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お前の番だ! 533 [お前の番だ! 18 創作]

 ダブルの白背広は一定距離玄関引き戸から離れてから、四つ這いの無様な格好の儘で恐る恐るそちらの方に首を捻じるのでありました。その動きに釣られるように万太郎も、はてこのタイミングで一体誰が戸を開けたのかと、そちらを見るのでありました。
 煩いと隣家が苦情を云い立てに来たのかとも考えるのでありましたが、それにしては来るのが時間間隔としてちと早過ぎるような気もするのでありまず。何より中から殺気立った気配が玄関先にまで漏れているだろうから、怒った隣家だろうが洗濯屋か酒屋のご用聞きだろうが、偶々通りかかった訪問のセールスマンだろうが回覧板を持ってきた町内の役員だろうが、そんな物騒な場に敢えてのこのこ顔出しするとも思えないのであります。
 開いた引き戸から玄関の内に、やや警戒気味に入り来る女の姿があるのでありました。それはあゆみの姿であると万太郎はすぐに気づくのでありましたが、同時に何故あゆみがここに現れたのかと云う疑問がすぐに脳裏に湧き上がるのでありました。
 あゆみは目のすぐ先で畳に這い蹲る男を、奇妙な物でも見るような目つきで見るのでありました。男と目線が一致すると、ビクッと小さく戦くのでありました。
「・・・ああどうも、いらっしゃいませ」
 這い蹲った儘であゆみと目があったダブルの白背広が、律義にと云うか何と云うのか、如何にも状況にそぐわない呑気な声であゆみに挨拶を云うのでありました。
「お、お邪魔します。・・・」
 あゆみも警戒感たっぷりの表情ながら、何となく間の抜けた小声でそんな言葉を返して、首をひょいと前に出して軽いお辞儀なんぞをして見せるのでありました。
「今、少々取りこんでおりますので、ご用でしたら出直していただけますかねえ」
 男があゆみをやんわり追い返そうとするのでありました。
「あゆみさん!」
 万太郎が声を出すのでありました。その声にあゆみが、このえも云えぬ、妙に決まりの悪い状況から解放されて、安堵したような表情を万太郎に送ってくるのでありました。
 同時に、ダブルの白背広が万太郎に先程の怖気たっぷりの表情を急ぎ向けて、道場の隅の方に這った儘そそくさと退散するのでありました。まるで早足の亀であります。
「あゆみさん、どうしてここに?」
 万太郎は首を傾げるのでありました。
「万ちゃんが心配だったからじゃない!」
 あゆみはそう云って遠慮なく気忙し気に道場に上がって来るのでありました。
「あゆいさんは総本部の稽古があるんじゃなかったですかね?」
「心配で、心配で、稽古している場合じゃないから、抜け出してきたのよ」
 あゆみは万太郎に駆け寄ると、万太郎の胸に掌を当てるのでありました。
「怪我なんかしていないわよね?」
「別に大丈夫です。しかし僕は大丈夫なのですが、・・・」
 万太郎はそう云いながら前の畳に頽れている偉丈夫二人を見下ろすのでありました。
「万ちゃんが、したの?」
(続)
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お前の番だ! 534 [お前の番だ! 18 創作]

「ま、行きがかり上、止むを得ず」
 万太郎はそう云うのでありましたが、見方に依っては、自分の方がこうなるべく先に仕かけたとも云えるであろうと頭の隅で考えるのでありました。
「でも、本当に、万ちゃんには怪我はないのね?」
 あゆみは、そんなものはこの際どうでも良い、と云った具合に畳の偉丈夫達からはあっさり目を逸らして、ごく間近に顔を近づけながら万太郎を覗き見るのでありました。
「はい。大丈夫です」
 万太郎はいやに接近しているあゆみの顔にどぎまぎとして、少し身を反らして自分の息がかからない距離を保とうとするのでありました。
「ああ、・・・良かったわ」
 あゆみは安堵の溜息に乗せてそう云って、思わず、と云った具合に万太郎の胸に頬を埋めるのでありました。万太郎は反射的にそのあゆみの肩に両の掌を添えるのでありましたが、まさかここでこんな風にあゆみが自分に撓垂れかかってくるとは思いもしなかったので、大いにたじろいで、その肩に置いた指が総て棒のように硬直するのでありました。
 指の硬直は、瞬く間に万太郎の全身に及ぶのでありました。万太郎は息が出来ない、或いは、息をするのを忘れるのでありましたし、心臓がやけに速く高らかに鼓動し始めて、呼吸を失って固まって仕舞った全身がそれに連れて微振動するようでありました。
 暫くして、あゆみが万太郎の胸から頬を急に離すのでありました。それはその姿勢で前を見たら、そこに及び腰に二人に視線を送る威治前宗家の姿があったからでありました。
「あら、威治さん」
 あゆみは万太郎から身を離しながら、前方の威治前宗家に向かって頓狂な声をかけるのでありました。今ようやく威治前宗家の存在に気がついた、と云った感じでありましたし、威治前宗家がそこにいる事が慎に意外であるような云い草でありました。
 あゆみはすぐに、万太郎の無事を安堵しているだけの場合ではないと、状況に思い到るのでありました。あゆみは万太郎の方にまた顔を向けるのでありました。
「で、話しの首尾はどうなったの?」
「はい。若先生も看板から、常勝流、の文字を外す事をご了解してくださいました」
 万太郎はようやくリラックス出来て、緊張も緩んで再び血の巡り始めた口角の動きも復調して、滑らかなような滑らかでないような口ぶりでそう告げながら、威治前宗家の方を見遣るのでありました。万太郎に見られた威治前宗家の方は、また急に緊張の面持ちに復して、万太郎に向かって同意を表すべく小さく頷いて見せるのでありました。
「そこの洞甲斐先生にも、ご納得いただけたようです」
 万太郎は、今度は洞甲斐氏の方に視線を移すのでありました。万太郎に倣ってあゆみも洞甲斐氏の方に目を動かすのでありました。
 洞甲斐氏は無表情に居竦んだ儘、頷く事を忘れているような按配でありました。
「そうですよね、洞甲斐先生?」
 万太郎は洞甲斐氏の方に一歩近づくのでありました。
(続)
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お前の番だ! 535 [お前の番だ! 18 創作]

 万太郎の動く気配を察知して、洞甲斐氏は万太郎の方に顔を向けるのでありました。その上何を勘違いしたのか、急に表情を恐怖に引き攣らせるのでありました。
 万太郎がもう一歩足を進めて洞甲斐氏の方に手を伸ばすと、どうしたものか洞甲斐氏はへなへなとその場に頽れるのでありました。何やら元祖の洞甲斐氏に向かって万太郎が瞬間活殺法を仕かけたような具合であると、万太郎は秘かに苦笑うのでありました。
「若先生」
 万太郎はその場でもう一度、威治前宗家の方に視線を移すのでありました。「まあ、洞甲斐先生も座られた事だし、我々も座って話しをしましょう」
 威治前宗家は洞甲斐氏を一瞥して舌打ちしながら、そのだらしなくへたりこんだような座り姿から目を背けるのでありました。それから万太郎には視線を向けない儘、元の神棚下の壁を後ろにした位置にゆっくりと胡坐に座るのでありました。

 万太郎は威治前宗家の後に再び、元の辺りに正坐するのでありました。しかし座布団は外して、それをやや後ろにいるあゆみに譲るのでありましたが、これはあゆみの衣服が埃まみれにならないようにと云う万太郎の配慮からでありました。
 あゆみは万太郎のすぐ後ろに、その座布団を下に敷いて矢張り正坐するのでありました。あゆみが座ったのを見て、洞甲斐氏がもの憂気に居住まいを正すのでありました。
 普段着と亀男のダブルの白背広は万太郎には近づきたくないのか、横手の道場隅の、一団とは離れた辺りに慎ましやかに肩を寄せて着座するのでありました。未だ肘を抑えた儘のずんぐりむっくりと、ようやく強打した背中の痛みから少しは回復したノッポのしくじり兄弟も、普段着とダブルの白背広の後を追って道場隅に離れるのでありました。
 万太郎とやや後ろのあゆみ、それに威治前宗家と洞甲斐氏が対座する格好になるのでありました。あゆみの正坐した片膝が万太郎の外踝に触れているのでありましたが、あゆみはそれを離そうともしないのでありましたし万太郎も敢えて避けないのでありました。
 威治前宗家の座り様と云ったら、万太郎に綺麗に正対する事なく、如何にも斜に構えた横着なものでありましたか。今の今見せつけられた万太郎の圧倒的な武技の実力に対する引け目と畏れをひた隠して、何があったとしても絶対に手放す事が出来ない自尊心から、万太郎をあくまでも格下として扱おうと云う苦しい了見が、ありありとその両肩辺りに煙っているのでありましたが、この虚勢はもう既に破綻していると云うものであります。
「若先生、では看板から、常勝流、の文字を外す事は改めてよろしくお願い致します」
 万太郎は一悶着ある前の威治前宗家の言質を再確認するのでありました。
「判ったよ。お前もしつこいな」
 威治前宗家は無愛想に云うのでありましたが、万太郎を見ないのでありました。
「しつこく云っておかないと、またぞろ無責任な事をされる恐れがありますのでね」
 万太郎は言葉にやや揶揄を籠めるのでありましたが、威治前宗家はその万太郎の棘を強いて見ないふりに努めるのでありました。
「洞甲斐先生も、お願いしますよ」
(続)
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お前の番だ! 536 [お前の番だ! 18 創作]

 万太郎は洞甲斐氏の方に視線を移すのでありましたが、洞甲斐氏は眉間に皺を集めて万太郎を虚ろに見るのみで、返事の言葉を発しないのでありました。その代わりに何度か頭を弱々しく縦に揺らして見せて、無精に了解の意を伝えるのでありました。
「それからこれは、若先生に云っておきます」
 万太郎は威治前宗家にまた目を戻すのでありました。「好い加減に迂路ばかりを歩かないで正道に足を踏み入れては如何ですか。つまらない意地がそれを邪魔しているのならそんなものは綺麗さっぱりと棄ててください。それが道分先生の継承者としての心胆と云うものじゃないでしょうかね。これは僕如きが云うのではなく総士先生のお気持ちです」
 万太郎がそう云うと、すぐ後ろのあゆみが頷く気配が伝わってくるのでありました。
「大きなお世話だ」
 威治前宗家は小馬鹿回しの笑みを片頬に浮かべるのでありました。端から万太郎の言葉なんぞ聞く意思がないと云う表明でありましょう。
「ご自身でも、この儘じゃいけないと云う思いがおありなのではないですか?」
 万太郎は心服の件があるものだから、威治前宗家のこの突慳貪の無愛想にめげるわけにはいかないのでありました。「総士先生は、歳から考えても、ここら辺が若先生の武道家としての先途であろう、と云うような事をおっしゃっておられます」
「俺が俺の何をどうしようと、俺の勝手だ。人様にあれこれ云われる筋あいはない」
「そう云うお言葉は、事ここに到ってみれば既に破綻しているのではないですか?」
 威治前宗家はこの万太郎の問いかけに憮然たる表情をして、あくまでもソッポを向いた儘でありました。何が何でも万太郎の意見等は聞かない心算なのでありましょうし、そうする事でしか自分の格を辛うじて保つ事が出来ないのでありましょう。
 こうなればここで何を云ったとしても無駄でありましょう。寧ろこちらが言葉を重ねれば重ねるだけ、威治前宗家の心は依怙地の穴倉に蹲るだけでありましょうから。
「判りました。最後に総士先生のお気持ちを一言お話ししてから、きっぱり口を噤む事にします。これは総士先生の若先生に対するご伝言でもありますから」
 万太郎はそう云って威儀を正すのでありました。「総士先生は、若し本気になって道分先生の技の継承者となる事を願うのなら、見栄や体裁や血統書や今まで締めていた黒帯なんかを綺麗さっぱり棄てて、白帯を締めて総本部に稽古に来い、とおっしゃっておられました。そのお覚悟があるのなら、総士先生は何時でも若先生を歓迎されると云う事です。要は、総士先生はこの先も、決して若先生をお見捨てにはならないと云うお心算です」
 万太郎の後ろで、またあゆみが頷く気配が伝わってくるのでありました。あゆみも一直線に、威治前宗家の顔を真剣な眼差しで見つめているのでありましょう。
 威治前宗家はと云えば、意外にもその万太郎の言葉にすぐにムキになって抗弁を捲し立てると云う事はなく、仏頂面はその儘であるものの、ほんの少しだけ苦しそうに表情を変えるのでありました。僅か程度は心の深い辺りに言葉が浸みたのでありましょうか。
「ではこれで、僕は失礼します」
 万太郎は威治前宗家に向かって綺麗な座礼をするのでありました。
(続)
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お前の番だ! 537 [お前の番だ! 18 創作]

「洞甲斐先生にもお暇を請います」
 万太郎が洞甲斐氏の方へ視線を向けると、洞甲斐氏は未だ虚けたような顔で万太郎の暇乞いの言葉が耳に入らないような気配でありましたが、甥のしくじり兄弟が万太郎に手酷く完膚なきまでにあしらわれて仕舞った事が余程ショックだったのでありましょうか。それとも万太郎の窺い知れない辺りで何やら強い動揺を覚えているのでありましょうか。
 例えば先程のすったもんだで廃屋に近いこの道場兼住居が、近い将来に呆気なく倒壊して仕舞わないかと大いに心配で何も手につかないとか、頼りとなる筈の威治前宗家が全く頼みに出来ない事が知れて、二人で新しく立ち上げた会派の先行きと自分の口過ぎの道に云い知れぬ不安が生じた故とか、或いは自分の生涯をかけて磨いてきた(!)瞬間活殺法が、万太郎には全く通用しないに違いないと判って強烈な無常観に苛まれて仕舞ったとか。まあ、万太郎にとってはそんな洞甲斐氏の心の内等は関知の外ではありますが。
「洞甲斐先生!」
 万太郎は虚ろに視線を内向させている洞甲斐氏に喝を入れるように、その名をきっぱりとした声で呼ぶのでありました。すると洞甲斐氏はビクンと一度体を震わせてから、ようやく意志の戻った目に返って万太郎を見るのでありました。
「ああ、これはどうも。・・・お、お構いもしませんで」
 洞甲斐氏は妙に弱々し気な様子で万太郎にお辞儀をするのでありました。何も今更、お構いもしませんで、はなかろうと万太郎は苦笑するのでありましたが、そう返事するとこを見ると、万太郎の暇乞いの言葉はちゃんと耳に入っていたようであります。
「また何かありましたら、僕は遠慮なく何度でも推参いたしますからね。どうも今次はお騒がせしました。先生の新しい会派のご盛況をお祈りしておきます」
「ご丁寧に、恐れ入ります」
 洞甲斐氏はまるでその場に頽れるような風に、もう一度万太郎に向かって様の良くないお辞儀をして見せるのでありました。頼むからもう二度とここには来ないでくれと云う厭色が、その垂れた首筋辺りから濃厚に滲み出しているのでありました。
「ではあゆみさん、帰りましょう」
 万太郎は後ろをふり返って云うのでありました。あゆみは万太郎の目を見ながらこっくりを返して、万太郎よりも先に立つのでありました。
 万太郎が立っても威治前宗家は座ってそっぽを向いた儘でありましたが、洞甲斐氏は礼儀からか、それとも万太郎にまたもや態度についてケチをつけられるのは叶わないと思ったからなのか、一応送往のために一緒に立ち上がるのでありました。
「お見送りは結構です」
 万太郎は洞甲斐氏に片掌を突き出して見せるのでありました。その後の万太郎のもう一度のお辞儀に、洞甲斐氏は力なく頭を下げて答礼するのでありました。
 玄関まで歩きながら万太郎は横手の壁際に居る普段着とダブルの白背広と、しくじり兄弟の方を横目に見るのでありました。普段着とダブルの白背広は万太郎の視線に気づいて、諂うような笑いを送りながらヒョイと頭だけ下げて見せるのでありました。
(続)
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お前の番だ! 538 [お前の番だ! 18 創作]

 しくじり兄弟はと云えば、二人身を寄せて居住まい悪く座った儘、項垂れて万太郎と目をあわせないのでありました。二人共意趣返しを試みるには相手が強過ぎると辟易しているようでもあるし、仕返しに及ぶ前にずんぐりむっくりの肘は未だ十全に機能を果たさないだろうし、ノッポの方も受け身を取れずに強打した背中の具合が未だすっかり回復してはいないだろうから、この期は涙を飲むと云ったところなのかも知れません。
 何れにせよ万太郎は壁際の四人にも、目礼を送るのでありました。普段着とダブルの白背広が万太郎の背後に向かって再度、先程と同じようにヒョイと頭を下げてお辞儀するのは、すぐ後ろを歩くあゆみも万太郎に倣って小さく会釈をしたからでありましょう。

 二人並んで西八王子駅まで歩く道すがら、あゆみは恥じたり躊躇ったりするところもなく、万太郎の腕に自分の腕を巻きつけてピタリと身を寄せているのでありました。何はともあれ無事に役目を果たした万太郎を、それはそれはいとおしく思っての事であろうけれど、それにしてもこれは何とも万太郎としては意外であり照れ臭いのでありました。
 だからと云ってつれなくふり解くわけにもいかず、万太郎は閉口するのでありましたが、しかしまあ、決して悪い気分等では勿論ないのでありました。寧ろ寄り添うあゆみの体温を二の腕に感じて、陶然となっていると云うくらいなものであります。
「あたしさあ、本当に心配していたんだからね」
 あゆみが歩きながら万太郎の耳元で云うのでありました。あゆみは万太郎の歩調に自分の足の運びをあわせようとし、万太郎は万太郎であゆみの足取りに添おうとするものだから、いきおい二人の歩行速度は非常にゆっくりとしたものになるのでありました。
「それはどうも、あれこれお気を遣わせて仕舞って申しわけなかったです」
 万太郎はデレデレとしたもの云いにならないように気をつけるのでありましたが、屹度デレデレとしたもの云いであったろうと、云った後に思うのでありました。
「本当に、本当に、心配だったんだからね」
 あゆみがもう一度念を押すように云うのでありました。「万ちゃんの事だから大丈夫だとは思っているんだけど、でも、若し何か変な風に事が動いて、万ちゃんの身に何か起こったらどうしようって、本当に、本当に、気が気でなかったんだから」
 万太郎はそう云うあゆみの間近にある顔を目を流して見るのでありました。見返すあゆみの目が潤んでいて、それは涙を溜めているように見えない事もないのでありました。
「なあに、あの連中が相手ですから、そう滅多な事は起こりませんよ」
「それはそうだろう判っているんだけど、それでも、・・・」
 あゆみは万太郎の肩に頭を寄せるのでありました。あゆみの髪の匂いが万太郎の鼻腔に纏わりついてきて、そのせいで歩調が余計ぎごちなくなって仕舞うのでありました。
「あゆみさんにこうもくっつかれると、照れ臭くて、何か、歩きにくいですね」
 万太郎があゆみに抱かれていない方の腕を上げて頭を掻くと、あゆみは頭を肩先から離して、興醒めたように万太郎を見るのでありました。しかしその後万太郎を余計たじろがせるように、前よりももっと万太郎に自分の身を密着させてくるのでありました。
(続)
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お前の番だ! 539 [お前の番だ! 18 創作]

 昨日までは思いも依らなかったあゆみの万太郎に対する態度のこの劇的な変化は、一体どうした按配なのでありましょうや。あゆみが万太郎にこうして体裁も何も気にもせずに、まるで大事なものを手放すまいとする子供のように縋りついている様と云うのは、勿論心は歓喜の側に大方は在るのではありますが、万太郎としてはまるで狐に摘まれたようなもので、全く以って居心地の悪い状態と云えなくもないものではありましたか。
「あたしがこうしているの、万ちゃんは嫌?」
 万太郎の居心地悪さが飽和状態になっているのがその腕を通して判るものだから、あゆみは万太郎の顔を窺いながら訊くのでありました。
「いや、決して嫌と云うのではなくて、実は寧ろ大いに嬉しいのですが、・・・」
 万太郎はまたもう一方の腕を上げて頭を掻くのでありました。「何と云うのか、その、あゆみさんにこんな風にして貰っていて良いのかしらと云う、畏れと云うのか、勿体なさと云うのか、何だかよく判らないのですが、そんな気持ちも、勿論夢見心地が大部分なのですが、それとない交ぜになって、竟、体が強張って仕舞うのです」
 こんな返答で、自分の緊張がどういう具合に起っているのかがあゆみにちゃんと伝わるだろうかと、万太郎は云い終えてから熱っぽい頭の中で考えるのでありました。
「あたしだって、洞甲斐先生の道場を出る迄は、自分が万ちゃんにこんな事をするなんて思ってもみなかったわ。でも、万ちゃんの横を歩いていたら、今こそ万ちゃんの腕に縋りつかなきゃって、急に思って、どうしても抑え切れなくなって、自分でも驚くくらい大胆に、でも結構自然に、こういう風にしちゃったのよ。それでも、して良かったって思うわ。あたしは今、自分がすごく、大袈裟に云えば解放されたような気分になの」
 あゆみの見つめる目が先程よりももっと潤んでいるように万太郎は感じるのでありました。その目に依って万太郎の感奮は限度を益々越えに越えるのでありましたが、この心の状態を至福と呼ぶのであろうと思って、頭に血が尚更昇るだけ昇るのでありました。
「竟さっきまでは万ちゃんの事を考えると、切なくはなるけど、でもそれはあくまでも気持ちの中から外に出なかったのよ。でも、もう一杯々々だったのね。で、堰が切れたの。あたしの手が勝手に、大した勇気も要らずに、万ちゃんの腕に縋りついていったの」
 万太郎の腕を掻き抱く手に、あゆみは更に力を籠めるのでありましたが、至福がもう一丁、先の至福を超えるような心持ちにさせられて、万太郎の心は蕩けるのでありました。こんな折にあのノッポに攻撃されたら万太郎は屹度不覚を取ったでありましょう。
 万太郎の、茹で上げられた蛸のようになった脳ミソは、湯気を発して言葉なるものをすっかり喪失しているのでありました。だから言葉の代わりに当然、行為で以ってあゆみの気持ちに応答を示さなければならないのであります。
 万太郎はあゆみの掻き抱く手からそっと自分の腕を外して、その腕をあゆみの肩に回してあゆみを引き寄せるのでありました。引き寄せられたあゆみは万太郎が何をするのか確認するため一拍の間を置いて、安心してまた万太郎にしな垂れかかるのでありました。
 あゆみの手が今度は万太郎の腰に回されるのでありました。その指は矢張り万太郎を手放すまいと、万太郎の衣服をきっぱりとした力で掴んでいるのでありました。
(続)
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お前の番だ! 540 [お前の番だ! 18 創作]

 しかし単にあゆみの肩を抱くくらいではあゆみの気持ちに対する応答としては不充分ではないかと、茹で上がった蛸が妙な心配をふと発するのでありました。武道家たる者、相手に不覚にも先を許して仕舞った場合には、先ず以って相手の及びくる先の勢いを無効化すべく動かなければならないのが体術の攻防の根本であろうと、茹で上がった蛸はこれまたわけの判らない現状とは全く無関係な思念なんぞを引っ張り出すのでありました。
 で、万太郎は茹で蛸の指令に依り不意に歩行を止めるのでありました。体を寄せあって歩いていた万太郎が俄に足の動きを止めたものだから、あゆみはニュートンの第一法則上、一歩万太郎の先に足を運ぼうとしてその動きを阻まれ、その後少しつんのめるように停止して、一体どうしたのかと云う顔で万太郎の方に体ごと正対するのでありました。
 ここが武道家折野万太郎の狙い目であると、実のところはそんな明確な目論見は特段なかったのでありましたが、すぐ目の前で正対したあゆみのもう一方の肩に万太郎はもう片方の手を躊躇う事なく、自然に、添えるのでありました。それから両手であゆみの体を自分にゆっくりと、しかし断固とした力で引き寄せるのでありました。
 武道家是路あゆみとしてもすぐに万太郎の意図を察知して、万太郎の動きに手向かいする気もあらばこそ、こちらもこれまた自然に、何の抵抗もなく掻き抱かれるのでありました。疎らな住宅街の人気のない道の傍らで、身を寄せあう二つの影が後方から射す斜陽に射られて、長い濃い翳を道の前方に何処までも長く伸ばしているのでありました。

 総本部では洞甲斐氏の道場に出かけた万太郎の首尾を聞くために、是路総士が師範控えの間で待っているのでありました。そこには花司馬教士も同席するのでありました。
「随分遅かったなあ。花司馬君共々、待ち草臥れたぞ」
 是路総士が、卓前で一礼してから帰還の挨拶をする万太郎に云うのでありました。万太郎の隣に正坐しているあゆみも、万太郎と一緒にお辞儀をするのでありました。
「ええまあ、色々、ありまして。・・・」
 万太郎は心持ちしどろもどろに返すのでありました。
「向こうで、何か予想していない小難しい事でも出来したか?」
「まあ、多少ない事もなかったですが、概ねすんなりと話しは通じて参りました」
「威治君や洞甲斐さんは色々難色を示さなかったか?」
「常勝流、と云う名前に然程の拘りがあるような風でもありませんでした。新会派を立ち上げた興奮と勢いから、竟うっかり、常勝流、と云う名称を使って仕舞ったと云った感じでしたか。特に悪気はないようだし、強く執着してもおられませんでしたね」
「道分先生のご遺志を継ぐ覚悟の意味で、とかなんとか、あの二人の事だから、そんな都合の良い弁解なんかをうじうじと云い立てませんでしたか?」
 花司馬教士が横から訊くのでありました。
「まあ、話しの中でそんな言葉も確かに出ましたが、しかし思ったよりあっさりと、こちらの云うところを受け入れていただけました。若先生は、常勝流、の名称の無断使用には問題があると云うところは、どうやら端から判っていらした様子でした」
(続)
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お前の番だ! 541 [お前の番だ! 19 創作]

「物事を甘く考えているから、判っていてもそれでも無軌道をやらかして仕舞うところが、威治の度し難いところでもありますがね」
 花司馬教士が顰め面をして見せるのでありました。
「では、事の首尾を始めから順を追って細かく聞くとしたいが、その前に、あゆみ」
 是路総士は万太郎の横に畏まるあゆみに怖い目を向けるのでありました。「お前に云っておきたい事があるし、その事に申し開きがあるのなら、それも聞きたい」
 あゆみは思わず瞑目して首を竦めるのでありました。
「勝手に稽古を抜けて、申しわけありませんでした」
 あゆみは是路総士が云う前に、そう云って低頭するのでありました。
「お前が勝手な事をするものだから、花司馬君が迷惑を蒙った」
「花司馬先生、申しわけありませんでした」
 あゆみは花司馬教士の方に体ごと向いて、最敬礼に近いお辞儀をするのでありました。
「いやまあ、迷惑と云う程ではありませんでしたが」
 花司馬教士は笑って、あゆみの方に掌をひらひらと横に何度かふるのでありました。「どうせ夕方家に帰ってもやる事もありませんから、今日は最後の稽古まで補助として道場に居る心算でおりましたし、それが中心指導に変わっただけです」
「花司馬君はこう云ってくれているが、お前のやったその事には大いに問題がある。お前は無断で仕事放棄したようなものだからな」
 是路総士はあゆみへの糾弾を緩める気配を見せないのでありました。
「総士先生、私には予め中心指導を代わってくれと云う申し入れはありました。それで先に云ったような理由から、私はそれを気安く請け負ったと云う次第です」
 花司馬教士はあゆみを庇うのでありました。
「しかし私には何の断りもなく、フラッといなくなって仕舞った」
「そりゃあ、総士先生に云うには億劫な理由が、あゆみ先生におありだったのでしょう」
「その億劫な理由とは何だ、あゆみ?」
 是路総士はあゆみを睨むのでありました。
「ああいや、億劫な理由があったのだろうと云うのは、私の推測です。ただ心急いていて、総士先生にお話しする暇がなかった、と云う事かも知れませんし」
 立つ瀬もなく、消えてなくなりそうな風情で項垂れているあゆみを見兼ねて、花司馬教士は慌ててそう言葉をつけ足して見せるのでありました。
「では、何ゆえにそんなに心急きだったんだ、あゆみ?」
 是路総士は難詰の言葉を変更するのでありました。
「それはもう、折野先生の事が心配で堪らなかったと云う事でしょう。・・・ああいや、心配で堪らなかったのかも知れないと云う、これも私の想像ですけれど」
 花司馬教士はあゆみに成り変わって弁明をするのでありましたが、ちっともきっぱりしていないし、何より、云い様が妙に下手クソであると万太郎は思うのでありました。どだい云いわけなんぞと云うのは、花司馬教士には向かない仕業なのでありましょう。
(続)
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お前の番だ! 542 [お前の番だ! 19 創作]

 万太郎があゆみと花司馬教士のその折の遣り取りを推察するに、万太郎の後を追って八王子に行くので、この後の中心指導を代わってくれとあゆみに懇願されて、あゆみの何やら思いつめた表情も一緒に勘案しながら、花司馬教士は、ははあ、とすぐに大方を呑みこんだのでありましょう。で、あゆみの心意気とその切羽つまり具合に感じ入って、自分の胸をドンと一つ叩いて、おいそれとその懇願を受け入れたと云うわけでありますか。
 花司馬教士にしては、なかなかに粋な計らいというところであります。依って、あゆみの心根を是としたい思いから、あゆみに成り変わって、まあ、それ程上手でもないながらここであれこれ弁明をしてくれていると云う次第なのでありましょうか。
「折野の事が心配で堪らなかったのか、あゆみ?」
 是路総士の難詰口調が困惑のためやや緩むのでありました。あゆみの方はと云えば、そう直截に聞かれると返答に困るのか俯いて縦にも横にも首をふらないのでありました。
「あゆみ先生の今回の行動については、行きがかり上、私にも一責があります」
 花司馬教士はそう云って立ち上がると、あゆみの座っている横に決然と移動して是路総士に向かって正坐するのでありました。「総士先生、どうかこの花司馬も共に謝りますので、今次に限っては、どうぞあゆみ先生の行動を曲げてお見逃しになってください」
 花司馬教士は先程のあゆみと同じように最敬礼に近いお辞儀をするのでありました。横のあゆみも、ほんの少し遅れて額を畳につけるのでありました。
 横手に並ぶ二人がお辞儀していると云うのに自分だけ上体を起こしているのも、体裁上釣りあいが悪いような心持ちがするものだから、万太郎も何となくお辞儀の姿勢になるのでありました。その儘横目であゆみを窺うとあゆみは万太郎の方に少しだけ顔を向けて、今是路総士に怒られている点には直接には無関係な万太郎が一緒に頭を下げるのを可笑しく思うのか、はたまた共犯者同士で秘かに交わすタイプの笑みの心算なのか、それは判然としないながらも兎に角、なかなかに可憐な含み笑いを送ってくるのでありました。
 こんな笑顔を見せられたら、万太郎としても不謹慎ながら竟笑い返して仕舞うのは、これはもう仕方ないと云うものであります。しかし万太郎の口の端が笑いに動いたその刹那是路総士の咳払いが聞こえてきたものだから、万太郎とあゆみは見交わしていた互いの視線を慌てて外して、如何にも謹慎なお辞儀の態に急ぎ復帰するのでありました。
「花司馬君まで一緒になってそう云う真似をされると、どうも小言が云いづらい」
 是路総士はもう一度、軽く握った拳で口を隠して咳払いをするのでありました。「それではあゆみへの叱責は、花司馬君が居ない時を見計らって、改めてする事としようか」
 この是路総士の言に依り三人は頬の筋肉を緩めるのでありました。それから微妙な時間差で万太郎、花司馬教士、あゆみの順でやおら曲げていた腰を延ばすのでありました。
「それで、その、・・・威治君と洞甲斐さんが道場の看板から、常勝流、の冠を外したとして、その事はその後にどうやって検証するのかな?」
 是路総士は万太郎の方に顔を向けて訊くのでありました。
「近い内に予告なく確かめに来るからと、そう云っておきました。まあ、常勝流、の文字を外すのは、恐らく間違いなく実行していただけるだろうと思います」
(続)
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お前の番だ! 543 [お前の番だ! 19 創作]

 万太郎が応えると是路総士は二度程頷くのでありました。
「話しは戻るが、お前が訊ねた当初、向こうはどんな感じで迎えたのかな?」
「予め要件を電話しておいたからでしょうが、洞甲斐先生が応対に出てこられて、道場に上がると若先生が道場正面に怖い顔をして座っていらっしゃいました」
「威治君と洞甲斐氏で折角新会派を立ち上げたと云うのに、その直後にお前が私の差し金で、あれこれちょっかいを出しに来たと思ったのだろうなあ」
「ええまあ、概ねそんな感じでしたか」
 万太郎はこの後順を追って向こうでの出来事を、なるべく細かく是路総士に報告するのでありました。是路総士は淡々と、ほぼ無表情でその話しを聞くのでありました。
「ほう、矢張り居ましたか、洞甲斐さんの甥っ子の兄弟が」
 これは普段着とダブルの白背広、それにしくじり兄弟が奥から登場した時の様子を話している時に、花司馬教士が云った科白でありました。花司馬教士は段々と話しが面白くなってきたと云った顔をして、万太郎の次の言葉を待つのでありました
「向こうも名乗らなかったし、敢えて訊きませんでしたから、名前は判りません」
「太っている方が前に相撲をやっていた兄で、背の高い方がプロレス上がりの弟ですね。名前の方は今だに、私も知りませんがね」
 花司馬教士が教えてくれるのでありましたが、万太郎はここでようやくあの二人の兄弟の順を知るのでありました。ずんぐりむっくりの方が童顔でノッポの方が老けた顔立ちであったから、万太郎は逆だと今まで考えていたのでありました。
 それからこの兄弟との一悶着の件では、花司馬教士は万太郎の大暴れに些かの感奮を覚えたようで、万太郎のずんぐりむっくりを制圧してノッポを投げ飛ばした手順やら手応えやら、果ては捌いた角度やら、互いの腰の位置の按配等を微に入り細を穿つ質問等織り交ぜながら聞き入るのでありました。是路総士には万太郎のこの狼藉を咎められるかと思っていたのでありましたが、まあ、降りかかってきた火の粉を払ったと云う文脈で理解してくれたのか、平静な顔の儘特段何も云わずに矢張り淡々と聞いている儘でありました。
「その洞甲斐さんの直弟子の方の二人は、折野先生にかかって来なかったのですか?」
 花司馬教士が万太郎の更なる武勇伝を強請るような顔つきで訊くのでありました。
「いや、こちらも一応用心のため目を向けたら、黒シャツに白背広の人は何か早とちりしたようで、まるで蜘蛛が這って逃げるように道場入口の方に退散して仕舞いました」
「折野先生の強さに度肝を抜かれたのでしょう」
 花司馬教士はそう云って哄笑するのでありました。「で、その逃げるヤツを追い捉まえて、これも中天高く投げ飛ばした、のですかな?」
「いや、そんな事はしませんが、そこに何故か突然、あゆみさんが現れたのです」
 万太郎がそう云って横に座っているあゆみの方に顔を向けると、花司馬教士も是路総士も、万太郎の動作に釣られたようにあゆみを見るのでありました。急に衆目が集まったものだから、あゆみは気後れしたように肩を竦めて下を向いてモジモジと居心地悪そうに、正坐の、揃えた両踵上に置いた尻の位置を少し動かしたりするのでありました。
(続)
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お前の番だ! 544 [お前の番だ! 19 創作]

「このあゆみさんの闖入で殺伐とした場の空気が、一挙に変わったように感じました。僕自身も何やらフツと緊張の糸が切れたような具合でしたね」
 万太郎はまたあゆみの方に顔を向けるのでありました。
「しかし云ってみれば、洞甲斐さんの直弟子二人はあゆみ先生の突然の出現で、折野先生に痛い目にあわせられなくて済んだと云う事になりますか」
 花司馬教士がやや拍子抜けしたような物腰で云うのでありました。
「そうすると折野、威治君や洞甲斐さんに対しては、何も手出ししなかったのだな?」
 是路総士が訊くのでありました。
「押忍。まあ、お二人には端から何も手出しする心算はありませんでしたし」
「向こうから仕かけて来ない限り、と云う事ですよね?」
 花司馬教士が話しに割って入るのでありました。「事の序に二人にも、真摯に修行に努めた武道家と、体裁や大向こう受けを狙ってばかりの怠け者武道家気取りとの間の実力差を、グウの音も出ないくらいに、厳しく思い知らせてやれば良かったのですよ」
「いやまあ、そうもいきませんし」
 万太郎は花司馬教士に苦笑を返すのでありました。
「で、その後はあゆみ共々引き上げて来たと云う次第か?」
 万太郎はそう言葉を継ぐ是路総士に顔を戻すのでありました。
「そうですが、しかしそんな威圧的な面ばかりでは総士先生に云われた、若先生の心服を得てくると云う課題は果たせそうにありませんでしたから、無断ではありますがこれは総士先生のお気持ちと云う事で、これまでの態度を反省して総本部にやってくるのなら、総士先生は喜んで若先生を迎える心算でいらっしゃる、等とその後に生意気を云って仕舞いました。総士先生のお名前を勝手に持ち出したりして慎に申しわけございませんが」
「いや、お前の斟酌通り、確かにそれは私の、真意ではある」
 是路総士は万太郎に掌を横にふって見せるのでありました。
「事を荒立てるなと云う命を守れなかった点、それに全権委任と云う言葉を頂いてはおりますが、総士先生のお気持ちを勝手に創作したような言辞を弄したと云う点で、僕は総士先生の期待に、ちゃんと添う事が出来なかったように思います」
「ま、致し方ないところもある」
 無表情ながらも是路総士の語調は、万太郎を労うような柔らかさでありました。その辺がお前の精一杯であろうと、暗に云われているようにも聞こえるのでありましたが。
「依って結局、若先生と洞甲斐先生の心服を得る事は、竟に出来なかったと思います。総士先生のご意向に応えられなかったのを、僕は申しわけなく思っています」
 万太郎は頭を下げるのでありました。
「どだいあの二人の心服を得るなんという仕業は、無理な話しと云うものですよ。端からそう云う感受性を持ちあわせていない二人なのですからね。充分畏れさせ、たじろがせたと云うだけで、折野先生は役目を立派に果せたとのだと私は考えますね」
 花司馬教士が慰労してくれるのでありました。
(続)
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お前の番だ! 545 [お前の番だ! 19 創作]

「まあ、折野の言葉をどう受け取るかは、威治君の心次第だな」
 是路総士は自得するように小さく一つ頷くのでありました。「慎思して感ずるところがあったなら、威治君は何時か総本部道場に屹度やって来るだろうし、相変わらずに受け止めただけなら、現れないだろうよ。それはもう折野の手を離れた問題となろうな」
「若し遣って来たなら、少しくらいは見直しても良いすがね」
 花司馬教士が多少皮肉っぽく云うのでありました。二人は洞甲斐氏がどうするかについては何も触れないのでありましたが、洞甲斐氏はもう思慮の外なのでありましょうか。
「折野、ご苦労だった」
 是路総士のその言葉が万太郎の報告への締め括りの言でありましょう。一先ずは良くやったと云う語調に聞こえるのでありますが、看板の書き換えを認めさせた点以外に、これと云って褒めるところはない云う感じかなと万太郎は解釈するのでありました。
 是路総士の期待通りには事を総て上手く運べなかったのが万太郎としては辛いところでありましたか。多分評価を下げたろうなと万太郎は少しく悄気るのでありました。

 報告も一区切り終わったので、今日はこれまでと是路総士に一礼してから師範控えの間を立とうとする万太郎に、花司馬教士が引き留めの言葉をかけるのでありました。
「折野先生、話しはそれだけでしょうか?」
「押忍。これであらましですが」
 万太郎は中腰の儘応えるのでありました。
「いやいや、そうはいきませんよ」
 花司馬教士は下に向けた掌をゆっくり一振りして、まあ座れと万太郎に再着座を促すのでありました。「折野先生とあゆみ先生の件が、未だ残っていますよ」
 花司馬教士は是路総士の方に顔を向けて、妙に愉快そうに、そうですよねと確認するような表情をして見せるのでありました。是路総士はその花司馬教士に向かって無表情で小さく一つ頷いてから、前の万太郎とあゆみを夫々見るのでありました。
 万太郎は急に喉に水が痞えたような空咳なんぞをしてから横のあゆみを窺い見るのでありました。あゆみは肩を竦めて困ったような顰め面で瞑目しているのでありました。
「居ても立っても居られず折野先生の後を追ったあゆみ先生と洞甲斐さんの道場で逢ってから、二人で向こうを辞してここに戻られるまでのあれこれをご報告願いたいですな」
「戻るまでのあれこれ、と云われましても、その、・・・ええと、・・・」
 万太郎はたじろいで先ずは大いに口籠もるのでありました。「・・・ええと、先ず玄関で靴を履きまして、向こうの道場を出まして、左右の足を互い違いに前に出しまして、西八王子駅まで歩きまして、それから切符を買いまして、中央線に乗りまして、・・・」
 万太郎がそこまで云うと是路総士が咳払いするのでありました。誤魔化しの戯れ言はそのくらいにしろよと、万太郎は無言に叱られたようであります。
「折野先生、決まりが悪いのは斟酌致しますが、折角の折なのですから、ここが先途と腹を括って、お二人のお気持ちを総士先生に吐露されて見ては如何でしょう?」
(続)
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