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お前の番だ! 568 [お前の番だ! 19 創作]

 寄敷範士がそう宣すると一同から、異議なし、の声が上がるのでありました。
「理事の皆さん、どうも有難うございました。こうなった限りは、あゆみさんを一生かけて大事にしますと伴に、常勝流の発展のために益々微力を尽くす心算であります」
 万太郎が立ち上がって云うと、横に座っていたあゆみも一緒に立って、居並ぶ理事連に向かって二人して深々とお揃いにお辞儀をするのでありました。期せずして理事連から、おめでとう、やら、ようようご両人、やらの声と拍手が湧き上がるのでありましたが、こうなってはもう、到ってくだけた調子の理事会、と云うべきでありましょうか。
「さて、この件をご承認いただいたからには、本日の臨時理事会はこれにて目的を達した事になりまして、後はこの儘、日頃見ない理事さん達が久々に顔を寄せあった事ですから、ちょっとした宴会に流れたいと思いますが、・・・」
 寄敷範士が云いながら一同を見渡すと、すぐに緊張が解けたような吐息がそこここから聞こえて、場は一気にくつろいだ雰囲気となるのでありました。鳥枝範士がすぐに傍らにある内線電話と取り上げて何やら指示をすると、間もなく会議室のドアがノックされ、恐らく鳥枝範士の命により待機していたのであろう、良平と他に三人の鳥枝建設社員がビール瓶の入ったケースと寿司桶を掲げ持って会議室に入って来るのでありました。
 良平は入りしな万太郎を見るのでありましたが、その顔には満面の笑みが湛えられているのでありました。こうなった事を良平も喜んでいるのでありましょう。
 さて、この宴席でも、この後に席を移した鳥枝建設近くの料亭でも、当然ながら万太郎とあゆみはしこたま飲まされるのでありました。それはそうでありましょう。
 万太郎は然程いける口ではないのでありましたが、この日ばかりは差し伸べられる酌を断るわけにはいかないのでありました。万太郎が赤い顔であたふたと注がれた酒を干すのに比べて、あゆみが如何にも平然と注がれる儘に笑顔で杯を傾けていれば、将来の夫婦像が仄見えるようだとの揶揄が飛び交うのも宜なる哉と云うものでありますか。

 斜陽も今し方姿をすっかり潜めて帰宅のためか夕食を摂るためか、それともこれから一杯飲みに行くのか、多くの人が漫ろに或いは急ぎ足に歩く靖国通りを、万太郎とあゆみは連れ立って神保町から九段下の方に歩を進めているのでありました。良平夫婦が開いてくれると云う四人での小宴に向かうため九段の鋤焼き屋に向かっているのでありました。
 この辺りは以前に興堂派道場が神保町に在った頃、偶に出稽古や是路総士のお伴で出向く折にも、滅多に歩いた事はないのでありました。そういう時には万太郎は御茶ノ水駅からダラダラと坂を雷形に下って向かうのが常でありましたが、都営地下鉄が開通してからは、興堂派道場の最寄り駅は神保町と云う事になるのでありましょうが、便利になって暫くした頃にはその興堂派道場はここから葛西の方に立ち退いたのでありました。
 懐かしさもあって、万太郎とあゆみは九段下駅を通り越して神保町まで行ってから靖国通りを引き返しているのでありました。万太郎の方は学生時代に北の丸公園やら、靖国通り沿いに並ぶ古本屋、裏通りに在ったお気に入りの喫茶店等に偶に行く事もあったのでありましたが、この頃はもうすっかりこの界隈からはご無沙汰しているのでありました。
(続)
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お前の番だ! 567 [お前の番だ! 19 創作]

「牛路先生、どうも有難うございます」
 是路総士は立った儘、牛路理事にお辞儀するのでありました。
「ただし、・・・あゆみちゃんに折野君、こう云う事を聞いて気を悪くしなさんなや」
 牛路理事は万太郎とあゆみに済まなさそうな笑いを投げるのでありまいた。「如何せんずっと先の事だから、ひょっとして二人が不仲になって離別したり、或いはそんな事は先ずないと思うのだが折野君が不幸にも早世するとか、まあ、明日をも知れぬ娑婆の事、不測の事態だってない事もないかも知れない。そんな場合はどうなりますかな?」
「確かに牛路先生がおっしゃるように、この世の中は将来何が起こるか判りません」
 是路総士に代わって寄敷範士が立ち上がって応えるのでありました。「若し二人が存命中に離婚をした場合、当流の存続と云う見地から判断して、その離婚で折野に非があるならば折野の宗家継承及び総士先生との養子縁組みは破談とします。また当然ながら折野が既に宗家を継いでいた場合も返上となります。その上で、あゆみを含めた適当な人選を再度行い、理事会に承認を求めます。これは折野が急逝した場合も同じであります」
 寄敷範士は手中のメモを見ながら続けるのでありました。「また、あゆみの方に非が認められた時には、折野は総士先生と養子縁組をしてありますからその儘宗家を継承、或いは継続する事とします。万が一あゆみが折野に先立った場合も、同じ扱いであります」
「ああ成程ね。察すればもう既にそう云う幾つかのケースも、当事者や総士先生、それに鳥枝先生や寄敷先生の間で疎漏なく話しあわれているのですな?」
 牛路理事が頷きながら確認するのでありました。
「まあ、考えられる幾つかのケースは。しかしこの先何があるか知れませんから、この線に沿ってケースバイケース、と云う仕儀になるでしょうが」
「そう云う現実的な面もちゃんと話しあいの上取り決めがされているのなら、理事として我々は何か異議を申し上げる必要はありませんかなあ」
 牛路理事はそう云いながら周りの理事連の顔を一渡り見回すのでありました。他の理事達は押し並べて御大に頷きを送るのでありました。
「ではこの建議、理事会でご承認いただいたと云う事でよろしいですかな?」
 寄敷範士が今の牛路理事のように、理事連の顔を見渡しながら確認を求めるのでありました。理事連はこれにも同意の頷きを一様に返すのでありました。
「折野君の人格、徳性、剣術体術の実力に関しては既に承知しておりますから、あゆみちゃんに宗家を継ぐ意思がない以上、現段階では好都合な人選と云えるでしょうな」
 牛路理事が云うと周りからも、いや全く、とか、これで常勝流の将来も安泰ですな、とか云った声が上がるのでありました。ま、満場一致と云う事でありますか。
 万太郎とあゆみはどちらからともなく顔を見あわせて、二人揃って胸を撫で下ろすのでありました。当然ながら将来に亘っても離別等は到来する筈もないと確信している二人であってみれば、常勝流の体裁上の問題なんぞさて置き、二人の結婚に対して理事会がすんなりと祝意を表してくれたのが何よりの事と云えるのでありました。
「では、二人の結婚及び折野の宗家継承の件は承認とさせていただきます」
(続)
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お前の番だ! 566 [お前の番だ! 19 創作]

「あゆみとの話しではなかなか殊勝に、真摯に、はたまたそれなりの覚悟を持って、常勝流の将来の事を只管考えている感が大いに伝わってきましたよ」
 またまた寄敷範士に交代でありますが、まるで芝居の台詞割りのようであります。「あゆみの常勝流の将来を一途に思うその心根に、私なんぞは強く打たれました」
 これは寄敷範士の聞き及んだあゆみの了見に対するかなりの修飾的言辞であると云うべきでありますか。実際のところは両範士との話しであゆみは単に、宗家になるのは絶対嫌だと只管無愛想に聞き分けのない子供のように云い募っていただけでありましたから。
「で、折野の方だが、・・・」
 ここでまた鳥枝範士の登場であります。「ワシは大体が血統主義で宗家はあゆみが継ぐのが妥当とずっと考えていた。しかしあゆみの固辞の意志が鉄のように硬くてどうしても首を縦にふろうとしない。ワシはあゆみが子供の頃からその円らな目でじっと見つめられてお強請りされると、どうにも腰砕けになってなあ、竟々云う事を聞いてやりたくなると云う悪い癖があるのじゃが、まあ、今回もまた敗北の憂き目にあったと云うわけだ」
 鳥枝範士はそう云ってあゆみの方を見て咳払いを一つするのでありました。「折野は総士先生の内弟子を長く真面目にやってきたヤツで、その篤実な努めぶりは皆も知っての通りだ。それになかなか目端が利いているから総本部の運営も今ではあゆみと一緒に立派に担っておる。興堂派の分裂解体に際しても穏当で、しかもなかなかの敏腕をふるって対処に奔走して、大方から恨まれるような事もなく総本部の所帯を大きくした張本人だというのも皆の知るところだろう。鳥枝建設に幹部候補生として引き抜きたいくらいの男だ」
 ここで理事連から鳥枝範士の軽い冗談に対して笑いが起こるのでありました。
「折野の武道の実力の方も、皆さん既によおくご存知でしょう」
 この先は再び寄敷範士の出番であります。「門下生達の受けも今では総本部で随一だ。この儘精進すれば将来間違いなく一廉の武道家になるでしょう。折野の技には華があるから大向うを唸らせる事も出来る。常勝流の中に在っては、なかなか稀有な人材ですよ」
 この寄敷範士の言葉を聞きながら万太郎は消えも入りそうになるのでありました。先のあゆみへの修飾的評言と同じでありましょうが、それにしても褒め過ぎであります。
「だからワシは、ここは一番、血統主義を棚上げする事にした」
 鳥枝範士がまた代わるのでありました。「折野なら、当代是路総士の次を懸念なく任せられるだろう。まあ、折野とあゆみが結婚して子を儲ければ、折野のそのまた次の代には、再び是路家の血が復活する事にもなるだろうからなあ」
「どうですかな、この私からの提案を、既定路線としてご承認いただけますかな?」
 鳥枝範士と寄敷範士の代わり番この弁舌が一段落と踏んだ是路総士が、椅子から立ち上がって理事連を見渡しながら尋ねるのでありました。
「総士先生のご意志とあらば、我々に異論なんぞはありません」
 参集理事連中の一番の古株で、以前に調布市の中学校の校長やら市の教育委員等の要職を歴任していた事もある、牛路伊達輔と云う名前の御年八十になる仁が声を上げるのでありました。この御大は若い頃に先代宗家に常勝流を習った事のある人でありました。
(続)
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お前の番だ! 565 [お前の番だ! 19 創作]

 万太郎とあゆみの結婚に関しては、万太郎が是路家に養子に入ると云う点を確認出来た時点で、特段の反対意見は出ないのでありました。当人同士がそうしたいのならあゆみの父親たる是路総士が許せば、当然ながら是路家内の問題でありますから、それはそれで理事連のとやこう云うべき筋ではないというのが大方の意見でありましたか。
 万太郎が婿養子に入る件は、既に熊本の万太郎の両親及び親族からは快諾が得られているのでありました。父親は万太郎が長男ではないと云う事もありますが、元々家系の連続と云うものに余り重きを置かない考えの人でありましたし、母親の方はと云えばこんな盆暗息子で本当に良いのかと、逆にあゆみや是路総士に恐懼の態を示すのでありました。
 しかし将来宗家を万太郎が継ぐと云う件に関しては、やや陰鬱な空気が会議室の天井辺りに蟠るのでありました。矢張り万太郎が是路家の血の外の人間だと云うのが、理事連の戸惑いとか及び腰とか座り心地の悪さとかを誘発したようでありました。
 あゆみではなく万太郎であるための妥当な理由が存しなければならないのでありましょうが、それはあゆみの固い忌避の意志と是路総士の、愛娘に苦労をさせたくないと云う親心が主たるが理由で、これは常勝流のためと云う公的理由よりは個人的意向と云うものでありますから、理事連を前に憚りもなくそれを声高に云い募るわけにはいかないのでありました。まあ、是路総士が声高に云えば、それはそれで通りはしたでありましょうが。
 ここで登場するのが常務理事たる鳥枝範士及び寄敷範士の意見でありました。
「ワシも総士先生からそれを聞いた時は、実はちょっと考えた」
 鳥枝範士が云うのでありました。「折野は是路の血を受けていないのだから、宗家に収まるには問題があるんじゃないかとな。横に座っている寄敷さんも同じ感想だった」
「代々のご宗家はこれまで、皆さん是路の血統のお方だったですからねえ」
 寄敷範士が同調理由を述べるのでありました。
「そこでワシと寄敷さんで色々協議したわけだ」
 鳥枝範士が続けるのでありました。「当初は総士先生の実の娘であるあゆみが宗家を継ぐのが筋じゃないかと思ったのだが、古武道に限らず様々の武道の世界では、これは旧弊と云われるかも知れないが、女が一派の総帥となるのは色々小難しい体裁上の問題があるのも現実ではある。そうする事で一気に流勢が衰微して仕舞った例も確かに存在する」
「そこで、あゆみと折野の結婚は、それは認めるとしても宗家の継承問題に関してはすぐに結論を出さずに、暫く様子を見ると云う形にしようかと云う話しになったのですよ」
 寄敷範士が後を引き取るのでありました。「しかし当代宗家の一人娘たるあゆみの結婚であるから、将来に対する色んな人達のつまらぬ憶測やら見当違いの思惑が跋扈する可能性だってあります。ですからここはあゆみの結婚と同時に、将来の宗家の継承問題に関してもはっきりした方針を示しておく方が、全く無難ではあるのもその通りです」
 居並ぶ理事連が尤もであると個々夫々に頷くのでありました。
「で、当のあゆみの了見と総士先生のご真意を二人で確認に及んだわけだな」
 また鳥枝範士が喋り手を代わるのでありました。「あゆみは、矢張り自分が女である事に大きに危惧を有していて、流派のためにも頑強に宗家継承を辞す心算のようだった」
(続)
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お前の番だ! 564 [お前の番だ! 19 創作]

 真入増太は翌日からほぼ毎日、稽古に通ってくるのでありました。住んでいるところが相模原のようでありますから、調布の総本部道場に通うにはなかなかの時間がかかるでありましょうが、それを苦にしない意気ごみがその巨体から溢れているのでありました。
 最初の頃は夜の一般門下生稽古だけに来ていたのでありましたが、一月ほどして稽古に慣れてくると、その前の時間の専門稽古にも顔を出すようになるのでありました。始めの頃は相変わらず他の門下生達に対しては無愛想で不敵な態度でありましたが、万太郎以下の薫陶を得てか、次第に態度も気組みも武道修行者らしくなってくるのでありましたけれど、この間の真入増太の様相の変化等の話しは後に譲るといたしましょうか。

 あゆみの部屋から内弟子部屋に引き上げてきた万太郎に、一人コーヒーを飲んでいた来間が敷き延べた布団の上で居住まいを正してから質問をするのでありました。
「理事会では、満場一致で折野先生が宗家を継ぐ事を了承されたのですか?」
「ああ、一応な」
「すんなりと満場一致ですか?」
「まあ、そう云う事になるかな」
 万太郎は寝間着代わりのジャージに着替え終えてから、自分の布団に潜りこむのでありました。それを見て来間もコーヒーを飲み干して布団の中に身を入れるのでありました。
「これで愈々、将来の常勝流の体制が固まったと云うわけですね」
「将来と云っても、未だ々々十年以上、或いは二十年以上先の話しだ」
「それはそうですが、しかしこれで将来も屋台骨は盤石、と云う事になりますね」
「どうなるか先の事は誰も判らないから、今の時点で一先ず、と云ったところだな」
「しかしあゆみ先生との結婚は、ごく≪近い話しなのでしょう?」
「それも来年の事になるだろうな。未だ半年以上先だ」
「何れにしても、万端おめでとうございます」
 来間は寝そべったままでお祝いの言を吐くのを不謹慎と考えたのか、態々起き上がって布団の上に正坐してから、横に寝ている万太郎にお辞儀するのでありました。
「ああ、有難う」
 万太郎もその儘寝ているのは幾ら弟弟子に対してと云えども不作法と思って、上半身を起こしてこちらも居住まいを正してから頭を軽く下げるのでありました。来間は万太郎の所作に恐縮して、再び丁寧にお辞儀してから布団に入り直すのでありました。
 その日昼に新宿の鳥枝建設本社の会議室を借りて、常勝流総本部の財団理事会が開かれたのでありました。当然そこでは万太郎とあゆみの婚約の発表と、将来宗家を婿養子になる万太郎が継ぐ事とすると云う議案が話しあわれたのでありました。
 宗家である是路総士、それに常務理事の鳥枝範士と寄敷範士は勿論、当の万太郎とあゆみ、それから各地から集った支部長連の重鎮、各界に在る多士済々の理事十五人が漏れなく集う臨時理事会と云う体裁でありました。尚、それ故その日の総本部道場の稽古は、花司馬教士と来間助教士の二人が総てを取り仕切っているのでありました。
(続)
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お前の番だ! 563 [お前の番だ! 19 創作]

 姉弟子の提案、しかも今では、相愛の将来の伴侶たる者の提案でありますから、万太郎としても拒むわけにはいかないのでありました。まあ万太郎も、洞甲斐氏の甥っ子で、昨日捩じこんだ相手側の者がこうして早速に入門しに来たと是路総士に紹介する事に、些か面白味を感じはするのでありましたから敢えて拒む理由もないでありますか。
 是路総士の前で横着で不謹慎な真似を働かないか、その点が万太郎としてはやや不安でありましたが、師範控えの間に招じ入れられた真入増太は、是路総士の威と徳に一目で打たれたように、すっかり身を固くして縮こまって正坐しているのでありました。無骨で無神経そうに見えて、案外この男は素直な心根を持った好漢なのかも知れません。
「身長はどのくらいありますか?」
 是路総士が訊ねるのでありました。
「ああ、はい、百八十五センチです」
 真入増太はやや上擦ったか細い声で応えるのでありました。
「ほう。体重の方は?」
「最近は測った事がありませんが百キロ前後だと思います」
 百八十五センチ百キロの体が恐懼のために縮んでいるのでありました。
「貴方がこちらに入門する事に対して、洞甲斐さんはどうお考えでしょうかな?」
「知りません。昨日は折野先生が帰られた後、俺はすぐに八王子を去りましたから。それにその後は伯父貴には逢っていませんし、向こうからも連絡はありませんから」
「ああそうですか。そうすると威治君の事もご存じないでしょうな?」
「全然知りません」
 聞き様に依っては真入増太の言葉つきは、是路総士の知りたい辺りを簡単に素通りするような如何にも愛想のないものでありました。しかしこれは何か意趣があっての事ではなく、この男生来の一種の鈍感、或いは無邪気の然らしめるところでありましょうが。
「まあ、門下生となったからには、しっかりおやんなさい」
 是路総士はそんな激励でこの邂逅を締め括ろうとするのでありました。
「やっと、先生と崇められる人に出会ったのだから、俺も死ぬ気でやります」
 真入増太は眉宇に固い意志を刻んで決意表明をして見せるのでありました。ここでこの男が云う、先生、とは万太郎の事を差すのだろう事は、是路総士も何となく察しているようでありましょうが、彼の人はただ大らかに笑うだけで殊更その迂闊な不躾、或いは常勝流総本部道場に入門する者としての心得違いを正す事はしないのでありました。
 返って万太郎の方が傍で聞いていて冷や々々とするのでありました。目上の者、或いはその場に置ける序列の上下と云う点への配慮が、今まで学習してこなかったためか大いに欠けていると云うべきでありますが、まあ、これもその内に学ぶでありましょう。
 なかなかざっくばらんな人だな、とは是路総士が後に述べた感想でありましたが、大胆不敵とか慎みがないとか無思慮だとか評言しないのは、是路総士が真入増太にそこはかとない可笑し味、或いは好感を持ったが故でもあろうかと万太郎は考えるのでありました。まあとまれ、こうして万太郎の、実質の第一番目の直弟子が誕生した事にはなりますか。
(続)
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お前の番だ! 562 [お前の番だ! 19 創作]

「ああ、その事です」
 真入増太は居住まいを正して万太郎を縋るような目で見るのでありました。「折野先生、どうか俺を助けると思って、うん、と云ってください」
 助ける義理は特に何もないと万太郎は思うのでありましたが、つれなく首を横にふるのも何やら申しわけない思いがするのでありました。しかし、未だ内弟子身分の自分が弟子を取るなんと云うのは、全く以ってあろう筈のない話しであります。
「自分の弟子に、と云うのは勘弁して貰いたいが、総本部に入門して門下生になるのは別に構わないだろう。それで手を打つ気はないかな?」
「俺は折野先生の弟子になりたいのです」
 真入増太はあくまで万太郎の弟子、と云うところに拘るのでありました。
「その了見を変える気がないのなら、自分としてはきっぱりお断りしてこの儘帰って貰うしかない。自分は未だ弟子を取るような身分でも、立場でもない」
 万太郎はやや冷ややかにそう告げるのでありました。万太郎のクールな色を変えない目を暫く見つめていた真入増太は、結局は観念したように俯くのでありました。
「一先ず門下生になれば、折野先生に稽古をつけて貰う事も出来るじゃない」
 あゆみが慰めるように云うのでありました。
「無手法な願望に何時までも拘って、折野先生のお立場を損なう心算がないのなら、総本部の門下生になるのが最も無難で適当な方法だと、自分も思うけどなあ」
 来間が真入増太の決断を促すのでありました。
「判りました。それならそう云う事にします」
 真入増太は暫く俯いた儘考えを回らした後に、さも残念そうに云うのでありました。依怙地に聞き分けがないとか、事の加減を全く理解出来ない男でもなさそうであります。
「ああそうか。それならそう云う事に」
 万太郎は胸を撫で下ろすのでありました。
「じゃあ、これは入会案内と申込書だ」
 来間が慎に手回し良く入会案内の紙を真入増太の前に差し出すのでありました。こうなるだろうと最初から見越していたのでありましょうが、来間もなかなか、以前のような気の利かない生真面目一辺倒、と云うわけではなくなってきたようであります。
 真入増太はその場でボールペンを来間に借りて、そそくさと入門申込書を書き上げて、印鑑がないからとこれも来間に朱肉を借りて爪印を押すのでありました。なかなか潔いと云えば潔いし、そそっかしいと云えば実にそそっかしいとも云えるでありましょうか。
「折角こんな遅くに来てくれて土下座までしてくれたんだから、万ちゃん、お父さんにこれから真入さんを引き逢わせて、入門の挨拶をして貰ってはどうかしら?」
 あゆみが掌を一つポンと打ち鳴らして、そんな提案をするのでありました。一般的には内弟子になろうと云うのならば兎も角、是路総士に新入りの一般門下生が態々差しで挨拶をすると云う風習はないのでありましたが、昨日八王子で万太郎と因縁を持った男と云うのに興をそそられて、あゆみはそんな事を思いついたのでありましょう。
(続)
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お前の番だ! 561 [お前の番だ! 19 創作]

 万太郎は真入増太を玄関前の受付兼内弟子控え室に通すのでありました。あゆみと来間も一緒に入るのでありましたが、来間には茶を持ってくるよう命じるのでありました。
「一生のお願いですから、どうぞ弟子にしてください」
 真入増太は畏まって正坐して、万太郎にもう一度同じ言葉を発して深いお辞儀をするのでありました。万太郎は処置に困じたように隣に座るあゆみを見るのでありました。
「いきなりそんな事を云われても。・・・」
 万太郎はあゆみから目を離して未だ低頭した儘の真入増太の方を見て、それから腕組みをしながらゆっくり天井を見上げるのでありました。
「昨日伯父貴の道場であっさりぶん投げられて、弟子になるしかないと決めたのです」
 真入増太はがばと頭を起こして、多分自分の持ちあわせている最上級の真剣な面持ち、らしきをして、万太郎に一直線の視線を向けるのでありました。
「ぶん投げられて弟子になるしかないと決めた、その間の仔細の説明がないからこの折野先生は困っていらっしゃるのよ。話しが如何にも唐突過ぎて」
 万太郎に成り変わってあゆみが横からそう諭すのでありました。真入増太に云っている言葉の中ながら、万太郎はあゆみに、折野先生、等と他称されたものだから、何やら急に臍の辺りがむず痒くなってくるのでありました。
「ピピピッときたのです」
 真入増太はそう云って自分の蟀谷に人差し指の先端を当てて見せるのでありました。
「ピピピッと、ねえ。・・・」
 あゆみが口真似をするのでありました。「つまり直感、みたいな事かしら?」
「そうです、そうです。直感です」
 真入増太はそれこそ我が意を得た言葉、と云った笑みを浮かべるのでありました。
「畳に叩きつけられた衝撃で、何やら妙な誤信号が頭の中に偶然発生したんじゃないかなそれは。で、投げたヤツの弟子になるしかないと、脳が勘違いしたとか」
 万太郎はそう云って微かに笑うのでありましたが、その云い方には特段、揶揄の響きは見られないのでありました。つまり万太郎の素直な分析、なのでありました。
「そんな事はありません!」
 真入増太は熱り立つのでありました。「勘違いじゃなくて、これは悟りです」
 何とも大袈裟な物云いに万太郎は何となくソワソワとして仕舞うのでありました。先程の、ピピピッ、にしても今の、悟り、にしても、どうやら真入増太はあんまり語句の適切なる選択に巧みであるとは云えない人物のようでありますか。
「折野先生に弟子にして貰えましたか?」
 茶を淹れて持ってきた来間が真入増太の前にそれを置きながら、ちらと横目で万太郎の方を窺いながら訊くのでありました。口元には含み笑いを湛えているのでありました。
 これは万太郎に対して、悪気からではないにしろ、揶揄がこめられた言葉でありましょうか。万太郎はそんな来間を睨むのでありましたが、来間は睨まれて慌てて口の端の笑いを消して、万太郎に不謹慎を詫びるように目礼を送るのでありました。
(続)
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お前の番だ! 560 [お前の番だ! 19 創作]

 来間が云うように確かに無愛想面で玄関に仁王立ちししている男が誰であるのか、万太郎はすぐにピンとくるのでありました。それは昨日八王子の洞甲斐氏の道場に居た、洞甲斐氏の甥でずんぐりむっくりとノッポ兄弟の、ノッポの方なのでありました。
 昨日の今日、こうして早速に万太郎を訪ねるのと云うは一体どういう了見なのでありましょうか。昨日万太郎に手酷く投げられた意趣返しにでも来たのでありましょうや。
 そうなら返り討ちにするまでと万太郎は眼光鋭く廊下に隙なく立ってノッポに警戒の眼差しを向けるのでありました。ノッポはそんな万太郎に及び腰になるのでありました。
「誰かと思ったら、昨日の、ええと、・・・」
 万太郎は名前を思い出そうとするのでありましたが、そう云えば確か洞甲斐氏からも聞かない儘であったし、本人も名乗らなかったのでありました。
「真入増太と云います」
 ノッポの云い様がやや恐縮の物腰であるのが意外と云えば意外でありましたか。それから察するに、これは単に意趣返しに遣って来たと云うのではなさそうでもあります。
「ああ、その真入さんが一体何の用事で訪ねていらしたのかな?」
 万太郎は警戒を緩めずに、しかし静穏な口調で訊くのでありました。真入増太は万太郎の静けさに返って怖気立ったのか、身を竦ませるような様子を見せるのでありました。
 それから何を思ったのか、急に玄関三和土にへたりこむように正坐するのでありました。意外な展開に万太郎は、顔に表しはしないものの少し狼狽するのでありました。
「折野先生、俺を、弟子にしてください」
 真入増太は先程の無愛想面を一変させて、血走った目を剥いて思いつめたような顔で万太郎を正坐の儘見上げるのでありました。
「折野先生、どうかされましたか?」
 丁度そこへ来間が顔を出すのでありました。真入増太の不穏な気配が気がかりで、何か一朝事があったら万太郎に加勢すべく遣って来たのでありましょう。
 しかし存外の場面に遭遇して来間は面食らったような目で万太郎を見るのでありました。そんな目で見られても、これは万太郎とて持て余すべき展開と云うものであります。
「万ちゃん、どうしたの?」
 やや遅れてこちらも助太刀の心算か、あゆみも出てくるのでありました。勿論、あゆみが眼前の光景に大いに戸惑う気色を見せるのは来間と同様なのでありました。
「そんな事をしないで、立って貰えるかな」
 困じた万太郎は三和土に降りて、真入増太の上腕に手を回して立たせようとするのでありました。大男であるのでなかなか重いのでありましたが、真入増太はようやくに、万太郎に促されたからと云った風情で立ち上がるのでありました。
「どうか、どうか、弟子にしてください」
 真入増太が万太郎の返事次第では、またも三和土に頽れそうな素ぶりを見せるものだから、万太郎は上腕に回した手の力を緩められないのでありました。
「まあ、ここでは何だから、上がって貰おうか」
(続)
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お前の番だ! 559 [お前の番だ! 19 創作]

「しかし適任と云う点に於いて、あゆみさんの方が僕よりは諸条件が数段優っているだろうと思いますよ。それに女性が宗家になった実例も、稀ではあるものの実際あるのですから。あゆみさんが宗家を継いだ暁には、僕が全力でサポートして見せますよ」
「万ちゃんにそう云って貰うとそれ以上の心強さはないけれど、でも矢張り、事態がすんなり収まる処に収まるのは、万ちゃんが宗家になる事のような気がどうしてもするわ」
「僕はあゆみさんが宗家を継ぐ方が、事がすんなり落ち着くと思いますがねえ」
「でもあたしは逆の方が、処々の抵抗が少ないとどうしても思うのよ」
 この将来の見取り図の相違は、結局は水かけ論でありましょう。そんな水かけ論に折角のあゆみとの一時を潰されるのは、万太郎としては慎につまらないのでありました。
「その話しはここで我々があれこれ云うよりは、総士先生の裁定を待つとしませんか。総士先生なら諸般を考慮して、屹度最適な選択をされるでしょうから」
「まあ、それはそうだけど」
 そう云われれば、あゆみとしても一先ず口を閉ざさざるを得ないでありましょう。「それに確かに、こんな話しばかりじゃ折角の万ちゃんとのデートも台なしだものね」
「そうですよ。もっと気楽でウキウキするような話しをしましょう」
「判ったわ。じゃあ、宗家を継ぐのは絶対勘弁して欲しいと云うあたしの気持ちをもう一度念押しして、今日はこの話しは止めにしましょうね」
 何やらこう云って止すのは、あゆみに都合の良い話しの切上げ方のように万太郎には聞こえるのでありましたが、それでも延々続けるよりはましでありますか。あゆみもなかなかに頑固と云うのか意地っ張りと云うのか気が強いと云うのか、・・・まあしかしそんなところも、万太郎が心魅かれたあゆみの美質と云えば云えるのではありましょう。

 その日の夕方、思いがけない男が万太郎を訪ねるため、総本部道場の門前に立つのでありました。偶々新宿から丁度戻って来た来間が、門横で名乗りを上げようかどうしようかと躊躇っている不審なる男を認めて、自分から声をかけたのでありました。
「折野先生に逢いたいと云って、何やら無愛想な図体のデカい男が来ていますが」
 食堂で夕食の用意をしているあゆみの周辺を、いそいそと手伝うような邪魔するような風情で動き回っている万太郎に、来間が入り口から声をかけるのでありました。万太郎は動きを止めて来間の方に顔を向けるのでありました。
「無愛想な図体のデカい男?」
 そう云われても万太郎には確たる覚えがないのでありました。
「名前を聞いたのですが、逢えば判ると云って名乗りません。取り次いでくるからと取り敢えず玄関に待たせていますが、何やら佇まいが、見様に依っては喧嘩腰のようにも見えますから、何でしたら自分が追い返して仕舞いましょうか?」
「いや、何だか知らないが態々訪ねて来たのなら、逢ってみようか」
 万太郎はそう云って来間の脇を抜けて玄関の方に歩むのでありました。門下生なら来間も知っているでありましょうが口ぶりからすれば全くの初対面の男のようであります。
(続)
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お前の番だ! 558 [お前の番だ! 19 創作]

 あゆみは続けるのでありました。「お父さんもその頃そう感じていたらしくて、折野は稽古にのめりこむタイプだし、そうやって精進している内に、常勝流の妙味のようなものを、まあ、端緒に過ぎないだろうが何か掴んだのだろう。精進してもそれを得る事の出来る人間は稀有なのだが、折野は屹度その稀有な内の一人だろう、なんて云っていたわよ」
「その頃、稽古が段々面白くなっていったのは、それはまあ確かですが、・・・」
 万太郎は回顧するような顔つきで云うのでありました。
「お父さんに依れば、稽古は人間がやる営為なんだから経験年数と実力が等比になる事はないんだって。実力と云うのは、グンと腕が上がってその後暫く停滞して、それからまたグンと飛躍して、と云うのを繰り返して階段状に上達していくんだそうよ。しかも誰でもが上達するとは限らないし、上達するにはそれなりの好機と条件が要るんだってさ」
「ああ成程。人を指導していて、それは僕にも経験上判ります」
「折野はその階段の幅が人より狭いから、人より早い速度で上達するかも知れない、なんて事も云っていたわ。うかうかしているとあたしなんかすぐに追い越されるぞって」
「いやいや、未だにあゆみさんの実力には到底及びませんよ」
「そうやって何時も姉弟子のあたしを立ててくれるけどさ、あたしとしてはもうとっくに、万ちゃんに及ばなくなっていると云うのは自分で判っているのよ。しかも年数が重なるに従って、益々歴然と差がついていくような実感がするわよ」
「煽てても何も出ませんから」
 万太郎は面映ゆくなってそんな冗談を返すのでありました。
「だからね、宗家は万ちゃんが継ぐ方が良いのよ」
 あゆみがそう断じるのでありました。成程そこに話しが行くのかと、万太郎は今までのあゆみとのお喋りの落ち着き先を得心するのでありました。
「宗家と云うのは誰もが妥当と思う人がなるもので、その妥当性の最たるものが血統です。血統と云う一見古めかしい観念がこの国では未だに一番落ち着きの良い理でもあります。特に伝統を重んじる分野においては、それは合理中の合理となります」
「でも、ここで例えとして持ち出すのも申しわけないけど、威治さんの場合もあるわ」
 あゆみは万太郎をその円らな瞳で一直線に見るのでありました。万太郎はそんな風に見られると例によってたじろぐのではありましたが、ここは引けないと意を励まして、あんまり円らとは云えない目で一生懸命にあゆみを見返すのでありました。
「若先生とあゆみさんでは、備わった徳も周りの評価も違い過ぎますよ。若先生は失敗するべくして失敗した例で、それはあゆみさんには全然当て嵌まりませんね」
「でもあたしが女である事は、ひょっとしたらもっと決定的に不利な評価となるんじゃないかしら。血統よりも男尊女卑の考えの方が古武道の世界には根強いかも知れないわ」
 それはそうかも知れない、と万太郎の意が少し挫けるのでありました。全くこの世界は現代風から距離を置く事を尊ぶ風習に色濃く染まっているし、その方が潔いのだとする無条件に無意味で無精で無責任な考えに支配されているから、確かに女であるあゆみが宗家を継ぐとなると、何かと風当たりも強くてしんどいかも知れないのであります。
(続)
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お前の番だ! 557 [お前の番だ! 19 創作]

「困ったわね」
 あゆみは口をへの字にするのでありました。こう云うあゆみの顔もなかなか棄て難く可憐であると、万太郎は会話の内容とは全く無関係な感想など抱くのでありました。
「鋭意努力はしてみますが、どうぞ長い目でお見守りください」
 万太郎が一種の茶目っ気でそう敢えて鯱張った物云いをしているのか、それとも全くの生一本の生真面目からのそんな風にものしているのか、あゆみにはその辺がよく判らないのでありました。まあ、日頃の万太郎の在り様からすれば後者でありましょうが。
「出来るだけ早めにお願いね」
「押忍。承りました」
「ところで、一つ訊きたかったんだけど、・・・」
 あゆみが話題を変えるのでありました。「あたしが万ちゃんの事好きだって事、昨日の八王子の一件があるまで、本当に全然気づかなかったの?」
「気づきませんでしたよ。あゆみさんは僕なんか眼中にないとばかり思っていましたから。しかし実は、僕の方はずうっと秘かにあゆみさんに憧れていましたけど」
 それを聞いてあゆみは満足そうなに、或いは照れたように笑むのでありました。
「先輩とか姉弟子として? それとも、女性として?」
「僕なんか足下にも及ばない強い姉弟子として、とばかり思っていましたが、良く考えれば随分前から、そうじゃないところもあったように思います」
「あたしが万ちゃんの事を好きになったのは、と云うか、意識し出したのは、万ちゃんが入門して一年くらい経った頃からかしらね」
 あゆみはやや恥じらいながらそんな告白をするのでありました。この恥じらいの顔がまた実に可憐であると万太郎が思うのは例の通りであります
「入門して一年くらいした辺りで」
 あゆみが続けるのでありました。「万ちゃんは見違えるくらい技術が飛躍したものね」
 そう云われても万太郎には思い当る節がないのでありました。
「そうですかねえ? その頃は未だ僕は、稽古ではあゆみさんに翻弄されっ放しで、何時もあたふたとしていたように記憶していますがねえ」
「ううん、そんな事ないわ。どうしてかは知らないけど、或る日いきなり万ちゃんが妙に強くなったような気がして、あたしたじろいだのを覚えているもの」
「ようやく常勝流の動きに慣れてきたかなと云う自覚はありましたが、それだけで、いきなり強くなった、なんて自分では考えてもいなかったですよ」
「自分ではそんなものかも知れないけど、傍目にははっきりそう見えたわよ。現にそれはお父さんにもそう見えたようだったしね」
 このあゆみの言葉に万太郎の心が躍るのでありました。
「そうですかねえ?」
 万太郎はしかしあくまでも懐疑的な物腰を崩さないのでありました。
「近頃、万ちゃんどうしたのかしらって、あたしお父さんに聞いた事があるのよ」
(続)
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お前の番だ! 556 [お前の番だ! 19 創作]

「新宿で何をしますか?」
「映画でも見る?」
「そう云えば来間が新宿に映画を観に出かけていますから、確率は低いものの、ひょっとしたら向こうで出くわすかも知れませんよ」
 まあ、出くわしても別に構わないかと、云った後で万太郎は思うのでありました。しかしあゆみと自分が仲睦まじく寄り添っている姿を見た来間に、経緯を縷々述べると云うのも何となく気が重いと云うのか、きまりが悪いと云うのか。・・・
「ああそう。注連ちゃんは新宿に映画を観に行ったの」
「まあ、来間の目に気を遣う必要はないですけどね。あゆみさんと僕は、こうして晴れて総士先生公認の仲になったわけだから。ま、宗家の継承問題は残っているにしろ」
「それでも矢張り、何となく注連ちゃんに出くわすのは面倒ね」
 あゆみも万太郎と同じ了見なのでありましょう。「じゃあ、どうしようか?」
「ぐっと手軽になりますが、烏山辺りで食事をして、それから寺町か芦花公園でもブラブラと散歩する、なんと云うのはどうでしょうか?」
「そうね。二人きりで居られるのなら、あたしは別に何処でも構わないし」
 このあゆみの言葉を聞いた時の万太郎のデレッとした締まらない顔と云ったら、ここに描写するのも馬鹿々々しいと云うものでありますか。
「じゃあ、まあ、取り敢えずそう云う事で」
 と云うわけで万太郎とあゆみは仙川の道場を出ると、千歳烏山の駅まで寄り添ってゆるりと休日の散歩と洒落こむのでありました。何処と云う当てもなかったから二人は駅近くのレストランで昼食を摂って、その後またブラリと芦花公園まで歩くのでありました。
「万ちゃんさあ、・・・」
 月曜日の昼間と云うのでさっぱり人気のない、徳富蘆花が死去する昭和二年までの二十年間隠棲した住居跡と云う蘆花恒春園の記念館の縁に並んで座って、万太郎の左掌を両手で包むように持って、肩を寄せたあゆみが万太郎に話しかけるのでありました。
「何でしょう?」
 万太郎は弄ばれる掌の心地良さに陶然としつつ、上擦った声で応えるのでありました。
「その、二人だけで居る時のあたしに対する敬語は、もう止めない?」
「はあ。しかし今まで長く馴染んだ言葉遣いですから、簡単には改まりませんよ」
 万太郎はすっかり敬語で云うのでありました。
「そこを頑張って改めてよ」
「押忍。努力してみます」
 万太郎のその返事を聞いてあゆみは溜息をつくのでありました。
「ほら、早速努力を怠っているじゃないの」
「ああ、済みません。・・・じゃなくて、済まん、・・・事です」
 万太郎は頭を掻くのでありました。「ダメです。どうしても丁寧になって仕舞います。丁寧じゃなくなろうとすると、調子が狂ってしどろもどろになりますよ」
(続)
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お前の番だ! 555 [お前の番だ! 19 創作]

「ああそうだ」
 あゆみが急に何か思いついたように云うのでありました。「あたしと万ちゃんは、今日どうしても行かなければならない処があって、だから朝の残りの御御御付けと卵焼きでお父さんのお昼を出したら、すぐに出かける心算だったんです。若し良かったら大岸先生、この料理でお父さんのお昼のお相手をして頂けたらとても嬉しいのですけど」
「それは別に構わないけど、でも、不意に来て図々しくないかしら?」
「とんでもない。あたしとしてはその方が有難いと云うものです」
「あらそう?」
大岸先生はニコニコと笑むのでありました。「じゃあ二人はすぐに出かけなさい。総士先生のお昼はあたしが調えるから心配しなくても大丈夫よ」
「え、本当ですか?」
 あゆみが先程鍋の中を覗いた時と同じように、口元で掌をあわせて大袈裟に目を見開いて歓喜の表情を大岸先生に送るのでありました。
「任せといて」
「ご飯はジャーにありますし、卵は冷蔵庫にあります。フライパンは、・・・」
「勝手知ったる他人の家で、フライパンやお皿の在り処、それに総士先生のご飯茶碗もお箸も何処に在るのかちゃんと知っているから、心配しなくても大丈夫よ。それから冷蔵庫の中にある物をちょっとゴソゴソするのを許してね」
「ええどうぞ。何でも使ってください」
「じゃあ、総士先生にそう云ってくるわ。総士先生は控えの間?」
「はいそうです」
 大岸先生は頷くと鍋を持った儘いそいそと食堂を出て行くのでありました。何やら降って湧いた是路総士と二人での昼食のチャンスを大いに喜んでいる風情であります。
 あゆみが万太郎に向かって悪戯っぽい表情で指を鳴らして見せるのでありました。これは慎に好都合な折に好都合な人が来てくれたと云う按配でありますか。
「じゃあ万ちゃん、出かけましょう」
 あゆみが万太郎の袖を引くのでありました。
「それは良いですが、大岸先生にあゆみさんがさっき云った、どうしても出かけなければならない用事なんと云うのは、僕等には今日は特にないと思うのですが。・・・」
「あら、万ちゃんはあたしと出かけるのが嫌なの?」
「勿論そうではありませんが、何となくさっきの云い草では、大岸先生に対して申しわけないような気がチョロッとするものですから」
「ま、良いじゃない。何とかも方便よ」
 あゆみはしれっとしているのでありました。この太々しさは男にはないところであろうと、万太郎はあゆみを含めた女一般に対して些かの畏怖を感じるのでありました。
「ところで、何処に行くのですか?」
「そうね、近所の散歩と云うのもつまらないし、新宿にでも出てみる?」
(続)
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お前の番だ! 554 [お前の番だ! 19 創作]

「ああそうですか」
 と云う事は、万太郎はこの儘あゆみと密着して座って、左手を弄ばれ続けなければならないと云う事であります。万太郎としては慎に気づまりな緊張状況と云うものではありましたが、まあしかし、そんなに嫌な状況と云うわけではないのでありました。
「万ちゃんの掌って、指のつけ根は剣胼胝で固くなっているいけど、掌全体は意外に柔らかいのね。こうして改めて触ってみて判ったんだけどさ」
 あゆみは飽かず万太郎の左手のあちらこちらを触りながら云うのでありました。あゆみの掌の中で万太郎の手が甘やかに溶けて仕舞いそうでありました。
「あゆみさんには目立った剣胼胝がありませんね」
 万太郎が今度は仕返しにあゆみの右手を自分の顔の前に引き寄せて、擽るようにその上に指を這わせるのでありました。流石にあゆみの掌は、手入れもしない男の無骨な掌とは違って、しっとりとしていて瑞々しいのでありました。
「くすぐったい」
 あゆみが万太郎の掌中から自分の右手を逃れさせようとするのでありましたが、逃してはなるものかと、万太郎は少し強くあゆみの手を握るのでありました。あゆみの手がこんなに手弱やかな手である事に、稽古中は気づきもしないのでありました。
 二人がこうして地味にいちゃついていると、庭から不意に声がするのでありました。
「あゆみちゃん、居る?」
 それは書道の大岸先生の声でありました。何時ものように大岸先生が縁側から勝手に上がって来る気配を感じて、万太郎とあゆみは慌てて互いの手を離すのでありました。
 台所の扉は開け放たれた儘でありましたから、大岸先生はそこから顔を覗かせるのでありました。中に居るあゆみと万太郎が揃って首を捻じ曲げて自分の方を見ているのに、大岸先生は片手をヒョイと上げて挨拶を送るのでありました。
「これ、ちょっと作ってみたから、お昼にどうかしらと思って持ってきたのよ」
 ヒョイと上げないもう片方の手には白い鍋が抱かれているのでありました。万太郎とあゆみはすぐに立ち上がるのでありましたが、二人が嫌にくっついて座っているところを大岸先生は奇異に感じなかったかしらと思って、万太郎は少したじろぐのでありました。
「何ですか、それ?」
 あゆみが大岸先生の方に繕うように駆け寄るのでありました。
「飯蛸と莢豌豆の甘辛煮つけよ」
 大岸先生は鍋の蓋を開いて見せるのでありました。
「まあ美味しそう」
 あゆみが両掌を口の前であわせる仕草をして、やや大袈裟な声で感嘆するのでありました。一応愛想から万太郎も近寄って鍋の中を覗きこむのでありました。
「昨日、テレビの料理番組でやっていたから作ってみたのよ」
 大岸先生はそう云いながら蓋を戻すのでありました。「まあ、お酒の当てみたいだけど、ちょっとした副菜としてもなかなかイケるわよ」
(続)
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