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あなたのとりこ 56 [あなたのとりこ 2 創作]

「でも、株式会社なんでしょう?」
「資本の形式としてはね。まあ、株式会社たって色々あるよ」
「それはそうだろうけど」
 夕美さんはカップに残ったコーヒーを飲み干すのでありました。「それはそうと、ぼちぼち何処かに食事に行かない? 就職お祝い第一弾として奢ってあげるわ」
 第一弾と断るところを見ると第二弾もあるのでありましょうか。
「それは有難いけど、でも考えてみたら夕美は未だ学生の身分で、俺の方が働いていると云う事になるんだから、無産者に奢って貰うのはちょいと気が引ける」
 夕美さんは考古学専攻の大学院生なのでありました。
「そんな事云うけど、今の時点ではあたしの方がお金持ちだと思うけど」
 夕美さんのお父さんは郷里で建築設計事務所を経営する資産家なのでありました。依って夕美さんには実家から潤沢に仕送りがあるようであります。まあ、そうでなければ夕美さんが卒業後に就職しないで大学院生になると云う選択は無かったかも知れません。
 夕美さんにはお兄さんが居て、お父さんと同じ建築士でお父さんの跡継ぎと云う事になるのでありましょう。妹の夕美さんは頑治さんとは違って幼い頃から乳母日傘で育てられたようで、その所為かどうかどちらかと云うとおっとりした性格なのでありました。それでも中学時代の印象としては頑固な面もあって、一度云い出したらなかなか節を曲げない憎たらしいところもあるのでありました。今もそこは変わらないようであります。
「お金持ちかどうかと云う点では、確かにその通りではある」
 考えたら頑治さんは大学で再会して付き合いだして以来、大いに夕美さんの持っている金品に甘えてきたような気がするのであります。
「その内、頑ちゃんがお金持ちになったら十倍くらいにして返して貰うから、今日の夕食代に関してはあたしの奢りと云う事で良いんじゃない」
「そうかい。毎度々々、お世話になります」
 頑治さんは丁重そうでありながら、しかし何処か狎れたような風情のある、横着と云えばそうも云えるお辞儀なんぞをして見せるのでありました。

 学食を出た二人はすぐ道向かいにある小さな公園の中に入っていくのでありました。夕美さんの手には飲み残しの林檎ジュースの缶が、頑治さんの手には学食の出入り口のところにある自動販売機で、再会の挨拶代わりと云う名目で夕美さんが買ってくれた缶コーヒーが握られているのでありました。そんな挨拶をされる謂れはないと頑治さんは断ったのでありましたが、堅い事云わないでまあ良いじゃない、と云う夕美さんの厚意にほんの少しのすったもんだの末、結果として甘える事になったのでありました。
「唐目君は、就職の方は決まったの?」
 公園の古い木製のベンチに並んで腰を下ろして、缶コーヒーのプルリングを起こしている頑治さんに夕美さんが訊くのでありました。
「いや、未だ全然決まっていないよ」
(続)
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あなたのとりこ 55 [あなたのとりこ 2 創作]

「へえ。じゃあこれから一緒に仕事をしていく間柄になるの?」
「いや、後二か月程で会社を辞めるんだよ。その後釜として俺が雇われた事になる」
「ああそう云う経緯なの」
 夕美さんは刃葉さんがもうすぐ会社を辞めるのだと云う話しを聞いて、何故か少しがっかりしたような云い草をするのでありました。自分と同姓の人が頑治さんとこれから先も一緒に働く訳ではないと云う事に、全く大した意味も無くではありましょうが、何となくちょっと残念な心持ちなんぞがしたからでありましょうか。
「この先二か月、引き継ぎでその人からあれこれ業務仕事を教わらなくちゃならない」
「短時間だけど先輩になるんだものね。色々頼りになりそうな人?」
「うん、まあ、・・・」
 頑治さんは口籠もるのでありました。別に羽場さんの人となりを、頑治さんが持った印象等を正直に且つ面白可笑しく夕美さんに話しても構わないのでありましょうが、夕美さんと同姓の人と云う事もあって、まあ、まさか夕美さんに限ってそんな不条理は無いでありましょうが、頑治さんの語りを不愉快に思うような事があっては拙いと頭の隅で危惧したからでありました。全く以ってこれは無用な気遣いでありましょうが。
「他にはどんな人が居るの?」
 夕美さんは別に刃葉さんの話しには拘る風も無いのでありました。
「営業部長と営業課長、それに営業部員が後二人、と云っても一人は出張で居なかったから今日はもう一人の方としか顔合わせしなかったけどね。それに経理の女の人が一人。制作部には制作部長と制作主任、それから男女一人ずつの部員、と云ったところかな」
「営業部は営業課以外に他の課がある訳?」
「いや、そう云う事ではなくて、単に役職手当支給の関係で課長と云う役職も設けてあると云う事らしいよ。課長当人が居酒屋の宴会の席でそんな事を云っていたから」
「営業部と経理部と制作部の三部構成になる訳?」
「経理部、と云うのは特別設けられてはいないようだな。だから経理担当の女の人は平の社員で課長と云う肩書きはないし、他に部下も居ないもの。まあ、強いて云えば営業部に経理課も属すると云えなくも無いかも知れないけど、でもそうでもないようだし」
「その辺は曖昧な訳ね」
「そう。はっきりした区分として経理部とか経理課があるんじゃないようだよ」
「業務部も無いのね?」
「無いよ。業務の仕事は営業部関連の仕事も制作部関連の仕事もあるけど、でも、部とかどちらかの部の下の課として厳密に区分けされているんじゃないからね」
 若し業務部と云う部署が存在するとすれば、あの羽場さんが業務部長と云う事になるのかも知れませんが、どう考えてもそれは無い話しでありましょう。
「経理と同じような括りね」
「そう云う事になるかな。まあ総勢十一人、社長も勘定に入れたら十二人の零細企業だし、そうやたらと部だの課だのと区分していても無意味だろうからね」
(続)
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あなたのとりこ 54 [あなたのとりこ 2 創作]

「へえ。俺の方は高校時代に増田とは全然交流が無かったから、羽場が同じ大学に進学していたなんて今の今まで露とも知らなかったよ」
 頑治さんはここで夕美さんに対してさん付けを止めるのでありました。中学生の頃は呼び捨てであったからこの方がより親しみを籠められるだろうと云う判断でありました。
「同じ大学だし同じ文学部なんだから、何時かキャンパスで逢う事もあるかもって思っていたけど、結局四年生になった今の今まで唐目君に逢う事は無かったわね」
「羽場も文学部なのかい?」
「そうよ、史学科の考古学専攻」
「ふうん。考古学、ねえ」
 頑治さんは地理学科なのでありました。同じ文学部とは云え、専攻が違うと全く顔を合わせる機会も無い場合だってあるでありましょう。
「女子には似合わない専攻、だと思うんでしょう?」
「そうね、あんまり聞かないね」
「考古学教室の中でも女子はあたし一人だもの」
 元来、頑治さんと夕美さんの通っている大学は男子学生の方が女子より圧倒的に多い大学として有名でありました。文学部に関しては他の学部よりは在籍女子の比率が高いのではありますが、それでも割合としては二割程度と云う通説であります。
「仏文科とか英米文学科だったら多少は女子学生も居るだろうに、何でまた史学科の、それも一般的に女子にはからっきし人気の無さそうな考古学専攻なんだい?」
「女子には人気が無くても、あたしには人気があるのよ」
「ああ成程ね」
 そう云われれば頑治さんとしては頷くしか無いのでありました。物事の好き嫌いは人夫々でありますから頑治さんがそれに容喙する謂れは無いと云うものでありますか。
 夕美さんは頑治さんの頷きを無表情に見ながら林檎ジュースの缶のプルリングを引き開けて、それを口の上で傾けるのでありました。夕美さんのセミロングの髪の毛先の揺れと、白く長いうなじの曲線が頑治さんの目を惹き付けるのでありました。

 夕美さんが白いうなじを見せてコーヒーを一口含んで、カップを受け皿に戻すのを待ってから頑治さんが話題を変えるのでありました。
「そう云えば今度の会社の中に、夕美と同じ苗字の人が居るんだぜ。字の方は、刃物の刃に葉っぱの葉と書くんで違うけど」
 今度は頑治さんがさして白くも長くもないうなじを曝してコーヒーを一口飲んで、その後カップを下に置くのを待ってから夕美さんが応えるのでありました。
「ふうん。比較的珍しい名前なんだけどね」
「うん。奇遇にもね」
「どんな人?」
「俺と同じ業務仕事の先輩なんだよ」
(続)
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あなたのとりこ 53 [あなたのとりこ 2 創作]

「ひょっとして唐目君じゃない?」
 頑治さんは後ろを振り返るのでありました。見覚えのあるような、無いような女の顔が頑治さんを見下ろしているのでありました。頑治さんの顔が無表情の儘である事に少し気後れしたように、女は不安そうに眉宇を寄せて及び腰を見せるのでありました。それが大学四年生の時の頑治さんと夕美さんの再会の風景でありました。
「判らない、あたしの事?」
「ええと、何処かで逢った事があるような気もするけど。・・・」
「夕美よ。羽場夕美。ほら、中学校で同級生だった」
 頑治さんはその名前は憶えているのでありました。しかし中学生の頃の夕美さんの面影が今目の前に居る女の顔となかなか重ならないのでありました。
「ああ、羽場さんか。名前は憶えているよ」
「顔は忘れた?」
「いや、忘れてはいないけど、でもなんと云うのか、・・・」
「中学生の頃の面影は全然無い?」
「うん。ええと、詰まり、羽場さんはこんなに綺麗だったっけ?」
 これは別に頑治さんのお追従でも女の気を引こうとする作為的な言辞でもなく、偽らざる感想なのでありました。夕美さんの頬が思わずと云った具合に弛むのでありました。
「随分お久しぶりね」
 夕美さんはそう云いながら頑治さんの横の椅子に座って、両手で持っていた四角い銀盆をテーブルの上に置くのでありました。銀盆には大盛りにした野菜サラダとロールパンが一つ、それに小振りな缶の林檎ジュースが載っているのでありました。
「どういう訳で羽場さんがここに居るんだい?」
 銀盆を置く時に少し俯いたものだから夕美さんのセミロングの髪の毛がやや前に揺れて、その時ほんの少し覗いた白い耳朶に向かって頑治さんが訊くのでありました。
「だってここの学生なんだもの」
 夕美さんは頑治さんに顔を向けて云うのでありました。髪の毛の先が躍って夕美さんの口元に掛かるのでありました。白い耳朶が頑治さんの視界から消えるのでありました。
「あれ、そうだったの。今までちっとも知らなかったよ」
「あたしは知っていたわよ、唐目君が同じ大学の学生だって事は」
 夕美さんはフォークを取り上げて野菜サラダの山の斜面に突き刺すのでありました。引き抜いたフォークの先で赤いプチトマトが連れ出されて来るのでありました。
「ふうん、でも何時知ったんだい?」
「消息は東高の増田押絵から聞いたわ、高校を卒業してすぐに」
 この増田押絵も中学の同窓生でありました。増田押絵は頑治さんと同じ、郷里の東高校に進学したのでありました。一年生の時に同じクラスになったのでありましたが、その後はクラスも別で、高校生時代に頑治さんは殆ど交流を持つ事は無かったのでありました。因みに、夕美さんはミッション系の女子高校に進学したのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 52 [あなたのとりこ 2 創作]

「昨日の続きだけど、会社の方は長く勤められそうな感触なのね」
 注文したコーヒーが来て、夕美さんは一口それを口に含んで暫く口の中でその香りと苦味を味わってから、ゆっくりと飲み下した後に頑治さんに訊くのでありました。
「仕事は単純と云えば単純だからそう難しい事は無いね。でも扱っている商品が色々あるからそれを覚えたり、その商品を作るための材料類を掌握するのに少し時間が掛かりそうだけどね。でも、それも慣れれば多分そう煩雑な事はないと思うよ」
「お給料は良いの?」
 夕美さんは昨夜電話で話さなかった点をここで訊ねるのでありました。
「今までのアルバイトに比べれば格段に良いかな。住宅手当も付くし雇用保険とか健康保険とか、そう云うのもあるようだし、待遇はかなりマシと云えるんじゃないかな」
「それはそうよね、正社員なんだから」
「まあ、保険料は給料から引かれるけどね」
「でも会社負担があるから全額じゃないし。それに厚生年金も付くんでしょう?」
「そうだね。でもその分、また手取り額が減るけど」
 頑治さんは就職面接時に土師尾営業部長から聞いた事を其の儘話すのでありました。そう云えば昨日の初出社日には、そう云った雇用条件の話しは土師尾営業部長の方からは特段出ないのでありました。もう面接の時にちゃんと話しているから殊更無用と云う心算なのでありましょうか。そう云えば初出社日である昨日ではなく、今日の帰り際に就業規則なる三枚綴りの紙切れを土師尾営業部長から事の序と云った感じで渡されたのでありました。でありますから、それは未だ頑治さんはちゃんと読んではいないのでありました。
「そう云えばこんなものを渡されたよ」
 頑治さんはズボンの尻ポケットから四つ折りにしてある、先程貰った就業規則なる紙切れを取り出して優美さんに渡すのでありました。夕美さんはそれを受け取ると暫く目を落として、熟読と云う程ではないながら黙読しているのでありました。
「まあ、ごく一般的な事がサラっと書いてあるわね」
 夕美さんはそう云ってその紙を頑治さんに返すのでありました。「一応帰ってから頑ちゃんも良く読んでおいた方が良いとは思うけど」
「うん、後でつるっと読んでおくよ」
 頑治さんは返された紙をまた四つ折りにして尻ポケットに捩じ込むのでありました。

 混み合った学食の片隅の席でカレーライスを食い終った頑治さんは、先程入り口付近で青ヘルメットを被った学生に渡された藁半紙の政治ビラを尻ポケットから取り出すのでありました。学費値上げがどうの全学ストがどうのと嫌に角ばった文字が並んでいるのでありましたが、頑治さんはそのビラを丸めて食い終ったカレー皿の横に放るのでありました。渡されたビラをその場で即座に捨てるのも何やら無礼過ぎる気がしたものだから億劫ながら一応折り畳んで尻ポケットに突っ込んでいたのでありました。頑治さんが丸めた紙とカレー皿を持って立とうとした時、後ろに誰かの立つ気配がするのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 51 [あなたのとりこ 2 創作]

「判ったわ、レモンね」
「あそこなら若しどちらかが時間に遅れてもコーヒーを飲みながら待っていられる」
「それもそうね。でもあたしは屹度遅れないわ」
「俺も遅れないようにするよ」
「じゃあ、明日」
「うん。じゃあ、明日」
 頑治さんは夕美さんが受話器を置く音を聞いてから電話を切るのでありました。

   夕美さん

 その日は定時で帰る事が出来たものだから頑治さんは三省堂書店や冨山房書店、それに東京堂書店を回って一時間程時間を潰してから喫茶店のレモンへ向かうのでありました。店内には夕美さんの姿は未だ無いのでありました。
 頑治さんは奥まった席に座るとコーヒーを注文して、先程買った、十九世紀終わりの年にウクライナで生まれたポーランド人の小説家の短編集を開くのでありました。取り立てて読みたいと云う作家ではなかったものの、偶々手に取った序と云った具合に買って仕舞った本でありました。この人は青春のただ中でロシア革命に遭遇し、その後の新生ソヴィエト連邦の文化状況を生きた、まあ結局は不遇の小説家なのでありました。
 最初にある『愛』と云う短編の中の二頁目“リョーリャはやってこない。庭園での彼の滞在は長引いた。”と云う段まで読み進んだ時に先程注文したコーヒーが頑治さんのテーブルに遣って来るのでありました。頑治さんは本から目を離してコーヒーカップを取り上げるのでありました。夕美さんの方は未だ遣って来ないのでありました。
 その夕美さんはほぼ正確に六時半に喫茶店の扉を押し開いて姿を見せて、中の様子を窺ってから奥まった席に座っている頑治さんを見付けて、小さく手を上げて合図を送って来るのでありました。釣られるように頑治さんも手を上げて見せるのでありました。
「早かったじゃない」
 夕美さんは頑治さんの対面の椅子に腰掛けながら云うのでありました。
「今日は終業間際に梱包仕事とか入ったりしなかったから、定時に帰れたんだよ」
「そうすると、ここで随分待ったの?」
「いや、本屋で時間を潰していたからそうでもないよ」
 そう聞いて夕美さんは頑治さんが左手に持っている三省堂書店の紙カバーに包まれた本に視線を移すのでありました。しかしすぐに目を頑治さんの顔に戻すのでありました。夕美さんはそれが何の本なのかは特に頑治さんに問い掛けないのでありました。
 近寄って来た店のアルバイトと思しきエプロンをした若い女に、夕美さんは頑治さんが飲んでいるのと同じブレンドコーヒーを注文するのでありました。若い女が無言で頷いて立ち去ってから頑治さんは持っていた本を椅子の上に置くのでありました。最初の『愛』と云う物語はごく短いものだったから頑治さんはもう読み終えているのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 50 [あなたのとりこ 2 創作]

「ふうん。ま、そう云う事もあるわね」
 夕美さんはあっさり納得したようでありました。「で、どう、初出社の感想は?」
「そうねえ、今までやって来たアルバイトの感じとそう変わらないってところかな」
「ああそう」
 頑治さんの冷めた云い草を聞いて、夕美さんの声には何処かがっかりしたような色合いが窺えるのでありました。
「この先暫く働いてみないと、良い就職だったか悪い就職だったかは判らないけど」
「それはそうよね。でもそう云う風に云うところを見ると、これから先ずっと勤められそうな感触は持てたって事かしらね?」
「そうだね。今日の初出社でいきなりこりゃダメだと云う気にはならなかったかな」
「業績とかは堅実なの?」
「それは今の段階で未だ良くは判らない。でも今日接した社員の間には切迫した業績への不安は特に無かったように思ったけどね」
 頑治さんは袁満さんの穏やかそうな顔を思い浮かべるのでありました。
「社員の人達とは上手くやって行けそう?」
「多分大丈夫じゃないかな。取り立てて灰汁の強い人は居ないみたいだし」
 とは云うものの、業務仕事の先輩である刃葉さんはちと癖の強い方かなと頑治さんは考えるのでありました。それに片久那制作部長も食えない人のようでありますし。
「じゃあ、まあ、今日の段階では上々と云う感触?」
「まあ、中の上、いや中の中と云った辺りかな」
「可も無く不可も無いってところ?」
「今までの学校やアルバイト先でも色んな人が居たし、そのキャラクター幅の中から極端にははみ出る人は居なかったってところかな」
「ああ成程ね」
 こんな曖昧な云い回しの説明で夕美さんは本当に成程と思ったのかのかしらと頑治さんは少し疑うのでありましたが、まあそれはそれとして。
「ところで明日逢えるかな?」
 頑治さんは話頭を曲げるのでありました。
「そうね、昼の三時以降は講義も無いから多分大丈夫だと思うけど」
「今日の首尾は電話では良く話せないから逢って話すよ」
「そうね。その方が良いわね。頑ちゃんは明日大丈夫なの?」
「多分六時、いや六時半には退社出来ると思うよ」
 今日の就業時間後に急な梱包と発送の仕事があったことを踏まえて、頑治さんは無難な辺りを提示するのでありました。
「判った。じゃあ六時半に御茶ノ水駅の改札辺りで待ちあわせる?」
「いや、レモンにしよう」
 レモンと云うのは喫茶店の名前でありました。
(続)
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あなたのとりこ 49 [あなたのとりこ 2 創作]

「刃葉さんは身体の軸を創るためにバレエをやっている、なんて云っていましたよ」
 均目さんが少し真面目な顔で話題を刃葉さんの事に戻すのでありました。
「つまり、矢張り、武道的な動機からバレエをやっているんですかね」
 頑治さんがそちらの話題に乗るのでありました。
「本人としてはそう云う心算らしい」
「どうだかね」
 日比課長はあくまで懐疑的なのでありました。「若い女のレオタード姿を見たくってバレエ教室に通っている、と云うのはあまりに体裁が悪いからそんな尤もらしい理由を付けているだけで、俺はスケベな了見の方が刃葉君の本当の理由だと思うね」
「まあ、本人じゃないから俺も実際のところははっきりとは判りませんが」
 均目さんはそう云ってから、先程袁満さんが追加注文したたこ焼きが丁度テーブルに来たのを一つ、爪楊枝で刺して口の中に放り込むのでありました。

 頑治さんの歓迎宴会だから、と云う理由で先の居酒屋での一次会同様ここでの割り勘払いも頑治さんは免除されるのでありました。頑治さんは恐縮と感謝を表しながらそれに甘えるのでありました。実際この月は懐具合が心許なかったので大助かりでありました。
 新宿駅で三人と別れた頑治さんは中央線で御茶ノ水駅まで帰るのでありました。話しに依れば日比課長と袁満さんは池袋に出てそこから東武東上線で、均目さんは京王線でそれぞれの住まいに帰るのだそうであります。日比課長は板橋区の成増に家族四人と住んでいるそうで、袁満さんはその先の埼玉の朝霞でアパートの一人暮らしだそうでありますし、均目さんも京王線の千歳烏山駅近くのアパート住まいだそうであります。
 件の四人の中では頑治さんが一番会社に近い処に住んでいると云う事になるのであります。何と云っても歩いて通えるのでありますから。と云う事は当たり前の事として頑治さんは通勤交通費を会社から貰えないのでありましょうが、それはちと残念な気がするのでありました。通勤定期券があれば、例えば休日に何処かへ出掛けるにしても幾らか電車賃を得する場合もあるでありましょうから。いやまあ、それは如何にもさもしい根性と云うべきかと頑治さんはそう云った事を考えるでもなく考えながら、左右の足を互い違いに暫く前に出していると直に本郷給水所傍の自分のアパートに帰り着くのでありました。
 玄関ドアの鍵を回していると中から電話のベルの音が聞こえて来るのでありました。この電話は屹度羽場夕美さん以外ではなかろうと直感して、頑治さんは急いで部屋の中に飛び込むのでありました。趨歩で電話機の前に進んで受話器を取り上げると、果たして夕美さんのもしもしと云う少し尖った声が聞こえて来るのでありました。
「随分遅かったのね」
 由美さんの声はほんの少し怒っているようにも聞こえるのでありました。「八時頃から時々電話を入れていたけど、ちっとも出ないんだもの」
 頑治さんは腕時計を見るのでありました。もう十一時を回っているのでありました。
「ああご免。歓迎会と云う事で会社の人達と飲んでいたんだよ」
(続)
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あなたのとりこ 48 [あなたのとりこ 2 創作]

「ああ、今年になって空手道場に通い出したらしいな」
 袁満さんも胡瓜の細切りスティックを摘むのでありました。「刃葉さんはウチの会社に入る以前から柔道と合気道の道場に通っていたんだよ。その二つは黒帯らしいし、去年はそれに加えて居合の道場にも通い始めたらしい」
「へえ。武道が好きな方なんですね」
「それにもう一つ、武道じゃないけどバレエの教室にも行っているらしい」
 均目さんがこちらも胡瓜のスティックを取りながら補足するのでありました。
「バレエと云うと踊りのバレエですか?」
「そう。VじゃなくてBの方」
「多才なんですね」
 刃葉さんにはバレエは如何にも似付かわしくなかろうと、その体育会系の容姿を思い浮かべながら頑治さんが複雑な笑いを作って感嘆して見せるのでありました。
「多才、と云うのじゃないだろうな。単に多趣味と云うのか気が多いと云うのか」
「しかしそんなに習い事をやっていると、毎日忙しいですねえ」
 頑治さんがもう一本胡瓜のスティックを取るのでありましたが、それが最後の一本でありました。これで粗方の酒の摘みは無くなるのでありました。
「そうね。朝からそっちに気持ちが向いているから、仕事に余計身が入らないんだ」
 袁満さんがそう云いながらメニュー表を取り上げるのでありました。
「しかし刃葉君がバレエの白タイツを穿いている姿は、あんまり見たくないねえ」
 日比課長が顰め面をして見せるのでありました。それは実見してみなければ判らないのではありますが、確かに刃葉さんはバレエの衣装よりは空手や柔道の稽古着の方が遥かにお似合いであろうと頑治さんも考えるのでありました。
「どう贔屓目に見ても、あの人はバレエと云う体型じゃないよ」
 袁満さんがその白タイツ姿を想像したのか、吹き出しながら云うのでありました。
「若い女の子のレオタード姿を見るのが目当てなんじゃないのかね、本当は」
 日比課長が卑俗な笑い声を立てるのでありました。
「いやでも、刃葉さんは女には興味が無いように見えるけど」
 袁満さんが異を唱えるのでありました。
「あれは興味が無いんじゃなくて、恐ろしくシャイなものだから無関心な風に必死に繕っているだけだろう。体裁上しれっとして実は一生懸命隠しているけど、本心では女の事が気になって気になって仕方がないんだよ。刃葉君は典型的なむっつりスケベタイプだね。その点、袁満君はあっけらかんとしたお人好し的スケベだから未だ許せるけどね」
 日比課長はそう断じるのでありました。
「そう云う風に褒められてもちっとも嬉しくないね」
 思わぬとばっちりを蒙った格好の袁満さんが口を尖らすのでありました。
「別に褒めた心算はないよ」
 日比課長はあくまで袁満さんをからかい半分にあしらうのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 47 [あなたのとりこ 2 創作]

「いや、そうでもないな」
 均目さんが首を振るのでありました。「言葉の端々から窺っていると片久那制作部長はあんまり、山尾さんの事を買ってはいないような気配だよ」
「そうなんですか?」
「何か物足りないヤツ、と云ったように感じているんじゃないかな」
「それは仕事の上で、と云う事でしょうか?」
「まあ、仕事でも、その人間的在りようでも」
「人間的在りよう?」
 それは全否定とも取れる云い方だと頑治さんは思うのでありました。
「万事に今一つ甘っちょろいと思っているんじゃないかな」
「甘っちょろい、ですか?」
「何となくやる事為す事総てが不徹底な印象があるような感じかな」
「それにどちらかと云うと陰気な感じがする」
 日比課長が口を挟むのでありました。「細かい事にうじうじと拘ったり、別に何て事無く聞き流せば済むような話しを聞き流せなくて執拗に食い下がったりする傾向がある」
「そう云う日比さんは、ちゃんと拘らなければいけないものも、チャラチャラと冗談めかして誤魔化して仕舞う傾向があるけどね」
 袁満さんが日比課長に遠慮がちな口調で繰り言するのでありました。
「ああそうかい。でもこの世の中、大概はそうやって遣り過ごせばそれで済む事が殆どじゃないかい。妙に深刻振ると大体に於いて話がややこしくなる」
「でも日比さんの場合もうちょっとくらいは色々締まりがある方が良いとおもうけど」
「俺だって締めるところはちゃんと締めているさ。その締め方が手際が良くてスマートでさり気無いから傍目にはそう見えないかも知れないけどね」
「よく云うよ」
 袁満さんがげんなり顔をするのでありました。その袁満さんを煙に巻くように哄笑しながら日比課長は、もうすっかり冷めて仕舞ったビザを一切れ口の中に放り込んでくちゃくちゃと音を立てながら咀嚼するのでありました。
「物事に拘らないと云えば、ウチの会社では刃葉君が一番格だろう」
 日比課長が咀嚼音の隙間からそんな事をものすのでありました。
「あの人は、もう、別格だよ」
 ここからまた刃葉さんの事に話題が移るのでありました。「拘らないと云うよりは、万事に上の空でがさつで好い加減、と云った方が良いかな」
 袁満さんもピザを一切れ頬張って、日比課長よりは控え目ながらも咀嚼音を立てて顎をせわしなく上下に動かすのでありました。
「刃葉さんは空手をやっているそうですね」
 丁度袁満さんが今口に入れたピザが最後の一切れだったので、頑治さんはその横の胡瓜の細切りスティックを摘みながら袁満さんに訊くのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 46 [あなたのとりこ 2 創作]

「袁満さんも山登りのクラブにでも入って血眼で嫁探しをしますか」
 均目さんがからかい口調で云うのでありました。袁満さんの人の好さに安心して、一つ年下の筈の均目さんも遠慮が無いようであります。
「俺は山登りとかはそんなに好きじゃないもの」
「只管、女が好きなんだもんなあ」
 日比課長が横から戯れ言で混ぜ返すのでありました。
「山登りとか、健康的で良いじゃないですか」
 均目さんがやや太り気味の袁満さんの体を背凭れに少し身を引いて、俯瞰するような目付きをしながら云うのでありました。
「まあ、ハイキング程度ならね。山登りのために体を鍛えたりするのはどうもなあ」
「山尾さんは体を鍛えているのですか?」
 頑治さんが訊くのでありました。
「そうだろうな。時々トレーニングジムに通っているみたいだし」
「山登り一直線といった感じですね」
「山尾君はあれで他に趣味も無さそうだしなあ」
 日比さんが三杯目の水割りを、今度は均目さんに任せずに自ら作りながらいうのでありました。均目さんが先程作ったのよりはより濃い色をしているのでありました。
「時々、山登りに行きたいと云う事を云うのに、山が俺を呼んでいる、とか聞いているこっちがちょっと鼻白むような気取った、しかもありふれた科白を吐いたりする時があってげんなりするけど、まあ、山登りのためなら結構ストイックな方かな」
 この均目さんの科白には一種の皮肉が込められていると窺えるのでありました。
 山尾さんと云う人は、山男に屡ありがちな印象ではありますが朴訥で頑固で人交わりは得意ではないけれど、しかし心根の多くの部分で浪漫的な色を持った人と云うイメージでありますか。そう云う人が日比課長が云うように、吝嗇から山登りの代わりに新宿や池袋のラブホテルに彼女と通っているとは頑治さんには思えないのでありました。
「片久那制作部長も山登りをする人だよ」
 袁満さんが頑治さんにそんな情報を伝えるのでありました。
「へえ、そうなんですか」
「こっちもかなり本格派だぜ。もう今は殆ど登らないようだけど」
 日比課長が補足するのでありました。
「片久那制作部長は体格が良いから、そう聞くと如何にも、と云ったところですね」
「片久那制作部長も時々、こっちがたじろぐような気障な事を云ったりするよ」
「へえ、そうですか」
 均目さんはその云い回しから推察すると、山男なるモノは苦手のようであります。

 頑治さんは三倍目の水割りを自ら作るのでありました。
「そうすると片久那制作部長と山尾主任は気が合う関係と云う事ですかね」
(続
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あなたのとりこ 45 [あなたのとりこ 2 創作]

「ほう、山登りのクラブねえ」
「山尾さんは山登りが趣味なんですか?」
 頑治さんが遠慮がちに話しに割り込むのでありました。
「そうね。会社に入った頃は週末には必ず大きなリュックを背負って山登りしていたようだったな。ここのところは少し減っているみたいだけどね」
 日比課長が水割りグラスを傾けながら頑治さんを見て応えるのでありました。
「そりゃあ彼女が出来たのなら、山の方は減るだろうし」
 袁満さんが空いた自分のグラスに二杯目の水割りを自ら作りながら云うのでありました。見ていると大分に薄い水割りを作っているようでありますが、さっき酒には弱いと自ら云っていたのでありますから、これは均目さんに任せて濃くされるのを嫌っての事なのかも知れないと、どうでも良い事ではあるけれど頑治さんは推量するのでありました。
「でもその彼女さんは山登りのクラブで知り合った女の人なんだから、毎週末一緒に山登りに行っても良い訳じゃないですか」
 均目さんが、こちらも自分の二杯目を作りながら袁満さんの説に異を唱えるのでありました。その水割りは袁満さんのよりは随分濃い琥珀色をしているのでありました。
「ああそうか。それもそうだなあ」
 袁満さんが均目さんの異論に自説をあっさり引っ込めるのでありました。
「山で乳繰り合うよりも、互いの家とか新宿のこの辺やら池袋の安ラブホテル辺りにしけ込む方が金もそんなにかからないし簡単で良いんじゃないの」
 日比課長が卑俗な笑い声を立てるのでありました。
「何時もスケベ一直線の日比さんじゃあるまいし、そんな理由で山登りを減らしているとは思えないけどなあ。将来の結婚のために出費を控えているのかも知れない」
「山尾君は結構体裁を気にする方だからそんな理由は噯にも出さないけど、でも案外本音はそう云ったところかも知れないぜ」
 日比課長はあくまで卑俗に笑いながら自説に拘るのでありました。
「山尾さんが結婚されるのは何時頃なのですか?」
 頑治さんが均目さんに訊くのでありました。
「確か今年の末頃とか云う話しだけど」
「へえ。まあ目出度い話しですね」
 頑治さんも均目さん程度に濃い水割りを自ら作りながら云うのでありました。
「両部長と俺以外、ウチの会社の若い者で所帯持ちになるのは山尾君が最初だな」
 日比課長が袁満さんの方に意趣有り気な視線を送るのでありました。「人一倍結婚願望が強いヤツの方は、一体どうなっているんだい?」
 そう云われて袁満さんはグラスを口に当てた儘苦笑するのでありました。
「こればかりは縁のものだからね」
「縁も黙って待っているだけじゃ何処にも生まれないぞ。呑気にしていないで自分からガンガン意欲的に行かないと、何時まで経っても寂しい一人暮らしの儘だぜ」
(続)
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あなたのとりこ 44 [あなたのとりこ 2 創作]

 新宿に出ると寄席の末廣亭近くの雑居ビルの、日比課長と袁満さんが時々通っていると云う洋風居酒屋に四人は入り込むのでありました。先ずは若いウエイターの男に人数を聞かれて、四人掛けのボックス席に案内されるのでありました。その店には袁満さん名義でウイスキーボトルがキープされていて、後はレーズンバターやら野菜スティックやらミックスピザやらのつまみ物を適当に頼んで、四人での二次会が始まるのでありました。
「山尾君は、冗談も洒落も通じない相変わらずの堅物で参るね」
 日比課長が水割りのグラスを傾けながら云うのでありました。
「酒量は結構すごいけど、あれですぐに酔っちゃうからね」
 袁満さんがそう受けるのでありました。日比課長に対してもうすっかりざっくばらんな言葉遣いで、日比課長の方もそれを不愉快そうにもしないところを見ると、これが二人のインフォーマルでの常態なのでありましょう。
「酔うとくどくなるからすぐ判る。本当はあんまり酒に強い方じゃないんだろうな」
 日比課長は一杯目の水割りグラスを口を突き出しながら最終角度まで傾けるのでありました。「まあ、そう云う袁満君も酒には強い方じゃけどな」
 均目さんが空いた日比課長のグラスを受け取って二杯目を作るのでありました。
「俺は大体が酒は好きな方じゃないもの。付き合い程度には飲むけどさ」
「饅頭とかチョコレートの口だな。ああ、それと女」
 日比課長がからかうのでありました。
「女ったって、そんなにモテないもの俺は」
「知ってるよ。でもこよなく好きではあると」
 袁満さんはそう云われても苦笑っても否定はしないのでありました。
「女好きなら日比さんの方が俺よりすごいじゃない。モテないのは同じだけどさ」
「いや、俺はそこそこモテるよ」
「金を遣ってモテるのは本当にモテると云うのとは違うし」
「袁満君はケチで金も遣わないから尚更モテないんだぞ」
「大きなお世話だよ。金使ってまでスケベ親父の評判は取りたくないもの」
 袁満さんはここは少し熱り立つのでありました。そう云うところを見ると、袁満さんは本当にケチなのかも知れないと頑治さんは冗談半分ながらに思うのでありました。
「ところで山尾さんが近々結婚する、と云うのは知ってますか?」
 均目さんが話頭を曲げるのでありました。
「いや、それは初耳だな」
 袁満さんが大袈裟に身を乗り出すのでありました。
「良くは知らないけど、何かそんな話しを甲斐さんから聞いた事があるかな」
 日比課長はそう云いながら、まるでつり合いを取るために袁満さんが身を乗り出した分を差し引くように椅子の背凭れに身を引くのでありました。「その相手の女と云うのは、名前とかどんな人なのかとか、均目君は知っているのかい?」
「いや、良くは知りませんが、何でも山登りのクラブで知り合った人だとか」
(続)
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あなたのとりこ 43 [あなたのとりこ 2 創作]

「ああそう? 何かちょっとくどくなってきたようだからさ」
「くどくなんかなっていませんよ!」
 山尾主任はあくまで抗議するのでありました。日比課長はちょっと持て余すような苦笑いを浮かべて山尾主任から視線を外すのでありました。
 袁満さんと均目さんはこの遣り取りを傍観しているのでありました。しかし冷ややかに無視していると云うのではなく、自分如きが嘴を挟むのは遠慮しておこうと云う、謹慎を装って非当事者である立場をあくまで確保しておこうとする一種の保身と、面倒臭がりがその態度に徹する心持ちの大半でありましょう。頑治さんもそっちの口であります。
「山尾君、そのくらいにしておけよ。日比さんは軽い冗談で酔ったのかと云っただけなんだから。それにここに居ないヤツの事を何やかやと論うのはフェアじゃないだろう」
 片久那制作部長が酒の入った升を鼻の位置に上げ持って、その上から覗く眼鏡越しの目をやや厳めしくして窘めるのでありました。これはなかなかに迫力のある目と声音とタイミングでありました。山尾主任は明らかにたじろぐのでありました。
「・・・判りました。確かにフェアじゃないからもう止めます」
 山尾主任は意地から、オドオドと云った態に見えないように片久那制作部長の顔に向けていた視線を外して、手にしていたビールのコップをグイと空けるのでありました。
 何となく場の空気が重くなったものだから、少しの間会話が途切れるのでありました。しかしいつまでも重苦しい儘では折角の酒や料理が不味くなるからか、日比課長は袁満さんのコップにビールを注ぎ入れながら再び、結婚願望が強い割りに捗々しく女性にちょっかいを出さないその弱気をからかい始めるのでありました。袁満さんもそうやってからかわれるのが然程不快でもないような素振りで相手をしているのでありました。
 片久那制作部長は相変わらず無言で、口元での升の水平と傾斜の繰り返し作業に始終しているのでありましたし、山尾主任は話す相手を失ったように、こちらもビールを手酌で自分のコップに注いでは口に運んでいるのでありました。頑治さんとしては時折コップを口に当てつつそんなテーブル上の様子を眺めているしか無いのでありましたが、もう一人取り残されたような風情の均目さんと目が合って、どちらともなく二人で、まあ互いの自己紹介を兼ねたような他愛の無い会話を交わしているのでありました。

 それから小一時間ばかりでこの酒宴はお開きになるのでありました。後半は参加者全員で唄あり隠し芸ありで大いに盛り上がると云った風ではなくて、何となく夫々勝手に飲み食いしながら尻窄みに果てたと云った印象でありましたか。
 この後一人で、神田に在る馴染みの居酒屋に行くと云う片久那制作部長、それにもう帰ると云う山尾主任と別れて、残った日比課長と袁満さん、それに均目さんの三人は新宿に出て飲み直すと云う話しが纏まるのでありました、頑治さんも誘われたので、別に断る理由も無かったものだから三人と一緒に神保町駅まで歩くのでありました。この三人が何時もの気さくな面子と云う辺りでありましょうか。歩きながら聞けば、今出張に出ているもう一人の営業部の若手社員も加わって時々会社帰りに飲むのだそうであります。
(続)
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あなたのとりこ 42 [あなたのとりこ 2 創作]

「要するに、未だ子供って事だな」
 日比課長が至極簡単にそう結論するのでありました。
「或いはひょっとしたら、人が窺えないような高い志望を秘め持っているとか」
 均目さんは日比課長のコップにビールを注ぎ足すのでありました。「燕雀安んぞ鴻鵠の志を知らんや、なんて中国の箴言がありましたね」
「何だいそれは?」
 日比課長は均目さんの顔を覗き込むのでありました。
「陳渉の言葉かい」
 寡黙に升酒を飲んでいた片久那制作部長がここで急に言葉を発するのでありました。
「陳渉、と云うのは何処の誰ですか?」
 日比課長は片久那制作部長に遜った物腰で訊くのでありました。課長と部長と云うのもありはするのだろうけど、日比課長の言葉遣いには片久那制作部長に対する畏怖が籠っているように頑治さんには聞こえるのでありました。歳は日比課長の方が明らかに上でありましょうが、片久那制作部長には一目も二目も置いていると云った風であります。
「大昔の中国の、秦に対して最初に反乱を起こしたヤツだよ」
 片久那制作部長の物云いは恰も鴻鵠が、侮っている雀に向かって云うような調子でありましたか。それは聞きように依っては長幼の順を弁えない無礼な言葉遣いにも聞こえるのでありましたが、まあ、ざっくばらんの仲と云うのかも知れませんが。
「どう見ても大志があるようには見えないけどね」
 山尾さんが割り込むのでありました。「単に考えが幼稚なだけだね。それに万が一刃葉君に大志があったとしても、だからと云って仕事を疎かにしたり、不注意から大ポカをやらかして良い筈はない。そうでしょう、部長?」
 山尾さんは片久那制作部長の方を向いて至極真面目に問い掛けるのでありました。
「さあね」
 片久那制作部長は山尾主任の問いかけに対して有耶無耶に、応えるでも応えないでもないような無愛想な云い草をして、また升酒の嚥飲に没頭するのでありました。この鮸膠も無いような片久那制作部長の態度に山尾さんは少し気色ばむのでありました。
「部長は倉庫の様子を知らないから、刃葉君の好い加減さの被害が判らないんですよ」
「そうでもないよ」
 片久那制作部長はクールにあっさり、山尾主任の方に顔を向けるでもなく手にした升から視線を逸らす事無くそう返すのでありました。山尾主任の食い下がりが億劫そうであります。この冷淡で真面目に取り合わないような対応に山尾主任は益々熱り立つような素振りを見せるのでありましたが、日比課長がそれを宥めに掛かるのでありました。
「まあまあ山尾君、そんなに興奮するなよ。もう酔ったのかい」
「酔ってなんかいませんよ!」
 山尾主任は如何にも興奮気味に日比課長に食って掛かるのでありました。酔っていないと云うヤツは大体に於いて酔っているものだと頑治さんは秘かに思うのでありました。
(続)
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