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あなたのとりこ 6 [あなたのとりこ 1 創作]

 頑治さんは取り敢えずそれとなく不快を伝えるために、偉丈夫をさて置いて童顔の方と正面から向かい合う位置に腰をずらすのでありました。こなったら童顔の方とのみこの後の会話を進めるしかないでありましょう。
 この後履歴書の提出を催促されて、頑治さんは童顔の土師尾営業部長の前にそれを置くのでありました。土師尾部長は手に取って暫く眺めてから訊くのでありました。
「趣味は寄席通いとありますが、寄席にはよく行くのですか?」
「はいまあ、偶に、よりは少し繁く、と云った程度です」
 頑治さんとしては趣味の欄に読書とか映画鑑賞とか旅行とかのありきたりな事を記すよりは、寄席通い、の方が多少色気はあるかと呑気に思考してそう書いた迄であり、実はほんの偶に行く程度で、まあ、年に三回以上足を運ぶ事はないのでありましたか。
「笑う事が好きなのですか?」
 土師尾部長が質問を重ねるのでありました。笑う事が好きか、と問われても、はい好きですと素直に頷くのも何となく間抜けた応えのようだし、どだい笑うと云う営為は己の好き嫌いに依ってコントロールされるものではなく、どちらかと云うと生理に近い現象でもあろうから、頑治さんはその質問自体に面食らうのでありました。そんな訊ね方そのものが全く頓珍漢であろうと秘かに興醒めるのでありましたが、しかし曲りなりにも就職面接の場でそう返すのも憚られるので、一応無難な辺りを口にするのでありました。
「まあ、そのように云うとすれば、そんな風にも云えるかも知れませんね」
「と云う事は、貴方は朗らかな性格ですね」
 これにも頑治さんは、ある種たじろぐのでありました。寄席通いが趣味だから笑うのが好き(!)で、そうなら性格が朗らかに違いない、と云う論の路程は、何やらあまりにも大雑把で無粋で、三角形には角が三つあります、と滔々と正面から論じられているような按配で、何となく尻の辺りがムズムズとしてくるのでありました。
 その質問に乗って、はいそうですと応えるのは己が羞恥心にかけていただけないと思うから、頑治さんはこれも曖昧に笑って、頷くとも頷かないとも取れる程に首を微妙に動かして見せるのでありました。不機嫌そうに無言を決めこむ手合いも然り乍ら、こんな一種頓馬な質問を重ねる輩も、実は頑治さんとしては大いに苦手なのでありました。

 ここで頑治さんの前に茶が出されるのでありました。待ってきたのは三十半ばと見える女性で、何処から現れたかと云うと、土師尾部長の座っていた重役机長辺にくっついて二つの事務机が向いあっていた、頑治さんの方からは死角になる方からでありました。二つの向いあった事務机の間には、丁度頭が隠れるくらいの伝票やら帳簿やら印鑑やらを並べる机上棚が立っていて、それ故その女性の姿は隠れて見えなかったのでありました。
 女性は無言でそんざいと丁寧の中間程の、つまり全く事務的な手付きで茶を置くと出入口扉脇のカーテンで仕切られた中へ消えるのでありました。そこには恐らく給湯室か、ちょっとしたキッチンみたいなものがあるのでありましょう。
「さて、来週の月曜日から来て貰う事は出来ますか?」
(続)
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あなたのとりこ 5 [あなたのとりこ 1 創作]

 入ってすぐに受付台を兼ねたスチールの棚が置いてあって、その先には四つの事務机が寄せ集められていて、そこには誰も座ってはいないのでありました。その左横のスペースには如何にも安っぽい応接セットが窮屈そうに収まっていて、四たり一団の机を挟んだ右横スペースには長い重役机と二つの事務机が固められているのでありました。
 重役机に座っていた歳の頃三十半ばと云った、痩せた体を地味なスーツに包んだ坊や顔の男が立って近寄ってくるのでありました。如何にも苦労を知らないお坊ちゃんと云った顔であるものの、重役机に座っていたのでありますから、この男はこの会社の責任ある地位にあるのでありましょう。男は頑治さんに応接ソファーの方に座るように促すのでありました。頑治さんは云われる儘に長椅子の端に腰掛けるのでありました。
「ちょっと待ってね」
 男はそう云って部屋の奥の方に向かうのでありました。奥は通路を空けてパーティション代わりの大きなスチール製のケースに仕切られていて、そこにはまた違う部署があるのでありましょう。棚の上にもやや乱雑に丸めた紙の束やら幾つかの未使用の伝票類らしきクラフト紙の包みやらが積んであって、奥の様子は全く窺えないのでありました。
 因に部屋は都合二十畳程のスペースで、ケースに仕切られた奥が通路から仄見える様子からざっと八畳程、こちら側が十二畳程の広さと推察されるのでありましたか。職安の田隙野氏に聞いたところに依れば従業員十二人の会社でありますから、まあ、このくらいの広さで充分なのであろうかと頑治さんは憶測するのでありました。
 頑治さんが肘掛の付着が緩くなっているソファーに座って待っていると、先の男がすぐに奥からもう一人の男を引き連れて戻って来るのでありました。この男は薄い橙色のワイシャツに地味な褐色のネクタイを締めて、それをこれまた発色の悪い橙色のカーデガンで覆い隠していて、使い古したような焦げ茶色のズボンを穿いているのでありました。重役机の男と違ってなかなかの偉丈夫ではあるものの、艶のない髪の毛が耳を隠す程に長く額にも幾筋か垂れていて、服装のイカさないのも然る事ながら何処か陰鬱そうな面持ちで、折角の偉丈夫を偉丈夫に見せない湿気が体貌に漂っているのであるのでありました。
 男二人は夫々一人掛けのソファーに座って頑治さんと向かい合うのでありました。
「営業部長の土師尾史郎です」
 童顔が先ず自己紹介するのでありました。その後に偉丈夫の方を横目でちらと窺うのでありましたが、偉丈夫は何も云わず背凭れに深く身を引いて頑治さんの顔を凝視しているだけなのでありました。その目は頑治さんを値踏みしているようでもあり、呼ばれてここにこうして座っている事自体が億劫とのふてた意を表明しているようでもありました。
 偉丈夫が何も言葉を発しないのを見て、やや大袈裟にやれやれと云った表情を見せた童顔が代わりに続けるのでありました。
「こっちは制作部の片久那狷造部長です」
 そう紹介されても偉丈夫は愛想の頷きもしないのでありました。こうもつれなくされるとお互いの立場は別にして、初対面の相手に対して幾ら何でも横着と云うものではないかと頑治さんは秘かに憤るのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 4 [あなたのとりこ 1 創作]

「はい。大体に於いてこちらの希望に沿っていると思われますので」
「判りました。では電話して面接日を打ち合わせてください。その旨こちらの方からもこの会社に電話を入れておきますよ」
「どうぞよろしくお願いします」
 頑治さんは会社概要や連絡先を記してある紙片を貰ってから、立ち上がって田隙野氏に深々と頭を下げるのでありました。「田隙野さん、色々有難うございます」
「いやいやどういたしまして。首尾の上々なる事を祈っております」
 田隙野氏はニコやかに笑ってバイバイと手を振るのでありました。

 頑治さんは一時間ばかり職安近くの喫茶店で時間を潰してから飯田橋駅に戻って、乗車券の自動販売機近くに並んでいる公衆電話の受話器を取り上げるのでありました。
「飯田橋の職安から仕事を紹介して貰った者ですが」
 頑治さんが受話器に向かって喋ると、電話に出た向こうの女の人に少し待てと云われ、十秒ほど電子音によるパッヘルベルのカノンを聞かされてから、採用担当者と思しき男が代わるのでありました。男は妙に丁重な言葉遣いで、若し可能ならば今日の午後四時に面接に来てくれぬかと云うのでありました。頑治さんとしては否と云う事も出来ず、それを億劫と思う気も特段無かったものだから、了解の旨あっさり返答するのでありました
 向こうから指定された午後四時には未だ二時間ほどあるのでありました。訪うべき会社は千代田区の猿楽町一丁目にあるのでありましたから、頑治さんは取り敢えず地下鉄神保町駅辺りまでゆるゆると歩いて行って、すずらん通りにある東京堂書店とか冨山房書店や駿河台下の三省堂本店、それに靖国通り沿いの古本屋等をブラブラ冷やかして時間を潰すのでありました。この間、幸いにして靴下の脱出現象はもうないのでありました。
 猿楽町の錦華公園に程近い辺りの、一階が駐車場になっている五階建てビルの三階にその会社はあるのでありました。駐車場横のやや狭い階段を上るとすぐ目の前に訪問先たる「株式会社 贈答社」と云う、白地にゴシック体墨文字のプレートが張ってある、クリーム色の少し汚れた鉄の扉があるのでありました。頑治さんはその扉を遠慮気味に叩くのでありましたが、中からすぐには何の応答も返ってこないのでありました。
 頑治さんが扉を引き開くと、ちょうど同じタイミングで中からも押し開こうとしたようで、内側のドアノブに誰やらの腕が付随してくるのでありました。その腕の持ち主は頑治さんと同じか少し若い年頃の男で、黄色地に茶の縦縞模様のワイシャツと赤と薄草色の斜め右下がりストライプのネクタイを締めていて、その上に肘の辺りに毛玉をかなりの量溜め込んだ、長年日に焼けたような黒いカーデガンを羽織っているのでありました。
「入社面接に来た者ですが」
 頑字さんは男にお辞儀しながら来意を告げるのでありました。
「ああ、はい。どうぞ」
 男はそう云って頑治さんが部屋の中に入り易いように、ドアを片手で開き留めた儘身をドア前で横に開いて通り道を空けるのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 3 [あなたのとりこ 1 創作]

 頑治さんは改めてそんな確認をされて何となく恥じ入るように頷くのでありました。考えてみれば己が吐いた事とは云え、何とも虫の良い、職探しをする者としては慎に不埒な戯れ言のような条件を出したものであります。普通なら呆れられて叱りつけられる、或いはその了見違いをこんこんと説教されて当然の、不謹慎窮まる条件でありましょう。
「こちらとしてもそんな無闇な条件の就職先をあれこれ探していたところでしたが、竟昨日、そんな唐目さんの条件に適いそうな会社から求人が来たのです」
「ほう!」
 そう聞いて頑治さんの方が驚くのでありました。
「但し、上司が冗談や洒落の判る人かどうか、と云う点は確認出来ていませんが」
「ああ、成程。で、その奇特な会社とは、どう云った按配の会社なのですか?」
「ギフト業、と謳ってあります」
「ギフト業とは、一体どんなような業なのでしょう?」
「結婚式の引き出物とか、企業の周年記念品とか販売促進用の品とか、或いは旅行先の観光地のお土産品なんかを取り扱う会社のようですね」
「旅行のお土産、とか云うと例えば観光地の名前の入ったキーホルダーとか、木刀とかペナントなんかを製造している会社でしょうかね?」
「自社で製造している物もあるようですが、扱っている殆どの商品は、他の会社なり製造元から仕入れているようですけどね」
「従業員はどのくらい居るのでしょうか?」
「社長も入れて十二人、となっていますな」
 田隙野氏は手に持っている求人票を見ながら応えるのでありました。「ええと、序に云って置きますが、募集職種は配送及び倉庫業務となっていて、要するに商品を製造元から引き取って来て管理したり、それを配送したりと云った仕事が主ですね。まあ、商品管理の帳簿を付けたりする事はあるでしょうが、概ね小難しい仕事はないと思われます」
「頭脳より力仕事、と云った感じでしょうか?」
「ま、そうですかな。ところで唐目さんは体力には自信がありますか?」
 田隙野氏は頑治さんの体つきを値踏みするような目で見るのでありました。
「頭の方は至って頼りないですが、そちらの方は些か自信があります」
 頑治さんは右腕の上腕二頭筋の力瘤を作って見せるのでありました。
「おお、これはなかなか好都合な力瘤をお持ちで」
 田隙野氏は真顔で大袈裟に感心して、数度頷くのでありました。
「いやあ、それ程でも」
 頑治さんは腕を曲げて力瘤を萎ませないように保持した儘、何となくぎごちない動作で照れ笑いながら頭を掻いて見せるのでありました。
 この後、給料やら就業時間とか有給休暇日数とかの待遇面を縷々述べてから、田隙野氏は頑治さんの顔を覗きこむのでありました。
「どうです、この会社に面接に行ってみますか?」
(続)
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あなたのとりこ 2 [あなたのとりこ 1 創作]

 職安職員内におけるこの田隙野氏の在り様は、云ってみれば頑治さんの趣味にピタリと合っているのでありました。頑治さんにしても、別に胆が据わっているわけではないのでありますが、どこかのんびりしたところがその風情にあるのでありましたから。

 別にちゃんと確認し合ったわけではないのでありますが、しかし頑治さんも田隙野氏も、そこは同類を嗅ぎ分ける鼻の穴の細胞のお蔭か、この人物とは会話が出来るとすぐに直感したのでありました。初回の訪問で頑治さんは躊躇なく、カウンターの中で雁首を並べている相談職員達の中の、田隙野氏の前に歩を進めるのでありました。勿論、立て込んだ中で田隙野氏の前だけが唯一開いている窓口であったのも決定的要素ではありますが。
 確かに必死に職探しをしている者からしたら、そんな事は別に大した事ではないではないかと云った風の田隙野氏の緩い顔つきなんぞは、如何にも場違いなものと映るでありましょう。職安職員として頼りない顔つきと云えばその通りであろうし、相応しからざる顔相と云えばそれもその通りでありますが、しかしこれは別に田隙野氏が悪いわけではなく、責任はそう云う顔に産んだ田隙野氏のご両親にあると云えるのかも知れません。
 いやいやしかし、その人の顔つきを作るのは生まれではなく育ちと己の思想であると云う論に与すれば、田隙野氏自身のせいだとも云えるでありましょうか。依ってご両親の罪と断ずる事も出来ないわけでもありますが、それはまあ兎も角として、こうして頑治さんの仕事を斡旋しようとしてくれているのでありますから実際、田隙野氏はその風采とは別にちゃんと一定の仕事の出来る職安職員とも云えるのでありましょう。
「あれ、靴をどうかされましたか?」
 椅子に腰掛けるなり靴から足を脱して、前屈みをして机の下の見えない辺りで、すっかり脱落して仕舞った靴下を秘かに穿き直している頑治さんの挙動を不審に思ってか、田隙野氏がほんの少し怪訝そうな顔を向けるのでありました。
「いや、別に何でもありません」
 頑治さんは誤魔化すように、まあ、特に田隙野氏に対して体裁を気にする必要もないかとは思うのでありましたが、愛想笑いつつ両の靴下を直すのでありました。好い加減に引っ張り上げるとこの後またもや脱げる恐れがあるので、秘かな作業ながらそこは繊細に、爪先と踵のフィット感を確認しながら修正動作を完了するのでありました。
「唐目さんのご希望は確か、給料とか待遇は特に希望はないが、その日の内にその日の課業が完結するような小難しくない仕事で、格式張った服装をしなくて済む、比較的社風ののんびりした、冗談や洒落の判る上司の居る、あんまりこの先発展しそうにないながらもしかし、なかなか堅実に続いて行きそうな会社、なんと云う、そう云う会社があれば私の方が先にここを辞めて就職したいような、そんなような仕事及び会社でしたよねえ?」
 頑治さんの上体が起きるのを待ってから、気を取り直すように咳払いを一つして、未だ職安職員として敏腕なのかそうでないのかが判る程には付き合いの深くない田隙野氏が、頑治さんの目を至極真面目な顔つきで覗きこみながら訊くのでありました。
「ええまあ、そう云ったような」
(続)
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あなたのとりこ 1 [あなたのとりこ 1 創作]

   松葉

 緩やかな下り坂に差しかかると、唐目頑治さんの靴の中でこのところ時折起こる異変が始まるのでありました。それは決まって、それ迄無表情であった頑治さんの眉宇に苦悶の色を浮かしめるのでありました。頑治さんは歩を止めないながらも、舌打ちの音を隠す事もせず、互い違いに前に出る自分の足下に視線を落とすのでありました。
 靴の中で靴下が、歩の重なりに同調しながら段々と脱げていくのであります。今朝心急いていたので偶々、口の緩くなっている靴下を装着して仕舞ったようでありました。
 頑治さんの所有する十足余りの靴下の中に二足だけ、その要注意の靴下があるのでありました。穴も開いていないものだから、洗濯して捨て惜しみに引き出しの中に仕舞い続けてきたのでありますが、選りに選って気が急いでいるこの今朝に限ってあの忌々しい靴下を選んで仕舞ったとは、何たる不仕合せでありましょうか。
 足裏に這う我慢ならぬ不快に頑治さんは立ち止まって、土踏まず辺りに秘かに蟠る靴下を引き上げようかと余程思うのでありましたが、しかし往来の真ん中でそのような無様を仕出かすのも、これもまた世間への体裁に照らして、断じて我慢ならぬ仕業と云うものであります。頑治さんはここが辛抱のしどころと観念するのでありました。
 駅までこの儘平気な顔で歩き切って電車の座席に座ったら徐に何気なく、ごく自然な感じで靴下を引き上げれば、その方が往来での不格好よりは未だ許容出来る不格好と云うものでありますか。ならぬ我慢を今少し我慢するのが我慢の神髄と云うものであります。
 しかしこの頑治さんの目論見は無惨に打ち砕かれるのでありました。乗りこんだ電車が満員で、座席に座るどころか身動きも儘ならないと云う在り様なのでありました。これは何たる不運、嘆くも疎かなる間の悪さと云うものであります。家を出てすぐにこんな不愉快を蒙るとは、何とまあ幸先の悪い事でありましょうか。

 結局、飯田橋の職安に着くまでに頑治さんの両足の靴下はすっかり足部から脱落して、靴先に詰め物のように固まって頑治さんの指先を不快に圧迫するのでありました。
「どうも、唐目ですが、何か良い就職先でも見つかったのでしょうか?」
 頑治さんはここ暫くの職安通いですっかり馴染みになった、田隙野道夫、と云う名札を首から下げた職員の前の椅子に座りながら訊くのでありました。
「ああこれはこれは唐目さん、早速にお越しいただいて恐縮です。お気に召すかどうかは判りませんが、唐目さんのお出しになった条件にほぼ合致するようなしないような求人がまいりましてね、それでご足労願ったと云う次第ですわ」
 田隙野氏は慎にニコやかな顔を向けるのでありました。こういう処の職員にありがちな高飛車で、人を見るに自力で職も探せない無能者を見下すような目線なんぞが、この田隙野氏には全くないのでありました。しかも妙に殺伐とした、軽口でも云おうものなら顰蹙を買いそうな安定所の雰囲気からも何となく超然としている風なのでありました。かと云って決して仕事が投げ遣りでもなく、親身でないわけでもないのであります。
(続)
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概25周年合気道演武大会のこと [合気道の事など 2 雑文]

 2017年7月9日の日曜日に合気道錬身会南多摩倶楽部の演武大会を挙行する事と相なりました。この「概25周年」と云うのは、賛同者が数名参集して、今はもう取り壊された東芝府中工場の武道場で、全くインフォーマルに稽古を始めた日から起算しての数字であります。第一回目の稽古日の月日が今となっては曖昧となっていると云うのは、まあ、拙生らしいと云えば拙生らしいずぼらの為すところと云うわけであります。
 この間拙生なりに合気道の稽古形態についてあれこれ考えを巡らせて、幾らか変遷はあったものの、今現在の稽古の在り方を定着させてきたのでありますが、これは一言で云えば合気道は組型稽古が主体でありますから、先ず以って「型」=「典型」を見事に創り込むと云う稽古形態でなければならないと云う事であります。乱取り、或いは自由組手と云う技法の変化応用法を学ぶ前に、先ずは技術を自分の体の中に確立させる作業であります。優れて確立されてもいない技法を使って変化応用を学んでも、到底実用に耐え得る技法展開は望めない故であります。でありますから先ず以って「型」なのであります。
 別の文章でも既に云ってありますが、技の展開における一つの典型を「型」として抽出し、それを相対反復稽古する事が組型稽古でありますが、そのためには技法展開上の謂を充分に理解していなければなりません。特に技を受ける側の理解が稽古の質を決定する重要な要素であります。単に「やられ役」或いは「対抗者」ではないと云う事であります。この「受け」の意識に依ってこそ「仕手」は稽古の実質を得るのであります。まあ、そう云った辺りを今回の演武大会で表現出来ればと考えておりますが、はてさて。・・・
 普段の稽古でもよく用いる稽古法でありますが、先ずは一つの「型」を3つから7つの挙動に分解して、一つ々々の挙動毎の正確さを確認します。仕手がどの局面に於いても常に先を確保したところの優位であるか、主導的であるか、動いても崩れない体軸が確立されているか、受けの動きや力の方向に対抗せず同調しているか、と云ったところを錬る作業であります。これは主に号令で動きます。勿論武道は体操とは違うと云うのは当然で、号令をかけるのはあくまでも方便の一種であり上記の留意点の確認のためであります。
 同時に初心者には手順を理解し易くするための方策でもあります。また初心者にありがちな各人の動きの癖を吸収して自儘を排し「型」として均一化するためでもあります。
 この号令に依る「型」の分割動作の後に今度は、始めはゆっくりと、次第に早く、各挙動を区切らず連続して技の始動から終動までを行います。云わば幾つかに分割された挙動を、最終的に途切れ目の無い一挙動の動きに纏める作業であります。
 この演武を基本技から抜粋して幾つか行いますが、これが本演武大会の主要な演武であります。特別なものを演武するのではなく何時もの稽古をご覧いただくと云う趣意であります。まあ、この主旨とは別に折角の演武大会でありますから、他にも少年部の演武や自由技等も行いますし、千田務錬身会最高師範の華麗な演武も賜る事になっております。
 ご興味のある方、ご都合の良い方は是非ご高覧下さい。演武大会の後に初心者や体験希望者にもご参加いただける千田最高師範の合気道講習会も予定しております。詳しくは合気道錬身会南多摩倶楽部HPでご確認ください。
 南多摩倶楽部HP:http://www015.upp.so-net.ne.jp/mtama-soki/m-index.html
(続)
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お前の番だ! 600 [お前の番だ! 20 創作]

「よろしくお引き立ての程を」
 鳥枝範士の激励に万太郎もお辞儀を返すのでありました。
「あゆみの歳を考えたら急がないと、とワシは前から心秘かに思っておったのです。まあワシが焦心したところで、余計なお世話でありましょうがなあ」
 そう云う鳥枝範士の顔は実の孫を授かった好々爺のようでありましたか。
「実は剣士郎との間に少し間が空きましたが、ウチも二人目を授かりました」
 これは万太郎に話しを聞いた花司馬範士の報告でありました。
「へえ、そうですか。それはお目出とうございます」
 万太郎が祝詞を返すのでありました。「すると学校ではウチと同級生になりますね」
「そうですね。保護者参観日には一緒に参りましょう」
 花司馬範士も鳥枝範士同様、些かお先走りなのでありました。
 次の日の少年部の稽古前に剣士郎君が大きな花束を持って現れて、花司馬範士に伴われて万太郎とあゆみの控え室にやってくるのでありました。
「あゆみ先生、お目出とうございます」
 この先当分の間稽古を休むあゆみに、剣士郎君は感謝の花束を手渡すのでありました。これは花司馬範士の、あゆみを喜ばすためのちょっとした思いつきでありましょう。
「剣士郎君も弟か妹が出来るようだから、嬉しいでしょう?」
 あゆみが剣士郎君の手を取って云うのでありました。剣士郎君も嬉しそうな顔で、あゆみに手を取られた儘コックリと頷くのでありました。

 それから遠からぬ或る日の朝の専門稽古では万太郎が中心指導をする当番でありましたが、是路総士を筆頭に鳥枝範士と寄敷範士それに花司馬範士と来間教士、新米内弟子の真入と云う総本部指導陣が一堂に揃っての稽古となるのでありました。別にそう図ったわけではないのでありましたが、夫々の都合が偶然そんな状況を作ったのでありました。
 普段なら是路総士は万太郎が中心指導する折には、一種の気遣いから顔を出さないのでありますが、どう云う気紛れか、久しぶりに万太郎の指導ぶりを見たいと自ら所望するのでありました。秘伝伝授後の万太郎の変貌ぶりを確かめるためなのかも知れません。
 それならばと、その日は偶々朝から出仕していた鳥枝範士と寄敷範士も右に倣うのでありましたし、花司馬範士は元々出席の予定でありました。あゆみも稽古には参加しないながらも、どう云う所懐からか廊下側の窓から道場の様子を目立たぬように窺いにくるのでありましたから、母屋の留守番は居残っている大岸先生一人と相成るのでありました。
 ひょんな事からそう云った仕儀になって、万太郎としては大いにたじろぐのでありました。まるで総本部道場総務長、延いては常勝流武道宗家是路総士の跡取りたる自分の、力量及び適性を総本部所属の全指導員から考査されているような具合であります。
 これはもう滅多な事は出来ないけれど、かと云って至極無難に稽古を纏めて仕舞えば、その程度のヤツかとお歴々をがっかりさせる事になるでありましょうし、あゆみの失望も招くであろうし、来間や真入の心服もそれで覆滅して仕舞うかも知れません。特段そう云った思惑は面々にはないのだろうけれど、万太郎は過剰に気負うのでありました。
 その気負いが裏目に出たのか、今までそう云う事はなかったのだけれど、万太郎は道場に入る時に出入口の敷居の段差にうっかり躓いて仕舞うのでありました。気負いから体が固くなっていたので、万太郎は前のめりになった体勢を立て直せずにやや小走りに道場中央に到ると、そこに竟に転けたと云った風情でぺたりと正坐するのでありました。
 座り了る咄嗟に、そう云えば自分が内弟子に入った頃、是路総士も時々道場出入口の敷居に躓いていた事を思い出すのでありました。あれは後年手術に到る背骨の病変から、足が上手く上がらない場合があったためと知れたのでありましたが。・・・
 選りに選って、こう云う大事な場面で何たる不様、と万太郎は心の中で大いに赤面するのでありました。ヨロヨロと小走りする時に、下座端に正坐している鳥枝範士と寄敷範士が思わず顰め面をするのを目の端でしっかり見るのでありました。
 これは何とも幸先悪い仕くじりでありましたが、しかしどう云うものか万太郎はここで妙に心が静まるのでありました。無用に気負うからつまらぬ失敗をするのでありますし、誰が見ていようと今の自分以上の姿なんぞは結局見せる事は出来ないのであります。
 そう観念して仕舞うと万太郎は至極落ち着くのでありました。落ち着きを取り戻せば、何時も通りの中心指導を熟す事が叶うと云うものであります。
「いやあ、入場で躓かれた時には冷やりとしましたわい」
 稽古を終えて師範控えの間に引き上げた後、鳥枝範士が万太郎に云うのでありました。
「頭の中で昔の総士先生のお姿が重なりまして、ちょっと懐かしいような微笑ましいような、反面、何となく気まずいような妙な心持がしましたよ」
 寄敷範士が微笑を片頬に浮かべて続くのでありました。
「どうも面目ありません」
 万太郎は頭を掻くのでありました。
「総務長先生は別に腰がお悪いわけではないでしょうな?」
「いや、そのような事は。あれは全く以って僕のうっかりからです」
「ま、総本部道場の出入口の敷居と歴代宗家は、代々相性が悪いようですな」
 是路総士がそんな事を紹介するのでありました。「私の先代もあの敷居に躓いているのを、何度か目撃した事がありますよ」
「と云う事はつまり、総務長先生もここで晴れて、次代の宗家としての条件を目出たく身に備えられたと云う事になりますかな」
 鳥枝範士がそう云って豪快に笑うと、師範控えの間に集う是路総士や寄敷範士や花司馬範士、部屋の隅に控える来間教士と真入指導部助手、それに万太郎の横に座っているあゆみが、如何にも愉快そうにその笑いに同調するのでありました。
「私はあの光景を見て、さてこれからは愈々、総本部道場を先頭で率いていくのは私ではなく、そこで頻りに頭を掻いている婿殿だと得心しないでもなかったですかなあ」
 是路総士はそう云って笑むのでありました。
「総務長先生、総士先生がこれからは、お前の番だ! とおっしゃっておられますぞ」
 鳥枝範士が万太郎の心意気を質すように、控えめながらもやや鋭い眼光を向けるのでありました。万太郎は頭を掻いていた手をゆっくり下ろして、まるで是路総士が何時も湛えているような大らかな眼差しで、真正面から鳥枝範士の目を見つめるのでありました。
「押忍。承りました」
 万太郎は気負いもなく、かと云って弱気もない至極落ち着いた声音でそう云って端正に座礼をするのでありました。鳥枝範士は実に穏やかなその万太郎の物腰に不意に打たれたように、慌ててより低く万太郎に向かって低頭して見せるのでありました。

   ***

 さて、この辺りでこの物語もそろそろ一区切りといたしましょうか。この先の万太郎とあゆみについては、折があるならばまた別に語る事といたしましょう。浮世での大団円なんぞと云うものは、その当事者がこの世を去る時以外には訪れないのでありますから、不意に、故意に、物語はどこかで終止符を打たなければならぬものであります。
(了)
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お前の番だ! 599 [お前の番だ! 20 創作]

「ああそう。・・・ふうん」
 大岸先生は何やら直感するところのある表情をするのでありました。大岸先生の顔を見た是路総士も、その何やらにピンときたようで、大岸先生と目交ぜするような仕草をしながらニンマリと笑うのでありましたが、迂闊ながら万太郎は、その是路総士の笑みがどう云った意味で笑まれたものなのかを察する事が出来ないのでありました。
 五人での朝食を終えて暫くすると、その日当番になっている準内弟子の山田と狭間、それに宇津利益雄がやって来るのでありました。宇津利は竟先頃、予てから念願の準内弟子となったのでありましたが、前に準内弟子をしていた片倉が大学卒業を機に、出身地の信州松本に帰ったのと入れ替わる形で採用となったのでありました。
 来間と真入、それに準内弟子達が朝の道場仕事に励み出した頃、花司馬範士と寄敷範士が前後して姿を現すのでありました。二人共あゆみの不在に少しく意外と云った表情を表するのでありましたが、万太郎から気分が悪いので病院に寄ってから来ると説明されて、そう云う事もあろうかとそれ以上に気にかける様子は見せないのでありました。
 そのあゆみが道場に現れたのは、朝稽古が終わった頃でありました。
「随分遅かったなあ」
 万太郎とあゆみの控え部屋の襖を開けて、中に入ってくるあゆみに万太郎が声をかけるのでありました。あゆみの顔が今朝と同じに心持ち蒼白に見えたものだから、万太郎は未だ気分が優れないのかと心配するのでありました。
「病院が混んでいたからね」
「それでどうだった?」
 万太郎はあゆみの顔を覗きこむのでありました。
「それがね、あのね、・・・」
 あゆみは万太郎の目を円らな瞳で一直線に見るのでありました。「実は、どうやら、赤ちゃんが出来たみたいなのよ」
 その思わぬ報告に万太郎の顔が一瞬表情を失くすのでありました。それからすぐにその顔に、みるみる赤みが増すのでありました。
「赤ちゃん、て、その、ええと、所謂、・・・赤ん坊、・・・の事か?」
 何を訊いているのか万太郎は自分でもよく判らないのでありました。あゆみは頓狂な万太郎の云い草にも関わらず真顔で二度頷くのでありました。
「そう。その赤ん坊よ」
「・・・おお!」
 万太郎は妙な声色の感動詞を口走るのでありました。そこであゆみが、一連の万太郎の間抜けな反応に対して、口元に曲げた人差し指を添えてクスッと笑うのでありました。
 万太郎の態度が急にそわそわと、妙に恭しそうになるのでありました。
「起きていて大丈夫なのか、横にならなくても?」
「大丈夫よ。つまり病気じゃないんだから」
「ああそうか。しかし念のために、横になっておいた方が良いんじゃないかな」
「今ここで急に横になっても、仕方ないじゃない」
「それもそうだな。・・・」
 万太郎はあゆみの顔を心配そうな目で見遣るのでありました。その後何を思いついたものか、急にすっくと立ち上がるのでありました。
「何処行くの、万ちゃん?」
 そう訊かれて万太郎はすぐに困惑の表情をするのでありました。
「ああいや、別に何処にも行かないんだけど。・・・」
 万太郎は呟くように云ってまたその場に座るのでありました。座り直したのは良いけれど、どうにも尻の落ち着かない心持ちであります。
「赤ちゃんが出来たって聞いて、どう、今の気分は?」
 あゆみがまるで万太郎の落ち着かなさをからかうように、そんな事を如何にものんびりした口調で訊くのでありました。
「今の気分は、ええと、嬉しいに決まっているんだけど、どうしたものか顔が、それをちゃんと上手く表せないんで困る」
 その万太郎の云い草は何となく苛々しているようにも聞こえるのでありましたか。しかし要するにこんな万太郎のオロオロぶりに、万太郎なりに確かに大いに喜んでいるのだろうとあゆみは察しをつけて、安堵したように目尻を下げるのでありました。

「ああそうか。それは良かった」
 これは早速報告に及んだ時の是路総士の言葉でありましたが、万太郎とは違って如何にも落ち着いた様子ながら、その喜色は目尻から溢れているのでありました。
「お目出とう。そうじゃないかなって思ったのよ」
 こちらは大岸先生の言葉であります。「今朝急に気分が優れなくなったの?」
「いいえ、少し前からあったんですが、ちょっとした風邪だと思っていたんです。でも今朝は思い当るところがあって、それで念のために病院に行ったんです」
「それで確定したわけね?」
「確定と云うのか、検査の結果が明日出るまではっきりしないんですけど、でもお医者様には、先ず間違いないって云われましたけど」
「検査結果を待つまでもなく、あたしも絶対間違いないと思うわ。確かに、あゆみちゃんの今の顔つきは何となく懐妊した女性のそれだもの」
 大岸先生のその言葉を聞きながら、万太郎はそう云うものかと感心するのでありました。女は女同士と云うところでありましょうが、そこいら辺りの機微には、万太郎如きが容喙する余地なんぞは髪の毛一本分もないと云うものでありますか。
「こりゃあ目出度い。跡取りの七代目も出来て常勝流の未来も安泰と云うものだ」
 鳥枝範士が知った時の反応はややお先走りのきらいがあるのでありました。
「男か女かも、それにその素質があるのかも未だ判りませんよ」
 あゆみが苦笑いながら応えるのでありました。
「何れにしても結構な事。総務長先生、お目出とうございます」
 鳥枝範士は万太郎に深々とお辞儀して見せるのでありました。「こうなれば、ワシが云う迄もない事だが、棋道のために尚一層のご奮起を願います」
(続)
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お前の番だ! 598 [お前の番だ! 20 創作]

「あれ、あゆみ先生はどうされたのですか?」
 迎えに出た来間教士が不思議そうな顔をするのでありました。
「ちょっと、体調が優れないようだから、朝一で病院に寄ってから来るそうだ」
「珍しくお風邪ですかね?」
 これは万太郎の靴を下駄箱に仕舞いながら云う真入の言葉でありました。
「多分そんなところだろう。微熱があるようだし」
「今日は少年部の稽古もないですから、お休みになられても大丈夫ですよ」
 来間が気遣うのでありました。
「その辺はあゆみも知っているから、病院の診断次第で自分で決めるだろう。それより朝食の用意はどうなっているのか?」
「もう大岸先生にあらかた調えて貰っています」
 大岸先生はこのところ毎日万太郎とあゆみが来る前から出張って来ていて、自分も含めて六人分の朝食の用意を手伝ってくれているのでありました。そのお蔭であゆみが来た時には、ほぼ支度は整っていると云う按配でありました。
 恐縮ではあるものの、あゆみとしては慎に好都合と云う寸法であります。しかし大岸先生としても、大勢で摂る朝食を自分も楽しみにしていると云った様子でありましたか。
「真入、あゆみの代わりに大岸先生の後の手伝いはお前がやれ」
 万太郎が命じると真入は一瞬及び腰を見せるのでありましたが、これは本人に料理なんぞと云う仕事が、嫌いであると同時にその才能もないと云う自覚がある故でありました。しかし総務長の云いつけであるし、重要な内弟子仕事の一つでもある事は判っているから、すぐに顔色を改めて押忍の発声の後に素直に台所に走るのでありました。
「真入に任せて大丈夫ですかね?」
 来間が不安を表明するのでありました。
「ま、大丈夫、だろう、・・・多分」
「真っ黒焦げの鯵の開きとか、煮え滾った味噌汁とかが出て来るんじゃないですかね」
「大岸先生が大方に目を光らせているから大丈夫だろう、多分。・・・」
 台所の大岸先生に一礼して感謝の言葉を発してから、万太郎は居間に座っている是路総士の前に正坐して、朝の挨拶とあゆみの遅参を報告するのでありました。
「ほう、微熱があって体調が優れないのか。あゆみにしては珍しいな」
 是路総士は特段強く心配する風もなくそう云って頷くのでありました。
「昨日から体の調子が悪そうだったの?」
 大岸先生が炊事の手を暫し休めて居間の方に来るのでありました。その間真入に調理を任せて大丈夫だろうかと万太郎は頭の隅で少し心配するのでありました。
 チラとそちらを窺うと来間がガスコンロの前に立つ真入の横で、あれこれ指図しているのでありました。傍で見ていて来間も心配になったのでありましょう。
「いや、今朝になって急にそんな感じでした」
 万太郎は大岸先生に向かって云うのでありました。
(続)
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お前の番だ! 597 [お前の番だ! 20 創作]

「まあ、長く一派の武道のみをやっていればそう云う事もあろうよ」
 是路総士は大らかさの中に万太郎の来間への苦言を包み修めるのでありました。
「ところで秘伝の話しに戻りますが、では、代々直系相伝で宗家を継ぐ者が秘伝伝授をしていただく意味は、一体どこに在るのでしょうか」
 万太郎の是路総士を見る目に困惑が湧くのでありました。
「常勝流が古武道であると云う認識に依るからだ。現代武道なら秘伝なんと云うものはあっさり擲って、実質のみに術理体系や体制を変える事も出来るが、古武道は道統を忠実に継承すると云う観点から、代々受け継がれてきた仕来たりの実質本位の変更を拒む故だ。代々の宗家或いは門下が築いてきた風習を尊ぶと云う、形式、と云っても良い」
「形式、として僕は秘伝を伝授されるのですね?」
「そうだ、それ以上の意味も、それ以下の意味もない。しかし宗家となる者には、その形式を無批判に受け入れるだけの、一種の器量が求められる」
「判りました。昨日までの僕の意気ごみと今のお話しとが、何となく上手く溶けあわないのですが、しかしとにかく秘伝伝授の意義は了解しました」
 万太郎はそう云って頭を掻いてから律義らしいお辞儀をするのでありました。
「よし、では」
 是路総士が微笑みながら一度頷いて徐に立ち上がるのでありました。万太郎も一拍遅れですっくと立ち、こうして愈々、向後三月に及ぶ秘伝伝授が始まるのでありました。
 しかしじっくりと是路総士に差しで技術を習ってみると、成程秘伝技とは変化技の最上級のもの、と云う類かと万太郎は思うのでありました。到底投げるタイミングではないところで、今までの技法にはない体の使い方に依って投げを打ったり、自分の四肢を精緻に使用して相手の体を雁字搦めに身動き出来ない状態に極めたりと云ったものが殆どで、確かに是路総士の云う、外連の技、の例えが的を射ていると云う印象でありましたか。
 確かに一度は有効かも知れませんが、二度は使えない技でありましょう。秘伝を会得せんとして意気ごむよりも、地道なごく普通の稽古を懈怠なく積み重ねる方が、寧ろそれは確かに、常勝流の奥義に近づくための王道と云えるでありましょうか。
 まあしかし、実戦上の体の使い方と云う点に於いては、到底不自然と思えるような体勢でありながらも、安定して相手を腰に乗せて逆落としに投げるとかの、常とは違う身体操作法が一種圧巻ではありましたか。それを知っていれば確かに、まあ一回は、勝負に於いて有効に使う事が出来ると云うものでありますかな。
 秘伝伝授は万太郎には拍子抜けと云えなくもないのではありましたが、常勝流の最高位者として、絶対不敗であるためには必要な技術とも考え得るのであります。それは確かにあらゆる状況に於いて、宗家たる者が勝負にたじろぎを見せるわけにはいかないのでありますから、秘伝技も習得して決して無駄ではないとは云えるのでありましょう。

 朝は何時も一緒に道場にやって来る万太郎とあゆみでありましたが、その日に限って、万太郎が一人だけで道場の玄関を入るのでありました。
(続)
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お前の番だ! 596 [お前の番だ! 20 創作]

「外連の技、ですか。・・・」
 万太郎は何となく納得し難いと云う表情をするのでありました。「常勝流に伝わる天下無敵の必殺技、ではないのですね?」
「違うな」
 是路総士はあっさりと肯うのでありました。「若しそう云う技があるのなら、その技を門下が習得出来るように稽古体系が編まれる筈だ」
「余りにも危険なので、日頃の稽古からは除外されていると云うのでもないのですか?」
 万太郎の質問に是路総士は戯れ言に対するの笑いを返すのでありました。
「まあ、秘伝技に対してそう云う印象を持たれるのは、こちらの願ってもいない有難い勘違いでもあるわけだが、そんな魔法のような技術があるわけがない事は、真摯に稽古に打ちこんでいる者なら容易に判ると云うものだ。要するに神秘であるのを利用して、ある種の脅威を相手に抱かせる事が出来れば、それが秘伝の存在理由と云う事になろうよ」
「詐術、と云う事でしょうか?」
「そう云う風にも云える」
 是路総士は無表情で頷くのでありました。「勝負と云う点で考えれば、一度はその秘伝は相手に通用するかも知れないが、二度は通用しない」
「だから決して使ってはいけない、と云う事ですか?」
「そうだ。秘伝とは途轍もなく精妙な技でも、この上もなく頼りになる技でも、無敵の神通力でもない。意表を突く技ではあるが、しかし今云ったように、それは二度は通用しない技でもある。普段稽古している常勝流の技術を磨きに磨く方が、恐らく確実に強くなれるだろうし、そのような者に対して秘伝技はおいそれとは通用しないだろう」
「ああそうですか。・・・」
 万太郎は些か拍子抜けするのでありました。しかし考えてみればそんなあっと驚くような秘術があるのなら、効率の点からも、日頃の地道で地味で武道家の心胆や体を創る稽古なんぞは必要ないでありましょうし、時間の無駄と云う事になるでありましょう。
 しかし稽古者が地道で地味で心胆や体を錬る稽古を十年一日の如く続けているのは、そちらの方が実は強さ或いは上達と云う点に於いて、実質を得た稽古であるからなのでありましょう。神ならぬ身ならば、それは当の当然なのかもしれません。
 万太郎は八王子の洞甲斐先生の事をふと思い浮かべているのでありました。そう云えば洞甲斐先生は武道から足を洗ったようでありますが、今頃どうしているのやら。・・・
「最近はその秘伝の絡繰りをちゃんと解明して、稽古の体系を科学的に捉え直して精進している打撃系の武道もあると、興起会の田依里君から聞いた事がある」
「ああ、それは僕も聞いた事があります。確か来間辺りはその会派の人が出している本を何冊か、田依里さんから借りて読んでいる筈です」
「ほう。流石に研究熱心な来間だけの事はある」
「研究熱心は認めますが、その影響からかあれこれ無用な気揺らぎがあって、来間はどうも最近、稽古に直向きさが多少不足しているような気がします」
(続)
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お前の番だ! 595 [お前の番だ! 20 創作]

「まあ、形の上では、それはそうだがな」
 是路総士は笑いながら茶を啜るのでありました。「今からお前に親炙せんとする人間が増えると云う事だから、次期宗家としてお前も着々と頼もしくなっておるなあ」
 この言葉は是路総士の好意的な笑顔の上に乗っているのでありました。
「僕は特段そのような心算はないのですが」
 万太郎は頭を掻くのでありました。
「しれっとしたそう云うお前の様子がまた、頼もしいところとも云える」
 是路総士は笑顔を何度か上下させるのでありました。
「そんなものでしょうかねえ」
 万太郎の何となく鈍い反応に横のあゆみが口に掌を添えて笑うのでありました。
 その万太郎の親炙者第一号たる真入増太が、或る日食堂に入って来て、そこでコーヒーを飲んでいた万太郎に恐る々々と云った態で訊ねるのでありました。少年部の稽古中でその日偶々万太郎と真入の出番はなく、食堂には万太郎一人が居たのでありました。
「総務長先生、つかぬ事をお聞きしますが、・・・」
 真入は座っている万太郎とテーブルを挟む向い側に立った儘で云うのでありました。
「何だ、その、つかぬ事、とは?」
「ええ、その、総務長先生が総士先生に伝授された常勝流の秘伝の事なのですが、・・・」
 直系相伝のものでありますから、他者たる自分がそれを聞くのは不謹慎で、憚らなければならないかと云うたじろぎが籠った口調でありました。
「その秘伝がどうしたんだ?」
「いや、それがどんなものか訊くわけにはいかないでしょうが、一端くらいは教えていただけるものかと思いまして。・・・」
「非公開が原則だ」
 万太郎は厳な口調で先ず云って、それからすぐに表情を緩めて些か冗談めかして続けるのでありました。「それに、教えると値打ちが下がるから、一端も何も教えないぞ」
 万太郎の拒絶の言葉に、真入は落胆の色を顔に浮かべるのでありました。
「しかし総務長先生の技の中に、今後その一端とかは現れるのでしょうか?」
「いや、現れないな。あっさり表わしたら、そこで既に秘伝じゃなくなるだろう?」
「まあ、それはそうですが。・・・」
 真入は好奇心がなかなか仕舞い難い、と云った顔で残念がるのでありました。
 秘伝伝授の折、万太郎は是路総士に先ず、秘伝は一度でもその技術を使った途端、もう秘伝ではなくなる、と先の万太郎の言をその儘云われたのでありました。
「だから、生涯使わないのが秘伝の秘伝たる所以だ」
 是路総士は特に意趣あってと云う風ではなく、全く無表情で云うのでありました。「秘伝は真摯に修行を続けていれば手に入れられるもの、と云う技法列の最先端にあるのではなく、それとは全く違うところに存するものと云う事になるのだが、それを習ったからと云って飛躍的に強くなると云うものでもない。云うなれば外連の技だ」
(続)
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お前の番だ! 594 [お前の番だ! 20 創作]

「いや、オイは未だ弟子ば取る立場じゃなかですけん」
 万太郎はそう云って重井少年を見るのでありました。重井魂太は万太郎の言葉にまるでいきなり梯子を外されたように、如何にも情けなさそうな表情を返すのでありました。
「折野しぇんしぇいの弟子になられんとなら、東京に行く甲斐のなかごとなるです」
 重井魂太はそう云って俯くのでありました。特に意図したわけではなかったにしろ、聞き様に依ってはつれない一言であったかと万太郎は少し気の毒になるのでありました。
「そう云われてもなあ。・・・」
 万太郎は頭を掻くのでありました。「それにオイは、もう折野て云う姓じゃなかぞ」
 重井魂太がハット気づいたような顔をして狼狽するのでありました。
「あ! すんましぇん」
 重井魂太は慌てて低頭するのでありました。肝心な時に致命的な間抜けをやらかして仕舞ったと、その年頃の少年らしく如何にも大袈裟に恥じ入るのでありました。
「一応云うたまでで、まあ、それは別に気にせん。第一オイ自身も時々、人に自分の名前ば云う時に未あだ間違うぐらいやけん」
 万太郎はそう云いながら、何となく横のあゆみを見るのでありました。あゆみは口に手を当てて控えめな仕草で吹いて見せるのでありました。
「先ずは常勝流の総本部道場に入門すればよかじゃろう」
 角鼻先生が助け舟を出すのでありました。
「ああ、それなら何時でも歓迎するぞ」
 万太郎は重井魂太に笑顔を向けるのでありました。重井魂太は暗闇にいきなり光明が燈った、と云った具合の歓喜溢れる表情になるのでありました。
 なかなかに純な少年のようであります。これだけの遣り取りながらも万太郎は、常勝流を学ばんとするに重井魂太が熱い情熱を有しているのを見取るのでありました。

 茶を啜った後に、是路総士が万太郎に和やかな表情を向けるのでありました。
「ほう。それでその重井と云う高校生はお前の弟子になりに東京に出て来るのか」
「いや大学進学が本旨ですが、まあ、上京後は早速に入門するのではないでしょうか」
「何となく情熱的で意志の強そうな目をした子だったわよ」
 あゆみがそう云い添えて、卓上にある自分の湯呑を手に取るのでありました。
 熊本への出張指導兼里帰りから帰った万太郎はあゆみと一緒に、帰京した翌日の夜、その日の稽古が総て終わってから、師範控えの間に居る是路総士に挨拶に上がるのでありました。先ずは万太郎の両親の挨拶を伝達して、その恙ない事を報告し、託された土産等を献じてから、話しは捨身流の角鼻先生の道場での出来事に及ぶのでありました。
「お前にもう一人、直弟子が出来ると云う事になるわけだ」
 是路総士の云う別の一人とは、云う迄もなく真入増太の事であります。
「いや、僕は個人的に弟子を取る立場ではないのですし、常勝流総本部道場の新しい門下生になると云う事ですから、要するに僕ではなく総士先生の弟子になるわけです」
(続)
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お前の番だ! 593 [お前の番だ! 20 創作]

 万太郎のこのような試合を下座に居並ぶ門弟達の一番隅で、まだ高校生程の歳と思しき一人が、食い入るように見つめているのが万太郎の目の端に映るのでありました。その少年は万太郎の最後の対戦者として、角鼻先生から名前を呼ばれるのでありました。
 少年は躍り出てきて万太郎と対峙するとお辞儀の後に木刀を正眼に構えて、剣道試合で身につけたのであろう、甲高い気合の一声を先ず万太郎にぶつけてくるのでありました。やや血走った眼と上気した頬の赤味と、きびきびした動作とせわしなく動く木刀の先端に、万太郎と試合う緊張と興奮を隠しきれないと云った風情でありましたか。
 その風情をなかなか好ましく思った万太郎は、下段に木刀の切っ先を落として少年の打ちこみを待つのでありました。精気漲る年頃故か少年は打ちこむ直前に目を剥くのでありましたから、万太郎が少年の気勢を読むのは造作のない事でありました。
 裂帛の気合もて何度打ちこんでも万太郎が大した捌きもなく軽々と躱すものだから、少年の息はすぐに上がるのでありました。頃合いで少年が突きにきたところを往なして、ふり返るところを万太郎の木刀の物打ちが易々と少年の右小手に乗るのでありました。
「それまで!」
 角鼻先生の声が響くのでありました。少年は急に気合抜けしたように棒立ちになって、木刀を持った手を下に垂らすのでありました。
 少年は試合の端から到底太刀打ち出来ないと悟っていたようで、出る時の勢いが嘘のように、ようやく緊張から解放されたと云う如何にもしおらしい様子で、万太郎と一間の間合いに分かれると、そこに正坐して万太郎に丁寧な一礼を向けるのでありました。
「始めから判っとったばってん、まあだお前では、万太郎の足元にも及ばんなあ」
 角鼻先生は少年に顰め面をして見せるのでありました。「まあ、ウチの門弟共も全員、結局万太郎に適当にあしらわれたごたる具合じゃったばってんが」
 角鼻先生がそう云って下座の門弟達を見渡すと、門弟達は一様に面目なさ気に角鼻先生から目を逸らして俯くのでありました。
「いやあ、木刀で試合ばしたけんでしょう。防具ばつけて竹刀で立ちあっとったら、オイの方が簡単につめ寄られとったて思うですよ」
 万太郎は少年との礼の交換の後に角鼻先生に云うのでありました。
「捨身流剣術は元々真剣で立ちあう剣法なんじゃから、竹刀剣道で勝っても大した自慢にはならん。ま、今の言葉は万太郎の礼儀として素直に受け取っておくばってんな」
 角鼻先生は自分の門弟達が万太郎に不甲斐なく翻弄された事に然して拘る風もないようで、朗らかな笑い声等立てるのでありました。「ところで最後に立ちあった男は高校三年生で、来年東京の大学に進学する予定ばい。なあ。重井」
「はい。その心算でおります」
 重井と呼ばれた少年は顔を起こしてそう言明するのでありました。
「重井魂太、て云う名前で、東京に出たら万太郎の弟子にして貰うて今から云うとる」
 重井魂太はそう紹介されて、万太郎の方にキラキラする目を向けてペコッと頭を下げるのでありました。意欲満々と云った風情であります。
(続)
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