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あなたのとりこ 30 [あなたのとりこ 1 創作]

「ああどうも、・・・」
 不審気な顔色はその儘ながらそれをあからさまに表すのは先ずは憚るべきと判断してか、男はほんの少し口元を綻ばせるような表情をして、不得要領に頑治さんに向かって顎を引くような仕草で会釈をして見せるのでありました。
「贈答社の方ですね」
 頑治さんは明朗に云って男よりははっきりとしたお辞儀を返すのでありました。
「ええ、そうですが」
「今日から社員になった唐目と云う者です」
 頑治さんは名乗ってからもう一度深くお辞儀するのでありました。
「ああどうも、袁満丸也です」
 男は名乗り返すのでありましたが、頑治さんが社員だと云うのが今一つ腑に落ちないような困惑を眉尻に浮かべるのでありました。
「業務の刃葉さんの後釜として入った者です」
 明快に土師尾営業部長からそう聞かされたのではないけれど、まあ、そう云う事情であるのは間違いないであろうから頑治さんはそう申し述べるのでありました。
「ああそうか、そう云う事ですか」
 袁満と云う男はようやく頑治さんの存在が飲み込めたと云う風に頷いて、今度は安心感を漂わせた笑顔を向けて来るのでありました。刃葉さんが近々会社を辞めて、代わりに新しい社員を雇う事になった経緯は概知のようでありました。
「どうぞよろしくお願いします」
 頑治さんはもう一度頭を下げるのでありました。
「ああどうも、よろしくお願いします」
 袁満さんも釣られるように低頭するのでありました。「ところで刃葉さんは?」
「池袋の宇留斉製本所に行かれました」
「午前中に行ったんじゃないの?」
「急な梱包と発送の仕事が入ったので、今日は午後一番になったのです」
「ふうん成程ね」
 袁満さんは自分で刃葉さんの在不在を訪ねていながら、実はそれには大して関心が無いと云った風情で納得するのでありました。「それじゃあ、車は上に上げていなくとも、すぐには業務仕事の邪魔にはならないよね?」
「ええ。刃葉さんのお帰りの時間が何時なのかに依りますが」
「宇留斉製本所に行ったのなら、どうせ夕方まで帰ってなんか来ないだろうし」
 袁満さんは片方の口の端を吊り上げて何となく皮肉を云うようにそう呟いてから、もう一度車の昇降機を操作するために身を屈めて駐車スペースを出るのでありました。
 一端上に上がった車が昇降機の大きな作動音を響かせながらまた下に降りて来て、接地した時に少しく揺れてから止まるのでありました。袁満さんは車の横の狭いスペースを擦り抜けるようにしてまた倉庫扉の方に戻って来るのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 29 [あなたのとりこ 1 創作]

 午後の仕事は刃葉さんが池袋の宇留斉製本所から帰って来る迄倉庫の留守番、と云う事になるのでありました。その間頑治さんは午前中に始めた倉庫整理やどの商品と材料がどの棚に有るかの再確認、それに発送指示書が出ていたのでそれに従って山尾さんから助言を貰いながら商品を梱包して発送伝票を書き、運送会社に集荷依頼の電話をするとか云ったものでありました。発送仕事はアルバイトでやった経験があるから梱包作業も伝票書きも然したる問題は無いのでありました。山尾さんには、刃葉さんより遥かに要領も手際も良いじゃないかと褒められるのでありましたが、別段嬉しくはないのでありました。
 依って専ら、倉庫内の整理整頓が主な仕事になるのでありました。商品とその関連材料が随分と遠く離れた棚に脈絡無く仕舞われていたり、同じ商品が別々の二か所の棚に存在したり、刃葉さんが整理するのが億劫でそうなったのか、様々な商品の異なった材料の一部が一つの棚に一緒くたに押し込まれていたりするのでありましたが、当然効率の面から一定の規則性を持たせて整理した方が良いと頑治さんは考えるのでありました。
 しかしそうなるとこれはもう、整理と云うよりはすっかりの模様替えに近いでありましょう。とても一日や二日で完了する仕事ではなさそうであります。
 それに山尾さんや刃葉さんに何の断りもなく、頑治さんの独断でうっかり在庫物の在り処を変える訳にはいかないでありましょう。他の仕事との兼ね合いも鑑みて、これは追々と云う事になりそうでありますか。また、未だ数多ある商品や材料類の把握が出来ていない頑治さんには、おいそれと手出しするには憚りの有る仕事のようであります。
 頑治さんは明らかな誤謬、或いは刃葉さんのものぐさか無精からあちらこちらに散らばって仕舞ってある商品や材料を、一つ処に纏めると云う辺りから始めるのでありました。何をどう動かしたかは商品材料在庫一覧表に一々書き込んでおくのでありました。後で不都合があった場合すぐに元に戻す事が出来るように、と云う用心であります。
 そんな事をやっていると、午後三時を回った頃に外の駐車場から二段式の車の昇降機が動く音が聞こえてくるのでありました。恐らく刃葉さんが帰って来たのだろうと思って、宇留斉製本所から引きとって来たであろう商品を車から降ろす作業を手伝うため、頑治さんは倉庫奥の棚から降りて出入り口の方に行くのでありました。
 しかし昇降機を操作しているのは刃葉さんではないのでありました。頑治さんと同じくらいの背丈で体重は頑治さんよりはありそうで、縦縞ワイシャツに青いネクタイを締めてその上から黄土色の作業服を着ている、顔からは若いのかそうでないのか判断出来ないけれど立ち姿から見ると若いと云う方に一票入れたくなるような男でありました。
 着ている作業服が頑治さんと同じ物であるから、恐らく贈答社の社員でありましょう。男は倉庫出入り口に立っている頑治さんを見付けて先ず反射的に軽く頭を下げてから、しかし会社の中では見た事のない男だと考えてか、やや不審そうな目をして頑治さんを窺うのでありました。不審な目を向ける前に思わずと云った風情で一礼する辺り、この男は結構人の好い男であるのかも知れないと頑治さんは見て取るのでありました。
 バンの普通車を載せた昇降機が上まで到達してガタンと云う音をたてて止まるのでありました。下に出来たスペースを男が倉庫出入り口に近づいて来るのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 28 [あなたのとりこ 1 創作]

 しかしその狼狽の色もすぐに顔から消えて刃葉さんは頑治さんに笑顔を向けるのでありました。どういう心算の笑顔なのか頑治さんは判然としないのでありました。嘗めていると思えば思えなくもないし、一種の羞笑と取れば取れなくはないのであります。
「でもまあ、そんな固い事云うなよ」
 ちっとも応えないと云うのか、あっけらかんとしたものであります。頑治さんはげんなりして仕舞うのでありました。まあ、幾らこちらの言に分が有るとは云え、出社初日から先輩社員と云い争いするのもいただけないと云えばいただけない話しでありますか。
 それにしても土師尾営業部長とか山尾さん辺りは、倉庫で刃葉さんがこんな事をしているのを知らないのでありましょうか。それとも知っていながら注意しないのでありましょうか。注意しても刃葉さんがちっとも云う事を聞かないのでありましょうか。まあ確かにこの刃葉さんと云う人は話して通じるタイプの人ではないような感じではありますが。
 出入口の方から集荷に来た運送屋が声を掛けるのでありました。羽葉さんはすぐにそちらに向かうのでありました。一応手伝うために頑治さんも刃葉さんの後を追うのでありました。そうこうしている内に午前中の仕事時間が終わるのでありました。

 頑治さんは神保町交差点近くの立ち食い蕎麦で腹を満たして、その後その立ち食い蕎麦屋近くのビルの地下にあるネルドリップのコーヒーを出す薄暗い喫茶店で時間を潰しながら、午後一時までの昼休みを過ごすのでありました。刃葉さんと云う人は慎に付き合いにくい、と云うのか出来れば付き合いたくないタイプの人であると、小振りのカップに満たされたコーヒーの湯気に鼻先を包まれながら考えるのでありました。
 別に悪気に満ちた人ではないのでありましょう。しかし仕事に対する遣る気の無さとそれに起因する在庫物への無神経や無配慮、マイペースを崩そうと端から全く思ってもいない唯我独尊、そんな自分の在り様を隠そうともしない高慢、自分の仕事環境への無関心、よくもまあそれで今まであの会社で勤まってきたものであります。
 刃葉さんはあと二か月で会社を辞めるそうでありますが、この先長く付き合わなくて済むのが辛うじての幸いと云うものでありますか。しかし向う二か月間は仕事を教えて貰ったり、それに恙無い仕事の引継ぎやらで一緒にいる時間は他の社員の誰よりも長いでありましょう。頑治さんの溜息が鼻先のコーヒーの湯気を揺らすのでありました。
 事務所に戻ると丁度、刃葉さんがその日急に入った梱包仕事のため午後に回した池袋の宇留斉製本所への定期便仕事に向かうために下の駐車場へ行くところでありました。
「宇留斉製本所に行くけど、付いて来るのかい?」
 刃葉さんが頑治さんに声を掛けるのでありました。そう云われて頑治さんが戸惑っているとすぐに奥の制作部から山尾さんが顔を出すのでありました。
「いや、来週の月曜日に紹介も兼ねて俺が連れて行くか、或いは均目君に連れて行って貰う事にしているから、唐目君は今日は一緒に行かないよ」
 山尾さんの言に刃葉さんはふうんと唸って口をやや窄めて見せるのでありました。手伝いの足しとして付いて来て貰いたいような面持ちでありましたか。
(続)
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あなたのとりこ 27 [あなたのとりこ 1 創作]

 見ていると羽葉さんはその古座布団の前に立ち、膝を屈して腰を落とし、その落した腰の横に曲げた両腕を構えるのでありました。一体何が始まるやらと思っていると、羽葉さんはその姿勢から左右の拳を交互に古座布団に向かって打ち出すのでありました。始めはゆっくり次第に早く、固く握り締められた拳が古座布団に食い込むのであります。
 打ち出す時に刃葉さんは口から息を短く強く吐き出すのでありますが、これはどうやら空手の突きの練習のようであります。棚に括り付けた古座布団が巻き藁の代わりでありましょうか。出し抜けに現出したこの異様な光景に頑治さんは面食らうのでありました。
 二つ程離れた頑治さんの乗っている棚までもが刃葉さんの古座布団を打つ動きに合わせて振動するのでありました。それに棚の上に載っている段ボールやらクラフト紙包みが小さな足取りのタップダンスを踊り出すのでありあました。これは堪らんと思った頑治さんは棚の上から刃葉さんにやや荒げた声を掛けるのでありました。
「何をしているのですか!」
 その声に刃葉さんは顔だけ動かして頑治さんの方を見るのでありました。全くの無表情で目は半眼に開かれているのでありました。
 この倉庫の支配者は自分であると云う点を示威、或いは念押しするため、刃葉さんはこんな脅迫的な行為に出たのかとも頑治さんは思うのでありました。一種の故意の鞘当てであります。多少血の気の多いところもある頑治さんは、売られた喧嘩なら買っても良いと一瞬思うのでありました。こうなったら先輩もクソも無いのであります。
 しかし刃葉さんの無表情を見ていると、別に何か意趣が有ってこういう真似をしているように見えないところもあるのであります。何と云うのか、無邪気な無表情とでも云うのか。頑治さんは刃葉さんの底意が窺えず、少々及び腰になるのでありました。
「ああ、仕事の邪魔かな」
 刃葉さんが打撃練習を止めていとも穏やかに訊くのでありました。頑治さんの熱り立ちが見事な肩透かしを食ったような、そんな按配であります。
「仕事の邪魔ですし、そんな事をするために棚が組まれているのではないし、棚の中に在る物が痛むかもし知れませんし、第一、自分に対して穏やかじゃありませんし」
 頑治さんの声は激高の気分が未だ完全に消え切らないような調子でありました。
「ご免な。別に他意はないよ。これは何時もの習慣なんだ」
 刃葉さんは笑い混じりに云うのでありましたが、その笑いは別に挑戦的な或いは揶揄するような魂胆からではなくて、寧ろ取り成すような色彩のものでありました
「何時もの習慣?」
「そう。梱包の合間に時間があったらこんなことをしているんだよ」
「空手ですか?」
「うんそう、空手」
「幾ら時間が有っても仕事中に空手の練習をする事自体、不謹慎じゃありませんか」
「まあ、そう云われるとその通りだけど、・・・」
 刃葉さんの眼球が少し動揺するのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 26 [あなたのとりこ 1 創作]

「何か手伝いましょうか?」
 見取り図を作業台の正面に貼り終えた頑治さんが刃葉さんに訊くのでありました。
「そうねえ、じゃあ、上に行って新しい発送指示書があったら持ってきてくれるか」
「はい判りました」
 頑治さんは倉庫を離れるのでありました。外に出て、棚を上ったり奥をほじくったりしたために新品の作業服に付着した埃を忌々しそうに掌で掃うのでありました。

 上の事務所に行くと経理の甲斐計子女史が一人机で帳簿付けをしているだけで、営業部のスペースに土師尾営業部長の姿も日比課長の姿も無いのでありました。
「新しい発送指示書がありますか?」
 頑治さんが机の帳簿立て越しに頭半分見える甲斐計子女史に訊ねるのでありました。特に新しく書き起こされた指示書は無いとの女史の無関心そうな応えでありました。
「ああそうですか」
 頑治さんは手ぶらで事務所を出るのでありました。またすぐに下の倉庫に逆戻りであります。これから先自分の主たる仕事場はあの倉庫に違い無いのでありましょうが、外光から殆ど遮断され、掃除も整頓も行き届いていない埃の舞うあの場所でこの先長く働くのかと思うと、何とは無しに気が滅入ってくるのでありました。
 倉庫の前には梱包された段ボールが八箱ばかり、扉の前に積んであるのでありました。刃葉さんは一仕事終えて、如何にも年季の入ったスチール椅子に腰掛けて、作業台の上に両足を載せて煙草を吹かしているのでありました。
 当面刃葉さんを手伝う仕事も無さそうなので、頑治さんは先程色々書き足した製品と材料の一覧表を持って倉庫の奥に行こうとするのでありました。もう一度所在確認旁、棚の中を少しばかり整理しようと云う目論見でありました。
「初日からあんまり意気込むと疲れるよ」
 頑治さんの作業服の背中を刃葉さんの声が掴むのでありました。「ここに居る時は気楽にしていて構わないよ。誰かの目がある訳じゃなし」
「はあ。しかし、まあ、・・・」
 頑治さんは曖昧に応えて倉庫の奥に行くのでありました。今朝からのごく短い接触ではあるにしろ、刃葉さんと云う人はあんまり心服出来る先輩とは云い難いような気がするものだから、頑治さんはその指示に一々謹慎に従う気が起らないのでありました。
 頑治さんが暫く奥でゴソゴソやっていると羽葉さんが傍に遣って来るのでありました。刃葉さんは頑治さんの存在には全く気を留めていないような風情で、頑治さんが中を整頓している二つ横辺りの棚に進むのでありました。
 その棚の柱には古座布団が一枚ビニール紐を幾重にも巻いて頑丈に固定してあるのでありました。それを見付けた時、何のために座布団がここに括りつけられているのか頑治さんは判らなかったのでありました。棚の柱を守るためのクッション代わりかとも思うのでありましたが、それにしては他の棚には何も施されてはいないのであります。
(続)
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あなたのとりこ 25 [あなたのとりこ 1 創作]

 頑治さんが掃除している間、刃葉さんは外出のため途中で止めていた梱包仕事を、精を出す、と云うよりは如何にも精を出し惜しみするような風情で続けるのでありました。持って帰って来た紙包みから紙のガムテープを取り出すところを見ると、仕事を途中で放り出して喫茶店でコーヒーを飲むために外出していたのではなく、梱包途中で切れて仕舞ったガムテープを買いに外出していたのでありましょう。
 粗方の掃除を終えた頑治さんは箒と塵取りをロッカー横に戻して、懸案の見取り図を描こうとするのでありました。作業台は刃葉さんの梱包仕事に占領されているから使えそうにないので、台の引き出しから刃葉さんに断った上で太字用の黒と赤のマジックペン、それに黒と赤のボールペンを取って倉庫奥に行くのでありました。奥の棚の空いているスペースで刃葉さんとは離れて自分の仕事に取り掛かろうと云う寸法であります。
 頑治さんは先ずうろちょろと歩いて棚の位置や段数を確認して、それを平面図として厚紙に丁寧に描き入れて順番に番号を振るのでありました。それから棚の列ごとに「上・下」と赤色で描き加えるのでありました。三段になっている棚は「上・中・下」であります。これで棚の識別は完了であります。材料関係と製品関係の別は整理されずに棚の中に混然となっているようなので、敢えて描き加えないのでありました。
 今度はその棚の識別を、山尾主任に貰っていた製品と材料の一覧表にボールペンで書き記すのでありました。これもうろちょろして在り処を確認しながらでありました。今まで見た事もない部材もあって、山尾主任に案内された時にうろ覚えで、記してある材料かどうか判然としない品もあるのでありましたが、これは後で山尾主任に確認であります。
 大方の作業を終えて作業台の方に戻ると、刃葉さんが荷造りを終えて運送会社に渡す発送伝票を書いているのでありました。ちらと手元を覗き込むと刃葉さんは意外に綺麗な字を書いているのでありましたし、字の並びもギクシャクしてはいないのでありました。こんな律義らしい字をものす同じ人が、倉庫の整理整頓に関しては全く無精で何の意も用いないと云うのは、一体全体どういう了見に依るのでありましょうや。まあ、それとこれとは無関係だと云われれば、そう云うものかと納得するしかないのでありますが。
「これを作業台の前に暫く貼って置いて良いですか?」
 頑治さんは台に接した前の棚の梁を指差すのでありました。刃葉さんは顔を上げて頑治さんが左手に持つ厚紙を見るのでありました。
「何だいそりゃあ?」
「倉庫の棚の見取り図です」
 刃葉さんはそう聞いても関心無さそうに、ふうん、と口を尖らせるのでありました。
「別に俺は構わないからご自由に」
 何となく冷ややかな云い草でありました。倉庫を一から十まで取り仕切っている自分にはそんなものは無用だと云う事でありましょうか。
「ちゃんと頭に入ったら外します」
「ああそう」
 あくまでもそんな事には全く興味が無いと云った様子であります。
(続)
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あなたのとりこ 24 [あなたのとりこ 1 創作]

 とまれ頑治さんは貰った作業服と厚紙を手に今度は一人で下の倉庫に戻るのでありました。見取り図を描き終えた後は商品や材料をもう一度念入りに確認したり、刃葉さんの梱包仕事を手伝ったりするようにと土師尾営業部長から指示もされるのでありました。

 土師尾営業部長から頑治さん専用の倉庫の鍵を受け取って下に行くと、またもや刃葉さんの姿が見当たらないのでありました。扉は半開きで鍵も締めていないのは先程と同じであります。今度もまた喫茶店に行ったのでありましょうか。
 頑治さんは土師尾営業部長から使って構わないと許しを得た、作業台後ろの片隅にあるスチール製の三連ロッカーの一番右側の扉を開くのでありました。そこには大き目のデイパックが無理矢理と云った感じで押し込められていて、恐らく刃葉さんの物と思われる焦げ茶色のジャンパーが針金のハンガーに吊り下げられているのでありました。ここは刃葉さんが自分のロッカーとして使用しているのでありましょう。
 真ん中には新品の結束バンドやらバンド締めの工具やら凧糸の束やら金槌やらスパナやら、何に使うのか白樫の木刀やらボクシングのグローブやらが乱雑に入れてあって、これも頑治さんの使用を拒んでいるのでありました。左のロッカーには下に古新聞の束が積んであるものの、大方の空間は空いているのでありました。
 ロッカー内は何となく薄汚れた感じで、一張羅の背広の上着をそこに入れて置くのは思わず及び腰になるのでありましたが、しかしここしか使えるスペースはなさそうなので、頑治さんは上着を脱いで中に一本吊ってあった針金ハンガーに掛けるのでありました。それから作業服をビニール袋から取り出して袖を通すのでありました。
 ビニール袋を棄てようとゴミ入れを探すのでありましたが見当たらないのでありました。作業台の上と云わずその近辺の床と云わず、結束バンドの切れ端やら丸めた古新聞やら使い損ねたバンド締めの金具やら、ボロ布やら菓子パンの包装紙やらストローを差した儘のコーヒーの紙カップやらが散乱していて、云ってみればこの倉庫全体がゴミ入れのようでありますから、敢えてゴミ箱なんぞは必要ないとも云えるでありましょうか。
 棚の見取り図描きに取り掛かる前に、幾ら無精な頑治さんでもここは先ず掃除から始めなければと云う気が起るのでありました。こんな不潔で雑然とした中では仕事する意欲も湧かないし捗りもしないと云うものであります。
 ロッカー横に無造作に投げ出されたようにあった箒と塵取りで床を掃いていると、刃葉さんが紙袋を抱えて戻って来るのでありました。刃葉さんは掃除をしている頑治さんを見てやや不愉快そうな顔をするのでありました。ひょっとしたら頑治さんの掃除する姿が、自分の怠惰、或いは整理整頓能力の欠如に対する当て付けと映ったのかも知れません。
「どうせまた散らかるんだから掃除なんて無駄だぜ」
 刃葉さんは作業台の隅に、抱えていた紙袋を置きながら云うのでありました。
「はあ、まあ、しかし」
 頑治さんは掃除を続けるのでありました。まるで仕事上の必然として散らかるような云い草でありますが、十の内の八は刃葉さんの不心得が散らかしているのであります。
(続)
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あなたのとりこ 23 [あなたのとりこ 1 創作]

「紙をどうするんだい?」
「棚の見取り図を描いて、倉庫の邪魔にならない所に貼っておきたいと思いまして」
「ああ成程ね」
 片久那制作部長は頑治さんの意図を了解して横のマップケースの一番下から、大判の雑誌を見開きにしたくらいの大きさの厚紙を一枚取り出すのでありました。手渡された厚紙は何かの書籍の、表紙の校正刷りと思われるものでありました。その厚紙の、印刷されていない裏面を見取り図描きに使えと云う事でありましょう。
「それで良いかい?」
「はい。有難うございます」
 ペラペラの薄い紙よりは厚紙の方が用途からして好都合と云うものであります。
「ところで作業服は未だ貰ってないの?」
 席へ戻っていた山尾さんが訊くのでありました。
「はい未だ貰っていません」
 頑治さんがそう応えると、ほんの暫くして土師尾営業部長が制作部スペースの方に顔を出すのでありました。営業部と制作部はマップケースの仕切り壁を隔てただけなのでありますから、こちらの会話は向こうにも筒抜けでありましょう。
「はいこれ、使ってくれ」
 土師尾営業部長は頑治さんに、綺麗に折り畳まれてビニール袋に入った薄い黄土色した新品の作業服を手渡すのでありました。「すぐに渡す心算で用意していたんだよ」
 山尾主任の、作業服は貰ったかと云う頑治さんへの問い言葉を聞きつけて、急いで持ってきたのだと思われるのでありました。と云う事は、すぐに渡す心算、とは云っているものの今の今まで渡すのをすっかり忘れていたのでありましょう。
「ああ、有難うございます」
 頑治さんは受け取りながら土師尾営業部長にお辞儀するのでありました。これで下の倉庫に行っても一張羅のスーツを汚さなくて済むと云うものであります。
 さてところで、制作部の空気が土師尾営業部長が出現した途端にやや白んだような気がするのでありました。何やら部外者が突然闖入してきた時のような、微妙な余所々々しさが生まれたような具合であります。片久那制作部長以下制作部の連中はこの制作部スペースに制作部以外の者が侵入して来るのを内心迷惑に思っているのでありましょうか。
 そうなら頑治さんの侵入時にも、気付かなかったのでありましたが同じような気配が漂ったのでありましょうか。しかし頑治さんは山尾さんに連れて来られたので闖入したのではない訳であります。依って空気は揺らがなかったとも思えるのであります。
 しかし土師尾営業部長の出現には、明らかにげんなり感が生成したのであります。こう云った辺りの感受性に於いて頑治さんは昔から全く呑気ではないのでありました。
 ひょっとしたら制作部と営業部は不仲であるのかも知れません。或いは片久那制作部長と土師尾営業部の間が上手くいっていなくて、その気色が揺々しているとも考えられるのであります。まあ今のところあくまで頑治さんの直感以上ではないのでありますが。
(続)
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あなたのとりこ 22 [あなたのとりこ 1 創作]

「今日の昼一番に刃葉さんが向かう事になっている、宇留斉製本所、でしたか、そこへは自分は付いて行かなくても良いのでしょうか?」
 頑治さんはまた山尾さんの黒カーデガンの背中に言葉を投げるのでありました。
「ああ、今日はいいよ。来週の月曜日に一緒に行ってくれれば。今週金曜日の本郷の大木目製本社の方には行って貰う事になるから、今からその心算でね」
「判りました」
 上の事務所に戻るとドアを入ってすぐの四つの机が固まっている、その土師尾営業部長脇の一番奥の席に今日初めて見る顔が座っているのでありました。土師尾営業部長よりも明らかに年嵩で、紺色に金ボタンのダブルのジャケットを着て派手な赤いネクタイを締めているのでありました。太っている訳ではないながら体格は良く、少し薄くなってきたような頭髪を綺麗に後ろに撫で付けて、露出している額がテカテカと光沢を湛えているのでありました。顔の色は浅黒く鼻梁が大きくて、弛んでいるのではないながら頬の肉も厚そうで、紫色に近い分厚い唇をしていて、一見結構な精力家と云った風貌であります。
 この精力家らしきが山尾さんの後に続いて入って来た頑治さんをジロリと見て、何だこいつは、と云った胡散臭そうな目付きをするのでありました。
「ああ日比さん、帰っていたの」
 山尾さんが勢力家らしきに声を掛けるのでありました。「丁度良かった紹介しておくよ。こっちは今度、業務担当で入った唐目君」
 山尾さんは頑治さんの方に掌を上に向けた手を差し出し示すのでありました。
「ああ、刃葉君の代わりの」
 名前を日比何某と云う精力家らしきが頑治さんを見る目から胡散臭さを消すのでありました。しかし一挙に打ち解けた表情をすると云う訳ではないのでありました。
「こっちは営業課長の日比祖治郎さん」
 山尾さんは、今度は日比さんの方に掌を向けて頑治さんを見るのでありました。
「今度入社しました唐目頑治です」
 課長と云う肩書きでありますから部長へ対するよりは浅く、山尾主任に対するよりはやや深く頑治さんはお辞儀をするのでありました。それに対して日比さんは特段名乗るわけでもなくコックリをするように頭をヒョイと動かすのでありました。
 山尾さんと一緒に制作部スペースへ戻ると、片久那制作部長がそれ迄見入っていた何やらの印刷物の校正刷りらしきから目を離して頑治さんを迎えるのであありました。
「どうだい、倉庫の様子は大まかには判ったかい?」
「はあ。山尾主任に丁寧に案内していただいたのですが、しかし商品をすっかり把握した訳ではないので未だ心許ない感じです」
「そりゃそうだ。入社した今日からいきなり何でも熟せる訳がないし、あれこれ戸惑いながら、追々手際良く動けるようになれば良いよ」
「判りました、有難うございます。ええとそれから、白い紙を一枚頂けませんか?」
 頑治さんはそう云って片久那制作部長に懇願の目を向けるのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 21 [あなたのとりこ 1 創作]

「午前中に完了するんだろうね?」
「まあ大丈夫でしょう」
 刃葉さんのその受け応えに山尾さんは疑わしそうな目付きをするのでありました。
「この梱包仕事のために、何時も定期で行って貰っている宇留斉製本所の仕事を午後一番に回したんだから、午前中に終わって貰わないと困るよ」
 宇留斉製本所と云うのは月曜日午前中に制作部の定期便として行くべき、池袋にある製本所の名前でありましょう。そこへの出来上がった製品引きとり兼、新たな材料搬入の仕事は、先に片久那制作部長から制作部関連で説明された業務の仕事でありますから、何時もは刃葉さんが担当しているという事になりますか。
「大丈夫ですよ」
 刃葉さんは如何にも軽そうな口調であっさり請け合うのでありました。
「宇留斉製本所のおばちゃん達は何やかやと逐一、こっちの手落ちと見たら口煩い苦情を云ってくるだから、ちゃんと昼一番に行かないとまた文句の電話が掛かってくる」
「ああ確かにあそこの人は面倒臭いですからねえ。しかしそれを心配しているのなら俺にではなくて、今朝急にこの梱包の仕事を入れた営業部長に文句を云ってくださいよ」
 刃葉さんが口の端に笑いを留めて抗弁するのでありました。何やら、嫌に他人事のような、それは無責任と文句を付けたくなるような云い草でありました。
「まあ兎に角、宇留斉製本所には時間通りに行ってくれよ」
 山尾さんは刃葉さんの抗弁に忌々しそうに顔を歪めるのでありました。刃葉さんは特段それに返事する訳でもなく無表情の儘手を動かし続けるのでありました。

 倉庫から再び上の事務所に戻る階段の、二段先を歩く山尾さんの背中辺りに向かって頑治さんが訊ねるのでありました。
「あの刃葉さんがひょっとしたら自分の直接の上司、と云う事になるのでしょうか?」
「いやまさか、そうじゃないよ」
 山尾さんは歩を止めずに後ろを振り返るのでありました。「刃葉君はあと二か月足らずで会社を辞めるんだからね」
「ああそうなんですか」
 頑治さんはそれは知らなかった、と云う少しの驚きを語調に込めるのでありました。
「営業部長から聞かなかった?」
「いえ、そう云う事に付いては何も」
「だから刃葉君の後釜として唐目君を雇ったんだから」
「ああそう云う事ですか」
 初耳でありました。まあ、この後土師尾営業部長からその辺の経緯について頑治さんに説明があるのかも知れません。と、その時頑治さんは考えたのでありましたがしかし後日談として云えば、結局土師尾営業部長からは頑治さんを雇った事情についての説明は一切ないのでありました。多分うっかり云いそびれたのでありましょうが。・・・
(続)
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あなたのとりこ 20 [あなたのとりこ 1 創作]

 とこれは、姿の見えない刃葉さんに対して舌打ちしながらの山尾さんの言葉でありますが、独り言なのか頑治さんに聞かせる繰り言なのか良く判らないのでありました。
 作業台の上には梱包途中の段ボールがあって傍にビニールバンドの切れ端やら結束用の金具、それに緩衝材代わりの新聞紙を丸めた塊が乱雑に転がっているのでありました。刃葉さんは作業途中でのっぴきならない用が出来て姿を消したと云った風情であります。
 頑治さんは棚のあちらこちらを山尾さんに引き回されて説明を受けるのでありました。メモ帳に棚の簡略な見取り図を描いて、商品一覧と突き合わせしながら説明を受けるのでありましたが、材料類が多過ぎて一遍には上手く覚えられないし整理も付かないのでありました。これはここでたじろぐよりも徐々に覚えていくしかないでありましょう。
 それにまた山尾さんの説明も一覧表に記してある順を追って、と云う訳ではないし棚の並び順と云うのでもなく、あっちへ連れて行ったりこっちへ手招きしたりの思い付き任せと云う具合だったので頑治さんは多少混乱するのでありました。もう少し整然とした説明だったら良いのにと頑治さんは口の中で愚痴を零すのでありましたが、しかしそう要望するのも憚られて、こうなったら棚に順に番号を振って商品一覧表にある商品も材料もその番号を割り当てて、後で落ち着いて頭の中を整理整頓した方が良いでありましょう。
 二十分程で一通り山尾さんの説明が終わるのでありました。ちょうどそこに姿を消していた刃葉さんが戻って来るのでありました。
 刃葉さんは倉庫内に頑治さんを見付けて不審そうな目を向けるのでありました。
「刃葉君、何処に行っていたんだ?」
 山尾さんが、刃葉さんが頑治さんを見るのと同じ目容で訊ねるのでありました。
「ああいや、ちょっと」
 刃葉さんはやや気まずそうな物腰で応えるのでありました。
「何か煙草とコーヒーの匂いがするなあ。喫茶店にでも云っていたのか?」
 山尾さんにそう云われて刃葉さんは少したじろぐ仕草を見せるのでありました。すぐにきっぱり否定しないところを見ると図星なのでありましょう。刃葉さんは、恐らく自嘲なのか、或いはひょっとしたら太々しさの表明なのか、曖昧な微笑を口の端に浮かべて作業台の前に進んで行って途中で止めていた梱包作業を再開するのでありました。
「仕事中に無断でまたコーヒータイムか。そんな事をしたら駄目じゃないか」
 山尾さんが作業台の横から苦言を呈すのでありました。山尾さんが「また」と云うところを見ると、そう云う横着はこれが最初と云うのではないのでありましょう。
「はあ。作業の効率が落ちたんで、ちょっと息抜きをしていたんですよ」
「今まで何個、梱包を終えたんだい?」
 山尾さんにそう訊かれて刃葉さんは後ろをふり返って壁際に置いている梱包を終えた段ボールの数を数える目つきをするのでありました。
「五箱、ですかね」
「あと何個荷物を作るんだい?」
「残り七箱ですね」
(続)
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あなたのとりこ 19 [あなたのとりこ 1 創作]

 片久那制作部長から制作部関連の業務仕事に付いて説明があるのでありました。それに依ると先ず月曜日朝一番に、池袋にある製本所に依頼している製本商品を引き取りに行き旁、一週間分の材料等を搬入すると云う定期の仕事があるのでありました。
 この製本所と云うのは三人の姉妹でやっている小さな家内工業的な会社のようであります。大きな製本所では受け負えない細々とした込み入った内容の仕事も引き受けてくれる便利屋みたいな所で、もう随分と長い付き合いがあるのだそうであります。月曜日は大体この仕事で午前中は潰れてしまうようでありました。
 それから金曜日の午後にも、これは本郷にある製本所に池袋と同じく商品引きとり旁、材料を搬入すると云う定期仕事があるのでありました。こちらの製本所の方はやや大きな会社の様で、量を熟せる所と云う話しでありました。池袋よりは場所が近いだけに金曜日の午後半日潰れるような事はないとの事であります。池袋も本郷も今週の金曜日と来週の月曜日に山尾主任が頑治さんの紹介を兼ねて連れて行ってくれるそうであります。
 他にはこの製本所関連の物も含めて不定期に色々な材料が下の駐車場奥の倉庫に搬入されるので、それを保管管理すると云う仕事があるのでありました。下で見た歪な形のクラフト紙梱包してある物等は屹度そう云った材料の一つなのでありましょう。
「他にも何やかやとあるが、メインはそう云った辺りが制作部関連の主な仕事だな」
 片久那制作部長は身体を椅子の背凭れに引いて、机の引き出しを開けて五枚の右片をホッチキスで綴じ合わせた紙を取り出すのでありました。「これはウチの商品一覧と、その関連材料を記したものだが、取り敢えず渡しておくよ。まあ、見ても今の内は何が何だか良く判らないだろうけど、まあ、追々と覚えていってくれ」
 受け取って覗き込むと、商品の名称とその下にその商品を仕上げるのに必要な材料名が仕入先と一緒に表にして書き記してあるのでありました。矢鱈と材料の多い物もあれば材料が何も記してない物もあるのでありました。何も記されていない物は屹度、仕入れた儘で加工を必要としない完成品として入庫して来るのでありましょう。
 頑治さんが一覧表に見入っていると山尾さんが話しかけるのでありました。
「じゃあこれから、倉庫に行って主立った材料の置き場所や完成品の置き場所なんかを説明するから一緒に付いて来てくれるか」
「はい判りました」
 頑治さんは今貰った一覧表と、今迄の話しやら紹介された人物の名前等を書き入れていた自分のメモ帳を重ねて、左手に持ち直して片久那制作部長に一礼するのでありました。片久那制作部長は頑治さんの左手に目を遣りながら微笑むのでありました。これは屹度、頑治さんがただ話しを聞いているだけではなく、何も指示せずとも自主的にメモを取っている律義さを少しく好ましいと思ったが故の微笑でありましょうか。

 山尾さんに連れられて再び駐車場奥の倉庫に戻ると、梱包作業をしていた筈の刃葉さんの姿は無いのでありました。
「また鍵も掛けないで、一体何処に行ったんだか」
(続)
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あなたのとりこ 18 [あなたのとりこ 1 創作]

 そのライトテーブルの奥には製図板をやや斜めにして置いた重役机があって、そこには面接の時に終始不機嫌な顔をして、一言も発する事無く頑治さんを窺っていた片久那狷造制作部長が座っているのでありました。頑治さんは一瞬身構えるのでありました。
 ライトテーブルを挟んだ向こう側はブラインドの降りた窓が一面を占め、その下にはこれも小振りの製図板を置いた事務机が三つ並んでいて、手前の机に若い男、真ん中に若い女が座っているのでありました。一番奥の片久那制作部長の横手に当たる机には誰も居ないのでありました。おそらくそこが頑治さんをここへ誘った黒カーデガンの男の席でありましょうか。ここは制作部のスペースと云う事のようであります。
 頑治さんの姿が見えると奥の片久那制作部長が顔を起こすのでありました。片久那制作部長は意外にも過日の面接時とは違って頑治さんに笑顔を向けるのでありました。
 頑治さんは先ずは、このスペースのボスたる片久那制作部長の机に近付いて行ってやや格式張ったお辞儀をするのでありました。
「今日からお世話になります唐目頑治です」
 頑治さんが挨拶すると片久那制作部長は、ああよろしく、と返して小さく頭を縦に動かすのでありました。面接の時の無愛想とは打って変わって、この親愛感のある物腰に頑治さんは面食らうのでありました。外の人間に対しては至極冷淡なくせに一旦内側に入ると心を許すと云う、態度の懸隔が激しい人なのであろうと頑治さんはこの仁を値踏みするのでありました。まあ、無愛想にされるよりも愛想良くされる方が有難くはありますが。
「一応紹介しておくと、・・・」
 片久那制作部長は窓側に並ぶ三人の机の方に目を遣るのでありました。「一番奥に座っているのが制作部主任の山尾登君」
 この間に自分の席に戻っていた黒カーデガンの男が、ニコやかな顔で頑治さんに、先程の片久那制作部長同様に軽く頭を下げて見せるのでありました。
 男が顎を引くようにして頭を下げたので頑治さんもお辞儀を返すのでありました。
「真ん中に座っているのが那間裕子君」
 真ん中の女性も頑治さんに向かって少し頭を縦に動かすのでありました。こちらは無愛想顔、と云うのか或いは、無関心顔でありましたか。ショートヘアで目鼻立ちが大きくて顔の上下左右比も整ってはいるけれど、だからと云って決して美人と云う訳ではなくて、それはそのプライドの高そうな険相の故であろうと思われるのでありました。
「向こうの端に座っているのが均目志信君」
「均目です。よろしくお願いします」
 三人目はネクタイの上から生えている細くて長い首が最初に目に付く、如何にも華奢な身体付きの男で、顔立ちにも何処となく気の弱そうな風情が漂っているのでありました。しかし頑治さんに発した挨拶の声はなかなかに大きく歯切れが良いのでありました。
「唐目です。こちらこそよろしくお願いします」
 この均目さんが今まで逢った社員の中で最も若そうであるし、性格に圭角がなさそうな感じもして、頑治さんとしては安心感を声に含ませて答礼するのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 17 [あなたのとりこ 1 創作]

 上の事務所に戻ると、席に座っている土師尾営業部長の横に立っている、土師尾営業部長よりは若く、頑治さんよりは年嵩に見える男が頑治さんの方に顔を向けて手招きするのでありました。男は紺のズボンに紺のネクタイを締めて、黒いカーデガンを羽織っているのでありました。頑治さんは男に近寄って行くのでありました。
「下でいきなり梱包を手伝えって、刃葉君に云われたのかい?」
 座っている土師尾営業部長の方が男より先に頑治さんに訊くのでありました。
「はいそうです」
「刃葉君には業務の仕事を教えてやれって指示したんだけど、そう云った事は何か刃葉君の方から説明があったのかい?」
「いえ特には。梱包とかやったことがあるかって、先ずそう訊かれまして」
 頑治さんがそう応えると、土師尾営業部長は下で刃葉さんがしたような舌打ちをして見せるのでありました。この舌打ちも頑治さんに対してではなく、刃葉さんに対しての苛々からでありましょう。何やら社員間で舌打ちばかりしている会社のようであります。
「僕が指示したのはそんなんじゃなくて、業務仕事のあれこれとか倉庫にある商品を見せて遣れと指示した心算だったんだけどねえ」
 土師尾営業部長はもう一度舌打ちするのでありました。「唐目君も未だ仕事の右も左も判らない訳だから、そう云って業務仕事について先ず説明を求めれば良かったのに」
 土師尾営業部長は頑治さんに冷ややかな目を向けるのでありました。
「はあ。しかしそう云われましても、・・・」
「そりゃ無理ですよ!」
 ここで横の男が声を発するのでありました。「今日来たばかりの人が倉庫に連れて行かれて、いきなり梱包を手伝えって云われれば、先ずそれに従うしかないでしょう。唐目君に今そんな意志表示を求めると云うのは、無理と云うより無茶ですよ」
 男がやや強い語調で捲し立て終ると、自分の席に座って今まで黙って帳簿を付けていた甲斐計子さんがクスっと笑うのでありました。
「まあ、それはそうだけど。・・・」
 土師尾営業部長は男からおどおどと目を逸らすのでありました。これはつまり土師尾営業部長が、頑治さんの事を選りに選って刃葉さんに託した自分の迂闊さを認めるのが嫌さに頑治さんに発した的外れな言葉を、黒カーデガンの男に正面から諌められたと云った構図でありますか。頑治さんとしては多少胸がすく思いでありました。
「じゃあ唐目君、こっちに来てくれるか。制作部関係の仕事を説明しておくから」
 黒カーデガンの男が一度手招きするような仕草をして、スチールの棚で仕切られた部屋の奥の方へ頑治さんを連れて行こうとするのでありました。頑治さんはチラと土師尾営業部長の顔を窺うのでありましたが、不愉快そうにソッポを向いているだけで、黒カーデガンの男の行為に対して特段の横槍は入れないのでありました。
 棚は横長の引き出しが重なった大型のマップケースでありました。その前には大きなライトテーブルが置いてあるのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 16 [あなたのとりこ 1 創作]

「ええ。前にアルバイトで」
「あ、そう。それじゃ俺が商品を出すから、その発送指示書に書いてある品を個数分段ボールに詰めて梱包してくれるか」
「ああそうですか。・・・判りました」
 刃葉さんが頑治さんをここに連れて来たのは業務仕事の大概を教えてくれるためだと思っていたのでありますが、どうやら仕事の概要も、扱っている商品も良く判らない儘いきなり発送業務を手伝わされるようであります。まあ、先輩社員の云う事でありますから敢えて逆らう訳にもいかないだろうと、大いに戸惑いながらも頑治さんはスーツの上着を脱いでネクタイを外し、ワイシャツの袖を捲るのでありました。

 刃葉さんが出してきた商品を段ボールに詰めて、その二つ目の荷物に結束バンドを架けているところで、机の傍らの棚に固定してあるインターフォンのブザーが鳴るのでありました。作業台の端で運送会社の発送伝票を記入していた刃葉さんが億劫そうに受話器を取るのでありました。インターフォンは上の事務所と繋がっているのでありましょう。刃葉さんは暫しの間受話器を耳に当て、上からの声を無表情に聞いているのでありました。
「はあ、今発送を手伝ってもらっています」
 刃葉さんが受話器に向かって云うのでありました。恐らく頑治さんの事を訊かれているのでありましょう。頑治さんは横目で刃葉さんの方を窺うのでありました。
「はあ。そうですか。はあ。・・・」
 刃葉さんはその後、受話器に短い返答を間歇的に吹きかけるのでありました。それからニンマリ笑ってみたり、小さな舌打ちをしたりするのでありました。じゃあ判りました、と云ったのが最後の言葉で、刃葉さんは受話器をインターフォンの本体にものぐさそうに戻すのでありました。それからまた舌打ちであります。
 この舌打ちは恐らく、今のインターフォン越しの会話の相手に対して発せられているのでありましょう。自分に向けられているのではなさそうながら、頑治さんは刃葉さんのこう云う仕草を大いに不愉快に思うのでありました。この人は自分の周囲に対する気遣いが出来ない、或いはしようとしない人なのでありましょう。
「上で呼んでいるから、ここは切り上げて上に戻ってくれるか」
 刃葉さんは頑治さんの方に掌を差し出して、結束バンドを金具で締めるための工具を自分に渡すように促すのでありました。
「判りました。それじゃあ」
 頑治さんは工具を刃葉さんに渡すと傍らに置いていたネクタイと上着を取ってこの埃っぽい駐車場奥の倉庫を出るのでありました。紙や印刷物のインクやその他の何やら良く判らない匂いが充満した、しかも外光が差さないために妙に湿っぽい倉庫の中から解放されて、頑治さんは鉄の扉を出た途端大きく深呼吸するのでありました。これから先あの倉庫の中が自分の主要な仕事場になるのかと思うと、頑治さんは少なからず気が滅入るのでありました。しかしまあ、それはそれで仕方ないかとも思い直すのでありました。
(続)
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