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もうじやのたわむれ 87 [もうじやのたわむれ 3 創作]
審問官はそう云って確信ありげに頷くのでありました。
「まあそう云えば、娑婆にいる時、ウチのカカアも私と連れ添った時に名前、姓が変わったわけですが、初めは戸惑いとか馴染まないと云う感じがあったのかも知れませんが、普段から何に依らず愚痴の多いあのカカアにしては、その件に関して特段、その後は不便とか不利益が発生したと云うような文句を申してはおりませんでしたかな、確かにそう云えば。まあ本当は、文句を縷々私に向かって云い募りかったのかも知れませんがね」
拙生は全く卑近な例で以って、一応こちらの風習を納得するのでありました。
「ウチの家内の場合も、何かと云うと私に一々文句を垂れますが、あれは実に鬱陶しいものですよね。大体の場合はどうでも良いような事を、あれこれ長々、口を頻繁に縦にしたり横にしたりしてのたまうのですが、面倒臭くなってそんな事どうでも良いじゃないかとか、勝手ににしたら、なんと、ちょっと突き放したような云い方をしようものなら、今度はそれでまた、情がないとか不真面目だとか因縁をつけて、あれこれ長々、口を頻繁に縦にしたり横にしたりが始まって仕舞います。もう、処置なしですわ。・・・いやまあ、こんなウチの家内の事はどうでも良いのですが、ま、改名に関しては、つまりそう云う事です」
審問官が云い終ってから、口をへの字にして二回頷くのでありました。
「ふうん、そんなもんですかねえ、カカアと云う生きものは。・・・」
これは記録官がぽつんと云う科白でありました。
「青木君は未だ新婚ほやほやだから判らないだろうけれど、ま、今に思い知るよ」
審問官が記録官の方を向いて云うのでありました。
「そうそう。初めはしおらしくしているけれど、屹度遠からず、本性を現すでしょうね」
拙生は無責任に審問官に同調するのでありました。
「ああ、そうですか。今のところ万事に楚々としていて、そういう風には見えませんがね」
「いやいや、それは世を忍ぶ仮の姿で、油断していたら後で怖い目を見るよ。ねえ」
この審問官の「ねえ」は、拙生の方に顔を向けての言葉でありました。拙生は審問官の真似をして、口をへの字にして重々しく二回首肯するのでありました。
「お二方のご教導、一応肝に銘じます」
記録官が拙生と審問官に夫々お辞儀をするのでありました。
「ところで娑婆の記憶が蘇ると云う話しで、云い忘れていた事ですが、・・・」
審問官が話頭を変えるのでありました。「向こうの世を去る時からその思い出し終わる時点までが、自然に連続するような記憶として、ずっと途切れ目なくすんなりと一繋がりに蘇るとは申しましたが、しかしこの部屋での審問の事とか、この後の閻魔大王官の審理の事なんかに関しては、生まれ変わった後はすっかり忘却して仕舞う事になります」
「ふうん、そうなのですか?」
「一般的に、三途の河を渡った辺りで記憶は布津と途切れます。その後は生まれ変わった新たな、こちらでの赤ちゃんの頃の記憶がすぐ後に繋がります。ま、赤ちゃんの時の記憶なんと云うものがあるかどうかは、ちょっと疑問でしょうけれど」
「この審問やら審理の事を記憶していると、なにか不都合があるのでしょうか?」
(続)
「まあそう云えば、娑婆にいる時、ウチのカカアも私と連れ添った時に名前、姓が変わったわけですが、初めは戸惑いとか馴染まないと云う感じがあったのかも知れませんが、普段から何に依らず愚痴の多いあのカカアにしては、その件に関して特段、その後は不便とか不利益が発生したと云うような文句を申してはおりませんでしたかな、確かにそう云えば。まあ本当は、文句を縷々私に向かって云い募りかったのかも知れませんがね」
拙生は全く卑近な例で以って、一応こちらの風習を納得するのでありました。
「ウチの家内の場合も、何かと云うと私に一々文句を垂れますが、あれは実に鬱陶しいものですよね。大体の場合はどうでも良いような事を、あれこれ長々、口を頻繁に縦にしたり横にしたりしてのたまうのですが、面倒臭くなってそんな事どうでも良いじゃないかとか、勝手ににしたら、なんと、ちょっと突き放したような云い方をしようものなら、今度はそれでまた、情がないとか不真面目だとか因縁をつけて、あれこれ長々、口を頻繁に縦にしたり横にしたりが始まって仕舞います。もう、処置なしですわ。・・・いやまあ、こんなウチの家内の事はどうでも良いのですが、ま、改名に関しては、つまりそう云う事です」
審問官が云い終ってから、口をへの字にして二回頷くのでありました。
「ふうん、そんなもんですかねえ、カカアと云う生きものは。・・・」
これは記録官がぽつんと云う科白でありました。
「青木君は未だ新婚ほやほやだから判らないだろうけれど、ま、今に思い知るよ」
審問官が記録官の方を向いて云うのでありました。
「そうそう。初めはしおらしくしているけれど、屹度遠からず、本性を現すでしょうね」
拙生は無責任に審問官に同調するのでありました。
「ああ、そうですか。今のところ万事に楚々としていて、そういう風には見えませんがね」
「いやいや、それは世を忍ぶ仮の姿で、油断していたら後で怖い目を見るよ。ねえ」
この審問官の「ねえ」は、拙生の方に顔を向けての言葉でありました。拙生は審問官の真似をして、口をへの字にして重々しく二回首肯するのでありました。
「お二方のご教導、一応肝に銘じます」
記録官が拙生と審問官に夫々お辞儀をするのでありました。
「ところで娑婆の記憶が蘇ると云う話しで、云い忘れていた事ですが、・・・」
審問官が話頭を変えるのでありました。「向こうの世を去る時からその思い出し終わる時点までが、自然に連続するような記憶として、ずっと途切れ目なくすんなりと一繋がりに蘇るとは申しましたが、しかしこの部屋での審問の事とか、この後の閻魔大王官の審理の事なんかに関しては、生まれ変わった後はすっかり忘却して仕舞う事になります」
「ふうん、そうなのですか?」
「一般的に、三途の河を渡った辺りで記憶は布津と途切れます。その後は生まれ変わった新たな、こちらでの赤ちゃんの頃の記憶がすぐ後に繋がります。ま、赤ちゃんの時の記憶なんと云うものがあるかどうかは、ちょっと疑問でしょうけれど」
「この審問やら審理の事を記憶していると、なにか不都合があるのでしょうか?」
(続)
もうじやのたわむれ 86 [もうじやのたわむれ 3 創作]
審問官はそう云って一つ咳払いをするのでありました。「まあしかし、そう何遍も名前を変えていると、アイツは面倒臭いヤツだなんと云う評判が立って、あんまり社会的体裁が良くないと云うので、まあ、改名は一回、拠ない事情があれば、精々二回までが一般的ではあります。ここ二百年くらいは、娑婆にいた時の名前に変えるのが流行しておりますかな。しかしこれも流行と云うだけで、実際はどんな名前でも構わないのです」
「ほう、姓名を変える事が出来るのですか」
「そうです。それから娑婆にいた時の名前が流行っているのは、本当に単なる流行で、なにか意味があっての事ではないようです」
「蘇った娑婆の記憶と微妙に関係があるのでしょうかね?」
「いや、そうでもないようです。多分、意外と無精な、安直な発想からだと思われます」
審問官はくるんとボールペンを、如何にも投げ遣りに回すのでありました。「しかし娑婆の記憶が蘇り終わる段階で改名が出来るようになるのですから、その辺を慮った改名解禁年齢なのかも知れませんが、公的には一切そう云う説明はされておりません」
「まあ、ですから地方知事さんの名前が娑婆で聞いた事のある名前であったり、娑婆の野口英世さんが、こちらでも野口英世さんであったりするのですね?」
「そう云う事です」
「しかし、そう頻々と名前を変える事が出来るとなると、こちらの社会の中で、色々不都合が発生したりしないのですか?」
拙生はそう聞くのでありました。
「いや、それは別にちゃんと登録管理されているから、殊更の問題はありませんよ。名前を変えれば、改名の前に使っていた名前は無効となって同時には使えませんし、一個の霊が幾つもの異名とか別名を使い分けるよりは、余程すっきりしているでしょう」
「名前の譲渡とか云う事例はあるのですか?」
「それはあります。しかしあくまで個霊的な誼の範囲内で行われるものです」
「そうなると、格式のある名前の譲渡に際して、金品が必要になるなんと云う事はありそうな気がしますが。例えば、何がし親方、なんと云う名前があったとして、それを譲渡継承する場合には多額の金品が動くなんと云う事が」
「まあ、或る閉ざされた社会にあっては、その名前を受け継ぐにあたって、個別的に金品を以って譲渡を完了する、なんと云う慣例のある場合もあるかも知れませんね。しかしこちらの霊名には商標とか版権のようなものは一切認められませんから、基本的に誰に憚る事なく、気に入った名前を勝手につける事が出来ます。金品が動くと云った例は、特殊な限定された稼業なんかに限られるでしょう。ま、それも常識の範囲内でと云う事で」
「今まで何の混乱も起きませんでしたか、その改名自由の件で?」
「いや、特には。だって娑婆でも、昔は元服して名前を改めたり、本名の他に字を用いたりとか、名前の混乱要因は色々あったけど、でも、取り立てて混乱しなかったでしょう?」
「まあ、それはそうですね、確かに」
「改名は、風習として定着して仕舞えば、結構あっさり社会に馴染むもののようですよ」
(続)
「ほう、姓名を変える事が出来るのですか」
「そうです。それから娑婆にいた時の名前が流行っているのは、本当に単なる流行で、なにか意味があっての事ではないようです」
「蘇った娑婆の記憶と微妙に関係があるのでしょうかね?」
「いや、そうでもないようです。多分、意外と無精な、安直な発想からだと思われます」
審問官はくるんとボールペンを、如何にも投げ遣りに回すのでありました。「しかし娑婆の記憶が蘇り終わる段階で改名が出来るようになるのですから、その辺を慮った改名解禁年齢なのかも知れませんが、公的には一切そう云う説明はされておりません」
「まあ、ですから地方知事さんの名前が娑婆で聞いた事のある名前であったり、娑婆の野口英世さんが、こちらでも野口英世さんであったりするのですね?」
「そう云う事です」
「しかし、そう頻々と名前を変える事が出来るとなると、こちらの社会の中で、色々不都合が発生したりしないのですか?」
拙生はそう聞くのでありました。
「いや、それは別にちゃんと登録管理されているから、殊更の問題はありませんよ。名前を変えれば、改名の前に使っていた名前は無効となって同時には使えませんし、一個の霊が幾つもの異名とか別名を使い分けるよりは、余程すっきりしているでしょう」
「名前の譲渡とか云う事例はあるのですか?」
「それはあります。しかしあくまで個霊的な誼の範囲内で行われるものです」
「そうなると、格式のある名前の譲渡に際して、金品が必要になるなんと云う事はありそうな気がしますが。例えば、何がし親方、なんと云う名前があったとして、それを譲渡継承する場合には多額の金品が動くなんと云う事が」
「まあ、或る閉ざされた社会にあっては、その名前を受け継ぐにあたって、個別的に金品を以って譲渡を完了する、なんと云う慣例のある場合もあるかも知れませんね。しかしこちらの霊名には商標とか版権のようなものは一切認められませんから、基本的に誰に憚る事なく、気に入った名前を勝手につける事が出来ます。金品が動くと云った例は、特殊な限定された稼業なんかに限られるでしょう。ま、それも常識の範囲内でと云う事で」
「今まで何の混乱も起きませんでしたか、その改名自由の件で?」
「いや、特には。だって娑婆でも、昔は元服して名前を改めたり、本名の他に字を用いたりとか、名前の混乱要因は色々あったけど、でも、取り立てて混乱しなかったでしょう?」
「まあ、それはそうですね、確かに」
「改名は、風習として定着して仕舞えば、結構あっさり社会に馴染むもののようですよ」
(続)
もうじやのたわむれ 85 [もうじやのたわむれ 3 創作]
「まあ、そう云う事でしょう。我々鬼にはその辺の感覚が、よく理解出来ませんのですが」
審問官はもう一度ボールペンを前後にふるのでありました。
「娑婆で生まれた時から、こちらの世に生まれ変わって記憶が蘇った時までが、ずっと途切れ目なくすんなりと一繋がりに経過し続けているように、ですね?」
「そう云う事でしょう。返答が繰り返しになりますが、我々鬼にはそれ以上は云えません」
審問官は今度はもう、ボールペンを縦ふりさせないのでありましたが、これは拙生の執こい念押しの質問にやや辟易したためでありましょうか。
「そうすると学校を終えて社会に出て、その時点で娑婆での記憶がすっかり蘇っているとなると、例えばその後の身のふり方とかが、その記憶、つまり娑婆での経験なんかによって、自ずと規定されたりするのでしょうかね?」
「まあ、それは人様々、いや違った、霊様々ですね」
「屹度、娑婆で大いに名を上げた方とか、大いに功績を残された方とか、学業や芸術、スポーツなんかに秀でていらした方とかは、その記憶に依って、こちらの世でもその道に進もうとされる場合が多いのでしょうね?」
「そう云う傾向は確かに強いと云えますが、一概にそうとも限りません。そう云った娑婆の事跡の記憶には、当然のこととして娑婆で育み馴染んだ、脳を当然含むところの肉体が必ず付随しているものでしょう。しかしその、脳を当然含むところの肉体は、娑婆にいた時とは全く違ったものとなっているのですから、そのご自分の娑婆での事跡に現在の自分の心身が適応するかどうかは、また別の問題だと云う事になります。その記憶が魅力的に思えるかどうかも、ま、夫々の、現在の心身の機微に属する事でしょうね」
「しかし感情と肉体的な同一性を抜きにしても、経験を活かしたり進めたりする方が、こちらで新たになにかを始めるに於いても、絶対に有利でもあり好都合でもあるでしょうし」
「まあ、そういう部分は確かにあるかも知れませんが、でもこればっかりは夫々の思惑次第ですからね。しかしこちらとしても娑婆で秀でた業績を残された亡者の方には、こちらの世でもその能力を発揮して頂く事は、決して悪い事ではないと考えますけれど」
「ふうん、まあ、そうでしょうね」
拙生はなんとなく頷いた後に少し話頭を変えるのでありました。「娑婆での嗜好とかは、こちらでも連続するのでしょうか?」
「それはしません。育つ環境が娑婆とは違って仕舞いますから、自ずとこちらでの嗜好が新たに、自然に形成されていきます。蘇らないと云う点では感情と同じです」
「成程ね。それは確かにそうかも知れませんね」
「それから、これは云っておくべきだと今思ったので、補足的に、こちらの社会制度として紹介しておきますが、例えばこちらで与太八郎とか云う戸籍名を両親からつけられたとしても、それは二十二歳になれば本人の自由意志で変更する事が出来ます。名だけでなく姓の方も好きなように変えられます。ですから鷲塚与太八郎を鷹の爪辛太郎に、奥山木魂を水野波紋にと云うように好きに変えられます。しかも希望するなら思い立った時に何度でも変更が可能です。それに依って社会的な不利益は何も発生いたしません」
(続)
審問官はもう一度ボールペンを前後にふるのでありました。
「娑婆で生まれた時から、こちらの世に生まれ変わって記憶が蘇った時までが、ずっと途切れ目なくすんなりと一繋がりに経過し続けているように、ですね?」
「そう云う事でしょう。返答が繰り返しになりますが、我々鬼にはそれ以上は云えません」
審問官は今度はもう、ボールペンを縦ふりさせないのでありましたが、これは拙生の執こい念押しの質問にやや辟易したためでありましょうか。
「そうすると学校を終えて社会に出て、その時点で娑婆での記憶がすっかり蘇っているとなると、例えばその後の身のふり方とかが、その記憶、つまり娑婆での経験なんかによって、自ずと規定されたりするのでしょうかね?」
「まあ、それは人様々、いや違った、霊様々ですね」
「屹度、娑婆で大いに名を上げた方とか、大いに功績を残された方とか、学業や芸術、スポーツなんかに秀でていらした方とかは、その記憶に依って、こちらの世でもその道に進もうとされる場合が多いのでしょうね?」
「そう云う傾向は確かに強いと云えますが、一概にそうとも限りません。そう云った娑婆の事跡の記憶には、当然のこととして娑婆で育み馴染んだ、脳を当然含むところの肉体が必ず付随しているものでしょう。しかしその、脳を当然含むところの肉体は、娑婆にいた時とは全く違ったものとなっているのですから、そのご自分の娑婆での事跡に現在の自分の心身が適応するかどうかは、また別の問題だと云う事になります。その記憶が魅力的に思えるかどうかも、ま、夫々の、現在の心身の機微に属する事でしょうね」
「しかし感情と肉体的な同一性を抜きにしても、経験を活かしたり進めたりする方が、こちらで新たになにかを始めるに於いても、絶対に有利でもあり好都合でもあるでしょうし」
「まあ、そういう部分は確かにあるかも知れませんが、でもこればっかりは夫々の思惑次第ですからね。しかしこちらとしても娑婆で秀でた業績を残された亡者の方には、こちらの世でもその能力を発揮して頂く事は、決して悪い事ではないと考えますけれど」
「ふうん、まあ、そうでしょうね」
拙生はなんとなく頷いた後に少し話頭を変えるのでありました。「娑婆での嗜好とかは、こちらでも連続するのでしょうか?」
「それはしません。育つ環境が娑婆とは違って仕舞いますから、自ずとこちらでの嗜好が新たに、自然に形成されていきます。蘇らないと云う点では感情と同じです」
「成程ね。それは確かにそうかも知れませんね」
「それから、これは云っておくべきだと今思ったので、補足的に、こちらの社会制度として紹介しておきますが、例えばこちらで与太八郎とか云う戸籍名を両親からつけられたとしても、それは二十二歳になれば本人の自由意志で変更する事が出来ます。名だけでなく姓の方も好きなように変えられます。ですから鷲塚与太八郎を鷹の爪辛太郎に、奥山木魂を水野波紋にと云うように好きに変えられます。しかも希望するなら思い立った時に何度でも変更が可能です。それに依って社会的な不利益は何も発生いたしません」
(続)
もうじやのたわむれ 84 [もうじやのたわむれ 3 創作]
拙生は、雨蛙みたいな了見、と云う言葉で、ひょっとしたら記録官が、それは確か古今亭志ん朝師匠の『品川心中』と云う落語に出てくる文句でしたよね、等と拙生に目を輝かせて話しかけてくるかなと慮ったのでありましたが、記録官は無表情の儘拙生を見ているだけで、殊更の反応を示さないのでありました。考えてみれば、志ん朝師匠が娑婆からお引き取りになったのは、そんなに昔の事ではありませんでしたから、こちらの世では彼の師匠は、未だ二つ目にも前座にもなっていないでしょう。それどころか就学年齢を終えてもいないくらいの年頃なわけで、未だ何処かの師匠に弟子入りもしていないでありましょう。記録官がその高名を知らないのは、全く以って当然と云えば当然なのでありました。
「兎に角、娑婆での諸々の縁なんと云うものは、感情同様、消え失せるのですね?」
「そうです。親子関係、夫婦関係、血縁関係、その他の交友関係、労使関係、肉体関係、三角関係、ヒマラヤ山系、肋間神経、富嶽百景、定山渓、内弁慶、顔真卿、・・・その他諸々の娑婆での故縁は、綺麗さっぱり解消されて仕舞います」
審問官は手にしたボールペンをメトロロームのように横にふるのでありました。
「しかし地獄省の八大地方の紹介をお話し頂いた時、東滑地方知事のフビライさんと、大旅館地方知事のフレグさんは兄弟だと云う事でしたよねえ。これは娑婆での血縁関係が、こちらでも継続している事になるのではないのですか?」
「そう、あれは全く以って特異なケースです。我々閻魔庁職員一同も驚いているのです。偶然中の偶然とでも云いますか。しかし、無作為に全くの受付順と云う事は、先ず起こり得ないはずの、偶然中の偶然と云う要素も排除されない、と云う事でもありますからね」
「ふうん。あくまで、偶然なのですね?」
「そう云う事です」
審問官は今度はボールペンを、メトロロームのように前後にふって見せるのでありましたが、これは多分、その通りだと云う意を表そうとする仕業なのでありましょう。
「ま、要するに、我々亡者は受付順に、何処かに住む女性の赤ちゃんとして生まれて、その家の新たな環境でちやほやされながら少年時代を過ごし、青春の光と影を経験しつつ二十歳頃まで育って、その間学校に行って、その後に成人として社会に出るのですね?」
「そうです」
「蘇る娑婆で経験した事実の記憶は、どの程度の明瞭さで蘇るのでしょうか?」
「まあ、娑婆でのその方の経験が事実としてすっかりその儘、しかし淡く薄調子に、です」
「なんか、もう一つ良く判らないな。・・・事実としてすっかりその儘、と云うと?」
「二十年の空白を挟んではいるものの、その空白の後には、向こうの世を去る時からその思い出し終わる時点までが、自然に連続するような記憶として、とでも申しますかな」
「娑婆での自分の軌跡が結構明瞭に蘇るわけですね、つまり要するに?」
「そうですな。娑婆的諸関係と感情を欠落させて、です。念を押しますが」
「十二歳の時に六歳の時の事を覚えているように、四十歳の時に二十歳の時の事を覚えているように、八十歳の時に六十歳の時の事を覚えているように、死後に蘇って二十年経ったら、向こうの世を去る直前の事までをすっかり思い出すのですね?」
(続)
「兎に角、娑婆での諸々の縁なんと云うものは、感情同様、消え失せるのですね?」
「そうです。親子関係、夫婦関係、血縁関係、その他の交友関係、労使関係、肉体関係、三角関係、ヒマラヤ山系、肋間神経、富嶽百景、定山渓、内弁慶、顔真卿、・・・その他諸々の娑婆での故縁は、綺麗さっぱり解消されて仕舞います」
審問官は手にしたボールペンをメトロロームのように横にふるのでありました。
「しかし地獄省の八大地方の紹介をお話し頂いた時、東滑地方知事のフビライさんと、大旅館地方知事のフレグさんは兄弟だと云う事でしたよねえ。これは娑婆での血縁関係が、こちらでも継続している事になるのではないのですか?」
「そう、あれは全く以って特異なケースです。我々閻魔庁職員一同も驚いているのです。偶然中の偶然とでも云いますか。しかし、無作為に全くの受付順と云う事は、先ず起こり得ないはずの、偶然中の偶然と云う要素も排除されない、と云う事でもありますからね」
「ふうん。あくまで、偶然なのですね?」
「そう云う事です」
審問官は今度はボールペンを、メトロロームのように前後にふって見せるのでありましたが、これは多分、その通りだと云う意を表そうとする仕業なのでありましょう。
「ま、要するに、我々亡者は受付順に、何処かに住む女性の赤ちゃんとして生まれて、その家の新たな環境でちやほやされながら少年時代を過ごし、青春の光と影を経験しつつ二十歳頃まで育って、その間学校に行って、その後に成人として社会に出るのですね?」
「そうです」
「蘇る娑婆で経験した事実の記憶は、どの程度の明瞭さで蘇るのでしょうか?」
「まあ、娑婆でのその方の経験が事実としてすっかりその儘、しかし淡く薄調子に、です」
「なんか、もう一つ良く判らないな。・・・事実としてすっかりその儘、と云うと?」
「二十年の空白を挟んではいるものの、その空白の後には、向こうの世を去る時からその思い出し終わる時点までが、自然に連続するような記憶として、とでも申しますかな」
「娑婆での自分の軌跡が結構明瞭に蘇るわけですね、つまり要するに?」
「そうですな。娑婆的諸関係と感情を欠落させて、です。念を押しますが」
「十二歳の時に六歳の時の事を覚えているように、四十歳の時に二十歳の時の事を覚えているように、八十歳の時に六十歳の時の事を覚えているように、死後に蘇って二十年経ったら、向こうの世を去る直前の事までをすっかり思い出すのですね?」
(続)
もうじやのたわむれ 83 [もうじやのたわむれ 3 創作]
「つまり恨みつらみなんかや、好き嫌いとか、敬慕とか軽蔑とか、そう云った向こうの世で抱いていた様々な感情が、きれいに欠落した状態で再会するから、と云うのでしょう?」
「その通りです」
「それが今一つ、上手い具合に納得出来ないのですけれどね」
「まあ、そうかも知れませんが、兎に角、娑婆であった事跡は蘇るのですが、それに付随した各々の感情は蘇らないのです。ですから万一娑婆で仇同士だった人がこちらで霊として再会したとしても、笑って冗談なんかを云いながら酒を酌み交わせるのです」
「まあ、こちらの世にとってはその方が好都合と云えば好都合でしょうがね」
「娑婆の感情がその儘蘇るとなると、こちらの霊社会が滑らかに運動しませんからね」
審問官はそう云ってボールペンをくるんと滑らかに回すのでありました。
「まあ、私もその内、その、淡い記憶、の実態を経験させてもらうとしますかな」
「そうそう。後々のお楽しみというところで」
審問官はそう云って歯を見せて愛想笑うのでありました。
「娑婆であった事跡のみが蘇ると云うのは、これまたこちらの世にとっては好都合ですね」
「そうですね。あちらのテクノロジーやら良好な社会制度やら、それに良好でなかった経験やらを、クールに教訓としてこちらで活用させて頂けますからね」
「それと、聞きたいのは、感情の部分は抜きにして、例えば血縁とか、親子関係とか、それに夫婦関係とか、そう云った縁続きなんぞは、こちらでも継続されるのでしょうか?」
拙生はそう聞くのでありました。
「それも、こちらで新たに生まれ変わるのですから、継続されません」
「娑婆で自分の母親だった女性の体内に再び宿る、なんと云う事はないのですね?」
「確率的には殆ど皆無と云えるのですが、それでも稀に、偶然にそう云う事が起こるかも知れません。しかしそれもあくまで全くの偶然と云うものですね。一般的に、八百九十年と云う女性の寿命の中で、妊娠可能な時期は百二十歳から五百歳の間だと、今現在医学的に云われております。ですから若し娑婆の何方かが四十歳でご母堂様を見送ったとして、その後その方が八十歳まで娑婆にいらしたとしたら、ご母堂様はこちらでは未だ四十歳だと云う事になります。これは妊娠可能期に未だ満たない年齢です。まあ、恐ろしく早熟とかそう云った事もあるかも知れませんが、しかしその方の母親にこちらでもなると云うのは、可能性として殆どないと云えるでしょうね。そう云うわけで、親子関係はこちらで再現される事は先ずありません。娑婆で自分の親だった霊に出くわす事はあるかも知れませんが、しかし仇同士だった場合と同様で、親子の情と云うのも蘇りませんから、そうと判って、その節はどうもと、素っ気ない挨拶くらいは交わす場合もあるかも知れませんが、それ以上の情動は湧き起こりません。それはもう、至ってあっさりとしたものですよ」
「ふうん、成程ね。当然、娑婆での夫婦の関係も消去されているわけですから、この世でお前と添えないのなら、あの世の蓮の葉っぱの上で、二人で所帯を持とうじゃないか、なんと云った雨蛙みたいな了見の、心中の名科白なんかも成立不可能なわけですな」
「如何にもその通りです」
(続)
「その通りです」
「それが今一つ、上手い具合に納得出来ないのですけれどね」
「まあ、そうかも知れませんが、兎に角、娑婆であった事跡は蘇るのですが、それに付随した各々の感情は蘇らないのです。ですから万一娑婆で仇同士だった人がこちらで霊として再会したとしても、笑って冗談なんかを云いながら酒を酌み交わせるのです」
「まあ、こちらの世にとってはその方が好都合と云えば好都合でしょうがね」
「娑婆の感情がその儘蘇るとなると、こちらの霊社会が滑らかに運動しませんからね」
審問官はそう云ってボールペンをくるんと滑らかに回すのでありました。
「まあ、私もその内、その、淡い記憶、の実態を経験させてもらうとしますかな」
「そうそう。後々のお楽しみというところで」
審問官はそう云って歯を見せて愛想笑うのでありました。
「娑婆であった事跡のみが蘇ると云うのは、これまたこちらの世にとっては好都合ですね」
「そうですね。あちらのテクノロジーやら良好な社会制度やら、それに良好でなかった経験やらを、クールに教訓としてこちらで活用させて頂けますからね」
「それと、聞きたいのは、感情の部分は抜きにして、例えば血縁とか、親子関係とか、それに夫婦関係とか、そう云った縁続きなんぞは、こちらでも継続されるのでしょうか?」
拙生はそう聞くのでありました。
「それも、こちらで新たに生まれ変わるのですから、継続されません」
「娑婆で自分の母親だった女性の体内に再び宿る、なんと云う事はないのですね?」
「確率的には殆ど皆無と云えるのですが、それでも稀に、偶然にそう云う事が起こるかも知れません。しかしそれもあくまで全くの偶然と云うものですね。一般的に、八百九十年と云う女性の寿命の中で、妊娠可能な時期は百二十歳から五百歳の間だと、今現在医学的に云われております。ですから若し娑婆の何方かが四十歳でご母堂様を見送ったとして、その後その方が八十歳まで娑婆にいらしたとしたら、ご母堂様はこちらでは未だ四十歳だと云う事になります。これは妊娠可能期に未だ満たない年齢です。まあ、恐ろしく早熟とかそう云った事もあるかも知れませんが、しかしその方の母親にこちらでもなると云うのは、可能性として殆どないと云えるでしょうね。そう云うわけで、親子関係はこちらで再現される事は先ずありません。娑婆で自分の親だった霊に出くわす事はあるかも知れませんが、しかし仇同士だった場合と同様で、親子の情と云うのも蘇りませんから、そうと判って、その節はどうもと、素っ気ない挨拶くらいは交わす場合もあるかも知れませんが、それ以上の情動は湧き起こりません。それはもう、至ってあっさりとしたものですよ」
「ふうん、成程ね。当然、娑婆での夫婦の関係も消去されているわけですから、この世でお前と添えないのなら、あの世の蓮の葉っぱの上で、二人で所帯を持とうじゃないか、なんと云った雨蛙みたいな了見の、心中の名科白なんかも成立不可能なわけですな」
「如何にもその通りです」
(続)
もうじやのたわむれ 82 [もうじやのたわむれ 3 創作]
「まあ、多分それも、こう云う云い方はあんまり感心されないかも知れませんが、或る種の霊気とりのポーズなのでしょうね。そう云う風に喧伝する方が耳目を集められるとか、なんとなく情熱的で格好良く聞こえるとか、政治家としての体裁が良く見えるとか云った、自己演出の魂胆も多分にあると思われますけれどね。なにせ政治家さんですからね」
「その、霊気とり、と云うのは、人気とり、という事ですね?」
「正解!」
審問官は片頬でシニカルに笑いながら、指先に力を入れない投げ遣りなピースサインをして見せるのでありました。
「では、向こうの世での知人なんというのは、その蘇った淡い記憶の中で、いったいどう云う具合に処理されるのでしょうかね?」
「そう云うヤツが向こうの世にいたなあ、と云った事実の記憶としてのみ認識されます」
「そのそう云うヤツに、こちらの世で再会するなんと云う事はないのですか?」
「大体に於いて、ないですね」
審問官はにべもない云い方をするのでありました。
「偶然何処かで出くわすなんて事が、ひょっとしてあるかも知れないと思うのですが?」
「それはあるけど、しかしまあ、ありません」
「あるけど、ないのですか?」
「そうです」
審問官はそう云って口の端に笑いを浮かべるのでありました。
「つまり、どう云うことなのでしょうか?」
「前にも申しましたように、亡者様は受付の順番により偶々選ばれたこちらの世の、まあ地獄省の場合で云えば、何処かの地方に住む女性から、その赤ちゃんとして新たに生まれ出て頂いて、その子供として育って頂くのです。そうするとその女性と、それにその旦那たる男性の遺伝子を受け継ぐ事になるのですから、向こうの世で持っていた風貌なんかとは、まるで違う顔つき体つきの霊となっておられるのです。まあ、性格とか気質とかも、それに境遇なんかもすっかり違っているでしょう。だから一見しただけでは、オマエは確か向こうの世では誰それだった、なんと云う判断はつかなくなっていらっしゃるわけです」
「ああ、成程ね。しかし一見しただけでは、と云われるのですから、能く々々考えてみると、判断がつく場合もあるのですね?」
「まあ、話してみて、前後の辻褄から判断出来る場合も、それはありはするでしょうね」
「例えば、荊軻が偶然こちらの世で始皇帝に出逢って、俄かに剣を抜いて身構えたり、項羽が劉邦に逢って、この下衆野郎なんと喚いて、たじろいだ劉邦とたちまち喧嘩をおっ始めたり、豊臣秀吉が徳川家康と再会して、あれ程頼んだのに、娑婆では我が子をあんな惨い目に遭わせやがって、なんと繰り言を云ったり、阿部定さんが吉蔵さんに逢って悩まし気な流し目をする、なんと云った光景も、可能性としてはあり得るのですよね?」
「それはありませんね」
審問官はきっぱりと云うのでありました。「再度申しますが、淡い記憶ですから」
(続)
「その、霊気とり、と云うのは、人気とり、という事ですね?」
「正解!」
審問官は片頬でシニカルに笑いながら、指先に力を入れない投げ遣りなピースサインをして見せるのでありました。
「では、向こうの世での知人なんというのは、その蘇った淡い記憶の中で、いったいどう云う具合に処理されるのでしょうかね?」
「そう云うヤツが向こうの世にいたなあ、と云った事実の記憶としてのみ認識されます」
「そのそう云うヤツに、こちらの世で再会するなんと云う事はないのですか?」
「大体に於いて、ないですね」
審問官はにべもない云い方をするのでありました。
「偶然何処かで出くわすなんて事が、ひょっとしてあるかも知れないと思うのですが?」
「それはあるけど、しかしまあ、ありません」
「あるけど、ないのですか?」
「そうです」
審問官はそう云って口の端に笑いを浮かべるのでありました。
「つまり、どう云うことなのでしょうか?」
「前にも申しましたように、亡者様は受付の順番により偶々選ばれたこちらの世の、まあ地獄省の場合で云えば、何処かの地方に住む女性から、その赤ちゃんとして新たに生まれ出て頂いて、その子供として育って頂くのです。そうするとその女性と、それにその旦那たる男性の遺伝子を受け継ぐ事になるのですから、向こうの世で持っていた風貌なんかとは、まるで違う顔つき体つきの霊となっておられるのです。まあ、性格とか気質とかも、それに境遇なんかもすっかり違っているでしょう。だから一見しただけでは、オマエは確か向こうの世では誰それだった、なんと云う判断はつかなくなっていらっしゃるわけです」
「ああ、成程ね。しかし一見しただけでは、と云われるのですから、能く々々考えてみると、判断がつく場合もあるのですね?」
「まあ、話してみて、前後の辻褄から判断出来る場合も、それはありはするでしょうね」
「例えば、荊軻が偶然こちらの世で始皇帝に出逢って、俄かに剣を抜いて身構えたり、項羽が劉邦に逢って、この下衆野郎なんと喚いて、たじろいだ劉邦とたちまち喧嘩をおっ始めたり、豊臣秀吉が徳川家康と再会して、あれ程頼んだのに、娑婆では我が子をあんな惨い目に遭わせやがって、なんと繰り言を云ったり、阿部定さんが吉蔵さんに逢って悩まし気な流し目をする、なんと云った光景も、可能性としてはあり得るのですよね?」
「それはありませんね」
審問官はきっぱりと云うのでありました。「再度申しますが、淡い記憶ですから」
(続)
もうじやのたわむれ 81 [もうじやのたわむれ 3 創作]
記録官は素っ気なく云うのでありました。
「ああそうですか。まあ良いや」
拙生もその辺には、あんまり興味がなさそうに呟くのでありました。「ところで先程の話しに戻るとして、或る諦念を伴って娑婆の記憶が蘇る、と云う事ですが、その、諦念、なるものについて、もう少し詳しくお話しして頂けませんか。美しくも悲しい追憶とか、小さな桟橋に漂着とか、漣に揺れ遊ぶ小舟とか、ビタースイートな感じとか、そんな情緒的な部分だけではなくて、諦念、と仰るからには、悟る、とか云う、なんかそんな、もうちょっと深い意味が籠められているようにも拝察したのですが、如何なものでしょう?」
「そうですね、それは云ってみれば、抑制、と云う意味があります」
審問官が落ち着いた物腰で云うのでありました。
「抑制、ですか?」
「要するに、それに引き摺られて仕舞わない程度の淡さ、とでも云うのか」
「それに引き摺られて仕舞わない程度の淡さ、ねえ。・・・?」
拙生は首を傾げるのでありました。
「つまり、記憶は蘇るものの、だからと云ってそれはもう、遠い過去の思い出と云うものなんかよりももっと冷淡に、こちらの世にいる現実の自分との関連等は殆ど薄れた、まあ、感情と云うものへの作用をすっかり剥ぎ取られた形で蘇るのですよ」
「事実の記憶だけで、蘇ったその記憶になんの感慨も起こらないような?」
「そうそう、そんな感じです。ですから、抑制の利いた形で蘇ると云うわけです」
審問官が三度頷くのでありました。
「その辺が今一つ上手く納得出来ないのですが、まあしかし、そう云う感じで向こうの世の記憶が蘇るのであるなら、先程の、記録官さんのお話しに出てきた、無頼派と呼ばれる若手小説家連中のテーマなんかは、そもそも成立する筈もないと思うのですが?」
「本来はそうです。その記憶は苦悩と云う類の心の状態とは結合しないものですから、彼らのテーマは或る種の欺瞞と云うのか、巧妙な作為の産物であるとも云えます」
「でも一応、苦悩の若手作家として売り出しているのでしょう?」
「まあ実のところは、装飾を凝らしたその類い稀なる文章力と、世間受けを狙った派手な私生活と、それに本の宣伝、販売戦略の上手さ故に、ああやって世の中にちやほや持て囃されているのでしょう。彼等の事は、苦悩の新進作家、ではなくて、知能の新進作家、と云うべきではないかと、私なんかは内心そう思っておりますよ。いやこれは、ちゃんと彼等を小説家としては評価しているので、胡散臭いとか云っているのではないですよ。まあこの際、私の彼等に対するそんな感想なんと云うものは、別にどうでも良い事ですけれど」
審問官はクールに云ってボールペンを何度も回すのでありました。
「まあ、私は未だその人達、いや、霊達の小説を読んでいないので、何とも云えませんが」
拙生は顎を撫でるのでありました。「しかし前の地獄省の八大地方の紹介のところで、フビライさんとか野口英世さんとかコンデ・コマさんとか、各地方の知事さん方は、娑婆での情熱を色濃く保持されているようにも聞こえたのですが?」
(続)
「ああそうですか。まあ良いや」
拙生もその辺には、あんまり興味がなさそうに呟くのでありました。「ところで先程の話しに戻るとして、或る諦念を伴って娑婆の記憶が蘇る、と云う事ですが、その、諦念、なるものについて、もう少し詳しくお話しして頂けませんか。美しくも悲しい追憶とか、小さな桟橋に漂着とか、漣に揺れ遊ぶ小舟とか、ビタースイートな感じとか、そんな情緒的な部分だけではなくて、諦念、と仰るからには、悟る、とか云う、なんかそんな、もうちょっと深い意味が籠められているようにも拝察したのですが、如何なものでしょう?」
「そうですね、それは云ってみれば、抑制、と云う意味があります」
審問官が落ち着いた物腰で云うのでありました。
「抑制、ですか?」
「要するに、それに引き摺られて仕舞わない程度の淡さ、とでも云うのか」
「それに引き摺られて仕舞わない程度の淡さ、ねえ。・・・?」
拙生は首を傾げるのでありました。
「つまり、記憶は蘇るものの、だからと云ってそれはもう、遠い過去の思い出と云うものなんかよりももっと冷淡に、こちらの世にいる現実の自分との関連等は殆ど薄れた、まあ、感情と云うものへの作用をすっかり剥ぎ取られた形で蘇るのですよ」
「事実の記憶だけで、蘇ったその記憶になんの感慨も起こらないような?」
「そうそう、そんな感じです。ですから、抑制の利いた形で蘇ると云うわけです」
審問官が三度頷くのでありました。
「その辺が今一つ上手く納得出来ないのですが、まあしかし、そう云う感じで向こうの世の記憶が蘇るのであるなら、先程の、記録官さんのお話しに出てきた、無頼派と呼ばれる若手小説家連中のテーマなんかは、そもそも成立する筈もないと思うのですが?」
「本来はそうです。その記憶は苦悩と云う類の心の状態とは結合しないものですから、彼らのテーマは或る種の欺瞞と云うのか、巧妙な作為の産物であるとも云えます」
「でも一応、苦悩の若手作家として売り出しているのでしょう?」
「まあ実のところは、装飾を凝らしたその類い稀なる文章力と、世間受けを狙った派手な私生活と、それに本の宣伝、販売戦略の上手さ故に、ああやって世の中にちやほや持て囃されているのでしょう。彼等の事は、苦悩の新進作家、ではなくて、知能の新進作家、と云うべきではないかと、私なんかは内心そう思っておりますよ。いやこれは、ちゃんと彼等を小説家としては評価しているので、胡散臭いとか云っているのではないですよ。まあこの際、私の彼等に対するそんな感想なんと云うものは、別にどうでも良い事ですけれど」
審問官はクールに云ってボールペンを何度も回すのでありました。
「まあ、私は未だその人達、いや、霊達の小説を読んでいないので、何とも云えませんが」
拙生は顎を撫でるのでありました。「しかし前の地獄省の八大地方の紹介のところで、フビライさんとか野口英世さんとかコンデ・コマさんとか、各地方の知事さん方は、娑婆での情熱を色濃く保持されているようにも聞こえたのですが?」
(続)
もうじやのたわむれ 80 [もうじやのたわむれ 3 創作]
審問官は額に手を遣って、嘗て娑婆のテレビや池袋辺りの寄席の高座で見た、林家三平のような仕草をして見せるのでありました。
「確かに、根っからの地獄の鬼さんとなると、そう云った感情は未知の領域ですよね。娑婆での生活経験がないのですから、娑婆の記憶が蘇るはずがないですものね」
拙生はそう云った後、その自分の言葉に少し引っかかるのでありました。「いやしかしところで、今の確認と云うのか念押しになりますが、貴方がた鬼さん達は、娑婆の誰かの生まれ変わりと云うわけではないのですか?」
「我々は違います。我々はそう云った絡繰りの埒外におります。私等は亡者様の生まれ変わりのお手伝いをする側ですから」
「では、鬼さん達はこちらにずっとおいでになる、独自の存在だと?」
「そうです。鬼さんこちら、です」
審問官はそう云って何度か、小さく手を鳴らすのでありました。
「そうなると、一般の霊の発生の源は娑婆にいた生命であるわけですが、鬼さん達の発生の源となると、これはいったい何なのでしょうか?」
「我々はまあ、純生物学的な発生形態、とでも云うべきか、何と云うべきか。・・・」
「要するに初めの初めから、鬼さんのお父さんとお母さんから、純然たる鬼さんとして、生一本の地獄っ子と云う形で生まれたと云うわけで、娑婆の誰かの生まれ変わりとしてこちらの世に誕生したのではないと云う事ですね?」
「ま、そう云う事です」
「一般の霊とは種族が違うわけだ、有態に云うと」
「そう云う理解で結構だと思います」
「へえ、鬼さんは特別なんだ」
拙生は、千代田区隼町の時のように、ここはまわりくどく考えずにその儘、鬼さんこちらを納得するべきであろうと思うのでありました。
「我々の事は置くとして、まあ要するに、十五歳から二十歳までの情緒なんと云うものは、貴方自身で今後、身をもって確かめて頂く事になるのです」
「青春の光と影を経験するわけですね?」
「そうです。屹度ビタースイートな感じでしょうね。ちょっと羨ましい気もしますよ」
「そうでしょうかね?」
拙生は顎の下を撫でながら云うのでありました。
「そう云った辺りをネタに、あちらの世の記憶と、こちらの世の現実に引き裂かれている自己の苦悩を小説に書いて、最近えらく売り出している一群の若手作家がいますよ。なんでもその自暴自棄にも見える生活態度から、無頼派、とかなんとか呼ばれて」
今まで暫く黙っていた記録官が、横からそう紹介するのでありました。
「ほう、太宰治とか坂口安吾とか、織田作之助とか田中英光とか云う名前ではありませんか、ひょっとしたらそんな連中は?」
「いや、私は小説とかはあんまり読まないから、そんなに詳しくは知りませんが」
(続)
「確かに、根っからの地獄の鬼さんとなると、そう云った感情は未知の領域ですよね。娑婆での生活経験がないのですから、娑婆の記憶が蘇るはずがないですものね」
拙生はそう云った後、その自分の言葉に少し引っかかるのでありました。「いやしかしところで、今の確認と云うのか念押しになりますが、貴方がた鬼さん達は、娑婆の誰かの生まれ変わりと云うわけではないのですか?」
「我々は違います。我々はそう云った絡繰りの埒外におります。私等は亡者様の生まれ変わりのお手伝いをする側ですから」
「では、鬼さん達はこちらにずっとおいでになる、独自の存在だと?」
「そうです。鬼さんこちら、です」
審問官はそう云って何度か、小さく手を鳴らすのでありました。
「そうなると、一般の霊の発生の源は娑婆にいた生命であるわけですが、鬼さん達の発生の源となると、これはいったい何なのでしょうか?」
「我々はまあ、純生物学的な発生形態、とでも云うべきか、何と云うべきか。・・・」
「要するに初めの初めから、鬼さんのお父さんとお母さんから、純然たる鬼さんとして、生一本の地獄っ子と云う形で生まれたと云うわけで、娑婆の誰かの生まれ変わりとしてこちらの世に誕生したのではないと云う事ですね?」
「ま、そう云う事です」
「一般の霊とは種族が違うわけだ、有態に云うと」
「そう云う理解で結構だと思います」
「へえ、鬼さんは特別なんだ」
拙生は、千代田区隼町の時のように、ここはまわりくどく考えずにその儘、鬼さんこちらを納得するべきであろうと思うのでありました。
「我々の事は置くとして、まあ要するに、十五歳から二十歳までの情緒なんと云うものは、貴方自身で今後、身をもって確かめて頂く事になるのです」
「青春の光と影を経験するわけですね?」
「そうです。屹度ビタースイートな感じでしょうね。ちょっと羨ましい気もしますよ」
「そうでしょうかね?」
拙生は顎の下を撫でながら云うのでありました。
「そう云った辺りをネタに、あちらの世の記憶と、こちらの世の現実に引き裂かれている自己の苦悩を小説に書いて、最近えらく売り出している一群の若手作家がいますよ。なんでもその自暴自棄にも見える生活態度から、無頼派、とかなんとか呼ばれて」
今まで暫く黙っていた記録官が、横からそう紹介するのでありました。
「ほう、太宰治とか坂口安吾とか、織田作之助とか田中英光とか云う名前ではありませんか、ひょっとしたらそんな連中は?」
「いや、私は小説とかはあんまり読まないから、そんなに詳しくは知りませんが」
(続)
もうじやのたわむれ 79 [もうじやのたわむれ 3 創作]
拙生はそう聞くのでありました。
「いやいや、実はそうではないのでして」
審問官が勿体ぶって掌を横にふるのでありました。
「しかし、前に伺った帰納法絡みのお話しからすると、娑婆に生まれた私は、その前にどうたら界にいた事になるのでしょうが、そのどうたら界の記憶なんかすっかりなくして、人間界に生まれてその儘生きていたように思うのですが?」
「その辺が娑婆とこちらの違いでしょうかね」
「娑婆での記憶が残っているのですか?」
「そうです。しかし、その娑婆での記憶をちゃんと保持した儘、おぎゃあと生まれてくるのではありません。第一、娑婆の世知に長けた赤ちゃんなんと云うのは、考えただけで、なんか薄気味悪いではありませんか。幼年期の子供にしたって、娑婆の記憶なんか持っていると、どこか妙にひねた感じがしたり、いやに世渡り上手な風情なんかも漂わせたりしているでしょうから、そんなもの可愛くもなんともなくて、チョコレートの一つでもやろうかと云う気なんか全く起きないでしょう。逆に頭を一つポカッとやりたくなりますよ」
「それはそうですけど」
「ですから、十五歳までは何の屈託もなく、天真爛漫に少年時代を過ごす事になります。しかし十五歳の誕生日を幾らか過ぎる頃から、どうしたわけかふと、嘗て自分が生きていた娑婆での記憶が、じんわり断片的に蘇ってくるようになっておりまして、大体二十歳くらいでそれが完全に、或る諦念を伴って、蘇り終わると云う様な手順になっております」
「或る諦念を伴って、ですか?」
「そうです。ですから二十歳までは、何時も陰鬱そうで、疲れ切っているような素ぶりをしてみたりであるとか、表情のどこかに鬱屈した濃い翳りを装ってみたりであるとか、必要以上に感受性が敏感になったりだとか、他人、いや違った、他霊が総て自分の敵に見えたりだとか、自己賛美と自己否定、上昇志向と破滅指向、限りない愛情と底なしの憎悪なんかの、アンビバレントな苦悩を、求められてもいないのに背負いこんだり、何に依らず大袈裟な態度や思考が鼻についたり、そんな自分が嫌になったり、もうなんか、とても収拾困難な心理状態なんかになったりします。しかしそれが二十歳の声を聞くと、次第にそう云った感情の波風が落ち着きを見せ始めて、面相なんかも温和な風になっていくのです」
「ほう。なんか、思春期みたいな、青春の光と影みたいな雰囲気すね」
「そうですね。で、二十歳になった頃には、或る諦念を伴って、その娑婆での大方の記憶が、美しくも悲しい追憶として、心の中の一番端っこにある小さな桟橋に漂着して、漣に微かに揺れ遊ぶ小舟のように係留されると云うわけです」
「なんか、そんなレトリックで締めくくりになったりすると、話しがよく判るような判らないような、そんな心持ちがして仕舞いますが」
拙生はそう云って首を左右に何度か傾げて見せるのでありました。
「なにせ、私は生まれながらの地獄っ子でありますもので、その辺の亡者様の心理と云うのか気分と云うのか、それは実はよくは判らないのです。どうも済みません」
(続)
「いやいや、実はそうではないのでして」
審問官が勿体ぶって掌を横にふるのでありました。
「しかし、前に伺った帰納法絡みのお話しからすると、娑婆に生まれた私は、その前にどうたら界にいた事になるのでしょうが、そのどうたら界の記憶なんかすっかりなくして、人間界に生まれてその儘生きていたように思うのですが?」
「その辺が娑婆とこちらの違いでしょうかね」
「娑婆での記憶が残っているのですか?」
「そうです。しかし、その娑婆での記憶をちゃんと保持した儘、おぎゃあと生まれてくるのではありません。第一、娑婆の世知に長けた赤ちゃんなんと云うのは、考えただけで、なんか薄気味悪いではありませんか。幼年期の子供にしたって、娑婆の記憶なんか持っていると、どこか妙にひねた感じがしたり、いやに世渡り上手な風情なんかも漂わせたりしているでしょうから、そんなもの可愛くもなんともなくて、チョコレートの一つでもやろうかと云う気なんか全く起きないでしょう。逆に頭を一つポカッとやりたくなりますよ」
「それはそうですけど」
「ですから、十五歳までは何の屈託もなく、天真爛漫に少年時代を過ごす事になります。しかし十五歳の誕生日を幾らか過ぎる頃から、どうしたわけかふと、嘗て自分が生きていた娑婆での記憶が、じんわり断片的に蘇ってくるようになっておりまして、大体二十歳くらいでそれが完全に、或る諦念を伴って、蘇り終わると云う様な手順になっております」
「或る諦念を伴って、ですか?」
「そうです。ですから二十歳までは、何時も陰鬱そうで、疲れ切っているような素ぶりをしてみたりであるとか、表情のどこかに鬱屈した濃い翳りを装ってみたりであるとか、必要以上に感受性が敏感になったりだとか、他人、いや違った、他霊が総て自分の敵に見えたりだとか、自己賛美と自己否定、上昇志向と破滅指向、限りない愛情と底なしの憎悪なんかの、アンビバレントな苦悩を、求められてもいないのに背負いこんだり、何に依らず大袈裟な態度や思考が鼻についたり、そんな自分が嫌になったり、もうなんか、とても収拾困難な心理状態なんかになったりします。しかしそれが二十歳の声を聞くと、次第にそう云った感情の波風が落ち着きを見せ始めて、面相なんかも温和な風になっていくのです」
「ほう。なんか、思春期みたいな、青春の光と影みたいな雰囲気すね」
「そうですね。で、二十歳になった頃には、或る諦念を伴って、その娑婆での大方の記憶が、美しくも悲しい追憶として、心の中の一番端っこにある小さな桟橋に漂着して、漣に微かに揺れ遊ぶ小舟のように係留されると云うわけです」
「なんか、そんなレトリックで締めくくりになったりすると、話しがよく判るような判らないような、そんな心持ちがして仕舞いますが」
拙生はそう云って首を左右に何度か傾げて見せるのでありました。
「なにせ、私は生まれながらの地獄っ子でありますもので、その辺の亡者様の心理と云うのか気分と云うのか、それは実はよくは判らないのです。どうも済みません」
(続)
もうじやのたわむれ 78 [もうじやのたわむれ 3 創作]
「ふうん。娑婆の病院の診察の順番と同じ要領なわけですか?」
「そうです。それが一番、文句の出ないルールでしょうから」
「ま、そうでしょうけど」
拙生は審問官のその説明ぶりに、拙生の聞きたかった事の回答として納得出来るような納得出来ないような、複雑な心持ちがするのでありましたが、まあ、一先ず良いでしょう。
「一般的な例、あくまでごくごく一般的な例として申し上げるとすれば、大概の場合その女性と云うのは或る家庭の主婦でありましょうから、その子供として誕生した亡者様は、そこの家庭で、両親とか親族に愛情を豊かに注がれながら赤ちゃん時代、そして幼児時代を過ごし、その後、これもあくまで一般的な事例として、十八歳とか二十二歳とかで学校を無事に卒業するまで、幸せに過ごす事となります。まあ要するに、娑婆によくいる子供と全く同じです。勿論、色々な理由からそう云う、所謂幸福な環境を手に出来ない子供もありましょうが、まあしかし要するに、云ってみればそう云うのも娑婆と同じなわけです」
審問官はそこで言葉を切って、やや拙生の方に身を乗り出すのでありました。「ところで入念にお断りしておきますが、私が今云っているのは、一般的通例的よく見聞きする的なモデルなのでありまして、決してそれが当たり前なのだ等と申しているのではありません。その辺の私の真意を正確にご斟酌頂いて、故意の誤解や、或いは本筋ではないところでの無茶ないちゃもんなんかをつけないで頂きたいものだと、平に願い上げる次第です」
「まあ確かに、個々様々な事情があるでしょうからね」
「ご理解有難うございます」
「前に、何かそこで、いちゃもんをつけられた事がおありなのでしょうか?」
拙生はそう聞いてみるのでありました。
「ええ、まあ。今流行りのモンスター亡者様とか、時々いらっしゃいますので」
審問官はそう云って眉を顰めて見せるのでありました。
「モンスター亡者なんと云うのがいるのですか?」
「ええ。ゴネ徳とか、云わないでいたら損とか、相手のヘマとか隙を見つけたらとことんそこを攻めないと気が済まないとか、相手が恐懼する様を見るのが無性に快いとか、云い負かされる事を異常に恐れるとか、判っていながら無理な意地の張りあいを竟して仕舞うとか、そう云った娑婆の風潮の中で長く生活してこられた亡者様は、こちらにいらしてもその身についた傾向がなかなか抜けないようで、何かとすぐ赤い顔をして頭の角をお出しになりましてね。頭の角なんと云うものは私等の専売特許の筈なのですが、こちらはそれをなるべく出さないように躾けられているものですから、もう、たじたじと云った按配で」
「いやいや、娑婆の殺伐とした悪習を、ここにまで持ちこんだりする不心得者になり代わりまして、娑婆から来たばかりの私が、一応ここで慙愧の念を表明させて頂きます」
「そんな、何も貴方が謝る必要なんかありませんけど」
審問官は拙生の低頭の仕草に、恐縮の意をおろおろと現わすのでありました。
「で、話しは戻りますが、そうやって生まれ変わった亡者と云うのは、もう向こうの世での出来ごとなんかを一切、忘却して仕舞っているのでしょうか?」
(続)
「そうです。それが一番、文句の出ないルールでしょうから」
「ま、そうでしょうけど」
拙生は審問官のその説明ぶりに、拙生の聞きたかった事の回答として納得出来るような納得出来ないような、複雑な心持ちがするのでありましたが、まあ、一先ず良いでしょう。
「一般的な例、あくまでごくごく一般的な例として申し上げるとすれば、大概の場合その女性と云うのは或る家庭の主婦でありましょうから、その子供として誕生した亡者様は、そこの家庭で、両親とか親族に愛情を豊かに注がれながら赤ちゃん時代、そして幼児時代を過ごし、その後、これもあくまで一般的な事例として、十八歳とか二十二歳とかで学校を無事に卒業するまで、幸せに過ごす事となります。まあ要するに、娑婆によくいる子供と全く同じです。勿論、色々な理由からそう云う、所謂幸福な環境を手に出来ない子供もありましょうが、まあしかし要するに、云ってみればそう云うのも娑婆と同じなわけです」
審問官はそこで言葉を切って、やや拙生の方に身を乗り出すのでありました。「ところで入念にお断りしておきますが、私が今云っているのは、一般的通例的よく見聞きする的なモデルなのでありまして、決してそれが当たり前なのだ等と申しているのではありません。その辺の私の真意を正確にご斟酌頂いて、故意の誤解や、或いは本筋ではないところでの無茶ないちゃもんなんかをつけないで頂きたいものだと、平に願い上げる次第です」
「まあ確かに、個々様々な事情があるでしょうからね」
「ご理解有難うございます」
「前に、何かそこで、いちゃもんをつけられた事がおありなのでしょうか?」
拙生はそう聞いてみるのでありました。
「ええ、まあ。今流行りのモンスター亡者様とか、時々いらっしゃいますので」
審問官はそう云って眉を顰めて見せるのでありました。
「モンスター亡者なんと云うのがいるのですか?」
「ええ。ゴネ徳とか、云わないでいたら損とか、相手のヘマとか隙を見つけたらとことんそこを攻めないと気が済まないとか、相手が恐懼する様を見るのが無性に快いとか、云い負かされる事を異常に恐れるとか、判っていながら無理な意地の張りあいを竟して仕舞うとか、そう云った娑婆の風潮の中で長く生活してこられた亡者様は、こちらにいらしてもその身についた傾向がなかなか抜けないようで、何かとすぐ赤い顔をして頭の角をお出しになりましてね。頭の角なんと云うものは私等の専売特許の筈なのですが、こちらはそれをなるべく出さないように躾けられているものですから、もう、たじたじと云った按配で」
「いやいや、娑婆の殺伐とした悪習を、ここにまで持ちこんだりする不心得者になり代わりまして、娑婆から来たばかりの私が、一応ここで慙愧の念を表明させて頂きます」
「そんな、何も貴方が謝る必要なんかありませんけど」
審問官は拙生の低頭の仕草に、恐縮の意をおろおろと現わすのでありました。
「で、話しは戻りますが、そうやって生まれ変わった亡者と云うのは、もう向こうの世での出来ごとなんかを一切、忘却して仕舞っているのでしょうか?」
(続)
もうじやのたわむれ 77 [もうじやのたわむれ 3 創作]
「生まれ変わって頂く?」
拙生はやや身を乗り出して、眉根を寄せて審問官の顔を見るのでありました。
「そうです。でないと、こちらでの新生活を、お爺ちゃんやお婆ちゃんの風体で始めなければならない方が多くなりますし、こちらの平均寿命からしても、例えば九十歳なんと云うのは未だヒヨッ子の年齢ですしから、何かと不都合があるわけです」
審問官がそう云いながら、ボールペンをくるんと指先で回すのでありました。
「ああ、成程ね。それで生まれ変わる必要があるのですね」
「折角の新規蒔き直しのこちらでの新生活なのですから、態々老人の風体からそれを始めなくとも良いではありませんか」
「そりゃそうですな。ご尤も」
「一応、出だしくらいはまっ更でいく方が、誰でも気持ちが良いでしょう」
「しかしその、生まれ変わる、と云うのは、つまり具体的には、いったいどう云う風な具合になるわけでしょうか?」
「はい、例えば亡者様が地獄省の無休地方に住む事をご希望されたとしたら、無休地方の或る女性の体内にその赤ちゃんとして宿って頂きます」
「赤ちゃんとして宿る?」
「そうです」
「そんな事が可能なのですか?」
「ごく普通に行われている手続きです、こちらでは。まあ、儀式と云っても良いですが」
「ごく普通、ですか。・・・」
「で、出産となって、その後は、一般的にその女性の子供として養育されて頂きます」
「こちらの世に、新しい生命として誕生するわけですね?」
「そうです。そんな感じです」
「ちなみにお伺いするのですが、今私が使用した、生命、と云う言葉は、なにか違う言葉に置き換えなくとも良かったのでしょうか? 云った後に、なにやらそんな気がちらとしたものですから、一応お聞きするのですが」
「まあ良いでしょう、ここは、生命、で。一々細かく置き換えていると、話しがぎくしゃくとしたり、まわりくどくなっていけませんからな」
審問官はそう、ざっくばらんな事を云うのでありました。
「ああ、そうですか」
拙生はなんとなく肩すかしを食ったような気がするのでありました。
「で、どんな女性のお腹の中に宿るか、それは希望出来ませんことを申し添えておきます」
「ああ、そうですか」
「受付順に、ごくシステマティックにそれは決まります」
「ああ、そうですか。で、それは誰が決めるのですか?」
「審理の決裁順ですよ。誰と云う事はありません。ほら、娑婆で病院に行ったら先ず診察券を出して、その順番で診察室に呼ばれるでしょう、あれと同じようなものです」
(続)
拙生はやや身を乗り出して、眉根を寄せて審問官の顔を見るのでありました。
「そうです。でないと、こちらでの新生活を、お爺ちゃんやお婆ちゃんの風体で始めなければならない方が多くなりますし、こちらの平均寿命からしても、例えば九十歳なんと云うのは未だヒヨッ子の年齢ですしから、何かと不都合があるわけです」
審問官がそう云いながら、ボールペンをくるんと指先で回すのでありました。
「ああ、成程ね。それで生まれ変わる必要があるのですね」
「折角の新規蒔き直しのこちらでの新生活なのですから、態々老人の風体からそれを始めなくとも良いではありませんか」
「そりゃそうですな。ご尤も」
「一応、出だしくらいはまっ更でいく方が、誰でも気持ちが良いでしょう」
「しかしその、生まれ変わる、と云うのは、つまり具体的には、いったいどう云う風な具合になるわけでしょうか?」
「はい、例えば亡者様が地獄省の無休地方に住む事をご希望されたとしたら、無休地方の或る女性の体内にその赤ちゃんとして宿って頂きます」
「赤ちゃんとして宿る?」
「そうです」
「そんな事が可能なのですか?」
「ごく普通に行われている手続きです、こちらでは。まあ、儀式と云っても良いですが」
「ごく普通、ですか。・・・」
「で、出産となって、その後は、一般的にその女性の子供として養育されて頂きます」
「こちらの世に、新しい生命として誕生するわけですね?」
「そうです。そんな感じです」
「ちなみにお伺いするのですが、今私が使用した、生命、と云う言葉は、なにか違う言葉に置き換えなくとも良かったのでしょうか? 云った後に、なにやらそんな気がちらとしたものですから、一応お聞きするのですが」
「まあ良いでしょう、ここは、生命、で。一々細かく置き換えていると、話しがぎくしゃくとしたり、まわりくどくなっていけませんからな」
審問官はそう、ざっくばらんな事を云うのでありました。
「ああ、そうですか」
拙生はなんとなく肩すかしを食ったような気がするのでありました。
「で、どんな女性のお腹の中に宿るか、それは希望出来ませんことを申し添えておきます」
「ああ、そうですか」
「受付順に、ごくシステマティックにそれは決まります」
「ああ、そうですか。で、それは誰が決めるのですか?」
「審理の決裁順ですよ。誰と云う事はありません。ほら、娑婆で病院に行ったら先ず診察券を出して、その順番で診察室に呼ばれるでしょう、あれと同じようなものです」
(続)
もうじやのたわむれ 76 [もうじやのたわむれ 3 創作]
「いやそんな事はありません。私のもじりも審問官さんのもじりも記録官さんのもじりも、どっこいどっこい、何れも五十歩百歩の出来だと思いますよ」
拙生は記録官を慰めるのでありました。
「まあ、敢えて正しく云い直すまでもないでしょうが、急いては事を仕損じる、です」
審問官がそう云ってテーブルをボールペンでポンと打つのでありました。「ま、地獄省の方も積極的なご検討を、どうぞ宜しくお願い致します。」
「そうですね、充分考慮させて頂きます」
「お決まりになりましたならその旨、閻魔大王官にお伝えくだされば、繰り返しになりますが、大王官の方から八大地方のもっと詳細な説明が行われます」
「判りました」
拙生はそう云ってお辞儀をするのでありました。
「さて、何か貴方の方から地獄省に関して、これは聞いておきたい、なんと云うような事が他にありますでしょうか? なんでも結構ですから」
「そうですね、では、前の方の話しで、娑婆の方で国籍も宗教も、文化も風習も言語も違う環境でバラバラに一生を過ごしてきた我々亡者が、地獄省の何れかの地方で一緒に混じりあって住んで、上手くやっていけるのかと云うような質問をした時に、住む省が決まった後にちょっとした絡繰りが施される、なんと云うお話しをされておられましたが、その、絡繰り、と云う事について、どう云うものなのかお話し頂けませんでしょうか?」
「ええと、そう云うお話しをしましたかな?」
審問官が小首を傾げるのでありました。
「ほら、記録官さんが私の仕様もない質問のために、態々調べてくると仰ってこの部屋を出て行かれて、その後、丁度戻って来られる直前に話していた事ですよ」
「うーんと、・・・」
審問官が天井を見上げながら、その時の状況を思い出そうとしているのでありました。
「あれ、お忘れでしょうかね?」
拙生は審問官のやや突き出された顎を見ながら聞くのでありました。審問官はしばらく顎の先端を拙生に披露していた後、徐にそれを元に戻して拙生を見るのでありました。
「ああ、思い出しました。例えば、アメリカ人とフランス人とロシア人と中国人と日本人が、急に一緒の地方で近所づきあいする事になって、上手く意思疎通とかが出来るのかとか、小難しい問題が起こりはしないかと云うような貴方のご懸念でしたかな?」
「そうです、そうです。そこで審問官さんが、心配ない、ちょっとした絡繰りが施されるから、なんと仰って、それはいったいどう云った絡繰りかと私が聞いた時に、丁度記録官さんがこの部屋に戻って来られたのです」
「はいはい、そうでしたそうでした」
審問官は手を打って数度頷きながら、拙生に笑いかけるのでありました。「それはですね、亡者様が地獄省に住む事をお決めになったら、その後で、亡者様には一度生まれ変わって頂く事になっているからです。これは極楽省でも矢張り同じ絡繰りが施されます」
(続)
拙生は記録官を慰めるのでありました。
「まあ、敢えて正しく云い直すまでもないでしょうが、急いては事を仕損じる、です」
審問官がそう云ってテーブルをボールペンでポンと打つのでありました。「ま、地獄省の方も積極的なご検討を、どうぞ宜しくお願い致します。」
「そうですね、充分考慮させて頂きます」
「お決まりになりましたならその旨、閻魔大王官にお伝えくだされば、繰り返しになりますが、大王官の方から八大地方のもっと詳細な説明が行われます」
「判りました」
拙生はそう云ってお辞儀をするのでありました。
「さて、何か貴方の方から地獄省に関して、これは聞いておきたい、なんと云うような事が他にありますでしょうか? なんでも結構ですから」
「そうですね、では、前の方の話しで、娑婆の方で国籍も宗教も、文化も風習も言語も違う環境でバラバラに一生を過ごしてきた我々亡者が、地獄省の何れかの地方で一緒に混じりあって住んで、上手くやっていけるのかと云うような質問をした時に、住む省が決まった後にちょっとした絡繰りが施される、なんと云うお話しをされておられましたが、その、絡繰り、と云う事について、どう云うものなのかお話し頂けませんでしょうか?」
「ええと、そう云うお話しをしましたかな?」
審問官が小首を傾げるのでありました。
「ほら、記録官さんが私の仕様もない質問のために、態々調べてくると仰ってこの部屋を出て行かれて、その後、丁度戻って来られる直前に話していた事ですよ」
「うーんと、・・・」
審問官が天井を見上げながら、その時の状況を思い出そうとしているのでありました。
「あれ、お忘れでしょうかね?」
拙生は審問官のやや突き出された顎を見ながら聞くのでありました。審問官はしばらく顎の先端を拙生に披露していた後、徐にそれを元に戻して拙生を見るのでありました。
「ああ、思い出しました。例えば、アメリカ人とフランス人とロシア人と中国人と日本人が、急に一緒の地方で近所づきあいする事になって、上手く意思疎通とかが出来るのかとか、小難しい問題が起こりはしないかと云うような貴方のご懸念でしたかな?」
「そうです、そうです。そこで審問官さんが、心配ない、ちょっとした絡繰りが施されるから、なんと仰って、それはいったいどう云った絡繰りかと私が聞いた時に、丁度記録官さんがこの部屋に戻って来られたのです」
「はいはい、そうでしたそうでした」
審問官は手を打って数度頷きながら、拙生に笑いかけるのでありました。「それはですね、亡者様が地獄省に住む事をお決めになったら、その後で、亡者様には一度生まれ変わって頂く事になっているからです。これは極楽省でも矢張り同じ絡繰りが施されます」
(続)
もうじやのたわむれ 75 [もうじやのたわむれ 3 創作]
審問官はそう云って自分の頭を拳で軽く打つのでありました。「今の私の発言は、オフレコと云う事でお願いいたします。こんな事を云ったなんと云う事が漏れると、後で上司から叱責を食らいますから。それに若し極楽省の地蔵局の役人の耳にでも入ったなら、大騒ぎされて、屹度始末書程度では済まなくなるでしょうからね。まあ、良くて厳重注意処分、悪くすれば十パーセントの減給一年とか、最悪、二年間の停職処分ですわ、冗談でなく」
審問官は拙生に合掌して見せるのでありました。
「了解しました。今の審問官さんの言葉は、聞かなかった事にさせていただきます」
「ご高配、恐れ入ります」
審問官は手をあわせた儘、深刻顔で深々と拙生にお辞儀をするのでありました。拙生は娑婆であった拙生の葬儀の折、棺桶の隙間から秘かに窺っていたところの、会葬者が見せた一様な表情や仕草なんかを、その審問官の姿でちらと思い出したりするのでありました。
「しかし、閻魔大王官の目の前で、しかも決裁直前と云う状況で、極楽案内を充分心ゆくまでに聞く事が出来るのでしょうか?」
拙生は問うのでありました。
「それは充分時間を取ってあります。地蔵局の出向役人はここでかけている時間と同じくらいの時間で、存分に極楽の素晴らしさを具体的に縷々述べます。それに地蔵局の役人が極楽省の紹介をしている間、閻魔大王官は一切それに口出し出来ないことになっております。この案内を妨害したり途中で止めさせたりする事は、地獄省と極楽省の取り交わした文書に依る申しあわせで禁止されておりますから。ですからどうぞご安心ください」
「しかし、充分な説明があったとしても、その後、私がどちらに住むか色々思い悩む時間がちゃんと確保されていないと、私としても困って仕舞いますかな」
「それも充分な時間をかけて頂いて結構です。そのように配慮されております」
「ああ、そうですか。・・・」
拙生は現段階ではそう云うしかないのでありました。
「亡者様の行く末を決める大事な判断ですから、我々もそんなに焦って決められても困るのです。後で苦情が出たりするといけませんからね。ゆっくりたっぷり存分に思い悩んで頂いて結構です。諺に云うではありませんか、ええと、聖徒はホトを疎んじる、なんと」
「いやその諺は確か、生徒は九九を諳んじる、ではなかったですか?」
「ああ、そうでしたっけ?」
審問官がそう云った後、拙生と審問官は揃って記録官を見るのでありました。
「・・・ああ、まあ、その、ええと、・・・セーターは、セーターはコートの下に着る、ではなかったかと思うのですが、確か」
記録官がたじろぎながらそう云った後に、なんとなく気まずい空気がテーブルの上に薄ら泥むのでありました。「いや、どうも済みません、急にこちらにふられたものだから、如何にも間抜けなもじりしか云えなくて。もう一度家で勉強し直して参ります」
記録官はそう云って頭を下げるのでありましたが、頭を起した記録官の顔には、ほんのりと敗北の色が浮いているのでありました。
(続)
審問官は拙生に合掌して見せるのでありました。
「了解しました。今の審問官さんの言葉は、聞かなかった事にさせていただきます」
「ご高配、恐れ入ります」
審問官は手をあわせた儘、深刻顔で深々と拙生にお辞儀をするのでありました。拙生は娑婆であった拙生の葬儀の折、棺桶の隙間から秘かに窺っていたところの、会葬者が見せた一様な表情や仕草なんかを、その審問官の姿でちらと思い出したりするのでありました。
「しかし、閻魔大王官の目の前で、しかも決裁直前と云う状況で、極楽案内を充分心ゆくまでに聞く事が出来るのでしょうか?」
拙生は問うのでありました。
「それは充分時間を取ってあります。地蔵局の出向役人はここでかけている時間と同じくらいの時間で、存分に極楽の素晴らしさを具体的に縷々述べます。それに地蔵局の役人が極楽省の紹介をしている間、閻魔大王官は一切それに口出し出来ないことになっております。この案内を妨害したり途中で止めさせたりする事は、地獄省と極楽省の取り交わした文書に依る申しあわせで禁止されておりますから。ですからどうぞご安心ください」
「しかし、充分な説明があったとしても、その後、私がどちらに住むか色々思い悩む時間がちゃんと確保されていないと、私としても困って仕舞いますかな」
「それも充分な時間をかけて頂いて結構です。そのように配慮されております」
「ああ、そうですか。・・・」
拙生は現段階ではそう云うしかないのでありました。
「亡者様の行く末を決める大事な判断ですから、我々もそんなに焦って決められても困るのです。後で苦情が出たりするといけませんからね。ゆっくりたっぷり存分に思い悩んで頂いて結構です。諺に云うではありませんか、ええと、聖徒はホトを疎んじる、なんと」
「いやその諺は確か、生徒は九九を諳んじる、ではなかったですか?」
「ああ、そうでしたっけ?」
審問官がそう云った後、拙生と審問官は揃って記録官を見るのでありました。
「・・・ああ、まあ、その、ええと、・・・セーターは、セーターはコートの下に着る、ではなかったかと思うのですが、確か」
記録官がたじろぎながらそう云った後に、なんとなく気まずい空気がテーブルの上に薄ら泥むのでありました。「いや、どうも済みません、急にこちらにふられたものだから、如何にも間抜けなもじりしか云えなくて。もう一度家で勉強し直して参ります」
記録官はそう云って頭を下げるのでありましたが、頭を起した記録官の顔には、ほんのりと敗北の色が浮いているのでありました。
(続)
もうじやのたわむれ 74 [もうじやのたわむれ 3 創作]
拙生のその言葉の後半は、殆ど独り言のような感じでありました。
「そう云うところで一つ、この地名の件はグッとその儘飲みこんで頂きたいものだと」
審問官が揉み手をするのでありました。
「判りました。この閻魔庁のある処は、その上に地方名も郡名もつかない、千代田区隼町と名前のついた、特別行政区域だと云う事で納得致します。」
「有難うございました」
審問官と記録官が揃って拙生にお辞儀するのでありました。
「いやいや私の場違いな拘りから、余計なお手間をおかけいたしました」
拙生はそう云って同じように頭を下げるのでありました。
「さて、ところでどうです、何処か気に入られた地方がありましたでしょうかね? まあ住む地方は後程、閻魔大王官のもっと詳しい話しを聞いて判断すれば良い事なんですが」
「うーん、そうですねえ、何処も魅力的な処のようですからねえ」
「地獄の方も、なかなか棄てたものじゃないでしょう?」
「ええ確かに。それに娑婆から来たばかりの身にとっては、地獄省はなんとなく娑婆臭があって、すんなり馴染めそうな気もしますしね」
「そうですとも」
審問官は拙生が地獄省の霊民になりそうな目が出たと思ったようで、ニコニコと愛想笑いなんぞを送ってくるのでありました。
「極楽省の方に関しては、説明とか紹介を聞かせて頂けるのでしょうか?」
「いや、極楽省の紹介は私たちの管轄の外になりますので、ここではそれは出来ません」
「では地獄省と極楽省を比較検討する事は、出来ないのですね?」
「申しわけありません。私共が極楽省についてああだこうだと申し上げる事は、越権行為でもありましょうし、何かと後で問題にされる場合がありますから、どうぞご勘弁を」
「では極楽省の事を聞きたい場合はどうなるのでしょう? 地獄省の情報だけしか教えていただけないのなら、私としても比較検討が出来ないではありませんか」
「極楽省の情報に関しましては、この後、閻魔大王官の最終審理室に行かれたら、そこに極楽省から出向してきた極楽省の吏員が控えておりますから、閻魔大王官の審理前にそこでお聞きいただく手順になっております」
「極楽省から出向してきた吏員?」
「ええ。極楽省の菩薩庁地蔵局と云う役所の官吏です。その官吏が、極楽省について細かいところまでご案内すると思います」
「すると、その極楽省の地蔵局のお役人さんの詳しい極楽案内を聞いてから、私は最終的な落ち着き処を決めれば良いのですね?」
「そうです。それを閻魔大王官にお伝えになれば、貴方のご意向通り決裁されるはずです」
「極楽の案内と云うと、これまた違う意味で興味がありますね」
「ま、そう期待されない方が良いかも知れません。極楽省と云う処は、案外退屈な処ですからね。おっと、こんな事を私が云っては拙いか」
(続)
「そう云うところで一つ、この地名の件はグッとその儘飲みこんで頂きたいものだと」
審問官が揉み手をするのでありました。
「判りました。この閻魔庁のある処は、その上に地方名も郡名もつかない、千代田区隼町と名前のついた、特別行政区域だと云う事で納得致します。」
「有難うございました」
審問官と記録官が揃って拙生にお辞儀するのでありました。
「いやいや私の場違いな拘りから、余計なお手間をおかけいたしました」
拙生はそう云って同じように頭を下げるのでありました。
「さて、ところでどうです、何処か気に入られた地方がありましたでしょうかね? まあ住む地方は後程、閻魔大王官のもっと詳しい話しを聞いて判断すれば良い事なんですが」
「うーん、そうですねえ、何処も魅力的な処のようですからねえ」
「地獄の方も、なかなか棄てたものじゃないでしょう?」
「ええ確かに。それに娑婆から来たばかりの身にとっては、地獄省はなんとなく娑婆臭があって、すんなり馴染めそうな気もしますしね」
「そうですとも」
審問官は拙生が地獄省の霊民になりそうな目が出たと思ったようで、ニコニコと愛想笑いなんぞを送ってくるのでありました。
「極楽省の方に関しては、説明とか紹介を聞かせて頂けるのでしょうか?」
「いや、極楽省の紹介は私たちの管轄の外になりますので、ここではそれは出来ません」
「では地獄省と極楽省を比較検討する事は、出来ないのですね?」
「申しわけありません。私共が極楽省についてああだこうだと申し上げる事は、越権行為でもありましょうし、何かと後で問題にされる場合がありますから、どうぞご勘弁を」
「では極楽省の事を聞きたい場合はどうなるのでしょう? 地獄省の情報だけしか教えていただけないのなら、私としても比較検討が出来ないではありませんか」
「極楽省の情報に関しましては、この後、閻魔大王官の最終審理室に行かれたら、そこに極楽省から出向してきた極楽省の吏員が控えておりますから、閻魔大王官の審理前にそこでお聞きいただく手順になっております」
「極楽省から出向してきた吏員?」
「ええ。極楽省の菩薩庁地蔵局と云う役所の官吏です。その官吏が、極楽省について細かいところまでご案内すると思います」
「すると、その極楽省の地蔵局のお役人さんの詳しい極楽案内を聞いてから、私は最終的な落ち着き処を決めれば良いのですね?」
「そうです。それを閻魔大王官にお伝えになれば、貴方のご意向通り決裁されるはずです」
「極楽の案内と云うと、これまた違う意味で興味がありますね」
「ま、そう期待されない方が良いかも知れません。極楽省と云う処は、案外退屈な処ですからね。おっと、こんな事を私が云っては拙いか」
(続)
もうじやのたわむれ 73 [もうじやのたわむれ 3 創作]
それから千代田区隼町の円の上方に、と云う事は恐らく北に、東滑地方、と記してあり、これも歪な円で囲ってあるのでありました。その東滑地方の横にはこれも同じような円囲みで、ハラショー地方、と記してあり、他の六つの地方に関しても、先に拙生が頭の中に描いた地図とほぼ同じ位置に描いてあるのでありました。
「これが地獄省の大まかな省界地図と云うか、地方の位置関係図です」
拙生がその図を概観し終えたのを認めて、審問官はそう云うのでありました。
「お手数、まことに有難うございます。大体私の頭の中に描いた地図と一致しております。しかし、私の納得しかねる点と云うのか戸惑いと云うのか、それはこの位置関係ではなくて、閻魔庁のある処だけが、なんで千代田区隼町と云う、世界地図規模、いや省界地図規模で記されるべき地名とは云い難い、如何にも細か過ぎる地名なのか、と云う点なのですけれどね。いやしかし、この省界地図を描いて頂いた労を、無駄な事だと云っているのでは決してありません。これはこれで後程大いに参考にさせて頂きますから」
「ああそうですか」
審問官は渡した図を、あんまり拙生が有り難がっていない様子である事に落胆したようでありました。拙生はなんとなく我が愛想のなさを、申しわけなく思うのでありました。
「貴方の混乱と云うのか戸惑いと云うものは、あまりに娑婆の地名表記の形式と云うものに、拘り過ぎていらっしゃるからなのではないでしょうか?」
これは記録官が云った言葉であります。「それは確かに、娑婆に於いては国名の下に州とか郡とか県の名前とかがきて、その下に市町村名があって、そのまた下に字名とか町丁目がきて、と云う風になっているのでしょうが、そう云う区分と云うのか順序と云うのか、それをそっくりその儘こちらの地名表示の形式に当て嵌めるのは、云ってみれば無意味でして、歴史的にも習慣の上でも効率の上でも、こちらにはこちらの仕来たりと云うものがあって、娑婆と全く同じような風になるはずのものではないのですよ」
「ここでは『我々は宇宙人だ』の法則は適用されないのですね?」
「いや、ちゃんと地名があると云う点で、法則性の内です。娑婆だって国名の下に県名があって、その下に郡名がきて字名がくるという国もあれば、国名の下に州名がきて、その下に郡名がきて、その後に県名がくると云う処もあるでしょう」
「つまり、娑婆の国名とか州名とか町名とかを、まったく区分に拘らずに一纏めに、私の頭の中でシャッフルして仕舞えばいいのですね」
「そうしてください。或いは、閻魔庁は地獄省の中の、特別行政区域であるとお考えになる方がすっきりするかも知れません。娑婆風に云えば世界地図規模の特別行政区域です」
「で、その特別行政区域の名前が、千代田区隼町、なわけですね?」
「そうですね」
「バチカン市国、みたいな感じかな?」
「ま、イメージはなんでも結構です。ご納得さえ頂けるなら」
「既定事実としてそう云う名前がついているわけだから、色々考えずに素直に受け止めれば良いのでしょうね。元々、新参者の私がとやこう云う問題ではなかろうし」
(続)
「これが地獄省の大まかな省界地図と云うか、地方の位置関係図です」
拙生がその図を概観し終えたのを認めて、審問官はそう云うのでありました。
「お手数、まことに有難うございます。大体私の頭の中に描いた地図と一致しております。しかし、私の納得しかねる点と云うのか戸惑いと云うのか、それはこの位置関係ではなくて、閻魔庁のある処だけが、なんで千代田区隼町と云う、世界地図規模、いや省界地図規模で記されるべき地名とは云い難い、如何にも細か過ぎる地名なのか、と云う点なのですけれどね。いやしかし、この省界地図を描いて頂いた労を、無駄な事だと云っているのでは決してありません。これはこれで後程大いに参考にさせて頂きますから」
「ああそうですか」
審問官は渡した図を、あんまり拙生が有り難がっていない様子である事に落胆したようでありました。拙生はなんとなく我が愛想のなさを、申しわけなく思うのでありました。
「貴方の混乱と云うのか戸惑いと云うものは、あまりに娑婆の地名表記の形式と云うものに、拘り過ぎていらっしゃるからなのではないでしょうか?」
これは記録官が云った言葉であります。「それは確かに、娑婆に於いては国名の下に州とか郡とか県の名前とかがきて、その下に市町村名があって、そのまた下に字名とか町丁目がきて、と云う風になっているのでしょうが、そう云う区分と云うのか順序と云うのか、それをそっくりその儘こちらの地名表示の形式に当て嵌めるのは、云ってみれば無意味でして、歴史的にも習慣の上でも効率の上でも、こちらにはこちらの仕来たりと云うものがあって、娑婆と全く同じような風になるはずのものではないのですよ」
「ここでは『我々は宇宙人だ』の法則は適用されないのですね?」
「いや、ちゃんと地名があると云う点で、法則性の内です。娑婆だって国名の下に県名があって、その下に郡名がきて字名がくるという国もあれば、国名の下に州名がきて、その下に郡名がきて、その後に県名がくると云う処もあるでしょう」
「つまり、娑婆の国名とか州名とか町名とかを、まったく区分に拘らずに一纏めに、私の頭の中でシャッフルして仕舞えばいいのですね」
「そうしてください。或いは、閻魔庁は地獄省の中の、特別行政区域であるとお考えになる方がすっきりするかも知れません。娑婆風に云えば世界地図規模の特別行政区域です」
「で、その特別行政区域の名前が、千代田区隼町、なわけですね?」
「そうですね」
「バチカン市国、みたいな感じかな?」
「ま、イメージはなんでも結構です。ご納得さえ頂けるなら」
「既定事実としてそう云う名前がついているわけだから、色々考えずに素直に受け止めれば良いのでしょうね。元々、新参者の私がとやこう云う問題ではなかろうし」
(続)
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