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お前の番だ! 428 [お前の番だ! 15 創作]

「僕も何か手伝います」
 剣士郎君が居間の方に行くと、その後ろに万太郎が立って申し出るのでありました。
「ああ、万ちゃんは居間の方に座っていて。もう用意も終わるから」
 花司馬教士の奥さんがそう云って万太郎の申し出をやんわり断るのでありました。しかし姉弟子のあゆみにだけ働かせておいて、弟分である自分が楽を決めこむわけにもいかないと、万太郎は花司馬教士の奥さんが持ち上げた鶏の唐揚げとポテトサラダの皿を半ば強引に受け取って、剣士郎君の後に続いて和室の方にそれを運ぶのでありました。
「俺も何かしようか?」
 あゆみと万太郎が働いているのに自分だけが何もしないのは申しわけないと、律義な性分の花司馬教士も奥さんにそう訊くのでありました。
「じゃあ、ビールとコップを運んで」
「押忍。承りました」
 花司馬教士は冗談と云う風ではなく、行きがかりからかしごく真面目な面持ちで、竟奥さんにそう返事するのでありました。あゆみが思わずクスッと笑うのでありました。
「豪華版ですね」
 卓の上に載った皿の数を見ながら万太郎が云うのでありました。
「大食らいの万ちゃんが来ると云うので、奥さんが大いに腕を奮ってくれたのよ」
 あゆみが横から云うのでありました。
「ああそれはどうも、面目ありません」
 万太郎が奥さんの方にお辞儀して見せるのでありました。
「ケーキは?」
 剣士郎君が横に座ったお母さんに訊くのでありました。
「ケーキは後よ。ご飯が済んでから」
「ふうん」
 剣士郎君は最初にケーキが出てこないのが不満そうでありました。
「じゃあ、取り敢えず乾杯といきましょう」
 花司馬教士がビール瓶を取り上げて、あゆみと万太郎にグラスを取るよう促すのでありました。剣士良君は奥さんにオレンジジュースを注いで貰っているのでありました。
「剣ちゃんはこの春から小学校に行くのね?」
 乾杯後にあゆみが剣士郎君に云うのでありました。剣士郎君はジュースの入ったグラスを両手で持って、それに口につけた儘あゆみの方に一つ頷いて見せるのでありまいた。
「小学校は何処に在るの?」
 万太郎がそう訊くと剣士郎君は首を傾げて見せるのでありました。
「小学校までは結構遠いのよね」
 花司馬教士の奥さんが剣士郎君の代わりに応えるのでありました。「仙川駅を越えて神代高校のもっとずっと先だから、この家から大人の脚でも十五分以上はかかるかしらね」
「子供だと二十五分以上かな」
(続)
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お前の番だ! 429 [お前の番だ! 15 創作]

 万太郎も剣士郎君と同じに首を傾げてざっと換算してみるのでありまいた。
「特に帰り道は、途中の駅前商店街の玩具屋とかお菓子屋で屹度捕まったりして寄り道するに違いないから、帰りつくまでにもっとかかるかも知れないわね」
「ああ成程。それはそうかも知れませんね。なあ、剣ちゃん」
 万太郎が剣士郎君を見てそう云うと、剣士郎君は何の話しだか良く判らないような顔をして、何となく曖昧に頷き返すのでありました。
「小学生になったら道場に通うんでしょう?」
 あゆみが訊くのでありました。今度は剣士郎君ははっきり頷くのでありました。
「まあ、夕方の専門稽古と夜の一般門下生稽古の間の時間に、総士先生の許可を頂いて自分が少し鍛えようかと思っているのですが」
 花司馬教士が腹積りを披露するのでありました。
「実はその時間帯で今度、子供達だけの稽古を始めようと思っているんです」
 あゆみが今現在計画中の、新設する稽古の事を話すのでありました。
「子供達だけの稽古、ですか?」
「そうです。小学生を対象に、少年教室、とか名前をつけて、近々総士先生にご許可を頂ければ、早速募集をかけようかと云う話しになっています」
 あゆみの後を受けて万太郎が案をやや具体的に話すのでありました。「柔道でも剣道でも、それに合気道でも空手でも、色んな武道で少年対象の稽古がありますから、常勝流でもやってみようかって、今あゆみさんと計画しているんですよ」
「へえ、それは良いですね。若しそうなったら剣士郎を少年教室入門第一号にします」
「ただ、初めての試みになりますから、どの程度に常勝流を教えるかとか、どんな指導法でやっていくかとか、その辺は未だ具体化してはいないのです」
「しかし子供の頃から常勝流に親しんでいれば、大人になってからも稽古を続けてくれるかも知れません。将来の門下生の確保と云う点でも大いに有意義ではないでしょうか」
「まあ、こちらの手前勝手な目論見としてはそうですが、はたしてその辺はどうなるか、それは未だ判りません。しかし少なくとも無意味な試みではないとは思うのですが」
「それに子供達にとって魅力的な稽古が出来るかどうかは、未知数です。今までに子供を教えた経験が誰もありませんし、結局目論見倒れに終わるかも知れませんよ」
 あゆみが不安を口にするのでありました。
「いやいや、世の中が段々物騒になっていますから、子供に武道を習わせたいと云うニーズはあると思います。それに礼儀作法習得や忍耐力養成にも武道はもってこいですし」
 花司馬教士はごく一般的で楽観的な観測を述べるのでありました。
「まあ、こちらとしてはそう考えるのですが、世間がどう反応するかはまた別です」
「いやいやいや、自分はその計画に大賛成です」
「花司馬先生にも積極的に参画していただきたいと思っています」
 あゆみが頭を下げるのでありました。万太郎もそれに倣うのでありました。
「押忍。承知いたしました。自分も大いに働きます」
(続)
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お前の番だ! 430 [お前の番だ! 15 創作]

「少年教室入門第一号予定の剣ちゃんも、お姉ちゃん達を助けてよ」
 大人の話しに退屈そうにしていた剣士郎君にあゆみが顔を向けるのでありました。剣士郎君は突然話しをふられて面食らったような顔をするのでありましたが、頼られているようだと云うのは何となく判って、生真面目な顔をして厳かに頷くのでありました。
 少年教室創設の案は是路総士に既に話してはいるのでありました。万太郎とあゆみからその話しを聞いた是路総士は、当初余り乗り気ではない顔をするのでありました。
 常勝流の技の理合いが子供には理解出来ないであろうと云うのが、積極的に賛意を示さない第一の理由のようでありましたか。それに常勝流の稽古法は、あくまでも一定程度に体の出来た大人を対象に創られたものであるから、筋力も胆力も未だ水準に達していない子供にそれを適用するのは、先ず困難であろうと云う考えのようでありました。
「勿論本格的な稽古を指導しようと云うのではないのよ」
 あゆみが是路総士の猪口に酒を注ぐのでありました。稽古が終わってからの何時も通りの遅い夕食後の一時に、来間が内弟子部屋に引き上げてから、万太郎とあゆみが母屋の居間に残って是路総士の酒の相手をしながらの会話でありました。
「それでも常勝流として教える以上は、少しは理を理解して貰わなければ困る。しかし小学生には常勝流の技の成り立ち等は、いくら平明に説明してもチンプンカンプンでしかなかろうよ。この私にしたって未だ解明出来ていない技法の微妙な綾があると云うのに」
「それは本格的な稽古は確かに無理よ。でも体力を作るとか運動感覚の養成とか、礼儀や我慢とかの躾とか、子供に常勝流を教える効用と云うのはあれこれあると思うのよ」
「それなら、ずうっと以前からから子供を教えている柔道やら剣道やら、それに空手とか合気道とかに任せておけば良いんじゃないか? そう云うところの方が子供を扱うノウハウもあるだろうし、態々我が常勝流が子供を教える対象にする必要はないだろうよ」
「しかし、将来に亘っての門人の確保と云う観点からすると、子供の頃より常勝流に親しんで貰うのも、なかなかに良い手法だと思いますが」
 万太郎は徳利を取って卓上に置かれた是路総士の猪口に、その後にあゆみの手にした儘の猪口に酒を差しながら云うのでありました。
「しかしまあ、子供本人が求めて常勝流を学ぼうとするようなケースは極めて稀で、大概は親御さんの云いつけで渋々、自分では何だか判らない儘に道場に通わされると云うのが実態だろうよ。そうやって通っていた子供が、その後大人になってから、他に色々面白そうな運動を知った上でも常勝流を続ける気になるかどうかは、私には大いに疑問だ」
「十人の子供がいて、その内の一人か二人でも続ける気になってくれれば、僕は御の字だと思います。長い時間の中では、一時の微々たる数も積もれば一定数になりますから」
「ま、楽観論だな。それより大人の入門者を増やす事を考える方が、話しは早い」
「大人の門下生の方は興堂派からの移籍で、今現在ごった返しています」
 万太郎の小理屈に是路総士は口の端に一笑を浮かべるのでありました。
「ところで、子供の稽古時間帯はどう取る心算でいるのだ?」
 是路総士はそう訊いて猪口の酒を空けるのでありました。
(続)
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お前の番だ! 431 [お前の番だ! 15 創作]

「平日なら夕方の専門稽古と夜の一般門下生稽古の間の時間、土日は午後稽古と夕方の専門稽古の間の一時間を考えているんだけど」
 あゆみも猪口を空けるのでありました。すかさず万太郎は徳利の酒を是路総士とあゆみの猪口に注ぎ入れるのでありました。
「ふうん。それで指導の陣容は? まさか鳥枝さんを子供に宛がうわけにはいくまい」
 是路総士はそう云ってから思わずと云った風に少し吹くのでありました。確かに鳥枝範士の鬼瓦のような顔は子供相手には到って不向きでありましょう。
「あたしと万ちゃん、それに花司馬先生と注連ちゃん、助手としてその日に居る準内弟子を動員するの。少なくとも三人以上で稽古を看る事にするわ」
「私は員外と云う事かな?」
 是路総士は徳利を取って万太郎の方にそれを差し出すのでありました。
「そうです。総士先生と鳥枝先生と寄敷先生は大人の稽古に専念していただきます」
 万太郎は両手で是路総士の酌を受けながら頷くのでありました。
「ああそうか。しかしこれで私も、なかなか子供の扱いは上手いのだけれどなあ」
 是路総士はそう呟いて笑った後、急に頬の笑いを消し去って表情を厳めしく作り直すのでありました。それはそんな事を竟口走ったものの、それで万太郎とあゆみの少年教室創設案に自分が既に与したと取られるのを警戒して、でありましょう。
「総士先生がお望みとあらば、指導陣に加わっていただいても良いのですが」
「いや、それはまた別の話しとして」
 是路総士はそう云って一つ咳払いをするのでありました。「それで、大人でもなかなか習得出来ない常勝流の、どう云う辺りを子供に教える心算なんだ?」
「大雑把に考えているのは、先ずは正坐して五分間、微動もしないでいられるようにします。それから座礼や立礼の仕方をやって、その後に基本動作と云う事になります」
 万太郎が是路総士の猪口に酒を差しながら云うのでありました。
「成程ね。先ずは礼儀を学ばせると云う事かな」
「そうです。基本動作の後は、比較的構造の簡単な基本の組形を十本選んで、それを習得させます。と云っても要求する水準は大人と違って、随分低いところを狙いますが」
「仕手と受けが協力して組形の手順が滞りなく出来れば可、と云うところかな?」
 万太郎は頷いて見せるのでありました。
「勿論組形稽古上の仕手と受けの役割とか、難しい事を云っても判らないでしょうから、取り敢えずは仕手と受けの協調を習得する事とします」
「乱稽古とか準乱稽古はやらせないのだな?」
「それはやらせません。そう云ったある種のゲーム性のある事はさせません」
「しかしゲーム性がある方が面白いから、その方が意欲的になるのではないのか?」
「そうかも知れませんが常勝流の稽古ですから、先ずは組形の稽古が最優先です。技が不完全な子供に乱稽古をやらせても、無意味だろうし危険でもありますから」
「堅苦しい稽古ばかりでは、子供は厭きて仕舞うのじゃないか?」
(続)
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お前の番だ! 432 [お前の番だ! 15 創作]

「まあ、万ちゃんが云っているのはあくまでも今現在考えている案であって、どう云う稽古にするのかは未だはっきり具体化はしていないの」
 あゆみが口を挟むのでありました。
「そうです。先ずは総士先生や鳥枝先生や寄敷先生にご許可をいただくのが先決で、ご許可いただいた後で、指導の細部はもう少しあゆみさんと煮つめるつもりでおります」
「私のゴーサイン待ちと云うわけだ?」
「そうです」
 万太郎とあゆみは一緒に頷くのでありました。
「それでは良く考えて、なるべく早く返事をしよう」
 是路総士はそう云って猪口の酒を空けるのでありました。
「・・・と云った具合で、少年教室創設案は今現在、総士先生の返事待ちとなっています」
 万太郎は剣士郎君の隣に座っている花司馬教士に、これまでの一応の経緯を報告するのでありました。この話しを聞いた花司馬教士と剣史郎君は、同じようなしかつめらしい顔つきをして、二人で同時に万太郎に頷きを返すのでありました。
「まあしかし、総士先生のご許可待ちとは云っても、今から少年教室指導の細部はしっかり話しあっておいた方が良いでしょうね」
 花司馬教士がそう云って何気なく隣の剣士郎君を見下ろすと、剣士郎君は先程と同じしかつめ顔で、父親の顔に向かって再び頷いて見せるのでありました。
「その点は僕もあゆみさんも同感です。それにこの件に関しては花司馬先生のお知恵も拝借させていただきたいので、どうかよろしくお願いします」
 万太郎はあゆみ共々花司馬教士に頭を下げるのでありました。
「押忍。承りました。自分もあれこれ考えてみます」
 花司馬教士と剣史郎君が万太郎とあゆみに一緒にお辞儀を返すのでありました。剣士郎君は低頭する時に小声で「押忍」と発声するのでありましたが、それは父親の真似ではありましょうが、何やら友達に軽い挨拶を送る時のような感じでありましたか。
 食後に早速、剣士郎君の誕生祝いケーキが出るのでありました。七本立った蝋燭に花司馬教士がマッチで火をつけるのでありました。
「はいこれ。お兄ちゃんとお姉ちゃんからの誕生日プレゼント」
 蝋燭の火を剣士郎君が吹き消して皆で拍手を送った後に、あゆみが子供用の稽古着が入った赤いリボンをあしらった紙袋を剣士郎君に手渡すのでありました。剣士郎君は受け取ると如何にも嬉しそうな顔をするのでありましたが、稽古着等ではなく玩具か何かの方が屹度、剣士郎君はより喜ぶのだろうなと万太郎はふと気後れするのでありました。
「早速開けさせて貰え」
 両手に紙袋を持って自分を見上げる剣士郎君に、花司馬教士が促すのでありました。剣士郎君はパリパリと紙袋の口を破るのでありました。
 中からビニール袋に入った稽古着が出てきたものだから、剣士郎君はそれを奇異な物でも見るような目で眺めるのでありました。矢張り玩具の方が良かったようであります。
(続)
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お前の番だ! 433 [お前の番だ! 15 創作]

「お、子供用の稽古着ですか」
 お父さんの花司馬教士の方が喜ぶのでありました。
「小学校入学の時の学用品なんかも考えたのですが、それはまた別の折りとして、万ちゃんと相談してこんな物にしたのです。剣ちゃんは玩具とかの方が良かったかしらね」
「いやいや、何よりです。有難うございます」
 花司馬教士の方が明らかに剣士郎君よりも喜んでいるようであります。
「剣ちゃんは、本当は何が欲しかったのかい?」
 ビニール袋を両手で抱えた儘、そんな物を貰って、些か戸惑いの表情になって仕舞った剣士郎君に万太郎が訊くのでありました。
「サンダーバード二号」
 剣士郎君はそう云って万太郎を見るのでありました。
「ああそうか。じゃあ、それはまた後で買ってあげるよ。でも、剣ちゃんはサンダーバードなんて、そんな古い人形劇を良く知っているなあ?」
 万太郎は子供時分に見ていたテレビ番組を思い出しながら訊くのでありました。
「今、夕方に再放送でやっているのよ」
 剣士郎君の代わりにお母さんが謎解きするのでありました。
「ああそうですか。僕が子供の頃に見ていた番組です。僕としてはその前のスティングレーと云う潜水艦が出てくる海底大戦争の方が、実は好きでしたけど」
「ああ、海底大戦争は自分も知っています。その前、或いは前の前の、スーパーカーも」
 花司馬教士が乗ってくるのでありあました。
「スーパーカーと云うのは、僕は知りませんね」
 万太郎はそう云って横のあゆみを見るのでありました。
「あたしも知らないわ」
 あゆみが万太郎に少し眉を上げた表情で云うのでありました。
「ああそうですか。スーパーカーはちと古過ぎましたかな。・・・まあそれは良いとして、おい剣士郎、ちょっとこの稽古着を着てみろ」
 花司馬教士はビニール袋を受け取って、稽古着を取り出すのでありました。剣士郎君は促される儘立ち上がると、イニシャル入りの白いカーディガンを脱ぐのでありました。
「あ、剣ちゃんすごく強そう」
 花司馬教士に着せてもらった稽古着姿の剣士郎君を見て、あゆみが大袈裟に感嘆するのでありました。そう云われて剣士郎君も満更ではない顔をするのでありました。
 ケーキで汚されるといけないからと云うので、剣士郎君はすぐに稽古着を脱がされるのでありました。剣士郎君は一応万太郎とあゆみへの義理を果たしたと云った顔で、心置きなくすぐに切り分けられた自分のケーキの方に齧りつくのでありました。
 ケーキとコーヒーで一頻り歓談してから、万太郎とあゆみは花司馬教の家を午後三時少し前に辞するのでありました。未だ斜陽迄に少し時間があるので、満ち足りた腹を少し熟そうと、あゆみが実篤公園辺りまでの散歩を提案するのでありました。
(続)
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お前の番だ! 434 [お前の番だ! 15 創作]

 勿論万太郎に異存はなく二人は実篤公園迄の住宅街の小道を漫ろ歩くのでありました。寒いけれどようやく春めき出した風が二人の足元にしきりと戯れつくのでありました。

 どうしたものか実篤公園までの路程中、あゆみは妙に寡黙なのでありました。隣を歩く万太郎は時々その顔を横目で窺うのでありましたが、特段不機嫌と云う風ではなく、頬を翳める浅い春の風を寧ろ楽しんでいるような緩やかな表情でありましたか。
 どだい不機嫌ならば、こうして万太郎を散歩に誘う筈はないであろうと万太郎は考えるのでありました。しかし何となく無神経に軽口でも飛ばしてあゆみの寡黙を乱すのは憚られるような気がして、万太郎も無言の儘、同じペースで横を歩くのでありました。
「こうして万ちゃんと二人でブラブラ歩きするの、久しぶりのような気がするわね」
 実篤公園の入り口が見える辺り迄来てようやくにあゆみが口を開くのでありました。
「そうですね。このところ二人揃って出稽古や指導に行く事もありませんでしたから」
「何となく新鮮な気がするわ」
 あゆみはそう云って万太郎の方に顔を向けるのでありました。
「そうですね。何故か少し、僕は緊張なんかを覚えます」
 万太郎はそう云って如何にも冗談らしく笑って見せるのでありました。
「剣ちゃんの稽古着姿、可愛かったわね」
 あゆみの、後ろに結わえていない長い髪を、風が少し踊らせるのでありました。
「そうですね。ちょっとブカブカでしたけど」
「そのブカブカさ加減が余計可愛らしいのよ」
 あゆみは剣士郎君の稽古着姿を思い出すような顔をして、剣士郎君に負けないくらいの可憐さで万太郎に笑いかけるのでありました。
「しかし剣ちゃんとしては稽古着よりも、玩具か何かの方が良かったようでしたが」
 万太郎はそんな風に話しを移ろわせるのでありました。
「まあ、そうかもね。だってようやく七歳になりたての子だもの」
「寧ろお父さんの花司馬先生の方が喜んでいらっしゃいました」
「花司馬先生の剣ちゃんを見る目が、道場では見た事のない優しい目だったわね」
「愛息の稽古着姿が、嬉しくて仕方がないと云ったところでしょうかね」
「花司馬先生は奥さんとも仲が良さそうだし、家中にほのぼのした空気が漲っているようだったわ。あんな家庭は理想よね」
 あゆみはそう云って如何にも羨ましそうな顔をするのでありました。
「こういう云い方は失礼かも知れませんが、花司馬先生みたいな人が、良くあんな美人で気の良さそうな、それでいて芯の強そうな女の人を見つけましたよね」
「花司馬先生が猛烈にアタックして結婚したみたいよ。奥さんに聞いた話しに依ると」
「へえ、そうですか」
 あゆみは時々、花司馬教士の奥方と睦んでいるようでありました。それで何かの折にそんな話しを奥方から聞きつけたのでありましょう。
(続)

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お前の番だ! 435 [お前の番だ! 15 創作]

「花司馬先生の奥さんは興堂派の浅草にあった支部の門下生だったんだって」
「興堂派の浅草支部と云うと、・・・」
 万太郎は少し考えるのでありました。「ウチに移籍した支部ではありませんね?」
「そこはもう随分前に支部長さんが他界されて、上野の支部と合併したらしいの。だから浅草支部と云うのはもうなかったのよ」
「上野の支部と云うと、興堂流にもウチにも属さないで、独自の会派となったところでしたね。確か、武道興武真伝会、とか云う名前で」
「そうね。・・・まあ兎に角、奥さんはそこの門下生だったのよ」
 あゆみは話しを本筋に戻すのでありました。
「それで、花司馬先生が出張指導に行って見初めた、と云う事ですかね?」
「そんな感じよ。で、花司馬先生は思いこんだら一途みたいなところがあるから、次に逢った時から猛烈アタックと云う段取りになるわけよ」
「初めて聞きました。今度花司馬先生を、それを種に大いに照れさせてやろうかな」
「その時に、あたしから聞いた、なんて云っちゃダメよ」
 あゆみが唇に人差し指を当てるのでありました。
「ああ、然る情報筋に依ると、と云う事にしますが、しかしそう云った話しの出処なんと云うのは、考えを回らせればすぐに知れるでしょうけど」
「ま、それはそうか」
 あゆみはあっけらかんとそう云うだけで、別に万太郎の魂胆を躍起になって止めさせようとするわけではないのでありました。
「そう云う経緯があるから、花司馬先生が如何にも愛妻家然としていたわけですね」
「そう。花司馬先生は家庭では良き夫で好きパパと云う事。ちょっと堅苦しいけど」
「堅苦しいのではなくて一面では律義、それともう一面では情熱的、と云ってあげてください。情熱的、と云うのは、あんまりあの顔にそぐわないと思うにしても」
 万太郎が云うとあゆみは口に手を当てて思わず笑むのでありました。
「でもあたし、奥さんが羨ましいわ。そんなに花司馬先生に愛されていて」
 あゆみはそう云って潤んだような目で万太郎を見るのでありました。春の風が吹いてあゆみの髪をそよがせ、その髪の幾本かが万太郎の方に流れるのでありました。
「あゆみさんにはそんな、人を羨ましがらせるような良い人はいないのですか?」
 そう訊くと万太郎はあゆみに、険しいと云うには強過ぎるけどしかし穏和と云うのは控え目過ぎるような目で見られるのでありました。「済みません、余計な事を訊いて」
 万太郎はあゆみの気分を少し害したと思ってすぐに謝るのでありました。
「あたしは、・・・そうね、いない事もないわよ」
 あゆみは特段昂じた風でもなくそう云って、万太郎に思わせぶりに笑いかけるのでありましたが、そう云えば確か前にも、前後の脈絡は忘れて仕舞ったけれどあゆみとそんなような話しをして、その折も、いない事もない、と云った曖昧な回答を得た記憶が蘇るのでありました。あの時は何の話題からそう云う会話になったのでありましたか。
(続)
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お前の番だ! 436 [お前の番だ! 15 創作]

 確かそれで以ってあゆみが狸か狐か貉か或いは人間かと云う疑問が到来して、万太郎は少々悶々としたのでありましたか。ええと、あれは何の話題でありましたかなあ。
「万ちゃん、急に黙ってどうしたの?」
 あゆみが万太郎の顔を少し上目で覗きこむのでありました。
「ああ、いや別に」
 万太郎は見返すと、間近に迫っていたあゆみの顔にたじろいで頭を慌てて後ろに引くのでありました。思わず心臓が高鳴り出すのでありました。
「そう云えば前にもあたし、意中の人があるかどうかって訊かれた事があったわ」
 あゆみが腰を延ばして万太郎と同じ前に向き直りながら云うのでありました。
「ああ、実は僕もその事を考えていたのです。あれは何時でしたかねえ」
「ほら、亡くなった道分先生が急に一人でウチに来て、前に持ちこんでいたあたしと威治さんとの縁談話しは、勝手ながらなかった事にしてくれって云ってきた日よ。まあ、あたしが鳥枝先生にそう訊かれたのは、道分先生が帰った後だったけど」
 そう聞いて万太郎は思い出すのでありました。それは是路総士と鳥枝範士と寄敷範士、それに万太郎と当のあゆみも交えて、先に興堂範士が威治宗家、当時は興堂派の教士でありましたが、まあ兎に角、その人を伴って総本部道場に現れて、あゆみと威治教士との縁談を申しこんだ件で、どう云う対処をするべきかと話しあっていた折りでありました。
 その最中、突然興堂範士から電話があって、これから行くと告げられるのでありました。誰も付人を連れずに一人で現れた興堂範士は、急転直下、先に申しこんだあゆみと威治教士との縁談を御破算にしてくれとその場で申し入れるのでありましたが、興堂範士はそれから間もなく、出張指導先のハワイであっさりと急逝したのでありました。
「ええと、あの時、道分先生が帰った後で、あゆみさんに意中の人がいないのかどうか訊いたのは、僕ではなくて鳥枝先生でしたっけ?」
「そうよ。鳥枝先生に訊かれたのよ。万ちゃんじゃなかったわ」
 どうやら万太郎はその辺の記憶に勘違いがあるようでありました。まあ、粗忽者でありますから、そう云った迂闊も仕出かそうと云うものであります。
「鳥枝先生にそう訊かれてその時も、あゆみさんは今と同じ、いない事もない、なんと云う返答をされたのでしたよね?」
「ううん。何も返事しなかった筈よ。多少のげんなりもあったから、曖昧に笑っただけ」
 おやおや、これも万太郎は思い違いをしているようであります。「あたしがただ笑って何も喋ろうとしないものだから、何も云わないところを見るといない事もないと云うところか、なんて鳥枝先生が臆断であたしに云ったのよ」
「ああ、そうでしたかねえ。僕はてっきりあゆみさんがそう云ったのだと、今の今までずうっと思っていました。それで狸と狐と貉と人間の問題が出現したのだと」
「何、狸と狐と貉と人間の問題って?」
 あゆみがまた万太郎の方に顔を近づけて訊くのでありました。万太郎はまたもや怯んであゆみの顔が近づく分、頭を後ろに引くのでありました。
(続)
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お前の番だ! 437 [お前の番だ! 15 創作]

 こうなると万太郎としては、狸と狐と貉と人間の問題も、ここで出現したのではないような気がしてくるのでありました。どこか別の場面でそんな事を考えたのが、ここに一緒くたに間違った記憶として書きこまれたのかも知れません。
 とすると、これは何時どんな局面において考えた事柄だったでありましょうか。あゆみに関連したところの問題であったのは間違いないでありましょうが。
「万ちゃん、ほら、また黙って」
 あゆみが万太郎の鼻の頭を指で軽く弾くのでありました。
「ああ、いや、どうも。・・・」
「狸と狐と、ええと貉と、人間の問題について考えを回らしているの?」
「まあ、そんなような、そんなようでないような。・・・」
「まあいいや」
 あゆみはその事からあっさりと離れるのでありました。「ところで万ちゃんにも訊くけどさ、万ちゃんには意中の人とかはいないの?」
「え、僕ですか?」
 そう聞かれて万太郎は、今あゆみに弾かれたばかりの自分の鼻の頭を、少しばかり目を見開いて自分で指差して見せるのでありました。「僕は、未だ一人前にもなっていないし、意中の人がいてもその人を幸せに出来るような甲斐性もなさそうだし。・・・」
「そんな事もないんじゃない」
 あゆみはそう云って万太郎の方を一直線に見るのでありました。それからすぐに目線を逸らして、万太郎の少し前に歩み出るのでありました。
 公園の中のそぞろ歩きで少し疲れたのか、あゆみは径の傍らに据えてあるベンチに腰かけるのでありました。万太郎も遅れてその隣に座るのでありました。
「万ちゃんは今じゃあ、総本部道場の運営を殆ど任されているじゃない」
「いやいや、僕はあくまでもあゆみさんの助手の心算です」
「実質は、あたしが助手みたいな感じでしょう?」
「いやいや、助手は僕です」
 万太郎はどこまでも遜ろうとするのでありました。
「まあいいや」
 あゆみはここでもあっさりとその点に関する云いあいを終らせるのでありました。「で、万ちゃんは意中の人は、いるのいないの?」
「いない事もないですが。・・・」
 結局そう云う風につめ寄られると、あゆみではないけれどこう云った具合の曖昧な、ちっともきっぱりとしない受け応えをするしかないかと万太郎は思うのでありました。まあ、実はあゆみはそうは云わなかったし、云ったのは鳥枝範士なのでありましたが。
「誰よ、その意中の人って?」
 あゆみは興味津々と云った表情をして少し万太郎ににじり寄るのでありました。あゆみの膝が万太郎の太腿に触れて、秘かに万太郎をたじろがせるのでありました。
(続)
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お前の番だ! 438 [お前の番だ! 15 創作]

「いやまあ、云わぬが華、と云う事にして貰うわけにはいきませんかねえ?」
「あたしの知っている人?」
 万太郎のやんわりした回答拒否をあゆみは無視するのでありました。
「ええまあ、そうなりますか、ねえ」
 万太郎は苦った顔で応えるのでありました。
「門下生とか、道場関係の人?」
「まあ、良いじゃないですか、僕の事なんかは」
 万太郎は有耶無耶にこの話しを終わろうとするのでありました。
「あ、そう。あたしには云いたくないわけ?」
「特にあゆみさんに話したくないのではなく、こう云った話しは苦手なのです、僕は」
 あゆみはがっかりしたような顔で万太郎を見るのでありました。万太郎の脚に触れていたあゆみの膝が虚しく離れるのでありました。
「それじゃあ、万ちゃんの好みはどんなタイプの人?」
 少しの沈黙を挟んで、あゆみは質問の色調を変えるのでありました。なかなかにしつこく食い下がってくるようであります。
「特にこんなタイプ、と云うのはありませんねえ。その時々で好きになった人がつまり好みのタイプと云うのか、ま、そう云った按配です」
「ああ成程ね。でもあたしが万ちゃんを見ていて考えるには、・・・」
 あゆみはそう云いながらキラキラと瞳を輝かせるのでありました。あゆみも女一般の内の紛れもない一人であって、こう云った類の話しが結構好きなのでありましょうか。
 思えば郷里の姉が高校生の頃、お前はこれこれこう云った男だから、こう云うタイプの女の人と将来つきあう方が色々好都合であろう等と、聞きもしないのにあれこれ余計な助言を、何かにつけ折さえあればしてくれるのでありましたか。今のあゆみの瞳のキラキラは、そう云う時の姉のものと同じ種類に見えるのでありました。
 人が将来どのような女性とつきあおうが姉の知った事ではないと、万太郎はその都度姉のお節介を疎ましく思うのでありました。しかし姉は無関心を装う万太郎に全く頓着する事なく、何だかんだと多言を以って彼を諭すのでありましたか。
 あゆみも多分、そんな姉と同種の親切心(!)の心算なのであろうと万太郎は考えるのでありました。しかし相手があゆみであるから姉の時と同様に無愛想に「やぐらしか!」と、一言を以って退散出来ないのが万太郎としては何とも困ったものであります。
「ねえ、万ちゃん、ちゃんと聞いてる?」
 あゆみがまた万太郎の鼻の頭を指先で弾くのでありました。「また黙っちゃって。今日の万ちゃんは何時もと違って少し変よ」
「ああ、勿論ちゃんと聞いていますよ」
 万太郎は真顔を作って頷いて見せるのでありました。
「だからね、今も云ったように、万ちゃんはどちらかと云うと姉さんタイプの女の人の方が似合うと思うのよ。自分でもそう思わない?」
(続)
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お前の番だ! 439 [お前の番だ! 15 創作]

 そう訊かれても、あゆみの、今も云ったように、の、その今云ったと云う言が万太郎は全く頭に入っていなかったものだから、何とも応えようがないのでありました。それにしても、あゆみは今日の万太郎は少し変だと云うのでありましたが、あゆみのものする話題とか多弁さの方こそ余程、何時ものあゆみらしくないと万太郎は思うのでありました。
「今いただいたご教誨を胸に刻んでおきます」
 万太郎は慎に謙譲且つ慇懃で、如何にもあやふやで無難そのものと云った返答を、やや冗談に紛らわせるような口調で返しながらあゆみに頭を下げるのでありました。
「なんか、はぐらかそうとしているみたいな返事ね」
 あゆみはそう云って頬を膨らませるのでありました。
「いやまあ、あゆみさんのアドバイス通り姉さんタイプが僕に似あうとしても、実家の姉貴のようなのはちょっと困るかなあと、そんな事を考えたものですから」
「ああそう。万ちゃんのお姉さんは万ちゃんより一つ歳上だったわね」
「そうです。あゆみさんと同い歳です。でもあゆみさんと違って、何かと口煩いし僕を如何にも幼稚だと思っているようで、すぐに小馬鹿にしたようなもの云いをします」
「ふうん。でもそれはそれとして、それでも万ちゃんには年上の人が屹度似あうわよ」
 あゆみはそう云って確信あり気に何度か頷くのでありました。それからそう云った後にはもう何も言葉が思い浮かばないのか、何となく唐突な風に横に座っている万太郎から目を背けて、前を向いてすぐ傍の地面を見るように俯くのでありました。
「あゆみさん、ひょっとしたら熱があるのじゃないですか?」
 万太郎は黙ったあゆみに訊くのでありました。
「え、熱? 別にないと思うけど、・・・」
「ああそうですか。何となくこうして横に座っていると、あゆみさんの体から熱感が伝わってくるみたいな気がするものですから」
 万太郎がそう云うとあゆみは自分の額に掌を当てるのでありました。
「熱なんてないわよ」
 あゆみはそう云いながら何故かどぎまぎと横に微妙に躄って、万太郎から心持ち身を離すような仕草をするのでありました。万太郎は殆ど触れあう程の近さだったあゆみの肩との間に、隙間風が通るような気がするのでありました。
「ああそうですか。それなら別に良いのですが」
 万太郎はほんの少しではあるものの、あゆみの肩が自分から遠ざかったのが残念なような気がするのでありました。肩と肩の距離が空いたからではないにしろ、あゆみはもうさっきまでの饒舌を忘れたかのように、花司馬教士の家から実篤公園まで歩いてくる道すがらと同に、少し不自然に思われるくらい頑なに口を閉ざすのでありました。
 どうしてかは知らないけれど、ひょっとしたらあゆみを怒らせたのかも知れないと万太郎は一抹の危惧を覚えるのでありました。それはこちらから求めたものではないにしろ、あゆみの折角のアドバイスに対する自分の反応が余りにきっぱりとはしておらず、如何にも鈍そうなものだったために、あゆみは何太郎に愛想を尽かしたのかも知れません。
(続)
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お前の番だ! 440 [お前の番だ! 15 創作]

 若しそうであるのなら、万太郎はあゆみに対して申しわけないような心持ちがするのでありました。しかし一方で、何もこれと云って悪い事はしていないと云うのに、どうして自分が済まながらなければならないのか、自分でも良く判らないのでもありました。
 実家の姉もそうでありますが、兎角女なんと云う生きものは万太郎如きの手には余る生きもののようであります。然りながら、面倒臭いと云って一顧だにしないでおれるものでもないところが、実に以って困った生きものと云うところでもありますか。
 奥さんに猛烈アタックを敢行したと云う花司馬教士や、早々に香乃子ちゃんとの結婚を決めて内弟子を辞した良平なんかは、女なる生きものに対して一体どういう了見であったのでありましょう。一度真剣に、そのご高説を伺ってみたいものであります。
 夕風が吹いて、公園の中の未だ葉を落とした儘の木々がさざめくのでありました。風はあゆみの方から吹くのでありましたが、その風にもう、あゆみの体の熱感は乗ってはこないのでありましたし、その代わりに、そこはかとないあゆみの髪から漂ってくるのであろう芳しい香りが、万太郎の鼻腔を嫌に心地良く擽るのでありました。

   ***

 万太郎が一週間程の東北方面への出張指導を終えて総本部道場に帰ってくると、入れ替わるように是路総士があゆみを連れて、こちらは九州方面に指導と審査を兼ねて出かけて行くのでありました。矢張り一週間程の予定でありましたか。
 万太郎が総本部を留守にしている間に、特段の問題は何も発生してはいないのでありましたが、花司馬教士から興堂派時代から内弟子をしていた板場が興堂流を辞めたと云う話しを聞くのでありました。竟に威治宗家に愛想尽かしをしたのでありましょうか。
「いえね、板場から不意に連絡がありましてね、久しぶりに神保町の居酒屋で逢ったのですが、その時に本人から聞いたのですよ」
 稽古が終わって鳥枝範士も帰った後の師範控えの間に居残って事務仕事をしている万太郎に、花司馬教士は話し始めるのでありました。
「そうですか。板場さんが辞めたのですか」
 万太郎は花司馬教士の方に顔を向けるのでありました。「板場さんは生真面目な人で、亡くなられた道分先生への義理立てから興堂流に残ったのでしょうから、早晩、そうなるのではないかと考えてはいましたが。・・・そうですか、矢張り辞められましたか」
「板場としては何とか曲りなりにでも、隆盛だった嘗ての興堂派のように、今の興堂流を再興したいと頑張ってきたのでしょうが、竟に疲れ果てたのでしょう」
「でも、この頃は興堂流の名前を良く風評として聞くようになったではありませんか」
 確かに第一回道分興堂杯争奪自由組手選手権大会以降、興堂流は格闘技界の新興勢力としてそれなりに世間に認知されたようで、その消息を万太郎は時々耳にすることがあるのでありました。まあ、好悪両方の世評としてではありますが。
「まあそれはそうですけど、・・・」
(続)
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お前の番だ! 441 [お前の番だ! 15 創作]

 花司馬教士は苦い顔で頷くのでありました。「しかし板場の思い描いていたような形で再び世間の耳目を集めた、と云うわけでは全くありませんからねえ」
「威治宗家と仲違いしたのでしょうかね?」
「宗家のやり方にもうついていけないと云っていました。今の様な試合一辺倒の興堂流の在り方が、まるで道分先生の遺志であるかのように事あるにつけ云い募る宗家の欺瞞に、ついに堪忍袋の緒が切れたと云ったところでしょうか。板場としてはそれを諌めるような苦言も呈したのでしょうが、宗家はそれを聞く耳等持ってはいないでしょうから」
 興堂範士がもうこの世にいないのを良い事に、何かと云うとその名前だけはちゃっかりと利用して、その遺志とはまるで違う方向に興堂派を捻じ曲げ、そのくせケロリとして恥じない威治宗家に板場はストレスを募らせていたのでありましょう。亡き興堂範士への報恩と思って努めてきたその甲斐が、竟に消滅したのを覚ったと云う事でありますか。
「何処かで支部を新たに創ると云う事でもないのですね?」
「興堂流を見限ったのでしょうから、その支部を創ると云うつもりもないようです。それに威治宗家がそれを許す筈もないとも云っていました」
「こちらに移られると云うお心算も、おありではないのでしょうか?」
「今更、それも出来かねると云っていましたね」
 花司馬教士としては総本部に来ないかと誘ってはみたのでしょうが、確かにそうするには決定的に時機を逸したと云う思いが板場本人にあるでありましょう。
「そうすると板場先生は、これからどうされるのでしょう?」
「故郷に帰って何か仕事を見つける了見だそうです」
「武道とはもう縁を切られるお心算なのでしょうか?」
「そのようです。この世界に居る事にうんざりしたのでしょう」
「それは残念ですね。それと同時に、板場先生のような方が武道と無関係になって仕舞われるのは、実に勿体ないと云う気が僕はします」
「板場も、本心は武道を続けたいのでしょうがね」
 万太郎は、如何にも寂しそうな面持ちで花司馬教士にそう云った心根を訥々と語る板場の様子が、目に見えるようでありました。板場はどことなく陰気な性質でありましたし、何かを思いこんだら一途と云ったタイプの人でありましたから、浅慮の上に思いつきで動く威治宗家と反りがあう筈もないのは、端から判っていたと云うものでありますか。
「板場先生のお国は何方なのですか?」
「岩手の久慈の方ですね」
「岩手には盛岡に、竟この前僕が行った、旧興堂派だったウチの支部がありますが、・・・」
 万太郎はそう云いながら、岩手県の大まかな地図を頭の中に広げるのでありました。「しかし久慈の方から通うには、かなり遠いですかねえ」
「そうですね、気軽に通える距離ではないでしょうね。まあ、通えるとしても武道に見切りをつけた板場は、通う心算は全くないでしょうが」
「ああそうですか。何とも、本当に残念な事ですよねえ」
(続)
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