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あなたのとりこ 70 [あなたのとりこ 3 創作]

 夕美さんはまた一口ワインを飲むのでありました。「さっき食事していた時に頑ちゃんから、あたしの考古学に対する興味が少し薄れたんじゃないかって云われて、何かこのところずっと感じていた憂鬱の原因をはっきり言葉にされたような気がしたの。明らかに薄れたって実感する程の大きさじゃないんだけど、でも確かに前はウキウキして出掛けていた発掘助手の仕事も、何となく現場まで出かけるのが大儀に感じる場合もあったのね。それでも自分を鼓舞して出かけるんだけどね。出かけたら出かけたでそれは何時も通り楽しいんだけど、前よりも帰りにドッと疲れるの、体の調子がおかしい訳じゃないのに」
「ふうん」
 大した事を喋った訳ではないにしろ夕美さんの喋る低いトーンの言葉の連なりを聞きながら、頑治さんは不用意に余計な事を云ったのかなと少したじろぐのでありました。「でもあんまり深刻に考えない方が良いのかも知れないよ、今は。薄れた気持ちがまた元の濃さに回復する事もあるだろうし、今ほんのちょっと倦怠しているだけかも知れないし」
「でも、そろそろ博士課程に進むのかそれとも止すのか決めないといけない時期だし」
 夕美さんはまたワインを飲んでから小さな溜息をつくのでありました。夕美さんの持つコップの中のワインの朱色が少し揺らぐのでありました。
 ほんの暫くの間ではありますが会話が途切れるのでありました。
「今日、泊まって行こうかな」
 夕美さんがぼつりと云うのでありました。
「それは構わないけど、明日は朝が早いんじゃないの?」
「ううん、別に早くはないわ。頑ちゃんが出勤する時に一緒に出れば大丈夫」
 頑治さんとしては大歓迎な提案でありました。今夜は何となくずっと一緒に居てあげたいような心持ちがしていた矢先でありましたし。
「じゃあそうするかい?」
「うん、そうする」
 夕美さんは頑治さんの顔を見ながら笑むのでありました。心持ち頼り無さそうな沈んだ笑みに見えるのは、それはこれまでの会話の経緯からでありましょうが。

   去る人

 結局山尾主任も均目さんも当日都合が悪くなったものだから、翌週の月曜日に頑治さんを池袋の宇留斉製本所に連れて行ってくれるのは刃葉さんと云う事になったのでありました。尤も羽葉さんにとっては毎週決まった仕事の一つであったから、その序でに助手を兼ねて頑治さんを引き連れて行くと云った寸法になる訳でありますか。
 折角整理整頓した棚を刃葉さんに荒らされるのは叶わないから、頑治さんが持って行く材料類を棚から出して倉庫出入り口まで運び、それを羽葉さんが車に積み込んで出発の準備を整えるのでありました。なかなかきびきびと甲斐々々しく働く助手だと刃葉さんは思ったでありましょうが、それは頑治さんの了見を曲解しただけであります。
(続)
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あなたのとりこ 69 [あなたのとりこ 3 創作]

 頑治さんは三角形に加工してあるチーズを齧りながら云うのでありました。
「錦華小学校の付属の幼稚園かしら」
「多分そうだろう。いや俺も良くは知らないけど」
 頑治さんはそこに何が建つのか殆ど興味が無いのでありました。「でも、そのために公園がちょっと狭くなるのは何となく残念かな」
 錦華公園は平日の昼休み時間等、学生やら近所で働くサラリーマンなんかでなかなかに混み合っていて、空いているベンチが見付けられないくらいでありました。そう云えば会社の刃葉さんなんかも、未だ就業時間中にも関わらず無為に時間を潰すため錦華公園のベンチで屡転寝をしているのを見かけると袁満さんが云っていましたか。
「そうね、狭いけどあれはあれでなかなか、憩いの公園と云った感じだからね」
 夕美さんも少し残念そうな顔をするのでありました。
「ところで博士課程に行かない場合、大学院を卒業したらどうする心算なんだい?」
 頑治さんは話しの舳先を大きく曲げるのでありました。先程中華料理屋で訊いた夕美さんの話しが、何となく気に懸かっていたからでありました。
「博士課程に残らないって決めた訳じゃないから、そうしなかった後の事なんか未だ何も具体的に考えてはいないし、決めてもいないわ」
「ふうん。でもまあ、夕美の事だからそうなったらそうなったで、抜かりなく何処かちゃんとしたところに就職を決める事が出来るか」
「中学校か高校の先生になるのも悪くないかな」
 夕美さんは頑治さんに笑いかけながら云うのでありました。
「そうか、大学の時に教職課程は取ったみたいだしなあ」
「それに何処かの博物館の職員になると云うのも良いかも知れない」
「学校の先生か、博物館の職員ねえ」
 頑治さんは夕美さんがそう云う職業に就くのが似合っているのかどうか考えてみるのでありました。まあ、似合っているようでもあるし似合っていないようでもあるし。
「もっとバリバリ、商社とか銀行とか保険会社とか、或いは新聞社とかテレビの放送局とかで働く、なんていう野心的な了見は無いの?」
「あたしどちらかと云うと性格がのんびりしている方だから、あんまりバリバリとか云うのは自分に合ってはいない気がする。まあ、学校の先生も博物館の職員も、だからと云ってのんびり勤められる訳じゃないのは判っているけどさ」
 確かに夕美さんは性格におっとりしたところがあると頑治さんは納得するのでありました。だから一種地道に腰を据えて、丹念に研究を進めていく考古学と云う学問に魅かれたところもあるのでありましょう。しかし若し夕美さんが大学院卒業後にバリバリの方を選んだとしても、夕美さんの事だからそこはそれなりに賢く順応して、そつなく自分の与えられた仕事を熟す事が出来るのであろうとも思うのでありました。
「考古学からあっさり離れるのかな、若しそうなったら?」
「全く離れはしないけど、でも少し距離を置く事になるかも知れないわ」
(続)
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あなたのとりこ 68 [あなたのとりこ 3 創作]

 懐かしい様々な話しに現を忘れていたら喫茶店に入って二時間近くが過ぎているのでありました。頑治さんにしたら久しぶりの心躍る二時間でありましたか。
「せっかく逢えて、後は音沙汰無しと云うのも寂しいから、連絡先教えて置いてよ」
 そろそろ席を立とうかと云う時に夕美さんが、兎の絵の描いてある白地に細かいピンクのチェックの入ったメモ帳を取り出しながら云うのでありました。頑治さんが電話番号を知らせると夕美さんはそれを俯いてメモ帳に書き記すのでありました。
「俺も電話番号聞いて置こうかな」
 夕美さんは頑治さん同様、自分専用の電話をアパートの部屋に引いているのでありました。頑治さんと夕美さんが通っている大学では、一人暮らしで自前の電話を持っている学生なんぞは稀な存在でありましたか。これも、近くに叔母さんが住んでいるとは云え、東京で一人アパート暮らしをする娘への実家のお父さんの配慮からでありましょう。
「メモしないの?」
 頑治さんが聞きっ放しで、特段書き記す気配がない事に夕美さんは不安を感じたようでありましたし。お愛想で聞きはしたけど、実は聞きたいと云う肚は更々無いんじゃないかしらと、そんな落胆の気色も多少窺えるような顔付きでありました。
「もう覚えたよ」
「本当?」
「何なら復唱しようか」
 頑治さんは今聞いた夕美さんの電話番号を繰り返して見せるのでありました。
「ここを出たらすぐ忘れるんじゃないの?」
「そんな事は無いよ。一度聞いた、特に女子の電話番号を即座に暗記するのは、自慢じゃないけど俺の得意技の一つなんだから」
 頑治さんは柄にもない軟派な冗談を嘯くのでありました。
「ふうん」
 夕美さんは未だ疑いの色を眉宇に止めているのでありましたが一応納得するのでありました。本人がそう云う以上、書き記せと強要する訳にもいかないでありましょう。
 その日の夜に頑治さんは夕美さんの住まいの電話を鳴らすのでありました。ちゃんと覚えていた証しであります。夕美さんは安堵したような声で再度納得するのでありました。頑治さんはそれから序に、明日もあの公園で逢う約束を取り付けるのでありました。

 夕美さんがワインを入れたコップを口に運びながら頑治さんに訊くのでありました。
「そう云えば錦華公園が今工事中なのね」
 頑治さんの勤め始めた会社の横を足早に手を繋いで通り過ごして、本郷二丁目の頑治さんのアパートに向かうため錦華公園を横切って山の上ホテルの横に石段を登る時に見た、公園の一角が工事のためにテントで仕切られている光景を夕美さんはふと思い浮かべたのでありましょう。それからワインを一口飲んでコップを置くのでありました。
「ああ、何でも幼稚園を建てるために工事しているそうだけど」
(続)
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あなたのとりこ 67 [あなたのとりこ 3 創作]

「押絵に強引に誘われて、あたしも参加したの」
「そう云えばミッションの女子高生も何人か輪の中に居たような気がする」
 頑治さんは遠くを見るような目付きをして往時を思い出すのでありました。「俺も剣道部の指令で参加していたんだ。学園祭が終わった後に運動部員は後片付けに駆り出されるんで、最後まで残っていなければならなかったからね」
 頑治さんは夕美さんに目の焦点を合わせ直してから云うのでありました。すると今度は夕美さんが頑治さんから微妙に目を逸らすのでありました。
「唐目君が参加していたのは知っていたわ。で、二重の輪が一人ずつずれながらグルグル回ってさ、唐目君とペアになったらどうしようって、あたし実は恐々として踊っていたのよ。多分押絵はそれが目的で、面白がってあたしを強引に誘ったんだと思うけど」
 この夕美さんの言葉の後段が少々気になるのでありましたが、頑治さんは敢えてそれを意に留めない風に、如何にも冗談めかした口調で訊くのでありました。
「何だよ、俺とペアになるのがそんなに嫌だった訳か?」
「ううん、勿論そう云うんじゃなくてさ」
 夕美さんはコーヒーカップを口元に運ぶのでありました。「だから詰まり、恐々としてって云うのか、ドキドキしてって云うのか、・・・」
「まあ、結果的には羽場の望み通りペアになる事はなかったよなあ、確か。・・・いやひょっとしてペアになっていて、でもそれを俺が判らなかったのかな」
 何やら話しの展開に妙にウキウキして来るのだけれど、頑治さんは舳先の進路を十四度程度、右か左かはこの際別として、敢えて微変更して見せるのでありました。
「そうね、ペアにはならなかったわね、残念だったけど」
「残念だった?」
 頑治さんは舳先を七度程元に戻すのでありました。
「まあ、いいじゃない」
 夕美さんは続けて二口コーヒーを飲むのでありました。「だから、あたしは高校生の唐目君を見た事があるの。それで、高校生の頃、って云ったの」
「ふうん。しかしそうなると俺も高校生になった羽場に逢ってみたかったな」
 頑治さんは郷里にある高校の中でも特にスマートなミッション高校の制服を着た夕美さんを思い浮かべているのでありました。さぞや可憐な姿であった事でありましょう。
「中学生の頃とそんなに変わらないわよ」
「いや、女子は一年逢わないと見違えるくらい変貌するって云うからなあ」
「それは高校を卒業してからの話しよ。制服も着ないしお化粧とかするようになるし」
「ふうん、そう云うものかね」
 頑治さんはその辺には疎いものだからあっさり納得の頷きをするのでありました。しかしこうして七年振りに逢った夕美さんはそんなに化粧っ気は無いのでありましたし、確かに中学生の頃の幼さが程良く消えているものの、面影はその頃その儘と云えば云えるでありましょうか。夕美さんはどうやら劇的な変貌はし損なったようであります。
(続)
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あなたのとりこ 66 [あなたのとりこ 3 創作]

 夕美さんは小さくてキュートな舌打ちの音を響かせるのでありました。勿論顔は笑っているからこれは一種の、決まり事としての合いの手みたいなものでありましょうか。
「さて、何処か喫茶店にでも行くかい?」
「そうね、コーヒー飲みながらこの六年半のお互いの出来事なんか話しましょうか」
 夕美さんが同意したので、二人は本屋の書泉グランデ裏のラドリオと云うちょっと古風な雰囲気の喫茶店に向かうのでありました。
「あんな一杯人が居る学食で、よく俺の事が判ったもんだなあ」
 頑治さんはウィンナコーヒーを一口飲んでから驚きの表情を作るのでありました。
「すぐ判ったわ。だって唐目君、高校生の頃とちっとも変っていないんだもの」
「ああそうかい」
 頑治さんはまたカップを取って口に近づけるのでありましたが、すぐにおやと云う顔をして夕美さんの方を上目に見るのでありました。「あれ、高校生の頃?」
「そう、高校生の頃」
「中学生の頃、の間違いじゃないのかい?」
「ううん、高校生の頃よ」
 夕美さんもカップを取り上げるのでありました。「あたし一度、増田押絵に誘われて東高の学園祭に行った事があるの。二年生の時だったかな」
 増田押絵と云うのは頑治さんと同じ東高に進学した中学時代の同級生であります。
「ああそうなんだ。そこで俺を見かけたと」
「そう。押絵に、ほらあれが唐目君の成れの果てよって教えられて、遠目から見たの」
「成れの果て、ねえ」
 頑治さんは別に高校二年生の時に中学生の頃に比べて落ちぶれたと云う実感は何も無かったものだから、夕美さんの、と云うよりは当時の増田押絵の云い草に大いに不満の表情をして見せるのでありました。落ちぶれるどころか、その頃が部活の剣道やらギターの練習やら友人たちとの冗談の云い合いやら、序に学業にも血を騒がせていた自分の一番溌剌としていた青春真っ盛りの時代であったと考えているのでありましたから。
「成れの果て、と云うのは勿論押絵のおどけた云い方よ」
「確かに増田は口の悪いヤツだったけどね」
「まあそれはそれとして、そう教えられて遠目だけど、仲間とワイワイやっている剣道の稽古着を着た唐目君を見たんだけど、なかなか凛々しくて格好良かったわよ」
「それは前言のフォローの心算かな」
「ううん、正真正銘の実感よ」
 夕美さんはそう云った後少しの間を空けて、俯いて頑治さんから目を逸らして恥ずかしそうに笑むのでありました。「で、学園祭の最終日だったから、夕方にキャンプファイヤーみたいに校庭の真ん中で盛大に井桁に組んだ焚き木を燃やして、その周りを生徒とか見に来た人皆で囲んで二列の輪になって、フォークダンス躍ったでしょう」
「ああ、そうだったなあ。東高の学園祭のフィナーレは何時もあれだ」
(続)
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あなたのとりこ 65 [あなたのとりこ 3 創作]

「まあ、良いじゃないか。あの人は何を考えているのか窺い知れない人なんだから」
 頑治さんがそう云うと夕美さんは「ふうん」と、何となく納得し難いような表情を浮かべるのでありました。しかし特段拘らない風に眉宇を広げて右手に持ったスーパーの紙袋を持ち直して、左手で頑治さんの右手の掌を握るのでありました。こういうところをうっかり刃葉さんに見付けられるのも詰まらないから、頑治さんは夕美さんの指に自分の指を絡めながら、その手を引くようにやや足早にその場を離れるのでありました。

 神保町の古書店で籠に入った廉価な文庫本を三冊買った勘定に思いの外手間取り、頑治さんは足早に夕美さんと先程待ち合わせを約した公園に戻るのでありました。夕美さんはもう既にあのベンチに座っていて、頑治さんが慌てながら駆け込んで来る様子が可笑しかったのか、口に手を当ててベンチから立ち上がって手を振るのでありました。
「計算がうっかり間違っていて、レジに行ったら十五円不足していたんだよ」
 頑治さんが傍まで来るなりそう云うものだから夕美さんは何の事だか判らずに、戸惑うように頬から笑いを消して首を傾げて見せるのでありました。
「十五円がどうかしたの?」
「で、あっちこっちポケットの中を探ったら十円はあったんだ」
「あと五円足りない訳ね」
 そもそもの事情がよく判らないながら夕美さんは話しの流れに乗るのでありました。
「そう。もうポケットからは一円も出てこない」
「それは困ったわね」
 夕美さんは眉宇を狭めるのでありました。そこで頑治さんは右手に持った輪ゴムの掛かった文庫本三冊の束を夕美さんの目の前に差し上げて見せるのでありました。それでようやく、どこかの本屋で文庫本を買っていざ勘定と云う段で所持金が十五円足らなかったのだろうと、夕美さんは頑治さんの今の話の大概を察したようでありました。
「で、ね、馴染みと云う訳ではないんだけど、向こうも名前は知らないけど俺の事を時々店に来る客だと認識が無い訳でもないみたいで、仕方が無いから今度来る時に五円を払ってくれればいいよとあっさり許してくれて、この三冊を売ってくれたんだよ」
 夕美さんは頑治さんが差し上げた文庫本を覗き込むのでありました。
「今のは古本屋さんでの出来事ね」
 表紙の少し古びている風情からそう判断したのでありましょう。
「そう。きっぱり五円負けてくれる訳じゃなくて、貸し、と云う事にしてくれる辺りが俺のその古本屋での在りようと云うところかな」
「ああ成程ね」
 夕美さんは二度程頷きながら頑治さんに笑みかけるのでありました。
「と云う事で、勘定に手間取って少し遅れた次第だ。ご免」
 頑治さんは頭を下げて見せるのでありました。
「なんて長い云い訳だ事」
(続)
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あなたのとりこ 64 [あなたのとりこ 3 創作]

「そう。ここの三階が事務所で一階の駐車場奥が倉庫」
 頑治さんは応えながら駐車場奥の倉庫の扉が少し開いていて、そこから灯りが漏れているのを見るのでありました。頑治さんが退社する時には製作部の山尾主任と均目さんが残っているだけで、倉庫の刃葉さんも他の社員も既に退社しているのでありました。山尾さんか均目さんが未だ残業していて倉庫で何か作業をしているのでありましょうか。
「倉庫に未だ誰か居るみたいね」
 夕美さんも長方形の灯りの方に視線を向けるのでありました。二人して何となく遠目に窺っていると、その内微かに人の声が灯火に混じって漏れ出て来るのでありました。
 それは言葉と云うよりも何やら呼気に乗せて単発音を発していると云った風でありましたか。剣道や柔道の試合の時に耳にするような気合の声のようなものであります。
 倉庫の仲でこんな声を発する人と云ったら、これはもう刃葉さん以外ではないでありましょう。勘繰るに、空手の突き蹴りの練習をしているか、或いは木刀で素振りでもしているのでありましょう。バレエではこんな気合の発声はしないでありましょうから。
 刃葉さんは五時になったら早々に退社した筈であります。あれこれやっている習い事に
早々に出向くためと思ったのでありますが、今日は何も無い日なのでありましょうか。しかしそれにしても退社後に会社の倉庫で仕事とは無関係な個人的な習い事の練習をしているとすれば、これは例によって慎に不謹慎と云う誹りは免れ得ないでありましょう。
 残業していた山尾主任と均目さんはもう帰ったのでありましょうか。未だ残っているとしてもこの事を知らないのでありましょうか。それとも知っていても刃葉さんに注意するのが億劫で、その儘目を瞑って放置しているのでありましょうか。
「ちょっと待っていてね」
 頑治さんは夕美さんにそう云い置いてビルの横手に回ってみるのでありました、ビルは東南の角地に立っていたから、東側の狭い道から見上げれば、三階の制作部スペースの窓に明かりが点いているかどうか確認出来るのであります。
 灯火は消えているのでありました。と云う事は山尾主任と均目さんはもう帰っていると云う事であります。依って二人が居なくなった頃を見計らって羽場さんは会社に戻って来て、誰憚る事無くこんな勝手な真似をしていると云う事でありましょう。
 折角倉庫の整理整頓を始めた自分の仕事がひょっとしたらこれで棄損される恐れもあると思うと、頑治さんは少し腹立たしく思うのでありましたが、しかし乗り込んで行って、昨日入ったばかりの後輩が先輩の所業を咎め立てする、と云うのも何やら了見違いの出過ぎた真似のようでもあります。取り敢えずここは堪えるのが上策かも知れません。それにここで刃葉さんと一悶着起こして、折角のこれからの、夕美さんと二人だけの楽しかるべき時間への突入を遅らせて仕舞うのも慎に惜しいと云うものではありませんか。
「さっき話しに出た羽場さんが、珍しく残業しているんだろう」
 頑治さんは夕美さんにそう云ってこの場を離れようとするのでありました。
「時々気合をかけるような声を出す残業仕事?」
 夕美さんが怪訝そうに首を傾げるのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 63 [あなたのとりこ 3 創作]

 頑治さんは高校生の頃から小説本を読むのが好きなのでありました。人間心理の探究とか異世界の風物に憧れるとか、或いはグッと実用本位のところで語彙の収集とか作文能力や文意理解能力の鍛錬とかそう云った向上心タップリの意識は更々無く、敢えて云えば、頁上に物語られる日本語の流れに自分の心の流れを同調させている時間がこよなく好きなのでありました。自分である事からの解放、等と云えば何とも大袈裟でありますが。
 しかしだからと云って頑治さんは別に文学少年、或いは文学青年と云った類の人種でも全くないのでありました。同じくらいの斤量で体を使って激しい運動をする事も好きなのでありました。小学生の頃から体育は得意科目なのでありましたし。
 しかし因みに、幾ら好きな体育とは云え、団体競技よりは個人競技のスポーツの方が好きではありましたか。他者との連携とか協調とかは苦手と云う程ではないにしろ、どちらかと云うと何となくまどろっこしくて大儀に思われるのでありました。
 小説好きは大学生になっても変わらないのでありましたし、専攻の地理学関連の本よりは小説本の方が蔵書としては遥かに多いのでありました。ならば地理学ではなくそちら方面の専攻を選べば良かったものでありますが、しかし専攻学問として小説本に向き合うと云う営為は、何処か自分の嗜好には合致しないような気がするのでありました。で、大学を卒業してからも国内外や時代を問わず小説好きは相変わらずなのでありました。
「さて、お腹一杯になって、これからどうしようか」
 夕美さんが本に目を落とした儘の頑治さんに訊くのでありました。
「そうねえ、居酒屋にでも行くかい?」
 頑治さんはそう云いながらちらと腕時計の方に目を移すのでありました。
「そこで祝杯、と云うのも悪くないけど」
 あんまり気が乗らないような夕美さんの口振りでありました。
「他に何か、これからやる事の候補はある?」
 頑治さんの目はそれとなく未だ腕時計に向いているのでありました。
「ワインでも買って頑ちゃんの家に行く、と云うのはどう?」
 頑治さんはそこで目線を上げるのでありました。
「それは構わないけど」
「その方が気兼ね無くゆっくりとお話しが出来るじゃない」
「ウチにはワインの当てになるような食い物が何も無いよ」
「それも一緒に買って行けば良いわ」
「そうだな、じゃあ、まあ、そうしようか」
 これは元々頑治さんの目論見でもあったから全く異存は無いのでありました。
 二人は中華料理屋を出ると地下鉄神保町駅近くのスーパーマーケットでワインと、幾種類かの調理の要らないツマミ物を買い込んで御茶ノ水駅の方に向かうのでありました。
「ここが頑ちゃんの今度の職場でしょう?」
 日貿ビル道向かいに在る贈答社の入る五階建てのビルの前を通る時に、夕美さんが足を止めて建物を眺め上げながら訊くのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 62 [あなたのとりこ 3 創作]

「本当?」、
 夕美さんは如何にも大袈裟に嬉しそうな顔をして見せるのでありましたが、これは嬉しさの度合に於いてこの表情程の歓喜は無いのでありましょう。一般的に女性が無意識裡に放つ特有の、時として男を惑わし得るところの、科、と云うものでありましょうか。
「俺もこの儘さようならするのは何となく心残りだし」
 とは判っているものの頑治さんは思わず頬の筋肉が緩むのでありました。「一時間半くらいなら三省堂にでも行って一階から七階までうろうろしていればすぐに経つし」
「じゃあ、待っていてくれる?」
「講義が終わった頃に、またここのベンチに座っているよ」
「判った。終わったらすっ飛んで来るわ」
 夕美さんはそう云って頑治さんにバイバイと手を振ってからクルリと後ろを向いて、立ち上がった頑治さんの前を小走りに去るのでありました。頑治さんは公園から夕美さんの姿が消えるまでその後ろ姿を見送るのでありました。その後俯いて腕時計を見てから、今夕美さんが去った同じ出口から公園を後にするのでありました。

 頑治さんはゆっくりと箸を置いて夕美さんに向かって「ごちそうさま」とお辞儀をしながら云うのでありました。頭を下げた時にちらと腕時計に目を遣るのでありました。
「満腹した?」
 夕美さんが顔を起こした頑治さんを覗き込むのでありました。
「うん。それに美味かったし久し振りの豪勢な夕飯だった」
 頑治さんのその返事に夕美さんは満足そうに笑むのでありました。
「それから、・・・」
 夕美さんはそこで言葉を切って、傍らに置いていた赤いデーパックを膝の上に取り上げてからジッパーを開けるのでありました。頑治さんがその様子を覗き込んでいると、夕美さんは明渓堂の真新しいブックカバーに包まれた本を取り出すのでありました。
「これ、就職祝い」
 夕美さんは両手でその本を持って頑治さんの方に差し出すのでありました。
「へえ。有難う」
 頑治さんは受け取ってから表紙を開くのでありました。ウディ・ガスリーの晶文社版『ギターをとって弦をはれ』と云う自伝の翻訳本でありました。
「もっと高額で気の利いた物、とか考えたんだけど、それが一番喜ぶかと思って」
「よく見付けたなあ。ずっと探していたんだけど三省堂にも冨山房にも、神保町界隈の古本屋を回ってもなかなか見付けられなかったんだけどなあ」
「でも版元に問い合わせたら絶版になっている訳じゃなかったわ。で、明渓堂で取り寄せて貰って、今日入荷したって電話があったの」
「いやあ、本当にありがとう」
 頑治さんは嬉しそうに本を矯めつ眇めつするのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 61 [あなたのとりこ 3 創作]

「まあ、一面でそう云えなくはないわね」
「一面で、かい?」
「だって考古学専攻の学生では女子はあたし一人なのよ」
「良いじゃないか、男に囲まれてちやほやされて」
「誰もちやほやなんかしてくれないわ」
 いやそうでも無かろうと頑治さんは思うのでありました。夕美さんなら小煩く感じるくらい男達にモテるに違いないでありましょう。しかも紅一点となれば、余計周りの男共が夕美さんを放って置く筈がないと思われるのであります。
「発掘の仕事環境なんて、結構過酷なのよ」
 夕美さんは頑治さんの認識違いを正そうとやや真剣な目をするのでありました。
「要するに刷毛みたいな物で土の表面をチョロチョロ丁寧に掃いたり、十能みたいなヤツで海辺の潮干狩りか花壇の園芸仕事みたいな事をするんだろう?」
 頑治さんは全く揶揄が含まれてはいない、でもない云い方をするのでありました。
「潮干狩りとか園芸とか、唐目君はやった事ある?」
「いや、ない」
「やってもいないのにきつい作業かそうじゃないのか、どうしてって判るのよ」
「成程ね。それは道理だな」
「それに発掘はそんな事ばかりやる訳じゃないもの。もっと重労働が幾らもあるのよ。力仕事も、男に混じってあたしも同じ作業をしなければならないんだから、大変よ」
「そう云うものかね」
 頑治さんは鈍そうな語調で前言を繰り返すのでありました。頑治さんに発掘仕事の大変さがあんまり理解して貰えない様子に夕美さんは小さな溜息をつくのでありました。
「ああ、もうすぐ午後の講義が始まるわ」
 夕美さんは自分の左手の腕時計に目を落としながら云うのでありました。頑治さんの考古学の過酷さに対する鈍い反応にげんなりしたのか、これで、中学校以来の邂逅を夕美さんは切り上げる心算で講義の事を口にするのでありましょうか。若しも自分のつれない反応のために夕美さんの機嫌を損じたのなら、それは如何にも申し訳無い事であると頑治さんは慙愧の念を覚えるのでありました。慙愧の念と云うのか、勿体無さ、と云うのか。
「唐目君は、この後は?」
「講義は無いよ。もうアパートに帰るだけだよ」
「帰った後の予定は?」
「何も無い。今日はアルバイトも無い」
 頑治さんは首を何度か横に振って見せるのでありました。
「折角こうして逢えたのに、これでさようならするのは残念よね」
 夕美さんは眉尻を下げて眉根を寄せて少し悲しそうな表情をするのでありました。そんな事を云うところを見ると、機嫌が悪くなったと云う訳でもなさそうであります。
「講義が終わるまで待っていようか?」
(続)
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あなたのとりこ 60 [あなたのとりこ 2 創作]

 夕美さんはその時引率した、担任でもある社会科の先生に、お前は発掘の名人かも知れない、と褒められたのでありました。クラスの他の生徒は土器の一片も石器の欠片も見つけられない者も居ると云うのに、由美さんときたら誰よりも多くの石鏃や骨鏃、それに弥生土器片を発見し、その時代の人の骨まで見付け出したのでありました。
「左手示指の中節骨だったの」
「何だいそれは?」
「人差し指の真ん中の骨よ」
 夕美さんは自分の左手の人差し指をピンと立てて、右手の人差し指でそれがどの骨に当たるのかを指示して見せるのでありました。
「よく判ったな、それが左手の何たら骨だと」
「中節骨」
「ああ、その中節骨だと」
「見つけた時はあたしもはっきり判らなかったけど、なんだか人の骨じゃないかって直感して先生に訊いたの。先生がひょっとしたら指の骨の一部かも知れないって云って、その骨を知り合いの県立博物館の学芸員の先生に鑑定してもらったのよ。そうしたら弥生人の左手示指中節骨だって判ったの。貴重な発見だって担任の先生は後で驚いていたわ」
「人の骨だったら気持ち悪いとか、そんな風には思わなかったのかい?」
「全然。だって二千年くらい前の小さな骨片よ。まるで枯れ枝か小石のような感じで、全然骨としての生々しさなんかもう無いもの」
「ふうん」
 頑治さんは小学生の頃、火葬場で祖母の骨を拾った折に見た焼かれた人骨しか今迄見た事は無いのでありましたから、二千年くらい前の人間の人差し指の骨の風合いに付いてはなかなか想像力が働かないのでありました。
「で、ね、あたし自身も発掘の名人かもしれないって、殆ど本気で考えたのよ」
 夕美さんは目を大袈裟に見開いて結んだ唇をやや笑いに作って頑治さんを見るのでありました。なかなかに可憐な表情だと頑治さんは秘かにどぎまぎするのでありました。
「ま、そう云う思考の流れは理解出来るけど」
「担任の先生も折に付けあたしを発掘とかに誘ってくれるようになったの。博物館の学芸員の先生とも面識が出来て、あたし自身も発掘の手伝いとかが結構楽しくて、こう云う事をしながら高校卒業後もずっと生活できたら良いなって考えるようになったの」
「で、考古学専攻の大学生になったと云う訳か」
「学芸員の先生がウチの大学の先輩に当たるのよ。ウチの大学は考古学関係では結構権威があるの。この道では有名な先生が何人も居るし」
「ウチの大学が考古学に強いとは知らなかったな」
「考古学に関係も関心も無い学生はそうかも知れないわね、残念ながら」
 夕美さんは少しがっかりしたような声の調子で呟くのでありました。
「で、今は念願の勉強が出来るようになって充実した学生生活を送っていると」
(続)
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あなたのとりこ 59 [あなたのとりこ 2 創作]

 夕美さんは目を頑治さんから逸らして少し考えるような表情をするのでありました。それから少し長く沈黙するのでありました。と云ってもほんの四五秒ではありますが。
「そうね、そう云う事なのかも知れないわね」
「倦む前は頭の中が考古学一辺倒だったからそんなに気にしなかったけど、ほんの少しだけでも気持ちが冷えてみると自分の立っている周りの様子に目線が移り出して、自分の不調和性と云うのか、ここは自分の居るべき場所ではないんじゃないか、とかね、そんな疎外感が急に意識されてきたんじゃないのかな。でもそれは、考古学そのものに冷えたと云う事が先ずあるからのように俺には思われる。ま、直感みたいなものだけどさ」
「そうね。実はそう云う事かも知れないわね」
 夕美さんは頑治さんが今云った言葉について少し長く考えた後に小さな抑揚のない声で返事して、これも小さな仕草で何度か頷くのでありました。まあ、少し長く、とは云うものの、しかしそれもほんの四五秒の事ではありましたが。
「夕美の云い様を聞いて感じただけの、軽はずみで、大して当てにはならない俺の直感なんだから、あんまり気にしないで貰いたいけどね、今の言葉は」
 頑治さんは夕美さんの心細気な顔にたじろいでそんなフォローなんぞを入れるのでありましたが、後の祭りかなとも一方で考えるのでありました。
「まあ今のところ、そんなに深刻に思い詰めている訳じゃないから」
 夕美さんが憂色を掃って笑むのでありました。「そんなあたしの事より、頑ちゃんの今度の会社の、あたしと同じ苗字の人の事、もっと聞かせてよ」
「ああ、倉庫の刃葉さんの事か」
 頑治さんは夕美さんが見せた愁眉がとても気になったのではありましたが、ここは夕美さんの気色を尊重して話題を別のものに移すのでありました。

 学食と公園で聞いた話しに依ると、夕美さんは高校を卒業して大学生になるため上京した後、二年間は世田谷の叔母さんの家に寄寓していたのでありました。これは一人で東京に出る娘を心配した父親の差配に依るようでありました。その後三年生になった折、その叔母さんの家からそう遠くないアパートで一人暮らしを始めたのでありました。
 頑治さんは全く知らなかったのでありましたが夕美さんは高校生の頃から歴史、それも古代史に興味があったらしく、行く々々はそちららの研究に打ち込みたいと云う志望を持っていたのでありました。一体全体どういう経緯で古代史なんかに興味を持ったのかと訊いたら、夕美さんは一度高校の日本史の授業で学校近くにある弥生遺跡の発掘に行った時の経験が忘れられなかったからと、目を輝かせながら頑治さんに云うのでありました。
「五月の晴れた日でね、遺跡を囲む森の新緑の匂いがとても清々しかったの。授業とは云え、何だかちょっとピクニック気分よ」
 それは古代史に直接関係が無かろうと聞きながら思うのでありましたが、しかし五年振りの思いも掛けなかった邂逅であるし、中学校時代にはそんな茶々を入れる程付き合いが濃い訳でもなかったのだからと、頑治さんは言を手控えるのでありました。
(続)
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あなたのとりこ 58 [あなたのとりこ 2 創作]

「羽場の事だから間違い無く大丈夫だと思うよ」
 別に自分の軽はずみなお墨付きなんぞは何の保証にもならないし何の安心にもならないとは思うのでありましたが、頑治さんはそう力強く請け合うのでありました。
「有難う。唐目君にそう云われると何だか大丈夫なような気がしてくるわ」
 夕美さんは如何にも嬉しそうに頑治さんに笑いかけるのでありましたが、これは夕美さんの頑治さんの気遣いに対する儀礼的愛想でありましょう。丁度木の間から風が吹いて来て、夕美さんの髪をサラサラと靡かせるのでありました。

 靖国通りから本屋の三省堂横の路地を抜けて、すずらん通り商店街を神保町駅に向かって暫く歩いた辺りの中華料理屋に頑治さんと夕美さんは入るのでありました。そこは何となく高そうな玄関構えで頑治さんは今まで遠巻きにしていた店でありました。ここら辺で食事をするなら頑治さんは大衆的なキッチン南海辺りに入るのが常でありましたか。
「折角の就職祝いなんだから、少しくらい高そうな所でも良いんじゃない」
 夕美さんはそう頑治さんに宣して先んじて料理屋の中に入るのでありました。
「どうだい大学院の方は?」
 頑治さんが好物の鶏の唐揚げに箸を伸ばしながら訊くのでありました。
「うん、二年生になると修士論文のための資料集めとか色々大変だわ」
「次は博士課程に進むんだろう?」
「一応その心算でいるんだけど、でも今迷っているのよ」
 夕美さんは頑治さんの顔から頼り無さそうな色を湛えた目を外して、レタス炒飯を取り分けた自分の取り皿を片手に取って、蓮華で一盛り掬うのでありました。
「博士課程に行って、その後は助手として大学に残ると云う目標じゃなかったっけ?」
「まあ、目標はね」
 夕美さんが蓮華を取り皿に戻す時に小さな陶器のぶつかる音がするのでありました。
「あれ、気持ちが変わった?」
「何か最近さ、発掘の仕事とか研究室なんかで、大勢の男達に混じって女一人が同じように動き回ったり発言したりする事に、自分が妙に場違いな場所に居るなとか思ったりする訳。前からそう思ってはいたんだけど、そんな事別に大して気にもならなかったの。成果さへ出せばそんな事は些事に過ぎないとかね、そう云う心算でいたんだけどね」
「でも最近、嫌に気になり出した、と云う事?」
「そうね。そんな感じ」
 夕美さんはまた炒飯の取り皿を手にするのでありました。
「それは女一人が男達に混じっている違和感では、実はないんじゃないの?」
 頑治さんが訊くと夕美さんは口元に運んだ蓮華の動きを止めて頑治さんの顔を上目遣いに見るのでありました。瞳の中に少しのたじろぎが見て取れるのでありました。
「どう云う事?」
「つまり、考古学と云う学問自体に少し倦んだんじゃないのかな?」
(続)
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あなたのとりこ 57 [あなたのとりこ 2 創作]

「もう十月の終わりだと云うのに?」
「九月の解禁以来、会社訪問も一社も行っていないもの」
「へえ。随分悠長に構えているのね」
 夕美さんは少し呆れるのでありました。「就職希望なんでしょう?」
「ま、一応は」
「今年は只でさえ厳しいって云われているのに、そんなに呑気にしていて良いの?」
「本当はいけないんだろうけどね」
 頑治さんの云い草はどこか他人事のようでありました。
「ちっとも焦ってないみたいね」
「まあ、成るようにしか成ならないよ」
 頑治さんとしては何となく気が乗らないと云うのが、意欲的に就職活動に動かないその理由と云えば理由なのでありました。当面、目指す会社も入りたい業種も、困った事に全く見当たらないのであります。だから九月一日の会社訪問解禁日から愚図々々していて既に出遅れたのでありましたし、一旦出遅れるとすっかり興が醒めるのでありました。
 学生である気楽さに浸りきっていて働く意欲が湧かないのかと云うとそうでもないのでありました。現に居酒屋でのアルバイトは続けているのでありますから。只、或る日を境に一斉にお祭り騒ぎ宜しく就職活動に血眼になる世間の風潮みたいなものに辟易としているのでありました。それはある意味無粋な過剰反応と云うようなものであり、何処か仮想的に窮地に追い込まれた者達の狂騒と云うものでもあるようで、一歩引いて考えてみれば何ともイカさない集団強迫神経症的様態と云えなくもない現象ではありませんか。
「羽場の方はどうなんだい、就職は?」
 頑治さんは夕美さんの方事に話しを曲げるのでありました。
「あたしは進学希望だから就職活動はしていないわ」
「進学と云うと、大学院かい?」
「そう。もう少し今の勉強を続けたいから」
「そうなんだ、ふうん」
「だから就職活動はしないけど、でも受験の勉強も大変よ」
「それは万事に不真面目な俺に対する当て擦りの言かな?」
 頑治さんは冗談口調で訊くのでありました。
「別にそうじゃないわ。本当の事だもの」
 夕美さんは真面目な顔で返すのでありました。
「へえ、大学院に進学かあ」
 頑治さんは口調を改めて不埒な笑みも消してもう一度頷くのでありました。「確かにそれも大変そうだよな。でも怠け者の俺と違って、羽場は中学校時代から努力家でコツコツタイプだったから、その辺はそつなく準備しているんだろう?」
「進学しても構わないって云う実家の許可と、担当教授の大丈夫だろうって云う感触は貰ったけど、実際のところはそんなに自信がある訳じゃあないの」
(続)
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あなたのとりこ 56 [あなたのとりこ 2 創作]

「でも、株式会社なんでしょう?」
「資本の形式としてはね。まあ、株式会社たって色々あるよ」
「それはそうだろうけど」
 夕美さんはカップに残ったコーヒーを飲み干すのでありました。「それはそうと、ぼちぼち何処かに食事に行かない? 就職お祝い第一弾として奢ってあげるわ」
 第一弾と断るところを見ると第二弾もあるのでありましょうか。
「それは有難いけど、でも考えてみたら夕美は未だ学生の身分で、俺の方が働いていると云う事になるんだから、無産者に奢って貰うのはちょいと気が引ける」
 夕美さんは考古学専攻の大学院生なのでありました。
「そんな事云うけど、今の時点ではあたしの方がお金持ちだと思うけど」
 夕美さんのお父さんは郷里で建築設計事務所を経営する資産家なのでありました。依って夕美さんには実家から潤沢に仕送りがあるようであります。まあ、そうでなければ夕美さんが卒業後に就職しないで大学院生になると云う選択は無かったかも知れません。
 夕美さんにはお兄さんが居て、お父さんと同じ建築士でお父さんの跡継ぎと云う事になるのでありましょう。妹の夕美さんは頑治さんとは違って幼い頃から乳母日傘で育てられたようで、その所為かどうかどちらかと云うとおっとりした性格なのでありました。それでも中学時代の印象としては頑固な面もあって、一度云い出したらなかなか節を曲げない憎たらしいところもあるのでありました。今もそこは変わらないようであります。
「お金持ちかどうかと云う点では、確かにその通りではある」
 考えたら頑治さんは大学で再会して付き合いだして以来、大いに夕美さんの持っている金品に甘えてきたような気がするのであります。
「その内、頑ちゃんがお金持ちになったら十倍くらいにして返して貰うから、今日の夕食代に関してはあたしの奢りと云う事で良いんじゃない」
「そうかい。毎度々々、お世話になります」
 頑治さんは丁重そうでありながら、しかし何処か狎れたような風情のある、横着と云えばそうも云えるお辞儀なんぞをして見せるのでありました。

 学食を出た二人はすぐ道向かいにある小さな公園の中に入っていくのでありました。夕美さんの手には飲み残しの林檎ジュースの缶が、頑治さんの手には学食の出入り口のところにある自動販売機で、再会の挨拶代わりと云う名目で夕美さんが買ってくれた缶コーヒーが握られているのでありました。そんな挨拶をされる謂れはないと頑治さんは断ったのでありましたが、堅い事云わないでまあ良いじゃない、と云う夕美さんの厚意にほんの少しのすったもんだの末、結果として甘える事になったのでありました。
「唐目君は、就職の方は決まったの?」
 公園の古い木製のベンチに並んで腰を下ろして、缶コーヒーのプルリングを起こしている頑治さんに夕美さんが訊くのでありました。
「いや、未だ全然決まっていないよ」
(続)
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