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お前の番だ! 488 [お前の番だ! 17 創作]

「そうですね。・・・花司馬先生から頑なさと声の矢鱈に大きいところを引いて、穏やかな表情と静かで落ち着いた喋り方を足したような感じですかねえ」
「ふうん」
 あゆみはこの万太郎の判るような判らないような解説に、無抑揚な声で返事をするのでありました。「田依里さんは花司馬先生と同い歳くらいの人?」
「多分同年配だと思います。まあ、雰囲気としては花司馬先生と似ているところもあり、似ていないところもあり、と云った感じですねえ。体格とかは似ていますが」
 万太郎は無意味に、曖昧さを余計につけ足して仕舞うのでありました。
「そう聞いただけじゃ何となく為人が、今一つはっきりしないわね」
「想像するよりも、あゆみさんもその内八王子に指導に行った折に逢う事もあるでしょうから、その時にでもご自分の目できっちり確かめてみてください」
「あたしも居酒屋とかに誘われるのかしら?」
「多分そうでしょうね。来間も誘われたくらいですから」
「ところで、堂下君は前に比べて随分と変わったわね」
 あゆみが堂下の事に話しを移すのでありました。
「そうですね。興堂派で内弟子をしていた頃より何となく佇まいが堂々としてきましたね。道分先生のご逝去以来あいつも色々あったでしょうから、鍛えられたのでしょう」
「そうね。確かに逞しくなったわね」
「田依里さんと出会ったのも、堂下の変貌に大きく作用しているようです」
「へえ、そうなんだ」
 あゆみが少し瞠目するのでありました。
「道分先生が亡くなって以来、ようやく信頼出来る人に巡り逢ったような気がする、なんて僕にちらっと云っていましたから」
「堂下君にそんな事を云わせる田依里さんに、あたし益々興味が湧いてきたわ」
 あゆみはそう云って万太郎に含みのあるような笑みを向けるのでありました。万太郎としてはそんなあゆみの様子が面白くない気もしないでもないのでありました。
「ま、八王子の稽古後に居酒屋に誘われた時に、ご自身の目でしっかり田依里さんの為人を観察してください。その方が僕がここで色々云うより確かだし」
 万太郎は然程はっきりではないにしろ、今までの話しぶりよりは多少突慳貪にそう云ってコーヒーカップを取り上げるのでありました。その時万太郎はあゆみの顔から目を離したので確とは判らなかったのでありますが、万太郎のその反応に、あゆみが少しく満足気な笑み等を浮かべたような風情が目の端にちらと映り過ぎるのでありました。
「この頃少年部の会員が増えたわね」
 あゆみが話頭を変えるのでありました。
「そうですね。常時の稽古の人数が二十人以上になりましたかね」
 万太郎はコーヒーカップを受け皿に戻して、あゆみの顔に目を戻すのでありました。
「あそこまで増えると道場が手狭に感じるわね」
(続)
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お前の番だ! 489 [お前の番だ! 17 創作]

「未だ々々増えそうな気配ですよ。保護者や子供同士で学校の友達に声をかけて連れて来たりするから、募集広告なんかしなくとも結構広まりましたね」
「まあ、いろんな小学校から、と云うのじゃなくて一つの小学校に偏っているけどね」
 あゆみはそう云いながらコーヒーカップを取り上げるのでありました。
「最初はそんなものでしょう。他の校区の子供でも、何かの折に一人でも入れば、そこからまた何人か一緒に通い出しますよ。子供の情報伝播力や影響力は侮れませんから」
「今以上増えると、パンク状態になるわね」
「週一回を、二回とか三回に増やす必要がありますね。そうやって人数をふり分けないと、指導の目が行き届かなくなって稽古の質も、それに安全性も落ちますからね」
「確かにそうね。・・・」
「それに入門随時ですから、入ってきた時期によって子供の熟度が違ってきますし、上達の具合も子供に依って区々ですから、夫々に指導者がつくとすれば指導の方が幾人居ても追いつかない事になります。そう云う意味で指導の体系を見直す必要もありますし」
「実際にやってみると、色々問題が出てくるわね」
 あゆみはコーヒーカップを口元に止めて溜息をつくのでありました。
「言葉の難解さもあります。相手の後方四十五度に転身しろとか云っても、子供にとっては何の事やらさっぱり要領を得ないでしょう。それは確かに少し慣れた子供は習い性でそれっぽくは動きますが、動きの軸も何もあったものじゃない。それより何より、先ず角度の理解が曖昧だし、体軸とか重心軸とか云う言葉も理解できていませんからね」
「そうね。子供にも理解出来る言葉で指導をすると云うのは難しいわね」
「相手との接点ではなくその先に力を作用させると云う意味で、伝播性のある力、なんて大人の稽古では普通に使いますが、大人は初心者でもその言葉のニュアンスなりとも感じ取ろうとするけど、子供はチンプンカンプンとなると遠慮なくそっぽを向きます」
「それはそうね」
 あゆみはコーヒーカップを受け皿に戻して頷くのでありました。
「子供にも判る簡単な言葉に云い換えると、その言葉の持つ微妙な陰影が失われる場合もあります。つるっとした平滑なだけの言葉で技を習ってきた子供は、大人になって常勝流の技の力加減と云うのか、微妙な程の良さが上手く腹に収まらない危険もあります」
「その加減の理解を子供に期待するのは少し無理なような気がするわね」
「少しどころか、全く無理ですし無意味です。大人でも手古摺るところですから」
「何か万ちゃんと話していると、絶望的になってくるわね」
 あゆみはまた溜息を漏らすのでありました。
「少年部の責任者であるあゆみさんが絶望してはいけません」
 万太郎は空かさず柔らかく、少しく冗談ぽい口調で窘めるのでありました。「少年部指導の狙いを、我々指導者の中でもう一度明確にしておく必要があります。常勝流武道はあくまでも大人の武道ですから、大人になっても滑らかにその稽古の中に移行できるような素地を育てるのが、子供に常勝流を教える第一の狙いであると僕は思うのです」
(続)
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お前の番だ! 490 [お前の番だ! 17 創作]

「そう云うこちらの狙いはあるとしても、武道を習わせる事で親御さんが何をあたし達に期待しているのか、と云う問題もあるわ」
「親御さんから月謝をいただいている以上それも大切な課題です。しかし武道の持つ厳しい雰囲気とか、何だかよく判らない指導者の言葉の中で一時間、じっと耐えられるようになると云うのも、立派に武道的な修行の成果ではあります。体力や胆力をつけるとか礼儀作法習得とかの個別要件は、それはそう云う中で結局付随的に身につくものだと僕は思います。勿論、彼等の興味を喚起する事は、指導上のテクニックとして必要ですが」
「でも自分が段々強くなっているとか、出来なかった技が何とか熟せるようになってきたとか、そう云った具体的な実感が子供達の中に生まれないと矢張り続かないでしょう」
「実感、ですか。・・・まあそうですね。稽古が好きで通って来ている子は確かに少ないでしょうし、親に云われてとか友達同士の遊びの延長と云うところが大概でしょうしね」
 万太郎はコーヒーを一口啜るのでありました。冷えたコーヒーは先程の一口よりも幾分苦くなっているような気がするのでありました。
「大人になってからの稽古がスムーズに出来るようになるため、なんて説いても子供達にはチンプンカンプンで理解出来ないだろうし、厳しい雰囲気の中で一時間過ごす事で自分が成長している、なんて如何にもこちらが好都合なように思ってくれるよりは、大体の子供は益々稽古が嫌いになっていくだけじゃないかしらね。テクニックとして子供達の興味を喚起する、とか万ちゃんは簡単に云うけど、そこがなかなか大変なところなのよ」
「でも僕や来間なんかが幾ら云ってもちっとも云う事を聞かないくせに、あゆみさんの云う事は結構素直に、子供たちは聞いてくれているじゃないですか」
「別にあたしは、何らかのテクニックを用いている心算じゃないけど」
「ああそうですか。僕はその秘訣を明快に伺いたいと考えていたのですが」
「そんなもの、あるわけないじゃない」
 あゆみは口をへの字にして首を横にふるのでありました。
「そうすると結局、あゆみさんの人徳とか雰囲気、と云うところに帰すのでしょうかねえ。つまり、あゆみさんが子供が好きだから、向こうもそれが判ってあゆみさんの事を信頼しているとか、まあ、そう云った構図として理解すべきなのでしょうかねえ」
「子供が好きかと訊かれれば、それは好きだと応えるけど、でもそんな抽象的で曖昧な事が決定打と云うのも、何か面白くない結論ね」
「でもご自身で、これと云ったはっきりした秘訣は思い当たらないのでしょう?」
「それは全然、思い当たらないわね」
 あゆみは至極あっさりとそう云うのでありました。そのあゆみの言葉を聞きながら、気が気を呼びこむ、と云う言葉を万太郎はふと思いつくのでありました。
 これは随分前に内弟子の剣術稽古で是路総士から聞いた言葉でありました。後の先、先の先、或いは、先先の先、と云う、対峙状態にある相手への武技の発動契機の機微についてのものでありますが、相手との対抗関係が最高潮に達して、今にも間合いをつめて互いに武技を仕かけようとするそのタイミングについての言葉でありましたか。
(続)
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お前の番だ! 491 [お前の番だ! 17 創作]

「後の先でも先の先でも構わんが、今だ、とこちらが思って技を仕かけようとした刹那、相手が不意に親愛に満ちた目でニッコリと笑って見せたら、折野はどうする?」
 是路総士は万太郎にそう訊くのでありました。
「それは多分、一瞬たじろいで、二の足を踏みます」
「それが相手の手管で、そこにつけこまれるかも知れんぞ」
「そうと判っていても、多分僕はたじろぎます」
「一瞬後に、そう云う手管だと判明しても、もう立て直す暇はないぞ」
 例えば堂下クラスが相手なら万太郎はたじろがないでありましょう。しかしこれが是路総士を始めとする格上の高位者となると、間違いなくたじろぐでありましょう。
「たじろぐかそうでないかは、相手に依って違うような気もしますが。・・・」
「生死がかかっている勝負では、誰が相手であろうとたじろいではいかんだろう」
「たじろいでも、誰よりも早く一歩引く動作に僕は自信がありまして、それを以って何とか相手の一撃目を先ずは躱します。多分、誰であろうとも」
「私が相手でもか?」
 是路総士にそう訊かれて万太郎は暫し考えるように小首を傾げて黙るのでありました。
「総士先生が相手だとしても、僕はこの必殺の一歩下がりを試みます」
「必殺の一歩下がり、か」
 是路総士は万太郎の言葉をなぞってから愉快そうに笑うのでありました。「妙な手だが、確かにタイミングを読むのに長けていて、相当にすばしっこいお前の事だから、そう云うのも案外有効かもしれんな。しかしその時点で気勢ではもう負けているから、後を立て直すのは至難の業と云える。一撃目は躱せても二撃目で倒されるかも知れない」
「それは確かにそうですが。・・・」
 万太郎は眉根を寄せて困じた表情をするのでありました。「総士先生なら、相手が不意にニッコリ笑ったとしたら、如何されますか?」
「私は、相手がニッコリ笑う前にこちらが笑うさ」
 これは是路総士なら出来るだろうと万太郎は思うのでありました。先先の先の機微を体得していて使い熟せる是路総士なら、相手が意表を突こうとしてニッコリ笑う事、或いはそこまではっきりではないにしろ、何やら胡散臭い手で意表を突こうと企んでいる気配を疾く感じ取って、対峙した時点で既に心を用意する事が出来るでありましょう。
「そうなると攻守が一瞬に逆転して、相手がたじろぐと事になりますかね。それで相手の怯みに乗じて、総士先生が先をお取りになると云う寸法ですね」
「いや、相手の及び腰に乗じて先を取る心算は更々ない」
 万太郎はそう云う是路総士の心機を読み切れないのでありました。
「ああそうですか。・・・では、その後はどうなさるのですか?」
「そう云う局面で笑う以上、私は心底から親愛の笑いを相手に送る」
「つまり、・・・勝負する事を止めると云う事でしょうか?」
「何よりも、そうなれば慎に結構と云うもの」
(続)
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お前の番だ! 492 [お前の番だ! 17 創作]

 是路総士は頷くのでありました。「しかしその笑いには威がなくてはならん。それも巧まれた威ではなく、長い修行に明け暮れた末に身につけた覚悟からの、自然に滲み出る迫力と云うものがなければいかんだろう。そうでないと人を打つ笑いは笑えないだろうよ」
 これは是路総士だからこそ云えるものでありましょう。万太郎は自分にそう云う威が備わっているとは到底思えないのでありました。
「僕にはそう云った種類の笑いは出来そうにありません。第一に、そんな迫力を身につけるには、未だ修業歴が僕には決定的に足りないように思いますし」
「気が気を呼びこむものだ。こちらに邪気があれば相手の邪気を呼びこむし、こちらが無邪気であれば相手も無邪気になる。こちらが元気であれば相手も元気になるし、呑気なら相手も呑気だ。好い気になっていれば相手も好い気になるし、こちらが本気を出せば相手も本気になる。勝負では、気と気が呼応する。そう云うものだ」
「しかしそうは云っても、相手の気をこちらが貰って仕舞う場合もあると思います。相手が陰気だからこちらも陰気になるとか」
「その場合、どちらの気が強いか或いは優っているかが、遣るか貰うかの分かれ目だな」
「気の強さ、ですか。・・・」
 万太郎は、気の強さ、と云う言葉で、脈絡もなくどうしたものかあゆみの顔をふと思い浮かべて仕舞うのでありました。言葉の意味あいが違うと云う事は承知しながらも。
「大気が小気を自然に同調させる。武道の修業とは、畢竟、大気を錬る事だと云える」
「大気を錬るとどうなりますか?」
「物事を一瞬で思い切る覚悟が出来る。これはなかなかに強い」
「一瞬で思い切る覚悟、ですか。・・・」
 万太郎は判るでもない判らないでもない曖昧な表情を浮かべているのでありました。
「お前は在りし日の道分さんがそうであったように、後の先で動き出す時の見切りが人よりも早いから、誰よりも早く大気を獲得するのに資質は充分と云えるかも知れんな」
 この是路総士の言葉は、単に万太郎を持ち上げて発奮させようとする言葉であるのか、それとも掛け値なしの評言であるのか、万太郎には確とは判らないのでありました。
「しかし僕は未だ大気を手に入れておりませんから、暫くは暫定的な手段として、相手がニッコリ笑ったなら、取り敢えず素早く一歩下がります」
 万太郎がそう云うと是路総士はニッコリと笑って見せるのでありました。ここでは勿論、万太郎は即座に一歩下がらずに是路総士の大気に釣られて微笑むのでありましたが。
「・・・要するにあゆみさんの大気に、子供達が思わず同調させられているのでしょうね」
 万太郎はすっかり冷め切ったコーヒーを一口飲むのでありました。
「どう云う事?」
 向いに座るあゆみがやや身を乗り出して万太郎の顔を覗きこむのでありました。
「大気のあゆみさんがニッコリ笑うから、小気の子供がたじろぐのです。その一瞬であゆみさんの主導権が絶対的に確立されて、子供達はあっさりあゆみさんに従うしかなくなるわけです。つまり修業歴と人間の差が歴然とそこに現れていると云う事なのでしょう」
(続)
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お前の番だ! 493 [お前の番だ! 17 創作]

「何それ? 云っている事が良く理解できないんだけど」
「いやまあ、良いです」
 万太郎は掌を横に何度かふって見せるのでありました。「僕なんぞは子供達が僕の云う事を聞かないとすぐに声を荒げて仕舞うのですが、これはつまり怒気が怒気を呼びこむだけで、僕が子供達のそんな呼応性を、意ならず引き出しているのでしょう。ところがあゆみさんはそこでニッコリ笑うわけです。ここが僕とは違うところですね」
 万太郎は自得するように数度頷くのでありました。
「あたし別に稽古中はニッコリなんて笑わないけど」
「顔がニッコリしなくとも、心がニッコリするのです。子供にはそれが判るのです」
「それって、日頃の万ちゃんには似つかわしくない、如何にも抒情的な表現ね」
 あゆみは戸惑うような笑いを万太郎に送るのでありました。
「まあ取り敢えず、僕にそう出来るかどうかは別の話しですが、どうして子供があゆみさんに心服しているのか、何となくその秘訣の一端が判ったような気がします」
 万太郎はあゆみの戸惑いにお構いなく、勝手に一つ頷いて見せるのでありました。
「あたしにはさっぱり判らないわ、万ちゃんが今、一体何を納得したのか」
 あゆみは狐に摘まれたような顔で、首を横に何度かふるのでありました。
「いやまあそれはそれとして、ところで少年部の時間を週にもう一齣増やすと云う点、それに少年部の指導で使用する言葉の問題とかは向後どうしますかね?」
「時間を増やすのは多分大丈夫でしょうし、お父さんも了承してくれると思うけど、今現在の一齣の中の人数を二齣にしてどう割りふるかは、子供達の都合もあるだろうから、これから色々保護者と話しあう必要もあるわね。言葉の問題は、万ちゃんと一度しっかりつめてから、花司馬先生や注連ちゃんの意見も聞くと云う段取りになるかしらね」
「そうですね。では近々二人でじっくり話しあうと致しましょう」
 万太郎は嬉しそうに笑いながらコーヒーをすっかり飲み干すのでありました。

 午前の稽古が終わったところで、来間が万太郎に耳打ちするのでありました。
「どうやら威治宗家が、興堂流を辞めたようですよ」
「興堂流を辞めた?」
 万太郎は全く意外な情報に目を剥いて、思わず来間に顔を寄せるのでありました。「辞めたって、それはつまり興堂流と云う自分の流派を解散したという事か?」
「いや、興堂流はその儘です。そこの総帥の地位を辞したと云う事です」
 来間はより小声になるのでありましたが、それは事が事なだけに、未だ道場に居残っている門下生達に迂闊に聞かれては拙いと云う配慮からでありましょう。
「少し詳しく聞こうか」
 万太郎は来間を師範控えの間に連れて行くのでありました。是路総士や鳥枝範士、それに寄敷範士が不在で、それに何か不都合でもない限り、万太郎とあゆみ、それに花司馬教士は師範控えの間を自由に使用して構わないと云うお許しが出ているのでありました。
(続)
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お前の番だ! 494 [お前の番だ! 17 創作]

「宗家の金銭上の不始末が発覚したのが、辞した理由のようです」
 師範控えの間で万太郎と二人だけになったにも関わらず、来間は未だ声を潜めるような喋り方をしているのでありました。
「ああそうだ」
 万太郎はふと気づいたように来間の顔の前に掌を差し出して、話しを一旦遮るのでありました。「あゆみさんを呼んできてくれ。その話しはあゆみさんと二人で聞こう」
 来間は頷いて、すぐに食堂にあゆみを呼びに行くのでありました。
「何、何の話し?」
 師範控えの間に入ってきたあゆみが万太郎に話しかけながら、卓の左側に座るのでありました。上座を遠慮して右側に座っている万太郎と対座する容であります。
「何でも来間の情報に依ると、威治宗家が興堂流の総帥の地位を辞したらしいのです」
 万太郎はあゆみにそう云ってから下座に座る来間の方に顔を向けるのでありました。それに釣られるように、あゆみも来間の方に視線を移すのでありました。
「金銭上の不始末が発覚したらしいのですね」
 来間が小声の儘で前言をあゆみに向かって繰り返すのでありました。
「具体的にはどういう事だ?」
 万太郎が先を促すのでありました。
「興堂流の金を宗家が私的に流用した、と云う事のようです。まあ、要するに横領ですから、自ら退いたという体裁になっていますが、事実上の懲戒免職、と云う話しです」
「それは間違いのない情報なのか?」
「自分が仕入れたところでは」
 来間はしかつめ顔をして重々しく頷くのでありました。
「事実上の免職を決めたのは興堂派の理事会か?」
「いや、興堂派会長の一存で自発的な辞職と云う容にしたと云う事です。理事会の総意で免職、と云う事になると話しが大袈裟になって様々な方面に対してあれこれ面倒だし、世間体も悪いと云うので、会長が差しで宗家に話しをつけて、なるべく素早くスムーズに事を収めるために、個人都合に依る辞職と云う格好を取ったのだと云う話しですね」
「まあ、そう云う事にした方が、威治宗家にとっても好都合ではあろうしなあ」
 万太郎は差し当たり、納得気に頷くのでありました。
「でも、興堂流は一応、財団法人なんだから、そんな処理で大丈夫なのかしら?」
 あゆみが疑問を呈するのでありました。
「そう云えばそうですよね。外部の監査とかも入るだろうし、空いた穴を塞げないとなると、色々な方面に対してあっさりとはなかなかいかないでしょうしね」
 万太郎はこちらにも頷いて見せるのでありました。
「事が発覚した以上、横領した金は威治宗家が弁済すると云う事のようですし、会長の政治力と、会計処理に些かの策を弄すれば、監査とかの外面は何とか繕えるのではないでしょうかね。そう云手練手管はあの会長のお家芸だと云う話しもありますし」
(続)
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お前の番だ! 495 [お前の番だ! 17 創作]

「着服した金額は一体幾らなのかしら?」
 あゆみが首を傾げながら来間に訊くのでありました。
「詳しくは判りませんが数千万円単位と云う話しです」
 相変わらず来間はヒソヒソ声で応えるのでありました。
「それはかなりな額じゃない。威治さんに弁済する能力があるのかしら?」
「道分先生はなかなかの資産家でいらしたから、遺産の事を考えれば、そのくらいなら多分大丈夫なのではないでしょうか。まあ、僕には確かなところは判りませんが」
 万太郎が思いつきの推測を述べるのでありました。
「威治さん一人がその資産の全額を相続したのなら大丈夫でしょうけど、あちらにはお兄さんがいらっしゃるでしょう?」
「威治宗家だけの力じゃあ無理だとしても、お兄さんは興堂流の理事でもありますから、亡くなった道分先生のお名前を汚さないためなら、その辺は協力されるのじゃないですか、いたく渋いお顔はされるとしても。何はさて置き弟御の不始末なのですから」
「その辺が大丈夫なら、隠密裏に事を片づける事は出来そうだけどね」
 あゆみが万太郎に頷いて見せるのでありました。
「威治宗家は解任された後、どうするのだろう?」
 万太郎は来間の方に目を遣るのでありました。
「さあ、それは判りません。ある日唐突に、威治宗家が興堂流総帥を辞した旨の簡単な報告文が、道場の掲示板に張り出されていたと云うのですから」
「宗家と云う立場は、その儘なのかな?」
「いや、宗家も辞める、或いは辞めさせられるんじゃないかと云う話しです」
「それはそうだろうな。そんな人が宗家じゃあ、興堂流は立つ瀬もなかろうし」
 万太郎は頷くのでありました。
「宗家は、お兄さんが継承されるのじゃないかと云う噂です」
「それはその方が無難な線か」
「でも、お兄さんは学校の先生をしていらして、武道には全く無関係な方でしょう?」
 あゆみがまた首を傾げるのでありました。
「まあしかし、名目だけとは云え興堂流の理事の一人でもいらっしゃいますし、血統を絶やさないと云う一点で、実技を全く修めた事のない血縁者が道統を継ぐ、なんという例は世間にはざらに、とは云わないまでも、間々にある話しではないでしょうかね」
「それはそうだけど」
 万太郎の観測に納得の斤量が少ないのか、あゆみは今度は頷かないのでありました。
「何れにしても、威治宗家は向後、興堂流とは全くの無関係な人となるのかな?」
 万太郎はまた来間の方に視線を移すのでありました。
「恐らくそうなるでしょう。そんな背信行為をした人と関わりを持ち続けるのは、興堂流の方が真っ平ご免被りたいところでしょうから」
 来間は興堂流に成り変わってげんなり顔をして見せるのでありました。
(続)
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お前の番だ! 496 [お前の番だ! 17 創作]

「そうすると興堂流の、運営面は理事会の意向もあるだろうから別としても、技術面に関しては田依里さんがトップに立つと云う事になるのだろうなあ」
「そうですね。実際のところ以前からそんな風ではありましたが、それがこれからは名実伴にそうなると云う按配でしょうね」
「そうね。前から実技では田依里さんが率いているようなものだったから、今の興堂流の技法や稽古の仕方に照らせば、その方がスッキリ実態にあうような気もするわね」
 あゆみがあれこれ考える風の表情をして、呟くように云うのでありました。
「そうですね。既に常勝流興堂派の色あいはすっかり薄まって仕舞っていて、今では技も武道的な考え方も別物の、田依里流、と云う風に云えますからね」
 万太郎が納得気に頷くのでありました。
「それにしても、門下生がまたまた減るんじゃないかしら?」
 あゆみは無関係な他派の事ながらも運営面での危惧を表明するのでありました。
「しかし前の威治宗家の場合と違って、今度は組織がより健全に変わると云う事になりますから、門下生の目には立て直しと映るのではないでしょうかね?」
 万太郎がまた憶測を述べるのでありました。
「確かに門下生達の動揺する気配は余り見られないようです。それよりは寧ろ、大方のところは歓迎するような雰囲気のようですね。要するに田依里さんの人望の方が宗家より数段優っているのですから、門下生にとっては返って好都合な事となるのでしょうし」
 事情通の来間が興堂派内部の空気なぞを紹介するのでありました。
「威治さんは結局、何処ででも疎んじられる役回りばかりね」
 あゆみがふと、溜息交じりにそんな事を呟くのでありました。そう呟くあゆみ自身も、嘗ては威治宗家、いやもう、前宗家、と云うべきでありましょうが、その人を、見事に疎んじた内の一人なのではありますけれど。・・・
 三人がそんな話しをしているところに、準内弟子の片倉が昼食はどうするのかと師範控えの間に訊きに来るのでありました。存外万太郎とあゆみと来間の話しが長引いているようなので、待ち草臥れて様子伺いにやって来たのでありましょう。
 その日、総本部道場に来ている準内弟子は片倉と高尾とジョージの三人でありました。万太郎は障子戸越しにすぐに食堂に戻ると云って片倉を下がらせるのでありました。
「威治前宗家のこの件は、総士先生はもうご存知なのだろうか?」
 話しをここで一段落として、立ち上がりながら万太郎が来間に訊くのでありました。
「鳥枝先生辺りから、既にお聞きになっているのではないでしょうか」
 一緒に腰を上げながら来間が応えるのでありました。
「ああそうか。鳥枝先生は向こうの理事に知りあいがおありだからな」
「そうね。でも今夜にでもお父さんにはあたしからちらと、一応伝えるわ」
 あゆみも立ち上がるのでありました。
「そうですね。まあ、気にはなりますが他派の動向ですから、総本部運営者全員で以って、その件で態々打ちあわせの場を設ける必要はないのでしょうし」
(続)
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お前の番だ! 497 [お前の番だ! 17 創作]

 三人は来間を先導として廊下を食堂の方に歩むのでありました。万太郎はこの場ではそう云うのでありましたが、しかし後日是路総士を始め鳥枝範士も寄敷範士も、それに花司馬教士にあゆみに万太郎も加えて、その件で話しあいの場が持たれるのでありました。

 鳥枝範士は猪口をグイと空けるのでありました。空かさず来間は徳利を取って鳥枝範士の空いた猪口に日本酒を満たすのでありました。
「何でも使いこみがバレて、会長に引導を渡されたようですな。何ともさもしい辞め方ですが、まあ、威治らしいと云えば如何にも威治らしいとも云えましょうかなあ」
 鳥枝範士は是路総士に向かってそう云ってまた猪口を空けるのでありました。興堂派の威治前宗家が辞職した経緯は、先に来間に聞いた話しと大方一致するのでありました。
「彼奴は、興堂派は自分の専有物だと端から思っていたようだから、興堂派の金と自分の金との区別が全くつかずに有耶無耶だったのだろうなあ。呆れたものだが」
 寄敷範士も同じく、花司馬教士が差した自分の酒を飲み干すのでありました。
「だから、その場に同席したワシの知りあいの理事に依れば、どうして会長がそんな無体な説教をするのか、と云った顔をして威治は会長の怒声を聞いていたそうだ」
「万事に鈍い、と云えばそれまでだが」
 寄敷範士は花司馬教士から徳利を受け取って、それを花司馬教士が恭しそうに手にしている猪口に差し返すのでありました。
「開き直りではなく本気で、どうして自分が非難されなければならないのか、と云ったその場での威治の無愛想面が目に見えるようですよ」
 花司馬教士がそう云って皮肉な笑いを口の端に浮かべるのでありました。
「威治君はその金を何に使ったのかな?」
 是路総士が鳥枝範士に訊くのでありました。
「銀座のバーのホステスに入れ上げていて、その女の云いなりに、ブランド品の服やバッグや貴金属の代金を貢いでいたと云う事です。まあ、そのバーの飲み食いの代金も、当然興堂派の金から出していたのでしょう。それに飽く事なき女の要求に応えるために、株で一儲けしようと企んで、素人のお定まり通り大損したと云うのもあったようですな」
「いやはや、何とも下衆な」
 寄敷範士が小さく吐き捨てるのでありました。
「如何程使いこんだのかな?」
 是路総士が万太郎の酌を受けながら訊くのでありました。
「二千万余りだそうです」
 鳥枝範士がそう云って渋い顔をして見せるのでありました。威治前宗家が着服した金額に関しても来間に聞いた通りでありました。
「どうしてバレたのかな。外部の監査でも入ったのかい?」
 寄敷範士が鳥枝範士の猪口に酒を注ぎながら訊くのでありました。
「腰巾着の筈の事務長が会長にチクッたらしい」
(続)
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お前の番だ! 498 [お前の番だ! 17 創作]

 これは万太郎としては初耳でありました。来間はその辺の具体的な事情に関しては、あんまり通じてはいなかったようであります。
「その事務長とやらは威治がどこからか拾ってきたヤツじゃないのかね?」
「そうらしいが、威治ばかり良い目を見ていて自分へのお零れにはケチなところに不満だったのだろう。まあ、威治の不正を糺すと云う正義面を装ってはいたろうが、不満があったとしても今までに自分もそのお零れに与っていたわけだから、事務長のヤツは間抜けにも自分の首も一緒に締めたようなものだ。こちらの方も馬鹿丸出しと云うわけだ」
 鳥枝範士は猪口を空けた後に冷笑を口の端に浮かべるのでありました。
「身を切ってまでも、何とか威治に吠え面をかかせてやりたいと云う了見かな?」
 寄敷範士は事務長とやらの心根を忖度して見せるのでありました。
「何れにしても、品性下劣な奴原が品性下劣なすったもんだをやらかしたと云う事だ」
「で、向こうの会長は威治を呼びつけてあっさり辞めさせたと云う経緯か。まあ、懲戒処分とはしないで自主退職扱いにしたのは、勿論興堂流の体面を気遣ってと云う面もあろうが、僅かながらも威治に対して、惻隠の情を示したと云う事になろうかな」
「会長たる自分の体裁を気にしたのが九で、威治に対する惻隠の情が一だな」
 鳥枝範士はそう云って鼻を鳴らすのでありました。「要するに威治が全額弁済すると云う条件を飲んだから自主退職扱いとしたのだろう。威治にそれを飲ませるに当たって、こちらが刑事告発したらお前は監獄に入る事になるぞとか、そうなれば社会的に抹殺されるぞとか色々脅したに違いないが、それでも虚けの威治がその売り言葉を買ったりでもしたらと内心は冷や々々していたろうよ。世間に明るみに出れば会長の体面も傷がつくし」
「まあ、狸の会長だから、その辺の腹芸は心得たものだろう」
「威治なんかでは到底太刀打ち出来まいよ」
 鳥枝範士はどう云う心算か、自分の腹を掌で一つ打って見せるのでありました。
「聞くまでもないが、事務長とやらも辞めさせられたのだろう?」
「そうだな。しかしこちらへは口止め料のつもりか、幾らかの退職金を出したそうだ」
「しかし威治を裏切ったヤツだから、会長のそんな思惑も裏切るかも知れない」
「抜かりなくこちらへもたっぷり脅しをかけているだろうよ」
「成程ね。それはそうだな」
 寄敷範士は辟易の表情で頷くのでありました。
「辞めた威治君は、今はどうしているのかな?」
 今まで黙って、如何にもゆったりとした手つきで酒を口に運びながら、鳥枝範士と寄敷範士の遣り取りを聞いていた是路総士が訊ねるのでありました。
「その辺は情報がありません。今のところ自宅に逼塞しているものと思われます」
「万事に反省のない男ですから、それでもちっとも懲りずに、銀座のバーの女とやらの処に通っているのではないでしょうかね」
 花司馬教士が口を挟むのでありました。
「ま、充分考えられる事だが。・・・」
(続)
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お前の番だ! 499 [お前の番だ! 17 創作]

 鳥枝範士はそう云って花司馬教士に含み笑って見せるのでありました。「しかし威治にはもう貢ぐ金の出処がないだろう。そんな威治には女としても興味もなかろうし」
「成程。まあ確かに、素の儘でもモテる、なんと云うような男ではありませんからね」
 花司馬教士は特に憫笑を浮かべて見せるわけでもなく、全くの無感情の顔で、納得したように数度頷いて見せるのでありました。
「興堂流は、その後はどのような形で運営されているのだろう?」
 是路総士が別の面に話しを移すのでありました。
「威治は殆ど顔も見せなくなっていたから、稽古の上では別に問題は生じていないと云う事ですな。今まで通りの、田依里を主とする指導体制に変化はないそうです」
 鳥枝範士がそう応えて、来間の注いだ猪口の酒を口に運ぶのでありました。「前から実質的に田依里が今現在の興堂流の技術を総覧していましたし、元々威治なんぞは居ても居なくてもどうでも良い存在になっていましたからねえ」
「組織の運営面ではどうですかな?」
「会長の息のかかった公認会計士が入っているそうです。すっかり専属に会計等を見ると云うのではないようですが、適宜目を光らせているようです」
「日常的な事務はどうなっているのでしょうかな?」
「堂下が事務も兼任しているようです。所帯も昔に比べれば随分縮んで仕舞っていますから、そう云う形でも充分熟せるのでしょう。これは余談になりますが、田依里にも堂下にも、威治が宗家だった頃に比べればそれなりの待遇改善がなされたようです。堂下なんかは威治の頃よりは現在の方が、余程有難い扱いになったと云うところでしょうな」
「組織的には寧ろ、色んなところが明朗になったと云うわけかな?」
 寄敷範士が花司馬教士の傾ける徳利を猪口に受けながら質すのでありました。
「まあ、そうなるな。未だこれから先、あれこれ体制上の細かい変遷はあるとは思うが、しかし何につけても疎漏のない田依里が、名目も実質も興堂流を主導する事になるのだから、威治の頃の様な万事に有耶無耶だった辺りはなくなるだろうよ」
「結構な事だ」
 寄敷範士はそう云ってグイと日本酒を喉に送りこむのでありました。
「まあ、興堂流は心配ないようですが、今後の威治君個人に関しては心配ですなあ」
 是路総士がそんな事を漏らすのでありました。
「身から出た錆、と云うものです」
「それはそうだが、私は威治君を後見すると道分さんに約束していたからなあ」
「総士先生の後見役は、筋としては威治が常勝流から独立した時点で解消されております。総士先生が気に病まれる必要は、もうないと思われますが」
 鳥枝範士が来間から徳利を取って是路総士に差しかけるのでありました。
「しかし亡くなった道分さんと私の仲を考えれば、遺児の威治君の身に対して全く無関係と云う態度を決めこむのも、私としては何とも心苦しい」
 是路総士は少し苦った表情で鳥枝範士の酌を受けるのでありました。
(続)
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お前の番だ! 500 [お前の番だ! 17 創作]

「お気持ちは充分お察しいたしますが、総士先生のご寛恕を受け取るかどうかは相手の威治次第です。威治にその気がないのなら、如何とも仕様がありません」
 寄敷範士が慰めるような事を云うのでありました。
「その通りですな。それに威治に今までの自分の非を悔いて身を慎む用意がなければ、総士先生が何か手を差し伸べられたとしても、それは単なる甘やかしになって仕舞います。それでは威治のためにもよろしくないでしょう。ここは向後の威治がどんな動きをするのかじっくり見ておくべきでしょう。寛恕を示すのはそれからでも遅くはありませんぞ」
 鳥枝範士の意見は是路総士を慰めると云うよりは、威治前宗家に対する冷淡と不信感からのもののように万太郎には見えるのでありました。
「威治君は私に何か援助を求めてくるでしょうかな?」
 是路総士はそう云ってあれこれ考えるような顔をするのでありました。
「それはどうですかな。道分先生の遺産を無駄に食い潰して、どうにもこうにも切羽つまったら、ひょっとしたら金の無心になんぞ来るかも知れませんな」
「いやそれはなかろうよ」
 寄敷範士が猪口を持った反対側の掌を、鳥枝範士に向かってひらひらと横に動かすのでありました。「意地っ張りで人一倍体裁屋の威治の事だから、どんなに窮しても総士先生にはそんな情けない姿は見せまいとするだろう。色々経緯があって自ら袂を分かった常勝流に、結局浅ましく屈服したと思われるのは、彼奴のプライドが許さんだろうからねえ」
「道分先生の御曹司であるところをちやほやする連中が未だ居る内は、それは彼奴のプライドも立っていられただろうが、その代表格の興堂流会長にきっぱり見捨てられたのだから、もうそろそろ昏倒してもおかしくない。意地っ張りで体裁屋の小人が昏倒すると、取り乱して支離滅裂に何を仕出かすか知れたものじゃないから、ないとも限らんよ」
 鳥枝範士のこの言にも、威治前宗家に対する心底からの侮りが満ち溢れているのでありました。そう云う鳥枝範士の心機は前から知れた事なのではありましたが、それは父君の道分範士が偉大であっただけに、返ってその分余計にその子たる威治前宗家が不幸にも割を食っている所為かも知れないと、万太郎は考えるともなく考えるのでありました。
「威治の血筋や名前を評価する連中、或いはそれを未だ利用価値ありと考えてちやほやする連中なんぞは、興堂流会長の他にはもう誰も居ないのかな?」
 寄敷範士がそんな疑問を呈するのでありました。
「まあ、全く居ない事もなかろうが、少なくともその中に大物と呼ばれる者は居ないだろうよ。それに自分の隠した不埒な魂胆のために上手く利用しようとしてちやほやするだけで、本当に威治と云う存在を尊く思っているヤツなんか一人も居まいよ」
「しかし誰であれそんな連中が未だ居る限り、威治のプライドは立った儘なのだね?」
「ま、そうなるかな。しかしそのプライドそのものが如何にもショボクレたものだが」
「ショボクレていようと、プライドはプライドだから、総士先生が寛恕のお心をお持ちだとしても、未だ当分総士先生の出る幕は来そうにはありませんなあ」
 寄敷範士がそう云って猪口をグイと呷るのでありました。
(続)
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お前の番だ! 501 [お前の番だ! 17 創作]

「これを或る種の潮として、威治君に関わる諸事が好転するなら良いのだが」
 是路総士がそう云って猪口を卓上に置くのでありました。「まあ、興堂流や威治君の動向については粗方判りました。それでこちらがすぐにどうこうすると云うのではないけれど、一応そう云う事情を心の隅に置いておく事は不必要ではないと思います」
 これがこの談話の何となくの締め括りの言葉となるのでありました。後は、飲み足りない一同は他愛ない四方山話しに興じながら、暫時杯を重ね続けるのでありました。

 崖上の石が一つ転がると、連鎖反応でもう一つ、また一つと別の石が転がり始めるのでありました。と云うのは威治前宗家が興堂流を退いて未だそれ程間が空かない内に、今度は興堂流会長がその職を降りたと云う話しが伝わってくるのでありました。
「武道興堂流会長、と云う役職が、実質にも名刺の飾りにも資さないと判断して、あっさり見限ったのだろうよ。それに威治の横領事件が若し将来公にでもなれば、寧ろ自分の名前に傷がつく恐れもあるので、手を切るに如くはないと判断したのだろう」
 これは鳥枝範士の言でありました。恐らく大概はそう云ったところでありましょう。
「表向きは、今次の威治前宗家の不始末の件で、会長としての監督責任が全うできなかったため、と云う尤もらしい理由からのようですが」
 万太郎がそう返すと鳥枝範士は冷笑を口の端に浮かべて鼻を鳴らすのでありました。
「彼奴はそんな殊勝らしい男なんかじゃなかろうよ。それは辞職するための体の良い方便であってだなあ、本心は早々に、そんな胡散臭い団体とは縁切りしたいと云う、自分本位の都合だけで辞めたのは目に見えているではないか」
「今まで長くその職にあったわけですから、会長としての興堂流への愛着とか、亡き道分先生への情義のようなものはなかったのでしょうかね?」
「そんなものを期待する方が無理だ。徹頭徹尾自分本位な男だよ、彼奴は」
 鳥枝範士だけではなく寄敷範士の方も同じような感想のようでありました。
「保守の政治家らしく、日本的な伝統芸能とかに漠然とした憧憬があるだけで、元々武道には無関心な人だったからなあ。道分先生との交誼も、異世界の多士済々とのつきあいが広いと云う辺りで自分を装飾しようと云う、他力本願的な魂胆の一環に過ぎなかったし、それに選挙の折に幾らかの票の足しにもなるとかの実際的理由からだっただろうから、興堂流への薄情は疾うに知れていた。引き際の尤もらしい、ある意味で無難で妥当な理由として、威治の仕出かした今回のごたごたを利用したと見るのが真面な線だろうな」
 花司馬教士もほぼ同意見でありましたが、こんな事をつけ加えるのでありました。
「あの会長は元々、道分先生の実子と云う事以外、威治を何も買ってはいませんでしたからねえ。寧ろ全くの無能者扱いで、とことん見縊っていましたね。それから、前に道分先生が亡くなられた時も会長を辞めると一旦は云い出したのですが、その時は未だ、道分興堂先生の常勝流興堂派、と云う看板に大いに魅力があったので思い止まっただけです」
「今はもう、大方魅力も失せたから、冷淡に棄てたと云う事ですか?」
「ま、冷淡に、と云うか、計算高く、ですね」
(続)
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お前の番だ! 502 [お前の番だ! 17 創作]

 是路総士はと云えば、ああそうか、と特段声の抑揚もつけずに無表情に頷いて見せるだけでありました。しかしそれは興堂流会長の辞職と云う事態に全く無関心と云う事ではなくて、揉め事を抱えた他派の動向に逐一好奇の目を向けると云う行為が、甚だ以って卑しい心情からのものだとして、慎む方が良かろうとする節度からでありましょうか。
 出来不出来は別として興堂範士の直系である威治前宗家も、功罪は別として長年組織を取り纏めていた財団会長も去った興堂流は、これから一体どのような道を進むのでありましょう。残った理事連中と田依里師範が向後どんな方向を打ち出して運営に当たるかは、間接ながらも源流たる常勝流に関係がある事と云えなくもないでありましょうから、ここは是路総士も他人事として無関心の儘を決めこんでいる事は出来ないでありましょう。
 以前興堂流が常勝流から独立した時のように、常勝流総本部の傘下に入りたいと願ってくる興堂流支部等がまたも出るやも知れません。しかし今では技術の様相も全く違ってきているのでありますから、それをおいそれと認めるわけにはいかないでありましょう。
 それに威治前宗家と違って、総本部とは友好的なつきあいを望んでいる筈の田依里師範との関係もありますから、その許諾なしに来たい者を無条件に拒まないと云うのも、田依里師範に対する友好的な常勝流総本部の姿勢とは云えないと云うものであります。しかしまあ、事が起こる前にあれこれ取り越し苦労しても詮ない事でもありますし、ここは一つデンと構えて、クールにこれからの推移を見守っていくしかないでありましょうか。
 万太郎がこんな事を考えながら日を送っていると、ある日突然田依里師範から是路総士へ面会を申しこむ電話が入るのでありました。この電話は偶然万太郎が取ったのでありましたが、電話の向こうの声が田依里と名乗るのを聞いて、万太郎はほんの少し緊張を覚えて、思わず右手で持って右耳に当てていた受話器を左手に持ち替えるのでありました。
 しかし全くの不意から思わず緊張を覚えたと云う事ではなくて、万太郎は田依里師範が遠からぬ何時かこちらに接触を求めてくるかも知れないと、特に根拠があるわけではないながら予知はしていたのでありました。でありますから万太郎のこの緊張は、いよいよその予知が当たった事への少しの感奮からであったと云うべきものでありましょうか。
 その時これも偶々是路総士が留守であったものだから、万太郎は後程是路総士に伺いを立ててこちらから連絡すると、それだけ丁重な物腰で云い置いて受話器を置くのでありました。万太郎としてはその後の動向を田依里師範に聞いてみたくもあったのでありましたが、それは自分如きが僭越の誹りを免れ得ないと思い止まったのでありました。
 この電話から遠からぬ或る日、田依里師範は興堂流財団理事を一人伴って、調布の総本部道場にやって来るのでありました、伴った理事とは佐栗真寿史理事で、件の鳥枝範士と繋がりのある、広島の須地賀氏と伴に前に総本部に来た事がるのでありました。
 万太郎の出迎えで玄関を上がった二人は、早速師範控えの間に招じ入れられるのでありました。控えの間には是路総士を筆頭に鳥枝範士と寄敷範士それに花司馬教士もあゆみも揃っているのでありました。勿論万太郎も案内後その儘その場に座るのでありました。
 総本郡道場の主立つ者勢揃いと云う按配でありました。しかしこれは総本部の威を見せつけるためではなく、興堂流のその後に皆が関心を抱いているが故でありました。
(続)
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