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あなたのとりこ 78 [あなたのとりこ 3 創作]

 そう聞いて頑治さんは呆れ顔を均目さんに向けるのでありました。
「実は今日の宇留斉製本所行きだけど、多分近道をしようと考えたのか羽葉さんが、池袋方面に向かう表街道じゃなくて裏道に途中でハンドルを切ったんだよ。すると進路に迷って街道を行くよりかなり無駄に時間が掛かって仕舞ったんだ」
 均目さんは喋り始めた頑治さんの顔を上目に見ながら一つ頷くのでありました。
「ああ、よくあるあの人の無意味な行動の一つだね。屡そうやって無駄な時間を使っているよ。何時も道に迷っているんだから好い加減道路事情に詳しくなっても良さそうなものだけど、上の空で運転しているからちっとも道を覚えない。相変わらず同じ道で迷っている。近道をしようと云うせっかちだろうけど、近道になった例がない」
「あれがなければ三十分は早く宇留斉製本所に着いた筈だな」
 頑治さんは顰め面をして見せるのでありました。「帰りも同じ轍を踏んで時間をロスするし、それは未だ百歩譲って許そうと思えば許せるけど、十一時半には、就業時間内だと云うのに何処かで昼休みをして行こうと提案されたんだ」
「誰かの監視の目が無いと、あの人はそう云う緩々なところがある」
「律義とかそう云う気持ちは俺も特には無いんだけど、流石に三十分も早く昼休みに入るのは気が引けたから、そこは少し抗弁したんだ」
「五分前ならまだしも、三十分前となると正真正銘のサボりだもんなあ」
 均目さんは口に入れた鯖の切り身に小骨が付着していたらしく、暫し口をモグモグとさせてからその骨を指で唇から摘み出すのでありました。
「まあ、そうしたら俺が生真面目なヤツだとか皮肉を云ってそれは諦めたようだけど、今度は明らかに私用で後楽園近くの武道具店に立ち寄って買い物だ」
「まあ、公私の区別に全く無頓着なあの人らしい行動だな」
「それで許されるのかな」
「許される訳じゃないけど」
 均目さんは味噌汁を一口飲むのでありました。
「いや俺も、ここで刃葉さんを糾弾しようという魂胆は無いんだけど、あんな仕事振りを会社はずっと許しているのかと思ってさ」
「別に許してもいないけど、刃葉さんは注意されても上の空だから云っても無駄と云うところかな。山尾さんなんかは時々注意しているようだけど、改める気も更々無さそううだしね。羽葉さんは心根の内では山尾さんの事を侮っているようだしね」
「片久那制作部長はそんな刃葉さんの不届きを知らないのかな」
「まあ、気付いてはいるだろうけど、億劫なのか知らん振りだな」
「土師尾営業部長は?」
「あの人は自分の体面とか損得以外は何に付けても無関心だから」
「でも、刃葉さんの直接の上司だろう?」
「要するに怖いんだろうな、刃葉さんの事が。何を考えているのか知れないところがあるから、ひょっとして刃葉さんのご機嫌に障ったりしたら殴られるかも知れない」
(続)
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あなたのとりこ 77 [あなたのとりこ 3 創作]

 片久那制作部長が頑治さんに訊くのでありました。
「昼食に行かれました」
「唐目君に納品書を渡して、自分は仕事完了の報告もしないでかい?」
 はいそうですと応えるのも何となく憚られるので、頑治さんは頷かずに口元に笑いを作って返答の代わりとするのでありました。
「相変わらず無責任だなあ」
 片久那制作部長は舌打ちしてからまた弁当の方に取り掛かるのでありました。
「昼飯は当然未だだろう?」
 均目さんが立ち上がりながら頑治さんに話し掛けるのでありました。
「ええ、未だです」
 頑治さんは竟々丁寧語で応えるのでありましたが、均目さんには同い歳なのだからお互いざっくばらんなため口でいこうと云われているのでありました。しかし態々もう一度ため口で言い直すのも間抜けな振る舞いと云うものでありますか。
「じゃあ、一緒に何処か食いに行こうか?」
 頑治さんは頷いて二人で事務所を出るのでありました。
 お茶の水、神保町、それに猿楽町近辺は昼食時はどの飲食店も混んでいて、十二時を少し出遅れただけでも行列に並ばないとなかなか食事にありつけないのでありました。入社して一年の均目さんよりは頑治さんの方がこの界隈に詳しかったものだから、ちょっと汚い店だけどと断って、頑治さんは均目さんを以前から偶に利用していた常時人影もあまり無いような路地裏に在る、暖簾も目立たない小さな定食屋に案内するのでありました。
「へえ、こんな店があったんだ」
 均目さんは初めて入ったその定食屋のカウンター席だけの狭い店内を珍しそうに眺め渡しながら、頑治さんと出入り口近くの椅子に並んで座るのでありました。
「それに他の店に比べると値段も安いよ」
 頑治さんはここは少しぞんざいなため口を使うのでありました。
「流石に大学時代からこの辺をうろついているだけの事はあるなあ」
「神保町郵便局とか運送屋の集配所は迂闊にも全く知らなかったけどね」
「そう云う所は学生には縁が薄いだろうしね」
 二人揃って塩鯖切り身の焼き魚定食を食いながら、均目さんは味もなかなかいけるし、良い店を教えてくれたと頑治さんに畏まらない謝意を表するのでありました。
「宇留斉製本所に行った時、刃葉さんは何時もは何時頃帰って来ていたのかな?」
 頑治さんは口から離した味噌汁碗を置きながら訊くのでありました。
「そうねえ、昼休み明けの午後一時頃かな」
「ああ、今日みたいに帰ってすぐに、何はさて置いても昼休みを取って、それで仕事復帰するのが午後一時と云う事になる訳だ」
「いや、午後一時頃に駐車場に車が帰って来るんだよ。それから遅い昼休みと云う事になるから、仕事復帰は午後二時からと云うのが今までの大体のパターンかな」
(続)
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あなたのとりこ 76 [あなたのとりこ 3 創作]

 明らかに頑治さん意見の方に正統性があるのは刃葉さんも判るようで、早目の昼休みは諦めたようでありました。しかし車が白山通りに曲がって後楽園遊園地の道向かいで、壱岐坂を越えた直ぐの辺りで刃葉さんは車を路肩に寄せて停車させるのでありました。
「ちょっと待っていてくれるかな」
 刃葉さんはそう云い置いて車を降りるのでありました。見ていると道沿いの武道具店の看板の下の引き戸を開けてその中に姿を消すのでありました。
 ははあ、ここに立ち寄りたいために帰り道の頑治さんの運転交代の申し出を断ったのであろうと合点がいくのでありました。頑治さんが運転していたらここでちょっと車を止めろと云うのも刃葉さんとしては気後れするでありましょうし、それなら自らハンドルを操作している方が自儘に、遠慮を感じる事少なく車を武道具店の横に停止させられると云うものであります。仕事では武道具店とは縁も所縁も無いのだから、これは刃葉さんの全くの私用と云う事になるでありましょうか。頑治さんはフロントガラス越しに武道具店のアルミサッシの引き戸を見ながらやれやれと声に出して独り言ちるのでありました。
 刃葉さんは二十分程して店を出て来るのでありました。手には細長い紙包みを持っているのでありました。何かは判らないけれどそれを買ったのでありましょう。
 車のドアを開けて運転席に座ると、刃葉さんは助手席に座っている頑治さんの方を向くのでありました。何か話し掛けるのかと思いきやそう云う訳ではなく、少し口を尖らせて見せてから紙包みを変速ギアと自分の左大腿の間の隙間に置くのでありました。助手席に頑治さんが座っているものだから、多分こんな場合何時もしているように、何の気無しに紙包みを助手席に放り投げる事が出来ないのを忌々しく思ったのでありましょうか。

 結局猿楽町に在る会社の倉庫前駐車場に車が滑り込んだのは、十二時を十五分程回った頃になるのでありました。羽葉さんは引き取って来た荷を車から下ろしもせずに運転席のドアを外からバタンとぞんざいに閉めた後、そそくさと昼食を摂るために何処かに行って仕舞うのでありました。頑治さんは刃葉さんから託された、宇留斉製本所から受け取った納品書を山尾主任に渡すために三階の事務所への階段を上るのでありました。
「おや、今日は割と早かったなあ」
 制作部の自分の机で弁当を食していた片久那制作部長が頑治さんの姿を見て声を掛けるのでありました。遅かったなあと苦言を呈される方が妥当と思われるのに、そんな逆の言葉を掛けられると頑治さんとしては少し調子が狂うと云うものであります。
「山尾さんは昼食ですか?」
 頑治さんが訊くと片久那制作部長の代わりに、これも自分の机でこちらはようやく午前中の仕事が片付いたと云った風情の均目さんが応えるのでありました。
「印刷所に出掛けていて、未だ戻ってないよ」
 頑治さんはふうんと云った具合に頷いて、持って帰って来た宇留斉製本所の納品書を山尾主任の机の上に置くのでありました。
「刃葉君はどうした?」
(続)
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あなたのとりこ 75 [あなたのとりこ 3 創作]

 刃葉さんが急ハンドルでまた、行きがけ同様横道に入るのでありました。帰りも道に迷って無意味な時間を潰す破目になるのかと思って頑治さんは溜息を吐くのでありました。頑治さんとしてはそう云う危惧があったので帰りは自分が運転しようかと申し出たのでありましたが、羽場さんは何故かそれを断って再び運転席に座ったのでありました。
「まあ、パートの人も居なかったし仕事場が何時になくすっきりしていたから、丁度繁忙だった仕事が片付いて、一息と云うタイミングだったのかも知れないけどな」
 刃葉さんはそう憶測を述べながら細い道を右に左にハンドルを切ながら、行き道同様さして急ぐ風もなく帰りの経路を紆余曲折に取るのでありました。
 刃葉さんとしてはこうやって少しでも道程をショートカットしようと云う魂胆なのでありましょうが、結局は徒に時間を空費していると云った按配でありましょうか。この人は実はせっかちな人なのだろうと頑治さんは思うのでありました。しかしそのせっかちが多くの場合残念ながら空回りして仕舞うタイプの人なのでありましょう。
 そう云えば刃葉さんは運転中にカーラジオをかけているのでありますが、二分と同じ番組を聴かず引っ切り無しにチャンネルを変えるのでありました。少し聞いてつまらないと思ったらすぐにチューナーボタンを押して、受信出来る総ての放送局を落ち着き無く何度も渡り歩くのでありますが、これもせっかちな性分の為せる業でありましょう。
 考えてみれば柔道や合気道や剣道や空手やバレエと云ったその多趣味ぶりも、本人なりの目論見は別の処にあるにしろ、斜に視れば落ち着きの無い移り気な性格が結局のところ基になっていると思われるのであります。一つをじっくりと云う人ではないようでありますから、これでは万事が習熟の域まで達しない儘表面をつるりと撫でて終わるのかも知れません。ま、そんな事は余計なお世話だと云われればその通りではありますが。
「少し時間が早いけど、何処かで飯でも食って一時迄昼休みしていくか」
 紆余曲折の末に結局また春日通りに戻って、中央大学の理工学部近くに来た辺りで刃葉さんが頑治さんに提案するのでありました。
「未だ十一時半前ですから昼休みを取るには早過ぎじゃないですか」
 頑治さんがそう云うと、刃葉さんは頑治さんを不愉快そうな横目でチラと見て小さな舌打ちの音を立てるのでありました。
「唐目君は生真面目と云うのか、律義な性格なんだなあ」
 刃葉さんは頑治さん側の左頬に苦笑を浮かべて呟くのでありました。これは明らかに頑治さんに対する揶揄でありましょう。
「この儘走れば十二時頃に会社に戻れるじゃありませんか。態々早目に取らなくても昼休みはそれからでも構わないんじゃないですか」
「全く堅い事を云うヤツだな」
 頑治さんはその刃葉さんの言葉にカチンとくるのでありました。まるで融通の利かない朴念仁扱いであります。そうでは全くないだろうと熱り立つ気持ちを一方に、頑治さんは後々暫くの間の刃葉さんとの付き合いを考えてそこはグッと堪えるのでありました。ここで憤怒に任せて喧嘩を始めても何の得にもならない話しでありますから。
(続)
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あなたのとりこ 74 [あなたのとりこ 3 創作]

「専門学校、それとも大学?」
「大学です」
「態々大学出て最初にこの仕事に就いたの?」
「ええそうです。ま、卒業したのは去年ですが」
「最近は就職難だとテレビで云っていたけど、なかなか仕事が見つからないのかしら」
 赤Tシャツはどこか頑治さんに同情するような気色を見せるのでありました。
「選り好みしなければ何かしらの仕事は見つかります。それに僕はどちらかと云うと頭を使うより体を使う仕事の方が性に合っていますから」
「ふうん、体育会系な訳ね。で、選り好みしないでこの仕事に就いたって訳ね」
「まあ、そう云った風な按配ですかねえ」
「縁があって就職したんだから頑張ってよ」
 横に居た黒縁眼鏡が、多分然したる意味も無い愛想の心算でありましょうが頑治さんを励ますのでありました。頑治さんは黒縁眼鏡に笑いかけてお辞儀するのでありました。

 帰りの車の中で運転する刃葉さんが、前を向いた儘含み笑いを作って助手席に座る頑治さんに話しかけるのでありました。
「あのオバさん連中、唐目君を気に入ったみたいだな」
「ああそうですか」
 頑治さんも前を向いた儘無表情且つ無抑揚にそう応えるのでありました。
「俺なんかには何時でも、態とのように苛々してくるような口のきき方をするってのに、今日は何となくしおらしかったものなあ」
「宇留斉製本所はあのお三人でやっていらっしゃるのですか?」
 頑治さんは話題を少し逸らすのでありました。
「そう。三姉妹の中で一応、長女だから眼鏡のオバさんが社長と云う事になるのかな」
「地方別観光絵地図の製本がウチの仕事の中では主要なものと云う事ですか?」
「そう。あれはタイトルのある位置が各地方によって違うから、畳み方も夫々違うので機械で均一には折れないんだよ。だから宇留斉製本所で手仕事して貰っているんだ」
 地方別観光絵地図は日本を七地域に分けたA全判のイラスト地図で、表面をビニール加工してA五判に畳んで、口が玉取り加工してある厚手のビニール袋に価格等の書いてある短冊と一緒に入れた商品であります。袁満さんなんかが各地の観光地に出張して、そこのお土産屋さんとかホテルの売店とかに卸している主要な商品と云う事になりますか。
「地方別観光絵地図以外にも製本仕事を出しているんですか?」
「うん。ちょっと込み入った、機械ではなかなか出来ないような物を頼んでいるよ」
「お三人だけでやっていらっしゃるのですか?」
「いや、パートのオバさんが後何人か居るよ」
「今日はいらっしゃいませんでしたね」
「昼から来るんじゃないの」
(続)
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あなたのとりこ 73 [あなたのとりこ 3 創作]

 一人は大柄で四角い顔に黒縁の、レンズの部分が細い眼鏡を掛けていて一番地味な服装をしていて、その故かこの三人の女性の中で一番年嵩に見えるのでありました。もう一人は最初に現れた女性に小柄で太りじしの体型も顔付きも歳頃も近似していて、この二人は如何にも姉妹であると明快に判る様相をしているのでありました。容貌にも年齢にも似合っていないと頑治さんには思われるのでありましたが、金赤色の地に大きなテディーベアの絵の入った派手なダブダブのTシャツなんぞを着ているのでありました。
 二人は如何にも好奇心たっぷりの目で頑治さんを見ているのでありました。新米の若いのが来たぞと教えられて、どれどれと値踏みに遣って来たに違いないと頑治さんは推察するのでありました。無遠慮を隠さない女性達の視線に頑治さんはたじろぐのでありましたが、素知らぬ風の無表情でそのネバつく視線を遣り過ごしているのでありました。
 荷も積み終えて刃葉さんと最初に現れた女性が納品書と受領書の遣り取りをしているところに、大柄黒縁眼鏡が言葉を発するのでありました。
「この前云って置いたビニール紐はちゃんと持ってきた?」
 刃葉さんはそう云われて口を開けて驚きの表情をして見せるのでありました。
「ああそうか。済みません、忘れました」
「矢張りねえ。そうだろうと思った」
 大柄黒縁眼鏡は嘆息するのでありました。「相変わらず抜けているんだから」
「済みません」
 刃葉さんは動揺を隠すためか愛想笑いながら深くお辞儀するのでありました。「若し足りなくなるようなら今日中に持って来ますが」
「いいわよ、またウチまで往復するのは大変でしょう。来週までは何とかなると思うからこの次で良いわ。でも来週こそ忘れないで持ってきてよ」
「判りました。必ず持って来ます」
 この返事を傍で聞きながら、刃葉さんの事だからせめてメモでもして置かないとまた屹度忘れるに違いないと頑治さんは思うのでありました。
「ところで新人さんは、歳は幾つ?」
 赤Tシャツが頑治さんの方に視線を向けるのでありました。
「二十三になります」
 後々の付き合いもあるから無愛想の儘だと拙かろうと考えて、頑治さんは頬の表情筋を緩めてそう応えるのでありました。
「ふうん。刃葉君と同い歳になるの?」
「いや、俺の方が一つ上です」
 刃葉さんが横から云うのでありました。すると赤Tシャツは急に不興気な面持ちになって羽場さんの方に黒目を動かすのでありました。聞いているのは頑治さんに、であるから羽場さんはお呼びじゃないと云う慎につれない興醒めの表情でありましょう。
「その前は何やっていたの?」
「はあ、まあ、学校に行っていました」
(続)
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あなたのとりこ 72 [あなたのとりこ 3 創作]

 結局車は、拓殖大学、跡見学園、お茶の水女子大学と大学巡りをした挙句に、当初のルートである春日通りに戻るのでありました。やれやれ、始めから素直に春日通りを進んでいれば無意味に時間を費やさなくとも済んだと云うものであります。漸くに宇留斉製本所に車が到着したのは通常の二倍近い時間を要して、と云う事になるのでありました。

「お早うございます、贈答社です」
 刃葉さんはそう家の中に声を掛けながら、宇留斉製本所のかなり年季の入った木造モルタル二階建ての、一階の、道路に面したアルミの引き戸を引き開けるのでありました。一階が広さ二十畳程の製本所の作業場で二階が居所と云う造作でありましょうか。
 暫くすると二階から、小柄で首が短いのがやけに目立つ太りじしの中年の女性が大儀そうな足音を立てながら作業場に階段を下りて来るのでありました。女性は引き戸外に立つ羽葉さんをジロリと見て溜息をつくのでありました。
「何時もながら遅いわねえ」
 のっけから到着の遅い事への文句であります。「何時も云っているけど、もっと早く会社を出れば少しは早く到着するんじゃないの」
「ああ済みません」
 刃葉さんは慎に儀礼的に頭を下げるのでありました。こう云ういちゃもんはしょっちゅう頂戴しているらしく、如何にも軽くあしらうような無精な謝り様でありました。
「出来上がったのはそこに積んであるから、勝手に持って行って」
 その中年女性は引き戸脇に積み重ねてある五つの段ボール函をぞんざいに指差すのでありましたが、その時羽葉さんの後ろで車の後部ハッチから荷を下ろそうとしている頑治さんを見付けて、ヒョイと両眉を上げるのでありました。「あれ、新人さん?」
 頑治さんはその言葉に反応して女性の方に顔を向けて目礼するのでありました。
「ええ新人です。俺の後釜で唐目と云う名前のヤツです」
 刃葉さんが頑治さんを紹介するのでありました。
「ふうん。そう云えばもうすぐ刃葉君は会社を辞めるとか云っていたわね」
「はい、来月一杯で」
「唐目です。宜しくお願いします」
 頑治さんは体ごと向き直って畏まったお辞儀をするのでありました。
「なかなか良い男じゃない」
 女性は口元を歪めて科のある流し目なんぞをして頑治さんに笑いかけるのでありました。その無遠慮にどう対応して良いのか判らなかったから頑治さんは無表情の儘で目を逸らして、また荷下ろし作業を再開するのでありました。
 勝手に持って帰れと指示した後は、女性はまた二階に引っ込むのでありました。頑治さんと羽葉さんは持ってきた材料類を引き戸脇に下ろして、今度は持って帰るべき段ボール函を車に積んでいる時に件の女性がまた下に降りて来るのでありました。今度はその後ろにもう二人、同じくらいの年頃の女性を引き連れているのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 71 [あなたのとりこ 3 創作]

 白山通りを北上し講道館横を左折して車は春日通りを直進するのでありました。その儘池袋六ッ又交差点を超えて川越街道を進めば、目指す池袋四丁目に在る宇留斉製本所へは簡単なルートと思われたのでありましたが、なかなかそうは上手く問屋が卸さないのでありました。勿論この場合の問屋と云うのは運転手の刃葉さんであります。
 頑治さんは然程でもないと思ったのでありますが、刃葉さんは春日通りが渋滞していると感じたらしく車を横道に入れるのでありました。伝通院前を左折して安藤坂を越して首都高速池袋線に沿って目白通りから音羽通りを走行しようと云う魂胆のようであります。まあ、春日通りが渋滞していると羽葉さんが判断したのならこのルートも順当な選択の内ではありますが、しかしここからが刃葉さん問屋の本領発揮でありました。
 春日通りが混んでいるのなら目白通りも混んでいると見るのが順当な推測と云うものでありますし、案の定車は緩やかな走行と停止、それから程なくの発進を繰り返すのでありました。どちらかと云うと春日通りを真っ直ぐ進んでいた方がスムーズではなかったかと頑治さんは思うのでありましたが、それは口にするのを控えるのでありました。
 刃葉さんは焦れて路地に車を進入させるのでありました。路地をくねくねと曲がり進みながら護国寺まで出ようと云う目論見のようであります。
 しかしこの問屋さんときたらこの辺りの道にとんと不案内なのでありました。時々渋滞があれば前も屡こうして路地を抜けるルートを取っていたのだろうから、多分大丈夫と頑治さんも高を括っていたのでありましたがどうやら様子がおかしいのであります。羽葉さんはきょろきょろと前方広角度に首を回しながらハンドルを右に切ったり左に急転させたりで、車は阿弥陀籤のような進み方で目指すべき方向を探しているのでありました。
 頑治さんは竟に見兼ねて、脇のドアポケットに刺さっているA四判で一万五千分の一縮尺の東京二十三区道路地図帖を手に取るのでありました。
「この辺は前にも来た事があるんだけどなあ」
 刃葉さんがその頑治さんの所作に先回りの云い訳らしきを垂れるのでありました。
「さっき小学校を通り過ぎましたが、それが小日向台町小学校だと思います」
 頑治さんは地図から目を離さずに続けるのでありました。「今車は北を向いて走っていますから先を左に曲がってください。左折してその儘進むと音羽通りに出る筈です」
 頑治さんのその注進に刃葉さんは特に頷かないのでありましたが、困り果てて従う心算ではあろうと取ったのは頑治さんの早呑み込みでありました。而して何を思ったのか羽葉さんは前に現れた丁字路で右にハンドルを切るのでありました。頑治さんは思わず刃葉さんに聞こえないように小さく舌打ちするのでありました。
 案の定、車は暫し進んで丸ノ内線の線路に進行を阻まれるのでありました。
「なあんだ、だったら左に行けば春日通りに出ると思ったんだけどなあ」
 まるで頑治さんが丸ノ内線の線路の事を伝えなかったのが迂闊だったかのような口振りであります。頑治さんは、今度は少し高く舌打ちの音を立てるのでありました。それは刃葉さんも聞こえたようでありますが、頑治さんとしては刃葉さんの運転感覚に苛々していたところでありましたから、こうなればもう不謹慎も何も無いと云うものであります。
(続)
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あなたのとりこ 70 [あなたのとりこ 3 創作]

 夕美さんはまた一口ワインを飲むのでありました。「さっき食事していた時に頑ちゃんから、あたしの考古学に対する興味が少し薄れたんじゃないかって云われて、何かこのところずっと感じていた憂鬱の原因をはっきり言葉にされたような気がしたの。明らかに薄れたって実感する程の大きさじゃないんだけど、でも確かに前はウキウキして出掛けていた発掘助手の仕事も、何となく現場まで出かけるのが大儀に感じる場合もあったのね。それでも自分を鼓舞して出かけるんだけどね。出かけたら出かけたでそれは何時も通り楽しいんだけど、前よりも帰りにドッと疲れるの、体の調子がおかしい訳じゃないのに」
「ふうん」
 大した事を喋った訳ではないにしろ夕美さんの喋る低いトーンの言葉の連なりを聞きながら、頑治さんは不用意に余計な事を云ったのかなと少したじろぐのでありました。「でもあんまり深刻に考えない方が良いのかも知れないよ、今は。薄れた気持ちがまた元の濃さに回復する事もあるだろうし、今ほんのちょっと倦怠しているだけかも知れないし」
「でも、そろそろ博士課程に進むのかそれとも止すのか決めないといけない時期だし」
 夕美さんはまたワインを飲んでから小さな溜息をつくのでありました。夕美さんの持つコップの中のワインの朱色が少し揺らぐのでありました。
 ほんの暫くの間ではありますが会話が途切れるのでありました。
「今日、泊まって行こうかな」
 夕美さんがぼつりと云うのでありました。
「それは構わないけど、明日は朝が早いんじゃないの?」
「ううん、別に早くはないわ。頑ちゃんが出勤する時に一緒に出れば大丈夫」
 頑治さんとしては大歓迎な提案でありました。今夜は何となくずっと一緒に居てあげたいような心持ちがしていた矢先でありましたし。
「じゃあそうするかい?」
「うん、そうする」
 夕美さんは頑治さんの顔を見ながら笑むのでありました。心持ち頼り無さそうな沈んだ笑みに見えるのは、それはこれまでの会話の経緯からでありましょうが。

   去る人

 結局山尾主任も均目さんも当日都合が悪くなったものだから、翌週の月曜日に頑治さんを池袋の宇留斉製本所に連れて行ってくれるのは刃葉さんと云う事になったのでありました。尤も羽葉さんにとっては毎週決まった仕事の一つであったから、その序でに助手を兼ねて頑治さんを引き連れて行くと云った寸法になる訳でありますか。
 折角整理整頓した棚を刃葉さんに荒らされるのは叶わないから、頑治さんが持って行く材料類を棚から出して倉庫出入り口まで運び、それを羽葉さんが車に積み込んで出発の準備を整えるのでありました。なかなかきびきびと甲斐々々しく働く助手だと刃葉さんは思ったでありましょうが、それは頑治さんの了見を曲解しただけであります。
(続)
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あなたのとりこ 69 [あなたのとりこ 3 創作]

 頑治さんは三角形に加工してあるチーズを齧りながら云うのでありました。
「錦華小学校の付属の幼稚園かしら」
「多分そうだろう。いや俺も良くは知らないけど」
 頑治さんはそこに何が建つのか殆ど興味が無いのでありました。「でも、そのために公園がちょっと狭くなるのは何となく残念かな」
 錦華公園は平日の昼休み時間等、学生やら近所で働くサラリーマンなんかでなかなかに混み合っていて、空いているベンチが見付けられないくらいでありました。そう云えば会社の刃葉さんなんかも、未だ就業時間中にも関わらず無為に時間を潰すため錦華公園のベンチで屡転寝をしているのを見かけると袁満さんが云っていましたか。
「そうね、狭いけどあれはあれでなかなか、憩いの公園と云った感じだからね」
 夕美さんも少し残念そうな顔をするのでありました。
「ところで博士課程に行かない場合、大学院を卒業したらどうする心算なんだい?」
 頑治さんは話しの舳先を大きく曲げるのでありました。先程中華料理屋で訊いた夕美さんの話しが、何となく気に懸かっていたからでありました。
「博士課程に残らないって決めた訳じゃないから、そうしなかった後の事なんか未だ何も具体的に考えてはいないし、決めてもいないわ」
「ふうん。でもまあ、夕美の事だからそうなったらそうなったで、抜かりなく何処かちゃんとしたところに就職を決める事が出来るか」
「中学校か高校の先生になるのも悪くないかな」
 夕美さんは頑治さんに笑いかけながら云うのでありました。
「そうか、大学の時に教職課程は取ったみたいだしなあ」
「それに何処かの博物館の職員になると云うのも良いかも知れない」
「学校の先生か、博物館の職員ねえ」
 頑治さんは夕美さんがそう云う職業に就くのが似合っているのかどうか考えてみるのでありました。まあ、似合っているようでもあるし似合っていないようでもあるし。
「もっとバリバリ、商社とか銀行とか保険会社とか、或いは新聞社とかテレビの放送局とかで働く、なんていう野心的な了見は無いの?」
「あたしどちらかと云うと性格がのんびりしている方だから、あんまりバリバリとか云うのは自分に合ってはいない気がする。まあ、学校の先生も博物館の職員も、だからと云ってのんびり勤められる訳じゃないのは判っているけどさ」
 確かに夕美さんは性格におっとりしたところがあると頑治さんは納得するのでありました。だから一種地道に腰を据えて、丹念に研究を進めていく考古学と云う学問に魅かれたところもあるのでありましょう。しかし若し夕美さんが大学院卒業後にバリバリの方を選んだとしても、夕美さんの事だからそこはそれなりに賢く順応して、そつなく自分の与えられた仕事を熟す事が出来るのであろうとも思うのでありました。
「考古学からあっさり離れるのかな、若しそうなったら?」
「全く離れはしないけど、でも少し距離を置く事になるかも知れないわ」
(続)
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あなたのとりこ 68 [あなたのとりこ 3 創作]

 懐かしい様々な話しに現を忘れていたら喫茶店に入って二時間近くが過ぎているのでありました。頑治さんにしたら久しぶりの心躍る二時間でありましたか。
「せっかく逢えて、後は音沙汰無しと云うのも寂しいから、連絡先教えて置いてよ」
 そろそろ席を立とうかと云う時に夕美さんが、兎の絵の描いてある白地に細かいピンクのチェックの入ったメモ帳を取り出しながら云うのでありました。頑治さんが電話番号を知らせると夕美さんはそれを俯いてメモ帳に書き記すのでありました。
「俺も電話番号聞いて置こうかな」
 夕美さんは頑治さん同様、自分専用の電話をアパートの部屋に引いているのでありました。頑治さんと夕美さんが通っている大学では、一人暮らしで自前の電話を持っている学生なんぞは稀な存在でありましたか。これも、近くに叔母さんが住んでいるとは云え、東京で一人アパート暮らしをする娘への実家のお父さんの配慮からでありましょう。
「メモしないの?」
 頑治さんが聞きっ放しで、特段書き記す気配がない事に夕美さんは不安を感じたようでありましたし。お愛想で聞きはしたけど、実は聞きたいと云う肚は更々無いんじゃないかしらと、そんな落胆の気色も多少窺えるような顔付きでありました。
「もう覚えたよ」
「本当?」
「何なら復唱しようか」
 頑治さんは今聞いた夕美さんの電話番号を繰り返して見せるのでありました。
「ここを出たらすぐ忘れるんじゃないの?」
「そんな事は無いよ。一度聞いた、特に女子の電話番号を即座に暗記するのは、自慢じゃないけど俺の得意技の一つなんだから」
 頑治さんは柄にもない軟派な冗談を嘯くのでありました。
「ふうん」
 夕美さんは未だ疑いの色を眉宇に止めているのでありましたが一応納得するのでありました。本人がそう云う以上、書き記せと強要する訳にもいかないでありましょう。
 その日の夜に頑治さんは夕美さんの住まいの電話を鳴らすのでありました。ちゃんと覚えていた証しであります。夕美さんは安堵したような声で再度納得するのでありました。頑治さんはそれから序に、明日もあの公園で逢う約束を取り付けるのでありました。

 夕美さんがワインを入れたコップを口に運びながら頑治さんに訊くのでありました。
「そう云えば錦華公園が今工事中なのね」
 頑治さんの勤め始めた会社の横を足早に手を繋いで通り過ごして、本郷二丁目の頑治さんのアパートに向かうため錦華公園を横切って山の上ホテルの横に石段を登る時に見た、公園の一角が工事のためにテントで仕切られている光景を夕美さんはふと思い浮かべたのでありましょう。それからワインを一口飲んでコップを置くのでありました。
「ああ、何でも幼稚園を建てるために工事しているそうだけど」
(続)
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あなたのとりこ 67 [あなたのとりこ 3 創作]

「押絵に強引に誘われて、あたしも参加したの」
「そう云えばミッションの女子高生も何人か輪の中に居たような気がする」
 頑治さんは遠くを見るような目付きをして往時を思い出すのでありました。「俺も剣道部の指令で参加していたんだ。学園祭が終わった後に運動部員は後片付けに駆り出されるんで、最後まで残っていなければならなかったからね」
 頑治さんは夕美さんに目の焦点を合わせ直してから云うのでありました。すると今度は夕美さんが頑治さんから微妙に目を逸らすのでありました。
「唐目君が参加していたのは知っていたわ。で、二重の輪が一人ずつずれながらグルグル回ってさ、唐目君とペアになったらどうしようって、あたし実は恐々として踊っていたのよ。多分押絵はそれが目的で、面白がってあたしを強引に誘ったんだと思うけど」
 この夕美さんの言葉の後段が少々気になるのでありましたが、頑治さんは敢えてそれを意に留めない風に、如何にも冗談めかした口調で訊くのでありました。
「何だよ、俺とペアになるのがそんなに嫌だった訳か?」
「ううん、勿論そう云うんじゃなくてさ」
 夕美さんはコーヒーカップを口元に運ぶのでありました。「だから詰まり、恐々としてって云うのか、ドキドキしてって云うのか、・・・」
「まあ、結果的には羽場の望み通りペアになる事はなかったよなあ、確か。・・・いやひょっとしてペアになっていて、でもそれを俺が判らなかったのかな」
 何やら話しの展開に妙にウキウキして来るのだけれど、頑治さんは舳先の進路を十四度程度、右か左かはこの際別として、敢えて微変更して見せるのでありました。
「そうね、ペアにはならなかったわね、残念だったけど」
「残念だった?」
 頑治さんは舳先を七度程元に戻すのでありました。
「まあ、いいじゃない」
 夕美さんは続けて二口コーヒーを飲むのでありました。「だから、あたしは高校生の唐目君を見た事があるの。それで、高校生の頃、って云ったの」
「ふうん。しかしそうなると俺も高校生になった羽場に逢ってみたかったな」
 頑治さんは郷里にある高校の中でも特にスマートなミッション高校の制服を着た夕美さんを思い浮かべているのでありました。さぞや可憐な姿であった事でありましょう。
「中学生の頃とそんなに変わらないわよ」
「いや、女子は一年逢わないと見違えるくらい変貌するって云うからなあ」
「それは高校を卒業してからの話しよ。制服も着ないしお化粧とかするようになるし」
「ふうん、そう云うものかね」
 頑治さんはその辺には疎いものだからあっさり納得の頷きをするのでありました。しかしこうして七年振りに逢った夕美さんはそんなに化粧っ気は無いのでありましたし、確かに中学生の頃の幼さが程良く消えているものの、面影はその頃その儘と云えば云えるでありましょうか。夕美さんはどうやら劇的な変貌はし損なったようであります。
(続)
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あなたのとりこ 66 [あなたのとりこ 3 創作]

 夕美さんは小さくてキュートな舌打ちの音を響かせるのでありました。勿論顔は笑っているからこれは一種の、決まり事としての合いの手みたいなものでありましょうか。
「さて、何処か喫茶店にでも行くかい?」
「そうね、コーヒー飲みながらこの六年半のお互いの出来事なんか話しましょうか」
 夕美さんが同意したので、二人は本屋の書泉グランデ裏のラドリオと云うちょっと古風な雰囲気の喫茶店に向かうのでありました。
「あんな一杯人が居る学食で、よく俺の事が判ったもんだなあ」
 頑治さんはウィンナコーヒーを一口飲んでから驚きの表情を作るのでありました。
「すぐ判ったわ。だって唐目君、高校生の頃とちっとも変っていないんだもの」
「ああそうかい」
 頑治さんはまたカップを取って口に近づけるのでありましたが、すぐにおやと云う顔をして夕美さんの方を上目に見るのでありました。「あれ、高校生の頃?」
「そう、高校生の頃」
「中学生の頃、の間違いじゃないのかい?」
「ううん、高校生の頃よ」
 夕美さんもカップを取り上げるのでありました。「あたし一度、増田押絵に誘われて東高の学園祭に行った事があるの。二年生の時だったかな」
 増田押絵と云うのは頑治さんと同じ東高に進学した中学時代の同級生であります。
「ああそうなんだ。そこで俺を見かけたと」
「そう。押絵に、ほらあれが唐目君の成れの果てよって教えられて、遠目から見たの」
「成れの果て、ねえ」
 頑治さんは別に高校二年生の時に中学生の頃に比べて落ちぶれたと云う実感は何も無かったものだから、夕美さんの、と云うよりは当時の増田押絵の云い草に大いに不満の表情をして見せるのでありました。落ちぶれるどころか、その頃が部活の剣道やらギターの練習やら友人たちとの冗談の云い合いやら、序に学業にも血を騒がせていた自分の一番溌剌としていた青春真っ盛りの時代であったと考えているのでありましたから。
「成れの果て、と云うのは勿論押絵のおどけた云い方よ」
「確かに増田は口の悪いヤツだったけどね」
「まあそれはそれとして、そう教えられて遠目だけど、仲間とワイワイやっている剣道の稽古着を着た唐目君を見たんだけど、なかなか凛々しくて格好良かったわよ」
「それは前言のフォローの心算かな」
「ううん、正真正銘の実感よ」
 夕美さんはそう云った後少しの間を空けて、俯いて頑治さんから目を逸らして恥ずかしそうに笑むのでありました。「で、学園祭の最終日だったから、夕方にキャンプファイヤーみたいに校庭の真ん中で盛大に井桁に組んだ焚き木を燃やして、その周りを生徒とか見に来た人皆で囲んで二列の輪になって、フォークダンス躍ったでしょう」
「ああ、そうだったなあ。東高の学園祭のフィナーレは何時もあれだ」
(続)
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あなたのとりこ 65 [あなたのとりこ 3 創作]

「まあ、良いじゃないか。あの人は何を考えているのか窺い知れない人なんだから」
 頑治さんがそう云うと夕美さんは「ふうん」と、何となく納得し難いような表情を浮かべるのでありました。しかし特段拘らない風に眉宇を広げて右手に持ったスーパーの紙袋を持ち直して、左手で頑治さんの右手の掌を握るのでありました。こういうところをうっかり刃葉さんに見付けられるのも詰まらないから、頑治さんは夕美さんの指に自分の指を絡めながら、その手を引くようにやや足早にその場を離れるのでありました。

 神保町の古書店で籠に入った廉価な文庫本を三冊買った勘定に思いの外手間取り、頑治さんは足早に夕美さんと先程待ち合わせを約した公園に戻るのでありました。夕美さんはもう既にあのベンチに座っていて、頑治さんが慌てながら駆け込んで来る様子が可笑しかったのか、口に手を当ててベンチから立ち上がって手を振るのでありました。
「計算がうっかり間違っていて、レジに行ったら十五円不足していたんだよ」
 頑治さんが傍まで来るなりそう云うものだから夕美さんは何の事だか判らずに、戸惑うように頬から笑いを消して首を傾げて見せるのでありました。
「十五円がどうかしたの?」
「で、あっちこっちポケットの中を探ったら十円はあったんだ」
「あと五円足りない訳ね」
 そもそもの事情がよく判らないながら夕美さんは話しの流れに乗るのでありました。
「そう。もうポケットからは一円も出てこない」
「それは困ったわね」
 夕美さんは眉宇を狭めるのでありました。そこで頑治さんは右手に持った輪ゴムの掛かった文庫本三冊の束を夕美さんの目の前に差し上げて見せるのでありました。それでようやく、どこかの本屋で文庫本を買っていざ勘定と云う段で所持金が十五円足らなかったのだろうと、夕美さんは頑治さんの今の話の大概を察したようでありました。
「で、ね、馴染みと云う訳ではないんだけど、向こうも名前は知らないけど俺の事を時々店に来る客だと認識が無い訳でもないみたいで、仕方が無いから今度来る時に五円を払ってくれればいいよとあっさり許してくれて、この三冊を売ってくれたんだよ」
 夕美さんは頑治さんが差し上げた文庫本を覗き込むのでありました。
「今のは古本屋さんでの出来事ね」
 表紙の少し古びている風情からそう判断したのでありましょう。
「そう。きっぱり五円負けてくれる訳じゃなくて、貸し、と云う事にしてくれる辺りが俺のその古本屋での在りようと云うところかな」
「ああ成程ね」
 夕美さんは二度程頷きながら頑治さんに笑みかけるのでありました。
「と云う事で、勘定に手間取って少し遅れた次第だ。ご免」
 頑治さんは頭を下げて見せるのでありました。
「なんて長い云い訳だ事」
(続)
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あなたのとりこ 64 [あなたのとりこ 3 創作]

「そう。ここの三階が事務所で一階の駐車場奥が倉庫」
 頑治さんは応えながら駐車場奥の倉庫の扉が少し開いていて、そこから灯りが漏れているのを見るのでありました。頑治さんが退社する時には製作部の山尾主任と均目さんが残っているだけで、倉庫の刃葉さんも他の社員も既に退社しているのでありました。山尾さんか均目さんが未だ残業していて倉庫で何か作業をしているのでありましょうか。
「倉庫に未だ誰か居るみたいね」
 夕美さんも長方形の灯りの方に視線を向けるのでありました。二人して何となく遠目に窺っていると、その内微かに人の声が灯火に混じって漏れ出て来るのでありました。
 それは言葉と云うよりも何やら呼気に乗せて単発音を発していると云った風でありましたか。剣道や柔道の試合の時に耳にするような気合の声のようなものであります。
 倉庫の仲でこんな声を発する人と云ったら、これはもう刃葉さん以外ではないでありましょう。勘繰るに、空手の突き蹴りの練習をしているか、或いは木刀で素振りでもしているのでありましょう。バレエではこんな気合の発声はしないでありましょうから。
 刃葉さんは五時になったら早々に退社した筈であります。あれこれやっている習い事に
早々に出向くためと思ったのでありますが、今日は何も無い日なのでありましょうか。しかしそれにしても退社後に会社の倉庫で仕事とは無関係な個人的な習い事の練習をしているとすれば、これは例によって慎に不謹慎と云う誹りは免れ得ないでありましょう。
 残業していた山尾主任と均目さんはもう帰ったのでありましょうか。未だ残っているとしてもこの事を知らないのでありましょうか。それとも知っていても刃葉さんに注意するのが億劫で、その儘目を瞑って放置しているのでありましょうか。
「ちょっと待っていてね」
 頑治さんは夕美さんにそう云い置いてビルの横手に回ってみるのでありました、ビルは東南の角地に立っていたから、東側の狭い道から見上げれば、三階の制作部スペースの窓に明かりが点いているかどうか確認出来るのであります。
 灯火は消えているのでありました。と云う事は山尾主任と均目さんはもう帰っていると云う事であります。依って二人が居なくなった頃を見計らって羽場さんは会社に戻って来て、誰憚る事無くこんな勝手な真似をしていると云う事でありましょう。
 折角倉庫の整理整頓を始めた自分の仕事がひょっとしたらこれで棄損される恐れもあると思うと、頑治さんは少し腹立たしく思うのでありましたが、しかし乗り込んで行って、昨日入ったばかりの後輩が先輩の所業を咎め立てする、と云うのも何やら了見違いの出過ぎた真似のようでもあります。取り敢えずここは堪えるのが上策かも知れません。それにここで刃葉さんと一悶着起こして、折角のこれからの、夕美さんと二人だけの楽しかるべき時間への突入を遅らせて仕舞うのも慎に惜しいと云うものではありませんか。
「さっき話しに出た羽場さんが、珍しく残業しているんだろう」
 頑治さんは夕美さんにそう云ってこの場を離れようとするのでありました。
「時々気合をかけるような声を出す残業仕事?」
 夕美さんが怪訝そうに首を傾げるのでありました。
(続)
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