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お前の番だ! 579 [お前の番だ! 20 創作]

「万ちゃんさあ」
 あゆみが言葉を切って徐に夜空を見上げるのでありました。「婿養子になったり、稽古以外の煩わしい仕事ばかりが多い宗家なんかに将来させられたりとかするんで、本当は今、あたしと結婚するのを少し後悔しているんじゃない?」
「後悔、ですか?」
 万太郎はそう云ってあゆみの方を見るのでありました。しかしあゆみは夜空を見上げた儘で万太郎の方に顔を向けないのでありました。
 万太郎はゆっくりとあゆみから目を離して、同じように夜空を仰ぐため顎を上げるのでありました。曇り空と云うのではないけれど、多分街灯りが煌々としている所為で、漆黒の天空には星の輝きが疎らにしか見えないのでありました。
「あゆみさんと一緒になれると云うのに僕が後悔しているわけがないじゃないですか」
「でも本当のところは、万ちゃんはもっと淡泊で、シンプルな生き方を本来望んでいたんじゃないかって、あたしこの頃時々考える事があるの」
「いや、そうでもないですよ。まあ、波乱万丈とか云うのは草臥れそうで困りますが、平板でありきたりと云うだけの生き方と云うのも、何だかつまらない気がしますし」
「本当は養子になるのも、あたしに代わって常勝流の宗家になるのも万ちゃんの真意に染まない事で、あたしが勝手にそれを万ちゃんに強いている事になるのかも知れないって、そう考えるとそれが実際の在り様のような気がして仕舞うの」
「いやいや、そんな事はありません」
 万太郎は首を力強く横にふって見せるのでありましたが、未だ空を見上げている儘のあゆみの目の端にも、その万太郎の仕草が屹度映った事でありましょう。「あゆみさんと一緒になれるのなら、僕は何だって引き受けます。それに常勝流を学ぶ者として、その頂点まで極める事が出来るのならこれに勝る喜びは他にないでしょうし、それが宗家を受け継ぐと云う在り方とほぼ重なると考えるなら、こんな光栄な事はないと思っていますし」
「あたしに気を遣って、無理してそんな云い方をしているんじゃない?」
「いや、生一本にそう思っています」
 そこであゆみが万太郎の方に顔を向けるのでありました。その顔は万太郎の今の言葉への歓喜が殆ど、と云った様相ではありましたが、しかし一抹の、不安のような、疑いのような、こよなく労わられている事への一種の辟易のような、ほんの少しくすんだ翳が、窺えるか窺えないか程度に付着しているように万太郎には見えるのでありました。
 そんな顔を見せられると、万太郎としては大いに狼狽える意外にないのでありました。武道家は万事に平常心で臨むものだと云う自戒が頭の隅で閃くのでありましたが、この際そう云った無粋な筋論は一旦横に置く方が賢明と云うものでありますか。
 万太郎はちょうどそこが人気のない、御茶ノ水駅途上にある錦華公園と云う小さな空間の中だと云う好都合もあって、歩を止めてあゆみの両手を徐に取ると、あゆみの体を自分の胸に引き寄せるのでありました。あゆみは反射的に一瞬の抵抗を放射したものの、しかしそれはすぐに霧消して、素直に万太郎の胸に凭れかかるのでありました。
(続)
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