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お前の番だ! 458 [お前の番だ! 16 創作]

 あゆみが好都合にも話題を変えるのでありましたが、万太郎は渡りに舟と、そちらの舟縁にさっさと飛び移るのでありました。「二人共、そろそろ着替えて出発しようかと云っていたところに、丁度あゆみさんがいらしたのです」
「ああそう。助手は誰を連れて行くんだっけ?」
「花司馬先生には狭間が、僕には高尾がつく事になっています。こちらには来間と、それから今日は珍しくジョージが残る事になります」
「ジョージは、学校の方は良いの?」
「今日は英会話講師の仕事は休みだそうで、一般門下生稽古に出ます」
 そんな話しをしていると来間が食堂に現れるのでありました。
「押忍。狭間と高尾はもう何時でも出発出来ます」
 来間は万太郎と花司馬教士の顔を交互に見ながら報告するのでありました。
「判った。我々もすぐに着替える」
 万太郎が頷くのでありました。
「押忍。それでは受付部屋に待機させておきます」
 来間が去るのを追うように、万太郎と花司馬教士は着替えのために内弟子部屋に向かうべく、椅子から腰を上げてあゆみにお辞儀するのでありました。
「押忍。ではこれから出稽古に行って参ります」
 万太郎と花司馬教士は声を揃えて道場長たるあゆみに申告するのでありました。
「押忍。ご苦労様です。よろしくお願いします」
 あゆみも立ち上がって二人にお辞儀を返すのでありました。
 着替えを済ませた万太郎と花司馬教士は、師範控えの間に行ってそこに居る是路総士に出稽古出発の挨拶をするのでありました。その後二人は高尾と狭間を引き連れて、来間とジョージに見送られて、連れ立って仙川駅まで歩くのでありました。
「花司馬先生は、来週は東北方面の出張指導でしたよね?」
 万太郎が隣を歩く花司馬教士に話しかけるのでありました。
「はい。一週間程の予定で行って来ます」
「僕は明後日から関西と山陰方面に行きます。と云っても大阪や京都や神戸ではなく、米原から敦賀を回って、後は福知山とそれから鳥取と云うルートですが」
「ああそうですか。なかなか一緒にじっくり稽古する時間が持てませんね」
「興堂派があのようになってから、総本部の所帯が急に膨らんで、地方出張指導が矢鱈と増えましたから致し方ありませんが、僕が神保町の興堂派道場に出稽古に行っていた頃のように、二人でまたみっちり稽古がしたいものですねえ」
 万太郎が往時を懐かしむような顔をするのでありました。
「ま、こう云った連中の心境が進んで、出稽古も任せられるようになったら、その暁には二人でみっちりと稽古をしましょう」
 花司馬教士は後ろを歩く狭間と高尾をふり返りながら云うのでありました。後ろの二人は花司馬教士の不意の視線にどぎまぎして「押忍」とのみ応えるのでありました。
(続)
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お前の番だ! 459 [お前の番だ! 16 創作]

 八王子支部の指導中でありましたが、体育館武道場の入口に白髪雑じりの総髪を後ろに束ねて、艶のない仙人髭のこれも白いもの雑じりを蓄えた男が不意に現れるのでありました。男は扉の陰に半分体を隠して暫く中の様子を窺っていたのでありますが、万太郎が技の説明を終えて門下生に反復を指示した辺りで、中へと入ってくるのでありました。
 その近づき様に無神経と無遠慮を感じたものだから、万太郎は男の面前に掌を差し出して男の歩行を制止するのでありました。
「稽古中は道場に無断でお入りになるのは控えていただけますか」
 万太郎は努めて穏やかな口調で、しかしキッパリと男の行動を窘めるのでありました。男は唐突に歩を止めて万太郎にお辞儀して見せるのでありましたが、道場中央辺りに突っ立った儘で浅いお辞儀を繰り返しながら万太郎に笑いかけているのでありました。
 白い稽古着姿の門下生達の中に在って、臙脂色のブレサーに黄色のノーネクタイのワイシャツ、それに白いスラックス姿の男の装いが如何にも不釣合いで不様なのでありました。万太郎は男を道場の隅に誘導するために、突き出した掌で何度か押すような仕草をして見せるのでありましたが、男はその謂いを察して踵を返すのでありました。
 その特徴ある風貌と、前に遠目に何度か見た事があったので、万太郎はすぐにその男が誰なのか判るのでありました。興堂範士の古い門弟で、以前は興堂派八王子支部、今は興堂流八王子道場責任者である、瞬間活殺法の洞甲斐富貴介氏でありました。
 その洞甲斐富貴介先生が一体何の用事でいきなり常勝流八王子支部の稽古中に姿を見せたのか、万太郎は訝しく思うのでありましたが、如何にも鈍感そうではあるものの万太郎の指示に素直に従う辺りとか、万太郎に投げる笑いが友好的な様相であるところから鑑みると、まさか道場破りに来たと云うわけでもなさそうではあります。しかし若しも道場破りに来たと云うのなら、万太郎は受けて立っても良いと思うのでありました。
「いやどうも、折野先生、稽古中に伺った不調法をどうかお許しください」
 道場入口の辺りまで下がって、傍に来た万太郎に洞甲斐富貴介先生は案外に低姿勢で頭を下げるのでありました。「私は興堂流八王子道場の洞甲斐富貴介と申します」
「存じております」
 万太郎は名刺を手渡す洞甲斐富貴介先生に浅く低頭して見せるのでありました。名刺には、武道興堂流八王子道場長、と云うものを始めとして、気精流剣術宗家、であるとか、深沈瞑想法研究会主幹、であるとか、陰陽の理心身調整法普及会会長、であるとか、その他にも何やら少々いかがわしそうな肩書が幾つも並んでいるのでありました。
「常勝流総本部道場の麒麟児と評判の高い折野先生が、私如きをご存知でいらっしゃると云うのは、慎に以って光栄の至りですなあ」
 肩書同様、洞甲斐富貴介先生はそんな胡散臭げな科白を、口の端にお追従のような卑俗な笑いを浮かべて宣うのでありました。万太郎は大いに興醒めるのでありましたが、一応礼儀からあからさまにそれを顔色に表わすのは控えるのでありました。
「洞甲斐先生が今日はどのようなご用件で、ここにお越しになられたのでしょうか?」
 万太郎はそう云って上目に洞甲斐富貴介先生を見るのでありました・
(続)
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お前の番だ! 460 [お前の番だ! 16 創作]

 洞甲斐富貴介先生はおどおどと万太郎の眼光から逃れるように俯いて、その後にエヘヘと愛想笑って見せるのでありました。
「勿論折野先生のご指導ぶりを拝見させていただいて、今後の参考にさせていただきたいと云うのが第一番目の了見ですが、最近の興堂流の様子についてもお話ししたい事が少々ありまして、不躾かとは思いましたがこうして罷り越しさせていただいた次第で」
 何と云う胡散臭い科白かと万太郎は聞きながら大いに不快になるのでありました。
「今は稽古中ですので、長い話しになるようならご遠慮いただきたいと思いますが」
 万太郎は故意に不信感をやや語調の中に匂わすのでありました。
「それは勿論弁えております。突然罷り越しましたのは偏に私の無礼でして、その上この場で長話しをするような不届きを働く心算は毛頭ございません」
 洞甲斐富貴介先生は時代劇で見るような、大店の悪徳主人が権力者に揉み手して諂うような笑いを万太郎に寄越すのでありました。万太郎の不快は益々募るのでありましたが、興堂流の最近の様子、と云う言葉に興味を惹かれるのも事実ではありました。
「そうですか。では稽古後に少し時間を取らせていただきましょう」
 万太郎はそう応えてきっぱりとした様子で浅く一礼するのでありました。この場はこれで一先ず引こんでくれと云うサインであります。
「判りました。有難うございます。稽古が終るまで、隅の方で邪魔にならないように見学させていただいておりますよ」
 洞甲斐富貴介先生は万太郎に了解を貰えた事を如何にも嬉しがるように、満面に笑顔を湛えて慇懃な返礼をして見せるのでありました。万太郎はその頭が元の位置に上がり切れない内に、傍を離れて指導に復帰するのでありました。
 興堂流の指導陣の一翼を担っていると思われる洞甲斐富貴介先生が、万太郎に一体どのような情報を齎そうとしているのかなかなかに気になるところではあります。しかしながらこの、胡散臭い国から胡散臭い教を広めに来たような御仁の情報が、如何程の価値があるものなのかは大いに疑問であるとも万太郎としては考えるのでありました。
 稽古が終わったら親睦を兼ねて、事情の許す門下生達と伴に定食屋か、時には居酒屋に繰り出して懇親の時間を共にするのが恒例でありました。しかしどうやら今夜は、不本意ながらその恒例行事出席を遠慮する羽目になりそうであります。
 他流の、しかもあんまり仲がしっくりいっているとは云えない、常勝流総本部道場の者に態々こうして接触を求めてきたのでありますから、信憑性半分としても、この恒例行事を犠牲にするに足るだけの情報を洞甲斐先生は持ってきた、或いは少なくともご当人は大いにその心算であると云うのは疑いないところでありましょう。この行為は興堂流に対する背信である可能性もありますし、或いはそう見せかけて、常勝流総本部道場を陥れようとする或る策略を後ろに隠し持っていると云う可能性も考えられるでありましょう。
 まあ、聞くだけは聞いておいて構わないでありましょう。抜け目なさそうでしかしどこか抜けているような肌理の粗いその物腰と、醸し出す雰囲気の怪し気な辺りを別に隠そうともしない野放図さからは、然程の深謀があるようにも思えないのでありますし。
(続)
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お前の番だ! 461 [お前の番だ! 16 創作]

 万太郎は稽古後に今宵の親睦食事会の欠席を八王子支部の責任者に詫びて、洞甲斐富貴介先生と二人で体育館を後にするのでありました。調布にある総本部道場への万太郎の帰途を考えて、二人は西八王子駅から電車に乗って八王子駅まで移動するのでありました。
「京王線の方が、折野先生は帰りの都合が良いでしょう」
 洞甲斐富貴介先生はそう疎漏なく気を遣うような事を云って、万太郎を京王八王子駅近くの居酒屋に誘うのでありました。別に何処であろうと万太郎としては何ら構わないのでありましたが、まあ、ここは洞甲斐富貴介先生の配慮に従うのでありました。
「いやあ、折野先生の指導は実に細心ですなあ。技の理を明らかにして稽古生達の納得を得た上で、あれこれ動きを細かく指導する辺りは、私も大いに参考になりましたよ」
 生ビールの大ジョッキと幾品かの料理を注文してから、洞甲斐富貴介先生はそんなべんちゃら等を述べて、如何にも感心したように万太郎に一礼をするのでありました。
「いえ、未熟者です」
 万太郎は一応礼儀から謙遜のお辞儀を返すのでありましたが、この洞甲斐富貴介先生の万事に大げさに過ぎるような世辞も、そろそろ鼻についてきているのでありました。
「何をおっしゃいますやら。その若さで立派なものです。日頃から深く常勝流の技術を研究されている証しだと、益々以って尊敬の念を篤くいたしました」
 万太郎はもう、言葉を返すのも億劫になってくるのでありました。
「で、僕の耳に入れておきたい最近の興堂流の様子について、と云うのを、早速お聞かせいただければと思うのですが」
 万太郎は店員が持ってきた生ビールの大ジョッキを、特に乾杯の仕草もせずにすぐに口に運びながら、もう一つの話しとやらに取りかかってくれるのを促すのでありました。
「ああ、そっちの件ですがねえ。・・・」
 洞甲斐富貴介先生は万太郎に、何はともあれお決まりの、乾杯の仕草を肩透かしされて仕舞って、何となく調子が狂ったような風情でビールを一口飲むのでありました。

 朝稽古を終えた師範控えの間で、あゆみが万太郎の披露する話しに大いに興味を惹かれたと云う顔を向けて、その先を促すのでありました。
「それで昨日、洞甲斐先生は万ちゃんにどんな情報をくれたの?」
「まあ情報と云うより、威治宗家や洞甲斐先生、それに堂下と云った旧興堂派の生き残り連中が、今の興堂流では随分隅に置かれていると云った、愚痴のようなものでしたよ」
「ほう、愚痴のようなもの、ねえ」
 今度は是路総士が言葉を発するのでありました。「一見派手に新規蒔き直した観のあった興堂流だが、中では威治君を頂点とした体制が上手く運んではいないのかねえ」
「自分は早晩そうなるだろう事は、何となく想像はしていましたが」
 花司馬教士が言葉を挟むのでありました。「板場が抜けた後、威治宗家が招聘した新しい空手や柔道崩れの指導員連中の方が、旧興堂派の生き残りよりも人数で上回って仕舞いましたからねえ。それにそう云う連中は道分先生の薫陶も受けてはおりませんから」
(続)
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お前の番だ! 462 [お前の番だ! 16 創作]

「それに門下生にしても興堂派以来の古手の主立った者達は、総本部系の道場に移ったり、武道をすっかり辞めて仕舞ったりと云った具合で、今では興堂流になってから新しく入門した人の方が全体としては多くなっているようですし」
 万太郎が花司馬教士の言に頷くのでありました。
「もう今は、常勝流の組形等は全く稽古されなくなったみたいですよ。新しい指導員連中が自分の身の丈で勝手に考案した打撃中心の技を、道分先生由来の技だと謀って教えていると云う話しです。道分先生に逢った事もないような連中が、です。新しい門下生達にしても、そう云うものか、と云った具合で、大方は納得しているらしいです。これは前に板場から直接聞いてもいますし、漏れ聞こえてくる噂もそう云ったものですね」
 花司馬教士は憤懣遣る方ないといった云い草をするのでありました。
「そう云う状態に対して、宗家である威治君は何も云わんのかな?」
 是路総士が疑問を呈するのでありました。
「新しい指導員連中の鼻息に圧されて、内心苦々しくはあるけど黙認していると云った按配のようです。威治宗家は云ってみればお坊ちゃんですから、狡賢くて世知に長けた連中にちやほやされたり威圧されたりすると、どうにも手出しする術がないのでしょう」
「そのような事は洞甲斐先生もおっしゃっていました」
 万太郎が口を挟むのでありました。「道場では常勝流の稽古をした事もない指導員連中が、一応威治宗家を立てるような素ぶりをしながら、大きな顔でのさばっていると」
「威治宗家としてはここでそう云った連中のご機嫌を損ねて造反されても困るし、実際試合してみればその連中の方が威治宗家なんかよりも遥かに強そうだし、ここは一つ苦々しくはあるけれど、連中の跋扈を黙認しておいた方が無難だと云った了見なのでしょう」
 そう云って花司馬教士は結んだ口の端に憤慨を籠めるのでありました。
「ふうん。それが本当なら、威治君もここに来て色々試練させられているわけだ」
 是路総士は特段皮肉るような口ぶりでもなく、無表情にそう云うのでありました。「で、洞甲斐さんはそれを昨日お前に愚痴ったと云うわけだ」
 是路総士は万太郎の方を見るのでありました。
「概ねそうですね。で、洞甲斐先生としては、そろそろ興堂流に見切りをつける潮時だとお考えになっておられるんだそうです」
「ほう。洞甲斐さんがようやく潮目をお読みになったか」
 是路総士は、こちらはやや皮肉るような笑いを添えるのでありました。
「期待した程興堂流で大事にあしらってくれないから、臍を曲げただけでしょう」
 花司馬教士が鼻を鳴らすのでありました。
「瞬間活殺法は、新しい指導員連中からも相手にされなかったのかな?」
 是路総士が薄く笑いながらそう云うと、花司馬教士も万太郎もあゆみも是路総士と同じような笑いを口の端に浮かべるのでありました。
「それで折野先生に、総本部への移籍が叶うかを打診してきたと云う事ですか?」
 花司馬教士が口の端に先程の笑いを留めた儘万太郎の方を見るのでありました。
(続)
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お前の番だ! 463 [お前の番だ! 16 創作]

「ま、そう云う事です」
 万太郎は笑いを消して頷くのでありました。「洞甲斐先生としては道分先生のご遺志に反するような真似は、先生の古い弟子として我慢がならないのだそうです」
「ほう。それはまたご殊勝な」
 是路総士は呆れ顔と頬の嘲笑を隠さないのでありました。
「道分先生のご生前から、先生のお考えとはまるで違うような胡散臭い事をやって、度々勘気を蒙っていたあの洞甲斐さんが、今更どの面下げて、と云ったところですなあ」
 花司馬教士も哄笑するのでありました。
「しかしご当人は到って真面目なお顔でそう云われました」
「図々しいと云うのか、諸事に鈍過ぎるというのか、大した大根役者ぶりと云うのか」
 花司馬教士は顔を顰めて見せるのでありました。
「若し総本部への洞甲斐先生の移籍が叶うのなら、こちらの八王子支部と自分のところを統合して、責任を持って自分が面倒を見る心算だと云う風にも云われました。そうやって自分に八王子を任せて貰えれば、総本部の負担も少しは軽くなるだろうとも」
「ほう。総本部の負担の点までご配慮頂いているとは、慎に以って忝い事だな」
 是路総士がそう云うと横のあゆみが笑うのでありました。
「全く、厚顔無恥にも程があると云うものです」
 花司馬教士は、今度は怒気を含んだ表情をするのでありました。「厚かましいだけじゃなくて、自分がどのような目で人から見られているのかも全くご存知ないようですね」
「概ねご存知の上で、しかし考えがあって恍けていらっしゃるのかも知れませんよ。尤もそんなお芝居をしても、得るものよりも失うものの方が多そうですけど」
 あゆみが口元に憫笑を浮かべて花司馬教士に云うのでありました。
「一般的には、そう云うヤツを、馬鹿、と呼ぶのですよ。最初折野先生に諂うような下手に出るような態度で近づいてきたのは、只管好印象を得ようとしての事でしょうけど、その上で云っている内容がそんな不届き千万で無神経な事ですから、なめた真似をするのも良い加減にしろと怒鳴りつけてやりたいくらいですよ、全くもう」
 花司馬教士は本当に怒鳴りつけるような語調で云うのでありました。
「僕はなめられたと云う事ですかね?」
 万太郎が花司馬教士に案外無邪気な顔で訊くのでありました。
「折野先生があの馬鹿野郎の事をあまり知らないだろうと、そう云う了見から折野先生を狙って近づいてきたのでしょう。あの馬鹿野郎の考えそうな姑息な手ですね」
 花司馬教士は洞甲斐富貴介先生の呼び方を、あの馬鹿野郎、と云う風に大いに格下げするのでありました。名前も口に出したくないと云うところでありましょうか。
「あまり知らなくても、話してみればそのどことない怪しさが判るでしょうけどね」
 あゆみが評言を加えるのでありました。
「僕も洞甲斐先生の為人は、評判として間接的にではありますが満更知らない事もなかったですし、話してみると、成程評判通りの方だとげんなりしましたよ」
(続)
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お前の番だ! 464 [お前の番だ! 16 創作]

 万太郎はそう云ってあゆみに笑いかけるのでありました。「で、その洞甲斐先生の移籍願いの件は如何取り計らいましょう?」
 万太郎は是路総士の方に顔を向けるのでありました。
「折野はどうする心算だ?」
「移籍して貰ってもあんまり益もなさそうですし、返って総本部の見識が疑われて仕舞うのも叶いませんから、折角のお話しではありますがきっぱりお断りしようと思います」
「成程。その折野の考えに、私は針の先ほどの異を差し挟む心算はないよ」
 是路総士は静かに頷くのでありました。「あゆみはどうだ?」
「あたしも今回のお話しはお断りした方が良いと思います」
 あゆみがそう云って伏し目をするのは、是路総士への目礼でありましょう。
「花司馬はどうか?」
「自分は道場長先生と道場長代理先生のご判断に異存を述べる立場にありません。まあしかし、あの馬鹿野郎の移籍を許す等と折野先生が若しも云われたなら、ここはあの馬鹿野郎の本性を少しは知っている者として、敢えて遠慮なくお諫めする心算でいましたが」
「相判った。全会一致だ」
 是路総士はそう云って掌をポンと一つ打ち鳴らすのでありました。
「鳥枝先生と寄敷先生のご意見をお伺いしなくともよろしいでしょうか?」
「まあ、態々聞くまでもないだろうよ」
 是路総士は万太郎に笑って見せるのでありました。
「ではそれを、僕から明日にでも洞甲斐先生に伝達します」
「万ちゃんは明日、八王子に指導に行くんだったっけ?」
 あゆみが訊くのでありました。
「いえ、寄敷先生が行かれる予定ですが、代わって貰おうと思います」
「代わって貰うのは良いとして、でも、こちらの見解を正式に洞甲斐先生に伝達するのは、お父さんじゃなくて万ちゃんで良いのかしら?」
「僕に話しがあったのですから、敢えて総士先生にご出馬を願う迄もないでしょう」
「そうですね。あの馬鹿野郎はあんなヤツですから、総士先生が自らお出ましになるとそれをこちらの敬意の表れだとか、満更自分と繋がりを持ちたくない事もないのかも知れない等と、手前勝手な誤解をしかねません。間違ったサインを送らないためにも、ここは直接話しのあった折野先生から、つれなく因果を含める方が良策かと自分も思います」
 花司馬教士も万太郎の考えに同調するのでありました。「若し何でしたら、自分が同行しても構いませんよ。自分としてもこの際、少し云ってやりたい事もありますから」
「いやそれでは返って事が荒立つ事になりますから、ここはサラッと、事務的に処理する方が良いかと思います。それに花司馬先生は、明日は総本部の稽古を総て指導していただく事になっていますので、予定通りそちらをよろしくお願いします」
「ああそうですか。折野先生のご命とあらば、そういたします」
 花司馬教士は万太郎にお辞儀するのでありました。
(続)
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お前の番だ! 465 [お前の番だ! 16 創作]

 万太郎は早速その日の夜に予め聞いていた洞甲斐先生宅に電話を入れて、明日の面談を約すのでありました。洞甲斐先生は移籍の件が如何なったのか早く知りたいような口ぶりでありましたが、それは明日逢った上でと万太郎は勿体をつけるのでありました。
 万太郎が電話口ですぐに回答しないところやら、話しぶりが如何にも冷めた風であるところから大方を察してもよかろうと思うのでありましたが、洞甲斐先生は快活に、明日お逢いするのを楽しみにしていますと愛想良く云って電話を切るのでありました。だから万太郎としては、逢って口頭で移籍の願いを断るのが少し気重になるのでありました。
 洞甲斐先生は稽古終わりを見計らって、八王子の体育館まで万太郎を迎えに来るのでありました。二人は前と同じルートで京王八王子駅傍の同じ居酒屋に行くのでありました。
「早速ですが、総本部への移籍の件は如何なりましたでしょうか?」
 洞甲斐先生は万太郎が生ビールの一口目を飲み下すのを待って訊くのでありました。
「総士先生以下、総本部道場の主立つ者と協議いたしましたが、結論として今次は移籍を見あわせていただきたいと云う事に決しました」
 万太郎は別にご機嫌を取り持つ必要もなかろうからそう端的に応えるのでありました。
「ほう。そうですか。・・・」
 洞甲斐先生は口に運ぼうとしていたジョッキを胸の前で止めて、急に無愛想な顔つきになるのでありました。「それはまた、どう云った理由で?」
「洞甲斐先生の技法が常勝流の技法とはすっかり離れて仕舞っていると云うのが、第一の理由となります。それから興堂流に対する配慮、と云うのが次の理由です」
 先夜の是路総士やあゆみ、それに花司馬教士と交わした会話をその儘披露するのは礼儀上憚られるので、万太郎は尤もらしい理由を述べるのでありました。
「私とて、道分先生に厳しく常勝流を仕こまれた弟子の一人ですが?」
 洞甲斐先生はやや不本意と云った顔を万太郎に向けるのでありました。
「しかし常勝流には瞬間活殺法とか、気の遠隔操作で相手に触れずに倒す等と云う奇抜な技法は昔も今も存在しません。今の先生の武道の在りようは、全く先生独自の理によって成り立っているようで、常勝流の技法とはずいぶん遠いところにいらっしゃいます」
「しかしそれは結局常勝流を修行した上で到達したものですから、強ち外れているとも云えないと自分では考えておるのですがなあ」
 洞甲斐先生は余裕を見せるためか、そう云って笑って見せるのでありました。
「常勝流の理をどこまで敷衍しても、先生の為されている様な様態にはなりません」
 興堂範士に厳しく常勝流を仕込まれた、等と抜け々々と宣う洞甲斐先生に、万太郎は内心大いに呆れるのでありました。畢竟このお方も、興堂範士の盛名にぶら下がって、それを頼みの綱として自己主張を展開する類の武道人だと云えるでありましょうか。
「君のようにお若い方が、常勝流をそこまでお判りになっているのかな?」
 洞甲斐先生は今までの万太郎への丁寧な口調をここであっさり変えるのでありました。
「少し演繹する能力があればそのくらいは誰にだって判ります。当の道分先生にしても、洞甲斐先生のような技法には結局収束されませんでしたし」
(続)
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お前の番だ! 466 [お前の番だ! 16 創作]

「私のは邪道と云うわけか?」
「今の洞甲斐先生は、常勝流とは異質のものに変化されていると申しているのです」
 万太郎はあくまでも言葉を丸くするのでありました。
「しかし常勝流の技法を発展昇華させればこのようになると云う信念を持って、私は今の自分の技法を行っている。もう少し云えば、常勝流に限らず、あらゆる武道の究極の姿は、結句こうならざるを得ないとも考えているのだがなあ」
 万太郎はこの洞甲斐先生の大論説を聞きながら甚だうんざりするのでありました。そこまで大悟なされている人とは、今の今まで思いもしなかったと云うものであります。
「僕にはそうは思えませんが」
「いやいや、君ももう少し修行すれば私の考えが段々判ってくるだろうよ」
 万太郎の語調に嘲弄の気配が忍んでいるのを全く感じられないようで、そう云って達観したような笑みを笑って見せる洞甲斐先生は、何処にでもいるような、検証する作業を端から放擲した単なる経験のみをその思想の拠り所とする、おっちょこちょいの老人のようでありましたか。まあ、洞甲斐先生は未だ老人と云う程の歳ではないでありましょうが。
「敵も然る者、という言葉もありますが、自分を害しようと襲ってくる相手をそんなに思い通りに操れるのなら、洞甲斐先生は武道技すら最早必要とされないのでしょうね?」
「武道の最終的な姿と云うものは、結局武道技から離れて仕舞うのだろう」
 万太郎の仄めかす揶揄も洞甲斐先生の鉄面皮には通用しないようでありました。
「何やら、不射之射、みたいですね?」
「何だね、その、くしゃくしゃ、とか云うのは?」
「いや、何でもありません」
 予想通り洞甲斐先生は、中島敦はご存知ないようでありました。
「私の目指すところは人知の限界を超えた技だ。大宇宙の法則とそれを造り給うた根源的な存在を感じ取り、その意志の儘に動けばそれが無敵の技となるような境地、もうそれは人の為す武道の技を超えて、云ってみれば、神技、とも表すべものだな」
 それは典型的な観念論的武道観であって、万太郎としては俄には与するものではないのでありましたし、武道はあくまで人が為すもの以外ではないと思うのであります。まあ、道場の上座に神棚が設けられていると云うのは、ここでは一先ず置くとして。・・・
「いや、神技、と云う表現はあくまでも比喩的表現であって、実体としては人間技の域にある最高度の技の事をそう云うのではないでしょうか?」
 万太郎は、ここは引けないと思うので、穏やかな語調ながら抗うのでありました。
「ああそうかね。君がそう考えるのは君の自由だがね」
 洞甲斐先生は侮るような笑みを万太郎に返すのでありました。万太郎としては洞甲斐先生を相手にそんな武技論をここで延々と戦わせるのはげんなりでありました。
「兎も角、技法の統一と云う観点から、総本部としては洞甲斐先生を常勝流にお迎えする事は平にご遠慮申し上げたいと云う事です。これは総士先生のお考えでもあります」
 万太郎は仕切り直しにそう云ってお辞儀して見せるのでありました。
(続)
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お前の番だ! 467 [お前の番だ! 16 創作]

「成程ね。・・・まあ、私の技術が見た目は常勝流から外れているとしても、視点を変えて、組織運営の上では、私は大いに常勝流に貢献するつもりでいるのだがなあ」
 洞甲斐先生は今度は搦手から未練を示すのでありました。
「そうであるとしても、先程申し上げた技法の統一と云う流派の根幹から、折角のお申し出ではありますが、このお話しはきっぱりお断りさせていただくと云う事です」
 万太郎はあくまでつれないのでありました。
「私はこう見えてもなかなかの有名人ではあるのだよ。その私が常勝流に在籍すると云う事は、常勝流にとっても損はないし利用価値もあると思うのだがねえ」
 洞甲斐先生はそれでもしぶとく自分の売りこみに精を出すのでありましたが、万太郎は思わず口の中のビールを吹き出すところを寸でのところで堪えるのでありました。それは確かに或る意味で有名人ではありましょうが、しかしその名前を聞いた大凡の者に、一様に口の端に冷笑とか憫笑とかを浮かべさせて仕舞う類の有名人でありますかな。
「洞甲斐先生がどんなにご高名でいらしたとしても、あくまでも武道流派である常勝流は技法の統一と云う事を第一と考えます」
 万太郎はそう云いながら、顔には出さないまでも胸糞悪さを覚えるのでありました。
「ああそうかね。私如き者なんか、常勝流には要らんと云うわけだ」
 洞甲斐先生は不貞腐れたようなもの云いをするのでありました。
「目指すものが、我々と洞甲斐先生では全く違うと云う事です」
「そう云う云い方は、まるで君が常勝流を代表しているような云い草だな」
 洞甲斐先生は万太郎に不興気な視線を投げるのでありました。
「僕が代表しているのではなく、先程も云いましたように、ここでは総士先生のご意志をお伝えさせていただいているのです」
 是路総士の名前を出せば、幾ら無神経な洞甲斐先生でも怯むだろうと踏んだのでありましたが、洞甲斐先生は一向に怖じる気配はないのでありました。
「そうであるのなら、総士先生も如何にも器量の狭いお人だ」
 この言葉は、万太郎は許せないと思うのでありました。と同時に、移籍を受けつけない理由に於いて、つけ入る隙を見つけたような気がするのでありました。
「例え洞甲斐先生でも、総士先生に対して無礼な発言は許しませんよ」
 万太郎は急に抑揚を抑えた声でそう云って、目を半眼にして洞甲斐先生を見据えるのでありました。幾ら鈍感な洞甲斐先生でも今の自分の言葉で、万太郎の気色が一変したのは充分判ったようで、気押されたように目線を逸らすのでありました。
「ああいや、別に総士先生をどうこう云う心算はないのだが。・・・」
「今はっきりと、どうこう云われましたよね?」
 万太郎は無抑揚の声と鉄壁の無表情を以って応えるのでありました。これはある種の喧嘩腰と云うもので、猛り狂うのではなくあくまでも静寂であるところに洞甲斐先生は余程迫力を感じたようでありますが、この程度の威迫でたじろいでいるようでは洞甲斐先生の、神技、なるものもその程が知れると云うものでありましょうか。
(続)
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お前の番だ! 468 [お前の番だ! 16 創作]

「誤解が生じたのなら謝りますよ。私は総士先生に無礼を働く気は毛頭ないのだし」
 洞甲斐先生は泳ぐ目で万太郎を見ながら、しどろもどろにそう云って頭を下げるのでありました。この人は基調としては鈍感に由来する不遜な人のようではありますが、その割に実は極めて小心な人でもあるなと万太郎は心の端で侮りを覚えるのでありました。
「ところで移籍のご意志は、もう興堂流の宗家にはお話しをされているのでしょうか?」
 万太郎は暫し不興気に黙った後、語調をやや緩めて話頭を変えるのでありました。
「いや、未だ話してはいませんよ」
 洞甲斐先生はここでまた万太郎に対して丁寧な言葉つきに返るのでありました。「移籍が叶ってから話しても良かろうと思いましたのでね」
「それでは今まで在籍した興堂流に対する礼儀からも、洞甲斐先生のお覚悟と云う点から考えても、順序が逆ではないかと思うのですが?」
「そうですかな?」
 険悪なムードが少し変わった事に安堵したのか、洞甲斐先生はそうあっけらかんと云ってジョッキのビールを飲むのでありました。それを見ながら万太郎の方もビールのジョッキをゆっくりとした手つきで取り上げるのでありました。
 まあ、旧興堂派の広島支部等が移籍した経緯も、先ず総本部の意向を確認してから、その後に旧興堂派に三下り半をつきつけたのでありましたから、今次の洞甲斐先生と大差ない対応であったと云えるでありましょう。依って興堂流を辞める前に総本部の許諾を貰おうとした行為は、万太郎がそれ程つめ寄れる筋合いはない事になりましょうか。
 ここは偏に洞甲斐先生を撃退する方便として、万太郎はそんな筋論を展開していると云うわけであります。でありますから、後ろ暗さが全くないわけでもないのであります。
「技法の統一と同時に、洞甲斐先生をお迎え出来ないのは興堂派に対する配慮からと云う事を先に申しましたが、以前旧興堂派の支部が総本部に移った経緯の中で、まるで総本部が指嗾して興堂派の支部を移籍させたかのような、根も葉もない噂が飛び交いました。それはこちらとしては全く不本意な話しで、向後移籍に関しては明快さを第一にしたいと考えております。ですから手続きとして、先に興堂派に支部を辞する旨通達をしてから、その後にこちらに接触していただかないと、話しを進める事は出来かねると云う事です」
「随分と堅苦しい事ですな」
 洞甲斐先生は苦相をして見せるのでありました。
「移籍しようとする方の覚悟の程と云うのも、こちらとしては勘案いたします」
「若し興堂流に先に辞意を伝えて、その後に私が話しを持ってきたとしたら、私の移籍を受け入れていただけたのでしょうかな?」
 万太郎はここで少し口の端に笑いを浮かべるのでありました。
「手続きの正統性は評価させていたします。洞甲斐先生のご人徳に対しても敬意を評させていただきます。しかしそれでも移籍の件はきっぱりお断りする事になるでしょう」
「なあんだ、あれこれおっしゃるが結局ダメと云う事じゃないか。向こうにも立つ瀬がない状態になって、移籍もダメだとしかもなると、私は路頭に迷わされるようなものだ」
(続)
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お前の番だ! 469 [お前の番だ! 16 創作]

「まるで何かの被害者の様なもの云いをされますが、それは事を起こす前の洞甲斐先生の熟慮の方に属する事柄で、こちらに責任をふられても困ります」
 万太郎は相変わらずつれないのでありました。
「結局、移籍の件は全く受け入れる余地はないと云う事ですかな?」
「そうご理解頂いて結構です」
「それは総士先生のご意志であるのですな?」
 万太郎は無言で頷くのでありました。万太郎のすげない頷きを見た後、洞甲斐先生は眉根を寄せて万太郎から視線を背けるのでありました。
「お断りの件は電話で済ませても構わないと云う話しも出ましたが、こうして直接お会いしてお話しさせていただいたこちらの礼意を、後は斟酌していただければと思います」
 万太郎はそう云って、ジョッキに残っているビールを飲み干すと矢庭に立ち上がるのでありました。洞甲斐先生は万太郎の突然なこの動作に何を勘違いしたのか、顔を引き攣らせて慌てて腰を少し椅子の後ろに引くのでありました。
「では不躾ですがこれで失礼させていただきます」
 万太郎は動揺を隠せない目で見上げる洞甲斐先生に向かってお辞儀するのでありました。その後にテーブルの隅にある勘定書きを手に取って席を離れるのでありました。

 その日調布の道場に帰りついたのは夜の十時半を少し過ぎた頃でありました。
「ご苦労様でした。首尾は如何でしたか?」
 迎えに出てきた来間が玄関を入った万太郎に早速訊くのは、勿論洞甲斐先生との話しはどうなったかと云う事であります。
「まあ、ほぼ円満に話しをつけた心算だが。・・・」
「あれこれごねたりはしなかったですか、洞甲斐先生は?」
「何だかんだ、あっさりとはいかなかったが、思った程手古摺る事はなかったな。しかしまあ、あの手の人と話しをするのは何とも骨が折れるけどなあ」
 万太郎は苦笑って見せるのでありました。「ところで総士先生はどうされている?」
「押忍。控えの間で鳥枝先生と一緒に、折野先生のお帰りを待っておられます」
「鳥枝先生も一緒なのか?」
「小金井の出張指導の後道場にお戻りになって、その儘残っておられます。それに花司馬先生も居残っておられますよ」
「ああそうか。じゃあ早速報告に伺うか」
 万太郎は靴を脱ぐとその儘師範控えの間に向かうのでありました。
「押忍。折野です。ただ今戻りました」
 万太郎はそう声をかけた後、障子戸を開いて中に向かって座礼するのでありました。
「おう、ご苦労さん。早速だが報告を聞こう」
 鳥枝範士が手招きをするのでありました。それに応じて万太郎が座敷に上がるとすぐに、母屋からあゆみも姿を見せるのでありました。
(続)
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お前の番だ! 470 [お前の番だ! 16 創作]

「少しもめたようだな?」
 鳥枝範士が口の端に薄笑いを浮かべて云うのでありました。
「いや、概ね円満に話しを収めてきたつもりですが」
「折野から今回の移籍話しは断ると聞きはしたが、その確認のためだと、私の方に先程洞甲斐さんから電話がかかってきたんだよ」
 是路総士が云うのでありました。
「ああそうですか。それで洞甲斐先生は何とおっしゃっておられましたか?」
「移籍が叶わないのは慎に残念だと云う繰り言と、お前の態度が随分横柄だったと云う苦情を延々と喋っておったな。お前、横柄な対応をしたのか?」
「いや、自分では丁重な態度や言葉遣いで通した心算でしたが」
「何か云うと凄い目で睨まれたり、取りつく島もないような風だったと云っておったぞ」
「洞甲斐先生から総士先生に対して無礼な言があって、その時は確かに睨みました。しかし概ね一定の距離を保って、あくまでも穏やかに云うべき事を云っただけです」
「あの人を相手にする時は、折野先生が今云われたように、ある程度距離を取った、無愛想なくらいの態度の方が良かったと思いますよ。こちらが懇意を見せたり、下手に出たりすれば、すぐに勘違いをしてどこまでもつけ上がるような人ですからね」
 花司馬教士が横手から口を添えるのでありました。
「まあ、私の方からは、折野の云った事がその儘私の考えであり態度であると云っておいたし、何か不服の申し立てがあるのならもう一度折野を寄越すから、相談してみたらどうだと持ちかけた。そうしたら先方は折野とはもう会いたくないそうだ」
「随分と不興を買ったものですね、僕は」
 万太郎はそう云って自嘲するような、呆れたような笑いを浮かべるのでありました。
「おいそれと総本部に迎えてくれるだろうと云う思惑が見事に撥ねつけられたので、腹いせに直接話しをした折野の事を、大袈裟に私にあれこれ詰っただけだろうよ」
 是路総士は万太郎に笑みながら頷いて見せるのでありました。
「どうせなら居酒屋なんかで逢わずに、彼奴の家に乗りこんで、つべこべ御託を並べだしたら、即座に実力行使に及んでも良かったくらいだ」
 鳥枝範士が、勿論冗談ではありましょうが不穏な事を云うのでありました。
「僕も洞甲斐先生の瞬間活殺法と対決してみたい気は、ない事もなかったですが」
 万太郎が鳥枝範士の冗談に乗って見せるのでありました。
「ま、態々対決するまでもないでしょうがね」
 花司馬教士がそう云って哄笑するのでありました。
「しかし当初、洞甲斐先生は僕如きに対しても、随分と遜った物腰で対されておられたのですが、移籍お断りの話しをすると途端に横柄な云い草になられました。それからその例の、僕が睨んだ局面後は、また一定の丁寧な言葉遣いをされるようになりましたし、別れ際はまた不貞腐れたような態度に変わられました。こちらの出方に一々、余りに判り易い態度変更をされるのには、僕としたら竟々、笑って仕舞いそうになりました」
(続)
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お前の番だ! 471 [お前の番だ! 16 創作]

「先ずはお前の若さを見縊って良いようにあしらえると踏んでいたのだろうが、話してみるとお前が思いの外冷厳で強面だったものだから、すっかり上擦って仕舞ったのだろうよ。まあ、時に横柄になったり、かと思うとすぐに諂ったり及び腰になったり、際物が正統に対して往々にして見せる、典型的な卑屈が出たと云うところだな」
 鳥枝範士は鼻を鳴らすのでありました。
「まあ、それでは順を追って、今日の経緯の詳細を聞くとしようか」
 是路総士が仕切り直すようにそう云うので、万太郎はなるべく細かく、洞甲斐先生の言葉をその儘再現しつつ、八王子の居酒屋での経緯を満座に披露するのでありました。
「興堂流に居づらくなったからこちらに移ろうとされたのでしょうけど、こちらからも断られたとなると、洞甲斐先生はこれからどうなさる心算なのでしょうね?」
 一通りの万太郎からの説明を聞いた後で、あゆみがそんな事を呟くのでありました。
「独立しかなかろうよ」
 鳥枝範士が応えるのでありました。
「しかしあの人は、何かしらの権威の尻尾にしがみついていないと安心出来ない人でしょうし、自信たっぷりに見えて、その実は尻の穴の慎に小さな人ですからねえ」
 花司馬教士がそんな下品な表現をして申しわけなかったかなと、あゆみの方にちらと視線を投げるのでありました。あゆみの方は無表情にそれを聞き流すのでありましたが。
「まあ、だからすんなり独立を選ばないで、こちらに色目を遣ってきたのだろうが」
 鳥枝範士は一応花司馬教士の言に頷くのでありました。「しかし、あちらもこちらもダメだとなると、残された道は独立しかないのは確かだ。まあ、ワシとしては彼奴が独立しようが消えてなくなろうが知ったこっちゃないがなあ」
「洞甲斐先生は、色々な事を根に持つタイプでしょうかね?」
 万太郎が花司馬教士に訊くのでありました。
「いや、どうでしょう。本心は判りませんが、今までを顧みると、あれで意外にあっさりしたところもあるように見受けられます。ま、忘れっぽいのか、根が図々しくて鈍感なためか、一晩寝ると次の日にはケロッとして、あんまり拘らない風と云うのか、すぐに次の展開を考えるタイプと云うのか、私の印象としてはそんな感じでしたかねえ」
「へえ。意外にポジティブな人なのですねえ」
「いや、厚かましい人、と云うべきでしょう」
「厚かましくなければ、道分先生の生前から、瞬間活殺法なんぞと云う怪し気な事は云い出さないだろうよ。ま、ワシに云わせれば単なる馬鹿だが」
 鳥枝範士がまた鼻を鳴らすのでありました。
「そう云えば僕も話していて、鈍いなと思うところも時々ありましたか。しかし今考えると、憎めないタイプではあるかなとも、思うような、思わないような。・・・」
「憎むだけの価値もないヤツだと直感したから、今になってそう思うだけだろうよ」
 鳥枝範士は到って鮸膠もないのでありました。
「まあ確かに、敢えて一緒に武道を研鑽しようと云う気は一切起きませんでしたが」
(続)
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お前の番だ! 472 [お前の番だ! 16 創作]

「あの人のしている事は、武道と云うよりオカルトに近いですからね」
 花司馬教士も冷淡一辺倒のようであります。
「一緒にはやれないが、我が道を行く分にはこちらも何も云う心算はない。まあ、あの人の鈍さやがさつさからこちらに累が及ぶようなら、その時はその時できっぱり諌めればそれで良い。折野は洞甲斐さんの性格を気にしているようだが、それは多分洞甲斐さんが今回の事を恨みに思って、何らかの意趣返しをしてくる事を警戒しているのだろうが」
 是路総士はそう云って万太郎を見るのでありました。
「まあ、そう云う事です」
 万太郎も是路総士を見つめるのでありました。「しかし花司馬先生に依ると、意外にあっさりとした性格のようですから、それも恐らくないでしょう。洞甲斐先生の拠点が八王子と云う事なので、同じ地域に支部がある我々としては向後何かしらの鞘当てがあったり、無用な摩擦が起ったりするのは叶わないと思ったもので、その辺を憂慮したのです」
「そんな度胸は彼奴にはなかろうよ。しかし若し不埒な事を仕かけてきたなら、こちらとしては軽く捻り潰すだけだ。へでもないわい」
 鳥枝範士は哄笑するのでありました。
「ま、必要以上に意識する事も、敵視する事もなさそうですかね」
 万太郎はそう云って言を納めるのでありました。しかし万々が一のための警戒は怠らぬ方が良かろうとも、一方で思うのでありました。
「じゃあ、洞甲斐さんの一件はこれで一先ず収束、と云う事で良いかな?」
 是路総士が訊きながら一同をゆっくり見回すのでありました。一同は小さく、押忍、と発声しながら是路総士に夫々目礼するのでありました。
「さて、どうですかな、話しも収まったところで、皆で一杯やりますかな。寄敷さんは親戚の法事と云う事で欠席だが、暫くぶりに幹部がこうして顔を揃えたと云うのに、この場に酒がないと云うのは如何にも寂しいですからなあ」
 鳥枝範士が掌をポンと打つのでありました。
「ああ、ではお酒の用意をして参ります」
 そう云ってあゆみが、少し遅れて万太郎と花司馬教士が立つのでありました。
「いやいや、これから用意するのは億劫でもあろうから、今日は一つ久しぶりに雲仙にでも繰り出す事にしよう。如何ですかな、総士先生?」
 鳥枝範士が云う、雲仙、とは別に長崎の温泉地ではなく、駅前にある居酒屋の屋号でありました。まあ、これは敢えて断るまでもない事でありましょうが。
「偶にはそれも良いですかな」
 是路総士が破顔するのでありました。
「それじゃあ、来間も呼んでこい」
 鳥枝範士が指示するのでありました。
「押忍。承りました」
 万太郎はそう云って母屋の食堂に控えている来間を呼びに行くのでありました。
(続)
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