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お前の番だ! 473 [お前の番だ! 16 創作]

 その後、洞甲斐先生の消息をふつと聞かなくなるのでありました。それまで洞甲斐先生の一派は八王子の体育館で定期的に稽古をしていたのでありましたが、万太郎がひょっと気づいてみると、それが何時しかなくなっているのでありましたし、他の市内にある体育施設でも稽古をしている形跡は全く窺えないのでありました。
 洞甲斐先生は自宅に八畳間二つを、仕切りを外して十六畳にした小さな道場を持っていると聞き及んではいたので、そこでの稽古だけに専念しているのでありましょうか。それともひょっとしたら、すっかり武道から足を洗って仕舞ったのでありましょうか。
 これは万太郎の小さな気がかりにはなりましたか。総本部への移籍を断った経緯があるのだから、それも原因の一つとして洞甲斐先生が活躍の場を失くしたと云うのなら、万太郎としては多少の済まなさも感じないわけではないのでありました。
 まあ良きにつけ悪きにつけ、到って楽観思考の洞甲斐先生の事でありますから、何処か万太郎の窺い知れない別天地で屹度、例の瞬間活殺法とやらに磨きをかけているのかも知れませんし、武道よりは神秘主義的な活動の方に重点を移したのかも知れません。いずれにしても、もう万太郎とは関わりの薄い人となって仕舞ったのではありますか。
 しかしながらその洞甲斐先生の消息が、思わぬところから知れるのでありました。それは八王子支部に出張指導に来ていた体育館で、今は興堂派の指導員で興堂範士の最後の内弟子となった堂下善郎が、万太郎の前に突然現れた事からでありました。

 洞甲斐先生の時と同じで、常勝流八王子支部が使用している体育館の武道場の出入り口に立っている男が、ふと目があった万太郎にお辞儀して見せるのでありました。万太郎はすぐにそれが、前から見知っている堂下である事を認知するのでありました。
「おや、堂下じゃないか」
 万太郎は不審気な面持ちをして、刺子のない一枚布の空手着に黒帯を締めた姿の堂下に近づいて行って声をかけるのでありました。
「ご無沙汰しています」
 堂下は多少ぎごちない笑顔を向けてもう一度頭を下げるのでありました。
「何だ、どうしてお前がここに、しかも稽古着姿で居るんだ?」
「今度興堂流の八王子の稽古を本部が引き継ぐ事になったので、ちょっとご挨拶に」
 堂下はそう云い終ってまたもや低頭するのでありました。
「興堂流は洞甲斐先生が八王子を統括しているじゃなかったのか?」
「この前まではそうでしたが、洞甲斐先生は興堂流を除名になったので、今後は本部師範が出張して指導に当たる事になったのです」
「洞甲斐先生は興堂流を除名になったのか?」
 万太郎は思わず眉宇を曇らせるのでありました。「それはまた、一体どうした按配でそんな無粋で荒けない仕儀になって仕舞ったんだ?」
 早晩洞甲斐先生は興堂流を辞するであろうとは予想していた事でありました。しかし除名となると、些か穏やかならぬ辞め方と云うべきではありませんか。
(続)
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お前の番だ! 474 [お前の番だ! 16 創作]

「宗家先生の再三の指令を全くお聞きにならないもので。・・・」
 堂下は眉宇を曇らせながら云うのでありました。
「宗家の指令とは一体何だ?」
「新しく制定した組手の形をちゃんと指導しろとか、年に二回ある選手権大会に八王子の門下生を必ず出場させろとか、本部に納める登録料を滞納するなとか、まあ、色々と」
「ふうん」
「他にもあれこれ除名理由はあるのですが、まあ、それは内部の事なので。・・・」
 堂下はそう云ってその後を曖昧に濁すのでありました。
「しかし除名とは、なかなか思い切った処置だな」
「もっと穏当な取り計らいをと云う意見もあったのですが、宗家先生のお怒りが相当なもので、結局除名処分と云う仕儀になったのです」
「そう云う処置について門外の自分が何か云うのは控えるけれど、・・・」
 万太郎はそう云って顎を撫でるのでありました。「しかし驚いたな」
「洞甲斐先生のされている活動と、それに宗家先生のご気性から、お察しください」
 堂下は興醒め気に眉を少し寄せて見せるのでありました。
「ところで、組手の形を新しく制定したのか?」
「ええ。今の本部筆頭師範が組形稽古を取り入れなければ技が上達しないとおっしゃって、宗家の許可を得て殆ど総ての形、八本ですが、それを考案されたのです」
「ほう。失礼な云い方だが、宗家もなかなか上達論が判っているじゃないか」
「いや、宗家は形の制定には何も関与されていません。総て筆頭師範の仕事です」
「筆頭師範と云うのは、・・・?」
「前に実戦派の空手をされていた人で、田依里成介と云う人です」
 堂下は筆頭師範の名前を云って俄かに、自分がここに現れた理由を思い出したと云う顔をするのでありました。「その田依里が今日こちらで指導しておりまして、若し可能ならば今後ともご交誼をいただきたいので、折野先生にご挨拶をしたいと申しております」
「それはご丁寧な事だが」
 万太郎がそう云った辺りで門下生の一人が近寄って来て、そろそろ次の技の指導をお願いしたいと、お辞儀しながら申し出るのでありました。万太郎は、ああうっかりしていた、と云った顔をして頷いてから堂下の方にもう一度顔を向けるのでありました。
「それじゃあ稽古が終わってから、若し良ければ体育館の一階ロビー辺りでお逢い願えたらと、その田依里先生にお伝えしてくれないか?」
「判りました。そう伝えます」
 堂下はそう云って万太郎に一礼してから武道場を離れるのでありました。
 稽古が終了して着替えも済んで、万太郎と門下生達が体育館一階のロビーに行くと、堂下とその横に、それが田依里成介筆頭師範であろう二人が立っているのでありました。田依里筆頭師範はなかなか立派な体躯をした花司馬教士と同年配と思しき人で、堂下とお揃いの、胸元に興堂流と名入れした紺色のスポーツウェアを着ているのでありました。
(続)
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お前の番だ! 475 [お前の番だ! 16 創作]

 万太郎が一列横隊に並んだ門下生達と別れの挨拶とお辞儀を終えるまで、二人は少し離れた処で控えているのでありました。万太郎がその後二人に近づいて行くと、二人は万太郎より先に、やや深めに低頭して見せるのでありました。
「急遽にお呼び立てしたようで、慎に申しわけございません。この後に何かご用でもおありだったのではないでしょうか?」
 田依里筆頭師範が万太郎に恐懼の顔を向けるのでありました。
「いえ、普段だとこれから、八王子の門下生達と食事に行くだけですから」
「ああ、それをお邪魔したような形になって、恐縮に存じます」
 田依里筆頭師範はまたもや深めに頭を下げて見せるのでありました。実戦系の空手流派崩れで、今は到底良好とは云えない因縁のある興堂流の筆頭師範をしているのでありますから、もう少し尊大な態度で万太郎に対するかと思っていたのでありましたが、存外に低姿勢であるものだから万太郎は少々面食らって仕舞うのでありました。
 ひょっとしたら丁度良い折と、喧嘩でも売る心算かとも当初は疑ったのでありました。しかしこの田依里筆頭師範の低姿勢は、一体全体どんな了見に依るのでありましょう。
「食事だけですから、恐縮を頂く程の事ではありません」
 万太郎は警戒を未だ心の隅に残しつつお辞儀を返すのでありました。
「申し遅れました。私は興堂流の筆頭師範を務めております田依里成介と申します。空手の方は少々嗜みがありますが、常勝流に関しては経験の浅い私が、興堂流の筆頭師範を務めるのは慎に畏れ多い事なのですが、行きがかり上こういう仕儀になっております」
「いや、今では常勝流とは一線を画された興堂流なのですから。・・・」
 万太郎は後の言葉を濁してから、語調を改めるのでありました。「こちらこそ申し遅れました。常勝流総本部道場の教士をしております折野万太郎と申します」
「折野先生のお名前は、以前から存じ上げております」
 田依里筆頭師範はあくまでも辞を低く保つのでありました。「それに私としてはあくまでも、興堂流は今でも常勝流の流れを汲んでいると思っておりますから、勝手な云い分に聞こえるかも知れませんが、常勝流に対する畏敬の念は常に保持しております」
 これはなかなか、威治宗家とは趣が違って、話しの出来る人かも知れないと万太郎は内心驚くのでありました。威治宗家は常勝流とは絶縁した心算でありましょうが、そこの筆頭師範が今、常勝流とは無関係ではないと万太郎に云っているのであります。
「あのう、お話し中ですが、もうすぐ体育館が閉まりますので場所を変えませんか?」
 今まで脇に立った儘黙っていた堂下が横から言葉を挟むのでありました。
「ああそうだな」
 田依里筆頭師範はちらと堂下を見て、その後でまたすぐに万太郎の方に視線を戻すのでありました。「若し億劫でいらっしゃらないならば近くの居酒屋か、食事の出来る処に場所を移してゆっくりしたいと存じますが、折野先生のご都合等は如何でしょう?」
「良いですね。おつきあいさせていただきます」
 万太郎は笑い顔を見せて頷くのでありました。
(続)
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お前の番だ! 476 [お前の番だ! 16 創作]

 三人は体育館近くの居酒屋に席を移すのでありました。注文したビールを待つ手持無沙汰の間に、万太郎は対面に座る田依里筆頭師範に言葉を向けるのでありました。
「先程そこの堂下さんに伺ったところ、洞甲斐先生は興堂流を辞められたとか」
 万太郎は田依里筆頭師範の横に居る堂下の方をちらと見るのでありました。
「折野先生、以前の儘の、敬称略、でお願いします」
 空かさず堂下が、頭を掻きながら万太郎に決まり悪そうな笑いを送るのでありました。
「折野先生、どうぞ何のお気遣いもなく、前通りに呼び捨てにしてやってください」
 田依里筆頭師範が云って万太郎に軽く低頭して見せるのでありました。
「ああそうですか。では向後はそうさせていただきます」
 万太郎もお辞儀を返すのでありました。丁度そこへつき出しの小皿と伴にビールの大ジョッキが運ばれてきたので、三人は初対面及び再会の挨拶代わりに、伏し目をしながら夫々のジョッキを目線の高さまで持ち上げて見せるのでありました。
「洞甲斐先生に関しては、なかなか本部の指示を尊重していただけませんでしたし、それより何より、八王子の支部が本部派の門下生と洞甲斐先生派とに分裂したような状態になって仕舞いまして、本部派の方が多数だったために洞甲斐先生の方が身を引かれたと云う形になったのです。それで私共が新たに指導に乗り出したと云う経緯です」
 田依里筆頭師範が大雑把に説明するのでありました。
「立ち入った事をお聞きするようですが、洞甲斐先生は今の田依里先生のご説明よりはもっと穏やかならぬ形で興堂流を辞められたと、先程堂下から聞いたのですが?」
 万太郎はやや遠慮がちにそう訊くのでありました。
「洞甲斐先生は除名になったと、さっき自分がもう云って仕舞いましたよ」
 堂下が横の田依里筆頭師範の方に首を捻じるのでありました。
「ああそうなのか」
 田依里筆頭師範は万太郎に向かって苦笑って見せるのでありました。
「まあ、内部の事として話し難い事でしたら、これ以上伺う事は慎みますが」
 万太郎はその苦笑いの謂いを察するように云うのでありました。
「私としましてはそう云う荒けない仕方よりは、例えば分派とか云う結果を模索もしたのですが、宗家の、破門と云う意向がどうしても覆せませんでしたので。・・・」
 と云う事は、洞甲斐先生の除名処分は威治宗家の強い意と云う事になるでありましょうが、洞甲斐先生は威治宗家の勘気を招くような何事かを仕出かしたのでありましょうか。それとも洞甲斐先生の興堂派に於ける在りよう自体に、威治宗家が苦々しさを覚えていて、八王子の分裂騒動を除名の方便として使ったと云う事なのでありましょうか。
「洞甲斐先生は以前からあのようなお方でしたから、興堂派でも浮いた存在であったろうとは僕にも想像出来ます。その辺が破門の実の理由と云うところでしょうかねえ?」
 万太郎はそう云いながらジョッキを口に運ぶのでありました。
「まあ、流派の実体を守るための宗家の苦渋の判断、とも概観出来るでしょうか」
 田依里筆頭師範はやや無理をするような表情で、そう総括して見せるのでありました。
(続)
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お前の番だ! 477 [お前の番だ! 16 創作]

 それ以上の探索は他流派の内部事情に属する事柄でありましょうから、万太郎の方も控えるのでありました。洞甲斐先生が早晩興堂流を離れる事になろうと云うのは当然予想される結果の内でありましたし、その予想通りに事が進んだと云うだけであります。
「洞甲斐先生の時は、確か他の曜日に体育館を使用されていたようですが?」
 万太郎は話題を少し変えるのでありました。
「はい。しかし本部の指導となった以上本部の都合もありますし、今までの週二回の稽古を週一回として曜日を変えたのです。まあそれが偶々、常勝流の皆さんが稽古される曜日と同じとなったので、それで今日、折野先生にご挨拶出来たと云うわけです」
「興堂流の稽古は畳敷きの道場を使わないで大丈夫なのですか?」
「ええ。技術としては旧興堂派以来の投げ技も固め技もありますが、打撃とか蹴り技の稽古の方が主になりますから、板張りの処でも構わないのです」
 そこで田依里筆頭師範は、あああそうかと云うような顔をするのでありました。「ああ、向後我々は畳敷きの武道場ではなく、板張りのホールの方を使用いたしますので、常勝流の皆さんとの稽古場所の取りあい等は決して致す心算はございませんから」
 別に万太郎はそこを心配して先の質問をしたわけではないのでありましたが、まあ、そう聞いて些か安堵も覚えるのでありました。
「ああそうですか。それは助かりますね」
「この先は、友好的におつきあいさせていただきたいと考えておりますから」
 田依里筆頭師範はそう云って律義らしく万太郎にお辞儀して見せるのでありました。しかし田依里筆頭師範がそう云う了見であったとしても、興堂流が常勝流の名前を棄てた経緯から鑑みて、威治宗家もそうであるとは限らないと万太郎は考えるのでありました。
 それならば田依里筆頭師範の今日の万太郎への接触は、威治宗家の意を体したものと云うのではなくて、田依里筆頭師範の独断と見た方が良いでありましょう。田依里筆頭師範と威治宗家の間に、ひょっとしたらここに来て隙間風のようなものが吹き始めたのかも知れないと忖度するのは、果たして万太郎のお先走りでありましょうや。

 話しに依ると、後日八王子に出張指導に行った寄敷範士も、興堂流の田依里筆頭師範から挨拶を受けて、その後に万太郎と同じように居酒屋で持て成されたと云う事でありました。花司馬教士からもそう聞くのでありましたし、偶々鳥枝範士の急遽の拠ない欠席に依り一人で初めて指導に行った来間も、流石に結果として教士補の身分で居酒屋での接待は遠慮したものの、田依里筆頭師範からの丁寧な挨拶は受けたと云う事でありました。
「威治とは違って、なかなかしっかりとした人物と見たぞ」
 寄敷範士に依る田依里筆頭師範の評判は上々のようでありました。
「助手として来ていた堂下が、すっかり頼りにして懐いているようでしたね」
 これは花司馬教士の感想であります。
「自分如きが云うのは烏滸がましいですが、誠実そうな方のようにお見受けしました」
 来間の印象もなかなかに好意的なものでありました。
(続)
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お前の番だ! 478 [お前の番だ! 16 創作]

「あの田依里さんと云う人は高校生の頃から空手をやっていて、或る実戦派の空手の団体の中ではかなりの腕前だったそうです」
 来間はそんな情報も万太郎に披露するのでありました。
「なかなか詳しいじゃないか」
 万太郎は少なからず興味をそそられるのでありました。
「まあ、調べられる範囲で、自分としても調べてみたのです。で、一時はその団体の試合大会なんかでは中量級の部で優勝の常連だったようですね。しかし或る時を境にして、全く試合に出なくなったと云う事です。未だ二十代で力も充実していた頃だそうです」
「ふうん。どうして試合から遠ざかったのかな?」
「それは判りませんが、どんなに勧められても頑として試合には出なかったようです。武道観と云うのか、心境がある日を境に変わって仕舞ったのでしょうかね。それで結局その団体をきっぱり辞めて、その後は伝統派の空手や合気道とか居合道を始めたらしいですね。これは、自分が求めているものがそれまでの空手では手に入らないと覚悟して、転向したと云う風に見えます。そう云う人を時たま見ますし、結局宗教や神秘主義の方に走ってみたりするのですが、あの田依里さんはそんな道には行かなかったようですね」
 来間の話しで万太郎は洞甲斐氏の事を思い浮かべるのでありました。しかし田依里筆頭師範の方には、洞甲斐先生よりは余程態度に真摯なところを感じるのでありましたが。
「自分の気持ちや実像に対して、生真面目な人なのかな?」
「行動から見ると、そう云うところも窺えますね」
 来間が続けるのでありました。「それで、暫くするとそう云う武道もあっさり辞めて仕舞って、今度は二三人の仲間と、また空手の修業を始めたと云うのです。それは特に誰かに師事すると云うのではなく、空手道稽古研究会と云う名前をつけて、極々内輪で研修稽古のような事をしていたと云う事です。なかなか激しい稽古だったらしいですよ」
「で、そう云う人がどう云う経緯で興堂派の指導員になったんだ?」
「田依里さんの知人が興堂流会長と知りあいで、その人の伝で、と云う事らしいです」
「しかし田依里さんが興堂流の指導員を引き受けたと云う事と、それまでの田依里さんの歩いてきた道とが自然にシンクロするようには全く見えないがなあ」
「その知人と云う人に大変な恩義があって、是非にと頼まれて断れなかったとか、或いは何か別に秘めた魂胆があっての事か、まあ、その辺は自分にも判りませんが」
「組織的に衰退して仕舞って、その上已むに已まれず常勝流から独立せざるを得なかった興堂流なら、自分が組織ごと乗っ取るに好都合かも知れないと踏んだのかな?」
 万太郎は敢えて人の悪い想像を披歴して見せるのでありました。
「それはどうでしょう。そんな事を考える人のようには見えませんでしたが」
「まあ、確かにそうだな。お前の話しからするとそんな政治性には無縁のようだし」
「もう少し調べられるだけ調べてみますよ」
 来間が一体何処からそんな情報を取ってくるのか、一方で万太郎は不思議でありました。これまでも来間は、色んな事に妙に事情通なところがあるのでありました。
(続)
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お前の番だ! 479 [お前の番だ! 16 創作]

 田依里筆頭師範が如何にして興堂流の指導員になったのかは、花司馬教士から多少は蓋然性のある情報を聞く事が出来るのでありました。花司馬教士の言に依ると田依里筆頭師範は威治宗家の、大学時代の上級生に当たる人なのだそうであります。
「ゼミか何かで一緒だったのか、それとも何らかの縁で遊び友達になったのか、或いは威治が道分先生の息子だと云うところに田依里氏が興味を持ったのか、その辺は窺い知れませんが、居酒屋で飲んだ時に田依里氏からそう云う話しを聞きましたよ」
「成程、大学の先輩後輩の仲ですか」
「田依里氏はその頃は空手一辺倒で、常勝流にはそんなに興味があったわけではないけど、道分先生の名前とかその活躍は良く知っていたと云う事です」
「その辺の縁で威治宗家が是非指導員にと声をかけたのですかね?」
「直接には会長の線が決定打でしょうが、そんな因縁も無関係ではないでしょうね」
「丁度良い機会で、道分先生の常勝流を齧る事が出来ると考えたのでしょうかね?」
「それは本人も云っていましたね。大学時代はそうでもなかった常勝流への興味が、合気道や居合道をやってみて、俄かに昂ってはいたのだと」
「しかし今の興堂流には、道分先生の技を本格的に受け継ぐ人は居ないのでは?」
 万太郎は疑問を表明するのでありました。
「確かにそうですね。板場はもう居ないし、威治じゃ全く心許ない。況や堂下ではどう仕様もない。まあ、板場が居たとしても道分先生の技を再現するのは無理でしょうが」
 花司馬教士は情けなさそうな顔をするのでありました。
「花司馬先生が居れば、田依里さんの思いも叶ったでしょうがね」
「いやいや、自分だってとてもとても」
 花司馬教士は顔の前で掌を何度も横にふって見せるのでありました。「田依里氏にもその辺を云ってはみたのです。威治の技を道分先生の技と勘違いしてはダメだとね」
「すると田依里さんはどんな顔をされましたか?」
 その折の田依里筆頭師範の反応に万太郎は興味を惹かれるのでありました。
「それはそうかも知れませんが、しかしまあ、一端はご教授していただいております、等とやや苦しそうに云っていましたね」
 まあ、無難な応えと云うべきでありましょうか。
「ところで花司馬先生、田依里氏に興堂流に戻らないかと誘われませんでしたか?」
 万太郎は冗談に紛らわしてそう聞いてみるのでありました。
「いや、そう云う気配は全く感じられませんでしたね」
 花司馬教士は至極真面目に応えるのでありました。「それはそうでしょう。どうせ自分の事を威治は周囲にぼろくそに云っているでしょうから、そんな自分を宗家の手前、リクルートするわけにはいきませんでしょうよ」
「威治宗家は花司馬先生の事をぼろくそに云っているのですか?」
「漏れ伝わるところに依れば、そうみたいですな」
「それはお門違いでしょうに」
(続)
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お前の番だ! 480 [お前の番だ! 16 創作]

「自分もそう思いますが、まあ気にもしません。判っている人には判っている事ですから。それにそんな戯言につきあっている暇もありません。云いたい奴には云わせておけば良いのです。勿論、男が廃るからこちらは一切何も反論しません」
「流石に花司馬先生、出来た態度だと思います」
 万太郎は敬服のお辞儀をして見せるのでありました。「しかしそんな花司馬先生にも、田依里さんは憚りなく接触してきたと云うのは、勘繰ってみれば何か威治宗家とは違った、田依里さん独自の思惑でもあっての事なのでしょうかね?」
「さあ、その辺は今の段階では何とも云えませんが、田依里氏の態度や会話する物腰からは、何やらの胡乱な魂胆なんかを秘めているようには見受けられませんでしたね。寧ろ如何にもこちらに敬意を表していると云う風に、全般として自分には感じられました」
 花司馬教士も田依里筆頭師範を全く悪くは云わないのでありました。寄敷範士になると、花司馬教士以上に田依里筆頭師範に好意的な印象を持ったようでありました。
「あの田依里と云う男は、なかなか人間が出来ているなあ」
 寄敷範士は感心したような表情をするのでありました。「話しぶりも控え目で落ち着いていて好感が持てる。私に対してあくまでも風下に徹していた。横に座っていた堂下が如何にも心服している風だったのが、あの男の誠実な人柄の左証のようにも思えた」
「確かに僕も、威治宗家とは全く趣の違った人のように感じました」
 万太郎は寄敷範士に頷いて見せるのでありました。
「何より、あの男はその威治に対する自分の評言を、一言も口にしないように注意しているところが好もしく見えたよ。屹度威治に対しては不満や云いたい愚痴も多々あろうと推測されるのだが、威治が宗家である事を最大限尊重して自戒しているのだろう」
「ああ確かに、そう云えばそんな感じを受けましたね、僕も」
 万太郎はもう一度頷づいて見せるのでありました。
「こちらが、威治の下じゃあ色々やり難かろうとか、威治の勝手放題で支離滅裂で、単なる思いつきみたいな指示に一々従わなければならないのは、大層気骨が折れるだろうとか水を向けてみても、いえ、宗家には大事にして貰っていますとか、筆頭師範としての自分の立場を尊重していただいておりますとか、そんなようなあっさりとした返答をして、悪口の欠片も口の外に出そうとしなかったな。あれはなかなか見上げた心根だ」
「そうですね。かといって無闇に持ち上げるような事もおっしゃらないですし」
「そうそう。恬淡としていて、しかしどんな場合でも矩は決して越えず、と云った心がけだな。自分の属ずる組織の顔、或いは上位者に対しては、それがどんなに虫の好かない嫌なヤツだとしても、外に対しては常にああいう清々しい態度でありたいものだな」
 寄敷範士は口の端に笑いを浮かべて、万太郎をジロリと睨むのでありました。
「押忍。僕も田依里さんみたいに在りたいと思います」
 別に是路総士や寄敷範士、或いは鳥枝範士を陰でとやこう云っているわけではないのでありましたが、何となく万太郎はその寄敷範士の言で、その点お前はどうなのだと問われているように感じて、竟々たじろぎなんかを覚えて仕舞うのでありました。
(続)
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お前の番だ! 481 [お前の番だ! 17 創作]

「若しも将来事情が許すようになったら、総本部道場にも稽古に伺いたいとも云っていたぞ。大きく変貌したとは云え、興堂流は常勝流から発したのは間違いのない事で、そこで指導をする者として、遅ればせながらも常勝流の理を学んでみたいのだそうだ」
「何でも宗家から常勝流の一端は習っていると、花司馬先生におっしゃったようです」
「威治からか?」
 寄敷範士は頓狂な声を発するのでありました。「そりゃ駄目だ。威治では話しにならん。彼奴のは常勝流本流ではないし、道分先生の技にしても全然受け継いではいない」
 寄敷範士は花司馬教士同様、全く以って鮸膠もないのでありました。
「さてしかし、将来事情が許せば、と云う事ですが、田依里さんがウチの道場に稽古にお見えになる日が、何時か来るのでしょうか?」
「威治が興堂流のトップにふんぞり返っている限り、当分は無理だろうな」
 寄敷範士は顰め面で首を横に何度かふるのでありました。「しかしまあ、あの田依里と云う男が筆頭師範を務めているのなら興堂流も、安泰とはいかんかも知れんが、一先ず落ち着くだろう。あの男なら門下生にも、支部長クラスにも評判は良かろうからなあ」
 寄敷範士は、今度は無表情をして首を縦に数度ふるのでありました。
 こう云った寄敷範士や花司馬教士の評言、それに来間の意見を踏まえた万太郎の田依里筆頭師範に対する感触等は、当然是路総士にも鳥枝範士にも、それにあゆみにも伝わるのでありました。是路総士は田依里筆頭師範に直接逢ってはいないから、特段の興味をそそられると云う程ではないようでありましたし、あゆみも同様にクールでありましたか。
 その点鳥枝範士は田依里筆頭師範のような人物が興堂流に現れたと云う事を、余り歓迎してはいない口ぶりでありました。と云うのも、鳥枝範士は興堂流がこの儘次第に衰弱していって、結局消滅して仕舞う事を期待しているようでありましたから。
「そんな人物が居るのなら、興堂流の命脈も少し延びるか」
 鳥枝範士は渋い顔をするのでありました。「威治やあの会長が結局二進も三進もいかなくなって、みすぼらしく武道界から遁ズラする時の吠え面が見てみたいと思っていたのだが、そうなるとワシのこの楽しみは少し先延ばしになるか」
 鳥枝範士はそんな憎まれ口を利いて、口の端に人の悪い笑みを湛えるのでありました。勿論万太郎は同じような渋面を作ってその意に同調するような事は控えるのでありましたが、これは調子に乗って若しそんな事をしたとすれば、逆に鳥枝範士の怒叱を誘発して、返って万太郎が吠え面をかく事になるのを知っているためでありました。

 万太郎が聞くところに依ると、威治宗家は稽古にも殆ど顔を出さないようになっているようでありました。この、聞くところ、の出処は、来間の情報や最近昔の誼が戻った堂下と、八王子の体育館で時折短く交わす近況話しの交換から得たものでありました。
 威治宗家は葛西の道場の師範室を一人で専有して、そこに最近普及し始めた高額のパソコンなんぞを持ちこんで、指導そっち退けでゲームに夢中になっていると云う事でありました。これは何とも実に、無責任且つお気楽な宗家であります。
(続)
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お前の番だ! 482 [お前の番だ! 17 創作]

 まあ考えてみれば実技指導の方は田依里筆頭師範が居るので、威治宗家なんぞの出る幕はないであろうし、元々が武道に対してそんなに気高い志操を有していた人でもなかろうから、つまりは成るべくして成った姿とも云えるのでありましょう。田依里筆頭師範にしても、それに門下生にしても、気紛れに稽古に出て来て大威張りで頓珍漢な指導をされるよりは、大人しく奥に引こんでいて貰った方が余程有難いと云うものでありますか。
 それに高額のパソコンを大した使い道も考慮せずに衝動的に購入する割には、この頃の威治宗家は万事に甚だ吝くもなったと云う堂下の話しでありました。道場の補修とか切れかかった電灯の買い替えなんかにも、一々渋い顔を見せると云うのであります。
 田依里筆頭師範の指導がそこまで行き届かないのか、堂下は威治宗家への愚痴やら悪感情をあっけらかんと万太郎に話したりするのでありました。今では堂下は他流派の指導員でもありますから、万太郎としてはそれを窘める事もしないのでありましたし、寧ろ堂下の話しから威治宗家の最近の様子などが窺い知れるので好都合とも云えましたか。
 出納に関しては、宗家が何処からか拾って来た四十代半ばのイカさない風貌の男が見ていると云う事でありました。この男の肩書は事務局長と云うものだそうであります。
 威治宗家は金銭の出入りを厳密に管理したり、出納帳や経費帳とか元帳をつけるなんという仕事は端からする気もないようで、金銭の出入りに敏感になった割にはそう云う仕事はこの男にすっかり任せているようでありました。威治宗家としては大凡の入った金出た金の様子がざっくりと判れば、それで事足りると云う了見なのでありましょう。
 欠かせない道場の畳の補修とかには金を出し惜しみするくせに、パソコンもそうでありますが、道場での自分の飲食費とか遊興費、或いは余所に対しての自分の見栄や体裁とかに使う金には、到って寛容なようでもありました。件の事務局長とやらもその宗家の魂胆に便乗させて貰って、少しのお零れに喜色を浮かべているようであります。
 それは当然、田依里筆頭師範や堂下、それに他の二三の指導員への給金もしみったれると云う事でありますし、そのくせに自分の懐に入れる金はしっかりと確保していると云う事でもありました。堂下としてはそ辺にも大いに憤っているようでありました。
 田依里筆頭師範以下の指導員連中の月々の給金は、時給計算なのだそうであります。しかも実働時間のみで算定されるので、例えば遠近の支部道場等に出張指導に赴く場合の、移動の時間等は全く考慮されはしないと云うのでありました。
 おまけに、各個に自立した傘下団体への出張指導はその団体から交通費が出るのでありましたが、本部直属団体への交通費はずうっと自腹だったのだそうであります。しかしまあ、最近は田依里筆頭師範の進言に依り実費は出るようになったようでありますが。
 元々他人には恥ずかしくて云えない程、まるっきり少額なところに加えての時給計算でありますから、風邪を引いたり忌引き等で休んだりすれば、その分の給金は一円も貰えないのであります。威治宗家としては若しもっと稼ぎたいのであれば、自分で支部でも創って門下生を一杯集めて自力で勝手に稼げ、と云う腹でいるようであります。
 要は、修行をさせて貰っている身で金の事をあれこれ云うな、と云うのが威治宗家の考えでもありますか。云う人が云うなら、それも一理かと万太郎は思うのでありました。
(続)
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お前の番だ! 483 [お前の番だ! 17 創作]

 考えてみれば自分の内弟子としての給金てえものは、ひょっとしたら堂下の貰っている給金よりも少ないかも知れないのであります。しかしながら食う事寝る処は保障されているのでありますから、その金はすっかり小遣いに出来るようなものでありますし、これと云った道楽もない万太郎であってみれば、寧ろ使い切れない程なのであります。
 花司馬教士は所帯持ちでありますから、家計を維持出来る額は出さなくてはならないわけでありますが、万太郎としてはそれは当然の処置と思うのみで、それに比べて道場を主導している筈の自分が殊更冷遇されている等とは露程も考えた事はないのであります。是路総士に対しても内弟子として師事させて貰っている事を感謝するだけであります。
 雇用と被雇用の関係、または労働の対価としての賃金、と云う見地から傍観すれば、この万太郎のあっけらかんとした心根なんぞは、労働者の風上にも置けない了見のようにも見えるでありましょう。或いは良いように扱き使われている愚か者のようにも。
 しかしどだい、武道を修行する者が損得勘定や生活の快適さ等を優先させていては、修まるものも修まらなくなると万太郎は考えるのであります。形として常勝流総本部道場に勤めを得ているのでありますが、万太郎の実質は武道修行者なのであって、それを被雇用者と云われて仕舞うと、何とも尻の落ち着き悪さを感じて仕舞うのであります。
 ところが堂下はどうしても損得の計算が先走るようになっているようでありました。それは恐らく堂下が威治宗家を師であると認めていない事に起因するのでありましょう。
 威治宗家に武道的力量にしても人間的信用にしても、師たるに足りる魅力が決定的に足りていないのが第一番目の理由ではありましょうが、堂下は威治宗家をある意味、見下しているのでありましょう。それは田依里筆頭師範の存在がある故でありましょうか。
 田依里筆頭師範とは直接の利害関係がない事もありましょうが、威治宗家よりは遥かに信頼に足る人物と堂下は見做しているようであります。確かに田依里筆頭師範は万太郎が見ても、なかなかに大した人物と見えるのであります。
 この田依里筆頭師範と比較すれば、威治宗家は自分の立場を笠に着た横着の仕放題だけの人物で、人を人とも思わずその事を屁とも思ってもいない、如何にも人間的な魅力に乏しい、底の浅い、取るに足らぬ人物に見えて仕舞うのでありましょう。田依里筆頭師範に心服する分余計に、堂下の威治宗家への軽蔑が増幅すると云うものでありますか。
 堂下は興堂派に残った、或いは早々に脱する機を逸した自分を悔いた事でありましょう。その堂下には田依里筆頭師範の存在が云ってみれば救いなのかも知れません。
 さて、こう云った威治宗家の評判は常勝流総本部道場の指導陣ばかりでなく、門下生達の間にも様々な尾鰭までついた形で伝わっているのでありました。恐らく嘗て興堂派に身を置いていた事のある移籍者辺りが、何処からか仄聞してきて齎すのでありましょうが、その者達は自分の移籍と云う選択が正しかった事を改めて再確認し、且つその正しさにより強固な裏づけを与えるためにあれやこれやの尾鰭も必要とするのでありましょう。
「威治は一体、この頃どうしちまったんだ?」
 鳥枝範士に万太郎は訊かれる事があるのでありました。「彼奴の虚け加減は今に始まった事じゃないが、それにしてもこの頃は輪をかけて酷いと云うじゃないか」
(続)
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お前の番だ! 484 [お前の番だ! 17 創作]

「それは僕も、八王子に行った時に堂下辺りからちょろっと、威治宗家の最近の動静等聞く事があります。まあ、堂下もあんまり好意的な事は云いません」
「田依里は何もお前に云わんのか?」
「そうですね。田依里さんは内輪の事情は決して外にはお話しなさいませんし」
「ああそうか。しかし堂下はお前に色々漏らすわけだな?」
「ええまあ。しかし堂下も、何もかもと云うわけではありません」
 万太郎は堂下が田依里筆頭師範に比べて、思慮の浅い迂闊な男と鳥枝範士に見做されるのを避けようと気遣ってそう返すのでありました。
「何でも、威治は最近、横着して道場に顔も見せんと云う事じゃないか?」
「いや、道場には毎日いらしているようです。金銭の出し入れを管理されているのですから、いらっしゃらないと道場の日常業務が滞るでしょうから」
「じゃあ、顔は出しているんだな?」
「堂下からはそのように聞いております」
「名前は忘れたが、何某とか云う自分が何処からか連れてきた番頭みたいなヤツに道場での出納はすっかり任せて、その番頭が昼頃、威治の家に立ち寄って金庫と帳簿を預かって行って、夜にまた来て威治にそれを返却するのだとワシは噂を聞いたが?」
「いや、そう云う事はないと思います」
 鳥枝範士が云うこの、番頭、とは、興堂流の事務局長の事でありましょう。
「道場に来ないのは何でも何処かのクラブのホステスに入れ上げていて、夜な々々その店に通っているからだとも聞いたのだが?」
「いや、そのような話しは、僕は知りません」
「堂下がそんな事を仄めかせてはいなかったか?」
「いや、特段そのような事は」
 それに関しては、堂下からは本当に聞き及んではいないのでありましたが。「ただ、道場にはいらしても、あまり稽古には顔出しされないようですが」
「稽古には出ないのか?」
「田依里さんが殆ど稽古を仕切っていらっしゃるようですから」
「成程。威治の出る幕はないか」
 鳥枝範士はそう云って納得気に頷くのでありました。
「それじゃあ威治は道場で、金庫の見張り以外に一体何をしているのだ?」
「パソコンゲームだそうです」
「パソコンゲーム?」
 鳥枝範士は剣幕を添えた目を剥くのでありました。
「堂下からはそんな事を聞いております」
「何だ幼稚な。女に入れ上げるよりもそれはもっと体裁が悪い」
 万太郎はパソコンゲームと女性への思慕の、体裁上の優劣について少し考えてみるのでありました。しかしどちらが優でどちらが劣か何とも良く判らないのでありました。
(続)
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お前の番だ! 485 [お前の番だ! 17 創作]

「それからこう云う話しも聞いておるぞ」
 鳥枝範士は続けるのでありました。「道場の女の会員にちょっかいを出して、その女を孕ませて仕舞って、裁判沙汰になるところを会長が出てきて隠密裏に事を収めたとか」
「いや、そんな話しは、僕は初耳です」
「ああそうか。これも単なる噂の類か。まあ確かに小学校低学年みたいにパソコンゲームに現を抜かしていると云うのなら、そんな色っぽい真似は威治には出来はしないか」
 鳥枝範士は妙な納得の仕方をするのでありました。
「いやしかし最近のゲームは、大人が楽しめるものもあるようですよ。それに少し前にテレビゲームが流行りましたが、あれは喫茶店なんかに置いてあったので小学生は喫茶店には出入りしません。ましてやパソコンですから子供には手に負えないかも知れません」
 万太郎はそう云いながら、そんな事はこの際どうでも良い事かと頭の隅で考えるのでありました。ここでは威治宗家が小学校低学年並に幼稚かそうでないかが問題なのではなく、宗家でありながら稽古に出ない事、それに無責任な噂が面白可笑しく、尾鰭つきで飛び交う程威治宗家の人望が地に堕ちている事が基幹の問題なのでありますから。
「まあしかし、噂話しは噂話しとして、威治は常勝流と縁を切って宗家になってから、何でもしたい放題になっていると云うのは事実のようだな」
「でも僕は寧ろ、宗家になられてからと云うもの興堂流宗家として、何もしない放題、になられているような気がしますし、そこが色んな問題の大本のように思います。まあ、僕のような者がこんな概括めいた事を云うのは僭越の誹りを免れませんが」
「成程ね。何もしない放題、ね」
 鳥枝範士はやや口を尖らせて頷くのでありました。「折野にしては上手い事を云う」
「押忍。僭越な云い方で恐懼しておりますが」
 万太郎はお辞儀して見せるのでありました。
「確かに威治は面倒な事は何でも人任せにして、自分は楽を決めこんでちっとも働かなくなっているのだろう。その癖美味しいところは自分が真っ先に手を出す。それでは人が良く云う筈もないし、在らぬ噂なんぞも立って仕舞うと云うものだな」
 鳥枝範士はまた納得気に頷くのでありました。
 この万太郎の気がかりを裏付けるような情報を来間が齎すのでありました。
「そう云えば何でも、興堂流の地方の幾つかの支部が、今後威治宗家の出張指導は断ると、連名で本部の方に申し出たと云う話しを聞きましたが」
 一日の課業が終わって内弟子部屋に引き上げてから、布団を延べる折に来間は事の序でのように万太郎に報告するのでありました。
「ほう、それは穏やかじゃないな」
「威治宗家の出張指導料が法外に高いと云うのもありますが、来るとあれやこれやの接待でかなり金銭の支出を強いられるから、堪ったものではないと云うわけです。それに指導と云っても威治宗家のは、今の興堂流の技の体系とは違う旧態依然のもので、普段の稽古に全く役立たないから、態々来て貰っても意味がないと云う事らしいです」
(続)
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お前の番だ! 486 [お前の番だ! 17 創作]

 こうなると威治宗家は向後、今にも況して何もしなくなる、或いは何も出来なくなると云う事になりましょうか。名前ばかりの宗家、と成り果てるわけであります。
「宗家の指導が敬遠されて全く人気がない一方で、その代わりに田依里さんへの指導依頼は殺到していると云う事です。支部長クラスの人望も、門下生の心服もすっかり田依里さんに集まっていて、今では田依里さんが実質上の興堂流の総帥のような観だそうです」
「まあ、さもありなん、と云うところではあるか」
 万太郎は敷き延べた布団の上に座って頷くのでありました。
「それで今度は、宗家と田依里さんの間で確執が生じている模様です」
 来間も自分の布団の上に座りこむのでありました。
「そりゃあ宗家としては、そんな状況は面白くないだろうからなあ」
「宗家は田依里さんに、この儘では自分の地位が侵されて仕舞うのではないかと云う恐怖があって、毎日が心穏やかではいられないようですね」
「しかし今、田依里さんが辞めるような事があったら、興堂派はすっかり立ち行かなくなって仕舞うだろう。その辺は宗家も判ってはいるだろうに」
「でも嘗ての花司馬先生の事例もありますように、あちらの宗家は自分の宗家としての体裁や面目が侵害されたら、或いは侵害される恐れがあるなら、後先の情勢も何も考えずに情動的に行動する危険があります。目の上のたん瘤が何より嫌いな人ですから」
「確かに有能な人を上手く使えない、人事の下手な組織の長ではあるな」
「それも自分が誰よりも能力が上であるから竟々人あしらいが下手だと云うのではなく、妬み嫉みや保身と云うところで配下を粗略に扱うのですから、レベル以下ですよ」
 来間はなかなか辛辣なのでありました。
「田依里さんもなかなか出来た人であるからこそ、返って威治宗家相手じゃあ、色々と気苦労が絶えない、と云ったところかな」
「そうですね。田依里さんが気の毒になって来ますよ」
 来間はため息をついて見せるのでありました。
「ところで来間、・・・」
 万太郎は語調を少し変えるのでありました。「お前、興堂派の内部事情にあれこれ妙に詳しいが、その情報源と云うのは何なんだ?」
「いえまあ、色々と。・・・」
 来間は有耶無耶に口を濁すのでありました。
「向こうにお前のスパイでも送りこんでいるのか?」
「いえ、そんな事はしていませんが、ちょっとした知りあいはいます。情報を得ようと抜かりなくアンテナを張っていれば、画策しなくてもそこそこ集まってきますよ」
「ああそうかい」
 万太郎は少し口を尖らせて見せるのでありました。「情報を集めるのは良いが、向こうにつまらん勘繰りをされたり、あらぬ誤解を招くような真似だけはするなよ」
「押忍。十分気をつけて、抜かりなくやります」
(続)
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お前の番だ! 487 [お前の番だ! 17 創作]

 万太郎は、抜かりなくやります、と云う云い方に少し引っかかるのでありました。
「来間、抜かりなくやれと、別に奨励しているのではないぞ。面白がって情報を集めていると逆に、痛くもないこちらの腹を探られるような場合もあるからな。そんなつまらない事態を招くくらいなら、向こうの情報収集なんか止めておけよ。興堂流の動静と云うのは、常勝流総本部にとって絶対必要な情報と云うわけではないのだからな」
「押忍。弁えて行動します」
 来間はそう云って頭を下げるのでありました。万太郎は何となくその来間の頷きの言葉も少しばかり軽々しいように思ったのでありましたが、今ここでこれ以上小言を並べても仕方がないかと考え直して掛布団を捲って横になるのでありました。
「電気を消します」
 来間が立ち上がって蛍光灯の紐を引くのでありました。来間が布団に潜りこむ気配が消えると、真っ暗闇の中で物音がすっかり消えてなくなるのでありました。

 仙川駅前商店街の中の馴染みの喫茶店で、あゆみはコーヒーカップを口に近づけながら、向かいに座る万太郎をやや上目で見るのでありました。
「興堂流の田依里さんと云う人は、どんな感じの人なの?」
「ああそうか。あゆみさんは未だ逢った事がありませんでしたね」
 万太郎も釣られるようにコーヒーカップを取り上げるのでありました。
「そうね。あたしが八王子に行った時には偶々向こうの稽古が休みだったり、やっていても堂下君だけが来ていたりで、未だ逢う機会は未だにないの」
 この頃、月曜日の道場休みの日の夕方は、万太郎は食材とか道場や母屋内の備品の買出しをするあゆみによくつきあうのでありました。どうせやる事もなく内弟子部屋で寝転んでいるか、気が向けば稽古着に着替えて道場で木刀をふっている万太郎は、あゆみが同道を頼めば丁度良い暇つぶしになるので何時でもおいそれと承知するのでありました。
 あゆみの方もどうせ暇を持て余している万太郎ならば気軽に誘えるのであります。あゆみは万太郎の無趣味ぶりに時々呆れるのでありましたし、ゴロゴロしているのなら好都合とばかり荷物運びを依頼すると、必ず万太郎はいそいそとついて来るのでありました。
 あゆみの買い物につきあうと、帰りにコーヒーとケーキを驕ってくれるのであります。万太郎としては、まあ、それに釣られてと云うだけでもないのではありますが。
「話した感じでは、諸事に気配りの行き届いた信頼感のある人、と云った風ですかね。真面目そうでもあるし、情誼に篤い人のようでもあますし」
「ふうん。寄敷先生も鳥枝先生も、それに花司馬先生や注連ちゃんも好意的な事を云っていたわ。尤も、皆居酒屋で一度驕って貰った事があるようだけど」
「僕も奢られた口です。だから好意的な方に一票、です」
 万太郎はコーヒーカップを受け皿に戻すと、ショートケーキの上に載っている苺をフォークで刺して、それだけを口に運ぶのでありました。
「花司馬先生みたいな人?」
(続)
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