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お前の番だ! 572 [お前の番だ! 20 創作]

「まあ、要するにそうなんだけど、でも万ちゃんの助太刀と云うのも、考えてみれば烏滸がましい話しよね。あたしより万ちゃんの方が武道の実力は遥かに上なんだから」
「しかしそうであっても、切羽つまった心根は理解してくれと、そう云う事ですかね」
 良平が心理分析的な評言を述べるのでありました。「で、万さんの方としてはそのあゆみさんの心根に甚く感じ入って、それで話しのトントン拍子に到ったと云うわけだ」
「ちょっとげんなりするくらい大雑把だけど、まあ、つまりそう云う事かな」
 あゆみが一応の納得を表明するのでありました。
「あゆみ先生が折野さんの切所に何も顧みないで衝動的に後を追って飛び出した、と云うだけで充分かしらね。その行動を後であれこれ解説するのは蛇足みたいな気がするわ」
 香乃子ちゃんが納得気に一人頷くのでありました。
「ま、確かに、行動に一々妥当な説明が要るなんと云う考えは無粋ではあるか」
 横の良平も同意の頷きをするのでありました。「で、万さんはそのあゆみさんの行動を見せつけられて、一瞬で参ったと云う次第だろうな?」
「洞甲斐先生の道場にあゆみさんが現れた時、僕は先ず驚いて、それから急激にひどく嬉しくなりましたね。まさかあゆみさんが現れるとは考えもしていなかったですから」
 万太郎が少し照れながらその時の心情を吐露するのでありました。
「そりゃあ、胸がキュンとなるわよ。あゆみ先生にそんな事をされると」
 香乃子ちゃんがまた何度も頷くのでありました。
「胸が、キュンとなった?」
 香乃子ちゃんの言を受けて、あゆみが横に座る万太郎に、瞳に茶目っ気七分に真剣さ三分の光沢を湛えて訊くのでありました。
「押忍、キュンとなりました」
 万太郎は特に照れて道化る事もなくあっさりと頷くのでありました。あゆみがその万太郎の応えに満足気に笑むのでありました。

 座卓の真ん中に据えてある鉄の鋤焼き鍋から葱を摘むあゆみに、良平が日本酒の徳利を差しかけながら訊くのでありました。
「あゆみさんは万さんの事を何時頃から、そんな対象として意識していたのですか?」
 葱を自分の取り碗に移してから、あゆみは箸を置いて急いで盃を両手で取り上げて、良平の酌を受けるのでありました。
「そうね、何時頃からかしら。・・・」
 あゆみは思い返すような表情をするのでありました。これは万太郎としても確と聞き質した事がなかった事なので、興味津々にあゆみの顔を覗くのでありました。
「ごく最近の事、ですか、それともかなり以前からですか?」
「三四年前、と云った辺りかしらね。毎日の稽古でも、それに指導に関してもあたしはもう万ちゃんには、到底叶わないと兜を脱いだのがそのくらいだから」
 万太郎は心の内でほうと呟くのでありました。思い当る節はないのでありましたから。
(続)
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お前の番だ! 573 [お前の番だ! 20 創作]

「へえそうですか。先ず武道の上で兜を脱いで、それからそうなると自然に、個人としての気持ちの兜の方も脱ぐ事になったと云うわけだ。成程ねえ」
 良平としては少し気の利いた云い回しの心算でありましょうが、然して唸る程の科白とも思えなかったので、万太郎は無表情の儘で自分の猪口を口に運ぶのでありました。干した猪口に香乃子ちゃんがすぐに酒を注いでくれるのでありました。
「急に万ちゃんが頼もしく思えてきたし、この人はこの先どこまで強くなるのかしらって、一種の畏れみたいなものも感じてきたし、風格で完全に追い越されたと感じたの」
「その、畏れ入られた折野さんの方は何時からあゆみ先生の事が好きだったんですか?」
 鉄鍋から肉と葱を一緒くたに箸で摘もうとする万太郎に、香乃子ちゃんが徳利を差し向けるのでありました。万太郎は先程のあゆみと同様、摘んだ肉と葱を急ぎ自分の取り碗に移して、両手で猪口を香乃子ちゃんの前に差し上げるのでありました。
「そうねえ、・・・」
 万太郎はそう云って香乃子ちゃんに注がれた酒を一口飲んで、一拍を空けてから徐に続けるのでありました。「初めて総本部道場を訪ねた時から、と云うべきかな」
「初めて逢って、一目惚れ、と云う事ですか?」
 香乃子ちゃんが驚いた表情をして見せるのでありました。
「ま、今から思うと、と云う事かな」
 万太郎は照れて頭を掻きながら猪口を干すのでありました。
「前からそんな気配、感じていたの?」
 これは香乃子ちゃんが横の良平に訊く言葉でありました。
「そうねえ、・・・感じていたような、感じていなかったような」
 良平は顎を撫でながら曖昧な応えをするのでありました。
「どっちよ?」
「万さんの云い草じゃないけど、今から思えば、そうだったのだろうなと思うわけだ。まあ、俺もそうだったけど、姉弟子で総士先生の娘であるあゆみさんに対して、万事に頭が上がらないと云った風に見えていたんだが、俺の方はその通りだったけど、万さんの方は少し違った辺りで頭が上がらなかったと云う事になるわけだな」
「いや僕も、実際は畏れから頭が上がらなかったのが八分強、ですよ」
 万太郎が良平に至極真面目に云うのでありました。
「どうでも良いけどさ、何だか、あたしがとっても怖い人みたいじゃない」
 あゆみが万太郎と良平の云い様に不満を差し挟むのでありました。
「いや、実際のところ怖かったですよ、大袈裟でなく。なあ、万さん」
「入門当初は正真正銘に、恐ろしかったです」
 万太郎が頷くと、あゆみの指が徐に万太郎の太腿を抓るのでありました。
「あ痛! ・・・押忍、済みません」
「今でも大いに怖そうだな、万さん」
 良平が万太郎に冷やかしを投げるのでありました。
(続)
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お前の番だ! 574 [お前の番だ! 20 創作]

「習い性と云うのか、竟どうしても下手に出て仕舞うのです」
「万ちゃん、何時も云うけどさあこうなったからにはその内屹度、その態度は改めてね」
 あゆみが懇願六分に命令四分の口調で云うのでありました。
「押忍。鋭意頑張ってみます」
 万太郎は生真面目な顔つきで軽くお辞儀するのでありました。
「何か、この先もずうっと、ひょっとしたら一生、あゆみさんと万さんはこんな風な調子でいきそうな予感がするなあ、俺としては。」
 良平が苦笑しながら万太郎の決意に疑問を呈するのでありました。
「ところで多代ちゃんは、今日はどうしたの?」
 あゆみが語調を改めて香乃子ちゃんに訊くのでありました。多代ちゃん、と云うのは良平と香乃子ちゃんの娘の名前であります。
「両親が看てくれています」
「一緒に連れて来ればよかったのに」
「やんちゃで、とてもじっとしていそうもないし、あの子が傍に居たらお二人と話しも碌に出来ないと思って、今日は家であたしの両親とお留守番です」
「ふうん。でも、ご両親と一緒に暮らしていると、こういう時にちょっと便利かもね」
「そうですね。多代も滅多に怒らないお爺ちゃんとお婆ちゃんと一緒にお留守番している方が、あたし達と出かけるよりも好いみたいです」
「多代ちゃんは幾つになったんでしたっけ?」
 万太郎が良平に訊くのでありました。
「四歳。来年から幼稚園に通う予定だよ」
「へえ、早いものですね。ついこの前生まれたと思っていたけど」
「花司馬先生の処の剣士郎君が、今少年部で稽古しているんだろう?」
「ええそうです。流石に花司馬先生のお子さんだけあって、なかなか筋が良いですよ」
「小学校一年生になったすぐから稽古に来ていて、今は二年生で、なかなか頼もしくて、一年生と二年生の間でちゃんと心服を得ていて、すっかり大将格と云った感じかな」
 あゆみが続けるのでありました。
「ウチの多代にも常勝流を習わせたいけど、総本部まで通うのは大変だからなあ」
 良平がそう云って万太郎の方に徳利を向けるのでありました。
「良さんが教えれば良いじゃないですか」
「いや、どうせなら本格的な道場でやらせたいし、俺が教えるとすぐにおちゃらけて仕舞うか、如何にも面白くなさそうな仏頂面をするからなあ」
「若し事情が万端整うようなら、是非一つ、総本部道場にお預けください」
「何だか営業言葉のようだな。流石に宗家見習いだけあって商売にもそつがない」
「いやいや、鳥枝建設の腕利き幹部候補生の良さんに、冗談にもそんな事を云われると、僕としては冷や汗三斗、と云った心持ちですよ」
「そう云う云い草にしても、最近万さんもなかなか人が錬れてきたよなあ」
(続)
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お前の番だ! 575 [お前の番だ! 20 創作]

 良平がまた一献万太郎の猪口に酒を注ぐのでありました。
「しかし、実際のところ、僕如きが本当に、将来総士先生の後を継いで常勝流を束ねる役目について良いのでしょうかねえ?」
 万太郎が返杯しながら、ふとそんな事を漏らすのでありました。
「他に誰が居る?」
 そう良平に問われて、万太郎は横のあゆみを窺うような気配を見せるのでありました。しかしそれにはあゆみは気づかないようでありました。
「他にも適役が居ると思うのですがねえ」
 あゆみの名前を出すのは何となく憚られて万太郎は曖昧にそう云うのでありました。
「鳥枝先生や寄敷先生は総士先生と余り歳が違わないから、次代の宗家と云うにはどうも今一つ落ち着きが良くない。花司馬先生は興堂派から総本部に途中から移ってきた人で、総士先生に伊呂波から教えを受けたと云うわけじゃない」
 良平はそう云ってから万太郎の横に座っているあゆみの方に視線を投げるのでありました。その目にはあゆみと暗黙に、何やらを示しあわせるような気色があるように万太郎は感じるのでありましたが、しかし殊更ここで二人が示しあわせをするべき事由はなくて、つまり良平も万太郎の宗家継承を是中の是と考えている故と見るべきでありましょう。
「あたしなんかより万ちゃんが宗家を継承する方が、常勝流の門下の人達も全国の支部長さん達も、それに広く云えば武道界からも屹度妥当な線だと受け取られる筈よ」
 あゆみが卓に置いてある儘の万太郎の猪口に酒を注ぎ入れるのでありました。
「僕はあゆみさんと結婚出来るだけで充分で、実は他に何も望んでいないのですが」
「あゆみさんと結婚すると云う事は、将来宗家となって常勝流の道統を守って行くと云う条件が、どうしても付随してくる事になるだろうよ」
 良平が諭すような云い草をするのでありました。
「それは重々承知なのですが、宗家継承と云うのは、何だか僕の気持ちの中で上手く落ち着かないのです。それは如何にも大役過ぎて、僕にはどうにもそぐわないようで」
「万ちゃんの気持ちの中で落ち着かなくても、他の大多数の人の気持ちの中では落ち着くんだから、高い位置から眺めると、それは最も適切な決定と云う事になるのよ」
 あゆみがそう云いつつ自分の猪口に自分で日本酒を注ぐのでありました。あゆみへの酌のタイミングを逸した事に万太郎は少し狼狽えるのでありましたが、こう云うちっとも堂々としていない辺りが、自分は如何にも宗家の器じゃないと思えるのであります。
「今は、万ちゃんは未だあたしの弟弟子と云う了見でいるから落ち着かないだけで、その内次期宗家としての扱いを受けるようになって、時間が経てば気持ちも落ち着くわよ」
 万太郎の酌の失敗の狼狽を、あゆみが暗に庇うよう云うのでありました。
「僕が宗家になったら、何時かとんでもない失態を演じて仕舞うかも知れませんよ」
 万太郎は云いながらふと威治元宗家の事を思うのでありました。そもそもそぐわない者がそぐわない地位に就任すると、碌な事が起きないと云うものではありませんか。
「興堂流の威治宗家じゃあるまいし、万さんはそんなことは仕出かさないよ」
(続)
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お前の番だ! 576 [お前の番だ! 20 創作]

 良平が万太郎の意中を察したように威治元宗家の名前を出すのでありました。「あの人には今の万さんに有る威徳も人望も、それに武道家としての資質も何もなかったからなあ。有るとすれば、人一倍の見栄と増長と怠慢くらいだったから、それでは人が心服しないのが当たり前だ。あの人と比較するのは自己卑下にも程があると云うものだ」
「あたしもそう思うわ」
 あゆみが頷くのでありました。「威治さんと万ちゃんでは全く格が違うと思うの。二人を並べて較べるような、そんな対象ではないんじゃないかしら」
「そうですかねえ。・・・」
「そうさ。万さんはもっと自信を持つべきだ。自分の評価を高くもなく低くもなくクールに受け止められるのも、武道家としての器量だと思うぜ」
「そうですか、ねえ。・・・」
 万太郎は前言を繰り返して納得したようなしないような顔をするのでありました。
「事の序に云っとくけどさ」
 あゆみが今までとは少し声の調子を変えるのでありました。「若し万が一、万ちゃんが将来宗家をしくじったとしても、そればかりじゃなくて、予期出来ないどんなに逆風に晒されるとしても、あたしは絶対万ちゃんの傍を離れないからね」
 その言葉が終わると俄に良平と香乃子ちゃんの顔が綻び、万太郎の顔が春先の雪崩を起こしかけた山の斜面のようにデレッとやにさがるのでありました。
「あゆみ先生、ご馳走様です」
 香乃子ちゃんがやんわり揶揄しつつ一つお辞儀をして見せるのでありました。
「あら、だって本当なんだもの」
 あゆみは恬として、慎にしれっとそう返すのでありました。
「まあ、こうなった以上、やるだけやってみますよ、僕としては」
 あゆみにそこまで云わせたならば、万太郎としてはあゆみの為にも、些か優柔不断の嫌いはあるにしろ、そう決意表明するしかないと云うところでありますか。
「何だその、愚図々々した云い草は」
 良平が冗談交じりで万太郎を詰るのでありました。「あゆみさんが衒いも決まり悪気も、誰憚る事もなく、極めてあっさりと万さんへの強烈な思慕を表明したんだから、今度は万さんがそれに応えるべくドンと胸を叩いて大いに頼りになるところを見せる番だぜ」
「あら、あたし別にここで、強烈な思慕を表明しようとした心算ではないのよ」
 あゆみがはにかんでやや抗弁口調で云うのでありました。良平はそんなあゆみを、これも冗談交じりで、やれやれと云った顔つきで凝視して見せるのでありました。
「衒いと決まり悪気と誰憚らないのに加えて無自覚と云うのもつけ加えなければならないけど、まあ、取り敢えず万さん、ここは一番お前さんがドンと胸を叩いて見せる番だ」
「判りました。何が何でも僕の方こそ、あゆみさんを逆風から守って見せます」
 今度は決然とした万太郎の云い草に、良平は拍手を送るのでありました。それに和するように、香乃子ちゃんも笑いを堪えながら掌を大いに打つのでありました。
(続)
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お前の番だ! 577 [お前の番だ! 20 創作]

「あ、どうも」
 万太郎はニヤけた顔でお辞儀しながら頭を掻いて見せるのでありました。
「何だか万ちゃんの宗家継承を激励する調子から、あたしと万ちゃんに対する冷やかしに話しの中身が変わって仕舞ったんじゃない事?」
 あゆみは良平に話しの内容が急に変調した事に対して不満を述べるのでありました。
「いや、良いんですよ、本来今日はあゆみさんと万さんの冷やかしの会なんですから」
 そう云われて仕舞えば、あゆみとしても返す言葉に窮すると云うものであります。
「宗家継承の方は、まあ、あんまり鯱張らないで、淡々とやっていきますよ。考えてみれば僕はそうしか出来ないし、僕があれこれ力むと碌な事がないですからね」
 万太郎が少し真面目な顔で云うのでありました。
「そうだな。そう云う心胆が如何にも万さんらしいし、言葉に一種の安定感とリアリティーが備わっている。それにそんな了見だからこそ、万さんなりに宗家継承も上手く熟していくのだろうと思えるよ。現時点では、万さんが将来の宗家を継ぐと云うのが、様々な条件を客観的に鑑みても、一番妥当な選択と云う事が出来るしなあ」
「まあ、そうではないと云う意見も、立場が変われば多々あるでしょうが」
「そりゃあそうさ。しかし万さんが宗家を継承するまでに、未だ相当の時間がある。その間に大方を心服させれば、それで良い話しだ。万さんなら屹度出来るだろう」
「この前の理事会でも、全体として好意的に受け止められたと云う感触だったわ、万ちゃんが将来宗家を継ぐって云う事に関して」
 あゆみが言葉を挟むのでありました。「出席した理事さん達は、あたしの夫になる万ちゃんが宗家を継ぐのなら、それはそれで殊更の問題もないし、寧ろあたしなんかが将来の宗家になるより、万ちゃんの方が余程好都合だと云う雰囲気だったわよ」
「理事さん達が支持してくれたならまあ、今のところ按配や良し、と云う事だろうな」
 良平が頷きながら云うのでありました。
「まあ、要するに僕の心得次第、と云う事かも知れませんが。・・・」
「さっきも云ったように、万さんが宗家を継ぐ迄に未だ相当の時間があるんだから、その間に万さんの立派な心得を創り上げれば良いんだ。武道の稽古と一緒だ」
「あゆみさんと色んな意味で無難に一緒になれるから、取り敢えず宗家継承に頷いた、と云うのが現時点での僕の偽らざる本心なのです。実はだから、宗家継承の方は、今は未だ僕の中でリアリティーが薄弱なのですが、こんな事で良いのでしょうかね?」
「それで良し、だろうよ」
 良平があっさりと頷くのでありました。「俺達が結婚するに当たっても、当時ペーペーの内弟子だった俺には、家庭を持つだけの条件が全く整ってはいなかったけど、それでもまあ何とか、結婚は出来たし今までこうしてやってこられたわけだ。これは偏に鳥枝建設会長でもある鳥枝先生の厚意があったからだが、俺ですらそう云う助成を得る事が出来たんだから、況や万さんならもっと篤い周りからのサポートが集まるだろう筈だぜ」
 良平は自分のその言葉に自分で頷いて見せるのでありました。
(続)
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お前の番だ! 578 [お前の番だ! 20 創作]

「そう云えばその折、香乃子ちゃんからあたし相談を受けたわね」
 あゆみが懐かしむような顔つきをするのでありました。「いざとなったら自分が働いて良君との生活を守る、なんて香乃子ちゃんが健気に決意表明していたのを思い出すわ」
 香乃子ちゃんはそんな話しを出し抜けにあゆみが持ち出すものだから、何となくはにかむような笑いを両頬に広げるのでありました。
「あたしから云わせれば、あゆみ先生と折野さんの結婚も大丈夫だし、常勝流宗家継承問題も、折野さんの覚悟はこれからとしても、大方無難な辺りに落ち着くわけだから、当面は万事、目出度し目出度しって事だと思われますよ」
 香乃子ちゃんはあゆみが持ち出した話題から遠ざかるためにか、そう云ってしかつめ顔で何度も頷いて見せるのでありました。
「まあ、あゆみさんと結婚出来ると云うのが僕としては第一番目の目出度し、だけど」
 万太郎のその云い草が先程のあゆみ同様、如何にもしれっとしているものだから、それを聞く香乃子ちゃんの方が何となくモジモジと照れて仕舞うようでありました。
「この二人なら結婚しても屹度上手くいくだろうな」
 良平がそうニヤニヤ顔で、万太郎とあゆみを交互に見遣りながら結論づけるのでありました。香乃子ちゃんも二人を冷やかすような目つきで頷くのでありましたが、当の万太郎とあゆみはどこまでもしれっとした様子の儘でありましたか。

 良平と香乃子ちゃんとは九段下の駅で別れて万太郎とあゆみは酔い覚まし方々、夜風を火照った顔に気持ち良く受けながら神保町駅まで歩くのでありました。神保町駅まで歩き着くとそこからすぐに混みあった電車に乗りこむのが億劫でもあるし、もう少し二人のそぞろ歩きを楽しみたくもあるし、と云う云事でその儘以前に興堂派道場への出稽古や是路総士の用事で向かった道を逆に、御茶ノ水駅まで延長して辿り歩くのでありました。
「ねえ万ちゃん」
 あゆみが横の万太郎に話しかけるのでありました。「あたし達さあ、良君と香乃子ちゃんみたいに、この二人なればこそ、なんて云う風に見える夫婦になれるかしら?」
 あゆみが云うように確かに良平と香乃子ちゃんと云うペアは、二人並んでいると如何にもこれ以上に相応しいペアはそうは居ないのではないかと思えるくらい、初々しさも未だ残していつつ、更に何とも落ち着きを感じさせる風情が備わっているのでありました。
「そうなれるように、僕は頑張りますよ」
 万太郎は然して気負った風にでもなくそう云うのでありました。「でも頑張ったらそうなれるのかどうか、それとも何かもっと違う要因があるのかは良く判りませんが」
「要するに何年経っても、子供が出来ても、お互いを求めあう度合いが前とちっとも変わらないから、あんな風に初々しい儘なのかしらね」
「そうですね。求めあう度合いが変わらないで、その上に一定の年季と自信が加わって、それであんな感じの落ち着いた風情も醸し出しているのでしょうかね」
 万太郎は自分の人生経験に照らして、この論に確たる自信はないのでありました。
(続)
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お前の番だ! 579 [お前の番だ! 20 創作]

「万ちゃんさあ」
 あゆみが言葉を切って徐に夜空を見上げるのでありました。「婿養子になったり、稽古以外の煩わしい仕事ばかりが多い宗家なんかに将来させられたりとかするんで、本当は今、あたしと結婚するのを少し後悔しているんじゃない?」
「後悔、ですか?」
 万太郎はそう云ってあゆみの方を見るのでありました。しかしあゆみは夜空を見上げた儘で万太郎の方に顔を向けないのでありました。
 万太郎はゆっくりとあゆみから目を離して、同じように夜空を仰ぐため顎を上げるのでありました。曇り空と云うのではないけれど、多分街灯りが煌々としている所為で、漆黒の天空には星の輝きが疎らにしか見えないのでありました。
「あゆみさんと一緒になれると云うのに僕が後悔しているわけがないじゃないですか」
「でも本当のところは、万ちゃんはもっと淡泊で、シンプルな生き方を本来望んでいたんじゃないかって、あたしこの頃時々考える事があるの」
「いや、そうでもないですよ。まあ、波乱万丈とか云うのは草臥れそうで困りますが、平板でありきたりと云うだけの生き方と云うのも、何だかつまらない気がしますし」
「本当は養子になるのも、あたしに代わって常勝流の宗家になるのも万ちゃんの真意に染まない事で、あたしが勝手にそれを万ちゃんに強いている事になるのかも知れないって、そう考えるとそれが実際の在り様のような気がして仕舞うの」
「いやいや、そんな事はありません」
 万太郎は首を力強く横にふって見せるのでありましたが、未だ空を見上げている儘のあゆみの目の端にも、その万太郎の仕草が屹度映った事でありましょう。「あゆみさんと一緒になれるのなら、僕は何だって引き受けます。それに常勝流を学ぶ者として、その頂点まで極める事が出来るのならこれに勝る喜びは他にないでしょうし、それが宗家を受け継ぐと云う在り方とほぼ重なると考えるなら、こんな光栄な事はないと思っていますし」
「あたしに気を遣って、無理してそんな云い方をしているんじゃない?」
「いや、生一本にそう思っています」
 そこであゆみが万太郎の方に顔を向けるのでありました。その顔は万太郎の今の言葉への歓喜が殆ど、と云った様相ではありましたが、しかし一抹の、不安のような、疑いのような、こよなく労わられている事への一種の辟易のような、ほんの少しくすんだ翳が、窺えるか窺えないか程度に付着しているように万太郎には見えるのでありました。
 そんな顔を見せられると、万太郎としては大いに狼狽える意外にないのでありました。武道家は万事に平常心で臨むものだと云う自戒が頭の隅で閃くのでありましたが、この際そう云った無粋な筋論は一旦横に置く方が賢明と云うものでありますか。
 万太郎はちょうどそこが人気のない、御茶ノ水駅途上にある錦華公園と云う小さな空間の中だと云う好都合もあって、歩を止めてあゆみの両手を徐に取ると、あゆみの体を自分の胸に引き寄せるのでありました。あゆみは反射的に一瞬の抵抗を放射したものの、しかしそれはすぐに霧消して、素直に万太郎の胸に凭れかかるのでありました。
(続)
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お前の番だ! 580 [お前の番だ! 20 創作]

「僕の言葉を疑わないでください」
 万太郎は胸元に艶やかに蟠っているあゆみの髪の奥の耳朶に囁くのでありました。あゆみは頬を万太郎の胸に埋めた儘小さく頷くのでありました。
「判ってる。万ちゃんは言葉を弄ばない人だと云う事は」
「総本部に入門して以来、僕はあゆみさんにお世話になりっ放し今日まで来ました」
 万太郎が静かに云うとあゆみは、今度はすぐに万太郎の懐に埋めた儘の顔を微かに横にふるのでありました。「・・・でも、これからは恩返しと云うのではないですが、僕の番です。僕があゆみさんを、一生をかけて幸せにして見せます。あゆみさんと歩くこれから先の道に在る、あれこれの不可避の条件にしても、僕は誠実に果たしていくのみです」
 万太郎のその言葉が終わると、あゆみの両腕が万太郎の背に回されるのでありました。あゆみはその腕で万太郎にきつく縋りつくのでありました。
 万太郎は陶然となるのでありましたが、思えば今のこの瞬間を迎えるために自分は総本部道場に入門し、このあゆみと云う人間に出会ったのであろうと考えるのでありました。万太郎は別に観念論の信奉者でもないのでありますが、しかし殆ど諦めかけた就職活動の最後に鳥枝建設の入社試験を受けた偶然、結局鳥枝建設に職は得なかったけれど鳥枝範士に偶々履歴書を見られて興味を持たれ、それまで考えだにしなかった常勝流総本部の是路総士の内弟子となった偶然に、何やら運命的なものを感じて仕舞うのでありました。
 入門後に種々生成した出来事、興堂範士との出会い、威治前宗家の存在、それからもう大分翳んで仕舞ったけれど新木奈と云う一般門下生の存在、先程まで一緒に居た良平と香乃子ちゃん、勿論万太郎が常勝流総本部道場に入門する手懸りを作ってくれた鳥枝範士、それに寄敷範士や花司馬教士、興堂派に居た堂下や宇津利、弟内弟子の来間、書道の大岸先生、様々な人達との様々な交流にしても、それはそれで各個に煌めきや趣はあるもののしかし結局、あゆみとのこの一瞬のために在った条件とも思えるのでありました。
 総てはあゆみと今、二人きつく抱きあう瞬間のために用意された条件以外ではなかったに違いないのであります。感奮の中で万太郎はそんな事を考えるのでありましたが、まあ、この偏した大袈裟な思考も、少しの間許してやっても良いでありましょうか。
 あゆみはどのような思いを抱いて、今万太郎の懐に縋りついているのでありましょうや。それはずっと先にでも、何かの折があればちょっと訊いてみたい事ではあります。
 しかしあゆみと夫婦の道を長く歩いていれば、その内そんな事は体裁悪くて、冗談にもあっさりとは云えない事柄に属して仕舞うでありましょうし、もうすっかり忘れて仕舞うのかも知れません。まあそうなったらそれはそれで一方では結構な事でもありますか。
 万太郎はあゆみの体を自分から少し離すのでありました。それからまた引き寄せてあゆみの唇に自分の唇を重ねるのでありました。それは将来、今のこの感奮を云えられなくなるかも知れないから無言に、今の内に唇の接触を以って伝えておくためでありました。

   ***

(続)
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お前の番だ! 581 [お前の番だ! 20 創作]

 玄関先で未だ明け遣らぬ空を見上げる万太郎にあゆみが声をかけるのでありました。
「今日が愈々最終日ね」
「うん。やっと今日で終わりだ」
 万太郎は玄関内で見送るあゆみの方に目を向けて笑むのでありました。
「お疲れ様でした」
 あゆみは何となく畏まった風情でお辞儀をするのでありました。この日で竟に三か月に及ぶ是路総士と万太郎だけの、宗家のみに受け継がれる常勝流秘伝技の伝授稽古が終わるのでありましたが、これは通常の稽古が始まる前の早朝に行われるのでありました。
 この稽古を完了すると、万太郎に次期宗家の資格が付与されるのでありました。一子相伝を旨とする、如何にも古武道的な風習と云うべきでありましょうか。
 さてところで、万太郎とあゆみが結婚式を挙げて二泊三日の信州木曽路への新婚旅行
から帰って来ると、早速にこの課業が万太郎を待っているのでありました。依って万太郎としては、暫しの甘やかな新婚気分に浸っている暇等ないのでありました。
 万太郎とあゆみは総本部道場近くの六畳と四畳半二間とダイニングキッチンのついたアパートに一先ず居を構えるのでありました。万太郎としては内弟子部屋を引き払って母屋のあゆみの部屋に転がりこめば済むかと簡単に思っていたのでありましたが、それでは手狭な上に何となく是路総士や来間や、万太郎の代わりに内弟子となって入居してきた巨漢の真入増太等、居を一にすべき連中との間に無用な気遣いや遠慮が生まれるだろうとの是路総士の配慮から、新婚二名は近くのアパートを借りて新居としたのでありました。
 尤も朝から二人揃って総本部道場に行って、朝食から夕食までの間の殆どを件の三人と一緒に過ごすのでありましたから、まあ、寝所のみが別棟と云ったところでありますか。あゆみが使っていた部屋は、総本部に居る間の万太郎とあゆみ夫婦の控え部屋とされたのは、是路総士の敢えて粋と云う程でもない心配りと云うものでありましたか。
 しかし夜間にあゆみが居ないのでありますから、云ってみれば総本部はすっかりの無粋なる男所帯となるのでありました。それで、細々した女手がないと是路総士が何かと可哀想だと云うので、前よりも頻繁に近くに住む書道の大岸先生がやって来て、何くれとなく是路総士の世話や、内向きの仕事の差配をしてくれるようになるのでありました。
 真入増太が一人増えてあゆみが総本部を出た分、確かにあゆみの仕事の負担は増える筈でありましたが、大岸先生の助けを得てあゆみは大助かりと云う寸法でありました。大岸先生も自分の主催する書道教室で教える時間以外は、総本部で皆と朝昼夕の食事も一緒に摂ると云った按配で、寧ろ自宅で自分だけの餐の支度をする手間が省けて、且つ一人で膳を前にする侘しさも解消だと、寧ろこの奉仕を楽しんでいる風情でありましたか。
 依って万太郎とあゆみが二人だけで時間を過ごすのは、道場の休館日である月曜のみでありました。勿論月曜日と云えども何かと道場向きの用がある場合もありはしましたが、しかし是路総士の配慮に依って、なるべく二人には月曜日の仕事は割りふらないようにされるのでありましたし、是路総士の世話に関しても、どうせ一人自宅で過ごしていても仕方ないからと、大岸先生が敢えてと云う風もなく出張って来てくれるのでありました。
(続)
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お前の番だ! 582 [お前の番だ! 20 創作]

 その大岸先生と是路総士でありますが、この二人の取りあわせなんと云うものは、こうして一緒に過ごす時間が多くなってみると、それは長年添い慣れた夫婦の趣なんぞも、あると云えばあるような具合でありましたか。まあ、惚れた腫れたの感情は別としても、何となくお似あいの二人だと云う風情は万太郎もあゆみも感じているのでありました。
「この頃お父さんの顔がやけに柔和になったのは、屹度大岸先生にあれこれ身の回りの世話を焼いて貰っているせいかも知れないわね」
 二人のアパートに帰って来て、コーヒーを飲みながら寝る前の一時を寛いで過ごしている時に、あゆみが万太郎に云うのでありました。
「大越先生の方も嫌にいそいそと、自分じゃなければ務まらないみたいな感じで、前のあゆみなんかより余程甲斐々々しく総士先生の面倒を見ているところがあるな」
 万太郎はこの頃ようやくあゆみと敬語抜きで会話出来るようになっているのでありましたし、名前を呼び捨てにも出来るようになっているのでありました。流石は熊本の男とあゆみは妙な褒め方をするのでありましたが、万太郎としては道場での体裁もあるので、ぎごちないながらも努めてそうしていてようやく慣れたと云った按配でありますか。
「「そりゃあ、娘のあたしは時々面倒臭くて邪険にも扱うわよ」」
「あの二人、ひょっとして、ひょっとするかも知れないなあ」
「それ、二人が結婚するかも、って云う事?」
「その芽もないとは云えない」
「なかなかそこまで踏ん切りがつかないかも知れないけど、全くないとも云えないかも」
「そうなったら、実の娘たるあゆみはどんな心境かな?」
「大岸先生なら勿論大賛成よ」
 あゆみは片手を上げて人差し指と親指で丸を作って、OKのサインを万太郎に見せるのでありました。親指人差し指以外の三指が如何にもピンと天に伸びて立っている辺りに、あゆみの大乗り気が示されているように万太郎には見えるのでありました。
「まあ、今後の展開を注視、と云うところかな」
 万太郎とあゆみがそんな秘かな期待を抱いていても、そうはトントン拍子に事は進展しないもので、大岸先生と是路総士にしても、分別盛りもとうに過ぎた齢となっては、それ以上の発展は望んでいないような風情もあるのでありました。まあ、こればかりは万太郎とあゆみの統御不能の事であるのは全く以って当然であります。

 さて、是路総士に依る万太郎への秘伝伝授が完了すると、総本部の体制が一新されるのでありました。是路総士、それに鳥枝範士と寄敷範士はその儘現職に留まるのでありましたが、万太郎は範士兼総本部道場総務長及び財団常務理事となり、あゆみと花司馬教士が新たに範士及び財団の平理事に、来間が教士扱いに格上げされるのでありました。
 万太郎の総務長と云うのは是路総士が宗家になる前に就いていた職名で、将来の総士を継ぐ者としての役職呼称であります。これで次期宗家は万太郎が継ぐと云う既定路線が、内外に公言されたと云う事になるのでありました。
(続)
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お前の番だ! 583 [お前の番だ! 20 創作]

 万太郎が総務長と云う地位に就いたので、あゆみの道場長と云う役職はなくなるのでありました。依って序列としては是路総士、万太郎、その下に鳥枝範士と寄敷範士、それからあゆみと花司馬範士は同格でそのまた下、最下位に来間、新内弟子の真入増太は新入りだけに前から居る準内弟子の連中よりも格下扱いでありますし、各地に散らばる支部長連はあゆみと花司馬範士と、その下の来間との間に位置する事になるのであります。
 万太郎は常勝流武道と云う流派の第二位の序列となるのでありましたが、勿論キャリアでは鳥枝範士と寄敷範士に遠く及ばないのでありましたから、万太郎はこの二人に対して何時でも謙譲な態度であるのは前の儘でありました。ところが鳥枝範士と寄敷範士は、多分に面白がってでありましょうが、万太郎に対して遜るのでありました。
 二人は万太郎に対して、態度の方は置くとしても言葉遣いとしては敬語を用いるようになるのでありました。これには当初、万太郎の方が大いに閉口するのでありました。
「鳥枝先生に、急にそんな風な物腰をされたりするとまごついて仕舞います」
 万太郎は眉根をきつく寄せて眉尻を下げられるだけ下げて、困惑窮まった顔をして見せるのでありましたが、鳥枝範士はそんな万太郎を平然と見下ろすのでありました。
「これまた総務長先生は何をおっしゃるか。そう云う辺りでワシや寄敷さんがきっちりと弁えた態度をとらなければ、他の者に対してどんな示しがつくと云うのですかな」
「それはそうかも知れませんし、その心映えは是とさせていただきますが、しかし僕の方が返ってオロオロして仕舞うではありませんか」
「ま、早く慣れていただくしかありませんな」
「当分の間はこれまで通り、と云うわけにはいきませんでしょうか?」
「全くいきませんな」
 鳥枝範士は鮸膠もないのでありました。寄敷範士の方にしても、万太郎の切なる懇願に対して首を縦にふる気配すら示さないのでありました。
「総務長先生は、この頃ようやく旦那として、あゆみに対して対等のもの云いをされるようになりましたが、その踏ん切りをこの寄敷と鳥枝に対してもお示しください」
 寄敷範士はそう云って、万太郎が余計困じるのを面白がるように笑うのでありました。この重鎮二人は共に、全く以って食えないのでありました。
 秘かに繰り言しても、あゆみも花司馬範士も万太郎の困惑を呑気に面白がるのみでありましたし、是路総士もそんな些事には一切無関心と云った風情でありました。それに来間も真入も他の準内弟子連中も、それは将来の宗家たる万太郎に謹恪な態度で接してはいるものの、内心は大いに万太郎の渋面を面白がっているに違いないのであります。
 万太郎がどんな窮地に在っても優しく寄り添ってくれる筈だった愛妻のあゆみを筆頭に、周りの連中悉くが、万太郎のこの窮状に対して慎につれない態度でありました。万太郎は孤立無援に、この尻の穴の周辺がムズムズするような落ち着きの悪い状況を、慣れるまでの暫くの間、仏頂面で耐え忍ばなければならない羽目に陥るのでありましたが、花司馬範士の一人息子たる少年部の剣士郎君だけは、前と変わらず万太郎に対して馴れ々々しく接してくれるのは、まあ、唯一の救いと云えばそう云えなくもないのでありましたか。
(続)
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