をその儘伝えるのでありました。
「ふうん。で、何て名前の会社?」
「贈答社」
「そう云う名前からするとギフト関係の会社?」
「多分そうじゃないかな」
「あれ、自分が勤める会社の業種も知らないの?」
 電話の向こうの夕美さんが頑治さんの応えに少し呆れるのでありました。
「業種ははっきりしないけど、やる仕事の内容はちゃんと聞いてきたよ」
「ふうん。・・・まあ良いか」
 由美さんの一先ず不得要領に頷く気配が受話器の向こうから伝わるのでありました。「明日ちょっとアパートに行っても良い?」
「うん、構わない」
「詳しい事は明日聞くわ。取り敢えず就職が決まったお祝いをしなくちゃ」
「ああ成程ね」
「あのさあ、折角就職が決まったと云うのに何だかあんまり嬉しくなさそうな口振り」
 夕美さんが少し興醒めの口調になるのでありました。
「いや、そうでもないよ。これで明日をも知れないアルバイト生活から抜け出せるし」
 不安定なアルバイト生活からは抜け出せるけれども、やる仕事の内容は今まで就いてみた様々なアルバイトと然程変わらないかと、云いながら頑治さんは思うのでありました。確かに欣喜雀躍と云う事態ではないと云えばその通りでありますか。
(続)
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あなたのとりこ 11 [あなたのとりこ 1 創作]

 大望や目標があってその仕事に就いたと云うよりは、云ってみれば決まった給金と待遇目当ての就職でありますから、嬉しさも中位、と云った辺りでありましょうか。然して就職するに当たっての意気込みや意欲や、それから不安も気後れの方も大した辺りではないのであります。慎に気楽と云えば気楽な感奮するところの少ない就職決定であります。
「じゃあ、明日の昼頃行くね」
 夕美さんが気を取り直した口調で云うのでありました。
「判った。待ってるよ」
 頑治さんの声も少し弾むのでありました。夕美さんと逢うのは一週間ぶりでありますから、これは頑治さんも嬉しいわけであります。夕美さんが受話器を置くのを確かめてから頑治さんは自分の手の受話器を元に戻すのでありました。頑治さんとしては就職決定よりも、明日の夕美さんとの逢瀬の方が遥かに嬉しいのでありました。
 頑治さんは寝るのを止して、急遽部屋を箒で掃き始めるのでありました。それからテレビや電話や本棚に溜まった埃を丁寧に拭うのでありました。夕美さんとの逢瀬のために多少は部屋を綺麗にしておきたいのでありました。しかしそのために如何にも力を入れて部屋をピカピカに磨いたり、一分の隙もなく整理整頓して仕舞うのは憚るのでありました。それでは余りに、頑治さんの自尊心に照らしてみっとも無いと云うものであります。

 夕美さんは午後二時少し前に遣って来るのでありました。大いに待ちかねたと云った顔色を極力隠して、しかし一定の嬉しさはきちんと漂わせて頑治さんが玄関のドアを押し開けると、夕美さんは親し気にこんにちはと少し笑って云うのでありました。
「やあ。さあ、入って」
 頑治さんはドアを押し開けた儘、夕美さんが入り易いように体を横に避けるのでありました。夕美さんは頑治さんに顔を向けながら体を斜にして通るのでありました。仄かな化粧水の匂いが、お邪魔しますと頑治さんの鼻腔に挨拶を送って寄越すのでありました。
 頑治さんの部屋は玄関を入って直ぐに洗濯機、その横に簡易なキッチン、対面はトイレ込みのユニットバスに挟まれた、廊下と云うには余りに短い一間ほどの空間を抜けると六畳程の板の間で、左側の壁一面は本棚が居座り右の壁には整理ダンスとファンシーケース、空いたスペースに白黒テレビと電話機が床に直置きで並び、南正面は出窓があって、その下には安っぽい炬燵が置いてあるのでありました。この炬燵は冬には本来の働きをさせられるのでありましたが、他の季節は正方形の座卓として使われているのであります。
 序に云っておけば本郷給水所近くの、五軒の古民家が軒を重ねるように建っている中の、同じ造作のワンルームの部屋が一階と二階に四軒ずつ並ぶアパートが頑治さんの住処でありました。家が立て込んでいる割に部屋は、狭いながらも道路に南面していて昼間の日差しは充分取り込めるのでありました。勿論その隘路の向こう一画も幾つかの民家が混み合っていて、外の眺めなんと云うものは慎に殺風景ではありました。しかし朝日の明るさの中で目覚める事が出来ると云うのは何となく安定感はあるのでありましたし、若し朝日が入らなければ頑治さんは一日中だって布団の中から這い出さないでありましょう。
(続)
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あなたのとりこ 12 [あなたのとりこ 1 創作]

 地下鉄の本郷三丁目駅までは歩いて五分程、JRの御茶ノ水駅へも順天堂病院の前を通って神田川沿いに外堀通りを十分程歩けば到着すると云う交通至便の地で、頑治さんはその至便さに魅かれて大学の三年の時に世田谷の方からここに移り住んだのでありました。当然、頑治さんの通っている大学へも近いと云うのも大いに魅力的でありました。
 世田谷の安アパートに比べれば風呂付でもありますから家賃はぐんと跳ね上がるのでありましたが、二年間のアルバイト三昧でたっぷり貯めた預金と、これから先もアルバイトに精を出せば故郷からの仕送りと合わせて何とか遣り繰り出来ると踏んで、頑治さんは思い切ってここへ引っ越して来たのでありました。引っ越し当時は然したる根拠もなく嫌に太っ腹であったものだから、電話も引いたのでありました。四年生になって就職活動時期にでもなれば、どうせ電話は必要となるでありましょうから。
 ・・・で、夕美さんは部屋の奥の座卓の前に座るのでありました。頑治さんはキッチンに居残って、持て成しに出す紙ドリップのコーヒーを淹れる湯を沸かすのでありました。万事にものぐさな頑治さんながらコーヒーはインスタントではないのでありました。
「職安の紹介?」
 夕美さんがコーヒーカップを座卓に置きながら訊くのでありました。
「そう。意外にすんなり就職が叶って、些か気抜けする心地だね」
「運が良かったのかしら」
「いや、職を探す当人の心映えと、如何にも涼やかな顔付きが良かったんだろうね」
「ふうん」
 夕美さんは頑治さんの戯れ言に対して全く取りあわないような、至極ぞんざいな相槌を打つのでありました。頑治さんの軽口には慣れっこになっているのであります。
「で、働き易そうな会社?」
「それは未だ判らないけど、カリカリしているような雰囲気は無かったかな。やる事もそんなに複雑で難しい仕事じゃなさそうだし、今までやったアルバイトの延長のような感じだし、まあ、だから意外に簡単に見つかったんだろうけどね」
「待遇はどうなの?」
「給料はそんなに高くはないよ。寧ろ同一年齢で比較すると低い方かな。でも能力給とかじゃないし、ノルマなんかもなさそうだし。まあ、営業職じゃないから当たり前かも知れないけど。倉庫業務とか配送や集荷と云う仕事柄、服装も堅苦しくないし、大体が定時に片付く仕事の様だし、ボーナスは年二回出るし、有給休暇も有るそうだし、そう云った説明を受けた限りでは、自分としては働き易い会社だと思えるんだけどな」
「ふうん」
 夕美さんは前と同じ無表情な顔で曖昧な頷きをするのでありました。しかしこれは先程のように頑治さんの冗談をつれなくあしらうためのものではなく、頑治さんの今述べた待遇の概略だけでは、働き易い会社なのかそうでないのかが今一つ明快に判らないと云う、判断不能の表現としての無表情のようでありました。
「ま、実際に働いてみないと、今の段階では何とも云えないけどさ」
(続)
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あなたのとりこ 13 [あなたのとりこ 1 創作]

 頑治さんは夕美さんの確定不能の表情に対して笑って見せるのでありました。
「それはまあ、そうよねえ」
 夕美さんはコーヒーを一口飲むのでありました。「取り敢えず頑ちゃんがそこで働こうって決めたんだから、働いてみるしかないわよね」
「今の段階では、そう云う事だな」
「じゃあ、まあ、取り敢えずお目出とう」
 夕美さんは持っているコーヒーカップをほんの少し差し上げて、乾杯のような仕草をしてから残ったコーヒーを飲み干すのでありました。
「取り敢えず、有難う」
 頑治さんも顎の上でカップを最終域まで傾けるのでありました。
「お祝いに晩ご飯、奢ってあげるわ」
 夕美さんは語調を弾ませるのでありました。
「おお、それは嬉しいな」
 頑治さんは口元を綻ばすのでありました。それから何か云い淀むように少し俯いてからすぐに夕美さんの目を見るのでありました。夕美さんはそんな頑治さんの素振りにやや怪訝そうな顔色をして見せるのでありましたが、多分頑治さんの口からものされるであろう次の語句に付いては、もう充分に察しているのでありましょう。夕美さんの頑治さんを見る瞳が艶やかな光沢を湛えているのが、その明らかな証拠と云えるでありましょうし。
「今日は泊まっていけるんだろう?」
 頑治さんはそう訊くのでありましたが、妙にぎごちない訊き方ではなく、サラリと自然な感じの口振りだったろうかと、訊いた後に少し不安になるのでありました。
「うん、その心算」
 夕美さんの応え方は全く自然な風でありました。頑治さんの口元に思わず安堵と喜色が交々浮かぶのでありました。

   長い一日

 月曜日は早起きして始業十五分前に初出社してみると、金曜日に主に頑治さんを面接した土師尾営業部長と、お茶を出してくれた女性が既に来ていて夫々のデスクに座っているのでありました。あの時ドアを開けてくれた若い社員の姿は無いのでありました。
 頑治さんは土師尾営業部長の前に行って畏まったお辞儀するのでありました。
「今日からよろしくお願いします」
 土師尾営業部長はそんな頑治さんをニコニコと笑って迎えるのでありました。
「ああ、紹介しておこう」
 土師尾営業部長は軽く頭を下げて頑治さんに答礼した後、長いスチールの重役机左に右横辺をくっ付けて据えてある事務机の女性に目を向けるのでありました。「こちらは経理と庶務を担当している甲斐計子さん」
(続)
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あなたのとりこ 14 [あなたのとりこ 1 創作]

「今日からお世話になります唐目頑治です」
 頑治さんが頭を下げると甲斐女史は如何にも億劫そうに頑治さんの方を窺い見てから、無愛想な表情で軽く顎を胸元に引いて見せるのでありました。歳の頃は土師尾営業部長と同じ三十代中頃辺り、無精に胸元に引いて見せた顎は二重で、太り肉と云うのではないけれど体幹も肩や腕の肉付きも豊かで、真っ赤な口紅が嫌に目立つ、やや化粧っ気の多いその顔は何となく肌窶れしているように頑治さんには見えるのでありました。
 頑治さんは土師尾営業部長の重役机に左横辺を接している、甲斐計子女史と向かい合ったデスクに座らされるのでありました。甲斐計子女史の机には印鑑ケースやら帳簿棚が載せてあるから、頑治さんの方から女史の様子は窺えないのでありまあした。
 取り敢えず何も為す事なく云われる儘手持無沙汰に事務椅子に座っていると、玄関の扉が潤滑油不足の小さな軋み音を立てて開かれ、作業服姿の男が現れて頑治さんの方へ歩み寄って来るのでありました。その日は姿の見えない、面接の日にドア開けてくれた社員とは違うけれど歳は同じくらいでありましょうか。ドアを開けてくれた男の柔和さとは違って、頑治さんに歩み寄るその体貌からはまるで挑みかかってでも来るような、一種高飛車な対抗心が放射されているように頑治さんには感じられるのでありました。
「ああ、丁度良かった。今呼ぼうと思っていたところだったよ」
 頑治さんのすぐ傍まで来て、頑治さんを不審そうに見下ろす男に向かって土師尾営業部長が声を掛けるのでありました。
「こちらは今日から業務担当で入社した唐目君」
 土師尾営業部長は作業服姿の男を見ながら頑治さんの方に掌を差し出して見せるのでありました。自分を紹介して貰ったわけでありますから、頑治さんはすぐに立ち上がるのでありましたが、立ち上がってみると男との距離がやけに近いものだから、頑治さんは一歩後ろに引いて男に向かってお辞儀をするのでありました。
「唐目と云います。よろしくお願いします」
 頑治さんの挨拶を無視して、男は頑治さんが今立ち上がったその椅子を自分の手元に引き寄せて座ろうとするのでありました。本来この椅子、と云うかこの席は彼の席で、そこに見知らぬ頑治さんが座っているのを見咎めて、何やら大いに気に入らなくて、それでつまり挑みかかるような目付きなんかして近寄って来たのでありましょうか。
 男は椅子に座ってから顔を横向きに上げて、頑治さんの顔を無表情に見るのでありました。その顔てえものは、頑治さんに対する不快の色に隈取られているのかと云うとそうでもなく、あくまでも無表情と云った風情の内なのでありました。この顔付きからすると、頑治さんが今斟酌したような敵意は殊更持っていないようでもありました。
「こちらは刃葉香里夫君と云って業務を担当している人だよ」
 男が頑治さんに対して何ももの云いしないものだから、土師尾営業部長が横から云うのでありました。刃葉香里夫なる男は、そう紹介されて頑治さんを見上げた儘で瞬きを一回して見せるのでありました。この瞬きが、どうやらこの男のお辞儀代わりの仕草のようであります。随分とまあ無精な挨拶と云うべきでありましょう。
(続)
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あなたのとりこ 15 [あなたのとりこ 1 創作]

 それより何より、この男の姓が夕美さんと同じだと云う事を頑治さんは甚く不愉快に思うのでありました。何処と無く夕美さんが気の毒にすら思えてくるのであります。
「刃葉君、唐目君に業務の仕事を教えて遣ってくれないか」
 土師尾営業部長が指示すると羽葉さんはその指示に返事も頷きもする訳ではないけれど、大儀そうに立ち上がって机の隅のスチールの伝票入れから数枚の紙片を取り上げて、それを頑治さんに渡すのでありました。頑治さんは反射的にそれを受け取るのでありましたが、それは頭に、発送指示書、と書いてあるのでありました。
「付いて来てくれるか」
 刃葉さんが頑治さんに初めて言葉を発するのでありました。特に何の感情も含有しない慎に事務的な云い草でありました。
 頑治さんは先輩社員、それも同じ業務職の男の指示に対してここは謹慎に返事をすべきであろうけれど、刃葉さんの無愛想に張り合う心算は毛頭ないながらも竟、頑治さんとしても愛嬌無しの顔で小さい頷きを返す無礼を働いて仕舞うのでありました。
 刃葉さんに連れられて頑治さんは三階の事務所を出るのでありました。恐らく業務の仕事場たる倉庫にでも頑治さんを連れて行くのでありましょう。
 ビルの一階はエレベーター式の二段建て駐車スペースで、横列三台、都合六台の車が駐車出来るようになっていて、その脇にこの建物の狭い出入り口があるのでありました。
 刃葉さんは一旦建物を出ると駐車スペースの真ん中に止めてあるバンの普通乗用車の横を、体を横にして擦り抜けるようにしながらその奥に進むのでありました。駐車場の奥には大きな両開き引き戸があって、どうやらその中が倉庫なのでありましょう。
 刃葉さんはガラガラと如何にも滑りの悪そうな大音を立てて重い鉄の扉を開くとその中に消えるのでありました。発送指示書を持った頑治さんも後に続くのでありました。
 二十畳程の倉庫の中はスチール棚が壁際に並んでいて、中央にも方形に組んだスチール棚が置いてあり、その狭間が通路となっているのでありました。棚にはこの会社が扱っているのであろう商品が、段ボールに入って余り綺麗に整理されているとは云い難い様で押し込めてあったり、A判全紙の印刷物が重ねてあったり、中に何が入っているのやら良く判らない不規格なクラフト紙包みが積み上げられていたりするのでありました。
 庫内右奥には作業台として使われているのであろう、上の土師尾営業部長が座っているような長い事務机が棚下に据えてあるのでありました。上階に有る机とは違って、この机は如何にも古びていて、一部の塗装が剥げて赤錆が付着していたり、完全に閉まらないのか引き出しが中途半端に引き出された儘になっているのでありました。机上は無数の傷で彩られ、緩衝材に使うのか古新聞やら結束用のビニールバンドの切れ端やら、それに四隅には埃が載っていたりして、片付かない事夥しいと云った有り様でありました。
 一応初出社でありましたから、頑治さんは礼儀上スーツにネクタイ姿で来たのでありましたが、今朝方意気込んで一張羅のその服装を選んだ事を悔やむのでありました。
「梱包とか、やった事ある?」
 少し気後れして庫内を眺め遣っている頑治さんに刃葉さんが訊くのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 16 [あなたのとりこ 1 創作]

「ええ。前にアルバイトで」
「あ、そう。それじゃ俺が商品を出すから、その発送指示書に書いてある品を個数分段ボールに詰めて梱包してくれるか」
「ああそうですか。・・・判りました」
 刃葉さんが頑治さんをここに連れて来たのは業務仕事の大概を教えてくれるためだと思っていたのでありますが、どうやら仕事の概要も、扱っている商品も良く判らない儘いきなり発送業務を手伝わされるようであります。まあ、先輩社員の云う事でありますから敢えて逆らう訳にもいかないだろうと、大いに戸惑いながらも頑治さんはスーツの上着を脱いでネクタイを外し、ワイシャツの袖を捲るのでありました。

 刃葉さんが出してきた商品を段ボールに詰めて、その二つ目の荷物に結束バンドを架けているところで、机の傍らの棚に固定してあるインターフォンのブザーが鳴るのでありました。作業台の端で運送会社の発送伝票を記入していた刃葉さんが億劫そうに受話器を取るのでありました。インターフォンは上の事務所と繋がっているのでありましょう。刃葉さんは暫しの間受話器を耳に当て、上からの声を無表情に聞いているのでありました。
「はあ、今発送を手伝ってもらっています」
 刃葉さんが受話器に向かって云うのでありました。恐らく頑治さんの事を訊かれているのでありましょう。頑治さんは横目で刃葉さんの方を窺うのでありました。
「はあ。そうですか。はあ。・・・」
 刃葉さんはその後、受話器に短い返答を間歇的に吹きかけるのでありました。それからニンマリ笑ってみたり、小さな舌打ちをしたりするのでありました。じゃあ判りました、と云ったのが最後の言葉で、刃葉さんは受話器をインターフォンの本体にものぐさそうに戻すのでありました。それからまた舌打ちであります。
 この舌打ちは恐らく、今のインターフォン越しの会話の相手に対して発せられているのでありましょう。自分に向けられているのではなさそうながら、頑治さんは刃葉さんのこう云う仕草を大いに不愉快に思うのでありました。この人は自分の周囲に対する気遣いが出来ない、或いはしようとしない人なのでありましょう。
「上で呼んでいるから、ここは切り上げて上に戻ってくれるか」
 刃葉さんは頑治さんの方に掌を差し出して、結束バンドを金具で締めるための工具を自分に渡すように促すのでありました。
「判りました。それじゃあ」
 頑治さんは工具を刃葉さんに渡すと傍らに置いていたネクタイと上着を取ってこの埃っぽい駐車場奥の倉庫を出るのでありました。紙や印刷物のインクやその他の何やら良く判らない匂いが充満した、しかも外光が差さないために妙に湿っぽい倉庫の中から解放されて、頑治さんは鉄の扉を出た途端大きく深呼吸するのでありました。これから先あの倉庫の中が自分の主要な仕事場になるのかと思うと、頑治さんは少なからず気が滅入るのでありました。しかしまあ、それはそれで仕方ないかとも思い直すのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 17 [あなたのとりこ 1 創作]

 上の事務所に戻ると、席に座っている土師尾営業部長の横に立っている、土師尾営業部長よりは若く、頑治さんよりは年嵩に見える男が頑治さんの方に顔を向けて手招きするのでありました。男は紺のズボンに紺のネクタイを締めて、黒いカーデガンを羽織っているのでありました。頑治さんは男に近寄って行くのでありました。
「下でいきなり梱包を手伝えって、刃葉君に云われたのかい?」
 座っている土師尾営業部長の方が男より先に頑治さんに訊くのでありました。
「はいそうです」
「刃葉君には業務の仕事を教えてやれって指示したんだけど、そう云った事は何か刃葉君の方から説明があったのかい?」
「いえ特には。梱包とかやったことがあるかって、先ずそう訊かれまして」
 頑治さんがそう応えると、土師尾営業部長は下で刃葉さんがしたような舌打ちをして見せるのでありました。この舌打ちも頑治さんに対してではなく、刃葉さんに対しての苛々からでありましょう。何やら社員間で舌打ちばかりしている会社のようであります。
「僕が指示したのはそんなんじゃなくて、業務仕事のあれこれとか倉庫にある商品を見せて遣れと指示した心算だったんだけどねえ」
 土師尾営業部長はもう一度舌打ちするのでありました。「唐目君も未だ仕事の右も左も判らない訳だから、そう云って業務仕事について先ず説明を求めれば良かったのに」
 土師尾営業部長は頑治さんに冷ややかな目を向けるのでありました。
「はあ。しかしそう云われましても、・・・」
「そりゃ無理ですよ!」
 ここで横の男が声を発するのでありました。「今日来たばかりの人が倉庫に連れて行かれて、いきなり梱包を手伝えって云われれば、先ずそれに従うしかないでしょう。唐目君に今そんな意志表示を求めると云うのは、無理と云うより無茶ですよ」
 男がやや強い語調で捲し立て終ると、自分の席に座って今まで黙って帳簿を付けていた甲斐計子さんがクスっと笑うのでありました。
「まあ、それはそうだけど。・・・」
 土師尾営業部長は男からおどおどと目を逸らすのでありました。これはつまり土師尾営業部長が、頑治さんの事を選りに選って刃葉さんに託した自分の迂闊さを認めるのが嫌さに頑治さんに発した的外れな言葉を、黒カーデガンの男に正面から諌められたと云った構図でありますか。頑治さんとしては多少胸がすく思いでありました。
「じゃあ唐目君、こっちに来てくれるか。制作部関係の仕事を説明しておくから」
 黒カーデガンの男が一度手招きするような仕草をして、スチールの棚で仕切られた部屋の奥の方へ頑治さんを連れて行こうとするのでありました。頑治さんはチラと土師尾営業部長の顔を窺うのでありましたが、不愉快そうにソッポを向いているだけで、黒カーデガンの男の行為に対して特段の横槍は入れないのでありました。
 棚は横長の引き出しが重なった大型のマップケースでありました。その前には大きなライトテーブルが置いてあるのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 18 [あなたのとりこ 1 創作]

 そのライトテーブルの奥には製図板をやや斜めにして置いた重役机があって、そこには面接の時に終始不機嫌な顔をして、一言も発する事無く頑治さんを窺っていた片久那狷造制作部長が座っているのでありました。頑治さんは一瞬身構えるのでありました。
 ライトテーブルを挟んだ向こう側はブラインドの降りた窓が一面を占め、その下にはこれも小振りの製図板を置いた事務机が三つ並んでいて、手前の机に若い男、真ん中に若い女が座っているのでありました。一番奥の片久那制作部長の横手に当たる机には誰も居ないのでありました。おそらくそこが頑治さんをここへ誘った黒カーデガンの男の席でありましょうか。ここは制作部のスペースと云う事のようであります。
 頑治さんの姿が見えると奥の片久那制作部長が顔を起こすのでありました。片久那制作部長は意外にも過日の面接時とは違って頑治さんに笑顔を向けるのでありました。
 頑治さんは先ずは、このスペースのボスたる片久那制作部長の机に近付いて行ってやや格式張ったお辞儀をするのでありました。
「今日からお世話になります唐目頑治です」
 頑治さんが挨拶すると片久那制作部長は、ああよろしく、と返して小さく頭を縦に動かすのでありました。面接の時の無愛想とは打って変わって、この親愛感のある物腰に頑治さんは面食らうのでありました。外の人間に対しては至極冷淡なくせに一旦内側に入ると心を許すと云う、態度の懸隔が激しい人なのであろうと頑治さんはこの仁を値踏みするのでありました。まあ、無愛想にされるよりも愛想良くされる方が有難くはありますが。
「一応紹介しておくと、・・・」
 片久那制作部長は窓側に並ぶ三人の机の方に目を遣るのでありました。「一番奥に座っているのが制作部主任の山尾登君」
 この間に自分の席に戻っていた黒カーデガンの男が、ニコやかな顔で頑治さんに、先程の片久那制作部長同様に軽く頭を下げて見せるのでありました。
 男が顎を引くようにして頭を下げたので頑治さんもお辞儀を返すのでありました。
「真ん中に座っているのが那間裕子君」
 真ん中の女性も頑治さんに向かって少し頭を縦に動かすのでありました。こちらは無愛想顔、と云うのか或いは、無関心顔でありましたか。ショートヘアで目鼻立ちが大きくて顔の上下左右比も整ってはいるけれど、だからと云って決して美人と云う訳ではなくて、それはそのプライドの高そうな険相の故であろうと思われるのでありました。
「向こうの端に座っているのが均目志信君」
「均目です。よろしくお願いします」
 三人目はネクタイの上から生えている細くて長い首が最初に目に付く、如何にも華奢な身体付きの男で、顔立ちにも何処となく気の弱そうな風情が漂っているのでありました。しかし頑治さんに発した挨拶の声はなかなかに大きく歯切れが良いのでありました。
「唐目です。こちらこそよろしくお願いします」
 この均目さんが今まで逢った社員の中で最も若そうであるし、性格に圭角がなさそうな感じもして、頑治さんとしては安心感を声に含ませて答礼するのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 19 [あなたのとりこ 1 創作]

 片久那制作部長から制作部関連の業務仕事に付いて説明があるのでありました。それに依ると先ず月曜日朝一番に、池袋にある製本所に依頼している製本商品を引き取りに行き旁、一週間分の材料等を搬入すると云う定期の仕事があるのでありました。
 この製本所と云うのは三人の姉妹でやっている小さな家内工業的な会社のようであります。大きな製本所では受け負えない細々とした込み入った内容の仕事も引き受けてくれる便利屋みたいな所で、もう随分と長い付き合いがあるのだそうであります。月曜日は大体この仕事で午前中は潰れてしまうようでありました。
 それから金曜日の午後にも、これは本郷にある製本所に池袋と同じく商品引きとり旁、材料を搬入すると云う定期仕事があるのでありました。こちらの製本所の方はやや大きな会社の様で、量を熟せる所と云う話しでありました。池袋よりは場所が近いだけに金曜日の午後半日潰れるような事はないとの事であります。池袋も本郷も今週の金曜日と来週の月曜日に山尾主任が頑治さんの紹介を兼ねて連れて行ってくれるそうであります。
 他にはこの製本所関連の物も含めて不定期に色々な材料が下の駐車場奥の倉庫に搬入されるので、それを保管管理すると云う仕事があるのでありました。下で見た歪な形のクラフト紙梱包してある物等は屹度そう云った材料の一つなのでありましょう。
「他にも何やかやとあるが、メインはそう云った辺りが制作部関連の主な仕事だな」
 片久那制作部長は身体を椅子の背凭れに引いて、机の引き出しを開けて五枚の右片をホッチキスで綴じ合わせた紙を取り出すのでありました。「これはウチの商品一覧と、その関連材料を記したものだが、取り敢えず渡しておくよ。まあ、見ても今の内は何が何だか良く判らないだろうけど、まあ、追々と覚えていってくれ」
 受け取って覗き込むと、商品の名称とその下にその商品を仕上げるのに必要な材料名が仕入先と一緒に表にして書き記してあるのでありました。矢鱈と材料の多い物もあれば材料が何も記してない物もあるのでありました。何も記されていない物は屹度、仕入れた儘で加工を必要としない完成品として入庫して来るのでありましょう。
 頑治さんが一覧表に見入っていると山尾さんが話しかけるのでありました。
「じゃあこれから、倉庫に行って主立った材料の置き場所や完成品の置き場所なんかを説明するから一緒に付いて来てくれるか」
「はい判りました」
 頑治さんは今貰った一覧表と、今迄の話しやら紹介された人物の名前等を書き入れていた自分のメモ帳を重ねて、左手に持ち直して片久那制作部長に一礼するのでありました。片久那制作部長は頑治さんの左手に目を遣りながら微笑むのでありました。これは屹度、頑治さんがただ話しを聞いているだけではなく、何も指示せずとも自主的にメモを取っている律義さを少しく好ましいと思ったが故の微笑でありましょうか。

 山尾さんに連れられて再び駐車場奥の倉庫に戻ると、梱包作業をしていた筈の刃葉さんの姿は無いのでありました。
「また鍵も掛けないで、一体何処に行ったんだか」
(続)
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あなたのとりこ 20 [あなたのとりこ 1 創作]

 とこれは、姿の見えない刃葉さんに対して舌打ちしながらの山尾さんの言葉でありますが、独り言なのか頑治さんに聞かせる繰り言なのか良く判らないのでありました。
 作業台の上には梱包途中の段ボールがあって傍にビニールバンドの切れ端やら結束用の金具、それに緩衝材代わりの新聞紙を丸めた塊が乱雑に転がっているのでありました。刃葉さんは作業途中でのっぴきならない用が出来て姿を消したと云った風情であります。
 頑治さんは棚のあちらこちらを山尾さんに引き回されて説明を受けるのでありました。メモ帳に棚の簡略な見取り図を描いて、商品一覧と突き合わせしながら説明を受けるのでありましたが、材料類が多過ぎて一遍には上手く覚えられないし整理も付かないのでありました。これはここでたじろぐよりも徐々に覚えていくしかないでありましょう。
 それにまた山尾さんの説明も一覧表に記してある順を追って、と云う訳ではないし棚の並び順と云うのでもなく、あっちへ連れて行ったりこっちへ手招きしたりの思い付き任せと云う具合だったので頑治さんは多少混乱するのでありました。もう少し整然とした説明だったら良いのにと頑治さんは口の中で愚痴を零すのでありましたが、しかしそう要望するのも憚られて、こうなったら棚に順に番号を振って商品一覧表にある商品も材料もその番号を割り当てて、後で落ち着いて頭の中を整理整頓した方が良いでありましょう。
 二十分程で一通り山尾さんの説明が終わるのでありました。ちょうどそこに姿を消していた刃葉さんが戻って来るのでありました。
 刃葉さんは倉庫内に頑治さんを見付けて不審そうな目を向けるのでありました。
「刃葉君、何処に行っていたんだ?」
 山尾さんが、刃葉さんが頑治さんを見るのと同じ目容で訊ねるのでありました。
「ああいや、ちょっと」
 刃葉さんはやや気まずそうな物腰で応えるのでありました。
「何か煙草とコーヒーの匂いがするなあ。喫茶店にでも云っていたのか?」
 山尾さんにそう云われて刃葉さんは少したじろぐ仕草を見せるのでありました。すぐにきっぱり否定しないところを見ると図星なのでありましょう。刃葉さんは、恐らく自嘲なのか、或いはひょっとしたら太々しさの表明なのか、曖昧な微笑を口の端に浮かべて作業台の前に進んで行って途中で止めていた梱包作業を再開するのでありました。
「仕事中に無断でまたコーヒータイムか。そんな事をしたら駄目じゃないか」
 山尾さんが作業台の横から苦言を呈すのでありました。山尾さんが「また」と云うところを見ると、そう云う横着はこれが最初と云うのではないのでありましょう。
「はあ。作業の効率が落ちたんで、ちょっと息抜きをしていたんですよ」
「今まで何個、梱包を終えたんだい?」
 山尾さんにそう訊かれて刃葉さんは後ろをふり返って壁際に置いている梱包を終えた段ボールの数を数える目つきをするのでありました。
「五箱、ですかね」
「あと何個荷物を作るんだい?」
「残り七箱ですね」
(続)
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あなたのとりこ 21 [あなたのとりこ 1 創作]

「午前中に完了するんだろうね?」
「まあ大丈夫でしょう」
 刃葉さんのその受け応えに山尾さんは疑わしそうな目付きをするのでありました。
「この梱包仕事のために、何時も定期で行って貰っている宇留斉製本所の仕事を午後一番に回したんだから、午前中に終わって貰わないと困るよ」
 宇留斉製本所と云うのは月曜日午前中に制作部の定期便として行くべき、池袋にある製本所の名前でありましょう。そこへの出来上がった製品引きとり兼、新たな材料搬入の仕事は、先に片久那制作部長から制作部関連で説明された業務の仕事でありますから、何時もは刃葉さんが担当しているという事になりますか。
「大丈夫ですよ」
 刃葉さんは如何にも軽そうな口調であっさり請け合うのでありました。
「宇留斉製本所のおばちゃん達は何やかやと逐一、こっちの手落ちと見たら口煩い苦情を云ってくるだから、ちゃんと昼一番に行かないとまた文句の電話が掛かってくる」
「ああ確かにあそこの人は面倒臭いですからねえ。しかしそれを心配しているのなら俺にではなくて、今朝急にこの梱包の仕事を入れた営業部長に文句を云ってくださいよ」
 刃葉さんが口の端に笑いを留めて抗弁するのでありました。何やら、嫌に他人事のような、それは無責任と文句を付けたくなるような云い草でありました。
「まあ兎に角、宇留斉製本所には時間通りに行ってくれよ」
 山尾さんは刃葉さんの抗弁に忌々しそうに顔を歪めるのでありました。刃葉さんは特段それに返事する訳でもなく無表情の儘手を動かし続けるのでありました。

 倉庫から再び上の事務所に戻る階段の、二段先を歩く山尾さんの背中辺りに向かって頑治さんが訊ねるのでありました。
「あの刃葉さんがひょっとしたら自分の直接の上司、と云う事になるのでしょうか?」
「いやまさか、そうじゃないよ」
 山尾さんは歩を止めずに後ろを振り返るのでありました。「刃葉君はあと二か月足らずで会社を辞めるんだからね」
「ああそうなんですか」
 頑治さんはそれは知らなかった、と云う少しの驚きを語調に込めるのでありました。
「営業部長から聞かなかった?」
「いえ、そう云う事に付いては何も」
「だから刃葉君の後釜として唐目君を雇ったんだから」
「ああそう云う事ですか」
 初耳でありました。まあ、この後土師尾営業部長からその辺の経緯について頑治さんに説明があるのかも知れません。と、その時頑治さんは考えたのでありましたがしかし後日談として云えば、結局土師尾営業部長からは頑治さんを雇った事情についての説明は一切ないのでありました。多分うっかり云いそびれたのでありましょうが。・・・
(続)
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あなたのとりこ 22 [あなたのとりこ 1 創作]

「今日の昼一番に刃葉さんが向かう事になっている、宇留斉製本所、でしたか、そこへは自分は付いて行かなくても良いのでしょうか?」
 頑治さんはまた山尾さんの黒カーデガンの背中に言葉を投げるのでありました。
「ああ、今日はいいよ。来週の月曜日に一緒に行ってくれれば。今週金曜日の本郷の大木目製本社の方には行って貰う事になるから、今からその心算でね」
「判りました」
 上の事務所に戻るとドアを入ってすぐの四つの机が固まっている、その土師尾営業部長脇の一番奥の席に今日初めて見る顔が座っているのでありました。土師尾営業部長よりも明らかに年嵩で、紺色に金ボタンのダブルのジャケットを着て派手な赤いネクタイを締めているのでありました。太っている訳ではないながら体格は良く、少し薄くなってきたような頭髪を綺麗に後ろに撫で付けて、露出している額がテカテカと光沢を湛えているのでありました。顔の色は浅黒く鼻梁が大きくて、弛んでいるのではないながら頬の肉も厚そうで、紫色に近い分厚い唇をしていて、一見結構な精力家と云った風貌であります。
 この精力家らしきが山尾さんの後に続いて入って来た頑治さんをジロリと見て、何だこいつは、と云った胡散臭そうな目付きをするのでありました。
「ああ日比さん、帰っていたの」
 山尾さんが勢力家らしきに声を掛けるのでありました。「丁度良かった紹介しておくよ。こっちは今度、業務担当で入った唐目君」
 山尾さんは頑治さんの方に掌を上に向けた手を差し出し示すのでありました。
「ああ、刃葉君の代わりの」
 名前を日比何某と云う精力家らしきが頑治さんを見る目から胡散臭さを消すのでありました。しかし一挙に打ち解けた表情をすると云う訳ではないのでありました。
「こっちは営業課長の日比祖治郎さん」
 山尾さんは、今度は日比さんの方に掌を向けて頑治さんを見るのでありました。
「今度入社しました唐目頑治です」
 課長と云う肩書きでありますから部長へ対するよりは浅く、山尾主任に対するよりはやや深く頑治さんはお辞儀をするのでありました。それに対して日比さんは特段名乗るわけでもなくコックリをするように頭をヒョイと動かすのでありました。
 山尾さんと一緒に制作部スペースへ戻ると、片久那制作部長がそれ迄見入っていた何やらの印刷物の校正刷りらしきから目を離して頑治さんを迎えるのであありました。
「どうだい、倉庫の様子は大まかには判ったかい?」
「はあ。山尾主任に丁寧に案内していただいたのですが、しかし商品をすっかり把握した訳ではないので未だ心許ない感じです」
「そりゃそうだ。入社した今日からいきなり何でも熟せる訳がないし、あれこれ戸惑いながら、追々手際良く動けるようになれば良いよ」
「判りました、有難うございます。ええとそれから、白い紙を一枚頂けませんか?」
 頑治さんはそう云って片久那制作部長に懇願の目を向けるのでありました。
(続)
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