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お前の番だ! 518 [お前の番だ! 18 創作]

 あゆみは顰め面をして懸念を表明するのでありました。
「僕もそう思います。第一に向こうを説得する自信がありません。それは法的にとか道理とかの面では看板から、常勝流、の文字は外させる事は出来るでしょうが、心服、となるとこれは僕では大任過ぎる気がします。お二人はお歳も年季も僕より上ですから」
万太郎はあゆみを渋面で一直線に見るのでありました。万太郎のその視線にあゆみは少したじろいだのか、見えるか見えないか程度に瞳を動揺させるのでありました。
「あたしが一緒に行こうか? まあ、あたしじゃ頼りにならないけど」
「それは有難いですが、・・・」
 万太郎は一瞬縋るような目つきをするのでありましたが、すぐにそれでは余りに情けなかろうと思い直して、瞬きを一つしてその喜色を拭うのでありました。「しかし、それでは総士先生のご意向からは外れて仕舞うように思います」
「でも、これは注連ちゃんの情報だけど、洞甲斐先生の処には相撲上がりの体の大きなお弟子さんとか、これも大柄な、前にプロレスの選手をしていた人とかが居るらしいし、若しも話しが拗れでもしたら、そんな人達が前に出てくるかも知れないわよ」
 万太郎にはこれは初耳でありました。洞甲斐氏本人は知っているのでありましたが、その弟子については逢った事もないし、何も情報としては得ていないのでありました。
 しかしそれにしても、来間は何につけても良く事情に通じているヤツであります。来間の情報源と云うものは、一体どういう具合になっているのでありましょうか。
「僕がその連中に恫喝されるとか、或いは危害を加えられるかも知れないと、つまりあゆみさんとしては心配してくれているのでしょうかね?」
「まあ、誰が来ようと、まさか万ちゃんが後れを取る事はないとは思うけど、でも、万が一って事もあるし、複数で事に当たる方が何かと無難なのじゃないかしら」
「それはそうでしょうが、しかし今回は僕のあれこれの力量を総士先生がお試しになっているような気もしますし、そうだとするならここは一番、僕が単独で乗りこむべきかと考えます。まあ、さっきも云いましたように、上手く収める自信はないのですが」
「でも、・・・」
 あゆみは万太郎に対する体裁も考えず、憂色を隠そうともしないし、寧ろ一層濃くするのでありました。「でも、万ちゃんに若しもの事があったら、あたし、困るわ。・・・」
 あゆみはそう云って俯くのでありました。「何かあたし、急に胸騒ぎがしてきた」
 あゆみはすっかり落ち着きを失くしたように、コーヒーカップをせわしなさそうな手つきで口に運ぶのでありました。あゆみの拍動の変化が万太郎にも伝わるのでありました。
 あゆみのこんな様子を見て、万太郎としては満更悪い気はしないのでありました。あゆみにこうまで直截に案じて貰えるとは、思ってもみない事でありましたから。
 しかしこのあゆみの反応なんと云うものは、些か唐突で大袈裟に過ぎるような気もするのでありました。単に万太郎が威治宗家と洞甲斐氏に看板から、常勝流、の文字を外してくれと通告に赴くだけだと云うのに、事態が悪く運んだ場合の事のみを偏頗に想定して、あゆみがそんなに思いつめた表情をする必要はないようにも思うのであります。
(続)

お前の番だ! 519 [お前の番だ! 18 創作]

 万太郎が女心の機微にもう少し疎くなかったのなら、如何にも不自然に映るあゆみのこの動揺が多少は理解出来たでありましょうか。しかし是路総士依頼のこれから熟すべき役割の困難さが頭の中を殆ど占めている状態であってみれば、万太郎のこの迂闊さ、或いは朴念仁さ加減も、多少は理解の余地もありはすると云うものでありましょうかな。
「まあ、どう云う首尾になるかは判りませんが、やるだけやってみますよ」
 あゆみの懸念を表明する瞳の真摯さに比べれば、当の万太郎のこの言葉は如何にも呑気そうに聞こえるのでありました。まあ、他に万太郎には言葉がないのではありますが。
 その日の夜に、内弟子部屋に引き上げてから万太郎は来間に訊ねるのでありました。
「お前、洞甲斐先生のところに、プロレス上がりと相撲上がりのお弟子さんがいるなんて情報を、一体どこから仕入れてきたんだ?」
「ああ、興堂派時代からの門下生で今はウチに来ている宇津利さんから、随分前に聞いた話しですよ。何でも二人は兄弟だとかで、洞甲斐先生の親戚だそうです」
「ふうん。洞甲斐先生の親戚、ねえ」
「二人して相撲でもプロレスでもものにならなかったようで、かといって色々潰しの効く方じゃなさそうで、仕方なく洞甲斐先生のところに転がりこんでいると云う話しです。何時もぶすっとしていて粗暴そうで、態度が太々しくて、一体何を考えているのか判らないような顔をしていて、出来ればお近づきになりたくないタイプだと云う事です」
「宇津利がそう云っていたのか?」
「ええ。前の神保町の道分先生の道場に洞甲斐先生と一緒に何度か来たのを、偶々宇津利さんが一瞥したようです。感じが悪かったので、よく覚えているとの事でした」
「なんか胡散臭そうな二人だなあ」
「思いっきり胡散臭い臭気が立っていそうです」
 来間はそう云って顔を顰めて見せるのでありました。「でも、どうしてその二人の話しが今、折野先生から出てくるのですか?」
「あゆみさんから聞いたんだよ」
「ああ、前にあゆみ先生と洞甲斐先生の話しをしていた時に、自分がそんな事を紹介した覚えがあります。でも、今頃どうしてあゆみ先生とそんな話しをしたのですか?」
「いやな、洞甲斐先生と威治先生が連んで八王子で今度新しい会派を立ち上げたようなんだが、その会派の名前に問題があって、俺が名称変更の談判に行く事になったんだ」
「へえ、そうなんですか? それは今初めて聞きました」
 来間は少し瞠目するのでありました。
「鳥枝先生や寄敷先生に話すと話しが面倒になると云うので、総士先生から内々に俺がかけあってくるようにと指示を受けたんだ」
「ああそうだったんですか。今度はあの二人が連んだのですか。・・・」
「この件は、今も云った理由から鳥枝先生と寄敷先生には、これだぞ」
 万太郎はそう云いながら唇の前に人差し指を立ててみせるのでありました。
「押忍、了解しました」
(続)

お前の番だ! 520 [お前の番だ! 18 創作]

 来間は心得顔で頷くのでありました。「折野先生ならその二人が胡乱な真似を仕かけてきても、あっさりと撃退出来るでしょうし、ご健闘をお祈りしています」
 この来間の他人事のような云い草が何となく気に入らなかったので、万太郎は返事をしないのでありました。万太郎は益々気が重くなってくるのでありました。
「そう云えば、その二人の事なら花司馬先生が良くご存知なのではないでしょうか?」
 来間が黙ったままの万太郎に云うのでありました。
「ああ、それはそうだな」
 万太郎は少し目線を上げるのでありました。確かに花司馬教士なら、もう少しその二人の情報を濃く有しているかもしれません。
 あゆみに大袈裟に懸念を表明されたためか、万太郎としてもその二人の事が俄に気に懸かり出すのでありました。粗暴で得体の知れない相撲とプロレス上がりが、万太郎の談判に思わぬ支障となって、事を円やかに収める邪魔をするのではないかしらと。・・・
 花司馬教士を捉まえて訊くと万太郎が云った、相撲とプロレス上がりの洞甲斐氏の親類、と云う言葉にすぐに頷いて見せるのでありました。
「ああ、その兄弟なら知っていますよ。兄がプロレス上がりの方で、結構なノッポで体重もそこそこありそうなヤツですね。弟の相撲上がりの方は、身長は然程高くはないですが体重は優に百キロを超えている感じで、やけにごっつい印象です。二人共無愛想と云うよりは如何にも鈍そうな風で、話しかけても反応が今一つと云った印象でしたね」
「その二人が洞甲斐先生の、瞬間活殺法的な技法を修行しているのですか?」
 その万太郎の問いに花司馬教士は苦笑うのでありました。
「まあ、弟子と云うわけですからそう云う事にはなりますが、どちらかと云うと体力勝負一辺倒で、瞬間活殺法は置くとしても、常勝流のごく一般的な体術の技も習得しているとは云い難かったですね。組形稽古に対する初歩的な認識も出来ていないので、動きも良い加減と云うのかルーズと云うのか、一緒に稽古していると次第にげんなりしてきます」
「瞬間活殺法は遣わないのですね?」
「そんな技は、あの二人は端から信用していないようでしたね。まあ、信用していないのは、何もあの二人に限った事ではありませんが」
 花司馬教士はそう云って鼻を鳴らすのでありました。
「どういう経緯で、洞甲斐先生の処に弟子として入ったのでしょう?」
「相撲もプロレスも夫々仕くじって、他にやれる仕事が何もなかったから、洞甲斐さんが拾ったと云うところじゃないでしょうか」
「洞甲斐先生は二人の弟子を食べさせていたのですか? そうなら洞甲斐先生もなかなか、武道家として甲斐性があるとも云えますかね」
「なあに、洞甲斐さんはあの二人にあれこれアルバイトをさせていたのです。武道の弟子と云うよりは都合の好い貢ぎ手と云った感じですかね。洞甲斐さんの方が寧ろあの二人の稼ぎの上前を撥ねていたと云ったところでしょうね、聞いたところに依ると」
「へえ、そう云う事ですか」
(続)

お前の番だ! 521 [お前の番だ! 18 創作]

 万太郎は呆れ顔をして見せるのでありました。「二人の名前をご存知ですか?」
「いや、聞いた筈ですが忘れました。覚えておく程のヤツとも思えませんでしたから」
「ああそうですか」
「いやしかし、その二人はもう洞甲斐さんの処には居ないのではないでしょうか?」
 花司馬教士は意外な事を云い出すのでありました。「未だ道分先生がご存命の頃、確か洞甲斐さんから直接そのような事を聞いた覚えがあります。洞甲斐さんは、あの二人はモノにならないから辞めさせた、とか云っていたように記憶しています」
「あれ、そうなんですか?」
「まあ、もう前の事になりますから、その後どうなったのかは知りませんが」
 その二人が居ないのなら、あゆみの懸念は大分解消すると云う事でありましょうか。万太郎如きではこの任務は上手に務められないと云う、そっちの懸念は残るとしても。
 万太郎は件の八王子の世話役に、威治前宗家が洞甲斐氏の道場にやって来る日を見張って貰うのでありました。当面威治前宗家は他にやる事もなかろうから毎日でも出張って来ても良さそうなものでありましたが、そこは自分勝手で無責任な彼の人の事でありますから、世話役の話しに依ると土曜日と日曜日にほぼ定期に来ているようでありました。
 ほぼ定期に、と云う事は来ない日もあるようであります。威治前宗家は洞甲斐氏と組んで新たに結成した会派には然程に思い入れるところがないのか、それとも単にずぼらなだけなのか、その辺は万太郎には確とは判らないのでありました
 まあ、突然行って意表を突くと云う手もありはしますが、一応は律義に手順を踏んで堂々と乗りこむ方が良かろうと判断して、万太郎は事前に洞甲斐氏の道場に電話を入れるのでありました。万太郎の突然の電話に、洞甲斐氏は先ず怯むのでありました。
 如何な用件でと訊く洞甲斐氏に、万太郎はそれは行った折にと慇懃な口調で勿体ぶるのでありました。万太郎が態々出向くと云うのを無下に断る明快な理由もないものだからか、電話に出た洞甲斐氏は及び腰の気配を伝えるものの、断りはしないのでありました。
 万太郎は勿論、行く日を威治前宗家も居る日曜日に選んだのでありますし、屹度威治前宗家にもその場に居ていただきたいと念押ししておくのでありました。何やら判らないながら、そう威治前宗家に伝えると洞甲斐氏は不承々々に受けあうのでありました。

 当日の日曜日、万太郎が玄関で靴を履いていると、稽古着姿のあゆみがそこにやって来るのでありました。午後の専門稽古が始まる前の時間でありました。
「万ちゃん、本当に一人で大丈夫?」
 あゆみは心配顔で万太郎を上がり框から見下ろすのでありました。
「大丈夫でしょう。斬った張ったをしに行くのではなくて、会談に行くのですから」
 万太郎は努めて呑気そうに云うのでありました。その会談てえものが、判らず屋の二人を相手とするのでありますから、そこは何とも気が重いのではありましたが。
「あたし、あの日以来、胸騒ぎが収まらないの」
 あゆみの云うあの日とは、万太郎にその話しを聞いたあの日、でありましょう。
(続)

お前の番だ! 522 [お前の番だ! 18 創作]

「また随分、或る意味、スタミナのある心臓ですね」
 靴を履き終わった万太郎は立ちあがりながら、そんな冗談を云って笑って見せるのでありました。あの日、からもう一月以上も経っているのでありました。
「そんなんじゃないけどさ」
 万太郎の冗談に突慳貪にそう返すあゆみは、少し気分を害したようでありました。自分の心配の加減を如何にも軽く見做しているような万太郎に怒ったのでありましょう。
「本当に大丈夫ですよ。こちらに理のある云い分を聞いて貰うだけの事ですから」
 万太郎はある種の配慮から如何にも余裕ある笑いはその儘消さないで、しかし出来るだけクールで真面目な物腰でそう云うのでありました。
「まさか万ちゃんが会談を仕くじるとは思わないけど、でも相手が相手だから、こちらが思ってもみない展開があるかも知れないじゃない」
「臨機応変は、得意とは云わないまでも、これまでの修行で心得ている心算です。それに相手があのお二人ですから、僕はそうは遅れを取りません。ま、失礼ではありますが」
「それは万ちゃんの方が数段、人間が出来ていると云うのは知っているけど、でも人間が出来ていない二人が相手だからこそ、不測の事態が起こるようで怖いのよ」
「僕は別にあのお二人を嘗めてかかる心算はありません。充分気をつけますよ」
「あたし、本当に一緒に行こうかな」
 あゆみはそう云って万太郎の顔を見つめるのでありました。
「いやいや、あゆみさんはこの後専門稽古の中心指導があるし、そのまた後の少年部の稽古も指導しなければならないのですから、総本部に居なければいけません」
「稽古は花司馬先生と代わって貰っても構わないのよ」
 あゆみは本気の表情で未練気に食い下がるのでありました。
「いやいやいや、ダメです。僕としても僕一人の方が何かと気が楽なのですから」
 万太郎のつれない拒否に、あゆみは唇を噛むのでありました。
「判ったわ。でも呉々も気をつけてね」
「気をつけます。まあ、そう滅多な事はないと思います」
 万太郎は自信たっぷりに頷くのでありましたが、その仕草で以ってあゆみの憂いを綺麗に晴らせたようには思えないのでありました。あっけらかんと自信を見せるのは、返ってあゆみの憂いを増大させるだけかも知れないとも考えられるでありましょうか。
 とまれ、万太郎は心配顔の儘のあゆみに送られて玄関を出るのでありました。あゆみは門まで一緒について来て、仙川駅に向かう万太郎の後ろ姿を見送るのでありました。
 万太郎は具体的な話しの持って行き方の方策は、実は何も考えていないのでありました。結局は簡単な内容の話しなのでありますから、先ずは切り出してから、その後は出たとこ勝負で行くしかないであろうと心積もっているのでありますが、こういう行き当たりばったりでは、二人の心服を得る等は叶わぬ事であろうと思われるのでありました。
 電車が狭間駅を過ぎて、直に高尾駅に着くと車内アナウンスが流れると、万太郎の憂鬱がいや増すのでありました。万太郎は小さな嘆息を漏らすのでありました。
(続)

お前の番だ! 523 [お前の番だ! 18 創作]

 高尾駅で京王線からJR線に乗り換えて東京方面に一駅戻ると西八王子駅であります。八王子で乗り換えても良いのでありますが、その場合京王八王子駅からJR八王子駅間は少し歩くので、その日の万太郎にはそれが何となく億劫に思われたのでありました。
 洞甲斐氏の道場は森閑としているのでありました。しかし前に様子見に来た時とは違って、中からは人の気配が漏れ窺われるのでありました。
 予め電話で約束をしていた万太郎の来訪を、洞甲斐氏はまさかすっぽかしはしないでありましょうが、それでも万太郎は玄関の内から漏れてくる人の気配に少しく安堵するのでありました。と同時に、気重の方も最高潮に達するのでありました。
 まあ、こちらに理がある事を述べに来たのでありますから、気後れを感じる必要は何もないのであります。しかしながら相手がある意味で結構な難物でありますから、それを考えると万太郎の気重も宜なるかなと云ったところでありますか。
 万太郎は閉まった玄関越しに、ご免くださいと音声を上げるのでありました。ここは一番、頼もう、と発声しても良かったかも知れないけれど、そうなると時代がかった道場破りのようではないかと、つまらない事を頭の端の方でちらと考えるのでありました。
 玄関引き戸がガラと開いて出てきたのは、作務衣姿の洞甲斐氏その人でありました。
「ああこれは折野先生、随分とお久しぶりです」
 洞甲斐氏との間には前に気まずい経緯がありはしましたが、万太郎を迎える洞甲斐氏の声音は、最初に言葉を交わした八王子の体育館の時と同じでありました。
「ご無沙汰しております」
 万太郎はなるべく言葉に表情を添えないで、しかしほんの少々つれなさを加味しながらそう返して、無礼にならない程度に浅く頭を下げるのでありました。
「まあ、どうぞお入りください」
 万太郎の、不躾とまでは云えないながらも親愛感は殆ど感じられない物腰に、装っているだけであろうけれども、洞甲斐氏は何となく久しぶりの邂逅を喜ぶ気色を削がれたように、語調を幾段か落として万太郎を道場の中へ誘うのでありました。
 狭い道場は四囲の壁際に、古そうな長机やら上蓋の不細工に開かれた儘の拉げた段ボール箱やら、或いは脱ぎ捨てられた衣服やら今にも崩れそうな紙の束やら、酒の一升瓶やらそれを飲むためのものであろう茶碗やらが、全くの未整理に並べられているのでありました。おまけにそのどれもが長い時間そこにその儘放置されていたらしく、塵と埃に薄く覆われているのは、仮にも道場たる表情としては何ともいただけない光景でありました。
 道場奥の壁にはこの、荒れ果てたと云うも甚だ疎かなる場に似あわない、大層仰々しくも大なる神棚が吊ってあって、その下には威治前宗家が両手を脇について足を投げ出して、座布団の上に鎮座しているのが見えるのでありました。威治前宗家は万太郎の姿を捉えても居住まいを改めるでもなく、万太郎に目礼も送ってこないのでありました。
「汚いところですが、お上がりください」
 洞甲斐氏にそう勧められても、万太郎は衣服に埃のつくのを躊躇って、おいそれとは靴を脱げないのでありましたが、そうもいかないのは慎に因果な運びでありました。
(続)

お前の番だ! 524 [お前の番だ! 18 創作]

「失礼いたします」
 万太郎は横の洞甲斐氏に浅くお辞儀してから道場に上がると、真っ直ぐに最奥壁際の威治前宗家の下に歩を運ぶのでありました。その間に威治前宗家が投げ出していた足を胡坐に畳んで、床についていた両手を上げて大腿の上に無造作に置くのは、近づく万太郎に対する此の人なりの礼儀かと、無理に考えれば考えられなくもない仕草でありましたか。
 万太郎は威治前宗家の前に正坐するのでありました。敵愾心剥き出しのその目に無表情で応えながら、万太郎は威儀を正して律義らしく座礼を送るのでありました。
「ご無沙汰しております。常勝流総本部の折野です」
 そう落ち着いた声で云ってから万太郎は頭を起こすのでありました。目の前の威治前宗家には万太郎の礼式に応えるような形跡は何も認められないのでありました。
「お前が何の用事で、態々八王子まで遣って来たんだ?」
 威治前宗家は険を露わにした儘の目つきで訊ねるのでありました。
「今日は総士先生の云いつけでまいりました」
「だから俺に何の用だ?」
 威治前宗家は万太郎の口調が、如何にも間怠っこいと云ったような苛立ちを早口の声音に乗せるのでありました。こうなればここは単刀直入が良策のようであります。
「この道場入口に掲げられている看板の件です」
 万太郎は静かな物腰を変えないのでありました。「入る時に確認しましたところ、確かにそれには、常勝流新興堂会、と記してありました。それは、・・・」
「どうぞ折野先生、座布団をお当てください」
 万太郎が云い終らない内に洞甲斐氏が座布団を手に横にやって来て、万太郎の正坐した膝の横にそれを軽く当てて勧めるのでありました。
「ああ恐縮です」
 万太郎はズボンに床の埃がつくのを嫌って、遠慮せずその座布団を膝の下に敷くのでありました。しかしその座布団自体に埃がついていないと云う保証は何処にもないかと、敷いた後にちらと思うのでありましたがこれはもう後の祭りと云うものであります。
 洞甲斐氏は座布団を勧めた後、威治宗家の横に移動して胡坐に座るのでありました。洞甲斐氏の方は、威治前宗家程に敵意剥き出しと云う顔ではないのでありました。
「看板がどうした?」
 威治前宗家が苛々の口調を強めるのでありました。
「ひょっとしたら、常勝流、の文字に問題があるとおっしゃりたいのでしょうかね?」
 威治前宗家の横の洞甲斐氏が口を挟むのでありました。
「その通りです」
 万太郎は洞甲斐氏の方に視線を向けて頷くのでありました。「常勝流、と云う名称の使用には総士先生のご許可が必要です」
 万太郎は一応、大人し目な語調で云うのでありました。洞甲斐氏は多少は後ろ暗く気にしていたから、万太郎の用件を先回りして言挙げしたのでありましょう。
(続)

お前の番だ! 525 [お前の番だ! 18 創作]

「そんなところにイチャモンをつけに、態々八王子まで遣って来たのか」
 威治前宗家の方は、万太郎が何とも些細な点に文句を云い立てに来たものだと云う風に、嘲るような口調でそう返して、口の端に憫笑を浮かべて見せるのでありました。
「この度、常勝流、を敢えて会派の名前につけたのには理由がありまして、・・・」
 洞甲斐氏の方は一応真面目な面持ちで喋り出すのでありました。「ここにいらっしゃる若先生との話しあいの中で、これまで色々とお互いに曲折はあったにしろ、ここで今再び、道分興堂先生の興された旧常勝流興堂派の技術をしっかり研鑽継承して、道分先生の偉業を世に顕彰すると同時に、この優れた武道を広く普及させるべく我々二人で手を携えて活動して行こうと、そう云った趣意で心を一つにしましてね、その意気を自他に明快に顕すためにこの新会派の名称を、常勝流新興堂会、としたと云う次第なのです」
 途中で万太郎は表情には出さないものの、一瞬呆然として、その後に狼狽すらして仕舞うのでありました。嗚呼、何と云う、ご立派で気高い心がけである事か!
 数多居るお弟子さんの中で、興堂範士の技術を真面目に学ぼうとしなかった筆頭中の筆頭格がこの面前の二人ではなかったかしらと、万太郎は腹の中で失笑を禁じ得ないのでありました。それが抜けぬけとよくもまあご大層な志なんぞを宣うものである事か。
 まあしかし、それを云って仕舞うと話しが急に荒けなくなるのは必定でありますから、万太郎は苦労して無表情を貫くのでありました。
「お二人の新しく結成された会の趣意は判りました。しかしその事と、常勝流、の名称を総士先生に無断で使用する事は別の話しです」
「商標権がどうのこうの、と云いたいのか?」
 威治前宗家が溜息の後に、さも憎々し気に云うのでありました。それも当然さることながら、実はお前さん等二人如きに、常勝流、の名を軽々しく使用されるのは慎に以って心外ないのだと、本心としてはそう啖呵を切りたいところではありますが、これもグッと堪えて万太郎は眉一つも動かさぬように一生懸命努めるのでありました。
 しかしこう云うところを見ると威治前宗家は前に興堂範士が身罷って自分が跡目を継がんとする時に、総本部で鳥枝範士から因果を含められた事は、一応頭の隅には在ったと云う事でありましょうか。しかししかし、そうであるのに今次常勝流の名を自らの会派名に無神経にも平然とつけると云うのは、一体全体どう云う了見なのでありましょうや。
 ここで何の心算か、洞甲斐氏が急に不自然な咳払いをするのでありました。すると道場横手の襖が、建てつけ悪そうなガタピシ音を立てながら開くのでありました。
 中から現れたのは嫌に背の高い坊主頭の男でありました。男は片手にアルマイトの盆を抱えて、その上には湯気の殆ど上がらない茶碗が三つ載っているのでありました。
「ああ、折野先生に茶をお出しするのが遅くなって仕舞いました」
 洞甲斐氏の万太郎への愛想笑いつきの言に導かれて、男は無愛想に万太郎の横にしゃがんで、如何にも慣れない手つきで茶碗を万太郎の揃えた膝の前に置くのでありました。その無骨な挙措が終わらない内に、開け放たれた儘の襖の奥から別に三人の男が、万太郎に向かって挨拶を送るでもなく、面倒そうな足取りで登場するのでありました。
(続)

お前の番だ! 526 [お前の番だ! 18 創作]

 この内二人は洞甲斐氏と同世代と云った年格好で、体格なんぞも洞甲斐氏と同じ中肉中背と云う風で、一人は地味な普段着姿と云ったところでありましたが、もう一人は黒シャツに白いダブルの背広を着ているのでありました。まるで典型的なその筋の者、と云った辺りを強調するようなファッションでありますが、こんな塵埃にまみれた道場では折角の衣装が台なしになるであろうにと、万太郎は要らぬ心配等をするのでありました。
 もう一人の男はずんぐりむっくりと云った体躯をしていて、夏でもないのに着古した白のTシャツにバーミューダパンツと云う格好で、かなりの汗かきらしく、片手に持ったタオルで頻りに額や首筋を拭っているのでありました。この男と茶を持ってきた男が、件の洞甲斐氏の親戚で、プロレスと相撲を仕くじった兄弟でありましょうか。
 花司馬教士の言に依れば、この二人はもう洞甲斐氏の下を離れた筈だと云う事でありましたが、ここにこうして現れたと云うのはどう云った経緯でありましょうや。その後舞い戻って来て、洞甲斐氏に再び師事しているのでありましょうか。
 それとも万太郎が来ると云うので、万が一の場合を心慮して、洞甲斐氏が威嚇の意味も兼ねて本日急遽呼んだのでありましょうか。若しそんな了見であるのなら、いやはや何ともご念の入った、無用な先読みも行き届いた持て成しであろうと云うものでありますか。
 しかし洞甲斐氏が万太郎をたじろがせようと図ったのなら、このタイミングで四人を様子ぶって登場させるのは果たして効果的と云えるのかしらと、万太郎はふと疑問に思うのでありました。まあ、深読みしても始まらない洞甲斐氏の事でありますから、そんな効果の絶大なんぞと云う点は端から考慮してはいなくて、お前等も話しが始まったら茶を持って出て来いと、単にその程度に指示していただけなのかも知れません。
 とまれ、茶を持ってきたノッポとその後に連なり現れた三人は、万太郎と一定の距離を取って後方を囲って逃げ道を遮断するような陣形に、ノッポと普段着とその筋は胡坐にずんぐりむっくりは腹が邪魔なのか片足を投げ出した格好で夫々座るのでありました。後方の座った四人の居住まいの悪そうな風情は、万太郎にも気配で伝わるのでありました。
「ウチの幹部二人と、この世界では名前の通った折野先生がお見えになると云うので、是非そのご尊顔を拝したいとやって来た私の甥っ子の二人です」
 洞甲斐氏が紹介するのでありました。万太郎は後ろをふり返って四人に目礼を送るのでありましたが、幹部と紹介された二人はそれに応えて僅かに頭を前に倒すのでありましたが、甥っ子二人の方は万太郎のご尊顔を拝しに来たにしては全く無愛想に、寧ろ胡散臭いものでも見るような目つきでお辞儀もなく万太郎を見据えているのみでありました。

 万太郎は威治前宗家の方に視線を戻して、話しを続けるのでありました。
「商標権、とか云う話しの前に、武道家としての道義とか筋道の問題が先ずあります」
「総士先生に断りを入れなかったのが怪しからん、と云うわけか?」
「そうです」
「あらかじめ話しをしたら、許可したか?」
「勿論、即答でお断りしていました」
(続)

お前の番だ! 527 [お前の番だ! 18 創作]

 万太郎が冷ややかに云うと威治前宗家は一挙に気色ばむのでありました。しかしここで嬲られたと取って怒っては、ひょっとしたら万太郎の思う壺かも知れないと思い直したのか、徐に眉間の皺を緩めて余裕の表情で一つ鼻で笑って見せるのでありました。
「そんな堅苦しい事を云わないで、大目に見る度量はないのか?」
「ありません。手前勝手な云い分は止してください」
 万太郎は抑揚を抑えて不機嫌に云い放つのでありました。
「総士先生が御冠なら、ここは一つお前が執り成してくれてもよかろう?」
「僕にはそんな真似をする義理はありません」
「この道の先輩の俺が頼むんだぞ」
「不謹慎な先輩の無道をお諌めするのも後輩の務めかと心得ます」
「けっ、何を云うか」
 万太郎の取りつく島もない冷眼に威治前宗家は舌打ちで応えるのでありました。「おい折野、お前何時からそんなに偉くなったんだ?」
「何時からと云われても困りますが、・・・」
 万太郎は首を傾げて頭を掻いて見せるのでありました。「まあ、若先生が道分先生のご遺志をないがしろにして、前の興堂流の宗家に収まられた辺りからでしょうかねえ」
 万太郎は至極穏やかに無表情でそんな事を云うのでありましたが、この万太郎の本気とも、からかいとも冗談とも挑発ともつかぬ受け応えに、威治前宗家は少し戸惑いを見せるのでありました。完全に自分を馬鹿にして嘗めてかかっているようでもあるし、生来の愚鈍から、ひょっとしたら案外素直にこちらの問いに応えているようでもあるし。・・・
 万太郎はそんな威治宗家の微妙なまごつきを感知して、これは思いの外、威治前宗家なんという人は根っからの悪人ではないのだろうとも思うのでありました。まあしかしそれはそうとしても、扱い難い、判らず屋の、意地っ張りの見栄っ張りではありますが。
「私共が決して常勝流を蔑ろにするからではなく、寧ろ大いなる敬意と有難く思う心根から、敢えてその名を会派名につけさせて貰ったと云うのは、神かけて本当の気持ちなのです。その点が、どうしても折野先生にはご理解していただけませんかねえ」
 洞甲斐氏が懇願口調で横から口を挟むのでありました。
「理解致しません」
 万太郎はこちらの方には強い眼光を注ぐのでありました。「本気で、常勝流、の名を大事にお考えなら、いとも軽々しく無神経に無断使用等される筈がありませんから」
「単なる手続き上のミスとお察しください。無礼だった点は幾重にもお詫びします」
「致命的な手続き上のミスです」
 あくまで万太郎は洞甲斐氏に対してはつれないないのでありました。
「いやいや、そんなに怖い顔をされないで」
 洞甲斐氏は万太郎の鮸膠もない態度にたじろぐのでありました。
「常勝流総本部に対する手続きを如何にも軽く考えていらしたと云うのであれば、それだけで充分、お言葉とは裏腹に、常勝流、と云う名称を軽んじておられた左証です」
(続)

お前の番だ! 528 [お前の番だ! 18 創作]

 万太郎は口調こそ大人しいのでありましたが、そのきっぱりとした云い草により強い眼光を乗せるのでありました。洞甲斐氏は怖じたように目を逸らすのでありました。
「どうしても、常勝流、の名前の使用を許さんと云うのか?」
 威治前宗家が声を荒げながら念を押すのでありました。
「許しません」
「ああそういか、判ったよ」
 威治前宗家は吐き捨てるのでありました。「実際俺は、常勝流、の名前なんかどうでも良いんだよ。単なる飾り以上とは思っていないからな」
 常勝流に対して、大いなる敬意と有難く思う心根、を持っているらしき片割れの言がこれであります。まあ、馬脚を現したと云ったところでありましょうが、しかしまあそれにしても、やけにあっさりあっけなく脚役の役者が姿を見せてくれたたものであります。
「では会派名から、常勝流、の文字を外していただけますね?」
「そんなものは是非とも必要と云う事ではないからな」
「それなら結構です。これで僕の用は済みました」
 万太郎はそう云って威治前宗家に格式張ったお辞儀をするのでありました。「では後日、確認のためにもう一度罷り越します」
「看板をちゃんと書き換えているか確認に来るのか?」
「そうです。今度は連絡なしで不意に看板を覗きに参ります。それからこれは云う迄もないですが、看板から常勝流の文字を外すだけではなくて常勝流の名を以って門下生を集めないでください。それに稽古に於いても常勝流の技法であると称して門人に教えないでください。と云う事はつまり、稽古で常勝流の技法名も当然使用をお断りします」
「随分とまたご念の入ったご指導だが、有難く頂戴しておくぜ」
 威治前宗家は口の端に精々の腹いせの皮肉な笑いらしきを浮かべて見せて、そう云い終るとすぐにソッポを向くのでありました。
「待ってください折野先生。しかし私共が道分先生にこれまで長くご指導いただいてきたのは、紛れもなく常勝流の技法なのですから、今の折野先生の云い方ではそれをも無視、或いは否定されているようで立つ瀬もないと云うか、慎に心外ですなあ」
 洞甲斐氏が横からやや憤慨した声でイチャモンをつけるのでありました。
「道分先生は、瞬間活殺法、等と云う怪しげな技法は指導されていない筈です」
 万太郎は冷たく云い放つのでありました。「それは常勝流の技法では全くなく、道分先生も絶対に指導される筈のない、洞甲斐先生のオリジナルな技法でしょう?」
「それはまあ、そうですが、・・・」
 洞甲斐氏は暫し口籠もるのでありました。「しかし、こちらにいらっしゃる若先生は余人には絶対ご教授されなかった道分先生のご指導を、一対一で授けられた方ですぞ。私は別にしても、折野先生の云い草は、若先生に対して如何にも失礼でしょう」
「そのような真偽不明で無責任な逸話が何処からか聞こえてきてはいますが、それは若先生が独立された折の、自分の売り出し文句でしかないと聞いております」
(続)

お前の番だ! 529 [お前の番だ! 18 創作]

「若先生を前にして何という無礼な事を云うのですか!」
 洞甲斐氏は声を荒げるのでありましたが、威治前宗家の方はと云えば鼻白んだ表情を見せるのみで万太郎の方を見もしないのでありました。これは万太郎に触れられたくないところを如何にも無造作に一撫でされて、思わず及び腰になったからでありましょう。
「会派の名前の件で総士先生を蔑ろにするような不謹慎を働いた方に、僕としてはそんな事を云われる筋あいは全くないと思いますが」
 こう万太郎に云われて仕舞うと、洞甲斐氏も二の句は継げないでありましょう。「さてところで、若先生にお聞きしたいと思っていたのですが、道分先生との二人だけの稽古とやらで、一体どのような事をお習いになったのでしょうか?」
 万太郎は詰問口調ではなく、到って穏やかに、如何にも素直な質問と云った体裁で問うのでありました。すると威治前宗家は逆に内心少々怯んだようで、細めた瞼の中で眼球が忙しなく微動するのを万太郎はしっかり確認するのでありました。
「それは色々、技のコツとか、勘所とか、・・・」
 威治前宗家は縺れた声で応えるのでありました。そう訊かれた時には、そんなものは他人に教える事じゃない、と一喝して横着に遣り過ごせば良いものを、こうして律義に応えようとする辺り、矢張り案外、悪辣非道の人と云うだけではないのかも知れません。
「そう云うものは教えられておいそれと出来るようになるものではなく、職業武道家なら、豊富な稽古量の上に自分で研鑽工夫して会得すべきものではないでしょうか?」
「若先生が道分先生から伝授されたのは、もっと術理の根本に関わるものもあった筈です。つまり巷間、秘伝、と称されるようなものとか」
 洞甲斐氏が横から口を出すのでありました。「ねえ、若先生、そうですよね?」
「常勝流の秘伝、と云うものでしょうか?」
 万太郎は威治前宗家の顔に向かって質問を重ねるのでありました。
「そうだな。そんなのも、まあ、・・・習ったな」
 威治前宗家は、しどろもどろを必死に隠そうとして、返って顕れて仕舞うところのしどろもどろの口調で応えるのでありました。
「道分先生が常勝流の秘伝を伝授されたのですか?」
 万太郎か訊き募るのでありました。
「そうだな」
 これも隠そうとして、返って顕れて仕舞うところの動揺が籠った口調でありました。
「はて。それは妙ですね」
 万太郎は首を傾げて見せるのでありました。「常勝流の秘伝は一子相伝ですから、総士先生は受け継がれているけれど、道分先生には伝えられていない筈ですが?」
「それは要するに、道分先生が独自に会得された道分先生流の秘伝ですよ」
 また洞甲斐氏が嘴を入れるのでありました。「ねえ、そうですよね、若先生?」
 何やら苦しい強弁と云うべきでありましょう。まあしかし万太郎は、ああそうですか、と一応素直に頷いて見せて、それ以上のしつこい追及を控えるのでありました。
(続)

お前の番だ! 530 [お前の番だ! 18 創作]

「折野、お前、俺達が会派を新しく立ち上げたのが気に入らないと云うので、総士先生に云われて態々からかいにでも来たのか?」
 威治前宗家が目を怒らせて苛立たし気に吐き出すのでありました。
「いえ、そうではなく、会派の名前から常勝流の文字を外していただきたいとお願いに参りました。若先生や洞甲斐先生が新会派を創るのはご自由ですから、総士先生もそれをどうこうおっしゃっているわけではありません」
「だから、それは外す、と云っているんだから、それで良いのだろう?」
「はい、結構です」
「だったらもう用は済んだん筈だから、とっとと帰ったらどうだ?」
「ま、それはそうなんですが、未だ、心服、の件が残っていまして。・・・」
 万太郎はそう云ってニイと笑うのでありました。
「シンプク?」
 威治前宗家は万太郎が何を云っているのか判らないと云うように、怒らせた目の儘で小首を傾げるのでありましたが、それはまあ、そうでありましょう。
「何ですかそのシンプク、と云うのは?」
 洞甲斐氏が威治延宗家とは反対の方向に首を傾げるのでありました。
「いやまあ、若先生と洞甲斐先生にここでこちらの元帳をあれこれ明らかにして仕舞うのも、何だか妙な話しになりますから、それはまあ追々、と云う事で」
 万太郎は苦笑ってお辞儀しながら頭を掻くのでありました。
「お前、嘗めた真似をするのもいい加減にしろよ!」
 威治前宗家が立ち上がって万太郎を一喝するのでありました。しかし怒りに任せて立ち上がったけれど、どこか怖じたような及び腰の儘万太郎を睨みつけているだけで、その後に万太郎に何やら狼藉を働くような気配は全く窺えないのでありました。
 前方の威治前宗家よりも、万太郎は後ろの方で不穏な空気の揺らぎを感じ取るのでありました。その不穏な気圧は、万太郎の方に急速に近づいて来るのでありました。

 万太郎はひょっとしてそんな事もあろうかと、洞甲斐氏が幹部と紹介した二人と、相撲とプロレスのしくじり甥っ子兄弟が後ろに控えた時点で、予め備えはしていたのでありました。いざとなったらそう云う魂胆であろう事は、この場にこの四人が現れたと云うだけで誰だって容易に想像がつくと云うものでありますし、またそう云う威嚇的意図も大いにあって、洞甲斐氏は四人をここにこうして立ちあわせているのでありましょうから。
 力強い大きな掌が後ろから伸びてきて、万太郎の左肩をムンズと掴もうとするのでありました。近づく熱感から推測すれば、恐らくこの掌の持ち主は白Tシャツにバーミューダパンツの、しくじり兄弟のずんぐりむっくりの方でありましょう。
 万太郎は完全に掴まれる一瞬前に、自ら肩をその掌の中に知れないように嵌めこんで、秘かに自分優位に密着を得るのでありました。これは受動的に掴まれる、と云うのではなく、こちらが主導して敢えて掴ませると云う、実は武道的な後の先の理であります。
(続)

お前の番だ! 531 [お前の番だ! 18 創作]

 大きな掌は肩を掴んで後ろに引き倒そうと狙っていると読んだ万太郎は、引きの入る寸前に、右膝を軸に自ら体を開いて相手の動きにあわせて後ろに向き直るのでありました。見ればそれは予想通り、しくじり兄弟のずんぐりむっくりの方でありました。
 動きに出遅れて万太郎の体を引き倒す事の出来なかったずんぐりむっくりは、どうやって万太郎に自分の力が往なされたのかが判らないようでありました。ずんぐりむっくりは目の前に姿勢の崩れもなく正坐の儘無表情に自分を見ている万太郎の顔を、分厚く腫れた上下の瞼の奥に半ば隠れた眼で、戸惑ったように見ているのでありました。
 そこにずんぐりむっくりの動きの空白が発生するのでありました。その虚に乗じて万太郎が空かさず右膝から一歩大きく膝行しながらその顎を下から掌底で鋭く突き上げれば、彼の者は体を仰け反らせてあっさり仰向けに転倒して仕舞うのでありました。
 肩を掴んだ儘のずんぐりむっくりの右腕に顎を仕留めた掌を素早く移動させてその肘を伸び切らせると、万太郎は圧迫をかけて極めるのでありました。ずんぐりむっくりは肘の痛みに耐えかねて万太郎の誘導通り横にゴロリと反転して俯せになるでありました。
 万太郎が肘肩の極めを緩めずにその腕を背中にきつく畳めば、まあこれで一丁上がりであります。一丁上げて周りを見回すと、万太郎を囲む全員が立ち上がっているのでありましたが、皆及び腰でその場で茫然と突っ立っていると云う態でありました。
 万太郎が仕上げにずんぐりむっくりの肘の屈曲を限界域まで強めると、決定的に破壊はしない迄も、その肘は手応えとして暫くの間は使いものにならない程度に極まるのでありました。その一瞬、ずんぐりむっくりは大袈裟な悲鳴を上げるのでありました。
 皆が立ち上がっているのに自分だけ座っていると云うのも何やら無愛想と云うものだから、万太郎はゆっくりと立つのでありました。万太郎を囲む輪が、その万太郎の立ち上る動きにあわせて、臆するようにやや広がるのでありました。
 万太郎は立った後に一渡り皆の顔を見回すのでありました。ほぼ全員が動揺を隠せないで固まっているのでありましたが、しくじり兄弟の片割れのノッポだけは未だ目に意志があって、それは敵意に満ちた眼光を万太郎に注いでいるのでありました。
 万太郎はノッポの顔に半眼に開いた目を固定するのでありました。次に何か仕かけてくるとすれば、屹度この男以外ではないでありましょうから。
 万太郎に見入られた坊主頭のノッポは、ややたじろいだ色をその剥いた目に浮かべるのでありました。しかし自分の実の兄だか弟だかが酷い目に遭わされたと云うのに、ここで手出しも何もしないで気後れした儘であるのは、これは麗しき兄弟愛に悖ると云うものだし、自分達兄弟を呼んだ洞甲斐氏の期待にも背くとすぐに覚悟したようであります。
 意を決したような表情をして、ノッポは万太郎の方にじわりと一歩踏み出すのでありました。万太郎は身じろぎ一つせずにそれを見ているのでありました。
 万太郎の異様な静けさを警戒して、ノッポの顔に逡巡が浮くのでありました。何かしらの、突貫するきっかけを待っていると云うところでありましょうか。
 万太郎は横に垂らしていた右腕を無精そうにノッポの方に差し出すのでありました。それから掌が上を向くように、その腕をこれもゆっくり半回旋させるのでありました。
(続)

お前の番だ! 532 [お前の番だ! 18 創作]

 ノッポが万太郎の掌に注意を向けているのを確認して、万太郎は人差し指以外の指で握り拳を作って残った人差し指を鉤形に曲げると、それを小さく曲げ伸ばしして見せるのでありました。要するにおいでおいでをしているのであります。
 この万太郎の嘗め切った仕草にノッポは逆上するのでありました。こんな嘲弄を受けて黙っているようでは人に頭抜けた自分の図体に対する裏切りと云うものであります。
 ノッポは両手を前に出して万太郎に掴みかかろうとするのでありました。万太郎はノッポの右手首に手刀を添えて右回旋してそれを避けると、往なされたノッポが急ぎ向き直ろうとするところに軽い当身を鼻先に突きだして見せれば、ノッポはいきなり目の前に現れたその裏拳を避けようと、上体を仰け反らせて顔を後ろに避けるのでありました。
 反ったノッポの右手首を両手で保持して空いた脇の空間に身を滑りこませると、ノッポは万太郎の背に覆いかぶさって来るのでありました。これは万太郎の狙い通りで、万太郎は急激に屈した身を延ばして肩車にノッポの体を跳ね上げるのでありました。
 なかなかに重いのでありましたが、万太郎がバランスを崩す事はないのでありました。ノッポは万太郎の肩の上で大きく半回転すると頭から畳に落下するのでありました。
 万太郎は床にノッポの頭が接する寸前に、持った両手に引きをかけてノッポの頭からの落下を避けるのでありましたが、これは万太郎の優恤の配慮であります。この配慮のお蔭でノッポは致命傷を負うべき頭からの落下を免れたものの、逆にそこで急速な回転がついて、背中から受け身も取れずに強か畳に叩きつけられる格好になるのでありました。
 廃屋同然のオンボロ道場でありましたから、この衝撃でひょっとしたら道場が崩れ落ちるのではないかと万太郎は少々心配するのでありました。しかし如何にも大袈裟な振動を万太郎の足の裏に伝えただけで、どうやら建物は健在でありました。
 ノッポは背中の強打に依って一瞬呼吸が出来なくなって、呻きながら俯せに身を返して蹲り踠くのでありました。ノッポの巨躯をあっさり投げ捨てた万太郎の手際に驚愕して、万太郎を囲む二本歯抜けになった輪が更に万太郎から遠のくのでありました。
 見渡すと威治前宗家は神棚下の壁まで後退して、それ以上万太郎から遠のく事が出来ないために、恐怖に顔を歪めて、仰向けに圧し潰された蜘蛛のように壁にしっかりと貼りついているのでありました。洞甲斐氏はと云えばその場に居竦んで、体中の力が抜けたように茫然と佇立した儘、床で呻くノッポの姿をぼんやりと眺めているのでありました。
 二人の幹部の普段着の方は、目の前で転がって身悶えしているノッポとその横で俯せの状態から何とか座り姿勢にはなったものの、痛めた肩をもう片方の手で労わり抑えて、前屈みに痛みに耐えているずんぐりむっくりを介抱する事もなく、万太郎から恐怖に引き攣った目を離さずに、未だジワジワと遠ざかっているのでありました。最後にダブルの白背広の方に目を向けると、ただ目線があったと云うだけでこの男は大仰な悲鳴を上げて両手を宙に泳がせて、道場玄関口まで後ろ向きにすっ飛んで逃げて行くのでありました。
 その悲鳴の大きさに万太郎の方がたじろぐくらいでありました。しかしこれまたどうしたわけか背にした玄関引き戸が出し抜けにガラと開いたものだから、男は不意を突かれて同じ音量の悲鳴を再度発して、今度は前に向かって逃げ出すのでありました。
(続)
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