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あなたのとりこ 11 [あなたのとりこ 1 創作]

 大望や目標があってその仕事に就いたと云うよりは、云ってみれば決まった給金と待遇目当ての就職でありますから、嬉しさも中位、と云った辺りでありましょうか。然して就職するに当たっての意気込みや意欲や、それから不安も気後れの方も大した辺りではないのであります。慎に気楽と云えば気楽な感奮するところの少ない就職決定であります。
「じゃあ、明日の昼頃行くね」
 夕美さんが気を取り直した口調で云うのでありました。
「判った。待ってるよ」
 頑治さんの声も少し弾むのでありました。夕美さんと逢うのは一週間ぶりでありますから、これは頑治さんも嬉しいわけであります。夕美さんが受話器を置くのを確かめてから頑治さんは自分の手の受話器を元に戻すのでありました。頑治さんとしては就職決定よりも、明日の夕美さんとの逢瀬の方が遥かに嬉しいのでありました。
 頑治さんは寝るのを止して、急遽部屋を箒で掃き始めるのでありました。それからテレビや電話や本棚に溜まった埃を丁寧に拭うのでありました。夕美さんとの逢瀬のために多少は部屋を綺麗にしておきたいのでありました。しかしそのために如何にも力を入れて部屋をピカピカに磨いたり、一分の隙もなく整理整頓して仕舞うのは憚るのでありました。それでは余りに、頑治さんの自尊心に照らしてみっとも無いと云うものであります。

 夕美さんは午後二時少し前に遣って来るのでありました。大いに待ちかねたと云った顔色を極力隠して、しかし一定の嬉しさはきちんと漂わせて頑治さんが玄関のドアを押し開けると、夕美さんは親し気にこんにちはと少し笑って云うのでありました。
「やあ。さあ、入って」
 頑治さんはドアを押し開けた儘、夕美さんが入り易いように体を横に避けるのでありました。夕美さんは頑治さんに顔を向けながら体を斜にして通るのでありました。仄かな化粧水の匂いが、お邪魔しますと頑治さんの鼻腔に挨拶を送って寄越すのでありました。
 頑治さんの部屋は玄関を入って直ぐに洗濯機、その横に簡易なキッチン、対面はトイレ込みのユニットバスに挟まれた、廊下と云うには余りに短い一間ほどの空間を抜けると六畳程の板の間で、左側の壁一面は本棚が居座り右の壁には整理ダンスとファンシーケース、空いたスペースに白黒テレビと電話機が床に直置きで並び、南正面は出窓があって、その下には安っぽい炬燵が置いてあるのでありました。この炬燵は冬には本来の働きをさせられるのでありましたが、他の季節は正方形の座卓として使われているのであります。
 序に云っておけば本郷給水所近くの、五軒の古民家が軒を重ねるように建っている中の、同じ造作のワンルームの部屋が一階と二階に四軒ずつ並ぶアパートが頑治さんの住処でありました。家が立て込んでいる割に部屋は、狭いながらも道路に南面していて昼間の日差しは充分取り込めるのでありました。勿論その隘路の向こう一画も幾つかの民家が混み合っていて、外の眺めなんと云うものは慎に殺風景ではありました。しかし朝日の明るさの中で目覚める事が出来ると云うのは何となく安定感はあるのでありましたし、若し朝日が入らなければ頑治さんは一日中だって布団の中から這い出さないでありましょう。
(続)
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