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あなたのとりこ 146 [あなたのとりこ 5 創作]

「JRは電話で問い合わせるとなると大変な時間がかかるんじゃないかな」
 屈めていた腰を伸ばして、机上のコピーから顔を遠ざけながら頑治さんが隣の均目さんに訊くのでありました。最初にコピー原稿を見た時、面倒だろうと及び腰して、これを後回しにして遣り残したのを頑治さんとしては少し引け目に感じているのでありました。
「ああ、JRの路線に関しては鉄道弘済会発行の時刻表から拾い上げれば大丈夫だよ。それはJRが監修した時刻表なんだから」
「ああ、成程ね。それはOKと云う事になるんだ」
「そう云う事。で、後残っている路線は?」
「都営地下鉄と都電荒川線くらいかな」
「ほう、随分と片付けてくれたんだな」
 均目さんは感心するのでありました。「俺がやるより遥かに捗ったかな」
「まあ、ポカが無いなら」
「いやいや、どうもご苦労さん。もう五時になったからその辺で上がって良いよ」
 均目さんがそう云うものだから、頑治さんはこの辺で切り上げて良いものか一応確認のため片久那制作部長の方に顔を向けるのでありました。
「ご苦労さん。助かったよ」
 片久那制作部長が頑治さんに笑顔を向けるのでありました。
「出来れば残りの都営地下鉄や荒川線も片付けたかったのですが」
「いやいや充分だ。ここまで捗るとは正直思っていなかった」
 片久那制作部長は満足そうに頷くのでありました。
 丁度そこに外回りから帰って来た土師尾営業部長が制作部のスペースに顔を出すのでありました。その日午前中からずっと社には居なかったのでありました。
 土師尾営業部長は制作部の那間裕子女史の机の前に座っている頑治さんを見て、怪訝そうな視線を投げて寄越すのでありました。
「唐目君には今日は制作の仕事を手伝って貰っていたんだよ」
 片久那制作部長が訊かれる前に説明するのでありました。
 頑治さんの直接の上司は土師尾営業部長と云う事になるのでありますが、その許可を得ずに頑治さんに制作部の仕事をさせた点に、片久那制作部長としては少し遠慮を感じたのかも知れません。いやしかし日頃から畏れを抱いている会社の実質的ボス格の片久那制作部長のやる事に、土師尾営業緒部長は心根の内で不愉快を感じる事はあっても、面と向かって苦情を垂れる事は出来ないでありましょう。依って、自分がないがしろにされたと感じても、まあ結局のところ追認するしか術は無いと云う寸法でありますか。
「配送とか倉庫の仕事は大丈夫だったの?」
 土師尾営業部長は腹いせにか、頑治さんに少し険しい顔を向けるのでありました。
「それは問題無いよ」
 片久那制作部長が代わりに応えるのでありました。その辺にこの俺が抜かりがある筈が無いだろうと云う、一種の高飛車がその言葉の表面に張りついているのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 145 [あなたのとりこ 5 創作]

「うん、まあ」
 頑治さんは今の電話で訊き洩らしが無かったか確かめるために、コピーに目を凝らしながら応えるのでありました。訊き洩らしがあってまた今の男に電話をするのは億劫でありましたし、そんな間抜けな電話をすぐに掛け直すのは如何にも癪でありますし。
「あの鉄道会社は、問い合わせの電話をした時は何時も扱いがぞんざいだからなあ」
「そうだね。確かに最初はけんもほろろと云った具合だったかな」
 どうやら訊き洩らしは無さそうで、頑治さんは安堵するのでありました。
「誰彼に限らず何時も無愛想で意地悪よね、あそこは」
 またライトテーブルの那間裕子女史が後ろから声を掛けてくるのでありました。「よくあんな調子で広報課の仕事が務まると思うわよ」
「系列のバス会社なんか、もっと対応が酷い」
 均目さんも那間裕子女史の方に顔を向けるのでありました。
「屹度あの電鉄グループの社風よ、あの不親切で人を見下したような対応は」
「しかし大手の名前の通った出版社や新聞社とか通信社、或いはテレビ局、それにこれも大手の旅行代理店なんかの問い合わせには、言葉遣いも態度も至極丁寧だそうだよ、結構大きな旅行代理店に入った大学時代の知り合いに聞いたところに依ると。まあ、そう云うところとは日常的に仕事の繋がりが濃いためかも知れないけど」
「でもどう云った気紛れからか、結果的にはちゃんと教えてくれたよ」
 頑治さんはコピーに目を戻して次の電話に取り掛かろうとするのでありました。
「聞いていたらそんな感じだったわね。あそこの広報課にあんな風にちゃんとした対応をさせると云うのは、電話に関しては大した腕前かもよ、唐目君は」
 那間裕子女史が頑治さんの後頭部に向かって褒めるのでありました。それには特に応えずに頑治さんは次の電話のために受話器を外すのでありました。
「あたし等よりも唐目君の方が、実は制作の仕事に向いているのかも知れないわね」
 那間裕子女史は未だそんな事を云っているのでありました。それに反応して均目さんが那間裕子女史の方に振り返ったところで片久那制作部長が口を開くのでありました。
「好い加減、唐目君の邪魔をしていないで、二人共自分の仕事に専念しろ。今やっている仕事はそんな悠長に構えていられる仕事じゃないだろう」
 そんな風に何となく冷たくて厳とした語調で窘められて、均目さんと那間裕子女史はたじろいで一旦片久那制作部長の方に顔を向けて口を噤むのでありました。それからお互いの顔を見交わしてから、均目さんの方はすごすごと首を元に戻すのでありましたし、那間裕子女史は窘められた事が気に食わないと云った風に鼻に皺を寄せて見せてから、ライトテーブル上の製版用のフィルムの方に目を戻すのでありました。

 結局夕方五時迄に頑治さんは鉄道会社六社に電話をするのでありました。それで均目さんがやり残していた粗方の私鉄各線の駅間所要時間は埋まるのでありました。後は都営地下鉄や都電荒川線、それにJR各線が残るのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 144 [あなたのとりこ 5 創作]

「他の鉄道会社さんにもこんな、或る意味迷惑な電話をかけまくっているの?」
 男が、前を厳冬の一日とすれば小春日和程度に言葉の棘を丸めるのでありました。
「ええ。交通案内に記載させて頂いている総ての鉄道会社さんに、ご迷惑を承知でご協力頂いております。どちら様も快くご教示くださいます」
 頑治さんは少しの揶揄をうっかり見逃せば見逃せる程度に忍ばせるのでありました。
「何某電鉄さんとかも?」
 男は東京西北部から埼玉県方面に延びている、こちらもこの鉄道会社同様複雑に多くの路線が入り組んだ鉄道会社の名前を云うのでありました。
「はい勿論です。少々お時間を取らせて仕舞いましたが、態々ご親切に先方様の方から様々な行先の急行とか快速電車の駅間所要時間までご教示くださいました」
 頑治さんはその鉄道会社には未だ電話をしていないのでありましたが、ここは一番、しれっとはったりを咬ませるのでありました。序にここにもぼんやり見逃せば見逃せるような当て擦りを混入させているのは、依って件の如しであります。
「ふうん。そうなの」
 男はここで言葉を切って間を置くのでありました。「ウチで発行している裏に全路線が描いてあるパンフレットをこちらから送る、というのでは駄目なのかな?」
「全駅間の所要時間が明記してある物ならそれでも結構ですが」
「ああそうか、全駅間所要時間か。・・・」
 男がそう云ってからまたしてもここで言葉が途切れるのでありましたが、恐らくそのパンフレットには特急とか急行のめぼしい所要時間は記してあるものの、一々の駅間所要時間は記載されていないのでありましょう。「ちょっとお待ちください」
 今迄やけにぞんざいだった男の言葉付きがここで丁寧さを取り戻すのでありました。受話器の向こうからなにか資料を引っ張り出しているのかクシャクシャと紙擦れの音が小さく聞こえて来るのでありました。竟に諦めてどうやら教えてくれる気になったようでありまあす。頑治さんはまたしても胸の内で指を鳴らすのでありました。
 余計な手間惜しみ心とか意地悪心、或いは警戒心を起こさないで最初から素直に教えてくれていれば、ここまでの実に無意味な時間の空費は無かったのにと頑治さんは内心舌打ちするのでありましたが、勿論そんな気配は噯にも出さないのでありました。
「ええと、先ず本線からでしたよね」
 ようやく向こうの男が言葉を発するのでありました。

 まあ、ここから時間にして二十分程で全駅間の所要時間を訊き出すのでありました。その後頑治さんが特急とか急行の所要時間を訪ねると、男は意外に素直に、且つ事務的にそれも教えてくれるのでありました。総計四十分と云うのがこの電話に要した時間でありましたか。最初の方のゴタゴタを除けば、半分の時間で事は済んだ筈でありましょう。
「何やら、あれこれともめていたね」
 電話を切って頑治さんが溜息を吐いた後で均目さんが声を掛けるのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 143 [あなたのとりこ 5 創作]

 相手から竟に、丁寧口調も無くなるのでありました。
「確かにそうではありますが、私共の制作物への記載情報の収集は直接主体に当たるのが大前提でして、二次的な資料からの転用は控えなければならないのが原則です。ですからこうして直接御社に電話をかけさせて頂いた次第です」
「ふうん」
 男は別に納得した訳ではないけれど、そう云う事であるのなら、それはそれでそちらの勝手だから一応認めようと云った具合の合いの手を返すのでありました。
「と云う事で、先ずは本線から伺いたいと思いますが」
 頑治さんは仕切り直しに口調を改めるのでありました。
「いやいや、ちょっと待ってよ」
 男の、頑治さんに向かって手を横に強く振って見せる姿が見えるようでありました。
「ええと、何か?」
 頑治さんは至極穏やかに訊くのでありました。
「ウチの路線の総ての駅間所要時間となると、大変な手間だよねえ」
 ここで男の云う手間とは自分の手間で、これはそれを惜しんでの言でありましょう。
「そうですね。とは云っても一時間とかは先ずかかりませんけれど」
「そりゃあそうであるにしろ、そんな長い時間を、何の断りも無く突然かかってきたオタクの電話のためだけに使うのはねえ」
 如何にも迷惑だと、男はこの後に不愉快そうな口調で続けたかったのでありましょうが、そこは口籠もるように省略するのでありました。広報と云う体裁のためか、余りに横柄な対応と受け取られたくはないようであります。そんな男の気分が受話器から漏れ伝わってきたものだから、頑治さんは秘かに胸の内で指をパチンと鳴らすのでありました。
「では事前に、何時々々に電話しますからお願いします、とお断りすれば、その折にはご教示を頂けるのでしょうか? 若しそう云う事なら改めますので、この電話でご都合のよろしい日時をご指定頂けますでしょうか。それとお宅様のお名前もお願い致します」
 男としたらこの儘電話を適当にあしらって切った後は有耶無耶、と云うのがその了見でありましょうから、日時の指定を請われるとは思わなかったでありましょうか。
「いやまあ、私は何時も社内に居るとは限らないからね。ご存知無いかもしれないが、鉄道会社の広報課の仕事は様々あって忙しいものだから」
「はい。拝察させて頂きます。ですからそちら様より日時をご指定頂きたいので」
「しつこいねえ、アンタも」
 頑治さんのちっとも引き下がらない様子に焦れて男の声が尖るのでありました。
「畏れ入ります。しつこいの国からしつこい教を広めに来たようなヤツだと、様々な辺りからそんな呆れ言葉を頻繁に頂戴いたします」
 頑治さんは八分の生真面目と二分のお道化を交えたような云い方をするのでありました。受話器の向こうの男の口元が意ならず緩んだような気配が伝わって来るのでありました。頑治さんはもう一度胸の中で指を小さく鳴らすのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 142 [あなたのとりこ 5 創作]

 横の均目さんが頑治さんの方に些か意外なような顔を向けて笑うのでありました。
「前に電話のアルバイトか何かしていたの?」
 ライトテーブルの那間裕子女史からもそんな言葉が掛かるのでありました。
「いや、そう云う訳ではありませんが」
 頑治さんはその、電話のアルバイト、と云うのがどのようなアルバイトなのか今一つ上手く想像出来ないのでありましたが、後ろの那間裕子女史の方を振り返って取り敢えずそう応えるのでありました。恐らくランダムに電話を掛けまくって何やらのセールスをする類の仕事をイメージしての言葉でありましょうか。まあ、良く判りませんけれど。
「この手の電話をするのは初めてなんだろうけど、相手との遣り取りに上擦ったところのない、至極慣れた感じの電話だったよなあ」
 均目さんが未だ頑治さんの方に顔を向けた儘感心するように頷くのでありました。「その調子でどんどん片付けてくれると俺も助かるね」
 そう持ち上げられたせいでは全くないのでありますが、頑治さんは早速次の電話に取り掛かるためにコピーに目を落とすのでありました。この間左隣りの山尾主任と奥の片久那制作部長の二人は何も口を出さないのでありました。
 山尾主任は頑治さんに笑顔を向けているのでありましたが、均目さんと那間裕子女史の言葉にそれ以上継ぎ足す言葉は無いと云った面持ちで、差し出るのを控えたと云うような様子でありました。一方の片久那制作部長の方はと云えば、頑治さんの電話っ振りなんぞには特段関心も無いと云った風情でありましたか。まあ、普段から口数の少ない仏頂面の御仁でありますから、無表情と云ってもそれは無愛想この上も無いような顔付きになるのでありますが、まあ、我関せずで自分の仕事に専念していると云った風でありました。
 頑治さんが次に電話を掛けたのは、東京西部から神奈川県にかけて込み入った幾つもの路線を有する鉄道会社でありました。代表番号から取り次がれて電話に出た広報課の社員はのっけから愛嬌の無い男でありましたが、頑治さんが社名を名乗ると、そんな会社なんぞは全く知らないと云った、全く以って冷え切った声で、態と戸惑いを籠めたような口調で、はあ、とだけ返すのでありました。前の電話とは大違いの様相であります。
「その贈答社さんとやらが、どんな要件で電話されたのですかね?」
 その男は端から何か相手を小馬鹿にしたような訊ね方をするのでありました。
「私共では今鉄道路線図を作成しておりまして、御社の全路線の駅間所要時間をお尋ねしようと電話させて頂いた次第です」
「全路線の駅間所要時間?」
 男は素っ頓狂な声を上げるのでありました。明らかにそう聞いた端から面倒臭がっている気持ちが込められた云い様でありましたか。
「そうです。全路線の全駅間所要時間です」
 頑治さんはめげずに如何にも丁寧でやや鈍感そうに、相手の苛々を全く感知していないような物腰で受け応えるのでありました。
「そんなの市販の時刻表で調べれば良いんじゃないの?」
(続)
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あなたのとりこ 141 [あなたのとりこ 5 創作]

 それから何か急に云いそびれた事を思い出したらしく、均目さんはまたすぐにそそくさと頑治さんの横に椅子ごと移動して来るのでありました。
「ああご免、云い忘れていたけど、・・・」
 頑治さんはその均目さんの言葉を受けて、電話に伸ばしていた手をその儘受話器の上に載せた形で均目さんの方に顔を向けるのでありました。
「所々に急行とか特急とか書いてあるのがあるだろう」
 そう云われて頑治さんはコピーに目を落とすのでありました。確かに路線の横の空白に小さな字で特急とか急行とかの文字があり、幾つかの丸を直線で結んであるのでありました。丸印はそこに記してある駅名から、つまり特急とか急行の停車駅でありましょう。
「ああ確かに。この所要時間も向うの広報に訊けって事だな」
「そう。その通り」
 頑治さんがすぐに察したので、均目さんは少し気抜けしたような顔をして頷くのでありました。これは益々面倒な小難しい仕事になりそうであります。
「判ったよ。それも忘れずにちゃんと訊くよ」
 頑治さんのその返答で均目さんは再び頑治さんの横から離れるのでありました。

 取り掛かりは比較的運行路線数の少ない鉄道会社で、総営業距離の短いものを選んで電話を掛けるのでありました。先方の代表番号に路線の駅間所要時間を総て教えて貰いたいのだがと云うと、速やかに広報課に回してくれるのでありました。
「こちらは贈答社と申しますが、ちょっとお時間を取らせて仕舞いますが、総ての駅間所要時間をご教示頂きたくて電話をさせて頂いたのです」
 頑治さんが受話器に向かってなるべく丁重にそう申し出るとこの最初に選んだ会社の、偶々電話に出た男の広報課社員は別に面倒そうな物腰でもなく、寧ろ謹慎な語調でどうぞと承諾するのでありました。無作為に最初に選んだ先から邪険にあしらわれたら幸先が良くないと考えていたものだから、頑治さんは内心胸を撫で下ろすのでありました。
 向こうもこの手の問い合わせは時々あるようで慣れた口調で到って手際良く、先ずは本線の始発駅からの各駅間所要時間を一々、しかもこちらの書き記す手の速さに気を遣いながら教えてくれるのでありました。のっけからなかなか親切な人に当たったようであります。聞き洩らす事無く集中しながら所要時間を聞き書きしながら、頑治さんはこの先もこういう調子でスムーズにこの仕事が進行する事を願うのでありました。
 各駅間所要時間の後は特急と急行、それに快速電車の停車駅間所要時間も変わらぬ丁重さで教えてくれた後、更に親切にも相互乗り入れしている地下鉄の終着駅迄の時間も教えてくれるのでありました。その律義さと云うのかサービス精神に頑治さんは大いに感激するのでありました。この鉄道会社の床しい社風が偲ばれると云うものであります。
 時間にしたら二十分程の電話でありましたか。頑治さんは受話器を持った儘お辞儀等しながら最大級の謝意を表して電話を切るのでありました。
「ほう、なかなか堂に入った電話っ振りだったなあ。大したものだ」
(続)
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あなたのとりこ 140 [あなたのとりこ 5 創作]

「でも那間さんはその間どうするのですか?」
「あたしは製版フイルムの修正作業があるからそのライトテーブルを使うわ」
 その所為製版フイルムの修正作業と云うのが頑治さんには何なのか良く判らないのでありましたが、まあ、そう云う事ならと那間裕子女史が立った机の前に行って交通路線図の図案の描いてあるコピーを置くのでありました。那間裕子女史の使っている椅子には小さな座布団が敷いてあるのでありましたが、椅子に腰を下ろすと座布団に移っている、直前まで座っていた那間裕子女史の体温が艶やかに尻から伝わって来るのでありました。

 頑治さんが右隣の席に座る均目さんを見ると、均目さんは椅子に座った儘で頑治さんの横に移動して来るのでありました。
「所要時間は手間だけど直接各鉄道会社の広報に電話して一々訊くのが原則だ。中には面倒臭がってか意地悪でか教えてくれないところもあるけど、その場合は所要時間が記載してある資料とかパンフレットを送ってくれと頼む事になる。教えてくれるところはその儘図に書き入れていけば良い。市販の時刻表をその儘引用しても良いんだけど、それでは二次資料の無断転載と云う事になるから、一応鉄道会社から直接教えて貰うんだ」
「じゃあ、先ず以て鉄道会社の広報に電話しなければならない訳だ、俺が」
「その通り。なるべく丁寧な物腰の電話をね。先ずこちらの電話した意図を縷々説明してから、気持ち良く協力して貰うと云う寸法だよ」
「ふうん。成程ねえ」
 単純に何かの資料から書き移せば良いのかと頑治さんは思っていたのでありましたが、これはなかなか面倒な仕事のようであります。頑治さんが眉間を狭めて少し及び腰の表情をして見せるものだから、均目さんは無声で少し笑うのでありました。
「向こうの電話に出た人の中には矢鱈と無愛想でつれない対応の人もいるし、あからさまに迷惑そうな声を出す人もいるけど、そこはこちらとしては苛々しないで律義に徹して何とか対応して貰う。まあ、秘密にしてある事を訊き出すのでもないし、そうやって自社の情報を流布するのも広報の一環と弁えて、丁寧な対応をしてくれる人も中にはいるよ」
 益々億劫で面倒な仕事のようであります。
「まあ良いや。取り敢えず何処かに電話をかけてみるよ」
 頑治さんはそう云って、何時もは那間裕子女史が専用に使っているのであろう机の隅に置いてある電話に手を延ばすのでありました。製作仕事の手伝いを引き受けた以上、何はともあれやってみなければ始まらないと云うものであります。
「見れば判るだろうけど、図の中で既に所要時間が書いてあるのは、もう俺が電話して完了した路線と云う事になる。だからそれ以外、ね」
 均目さんが一応念を押すのでありました。
「判った。鉄道会社の電話番号一覧みたいなものは無いのかな?」
「それは面倒だけど一々時刻表で調べてくれ。じゃあ宜しく」
 均目さんはまた椅子を転がして自席に戻るのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 139 [あなたのとりこ 5 創作]

「ああ、俺は大丈夫っスよ」
 出雲さんが屈託無く笑いながら頷くのでありました。
「じゃあそうしてくれるか」
 片久那制作部長は出雲さんに向かって一つ頷いて見せてから、頑治さんを誘って制作部スペースに戻るのでありました。それから自分のデスクに座ると横手のマップケースからA半裁程の大きさの紙を取り出すのでありました。
 それは首都圏の鉄道路線図の原稿のようで、多くの二条線が縦横斜めに入り乱れて描いてあるのでありました。二条線の中には等間隔に丸が打ってあって、それは駅を表わしており、手書きの右下がりの癖のある字でその駅の名称が付してあるのでありました。
 所々には二条線を大きくはみ出した丸枠が描いてあり、これは中に書いてある文字から推察すると乗換駅とか市区の代表駅、それに恐らく特急とか急行の停車する路線の中の主要駅でありましょう。乗換駅と主要駅、それに市区代表駅の別も一条線と二条線、それに外枠が太く内枠が細い二条線等の描き方で区別してあるようでありました。
 先ず方眼紙に下図を描いてそれをコピーした物らしく、コピーが荒いためか所々に元々有った方眼の目も薄く移り込んでいるのでありました。頑治さんが机上のその図面を覗き込んでいると片久那制作部長が頑治さんを見上げるのでありました。
「これは何だか判るよな?」
「電車とか駅の地下道なんかでよく見掛ける鉄道の路線図ですか?」
「そう。図案はウチのオリジナルだけどな」
 片久那制作部長はそう云って頑治さんの方から見やすいように、紙を九十度回してほんの少し頑治さんの方に押し遣るのでありました。
「で、自分がお手伝いさせていただく仕事と云うのは何でしょうかね?」
「この図の駅間にその所要時間を書いていって貰いたいんだ」
「ここに描かれた駅間総ての、ですか?」
「勿論そうだよ」
 いやはやこれは結構面倒な仕事だと頑治さんは内心げんなりするのでありました。
「今日一日では終わらないかも知れませんよ」
「それは承知だ。出来るだけ上げて貰えば良い。本当は均目君にやって貰っている仕事なんだが、均目君は急に、今日の午後はずっと別の仕事をしなければければならなくなったんでね。その今日午後分のピンチヒッターをやって貰いたいんだよ」
 代わりが必要なくらいこの路線図の作成はかなり急ぎの仕事なのでありましょう。
「判りました。やらせて貰います」
 頑治さんはあっさりそう云って路線図の原稿を両手で取り上げるのでありました。
「遣り方とかの要領は均目君に聞いてくれ」
「何処でやればいいんですかね?」
「あたしの机を使っても構わないわよ」
 那間裕子女史が振り向いて声を上げるのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 138 [あなたのとりこ 5 創作]

 一緒に戻って来た六人に片久那制作部長が訝し気な目を向けるのでありました。二人とか三人とかはあったとしても、六人の社員が打ち揃って昼休み明けに事務所に戻って来る事は今まで無かったのでありましょうから、奇異な光景だったのでありましょう。
 片久那制作部長は勘が良いので、その様子に何かを感じたようでもありましたか。しかしそれは一先ず脇に置いて、何も無かったかのように碁盤の上の自分の黒石をサラサラと音を立てながら片付け始めるのでありました。
「未だ々々当分は、日比さんには歯が立たないかなあ」
 片久那制作部長はそんな事を如何にも呑気そうな物腰で喋っているのでありました。
「いやいや部長は呑み込みが早いから、俺なんかすぐに追い越されますよ」
 日比課長はそう謙遜して見せて、格上の優越からか片久那制作部長よりはおっとりとした仕草で自分の白石を盤上から片付けるのでありました。
 頑治さんは机の上の発送指示書入れを覗いて何も無かったものだから、その儘倉庫に引き返そうとするのでありました。するとソファーから立ち上がった片久那制作部長に呼び止められるのでありました。何か制作部関連の仕事があるのでありましょうか。
「唐目君は午後の仕事はどんな感じかな?」
「二時半までに小石川の安藤坂物産からキーホルダーを引き取って来る予定です」
 このキーホルダーと云うのは、出張営業の袁満さんと出雲さんが観光地の旅館とかホテルの売店、それにお土産屋さん等に卸している商品で、金属製のアメリカ軍の兵士が首から下げている銀色の認識票のような代物でありました。それに各観光地の名称が刻印されていて、まあ、そんなに大量に売れる商品ではないけれど年間一定の安定した売り上げのある商品であります。安藤坂物産と云う会社が自社生産していているのでありましたが、贈答社の社員たる者がこうものすのも大いに憚りはあるけれど、頑治さんが若し旅行先でそれを目にしたとしても、恐らく購入しようと云う気は先ず起きないでありましょう。
「その後は?」
 片久那制作部長が更に訊くのでありました。
「今のところ取り急ぎの発送も配達も無いようですから、倉庫の整理整頓ですね」
 その日は珍しく発送や配達、それに引き取り関連の仕事が立て込んではいないのでありました。そんな手持無沙汰な折は、頑治さんは努めて倉庫整理とか駐車場周辺の清掃をするようにしているのでありました。頑治さんの持って生まれた綺麗好きとか几帳面がそうさせると云うよりは、色んな仕事の効率と気分の平穏を考えての事でありました。
「だったらちょっと制作部の仕事を手伝って貰えないか」
「はい。何処からか何か引き取って来るんですか?」
「いやそうじゃない。ちょっとした調べものだよ」
「調べもの、ですか?」
 どうやら専らにしている業務仕事の類ではないようであります。
「安藤坂物産にも出雲君に行って貰う事にして」
 片久那制作部長はそう云って席に座っている出雲さんを見るのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 137 [あなたのとりこ 5 創作]

「袁満君が信州出張から帰って来るのは何時だっけ?」
 山尾主任が訊くのでありました。
「ええと今度の出張は南信州だけだから、三泊四日で戻りますけど」
「と云う事は来週の月曜日か」
「ボーナス支給日の三日前だ」
 均目さんが指を折って確認するのでありました。
「まあ、出張だから仕方が無いけど、それじゃあ、来週の月曜日の仕事明けに集まるとするか。それ迄に各自どんな抗議の仕方が良いか考えて置くと云う事になる」
「でも俺、月曜と火曜は代休を取りたいんですけど」
 袁満さんは慎に遠慮気味に云って頭を掻くのでありました。
「どうしても月曜に用があるのなら仕方無いけど、火曜と水曜に出来ないのかな?」
 山尾主任にそう訊かれると、袁満さんは月曜日にのっぴきならない私用があると云う事でも無いようで、少し考えてから案外あっさりと頷くのでありました。
「ああそうですか。それならまあ、そうしますけど」
「じゃあ、申し訳無いけどそうしてくれるかな」
 山尾主任は頷いてからまた腕時計を見るのでありました。
「出雲君はどうなの、出張の予定は?」
 那間裕子女史が確認のため訊ねるのでありました。
「俺も、金曜日に出て帰って来るのは多分二週間後ですかね。今年最後の東北出張になりますから、ひょっとしたら二三日長引くかもしれませんけど」
「じゃあ、正念場のボーナス支給日当日は居ない訳ね」
「そうなりますね、済みませんけど」
 出雲さんは別段必要無いと思われるのでありましたが、謝りの言葉を付け足すのでありました。一致団結に自分が欠けるのが出雲さんとしては後ろめたいのかも知れません。
「出張なんだら、それは仕方が無いね」
 均目さんが庇うのでありました。
「じゃあまあ、そんな事で今日はこれ迄とするか」
 山尾主任がそう締め括ってその日の打ち合わせは解散となるのでありました。

 六人はぞろぞろと打ち揃って三階の事務所に戻るのでありました。応接ソファーには片久那制作部長と日比課長が向いあって座っていて、二人の間には一面に白黒の石が入り乱れて並べられている碁盤が据えてあるのでありました。
 最近片久那制作部長は囲碁に凝っているようで、昼休みによく日比課長と二人して碁盤を間に向かい合っているようであります。囲碁を初めて間も無い片久那制作部長が碁歴の長い日比課長に教えを受けているのでありました。尤も、疎ましいと云う程では無いのでありましょうが、日比課長の方は殆ど毎日昼休みに相手をさせられる事に些かげんなりしているようでもあると、頑治さんは袁満さんから前に聞いた事があるのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 136 [あなたのとりこ 5 創作]

 その言葉に皆頷くのは敢えて異論が無い故であります。
「先ず、今期のボーナスに対しては一致団結して抗議すると云う点は異議無いかな?」
 ここで那間裕子女史が真っ先に「勿論」と声を発するのでありましたし、続いて均目さんも同様の言葉を発して片手を挙げるのでありました。
 山尾主任は頷いてその後に袁満さんに視線を向けると、袁満さんも多少及び腰を見せながらも無言で頷いて挙手するのでありました。それを確認してから出雲さんの方に視線を移すと、出雲さんは「じゃあ、俺も賛成」と片手を挙げるのでありました。
 最後に頑治さんの方に山尾主任の目が向くのでありました。勿論山尾主任も異議無しの口でありましょうし、ここで頑治さんが不同意を宣したところで多数決でそれは否決されるでありましょう。それに否と云うべき特段の理由も見つからないものだから、頑治さんは控え目な声で「異議は無いです」と応えて頷くのでありました。
「俺も賛成だから、詰まり全会一致で団結して抗議する事は決定でいいね」
 山尾主任が確認のため全員の顔をつるっと見回すと、夫々は不揃いながらも夫々のタイミングで頷いて見せるのでありました。
「じゃあこれから、ボーナスは出るけど極めて少額の場合、それに慰労金名目でそれよりもっと少額が出る場合、それと全く出ない場合とか、色んなケースを想定して、それに相応する抗議の文句とか行動を決定しておきたいんだけど、・・・」
 山尾主任はそこで左腕を顔の近くまで上げて腕時計を見るのでありました。「しかし、もうすぐ昼休み終わりの一時になって仕舞うなあ」
 その言葉に夫々も云われて今気付いた、と云った仕草で自分の腕時計に目を遣るのでありました。確かに残り十分足らずで昼休みが果てる時間でありました。
「じゃあ、どうするの?」
 那間裕子女史が眉間に皺を寄せて山尾主任を見るのでありました。時間が無くなった事に付いて山尾主任を詰っているような目付きだと頑治さんは思うのでありました。しかしこれは致し方無いでありましょう。それで山尾主任を責めるのは些か理不尽と云うものでありますか。昼食後の数十分間に話しをするにしては少し事が大きくなったのでありますし、抗議する事を決定しただけでも集まった甲斐はあったと思うべきでありますか。
 まあ、那間裕子女史も別に詰る心算は毛頭無いのかも知れません。その顔つきや物腰が頑治さんにはそう見えたと云うだけなのでありましょうが。
「それじゃあ、仕事が終わってから夕方、何処かで集まるか」
 山尾主任が云ってまた夫々の顔を順に見回すのでありました。
「いや、今日は俺、都合が好くないですね」
 出雲さんが顔を顰めるのでありました。
「あたしも今日は語学学校があるから、会社が終わったら急いで仙川まで行くし」
 那間裕子女史がその後に続くのでありました。
「俺も明後日から信州出張に出るから、出来れば早く家に帰りたいかなあ」
 袁満さんも首を横に振るのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 135 [あなたのとりこ 5 創作]

「出ないと判った時点で土師尾営業部長につめ寄るか。まあ、その辺は色んなケースを想定して予め申し合わせして置く必要はあるけど」
「じゃあ、その申し合わせ事項を早速決めておかなければならないと云う事になるかな。もう十二月十日までそんなに日が無いんだから」
「いやいや、十二月十日を待ってそれから行動するのは俺は遅いと思うな」
 山尾主任が割り込むのでありました。「その前にこちらの意向を何らかの形で明示しておけば、片久那制作部長の交渉の側面援護にもなるし」
「そうよ。待ってから動くんじゃなくて、こっちが先手を取って動かないと社長や土師尾営業部長にプレッシャーをかけられないわよ」
 那間裕子女史が珍しく山尾主任に同調するのでありました。この二人は全く息が合わない同士だと頑治さんは思っていたのでありましたが。
「ええと、抑々のところを確認して置きたいんだけど」
 那間裕子女史の言葉が終わるのを待って、今迄暫く黙っていた袁満さんが申し訳無さそうに割り込むのでありました。「ボーナスが出ないのなら、俺達はあっさりその儘黙っていないで、一致して必ずそれに抗議すると云うのはもう決定しているんだよね」
「当たり前じゃない。今頃何を呑気な事云っているの」
 那間裕子女史が声を荒げて、袁満さんの頭を押さえ付けるような物腰で云うのでありました。袁満さんはその迫力に思わず怖じてか、たじろいだように表情を引き攣らせるのでありました。どうした訳か横に居た出雲さんまでが同じような及び腰を見せるのは、これは同じ仕事をしている先輩と一心同体である事を表意する所作でありましょうか。
「いや、その、そこを最初に確認して置かないと、何かモヤモヤした儘その先の話しをする事になるから、とか考えたんですよ、俺は」
 袁満さんはしどろもどろに那間裕子女史に対して弁明するのでありました。
「黙っていたら暮れのボーナス無支給の前例を作る事になるわ。そうなれば業績不振を理由に今後も出ない事だって有り得るでしょう。暮れのボーナスどころか夏のボーナスもカットされる恐れもあるし。そんな事になったらまともに生活していけなくなるわ」
「いや、話しを前に進める上で手順の問題は大事だよ」
 均目さんが那間裕子女史の口を遮るのでありました。「無精して有耶無耶にしていると、後で、元々そんな事は決めていないだの何だのと、話しが紛糾して前に進まなくなるのは困ると、袁満さんはそこを指摘したかったんだよ。そうですよねえ、袁満さん」
 均目さんの助け舟に袁満さんは諸手を泳がせて縋り付くのでありました。
「そうそう、まあ、そう云う事」
 袁満さんはようやく表情を緩めるのでありました。横の一心同体の出雲さんも頬の辺りに漲っていた緊張を解くのでありました。

 山尾主任が少し棘々しくなった場を収めるように提案するのでありました。
「じゃあ、順を追って一個々々決を取ろう」
(続)
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あなたのとりこ 134 [あなたのとりこ 5 創作]

 山尾主任はそう云って頷くのでありました。「俺達個々では社長や土師尾営業部長に待遇面の事は今迄何も云えなかったけど、団結して組織として労働者の正統な権利を行使すれば、賃金とか待遇ばかりじゃなく仕事の面でも色んな改革が出来るかも知れない」
 何となくもうすっかり労働組合員になったようなこの山尾主任の口振りに、均目さんが遠慮がちながらもげんなりした顔をして目を背けるのでありました。
「しかし今の段階では、社長と二部長の三人でこの暮れのボーナスの支給に関しては協議中なんですよね。未だ決定してもいない事柄に対して早手回しにこちらが労働組合結成だとか気炎を上げても、それは少しばかりせっかちだと云う気もしますけどねえ」
 頑治さんが山尾主任の意見に水を差すのでありました。
「確かに、未だ決まってもいのに早まった行動をするのも迂闊な話しだよなあ」
 均目さんが同調するのでありました。
「決まってからじゃ遅いんじゃないの」
 那間裕子女史が少し語気を荒くするのでありました。頑治さんや均目さんの態度が慎重と云うよりはちゃらんぽらんに見えているようであります。
「しかし向うの意志と云うのか、俺達に対する了見をちゃんと見極めた上で、止むに止まれずと云った感じで行動を起こす方が、こちらの行為の体裁上の正統性とか真剣味がより強く伝わるんじゃないかな。ここは先ず向こうの出方を見て、それが酷かった場合に一挙に怒りを表明すると云うのが、相手をたじろがすより効果的な方法だと思うよ」
 均目さんがここで急に、那間裕子女史とはフォーマルな場では丁寧語で話していた口調を、インフォーマルな場合にそうするざっくばらん調に変えるのでありました。この語調の変化は、均目さんのどういう気持ちを現しているのか頑治さんは俄には判らないのでありましたけれど、まあ、ちょっと気にはなるのでありました。
「じゃあ、均目君は取り敢えずボーナス支給日まで何もしないと云う意見なのね」
「何もしないと云うのか、前以て不満表明とかはしないと云う意見だね」
「でも、と云う事は、組合結成かどうかは別にしても、若しも支給されたボーナスがとんでもない額だった時に備えて、これでは納得出来ないと云うあたし達の団結した意志を示すための準備は、予めしておくと云う理解で良い訳ね?」
「まあ、それはしておいた方が得策に違いない」
「ボーナス支給日は何時なんですか?」
 頑治さんが二人の遣り取りに遠慮がちに言葉を差し挟むのでありました。
「今迄は大体十二月十日だな。その日が休日の場合は前日の九日になる」
 山尾主任が応えるのでありました。
「その日の結果が酷かった場合、均目さんは具体的にはどうする心算なのかな?」
 頑治さんは均目さんの方に顔を向けるのでありました。
「まあ、皆で土師尾営業部長を取り囲んで、納得出来ないから再考願いますと、貰ったばかりのボーナス袋だか金一封袋だかを一斉に叩き返すと云う事になるかな」
「全く金一封も出なかった時は?」
(続)
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あなたのとりこ 133 [あなたのとりこ 5 創作]

「そりゃないよなあ。すっかり反則だ」
 袁満さんが均目さんの言に舌打ちするのでありました。「でも確かに考えられる」
「若し慰労金名目だとしても、あの二人は俺達より格段に多いだろうしね」
 山尾主任も小さな舌打ちの音を立てるのでありました。
「でも少しは義侠心のある片久那制作部長が、そんな醜い事を企むかしら」
 那間裕子女史がちょっぴり片久那制作部長の肩を持つのでありました。
「でも、自分の取り分となると片久那制作部長もなかなかシビアな人だぜ」
 山尾主任はその辺は懐疑的なようであります。
「それは云えてる」
 袁満さんが明快に同調するのでありました。「ああ見えて相当なケチだしね」
「我々従業員がボーナスの支給に口を挟む事は出来ないのでしょうかね?」
 今まで無関心そうに黙っていた出雲さんが云うのでありました。
「まあ、口を挟めるような権限はここに居る誰も持っていないかな」
 山尾主任が力なく笑うのでありました。「労働組合がある訳でもないし」
「そうか、労働組合と云う手もあるわね」
 那間裕子女史が左の掌を右の拳の小指側の縁で打つ真似をするのでありました。何とも古めかしい、考えが閃めいた事を表現する所作であります。今時そんな手真似を使う人は滅多に居ないだろうと、頑治さんは横目で見ながら秘かに思うのでありました。
「労働組合、ねえ」
 均目さんが億劫そうに呟くのでありました。「今時流行らないでしょう」
「流行るとか流行らないとかの問題じゃなくて、社長や土師尾営業部長に対する発言権も説得力も無いあたし達が、暮れのボーナスを確保するために、唯一正当な手段としてそれを訴える有力な方法の一つではあるわよ、確かに」
「でも、何となく臆病な小物連中が群れて、立場の弱さを逆手に取って得意気に柄にも無い尊大な顔をするような、全くイカさないイメージがあるんだよなあ、俺には」
「何、それ」
 那間裕子女史が均目さんを蔑むような目で見るのでありました。「そんなつまらないイメージに拘って、ボーナスと云う実質をフイにする方がもっと格好の悪い愚かさと云うものじゃないの。そう云う風には均目君は考えられないの」
「いやまあ、そう云われると、お説ご尤もと云うしかないけど。・・・」
 均目さんは那間裕子女史の全くの正論らしきにたじろいで、気圧されたように弱々し気に言葉の尻を曖昧に窄めるのでありました。

 ここに来て山尾主任もこの、自分で大した意も無く口にした労働組合と云う言葉に少なからず自分で魅せられたようでありました。
「でも確かに、賃金とか待遇とかの面で社長や土師尾営業部長の遣りたい放題になっていると云うのも、正常な労使関係と云えないような気がする」
(続)
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あなたのとりこ 132 [あなたのとりこ 5 創作]

「去年は確か暮れのボーナスは二か月半分出たんだったよね」
 袁満さんが少し考える風に目玉を上方に動かしながら云うのでありました。
「そう。夏が二か月で暮れが二か月半」
 山尾主任が目玉を元に戻した袁満さんを見ながら頷くのでありました。
「それは諸手当も含めた賃金総額の、ですか?」
 頑治さんが山尾主任に訊くのでありました。
「いや、通例は基本給に役職手当を加えた額の、と云う事だね。住宅手当とか家族手当は算定の基準に含まれていない。尤も、ここに居る全員、家族手当は関係無いけど」
「ああそうですか。判りました」
 これまでのアルバイトとかでボーナス等は貰った経験が無いものだから、頑治さんは自分の基本給の二か月半分をざっと計算して見て、内心大いにほくそ笑むのでありました。しかしこの暮れはどうやら勝手が違うみたいでありますし、それに恐らく新入社員の自分は日割りとか小難しい計算をあれこれされて、満額は出ないでありましょう。それに抑々その二か月半が大いに怪しい雲行きなのを皆で憂慮しているのでありますから。
「社長や土師尾営業部長の魂胆や目論見は論外としても、片久那制作部長はそれならどのくらい出そうと云う腹心算なんでしょうかね?」
 均目さんが山尾主任に視線を向けるのでありました。
「さあ、それは聞かなかったし、向こうも何も云わなかったけど」
「二か月分かな。それならまあ、不満だけど一応納得は出来る」
 袁満さんがそう云って思わず口元を綻ばすのでありましたが、那間裕子女史にその顔を見咎められて険しい目をされたものだから、慌てて頬から笑いを消すのでありました。
「袁満君、二か月半でも不満だったんだから喜べないわ。それに大体、二か月と云う観測は甘いんじゃないの。精々一月か、或いは半月分と考えた方が良いんじゃないの」
 那間裕子女史にきっぱり窘められて袁満さんは意気消沈して俯くのでありました。
「いや、それもひょっとしたら甘いかも知れない。謝礼金とか慰労金とかの名目で、ほんの少額の金一封、と云う事だって考えられますよ」
 均目さんがより悪い推測を述べるのでありました。
「そうね、それなら社長や土師尾営業部長を説得し易いでしょうしね」
 那間裕子女史が頷くのでありました。
「しかしそうなると自分達の取り分の事もあるから、基本給プラス役職手当の一か月分とか、或いは半月分とか云う計算を片久那制作部長はしているんじゃないのかな」
 山尾主任が腕組みしながら云うのでありました。
「どうせ聞くならちゃんと、具体的な腹心算額まで聞けばよかったのよ」
 那間裕子女史は山尾主任に冷眼を向けるのでありました。那間裕子女史は山尾主任の後輩で一つか二つ歳下の筈でありますが、物腰に遠慮は全く無いのでありました。
「第一、あの二部長が俺達と同じ計算式の下に在るのか、そこも怪しいですけどね。あの二人は別格扱いで、そこそこの額はちゃっかりぶん取る心算なのかも知れないし」
(続)
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