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お前の番だ! 442 [お前の番だ! 15 創作]

 万太郎は眉宇を曇らせるのでありました。それからふと、未だ興堂流に残っている堂下善朗の事を考えるのでありました。
 堂下は興堂派時代には、神保町の道場に出稽古に行った万太郎に弟のように懐いていたのでありましたが、興堂範士の葬儀の折に少ない言葉を交わして以来、今まで顔をあわせる機会も全くなかったのでありました。板場が今次興堂流を辞める仕儀となって、堂下も少なからぬ動揺があるでありましょうし、向後どうする心算なのでありましょうか。
「板場先生は、堂下の事は何かおっしゃっておられませんでしたか?」
 万太郎は一緒に眉宇に陰鬱を宿している花司馬教士に訊ねるのでありました。
「堂下は板場と違って新しく来た空手崩れや柔道崩れの連中とも、それなりに睦まじくやっているようですが、つまりそれも板場が孤立した要因の一つでしょうね」
「新しい環境にも、無難に適応していると云うところでしょうかね」
「堂下は処世に然程不器用なところがありませんでしたから、宗家にも適当に懐いて、技法の変化なんかにもあんまり抵抗なく溶けこめたのでしょうね。それに神保町時代からの生き残りですから、道場ではそれなりに持て囃されてもいるようです」
「へえ、そうですか」
 万太郎はそう聞いて、何やら堂下が自分の居る場所からかなり遠くの方に行って仕舞ったような気がして、一抹の寂しさを覚えるのでありました。しかし堂下にしてみれば、威治宗家の下を離れて自立するには年季も浅いし、技術に於いても門下生達の心服を未だ充分に得られてはいないだろうから、この先も武道の世界で生きていこうとすれば当面、変化した環境に何としても適応するしか術はなかったと云うものでありましょうか。
「堂下は道分先生の薫陶を受けた期間も板場程長くはありませんでしたから、気持ちの切り替えも、常勝流に対する思い入れなんかも己の中で上手に処理出来たのでしょう」
「僕は、堂下は威治宗家が常勝流から独立を選んだ時点でそちらを辞めて、あっさりこちらに移って来るものとばかり推測していたのですがねえ」
「まあ、威治宗家が新しい状況の中で心細くなって、子飼いのような堂下を手放さなかったと云うのもあるでしょう。板場は結局それに何とか逆らったけれど、堂下の方は威治宗家に頼みとされたなら、それはなかなか逆らえませんからねえ」
「しかし堂下はそれ程、威治宗家に心服しているようではありませんでしたが」
「心服はしていなくとも、窮地に在る総大将に頼りとされたら、無下に袖にするわけにもいきませんから。まあ、堂下はあれで案外人の好いところがありますからね」
「ああそうですか。・・・」
 要するに堂下は威治宗家に頼りとされたと云うよりは、上手く利用されたと云う面が大きいと云う事でありましょうか。威治宗家の事でありますから状況が変われば無情に、しかも簡単に堂下を切って仕舞うような真似も仕出かすかも知れないでありましょう。
「そう云えば堂下は、折野先生に結構懐いていましたよね」
「そうですね。今ウチに移っている宇津利と二人、僕と歳が近いと云う事もあって、神保町に出稽古に行った折には結構親しく言葉を交わしていましたね」
(続)

お前の番だ! 443 [お前の番だ! 15 創作]

「宇津利は専門稽古生でしたから内弟子の堂下とは違って、こちらに移ると決めるのにもそんなに煩悶はなかったでしょう。アイツは少しお調子者でもありますから、目の前に来た潮の流れに、こりゃ好都合とサラリと乗ったと云うところでしょうかな」
 これは花司馬教士が宇津利を悪く云っているのではなくて、旧知の間柄であるための遠慮のなさと云うものでありましょうか。
「取り敢えず、堂下が向こうでそれなりに居場所があって溌剌とやっていると云うのなら、それはそれで結構な事ですし、僕があれこれ心配する必要はないでしょうね」
「まあ、先の事は判りませんがね」
 花司馬教士はそう云って顔を曇らせるのでありました。「さて、ところで・・・」
 花司馬教士が急に顔の陰影を晴らすのでありました。万太郎はこの花司馬教士の表情の急変に、思わず自分の顔の陰気も払い落とされて仕舞うのでありました。
「さて、ところで折野先生、ご結婚相手なんかは未だいらっしゃらないのですかな?」
 唐突にそんな事を訊かれて、万太郎は目を白黒させるのでありました。
「何ですか、藪から棒に?」
「いやあ、昨日ウチの女房からメシの時に偶々そんな話しが出ましてね、そう云えば折野先生は浮いた話しが何にもないなあと思ったものですからね」
 花司馬教士は職務質問をする刑事みたいに、相手の表情の微細な変化も見逃すまいとするような目をして万太郎の顔を窺うのでありました。
「そんなもの、居るわけがないじゃありませんか」
 万太郎はそう云いながら、何故かオドオドと花司馬教士から目を逸らすのでありました。別にオドオドする必要もない筈ではないかと、思わずそうして仕舞った自分を少し歯痒く感じるのでありましたが、相手の不意打ちに対して動揺を覚えるようではプロの武道家として失格かなと、そんな事なんぞを頭の隅の方で秘かに考えるのでありました。
「いやあ、その顔は、確かに意中の人が居ると云う顔ですな」
 花司馬教士は如何にも意地悪そうな笑いを口元に湛えるのでありました。万太郎は護身に失敗した己の武道家としての不手際を恥じるのでありました。
「まあ、いない事もないですが。・・・」
 こうなったら潔く負けを認めるのも、武道修行者の態度でありますか。
「ほう。それは自分の知っている人ですか、それとも全く知らない人ですか?」
 花司馬教士は畳みかけるのでありました。
「いやまあ、良いじゃないですかその辺は。・・・」
 万太郎はとても潔いとは云えない返事なんぞをするのでありました。そう云えば剣士郎君の誕生祝に呼ばれた花司馬教士宅からの帰りに、ふらりと二人でと散歩した実篤公園でもあゆみにもそんな事を訊かれたのを思い出すのでありました。
 その時は、云わぬが華、とか何とか思わせぶりな事を云って万太郎は曖昧に逃げたのでありましたか。しかし相手が花司馬教士であってみれば、あの時のあゆみのように、それ以上の根掘り葉掘りの追及を止してくれるかどうか。・・・。
(続)

お前の番だ! 444 [お前の番だ! 15 創作]

 ところでそう云えば、あゆみはどうしてあの時、意外にあっさりと追及を止めにしたのでありましょうや。万太郎が有耶無耶の儘に切り抜けようとするのを見越してげんなりしたためか、或いは、万太郎の意中の人等、端から興味がなかった故でありましょうか。
「おや、随分出し惜しみするじゃないですか」
 花司馬教士はそう云ってニヤニヤと笑うのでありました。
「別に出し惜しみしているのではないですが、これは全く個人的な事柄ですから、余り他の人に云いたくないと云うだけですよ」
「そのお相手の方は、折野先生の意中をもう判っていらっしゃるので?」
「それはもう、全く思いも依らないでしょうね。僕の勝手な気持ちと云うだけです」
「折野先生のお気持ちを素直に伝えるには、何かしらの障害があるのでしょうかね?」
 花司馬教士はなかなか追及の手を緩めてくれないのでありました。
「障害はないかも知れませんが、・・・」
 万太郎はそこでふと考えるような顔をするのでありました。「いや、矢張りあるかも知れません。お互いの立場と云うものを考えれば」
「お互いの立場上、思慕の情を表明するのに障害があるかも知れない方、ですか。・・・」
 花司馬教士は腕組みして首を傾げるのでありました。これ以上、曖昧にであれその追及に言葉を返していると、竟に知られる恐れがありそうであります。
「まあ、この話しはこれくらいで良いじゃありませんか」
「若し何でしたら、自分が一肌脱いでも構いませんが?」
「いやいや、それは真っ平遠慮申し上げます」
 万太郎は慌てて両手を花司馬教士の目の前で横にふって見せるのでありました。「そんな事をして、相手の方にご迷惑がかかるといけませんから」
「ほう、折野先生の意中を知られると迷惑がかかるかも知れない方、ですか?」
 花司馬教士は腕組みした儘で、上目で万太郎の顔に見入るのでありました。
「いやまあ一般的な意味に於いて、思いも依らないヤツが自分に思慕の情を抱いている事を知ると、女性は逆に気持ちを後退りさせて仕舞うだろうと云う懸念です。そうなると今までスムーズだった関係もギクシャクして仕舞いますし、それは拙いですぅから」
 万太郎はしどろもどろにそんな説明をするのでありました。
「いや、それは判りませんよ。瓢箪から駒、と云う言葉もありますからねえ」
「それにしてもご厚意には感謝しますが、一肌脱ぎの件はきっぱりお断りします」
「何だか嫌に気持ちが消極的ですなあ。折野先生をそこまで及び腰にさせる立場の人、となると、さて、誰がいるだろう?」
 花司馬教士はまたもや腕組みの首傾げのポーズをするのでありました。
「花司馬先生、もう勘弁してくださいよ」
 万太郎は花司馬教士に合掌するのでありました。
「そうやって折野先生に拝まれて仕舞うと、ま、今日のところは引き下がらざるを得ませんかな。しかしそこまで聞けば、考えを回らせば誰だか目星がつきそうだな」
(続)

お前の番だ! 445 [お前の番だ! 15 創作]

 花司馬教士は万太郎にニヤリと意味有り気な笑みを投げかけるのでありました。万太郎はもうこれ以上取りあわないと云う意志表示の心算で、座卓に広げた書類に目を落として、事務仕事に没頭するようなふりを装うのでありました。

 食堂であゆみが万太郎に菓子折りを手渡すのでありました。
「はいこれ。万ちゃんの好きなお菓子でしょう?」
 道場の休みである月曜日の午後で、食堂に現れたあゆみはコーヒーを飲んでいる万太郎の向いの席に腰を下ろすのでありました。是路総士とあゆみはその日の昼過ぎに、九州への出張指導から調布の総本部道場に帰着したのでありました。
 二人は、昼食は羽田空港で済ませてきたと云う事で、万太郎と来間に出迎えの挨拶を受けた後は、夫々の部屋に引き取って旅の荷を解くのでありました。その間万太郎と来間は食堂で簡単な昼食を摂って、来間はその後映画を見に行くと云うので新宿に出かけ、万太郎は特にやる事もないので、食堂で自らコーヒーを淹れて寛いでいたのでありました。
「おや、誉の陣太鼓、ですね」
「そう。万ちゃんのお母さんに、万ちゃんがこれが殊の外好きだと伺ったものだから、お土産にと思って買ってきてあげたの」
「これはどうも有難うございます」
 万太郎は恭しくあゆみにお辞儀するのでありました。「そう云えば九州の出張指導で、熊本にも行かれたのでしたよね?」
「そう。その時、人吉から万ちゃんのお父様とお母様、それにお兄様がご挨拶にと、あたし達が泊まっている熊本市内のホテルまで出向いて来てくださったのよ」
「ああそうでしたか。そのために時間を取って下さって有難うございました」
 万太郎はもう一度あゆみに深いお辞儀をするのでありました。
「ううん。折角熊本に来たからと思って万ちゃんのお家に挨拶の電話を入れたのよ。そうしたら態々ご足労をおかけする事になって、こちらこそ申しわけなかったわ」
「兄貴が結婚して今熊本市内に住んでいますから、そこに来る序もあったのでしょう」
「そんな事をおっしゃっていたわ。お父様もお母様もお兄様もお元気そうだったわよ」
「ああそうですか」
 万太郎は余り興味がなさそうに無愛想に応えるのでありましたが。これは身内の事は努めて隅に置くと云う、一種の取り立てる程の無意もない礼儀からでありますか。
「お父様もお母様も、話していてとても面白い方だったわ」
「田舎者ですから、総士先生に失礼な事なんか云わなかったでしょうかね?」
「ううん。お父さんもご両親がお帰りになってから、久しぶりにほのぼのした、なんて云っていたわ。それから何となくお父様の話しぶりが万ちゃんにそっくりだってさ」
 そう云われても万太郎としては嬉しいような嬉しくないような、妙に複雑な思いがするのでありました。それに何やら、あゆみに自分のお里が知れて仕舞ったような心持ちになって、恥ずかしいような心持ちも秘かにするのでありました。
(続)

お前の番だ! 446 [お前の番だ! 15 創作]

「僕は自分では親父に話しぶりが似ているとは、ちっとも思わないのですがね」
「そうでもないと思うわよ」
 あゆみはゆっくり首を横にふりながら万太郎の仏頂面を笑うのでありました。
「ウチの親とどんな話しをしたのですか?」
「ま、万ちゃんの小さい頃の話しとか、色々」
 あゆみはそう云って含み笑うのでありました。
「親父やお袋が、何かとんでもない逸話とか話さなかったでしょうね?」
 万太郎は警戒の色を目に浮かべるのでありました。
「ううん、別に。万ちゃんはオムツがとれるのが遅い子だったとか、頭が大きい子で幼稚園前にシャボン玉をしていて、遠くへ飛ばそうと縁側から身を乗り出し過ぎて、頭が重いから敷石の上に落っこちて額を一針縫う怪我をしたけど、落ちた時も病院で縫われている時もちっとも泣かなかったとか、中学生の夏休みに突然剣道が今より二倍がた強くなりたいからって、山籠もりするとか云い出して裏の山で竹刀を飽かず素ぶりしていたけど、ご飯の時と寝る時はちゃんと家に帰って来て、別に山籠もりでも何でもなかったとか」
 万太郎はあゆみの話しを聞きながらやれやれと思うのでありました。全く無意味な上に余計極まりない事をペラペラと喋る困った両親であります。
「それからそれから、・・・」
 あゆみは尚も続けるのでありました。「学校の帰りに、よく捨てネコとか子犬を拾ってくる子だったとか、ある時ヒヨコを貰ってきて、将来卵を産ませるからとか云って暫く庭で飼っていたけど、成長したらそれが雄の鶏になって仕舞ったとか、それにこれはお兄様から伺ったお話しだけど、高校生の時に大失恋をして俺は自殺するとか云って、一番手軽な方法だからって、一二の三で洗面器に張った水に顔をつけて、苦しくなったらその都度ブハーとか云いながら顔を上げて、ちっとも死ねないと真顔で困っていたとか、まあ、特には、万ちゃんが人に知れたら恥ずかしくなるような事はお話しにはならなかったわよ」
 それだけ披露すれば充分だと、万太郎は大いにげんなりするのでありました。
「誰かの言葉ではありませんが、これで僕も恥多き人生を歩んできたのです」
「ええとそれから、・・・」
「未だあるのですか?」
 万太郎は眉根に皺をつくって眉尻を下げて、情けなさそうな顔をするのでありました。
「誉の陣太鼓、と云う熊本名菓が殊の外好きな子だったって」
「ああ、それですか。で、あゆみさんが買ってきてくれたのですね」
「そう。万ちゃん嬉しい?」
「ええもう、嬉しいやらきまりが悪いやらで、思わず涙が出そうなくらいです」
「それは良かったわ」
 あゆみは万太郎の今の答礼への満足四分と、万太郎のきまりが悪がる様子への面白がり六分の笑いを送って寄越すのでありました。
「ではこのお土産は、後で来間と一緒にいただきます」
(続)

お前の番だ! 447 [お前の番だ! 15 創作]

「それは万ちゃん一人で食べて構わないわよ」
「いや、それでは来間に対して如何にもつれない仕業と云うものです」
「大丈夫よ。注連ちゃんや他の準内弟子の人達には、最後の旅先になった長崎空港で、長崎物語、とか云うお菓子を別に買ってきたから」
「ああそうですか。これは僕専用のお土産ですか」
 万太郎は思わず笑みを零すのでありました。
「そう。だから万ちゃんが独り占めして良いのよ」
「それは全く、有難いですねえ」
 万太郎はそう云ってあゆみに嬉しそうにお辞儀するのでありました。「ああそうだ、気がつきませんでしたがコーヒーを淹れましょうか?」
 顔を上げた万太郎があゆみに愛想をするのでありました。
「自分で淹れるからいいわ」
 あゆみは立ち上がって自分のコーヒーを淹れるのでありました。
「あゆみさんはこの、誉の陣太鼓、は、向こうでもう食されましたか?」
「ううん、食べてないわ」
「じゃあ、僕が独り占めするのも何ですから、ここで開いて一緒に食べましょう」
 万太郎は菓子折りの紙紐を解くのでありました。「実はこれは僕が高校生の時に発売された、比較的新しいお菓子なのです」
「へえ、そうなんだ」
「名物に美味い物なし、とか云いますが、これは外の餅も中の餡も、類する他の物より格段に美味いのです。僕は友達の家で初めてよばれて、思わず呻りましたね」
「それから大好きになったんだ?」
「ええもう、虜と云っても良いですね」
 万太郎はあゆみがアルミ箔の包装を解くのが待ちきれずに、先に一口齧りつくのでありました。懐かしい味が口腔一杯に広がるのでありました。
「どぎゃんですか、美味かでしょうか?」
 万太郎はやや遅れて口に一片を入れたあゆみに、敢えて熊本弁で訊くのでありました。
「うん、美味しいわ。味がしっかりしているし」
「でしょう?」
 万太郎はあゆみが間を置かずにもう一口を直ぐさま口に運ぶのを、さも嬉しそうに眺めながら云うのでありました。我が意を得たり、の返答であります。
「ひょっとしてこのお菓子を初めてご馳走になったその友達の家、と云うのは、万ちゃんが大失恋して自殺に走ろうとした彼女の家、なんて云うんじゃないの?」
「いやあ、そぎゃん事はありまっせん! 同じ剣道部の男の友達ですばい」
 ここも万太郎は敢えて熊本弁で応えるのでありました。別に何か意趣があっての事ではなく、何となく口から自然に熊本弁が出るのでありましたが、それは懐かしい菓子を久しぶりに頬張ったものだから、舌が昔の言葉つきを急に思い出した故でありましょうか。
(続)

お前の番だ! 448 [お前の番だ! 15 創作]

「そう云えば、万ちゃんの熊本弁は初めて聞くわね」
 あゆみが口元を手で隠しながら笑うのでありました。
「ああそうでしたかね。ま、今では敢えて熊本弁を使う場面もありませんから。それにこの頃では、僕は東京言葉の方が流暢ですからねえ」
「ああそう。でも、時々そうでもないかもよ」
「そうですか? まるで東京に生まれて東京に育ったみたいにペラペラと東京言葉を自在に操っている心算で、本人としてはいるのですが」
 あゆみはまた手で隠した口をモグモグと動かしながら、目尻で笑うのでありました。
「九州の言葉って何かゴツゴツしたイメージがあったんだけど、万ちゃんや熊本のご両親、それにお兄様の喋り方は、何となくゆったりしているって感じだわね」
「まあ、押し並べて早口でゴツゴツしていますけど、時と場合に依っては悠長な風にもなりますよ。福岡や長崎の方は早口のゴツゴツ一辺倒ですけど」
「ああそうなの?」
「いや、これはあくまでも僕の個人的な印象で、深く研究したわけではありません。そんな事を云っていると、福岡や長崎の人に怒られるかもしれませんし」
「今度の九州の出張旅行で感じたけど、確かに九州の北と南の方では言葉つきが違うわね。北の方はものすごく早口だけど、南の方は比較的ゆったりしているみたいな印象ね」
「ま、熊本も喧嘩の時には早口でまくし立てます」
 万太郎はそう云って気忙し気に、誉の陣太鼓を口に運んで噛み千切るのでありました。

 あゆみが唇に当てていたコーヒーカップを下に置くのでありました。
「万ちゃんがフラれて自殺を考えるくらいの、その彼女って、どんな人だったの?」
 あゆみが誉の陣太鼓の三つ目に手を出した万太郎に唐突に訊くのでありました。「ああ、話したくないようだったら、別に話さなくても構わないけど」
「いやあ、別に全然構いませんけど。・・・」
 万太郎は照れ臭そうに、且つ決まり悪そうにボソボソとそう云うのでありました。「高校二年生の時の同じクラスの、体操部のヤツでした」
「剣道部じゃないの?」
「剣道部と体操部は放課後に体育館の四分の一面を夫々使って練習していましたから、僕等が竹刀をふり回している隣で、平均台とか跳馬をしていたのです。ちなみに剣道部と体操部が四分の一面で、半面を広々と使っていたのはバスケットボール部の連中でした。ウチの学校ではバスケットボール部が強くて、県大会なんかでは何時も優勝を争っていましたね。まあこれは直接関係のない事ではありますが、一応念のため云い添えます」
 念のため、にしても全く以って不要で無意味な事かなと万太郎は考えるのでありました。別に本題を話すのに及び腰になって無駄口を重ねる心算はないのでありましたが。
「体操部の女子のレオタード姿にキュンとなったわけ?」
「ま、そんなところです」
(続)

お前の番だ! 449 [お前の番だ! 15 創作]

 万太郎はその同級生を思い出すように、目線を遠くに馳せるのでありました。「体操をやっている女子は大概背が低い子が多いのですが、その子も身長は小さい方でしたね。でも顔も小さくて体の線が細くて、それに首が長くて、遠くから見ると如何にもスラっとした印象でしたね。稽古の時にあゆみさんがよくやるように、練習の時は長い髪を後ろにクルクルと巻くようにして束ねていて、そうすると細くて長い首が余計目立ちましたね」
「ふうん。それで体操の方は上手かったの?」
「そうでもなかったですね。大会でも特に入賞したなんて話しは聞きませんでしたから。しかし練習中の彼女は如何にも体操が好きで堪らない、と云った感じでしたかね。丸い目を見開いて熱心そうに、顧問の先生の指導に何度も頷く仕草が印象的でした」
 万太郎がそう云ってあゆみの方に目を戻すと、あゆみは万太郎の話しを如何にも熱心そうに聞きながら、数度頷いて見せるのでありました。
「そう云う可愛らしさにも万ちゃんはキュンときたわけね?」
「ええ、まあ、そんなような次第で」
 万太郎は面目なさそうに俯いてコーヒーカップに手を遣るのでありました。
「で、どうしてフラれるような次第になったの?」
「僕はどちらかと云うと高校生の頃は惚れっぽい性質だったので、何かの拍子に、あゆみさん云うところの、キュン、がきた途端、もうそれで一人で舞い上がって仕舞うのです。で、思いが募ってどう仕様もなくなって、或る時部活の帰りに待ち伏せして手紙を渡そうとしたのです。学校から五六分歩いた処にバス停があって、その途中を狙って」
「ふうん。ラブレターを渡そうとしたわけね。それって何だか、ちょっと古風な感じね。万ちゃんらしいと云えば、如何にも万ちゃんらしいけどさ」
「僕としてはクラスの中やクラブの練習の合間に少し言葉を交わす機会もあって、向こうも僕に、少なからず気があると踏んでいたのでそんな思い切った行動に出たのです」
「万ちゃんの気持ちとしてはそうかも知れないけど、向こうにしたら、如何にも唐突な万ちゃんの行動だったと云う事かしらね?」
「ま、そうですね。だから、驚いたと云うよりは恐怖に近い表情になって、僕が手渡そうとした手紙をなかなか受け取ろうとはしないのです。僕としては目算違いも良いところで、一挙に立つ瀬はなくなるわ、恥ずかしさで消えも入りたくなるわ、それでもなんとか体裁は繕わなければならないわで、余計怖そうな顔になっていたと思いますよ」
 万太郎は頭を掻きながら柔和に笑って見せるのでありました。
「それで手紙は受け取って貰えたの?」
「強引に手に握らせて、僕は急いでその場を離れました」
「何か、昔のテレビの青春ドラマみたい」
「いやどうも面目ありません。この顔でそんな行為は似あわないですよね」
「まあ、そうでもないけどさ」
 あゆみは少し口元を綻ばせるのでありました。「それで、その後どうなったの? まあ、そんな感じだったのなら、大体の想像はつくけどさ」
(続)

お前の番だ! 450 [お前の番だ! 15 創作]

「はいもう、ご想像の通りです」
「それですぐに、自殺、と云う段取りになるの?」
「いやまあ、すぐにと云うか何というか。・・・で、次の日に学校に行くと、その子に僕は凄い顔で睨まれまして、もう僕に近寄ろうともしないのです。それだけならまだしも朝のホームルームが始まる前に、僕が前日渡した手紙を、その子の親友とか云う別の女子が、代理で僕に突っ返してきたのです。からかいよったら許さんからね汚らわしいか、とか、まるで僕を卑劣漢を見るような目で威嚇しながら。僕の自尊心はもうズタズタですよ」
「万ちゃん可哀相」
 あゆみはそう云って哀切の目線で万太郎を見るのでありました。そんな目容を作って見せるのは、本当に万太郎を可哀相に思っているためか、それとも冗談交じりで軽い相の手を入れる代わりの心算なのか、万太郎には何とも判断がつかないのでありました。
「それにまたその代理の女子が広めたらしく、クラス中に僕がその子に手紙を渡したことが知れ渡りまして、友達からは大いにからかわれるし、クラス中の女子からは顔を見るとクスクス笑われるようになるし、僕はもう消えてなくなりたい心境でしたね」
「でもまあ、消えてなくならなかったわけね?」
「つまり消えてなくなろうとして、洗面器の水に顔をつけたのです」
「洗面器なんかで、本当に自殺出来ると思ったの?」
 あゆみは何故かやや遠慮がちに、しかし至極真面目な顔で問うのでありました。
「僕としては当てつけがましく、海に身投げするとか、軒下で首を吊るとか、その子の家の前で切腹するとか、そう云ったのは自分の趣味に反すると考えまして、人知れず、しかもあっさりした方法を色々熟慮しまして、それで洗面器に辿り着いたのです」
「まあ、あっさり、と云うか、随分お手軽な方法ではあると思うけど。・・・」
「海の水は冷たくて想像しただけで怖気立ちましたし、僕の住んでいた家は古くて軒下と云っても若しも梁が腐っていたら、ぶら下がった僕の体重を支えるだけの強度はないかも知れないし、刃物と云うと僕は鉛筆削りに使うなまくらの小刀しか持っていないし、だからと云って台所から秘かに包丁を持ち出すと、後で母親が夕飯を作るのに難儀するでしょうから、そう云う如何にも大仰で人に迷惑をかけたりするのはダメです。でも、鉄の決意と胆力さえあれば、洗面器で充分貫徹出来ると僕としては考えたのですがねえ」
 万太郎は一応、話しの性質から苦った表情をするのでありました。あゆみは万太郎の説明に思わず口に手を当てて吹くのでありました。
「でもダメだったわけね?」
「顔を浸けても苦しくなると竟、どうしても顔を上げて仕舞うのです」
 万太郎が情けなさそうな表情をすると、あゆみはまた吹くのでありました。
「で、諦めたのね?」
「そうです。考えたら、女にフラれたくらいで自殺するなんと云うのは、大の男のする事じゃありません。第一洗面器で死んでも、死んだ気がちっともせんめんき。・・・」
 万太郎はそう云った後、実に下らない駄洒落だと自ら眉を顰めるのでありました。
(続)

お前の番だ! 451 [お前の番だ! 16 創作]

 あゆみは万太郎のその表情を見て、今度は吹くだけでは収まらずに身を捩りながら大笑するのでありました。結構受けたかなと、万太郎の方はあゆみを大笑させた事に大いに満足を覚えながら、殆ど冷めて仕舞ったコーヒーを口に運ぶのでありました。
「洗面器に何度も顔をつけていたためか、その日以来ニキビも消えて、僕の顔は妙にスベスベになりましたが、まあ、それがこの騒動の意図しない収穫でしたかねえ」
 万太郎としては、これは冗談の止めの一発の心算でありました。しかし意図した程あゆみが大笑に輪をかける事がなかったのは、些か物足りない事ではありましたか。
「洗面器がどうした?」
 是路総士が不意に台所に入って来るのでありました。万太郎はすぐに立って是路総士に固いお辞儀を送るのでありました。
「押忍。いや別に何でもありません」
 万太郎は至極真面目くさった顔で返すのでありました。
「万ちゃんと、熊本のご両親とお兄様にお会いした時の事を話していたのよ」
 そう云うあゆみの横に是路総士も腰を下ろすのでありました。
「ああ、ご両親は態々人吉から出てこられて、お兄様共々私等の泊まっているホテルまでお越しになって、くれぐれもお前の事をよろしくとおっしゃっておられたぞ」
 是路総士は万太郎にそう云って笑顔を向けるのでありました。
「押忍。態々そのために時間をつくっていただいて有難うございました」
「いや何、とても楽しい時間だったよ」
「お父さん、お茶にする、それともコーヒーにする?」
 あゆみが立ち上がりながら是路総士に訊くのでありました。
「じゃあ、茶を貰おうかな」
 その言葉を聞いてからあゆみは流し台の方に向かうのでありました。
「何やら、両親や兄が僕の熊本時代のつまらない話しをあれこれお聞かせしたようで」
 万太郎はそう云って、何となく頭を下げるのでありました。
「ああ、色々聞かせて貰った。・・・ああ、お兄様から聞いたお前の自殺未遂の件を、今あゆみと話していて、それで洗面器が出.てきたわけだな?」
「押忍。ご明察の通りです」
「いや、あれには笑ったぞ。お前は、高校時代は相当味わい深いヤツだったようだな」
「お恥ずかしい次第です」
 万太郎は苦笑しながら頭を掻くのでありました。
「見ていると今でもその頃の片鱗が、多少残っているような、残っていないような」
「いやあ、どうも恐れ入ります」
 万太郎の体裁悪がる様子を是路総士は愉快そうに笑うのでありました。
「あたしもお父さんの意見に一票」
 あゆみが湯気立つ湯呑を是路総士の前に置いて、また元の席に座るのでありました。
「それから、ご両親に、お前に良い嫁さんを見つけてやってくれと頼まれたぞ」
(続)

お前の番だ! 452 [お前の番だ! 16 創作]

 是路総士はそんな話しを紹介するのでありました。
「そんな事まで頼んだのですか、ウチの両親は?」
「ああ。お兄様にはもう赤ちゃんもおありになるし、お姉様の方も地元の市役所に勤めていらっしゃる方とご婚約中だそうで、残る気がかりの種はお前だけだそうだ」
「彼奴は呑気の国から呑気教を広めに来たようなヤツだから、放っておくと一生嫁取りしないでいるかも知れない、なんてお父様が心配されていたわよ」
 あゆみが云い添えるのでありました。
「全く余計な事を。・・・」
 万太郎は苦った表情をするのでありました。
「一応、心がけておきますと私は返事をしておいたのだが、お前、何かそう云った浮いた話しなんぞは何もないのか?」
 是路総士は万太郎の顔を覗きこむのでありました。
「押忍。今のところ生一本に無骨一辺倒でやっております」
「ふうん。秘かに思いを寄せる人とかもいないのか?」
「それがね、どうもいるらしいのよ、万ちゃんにもそんな人が」
 あゆみが横の是路総士に真面目な顔で頷いて見せるのでありました。
「ほう。誰だ?」
 是路総士は意外な、と云う目をして万太郎に見入るのでありました。
「あたしも追及している最中なんだけど、なかなか口を割らないの」
 あゆみが万太郎を睨むのでありました。
「ああそうか。しかしそれなら話しが早いじゃないか。何なら私が取り持とうか?」
「押忍。折角の総士先生のお言葉ですが今のところは遠慮させていただきたく思います。思いを寄せる、なんと云ってもそれは何と云うのか、・・・仄かな憧れのようなものでして、その人とどうこうなりたいと云った志望と云うのではないので、・・・」
 万太郎は深くお辞儀するのでありました。
「ほう、仄かな憧れ、ねえ」
 是路総士は口元に笑いを湛えるのでありました。それは嘲笑とも取れる笑い顔でありますが、確かに三十を過ぎた男の言葉にしては些か青過ぎると云うものでありますか。
「ま、高嶺の花、と云ったところでして。遠くで見ていたい存在、と云うのか、・・・」
 万太郎は照れ臭くなって云い直すのでありました。しかしこれも矢張り三十男の言葉としては嫌に浪漫的に過ぎるでありましょうかな。
 それより何より、その自分の今の言葉で、意中に在る人が誰であるのか是路総士やあゆみに、朧気ではあろうけれどもある程度の確度を以って特定されたのではないかしらと、云った後に万太郎は内心冷やりとして仕舞うのでありました。
「何か、高校生と話しているみたい」
 あゆみが是路総士と同様の笑みを口の端に浮かべるのでありました。あゆみは万太郎の言葉の幼さ加減の方に気が向いたようで、それならまあ好都合なのでありますが。・・・
(続)

お前の番だ! 453 [お前の番だ! 16 創作]

「ま、その高嶺の花が、里に下りてきて咲き始めそうなら私に相談してくれ。可愛い弟子のためなら一肌脱ぐのに私は大いに吝かではないからな」
 是路総士はそれ以上の追及を一旦脇に置くのでありました。
「押忍。有難うございます。しかしまあ、そう云う折は多分ないでしょうが」
 万太郎はそう云ってまた深く頭を下げるのでありました。

 所帯が膨らんだ分、常勝流総本部の仕事は繁忙になるのであました。指導にしても是路総士と鳥枝範士や寄敷範士、それにあゆみと万太郎と花司馬教士がフル稼働しても追いつかない程でありましたし、内弟子の来間や準内弟子のジョージ、片倉、山田、目白、狭間、高尾、それに山口の面々にもなかなかに忙しく立ち働いて貰う状況でありました。
 少年部創設も具体化して、いよいよ稽古を開始すると云う段取りにまで漕ぎ着けるのでありました。当面は週に二日、昼稽古と夕方稽古の合間に一時間、あゆみを筆頭責任者としてそれに万太郎と花司馬教士と来間が責任者として加わり、他にはその日道場に居る準内弟子も加えて複数での指導布陣で臨む事になるのでありました
 門下生達に、この度少年部を開設する事になったと声をかけたら、自分の子供やその知りあいの子供の入門者が何人かすぐに集まり、何処で聞き知ったのか近所に住む小学生達も数名集って来て、先ずは十人余りでスタートする事になるのでありました。
 少年部は常勝流の技法の習得と云うよりは、武道的礼儀作法や武道を学ぶための体育知育の見地に立った稽古を主眼とするため、指導者には大人の門人に指導するような高度の武術技能よりは、ある種の人格的な要素を先ず求められるのでありました。それに何より、子供が嫌いではないと云う事が指導者の第一の条件と云う事になりますか。
 あゆみはすぐに子供に懐かれるのでありました。単に懐かれるだけではなくて、そこには優しさと同時に威もあり、子供達の心服を一心に得ると云った風でありました。
 全体的には、あゆみの子供達に対して投げる眼差しは慈しむようなものではありましたが、時には無表情に近い厳かな顔をしてその無作法や指示への背違を、声を荒げる事なく、如何にも静かな物腰で窘め諭す事もあるのでありました。すると子供達はあゆみの再びの柔和な表情を求めるように、不思議に素直にその訓言に従おうとするのであります。
 あゆみが子供達のあしらいにこれだけ長けていると云うのは、万太郎には些か驚きでありました。それは殊更巧まない、あゆみの心根に由来するものなのでありましょう。
 これが万太郎以下の男共の仕儀となると、声を荒げて嚇らないと子供達は全く云う事を聞かないのでありました。それもその場逃れに悄気て見せるだけで、心から従順とするわけでは決してないのが十分に判るのでありました。
 こちらが差し当たりの歓心を得ようと少しふざけて見せれば、向こうはどこまでも羽目を外して後の収拾に一苦労するし、ややきつめに怒声を浴びせればすぐに泣いてその後は稽古の間中拗ね続けるのであります。だからと云って諄々と道理を説いてもちっともその甲斐現れる事なく詮ない事であるし、こちらが短気を起こして引っ叩く事は厳に慎まなければならないし、全く以って子供の扱いには手を焼くと云った按配でありましたか。
(続)

お前の番だ! 454 [お前の番だ! 16 創作]

 男と女の差、と云う事もあるかも知れないと万太郎は考えるのでありました。生物として、子供なるものは女性の方に懐きやすいもののように思われるであります。
 男共の困惑を尻目に、あゆみ一人が子供達の心服を得ているように万太郎には見えるのでありましたが、ここは一つあゆみに子供あしらいの秘訣を伝授して貰わなければならないでありましょう。まあ、男共と一括りしてはいるものの、花司馬教士は例外のようで、流石に子を持つ親であってみれば万太郎以下の若輩とは少し違うのでありましたが。
 とまれ、こうして少年部の立ち上げも成りはするのでありました。三か月が経過すると少年部門下生は倍増するのでありますから、先ずは順調な船出と云えるでありましょうし、万太郎としても只管困惑している場合ではないと自らの意を励ますのでありました。
 そうなると是路総士と寄敷範士も少年部に興味を示し始めて、万太郎やあゆみに、子供の稽古はどう云う具合だと訊ねるようになるのでありました。その顔の印象から、到底子供の歓心を買わないであろうと思われる鳥枝範士までもが気にはなるようで、ワシが少年部の稽古の一端を受け持つと云う目は全くないのか、等と云い出すに及んでは万太郎もあゆみも驚嘆の表情もて、その鬼瓦みたいな顔を思わず凝視するのでありました。
 是路総士も、たっての希望から一度見所に座って貰った事があったのでありましたが、その時は来間に怒られて拗ねて泣き出した子供を、態々見所から降りてきて慰めながら肩を抱くように見所に連れて戻って、二人並んで座って、稽古を見学させているのでありました。万太郎すら稽古中に見所には上がった事等はなかったものだから、その特別待遇には、何とも云えぬ奇妙な表情をして仕舞うしかないのでありました。
 寄敷範士も鳥枝範士も矢張りそのたっての希望から見所に招待した事もあるのでありましたが、寄敷範士は黙って見所に座っておられずに態々下に降りて子供に指導を始めるのでありました。おまけに気紛れに子供の受けを取って畳にゴロリと転がって見せて、アンちゃんはなかなか筋が良い、等と大袈裟に誉めそやしたりするのでありました。
 万太郎なぞは寄敷範士に褒められた事なんか滅多になかったものだから、その光景を見ながら何となく調子が狂って仕舞うのでありました。この三先生のはしゃぎようなんと云うものは、一体全体どういう風が道場に吹き回った故なのでありましょうや。
 意外や意外、子供達に一番人気があるのは鳥枝範士なのでありました。厳つい鬼瓦が偶にニコニコしたりすると、子供は不意に嬉しくなるもののようであります。
「流石に自分の孫で鍛えられているだけあって、ウチの道場の爺様連中は子供のあしらいが上手いものですなあ。自分等は到底敵いませんよ」
 花司馬教士が稽古合間の休息中に苦笑いながら万太郎に冗談を云うのでありました。
「まあ、総士先生は孫がおありにならないのですが、その人徳のせいか子供が妙に懐いていますよねえ。ああ云った雰囲気は僕には出せません。しかし花司馬先生は剣士郎君と云うお子さんがおありなのですから、子供あしらいの薀蓄をお持ちでしょう。僕なんかは今までそんなに子供とつきあった経験がないので、まるで七転八倒の苦しみです」
 万太郎も頬に苦笑を浮かべるのでありました。
「いやいや、自分なんぞの薀蓄はあの爺様達の年の功には全く及ばないようです」
(続)

お前の番だ! 455 [お前の番だ! 16 創作]

「そう云うものですかねえ」
 万太郎は顎に手を遣って思いに耽る顔をするのでありました。
「ウチの剣士郎なんかも、道場に居る間は三先生にペッタリくっついていますよ。この前なぞは鳥枝先生に手を引かれて、師範控えの間にまで上がる始末です。そこでキャラメルか何かを貰って、鳥枝先生と一緒に食っていましたよ」
「しかし実のところ僕としては当初、子供を厳しく仕こもうと思っていたのですが、三先生がある意味あんなに甘やかされるとなると、些かまごついて仕舞います」
 万太郎はほんの少々、小難し気な顔をするのでありました。
「ま、子供に嫌がられたら少年部も続かなくなりますし、ここは一先ず仕方ありませんかな。連中は、大体は常勝流がやりたくて自らの意志で入門したわけではなく、今のところ親に唆されて来ているだけですから、厳しいだけでは閉口するでしょう」
「それはまあ、そうですが」
「人数がもっと増えたり、今の子供達の学年が上がったりしてくれば、少年部の雰囲気も少し変わってくるでしょう。ご老人方も子供あしらいに厭きるかも知れないし」
「それもそうですねえ。僕も一先ずここは宗旨替えといくべきでしょうかね」
「しかし、少年部の稽古始まりと終わりは、道場の内外が嫌に華やかになりましたねえ」
 花司馬教士が話頭を少し曲げるのでありました。
「ああ、お母さん方の送り迎えの事ですね?」
「そうです、そうです」
 花司馬教士は思わずと云った風にニヤニヤとするのでありました。「妙齢、とは云いませんが、まあ、若いお母さん方がああやって稽古始まりと終わりの時間に、何人も道場にやって来ると云うのは、何とも華やいだ雰囲気がありますよねえ」
「大体、花司馬先生と同い歳くらいの方々ですよね」
「いや、小学校一年坊主のお母さんが家の女房と同い歳か少し若いくらい、あゆみ先生よりはチョイ上、と云った感じですかなあ」
「花司馬先生、その妙に嬉しそうなデレデレした顔は止めてください」
「おっと、これは失礼をいたしました」
 そう云って表情を引き締めようとするものの、花司馬教士の顔には締まりのない笑いの残滓が未だ充分に消え残っているのでありました。
「ま、確かに今までの道場にはなかった光景である事は確かですね」
「そのお母さん方に、指導陣の男共の中で一番人気があるのは誰だと思いますか?」
 花司馬教士は含みのある物腰でそう云って、万太郎の顔を覗きこむのでありました。
「さあ。花司馬先生ですか?」
「いやいや、私はカカア持ちですから員外です」
「じゃあ、総士先生や鳥枝先生、それに寄敷先生も員外と云う事ですかね?」
「総士先生はチョンガーでいらっしゃいますが、しかしお三方も当然幕の外です。お三方はお母さん方の父親と云っても良い歳回りなのですからねえ」
(続)

お前の番だ! 456 [お前の番だ! 16 創作]

「来間とか山田なんかは、女性受けする甘いフェースと云う感じじゃないし」
 そう云いながら万太郎は腕組みして考えこむ仕草をするのでありました。
「その通りです。準内弟子の連中は歳若過ぎて子共扱いでしょうし」
「ああそうですか。となると、・・・」
 万太郎は花司馬教士の顔を上目遣いで窺い見るような目つきをしながら、冗談交じりと云った風情で極めて遠慮がちに自分を指差して見せるのでありました。
「はいご名算。しかし折野先生、そのデレデレ笑いは止めてください」
「押忍。これは失礼をいたしました」
 万太郎は表情を改めるのでありましたが、先程の花司馬教士同様、口の端に締まらない笑いの痕跡が未だ残留しているのでありました。
「それから折野先生と同じくらい、ジョージもなかなか評判が良いですね」
「成程。そう云えば二人共、武道だけをやらせておくには惜しい程の、お母さん方に大いに持て囃されるような甘いマスクをしておりますからねえ」
 万太郎が云うと花司馬教士は鼻を鳴らして見せるのでありました。
「甘いマスクだかしょっぱいマスクだか知りませんが、ま、そう云う事です。ジョージはエキゾチックな顔の割に日本語がかなり堪能だから、そのギャップに先ず目を奪われるのでしょうし、折野先生は若いヤツ等を束ねている辺りが頼もしく見えるのでしょうね」
「そうですかね。僕はこの甘いマスクが第一の理由だと思いますがねえ」
 万太郎はもう一度自分の顔を指差して見せるのでありました。
「まあ、それはどうでも良いとして」
 花司馬教士はそう云って万太郎に少し顔を近づけるのでありました。「そのお母さん方に評判の良い折野先生の噂話しとして、こう云うものがありますよ」
 花司馬教士は万太郎の顔を下から覗き見るような目をするのでありました。
「え、何ですか一体?」
 万太郎も興味を惹かれて少し顔を近づけるのでありました。
「それはね、・・・」
 花司馬教士は少々体裁ぶってから続けるのでありました。「折野先生とあゆみ先生は、近い将来結婚する間柄のようだ、とか云うものですよ」
 万太郎はそう聞いて、思わず花司馬教士から顔を少し離すのでありました。
「何ですかそれは?」
「いやまあ、お母さん方の間の単なるあれこれの噂の一つですよ、あくまでも」
 花司馬教士は笑うのでありましたが、万太郎を上目で見る目つきはそのままにしているので、これは屹度、そう聞いた万太郎がどう云う反応を示すかを観察しているのでありましょう。ここは迂闊な応動は見せられないと咄嗟に思った万太郎は、強張った表情になるのを寸でのところで押さえて、一笑に付す、と云った具合のクールな笑いを口元に浮かべて見せるのでありましたが、上手に隠し果せたかどうかは判らないのでありました。
「そうですか。どうしてまた、そんな根も葉もない噂が立つのでしょうかねえ」
(続)

お前の番だ! 457 [お前の番だ! 16 創作]

 万太郎は余裕の笑いを笑って見せるのでありました。
「火のない処に、・・・とかも一方で云いますが、それは兎も角、折野先生とあゆみ先生を見ていたら、年格好も何も如何にも丁度良いカップルに見えるのでしょうね」
「ふうん。そう云うものですかねえ」
「自分が見ても、そう見えない事もないですからねえ、実際の話し」
 花司馬教士はそう意趣あり気に云ってから、ようやく万太郎から目線を外すのでありました。万太郎は不覚にも胸の高鳴るのを制す能わず、と云った態でありましたか。

 不意にあゆみの声がするのでありました。
「お二人で何をコソコソお話しになっているのかしら?」
 万太郎と花司馬教士は稽古合間に食堂でこんな話をしていたのでありましたが、次の稽古のためにあゆみが着替えを済ませて食堂に現れたのでありました。二人は慌てて取り繕うように寄せていた頭を離して、起立してあゆみの方に体を向けるのでありました。
「いや、特段の話しと云うのではありませんが。・・・」
 花司馬教士がたじろぎを隠すように愛想笑いながら応えるのでありました。
「あたしに聞かれると拙い、男同士の密談ですか?」
「そう云うものでもありませんが、・・・どうと云う事のない、世間話しですよ」
「へえ。どうと云う事のない世間話し、ですか」
 あゆみは敢えて花司馬教士の言葉を繰り返しながら、万太郎の方に視線を移すのでありました。万太郎は目が躍らないようにあゆみの方を必死に睨むのでありました。
「それにしては、お二人の頭の寄せ方が近過ぎるように思いましたが、そう云う場合は大体、良からぬ相談をしている時と相場は決まっていますけどねえ」
「いや、少年部の現状について色々話していたのです」
 万太郎が応えるのでありましたが、これはあながち嘘でも誤魔化しでもないだろうと、少々冷や汗をかいた頭皮の内側で考えるのでありました。
「それならあたしも、その話しに参加したいわ」
「いやその、総士先生や鳥枝先生、それに寄敷先生がどうも少年部を甘やかし過ぎるんじゃないかとか、まあ、そんなような事を話していたんですよ」
 万太郎が花司馬教士と話していた後半の些か不謹慎とも云える部分を隠して、前半の件を、如何にもと云う風ではない口調で、如何にも取り繕うように云うのでありました。
「ああその事ね。でもその内にご三先生も子供の相手に厭きちゃうと思うから、もう暫く辛抱していれば解決すると思うわよ」
「花司馬先生もそう云うお考えのようです」
 万太郎はそう云いつつ花司馬教士の方に視線を向けるのでありました。花司馬教士は万太郎の視線に笑いながら頷いて見せるのでありました。
「ところで花司馬先生も万ちゃんも、今日は出稽古だったわよね?」
「そうです。花司馬先生が池袋で、僕は八王子です」
(続)
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