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合気道の組形稽古について 1 [合気道の事など 2 雑文]

 多くの合気道各派の稽古が相対の組形稽古を主としている以上、その稽古する形に対する理解の深さが、稽古の質を保証しているのは敢えて云うまでもない事であります。
 組形稽古と云うのは或る条件下に於ける、武技による攻防の中の一つの典型を抜き出してそれを約束稽古として反復する事に依って、武技展開の要諦を習得せんとするための稽古法の一つであります。日常的な稽古の殆どを組形稽古に依っているのであるなら、根本的に肝要となるべき形に対する理解を深化しておく事は、稽古意図の認識や稽古効率、ひいては合気道と云う武道の本質に至る上でかなり重要な作業と云えるでありましょう。
 合気道は「気を和する」の道であると抽象的観念的によく喧伝されています。依って力で「争わない」或いは「競りあわない」武道であり、先ず以って相手と「気を和する」事を原則とし、その原則に外れないように修錬し、その果てに相手を超えた「宇宙」と一体化する事を目指して修行する「愛の武道」であるとされます。
 これは確かに合気道の高邁性、ある種の現在的有用性を語ろうとする言葉であります。また、長い修行の果てに辿り着いた高次の心境から発せられた言葉であろうと思われます。しかしこの言葉を理念的にではなく実体性の暗喩として解読してみると、組形稽古を支えている意味の領域を奄有する言葉としても意味を獲得するでありましょう。
 またところで、この文章で扱う「気を和する」とは東洋哲学的な宇宙の根源力としての「気」と云う概念ではなく、また「気持ち」とか「意志」とか云う心的なものでもなくて、云ってみればそれはもっと卑近で簡単な、「気があう」の「気」のような、「相手」との「呼応性」と云う意味を以って使用していると云う事を前もって云い添えておくのであります。依って「気を錬る」と云う事はつまり「呼応性」を磨くと云う事であります。この「呼応性」の高さが合気道を合気道たらしめている武道的特性であろうかと思うのであります。
 つまり合気道の形は「呼応性」に依拠した動きを典型化したものでありますから、形を行う仕手と受けにその共通認識があってはじめて、武道の稽古としての意味が発生する事となります。この共通認識が両者に、或いは仕手と受けの片方にないならば、それは単に見栄え良く手順通りに動く殺陣と何ら変わらないと云えるでありましょうし、合気道から武道性を剥離して、あたかも舞踏と為して仕舞う仕業との誹りを免れないでありましょう。
 既存の合気道の入門書や解説書等の多くには組形の約束稽古の解説を行う場合に、仕手の動きのみに解説の殆どが割かれているのでありますが、これはその組形の約束稽古が仕手と受けの共通認識の上にしか武道的に意味を持たないのであってみれば、正に不備との誹りを免れ得ないでありましょう。同等か寧ろより多く受けの動きに対して解説されていなければ、それは結局合気道の組形の稽古実体を解説してはいないと思うのであります。
 多くの場合、解説書に先ず「片手を持たれて引かれた場合」とか云ったように、仕手の技が発動される前の条件が記してあって、受けの動きに関してはこの「片手を持って引く」と云う動作が述べられているのみであります。後は只管仕手の動きの解説が続くのでありますが、受けのこの「引く」と云う動作にしても後ろに下がるように体ごと動いて引くのか、或いは体の動きを用いず肘肩を動かして腕のみに依って引くのか、自分の正中線上に引くのか、それとも脇位置に引くのかは特に触れられていない場合が多いのであります。
(続)
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