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お前の番だ! 598 [お前の番だ! 20 創作]

「あれ、あゆみ先生はどうされたのですか?」
 迎えに出た来間教士が不思議そうな顔をするのでありました。
「ちょっと、体調が優れないようだから、朝一で病院に寄ってから来るそうだ」
「珍しくお風邪ですかね?」
 これは万太郎の靴を下駄箱に仕舞いながら云う真入の言葉でありました。
「多分そんなところだろう。微熱があるようだし」
「今日は少年部の稽古もないですから、お休みになられても大丈夫ですよ」
 来間が気遣うのでありました。
「その辺はあゆみも知っているから、病院の診断次第で自分で決めるだろう。それより朝食の用意はどうなっているのか?」
「もう大岸先生にあらかた調えて貰っています」
 大岸先生はこのところ毎日万太郎とあゆみが来る前から出張って来ていて、自分も含めて六人分の朝食の用意を手伝ってくれているのでありました。そのお蔭であゆみが来た時には、ほぼ支度は整っていると云う按配でありました。
 恐縮ではあるものの、あゆみとしては慎に好都合と云う寸法であります。しかし大岸先生としても、大勢で摂る朝食を自分も楽しみにしていると云った様子でありましたか。
「真入、あゆみの代わりに大岸先生の後の手伝いはお前がやれ」
 万太郎が命じると真入は一瞬及び腰を見せるのでありましたが、これは本人に料理なんぞと云う仕事が、嫌いであると同時にその才能もないと云う自覚がある故でありました。しかし総務長の云いつけであるし、重要な内弟子仕事の一つでもある事は判っているから、すぐに顔色を改めて押忍の発声の後に素直に台所に走るのでありました。
「真入に任せて大丈夫ですかね?」
 来間が不安を表明するのでありました。
「ま、大丈夫、だろう、・・・多分」
「真っ黒焦げの鯵の開きとか、煮え滾った味噌汁とかが出て来るんじゃないですかね」
「大岸先生が大方に目を光らせているから大丈夫だろう、多分。・・・」
 台所の大岸先生に一礼して感謝の言葉を発してから、万太郎は居間に座っている是路総士の前に正坐して、朝の挨拶とあゆみの遅参を報告するのでありました。
「ほう、微熱があって体調が優れないのか。あゆみにしては珍しいな」
 是路総士は特段強く心配する風もなくそう云って頷くのでありました。
「昨日から体の調子が悪そうだったの?」
 大岸先生が炊事の手を暫し休めて居間の方に来るのでありました。その間真入に調理を任せて大丈夫だろうかと万太郎は頭の隅で少し心配するのでありました。
 チラとそちらを窺うと来間がガスコンロの前に立つ真入の横で、あれこれ指図しているのでありました。傍で見ていて来間も心配になったのでありましょう。
「いや、今朝になって急にそんな感じでした」
 万太郎は大岸先生に向かって云うのでありました。
(続)
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お前の番だ! 599 [お前の番だ! 20 創作]

「ああそう。・・・ふうん」
 大岸先生は何やら直感するところのある表情をするのでありました。大岸先生の顔を見た是路総士も、その何やらにピンときたようで、大岸先生と目交ぜするような仕草をしながらニンマリと笑うのでありましたが、迂闊ながら万太郎は、その是路総士の笑みがどう云った意味で笑まれたものなのかを察する事が出来ないのでありました。
 五人での朝食を終えて暫くすると、その日当番になっている準内弟子の山田と狭間、それに宇津利益雄がやって来るのでありました。宇津利は竟先頃、予てから念願の準内弟子となったのでありましたが、前に準内弟子をしていた片倉が大学卒業を機に、出身地の信州松本に帰ったのと入れ替わる形で採用となったのでありました。
 来間と真入、それに準内弟子達が朝の道場仕事に励み出した頃、花司馬範士と寄敷範士が前後して姿を現すのでありました。二人共あゆみの不在に少しく意外と云った表情を表するのでありましたが、万太郎から気分が悪いので病院に寄ってから来ると説明されて、そう云う事もあろうかとそれ以上に気にかける様子は見せないのでありました。
 そのあゆみが道場に現れたのは、朝稽古が終わった頃でありました。
「随分遅かったなあ」
 万太郎とあゆみの控え部屋の襖を開けて、中に入ってくるあゆみに万太郎が声をかけるのでありました。あゆみの顔が今朝と同じに心持ち蒼白に見えたものだから、万太郎は未だ気分が優れないのかと心配するのでありました。
「病院が混んでいたからね」
「それでどうだった?」
 万太郎はあゆみの顔を覗きこむのでありました。
「それがね、あのね、・・・」
 あゆみは万太郎の目を円らな瞳で一直線に見るのでありました。「実は、どうやら、赤ちゃんが出来たみたいなのよ」
 その思わぬ報告に万太郎の顔が一瞬表情を失くすのでありました。それからすぐにその顔に、みるみる赤みが増すのでありました。
「赤ちゃん、て、その、ええと、所謂、・・・赤ん坊、・・・の事か?」
 何を訊いているのか万太郎は自分でもよく判らないのでありました。あゆみは頓狂な万太郎の云い草にも関わらず真顔で二度頷くのでありました。
「そう。その赤ん坊よ」
「・・・おお!」
 万太郎は妙な声色の感動詞を口走るのでありました。そこであゆみが、一連の万太郎の間抜けな反応に対して、口元に曲げた人差し指を添えてクスッと笑うのでありました。
 万太郎の態度が急にそわそわと、妙に恭しそうになるのでありました。
「起きていて大丈夫なのか、横にならなくても?」
「大丈夫よ。つまり病気じゃないんだから」
「ああそうか。しかし念のために、横になっておいた方が良いんじゃないかな」
「今ここで急に横になっても、仕方ないじゃない」
「それもそうだな。・・・」
 万太郎はあゆみの顔を心配そうな目で見遣るのでありました。その後何を思いついたものか、急にすっくと立ち上がるのでありました。
「何処行くの、万ちゃん?」
 そう訊かれて万太郎はすぐに困惑の表情をするのでありました。
「ああいや、別に何処にも行かないんだけど。・・・」
 万太郎は呟くように云ってまたその場に座るのでありました。座り直したのは良いけれど、どうにも尻の落ち着かない心持ちであります。
「赤ちゃんが出来たって聞いて、どう、今の気分は?」
 あゆみがまるで万太郎の落ち着かなさをからかうように、そんな事を如何にものんびりした口調で訊くのでありました。
「今の気分は、ええと、嬉しいに決まっているんだけど、どうしたものか顔が、それをちゃんと上手く表せないんで困る」
 その万太郎の云い草は何となく苛々しているようにも聞こえるのでありましたか。しかし要するにこんな万太郎のオロオロぶりに、万太郎なりに確かに大いに喜んでいるのだろうとあゆみは察しをつけて、安堵したように目尻を下げるのでありました。

「ああそうか。それは良かった」
 これは早速報告に及んだ時の是路総士の言葉でありましたが、万太郎とは違って如何にも落ち着いた様子ながら、その喜色は目尻から溢れているのでありました。
「お目出とう。そうじゃないかなって思ったのよ」
 こちらは大岸先生の言葉であります。「今朝急に気分が優れなくなったの?」
「いいえ、少し前からあったんですが、ちょっとした風邪だと思っていたんです。でも今朝は思い当るところがあって、それで念のために病院に行ったんです」
「それで確定したわけね?」
「確定と云うのか、検査の結果が明日出るまではっきりしないんですけど、でもお医者様には、先ず間違いないって云われましたけど」
「検査結果を待つまでもなく、あたしも絶対間違いないと思うわ。確かに、あゆみちゃんの今の顔つきは何となく懐妊した女性のそれだもの」
 大岸先生のその言葉を聞きながら、万太郎はそう云うものかと感心するのでありました。女は女同士と云うところでありましょうが、そこいら辺りの機微には、万太郎如きが容喙する余地なんぞは髪の毛一本分もないと云うものでありますか。
「こりゃあ目出度い。跡取りの七代目も出来て常勝流の未来も安泰と云うものだ」
 鳥枝範士が知った時の反応はややお先走りのきらいがあるのでありました。
「男か女かも、それにその素質があるのかも未だ判りませんよ」
 あゆみが苦笑いながら応えるのでありました。
「何れにしても結構な事。総務長先生、お目出とうございます」
 鳥枝範士は万太郎に深々とお辞儀して見せるのでありました。「こうなれば、ワシが云う迄もない事だが、棋道のために尚一層のご奮起を願います」
(続)
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お前の番だ! 600 [お前の番だ! 20 創作]

「よろしくお引き立ての程を」
 鳥枝範士の激励に万太郎もお辞儀を返すのでありました。
「あゆみの歳を考えたら急がないと、とワシは前から心秘かに思っておったのです。まあワシが焦心したところで、余計なお世話でありましょうがなあ」
 そう云う鳥枝範士の顔は実の孫を授かった好々爺のようでありましたか。
「実は剣士郎との間に少し間が空きましたが、ウチも二人目を授かりました」
 これは万太郎に話しを聞いた花司馬範士の報告でありました。
「へえ、そうですか。それはお目出とうございます」
 万太郎が祝詞を返すのでありました。「すると学校ではウチと同級生になりますね」
「そうですね。保護者参観日には一緒に参りましょう」
 花司馬範士も鳥枝範士同様、些かお先走りなのでありました。
 次の日の少年部の稽古前に剣士郎君が大きな花束を持って現れて、花司馬範士に伴われて万太郎とあゆみの控え室にやってくるのでありました。
「あゆみ先生、お目出とうございます」
 この先当分の間稽古を休むあゆみに、剣士郎君は感謝の花束を手渡すのでありました。これは花司馬範士の、あゆみを喜ばすためのちょっとした思いつきでありましょう。
「剣士郎君も弟か妹が出来るようだから、嬉しいでしょう?」
 あゆみが剣士郎君の手を取って云うのでありました。剣士郎君も嬉しそうな顔で、あゆみに手を取られた儘コックリと頷くのでありました。

 それから遠からぬ或る日の朝の専門稽古では万太郎が中心指導をする当番でありましたが、是路総士を筆頭に鳥枝範士と寄敷範士それに花司馬範士と来間教士、新米内弟子の真入と云う総本部指導陣が一堂に揃っての稽古となるのでありました。別にそう図ったわけではないのでありましたが、夫々の都合が偶然そんな状況を作ったのでありました。
 普段なら是路総士は万太郎が中心指導する折には、一種の気遣いから顔を出さないのでありますが、どう云う気紛れか、久しぶりに万太郎の指導ぶりを見たいと自ら所望するのでありました。秘伝伝授後の万太郎の変貌ぶりを確かめるためなのかも知れません。
 それならばと、その日は偶々朝から出仕していた鳥枝範士と寄敷範士も右に倣うのでありましたし、花司馬範士は元々出席の予定でありました。あゆみも稽古には参加しないながらも、どう云う所懐からか廊下側の窓から道場の様子を目立たぬように窺いにくるのでありましたから、母屋の留守番は居残っている大岸先生一人と相成るのでありました。
 ひょんな事からそう云った仕儀になって、万太郎としては大いにたじろぐのでありました。まるで総本部道場総務長、延いては常勝流武道宗家是路総士の跡取りたる自分の、力量及び適性を総本部所属の全指導員から考査されているような具合であります。
 これはもう滅多な事は出来ないけれど、かと云って至極無難に稽古を纏めて仕舞えば、その程度のヤツかとお歴々をがっかりさせる事になるでありましょうし、あゆみの失望も招くであろうし、来間や真入の心服もそれで覆滅して仕舞うかも知れません。特段そう云った思惑は面々にはないのだろうけれど、万太郎は過剰に気負うのでありました。
 その気負いが裏目に出たのか、今までそう云う事はなかったのだけれど、万太郎は道場に入る時に出入口の敷居の段差にうっかり躓いて仕舞うのでありました。気負いから体が固くなっていたので、万太郎は前のめりになった体勢を立て直せずにやや小走りに道場中央に到ると、そこに竟に転けたと云った風情でぺたりと正坐するのでありました。
 座り了る咄嗟に、そう云えば自分が内弟子に入った頃、是路総士も時々道場出入口の敷居に躓いていた事を思い出すのでありました。あれは後年手術に到る背骨の病変から、足が上手く上がらない場合があったためと知れたのでありましたが。・・・
 選りに選って、こう云う大事な場面で何たる不様、と万太郎は心の中で大いに赤面するのでありました。ヨロヨロと小走りする時に、下座端に正坐している鳥枝範士と寄敷範士が思わず顰め面をするのを目の端でしっかり見るのでありました。
 これは何とも幸先悪い仕くじりでありましたが、しかしどう云うものか万太郎はここで妙に心が静まるのでありました。無用に気負うからつまらぬ失敗をするのでありますし、誰が見ていようと今の自分以上の姿なんぞは結局見せる事は出来ないのであります。
 そう観念して仕舞うと万太郎は至極落ち着くのでありました。落ち着きを取り戻せば、何時も通りの中心指導を熟す事が叶うと云うものであります。
「いやあ、入場で躓かれた時には冷やりとしましたわい」
 稽古を終えて師範控えの間に引き上げた後、鳥枝範士が万太郎に云うのでありました。
「頭の中で昔の総士先生のお姿が重なりまして、ちょっと懐かしいような微笑ましいような、反面、何となく気まずいような妙な心持がしましたよ」
 寄敷範士が微笑を片頬に浮かべて続くのでありました。
「どうも面目ありません」
 万太郎は頭を掻くのでありました。
「総務長先生は別に腰がお悪いわけではないでしょうな?」
「いや、そのような事は。あれは全く以って僕のうっかりからです」
「ま、総本部道場の出入口の敷居と歴代宗家は、代々相性が悪いようですな」
 是路総士がそんな事を紹介するのでありました。「私の先代もあの敷居に躓いているのを、何度か目撃した事がありますよ」
「と云う事はつまり、総務長先生もここで晴れて、次代の宗家としての条件を目出たく身に備えられたと云う事になりますかな」
 鳥枝範士がそう云って豪快に笑うと、師範控えの間に集う是路総士や寄敷範士や花司馬範士、部屋の隅に控える来間教士と真入指導部助手、それに万太郎の横に座っているあゆみが、如何にも愉快そうにその笑いに同調するのでありました。
「私はあの光景を見て、さてこれからは愈々、総本部道場を先頭で率いていくのは私ではなく、そこで頻りに頭を掻いている婿殿だと得心しないでもなかったですかなあ」
 是路総士はそう云って笑むのでありました。
「総務長先生、総士先生がこれからは、お前の番だ! とおっしゃっておられますぞ」
 鳥枝範士が万太郎の心意気を質すように、控えめながらもやや鋭い眼光を向けるのでありました。万太郎は頭を掻いていた手をゆっくり下ろして、まるで是路総士が何時も湛えているような大らかな眼差しで、真正面から鳥枝範士の目を見つめるのでありました。
「押忍。承りました」
 万太郎は気負いもなく、かと云って弱気もない至極落ち着いた声音でそう云って端正に座礼をするのでありました。鳥枝範士は実に穏やかなその万太郎の物腰に不意に打たれたように、慌ててより低く万太郎に向かって低頭して見せるのでありました。

   ***

 さて、この辺りでこの物語もそろそろ一区切りといたしましょうか。この先の万太郎とあゆみについては、折があるならばまた別に語る事といたしましょう。浮世での大団円なんぞと云うものは、その当事者がこの世を去る時以外には訪れないのでありますから、不意に、故意に、物語はどこかで終止符を打たなければならぬものであります。
(了)
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概25周年合気道演武大会のこと [合気道の事など 2 雑文]

 2017年7月9日の日曜日に合気道錬身会南多摩倶楽部の演武大会を挙行する事と相なりました。この「概25周年」と云うのは、賛同者が数名参集して、今はもう取り壊された東芝府中工場の武道場で、全くインフォーマルに稽古を始めた日から起算しての数字であります。第一回目の稽古日の月日が今となっては曖昧となっていると云うのは、まあ、拙生らしいと云えば拙生らしいずぼらの為すところと云うわけであります。
 この間拙生なりに合気道の稽古形態についてあれこれ考えを巡らせて、幾らか変遷はあったものの、今現在の稽古の在り方を定着させてきたのでありますが、これは一言で云えば合気道は組型稽古が主体でありますから、先ず以って「型」=「典型」を見事に創り込むと云う稽古形態でなければならないと云う事であります。乱取り、或いは自由組手と云う技法の変化応用法を学ぶ前に、先ずは技術を自分の体の中に確立させる作業であります。優れて確立されてもいない技法を使って変化応用を学んでも、到底実用に耐え得る技法展開は望めない故であります。でありますから先ず以って「型」なのであります。
 別の文章でも既に云ってありますが、技の展開における一つの典型を「型」として抽出し、それを相対反復稽古する事が組型稽古でありますが、そのためには技法展開上の謂を充分に理解していなければなりません。特に技を受ける側の理解が稽古の質を決定する重要な要素であります。単に「やられ役」或いは「対抗者」ではないと云う事であります。この「受け」の意識に依ってこそ「仕手」は稽古の実質を得るのであります。まあ、そう云った辺りを今回の演武大会で表現出来ればと考えておりますが、はてさて。・・・
 普段の稽古でもよく用いる稽古法でありますが、先ずは一つの「型」を3つから7つの挙動に分解して、一つ々々の挙動毎の正確さを確認します。仕手がどの局面に於いても常に先を確保したところの優位であるか、主導的であるか、動いても崩れない体軸が確立されているか、受けの動きや力の方向に対抗せず同調しているか、と云ったところを錬る作業であります。これは主に号令で動きます。勿論武道は体操とは違うと云うのは当然で、号令をかけるのはあくまでも方便の一種であり上記の留意点の確認のためであります。
 同時に初心者には手順を理解し易くするための方策でもあります。また初心者にありがちな各人の動きの癖を吸収して自儘を排し「型」として均一化するためでもあります。
 この号令に依る「型」の分割動作の後に今度は、始めはゆっくりと、次第に早く、各挙動を区切らず連続して技の始動から終動までを行います。云わば幾つかに分割された挙動を、最終的に途切れ目の無い一挙動の動きに纏める作業であります。
 この演武を基本技から抜粋して幾つか行いますが、これが本演武大会の主要な演武であります。特別なものを演武するのではなく何時もの稽古をご覧いただくと云う趣意であります。まあ、この主旨とは別に折角の演武大会でありますから、他にも少年部の演武や自由技等も行いますし、千田務錬身会最高師範の華麗な演武も賜る事になっております。
 ご興味のある方、ご都合の良い方は是非ご高覧下さい。演武大会の後に初心者や体験希望者にもご参加いただける千田最高師範の合気道講習会も予定しております。詳しくは合気道錬身会南多摩倶楽部HPでご確認ください。
 南多摩倶楽部HP:http://www015.upp.so-net.ne.jp/mtama-soki/m-index.html
(続)
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あなたのとりこ 1 [あなたのとりこ 1 創作]

   松葉

 緩やかな下り坂に差しかかると、唐目頑治さんの靴の中でこのところ時折起こる異変が始まるのでありました。それは決まって、それ迄無表情であった頑治さんの眉宇に苦悶の色を浮かしめるのでありました。頑治さんは歩を止めないながらも、舌打ちの音を隠す事もせず、互い違いに前に出る自分の足下に視線を落とすのでありました。
 靴の中で靴下が、歩の重なりに同調しながら段々と脱げていくのであります。今朝心急いていたので偶々、口の緩くなっている靴下を装着して仕舞ったようでありました。
 頑治さんの所有する十足余りの靴下の中に二足だけ、その要注意の靴下があるのでありました。穴も開いていないものだから、洗濯して捨て惜しみに引き出しの中に仕舞い続けてきたのでありますが、選りに選って気が急いでいるこの今朝に限ってあの忌々しい靴下を選んで仕舞ったとは、何たる不仕合せでありましょうか。
 足裏に這う我慢ならぬ不快に頑治さんは立ち止まって、土踏まず辺りに秘かに蟠る靴下を引き上げようかと余程思うのでありましたが、しかし往来の真ん中でそのような無様を仕出かすのも、これもまた世間への体裁に照らして、断じて我慢ならぬ仕業と云うものであります。頑治さんはここが辛抱のしどころと観念するのでありました。
 駅までこの儘平気な顔で歩き切って電車の座席に座ったら徐に何気なく、ごく自然な感じで靴下を引き上げれば、その方が往来での不格好よりは未だ許容出来る不格好と云うものでありますか。ならぬ我慢を今少し我慢するのが我慢の神髄と云うものであります。
 しかしこの頑治さんの目論見は無惨に打ち砕かれるのでありました。乗りこんだ電車が満員で、座席に座るどころか身動きも儘ならないと云う在り様なのでありました。これは何たる不運、嘆くも疎かなる間の悪さと云うものであります。家を出てすぐにこんな不愉快を蒙るとは、何とまあ幸先の悪い事でありましょうか。

 結局、飯田橋の職安に着くまでに頑治さんの両足の靴下はすっかり足部から脱落して、靴先に詰め物のように固まって頑治さんの指先を不快に圧迫するのでありました。
「どうも、唐目ですが、何か良い就職先でも見つかったのでしょうか?」
 頑治さんはここ暫くの職安通いですっかり馴染みになった、田隙野道夫、と云う名札を首から下げた職員の前の椅子に座りながら訊くのでありました。
「ああこれはこれは唐目さん、早速にお越しいただいて恐縮です。お気に召すかどうかは判りませんが、唐目さんのお出しになった条件にほぼ合致するようなしないような求人がまいりましてね、それでご足労願ったと云う次第ですわ」
 田隙野氏は慎にニコやかな顔を向けるのでありました。こういう処の職員にありがちな高飛車で、人を見るに自力で職も探せない無能者を見下すような目線なんぞが、この田隙野氏には全くないのでありました。しかも妙に殺伐とした、軽口でも云おうものなら顰蹙を買いそうな安定所の雰囲気からも何となく超然としている風なのでありました。かと云って決して仕事が投げ遣りでもなく、親身でないわけでもないのであります。
(続)
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あなたのとりこ 2 [あなたのとりこ 1 創作]

 職安職員内におけるこの田隙野氏の在り様は、云ってみれば頑治さんの趣味にピタリと合っているのでありました。頑治さんにしても、別に胆が据わっているわけではないのでありますが、どこかのんびりしたところがその風情にあるのでありましたから。

 別にちゃんと確認し合ったわけではないのでありますが、しかし頑治さんも田隙野氏も、そこは同類を嗅ぎ分ける鼻の穴の細胞のお蔭か、この人物とは会話が出来るとすぐに直感したのでありました。初回の訪問で頑治さんは躊躇なく、カウンターの中で雁首を並べている相談職員達の中の、田隙野氏の前に歩を進めるのでありました。勿論、立て込んだ中で田隙野氏の前だけが唯一開いている窓口であったのも決定的要素ではありますが。
 確かに必死に職探しをしている者からしたら、そんな事は別に大した事ではないではないかと云った風の田隙野氏の緩い顔つきなんぞは、如何にも場違いなものと映るでありましょう。職安職員として頼りない顔つきと云えばその通りであろうし、相応しからざる顔相と云えばそれもその通りでありますが、しかしこれは別に田隙野氏が悪いわけではなく、責任はそう云う顔に産んだ田隙野氏のご両親にあると云えるのかも知れません。
 いやいやしかし、その人の顔つきを作るのは生まれではなく育ちと己の思想であると云う論に与すれば、田隙野氏自身のせいだとも云えるでありましょうか。依ってご両親の罪と断ずる事も出来ないわけでもありますが、それはまあ兎も角として、こうして頑治さんの仕事を斡旋しようとしてくれているのでありますから実際、田隙野氏はその風采とは別にちゃんと一定の仕事の出来る職安職員とも云えるのでありましょう。
「あれ、靴をどうかされましたか?」
 椅子に腰掛けるなり靴から足を脱して、前屈みをして机の下の見えない辺りで、すっかり脱落して仕舞った靴下を秘かに穿き直している頑治さんの挙動を不審に思ってか、田隙野氏がほんの少し怪訝そうな顔を向けるのでありました。
「いや、別に何でもありません」
 頑治さんは誤魔化すように、まあ、特に田隙野氏に対して体裁を気にする必要もないかとは思うのでありましたが、愛想笑いつつ両の靴下を直すのでありました。好い加減に引っ張り上げるとこの後またもや脱げる恐れがあるので、秘かな作業ながらそこは繊細に、爪先と踵のフィット感を確認しながら修正動作を完了するのでありました。
「唐目さんのご希望は確か、給料とか待遇は特に希望はないが、その日の内にその日の課業が完結するような小難しくない仕事で、格式張った服装をしなくて済む、比較的社風ののんびりした、冗談や洒落の判る上司の居る、あんまりこの先発展しそうにないながらもしかし、なかなか堅実に続いて行きそうな会社、なんと云う、そう云う会社があれば私の方が先にここを辞めて就職したいような、そんなような仕事及び会社でしたよねえ?」
 頑治さんの上体が起きるのを待ってから、気を取り直すように咳払いを一つして、未だ職安職員として敏腕なのかそうでないのかが判る程には付き合いの深くない田隙野氏が、頑治さんの目を至極真面目な顔つきで覗きこみながら訊くのでありました。
「ええまあ、そう云ったような」
(続)
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あなたのとりこ 3 [あなたのとりこ 1 創作]

 頑治さんは改めてそんな確認をされて何となく恥じ入るように頷くのでありました。考えてみれば己が吐いた事とは云え、何とも虫の良い、職探しをする者としては慎に不埒な戯れ言のような条件を出したものであります。普通なら呆れられて叱りつけられる、或いはその了見違いをこんこんと説教されて当然の、不謹慎窮まる条件でありましょう。
「こちらとしてもそんな無闇な条件の就職先をあれこれ探していたところでしたが、竟昨日、そんな唐目さんの条件に適いそうな会社から求人が来たのです」
「ほう!」
 そう聞いて頑治さんの方が驚くのでありました。
「但し、上司が冗談や洒落の判る人かどうか、と云う点は確認出来ていませんが」
「ああ、成程。で、その奇特な会社とは、どう云った按配の会社なのですか?」
「ギフト業、と謳ってあります」
「ギフト業とは、一体どんなような業なのでしょう?」
「結婚式の引き出物とか、企業の周年記念品とか販売促進用の品とか、或いは旅行先の観光地のお土産品なんかを取り扱う会社のようですね」
「旅行のお土産、とか云うと例えば観光地の名前の入ったキーホルダーとか、木刀とかペナントなんかを製造している会社でしょうかね?」
「自社で製造している物もあるようですが、扱っている殆どの商品は、他の会社なり製造元から仕入れているようですけどね」
「従業員はどのくらい居るのでしょうか?」
「社長も入れて十二人、となっていますな」
 田隙野氏は手に持っている求人票を見ながら応えるのでありました。「ええと、序に云って置きますが、募集職種は配送及び倉庫業務となっていて、要するに商品を製造元から引き取って来て管理したり、それを配送したりと云った仕事が主ですね。まあ、商品管理の帳簿を付けたりする事はあるでしょうが、概ね小難しい仕事はないと思われます」
「頭脳より力仕事、と云った感じでしょうか?」
「ま、そうですかな。ところで唐目さんは体力には自信がありますか?」
 田隙野氏は頑治さんの体つきを値踏みするような目で見るのでありました。
「頭の方は至って頼りないですが、そちらの方は些か自信があります」
 頑治さんは右腕の上腕二頭筋の力瘤を作って見せるのでありました。
「おお、これはなかなか好都合な力瘤をお持ちで」
 田隙野氏は真顔で大袈裟に感心して、数度頷くのでありました。
「いやあ、それ程でも」
 頑治さんは腕を曲げて力瘤を萎ませないように保持した儘、何となくぎごちない動作で照れ笑いながら頭を掻いて見せるのでありました。
 この後、給料やら就業時間とか有給休暇日数とかの待遇面を縷々述べてから、田隙野氏は頑治さんの顔を覗きこむのでありました。
「どうです、この会社に面接に行ってみますか?」
(続)
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あなたのとりこ 4 [あなたのとりこ 1 創作]

「はい。大体に於いてこちらの希望に沿っていると思われますので」
「判りました。では電話して面接日を打ち合わせてください。その旨こちらの方からもこの会社に電話を入れておきますよ」
「どうぞよろしくお願いします」
 頑治さんは会社概要や連絡先を記してある紙片を貰ってから、立ち上がって田隙野氏に深々と頭を下げるのでありました。「田隙野さん、色々有難うございます」
「いやいやどういたしまして。首尾の上々なる事を祈っております」
 田隙野氏はニコやかに笑ってバイバイと手を振るのでありました。

 頑治さんは一時間ばかり職安近くの喫茶店で時間を潰してから飯田橋駅に戻って、乗車券の自動販売機近くに並んでいる公衆電話の受話器を取り上げるのでありました。
「飯田橋の職安から仕事を紹介して貰った者ですが」
 頑治さんが受話器に向かって喋ると、電話に出た向こうの女の人に少し待てと云われ、十秒ほど電子音によるパッヘルベルのカノンを聞かされてから、採用担当者と思しき男が代わるのでありました。男は妙に丁重な言葉遣いで、若し可能ならば今日の午後四時に面接に来てくれぬかと云うのでありました。頑治さんとしては否と云う事も出来ず、それを億劫と思う気も特段無かったものだから、了解の旨あっさり返答するのでありました
 向こうから指定された午後四時には未だ二時間ほどあるのでありました。訪うべき会社は千代田区の猿楽町一丁目にあるのでありましたから、頑治さんは取り敢えず地下鉄神保町駅辺りまでゆるゆると歩いて行って、すずらん通りにある東京堂書店とか冨山房書店や駿河台下の三省堂本店、それに靖国通り沿いの古本屋等をブラブラ冷やかして時間を潰すのでありました。この間、幸いにして靴下の脱出現象はもうないのでありました。
 猿楽町の錦華公園に程近い辺りの、一階が駐車場になっている五階建てビルの三階にその会社はあるのでありました。駐車場横のやや狭い階段を上るとすぐ目の前に訪問先たる「株式会社 贈答社」と云う、白地にゴシック体墨文字のプレートが張ってある、クリーム色の少し汚れた鉄の扉があるのでありました。頑治さんはその扉を遠慮気味に叩くのでありましたが、中からすぐには何の応答も返ってこないのでありました。
 頑治さんが扉を引き開くと、ちょうど同じタイミングで中からも押し開こうとしたようで、内側のドアノブに誰やらの腕が付随してくるのでありました。その腕の持ち主は頑治さんと同じか少し若い年頃の男で、黄色地に茶の縦縞模様のワイシャツと赤と薄草色の斜め右下がりストライプのネクタイを締めていて、その上に肘の辺りに毛玉をかなりの量溜め込んだ、長年日に焼けたような黒いカーデガンを羽織っているのでありました。
「入社面接に来た者ですが」
 頑字さんは男にお辞儀しながら来意を告げるのでありました。
「ああ、はい。どうぞ」
 男はそう云って頑治さんが部屋の中に入り易いように、ドアを片手で開き留めた儘身をドア前で横に開いて通り道を空けるのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 5 [あなたのとりこ 1 創作]

 入ってすぐに受付台を兼ねたスチールの棚が置いてあって、その先には四つの事務机が寄せ集められていて、そこには誰も座ってはいないのでありました。その左横のスペースには如何にも安っぽい応接セットが窮屈そうに収まっていて、四たり一団の机を挟んだ右横スペースには長い重役机と二つの事務机が固められているのでありました。
 重役机に座っていた歳の頃三十半ばと云った、痩せた体を地味なスーツに包んだ坊や顔の男が立って近寄ってくるのでありました。如何にも苦労を知らないお坊ちゃんと云った顔であるものの、重役机に座っていたのでありますから、この男はこの会社の責任ある地位にあるのでありましょう。男は頑治さんに応接ソファーの方に座るように促すのでありました。頑治さんは云われる儘に長椅子の端に腰掛けるのでありました。
「ちょっと待ってね」
 男はそう云って部屋の奥の方に向かうのでありました。奥は通路を空けてパーティション代わりの大きなスチール製のケースに仕切られていて、そこにはまた違う部署があるのでありましょう。棚の上にもやや乱雑に丸めた紙の束やら幾つかの未使用の伝票類らしきクラフト紙の包みやらが積んであって、奥の様子は全く窺えないのでありました。
 因に部屋は都合二十畳程のスペースで、ケースに仕切られた奥が通路から仄見える様子からざっと八畳程、こちら側が十二畳程の広さと推察されるのでありましたか。職安の田隙野氏に聞いたところに依れば従業員十二人の会社でありますから、まあ、このくらいの広さで充分なのであろうかと頑治さんは憶測するのでありました。
 頑治さんが肘掛の付着が緩くなっているソファーに座って待っていると、先の男がすぐに奥からもう一人の男を引き連れて戻って来るのでありました。この男は薄い橙色のワイシャツに地味な褐色のネクタイを締めて、それをこれまた発色の悪い橙色のカーデガンで覆い隠していて、使い古したような焦げ茶色のズボンを穿いているのでありました。重役机の男と違ってなかなかの偉丈夫ではあるものの、艶のない髪の毛が耳を隠す程に長く額にも幾筋か垂れていて、服装のイカさないのも然る事ながら何処か陰鬱そうな面持ちで、折角の偉丈夫を偉丈夫に見せない湿気が体貌に漂っているのであるのでありました。
 男二人は夫々一人掛けのソファーに座って頑治さんと向かい合うのでありました。
「営業部長の土師尾史郎です」
 童顔が先ず自己紹介するのでありました。その後に偉丈夫の方を横目でちらと窺うのでありましたが、偉丈夫は何も云わず背凭れに深く身を引いて頑治さんの顔を凝視しているだけなのでありました。その目は頑治さんを値踏みしているようでもあり、呼ばれてここにこうして座っている事自体が億劫とのふてた意を表明しているようでもありました。
 偉丈夫が何も言葉を発しないのを見て、やや大袈裟にやれやれと云った表情を見せた童顔が代わりに続けるのでありました。
「こっちは制作部の片久那狷造部長です」
 そう紹介されても偉丈夫は愛想の頷きもしないのでありました。こうもつれなくされるとお互いの立場は別にして、初対面の相手に対して幾ら何でも横着と云うものではないかと頑治さんは秘かに憤るのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 6 [あなたのとりこ 1 創作]

 頑治さんは取り敢えずそれとなく不快を伝えるために、偉丈夫をさて置いて童顔の方と正面から向かい合う位置に腰をずらすのでありました。こなったら童顔の方とのみこの後の会話を進めるしかないでありましょう。
 この後履歴書の提出を催促されて、頑治さんは童顔の土師尾営業部長の前にそれを置くのでありました。土師尾部長は手に取って暫く眺めてから訊くのでありました。
「趣味は寄席通いとありますが、寄席にはよく行くのですか?」
「はいまあ、偶に、よりは少し繁く、と云った程度です」
 頑治さんとしては趣味の欄に読書とか映画鑑賞とか旅行とかのありきたりな事を記すよりは、寄席通い、の方が多少色気はあるかと呑気に思考してそう書いた迄であり、実はほんの偶に行く程度で、まあ、年に三回以上足を運ぶ事はないのでありましたか。
「笑う事が好きなのですか?」
 土師尾部長が質問を重ねるのでありました。笑う事が好きか、と問われても、はい好きですと素直に頷くのも何となく間抜けた応えのようだし、どだい笑うと云う営為は己の好き嫌いに依ってコントロールされるものではなく、どちらかと云うと生理に近い現象でもあろうから、頑治さんはその質問自体に面食らうのでありました。そんな訊ね方そのものが全く頓珍漢であろうと秘かに興醒めるのでありましたが、しかし曲りなりにも就職面接の場でそう返すのも憚られるので、一応無難な辺りを口にするのでありました。
「まあ、そのように云うとすれば、そんな風にも云えるかも知れませんね」
「と云う事は、貴方は朗らかな性格ですね」
 これにも頑治さんは、ある種たじろぐのでありました。寄席通いが趣味だから笑うのが好き(!)で、そうなら性格が朗らかに違いない、と云う論の路程は、何やらあまりにも大雑把で無粋で、三角形には角が三つあります、と滔々と正面から論じられているような按配で、何となく尻の辺りがムズムズとしてくるのでありました。
 その質問に乗って、はいそうですと応えるのは己が羞恥心にかけていただけないと思うから、頑治さんはこれも曖昧に笑って、頷くとも頷かないとも取れる程に首を微妙に動かして見せるのでありました。不機嫌そうに無言を決めこむ手合いも然り乍ら、こんな一種頓馬な質問を重ねる輩も、実は頑治さんとしては大いに苦手なのでありました。

 ここで頑治さんの前に茶が出されるのでありました。待ってきたのは三十半ばと見える女性で、何処から現れたかと云うと、土師尾部長の座っていた重役机長辺にくっついて二つの事務机が向いあっていた、頑治さんの方からは死角になる方からでありました。二つの向いあった事務机の間には、丁度頭が隠れるくらいの伝票やら帳簿やら印鑑やらを並べる机上棚が立っていて、それ故その女性の姿は隠れて見えなかったのでありました。
 女性は無言でそんざいと丁寧の中間程の、つまり全く事務的な手付きで茶を置くと出入口扉脇のカーテンで仕切られた中へ消えるのでありました。そこには恐らく給湯室か、ちょっとしたキッチンみたいなものがあるのでありましょう。
「さて、来週の月曜日から来て貰う事は出来ますか?」
(続)
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あなたのとりこ 7 [あなたのとりこ 1 創作]

 頑治さんが茶に手を出す前に土師尾部長が訊くのでありました。そう訊かれるのでありますから、つまり採用と相成ったと云いう事でありましょうか。
「それは可能ですが、と云う事は、ご採用していただけるわけでしょうか?」
 頑治さんが念のためそう訊き返せば土師尾部長は一つ頷くのでありました。終始無言の片久那制作部長の方を見ると、こちらは表情も変えず頷きもせず相変わらず頑治さんを値踏みするような目で見ているのみでありました。不機嫌な上司、頓馬で鈍い質問をものす上司の会社で大丈夫かしらと、頑治さんは少し考えるのでありました。
 この後に給料とか労働時間、それに有給休暇日数やら年に一度一泊二日の社員旅行があるやらの話しが土師尾部長の方から出るのでありましたが、好条件と云う程ではないにしろ特段頑治さんに不満はないのでありました。元々然程の好待遇を期待して仕事を探していたのではないのではありますし、『蟹工船』並みの過酷な労働を強いられる訳でもなさそうなので、先ずは結構な仕事にありついたと頑治さんとしては思うのでありました。
「では、明々後日の月曜日からよろしくお願いします」
 土師尾部長が頭を軽く下げて見せるのでありました。
「こちらこそよろしくお願いします」
 頑治さんは当然、土師尾部長のお辞儀よりは深く頭を下げるのでありました。
 こうして、職安に求職登録して最初の会社訪問で意外に呆気なく勤め先が決まった事に、頑治さんは少しばかり気抜けする思いでありました。
 オイルショックに続く不況下にも関わらず、頑治さんは別に大志があるわけでもなく、大学時代は就職活動を全くせずに一年間アルバイトをしながら呑気に遊び暮らしたのでありました。学友からは既卒者には就職が益々難しくなると云うのにそんなお気楽な了見でいたら、この先碌でも無い将来しか待っていないぞと散々脅かされたり憐れまれたりしたのでありましたが、そうでもなくこうして、頑治さんにしてみれば慎に順調に仕事が見つかったのであります。まあ、大企業とか好待遇とかを求めなければこのように、大学時代に一生の大事と必要以上に目を血走らせずとも何とかなると云う事でありましょうか。
 帰路の御茶ノ水駅方面への坂道を上りながら頑治さんはそんな事を考えているのでありましたが、ふと気が付いて主婦の友社本館傍の公衆電話ボックスに立ち入ったのは、この就職に於いて世話になった職安の田隙野氏に首尾を報告するためでありました。
「おお、それはお目出とうございます。流石は唐目さんです」
 一体何が流石なのかよく判らないのでありましたが、受話器の向こうで田隙野氏は大いに喜んでくれるのでありました。尤もその田隙野氏の、多分気紛れなヨイショ混じりの言葉に、頑治さんは少しく気分を良くしたのではありましたが。

 行きがけの坂道で靴下が摺り下がったと云う現象は、必ずしも悪い兆候ではなかったようであります。寧ろその日の外出の目的たる職探しの首尾を考えると、吉祥に属するとも取れるでありましょうか。本郷給水所近くの一角にあるアパートに帰り着いて、上着を脱いでネクタイを外しながら頑治さんはそんな事を考えるのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 8 [あなたのとりこ 1 創作]

 まあ確かに、足裏の感触なんぞは慎によろしくはなかったのでありましたが。しかし職安で摺り下がった靴下を引っ張り上げた後から、急に吉凶が逆転したようにも思えるのであります。そうなるとこの何ともイカさない秘かなる修正を境に、凶吉の反転が起ったとも云えるでありましょうか。靴下の摺り下がる無様は、これはもう如何にも目出度くはなかろうと云うものであります。依ってそれは矢張り凶兆であって、靴下を引き上げた事に依り、本日の職探しが目出度い仕儀に決したと云う風に捉える方が妥当性もあろうと云うものでありましょう。頑治さんはそう考えを纏めてから一つ頷くのでありました。
 諸事万端、頑治さんはこのような吉凶占いめいた事を、必ずあれこれ思い巡らして仕舞う傾向があるのでありました。それは遠く、小学生の頃からの抜き差しならぬ人生上の癖、あるいは慎に厳かなる儀式とも云えるものでありましたか。
 切っ掛けは友達と近所の公園で二股松葉を組みあわせて、その両端を引っ張り合って千切れた方が負けと云う遊びに由来するのでありました。単純で他愛のない子供の暇潰しじみた遊びではありましたが、頑治さんは内心大いに燃えるのでありました。何としてでも勝ちを収めなければ、何やらとんでもない災いがすぐ近くの将来、身に降りかかって来るかも知れぬと云う嫌に大袈裟に閃いた予感に打たれていたのでありました。
 家の前の、ネコの額と云うのも烏滸がましい程度の庭には一本の小振りの赤松があるのでありました。それまでは全くの無関心を決め込んでいたのでありましたが、友達との公園での遊び以来、頑治さんの目にその赤松が霊木の如く光を放つのでありました。
 学校から帰ると必ずその赤松の葉を組み合わせて相撲を取らせるのが、頑治さんの欠かせない日課となるのでありました。それに依って明日の吉凶を占うのであります。
 頑治さんは厳粛なる手つきで無作為に二股松葉を枝から取り出し、神官が真榊を扱う如くに恭しくそれを組み合わせ、深く二度程深呼吸して気を沈め、右が勝てば吉、と意中で宣し、左右の手を徐に横に引くのであります。当然左右の手の力加減に偏りがないように細心の注意を払い、神意が正しくこの松葉に降りるようにしなければなりません。
 右が勝てば吉、でありますから右手に持った松葉が二股を保持し続け、左手の松葉が二股を崩壊させれば、明くる日に屹度喜ばしい出来事が何か一つは起こるのであります。若し左手の松葉が勝ったからと云って、やり直しはきかないのが頑治さんの決めたルールであります。後の無い一回勝負であるからこそ卜占にリアリティーが宿るのであります。
 但し左手の松葉が勝ったからと云って、次の日に禍事が身に降り掛かると云うわけではなく、単に吉き事が起らないだけ、と云う風に都合好く頑治さんが自分の気持ちを納得させようとするのは、これはもう偏に頑治さんの小心に由来すると云えるでありましょう。依ってこれは吉・凶占い、と云うよりは吉・無吉占いと云うべきでありますか。
 しかし人間の性根なんぞと云うものは実に弱く出来ているもののようで、吉事がないだけとは云いつつも、しかしどうしても凶事の生成を意識せずにはいられないのであります。そう云えば確かに、左手の松葉が勝った次の日が何事もなく無事に終わるのは案外稀なような気が頑治さんはしているのでありました。強い思い込みからそう感じて仕舞うのだと云われれば、これはもう返す言葉は何もないでありましょうが。
(続)
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あなたのとりこ 9 [あなたのとりこ 1 創作]

 例えば登校中の路で不意に石に躓くとか教科書を忘れてきたとか、その日に返ってきた先のテストの結果が思いの外悪かったとか、友達と言葉の遣り取りが上手くいかなくて意ならず喧嘩になったとか、考えてみれば何かしらの禍事が起こっているのであります。こうなるともう、左手の松葉が勝てば凶事が起ると断定するべきかも知れません。
 然様であるなら、矢張りこれは、吉・凶占い、と云うべきでありましょう。確かに吉・無吉占いよりはその方が卜占としてはすっきりと落ち着いていると頑治さんも思うのであります。そうであるなら頑治さんの松葉を持つ手にも余計な力が入る事になるのであります。次の日が吉であるか凶であるのかが松葉の勝負に懸かっているのでありますから。
 またこの松葉占いが良く当たるのであります。と、頑治さんには身に染みて思われるのであります。松葉占い恐るべし、であります。依って頑治さんはこの密やかで、陰鬱な感奮に満ちた神事の虜とならざるを得ないのでありました。
 松葉の宣託は何を差し置いても第一番目に尊ぶべき明日の道標であり、明日と云う日を無難に乗り切るための予めの指示であるのなら、頑治さんはそれに頼ってのみ自分の生を生きていると云っても過言ではないと思うのでありました。頑治さんの人生は松葉が握っていると云うわけであります。何というロマン主義でありましょうや。
 まあ、兎も角もこういった観念論的性向が一旦身に沁み込むと、ありとあらゆる事象に神意、或いは天の意志を見るようになるのでありました。時間が過ぎて松葉の卜占にも厭きた後でも、頑治さんの心の壁にはこの性向が薄染みのように残るのでありました。
 例えば朝、中学校に行くために靴を履いて左足から玄関を出るか右足から外に踏み出すかで登校路程の吉凶が分かれるとか、バナナの皮を剥く時に四枚に剥くところを三枚に剥き損ねたら近々災いが起るとか、誤差前後十秒以内の三分間で歯を磨き終わらなければ好からぬ事がすぐ先に待ち受けているとか、七秒以内に信号が青に変わらなければ英語のテストの点が悪いとか、まあ、数え上げたら切りが無い位に神託頼みの人生であります。
 慎に窮屈な生き方だとうんざりもするのでありましたが、しかしこの営為の虜となった頑治さんには、これ無くして生きることは不可能に近いのでありました。故意に卜占を無視する、或いは寧ろ挑戦する等と云う勇気は全くないのでありました。そんな事をすればちょっとした凶事どころではない、途轍もない天罰が下されるに決まっているのであります。より小さな禍災さへ甘受していれば、大災へのストレスは免れるであります。
 何が起こってもそこに神の、或いは天の啓示を見る頑治さんは、しかし一面に於いてかなりのナルシストでもあるのでありました。だから普段は、そんな不合理には一顧も与えないリアリストの顔で振る舞うのでありました。あるかないか判らない神の、或いは天の意向に何時も兢々としているなんと云う態は、如何にも恰好が悪いでないではありませんか。しかしまた反面、神、或いは天への裏切りをしてまで敢えて己を修飾しようとする仕業は、これはまた頑治さんの強いストレスになっているではありましたが。
 慎に信心深い、頑治さんでありました。こういった信心深さは一体奈辺にその根があるのであるのかしらと、頑治さんは時々考えてみるのでありました。しかし特段思い当る成長過程上の目印は何処にも見付けられないのでありますが。・・・
(続)
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